青木氏のルーツ & 雑学研究室

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No.1305
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Re: 日野ですが・・・
副管理人さん 2008/07/31 (木) 19:55
>こんにちは、始めまして!数年前から我が家のルーツを探してます。ここは青木さん専門のようです
>
>が、とても詳しいので是非力を貸していただきたいと思いメールしました。
>
>
>
>名字は日野、家紋は五三の桐。三代前に淡路島から現在の地に引っ越して来ました。
>
>亡くなった祖父・父から「家は日野中納言の家系」と何度も幼い頃より聞かされていたけど証拠がな
>
>いのです。後醍醐天皇がなんとか・・・とかも言ってましたが、その頃の私はまだ幼く、亡くなった
>
>今になって気になってしょうがありません。
>
>一般的に有名な日野家の家紋は鶴丸ですよね。でも家は五三の桐。戸籍より淡路島の住所に行ってみ
>
>ると潜んでいたとしか思われない山奥。
>
>過去に何があったとしても現在幸せに暮していけるのは御先祖様のお陰なので、徹底的にルーツを探
>
>し伝えたいと思ってます。
>
>
>宜しく御願いします。

日野さん 今日は。始めまして。
ようこそ青木サイトにお越し頂きました。

さて、お尋ねですが、ご承知の通り、このサイトは青木サイトですので、日野氏の事については良く知りません。
ただ、家紋からの知識はある程度ありますので、知る範囲の事でお答えいたします。

情報は五三の桐紋との事、出身地は淡路島、日野中納言では、この3つですが、先ず、出身地と歴史的時期が新しすぎますので、全く確定は困難です。

歴史は少なくとも、江戸中期前から江戸初期前でなくてはどの氏のルーツでも無理なのです。
調べるに足る書籍の信頼度が全く低いからです。
室町末期から下克上と戦国時代で世情が混乱し、証拠とする書籍が少ないのです。
実のところ、100%に近い状況で信用できません。
その書籍は立身出世して、搾取偏纂して、自分の家柄を良く見せると言う風習が起こって、手前味噌にも事実と異なり良く書いているのです。
第一、徳川家康や豊臣秀吉がその代表的氏だからです。

この搾取偏纂は歴史上3期起こっています。
第1期は室町末期の混乱期、第2期は江戸初期の混乱期、第3期は明治初期の苗字令のときです。
この1、2期の混乱期の立身出世者、第3期の一般の苗字家紋の持たない庶民と成ります。
このことをまずご承知ください。

さて、家紋の五三の桐紋ですが、ご説明しますが、この家紋が第2期から第3期の混乱期の代表的なこの事例の家紋なのです。

五三の桐紋に付いてご説明します。
この紋は桐と葉と花を形象化したものです。
桐には沢山の種類がありますが、白桐を紋様化したものです。
昔、中国では、桐は聖者が現れるときに、瑞鳥鳳凰がとまる嘉木として扱われてきました。
つまり、瑞祥的なものでした。
このために平安時代に、天皇が用いる「象徴権威紋」として定められていました。日本書紀にもこのことが書かれています。
桐竹鳳凰を一組組み合わせて文様とし、これを天皇が用いる式服の袖に織り込まれて物でした。
これが、後に、桐の文様だけが取り出されて用いられて、公的な天皇の象徴と権威の文様と成りました。
ところが、秀吉の「太閤」の位を認めさせて、更に天皇家の末裔として認めさせるために採った天皇家への経済的圧力により、天皇家は財政的な困窮に陥ります。そこで、財政の掛からない方法として、天皇家は朝廷として勲功のある者にこの文様紋の使用を許したのが始まりです。

先ず秀吉が、この文様の使用を許可されます。その内に、秀吉が無断で、家臣や大名に使用を許します。更にその内には、その大名が更に家臣に使用を勝手に許す羽目に成ります。最後には更には、これを受けた主だった家臣が戦いのときの兵として出陣した村全体の農民にこの使用を許します。
許された農民は特別な立場を得たとして家紋や墓紋に使用しました。
明治初期には、明治3年の苗字令と8年の督促令に基づき、この時、多くの庶民が苗字とこの家紋を使用するようになりました。明治政府は遂には止められなくなり、17年の使用禁令は広報で諦めて認めてしまったのです。
歴史上の有名な出来事です。
これがこの五三の桐紋なのです。

九州や中国地方では村や郡や県全体が、ある日突然同じ苗字と家紋を使用すると言う現象が起こりました。この時、この桐の五三の桐文様が最も多く使用されました。
中には遠慮して、五七の桐紋など似せて作りました。160もの文様が出来ました。
その中の代表的なものが五三の桐紋です。
徳川時代にもこの現象が御家人旗本に起こりましたが、幕府は諦めました。
この時、苗字もそれに絡んだ苗字をつけました。それが青木氏や藤原氏など始めとして皇族や公家の高位の氏名を名乗りましたが、日野氏や近衛氏の公家苗字も使用しました。

日野氏は足利時代には大変有名な公家です。
明治以降、隆盛を極めた公家が淡路の山奥に住んでいるとは考えられません。
ですから、祖父でありますと、明治か大正時代ですので、その隆盛は続いていますが、淡路の山奥では考え難い事です。
先ず、この五三の桐は本来は家紋では有りません。天皇家の「菊紋」の家紋ではなく、天皇の位の「象徴紋」です。これを家紋とする所に無理があります。
この家紋に合わせて日野氏を名乗ったものであると思います。
公家が身内の天皇の象徴紋を使用する罪を犯すなどの事など有りません。

そこで、次の事をお調べになると確認出来ます。
先ず、お家の宗派は何でしょうか。
菩提寺は何処でしょうか。
江戸初期の過去帳をお持ちでしょうか。
自前の氏神は何処でしょうか。
何か証拠となる古物や標がありますか。

公家の日野氏であれば、この上の条件を一定の中にありますので、それから外れると、明治の混乱期の第3の氏と成ります。

先ずは簡単な所から、宗派ですね。これで殆ど決まります。
宗派が異なりますと先ず第3の氏です。宗派伝統の象徴ですから。
淡路の山奥ではこの宗派はないと思います。特定のところ特定の身分家柄にしかなかった宗派ですから。

次に独自の日野氏の菩提寺を持っていますので、それがどこかです。次には過去帳があるのかと言う事を調べられたら良いと思います。
あるとすると、元も古い人は何時頃の人かで決まります。

3つの混乱期の氏にはこの条件が当てはまりません。
江戸中期のまでの昔は、武士でも中級武士以下は菩提寺はもとより過去帳も有りませんでした。
又、特定の身分家柄以外は、墓も川原の積み石の石墓で済ませて有りませんでした。そのような習慣がなかったのです。今のような墓石は明治以降の風習です。
どんな大豪族でも、せいぜい、泥岩で作ります。泥岩は次第に溶けて土に返ると言う風習があったのです。
江戸の昔は「国抜け」と云ってそこの村から一生代々出られませんので、淡路の山奥ではこの条件に合う事はないのではと思います。無断で出ると一族民殺しの罪を受けたのです。

もし、宗派や菩提寺や氏神がお判りになるのであればお知らせください。

普通はこの様なことは先祖伝来で伝統でつながれている筈です。まして、日野氏であれば。
判らないということ事態が氏の伝統がないことを意味しますので。

ともあれ、氏の立件は青木氏と同じですので、その要領でお答えしました。

ご質問はご遠慮なく。ご協力します。

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