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No.1333
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Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−青木氏と同一血縁類の解析 −5/10
副管理人さん 2008/08/30 (土) 17:31
史料5

(解析資料1)

青木氏と同一血縁類の解析(青木氏の「氏力」の解明)

解析の目的
青木氏の116氏の家紋類に対して、他の主要4氏と同一の家紋を持ち血縁している氏を調べ、その青木氏の「氏力」や秀郷一門の中での「位置付け」等を家紋データ分析で割り出し考察する。

解析
分類の為に次ぎの記号を用いる。

藤原秀郷一門の主要5氏
永嶋氏(N1)、長沼氏(N2)、長谷川氏(H)、進藤氏(S)
(青木氏全121氏で調査する)
(・印 家紋200選)

「共通血縁族」(5-2)の4分類
青木氏との共通血縁族

青木氏と他主要4氏との同一血縁類(全5氏)
・下がり藤 (N1:N2:H:S)
・笹竜胆     (N1:N2:H:S)
・丸に片喰    (N1:N2:H:S)
・丸に剣片喰   (N1:N2:H:S)
・丸に立ち沢瀉  (N1:N2:H:S)
・丸に違い鷹の羽(N1:N2:H:S)
・丸に梅鉢   (N1:N2:H:S)
・五三の桐   (N1:N2:H:S)
以上7家紋である。(五三の桐含まず)

青木氏と他主要3氏との同一血縁類(全4氏)
・上り藤  (N1:H:S)
・九曜   (N2:H:S)
・抱き茗荷 (N2:H:S)
・丸に桔梗 (N1:N2:S)
・橘    (N2:H:S)
・丸に橘  (N2:H:S)
・丸に抱き茗荷(N1:H:S)
以上7家紋である。

青木氏と他主要2氏との同一血縁類(全3氏)
・丸に隅立て四つ目(N1:N2)
・桔梗(N1:N2)
・丸に蔓柏(N1:H)
・丸に木瓜(N1:H)
・三階菱(N1:H)
・梅鉢 N1:H)
・立ち沢瀉(N2:H)
・丸に横木瓜(H:S)
・蔦(H:S)
・丸に蔦(H:S)
・片喰(H:S)
・剣片喰(H:S)
・丸に陰蔦(H:S)
・橘(H:S)
・丸に二つ引き(H:S)
・九枚笹(H:S)
以上17家紋である

青木氏と他主要1氏との同一血縁類(全2氏)
・抱き沢瀉(N1)
・丸に三つ鱗(N2)
・丸に剣花菱(N2)
・木瓜(H)
・横木瓜(H)
・違い柏(H)
・丸に根笹(H)
・武田菱(H)
・剣花菱(H)
・丸に九曜(H)
・丸に一つ引き(H)
・丸に三つ引き(H)
・揚羽蝶(H)
・松皮菱(H)
・三つ柏(S)
・菊水(H)
・三階松(H)
・丸に三階菱(H)
・丸に三つ柏(S)
・釘抜き(N1)
 丸に陰蔦(S)
 三つ引き (H)
以上22家紋である

合計53家紋である。

4分類の史料の考察
この関係資料はどの様な意味を持っているのか、考察してみる。
この考察は主要5氏がどの様な関係を持ち、どの様な「氏力」を持って藤原氏を支えていたかも判るので、下記にそれらを考察する。

まず、上記の結果から、青木氏との共通血縁族の比率は次ぎの様に成る。

1 共通比から観た考察  

他の4氏比 共通数(主要4氏の氏数:比率)
5氏 7 (246:3%)  13
4氏 7 (246:3%)  13
3氏 17(246:7%)  32
2氏 22(246:9%)  42

青木氏比 共通数(青木氏の氏数:比率)
5氏 7 (116:6%)
4氏 7 (116:6%)
3氏 17(116:15%)
2氏 22(116:19%)

全体比(共通数/全体数)
5氏 13%
4氏 13%
3氏 32%
2氏 42%

以上 合計53共通血縁数

この共通比は、共通5氏から2氏までを、夫々青木氏(116)、他の4氏の全氏数(246)が締める割合である。

青木氏の「氏力」の考察
(0) 「第2の宗家」の証拠
116/246(氏数比=青木氏/他の4氏)は、丁度1/2(47%)である。
この数字から、青木氏の氏力は他の4氏合わせての半分であり、如何に大きい「氏力」を秀郷一門の中で持っていたかが判る。3氏あわせても青木氏と同じであるのだから、「第2の宗家」と云われる所以が判る。

(1) 「第3氏の家法」「第2の宗家」の証拠1
秀郷宗家は「第2の宗家」として「第3子の家法」を基にして全力を注いでいた事を示す1つ目の大きな証拠でもある。

全氏共通数(共通比=53/116)の比46%とは、他の4氏に対して(無条件)全共通氏は、氏数比と同じく、丁度1/2(47:46)で同比である。
全体でみても青木氏だけで見ても同比は大きい。

(2) 「第2の宗家」と「第3氏の家法」の証拠2
この2つの47%と46%とを考察しても、明らかに間違いなく、青木氏(116)に対して、これも秀郷宗家が「第2の宗家」として「第3子の家法」を基にして、全力を注いでいた事を示す2つ目の大きな証拠でもある。

(3) 「親族関係」>「同族関係」の証拠
青木氏の内部の氏は、「氏数比」47と「共通比」46とも半分を占めているのであるから、同族というよりは”「親族関係」にある”と云うことでもあろう。


(4) 「5氏相互間血縁」>「個別間血縁」の証拠
この数字から、一つ推論が湧く。
青木氏が、例えば他の4氏外のある氏(X)と血縁して、そして、又、他の4氏がある氏(X)と血縁して、出来た個別の偶然の氏が出来たのでは無く、”5氏の内の何れかが他氏と血縁して、それが5氏と互いに血縁をした。”と云う事に成るのではないか。
そうでなくてはこれ程(47、46)の大きい数字は偶然では示さないだろう。

即ち、「個別間血縁」(イ)の結果では無く、「5氏相互間血縁」(ロ)である事を示す。

偶然ではないこの様な2つもの高い比率は果たしてどうして生まれたのであろう。

(5) 「恣意的血縁」>「互恵的血縁」の証拠
では、確率的に互恵的な「相互間血縁」なのか、恣意的に戦略的な「相互間血縁」なのかの疑問が湧く。
統計確率論からは50%偶然は無い。まして、5氏ともに定住地と行動範囲は別であるとすると、「氏数比」=47%、「共通比」=46%であり、5氏+4氏=26%、5氏+4氏+3氏=58%となるとすると、”恣意的に戦略的な「相互間血縁」”となるだろう。

一門の1/3から1/2が同紋であると云う事は、「人、場所、時」の条件が違うのだから、互いの自由意志での「互恵」では余程の偶然が起こらない限り成し得ない数字である。
つまり、誰かが仕掛けた「政略血縁」と成る。


(6) 「青木氏」で「一族固め」の証拠
では、”誰で、目的は何なのか”と推理は進む。
先に、答えは、{青木氏}で、{一族固め}である。
では、その根拠は、この数字は青木氏との関係数字である。従って、青木氏の内容を調べる事で判る筈である。
上記の「共通血縁数」はと比率は、全て「家紋200選群」の家紋と成っている。
青木氏の「共通血縁数」を構成している「家紋200選」の比を見る事で、大まかな事は判る。
(詳しくは史料2と本文の考察で記述している)
家紋200選比は49%である。(121)
第3氏と未勘氏と賜姓族を除けば、藤原秀郷比は70%と成る。
偶然では2氏=42%は無理には考えられるが、58%の共通比は難しく、この数字は70%の影響を受けている事に成る。
では、その58%の氏を内訳を見てみると、「主要共通血縁族8氏」なのである。8家紋群でこの58%が占められている。(下記)
従って、明らかに、「青木氏」が中心に成って、、”「恣意的」に戦略的な「相互間血縁」”をリードした事になる。

(7) 「相互間血縁」=「絆」の証拠
更に考察を進める。
その、「5氏相互間血縁」(ロ)の内容は、次ぎの様に成る。
5,4,3,2の順で観てみると、6,6,15,19%となる。
判りやすくすると(6を1とする)1(13%),1(13%),2.5(33%),3(41%)と成る。

ここで、「共通性」を大小二つに分けると、5氏と4氏(大)、3氏と2氏(小)とすると次ぎの様に成る。
(大)は26%、(小)は74%の共通性と成る。
つまり、1:3の関係である。

この関係を5氏の「血縁力」(絆:強弱)と観て評価すると、全体(46、47)の3割が「強血縁力」で占められて、7割がそれを補足している形を占めす内容と成る。

偶然(イ)ではない、「5氏相互間血縁」(ロ)は、3割もの強い「絆」で結ばれていた事を表す。

(8) 「青木氏一門の長期繁栄」の証拠
藤原秀郷一門の主要5氏は、2倍の力を持つ青木氏を中心として、極めて強い絆で結ばれていた事を物語り、それ故、藤原秀郷一門は他の藤原氏と異なり、総宗本家を中心に江戸時代まで各地でその勢力を堅持していたことを裏付けられる証拠である。

(9) 「家紋4大血縁族」+「家紋4血縁族」=青木氏の証拠
そして、このデータから、その一門のリーダーは青木氏で、宗家「下がり藤紋」を先頭に、それを補佐として5氏共通の・丸に片喰、・丸に剣片喰、・丸に違い鷹の羽、・丸に梅鉢族の「家紋4大血縁族」が固め、・九曜、・抱き茗荷、・丸に桔梗、・丸に立ち沢瀉の「家紋4血縁族」が2重固めをしていた事を示すデータである。
「家紋4大血縁族」+「家紋4血縁族」=青木氏

(注 5氏共通の下がり藤と笹竜胆と第3氏の五三の桐紋は除く、4氏共通の上り藤と橘紋は除く)

「秀郷主要5氏」の中では、次ぎの様に成る。
「青木氏主要8氏」=「家紋4大血縁族」+「家紋4血縁族」
・丸に片喰・丸に剣片喰・丸に違い鷹の羽・丸に梅鉢族 
・九曜・抱き茗荷・丸に桔梗・丸に立ち沢瀉

以上の青木氏が固めていた事に成る。

(10) 「青木氏主要8氏」(武家)の証拠 
秀郷一門の組織=「藤原秀郷総宗本家」(貴族)−「秀郷主要5氏」(武家)−「青木氏主要8氏」(武家)

このデータが面白い事を示している。
それは、上記の8氏の血縁力は地理的に明確な形(分布=勢力圏)を示しているのである。

(11) 「大」の字の広域勢力圏の証拠
それは、畿内と四国を中心として、西には東中国、東には西中部に手を広げた形を示し、それを緩やかにラップするかの様に北九州の東、東中国、中部中、西関東に勢力圏を保持している事に成る。
勿論、拠点は坂東の武蔵を青木氏116氏の本家筋が螺旋状に固めている広域陣形がある。
陣形から観ても隙が無いもので、偶然に創り上げたものではなく「戦略的」に行ったと考えられ納得できる。(家紋分布史料参照)

ところで、「六韜三略」と云う攻守の戦法の基本があるが、これに合致した全く驚きいる隙の無い「氏の血縁力(内部)」と「陣形」を敷いている。
秀郷一門の青木氏は余程の軍略司が居たと観られる。
確か、これでは、歴史的に観て、信長、秀吉が中国関東の東西両方と四国の域に手を出せなかった事が言えるし、「手一杯」であった事を事実として物語る。
だから、この隙を狙って、信長等に追われた諏訪族青木氏等の賜姓族青木氏は2つの域のここに逃げ込んだことが納得できる。つまり、秀郷流青木氏が護衛守備軍として宗家に変わって、血縁関係のある賜姓青木氏を迎え入れたのである。
即ち、共通5氏の「笹竜胆紋」と共通4氏の「橘紋」の血縁関係、青木氏の「下がり藤紋」の血縁関係が成立していた事に依り、そして、そこには、上記の「血縁族8氏」と「血縁族」がスクラムを組んで存在したのであるから出来た事である。

皇族笹竜胆族29氏(笹竜胆族と24氏重複血縁)と繋がった藤原秀郷宗家が入間に鎮座していたのである。逃亡先にした事が納得できる。

当然、四国の讃岐籐氏の「下がり藤(副紋雁金紋)」の讃岐青木氏宗家と、それを補佐する「共通血縁族主要8氏である阿波、土佐東の青木氏の片喰、剣片喰紋の青木氏が率いる処にも逃避した事が理解できる。

そこで、余談であるが、歴史を思い起こすと、賢かったのは「家康」である。
この藤原秀郷一門の中に入り、その「氏力」を利用したのであるから。江戸初期以後は諏訪族を含む藤原秀郷一門は徳川氏の旗本と御家人になったがこれでは天下は確実に取れる。
同じ秀郷一門の軍師真田氏分家は家康を一刀両断の刀振り下ろす所まで追い詰めたが、両断はしなかった。下ろすと天下は変わっていた。”天下は家康が”の考えと、矢張り、軍師である限り、同じ一族の藤原一門の邪魔をしたくないとの意があったと考えられる。むしろ、一族が未来永劫に栄える後者の方の現実的なことを優先したと考えている。私は上記のこの分析からそのように考え直したのである。

2 綜合数の結果から観た考察

青木氏との「関係の強さ」を表すデータである。
「絆の強さ」である。

(A)5氏から2氏までの比(共通血縁総数/氏数=個別血縁比)

永嶋氏19(35:54%) 長沼氏18(52:35%) 長谷川氏41(111:37%) 進藤氏27(48:56%)である。

(B)5氏から2氏までの比(共通血縁総数/青木氏116氏)

永嶋氏19(16%) 長沼氏18(16%) 長谷川氏41(35%) 進藤氏27(23%)である。

「考察」
先ず、(A)の総共通血縁数の結果から観ても、血縁の比率は、青木氏に対して、(共通数/氏数)の関係の結果は次ぎの様に成る。

永嶋氏と進藤氏は55%台で、長沼氏と長谷川氏は35%台となる。


何かこの二つに分かれる原因があると観られる。この原因を調べれば主要5氏の「氏力」などが見えてくる筈である。

  「絆の強さ」

総合的に観ると、この二つに分けられるという事は、青木氏(116)との付き合い具合(血縁具合の強弱)を示すものとも成る。ではどの様なものであったのか。

つまり、永嶋氏と進藤氏は大変に青木氏との「絆」が強かった事が言えるが、長沼氏と長谷川氏はそれよりやや「絆」が弱かった事に成る。ただし、これは藤原秀郷一門の中での事である。
しかし、藤原氏以外のこの数字は普通は10%前後である事から観ると、長沼氏と長谷川氏でも大変高い「絆」で結ばれていた事にも成る。

もう一つは、この「絆の強さ」がどちらからのリードであったのか知りたいが、これは(B)の結果から大まかなところが読み取れる。

永嶋氏と長沼氏の16%に対して、長谷川氏と進藤氏の30%前後の数字である。

つまり、兼光流の同流族の2つは16%で青木氏のリードは比較的弱いが、必然的に弱くなる「絆の強さ」の文行流の異流の2つにはリードは高くなっている。

(A)、(B)の結果から、即ち、異流であるので余計に青木氏側からは働きかけを強くしていた事を物語るものである。

では、此処まで知ると、その「絆の強さ」の内容はどうであったのか興味がより湧く。

これをデータを解析してより細分化して考察してみると、よりその「絆の強さ」の内容が判る。

  「絆の内容」

(A)-aの結果(「部類分け」)

(a) 血縁比:110>72 (b) 血縁数:46>59 (c) 氏数:83>163

データを入力すると、以上の3つのデータが採れる。

血縁比の(a)で観ると次ぎの式が成立する。

 永嶋氏と進藤氏>長沼氏と長谷川氏 関係式1

血縁数の(b)、(c)で観ると次ぎの式が成立する。

血縁数のb及びcの関係式は不等号は逆になる。
(cの氏数は元数と成るので除外)

 永嶋35<進藤48<長沼52<長谷川111  関係式2

つまり、この3つのデータと2つの関係式の中には何かの事象を持っている事に成る。
それを次ぎに考察して観る。

(A)-bの結果(「部類分け」)

bの血縁数(46<59)で観ると次ぎの様に成る。

 永嶋氏と長沼氏<長谷川氏と進藤氏  関係式3

しかし、(A)-aの関係(相互氏数)には、夫々の氏数が異なるので比較としては誤差を持つので、同率で比較する必要がある。

補正を掛けると次ぎの様に成る。
 
 永嶋氏92 長沼氏48 長谷川氏39 進藤氏86

補正値:((各共通血縁数/各氏数)*100))*(1+(1-(各氏数/116)))  
(116:青木氏数)

(A)-cの結果(「部類分け」)

 永嶋氏と進藤氏>長沼氏と長谷川氏  関係式4

 「部類分け」の関係式は成立する。(178:87 2.17)

 (A)-aの関係式1と関係式4は一致する。
   
 (A)-aの関係式1=(A)-cの関係式4

この結果は、秀郷4代目から分流した「兼光流」と「文行流」との「血縁具合」には、違いは無い事を意味する。

しかし、本来であれば、「流」から観ると青木氏と兼光流で同流であるから、「付き合い」としては、当然に関係式は次ぎの様になる筈である。

 永嶋と長沼氏>長谷川氏と進藤氏  関係式5

しかし、「兼光流」と「文行流」が入り乱れて違っている。

(A)-aと(A)-bとは逆に成っている。どちらがこれで正しいのかを(B)で考察する。


そこで、(B)の関係(青木氏数)では観てみると次ぎの様に成る。

(B)の関係(修正前)

永嶋氏19(16%) 長沼氏18(16%) 長谷川氏41(35%) 進藤氏27(23%)

夫々の氏数が異なるので比較としては誤差を持つ。よって同率にして比較すると次ぎの様に成る。

(B)の関係(修正後)

永嶋氏32     長沼氏25     長谷川氏43     進藤氏41

補正値: 共通数*((青木氏数−各氏数)/青木氏数)+1 

ところが、この結果は次ぎの様に成る。

 永嶋氏と長沼氏<長谷川氏と進藤氏  関係式6

 (A)-bの関係式3と関係式6は一致する、
エラーを取り除いて観ても次ぎの様に成る。 

  関係式3=関係式6 
 
ややこしいので、これをまとめると、次ぎの様になる。
永嶋氏と長沼氏>長谷川氏と進藤氏  関係式5(本来の関係式)

永嶋氏と進藤氏>長沼氏と長谷川氏 関係式1
永嶋氏と長沼氏<長谷川氏と進藤氏  関係式3
永嶋氏と進藤氏>長沼氏と長谷川氏  関係式4
永嶋氏と長沼氏<長谷川氏と進藤氏  関係式6
永嶋35<進藤48<長沼52<長谷川111  関係式2

関係式1=関係式4
関係式3=関係式6

エラーを取り除いて観ても、本来の関係式に一致する関係式は此処までの考察では出てこない。


青木氏との共通血縁数を各4氏夫々の関係では次ぎの様に成る。

イ 永嶋氏と進藤氏>長沼氏と長谷川氏 (A)-a 関係式1

青木氏との各4氏の共通血縁数の関係では次ぎの様に成る。
本来であれば、次のように成る。

  永嶋氏と長沼氏>長谷川氏と進藤氏     関係式5

しかし、異なる。最終の関係式は矢張り次の様に成る。

ロ 永嶋氏と長沼氏<長谷川氏と進藤氏 (A)-b  関係式3(関係式6)

直接、青木氏との共通血縁関係を青木氏の氏数から観ると、本来考えられる関係式と逆になる。
  
ハ 永嶋氏と進藤氏>長沼氏と長谷川氏 (A)-c  関係式4

本来の答え(関係式5)に対して、関係式1=関係式4 関係式3=関係式6の答えが出る。
(これは個別分類の結果(「同族固め」)のところで解明する。)

考察
各4氏の氏数から観ると異なるのは、各4氏の氏数には共通血縁に入らないものを含んでいる。
含んだままではこのエラーが入ってくる事になるので、イの関係式(A)-aとハの(A)-cと成る。
それはそれで意味のあるデータであり、(A)-aと(A)-cで成立している位であるので別の意味を持っている事に成る。

先ずより正確に観ると為にエラーを取り除く。

エラー比は、永嶋46% 長沼69% 長谷川63% 進藤46%と成り、並び替えして関係式とすると、次ぎの様に成る。
エラー比:100(各氏数−共通血縁)/各氏数


永嶋氏54%と進藤氏54%>長沼氏31%と長谷川氏37%  関係式7

一致して”それなりに意味”を持っているからこの関係式が出て来るのである。

この”それなりに意味”は、下記の3の「個別分類の結果」でこれが証明されるのである。

依って、関係式7(「部類分け」)から、ロの結果の即ち、(A)-bがより正しい関係式となろう。

ロ 永嶋氏と長沼氏<長谷川氏と進藤氏 (A)-b

しかし、これは何故なのか疑問が出る。
それは、次ぎの様に成る。

結論
本来の考えられる一般関係式は、永嶋と長沼氏>長谷川氏と進藤氏と成るだろう。
ところが、青木氏から観ると、永嶋氏と長沼氏は同族であり親族関係にある。
しかし、長谷川氏と進藤氏とは同族であるが、親族とはいえない。系列が別で細分化しすぎている。

故に、青木氏は、長谷川氏と進藤氏に少し比率を高めて血縁関係を深めたと考えられる証拠である。

何をか況や、そのための「同族固め」の為の「共通血縁」である。即ち、強く「同族固め」を推し進めたと成る。だから、本来とは異なるロの(A)-bが出たのである。


では、その「同族固め」がどの様な戦略で行っていたかの疑問である。
次ぎのデータでもそれを証明している。


3 個別分類の結果(「同族固め」)

次ぎの様に分類する。

分類 (A)共通5氏と共通4氏との和、(B)共通3氏と共通2氏の和の二つに分類する。
前提 (A):共通性が強い (B):共通性が弱い

(A)分類
永嶋氏9(35:26%)  長沼氏12(52:23%)  長谷川氏13(111:12%)
進藤氏14(48:29%)

(B)分類
永嶋氏10(35:29%) 長沼氏5(52:10%)   長谷川氏28(111:25%)
進藤氏11(48:23%)

これ等の氏数には共通血縁外の数を含んでいるので、これを排除して正味で比を観てみるとする。

(A)永嶋氏は47% 長沼氏は67% 長谷川氏は8%  進藤氏は41%
(B)永嶋氏は53% 長沼氏は28% 長谷川氏は68% 進藤氏は41%

ここに一つ特徴が出る。
(A)と(B)は長沼氏が67から28に、長谷川氏は8から68に変化した事である。

(A)クループは、「主要8氏」で占めていて、大豪族の家紋類である。
(B)グループは、賜姓族を除いて、(A)グループの力の落ちた本家筋か分家筋で、中小の家紋群である。

分析
長沼氏は上記の(A)グループの主要8氏との血縁関係に重点を置いているが、(B)グループに血縁力を下げている。
逆に、長谷川氏は(B)に大重点を置いている事に成る。


結論

前論の疑問としては次ぎの様な戦略が浮き出て来る。

永嶋氏と進藤氏は(A)と(B)のグループに均等に「血縁戦略」を進めていた。・「血縁戦略A」

長沼氏は(A)グループに大重点を置いて、(B)グループに血縁力を下げている。

長谷川氏は(B)グループに大重点を置いて血縁をし、(A)グループには力を注いでいない。

長沼氏と長谷川氏は対照的な「血縁戦略」を進めていた。・・・・・・・・・・・・「血縁戦略B」


上記の結論の「血縁戦略的な違い」(「血縁戦略A」「血縁戦略B」)が下記の関係式と成っているのである。


イ 永嶋氏と進藤氏>長沼氏と長谷川氏 (A)-a
(47-53)と(41-41)>(67-28)と(8-68)

長沼氏(67-28)と長谷川氏(8-68)の数字のバラツキが偏差となり上記の関係式(A)-aを構成していたのである。

”ふそれなりの意味”とは、他の2氏と較べて「同族固め」と「血縁戦略的違い」があったのである。


以上、今までは、「共通血縁族」の考察であった。



残るのは、青木氏の「単独の血縁族」の考察である。

次ぎは「単独血縁数」に付いて考察する。

ここでも面白い「戦略的血縁」の結果が出る。

「単独血縁族」
氏の内容に違いがあるので、正確にする為に、データの「単独血縁族」を分類し1−4の4分轄に分ける。


青木氏だけの「単独血縁族−1」(家紋200選族群)

(・印 「家紋200選」 15家紋)
・加藤藤
・上り藤
・抱き角
・丸に抱き角
・州浜
・割り菱
・丸に扇
・丸に日の丸扇
・丸に並び扇
・丸に三つ星
・陰蔦
・糸輪に陰木瓜
・丸に違い矢
・花沢瀉
・丸に三階松


青木氏だけの「単独血縁族−2」(30家紋)
「単独血縁族−1」(15)に属する一族紋
「共通血縁族」(53)に属する一族紋
この二つの内容の分類とする。

四つ又抱き角
隅きりに抱き角
隅切り角に梶の葉

丸に州浜
三つ盛り州浜
丸に三つ盛り州浜
三つ盛り陰州浜
五瓜に州浜


丸に違い扇
隅きり角に扇

亀甲に三つ星
扇に三つ星
三つ星ひとつ引き

隅入り平角に片喰
子持ち亀甲剣片喰
五瓜に片喰

隅きり角に蔦
八角に蔦
二重瓜に蔦
五瓜に蔦
鬼蔦

抱き茗荷菱
丸に一つ目菱
四方瓜に重ね菱

加賀梅鉢
牧野柏
三階松
抱き若松
並び鷹の羽


青木氏だけの「単独血縁族−3」(12家紋)
「単独血縁族−1,2」に属さない家紋

抱き柊
蔓柊
3枚笹
二階根笹
丸に六つ矢車
隅きり角に四つ目
丸に三つ目
三つ銀杏
二重亀甲に三つ銀杏
二つ葉蔓柏
五瓜に違い鷹
立ち葵


青木氏だけの「単独血縁族−4」(6家紋)
第3氏及び未勘氏に属する家紋

五つ木瓜
丸に揚羽蝶
八角に木瓜に二つ引き
下がり対四つ藤
丸に隅立て升
隅切り角
丸に青角の字
(くつわ)
以上68家紋である

「単独血縁数」 68 (367:19%)
(第3氏と未勘氏の青木氏含む)


考察
(1)「家紋200選」に対する比率は59/121で49%である。
丁度、半分が「家紋200選」の家紋群と成る。

(2)「共通血縁数」(53)に対して(53/68)1:1.3にある。
「単独血縁数」(68)は青木氏数(121)に対し56%である。
全体の約半分は「単独血縁数」と成る。

(3)この「単独血縁数」(68)の内「家紋200選」は15家紋群で青木氏比12%(49%)である。
(4)「単独血縁数」(15/68)では「家紋200選」は22%である。


これらの内容に付いて考察する。

先ず、特長は、次ぎの事が挙げられる。
*「単独血縁族」(68)は上記4つの属に分類される。

(注)
「単独血縁族」−1,3に付いて下記に考察をする。
「単独血縁族」−2は、「単独血縁族」−1と「共通血縁族」(53)に属する血縁関係を保持する。
(注)
氏家制度の中ではほぼ同行動を採ると観られるので考察より除外する必要がある。
又、「単独血縁族」−4は第3氏又は未勘氏であるので除外しないと正しい分析には成らない。


「単独血縁族」の特長の考察

第1に、
まず、諏訪族青木氏の「抱き角紋」とその「丸付き抱き角紋」である。
この家紋の氏は藤原「共通血縁族」の秀郷主要4氏には全く無い家紋である。珍しい。
信濃賜姓青木氏と諏訪氏(たち梶の葉紋)との血縁により発祥した大変古い青木氏で賜姓族である。他に武田氏系諏訪族青木氏がある。つまり、秀郷主要5氏との重複家紋の中では只一つ重複なしの皇族賜姓青木氏である。

第2に、
州浜紋の一族である。この家紋も主要4氏にはない。珍しい。
有名な主要家紋であるが、不思議にない。
地域的に観ても常陸と陸奥である。
常陸は藤原秀郷宗家(朝光)の結城氏が定住する土地柄である。
陸奥は鎮守府将軍として代々務めた地域であり、土地の豪族の武田氏、小田氏、小山氏、足利氏、花山氏等は秀郷一門から血縁を受けた。
秀郷一門が赴任移動時に関東に移動してきて勢力を挙げた氏がいる地域でもある。この地域は「共通血縁族」が在っても不思議ではない。むしろ在るべきである。
何故なのか疑問1が湧く。

第3に、
他の4氏に無い家紋として、角紋類、扇紋類、柊紋類、銀杏紋類がある。
何故なのか疑問2が湧く。
ではその疑問1、2を解明する。

先ず、角紋族である。
角紋は理解できる。諏訪族の個性的行動にあったからであろう。
後漢阿多倍が引き連れてきた17県民200万の内の後期に帰化した馬部とその関係の職能集団がこの信濃の開拓に入り、開拓は成功し天皇より勲功を受けて土地に根着き力を着けた一族である。
諏訪神社を守護神として固い結束で有名な集団の赤兜軍団で有名な一族である。
この為、他の一族と血縁を余り進めなかった特長を持っていた。武田信玄との軋轢でも有名である通りこの一族は血縁を広げて守ると云う戦略を採らなかった一族でもある。
只、信濃青木氏との血縁が取れた。入植開墾の過程で信濃王の末裔(青木氏)との二人三脚で成し得た事であったからである。
日本書紀にも、呼び出しを受けた彼らは勲功を受ける時、この二人三脚で天皇に意見具申したと出て来る位である。その「気構え」のある一族である。
朝廷には藤原氏もいるし、阿多倍の末裔も天皇血縁族としても、官僚ともなって働いている。充分に血縁は在り得る事であるがない。だとすると「気構え」と「誇り」ではないか。

次ぎは、扇紋族である。
発祥地域は筑後、豊後、豊前に在る。
発祥時期は新しい。江戸氏初期後である。御家人旗本がごぞって家紋を持った時期に位置する家紋であり、他の4氏と「共通血縁族」に成り得なかったのは、この時期にあると観ている。
他の4氏から観ると平安から室町期に在るとすれば可能性は高いが、安定期には入ったこの時期に、遠方に於いて大した防御の必要性が無かった事と、他の4氏の聖域とのズレに問題が多少あったとも考えられる。
青木氏と「単独血縁族」に成り得たのは、共通血縁族の主要8氏の西末端に位置していた事に依ると観られる。「戦略的血縁」ではなく、「政略的結婚」に過ぎないと考えられる。
青木氏は藤原一門の「第2の宗家」としての役割からこの地域も血縁で確実に固めたと考えられる。

柊紋族である。
発祥地域は関東地方、武蔵7党の一つ丹治氏系青木氏一門の家紋である。
家紋化したのは以外に新しい江戸中期前の頃である。
柊明神の氏子神紋である。
藤原秀郷一門の領国であり、入間の地域、多治彦王の配流時の落子末裔が根づいた古い氏である。
秀郷がここを領国とする前からの小豪族氏であり、家紋は家紋化の江戸時代のブームによりこの一門は家紋化したと観られるが、血縁はその前の時期に行われていたと成る。秀郷流青木氏と丹治氏系青木氏との複合血縁もあったと考えられる。
武蔵7党としては土地と権域を奪われた事から、秀郷一門の他の4氏とは一線を架していたと観られるが、青木氏がこの丹治氏と代表血縁をしたのである。つまり、この武蔵は青木氏一門が螺旋状に取り巻いて守っていたからである。つまり、青木氏との対峙となろう。そこで、双方が戦略的血縁を図ったと観られる。何故ならば、この小豪族の戦力程度では、藤原一門とりわけ青木氏にとっては問題ではない。そこで、敵の力を生かす戦法に出たと観られる。その証拠に、この丹治氏一門と多く血縁をしているからである。丹治氏宗家だけではなく一門との血縁で押さえ込んだと見られる。
それで、円の枠の中に閉じ込めた結果藤原の他の4氏との血縁は無かったのである。
他の4氏の戦略は大豪族に在ったことは主要8氏でも判る。

銀杏族である。
地域としては関西以西の氏で、土方、水島、坪内、間部氏である。家紋化は家紋の持たない者の家紋ブームの江戸初期である。土地の10氏以上がこの家紋を使用している。
青木氏の聖域の西端であり、土地の小豪族の相互間の血縁集団の家紋群である。
主要4氏とは地理的に離れている。
西端を固める為に土地の小軍団との血縁をした戦略的血縁であろう。
血縁は速かったものと見られるがこの銀杏族集団の家紋化が遅かったという事であろう。
この地域の西には、出雲大社の氏子集団の亀甲紋集団があり、この地域では讃岐籐氏の青木氏が血縁を成している。
この小豪族の集団群は、他に関西以東の伊川津7党、武蔵7党等もあり、これ等との血縁も青木氏に任している。
更に以東の上記の柊紋の集団も、柊神社の氏子集団でまとまっていた事も同じである。

この事から観ると、疑問1、2は次ぎの様に成る。
同じ小豪族の集団群であったので、主要4氏は敢えて血縁を進めず、「第2の宗家」の青木氏に任したと言う事であろう。
そして、それは次ぎの考察で詳細の戦略が判る。

「独立血縁族」−1に付いての考察

家紋200選にある家紋は15家紋である。(詳細は史料3参照)
・加藤藤     加賀、越前  2種ある 藤原氏家紋
・上り藤     畿内長戸周防 藤原北家筋家紋 苗字が着く藤紋 賜姓族には無い
・抱き角     信濃諏訪   賜姓族 諏訪族青木氏 (諏訪氏と賜姓信濃青木氏との血縁)
・丸に抱き角   信濃甲斐上野 諏訪族青木氏の分家
・州浜      常陸、陸奥 重複 賜姓族にある
・割り菱     甲斐、北関東 重複 武田氏支流 賜姓族にある。
・丸に扇     北九州3   松平深溝氏分家
・丸に日の丸扇  筑後、豊後  佐多家氏支流
・丸に並び扇   筑後、豊前
・丸に三つ星   中国地方4  児島氏分家
・陰蔦      加賀越前越中 大岡氏
・糸輪に陰木瓜  尾張、遠江  岸氏 他7氏の分家
・丸に違い矢   中部、西関東 恒岡氏の分家
・花沢瀉     尾張、遠江  酒井氏
・丸に三階松   讃岐阿波土佐 五条氏分家 他11氏
以上「家紋200選」の15家紋である。

この15家紋だけから考察すると次ぎの様な事が観えて来る。
先ず、江戸初期か少しそれ以前の比較的新しい氏族である。

内訳を観ると、西海道の北側域(5)と、北陸道の西域(4)と、東山道の域(5)と、南海道の四国域(1)の4域の聖域を持つ家紋群である。日本8道の内の4道を血縁で抑えているのである。
これは、「単独血縁数(15/68)」の22%の成せる戦略技である。
その戦略は全体の戦略の2割の力を持っていることを示す。
つまり、大豪族との単独血縁を「第2の宗家」として行い、それが単独血縁の2割を占めて力を注いでいた事を意味する。そして、それも無造作にするのではなく、「日本8道」を自分の拠点の東海道を中心に満遍無く恣意的に4道を固めている。

諏訪族青木氏を除いて、江戸初期前に家を興した氏が主体で、共通血縁族の「藤原秀郷一門の聖域」(中部を基点に西は中国東から東は尾張、駿河がまでに広げ領国を関東に置いた域)以外の4域を満遍なくその域の豪族と「戦略的血縁」を「第2の宗家」の責任を果たすべく血縁をしている事を物語る確実な史実である。

即ち、まとめるとこの大戦略は次ぎの様に成る。

1 「共通血縁族」では「藤原秀郷一門の聖域」の保全(上記)

2 「単独血縁族」では「4道域」を抑えた。

この大戦略が観得る。

そして、それは「成長著しい新興勢力」に依って固められているのである。
当然に、古い伝統をもつ青木氏は秀郷一門主要5氏と「共通血縁族大主要4氏と補佐主要4氏」(「青木氏主要8氏」)で固められている。

3 「青木氏主要8氏」=「家紋4大血縁族」+「家紋4血縁族」

4 真に「鉄の結束」である。 
新旧の血縁族で、「第2の宗家」青木氏は総宗本家に代わって121氏をフルに活用して護っていた事を示す。

この大戦略で青木氏は秀郷一門を「第2の宗家」として単独血縁で構築し役割を果たしていたのである。


そこで、「単独血縁数(15/68)」外の78%(53/68)はどうしていたの興味が湧く。
それでは78%族の活躍具合を考察する。

名も知れない氏族である。その力をどの様に青木氏は活用して上記の戦略に加えていたのか観るとする。
この場合、「単独血縁族」の15氏の系列の一族紋は30紋あり、氏家制度の中、力の有る宗家を中心に纏まり、余程のことがない限りその「氏戦力」となる。もし、従わなかった場合には、その戦い前に力のある宗家がこれを潰すことが慣わしであり、余程の事がない限り生きて行くことは困難である。
故に、ここでは「単独血縁族」15家紋に従うとし、主要8氏の系列の一族紋の6紋も、これに従うとする。そして、第3氏の家紋6は戦力外で除くとする。

そうすると、11(68-(15+30+6-6))家紋と成り、それを「単独血縁族X」として、この11家紋の氏の活躍具合を調べる事で解析できる。

「11家紋」の解析
この11家紋は「家紋200選」に無い為に、その内容を把握するのは困難であるが、近い形の内容として把握する。

「単独血縁族」−3に付いての考察
「11家紋の内容」

1 抱き柊、蔓柊    柊明神の家紋 大関氏 武蔵7党の丹治氏系一門 江戸初期の家紋化
2 3枚笹       野々山氏 江戸初期−中期の家紋化
3 二階根笹      千葉地方 仁木氏、桜井氏 江戸初期−中期の家紋化
4 丸に六つ矢車    荒川支流の小族 関東 江戸中期の家紋化
5 隅きり角に四つ目  近江、滋賀の皇族賜姓族の末孫支流 室町期に家紋化 神職多し
6 丸に三つ目     近江、滋賀、佐々木氏系の末孫支流 室町期に家紋化 神職多し
7 三つ銀杏      関西以西の小豪族相互血縁集団の紋 江戸初期−中期の家紋化
8 二重亀甲に三つ銀杏 上記の氏と、出雲大社氏子の連合体(亀甲族)の血縁族 寺紋
9 二つ葉蔓柏     神職紋 
10 五瓜に違い鷹    中国地方、渋江氏、五瓜族の副紋(神紋関係)   
11 立ち葵       寺紋 丹波、三河 善光寺の寺紋 室町期 (松平、本田氏)

この11家紋からは次ぎの事が観えてくる。
全て、新しい江戸初期から中期の家紋の持たない者が江戸の家紋ブームに乗り家紋化したものである。そして、これ等は小氏が地域に連合して「相互間血縁」をして「集団化」したものである。
もう一つは、「神紋と寺紋」に関わるものが8紋/11ある。

「相互間血縁の集団化」と「神紋寺紋の集団化」この2つが特長である。

家紋化の時期を考えると、その必要性が青木氏にはない。
しかし、これ等は室町期頃から家紋化前に集団化して、周囲の豪族から氏を守った。その時にその集団の旗印、又は標印として使ったものが、後に家紋化したものである。

この集団化は相互間に血縁関係を作り一集団として行動を採る誓約の基に行動した。

例えば、出雲大社の氏子連はこの代表的な属種であり、寺紋の亀甲紋を家紋化して、それに各氏子の独自の印をつけたもので、亀甲紋族と言われる。この亀甲族は藤原秀郷一門と青木氏との血縁族を結んでいる。特に讃岐籐氏と「下がり藤に結び雁金」の副紋を持つ青木氏9氏の直流一門との血縁をして中国地方を治めている。
小氏集団は何らかの基に集まり、「相互血縁」し「集団化」して、後にその「集団印」を家紋化したもので、多くの地方の家紋の殆どは、この「相互血縁集団」の基にある。

この考察の結論は、「相互血縁集団」とその基になる「神紋寺紋」の内容となる。

青木氏は「単独血縁族」として、この2つのターゲットに戦略を集中させたのである。

更には、上記の説明の「共通血縁族」=「青木氏主要8氏」との結束の戦略とを複合的にして「大血縁戦略」を展開した事に成る。

総論
この様に明確な二つの特徴(「共通血縁族」と「単独血縁族」)が読み取られ考察される。
夫々には、上記の「大戦略1−4」に合わせて、上記内容の説明の通り、更に「小戦略」=「相互間血縁の集団化」と「神紋寺紋の集団化」が存在する仕組みを持って行動していたのである。

秀郷の総宗本家に変わり、武力を持つ「第2の宗家」として、この様な完全とも観える「血縁戦略」を採っていた事を示すものである。驚くに価する。

本史料をよく調べると、この様に、我々の先祖の苦労が観えて出て来るものである。

本文の考察では、この史料と考察を考慮に入れて、お読み頂きたい。

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