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  [No.121] Re: 先祖と宗教(キリスト教の教え−1 主題4)
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 15:50:03

Re: 先祖と宗教(キリスト教の教え−1 主題4)
副管理人さん 2007/10/20 (土) 09:51
ご意見の内で、次の文意に対する問題として、
1「呪いの意」
2「時間の逆行性」
3「行為と行動の進行性」
4「キリスト経の教え」
5「仏教とキリスト経の妥協の余地」

以上に付いて私観を述べたいと思います。
超論文に成りますので、シリーズで記述する事にしますのでご理解ください。

4「キリスト経の教え」
さて、4の主題の「キリスト教の教え」に付いて。
下記の設問(1−10)です。

そこで、前々回の設問の末尾に次のようなことを書きました。

”信仰すれば、こうしてくれる”は信仰とは云わないのではないかと言うことを書きました。
兎に角、私は「宗教」に対して「ご利益信仰」が主体と成っている事に疑問なのです。
つまり、”こうすれば、こうしてくれる”と言う見返りを求める信仰はここでは論じないでおきます。

次の設問の「キリスト教」は、この傾向が説話の中で多すぎると感じています。
”信じよ、されば救われん。”には納得できません。信じなくても救われる筈です。信じたら神のご利益があると言うことは真さに、この事です。
仏教は、”信じよ”とは云っていません。”理解せよ。”です。
つまり、”理解すれば「静かなる心根」を得て、必然的で、間接的に救われる道に自ずと向かい成るだろう”と言うのです。そして、”その理解を日々増やせ。さすれば、より「深い心根」が得られるであろう”と説いています。

更に、キリスト教は、”人は悪の子供”(罪深き子)と設定していますが、仏教では”悪の子供(罪の子)であるも普通であり悪(罪)と拘るな”であります。それが「人」だと説いています。

これが私の若い頃にキリスト教の説法を4年間聞きに行って知ったポイントでした。

多少の自分勝手な歪みもありますが、なんとなく心の底から納得できないところがありました。そして、説話の解読が”何か攻撃的である”と印象を持ったのです。
これは多分、”民族的な遺伝子の違い゛では無いかと思いました。

そこで、質問をしました所、帰ってくる答えは、何か頭に引っかかるもので、”日本民族のレベル(民主主義のレベル)が低い”のであるかのニュアンスの答えと感じ取りました。
これは当然の答えでもあるかも知れません。当時は、まだ日本は戦後15年程度しか経っていませんし、復興途中ですのでアメリカ人から低く観られていたと考えます。我々のほうがそう云う風に受け取っていたとも考えられますが、やや、彼らの心中にその様な心を一部に宿していた事も事実でしよう。
しかし、中に仏教を勉強していた牧師というか宣教師が居て、仏教との違いを認めていたのも事実でした。その違いは「蛮な宗教」として排除していた言葉を説話の中で聞き及んでいました。同席していた友人たちと牧師との間で、議論になったことを覚えています。

しかしながら、後に仏教も含めて正しく勉強し直した結果は、次の様な事柄でかなり近い調査結果でした。
確かに、その調査結果の違いは、次のような事でした。

1 他宗を少なくとも先ずは強く排他している事。
2 教えがかなり強引である事。
3 キリスト個人を神扱いにしている事。
4 兎に角にも、”先ずは信じよ”である事。
5 人は全て悪の子供であると否定する事。
6 中間的考え(柔軟性)は無い事。
7 全体が闘争的な発想に成っている事。
8 特定者(若い者)には受け入れられ易い合理的な教えに成っている事。
9 先祖に対する考えは全体として希薄である事。
10「民族的」と言う考えを認めていない事。

本来、仏教では、”宗教は「万教帰一」である”と説いています。少し違い過ぎているという感じがしました。
そこで、上記の事に付いて、その違い際を出す目的で論じてみたいと思います。
そうする事でその違いの全体の論所が見えてくるのではないかと思います。

1番目の事です。(他宗を少なくとも先ずは強く排他している事)

どの宗教の教義も、良く似た傾向がありますが、仏教では、他宗を強く否定することは有りません。
「万教帰一」と説いているくらいですから、少なくとも、仏教のどの宗派もほぼ同じ教義です。
しかし、はっきりとキリスト教は仏教(他教)を否定しています。世界の宗教はキリスト教しか存在し得ないとも云っていますから、ここの排他的なことが明確な違いの一つです。
最近はトーンを落としていると聞きますが、紛争地での世界のキリスト教の布教の行動を観ると変わっていないと思えます。
本来、宗教は少なくとも「人」を救う事を目的として存在しています。これはどの宗教も同じ筈です。
その救う手段(教義)が異なると言うことだけですが、然し、突き詰めれば人を「救う理由」は、どの民族でも「悩み」としては同じである筈です。だから”キリスト教以外には存在しない”は疑問です。

確かに、夫々の宗教は、その「民族の発祥をベース」に成っていることは確かですので、そこで起こる「民族の生活程度」や「遺伝子的な民族の悩み」のそれから来る悩みの大小はあっても、「救う理由」は同じです。
当然、その「理由」に対する「教え」は突き詰めると、同じ程度のものになると考えられます。
しかし、ここが「違いの原点」になるのでしょう。その理由の大小に対して、何処の部分に重点を加えた教義にするかで異なってくる事は否めません。
しかし、否定する理由としては問題です。

現に、キリスト教、ヒンズー教、イスラム教、ユダヤ教、仏教、儒教、等の宗教で、例えば、キリスト教はローマ時代の乱れた民衆の不満をベースになっています。ユダヤ教は「ジプシー民族」をベースに出来ていますし、イスラム教はその定住する位置と多民族の構成でその置かれている立場(アジア民族とヨーロッパ民族の混血族)から生まれたものです。
従って、「戦い」をベースとして居るために、宗教として最も「戦い」を排除しなければならないのに唯一教義として「聖戦」を認めています。
宗教ではどう考えても「聖戦」は疑問です。民衆の手段としては考えられるが。
この様に、夫々の発祥をベースとしています。

しかし、仏教は、インダス文明として多くの宗教が生まれた中で、小さく拡がりながら中国より日本に司馬氏の始祖の仏師の司馬達等が最初に私伝したものであり、古来より居た神道の物部氏と、百済から渡来した仏教の蘇我氏との戦いの結果、国政として仏教を導入したものであります。正式には後の594年の「仏教興隆の詔」(仏、法、僧)であります。

仏教は、日本以外での成り立ちがどうであろうと、日本での伝承は、奈良時代の「天神文化」として一つの国政上の理由から発達したものであります。
つまり、神道と仏教との「融合文化」で仏教は成育したものであります。
これが奈良期の「天神文化」であります。

「天神文化」、つまり、「人の悩み」を基とした教義というよりは、人間としての有るべき姿、即ち、「信義、道義、徳義」を求めて、そこから人としての悩みを排除しようとした教義であります。

「般若心経」は真さにこの「心経(こころのみち)」であります。従って、その目途して、必然的に他教の教義を否定する必要性は考えられないし、人の有るべき姿、即ち、生きる「道」を説いている宗教であります。
布教に際する教義の説法は、他国のビルマやタイの仏教との違う点は、神道と仏教の融合文化(天神文化)の末に生まれた教義でありますから、独自の宗教といえます。
「武士道」もこの融合文化の仏教と神道の融合教義から生まれた「教道」であります。
事程左様に、融合であるが為に他宗を否定するに至りません。
しかし、キリスト教等はその発祥の基が異なることに成りますので、その布教は必然的に他教を肯定する訳には行きません。ここが、教義の前提の大きく違う点に成ります。

次は2番の事、即ち、教えがかなり強引である事。に続きます。



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