青木氏のルーツ & 雑学研究室

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No.2111
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Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−史料 8/10-A(時代の変化に対する役割)
副管理人さん 2009/01/02 (金) 10:43
史料8/10−A

次ぎは史料A(時代の変化に対して5氏の繋がり具合)の付いて考察する。

「共通血縁族」
史料A

     2氏の場合       3氏の場合       4氏の場合
長谷川氏:15/22 68%   14/17 82%   06/7 86%  
進藤氏 :03/22 14%   09/17 53%   07/7 100%
永嶋氏 :02/22 09%   06/17 35%   03/7 43%
長沼氏 :02/22 09%   02/17 12%   04/7 57%

5氏の場合:「家紋4大血縁族」(7氏)
長谷川氏:100%
進藤氏 :100%
永嶋氏 :100%
長沼氏 :100%

(氏の家紋数/全家紋数)=X%
{但し、2(3、4)氏とは青木氏と他1(3、4)氏を云う}
(史料5/10より統計による算出)

参考
「共通血縁族」「秀郷一門性」
5氏共通:「家紋4大血縁族」=・丸に片喰、・丸に剣片喰、・丸に違い鷹の羽、・丸に梅鉢族
4氏共通:「家紋4血縁族」=・九曜、・抱き茗荷、・丸に桔梗、・丸に立ち沢瀉。


史料A
4氏の内では、「長谷川氏」が「青木氏」と最も関係を深く持っていた事が判る。
2氏(68)、3氏(82)、4氏(86)、5氏(100)の何れの場合もこれを証明している。
特に、全体的に高いレベルであるが、「共通性」の高い方に行く程に高くなっている。
つまり、「共通性」即ち「秀郷一門性」(「共通血縁族8氏」)が強く成ると、更に「長谷川氏」との繋がりが強く成っている。
これは兼光流のリーダーの「青木氏(116氏)」と文行流のリーダー「長谷川氏(111氏)」の2氏が強く繋がっていた事を示す証拠である。
2氏の場合(青木氏と他1氏)の「共通血縁族」までもが段突であると云う事は、「長谷川氏」と「青木氏」はそれも末端の氏とも相互に「血縁関係」が深く繋がっていた事を示す証拠でもある。
何れもトップで高率であるので疑う余地はない。「青木氏」が「第2の宗家」であるなら、「長谷川氏」は「第3の宗家」とも云えるレベルである。実際、そうであっただろう事がこの数字の高レベルで想像出来る。
況や「氏数」が「青木氏116」と「長谷川氏111」と同じである事からも、240年経ってもこの兼光流と文行流の二つのリーダーが間違いなくスクラム組んで共に一門のために働いていた事の証明と成る。
本文で、北九州の「大蔵氏系永嶋氏」との繋がりに付いて仮設1−4で説明したが、その時、「長谷川氏」が介在したとの仮説を有力視したのはこの事からである。
「青木氏」は「長谷川氏」との連携で、「永嶋氏」を一門の常套手段の「血縁戦略」で北九州に発祥させたが、その「青木氏」は、豊前と肥前に未勘の藤原秀郷流の青木村を形成している史実がある。(地名地形データ等に記載:豊前が有力)
入間の青木氏宗家からの指令でこの「血縁戦略」を「長谷川氏」と進めるには充分な連携の数値であると観ている。この史料の最も明確な特長である。

二つ目の特長は、「永嶋氏」、「長沼氏」はほぼ同率でレベルを上げている。従って「一門性」が高く成っている事である。ただ、「長谷川氏」とは少し違っている。
その違いは、これは秀郷一門の主要な「家紋大血縁族4氏」(5氏)と「家紋血縁族4氏」(4氏)の「共通血縁族8氏」だけで主に強く繋がっていた事を示すものである。
2氏の場合、3子の場合では、共に低い数字である。ところが4氏になって急に50%台に成り、5氏ではいきなり100%と成っている。
これは、「青木氏」が、主要な「共通血縁族8氏」とで緊密に「永嶋氏」、「長沼氏」とより繋がっていた事を示すものである。どちらかと云えばやや「永嶋氏」の方の「繋がり」が強く成っている。
その一つの例として、「関東屋形」と呼ばれる様に、「長沼氏」より、「永嶋氏」の方がより積極的に青木氏と「血縁戦略」の面で協調していたことを示すものである。
例えば、上記した北九州の「永嶋氏」との血縁は、関西に向けて西域方向に勢力を伸ばしていたが、関西域を飛び越えて「永嶋氏」が北九州で血縁族を作る事で、一門にとって、戦略上、中国地方の「平家末裔の一門」と「其の他の勢力」を北九州の背後から牽制する事が出来る。この様に「第2の宗家」としての青木氏と「協調戦略」を採っていた。
又、九州全土には、「平家(たいら族)」の先祖の阿多倍一門が率いてきた「後漢」の集団の帰化人の多く住む地域である。特に、これ等の末裔が統治していた北九州の大宰府には「太宰大監」として「遠の朝廷」が置かれていた所である。その「大蔵氏」との血縁に踏み切ったのである。つまり、大蔵氏系長嶋氏である。敵陣の本部の土地に楔(くさび)を打ち込み、敵陣の指揮官の家との血縁を成し遂げたのである。「背後からの牽制」どころの話ではない。敵陣の懐に入り、敵の「主」に成ったとほぼ同じである。既に、帰化から500年以上も経っているが、藤原秀郷一門の敵である中国地方の平家一門末裔の分断孤立が起こったのである。
この「永嶋氏」の「歴史的な血縁戦略」が起こったのだが、後発の「永嶋氏」だけの勢力でこれを成しうる事ではない。この戦略には「一門総出」でなくてはこれだけのことは出来ない。
”戦わずして藤原一門の勢力の拡大と安泰の戦略が成し遂げられた”と云っても過言ではない。
そうなると、当然、「一門総出」とは、一門の「第2の宗家の青木氏」と「文行流の領袖長谷川氏」がこの「裏打ち」をしたことには疑いない。
即ち、この”「主要5氏の役割」をはっきりさせたこのデータがそれを物語っている”と述べている。
しかし、データが示す様に「永嶋氏」にはその役割を生かした戦略が見えるが、「長沼氏」との間にはこの様なはっきりとした「協調戦略」が見当たらないのである。その様に歴史は数字通りである。
この事に付いては、本文中にこの史料の分析結果が反映している。

この「永嶋氏」や「長沼氏」の兼光流としては、本来はむしろ強く繋がっている筈と考えられるが、ところが逆に成っている。
これは同流の「兼光流」と云う事が逆に左右した為に、「青木氏」の末端との「血縁性」を下げたことであろう。(下記 長沼氏には別の理由もあった)

その中の最大の理由は「同属血縁」が強く成ることを出来るだけ避けたものであろう。
その証拠に、文行流の「長谷川氏」と「進藤氏」は、逆に数字が、5氏は勿論の事、2氏、3氏、4氏共に高い。
「長沼氏」はその中でも一番低い(9、12、57)のは、兼光流の中でも「青木氏」と先発組で同系列で、より「同属血縁性」は高まるので一門にとって子孫存続と云う点で危険である為に避けたものであろう。むしろ、「長沼氏」はより高い「近親血縁性」の危険があったと観られる。
それだけに「主要共通血縁族4氏」に限定したのではないか。そして、文行流からの末端から入る他氏の血筋を入れる事で薄めていた事が云える。

ところが、「進藤氏」は「主要共通血縁族8氏」との繋がりのこの傾向をより強くしている。4氏と5氏では100%である。
この4氏、5氏の100%の意味するところは、特別に青木氏との何らかの繋がりを強力に持っていた事を示すものである。100%が2つ繋がっていることは、又、「長谷川氏」とは異なった繋がりを持っている事も示すものである。
これは、「青木氏」と一門との何らかの「繋がりの役目」を果たしていた事を示すもので、この4氏5氏のところで100%で強く血縁して、それを背景に一門他氏との「接着剤的な役割」を果たしていた事を物語るものである。
4氏5氏は青木氏の主要な「共通血縁族8氏」である。つまり、「青木氏」は「共通血縁族8氏」を総括する「第2の宗家」である。言い換えれば、4氏、5氏のデータは「共通血縁族8氏」の存在を証明するものでもある。
「進藤氏」に付いては、役割を判りやすくする為に数式で表すと、次ぎの様な関係を維持していた事に成る。
「青木氏」=「第2の宗家」+「共通血縁族8氏」=「進藤氏」=100% 
と成る。
故に、「進藤氏」=「第2の宗家」の代理
と成る。

この数式で表される「進藤氏」と「青木氏」とが強く血縁で繋がった「進藤氏」の発言は「第2の宗家」の「発言、指示」として「一門他氏」に伝わるであろう。
「青木氏」はこの「進藤氏」を「接着剤的役割」として動かしていた事になる証拠である。
「進藤氏」=「接着剤的役割」
「長谷川氏」=「文行流領袖」+「第3の宗家」
同じ高い数字を示す「長谷川氏」とは又別の意味の繋がりであろう。
兼光流と文行流の「2つの流」の領袖であろう。勿論、「第3子跡目」の慣習を持つ「第2の宗家」は「青木氏」であるが、2つの一門の「流」を保つ氏、つまり、「2軍の将」が「長谷川氏」であろう。
その「2軍の将」の「長谷川氏」と繋がりを強くする事は文行流一門を統括できる仕組みである。
その役割の違いは、「進藤氏」の「接着剤的役割」と「2軍の将」の「長谷川氏」と成ろう。
青木氏は文行流に対して、一門を固めるためにこの「2つの戦略」を採っていた事に成る。
この事から、「進藤氏」は「青木氏」、「長谷川氏」の「2つの領袖」の「軍師役」と読める。
だから、普通であれば世に言う「2軍の将 相立たず」の戒めの通りであろう。
しかし、ここに「進藤氏」の「接着剤的役割」が存在する事により「緩衝効果」が働き成り立ったのではないか。このデータはそのような「数字配列」に成っている。

もし、「長谷川氏」が逆に「接着剤的役割」であったとすると、2氏から5氏まで高率で繋がる必要がなかろう。その繋がっている必要性は「共通血縁族8氏」だけで済む事である。
まして、2つの氏流の領袖の片方の「長谷川氏」が「接着剤的役割」として「青木氏」に「物申す」は、真に「2軍の将 相立たず」そのものに成る。
それ程に「接着剤的役割」の役割であれば、無理に「長谷川氏」は子孫縁者を使って「青木氏」と血縁する余裕は無くそれを他氏の血縁に振り向ける方が得策であろう。
現に「進藤氏」は「利仁流進藤氏」の方が末裔を拡大し、本流の「秀郷流進藤氏」は代々跡目を何度も他氏から採らなければ成らない程に末裔の広がりは本家筋だけで殆ど無い。
故に、「進藤氏」は「長谷川氏」と違って「接着剤的役割」を果たす事に専念し、繋がりとして「共通血縁族8氏」に全精力(100)を注いだと見られる。
又、これで「長谷川氏」が「接着剤的役割」の働きを採っていなかった事が判る。

「長谷川氏」は111氏と大勢力を持つ氏力を保有している。必然的にその力は「接着剤的役割」に留まらず、「2軍の将」へと必然的に当然に進むだろう。又、その方が兼光流の「青木氏」と繋がって置く方が戦略上で補完関係を構築出来てより得策と成る。
だから史料では「2軍の将」の「悪の結末」に成っていないから、藤原秀郷一門の末裔は遺したのである。
故に、この「2つの領袖」の「青木氏」と「長谷川氏」と「進藤氏」は、数式で表すと次ぎの様な関係であろう。
「青木氏(116)」>「長谷川氏(111)」+「進藤氏」−−−−「永嶋氏」
「第2の宗家:兼光流領袖:第3氏家法」>「文行流領袖」+「接着剤的役割」−−「先鋒的役割」

この数式が成り立っていて良かったから「悪の結末」に成らず現在まで末裔を遺したのではと考えられ、この数式を維持していたと必然的に成る。

この世の「役割の違い」は、「氏家制度」では、その「氏力」が起因して「自然の摂理」で定まって行くものである。
この「永嶋氏」、「長沼氏」、「進藤氏」も同様の「氏力の差違」、即ち「血縁の特長」で定まったものであり、この史料Aのデータと成っているのである。つまり、「血縁の特長」で束ねていたのである。
「進藤氏」と「長谷川氏」とのその「中間的役割」として、「永嶋氏」、「長沼氏」があるが、「関東屋形」と呼ばれるくらいに後発の「永嶋氏」の方の勢力が高まり、その勢力を戦略的に一門の防御の為には、「永嶋氏」との繋がりを強くしていた事を示す証拠でもある。
「永嶋氏」が3氏の処で高い血縁数字を示しているのは、九州地域の豪族との血縁にその勢力を補完している事による。
「戦略的役割」が在ってもその働き手が無ければ「絵に描いた餅」である。
史実をよく観ると、この役割を実行している氏が居る。
それは上記の「戦略的役割」の数式に、「永嶋氏」の「戦術的役割」が働いていたと観る。

永嶋氏の本分でも強く述べてが、当時、永嶋氏が「関東屋形」と呼ばれていたのがその証拠であろう。
つまり、「戦略的役割」を実行し行動を起す「先鋒的役割」を担っていたと観る。
現に、後発でありながら中部西域から関西西から中国地方に向けて勢力を伸ばし攻撃的に進出していたし、北九州の大豪族の「大蔵氏」との繋がりを持ち「永嶋氏」を発祥させた。「六韜三略」の「鶴翼の陣」の最先端部の役割を果たしていたのである。「永嶋氏」の家紋群から見てもその役割が観得る。
しかし、長沼氏の事には不詳な点が多い。そこで、この長沼氏の系譜の事に付いて触れて置くことにする。
まず、結論からすると、「長沼氏」はこの「戦術的役割」の補完を担っていたであろう。
史実には強く出てこないし、血縁類も先発である事から、「先鋒的」な血縁類ではない。
系譜から考察すると、かなりこの氏は「貴族的」な感覚を保持していたのであろう。
しかし、主要5氏の一つであるのだから、長沼氏一門の誰かがこの役目を担っていたはずである。
そこで、考察すると系譜からそれを物語る。
結論から、「長沼氏」には「中沼氏」が存在する。
従って、この(支流)の「中沼氏」が当然注目される。しかし、主要5氏に成り得る勢力を保持したのであるから「貴族的本家」に対して、中沼氏がその役目を代行していた事に成る。
その氏が同系列の「中沼氏」である。
この「中沼氏」は子孫末裔を大きく伸ばしている処から観ると先ず正しいのではと考える。
現に、現在に於いても、歴史家の中では、実は、この「長沼氏」と「中沼氏」とは同じ氏とする説が大勢であるのはこの代行から来ているので誤解されていると観る。いや誤解ではなく解釈の違いであろう。しかし、この二つのルーツは「長沼氏」が出てそしてその系列から「中沼氏」が出ているし、始祖はずれているので系譜上は分派している。
先ず、古い文献資料を考察すると長沼氏は次ぎの様に成る。
@長沼氏、
A中沼氏、
B仲沼氏、
C永沼氏
@からCと4つ出て来る。

この「長沼氏」は室町期まで観ると「9つの流」がある。
藤原秀郷流をベースとして、次ぎの様に成る。
長沼氏9氏である。
渕名氏族、小山氏族、藤原秀行流、土岐氏族、日奉姓西党流、宇都宮族、桓武平氏族、島津氏族、織田氏族 
以上9氏である。

この中で、明確に「中沼氏」と称しているのは、次ぎの3つである。
小山氏族と宇都宮氏族と島津氏族とがある。
島津氏族は時代性と地理性から観て異なるだろう。

明らかに、小山氏族と宇都宮氏族である。
先ず、「小山氏」は「関東屋形」の1つであり中沼氏を出している。
「永嶋氏」の「関東屋形」の「先鋒的役割」の「関東屋形」である。
更に、この小山氏は秀郷一門が陸奥の鎮守府将軍として赴任した陸奥での最大血縁族であり、関東に同行して来て大きく勢力を伸ばした野戦的一族である。

同じ「関東屋形」の一つ宇都宮氏族の中沼氏もある。
秀郷一門より分流した宇都宮氏である。

「関東屋形」の結城氏系永嶋氏(長嶋氏)と合力して、秀郷一門を「先鋒的役割」を果たした小山氏、宇都宮氏の3氏である。

上記の長沼氏族4氏の内の中沼氏はこの2つである。
長沼氏一門が動くとしたら、この「関東屋形」の野戦的一族の経歴を持つこの「中沼氏」以外に無い。
後は「渕名氏」を除き、6つは支流分派族でもあり、第3氏性も強く仲沼氏や永沼氏や又どちらともわからない一族でもある。

この結論は上記の「渕名氏族長沼氏」である。
6代目「渕名氏」(兼行:第2位発祥)の子の7代目考綱の「長沼氏本流」は秀郷一門第3位の発祥氏であるから、貴族的な傾向が強いので、正流長沼氏一門のこの二つの野戦的一族「中沼氏」(祖宗政)に任したのであろう。
その方が、「永嶋氏」との関係からも同じ「関東屋形」として「先鋒的役割」の実行を円滑に行く。
逆に云えば、この3氏だから、「関東屋形」であり、その「先鋒的役割」を果たしたからこそ云われる呼称なのである。
つまり、ここに秀郷一門のその役目が隠されていたのである。「関東屋形」と云う呼称で。

「関東屋形」=「先鋒的役割」=「野戦的役割」
である。

「繋がり」から観れば、夫々の役割は持っていたであろうが、血縁データから「青木氏」、「長谷川氏」、「進藤氏」、「永嶋氏」、「長沼氏」の順となろう。
秀郷一門のを盛りたてる役割は次ぎの様な戦略を採用して一門を維持していたと考えられる。

秀郷一門の主要5氏の役割
青木氏の「第2の宗家」(兼光流領袖) 秀郷一門全体の指揮
長谷川氏の「第3の宗家」(文行流領袖) 青木氏と綿密に血縁戦略を展開
進藤氏の「接着剤的役割」(兼光流−文行流)「第2の宗家」の官房役 調整役
永嶋氏の「先鋒的役割」(実践的活動) 「関東屋形」
中沼氏(長沼氏)の「先鋒的役割」(永嶋氏の補完役) 「関東屋形」(小山氏、宇都宮氏)

では、主要5氏と呼称される位であるのだから、長沼氏は”何もしなかったのか”と疑問が湧く。

結論は”長沼氏は実は大きな「政治的役割」を果たしていた”である。

実は、その証拠が活動の史実として在るのである。
それは関東に「西党」と呼称される「土豪大集団」(20)が存在した。
その大集団が更に「武蔵7党」と云う「土豪の結束連合集団」に属していた。
これを「長沼氏」は20の土豪集団「西党」を率いて、この「土豪の結束大連合集団」を統括していたのである。

中沼氏の本流の「長沼氏」は史料から読み取ると、青木氏に代わって、主に「政治的組織」の「統括役割」を担っていたのである。
その理由として、関東の「武蔵7党」の「西氏」の「西党」の形成にある。
長沼氏は関東一円の小豪族を一つにまとめて、「西党」なる集団を形成し、更に武蔵一帯域にこの様な集団を形成させて「武蔵7党」の「連合組織」を形成していたのである。その一つを統括していた。

その「西党」とは20氏から成り立っている。
西党の構成氏
長沼氏、西氏、上田氏、小河氏、稲毛氏、平山氏、河口氏、由木氏、西宮氏、由井氏、中野氏、田村氏、立川氏、沼江氏、信乃氏、高橋氏、清恒氏、平目氏、二宮氏
以上20氏である。

「武蔵7党」の中の1つの「西党」は以上の20氏の小豪族で成り立っていた。
つまり、秀郷一門の主要5氏の一つ長沼氏は、関東一円の地元の小豪族を宗家に替わってまとめる役目をしていた事を示すものである。
それは、「青木氏」に継ぐ名門「渕名氏」の「長沼氏」であるが故に出来る事であり、「第2の宗家」の「青木氏」が各地に赴任する中で、地元から崩れないように政治的に固めていた証拠である。
そして、「長沼氏」の一門の中で、「中沼氏」を秀郷一門の戦略に参加させていた事に成る。
言わずもがな、これ等の集団と長沼氏を中心とする「血縁関係」を保持しての事である。
他にも、更に証拠があるが、ここではこの程度しておく。(別途機会があればレポートする)

つまり、長沼氏は本家筋は「西党」を形成して更に「武蔵7党」と連携しながら「政治的役割」を果たしていたのである。
確かに、入間を中心に円を描く様に青木一門が取り囲んで固めても、元は下野の押領使である秀郷が最終、この武蔵下野を始めとする関東を統括するには、古来から居た土豪集団を治めねば成り立つ話ではない。家の中に爆弾を抱えているようなものである。
当然、先ず領国とする以上はこの土豪を治める事から始めねば成らない。
青木氏だけでは成り立たない。当然、その役目は青木氏に継いで第2、3位発祥の古参の氏と成る。「渕名氏」か子供の「長沼氏」かと成る。渕名氏族「長沼氏」がこの役目を担った。
この渕名氏族長沼氏は、土豪を先ずまとめる事から入り、先ず自ら「西党」を構築し、次いで、各地で集団化を促し、最終、「武蔵7党」が形成されたのである。元々この地には丹治党などの幾つかの弱い集団が出来ていた。丹治氏系青木氏が存在するのはこの役目の所以の血縁である。
一口で”関東一円の土豪集団をまとめる”と云うが大変な事である。軍事、経済的だけでは離反する。秀郷一門の懐だけに実に固く固めておく必要がある。それには、血縁で何重にも固めることが必要であろう。これが、主要5氏の1氏2氏の血縁族の家紋群である。
血縁となれば、長沼氏だけでは一門との血縁もあり成り立つ筈が無い。
故に、データでは、長沼氏が一番低い数字と成っているのである。この長沼氏の役目の方に振り向ける必要があった事を意味する。
そこで、「青木氏」の指揮の下に、5氏の縁者を婿、嫁、養子を問わず振り向けて固めたのである。
長沼氏(25%)と青木氏(33%)の血縁族には、これらの関東土豪氏(武蔵7党と西党等)との血縁氏が他氏と較べて段突に多く観られる所以なのである。(史料9、10/10参照)
この様に、「長沼氏」は大きな「政治的役割」を果たしていたのであり、秀郷一門としての役割の責任は一門の「中沼氏」に委ねた。
これが「関東屋形」と呼称されるものであり、秀郷一門の本来の役目を果たしたと成る。

長沼氏はこの「2つの役目」(懐を固める「政治的役割」と先鋒的行動する「戦術的役割」)を果たしていたのであるから主要5氏としての地位を築いたのである。

この様に数字に示すように4氏に対して一門を血縁でも、「自然の摂理」とは云え、この偉大な青木氏は「第2の宗家」として、これらの構成の役割を見損なわずに指揮する者が居たからこそ成し得る血縁構成を後世に導いたのである。それは「青木氏」であったのである。150万と云う一門を現在に遺した誉れ高き青木氏である。

それにしても、この史料−8/10−@、Aのデータから、後世の末裔の我々が驚くほどに、「世の摂理」を見抜いて「子孫を遺す」事に卓越した「人格保持」、況や「悟り境地」にあった事がこのデータと史実を照らし合わせて観るとよく判る。

史実だけでの分析からでは読み取れないが、「統計分析」して、その沈殿物を集めて、その内容を分析すると見えないものが浮き出て来る。
筆者の研究の本質は、史料をただ「突き合わせる事」ではなく「統計分析」のここにある。
つまり、「史実を数値化」する事にある。「沈殿物」にこそその「本質源」が潜んでいる。「遺伝子分析」もたんぱく質を遠心分離して特殊光を照射する事で遺伝情報を引き出す様に。
この史料は9/10、10/10とまだ続く。未だ未だ秀郷一門を浮き彫りに出来るだろう。

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