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No.324

教えてください。
青木克彦さん 2006/12/07 (木) 21:30 [ メール ]
初めまして。
我が青木家の先祖について、お教えいただきたく投稿させていただきます。

家紋 井桁に木瓜

菩提寺 武蔵の国 正能村(現在の北埼玉郡騎西町正能)
    真義真言宗伊豆山龍花院(真言宗智山派)
    頼朝の命により創建され、江戸時代には朱印20石を拝領
    将軍が日光へ参る途中、茶を飲みに立ち寄った
    江戸期には末寺28を数えた名刹

冨士講先達の家
     
     寛文年間(1661〜1673)、冨士講初代先達が富士山に初登                     頂する
     1699 初代先達、富士登山33度の大願を成就する

     8代将軍吉宗から感謝状を戴く(寄進したためか?)
     
     1852 初代から6代までの各33度の富士登山大願成就で、正          能村諏訪神社境内に記念碑を建立
          最盛期には、関東一円5000人の参加者が、青木先達          の冨士講にはあったと伝えられる 

今回、青木氏に「富士に霞」の紋があることを初めて知りました。
青木ヶ原樹海や、青木先達の家が冨士講の中心として栄えたことを考えると、青木氏と富士山には深い関係があるのでしょうか。

更に、我が青木氏の江戸期以前のルーツについて、お教えいただければ幸いです。
大正期に歴史を学んだ親族が、「青木紀伊守がルーツだ。」と言ったと聞いています。
また、平家の落人が青木氏の祖先という話も聞いたこともあります。

では、よろしくお願い致します。               青木。



 
No.326

Re: 教えてください。
青木研究員 さん 2006/12/08 (金) 20:04
>初めまして。
>我が青木家の先祖について、お教えいただきたく投稿させていただきます。
>
>家紋 井桁に木瓜
>
>菩提寺 武蔵の国 正能村(現在の北埼玉郡騎西町正能)
>    真義真言宗伊豆山龍花院(真言宗智山派)
>    頼朝の命により創建され、江戸時代には朱印20石を拝領
>    将軍が日光へ参る途中、茶を飲みに立ち寄った
>    江戸期には末寺28を数えた名刹
>
>冨士講先達の家
>     
>     寛文年間(1661〜1673)、冨士講初代先達が富士山に初登                     頂する
>     1699 初代先達、富士登山33度の大願を成就する
>
>     8代将軍吉宗から感謝状を戴く(寄進したためか?)
>     
>     1852 初代から6代までの各33度の富士登山大願成就で、正          能村諏訪神社境内に記念碑を建立
>          最盛期には、関東一円5000人の参加者が、青木先達          の冨士講にはあったと伝えられる 
>
>今回、青木氏に「富士に霞」の紋があることを初めて知りました。
>青木ヶ原樹海や、青木先達の家が冨士講の中心として栄えたことを考えると、青木氏と富士山には深い関係があるのでしょうか。
>
>更に、我が青木氏の江戸期以前のルーツについて、お教えいただければ幸いです。
>大正期に歴史を学んだ親族が、「青木紀伊守がルーツだ。」と言ったと聞いています。
>また、平家の落人が青木氏の祖先という話も聞いたこともあります。
>
>では、よろしくお願い致します。               青木。
>
>
>
青木克彦さん 今日は 始めまして。
先ず、ご先祖を調べるには家紋や宗派や土地柄などで調べる事が出来るのですが、次の情報から判断しますと次の様に成ります。

第1には御家は真言宗です。
第2には家紋が井桁に木瓜です。そして女家紋は丸に木瓜紋です。
第3には富士講の先達であつた。

質問として平家の落人が青木氏であるのか、青木紀伊守が先祖では。


さて、御家の家紋から検証してみますと
青木には33の紋様からなる青木氏があります。家紋にしますと121程度に成ります。
この中で、木瓜紋の青木氏は6つの種類の家紋からなっています。
家紋掲示板のP2の真ん中あたりに投稿していますので参照して下さい。
木瓜紋種としてはこの6つ以外にありませんが、御家の男性紋は「井桁に木瓜紋」ですので外れる事に成ります。

そもそも青木氏は研究室のところに青木氏の2つのルーツがあります。(で研究室にレポートされています。)青木氏はこの2つのルーツで広がっています。
しかし、江戸初期と明治初期の2期に第3の青木氏が生まれました。
江戸期のものは庶民が出世して侍となり系譜と家紋が必要となりました。この時に高位の身分の青木氏の氏名を名乗りました。

明治期は庶民が苗字令にて姓を持つことに成りました。この時に同じく寺や神社に金品を出して青木姓を名乗るということが起こりました。
(詳細は研究室のレポートをゆっくりとお読みください 詳しくレポートしています)

青木氏の家紋33紋様は第3の青木氏ではない氏の家紋群です。
この家紋はそのルーツがはっきりとしています。

因みに、先ず一つ目は皇族賜姓青木氏で5家5流24氏です。
二つ目は藤原鎌足の8代目の子孫の藤原秀郷流青木氏です。
この二つは藤原系の血筋で繋がっています。
藤原鎌足は大化改新の時の中臣の鎌足です。
藤原氏の四家のうち北家で最大勢力をほこりました。

皇族賜姓青木氏はこの時の天智天皇(中大兄皇子)の第6位皇子が臣下して侍となって天皇の親衛隊となつた氏で天皇から青木氏を授かりました。
初代は伊勢の青木氏です。次に近江の青木氏です、美濃の青木氏です、信濃の青木氏です、甲斐の青木氏です。
以上何れも5代の天皇の第6位皇子が臣下して名乗った氏です。
天智天皇、天武天皇、聖武天皇、文武天皇、光仁天皇の5人の天皇の第6位皇子です。
詳しくは研究室の「皇族賜姓青木氏」のレポートを参照して下さい。

藤原秀郷流青木氏ですが直系1氏、直流4氏、支流4氏から成り立ちここより116氏に広がっています。
藤原秀郷の第3番目の子供の千国から青木氏が広がっています。
詳しくは研究室の「藤原秀郷一族の生き方」を参照してください。
 
そこでこの青木氏の中に「井桁に木瓜」は有りませんが女紋の「丸に木瓜」紋は美濃の土岐氏(綜紋は桔梗紋)の一族の末裔と血縁を結んだ土岐氏系青木氏の分家です。

美濃の土地の土豪の土岐氏は美濃の守護の皇族賜姓青木氏と血縁して勢力を伸ばしました。
本来この土岐氏系青木氏は「笹竜胆紋」です。しかし、2代続きで男系跡目が
とれず家紋掟で変紋を余儀なくされ、養子先の土岐氏の家紋となりました。
これが、「木瓜紋」です。そして、この分家が「丸に木瓜紋」と成ります。

主要家紋書の中には「井桁に木瓜」はなく珍しい家紋です。家紋200選の中にもありません。しかし、「丸に木瓜紋」は存在します。

つまり、御家は長い間に一時女系となったことが予想できます。この時はまだ「丸に木瓜紋」であつた事が覗えます。
しかし、この後に男系跡目は出来ずに家紋掟にて変紋を余儀なくされた結果、木瓜紋を残したいと考えて木瓜紋に井桁を入れて「井桁に木瓜」としたものと考えます。したがつて珍しい家紋となつたと思います。特に特別に井桁紋としては特定の氏の家紋では有りませんので、止む無くこの時には変紋をしたと考えます。

しかし、女紋では「丸に木瓜」ですので土岐氏系青木氏です。
つまり、美濃の美濃王を先祖とする皇族賜姓青木氏の分家一門で24氏の一つです。

賜姓とは天皇の皇子であるので氏を持ちませんので臣下(侍になる事)して天皇を守る親衛隊となり、天皇から青木という氏を直接に与えられる事です。

御家の菩提寺の埼玉の入間郡を中心として神奈川横浜を半径として円を描く範囲に藤原秀郷の総宗本家を真ん中に藤原秀郷流青木氏が内側より本家筋が取り囲み外側に向けて支流の本家筋が取り巻いて存在していました。

したがって、ここに居る青木氏は藤原秀郷流青木が主です。
しかし、此処に、この青木氏を頼って信濃皇族賜姓諏訪族青木氏や美濃青木氏が信長との戦いで敗れて逃げ延びてきています。横浜、栃木などに多く分布しています。

皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏は本来は浄土宗です。浄土宗はこの様な高位の身分の者が入る宗派でした。ところがこの宗派の寺があるところは限定されていますので、藤原秀郷流青木氏の一部は赴任先では寺がないので浄土真宗に入りました。逃げ延びた御家の一族などの他の青木氏らもこの宗派に入りました。
しかし、この全ての5家5流の皇族賜姓青木氏は高位であるため元来自分の守護神の神社を持ち移動さきにも遷していますので一族として逃げ延びた場合に於いてどこかに自前の守護神(祠も含む)があった筈です。一度調べられたらよいでしょう。

御家は江戸期前に美濃から移動してきたものと思いますので、寺はなかったものと思います。このために同系の浄土真宗に菩提寺を求めたと考えます。

江戸初期にこの為に幕府は浄土宗を普及する為に奨励しました。
この為に江戸半ばに各地に広がりました。

此処で、既にお判りと思いますが、平家からはまったく青木氏は出ていません。平家のルーツもはっきりとしています。
中国朝鮮系の渡来系で中国後漢の21代の末帝の献帝の子供の阿智使王と孫の阿多倍王の子孫です。日本に17県民の200万人引き連れて入国し殆ど無戦で九州全土と中国地方全土を制圧し66国中32国まで制圧した渡来系一団です。この一団が孝徳天皇期に帰化してきました。この後、天皇家と婚姻を結び朝廷組織の3つの内の2つまでも独占し、日本の律令政治の根幹と第2次産業の基礎を作りました。
そして、この子孫が太政大臣の平清盛です。桓武天皇の母がこの子孫の末裔です。むしろ、青木氏とは政治的には犬猿の仲なのです。この為に天皇の第6番目の皇子であり親衛隊として最大勢力を誇っていた青木氏は勢力を弱められたのです。このことを嫌った息子の嵯峨天皇は元に戻しました。
此れが源氏なのです。

青木氏は明治初期までは皇族以外のものが使用しては成らない姓でした。
800年頃の嵯峨天皇期に詔令で青木氏の使用禁止令を出しました。
そして、嵯峨天皇期からは青木氏を止めて第6位皇子の臣下は源氏としました。この青木氏からかわつた源氏は16代続きました。
青木氏と源氏は同族です。全部で21代です。

青木紀伊守一矩は信長と秀吉とに仕え、北の庄8万石でありましたが家康はこの者を除封し一族を滅ぼしました。子孫のないところ氏の子孫としても使えば文句の云う者は有りませんから多くの庶民は使いました。

そして、この者の子孫だと言う者が多く出ていますが殆ど偽です。
除封されると子孫は原則なくなります。そして、更に木瓜紋では有りませんので子孫とは考え難いです。江戸初期の偏纂搾取ですし明治の第3の青木氏の偏纂の現象です。

「富士に霧」紋は江戸初期のこの第3の青木氏です。出世して大名に成りました。富士講とは関係有りません。

以上が御家の江戸期前のルーツです。美濃の大豪族の土岐氏系青木氏です。皇族賜姓青木氏の24氏の一門で分家の支流一族です。

研究室の「青木氏(家紋)と血縁族」のレポートの木瓜紋のところを参照して下さい。

美濃の青木氏は青木氏の地名地形のデーターベースの美濃、尾張の所を参照して下さい
このレポートを一読後、研究室の所定のレポートを参照後にご質問が有りましたらご遠慮なくお尋ねください。

ではお便りお待ちしています。

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青木氏氏を お知り合いの青木さんに 紹介してください。