青木氏のルーツ & 雑学研究室

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No.1365
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Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−史料 7/10 (時代の変化に対する特長)
副管理人さん 2008/12/05 (金) 11:55
史料 7/10(主要5氏の時代性の分析)

青木氏との関係を「時代性」から観て、どの様に変化しているか、その特長を分析する。
この事から、その氏の発祥時期や氏の置かれている立場などの総括的な活躍具合が観えて来る。

(これ等は青木氏と4氏と関係の「本文の考察」の基史料と成る。)

判りやすくする為に次ぎの記号を用いる。
H:平安時代前期 K:鎌倉時代 M:室町時代 A:安土桃山時代 E:江戸時代
(一つの家紋は幾つかの時代を重複して計算している。)

「作成要領」
主要5氏各氏の家紋群を上記5つの時代に分け、その家紋群の一つ一つの発祥を分類し、一つの家紋に1ポイントを与える。
但し、一つの家紋が時代を跨るものもある。
家紋になる過程は「家紋200選」にある様な主要な家紋は、象徴−ステイタス−物象−具象−宗匠−家紋などの過程を踏むが、いきなり家紋に成るもの等多種多彩である。
又、また家紋の種類(瑞祥象徴等)もありかなり難しい。一つの家紋でも本家、分家、分流、分派等の家紋の変化と経緯と由来もあり、それらにも配慮してポイントを割り振った。

(注)
室町期(M)までの家紋群には上記の「経緯」とか「由来」を正確に持つが、安土桃山期、江戸期の家紋にそれらのものが殆ど無く「類似家紋」のものが多い。
特に江戸期初期の家紋には、殆どこの「類似家紋」が多く時代性の特定は容易である。
また古い滅びた氏の家紋を持ち出して「経緯と由来」に一致せず自前の家紋とした搾取偏纂も多い。
この辺も考慮して割り振った。従って、このポイントは数値そのものに意味を持たないレベルを表すデシベル(dB)とする。


史料
「時代性から観て家紋の分布」
長谷川氏     長沼氏      永嶋氏      進藤氏     青木氏
H:4  11%   H:3  13%   H:2  08%   H:4  13%   H:7 03%
K:1  03%   K:1  04%   K:1  04%   K:1  03%   K:20 10%  
M:15 39%   M:9  39%   M:11  46%   M:10  31%   M:81 39%
A:9  24%   A:6  26%   A:5  21%   A:7  22%   A:55 26%
E:9  24%   E:4  17%   E:5  21%   E:10  31%   E:47 22%
(謝:画面のズレはソフトの関係)

「時代性」の考察
先ず、H、Kの時代から考察する。
「青木氏」は2代目の千国を元祖とする発祥であり、「第2の宗家」であったことを物語る様に、他の4氏とはHとKが比べ物に成らない程に8倍を有し全体の家紋数(27)を保持している。

Hでは3%で低く、Kは特に10%と高い。
氏数では多いのであるが、これは平安末期から鎌倉期にかけて秀郷一門の「失職離散」の時期でもあり苦しい時期でもあった中で、「第2の宗家」として、藤原一門の氏を守らんとして働いたことを示す苦しさを示す数字である。
特に、逆にHの数字(3%)が低いのは、当時、青木氏との「血縁を進める相手」の問題があったと考えられる。
ながでも「氏家制度」の「身分家柄の吊りあい」の取れた血縁相手が少なかった事にもより、又、純血を守る「同族(属)血縁」を主体とした「奈良時代の高位の習慣」が色濃く残っていた時代でもあった。
これが青木氏に大いに働いたのであろう。何せ、「第2の宗家」でもある。宗家としての立場もあったであろう。他の4氏と同じようには行かない自由の効かない事情もあったのであろう。
逆に言えば、他の4氏と「同属血縁」する事により、「間接的に新しい血」を取り入れていた事をも意味するものである。
「共通血縁数」の数値が、他の氏と異なり8倍ほどに段突に高いのは、上記の理由から「同属血縁」を推し進めた証でもある。

H、Kの時代は氏数も少ない中でも高いものである事から、Kの10%は全国の氏数が200から800に変化した様に、4倍の変化からするとこの10%は40%に相当する。
これは、他の時期の数字から観てもピークに相当する数字であるので、大いに努力をし苦労した事を意味するものである。
何をか況や、これは「第2の宗家」としての「本当の実力の本領発揮」を示すものである。

全体的には、H、Kでは青木氏の努力の証明から勘案しても、全氏とも12−17%に入るが、これは5氏が「一致協力(絆)」して頑張ったことを示すものである。
これはまさしく青木氏の秀郷一門に対する「体制固め」を主要5氏に対して均等に図ったことを示すものである。

数字が示すもの
「同属血縁」、「本領発揮」、「体制固め」

しかし、その中で「長沼氏」と「進藤氏」は若干高めを推移している。
これはどのようなことを意味するのか多少考察しておく必要がある。

特長としては、「長沼氏」と「進藤氏」は「発祥」が「先発」で速いために矢張りHでは13%と高い。これが原因しているのであろう。
「発祥」が早いと言う事は、それなりに「積み重ねた勢力」を築いていた事を示す為に血縁の機会を拡げる事が出来たのであろう。
その証拠に、逆に「長谷川氏」と「永嶋氏」は「後発」であるので3%は高くは無い。論理が一致する。
つまり、「発祥時期」即ち「勢力圏」がこの時期では大きく働いていた事を示すものである。

では”その血縁はどのようなものであったのか”を考察する事も必要である。

この時代の数字は「同族内での血縁」でも数字が出来ているのである。

この時代はまだ、社会全体の「氏数」が低く、青木氏を除いて、4氏の数字としてはそれ相当の意味を持っている。
鎌倉時代は進んで「氏数」も増えたが、ここでは平安期に較べても数字は低い。
更に、このH期は、主要5氏共にH、Kと合わせて(12−17%)で「京平家」との軋轢の中でも氏を次第に固め始めている時期でもある。

主要5氏ともに、鎌倉期Kは対抗する「平家が滅亡した」となったとしても、反面、矢張り、鎌倉幕府樹立で「失職離散期」であり「苦難の時期」で有った事には変わりは無い。
本来なら「平家滅亡」で数字は上がる筈である。しかし、それ以上に「失職離散」のマイナス要因が大きく働いたと云う事であり、結果として、「氏数と血縁数」は当然に低いなった事を示すものである。
「平家の影響」によるものより、矢張り、「失職離散の影響」の方が影響が大きかったことを示すこの数字は、この「失職離散」期の子孫を広げるどころか失う方が大きかったほどの「大苦労」が襲ったことが解る。しかし、この大苦労が後の「子孫繁栄の礎基」と成ったと観られる。

私は今ある現在の苦労を考える時、この時期の先祖を理解して、この時期の苦労を思い起こして将来に鑑みて頑張っている。
何時か未来の子孫がこの様に考察するとき、「平成期の先祖」としての印象に成る事を期待している。これが先祖に残す「先祖が居て現在の自分がある。先祖への敬いと伝統」との最大のメッセージであり、我々も平安鎌倉期の先祖の苦労を思い起こすように。私事ながらこれ等の史料を由来書に書き記したものである。

数字が示すもの
「平家滅亡」「失職離散」「2重苦難の時期」−「子孫繁栄の礎」

さて、この事はさて置き、室町、安土桃山期の戦乱期でさえこの大苦労が実を結ぶのである。
本来であれば、更に鎌倉期より氏の入れ替えが起こり、尚且つ、既成勢力の藤原一門を狙い撃ちにされたにも拘らず、「子孫繁栄」に大きく影響した「下克上、戦国時代」に、更に翻弄されて、数字は間違いなく下がった筈である。
しかし、それにも拘らず違っているのである。

M、Aの時代
Mでは、永嶋氏と進藤氏を除く3氏は39%で「失職離散」の苦難の時代から脱出してやっとその勢力を伸ばし始めている。
その中でも、「後発」の永嶋氏は「関東屋形」(結城氏、小山氏、宇都宮氏、佐竹氏)と呼ばれる様に佐野氏流と結城流からと氏を二つに分けて勢力を「氏力」の半分を占めるほどに伸ばしている。

これに対照的に、「先発」の進藤氏は秀郷流と利仁流からとこれも氏を二つに分けているが、「氏力」は他の4氏と較べると低い。これは他の4氏の間では「接着剤的働き」に専念し勢力圏を思う存分に広げる事が出来なかったである。
また、秀郷流進藤氏はその「末裔の跡目」に代々恵まれなかった事が起因している。データーもそのように成っている。
進藤氏は他の4氏に較べて、別の方へ勢力(接着剤的働き)を注ぎ、軍事、経済、政治的な「基礎的な戦略的」が徹底されていなかった事によるものである。この「3重苦難の時期」に主要5氏にさすがは「明暗の変化」を与えた。
勿論「第2の宗家」青木氏の補完はあったのであり、主要5氏として遺し得たのであるが。

数字が示すもの
「2重苦難の時期」+「下克上、戦国時代」=「3重苦難の時期」 −「主要5氏に明暗変化」

Aでは、5氏共に「戦乱の終焉期」でありながら、同率(21−26)でありよく氏力を固めている。室町期では進藤氏が、安土桃山期では永嶋氏が史実通りやや息切れ状態ではあるが。

実は、この時、皇族賜姓青木氏、及び、藤原秀郷流青木氏は西軍と東軍に分かれて戦った。
子孫を遺すにはやむ終えない仕儀であったと考えられ、それなりの「氏力」を形成している以上避ける事は不可能であった。例え中立で居られたとしても戦いが終わった勝者の戦後処理では子孫存続は不可能であった筈でこれはこの世の条理である。

史実は、この二つの青木氏を見てみると真田氏の様に本家分家で仕儀無く二つに分けて戦っている。

この時期は「戦いによる子孫存続の可否」もさる事ながら、どちらに味方するかの天下分け目の戦いに「選択による子孫存続の可否」も大きく左右した時代でもあった。

生死を伴なう「戦いによる子孫存続の可否」+生死を伴なわない「選択による子孫存続の可否」の「2重苦の時代」でもあった。

「戦う」と言う事ではその「戦術の駆使」で臨めばよいが、「選択」と言う事で「子孫存続」を決めると言う事は「至難の業」である。最早、殆ど「賭け」であっただろう。

故に、高い確率で子孫を遺せる方法として藤原一門は「本家分家の選択」で臨んだのだ。
だから、永嶋氏や長沼氏の様に分家筋が多いのはこの事の原因によると観られる。

ただ、徳川幕府後の青木氏等の本家分家の比率を調査したが確実な答えは出なかった。
しかし、感じとしては家紋類から観て矢張り「分家筋」が多い感じがする。
確証は出来ないが数字としては青木氏は83/121=69%に成った。
当時、感覚的には社会現象として、庶民の中では、強弱は別として「軍勢の差」と「豊臣政権に対する保守的思考」が働いていたのではと考える。
大豪族は別として、全国各地の一般的な豪族の分家筋は自分達も室町期に立身出世したこともあり、「立身出世の星」の豊臣政権に期待したのではと考える。
現実は小説や伝説などの説とは少し違うのではと観ている。家紋から観ると間違いなく通説と異なる。

「通説」と「家紋説」のどちらが正しいかの検証は難しい。
藤原秀郷主要5氏の家紋から観ると分家筋が60−70%と成り、通説と異なる。
通説と異なるのは藤原一門だけが分家筋に偏ったととも考えられる。

その理由は、商業に長けた豊臣政権ならではの「2足の草鞋」策が働いたと観ているのである。

史実では、関西の堺、摂津、伊勢、近江、瀬戸内などの豪商は二つに分かれたと成っているし、藤原秀郷一門の本拠地の関東の豪商では徳川側に傾いたからである。
つまり、関西では割れた事、「2足の草鞋策」を採った秀郷一門の豪商の多くは関西に在った。

「戦い」は「武力」だけでは戦えない。「経済力」なくした絶対に勝利は無い。年貢だけではせいぜい生活が限度である。そこに、「戦いの戦費」と成ると、別の所から補う必要がある。
当時の戦いの「手弁当の掟」から、”軍事費用(戦費)の「経費負担」はこの「2足の草鞋策」の豪商から出ていた”とし、その「豪商の発言力」が左右したのではと観られる。
況や、この豪商の主体は「第2の宗家」の「青木氏の発言力」に有ったからである。
「2足の草鞋策」を持つ「讃岐籐氏」の青木氏と、四国の豪族の藤原一門の長曾我部氏等の末裔は、四国では秀吉と戦っている事からも、藤原秀郷一門の特長であったと観られる。
血縁を結んでいる伊勢青木氏を始めとする5家5流の賜姓族青木氏と、その「2足の草鞋策」の豪商の全ては徳川方に味方した。その為に、関西の5地方の港を抑えていた商業に長けた豊臣政権に対抗して、家柄、身分から観て、その「2足の草鞋策」の青木氏の豪商は、徳川氏に味方し、その発言力を保守的な本家筋を避け分家筋に向けていたと観られる。

平安、鎌倉期の「失職離散、氏家制度の影響」と、室町期の「下克上、戦国時代の血縁戦略の良悪」と異なり、この時の時代背景(2極体制下、「2足の草鞋策」の経済力、賭け)が数字に、即ち子孫繁栄に大きく左右した時代でもあった。

平安鎌倉期は「失職離散、氏家制度の影響」
室町期は「下克上、戦国時代の血縁戦略の良悪」
安土桃山期は「2極体制下、2足の草鞋策の経済力、賭け」
 
Eでは、混乱から安定期に入り、青木氏は当然として、「後発」の2氏の長谷川氏と永嶋氏は20%程度である。江戸幕府の御家人、旗本に成り子孫を遺す為に勢力を懸命に維持した時代である。その苦労が数字で物語っている。
ここでは進藤氏が高い「氏力」を示している。これはMでの伸び切れなかった「氏力」をここで伸ばしているのである。
「接着剤的働き」がここに来て花を咲かしたと云う事になり、他の4氏と違う「生残り戦略」を採った結果による。
進藤氏が室町期に足利氏に大老として入り各地、特に北陸道以北に領国を持ち、その戦乱の影響を最小限に抑えた結果、江戸期に入って、その力をその遺された力を遺憾なく発揮したのである。

その証拠に、逆の現象を起こした中部にその勢力を温存していた先発の長沼氏は、低い「氏力」を示している。「生残り戦略」を前半に採った事に依る。
つまり、平安鎌倉期の「高位の氏との血縁」を主体としていたが、江戸期には「戦乱後の立身出世の豪族」との入れ替わりの時代と成り、その時代の趨勢に乗れなかった結果でもある。

「高位の氏との血縁」から「戦乱後の立身出世の豪族」に変化

しかし、全体を観ても判る様に、青木氏は他の4氏の「標準的氏力」を示している。
夫々の「時代性」に対応して「血縁戦略」を採っている事を物語っている。
その苦労が読み取れる。
これは、矢張り、藤原秀郷一門を指揮するその立場(第2の宗家)から来ているのでは無いかと観られる。極端な戦略は取れない立場で、且つ生残れなくては成らない宿命があった事に依る。
しかし、時代を通じてところがこれが相して現代に我々子孫が現存する結果と成ったのである。

このデータはその時の「時代の背景」とデータを突き合せてみると、先祖の生き様がこの様に良く見えてくる。
史料7/10は、この様に他に多くのことの分析に使用する事が出来るので利用されたい。

このデータは主要5氏の分析考察の確証となるものである。

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