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No.139

青木氏と血縁族(家紋)-(綜合1)
青木研究員 さん 2005/10/28 (金) 21:03
青木氏は皇族賜姓青木氏と北家藤原秀郷流青木氏と第3の青木氏に大別されるが、中でも前者の2つの青木氏に付いてはどのような氏と血縁を結んでいたかを知る事は興味深い。
当時の子孫を遺そうとする死に物狂いの戦い具合が読めるのではないか。

先祖のこの努力を知る事が今ある自分の存在の証になるのではと考える。
先祖があって今の自分があると言う考えの前提になると思う。
時代は違うが、今の自分の生きようとする戦いも後世の子孫にとってはその生き様を平成の戦いとして興味深く思い、その意味でも遺す必要がある。そのためにも自分を確固たるものにする意味で先祖のことを知る必要があると思う。
そこでその資料として、このことを家紋というパラメータで検証してみる。
何故ならば、家紋には今にして歴史的な生き様が残っているからである。

皇族賜姓青木氏のことに付いては前レポートで詳しく述べてきたが、5家5流の青木氏は伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐に存在し、
又、その土地の豪族との血縁により伊勢を除く、佐々木氏系、土岐氏系、足利氏系、武田氏系青木氏が存在する。
更に、2次的な血縁による土岐氏の支流族、足利氏の支流族、武田氏の支流族との血縁による青木氏が存在する。

この足利氏と武田氏の2つは藤原秀郷の血縁族であるから、藤原秀郷流青木氏とは別に、分けるとすれば、三次的な血縁による青木氏が存在している。
つまり、直系5氏の青木氏、支流4氏の青木氏、分流3氏の青木氏、分派の青木氏と藤原秀郷氏との血縁族とあわせると全部で24氏になると見られる。

藤原秀郷流青木氏地元の下野と武蔵の国はもとより守護先14地(類する官職を入れると29地)に多くの子孫遺してきたが、まとめると直系1氏の青木氏、直流4氏、支流4氏、分派と合わせると161氏もある。
藤原秀郷の子孫は青木氏を入れての主要氏の進藤氏、長谷川氏、長沼氏、永嶋氏とあわせて20氏の直系と支流分流あわせると362氏となるが、このなかの121氏である。約1/3である。如何に大きい氏であったか物語る。

この121氏の青木氏の中の氏を家紋を中心にもう少し詳しく見てみる事にする。

家紋から分類すると、7000から8000の家紋のうち青木氏の家紋は家紋類にまとめると33家紋となる。
かなり限られた範囲で血縁を結び子孫を遺して行ったことが覗える。
これは、賜姓青木氏と云わず藤原秀郷流青木氏は何れも藤原氏の血筋を持ち天皇家にも通ずるその家柄から氏姓制度の社会体制の中では血縁族は必然的に限られてきた事による。

同じ家紋類の中でも、僅かな氏との血縁であり、その血縁は主要紋の範囲を大きく外れるような血縁は少ない。本家がせいぜい分家の範囲にとどまっている。
そして、後で記するが出て来る氏姓はよく聞くものである。

この様にその家紋の歴史的な由緒を見てみると面白いので、家紋の決まるまでの内容をも併記することにする。

では先ずは、家紋の多い順から記してみる。
家紋200選とは7000から8000といわれる氏の中で、日本有数な氏を選出したものである。

第一の家紋は「蔦紋」(つた)である。この内8氏ある。
蔦紋の種類は全体で85ある。
家紋200選にある。

第二の家紋は「菱紋」(ひし)である。この内8氏である。
菱紋の種類は101である。
家紋200選にある。

第三の家紋は「藤紋」(ふじ)である。この内6氏である。
藤紋の種類は144である。
家紋200選にある。

第四の家紋は「扇紋」(おおぎ)である。この内6氏である。
扇紋の種類は89である。
家紋200選にある。

第五の家紋は「木瓜」(もっこう)である。この内6氏である。
木瓜紋の種類は87である。
家紋200選にある。

第六の家紋は「星紋」(ほし)である。この内8氏である
星紋の種類は71である。
家紋200選にある。

第七の家紋は「片喰」(かたばみ)である。この内5氏である。
片喰紋の種類は125である。
家紋200選にある。

第八の家紋は「柏紋」(かしわ)である。この内5氏である。
柏紋の種類は132である。
家紋200選にある。

第九の家紋は「州浜紋」(すはま)である。この内4氏である。
州浜紋の種類は43である。
家紋200選にある。

第十の家紋は「抱き角紋」(だきつの)である。この内4氏である。
抱き角紋の種類は22である。
家紋200選にある。

第十一の家紋は「鷹の羽紋」(たかのは)である。4氏である。
鷹の羽紋の種類は70である。
家紋200選にある。

第十二の家紋は「笹紋」(ささもん)である。この内4氏である。
笹紋の種類は141である。
家紋200選にある。

続く。
No.141

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-1(綜合2)
青木研究員 さん 2005/11/02 (水) 21:11
第十三の家紋は「引き両紋」である。この内4氏である。
引き両紋の種類は38ある。
家紋200選にある。

第十四の家紋は「梅紋」である。この内3氏である。
梅紋の種類は127である。
家紋200選にある。

第十五の家紋は「目結紋」(めゆい)である。この内3氏である。
目結紋の種類は81ある。
家紋200選にある。

第十六の家紋は「茗荷紋」(みようが)である。この内3氏である。
茗荷紋の種類は61ある。
家紋200選にある。

第十七の家紋は「揚羽蝶紋」(あげはちょう)である。この内2氏である。
揚羽蝶紋の種類は97ある。
家紋200選にある。

第十八の家紋は「矢紋」である。この内2氏である。
矢紋の種類は38ある。
家紋200選にある。

第十九の家紋は「沢潟紋」(おもだか)である。この内3氏である。
沢潟紋の種類は82ある。
家紋200選にある。

第二十の家紋は「桔梗紋」(ききょう)である。この内2氏である。
桔梗紋の種類は126ある。
家紋200選にある。

第二一の家紋は「松紋」である。この内2氏である。
松紋の種類は114ある。
家紋200選にある。

第二二の家紋は「銀杏紋」である。この内2氏である。
銀杏の種類は79ある。
家紋200選にこの2氏の銀杏紋はない。

第二三の家紋は「柊紋」である。この内2氏である。
柊紋の種類は40ある。
家紋200選にこの2氏の柊紋は無い。

第二四の家紋は「桐紋」である。この内1氏である。
桐紋の種類は162ある。
家紋200選にある。

第二五の家紋は「鱗紋」である。この内1氏である。
鱗紋の種類は26ある。
家紋200選にある。

第二六の家紋は「橘紋」である。この内1氏である。
橘紋の種類は85ある。
家紋200選にある。

第二七の家紋は「釘抜き紋」である。この内1氏である。
釘抜き紋の種類は20ある。
家紋200選に無い。

第二八の家紋は「字紋」である。この内1氏である。
字紋の種類は391ある。
家紋200選に無い。

第二九の家紋は「立ち葵紋」である。この内1氏である。
立ち葵紋の種類は85ある。
家紋200選にこの1氏の紋は無い。

第三十の家紋は「梶の葉紋」である。この内1氏である。
梶の葉の種類は59ある。
家紋200選に無い。

第三一の家紋は「角紋」である。この内1氏である。
角紋の種類は79ある。
家紋200選に無い。

第三二の家紋は「升紋」である。この内1氏である。
升紋の種類は18ある。
家紋200選に無い。

第三三の家紋は「笹竜胆」である。この内1氏である。
笹竜胆の種類は47ある。
家紋200選にある。

以上の33の家紋種は青木氏に関する氏の家紋である。
これ等の家紋種に付いて注意するべき点は次の通りである。

同じ家紋種の中でも、極めて限られている。これ等に関係する氏を次のレポートに記することにするが、中には家紋200選の主要氏を示す家紋の中に無い氏もある。

同じ家紋種でも同じ氏であるとはいえない。特に、江戸期に入って各氏は挙ってよく似た紋あるいは同紋を使うという現象が起こった。
この時、幕府は禁止令を出したが守られなかった。
つまり、再び家柄を重視する社会現象が起こったのである。
同紋の一門であるから、必ずしも同氏とはいえないのである。
この家柄が家紋で判断出来る時代は鎌倉時代中期以前の氏姓制度の確立していた時代である。
このことは次のレポートで記する事にしている内容で判断が出来ると思う。
合わせて、家紋をなんらかの方法で記載したい。

121氏中で個別に家紋で見ると107となるが、14氏は類似紋を使用して同門となり、血縁を複合的に行われていることを示す一つのデータである。

家紋200選に無い氏を示すものは7家紋もあり、血縁がかなり時代の変化によって末支流の青木氏が誕生さしている事を示している。

続く。
No.142

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-2 (蔦紋)
青木研究員 さん 2005/11/12 (土) 19:45
日本の青木氏を家紋別に分けてみると33種になる事が前レポートで判断出来るが、この家紋種の一つ一つには又違う家紋になっていて、支流、分派などで変化しているのでこの内容を次に記述する。

先ず、最も多い家紋種は「蔦紋」である。この「蔦紋」には8種に家紋に分けられる。
蔦紋の種類

1は「蔦紋」の青木氏である。
この蔦紋は松平三木氏と松平石川氏の2氏の主要家紋である。

いくつかある松平氏の中でこの2氏の松平の一族はこの家紋を使っているが、この中で青木氏もその一族である。
この青木氏のルーツは賜姓青木氏か藤原秀郷流の青木氏かは確定は困難で判らない。
しかし、室町から江戸期の氏であるので、土地柄からは多くの血縁関係が行われているが、賜姓青木氏ではないと考えられる。藤原系の青木氏であろう。
鎌倉期になって守護職でなくなり、各に飛散し仕官した藤原秀郷流青木氏の流れの持つ青木氏と松平氏との婚姻関係での血縁と見られる。
江戸期に爆発的に子孫を多く残したこの青木氏が最も栄えた青木氏であるとは不思議である。

2は「陰蔦紋」の青木氏である。
この陰蔦紋は山本氏の家紋とされていて、矢張り藤原流の青木氏と思われるが、この青木氏が山本氏との婚姻関係でこの家紋を引き継いだと考えられる。
青木氏を名乗っている事は山本氏から嫁を迎えて、その子供になんらかの理由で山本氏の家紋を引き継がせたと判断される。
この山本氏には小高氏も繋がっていて、この小高氏も「陰蔦紋」を使用している。

3は「鬼蔦紋」の青木氏である。
この鬼蔦紋は小高氏の家紋とされている。藤原流青木氏が上記した様な理由でこの家紋を引き継いだと思われる。結局は青木氏と山本氏と小高氏との三つ巴の婚姻関係を結んだことになる。

4は「隅切り角に蔦紋」の青木氏がある。
この氏に付いては不詳でデーターを保持していないので不明である。

4は「八角に蔦紋」の青木氏がある。
この氏に付いても不詳でデーターを保持していないので不明である。

5は「五瓜の蔦紋」の青木氏がある。
この氏に付いても不詳でデーターを保持していないので不明である。

6は「二重瓜の蔦紋」の青木氏がある。
この氏に付いても不詳でデーターを保持していないので不明である。

7は「丸に蔦紋」の青木氏がある。
この青木氏は1の蔦紋の青木氏の支流となる青木氏である 同系列である。
1の青木氏から子孫が拡がったが家紋は丸がついているので、婿養子を取ったか、娘が跡目を継いだ事から生まれる一族である。

8は「丸に陰蔦紋」の青木氏がある。
この青木氏は2の陰蔦紋の青木氏の支流となる青木氏である。同系列である。
1の青木氏から子孫が拡がったが家紋は丸がついているので、婿養子を取ったか、娘が跡目を継いだ事から生まれる一族である。

以上が蔦紋に関わる青木氏である。この青木氏の元祖は藤原秀郷流の青木氏であると考えられる。

そもそも、この文様の蔦紋は蔦を図案化したものであるが、この蔦の持つかえでと同じに様に、紅葉する美しさに引かれての紋様化したものと思われ、昔は風呂敷などに唐草模様と同じく良く用いられた。

江戸時代に吉宗が好んで使用したので、松平氏が用いたものと云われている。
この為に、高安氏、富田、椎名氏らがこの紋を変化させて家紋化した。
この紋は葉が全縁状と鋸状との二つがある。
葉の紋と花つるの紋があり、それぞれ一葉、二葉、三葉の紋様と変化させいる。

これ等の紋をあわせて見ると85もある。
次に記している氏を見てみると大方は松平氏の縁者である。
この縁者の支流、分派などの子孫である。

この青木氏以外に家紋として使っている氏は数種の文献を調べると、松平形原氏、大岡氏、仁科氏、志賀氏、植木氏、愛知氏、根木氏などがあると文献にある。
特に、徳川氏に仕えた青木氏を広い出すと次の様になる。

1 松平土佐守に仕え後に徳川綱吉に仕えた青木忠英の藤原流青木氏がある。
この青木氏の主家の家紋は「丸に揚羽蝶」で「二葉蔓柏」と二門である。

2 甲府綱重に仕えた後に家宣に仕えた青木安明があり藤原秀郷流青木氏である。この一族は代々組頭などの役職に着いた。
主家の家紋は「丸に違い鷹羽に一文字」「揚羽蝶」「開き蛤」の三門がある。

3 家綱に仕えて代々組頭として仕えた青木正命があり藤原秀郷流青木氏がある。
主家の家紋は「丸に一文字」「稲丸の内一文字」「丸に揚羽蝶」の三門にがある。

4 綱吉に仕えて組頭として仕えた青木政之があり藤原秀郷流青木氏がある。
主家の家紋は「丸に蔦」「青木葉二枚」の二門がある。
この一族が間違いなくこの紋様の蔦紋の一門である。

5 綱吉に仕えて組頭として仕えた青木正胤があり藤原秀郷流青木氏がある。
主家の家紋は「丸に抱き柏」「梅鉢」の二門がある。

6 家斉に仕えて小普請としてつかえた青木長貴があるが藤原氏ではない。
主家の家紋は「丸に揚羽蝶」の一門である。

7 家康に仕えた青木義勝があり藤原秀郷流青木氏があるが、丹治氏の説もある。
主家の家紋は「丸に揚羽蝶」「三つ頭左巴」「三つ頭右巴」「筋船」「鎧蝶」の五門がある。

8 池田輝政に使え後に家康に仕えた青木重直があり藤原秀郷流青木氏があるが、丹治氏の説もある。
主家の家紋は『丸に鱗」「富士山」「三銀杏」の三門がある。

9 家康に仕えて秀忠に仕えた青木満定があり丹治氏青木氏がある。
主家の家紋は「花菱」「九曜」の二門がある。

10 綱吉に仕えた青木清光があり丹治氏或いは藤原秀郷青木氏がある。
主家の家紋は「丸に葛花」「州浜」「蔦」の三門がある。
この一族が間違いなくこの紋様の蔦紋の一門である。

11 綱吉に仕えた青木覚左衛門があり上野国館林市青木村の出身であることから藤原秀郷流青木氏である。
家紋は不明である。

以上11が徳川家に仕えた藤原秀郷流青木氏がある。
こりらの一族は代々徳川家に仕えた。
蔦紋を使用しているのは2つの青木氏であるが何れも秀郷流青木氏であるから
元は一族である。この一族の2つと残りの9氏のいずれかの青木氏が8氏の青木氏に広がった可能性がある。

資料では家紋種は6種に留まっているが、持ち合わせのデーターが無いため不明である。

前にも記したか゛直系1氏と直流4氏と支流4氏のあわせて九氏から末裔が広がっている。この末裔は116氏に及ぶ。
又、家紋が元は「蔦紋」の紋様でなくても、後に婚姻関係の内容で家紋掟に従い、元は蔦紋のない藤原秀郷流の青木氏である限り「蔦紋」に紋変えした事も考えられる。

蔦紋は吉宗から正式にその一門が家紋として用いたもので、綱吉あたりから色々なところで象徴紋として使っていた。
これらのほかに徳川家との関わりで葵紋の変化紋様を用いた藤原秀郷流青木氏もある。
鎌倉期の守護職の崩壊にて離散した藤原秀郷の青木一門は多くは松平家に仕官した事がこの11のパターンでも判る。
この蔦紋の家紋から見てみると既に25氏にも末裔が広がったことに成る。

これ等の家紋の文様は判る範囲で引用したので、暫くお待ちください。
準備が出来た際に添付の項を開いて参照してください。
又、現在、家紋掲載の欄にも記載する準備をしていますので暫くお待ちください。
続く。
No.143

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-3(菱紋)
青木研究員 さん 2005/11/16 (水) 20:37
次は「菱紋」の青木氏である。
この「菱紋」には10の青木氏の家紋がある。
この文様は3つに分類されます。

一つは武田菱紋です。 これには5つの文様があります。
二つは割り菱紋です。
三つは唐花紋です。(花菱紋)

この菱に関する紋様は101の紋様がある。

家紋200選に選ばれている。

この紋は武田一門の代表紋である。
この一族の青木氏は以前のレポートで詳細を記しましたので除いて、菱紋としては101氏もあり、大方は武田系の一門の家紋であるが青木氏はこの内10氏である。

この青木氏に関するルーツは次の通りである。
賜姓青木氏と陸奥の国に赴任していた藤原秀郷の一族の血縁を受けた一族が甲斐に赴いて付き従い、その地で勢力を高めて豪族となり、賜姓青木氏と婚姻関係、更に清和源氏の頼光一族の跡目相続など行った。

この賜姓青木氏との武田氏との婚姻にて生まれた武田系青木氏が武田氏の多くの一門と婚姻を続け10
氏の武田系青木氏が生まれた。この9氏の家紋が次の家紋になる。

先ず、第一の家紋は、「割菱紋」である。
この家紋の氏は栗原氏、岩出氏、岩手氏、駒井氏、今井氏等が使用している。
このいずれかとの氏との血縁による青木氏である。
この家紋は第四の家紋の武田氏系青木氏の支流の分家の青木氏が使用している。

第二の家紋は、武田氏支流の「三階菱」の氏との血縁による武田支流系青木氏である。

第三の家紋は、「丸に三階菱」の青木氏である。第二の分家に当る。つまり武田氏の支流の三階菱の青木氏の更に支流である。

この家紋は他に曽根氏、近山氏、斎藤氏、五島氏、早川氏、今福氏とのいずれかと血縁を結んだ青木氏が使用している。

第四の家紋は、「武田菱」である。本家の武田氏の家紋である。賜姓青木氏と血縁した最初の主家の青木氏である。

第五の家紋は、武田氏支流の「剣花菱」である。この家紋は溝口氏と血縁を結んだ青木氏の支流紋である。

第六の家紋は、第五番目の青木氏の支流の支流「丸に剣花菱」である。この家紋は溝口氏の分家と血縁を結んだ青木氏の支流紋である。

第七の家紋は、武田氏の支流の「松皮菱」である。この家紋はこの武田氏と血縁を結んだ末裔青木氏の支流となる。

第八の家紋は、武田氏の支流の「丸に一つ目菱」である。この家紋はこの支流武田氏と血縁を結んだ末裔青木氏の支流となる。

第九の家紋は、「四方瓜に重ね菱」の末裔支流青木氏である。

第十の家紋は「花菱紋」と丸付き紋のその分家支流紋である。
この文様は儀式用として用いていたものが、武田氏の支流末裔末孫が家紋化したものである。

元はこの家紋の紋様は織物の模様から作られた家紋である。
池などに浮かぶ食物の菱の形に似ているので菱と呼ばれた。

この菱紋(割り菱紋含む)と、中国から伝わった花唐紋様の菱紋様との二つがある。

この花菱紋と武田氏系一族などの食物の菱の家紋とは別門で大内氏の代表紋であるので、二つに分けられる。
しかし、武田氏の一門にもこの花菱紋を紋様を家紋とする一族がある。大内氏との血縁による武田氏系大内氏一族である。

武田氏系青木氏の主家を始めとして分家と支流一門の家紋である。
多くの武田氏の一族一門と武田氏系青木氏の主家とその支流一族一門との血族関係の家紋である。

武田菱紋には丸付き紋は家紋の菱紋を変紋することで支流紋としているので原則としてない。
あるとすると其れは明治以降の第3の青木氏の家紋類と成る。

この賜姓青木氏の血筋を持つ家柄であるので、この青木氏等は武田氏一門との血縁だけで血筋を保ったものである。

各家紋は家紋掲示板に掲載するので参照して下さい。

菱紋の代表紋
続く。
No.144

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-4(藤紋)
青木研究員 さん 2005/11/22 (火) 11:10
第三番目は「藤紋」である。
この藤紋は144もの紋様があり、この内青木氏の紋様は6紋である。
当然、この紋用は家紋200選にもあり、最も巨大一族である藤原氏の紋様である。
しかし、この紋様は藤原氏の家紋とされているが、現実に藤原一門の一族がこの紋様を使用したかというとそうではないのである。
と云うのもこの紋様には藤原一族として嫌う事があり、次第に家紋として使わなくなった。その嫌う事とは、藤原一門は「下がり藤」紋であるのだが。「下がる」という意味を嫌ったのである。一門の繁栄に陰をさすという事である。

以前にも記したが藤原一門には四家の家がある。最も栄えた北家と京家、式家、南家がある。夫々が勢力争いをして、結局、北家が生残る。
この北家の内、藤原秀郷の一門がこの下がり藤紋を使用した。
公家の中でも元来武家的な性格の持つた秀郷の一門がこの紋を使用したのである。

この四家の藤原氏は多くの支流子孫を遺したが、この地方に分散した子孫はこの藤紋を変化させた家紋を作り、144紋までになった。
特に江戸時代にはこの末梢子孫が名乗りを挙げて藤原氏を名乗って家紋を藤紋にした経緯がある。

元は「下がり藤紋」が後に述べるが歴史的には原型とされる。

次に藤原秀郷流青木氏の家紋を広い出すと次の様になる。
藤原氏の青木氏には直系1氏、直流4氏、支流4氏の9氏がある。ここから分派分流して116氏にもなったのである。

第一に「下がり藤紋」である。
云わずと知れた藤原秀郷直系一族の家紋である。
直系の藤原秀郷第3子の千国流の直系青木氏である。
藤原秀郷の青木氏の宗家である。武蔵の国の入間付近を居住地域していた。
この青木氏たちは武蔵の国を入間を中心に周囲を取り囲む様に各青木氏が守っていたのである。この中心にいたのが直系の青木氏である。
元来、この藤原秀郷流青木氏の支流は揚羽蝶と副紋などの家紋を使っているのである。
この家紋を使っている氏としては北家の代表の九条氏である。

第二には「上り藤紋」である。
秀郷流直系青木氏流れを持つ一門でもこの「下がり紋」を嫌い途中で「上り藤紋」に家紋を変えた一族が居た。

第三には「上り藤上一紋」である。
第二の青木氏の一族が官職で地方に赴任して移動した一族が子孫を繁栄させて後に家紋を判別させるために「上一」の紋様を追加したのである。
藤原秀郷直系の青木氏の分家となる。

第四には「下がり藤に州浜」である。
この一族は後に「州浜紋」を持つ陸奥の小田氏との血縁関係を持つ藤原秀郷流青木氏である。
この小田氏は元は陸奥の国の守護をしていた藤原秀郷の一族の血筋を引く一門である。
後に、州浜紋の頃で述べるが、更にこの小田氏の家紋の「州浜紋」を持つ藤原秀郷流の青木氏も存在するのである。
藤紋系の州浜青木氏と州浜紋系の青木氏とが存在することに成る。
元は藤原一門である。

第五には「対四つ藤紋」である。
第三の青木氏と同様に、地方に赴任して子孫を繁栄させて一門を構え、家紋を変化させたものであり、直系青木氏の分家支流紋である。

第六には「加藤藤」がある。
これは秀吉の家来の加藤清正の家紋である。
藤原秀郷流の血筋を持つと名乗った加藤清正が用いた家紋であるが、この家紋を持つ青木氏とは藤原秀郷流青木氏の一族の支流分流は不明であるがこの加藤氏の一族との血縁にて「加藤藤紋」を家紋掟の要領にてこの紋を採用したものと考えられる。

藤原秀郷の直系の青木氏には「下がり藤紋」を引き継いだ青木氏と、平家の家紋の「揚羽蝶紋」を引き継いだ直系青木氏がある。
この後者の青木氏は、千国の嫡男の「下がり藤紋」に対して、分家をした次男の者が母方の家紋を引き継いだ「揚羽蝶紋」の家紋としている。
特に、この同じ直系でも「下がり藤紋」の青木氏に比べて、この揚羽蝶紋の藤原秀郷流の青木氏の一族の支流が繁栄した傾向がある。

以上六家紋の氏が藤原秀郷流直系青木氏の子孫である。

この「藤紋」の謂れは次のとおりである。

この紋様は、藤の葉と花を図案化したものであるが、平安朝に特に好まれた花でこの藤の花を万葉歌に読まれている。
丁度、醍醐天皇の時代にあたる頃で、このブームとなつた時期に藤原氏はこの藤花紋様を好んで紋様化して用いていた。そこから、藤原氏の家紋化したものである。
この様な経緯から全ての藤原氏の家紋となり得なかったもので、歌の好きな公家の藤原氏系の九条家とか二条家が使用したのである。

藤原秀郷はその昇進の経緯から、特にこの公家藤原氏の一門である事を誇示する意味からも、藤紋を使用し、九条家の流れを汲む秀郷としては「下がり藤紋」を強固に用いたものである。

特にこの一族の近藤氏、後藤氏、斎藤氏、加藤氏などがこの紋様を用いた。

前記したようにこの紋様は江戸時代には爆発的に用いられた。
藤紋には、花の房を変化させて家紋を作る方式と、藤の形とで変化させる方式と他ノ家紋を加えて家紋とする3つの方式がある。

藤原秀郷流青木氏の主要紋の「下がり藤紋」である。
(左隅をクリックしてください。)
青木氏の6つの「下がり藤紋」は家紋掲示板に記載します。
続く。
No.154

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-5(扇紋)
青木研究員 さん 2005/12/05 (月) 19:19
第4番目は「扇紋」である。
この紋様は89紋あり、この内青木氏は6紋である。
家紋200選の一つである。
この家紋は各地に松平氏があるがこの内、松平深溝氏の綜紋である。
この血縁を受けた一族である。

この6紋は次ぎの通りである。
「扇紋」、分家の「丸に扇紋」、「丸に違い扇紋」、「丸に並び扇」、
「隅切り角に扇紋」、「丸に日の丸扇」
以上が青木氏の扇一族の家紋である。

比較的に新しい一族である。
この紋様は末広の意味として用いられていて「子孫が発展」の縁起を期待しての家紋である。

そして、開き扇と閉じ扇がある。
扇紋は扇の骨の数によって氏を見分けられるようになっている。
ちなみにこの家紋を使用しているのは、元々は松平氏の前には佐竹氏が最初である。5本骨と月を組み合わせたもので家紋としていた。
松平氏は3、5、7本骨で、雨宮氏は10本骨、飯室氏は5本骨の黒餅
である。

この青木氏は何れの青木氏か確定できない。
皇族賜姓青木氏か藤原秀郷流青木氏かは資料による検証でも鎌倉以前の出自が不明であったとしても矛盾がある。
松平一門であるのであるが、戦国時代の皇族賜姓青木氏(5家5流系青木氏を含む)動向と主要藤原氏の鎌倉時代の衰退によりその仕官先は大方は徳川家系の藩に仕官していること、各地の松平藩系との血縁を結んでいることから藤原秀郷流青木氏の116氏の支流一族の一つとみられる。

6氏の扇紋の関係についても不確定である。
ただ家紋掟から見て扇紋と丸に扇紋は親族関係である。

以上の家紋6つは家紋掲示板に掲載しますので参照して下さい。

主要の扇紋は次ぎの紋です。
左隅をクリックしてください。
No.155

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-6(木瓜紋)
青木研究員 さん 2005/12/09 (金) 19:52
第5番目は木瓜紋である。
この木瓜紋は全部で87の紋様がある。
家紋200選にある家紋である。

この木瓜紋の青木氏の家紋は87の内6紋である。
この家紋は次ぎのとおりである。
第1は木瓜紋である。
第2は丸に木瓜紋である。第1の木瓜紋の分家である。
第3は横木瓜紋である。
第4は丸に横木瓜紋である。第3の横木瓜紋の分家である。
第5は糸輪に陰木瓜である。
第6は五つ木瓜である。
以上が青木氏の使用している家紋である。

第1、第2の木瓜紋と丸に木瓜紋は次ぎの氏が使用している。
日下部氏、伴氏、紀氏である
この3つの氏は共に奈良朝期の有力部族である。
新しいところでは関口氏、平賀氏、野村氏が使用している。

第3、第4の横木瓜と丸に横木瓜は次の氏が使用している。
田中氏、大原氏が使用している。
この家紋は木瓜紋を横に伸ばしたものである。唐花木瓜とも言う
此れに対して竪木瓜がある。

第5の糸輪に陰木瓜は次ぎの氏が使用している。
竹内氏、岸氏、堀氏、馬渕氏が使用している。

第6は五つ葉の木瓜紋である。
通称織田木瓜とも言われている。
織田氏が使用していたのであるが、普通の木瓜紋は4つの葉である。

この木瓜紋は通常ボケの花の紋様をデザインしたものであると云われているが別の説もある。
胡瓜の切り口とも言われている説もある。

一般的には天皇の座にある御簾の部分に使用されているのを紋様化したものと考えられている。

このことから奈良時代に色々なもの例えば車紋に使用されていたもので、天皇家の権威紋や象徴紋と皇族賜姓青木氏の笹竜胆紋や他の紋様と同様に奈良末期から平安初期に家紋扱いとして用いられ始めた。

一般的には多くの家紋は保元、平治の乱以降の公家や上位の武家が使用し始めたのである。
この意味では天智天皇の皇子(施基皇子)から始まった皇族賜姓青木氏の伊勢青木氏の綜紋(5家5流の青木氏)は天皇家に次いで早い家紋使用となる。
矢張り賜姓であるので当然とも考えられるが、どちらかと云うとこの5家5流の青木氏の綜紋を経緯に皇位系にあるの豪族は家柄を誇示し権威を強調する目的からこぞって使用し始めたと見る。

その証拠に第5番目の天皇の賜姓青木氏の後の天皇は自分の母の実家の阿多倍の高尊王の京平氏を賜姓した桓武天皇であり、この頃から家紋や象徴紋や権威紋など律令制度の完成で次々と定められた経緯がある。

参考 
(殆どの家紋の文献はこの時期からの資料をもとに編集されているが、この時期前の家紋の使用の研究資料は少ない。
しかし、この時期前の天皇から賜姓を受けた氏は慣例からこの賜姓を明示することから3つのことを行うのが義務である。
この賜姓族は氏を示す綜紋として保持していたのである。
司馬遼太郎氏等の歴史家がこの史実を表している。

この時期前に受けた賜姓族(数は少ないが)例えば青木氏や藤原氏や大蔵氏や内蔵氏や坂上氏等の高位の氏は賜姓を示す綜紋(ソフト)と、そのステイタスを証拠を示す拝領の仏像等(ハード)と氏神と菩提寺の神社仏閣の建立の3義務が伴うのである。
それだけに賜姓を受けることはそれだけの力を保持している者に下されるのである。この事に付いては笹竜胆の家紋のところで詳細をレポートする。)

又、天智天武の時代から天皇家の天皇の紋や天皇家の家紋や権威紋や象徴紋や車紋等多く定められた。これは後漢の阿多倍王の一族の影響が働いたのでは考えるし、この律令政治と制度の完成はこの一族が朝廷に入り、中国の漢の国の知識を導入したことから始まっているのである。

(参考 阿多倍は天皇家との血縁関係を持ち、その子供は大蔵氏、内蔵氏、坂上氏の賜姓を受けて官僚のトップに立った事と朝廷の3つの官職の3蔵内の2蔵と軍事とはこの3人の者が担ったのである。3蔵とは大蔵と内蔵と斎蔵でその役職から賜姓を受けた。斎蔵は藤原氏)

桓武天皇から子供の嵯峨天皇からは賜姓を元に戻して青木氏を変名して源氏として戻した。そして、綜紋を天皇から与えられた青木氏の綜紋と同じ笹竜胆紋とした。その後の16代の源氏は笹竜胆を綜紋としたのである。
そして、元の青木氏の姓と綜紋を皇族のみが使う氏姓の紋として嵯峨期に禁令を発したのである。

その後、阿多倍の子孫の京平氏は摂関家の藤原氏を押さえて5代で清盛の太政大臣に上り詰めたのであり、この京平氏が車紋などに紋様を多く使い始めたことから爆発的に拡がったことが資料では確認出来るのである。

従って、家紋の使用の始まりは青木の綜紋から起こり現代の8000とも言われる家紋数ともなつたのである。

余談であるが、この家紋と同時にステイタスとしての仏像を持つ事も皇位の者の象徴と権威を示す手段となつたのである。
皇族賜姓青木氏にはこの仏像を保持している。5家5流の初代の伊勢青木氏宗家本家が現在も保持している。

(後日このレポートを研究室にこの仏像の写真と共に掲載します。賜姓青木氏系24氏のステイタスです。)

この木瓜紋は24氏のうちの武田氏系、足利氏系、土岐氏系の3氏のうちのどれの家紋かということであるが確定は困難である。
しかし、家紋の分布と、武田氏と足利氏とは藤原秀郷系であるのでこの氏にはこの家紋は余り見られないこと、朝倉氏が使用していることの3つのことから美濃国の土岐氏系青木氏の支流紋であると見て間違いはない。

現にこの木瓜紋は朝倉氏や織田氏が使用していることが有名である。

この家紋の多くは真ん中に唐花を入れるのが普通である。この理由は古来の中国の官僚の服の模様に使用したとされているためでこの唐花紋を使うのである。
それと竪と横の形、外側の葉の枚数の数で変化させる。葉数は5から8枚である。
木瓜紋以外の4家紋は比較的新しい氏の紋様で下克上と戦国時代以降に生まれた氏の家紋である。
従って、第5と第6の紋様の青木氏の出自は確定は難しい。
第1から第4までの青木氏の紋様は上記した古代氏の紋様であるので皇族系と賜姓青木氏系の出自である。(詳細は皇族賜姓青木氏を参照)

嵯峨天皇期に定められた青木姓の禁令の適用外の氏として源氏を含む皇族賜姓青木氏は直系の5家5流の家紋は笹竜胆の家紋である。この皇族賜姓青木の血筋を受けた武田氏系青木氏、足利氏系青木氏、土岐氏系青木氏の3系と、3系の支流青木一族24氏の持つ家紋の一つである。

時代は戦国時代になるが、信長に滅ぼされた朝倉氏は村上源氏の支流とされているので五つ木瓜紋は青木氏系の家紋と一致する。

6つの青木氏の木瓜紋様の代表紋を次ぎ左隅の家紋である。
6つの青木氏の家紋は家紋掲示板に掲載しますので見てください。

左隅をクリックすると拡大します。
No.156

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-7(星紋)
青木研究員 さん 2005/12/13 (火) 21:02
第6番目の家紋は「星紋」である。

この紋は全部で71家紋あり、この内青木氏に関係する紋様は6つである。
この家紋は家紋200選に選択されている。つまり、歴史ある有力な氏である。
この氏の8つの家紋は次ぎの通りである。
第1には九曜紋である。
第2には丸に九曜紋である。この家紋は第1の分家に当ることになる。
第3には三ツ星紋である
第4には丸に三つ星紋である。この家紋は三つ星紋の氏の分家筋に当る一族である。
第5には三つ星に一つ引き紋である。
第6には亀甲に三つ星紋である。
第7には扇に三ツ星紋である。
第8には長門三ツ星門である。
以上が青木氏の家紋である。

この8の家紋は2つの氏に分けられる。
一つ目は九曜紋と二つ目は三つ星紋である。
九曜紋は家紋掟により本家筋と分家の家紋と言うことになる。

丸に三つ星紋は三つ星紋の分家筋に当る一族である。
そして、この一族と足利系の支流一族との血縁関係を持ち、何らかの理由(嫡子が無いか、養子縁組か、戦略的な跡目を受けたか等)にて家紋を変えざるを得ない仕儀に落ち至ることになったために家紋が変わったと見られる。
氏家制度では男系相続であり、厳格な家紋掟があり、この結果、元の家紋を引き継ぐ事が出来なかったもので、現在と違い寿命も50と短く、又嫡子が生まれても生存率が低く、戦死や、嫡子に値しない場合などで抹殺されるなど死することが多かった。このため家を維持するという事は最大の命題で本家や宗家にとっては大変なことであつた。

男子が生まれても成人時に一族郎党をまとめていく能力が無い場合は多くは排除されると言うことが起こった。その者に依ってその一族全体の運命が決まるのであり、自分たちの運命も左右する事であるからである。
この歴史的な有名な史実は数え切れない程にある。

参考に日本だけではなく蒙古などはもっとはっきりしていたのである。
蒙古ような集団指導体制のなかでは首長の子供と云えど掟で殺されるのである。
義経のジンギスカン説はこの掟によりその後に後継者がなくなり、天から降りてきた者が一団の指導者となったと記されている。蒙古では其れまでの指導者の系譜が明確であるが、この時だけは天からと記されているこの時期が義経の生きた1192年ごろの出来事であり、またこの指導者の紋所は殆ど笹竜胆と酷似しているのである。
その者は武術に優れ戦いに長けいつも軍団の先頭にたって戦いに臨んだとある。しかも、この者にはいつも二人の家来がつき従っていたとある。

話は戻して
第1の九曜紋の氏には土屋氏、松平氏、相馬氏、戸田氏、松平忠興等の一族がこの紋所を使用していた。
この九曜紋の分家である第2には戸沢氏、吉川氏、細川氏、伊藤氏、千葉氏等である。
青木氏ではこの九曜紋は武田系青木氏の支流一族が使用していた紋所である。
従って、第1と第2は武田系支流青木氏である。
皇族賜姓青木氏の血筋と源氏の血筋を引く武田系青木氏である。
この一族一団は後の徳川時代にも大いに出世する。

第3の丸に三つ星には児島氏がある。

第5の三つ星に一つ引き紋には渡辺氏がある。
この星紋は家紋200選にもあるが、歴史的には新しい家紋となるが、
この紋所としては一字紋つきで毛利系、とその一族吉川氏の使用紋である。
この毛利氏などの一族と青木氏との関係はない。

判断は難しいが、中国地方に多い家紋であるので平家の一門と見られるがこの平氏からは規則を遵守した平家には青木氏は出ていない。
とすると、岡山や広島に藤原秀郷一族の者が朝廷の官職で赴任し、それに動向した護衛役の青木氏の史実があるのでこの子孫を広げたと推測する。
この青木氏が上記した跡目の問題で家紋を変えざるを得なかった結果、縁組でこの家紋の使用となつたものと思われる。

つまり、この星紋様は前四つは武田氏系青木氏と、後ろ四つは藤原秀郷青木氏の家紋と見られる。

この星紋の紋様の発祥はもとより北斗七星への信仰から生まれた紋様である。

星門の主要な紋所を次ぎに掲示します。詳細は家紋掲示板に掲載します。
左隅をクリックすると拡大します。
No.157

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-8(片喰紋)
青木研究員 さん 2005/12/17 (土) 19:58
片喰紋は125の紋様があります。
この内青木氏の片喰紋は6紋です。
この氏は大変に多い氏がこの紋様を使っています。
家紋200選にもある氏です。

この青木氏の紋用は次ぎの通りです。
第1は片喰紋です。
第2は丸に片喰紋です。この家紋は第1の分家に当ります。
第3は隅入り平角に片喰紋です。

第4は丸に剣片喰紋です。
第5五瓜の剣片喰紋です。この家紋は第4と同じ片喰紋のなかの剣片喰の一族です。
第6は子持ち亀甲剣片喰紋です。この家紋も第4と第5の剣片喰一族です。


以上が青木氏の家紋です。
参考のためにこの紋様を家紋としている氏は次ぎの通りです。
この氏は本家の片喰一族と剣片喰一族の各氏です。

島津氏、堀越氏、岡田氏、本田氏、鳥山氏、太田氏、山田氏、武田氏、早川氏、竹本氏、河村氏、長谷川氏、中村氏、宮本氏、中原氏、中沢氏

これ等の氏は主に藤原秀郷一族の流れを組む支流一族と考えられます。
特にこの長谷川氏と中沢氏は藤原秀郷の主要5氏の一つです。

更に剣片喰一族はの宗家は酒井氏の代表家紋である。
第4と第5と第6の剣片喰紋の一族は江戸時代に大大名であつたこの酒井氏一族との婚姻により家紋を剣片喰紋としたものである。

藤原秀郷一族の護衛役の藤原秀郷流青木氏の支流子孫が家系の問題(男系の断絶問題等)で止む無く家系を維持する目的から家紋を変えざるを得なかったものと考えられる。
その後、木瓜紋の氏と又亀甲紋の氏と血縁関係を持ち、矢張り家系問題で家紋を剣片喰紋に木瓜と亀甲紋を加えて家紋として維持してきた一族である。

剣片喰一族は藤原秀郷一族として武蔵の国入間郡を中心に関東一円を取り巻くように護衛親衛隊役として守っていた。
特に、この一族関東の八王子方面を役務として其処に一族は根を降ろしていた。
武蔵の国の入間に近いほど直系1氏、直流4氏、支流4氏の本家筋が二重、三重に取り囲む態型を採っている。

それら9氏の116氏に及んだ支流一族は藤原秀郷の本家の朝廷の赴任先24地に赴くの連れて護衛役として付き従った。
そして、赴任地でその一族の者と土地の氏との婚姻を持ち土地に根付き子孫を遺してきたものである。
五瓜紋と子持ち亀甲紋の剣片喰紋の氏はこの根付き組み一族である。

第5の五瓜の剣片喰は阿波国に赴いた藤原秀郷の総本家一族の宗政と時政の親子の赴任に伴い護衛役として付き従った藤原秀郷の支流剣片喰一族の者の子孫である。この一族剣片喰一族の分家の丸に剣片喰一族と縁者関係にある。

丸に剣片喰一族は丸に片喰一族の本家として八王子に残ったもので五瓜の剣片喰一族の本家筋に当る。

片喰一族の藤原秀郷の一族の同門の片喰紋を使用する中沢氏系との血縁関係を持った一族である。
第2の丸に片喰紋の一族はこの分家筋に当る氏である。

同じく第3の隅入り平角に片喰紋もこの中沢氏との支流血縁族である。

この片喰紋は上記の通り本家片喰一門と支流剣片喰一門の2つの流れになる。
片喰族と剣片喰族の藤原秀郷流青木氏である。

前者は中沢氏一族との血縁族、後者は酒井氏一族との血縁族である。
中沢氏と酒井氏は両者とも室町期から江戸期までの豪族である。

この片喰紋は鳩酸草とも云う。
この紋様は平安期から使用されている紋様である。
この紋様は三つ葉が基本である。葉の数は1から7まである。他の紋様と組み合わせて家紋としている紋様としては最も多いものである。
公家も使用した。
大名では160もの者がこの紋所を使用した。
桐紋などの植物紋としては最も流行した。

この家紋に付いては家紋掲示板に記載します。参照して下さい。

主要紋を左隅に載せます。
左隅をクリックすると拡大します。
No.158

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-9(柏紋)
青木研究員 さん 2005/12/22 (木) 19:21
第8番目の家紋の氏は柏紋である。
この家紋は132もの紋様があり、紋様としては大きい方である。
この内青木氏の紋様の数は6家紋である。
この家紋は家紋200選に挙げられている。
有力氏である。
この青木氏の家紋は次ぎの通りである。

第1は三つ柏である。
第2は丸に三つ柏である。第1の柏紋の分家である。
第3は牧野柏である。牧野氏の家紋である。第2の紋と良く似ているが丸の太さが異なる。
第4は違い柏である。
第5は丸に蔓柏である。
第6は二つ葉蔓柏である。

これ等の氏には第1と第2には山内氏と五味氏である。
青木氏はこのいずれかとの血縁を持ち家系問題上で家紋の変紋を長い歴史の間に実行せざるを得なかったものと思われる。

第3は当然牧野氏である。
青木氏がこの牧野氏との血縁を持ち家系問題上で家紋を変紋を長い歴史の間に同様に実行せざる得なかったものと思われる。

第4は星野氏、倉橋氏、嘉納氏、横地氏、中川氏である。
この青木氏はこの何れかの氏との血縁を持ち家系問題上で家紋を変紋を長い歴史の間に此れも同様に実行せざるを得なかったものと思われる。

第5は長田氏と山本氏である。第2の丸に柏紋の青木氏が蔓紋の氏との血縁にて家系問題上で変紋を実行せざるを得ずこの青木氏の氏系譜を明らかにするために二つの家紋の組み合わせの家紋とし、長い歴史の中で起こった現象である。

第6は単独の青木氏である。
この氏は青木氏一族の神職をして二つ葉の蔓柏紋を初期の段階で定めて跡目等の問題もなく男系で維持してきた一族で、この家紋を使用している他の氏は無い。
青木氏のみである。しかし5家5流系のどの一族かは不明である。

紋様の所以は次ぎの通りである。
勿論この紋様は柏の葉を図案化したものである。
柏は奈良時代から旅に出た時はこの柏の葉に飯を盛食べたとされるものである。所謂食器の代わりにつかったもので、万葉集にも多く載せられているものである。
有名なところでは中大兄皇子(大海人皇子)(天智と天武)と皇位争いで戦い和歌山の海南市藤白峠で死んだ有間皇子のこの時に読んだ歌がある。
 家に居れば飯盛るしいも草枕、旅にしあればしいの葉に盛る。(しい:柏)
解釈
柏の葉は関東と関西では異なり、関西ではこの柏の葉の役目をする葉は丸く掌くらいの大きさの葉で表面がつるとしているが、おおきくて幅広で細長い葉の柏の葉ではない。
しかし、関西では餅や握り飯を包む葉は”かしわ”と呼んで用いられている。
矢張り神聖な葉として今でも3月や5月の祝い事には扱われている。

ここで云う”椎の葉”は親指くらいの葉であり飯(いい)は盛れない。しかし、”道端にある椎の木を読み込んでの旅の情景”と”いい(飯)”と”しい(椎)”と”柏”とを架けて神聖な木を用いて心の歌の情景を詠んだものである。
歌心は”私は決して皇位を望んでいない。神聖な心である”意を含めているのである。

この意味から柏の葉は神聖なものとして神木として扱われていたので、朝廷の神職に関わる氏の家紋は柏紋としたものである。

この氏には朝廷神官職の官僚の吉田氏と、熱田神宮の千秋氏と、宗像神宮の宗像氏と、備前の吉備津神宮の大守氏がある。

他に皇族賜姓族として青木氏に関わる神職として青木氏と佐々木氏が有名である。
この青木氏や佐々木氏の氏は神職は朝廷関係の神職である。
研究室にもレポートしたが、この系統の青木氏が上記の神職関係の血縁から家系上の問題で三つ柏紋に家紋を変紋しものとみられる。
従って、この青木氏は皇族賜姓青木氏の血筋を持つ5家5流の支流青木氏の青木氏である。

当時は皇族賜姓青木氏と藤原氏との高位の氏はは専門に一族だけを祭る菩提寺と合わせて、神社をも持っていた。
この神社を自らの一族が神官として司っていた。そして、この神社は5家5流の夫々の神社があった。
藤原氏は佐々木氏の神官が多い。今でも佐々木氏の神官が藤原氏を祭る神社の神官として存在する。
藤原氏の神職が何で源氏一族と青木氏一族の血筋を持つ佐々木氏であるかは別レポートとする。

この氏らの家紋は三つ葉柏を基本としている。
上記のようにこの紋所は神職の紋所として使用されていた。しかし、後に江戸期に入って葉数や形や他の家紋との複合紋として使用されるようになったのである。
葉の数は9つまである。
そしてこの家紋を使用した氏は殆ど132氏はこの上記の神職との血縁関係からこの家紋を用いたものである。

NHKの大河ドラマの山之内氏もこの千秋氏との血縁関係からこの家紋を出世の時に用いたものである。
戦国時代をのし上がった多く者は江戸時代に家紋を定める必要から一族は自己の古い言い伝えなどから家紋を定めたものであり、その紋様に近い家紋を作った。
主要で有力な家紋200選以上の家紋はこの室町から江戸に架けての家紋である。特に江戸期には下級武士と御家人が多く定めた。
この原因の一つは江戸幕府はこれ等の武士に宗派を定めることを政治上から勧めたのである。
特に最も少なく厳格にその階級派を守ってきた浄土宗には江戸幕府は御家人の武士階級には力を入れた。
そのことから影響を受ける事で家紋を定める事にて家系の維持と尊重を推奨し政治の安定を目指したものである。

この柏紋の青木氏は5家5流の青木氏の血統を持つ支流青木氏である。
この青木氏の中には二つ葉に蔓柏紋の青木氏があるのはこの神職氏の一統である。

この様にこれらの6つの家紋の青木氏は青木氏の神社の神官職の一族で血縁関係も他の氏の神職との間で行われて子孫を拡大した。

ここの6つの青木氏の家紋は家紋掲示板に掲載する。
三つ柏の主要紋は次ぎに掲げます。
左隅をクリックすると拡大します。
No.166

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-10(州浜紋)
青木研究員 さん 2006/01/03 (火) 12:55
第9番目の紋様は州浜紋である。
この州浜紋には33の紋様がある。
この内青木氏に関係する紋様は5紋である。
家紋200選にも選定されている有名な家紋である。

この青木氏に関係する家紋は次ぎの通りである。
1番目は州浜紋である。
2番目は丸に州浜紋である。一番目の分家筋に当る。
3番目は三つ盛州浜紋である。
4番目は三つ盛蔭州浜紋である。
5番目は5瓜の州浜紋である。

5番目を除いて睦奥の小田氏一族の家紋である。

陸奥小田氏一族の流れを汲む青木一族である。

この青木一族は当然に陸奥の小田氏であるので、藤原秀郷一族の流れを持つ小田氏である。
この青木氏は陸奥に赴いた藤原秀郷の一門の守護に付き従い護衛役として入り定住し、土地の小田氏との血縁にてこの地に根づいた藤原秀郷の兼光系青木氏である。

兼光系青木氏は一度秀郷から18代目に男系の跡目がなく総宗本家の藤原秀郷の家から行久なる者が青木家の跡目を相続している。
上位の跡目相続であるので姓氏など変化しない事になるので青木氏は引き続き継承されている。これは藤原秀郷家にとっては藤原主要5氏のうちの青木氏であり、護衛役を担っている青木氏を潰すわけには行かず上位の総宗本家から跡目を入れたのである。

この陸奥には秀郷の総宗本家からの藤原兼光が守護として赴いている。

当然、この兼光は秀郷から4代目の兼光であり、上記した3回目の18代目の行久による跡目と、第2回目の兼光の跡目があり、初代の秀郷の3番目の子の千国から出た青木氏が鎌倉時代までこの3回の跡目が入っているのである。

初代の青木氏の系統は4、5代目程度までは男系の跡目を引き継いだが、兼光の所で跡目を総宗本家から入れて建て直し、兼光系青木氏が続いた。
其れまでは直系の千国系青木氏である。3回目の行久も兼光の子孫であるので
兼光系青木氏である。

藤原秀郷流青木氏は兼光系からのみ出ていないことになる。

この4代目の兼光が陸奥に赴いたときに自らの子孫の護衛役の青木氏を引き連れて陸奥に赴いたのである。

この兼光系直流の青木氏がこの陸奥に定住し土地の豪族の州浜紋を持つ小田氏と婚姻をし男系の継承問題で小田氏より跡目を入れて止む無く家紋掟により
家紋を変紋する結果となったものである。

これが藤原秀郷の4代目兼光の直系の青木氏の分家が陸奥にて青木氏を広げて州浜一族の小田氏との血縁関係を持った氏である。
直流本家は護衛役の任務を持つことで子孫を留保し武蔵と下野国にて藤原総宗本家を護る役目から赴任地の土地に留まらず帰国した。
これは直系、直流と支流の夫々の青木本家筋は戻っている。
多くは多くの嫡子以外の者が藤原氏の戦略として土地に残り護衛と子孫拡大の役目を担っていたのである。

藤原秀郷の総宗本家一門は鎌倉時代の前までに24の守護地とそれに類する官職で赴任している。

この陸奥も最初に朝廷より命じられた守護地である。

この守護地は当時まだ征夷の領域(東北北陸北海道の蝦夷を含む征夷地域はまだ十分には安定はしていなかった。)である。
そこで、第一の勢力を誇っていた藤原四家のうちの北家一族は北家の主家の摂関家との連携を取りながら、この征夷の護りとして出向いたのである。
朝廷から任じられた官位は「鎮守府将軍」であった。

この「鎮守府将軍」は代々藤原秀郷の一族の継承官位であった。
この官位は後に勢力を起した清和源氏の官位と変化して行くのである。

そして、江戸時代まではこの官位の無い者は幕府を開く事が出来なかったのである。
(豊臣氏はこのために関白の官位、徳川家康は家系譜偏纂にて源氏支流とを名乗り「征夷大将軍」の称号を得たが、朝廷は内々はこれを認めていなく、源氏頭領の称号は拒絶した。「源氏長者」として妥協した経緯がある。)

この「鎮守府将軍」から源氏の時代には変名して「征夷大将軍」と変わったのである。
「鎮守府将軍」は藤原秀郷氏、「征夷大将軍」は源氏の専属官位である。

清和天皇の第6位皇子の経基王が臣下して賜姓を受けた源氏の満仲の分家筋(総本家筋は嫡男頼光系 伊勢源氏など)の頼信の血筋を引く頼朝が鎌倉幕府を開く事が出来たのはこの官位の権利があったからである。。

この州浜紋の青木氏の元祖は藤原秀郷の4代孫の第1回目の跡目に入った兼光系初代の直流の青木氏である。

この陸奥より子孫を拡大した州浜紋の持つ一門の小田氏と青木氏であるが、この他にこの陸奥の藤原兼光一族との血縁を持った武田氏がある。
この藤原一門から同じ血筋を受けたこの地方の豪族であった菱紋の武田氏は藤原秀郷の総宗本家の赴任地の移動に伴い甲斐国に移動して、そこで勢力を上げて土着豪族との血縁関係を持ち大勢力に伸し上がったのである。

この州浜紋は小田氏のみと青木氏との血縁であるので判り易い。

この州浜紋の一族が後に三つ盛州浜紋と三つ盛蔭州浜紋に分流していくのである。
五瓜の州浜紋の一族は次の経緯を持っているものと見られる。
この州浜紋の一族が後に何らかの理由で四国付近に移動して五瓜紋の一族との血縁を持ったか、或いはこの五瓜紋一族が陸奥付近に移動しこの一族との血縁を持った結果で跡目継承問題で家紋を変紋せざるを得なかったものではないかと見られる。(四国阿波付近には五瓜紋の氏が多い)

しかし、この瓜紋は藤原流の長良氏とその一門の肥前の大村氏が用いていたものである。
このことから土地柄からまた藤原北家一門とのこの長良氏との血縁ではと考えられるので、州浜一族がこの地方に移動してきて(時代は江戸初期か室町後期の発祥であることから)岐阜美濃付近の長良一族との血縁関係を持った一族ではとも見られる。しかし、確証は困難である。(四国か岐阜か北陸か)

主要紋を次ぎに掲示します。
左隅をクリックすると拡大します。
(家紋掲示板に以上の家紋を掲示しますので参照して下さい。)
No.175

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-11(鷹の羽紋)
青木研究員 さん 2006/01/21 (土) 21:38
第10番目の青木氏の紋様である。
この紋様は全部で各氏70の紋様がある。
この内青木氏に関わる紋様は4つである。
この紋様は主要家紋200選にも選ばれている。
その青木氏の家紋は次ぎのとおりである。

第1番目は並び鷹の羽紋である。菊地氏の家紋である。
第2番目は違い鷹の羽紋である。浅野氏の家紋である。
第3番目は丸に違い鷹の羽紋である。第2番目の分家筋に当る。
第4番目は五瓜に違い鷹の羽紋である。五瓜紋を家紋とする氏との血縁族である。

この家紋は藤原秀郷流青木氏の一族である。
第1番目のこの青木氏は比較的新しく鎌倉幕府の蒙古襲来事件(1274-81)の前後に当時に九州北部勢力を張っていた土豪の菊地氏一族と血縁を結んだ藤原一族の青木氏である。

この藤原秀郷流青木氏は主要9氏の中で次ぎの土地に赴任している藤原秀郷総宗家に関わる者は
筑前国と筑後国の守護かそれに類する官職で赴いた者として為成、為重、長経の親子孫  利仁より18代目(長成の子)―20代目
豊前国に付いては貞宗  利仁より7代目
肥後国に付いては長成  利仁より17代目
豊後国に付いては重光  利仁より4代目
以上4者である。

鎌倉幕府樹立後離散した藤原秀郷の一族は仕官先を求めて各地に移動したが
上記の菊地氏との関係があったと考えられる藤原氏である。
(1333年倒幕)

浅野氏に関わる一族としては安芸国と美作国付近に移動して江戸期に出世していた藤原一族と備後国に赴任した公則の2つの流れがある。
しかし、この美作付近に移動してきた一族はそのルーツは史書によりまたその末裔も明確になっている。(研究室にルーツの投稿のあつた岡山の青木氏の方で家紋は「五瓜に剣片喰紋」一族との血縁を持っている)
従って、元は同じ一族であるが、備後の国の公則に着き従った藤原秀郷流青木氏である事になる。

そこでこの家紋を最初に使用したのは菊地氏(並び鷹の羽紋)であり、江戸時代には多くの武家がこの紋様を変紋して使用した。

この事から次の事が云える。
第1は、「並び鷹の羽紋」は上記四者の何れかの者(後述)で藤原総宗本家に付き従った藤原秀郷流青木氏であるが、この青木氏が土地に定着した一族と土地の豪族との血縁を結んだ事により発祥した一族で家紋は男系問題での跡目相続の結果等で変紋を余儀なくされた結果による。

第2は、「違い鷹の羽紋」は江戸時代前ごろから台頭した浅野家の家紋であるが、この家紋に関わった者としては備後国の守護(公則)として赴任に付き従った藤原秀郷流青木氏の末裔であると考えられる。

第3は、また、「丸に違い鷹の羽紋」はこの分家筋に当ることから同族である。

第4は、美濃付近から広がって阿波国と瀬戸内海を隔てて更に安芸国と美作国まで拡大し土豪となった五瓜紋(藤原系長良一族)を持つ一族と第2の一族との血縁から生まれた子孫と考えられる。

この第4の土地付近には四国阿波国に赴任した藤原総宗本家の宗政と時宗親子に付き従い讃岐付近まで伸びこの一族が美作の国に移動してて出世した上記の藤原秀郷流青木氏の一族がいる。

さて、上記の四者のうち、土地柄から筑前と筑後と豊前国のうちの何れかが可能性が高い。

時代性からみると肥後国は鎌倉幕府樹立の直前頃に菊地氏が隆盛を極めてい
て元寇の役に参加して勲功を立てている事から考えると、当時としては長期に筑前と筑後の官職を務めた土地に根ずいた事から長成から親子4代の時の護衛役の青木氏一族末裔と考えられる。

このことから、4代(30-50年間)と実に長い間に続いた時に定着した藤原秀郷流青木氏である事が考えられるし、鎌倉後も土豪化していたと見られる。兎も角武蔵と下野の国の本拠地以外にと4代と続いた実績のある藤原秀郷一族の氏の赴任先は他にない。(普通は最低は5年程度で役目は終わる)

元寇の役から鎌倉幕府が滅亡した時間までの間とすると52年間である。
この鎌倉幕府の初期ごろはまだ全ての武士が家紋を持つという事は無かった。
殆ど主要な豪族だけであり、この役の時には菊地氏は既に家紋を持っていたことが「蒙古襲来絵詞」(肥後国の御家人の竹崎秀長が書いた絵詞)に描かれている。大きな豪族であった。
この菊地氏と藤原一族との血縁を結び勢力の拡大と安定を計ったものとみられる。
数年前までは戦場となつた所は守護の立場にあつたし、菊地氏とは藤原系青木氏はこの事件をともに戦った背景からの結果であったかも知れない。
この間に血縁が起こったと見られる。
つまり。「並び鷹の羽紋」の青木氏は菊地氏との血縁による。

この紋様は勿論鷹の印象から来る紋様で作紋されたもので、勇猛なイメージを持つものである。この紋様は江戸時代に多くの大名や御家人が家紋とした。

大抵は下克上と戦国時代で家紋の持つ家柄は滅亡し衰退して新しい勢力が台頭して安定期に入った江戸初期にこの新しい勢力が家紋を定めたものである。
この意味で並び鷹の羽の家紋は伝統的である。

違い鷹の羽紋類は上記の新しい勢力の江戸期前後からの氏の家紋である。
主要紋は左隅に掲載します。クリックすると拡大します。

4つの家紋は家紋掲示板に掲載します。
No.178

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-12(抱き角紋)
青木研究員 さん 2006/01/31 (火) 19:46
第11番目の抱き角紋の紋様である。
この紋様には22の紋様がある。(鹿角紋と抱き角紋)
このうちは青木氏の家紋は4つである。
家紋200選にもある有名な家紋である。

この家紋は次ぎの4つである。
第1番目は抱き角紋である。
第2番目は丸に抱き角紋である。第1番目の分家筋である。
第3番目は四つ又抱き角紋である。
第4番目は隅切り角に抱き角紋である。

これ等の家紋は「皇族賜姓青木氏」の系列の武田氏一族諏訪氏の家紋類である。
つまり、研究室のレポートにも何度も書いたが、皇族賜姓青木氏がこの甲斐の地に守護として赴き青木村を形成して子孫が定住していたが、その後この地に藤原秀郷一族と共に移動してきた陸奥の国の武田氏(陸奥の国にて藤原秀郷一族と血縁関係を持つた陸奥の豪族武田氏)がこの地で勢力を上げて甲斐の豪族となった。

この武田氏と皇族賜姓青木氏との血縁を結んだ。この武田系青木氏は矢張りこの武田氏の一族に組み込まれた。
もとより平安初期からこの地に古くから定住していた諏訪一族(中国後漢の阿多倍王の渡来系人)は武田氏に吸収されたが、この諏訪族との武田系青木氏との血縁族である。

第1番目がこの氏である。第2番目がこの分家筋として分流したのが丸に抱き角紋の氏です。

第3番目はその後、この一族の子孫が跡目上の男系相続が出来ずに支流化して家紋掟により家紋を変紋を余儀なくなったものである。

第4番目は第1番目の武田諏訪氏系青木氏の抱き角紋の一族子孫が隅切り紋族との血縁をした青木氏である。
この一族も男系相続が出来ずに隅切り族から跡目をいれて、この結果、家紋掟から隅切り紋との組み合わせた族を作った支流族である。

この一族の子孫の方がこの研究室のサイトにルーツ依頼のありましたし、家紋掲示板にも最初に投稿された方です。(一読ください)
(他にも、賜姓族の青木氏からの投稿が掲載されています。)

皇族賜姓青木氏は天智天皇から始まった伊勢の青木氏をはじめとして天武天皇、聖武天皇、文武天皇、光仁天皇から第6位の皇子が臣下した5家5流の青木氏であるが(土地は伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の5地である)この青木氏は同時に5地の土地の豪族との血縁族青木氏を発祥させている。
この賜姓青木氏の子孫の拡大は比較的少なく5家5流から24氏までである。

5家5流の青木氏の主要家紋は「笹竜胆」紋である。この伊勢をはじめとし直系5氏と大半が現存している。

又、嵯峨天皇期より皇族賜姓青木氏から変名した同じ第6位皇子の賜姓により源氏が生まれたが、この源氏もこの5土地の同じ豪族との血縁族を発祥させている。
清和源氏の分家の頼信の末裔より上位跡目を入れて出来た支流源氏がある。

元を質せば皇族賜姓源氏(主に実質は嵯峨天皇から11代目の花山天皇まで)で皇族賜姓青木氏とは同じルーツである。

嵯峨天皇期から青木氏の姓は皇族関係者が下族した時に名乗るものとして以外者がこの姓を使用することを禁止した。
原則的にはこの規則は江戸時代まで守られた。
(明治初期にこの名誉の姓を高額の金品を使い寺社に頼み込み偏纂した第3の青木氏がある。)

この家紋は元は兜などの前立ちに使用されていたが、鹿角(おずか)紋として使用されたのは近藤氏であり、抱き角紋として使用していたのは諏訪氏である。

皇族賜姓青木氏の血筋を持つ諏訪氏系青木氏の主要家紋は次ぎの通りです。
左隅をクリックすると拡大します。
この4つのうち3つの家紋は家紋掲示板に掲載します。
No.185

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-13(竹.笹紋)
青木研究員 さん 2006/03/04 (土) 10:50
第12の紋様は竹、笹紋である。

この紋様は全部で141もある。
この内、青木氏に関わる紋様は4紋様である。
家紋200選にも選ばれている有名な紋様であり、比較的新しい紋様で最初に使われたのは鎌倉の末期ごろである。

この4つの紋様は次ぎの通りである。
第1には丸に根笹紋である。
第2には三枚笹紋である。
第3には九枚笹紋である。
第4には二階根笹紋である。

第1はこの紋様を使用したのは桜井氏と二木氏の支流である。
第2は野々山氏である。
第3は秋月氏である。
第4は不明

第1の丸に根笹紋の青木氏は根笹紋の分家筋に当る支流紋一族である。藤原秀郷流青木氏の支流一族の幾重にも分派した氏の血筋を持つ青木氏である。

第2から4は江戸期に名乗った新しい氏との血縁であるのでルーツの如何は藤原秀郷系の青木氏の支流一族の可能性があるとする範囲の青木氏である。

しかし、何分新しいので野々山氏や秋月氏の系列から判断すること以外には確定の元は見出せない。その範囲で藤原秀郷流青木氏の一門に加えた。

この第1の氏も比較的にかなり新しい青木氏でもあり、桜井氏か仁木氏との血縁にて男系維持が出来ずに養子元の家紋を使用するという現象で定めたものである

これ等は主に初期は貴族や公家などが鎌倉時代に使用し始めたもので江戸期に入り、必要に迫られて家紋をつけた。

大名や御家人では約10程度、一般武士では200にも及んだが明治初期には家系断絶で120程度にも減った。

これ等の青木氏では共通することは関東の一族である。
特に代表的な紋様として最初に使用した武士では次ぎの2氏があげられる。
先ず、下総守の千葉氏と、東下総守の師氏である。
これ等の一門がこの竹と笹紋の変紋を多く作り上げた。
公家では2門である。

これ等の流れを汲む室町時代からの有名な大名としては東氏、粟飯原氏、朝倉氏、上杉氏、最上氏、伊達氏である。

では、この青木氏は主要青木氏の2流のどちらの青木氏かと言う問題であるが、140もの各紋様の発祥の確定は困難だが、全体の流れから見ても、上記した大名のルーツから見ても関東に定住していた藤原秀郷流青木氏の流れを汲む氏であると云う事ができる。

藤原秀郷の主要9氏の支流4氏の中から広がり、その内の24氏程度の藤原氏秀郷の末裔から更に男系維持を困難として家紋掟から変紋した氏である。

皇族賜姓青木氏との関係は見つからない。

江戸時代にはこの竹と笹紋が皇族賜姓青木氏の家紋の笹竜胆と類似しているものから源氏系と見られて多くの下級武士がこの紋様に似して家紋を作った。
まったく違うものであるが、この141の紋様はこの傾向のもつた紋様に成っている。
笹竜胆に似せた家紋が多いのはこのことから来る現象である。良く見ないと見間違えるくらいである。


この4つの青木氏の家紋は第一の丸に根笹紋に付いてそのルーツの確証は比較的取れるが,第2から4までは江戸期のものであるので困難である。
しかし、関東系の氏である事から男系跡目が困難な中での変紋であるので夫々の主要氏の流れを汲む氏である事は確認出来るが直系ルーツの確定までは困難である。

しかし、江戸期までは武士であった事は否めない。室町期の下克上と戦乱の中での台頭で家を興した者が殆どであるので、この時期を境にしてルーツの確定はよほどのことでなくては困難である。
概して、この4つの紋様が青木氏の紋様としていてそのルーツは藤原系のものとみなされる。

この家紋類に付いての真偽は一部を除いて、明治期の苗字令に基づく「第3の青木氏」も否定することは困難でもある。
ルーツの調査の内容は矛盾の範囲を超えているものもある。

この家紋は現代でも用いられている松、竹、梅の瑞祥的なものから来た紋様である。
今までの12の紋様の家紋のとは確定の点では少し異なる。

主要紋様は次ぎの紋様があげられる。
左隅をクリックすると拡大します。
4つの家紋に付いては家紋掲示板を参照して下さい。
No.187

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-14(引き両紋)
青木研究員 さん 2006/03/12 (日) 18:08
第13の紋様は引き両紋である。

この紋様は38の紋様がある。

家紋200選に選ばれた鎌倉期から室町期に勢力を持つた一族である。

この紋様に関わる青木氏の紋様は4つある。

次ぎの通りである。
第1番目は丸に一つ引き両紋の家紋である。第2番目の足利氏系青木氏の主家が一門の新田氏との血縁を結んだ青木氏である。

第2番目は丸に二つ引き両紋の家紋である。この4氏の青木氏の中でこの丸に二つ引き両紋が主家筋である。足利氏の家紋で足利系青木氏

第3番目は丸に三つ引き両紋の家紋である。下記のいずれかの一族との血縁を深くした第2番目の主家足利系青木氏である。

第4番目は八角に木瓜二つ引き両紋の家紋である。第2番目の主家の足利系青木氏と木瓜一族との血縁を結んだ一族である。
足利氏一門の主要一族である。

この4つの家紋類は明確に足利一門の家紋であり、この一族との血縁による青木氏である。

この青木氏は武田氏と同様に信濃の皇族賜姓青木氏と土地の豪族であった足利氏との血縁による足利系青木氏である。

つまり、この主流足利系青木氏は皇族賜姓青木氏の5家5流の支流24氏の主要一族である。

足利氏は以前のレポートでも記述したが、土地の豪族足利氏が衰退し続けていたが、この一族の一部が藤原秀郷の一族との血縁を図り態勢を戻そうとした。
しかし、皇族賜姓青木氏の血筋を入れていた本家筋はこの動きに反発して二派に分かれた。
しかし、本家筋を率いる者の力が不足していて分家筋の動きを止めることはできず、結局、藤原秀郷一族の血筋を入れた分家筋の勢力が勝った。
そして、この分家筋は政略的な行動から更に清和源氏から上位の跡目を入れ清和源氏支流の一門となった。(詳細は研究室のレポートを参照)
そして、この分家が本家筋も引き込み足利氏の本家として一門を統一していった。
この皇族賜姓青木氏の血筋を持つ足利系青木氏がその後に他の分家と支流の足利一門との血縁を深くした。

二つ引き両紋の青木氏から分家してこの一門の一つ引き両紋、三つ引き両紋の分家筋が一門との血縁を広げていつたものがこの青木氏である。
その後、二つ引き両紋の分家一族が男系相続が不可能となり、木瓜一族から跡目を採り、止む無く家紋の変更を余儀なくされたものである。
木瓜一族との血縁を結んだのが第4番目の一族となる。
この足利系青木氏の4氏がこの家紋を引き継いでいる。

この内、一つ引き両紋は一門の新田氏であり、二つ引き両紋は主流足利氏、で三つ引き両紋はこのほかの足利一門が使用している。下記

例えば、他に有名なところでは吉良、渋河、石橋、斯波、細川、畠山、上野、一色、山名、大館、今川、三浦、山名の各氏が使用している。

他にこの一族と血縁した紋様の一族は違い鷹の羽の家紋族、上記の木瓜族、巴族などがある。
足利系青木氏は上記の木瓜族のみである。

そもそもこの紋様は陣幕の色で武将の居所を明示することに用いたものが、後にその幕に八卦の卦を入れて武将の居所を占めすものとして使われた。それが主家の足利氏は二つ引き両が目印とし、これに丸をつけて家紋とした。

新田氏は一つ引き両で丸に一つ引き両紋の家紋とした。
丸は通常は家紋掟により分家がつけるものであるが、この場合は居所を示す使用目的から初期から丸つき紋である。

上記した様にこの紋様は中国の八卦の卦を紋様化したものと言われており、この両は竜、領であるとする説もあるが、卦が通説に成っている。

古くは盾などの紋様として用いられていた。

下に主要家紋の丸に二つ引き両紋を示す。家紋は家紋掲示板を参照。
左隅をクリックすると拡大します。
No.198

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-15(梅紋)
青木研究員 さん 2006/03/28 (火) 21:42
第14番目の紋様である。

この紋様は全部で127もある。
家紋200選に選ばれている有力氏である。

この内、青木氏に関わる紋様は3つである。

第1番目は梅鉢紋である。
第2番目は丸に梅鉢紋である。 第1番目の分家である。
第3番目は加賀梅鉢紋である。

第1番目と第2番目には菅原氏、佐々木氏、松任氏、筒井氏、平氏がある。
第3番目は前田氏、斎藤氏、堀氏である。

これ等の青木氏は藤原秀郷流の支流である。

平安期の菅原氏はこの文様を最初に使用したといわれている。
藤原秀郷氏との何らかの血縁関係を持つたと考えられ、主要支流の一族が男系跡目相続の可否で家紋掟によりこの家紋を使用したものと見られる。

佐々木氏は皇族賜姓青木氏と並んで極めて古い皇族系の近江の佐々木氏(佐々木氏は天智期と宇多期の2期に発祥)であるが、この一族の支流がこの菅原氏の血縁を受けたのではと考えられる。

藤原秀郷流青木氏には116氏もあるが、この氏は主要9氏があり、
この主要9氏は直系1氏、直流4氏と、支流4氏から成っている。
(詳細は藤原秀郷一族の行き方のレポート参照)
この支流4氏のうちの一つの梅鉢紋の青木氏である。

数多い116氏中の主要支流4氏の末裔である。

藤原秀郷流青木氏は秀郷の子の千国が秀郷が貴族に昇進したことからこの護衛役として任じられた。
(大化の改新の中大兄皇子から始まった)5代に渡り天皇を守る親衛隊として皇族賜姓青木氏が臣下して賜姓を受けた慣例から、藤原秀郷は朝廷からその許可を得て、千国に青木氏を与えたものである。

上記した第1番目の平氏との関わりは千国の母方がこの平氏一族から出たもので、後にこの一族が平氏を捨てて藤原氏に名乗り換えをした。
藤原秀郷流青木氏の支流4氏のうちの末裔の多くはこの平氏家紋の揚羽蝶紋と丸に揚羽蝶紋である。

貴族になると武力を自ら使用することが出来ないためにこのことになったのである。

既に何度もレポートしたが、藤原秀郷は平将門の乱を鎮めた勲功により武蔵国と下野の国の守護に任じられ、更に貴族に昇進した。このことの経緯は (詳細は藤原秀郷一族の行き方のレポート参照)前レポートに記述した。

このことによって藤原秀郷流青木氏が生まれたのであるが、この青木氏を朝廷の許可を得て名乗った理由はこの皇族賜姓青木氏の母方は伊勢青木氏を除いて全て藤原氏系である事による。

嵯峨期の令により皇族還俗者以外の者が氏として名乗っては成らないことに成っていたが上記のこととその権勢により藤原氏はこの令外として許されたものである。
(その後、嵯峨期より第6位の皇子がを変名して青木氏を賜姓源氏とした。)

この紋様は勿論、丸は花弁を表しており、古く奈良時代末期から仏教に用いられていた文様である。

この文様は2つの文様の形に分けられる。
芯の有無に関わる。
この藤原秀郷流の支流青木氏は芯のある梅紋である。

主要家紋は次ぎの家紋です。
左隅をクリックすると拡大します。
家紋掲示板にもこの藤原秀郷流青木氏の家紋3つを掲示します。参照して下さい。
No.204

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-16(目結紋)
青木研究員 さん 2006/04/26 (水) 11:36
第15番目の紋様である。

この紋様は81の紋様がある。
家紋200選にもある紋様である。

この内、青木氏の紋様は3つである。
この3つは次ぎの紋様である。

1番目は丸に隅立て4つ目紋である。
2番目は隅切り角に4つ目紋である。
3番目は丸に三つ目紋である。

青木氏以外に次ぎの氏がこの家紋を使用している。
1番目の紋は児島氏、鍋島氏が使用している。
2番目は不詳
3番目は磯部氏、由井氏、飯田氏、二松氏が使用している。

この家紋は最も古くから使用していた氏は佐々木氏である。
この佐々木氏の流れを汲む一族としては室町幕府の足利氏の御家人の六角氏を始めとする主要大名がこの紋様を使用している。

佐々木氏には天智天皇の近江佐々木氏と宇多天皇の滋賀の佐々木氏がある。
云うまでもないが、近江佐々木氏は天智天皇の第7位の皇子の近江王の川島皇子の末裔であり、伊勢王の施基皇子の青木氏と並んで特別に第6位に対しての賜姓の令外として第7位の弟の川島皇子に土地の地名を採って佐々木氏の賜姓を授けたものである。これが近江佐々木氏の始まりでこの佐々木氏から近江青木氏が発祥している。この青木氏には佐々木系青木氏と二つあるが血縁である。
この近江青木氏の方は後に何らかの理由で滋賀と攝津の二手に分かれて移動している。(既にレポート済み)
この青木氏は後に宇多天皇の佐々木宗綱、高綱の末裔の氏との間でも血縁をむすんでいる。

この3つの青木氏のうち2つの青木氏は何れもが前者の近江佐々木氏の血縁であるが、一方の滋賀の宇多天皇の佐々木氏の青木氏もあるいずれにしても皇族系青木氏である。
近江青木氏は皇族賜姓青木氏の直系と支流青木氏と言うことになる。
宇多天皇の佐々木氏系青木氏は時代は後になる。

つまり、奈良時代に発祥した後の近江源氏と平安後期の滋賀源氏の2流となる。

近江佐々木氏の2つの青木氏は総宗本家の家紋は皇族賜姓青木氏と同じ「笹竜胆の家紋」である。剣豪の佐々木小次郎はこの近江佐々木氏の末裔である。

宇多天皇の佐々木氏も皇族の賜姓源氏であるので総宗本家は「笹竜胆紋」である。

この上記3つの家紋の氏は支流一族である。この3つの青木氏は江戸初期あたりにて上記の各氏と後に血縁を結んだものであると見られる。江戸初期にはこの家紋を持つ氏が約70も出来ている。

男子継承が不可となり、家紋の変紋を余儀なくされた支流一族である。

したがって、この3つの青木氏以外に近江と滋賀地方で笹竜胆の家紋を持つ青木氏が確認されればこの一族の本家筋となる。

この研究室にルーツ依頼があつた方が居たがこの一族は攝津に移動した青木氏
であり、川島皇子の末裔の皇族賜姓青木氏であった。滋賀の青木氏は非常に確認が難しく豊臣時代には青木氏の継承をめぐり争いを起している。

この結末は青木氏の氏を買い取るかまたは奪い取ったか政略結婚かにて出世方の元上山氏の方に2度の戦いの末に軍配は上がった。(レポート済み)
後にこの上山氏の青木氏はこの家柄の獲得の結果10地方の守護をつとめている。このことから見ると政略結婚にて妻方のほうに青木氏を引き継ぎ家柄を高めて守護になりえたものとみられ、この結果、後に総宗本家との間に争いが起こったものと見られる。
この青木氏は現在も末裔が現存している事が確認出来る。

この近江の青木氏の二手に分かれた一方の滋賀の青木氏の詳細は不詳である。

この青木氏は伊勢の青木氏をはじめとする5家5流の近江青木氏の末裔となる。

この紋様は元は平安末期から鎌倉時代にかけて用いられた染め文様から図案化されたもので幡などに用いられて後に家紋化されたものである。

後には江戸時代の初期に徳川の御家人になった者がこの紋様を80前後も多く用いた。この結果、81にも成った。

この主要紋を次ぎに掲示する。家紋掲示板にも掲示するので参照して下さい

左隅をクリックすると拡大します。
No.205

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-17(茗荷紋)
青木研究員 さん 2006/05/07 (日) 14:37
第16番目の紋様である。

この紋様には61の紋様がある。

この内、青木氏に関わる紋様は次ぎの3つである。

第1番目は抱き茗荷紋である。
第2番目は丸に抱き茗荷紋である。 第1番目の分家筋に当る。
第3番目は抱き茗荷菱紋である。 第1番目の支流である。

第1番目は志摩地方の鳥羽氏がこの紋様の抱き茗荷を家紋として使用している。
この全体の紋様は関西地方に多く散在し、近江地方の山下の稲垣氏もこの家紋を使用している。又、小沢氏もこの抱き茗荷の家紋である。
何れも新しく江戸時代になってからである。
この2氏は二宮氏、鳥羽氏の支流一門と見られる。

最初に使用したのは近江地方に広く分布する二宮氏である。
土地の地名を採った鳥羽氏は系譜の確認は江戸期であるのでとれないが、この二宮氏の系列と見られる。又、稲垣氏、小沢氏も同様と見る。

この紋様は元は比叡山の天台宗の神紋であり、この紋様を戦国期を経て江戸時代になり家紋の持たない者が侍となってこの紋様から引用して家紋としたものである。
特に関西系の旗本100氏程度がこの紋様を使用した。

したがって、この3つの家紋の青木氏の系譜は江戸期になってのものであり、5家5流と藤原秀郷流青木氏の2つの青木氏との確定は困難である。

この二宮氏と鳥羽氏を元とする抱き茗荷の家紋を持つ本家筋が2つのいずれかの何らかの血筋で青木氏との繋がりがあり、江戸期になり家紋と共に名乗ったものであると思われる。
後の二つはこの分家筋と更に分家分派した支流の抱き茗荷の一門である。

関西を中心としての氏であるとすると、伊勢の青木氏か、藤原秀郷系統の伊藤氏に付き従った青木氏とも考えられる。

しかし、伊勢の青木氏との可能性は分布と地域と二宮氏と鳥羽氏との関連から極めて低い。

この伊藤氏は、藤原秀郷系の藤原氏で平安末期前半にこの伊勢の半国司を務めていて、鎌倉期になり、この地に留まり伊藤氏を名乗っている。つまり、伊勢の藤原氏である。この時に護衛役として従った青木氏であると見られるが近江滋賀の二宮氏との地域の関連が取れない。

つまりこの鳥羽氏と二宮氏の先祖はどちらが先きにあるかと云う問題で歴史上からみては鎌倉期の二宮氏となっているが、鎌倉期前から鳥羽地方に古くから定住していた者の藤原秀郷流青木氏の一部が近江に移動したとも考えられる。

その根拠は当時は勝手に一族が土地を離れることは「国抜け」として出来ないが、鎌倉前にただ一つ出来ることは藤原秀郷一門の「守護職の赴任地移動」に伴って勢力を保持したままに青木氏のみが動くことができたことである。
これが現地に子孫を残す戦略を採っていた藤原一門の方法でもあつた。
この近江地方には秀郷一族の「藤原脩行」という者が鎌倉末期に守護としてとして移動している。
伊勢鳥羽永嶋の半国司でなくなった時に青木氏は伊勢の志摩鳥羽地方に残っていたが、その後、伊勢より移動してこの者に従った青木氏である可能性がある。

二宮氏の一個人が移動しても勢力を持つ事は出来ない。出来るとすれば秀吉の時代の命令により一族の移動が考えられるが3百年も時代は新しいことになるので可能性は低い。

それ以前であればここは北畠氏の領域であるので戦いが起こるが無かった。

戦いが起こらないただ一つの大量の移動はこの青木氏の移動以外に無い。

この意味から鳥羽地方に住む藤原秀郷流青木氏の近江か滋賀地方への移動説が現実的である。

伊勢鳥羽に僅かに残った藤原秀郷流青木氏が土地の鳥羽氏との血縁で男系相続不可にて茗荷紋に変紋したものと見られる。

二宮氏が現在の所先に出たとされていると滋賀佐々木氏系青木氏ともなる。
しかしこの可能性はく低く戦国期を挟んでいるために確定は困難。
土地が両方にまたがっているので移動説がなくては成立しない。

半国司とは伊勢は元は平安中期までは伊勢青木氏の所領であつたが、伊勢北部の伊賀地方を中国後漢光武帝の子孫(帰化した阿多倍王)の功績に対して恩賞として伊勢を切り裂いて特権を与えて領国とさせました。(桓武期前後)
その後、村上源氏の支流北畠氏に伊勢の東部永嶋と鳥羽地方を切り裂き国司として任じました。
結局、伊勢は3つの国司が存在しました。この状態の伊賀と永嶋の2つを半国司という。

伊勢鳥羽と近江山下の地方には僅かであるがこの藤原秀郷流青木氏が存在する。

伊勢松阪と玉城を中心として西には奈良の名張、伊賀地方から東は桑名地方まで帯状に分布する施基皇子を元祖とする伊勢王の子孫の皇族賜姓青木氏とは異なり、又、皇族賜姓近江青木氏と皇族系近江、滋賀佐々木系青木氏の慣習に基ずく住み分け地方が異なることから、このことから移動の出来る藤原秀郷系の伊藤氏に着き従った青木氏である事となる。

この藤原秀郷流青木氏が土地の鳥羽氏との血縁にて男系継承相続が困難となり
家紋を抱き茗荷家紋として引き継いだものと考えられる。

61もの紋様はこの旗本の100余りの旗本の家紋である。

これ等は鳥羽氏、稲垣氏、小沢氏を発祥元とした氏の家紋であり、通説の元祖二宮氏から出たものであろう。

この紋様は大変に杏葉紋と酷似する。この変紋ではないかと見られる。

比較的新しいこの家紋を使用している氏の青木氏には戦国時代の為、系譜等の資料は全くなく確定は困難であり、以上の状況判断によるものである。
明治以降の第3の青木氏との関係は一般武士であることから見て無いと見られる。

この抱き茗荷紋の主要紋は次ぎのとおりである。
左隅をクリックすると拡大します。他の2つの家紋も家紋掲示板に掲示しますので参照して下さい。
No.206

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-18(揚羽蝶紋)
青木研究員 さん 2006/05/21 (日) 22:12
第17/33番目の紋様です。

この紋様には97もある。

この紋様は家紋200選に選ばれた紋様です。

この紋様に関わる青木氏の家紋は次ぎの紋様である。
第1番目は揚羽蝶紋である。
第2番目は丸に揚羽蝶紋である。 第1番目の分家に当る。

この紋様は平安中期頃に京平家の平重盛等が鎧や車紋もなどに用いたのが最初である。

蝶紋のうち揚羽蝶紋は桓武平氏が最初に用いたものである。

桓武平氏とは後漢の末帝の献帝の子の阿智使王と孫の阿多倍王らが孝徳天皇期(645)に漢の東国と北朝鮮の朝鮮族の17県の民200万を引き連れて九州の北側に上陸して大和の国に帰化してきた。この阿智使王と阿多倍に率いられた民は瞬く間に九州全土を殆ど無戦の状態で統一した。この200万の民は全ての技能集団を引き連れていたが、この技能を土地の者に伝授し平和裏に同化したのである。
この一団の一部は次第に中国地方に移動しこの地方でも陶族が勢力を持ち全土を制圧した。更に移動して最東信濃と美濃地方まで移動してここを開拓した。
この渡来人は技能集団として海部、服部、綾部、陶部、土師部、鍛冶部、磯部、渡部等の「部」のついた姓はこの技能集団の末裔である。

この軍事集団で有名なのは蘇我氏に仕えた漢氏や東漢氏や直文氏である。

この技能集団は現代の第一次産業の殆どの基礎を作り上げたのである。
この技能集団は朝廷の政治形態を3蔵という形態をとっていたがこの3蔵のうちの2蔵を占め、この政治官僚として日本の律令政治の基礎を作り上げた。
この3蔵とは「大蔵」で朝廷の財政を、゜「内蔵」で天皇家の財政を、「斎蔵」で政治を含む祭事や祀事を司っていた。この内、「大蔵」「内蔵」はこの阿多倍一族が占めていた。
「斎蔵」は鎌足の藤原氏である。故に後には藤原氏は朝廷の政治を司る摂関家となったのである。

後にこの二つの「蔵」の功績から天皇から賜姓を受けて次男は「大蔵氏」と三男は「内蔵氏」と長男は「坂上氏」の3つの賜姓を受けた。

長男の坂上氏は阿多倍の率いた軍事部門を統括して征夷大将軍となり東北から北海道を制圧した。この坂上田村麻呂が初代である。

今までは、天智天皇期から第6位の皇子が臣下して5代の天皇から出た青木氏が天皇家の親衛隊として皇族賜姓族の役目であつた。

其処にこの渡来系の阿多倍の集団が朝廷の軍事部門を担うようになり青木氏との間に軋轢が生まれた。
桓武天皇は律令政治を完成した天皇としてこの青木氏の発言力を排除して自らの母方の一族を頼りに推し進めたのである。

さらには後にはこの阿多倍は敏達天皇の曾孫娘を娶り天皇家と縁戚となり朝廷の全権を握った事にもなった。

この阿多倍の率いた一団は大和の国の経済的基盤と政治的基盤と軍事的基盤を確立した程に貢献した。ここの功績に報いるために桓武天皇は阿多倍の死後にこの阿多倍の高望王を大和の国の「高尊王」として扱いこの一族に「たいら族」として渡来人に初めて日本の氏をあたえた。そして、この子孫に伊勢国北部伊賀地方を切り裂いて与え、不入と不倫の権を与えた。

この一族の貞盛が「平の将門」の乱を藤原秀郷と共に5年もかけて鎮めた功績で天皇に寵愛され5代後に「平の清盛」の太政大臣まで上りつめた。
これが「桓武平氏」である。

この桓武天皇の母はこの阿多倍の子孫である。

この為に、この桓武平氏の阿多倍一族を引き上げるために総宗本家の伊勢青木一族をはじめ5家5流の青木氏は桓武天皇から圧力をうけ、伊勢青木氏と5家5流の青木氏は一時守護の職を失う。
この時、藤原秀郷より2代前祖父の藤成なる者が一時伊勢の守護となることが起こり、これ等を契機に5家5流の青木氏と後の嵯峨天皇から始まった賜姓青木氏から変名した皇族第6位の賜姓源氏も平家の台頭で力を失う。

これを嫌った次の天皇の嵯峨天皇は皇族第6位皇子の賜姓方式を元に戻して青木氏から源氏に変名したのである。

この時、藤原秀郷はこの伊勢守護の時に伊勢伊賀北部の平家から妃を求めて縁組をし、この子供の藤原秀郷の第3子の千国が青木氏の元祖となる。

この青木氏は直系1氏、直流4氏、支流4氏となり、ついには116氏の藤原秀郷流青木氏が出来る。

この支流4氏のうちの3氏はこの揚羽蝶紋の家紋である。

この3氏中の1氏が主流であり、元は嶋崎と岡本を名乗り後に元の藤原系の青木氏に戻る事となりこれより揚羽蝶紋の青木氏が分派して子孫は拡大する。

つまり、中国後漢の光武帝の子孫の阿多倍王の渡来系人の血筋を引いていることになる。更に同系の京平氏の子孫ともなる。

この子孫と同じ血筋を元祖に持つ青木氏はほかにもある。
甲斐武田氏の諏訪族の武田系諏訪族青木氏である。

阿多倍らが引き連れた帰化民が甲斐の国の開拓民として入植して大型の外来馬を飼育して生計を立てた。
この地に定住した末裔の諏訪族とこの地の守護としての皇族第6位皇子の青木氏がこの地の甲斐王として赴き後にこの諏訪族との間に血縁をもち青木氏を発祥させた。
後に武田氏とも皇族賜姓青木氏と血縁し、諏訪族は武田氏とも血縁する結果となる。この青木氏も元祖には阿多倍の血筋を持つ事になる。

藤原秀郷の主要5氏は永嶋氏と青木氏と長沼氏、それに進藤氏と長谷川氏であるが、この永嶋氏は京平氏との縁組にてその子孫は青木氏と永嶋氏を発祥させたが元は阿多倍の大蔵氏からであるので名乗ったもの。

つまり、阿多倍と敏達天皇の曾孫娘との間に出来た子供の「大蔵氏」は、後に九州に於いて「永嶋氏」に変名する。

この永嶋氏一族はその勢力を背景に中部地方から以西にたちまち広まる。
中部地方から以東は藤原秀郷流永嶋氏である。

よってこの永嶋氏は阿多倍の末裔の平家族の血筋を持つ青木氏と同じ母方元祖の血筋を引いた藤原秀郷流永嶋氏とは同血縁になる。

藤原秀郷にはこの様に京平家の血筋を持つ氏が2氏もある。

ここで注意が必要なのは「坂東八平氏」と言う一族が関東に居たが、この坂東八平氏とは全く別である。こちらは京平家の「たいら族」に対して゜平族(ひらぞく)」という。
桓武天皇はこの「ひら族」になぞらえて渡来人を「たいら族」として賜姓した。
この「ひら族」は皇族第7世以上の者が天皇が代替わりするたびに生まれる7世以降の者が関東に定住しその末裔が「坂東八平氏」である。

京平家を伊勢者と言うがこれを主流として関氏や織田氏らの支流が出た。
伊勢者に対して関東は坂東平氏と言う

この2氏の揚羽蝶紋の京平氏のながれを組む支流の藤原秀郷流青木氏である。

主要紋を次ぎに掲示します。左隅をクリックして下さい。拡大します。
家紋掲示板にも掲示します。参照して下さい。
No.224

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-19(矢紋)
青木研究員 さん 2006/06/25 (日) 15:24
第18番目の紋様の矢紋である。

この紋様は全部で36ある。

家紋200選にある紋様である。

この内、青木氏にかかわる紋様は次ぎの2つである。

第1番目は丸に違い矢紋である。違いや紋の分家である。
第2番目は丸に六つ矢車紋である。

これらの紋様は比較的新しい紋様である。

この紋様は勿論弓矢の紋様を家紋としたものであるが家紋に対しての氏が明確に確定できないほどに成っている。

判る範囲では主に矢部氏とか、矢田部氏とか、矢吹氏とか、矢葺氏とか矢田堀氏とかである。橋爪氏や橋詰氏のように爪のついた氏もこの矢の家紋を用いているので殆どはこの職人集団の姓である事からこの末裔と見られる。

この一族は「部」が付いているので元は後漢の渡来系の人々で弓矢を作る技能集団として奈良期に帰化してきた一団の末裔であるとみられる。

他には有名なところでは3つ矢紋の松平一族の松平深溝氏で、矢車紋の荒川氏、違い矢紋の恒岡氏である。職人集団の居た地名を採った氏と見られるが、この一族紋の矢紋は武士の紋所として扱われているので室町末期に武士となった紋であろう。

これ等の氏の情報が少なくてこの青木氏は何れの青木氏に属するかは確定は出来ない。
しかし、皇族賜姓青木氏5家5流の24氏の可能性は低い。
この青木氏では地域性や系統は全て確立していてそれ以外に子孫を残す謂れが嵯峨期の詔にてない。

又藤原秀郷氏の主要9氏の116氏に関わる青木氏としての断定もできないが、別の研究資料説によると藤原秀郷流青木氏の116氏の中に組み入れる説もある。しかし、その理由はない。

藤原秀郷流青木氏との何らかの関係を持った事から室町末期から江戸初期前に後に出世した時に関係族のあった血筋の青木氏を名乗ったと見る向きが強い。

藤原秀郷の一族が赴任した24地方のところに定住した青木氏としても地方性が確認出来ないので困難であり、各地の矢の着いた姓を調査しても出ない。

多分この原因は江戸初期が室町後期に氏として名乗り出したものではないかと見られる。
多くは矢のついた氏を名乗っているところから見て、先祖の職業は矢や弓に関係する職人であった事からルーツとしては江戸初期の安定期になったころにいずれかの青木氏が男系不継によりこの矢のつく氏との血縁にて家紋としたと見られるが確証は取れない。

明治の第3の青木氏や室町期の混乱期での第3の青木氏である可能性も否定出来ない。

左隅をクリックすると家紋が拡大します。
家紋掲示板にも掲載します。
No.244

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-20(沢瀉紋)
青木研究員 さん 2006/07/05 (水) 14:57
第19/33番目の紋様である。

この紋様は82もの紋様がある。

この内青木氏に関わる紋様は3つの紋様である。

この紋様は家紋200選にある紋様である。

この3つの紋様は次ぎの家紋になる。
第1番目は立ち沢瀉紋である。
第2番目は丸に立ち沢瀉紋である。1番目の分家筋である。
第3番目は抱き沢瀉紋である。

先ずこの立ち沢瀉紋は次ぎの氏に依って使用されている。
松平氏、椎名氏、酒井氏、堀氏、土井氏、稲垣氏、中村氏、水谷氏である。

抱き沢瀉紋は次ぎの通りである。
堀越氏、町野氏、間宮氏、清水氏、蔭山氏である。

この立ち沢瀉紋を見ると明らかに1地域の氏に集中している。其れは全て松平氏の重家臣団である。

同じく抱き沢瀉紋も同様であるが立ち沢瀉紋のように重役氏名ではないが松平氏の家臣団の氏名である。

つまり、元の発祥地域は駿河、尾張、三河地域となる。つまり、徳川幕府の立役者の氏である。

この青木氏となると次ぎの二人が上げられる。
藤原秀郷の子孫で藤原景頼がこの地域の駿河権守に任じられてそれに護衛役として同行した青木氏がありこの地域に定住している。
又、其れより後役として藤原公則が任じられている。此れに護衛役同行した青木氏があり何れも定住している。

藤原秀郷流青木氏が鎌倉幕府樹立で藤原一門共に離散したが、この地域に定住していた青木氏は戦国期に信長と共に勢力を拡大した時期の松平氏に仕官し守り立てた立役者ばかりである。

元は下がり藤紋であったが男系相続が叶わず土地の松平氏の一門と血縁を結び変紋を余儀なくされたものである。

当然、この地域の権守の藤原宗家の一族も仕官したと見られ、そのこの地域の一族の氏名の中に例えば椎名氏などの藤原氏一門の氏名が見つかる。

この家紋は元は平安末期から鎧兜や直垂に用いている。

しかし、この82に及ぶ大半は戦国末期からで江戸期に入って多くの家臣が変紋して使用したものである。比較的新しい家紋類である

この紋は豊臣家臣にも使われている。尾張の出の豊臣秀次の馬標に使用し、秀吉の妻木下家の豊後日出守の家紋でもある。
又、福島正則も家紋としている。

何故この地域のものが沢瀉紋を使用したのかと言うことであるが、この地域の水辺にはこの沢瀉草が群生していたことから使用したと見られる。

殆どの82の紋様の氏はこの地域の一族である。

この沢瀉紋となった藤原秀郷流青木氏は主要9氏のどの氏から出ているのかは確定は出来ないが、この赴任した藤原秀郷の宗家の二人の位置付けから見て直流4氏の青木氏から出た116氏の内の一つの一族と見られる。

丸に立ち沢瀉紋は当然に立ち沢瀉紋の分家筋になるのでこの一族も末裔を広げていた事がわかる。
又抱き沢瀉紋の一族はその家紋を使用している一族の氏名から中級家臣である。この地族と血縁した青木氏は立ち沢瀉紋青木氏の分家に当る一族ではと思われる。

この立ち沢瀉紋は82の沢瀉紋の主要氏であるので、先ず藤原秀郷流青木氏のこの地に定住した本家筋が主要氏である一族(13)の立ち沢瀉紋の主家と血縁を結んだ事となり、更に分家筋が抱き沢瀉紋と血縁したと見られる。しかし、この抱き沢瀉紋も抱き沢瀉紋の16中では主要氏であり、82の沢瀉紋のなかでも立ち沢瀉紋に継ぐ位置にある。

藤原秀郷流青木氏は強かにこの地域に根付き、末の勢力拡大を見て徳川氏を盛り守り立ててその末は幕府の権限を握った重家臣団の一族の一つに成っていた事になる。
小豪族であつた松平氏は武田軍団と諏訪族の軍団を家臣団に加えただけではなく土地に明るい藤原一族おも家臣団にしていたことを考えると天下取りの徳川勢力は多きかった事が頷ける。
だから、下から成り上がった者の家臣団だけではなく最も古い歴史と高い伝統のある諏訪族青木氏を含む赤兜の諏訪青木武田軍団と、歴史と伝統と各地に広がる藤原秀郷一門のある藤原秀郷流青木氏の軍団のおかげが後には幕府を開いた原因とも言える。

このように見ると皇族賜姓青木氏と同じ藤原の血筋を持つ藤原秀郷流青木氏一族は合同で天下を取り戻したとも考えられ強かである事に感心する。

両青木氏が持つ伝統とは、無意味な物ではなく歴史をこのように見ると大変重要である。そして、其れは一青木氏ではなく各地に散在した一族の末裔がいざ戦いの時にあつまりその力を発揮した事を物語るものである。

左隅に主要家紋を掲示します。左済みをクリックして下さい拡大します。
家紋掲示板にも近日3つの家紋を掲示します。
No.249

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-21(桔梗紋)
青木研究員 さん 2006/07/20 (木) 17:26
第20/33番目の紋様である

この紋様は家紋200選にある。
この紋様は126もの紋様がある。

この紋様の青木氏に関わる紋様は次ぎの2つである。

第1番目は桔梗紋の青木氏である。
第2番目は丸に桔梗紋の青木氏である。 第1番目の分家である。

この家紋を最初に使ったのは美濃の土岐氏である。

その後に江戸初期にこれ等の土岐氏に何らかの関係の持つ者が桔梗紋を変紋して自らの家紋にした結果、126もの紋様が出来た。
この126の家紋は美濃と飛騨などに多く分布している。

皇族賜姓青木氏の5家5流の美濃の賜姓青木氏が土地の豪族土岐氏との血縁にて土岐氏系青木氏が発祥した。

土地の豪族土岐氏は甲斐の武田氏、信濃の足利氏と同様に清和源氏の3代目の三男の頼信より数えて4代目の義光より8代目の時光(1195)から発祥してこの時光から11代目(不祥)の者が皇族賜姓美濃青木氏を継承した。
(義光から19代目)
この一族から末裔は5流に分流した。

(参考) 甲斐の賜姓青木氏は末裔は5流に分流した。
頼信より4代目の義光(1055)から8代目の源光(1195)が甲斐の賜姓青木氏の跡目を継承した。源光の兄弟の時光は武田氏系青木氏を継承し、その時光より15代目の義虎が更に武田氏系青木氏の跡目を引き継ぐ。

(参考) 信濃の賜姓青木氏は末裔は4流に分流した。
頼信より2代目の義康が足利氏の跡目に入る。この義康より3代目の実国が皇族賜姓信濃青木氏の跡目を継承し、頼信より4代目の義光から数えて16代目(不祥)が足利氏系青木氏の跡目に入る。

この皇族賜姓美濃青木氏の5流に分流した中の一族が土岐氏系青木氏である。
この土岐氏系青木氏が桔梗紋である。この桔梗紋から分家が出たものである。

(皇族賜姓青木氏の5家5流は24氏に分流している。近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の賜姓青木氏より分流24氏)

この時期、賜姓の清和源氏は同族の賜姓青木氏の5家5流の跡目を戦略的な意味から固めた。

この桔梗の家紋はもとより桔梗を図案にしたものである。
この家紋で有名なことは信長と明智光秀との軋轢の原因として水色に染めた桔梗紋の問題が出て来る。

信長は平家の支流の流れを汲む一族であるが、光秀の家紋は上記した様に清和源氏の支流の土岐氏の家紋である事をねたんでの事。
家柄で負ける信長のひねくれによるものとされた。

桔梗紋には土岐氏の綜紋の桔梗紋と土岐氏一門の土岐桔梗紋がある。
土岐氏系青木氏は主要紋の桔梗紋である。

桔梗紋を変紋した紋様は余りにも多いのでここでは説明は割愛する。

詳細は研究室の皇族賜姓青木氏のレポート関連を一読ください。

主要紋は左隅に掲示します。
左隅をクリックすると拡大します。
家紋掲示板にも掲載します。
No.266

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-22(松紋)
青木研究員 さん 2006/08/09 (水) 10:53
第21/33番目の紋様である。

この紋様は全部で114の紋様がある。

この紋様は家紋200選にある。

この紋様のうち青木氏に関わる紋様は2つである。
この二つは次ぎの通りである。
第1番目は丸に三階松紋である。
第2番目は抱き若松紋である。元は同族で三階松紋の方が宗家となる。

この紋様の丸に三階松紋は次ぎの氏が使用している。

五条氏、岡山氏、宮村氏、石原氏、中川氏、小池氏、中根氏、内山氏、辻氏、前田氏、下島氏である。

讃岐藤原氏と何らかの遠縁による血縁関係にあると見られる。
このいずれかの氏との血縁を結んだ青木氏であり、この青木氏は次ぎの青木氏である。

この紋様の抱き若松紋は次ぎの氏が使用している。
松尾氏である。

この松尾氏と血縁を結んだ藤原秀郷流青木氏である。

北家筋の藤原秀郷氏の本家の末裔が朝廷の命にて讃岐の守護として赴いた際に護衛役として同行した藤原秀郷流青木氏で、この子孫が讃岐の土地の豪族と血縁を結び土地に根付いた一族である。
この一族は一部は領国の武蔵に戻っている。

この一族の3方がこの研究室に投稿されている。

この松紋は最初に使用したのはこの讃岐に赴任し土地に定着した讃岐籐氏と言われる一族である。
(藤原秀郷の宗家の者が讃岐守護となり土地に定着した一門の事)

この讃岐籐氏には次ぎの氏が存在する。
西隆寺氏、豊田氏、柴野氏、平尾氏、有岡氏,竹田氏、成宗氏でこの讃岐籐氏の支流の庶流氏である。
これ等の氏に関係して上記の丸に三階松紋の諸氏が存在すると見られる。

四国讃岐一帯に分布している氏である。

この四国にはもう一つの青木氏が阿波国に存在する。
藤原秀郷の末裔の宗政、時宗親子で、この親子に護衛役として同行した藤原秀郷流青木氏で土地の五瓜に剣片喰紋の青木氏が存在する。

更に、讃岐の青木氏は讃岐の海向こうの岡山と広島に子孫を広げている。
この子孫は3つの氏との血縁を結び更に子孫を広げているが、元はこの讃岐に残存した末裔の藤原秀郷流青木氏で、家紋の綜紋は元は下がり藤紋である。

この宗家は雁紋の副紋使用している。(結び雁金紋)

何れも末裔が男系跡目の継承が出来ずに家紋掟により変紋を余儀無くされた藤原秀郷流青木氏の子孫である。

この紋様は竹と梅と松の慶賀の印のもので、松の常緑樹を祝い常に緑である事を賀して子孫繁栄の印として用いたものである。

調度、器具などにも紋様として用いられている。

特に、この紋様は114もあるのは江戸時代に家紋の持たない者で家を興し武士と成ったものが用いたもので、中には先ず氏を松の姓にして後に松にちなんだ家紋として用いたものが武士では多いのである。

三階松紋にも殆ど見分けの付かない紋様が大まかには9つもある。
しかし、丸つき紋であるがこの丸なし紋の三階松紋は無い。何らかの前頭文字を入れて呼称している。
三階松紋とはこの9つの全体の呼称である。

丸に三階松紋が主要紋である。

若松紋用には4つある。抱き若松紋が主要紋である。
この抱き若松紋に付いては岡山と広島にはこの末裔の亀甲族と血縁した亀甲内若松紋の氏がある。

亀甲族とは三階松紋も血縁を結んでいる。

亀甲族は中国地方の小豪族が神社を中心にして結束して亀甲族一団を形成して生き残りを図ったが結束力が不足して分散したので少ない。

この紋様に関連して、研究室の讃岐の青木さんのレポートも参照して下さい。

この松紋の讃岐の青木氏の紋様を家紋掲示板に掲載します。

左隅をクリックして下さい。主要紋が拡大します。
No.274

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-23(銀杏紋)
青木研究員 さん 2006/08/24 (木) 22:22
この紋様は第22/33番目の紋様である。

この紋様は使用されたのは古く平安末期頃と見られ公家の紋章として用いられている。
しかし、多くは江戸時代に使用されたものである。

この紋様は79の紋様がある。

この家紋に関するものは家紋200選に無い。
家紋200選に無い事は確証するルーツと資料は明らかでない。

この内青木氏に関する家紋は2つである。
第1番目は『三つ銀杏紋』である。
第2番目は『二重亀甲に銀杏紋』である。

この79ある紋様中、この二つの銀杏紋はこの紋様を多く使用している氏から見ると安芸国に見られる紋様である。

因みに、この三つ銀杏紋を使用している氏として、大石氏、土方氏、水島氏、間部氏、長谷部氏等で夫々の氏は中国地方中部から南部にかけて分布する氏である。
忠臣蔵の大石氏、長州の土方氏、水島工業地帯で有名な土豪水島氏、などである。
参考として、間部氏や長谷部氏は下中国後漢の国の末帝献帝の子の阿智使王と孫の阿多倍王が後漢が滅亡して17県民を引き連れて大和の国(九州)に帰化してきたもので、その一団の者である。
その中には職人集団としては定住した一族が陶部氏を中心としてと共に中国地方に上陸して不戦で制圧し大勢力を持つた一団で、この時の職人集団の間部と長谷部氏である。

「二重亀甲に銀杏紋」を使用している氏は中国地方の小豪族の連合体で、亀甲紋紋は出雲大社の神文であり、出雲大社を中心として結束を固めていた氏の集合体である。
広島、岡山地方に多く分布している。

藤原秀郷流青木氏は讃岐地方から移動した氏と近江から移動した氏とがこの一族との血縁をしている。


この三つ銀杏紋の中に青木氏が存在する。
したがって、この紋様を用いられた時期から考えて、藤原秀郷流青木氏の三つの流れからの青木氏と見られる。
しかし、この青木氏の紋様は新しいので確定は出来ない。

先ず、その一つは近江国に赴任した藤原秀郷一門の脩行に護衛役として同行した青木一族で、その後に領国に帰らず安芸の国に移動したとされる藤原秀郷流青木氏が史実として見られる。

次ぎに、讃岐に赴任した藤原秀郷一門(文紀)に同行した青木氏で鎌倉期に領国に帰らず定住して、その後、末裔が瀬戸内海の海向こうの岡山、広島に移動した一族で史実として見られる。

第三として、出雲国に赴任した藤原一門の藤原宗綱に同行した同じく藤原秀郷流青木氏である。

この土地の氏と血縁した藤原秀郷流青木氏であろうと見られるが、いずれもかが混乱期を2度経ているためにルーツの確証できない。どちらにしても藤原秀郷流青木氏の可能性はあるが。

上記した血縁する武士の氏は下級武士であつた事から、発祥などは確証できず不明が多いのである。

そもそも、この紋様は銀杏の葉型が良いことから古くから家具や装飾品に使用されていたものである。

其れが公家の飛鳥氏、あるいは飛鳥井氏の紋章として家族毎に銀杏葉の使用を変えて使用されていた。其れが家紋化したものである。

使用もとは古いが一般に使用され始めたのは江戸期である。

その後に、末裔が不詳と成る江戸期に上記する一族との血縁を結んだと見られる氏である。

左隅をクリックすると主要家紋が拡大します。三つ銀杏紋
No.277

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-24(柊紋)
青木研究員 さん 2006/08/31 (木) 23:23
第23/33番目紋様である。

この紋様には全部で40の紋様がある。

この紋様に関わる青木氏の家紋は次ぎの2つである。

第1番目は抱き柊紋である。
第2番目は蔓柊紋である。

この紋様は江戸時代に用いられたものでこの紋様を最初に用いたのは
次ぎの氏である。
下野国の黒羽藩主の大関氏、と近江国の仁正寺藩主の市橋氏である。
他に山本氏、早川氏、林氏がこの家紋を使用している。

特にこの青木氏は大関氏と関係があるもので、この大関氏は武蔵の国の武蔵7党の一つの丹治氏の出であるとされる。

この丹治氏には青木氏が存在する。この青木氏は丹治氏流青木氏である。
丹党はその昔武蔵の国の守護職に任じられた丹治比氏の末裔とされる

この丹治氏は又は丹氏とも云う。
この丹治氏の発祥は、平安中期の左大臣の島が真人族(皇位継承権を持つ第5位皇子までの一族の氏階級 八色の姓制度)となつた。この後この子孫の8代目が武蔵守に任じられている。

第29代宣化天皇(6C前半)の十市王の孫の多治彦王の子供であるとされているが他説もある。
この4代目が丹党と称し後に武蔵7党と成る。
しかし、時代性が合わない。

この丹治氏から分流した青木氏であるとするのは、この左大臣島の子孫とされているので、皇族の者が下俗するときは青木氏を名乗る事に成っていることから、その子孫は青木氏を名乗ったとされる。

しかし、この島は後に朝廷より武蔵の国に配流された史実があり、この時にこの地に住みつき子孫を遺したとされる説もある。後に島は京に戻される。

武蔵の守護説と配流による説とがあるが、武蔵守であるから青木氏を名乗る前提に無い。
配流説が真人族であるが為に史実に基づくものであろうが確定は出来ない。

兎も角も、この島氏の子孫であるとするならば青木氏には異論は無い。

皇族青木氏の一流である。嵯峨期に源氏を賜姓して変名した後に第6位皇子の5家5流の皇族賜姓青木氏とは別の嵯峨期の令による青木氏である。

実質この嵯峨期の令による下俗者や還俗者の青木氏の対象者は17人に及ぶが青木氏を名乗り子孫を遺したのは確認出来る範囲としてこの丹治氏の青木氏だけである。

殆ど、比叡山か門跡寺院などにて僧侶となり末裔を残していない。

この武蔵の国と下野の国とその周辺の国には藤原秀郷流青木氏が存在する。
特に丹治氏の青木氏は同じ藤原秀郷の根拠地の入間郡に住んだとされているが、当時の慣習から見てありえず系譜を作成した時の作者の勘違いではないかと見られる。

この丹治氏青木氏は児玉、秩父、比企、に分布する青木氏であるとみられる。
此処が丹党の土地であると納得できる。

しかし、室町期と江戸期にはこの住み分けは少し壊れている。
鎌倉幕府が樹立してから一族は職と土地を失い多くは離散したので、藤原秀郷一族の鎌倉期以後の住み分けであれば入間郡の存在は考えられる。

この意味で系譜に2つの疑問が残る。

この丹治氏系青木氏が江戸期に同土地の藩主の同丹治氏の系列の大関氏との間で血縁を結んだものとされる。
しかし、この青木氏の家紋に付いては何時に「抱き柊紋」の家紋にしたかは不明で確証が取れない。もとより同紋としていたのかも。

本来ならば「丸付き紋の柊紋」も青木氏の分家として長い間に確実に起こるはずであるが、この丹治氏系青木氏には「丸に柊紋」の家紋の持つ青木氏は無い。1000年間に嫡男だけで分家がなかつたことを意味する。ありえない。
これも疑問の一つである。

賜姓青木ついては「笹竜胆」が綜紋として定められているのであるが、この丹治氏系青木氏は幾つかの家紋類がありどれが綜紋か確証も取れない。

蔓柊紋の青木氏は同土地の者であるがこの丹治氏系青木氏の系列の青木氏で有ると見られるが詳細は不明。江戸期の血縁による氏であろう。
確実なデーターは保持していない。

この柊は葉を図案化したもので葉数で分けられる。
この柊は魔よけの意味を持つものとして珍重された。

堅い木の特長から樫のと同じく昔は武具に使用していた。

左住みをクリックすると主要紋が拡大します。
又この家紋は家紋掲示板にも投稿します。
No.278

[sysop削除]
青木研究員 さん 2006/09/04 (月) 19:55
sysop(青木研究員)によって削除されました。(06/09/13 12:27)
No.284

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-25(桐紋)
青木研究員 さん 2006/09/13 (水) 12:26
第24/33番目の紋様である。

この紋様には162もの種類がある。
最も多い家紋類ともいえる。
(しかし最も少ない家紋でも在る筈なのである。)

しかし、此れには特別の事情がある。

家紋200選にはある。

この紋様の青木氏はこの内1つの家紋である。

「五三の桐紋」である。

この家紋を主に使用している氏は次ぎのとおりである。
主だったところでつぎのとおりである。

讃岐京極氏、肥後細川氏、対馬宗氏、陸前伊達氏、長門毛利氏、米沢上杉氏、
出羽織田氏、備中木下氏、土佐山内氏、金沢前氏
挙げれば切りが無い位である。

ただこれを見ると何か共通点が見える。
有名な江戸期の諸国の大大名紋である。

この桐紋のルーツを説明するにはこの桐紋を使用した経緯を先ず述べる必要がある。
それでこの桐紋の持つ意味が判ってくる。

そもそもこの「桐紋」が162も在るのに理由がある。

この紋様は桐の葉と花の紋様に分かれる。

桐に一般的に青桐と白桐がある。
紋様に用いられたのはこの白桐である。

この紋様は中国の諺から来る。中国の聖王の権威を誇張する意味でこの王が現れると瑞鳥(鳳凰)が飛来しその鳥のとまる木(嘉木の桐)とされ目出度い木とされていた。
平安期と鎌倉期にはこの桐の木の意味を重んじて、瑞祥的な意義とも云うべき意味合いを持っていた。

そこで当時の朝廷ではこの紋様を天皇の権威と合致する事を意図して天皇のみが用いる瑞祥として決定した。

その瑞祥は他にもあるがこの「桐紋様」を「竹と鳳凰」と組み合わせて一つの紋様として用いられていた。

しかし鎌倉期にこの桐紋様だけが取り出されて単独で使用するようになった。

現代でも桐箱は祝い事の品箱にするし、竹紋は祝膳などのときにも器や丁度品の紋様に特別に用いる。鳳凰も同じ時に用いるものである。

元来は天皇の着用する式服の袖元に紋様として居られていたものである。

これが鎌倉期には初期には公的な行事の天皇の象徴紋として用いられる様になったのである。それが最終この期から天皇家の家紋となつた。

ところがここで問題が起こった。
天皇はこの象徴紋様を国の功績のあつた人物にこの紋様の使用を次々と連鎖反応的に許したのである。

この紋様の使用を許された人物として有名なところで、豊臣秀吉、足利尊氏らがある。
この二人はこの桐紋を更に特に功績のあつた人物の家臣や御家人にも天皇の象徴紋を与える事をしてしまつたのである。これが162にも増える原因の一つになつた。

足利将軍より三好氏、松永氏、上杉氏、など、織田信長や細川藤考などに与えたのである。
秀吉は上記の家臣に与えた。

このために天皇家の桐紋と菊紋は結果として名誉紋となってしまった。
その内に各大名が今度はかつてにいかにも天皇や将軍や太閤から授かったかの如く振る舞いこの家紋を用い始めた。

江戸期には無法地の状態であわてた江戸幕府は禁令を発した。
しかしこれで止まるものでなかった。それどころではなく幕末には大名、旗本
をはじめとして下級武士までこの桐紋を用いることに成ってしまった。
なんと大名と旗本はこの桐紋を使用したのは1/4―1/5にも成ってしまった。
そこで、維新政府になった時はこの桐紋の使用の禁令をあきらめてしまった。
禁令の諦めの令”この限りにあらず”を発した。

維新には庶民の苗字を持つ事を許した事もあり、これと連動して家紋としても庶民までが使用することなってしまった。
あやかって最も多く使用する結果となり更に手のつけようが無くなり諦めたのである。
寺や神社などに高額の金品を積み上げて青木姓とか桐紋と系譜搾取を造り挙げてもらい偽証明してもらって届け出た。収拾がつかなくて全て黙認である。

この時にも、嵯峨天皇の詔の禁令のあつた1000年以上続いた皇族系に与えた青木氏の使用も、この時を境に無法地となり多くの第3の青木氏が生まれたのである。

維新政府はこれに困り果てて、結局、桐紋は天皇家の方の紋様を副紋扱いにせざるを得なかつた。そしてこのことをまたもや官報で発令した。

これで一斉に庶民が自由にただで使える様になつたのである。

これが桐紋の経緯である。

桐紋には多少遠慮して桐紋を少し細工して変えて使う者もあつた。

桐紋には、葉とつぼみを変化させて、五三の桐を主紋として、五七の桐、五四の桐、九七の桐、七五三の桐、十三七の桐などがある。

桐紋は維新後の紋様であるので、この青木氏に拘る家紋の五三の桐紋は第3の青木氏であること以外は考えにくく日本全国に分布して大変多いのである。

家紋の使用年代から見てもこの青木氏の系譜や出処や宗派などにも矛盾が多いので明確に判別できる。桐紋の青木氏にはルーツとしての根拠が無い事になるのでルーツの検証は困難である。

何れも天皇家の禁令の五三の桐紋と禁令の青木氏の姓ではいかにも天皇家皇族筋としての家柄として見える事による。

しかし、不思議に5家5流の皇族賜姓青木氏と11家11流の源氏の綜紋の「笹竜胆紋」の使用の搾取偏纂は少ない。
原因は11家の源氏の直系子孫が殆ど絶えた事などそのルーツの理由付けが困難であつたことによるものではないか。
5家5流の青木氏が「笹竜胆紋」を引き継いでいる現状である。

(なかには太田氏、武田氏、足利氏、新田氏などが清和源氏の末裔としているが家紋類は異なり同様に支流血縁族が存在するのみである。)

桐紋と同様に禁令中の青木氏も室町末期と江戸初期の混乱期にも戦国期にのし上がった者が家柄獲得の搾取偏纂で青木氏を名乗った者がいるのも事実である。
しかし、青木氏の使用は比較的桐紋と違って守られていた。それは皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏の発祥地などが明確に限定されていたことにより矛盾がでた事による。

この「五三の桐紋」の青木氏が多い事によりここに掲載した。

左隅に五三の桐紋を掲示します。左隅をクリックして下さい。拡大します。
家紋掲示板にも投稿します。
No.295

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-26(鱗紋)
青木研究員 さん 2006/09/29 (金) 22:25
第25/33番目の紋様である。

この紋様は全部で26ある。

この紋様のうち青木氏に拘る紋様は次の1つの紋様である
「丸に三つ鱗紋」である。

この紋様は家紋200選にえらばれている。

この家紋は鎌倉時代の執権北条氏の家紋である。

この北条氏は前北条氏と後北条氏とがある。

この北条氏の末裔の分流は平野氏、江間氏、岡野氏である。

この北条氏は鎌倉幕府の執権として1333年まで維持したが、この北条氏は平家(たいらぞく)の清盛に追われ伊豆に流罪となつた清和源氏の源頼朝の引き受け先となつた氏である。

この北条氏は「坂東八平氏」として関東千葉地方からこの伊豆付近までを勢力範囲とする8族の平族(ひらぞく)である。

この「坂東八平氏」のルーツは奈良時代から天皇家の第7世以降の皇族から下俗した氏で、天皇が代替わりするたびにその天皇から数えて7世以降になつた者が坂東の国々に移動させられた者で土地に根付き氏を発生させた元皇族の者であつた。
これ等のものは勢力を拡大して8つの族を形成した。この8つの族を「ひら族」と言う。つまり「ひら」に下がったことを意味する総称である。

ひら族の坂東八平氏に付いては研究室の「京平氏と坂東八平氏」のレポート参照

参考として、付帯すると
では平清盛らの「たいら族」の由来とは次のとおりである。
大化の改新の時代に中国北東部と朝鮮を勢力範囲として国を樹立していた中国の後漢国がありこの国が滅びた。

後漢は、漢国が滅びたがこの中で光武帝という将軍がいた。この将軍は滅びた漢の民を集めて東部地域に引きこもり国を作りその勢いで三韓(馬韓、弁韓、辰韓)攻め落として後漢という国を樹立、この国は640年頃にまで21代続いた。「光武帝」より末帝の「献帝」までである。

献帝には阿智使王の子と孫の阿多倍王がいた。
この子孫を守る為に阿智使王と阿多倍王に後漢の国の17県の民(200万人)を引き連れさせて、北九州に上陸してきた。

この一団には武力集団から始まり技能、官僚、など全ての国を構成するに必要とする高く進んだ集団から構成されていた。

この集団の首長の阿智使王と阿多倍王は戦いを避けて帰化を朝廷に申し出た。
この集団は瞬く間に九州全土を無戦で制圧し引き続き中国地方をも制圧した。

大和国66国のうち32国を制圧した勢力をもち朝廷にその圧力を加えて認めさせます。

しかし、殆どは無戦で進んでその配下に入る地方の豪族が殆どであった。
その理由はこの集団の能力にあった。

軍事、政治、経済での高く進んだ知識と技能を土地の者に普及させて生活力を高めさせたのである。
現代の第1次産業の殆どはこの集団が持ち込んだものである。

この集団の首長の阿多倍王らに付いては日本書紀にも度々出てくる。
(大隈の首長の阿多倍)

この阿多倍王は敏達天皇の曾孫の子の娘を娶り3人の子供を生む。

阿多倍は准大臣にもなり、子供の長男は朝廷の軍事の長として坂上氏の賜姓を受けます。次男は朝廷の財務関係の長として大蔵氏を、三男は天皇家の執事としての内蔵を担い内蔵氏の賜姓を受ける。

この当時の政治体制は「3蔵」と呼び2つまでをその高い進んだ官僚知識で担った。

朝廷はこの阿多倍王に伊勢国を1/3にして伊賀北部の半国を与え「不入不倫の件」を与え半国司とさせる。

この阿多倍より3代目の貞盛が武蔵国の押領使(軍事と警察)として任務についていた。
この時、坂東平氏の5年間の「平の将門の乱」が起こり藤原の秀郷(下野の押領使)とともにこれを制圧します。誰もこの戦いにすすんで戦わず苦戦の末に鎮圧。
平貞盛と藤原秀郷らは朝廷に2つの条件を認めさせた上で戦った。

条件とは1つは貴族にすること。2つは武蔵と下野国を領国とすることであつた。
貞盛は朝廷勤めになりその子供は国司になった。

この勲功にて貞盛は出世して5代後には平清盛になり太政大臣まで上り詰めた。

これが桓武天皇の賜姓族の「たいら族」(ひら族扱いの意)である。
本来であれば第6位皇子を賜姓するのが慣例であるにも拘らず、桓武天皇の母(阿多倍王の孫娘)である実家先を引き上げて坂東の7世族「ひら族」に習って渡来人を「たいら族」として平氏を賜姓した。

この集団の官僚の政治知識でやつと桓武天皇期に日本の律令国家が完成した。
賜姓したのはこの勲功もあつた。

この「たいら族」の賜姓に対し、嵯峨天皇期からの第6位皇子を賜姓源氏(桓武期の賜姓平家族に対して次の子供の嵯峨天皇)に変名して戻した。
(この時、青木氏は皇族関係者が下俗するときに名乗る氏として詔を発す。)

この嵯峨天皇から九代目の清和天皇の第6位皇子の経基王が清和源氏の賜姓を受けます。
この3代目の宗家頼光より4代目の源三位の頼政がこの伊豆国の守護となった。この時にここを護衛した賜姓伊勢青木氏の子孫の一部がこの地に定住した。

また、頼光の弟の頼信が甲斐の国の守護を兄から譲られて守護となり、勢力を拡大するために坂東平氏を圧迫して、その4代目の子孫は此処伊豆東部に坂東制圧の拠点を起く。(坂東八平氏は関東東よりに圧迫される)
この時にも、甲斐の賜姓青木氏の一部が護衛してここに定住した。

この地より以東の神奈川横浜には藤原秀郷一族の青木氏が定住した。
(1180―1195年代)

後には、神奈川横浜には甲斐の諏訪族青木氏も織田信長の追求を避けて落ち延びてきた。(1560年代)

この付近一帯には4つの青木氏が存在することに成る。

そこで、この「丸に三つ鱗紋」の青木氏のルーツは次の検証する。

鱗紋は三つの鱗を組み合わせたものが主要紋である。
つまり、北条氏の「三つ鱗紋」です。「丸に三つ鱗紋」はこの分家ですから本家では有りませんので血縁するとしては氏家制度から本家筋かとの血縁に成るのがこの時代の慣習である。

よって「三つ鱗紋」の青木氏がないのはこの慣習が乱れた時期であり、1330年代以降の10年余りの出来事と見らる。

つまり、清和源氏滅亡した後の北条氏滅亡直前で足利氏に移る間の時期に血縁を結んだことが考えられる。

上記上2つの賜姓族青木氏のいずれかがこの北条氏の末裔と血縁し2代続きの男系不継承で女系化して、止む無く家紋掟で養子先の家紋継承となったものと見られる。
この青木氏の村を形成している定住地から見ても充分に頷ける。

要するに北条氏の子孫が絶えない方策として滅亡の混乱期に血縁にて分家が賜姓青木氏を選んだと見られる。

北条氏の血筋を引き受けた賜姓青木氏であると見られる。
この家紋は鱗の数で紋様を変化させているが、北条鱗紋の三つ鱗が元である。

左隅にこの青木氏の主要紋を掲示します。クリックしますと拡大します。
家紋掲示板にも掲示します。
No.306

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-27(橘紋)
青木研究員 さん 2006/10/11 (水) 16:45
第26/33番目の紋様である。

この紋様は全部で85の紋様もがある。

家紋200選に選ばれている家紋である。

この橘紋にかかわる青木氏は1つである。

先ずこの橘紋の発祥の由来から述べる。
この橘紋の橘氏は敏達天皇の5世の孫(美努王)の妻の県犬養の三千代が和銅元年(708)に「八色の姓」(皇族の血筋を受けた血縁者の氏を真人族をはじめとして八の階級に分ける制度)により宿禰の姓を賜った。

そして、この時「橘」の氏を名乗った。つまり、「橘の宿禰」族である。

この「八色の姓」とは
真人族(まさと 皇族の第5位までの皇子で皇位継承権を有する身分の族)
朝臣族(あそん 皇族の第6位の皇子で皇位継承権を有しない身分の族 青木氏と源氏 奈良期の臣になりうる氏)
宿禰族(すくね 何らかの縁者や血縁を受けた氏の身分にある族で奈良期の連に相当する)
忌寸族(いみき 渡来系の氏で皇族と血縁を受けた漢氏、東漢氏、直文氏、坂上氏、大蔵氏、内蔵氏、永嶋氏、阿部氏などに与えた姓。国造や軍事や財政の官職を司る官僚の氏 皇族関係の娘を娶つた渡来系氏)
道師族(みちのし 上記以外の皇族関係族とのなんらかの遠縁の血縁を受けた末裔族 実際にこの姓の氏は存在しない。越の道師などの名が古書に見られる。)
臣族(おみ 道師と同じく又遠縁族で地方の大豪族で娘が何らかの形で皇族子孫を遺した氏であるが現実にこの階級以降は不詳で子孫は存在しない。)
連族(むらじ 臣と同じくして、娘の身分にかかわる中豪族の階級)
稲置(いなぎ 連に同じくして、娘の身分にかかわる小豪族の階級)

以上が天武天皇が定めた身分階級である。

橘氏は第7世の皇族関係者である美努王(みぬおう)妻の子供であるので「宿禰」となる。

この子孫が葛城王と佐為王がこの橘姓を受け継ぐ。

第6世まで皇族関係者として扱われ、第7世以降は臣下するか下族する事になる。関東方面に移される。これが平族(ひらぞく)後の坂東八平氏である。
(本来は天智天皇から第4世以降をもって王を名乗ることを禁止した。)

故にこの葛城王は後に諸兄(もろえ)と変名した。左大臣まで登る。
しかし、この橘氏は藤原一門との勢力争いで潰され排斥されて滅び子孫は極めて少ない氏となる。

後に嵯峨天皇期の令により、僅かに遺したこの一族の末裔が青木氏をなのったものである。平安末期のころである。
この橘氏一族も非常に少ない氏の一つである

この氏は別にある武蔵の武蔵7党の一つの丹治氏(左大臣の島王の青木氏)の「皇族青木氏」を含め身分が下がるが皇族関係者の唯一の賜姓族ではない「皇族青木氏」である。

実際には鎌倉末期までに17人の青木氏を名乗れる皇族関係者がいたがこの二つ以外の子孫の末裔は確認出来ない。僧侶などにて終わった事による原因である。

この橘は橘の葉や花を家紋化したものであるが、家紋の由来は垂心天皇の命を受けて「多遅間毛理」(たじまのもり)が中国に赴き持ち帰ったものである。

この「たじまのもり」が「たじまの花」となり「橘」に変化したものと言われている。

橘はみかんの原木である。別名「左近の桜」という。平安京の紫しん殿に植えられていたためになずけられた。

橘氏の橘紋は江戸期に入って徳川氏の支流や御家人らがこの宿禰族の橘氏の家紋を真似て85もの紋様となつたのである。
橘氏の橘紋の使用は橘氏と青木氏のみである。(第3の橘氏を除いて)
桐紋と同じ様な経緯を辿っている。

しかし、平安期には4大勢力として藤原氏、源氏、平家、橘氏であったが、後に平氏と共にこの橘紋は藤原氏に圧迫されて子孫が抹殺されて遺せなかつた氏としてつたわり、縁起が悪いとして後に使われなくなりこの紋の使用は消えていった。

左にこの橘の家紋を掲示します。左隅をクリックして下さい拡大します。
家紋掲示板にも同文を掲示します。
No.312

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-28(釘抜き紋)
青木研究員 さん 2006/10/23 (月) 13:04
第27/33番目の紋様である。

「釘抜き紋様」である。

この紋様には20の家紋種がある。

この紋様は家紋200選に選ばれていない。

この20紋様のうち青木氏に拘る紋様は1つである。

この紋様は「釘抜き紋」である。

この紋様は江戸時代に発祥したものである。

この紋様を使用している氏として次の氏が挙げられる。
松平大給氏であるが、滋賀の宇多源氏佐々木氏の末裔の木村、池田、横田氏の3氏も使用しているとされているが江戸期の搾取偏纂の多い時期であるので佐々木氏が何故に木村氏、池田氏、横田氏に変名したかはその真偽は確かでない。

通常はよほどのこでなければ佐々木氏からの変名はない。
佐々木氏についは近江の佐々木氏と滋賀の佐々木氏がある。
近江の佐々木氏は皇族賜姓青木氏の第6位皇子の伊勢の青木氏と同じく、天智天皇の第7位皇子で特別に賜姓を受けた近江王の皇族賜姓族であり、地名の佐々木を採って佐々木氏と賜姓を受けた氏である。
宇多天皇期には滋賀王として佐々木氏を賜姓した。

この青木氏は皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏との2つの流の青木氏とは異なり、江戸初期の家紋、系譜の混乱期に出た第3の青木氏と見られる。

つまり、農民や一般庶民や下級武士の家紋系譜の確かでない者が戦国時代の世を経て武士となり身を立て家を興した者が御家人や中級武士となり仕官することで家紋と系譜を必要となり作り上げたものである。

この現象は明治初期にも爆発的に起こる。

青木氏や藤原氏などの氏を広く使われた。
特にこの青木氏は皇族賜姓族として高位の氏である事から嵯峨期からの朝廷の禁令にもかかわらず無視して附けられた。
この時、江戸幕府はこの使用を形式的に使用を禁止したが天皇家の象徴紋の桐紋と同様に守られなかつた。

特に、その使用は特長として、伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の地方の5家5流の皇族賜姓青木氏24氏の存在するところと藤原秀郷流青木氏のある24地方の所でも多く起こったものである。

これはその地方から出てきた者が土地の有力家紋を使用して、いかにもその末裔であるかの如く装う事から、神社仏閣に高額な金品を送り搾取偏纂したものである。

松平の支流の大給氏の家紋であるがこの一族と血縁して跡目を採り男系跡目が2代続きで女系となり松平の養子先の家紋と成ったとも考えられるが、この時期の家紋掟の遵守度合いから鑑みてわざわざ「笹竜胆」や「下がり藤紋」から変紋することをしたとは考え難い。

更に、宇多源氏の末裔として滋賀の佐々木系青木氏の末裔とも考えられるが、
その氏の分布状況からして考え難い。

この青木氏はその分布が特定し難いが、あえて記すると江戸期の松平大給氏の分布する中部から関東付近に多い。
故に藤原秀郷流青木氏の氏を搾取した傾向があり、家紋をその大給氏の家紋としたと考えられる。

上記の2つの青木氏の特長としての青木村の存在が必ずあるが、この青木氏の族としての集団で住む青木村はない。また、室町以前の存在は確認出来ない。
室町期の法秩序の乱れた戦国時代を除いて、民の移動は国の生産高の確保を図るために「国抜け」として堅く禁じられていたのであり、関所などを設けて自由に移動定住することは出来なかったのである。故に親族は固まって一箇所に定住する事になるのである。
つまり、「釘抜き紋」の青木村が存在しないのはこのことから上記2つの青木氏でないことの証にもなる。

又、当然にその村の青木氏には親族縁者関係の固定の宗派が出来る。この「釘抜き紋」の青木氏はこの浄土宗か浄土真宗(藤原秀郷流青木氏の一部)以外の
宗派である事からも上記2つの青木氏でないことの証である。
上記2つの青木氏は各地に夫々一族の自らの菩提寺を持っているのである。
この釘抜き紋の青木氏には確認出来ないことも証に成らない一つである。

宗派変えは伝統のある家柄を守る為に余程の事でない限り行わない。

しかし、江戸幕府は特に特定氏の宗派であつた浄土宗を保護するために上級武士に対して入信することを許して奨励した。

上記2つの青木氏の存在する青木村は合わせて集約するとその土地は史実と一致して70近い青木村を形成している。
この「釘抜き紋」の青木氏はこの中に含まれない。
この様にその根拠の検証を確定できるものがみつからない。

この家紋は大工道具の釘抜きから家紋としたものであるが、この紋様から観てもその前身の出生を予想できる。
他のこの20の家紋を使用しているご先祖にはその先祖はこの紋様に纏わる職種に携わる氏が明治以降の内容から多く確認出来る。

この紋様には「九城抜き」として縁起を担いだとするものと、「釘抜き」として千金の意味をつけるものとして明治以降の言い伝えとしてあるが、全て後から託けてつけられた言い分とされている。

「升紋」や「角字紋」や「隅きり角」などと同様の江戸時代の「職業紋」の一つである。
この種の職業家紋は鎌倉期以前の上級武士の家紋を持つ氏にはないが、江戸期初期と明治初期の家紋類に多い事からもその出生は覗える。

この氏の家紋の氏は比較的多いので此処に記した。

この家紋を左に掲載しているがクリックすると拡大します。
No.315

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-29(文字紋)
青木研究員 さん 2006/11/19 (日) 11:38
第28/33番目の紋様である。

この文字紋の紋様は全部で391もあり家紋類の中では最も多い紋様での一つである。

この家紋類は家紋200選には選ばれていない。

この紋様のうち青木氏に関わる紋様はただ一つである。
其れは角字紋様の角青字紋である。

この角字紋様は文字紋様の半分を占めるもので180もの家紋がある。

この180の家紋の内の一つで「青」の字を角字で表現したものである。

そもそもこの文字紋様は最も最初に史書籍から確認出来るのは南北朝の室町中期ごろの書物から覗える。
この時に使用された文字は「一」(いち)で物事のはじめを意味するものとして尚武的に用いられたものと言われている。
ここから「勝」を意味するものとして武具類の紋様として用いられ始めついには家紋となつた。
この意味合いと同様に「三」も書籍に出て来る。

この文字紋様には大別すると12程度のパタ−ンがある。
一文字、三文字(2)、八文字、九文字、十文字、卍、大字、山字、丸字、亞字、角字となる。
十文字紋までのものは古代から家紋とは別に紋様として家具類などに用いられたものてあるが、家紋化したのは室町末期からで江戸初期に掛けて頻繁に広まった。
それ以外の家紋は江戸中期から明治初期にかけてであり新しいものである。

特にこの青木氏に関わる角紋を含む180の角字紋は江戸後期から明治の初期に出てきたもので、初期には家紋と言うよりは屋号紋として用いられ始めたもので明治初期の苗字令から家紋化したものである。
一種の職業紋として分類される。

この職業紋の「角青字」の家紋は「姓」から家紋化したものというよりは職業の中で「青」に関わる職業、例えば木や野菜や染色や大工などの関係する職業から出たものとされている。

30年前ぐらいまではよく大工職のハンテンの背中の紋様で見かけた。
またこの角字は亞文字(ふつ文字)から変化した紋様であろうことは直ぐに判断がつく。

この亞文字は中国の官服の袖などに使われていたが、日本では神社仏閣の欄間などの文様として一般的に使われるなどして用いられた。
ついには明治ごろから一般の家屋の欄間や敷戸などにも用いられた紋様であるが、後に角文字紋としても変化を遂げたものである。

この様に、角字の180の紋様は現代の相撲の四股名の字体と似ている様に庶民の家紋化の流行の流に乗ってでて来た物である事は明らかで、角字紋の角青字の青木氏は明治までの職業紋から苗字令にて「青」字から青木氏を名乗ったものである。

28番目の釘抜き紋の職業紋と同じである。

この青木氏は江戸を中心に関東に確認出来るが、現代ではその住み分けは職業紋であることで村を形勢する氏的かかわりがないことも含めて確定は出来ない。
同紋であっても必ずしも縁者とは言えず氏を形成する家紋類ではない。

一種の伝統を引き継ぐ職業であるので当時はこの角字の青紋はこのような庶民の伝統継承紋として扱われた。つまり、その職業の名誉紋でもあった。
現代と違いその伝統的職業は一種のシンジケート的枠組みのなかにあり伝統紋として扱われたものである。

明治以降には時にはその伝統の苗字を血縁的なもので無くても子弟的継承で名乗る事が多く起こったのである。
よって、そのルーツ確定の検証は出来ないのである。

実は筆者の祖父の職業の弟子が数人この慣習にて基の姓を捨てて青木氏を名乗り現代でもその子孫は多く広がりを見せている。

そして、その子孫はその先祖を筆者の祖父を祖としていて、その出生場所も祖父の居た若い頃の土地を故郷としている。現代にてもその内の一人のその3代目の人と筆者とは面識がある。
又、このサイトの来場記念欄に別のその一人の末裔が記帳している。

このように、この青木氏は「釘抜き紋」と同様に確認出来る第3の青木氏であるが、氏としての意味合いよりその出生の意味合いが特殊であるので此処に記した。

第3の青木氏にも「釘抜き紋」や「角青字紋」やこれからレポートする幾つかの職業紋としての特殊性のある青木氏として確定できるものもある事なのでも此処に記することとする。

左隅をクリックすると拡大します。この家紋は家紋掲示板に投稿します。
No.336

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-30(葵紋)
青木研究員 さん 2006/12/13 (水) 11:23
第29/33番目の紋様である。

この紋様は全体で85の紋様がある。

この紋様の内青木氏に関わる紋様は次の一つである。

立ち葵紋である。

この紋様は家紋200選に選ばれている。

元来、この葵紋は加茂神社系の神紋として用いられていた。
葵は葵科に属する植物でこの紋様は主に花と葉を紋様化したものが多い。
加茂神社は二重葵を神紋としているが元はこの神事に用いたのが始まりとされていて一種の信仰的植物として崇められていた。榊や青木等の神木と同じである。

資料から観ると最初に家紋として使用したのは丹波の国の土豪の西田氏であるとされている。

これを戦国時代に徳川氏の元祖の三河の松平氏が用いたと成っていてその使用の背景を探るとその先祖は三河の加茂神社の神官であつた事から出世の際にこの神紋を家紋としたと成っている。
特にこの立ち葵紋は松平氏の一族の本多氏が最初に用いたとされ、その後に徳川氏の時代になってこの紋様が権勢の象徴と成って一族の家紋の綜紋となつたものである。

後に松平氏や伊奈氏も含む一族縁者でもこの紋を使用する事を遠慮した。

そして、この紋を理由許可なく使用する事を幕府は禁じたので流行はしなかつたが、関係する一門が統一して使用する事になり葉と花と芯の数で変化をつけて見分けがつくようになり85もの紋様となつた。
(参考 皇族賜姓青木氏や皇族賜姓源氏の綜紋の笹竜胆紋は嵯峨天皇期の朝廷より氏とこの家紋の使用を詔で禁じ概ね明治初期まで守られた。)

徳川氏の子女の婚家や養子先や一部親族に特別に使用を許したが一代限りの家紋とされた。

この立ち葵は本多氏の家紋であり、その出何処を調べると加茂神社の寺紋であるが信濃の善光寺の寺紋でもある。
他にはこの立ち葵紋を使用しているのは平井氏、山田氏である。
つまり、この本多氏はこの善光寺系の三河の神官の末裔であるから、此処でつながっているのである。
立ち葵紋にも種類(7)が多いのでどの立ち葵紋かはよく見なければ判断が付き難いほどである。
7/85種類ある。

本多氏は丸付きの本多立ち葵紋である。更にこの分家筋もこの紋様に花紋をつけている。
この本多氏の丸つき紋は結局は信濃の善光寺の支流分家を意味するものである。

この青木氏の立ち葵紋は善光寺の寺紋や平井、山田氏の家紋と同じである。この平井氏や山田氏は江戸期中期ごろの氏でこの氏の出生元はこの信濃の出である事から本多氏と同様にこの寺の親族関係者から出た一族の氏ではないかと見られる。

平井氏や山田氏はこの本多氏と葵の同紋種を使用していることから何らかの血縁関係にあるとみられる。
よってこの立ち葵の家紋を持つ青木氏はこの信濃の善光寺関係の氏との血縁で生まれた青木氏となる。そうなるとこの青木氏は信濃の青木氏である。5家5流の皇族賜姓青木氏の一つの信濃王の末裔のという事になる。

つまり、信濃には青木氏は3つの青木氏が北と中央と南に住み分けて存在する。
北の国境付近の青木氏は皇族賜姓青木氏と足利氏との血縁で出来た足利氏系青木氏であり、中央は皇族賜姓青木氏の本家筋の青木氏が、南の国境付近は藤原秀郷流青木氏が村を形成して定住していた。

一部諏訪地方には甲斐の武田氏系諏訪族青木氏となった皇族賜姓諏訪族青木氏が居るがこの氏は末裔を明確にしているのでこの青木氏ではないことは判る。

上記3つの青木氏のどれかであるが確定し得るものはない。しかし、善光寺寺紋とする事からこの寺に関係の薄い青木氏は藤原秀郷流青木氏で地理的にも離れている。

平井氏や山田氏は藤原秀郷流一門の116氏からは室町期前において見つけることはできない。

だとするとこの二つの氏のどちらかとの血縁関係を結んだ足利系青木氏か皇族賜姓青木氏かのものと成る。

足利系青木氏は3つの国境の所に分布しているし、本家筋は足利家の本家筋から追われて美作の国に移動している。

(此処でこの足利氏は本家と藤原秀郷一門の後押しを受け跡目をいれた分家筋とで本家争いが起こり本家筋が負ける事になったので止む無くこの一族郎党は西国に逃げ延びた履歴がある)

よつてこの事から考えて室町期から江戸期前にしてこの青木氏が山田、平井氏との血縁は確立として少ない。
このことから残るは皇族賜姓青木氏の分家と善光寺関係の主要氏子の山田、平井氏のどちらかと血縁を結び、この青木氏が男系跡目が出来ずに一時2代続きで女系となり、家紋掟から養子先の家紋に変紋を余儀なくされたものと考えられる。

(皇族賜姓青木氏の綜紋は大化期(647)より笹竜胆紋である)

皇族賜姓青木氏5家5流の支流24氏の一つでは無いかと考えられる。この氏の血縁は比較的新しいので先ずは間違いはないとみられるが完全な確定は出来ない。

この信濃では比較的少ない家紋の支流氏で新しいこともあり他の青木氏と異なり村的な存在は確認出来ない。

信濃に於いては皇族賜姓青木氏を中心に足利系青木氏や前記した武田氏系青木氏の皇族賜姓諏訪族青木氏が目立つ。
しかし、この立ち葵紋を変紋した家紋の青木氏が1つしかないのは青木氏は現在に於いても数少ない青木氏の子孫である事になる。

左隅に家紋を掲示します。左隅をクリックすると拡大します。
家紋掲示板にもこの家紋を投稿します。
No.365

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-31(梶の葉紋)
青木研究員 さん 2006/12/30 (土) 20:55
第30/33番目の紋様である。

この紋様は59もの紋様がある。

家紋200選には無い。(神紋系)

家紋の基には沢山のパターンがある。
例えば、神木を基とする笹竜胆紋(青木氏と源氏)等の神木紋、高位の色を基とした藤紋{藤原氏)等の色紋、元の職業を図案化した職業紋、土地がら植物を基とした植物紋、経緯と歴史を基とした歴史紋、寺等で使用した寺紋、古来使用されていた儀式紋、等がある。

この紋様の違いで概ねの時代性とルーツがわかる。

この神紋は神社が土地に対し権威を持つ時代にその末裔が武士に成り子孫を広げてた一族である。

平安時代では皇族賜姓青木氏や藤原氏と藤原秀郷流青木氏は自らの寺と神社を持ち各地に移動した後にもそこに寺と神社を移動させた。
そして、その寺や神社の住職や宮司は自らの一族の者が勤めた。
そして、その一族が氏家制度のもとに家柄を保ち純血を保つ為に一族と縁者関係で血縁を行って来た。

この立ち梶の葉紋の一族もこの氏家制度の中で行われて子孫の純血を保ってきた青木氏である。

この59紋様の内青木氏に拘る家紋は1つである。
立ち梶の葉紋である。

史書によると諏訪明神の神紋とされていた事が覗える。
つまり、梶は古代布や紙の原料として使用され、梶の皮は白和幣(しらにぎて)を作ったり神様の幣に使用したりしてしているところから平安末期ごろから神紋と成ったのではと考えられる。

従って、諏訪地方の信濃と諏訪族が武田氏の系列に入った頃から甲斐地方の武士にも普及したものとされる。

この家紋は主に各地の諏訪系一門が使用したが高嶋の諏訪氏、信濃の諏訪氏、甲斐の諏訪氏、平戸の諏訪族(松浦氏)や安部の安部氏の支流諏訪氏のこれ等の血縁を持つ支流一族が使用した。この支流で例えば、保科氏、下条氏、丹比氏などがある。

この紋様は葉と幹と根から出来ている。葉は5葉が基本である。

この立ち梶の葉は5葉であるがこの5葉タイプは12家紋ある。

諏訪氏の三つ葉根有の梶紋とこの立ち梶の葉紋が主流である。

この諏訪族には諏訪族青木氏の抱き角紋があるが、この諏訪族青木氏は信濃王を元祖とする皇族賜姓青木氏と信濃の「抱き角紋」の諏訪氏との血縁で発祥した青木氏である。
関東地方の横浜、神奈川、栃木、群馬、埼玉、茨城などの各地にこの末裔が子孫を拡大している。

「立ち梶の葉紋」の諏訪族青木氏は武田系列には入った後に甲斐に定住した甲斐の諏訪族と甲斐王を元祖とする皇族賜姓青木氏との血縁で発祥した諏訪族青木氏である。
甲斐地方に子孫を維持している。

研究室にもこの抱き角紋の諏訪族青木氏は数人投稿されているが、この立ち梶の葉一門は武田氏盛隆時の甲斐での諏訪族であるので比較的に末裔は少ない。

この何らかの男系女系を問わず諏訪族の血縁を受けた梶の葉の一族では現代では30程度の家紋が確認出来る。

左隅をクリックすると拡大します。家紋掲示板にも掲示します。
No.376

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-32(角紋)
青木研究員 さん 2007/01/11 (木) 20:18
第31/33番目の紋様である。

角紋である。

この角紋様は全部で47紋様がある。この中で青木に関わる家紋は一つである。

隅切り角紋である。

角紋はそもそも幾何紋様を図案化したものである。

主に正方形を色々と工夫して紋様化したもので、角持ち、中抜き、四隅切り、反り角、中抜き、がある。
他に六角形、8角形、がある。
4辺組合わせ、2長方形組合わせ、正方形と円形組み合わせなどがあり、多数である。

この紋様は衣服や建物や家具に用いられたものが家紋化したものである。
明治以降の建物にはこの紋様が多く用いられており特に商家や職人の家などには白と黒の漆喰でこの紋様が描かれている。
玄関の入り口の板塀の上の壁とか「うだつ」等にもこの紋様が用いられている。

つまり、この紋様の使用の習慣はその職業の関係するところに用いられている。
この漆喰で形採る紋様を使用しているのはかなりの財産家の家などに見つけられるもので一般には余り見かけない。
昭和では単純な紋様としての使用であったが明治初期前後付近からはその職業の集団のステイタスとを表すもので身分や位の象徴として用いられていた。
現代でも、田舎の豪邸の家の壁にはこの紋様の漆喰壁が見られる。

そもそも、漆喰は現代でも日本式建物でも佐官職がするが大変高価になりなかなかこの漆喰壁は見つけることは難しい。日本の気候に合ったこの漆喰の壁は昔はお城の壁などに用いられていて其れも財力のある大名の城であり、多くは城の側面は「焼き杉板」であつた。それだけに昔は更に高価でそこにこの紋様を描くだけでもそのステイタスはわかるものであった。


この紋様と他の家紋を組あわせて紋様化したものでその下地になった紋様である。

必ずしも、「合わせ紋」であるので角紋と血縁化したという事ではない。おもに上記した様に下地紋として用いられた。

つまり、氏の発祥を意味する家紋には色々と意味を持たした紋様があるが、この紋様は単純な「文様タイプ」である。

この紋様は江戸中期から明治初期に掛けて家紋化したものである。
元より、室町期から出てきたこの紋様を利用した家紋があるがこの家紋から抜け出して一つの家紋化したもので、当然、明治初期の家紋ブームで生まれたものである傾向が強い。

特に、この家紋はその図案化した元から見て「職業紋」とした傾向が強く、その元は家紋としてではなく、そま職業のグループの集団のステイタスとして使われ、はっぴばんてん類に染めこんだものである。

この「はっぴ」や「ばんてん」等はその紋様を使えるにはその職業の匠などになれたときに使用を許されたものである。

これが、一つの伝統となりその者が遂には家紋化したものである。
そのグループを示すものとして正方形の形を変えて図案化したものをグループ化したものである。

家紋はその紋様に意味を持ち持たしているが、この紋様47には意味はない。
正方形パターンは26/47もある。

この殆どの角紋にある文様の中に色々な紋様を入れて家紋化して「角に何々紋」としているが、このステイタスの職業紋は庶民がこの中の合わせ紋を外して外側だけを用いてステイタス紋として使用したものである。

この隅切り角紋のタイプの青木氏は第3青木氏である。
そのルーツは確認出来ない。
その理由としてその職業の親方か或いは長者や責任者などがこの紋様の家紋を維持していたが、その職業を他人の弟子の優れた者に譲り又譲るという形式を維持してきているので、そのルーツは確定できないのである。

一代限りという事もあるので、特定は困難である。
この青木氏は家紋と一致すると言う事ではないので、第3青木氏を苗字令で明治初期に青木氏を名乗ったものである。

「青字紋」等と同様に家紋の持つ意味が特異であるので、職業紋の例として記述した。
左に隅切り角紋を掲示します。
左隅をクリックしますと拡大します。
家紋掲示板にも掲載します。
No.527

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-33(笹竜胆紋)
副管理人さん 2007/06/01 (金) 20:23
第33/33番目の文様の「笹竜胆紋」である。

この「竜胆文様」には47の文様がある。
この内、「笹竜胆紋」は、家紋200選に菊紋の次ぎにトップに上げられている文様である。

その中でも、「笹竜胆紋」は天智天皇から発祥し、光仁天皇までの5家5流の皇族賜姓青木氏と、同族の嵯峨天皇期から発祥し、花山天皇までの11家11流の源氏一族の「綜紋」でもある。
(後日の説では源氏16代と成っているが、12代から16代目では源氏としての意味は全く無く、15代と16代は南北朝の時代の者である。後日の徳川氏を始めとして大名に成った者の系譜搾取偏纂の結果であり、実質11代目までである。)

この皇族賜姓青木氏と、皇族賜姓源氏の二つは、次の経緯(概要)で発祥している。

(これ等の以下の記述内容に付いての詳細は、研究室の右メニューから適切なものを選んで参照)


[賜姓青木氏と賜姓源氏の発祥経緯]

先ず、「皇族賜姓青木氏」は、天智天皇より光仁天皇までの男性天皇(間に女性天皇あり)の5人の天皇から出ている。
各天皇の「第6位皇子」を、天皇の「親衛隊」として臣下(侍)させて、天皇より直接「青木氏」の賜姓を授けたものである。

この5人の天皇は、「天智天皇」、「天武天皇」、「聖武天皇」、「文武天皇」、「光仁天皇」(施基皇子の子)である。

「賜姓と臣下の理由と目的」は、概ね次の通りである。
「大化改新」が起こり、「蘇我氏との反省」と「財政的改革」から、「天智天皇」は、手始めに天皇の「皇位継承制度の変更」を実施し、それまでの「第4世皇位第6世臣下」の「世」方式から、「第4位皇位継承第6位臣下方式」の「位」方式に厳しく変更した。
そして、天皇家の「財政的軽減」を図った。
この時、更に、66国に配置する「王位」に付いても、それまでの第6世(第7世は臣下 坂東に配置)までとしていたところを、第4世までとして厳しくして天皇家の負担軽減も図った。
これが第1の目的であった。

その理由として、天智、天武の両天皇の皇子は、総勢34人と、その他の皇子や上位王位を入れると、約50人以上にもなっていた。
これ等に掛かる費用は、天皇家の財政的な大負担の状況であって、これが天皇家を弱くしていた原因であつた事と、施政に対する財源の捻出がままならず、「大化改新」の改革のネックと成っていた。
つまり、天皇家の「内蔵」の財政が、朝廷の「大蔵」の財政を圧迫していたのである

又、更には、天皇を護る自らの護衛隊が無く無防備であった事が、蘇我氏の助長を招き、渡来人の軍事集団の漢氏(又は東漢氏)を支配されていた事などで天皇家が圧迫を受け、思いのままにされていた事。この反省により皇子を臣下させる方策(天皇の親衛隊)に出た。
これが第2の目的であった。

当時、後漢の民である帰化人が持ち込んだ技能集団(即ち、第一次産業の「部制度」)による経済的収入源は、朝廷の財源(大蔵)を大きく占めていた。これが蘇我氏の管理下に置かれていて、経済の実権(政治、軍事含む)を完全に握られていた事。これを「公地公民の制」を敷く事で天皇家に実権を集めて解決し、これを上位の王位等の守護王に監視させた。
これが第3の目的であった。


[初代青木氏の発祥]に付いて
それまで「伊勢王」であった「孝徳天皇」の皇子(2人の兄弟皇子は同日病死)から変えて、「第6位皇子」として、「中大兄皇子(天智天皇)」の皇子の「施基皇子」を臣下させて、伊勢国の王位を与えて護らせた。
そして、この王位には賜姓として青木氏を与え、そのステイタスとして「鞍作部止利」作(日本最初の仏師)の「大日如来坐像」の仏像を与えた。
(現在も青木氏宗家が保有 仏像は家紋掲示板に転写)

(参考 その際、特別に第7位皇子(川島皇子)にも、近江の佐々木村の地名を採り賜姓し、近江の「佐々木氏」を与えた。 後に宇多天皇の滋賀の佐々木氏も発祥)

「天智天皇」は、ここに天皇家の守護神として「伊勢神宮」を置き定めて、祭祀を行ってここを伊勢国の天領地とした。
(その後、天武天皇が正式に守護神と定めてた)
そして、「賜姓青木氏」を伊勢神宮(守護神)を護る伊勢の国の「守護王」としたのである。これが(藤原秀郷流青木氏を含む全ての青木氏)最初の伊勢の青木氏である。

(参考 藤原鎌足から北家8代目の秀郷は、「平の将門の乱」で勲功を挙げて、貴族の身分と下野武蔵の国を与えられたが、貴族となった事により、自ら武力を使えない定めから、天皇家の青木氏に習って第3子の「千国」を侍として藤原一族の専門の護衛役の任を与えた。
賜姓青木氏も母方に藤原氏の血筋を保持する家柄である事から、この時(900年頃)に、朝廷に対して禁令のある青木氏を使用する事を申請して同族と見なされて許可された。これが藤原秀郷流青木氏である。)


「守護王の配置の経緯と理由」は概ね次の通りである。
当時、隋が滅亡し、唐(618)が建国して中国全土を制圧したが、この時、後漢の「光武帝」より21代の末帝の「献帝」の孫の「阿智使王」と曾孫の「阿多倍王」(「石秋王」の子供と孫)等は、後漢の17の県民(200万)を引き連れて北九州に上陸した。
この阿多倍らは、瞬く間に九州全土を制圧し、殆ど無戦の状態で支配下に治め、その後、争いを避けて朝廷に対して帰化を申請した。
この後漢の民は、あらゆる面に於いて高度で進んだ技能集団で編成され居た。このために土地の者は、その進んだ技能を吸収して生活程度を向上させた事から各地で進んで支配下に入ったのである。そして、遂には、中国地方から関西の手前まで支配下になった。

当時の国は66国であり、この内の32国を支配下に治めたのである。このため、朝廷は後漢の民(渡来人)の帰化を認めて、更に、続々と入国してくる帰化難民を中部地方にも配置させたのである。

天智、天武天皇より後に、都として定めた近江国を除き、美濃と信濃と甲斐国は、未だ未開の土地であったが、この結果、進んだ技能により未開の地は、主に大きい外来馬の飼育等の目的で開墾が進み、大和国の主要国と成りつつあった。

これ等の理由により、聖武天皇以降の天皇は、上記の賜姓青木氏による守護王を配置して、北部の未征圧の国の民族から彼等を護ったのである。

又、この5つ国は、更に、「国防、交通、穀倉」の地帯の要衝地でもあり、5人の天皇は「第6位皇子」に賜姓して青木氏を与えて、これを護る「守護王」としても配置したのが「5家5流の青木氏」の経緯である。
(後に賜姓源氏もこの5つの主要地の国司となる。)

この初代伊勢の国に続き、近江国、美濃国、信濃国、甲斐国に国府を置き、上位(八色の姓制 朝臣)の「守護王」として配置し、その5つ国に国司を派遣したのである。
これ等の国の賜姓青木氏は、後に5家5流は24氏と末裔を広げた。


「笹竜胆紋を持つ2つの賜姓族(青木氏と源氏)」の経緯は次の通りである。
この「光仁天皇」の次に一人空けた「桓武天皇」は、律令国家の完成を目指して国体を作り上げた天皇であるが、この時、政治に対する影響力を持っていた賜姓青木氏との軋轢が起こり、5国の国司などを変更し派遣して、この青木氏に圧力を掛けて勢力を弱めさせた。
この結果、伊勢の青木氏をはじめとする賜姓青木氏は衰退した。
(伊勢国は、国司を2年間藤原秀郷の祖父の藤原藤成に変更し派遣して、守護王の青木氏に圧力を掛けた)

(この後、伊勢青木氏を始めとして、その守護王の力と実務の実績を利用して、土地の産物などをさばく豪商となり、「2足の草鞋策」を採った。
伊勢の青木氏は、伊勢北部伊賀地方付近から産出する和紙を扱い、和紙を中心とする問屋を営み、明治35年まで1000年も続く伊勢の豪商「紙問屋の紙屋長兵衛」として栄えた。)

「第6位皇子」の「賜姓青木氏」を中止して、これに変えて、「桓武天皇」は、自分の母(後漢の渡来人で、名は「高野新笠」 阿多倍の曾孫 伊勢国を分轄しての伊賀地方の半国国司 800年頃)の親族一族を引き立てて、「たいら族」(京平氏)として日本の氏を与えて賜姓したのである。

(半国司とは、天領地などと成っている一国を、「守護王」を一人として、分轄して「国司」を置いて複数で管理させた方式を言う。 伊勢、薩摩などがある。この二つは何れもが、後漢の帰化人の阿多倍に与えた国である。伊勢は伊勢北部伊賀地方を分割し”伊勢衆”と呼び、薩摩は大隈を分割し”大隈の首魁”として呼んだのである。
別に後には、伊勢は永嶋地方を分轄して3分轄として村上天皇の流を組む北畠氏を半国司として任した。)


「伊勢の北部伊賀地方の住民の阿多倍一族と青木氏の関わり」に付いての経緯は次の通りである。
後漢の首魁の「阿多倍」(薩摩半国の大隈国の首魁)は、これらの勲功により、都近くの伊勢の国にも半国を与え、更に、この後、「敏達天皇」の曾孫の「芽淳王」の娘を娶り3人の男子をもうけて、准大臣に任じられた。
三人の息子の長男は、坂上氏の賜姓を受け朝廷の軍事面に任じせれ、坂上田村麻呂として征夷代将軍として北部民族を征圧する。(青木氏は天皇家の親衛隊として勤める)
次男は、朝廷の3蔵の内の大蔵を担当し、大蔵氏(後に永嶋氏を名乗る)の賜姓を受ける。
三男は、内蔵を担当し、内蔵氏の賜姓を受ける。
(斎蔵は藤原氏)
その後、政治部門でも律令制度の完成に貢献し、軍事、経済、政治の3権を実務に握る結果となり、それまで青木氏を中心とする皇親政治は彼等に取って代わられる事となった。
この帰化人の阿多倍等の台頭が、先ず最初に訪れた5家5流の青木氏の衰退の苦難でもあった。

上記の後漢の阿多倍の子孫の「国香、貞盛」の親子より始まった勢力拡大は、勲功を重ねて、5代後(惟盛、正盛、忠盛、清盛)には「平の清盛」の「太政大臣」までに上り詰める結果となるのである。
しかし、「承久平治の乱」を経て、「源頼政」(孫の京綱による伊勢青木氏の跡目を受けた)の「以仁王の乱」(1180)をきっかけに「源平合戦」が起こり、「坂東八平氏」等の後押しで「平清盛一族」を倒して、取り戻し、再び、「皇族賜姓青木氏」と同族の「賜姓源氏」の時代となり鎌倉幕府(1192)が樹立したのである。

この時、源頼朝は北条氏らの反対を押し切って「平氏没官僚策」や2度の「本領安堵策」を実施して、賜姓青木氏や賜姓源氏らの一族の復興を計ったことで、これらの皇族賜姓族は、再び、勢力を盛り返した。(これが原因で頼朝暗殺計画は進む)

以上がこの間400年に起こった青木氏との概ねの経緯である。
(京平氏のたいら族は、坂東に配置された皇族第7世族の「ひら族」(坂東八平氏)とは異なる)

話は戻して。
この後、この「桓武天皇」の施政に対する賛成派の次の「平城天皇」(桓武天皇の長男)が、病気で短期間で譲位し、次に天皇となった「桓武天皇」の子供(弟)の「嵯峨天皇」は、これを嫌って「賜姓青木氏」より「賜姓源氏」として変名して皇族賜姓に戻したのである。


「皇族賜姓の経緯と綜紋」に付いて
この時、第4位皇子の皇位継承方式では、対象者がこの時代では不足し、天皇の皇位を保てなくなる事態の問題が発生し、嵯峨天皇期に詔を発して、「第4世皇位第6世臣下方式」に改め、第4世までの間の皇子の内、臣下の賜姓は、第6位皇子としたのである。これが源氏一族である。
これが11代の天皇に続いた11家11流(嵯峨天皇から花山天皇)の源氏一族である。

そして、「青木氏」は、第4世までの皇族の者が、臣下又は下族したときに名乗る氏名とした。
11代の天皇の中で17人の対象者が居たが、青木氏として氏名を遺したのは3氏に留まった。
3氏とは、島左大臣(真人族)の青木氏と、丹治党の青木氏(朝臣族)と、橘諸兄(宿禰族)の青木氏である。

天智天皇の伊勢青木氏から賜姓源氏まで合わせて16代の天皇から出て16家16流となる。

これ等は全て同族で、その綜紋は「笹竜胆」紋である。

5家5流の皇族賜姓青木氏は、後に、清和源氏との同族の血縁を結び、より一体化した。(1170-1185)
(当時の慣習で同等身分の血縁が主流であり、純血を保つ為に同族血族結婚が主流)

その中でも、初代の伊勢青木氏は、清和源氏の「源満仲」の嫡子の宗家「源頼光」より4代目の「源三位頼政」(以仁王の乱の首謀者)の孫の「源京綱(仲綱の三男)」が、宗家「伊勢青木氏」の跡目に入る。
以後(1150年頃)、伊勢青木氏を含む賜姓青木氏は同族の源氏一族と一体化する。


「笹竜胆紋の家紋」の経緯に付いて
文様の竜胆紋の内、「笹竜胆」の文様は12文様がある。
本来、賜姓青木、賜姓源氏の笹竜胆紋は、副紋、陰影紋、丸付き紋等は皇族系として使用していない。

室町期以降の乱世からこれ等の文様が用いられて12文様までに成った。
特に、家紋200選にも入る「丸に笹竜胆紋」は、源氏一族と名乗る者等がこの文様を多く使い増えた。

笹竜胆紋を使える一門としては、5家5流の賜姓青木氏と11家11流の賜姓源氏が使用できるものと成る。
特に、賜姓源氏は清和源氏の一族の頼信系一門が栄えて子孫を多く遺したが、後に、「京平氏」に圧迫されて子孫は衰退し殆ど抹殺された。
(11家11流の内、子孫を遺し得る者としては全17人となるが。結果的に清和、宇多、村上天皇の3天皇が子孫を遺した。その他は門跡院や比叡山僧侶となって子孫を遺す事は出来なかった。)

従って、史実から残存するこの直系5氏とは、賜姓青木氏、近江佐々木氏(天智天武)、滋賀佐々木氏(宇多)、伊豆大島氏(頼信系為朝)、伊勢北畠氏(村上)、摂津太田氏(頼光系頼政?)である。
ただし、北畠氏は、伊勢を始めとして、4代で勢力を高めての織田信長に潰された一族であるが、青森、千葉の等の4箇所にあるが、丸付き紋の笹竜胆紋と表示する書籍が多い。

これ以上の11の文様の笹竜胆紋は、源氏の何らかの支流、分派、分流の血筋を受けてることを理由に源氏一族と名乗っている氏が多いが、徳川氏の様に室町以後の「系譜搾取偏纂行為」(3期)による可能性が高く検証は困難である。
その為に、竜胆の花と笹の間の軸を微妙に変化させて一見して見分けがつかない様な笹竜胆紋が多いのである。

「笹竜胆紋の由来」に付いて
そもそも、この家紋は、竜胆の花と葉で意匠したもので、葉が笹に似ている所から、笹竜胆と呼ばれている。
竜胆は、秋に咲く花で花色が藍の高位の色とされ、賜姓青木氏などの皇族氏の花とされた所から用いられたとされている。
この家紋の文様の記録は、村上天皇期ごろからの書物に出て来るようになり、その使用は、賜姓青木氏以外に、嵯峨天皇期の令により皇族系の者が、臣下する時の氏として青木氏を名乗る通例から、皇族方の公家や皇族賜姓青木氏などが用いる象徴文様とするものと成って行った。
このためにこの象徴文様が、家紋として「大要抄」等の史書に出る事となった。その後、象徴文様は、この文様を使っている賜姓青木氏や賜姓源氏が、統一の家紋としての「綜紋」として扱われるように成った。
(青木氏の元となる大化期からうまれた伊勢青木氏の総宗本家は、代々この家紋を維持して来た。)

これは、次の「青木氏」の氏名の由来にも関わっているのである。


「青木氏の氏名由来」に付いて
この青木という氏名は、”青木”と言う常緑樹から来ている。
樹の軸の色は濃青で、葉も同じく濃青であり、秋にも変色する事は無い。又、経年で著しく枝と葉は大きくなり茂り成長する。
そして、この樹には真紅の10ミリ程度の実を多く着実する。そして、この真紅の実は長期間に着実する。
この樹の特性から、榊などと同じく当時は「神木」として扱われていた。

その理由は、樹の常緑と成長は、永遠を意味し、軸と葉の濃青は、健康の体を意味し、真紅の実は命を意味し、その真紅は血を意味するとされ、このことから全ての「永遠の命」の樹木として「神木」として崇められていた。

天智天皇は、この樹の意味を採り、「第6位皇子」が臣下する際に氏名を青木氏として賜姓したのである。
そして、この”青木”樹の「神木」から民を正義の下に導く高位の者である事を示したのである。

次の嵯峨天皇は、賜姓青木氏を源氏として変名した事も、この意味合いを持たす事にあつた。
つまり、源、即ち、全ての「みなもと」を示し、上記の「神の木」は、「全ての物の源」を意味する事から、同じ意味を持たす事で、変名の賜姓を源としたのである。

今まで(八色の姓の制)第6位皇子を除く宿禰族までの皇位継承から外れた皇族の者が、全て門跡院や比叡山にて僧身したが、下族し臣下する際に使用する氏名が無かった事から、この時、「青木氏」は、これ等の者が、使用する氏名とする事を詔を発して統制した。そして、他の者が、使用する事を禁じたのである。
このことは、原則的に明治3年の苗字令まで原則維持されていたのである。
(ただし、室町末期と江戸初期の混乱期では、無視され、ルーツと家紋の持たない第3の青木氏が多く生まれた。)


以上、2つの青木氏に関わる家紋として、史実から33文様がこの氏の家紋となる。
本来は、総宗本家が維持する次の2つが綜紋と成る。
皇族賜姓青木氏は、「笹竜胆紋」を綜紋とする。
藤原秀郷流青木氏は、綜紋を「下がり藤紋」とする。

これが、次の通りに末裔を広げた。
「皇族賜姓青木氏」は5家5流24氏に血縁族を広げた。
「藤原秀郷流青木氏」は主要9氏116氏に血縁族を広げた。

この二つの青木氏の氏の家紋は、33文様になるが、この内で、「桐紋」(1)と、「職業紋」(3)としての家紋を持つ第3の青木氏の4家紋も特別に意味があるとして記載して含んでいる。

家紋掲示板にも掲載します。

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No.1209

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山内博臣さん 2008/02/26 (火) 01:06
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No.

さん 2070/01/01 (木) 09:00
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さん 2070/01/01 (木) 09:00
No.1341

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Coder5665さん 2008/09/08 (月) 02:07
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No.1348

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Kelvin6656さん 2008/11/06 (木) 11:43
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