青木氏氏 研究室
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  [No.135] 日本書紀と青木氏 1
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 20:15:52

日本書紀と青木氏 1
副管理人さん 2008/04/24 (木) 10:08
日本書紀と青木氏

日本書紀には、下記に列記する通り青木氏の始祖の活躍が多く出て来る。
その活躍具合を現して、我等の先祖がどの様に生き有能であったかを検証する。
特に、この日本書紀が編成された時期は、未だ大化期とその直ぐ後の事柄について書かれているので、主に青木氏の始祖の伊勢青木氏と近江佐々木氏の活躍具合が現せる。
今回は伊勢青木氏とする。

以下の項目をで10シリーズに分けてレポートする。

検証する青木氏に関わる内容は次の通りである。
検証項目
活躍 第1節 「白雉の年号」
活躍 第2節 「伊勢王の薨去」
活躍 第3節 「伊勢国の重要度」
活躍 第4節 「諸国の巡行」
活躍 第5節 「紫の袴着用の許可」(最高位の身分扱い)
活躍 第6節 「天皇の名代」
活躍 第7節 「天武天皇の葬儀」
活躍 第8節 「善行説話の編集」
活躍 第9節 「伊勢行幸」
活躍 第10節 「大隈の首魁(阿多倍)」

序として
日本書紀はその時期の出来事を事細かく日記的(編年体)に書きとめているものであるので、その活躍具合を表現するには、全編を見た上で、その[活躍どころ]がどの様なものであったかをまとめて、その行間前後の「活躍姿」を考察して、個々の活躍の「役目柄と背景」を見定める必要がある。
大化改新の詔に依って生まれた(伊勢)青木氏の始祖は、主に「伊勢王」と「施基皇子」(芝基)言う形で出て来る。
従って、その「伊勢王」(30箇所程度)として出てきたところの前後の文章の背景と予備知識(研究室)を考察して纏める事にする。

と言うのは、この日本書紀は天武天皇の皇子の舎人親王らが編集したものであるが、この日本書紀はただの文章と言う事であり、見てもその内容をよく理解できない。
大事なことは、日本書紀が出来た時の政治体制や、その状況や、天皇家の構成や、朝廷の状況や、50人に及ぶ皇子皇女の活躍具合や、身分制度や、公家百官の状況等を把握した上で、その行編を外から見る必要がある。又、舎人親王の人柄とか、書き難い事を間接表現している事もあり、又、後の行間でこっそりと簡潔に記述していることもあり、内側からも見る必要もある。
更には、それでなくては、ただの文章の羅列で何の面白みも生き様も見えて来ないのである。

その史料として、研究室にこの時代の史実をレポートしているので、それを大まかに把握されている事を思い起こして、お読みいただきたい。未だお読みに成っていない方は研究室の右メニューの「おすすめレポート」を参照しながら読まれると、よりご理解が頂けると考える。
「大化改新レポート」「天皇家皇子皇女の系譜」「阿多倍一族の活躍」、「青木氏の綜紋」、「青木氏のステイタスの生仏像様」等、を先にお読み頂きたい。

この時代は、日本の歴史上から観て、例が無く想像を絶する位に、「変化と活動」が大きく、政治、経済、軍事全般に及んで改革が進んでいる社会である。何せ、三権をリードしていた蘇我氏が倒れたあとでもあり、後漢が滅亡して帰化人(17県民)が押し寄せ、進んだ技能を持ち込んで民は潤い始めた時期でもある。高句麗、新羅、百済から政治難民が上陸し、国内で問題を起して騒がしく成っている時期でもある。
従って、当然、民の人心は、下記の「清素仁政」とは裏腹に、百花繚乱ならぬ百花騒乱の如くであっただろう。

以上の事柄を念頭に以下のレポートをお読みください。


活躍 第1節  白雉の年号

本書記録
”白雉元年(650)2月9日に長門国の司の草壁の連の醜経(しこぶ)と言う者が、天皇に珍しい白の雉を献上した。”とある。

”そこで、百済から来ている皇太子の百済君が、天皇に漢の国で白雉が多く出ると大変珍しく吉兆であるとされている”と述べた。”とある。

”周囲の高官が、更に、わが国でも白の鹿や白の雀などが出て大きな休祥(よきさが)で、唐から持ち帰った三本の足を持つ烏(やたがらす)の時もめでたい事だとしています。””まして、白の雉ともなれば、益々祥瑞であります。と述べた。”とある。

”重ねて、天皇の師で国博士の留学僧の「ミン」が、王者の行いが清素で仁政である時に、必ず白の雉が現れます”と述べた。”とある。
その後、”この事を知った天皇は皇太子達を呼び共に、儀式として、公家百官を集めて白の雉を庭に放つ儀式をした。この時、この儀式の為に「伊勢王」と他二人がこの雉の篭を天皇の前に置いた。”とある。

”天皇は過去にもこの吉兆が漢の明帝の時と、国では仁徳天皇の時には竜馬が現れたことが2度程ある。めでたい印であるので、以後、白雉元年と改元する”とあり述べている。
”全国に恩赦を発し、長門の国の連に恩賞を与え、3年間の免税とした。”とある。

検証
年号制定時の朝廷のエピソードである。
この様に、「伊勢王」は儀式のところで白の雉の篭を置いたと書かれている。
この白の雉のことで、「伊勢王」は動いた。
白の雉を「醜経」に命じて天皇に献上さして、それを使って天皇の権威を演出し、国政の道筋を国に示す裏段取りをしたのである。ただ単に、白の雉の篭を天皇の前に置くくらいの事は第6位皇子である「伊勢王」の仕事ではない。他の官僚が充分に行えることである。
しかし、敢えて、「伊勢王」にさせ占めた事には意味がある。
後の記事にも出て来る事であるが、「伊勢王」は「天皇の補佐役」として働き、皇太子などより重く用いているのである。そして、主に、軍略所(天皇の裏仕事を任ずる役)として、天皇の命で問題が起こると全国各地に飛び回っている。
日本書紀には段突に最も多くの場面に出て来る人物である。
むしろ、日本書紀では、天武天皇の死去の葬儀を皇后の持統天皇に、その有能さを認められていて、懇願されて、草壁の皇太子があるにも拘らず、代わって取り仕切っている程にはっきりと明言している。(後節記述)
伊勢青木氏では、先祖伝来の口伝で「軍略所」であったと「口伝」で言伝えられている事でも納得できる。
つまり、この記事は、「醜経」から届けられた珍しい「白の雉」を使って、「伊勢王」は一計を按じて、天皇(斉明の説)の威徳を全国に高める為に演出を計画したものである。
世情には「孝徳天皇」と「中大兄皇子」との軋轢、「有間皇子」(孝徳天皇の子)との軋轢、大化改新の歪み問題などの経緯もあり、又、人心と天皇の権威に不透明部分があった。
ここで、天皇の威徳を高める為に、この「吉兆、休祥、祥瑞」と説得力の持つ人物の各人に述べさせて、お膳立てを行い、儀式を行い、そこで、人心を一新させる為に年号をこの白の雉を使って改元する事の演出の裏仕事をしたのである。

ここで、疑問が湧く。
孝徳天皇死去(654年)時に年号を一時保留(廃止)した経緯がある。
しかし、日本書紀の記録で検証すると、上記のこの辺のところの解決策として改めて演じたのではないかと見られるのである。

その経緯を検証すると、疑問が出て来る。
実は、645−650年の「大化」年号の後、654年から701年まで(47年)年号が無かった事になるのである。
後の、天武天皇崩御の686年の「朱鳥」(あかみどり)の年号は直ぐに廃止された。

この白雉の年号も検証すると、国博士の僧のミンは654年没(653説あり)であるので、この儀式は孝徳天皇の650年とするのか、「大化」を一度廃止した上で、後(654年頃)に、元号の復原儀式を改めて行い「白雉年号」の元号化を図った儀式とも考えられる。
本書記録では何れとも明言していない。

そこで、どちらなのかを観てみる。
孝徳天皇は645年から650年までの大化期の天皇であり、650年から654年までの孝徳天皇の皇位の威厳は中大兄皇子に移り実質無かった。
この時期は中大兄皇子との軋轢がはっきりとして時系列で確認出来る。

2度の遷都劇で既に追い落とされた経緯がある。
遷都劇の時系列  飛鳥宮 650.10 −難波柄豊碕宮 651.12 −飛鳥宮 653.8 −近江大津宮 668

時系列では、故に、650-654年前は孝徳天皇は軋轢と病気と遷都劇から天皇としての権威は全く無かった事になる(疑問1)。
更に、中大兄皇子の子供の「伊勢王」を儀式の中心にするのもおかしい(疑問2)。
既に、日本書紀の記録では白雉の年号に成っている(疑問3)。
又、この儀式は何処で行ったかと言う疑問も出る(疑問4)。
誰も居なかった権威の無い難波ではおかしい(疑問5)。

これ等の疑問1−5を解消するには次の4つの説が考えられる。
この事から、

第1には、大化年号を650年に一度廃止し、数年(4年位)して、再び斉明天皇(654)の天皇の権威を挙げるために、中大兄皇子が「伊勢王」を使って”改元(復元)”劇を演じたとも考えられる。

何故ならば、日本書紀の記録では、この劇の日は既に2月9日以降(650)である。白雉改元から実質3月以上も経っている。年号が始まっているのに、年号儀式はおかしい。(疑問6)

第2には、推測として、天皇が代わる事の度に年号が変わるが、しかし、これ以後、4人の天皇が代わっているが、年号が無い事に対して、後で追記したとも考えられるのではないか。
その為に、後で権威付ける為の僧ミン等の発言を入れたが、日付の矛盾が出た事になる。(654年説では可能)

第3には、653−654年頃にこの儀式を、斉明天皇共に中大兄皇子の元で行い、再び年号を復元儀式をして5年遡ったところを白雉元年としたか、儀式日を5年としたとも考えられる。

この第3の説が、始まったばかりの当時の年号意識からは自然ではないか。そうすると全て疑問(1−6)と矛盾は解決する。

第4には、650年説とすると、軋轢の真最中の時であるし、白雉の演出劇の日の記録がおかしい。(疑問7)

そこで、「軋轢問題」の検証で観てみると、時系列の記録では次の様になる。
650.3月 白雉の儀式
650.4月 造営開始
650.10月 造営中の仮小屋に遷都
651.12月 天皇移動
652.12月 完成
653.8月 飛鳥遷都となる。

これを観ると、儀式の1月後、直ぐに遷都劇の造営を開始している。つまり、権威失墜を開始したとなる。軋轢はその前となる。

650.10月では、中大兄皇子の皇太子が移動している。
650.4月の造営開始とは、本書記録 ”4月には土地、住居、墓の撤去の保障をした”とある。
650.5月には ”将作大匠荒田井直比羅夫(たくみのおおつかさあらたいのあたいひらふ)に境界標を立てさせた”とある。
保障し境界杭を立てた時期である。
従って、この時系列記録では、計画立案はその前に行うので、649.4月頃以前である事になる。

つまり、遷都劇は軋轢真最中の649年の始め頃に、わざわざ、遷都劇の計画で、天皇の権威を下げようとしている時に、”天皇の権威を高めることを「伊勢王」を使ってするか”と言う疑問が出る。(疑問8)
もし、したとすると周囲から”何をやってんだ”となる。慎重で計画的な政治戦略を実行する皇太子中大兄皇子は「伊勢王」にそんなバカな事はさせない。

要するに、自然に失墜したのではない。失墜させたのである。

実は本書記録にその証拠がある。
”皇極4年6月14日 皇極天皇が中大兄皇子に譲位を打診した。中大兄皇子は即答を避けて、中臣鎌足に相談された。 中臣鎌足は、古人皇子は兄上です。軽皇子(孝徳天皇)は叔父上です。古人皇子がお居でになる以上、殿下(中大兄皇子)が行為を継がれた場合、弟が兄に従う人道に背く事に成ります。 暫くは、叔父上を立てられた上で、人心の望みに暫く叶うようにしてはいかがでしょう。とあり、中大兄皇子は大変褒められて、密かに天皇に奏上した。”とある。

ここでキーワードは4つ有る。
舎人親王は敢えて、明らか様に記録しているのである。
”暫く”1は、”叔父上を立てられた上で2”であり、”大変褒められて3”、”密かに天皇に4。”である。

1から4から観て、5年の前から、初めから大儀名文を得る為に譲位前より失墜を決めていた事に成る。

即ち、叔父を立てておいて、後に人心が落ち着いたら、戻す。その戦略が良い事を褒めた。そのため密かに、計画を進めた。と言うことである。 実に戦略的である。

現に、3月後には計画を進めて、古人皇子を先ず打った。
その記録は次の通りである。
”大化元年9月12日(645年皇極4年 多説あり) 古人皇子を謀反の嫌疑で打たせた”とある。

645.6月で失墜計画は始まる。
白雉儀式劇の650.3月では、軋轢のピークとなる。
650.4月の時点で、既に権威は完全失墜している。
公家百官も知っている。改新の実績者は皇太子である。権威どころの話ではない。

この事から、全疑問(1−8)を解決するには、次の筋書きが当然に生まれて来る。

検証筋書き
先ず、権威の失墜した”孝徳天皇の大化は終わったのだ”とし、”斉明天皇の時代(中大兄皇子)の新しい時代が始まるのだ”と宣言する為に、654年にめでたい「白雉年号」を持ち出し演出して「遡り年号」として後に、直に廃止した。そして、軋轢などが国中に伝わっている暗い人心の払拭をも狙ったと考えられる。これが最も有力な説であろう。

この疑問解消説を証明出来る記録を更に次に示す。

年号の疑問解消の有力説の証明
日本書紀には、当時の事情が不明であるので、この様な矛盾が出る事が多いのである。後にも続々と出て来る。

わが国の年号の最初は、「大化」からであるが、「即位や瑞祥と災難」等で一応”改号”される仕組みであった。
従って、年号に対しての考え方は未だ臨機応変に緩やかであった筈である。

大化改新の改革内容を始めとして、自らが天皇に成らず、傀儡天皇の「孝徳天皇」を押し立てて、自らは皇太子(中大兄皇子)として政務を執り行うなど、実に人心に気を配っている。
孝徳天皇の子の有間皇子を暗殺し、そのカモフラージュで孝徳天皇に天皇の座を譲り、自分は蘇我氏の事件では「興国の士」としての立場を保持して、人心の矛先を逸らした位である。

まして、天智天皇の皇位は、23年間の政務の内、最後の3年間だけである事からも、物事にお膳立てをして、期を熟してから実行するなど、実に慎重で戦略的な性格である事が言える事でも本説は頷ける。
又、「孝徳天皇」との軋轢の解決も、突然に都を移し、「孝徳天皇」をそちらに引き込み、又、ある日突然に再び「孝徳天皇」だけを置き去りにし、突然に元に戻り、暫くして遷都とする等の早業を実行して解決している。

白雉の儀式劇程度の本説有力説は納得出来るだろう。

これ等の一連の戦略は天智天皇(中大兄皇子)が自ら描いた筋書きだけではなく、裏で「伊勢王」等が描いた筋書きではと観ている。年号の儀式もこの範疇にあったと観ている。

第一、次の疑問9として、何故に50人もの皇子が居る中で篭を置く仕事を「伊勢王」だけなのか疑問も湧く。

疑問9の検証
それは、15人(19人)もの第4世高位王までの者が赴任地に居ながら、後に第7位皇子の兄弟の近江王の川島皇子と共に、「伊勢王」は都で天皇の下にて働いている。
そして、伊勢国には、代わりの行政官として日本書紀にも出て来る大物の「三宅の連」を国司として派遣しているのである。
この様な背景を下に、前後の歴史的史実を考慮すると、この記事は明らかに、後でも記事を読んでいくと、”白の雉の篭を天皇の前に置いただけの行為”だけでは無い事がよく判る。
つまり、権力闘争の政治性が働いている。

日本書紀のこの前後の行間を読んでいると、大変気を使っていることが判る。つまり、この時期には「人心」が大きく動いていたのではないかと推測できる。
だから、皇子の一人の有能な「伊勢王」を特別に天皇と皇太子(中大兄皇子)の側に置いていたのである。この「伊勢王」には補佐役(三国公麻呂 倉臣小糞)として2人が付いていたと見られる。

実は、この時期の慣習として、「白雉」を使うと云う事は偶然の一致ではなく、一つの「儀式の象徴的物」として捉えているのである。
この記録が他にもあるのである。上記の有力説の証拠でもある。

有力説の証拠
この同じ演出記録がある。
「天武天皇」の即位(668)の”天武元年3月17日にも、この白の雉を備後の国司が亀石郡で捕らえた。”として朝廷に届けている。
そして、”亀石の郡には課役の全免除を与え、全国に大赦令を出した。”と記録されている。
更に、”天武元年4月14日(668) 「大来皇女」に初めて最初に伊勢神宮の斎王を命じた。”とある。
(これが伊勢神宮の正式認定であるが、記録から天武4年が実質であろう。それまで「大来皇女」は泊瀬の斎宮に居た)

「天智天皇(中大兄皇子)」は、伊勢に天皇家の守護神の「伊勢神宮」を建立し、お膝元の伊勢の「伊勢王」に演出させて、人心をここに集めて「伊勢神宮」と「伊勢王」の存在価値をももくろみ演出したものである事が判る。
即ち、全く同じ事を「天武天皇」も行った訳である。

「斎王斎宮の設定」と「白雉の儀式」と「年号の改号と廃止」も、遅れてこの天武14年7月20日に「朱鳥」(あかみどり:686年)と改号した上で、「直に廃止」している事からも証明出来る。

慣例的、且つ、象徴的に用いられた「白雉」の年号の結論は、「中大兄皇子」も「孝徳天皇」没の年(654)の「中大兄皇子」の政権となった斉明天皇の斉明元年(654年)に「白雉儀式」を行った上で、白雉の元号を「直に廃止」したとなる。
つまり、天智天武の2人の天皇には共通する3つの条件、即ち、「伊勢神宮」「白雉の儀式」「年号の改号と廃止」を伴なわせた慣例を造ったと成る。

「伊勢王」
「伊勢王」の働きは、これが本書の記録では最初である。
当時は、寿命が45-50前後と短い。従って、記録によると、社会は6歳頃から一人として扱う時代であった。時代が進み寿命が延びるに従い、10歳、15歳へと変化し、現在では18歳程度に成って社会に出ている。
「伊勢王」(643?-689)も、この時点では補佐が付いていたと見られ10−12歳程度であろうが、記録から実に利発で賢い人物だったと観られる。
「伊勢王」の生誕は不明であるが、皇子皇女の生誕のわかる人物から計算すると、640-645年頃となり天智天皇(626-671)の年齢から当時の可能な範囲では642-644と成ろう。

既に、天智天皇(中大兄皇子)は自分の3人の皇子を朝廷で働かしている事は、この利発と賢さを将来に見込んで鍛えていたと見られる。その一つがこの白雉の年号儀式に中大兄皇子は「伊勢王」を用いたと見られる。

本書編者の舎人親王も、この利発で賢い皇子の「伊勢王」の活躍具合に対して、「畏敬の念」を持っていた事が判る。本書の登場回数とその表現内容でも判る。そのことを念頭に次をお読み頂きたい。
この舎人親王の伊勢王に対する「畏敬の念」は後でも記録されている。


参考
「白雉年号」は一説では650−654年(大化645−650)とされているが、654年以前の5年間も日本書紀の年号から見ると途中から記録上で続いている。
斉明天皇の女性天皇になった時期の654年に廃止してから、天武天皇の朱鳥元年の686年(686年廃止)まで年号は消えたとの説がある。
更に、「朱鳥」の年号も廃止されているから、この説では次の大宝は701−704年であるので、この事から654年から701年までの47年間年号が無かった事になる。
高市皇子は「壬申の乱」の時、19歳で全軍の指揮を執っている事が記録されているので、10歳程度では政務は可能である。大友皇子は太政大臣で24歳であった。

日本書紀の改新詔の第1のところにも、青木氏発祥の概容が書かれている。
本書は賜姓に関しては個別には記述を一切していないが、次ぎの様に記録されている。
”「公地公民の制」に基づき、今までの身分制度を改めて、皇族4位と5位王以上(以前は6世7世王まで)を大夫(まえつきみ)として、人民を統治させる。そして、食封(へひと:戸口による給与)を与える仕組みとする。”とある。(この時期は646-647年頃である)
全体像を見るために、他の史料と合わせると、次ぎの様に表現されている。
”この時(646-647)、この定め(改新の詔)により、第6位皇子(施基皇子)で4(5)位王となり「伊勢王」の「伊勢大夫:(統治者)」と成り、賜姓にて青木氏と仏像を賜った”とある。続いて”川島皇子も例外として5位王として近江の地名より佐々木氏の賜姓を受け「近江王」と成る。”とある。
(これ等の当時の事は、天皇側近として日記を日本書紀より詳しく書き遺し、韓国に持ち帰って遺している最近発見された韓国の「日本世記」にも書かれている。)

「斎王」とは、天皇の皇女が伊勢神宮の祭祀や儀式を執り行う事として、この皇女は永久未婚を通す定めであり、長くこの仕来りは護られた。伊勢青木氏はこれをサポートする役目でもあった。

「斎宮」とは、「斎王」が身を清める所である。

「舎人親王」は676−735年 天武天皇の皇子 淳仁天皇の父 元明朝から聖武朝にかけて活躍 日本書紀の偏纂 文学に秀で先駆的な歌人 性格穏やかで知者 皇子の中でも最右翼の実力者 淳仁天皇733-765 位758-764の親 一時その有能さから天皇に推された経緯事もある。

皇極天皇(斉明天皇)594-661(660) 皇位642-645 皇位654-661(660)
孝徳天皇は597−654年 位645−654年
天智天皇は627−671年 位668-671年である。
天武天皇は630?−686年 位は673−686年
斉明天皇は594−661年 位642−645 665−661
持統天皇は645−702年 位690−697年(太上天皇)
国博士僧みんは654没 653年説もある(632帰国)
施基皇子は643?−689年
草壁皇子は662−689年
高市皇子は653−696
大津皇子は654?−686
考謙天皇は718-770 位749-758
聖武天皇は701-756 位724--749
文武天皇は683-707 位697-707


特記 日本書紀の編成
史料によると、”日本書紀は天武天皇の発意で始まり、元正天皇の時(720年:養老4年:親王は45歳)に編集は終わった。”となる。
本書は漢文で出来ているが、全巻を通して、用語や用字の方法が巻毎と部分的に著しく異なる。これは多数の人が分担し執筆した事によると見られる。これを総裁の舎人親王が自分が観てきた時代の内容をチェックして、編年体での表現方法等の工夫や、非適切な表現等の修正や、文章の配置等の編成をし、編成責任者として1つにまとめ上げたものである。
ところが、31年経過完成という年月から、記録人、時、場処、史料が違う事から、矛盾、間違いが起こっているのである。
初めての大事業であるので、そこまで舎人親王はチェックを成し得なかったのであろう。否定するものではなく理解はできる。

特長として挙げられることは、この記録人の中には、帰化人が多く、史料の間違いを母国から大和を見て書いたそのままを移書きしたものがあり、史料の間違いどころから見て、後漢、百済、新羅の国の帰化人が殆ど多く関わった事が判るのである。この事から来る問題も多く含んでいる。
文章から、諸氏伝、地方伝、個人伝、覚書、中国古籍類などの特長が出ていると言われる程に確かに異なっている。この様なことから、全体として、整理、統一、修正が充分では無かった事が判る。
故に、古事記(712年:和銅5年)は、書き始め(序)で明記している様に、これを見直し編成した史籍であろう。
因みに、古事記の史料では、次のように表現している。
噛み砕いて言うと、”諸々の用いている史料や日本書紀は、経年から見て観察すると、事実と異なり間違いや虚偽や不揃いがあると見られる。現代(和銅)から見てそのミスを改めなければ、何時かはその史実は消滅するだろう。”と記述されている。
ただ、この事を否定要素と捉えて、本書の「日本書紀」の史実を政治目的の為に打ち砕く思惑のあるグループも存在する事も配慮せねばならない。
しかし、確かに疑義や違和感を抱かさせるが、「初めての大事業」の所以であろう事が、文章の前後関係や舎人親王の優秀さや多史料での照合の検証をする事で理解できる。
むしろ、日本書紀は「編年体」であって「記述体」(物語風)の赴きを持ち得ている事(詩文の様に)が判るのである。
つまり、詩文や和歌、連歌、俳句の様に、”想像して疑念を抱かせ、楽しませる”と言う技法を採用しているとも取れる。その方が、検証していると、推理が解けて喜びが湧き楽しいのである。
丁度、試行錯誤してやっと魚が釣れた時のあの感情に似ているのである。
舎人親王は、編成に当って、この技法で故意に後勘に委ねたとも受け取れる。
私は、日本の「詩漢の祖」(詩文興隆の祖)と言われる舎人親王の経歴と巾のあるその有能さを本書の編成に持ち込んでいると考える。
小説でも作文でも、戸籍簿の様に無為ではなく、千差万別の作者の個性が色濃く出るが如く、「日本書紀」も同じではないか。それの方が面白味が出ると言う事で正しいと考えている。元来、本(記紀)の本質は個性=面白味の表現であろう。
「詩漢の祖」(詩文興隆の祖)の舎人親王ならば、”ただ歴史の史実を単純にまとめた”と言う訳では無かろう。ロボットではあるまいし、それならば誰でも出来るだろう。
他書の「日本書紀評価」はこの辺の検証がない。私はかねがね疑問を感じていた。そこで、検証して見ると、案の定、「詩文的表現方法」を駆使して「魚釣りの極意」を披露している。「後勘」に委ねる「楽しみ」即ち「趣心」で編成していると見える。

多くの資料の突合せでは無理であった。その中で舎人親王の史料を見て、ハッと閃いたのである。詩文的に状況や趣を表現している筈だと。そして、再度挑戦し、この手法のお陰で、大分苦労したが長い年月を経て、遂には本書の「伊勢王」の詩文的記録で青木氏の「生様」が観えて来たのである。
特に、次の節の疑問の答えが第1節の証拠とも成り得るのである。
これらの点も留意して、続々と出て来る「伊勢王」の活躍具合を、次からの「伊勢王(青木氏)」の日本書紀の記録検証を、長文ではあるが我慢して是非お読み頂きたいのである。

次は「伊勢王の薨去」と云う項目で青木氏の関わりを記述する。



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