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No.287

山形の抱き茗荷紋の青木さん
青木研究員 さん 2006/09/17 (日) 20:01
雑談掲示板から代理投稿

青木
2006/09/17 15:33
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  先祖代々の墓が山形県尾花沢にあります。抱き茗荷が家紋ですが関西圏の家紋なのに山形に墓があります。昔は青木官兵衛という屋号で受け継ながれてきて尾花沢では地主だったそうですが、私の先祖と山形のつながりが知りたくご教示願います。

山形の青木さん 今日は。

お家のご先祖は確かに滋賀の二宮氏の末裔で伊勢の青木氏か滋賀近江の青木氏との血縁で発祥した青木氏です。

この滋賀の二宮氏の末裔が江戸期に出世して伊勢志摩の領主になり、この土地の鳥羽氏もこの二宮氏の末裔です。
従って、この二氏のいずれかと伊勢の賜姓青木氏の方との血縁で発祥したことが高いものと考えられます。

しかし、滋賀にも賜姓近江青木氏の一部がある時期に滋賀に移ったことが記録で確認されていて、後に又近江に戻ったことがわかっています。
この青木氏との血縁と二宮氏の末裔との血縁での発祥とも考えられますが、確定は出来ません。

いずれにしても賜姓青木氏との血縁の青木氏である事は間違いはないと考えられます。

家紋に付いては笹竜胆紋の賜姓青木氏の一族の者が跡目問題で男系継承が困難となり抱き茗荷紋の二宮氏の末裔(二宮、鳥羽、稲垣)から養子を迎えたが又男子が生まれずに、結局、女系となり家紋掟にて「笹竜胆紋」から養子元の「抱き茗荷紋」に変紋を余儀なくされたものと成ります。


(詳細は研究室のレポート参照)
青木氏の主な流れは皇族賜姓青木と藤原秀郷流青木氏の2つの青木氏があります。
皇族賜姓青木氏は5家5流の24氏と藤原秀郷流青木氏は直系1氏と直流4氏と支流4氏の116氏であります。

その根拠は伊勢と近江には藤原秀郷流青木氏が守護として赴任した事実は2度しかなくこの期間は2年程度である事が判っています。
この内の一つは藤原秀郷の2代前の藤成という者が伊勢に赴任しています。
もう一人は基経と云う者が平安末期に赴任しています。

何れも期間が短く二宮氏の抱き茗荷紋が出来るかなり前(400)のことです。

青木氏を含む殆どの抱き茗荷紋の一族は滋賀と伊勢地方に分布しています。

そこで、この抱き茗荷紋の青木氏が何故に東北地方にあるのかと言う問題ですが、この移動に関する歴史上の事実を探して見ますと次ぎのような事が出てきます。

室町期の伊勢志摩地方の豪族は次ぎのように変化を遂げています。

先ず天智天皇から第6位皇子の施基皇子が臣下して賜姓を受けて伊勢王となりその子孫が賜姓の氏の青木氏を発祥させました。此れが伊勢の青木氏で日本の最初の青木氏です。
この状態は朝廷よりの伊勢神宮のある土地の保全を目的として「不入不倫の件」を与えられ伊勢地方とそれを守る青木氏に対して与えられ、この状態は豊臣時代前まで守られました。(伊勢国は天領地)

この間の室町期には、賜姓青木氏による伊勢守の守護の代理を行う役人を3つに分離して、そこを守る国司を三つに分けました。其れを「半国司」と云います。

伊勢中部はもとより賜姓青木氏ですが次ぎの二つの半国司を置きました。

一つ目は伊勢北部の伊賀地方を伊賀守として伊賀氏の半国司を置きました。
二つ目は伊勢東部の鳥羽永嶋地方にも半国司を置きました。この時の「半国司」が北畠氏です。

この前に抱き茗荷の二宮氏の末裔が伊勢に移動しています。
この時に滋賀の稲垣氏とその分流の鳥羽氏が「抱き茗荷紋」の氏として伊勢に定住しています。

そして、この二つの氏は勢力を拡大して更に拡大するために土地の賜姓青木氏との間で血縁を持ったものと推測しています。
其れが抱き茗荷紋の青木氏と見ています。

この稲垣氏は北畠氏の半国司に仕官したものと見られます。
この稲垣氏は江戸期にはその前まで九鬼氏が納めていた志摩地方を攻め落として志摩の領主に伸し上がっています。(江戸期)

この半国司の北畠氏は秀吉に攻められた有名な戦いの「伊勢永嶋攻め」で滅亡します。

この時に伊勢青木氏と伊勢北部の伊賀氏が北畠氏に合力します。

この伊勢永嶋攻めの前に北陸の北畠家とその一族の和賀氏この一帯を制していました。

この時、この戦いの秀吉側の将は蒲生氏郷でした。秀吉が無理押しをして、ただ一つてこづり大負けした戦いはこの一戦であります。
(最後には落とします。秀吉はこれ以後、大反省して無理押しの戦い絶対にしなくなった有名な北陸の戦いでした。 )

この時の戦いに伊勢の北畠氏が史実として応援に向かっています。

多分、この時に抱き茗荷の青木氏と鳥羽氏をも含む稲垣氏の一族はこの伊勢の北畠氏に同行して当然に北陸の北畠氏の応援に出たものと考えます。

結局、この応援に出た伊勢北畠氏は同じ一族のある下総の北畠氏にやつと逃げ帰ります。主君は此処でなくなります。

その後、上記した秀吉による有名な伊勢永嶋攻めが起こるのです。
直ぐに北畠氏が滅亡すると伊賀攻めのゲリラ戦の「名張の戦い」が起こります。お家の青木氏を含む伊勢の青木氏一族挙げて名張の城からの応援で秀吉は大変てこずります。
そして間を置かず1585年に北陸の北畠氏攻めの大将の蒲生氏郷が伊勢青木氏の根拠地の「伊勢松阪攻め」を行い「不入不倫の権」を無視して皇族賜姓青木氏を倒します。

しかし、この時に皇族賜姓の伊勢の青木氏は特別に保護されて再び松阪に戻りることを許されます。

この時に、この稲垣氏も許されて北畠氏に変わって志摩地方の領主になり江戸時代まで続きます。

大将の蒲生氏郷は大変に学問や政治や経済にも優れていたので徳川時代には秀吉に味方したが徳川家康はこの人物を登用します。そして出世します。
そう云う人物であったために伊勢青木氏と伊勢稲垣氏の一族は助かりました。

このような人物の蒲生氏郷は同じくこの北陸の北畠氏の応援に出た一部を許しその土地の治安に遺しました。伊勢の稲垣氏も許したのです。

多分、不入不倫の権を持つ伊勢青木氏と同じ様に扱われて、その時の一部に抱き茗荷紋の青木氏が入っていたと考えられます。

それは、天智天皇の施基皇子の伊勢王の血筋を持つ皇族賜姓の伊勢の青木氏の血筋を引く一族で合ったからと考えられます。
故に、伊勢の二宮氏末裔の稲垣と鳥羽氏の存在と共に伊勢青木氏説を採っています。
このような偶然は当時の国抜法度と氏家制度の慣習から無いと思います。

滋賀からはこのような歴史的事実がつながりません。

それだけでは無くこの蒲生氏郷も賜姓源氏の清和天皇の第6位皇子の経基王の血筋を引いている事によります。

伊勢の青木氏の宗家と抱き茗荷紋の青木氏もこの(清和天皇の賜姓源氏の宗家の頼光の4代後の頼政の子の仲綱の子(頼政の孫))宗家の源京綱から跡目を受けています。(1180)

参考 源の頼政は「以仁王の乱」の首謀者で平家と戦い負けます。
一族を絶やす事が出来ないので孫の京綱を同族の伊勢青木氏に跡目として入れて子孫を遺す作戦に出たのです。
(平清盛は不入不倫の権を持つ伊勢青木氏と伊勢を犯す事は出来ないので)

参考 源氏とは嵯峨天皇のときに第6位皇子を臣下させて賜姓を受けて源氏と名乗った氏です。
 青木氏はその嵯峨天皇の2代前までの5人の天皇の第6位皇子が賜姓を受けて青木氏と名乗っていました。
(天智、天武、聖武、文武、光仁の5人の天皇  伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の5国の守護  詳細は研究室の賜姓青木氏レポートを参照)
 つまり賜姓青木氏と賜姓源氏は皇族の同族です。ある理由があり変名した氏姓です。
 この嵯峨天皇の時に前の青木氏は皇族の者が下俗するときに名乗る氏姓として使用することを詔を発して他に使用を禁じました。
 それ以後、賜姓源氏は正確には11代{花山天皇)まで続きました。

この様な背景があり蒲生氏郷とは元祖を同じくしている事から伊勢青木氏らを許したのです。
秀吉もこの家柄を利用して「不入不倫の権」の持つ青木氏の扱いを蒲生氏郷に委ねたものと考えられます。

北陸地方に定住した抱き茗荷紋の青木氏も許された後に、江戸期初期には領主が変わり、定住地でその力を基に地主になつたと見られます。
江戸初期には地主は殆どは元はその土地の統治支配していた氏がなりました。

そして、江戸期には治安のために力のある者が庄屋や名主や郷氏や郷士になりました。

多分、この時の抱き茗荷紋の青木氏であり、その元は伊勢の皇族賜姓青木氏の血筋を引く一族がこの地に定住したものと考えます。

歴史的史実からこのような検証が出来ます。

(参考 筆者は宗家の皇族賜姓の伊勢青木氏です 少なくとも元を辿れば1300年代頃からは親族の同族です)

何か、不明な点とか質問が有りましたら研究室から何なりと遠慮なくお尋ねください。

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青木氏氏を お知り合いの青木さんに 紹介してください。