青木氏氏 研究室
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  [No.195] Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−序文(青木氏と主要5氏との関係)
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/23(Fri) 19:44:35

Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−序文(青木氏と主要5氏との関係)
副管理人さん 2008/09/17 (水) 19:53
藤原秀郷一門の家紋から観た血縁関係の研究

(青木氏と主要5氏との関係)
史料1/10-6/10の内容と考察を基本に据えて、本文ではこの血縁関係がどの様に成っているかを家紋類から観た分析を行う。
本文ではシリーズで、青木氏と対比させて、永嶋氏、長沼氏、長谷川氏、進藤氏の順でそれぞれの氏が持つ家紋群を分析してから考察する。

本文史料(7/10-10/10)は進藤氏の考察終了後に末尾に掲載する。

(研究室の「藤原秀郷一門の生き方」(1-13)、「皇族賜姓族の背景」(1-3)等関連を参照)
藤原秀郷一門の24氏の詳細は「藤原秀郷一族の赴任地と発祥氏と主要五氏」参照の事

序文
そもそも、藤原秀郷一門は最も勢力を誇った主要5氏から成っている。
その主要5氏を江戸時代の書では、藤原秀郷流青木氏の中に組み込まれた”「青木氏一族」”として偏集されたものもある。
そこで、では何故、そのような「青木氏一族」と成りえるのか広い範囲で検証して観る。それには先ずは、その4氏と青木氏とがどのような関係(即ち、「絆」や「氏力」等)にあったのかを考察する。
下記通り「秀郷一門主要5氏」は、秀郷より4代目から分流しているので在るが、先ず系譜から入る方が理解が進むので次ぎにそれを先に記する。

藤原秀郷一門の系譜は次ぎの様に成っている。
鎌足−不比等−房前−魚名−藤成−豊沢−村雄−秀郷−千常−文脩−兼光−頼行−兼行−成行
(兼光のところで文行流と分流して兼光流との2つに成る。)

秀郷一門の主要5氏:青木氏、永嶋氏、長沼氏、長谷川氏、進藤氏
秀郷一門24氏(「藤原秀郷一族の赴任地と発祥氏と主要五氏」参照の事)

先ず始めに、次の事を記して本文の検証を進める。
秀郷一門の青木氏以外の氏では、以上系譜の頼行より次ぎの兼行と兼助から初めて藤原氏以外の氏名を発祥させたが、それが初代「渕名氏」としての「氏」の発祥であった。
藤原秀郷一門24氏の内、分家、分派、支流系として、更に分流し、19氏(次ぎ主要5氏を除く)として引き継がれて行く。この初めに出た渕名氏でさえ主要氏とは成っていないのである。
しかし、藤原秀郷流青木氏には宗家筋から第3子を跡目に入れて常に濃い血縁関係で氏を構成し子孫存続を維持し来たのである。
これは下記にも示すが、「宗家一門を護衛すると云う任務」を担っていた事に関わる最大の検証点であり、ここが他の主要4氏の23氏と異なるところでもあり、この点に関わる事柄が検証の結果として大きく出て来るのである。これ等を明らかにする。

秀郷一門主要5氏の一つの青木氏の直系(直流)の跡目(不継承時の跡目)としては、4代目の兼光流の宗家一門より引き継がれて行く家法の「定め」と成っているのであるが、この事に付いて、秀郷総宗本家の系譜の関係記録に残るものとして、25代目あたりまである。
この内、判る範囲で跡目継承は6度あり、この内、記録として実名が判るのは3人である。
(千国系青木氏系譜は法により不掲載)
秀郷宗家一門から「宗家の護衛役」を一手に任されて護り続ける為には、他の氏から跡目を入れる事は他人化する可能性があり、その役目を正常に全うする事は困難となろう。
そこで、”代々の不継承時には秀郷宗家筋一門の「第3子」を青木氏の跡目に入れ純血性を保ちする”とする「定め」を、藤原秀郷は子供の千国を初代として一門に対してこの家法(掟)としたのである。これが家法「第3子の跡目」である。
これは他の主要4氏と異なる最大の差異である。

「第3子の跡目」の掟には「氏の存亡」の最大の決め事であった。
そもそも「跡目」とは氏の如何を左右する「氏家制度」の最大のテーマであり、現在の感覚では到底考えられない決め事であった。「氏家制度」は氏全体が一つの社会であり、万事に本家を中心に動いている社会であった。「自分の命」、況や「氏の命と存続」はそれを指揮する頭領の才能(能力)に関わっていたのである。それだけに、氏の拡大は「跡目」に左右されていたのである。
青木氏116氏もの氏の拡大は単純に広がったと云うものでは決してない。何らかの決定的な掟があって成し得たものであり、それが「跡目」なのである

これは、そもそも、次ぎの経緯からの決め事である。
朝廷が坂東に起こった「平将門の乱」平定(坂東に独立国を主張)に苦労し長年誰も平定出来なかった。そこで、秀郷が武蔵の押領使であったことから、京平氏の平貞盛(押領使)と共に、秀郷は次ぎの「2つの条件」を朝廷に突きつけて名乗り出た。
それは、秀郷が出した「平定後(勲功時)の朝廷に対する条件(貴族、武蔵下野領国の条件)」に基づき、「貴族の身分」と「武蔵国(下野)の領主」とを突きつけて成ったのである。
そして、その結果、その条件(貴族は武力使用の禁令)を整える為に、自らの子供の第3子を自らの「護衛役」として臣下させて「青木氏」を名乗ることを申請し、嵯峨期の令「詔」に基づき朝廷より認可された。この役目を担った初代は秀郷第3子の千国であった。(6人の子供が居た)
以後、秀郷宗家からの「第3子を青木氏に跡目」として入れる事を家法としたのである。
つまり、皇族賜姓青木氏族の5氏の形式を採った。

秀郷の6子は次ぎの通りです。
秀郷=千常1−千種2−千国3−千春4−千時5−千万6
千常、千時、文脩、千万は鎮守府将軍に任官
千春は相模介に任官

実系譜では千万は千常の子と成っているが、実弟である。
(千常の本家の跡目に入ったが文脩が生まれたために跡目とはならなかった。)


上記の通り、千国だけは朝廷の官職、冠位等が無く、無役であったとする説と、鎮守府将軍で従四位下の官職があったとする説があるが、状況からあったのであろうし「短期間」ではなかったかと見られる。
兎に角も、ただ他の兄弟と少し違った重要な人生送っている。
期間を前提として”無かった”とする説の根拠には、”それは「宗家の護衛役(侍)」に成った為に役に着けず6人の兄弟の中で千国だけであった。”とするものである。
それなりにその根拠は理解できる。
兄弟6人が全て「鎮守府将軍」であり、他の親族4人が「鎮守府将軍」に成っているのは合わせて10人居たが、この人数からすると成ったとすると実に短期間か名前だけの将軍となったとも考えられる。
また、各地に赴任した宗家の護衛役を担ったとすると「鎮守府将軍」を全うすることが出来ないだろう。
無かったとする説はこの「短期間」と「護衛役」から観てなかったと同じで「名誉的」なものであったことを根拠としているか、青木家の「系譜偏纂」から来るものと考察したのではないだろうか。
但し、嵯峨期の詔からの青木氏の許可にはそれなりの「身分」が必要であり、官職より青木氏の賜姓を受ける時には事前に官位は必要であろう。
従って、天皇に拝謁できる「従三位」以下の「従四位下」は必要であろうから、この官位はあり得る。他の者の「従五位下」と違い2階級上である事の意味は大きい。

(参考 皇族系の賜姓青木氏と賜姓源氏は第6位皇子であるが為に、天皇に拝謁し意見を述べる事が出来る「従三位」である。)

はっきりする事は、まして、官位と別に子孫では4代目までに藤原一門の領国の「武蔵守」に成っているのは千国だけである。

長男の宗家の千常でさえ「武蔵守」ではなく「左衛門尉」「従五位下」だけである。
親族の時長系の利仁の「従四位下」を除いて末裔は全て「従五位下」である。

因みに、秀郷は「武蔵守」で「従四位下」で千国と同じである。この2人である。
これは秀郷の後の宗家を実質継いでいる事になる。しかし、宗家は系譜上は千常である。

つまり、官位から観ても千国の青木氏は「第2の宗家」である事を確実に意味する。

何をか況や、朝廷はこの官位と官職を与えた事から観て、実質は千国を「秀郷の後継ぎ」と認めていた事を意味する。青木氏そのものを重視していた事を意味するものである。

この経緯には大きな意味があった。それは当時の朝廷の認識である。
それだけに、この「護衛役」を秀郷のみならず朝廷は重視したと言うことでもあり、総宗本家そのものの扱いであった事を意味する。総宗本家からは2人の任官は無いと言う事でもあろう。
しかし、朝廷もこの千国に皇族賜姓青木氏なみに「青木氏」を賜姓したと言う事でその意味を充分知っていた。
むしろ、朝廷は「無役」と理解するより「青木氏」が「最重要役」と認識していたのである。
それは24地方の国府に赴任する宗家を専門的に「護衛する役目」は、言い換えれば陸奥一国の「鎮守府将軍」より千国の24国の「国府将軍」の方の意味が大きいからである。又現実に大きい。
恐らく、当時は「征夷大将軍」なみの意味を持っていただろう。
阿多倍の息子の坂上之人麻呂から正式に始まった「征夷」の意味からすると、「征夷大将軍」も「鎮守府将軍」の変役であるから、「国府将軍」的意味の方が大きいだろう。

当時は朝廷政治(3蔵)は「斎蔵」の役から始まった藤原氏北家が勢力を占めつつあった事から、つまり、朝廷では「国府将軍」なみは真剣に認識されていた事である。
(朝廷の政治機構の3蔵は内蔵、大蔵、斎蔵)

そこで多くの史料から綜合すると、当時のその認識の根拠は、朝廷では大別すると次ぎの3つの様に認識されていたと分析できる。

朝廷の軍役は「阿多倍子孫−京平家一族−たいら族」が担う征夷代将軍と、九州全土の政治「遠の朝廷」と呼ばれ3権委任の「太宰大監」の軍役も担っていた。
後に末裔は坂東平氏と共に一部「西面武士」にも後に問題が起こったが成った。

天皇の親衛隊の軍役は「5家5流皇族賜姓青木氏一族」が、主要で重要5国の天領地の軍役を担うと共に、645年から宮中を護る上位(上の尉、佐の左衛門、右衛門、民部)の「北面武士」の衛士の長として本来任務も遂行する事で認識されて呼ばれいた。(青木氏の冠位官職のレポート参照)

政治をリードする軍役は「藤原秀郷流青木氏一族」が、24国の軍役を担うと共に、宗家は北域防衛の「鎮守府将軍」をも担った。嵯峨期詔の秀郷流青木氏は(尉、佐の左衛門、右衛門)「北面武士」も兼務し呼ばれいた。24国の軍役のみならず、賜姓青木氏と連携して親衛隊も兼ねていた。

この3つのシステムで全国が3軍役で網羅されていたとする認識なのである。
これからすると、千国から始まった青木氏の無役はこの様な3軍役の一つの位置付けの認識中にあったが、これ等の軍役は次ぎの様なことから始まった。

これは、奈良時代の蘇我氏の専横の反省から、天皇家を強くする為に、「大化改新」後の天智天皇が始めた「第6位皇子を臣下させて天皇を護る親衛隊」としたのが始まりであり、天智天皇はこの臣下の氏には青木氏を賜姓し、ステイタスの大日像の仏像を与えて初代伊勢王(施基皇子)として始まった。これが秀郷にヒントを与えたのである。
嵯峨天皇が第6位皇子を源氏と変名した為に青木氏は皇族出身の者が名乗る氏と下の者が使用する事を詔を出して禁じた。原則明治3年まで維持された。この間、3期の室町末期、江戸初期、明治初期での混乱期では護られなかった。
藤原秀郷は、16代(源氏含む)続いたこの制度(皇族で朝臣、宿禰族が名乗れる制度)に基づき行ったものであるが、その後、賜姓青木氏は男子の4代の天皇に引き継がれて5家5流と24氏の賜姓青木氏が誕生したが、この時の「定め」(嵯峨期の詔)に従い、賜姓青木氏の母方を藤原氏としている事を根拠に、朝廷の特例(真人、朝臣、宿禰の皇族者)の許可を得て、藤原秀郷は960年頃に初代千国の青木氏を発祥させ、代々このシステムに習ったものである。
(詳細は皇族賜姓族関係のレポート参照)

この始祖千国(直系末裔)の系譜は、母方が坂東に勢力を張っていた元「嶋崎氏」を名乗る平家一門とされていて、この一族は後に支流一族として青木氏を名乗っている。
この後、青木氏は先ず主要9氏(直系1氏、直流4氏、支流4氏)と広がり、ここから秀郷一門116氏に広がっている事もあり、秀郷の宗家より直系の跡目継承を受けている事から起因している。
現在の史料では、消失も含めて余りにも拡大して末裔系譜は途中までしか確認出来ない。
しかし、この以下の解析レポートから青木氏の活動は他の4氏との関係からもある程度の傾向がわかるので、この辺の血縁関係のところ等をも「家紋分析」で検証する目的がある。

所で、その前に、この116氏と言う「氏拡大」はどの程度の「勢い物」であるかを知る必要があり、これに依って青木氏に対する位置付けの判断が異なる。そこで事前に検証して観るとする。

「青木氏の位置付け」
先ず、実際は、秀郷一門の「氏家制度」の社会慣習の中では、青木氏への「跡目継承」は、上記した様に秀郷系譜から6度の確認できる記録があるが、一門24氏の佐野氏や秀郷一門外の利仁流からも青木氏が出ているところを観ると、、記録に残らないほどに頻繁に行われていたと先ず考えられる。
青木氏の主要9氏(直系1氏、直流4氏、支流4氏)と合わせて、116氏の末裔の「上位跡目継承」の慣習で考えると、直系直流5氏の本家筋には秀郷宗家より跡目は6度以上に充分にあったと考えられる。

はっきりと判る跡目から観ると次ぎの事が判る。
先ず、佐野氏は、秀郷より7代目成行(足利氏)−家綱と続き、その子の一人の成俊が佐野の庄司の役となり、更にその孫の基綱が佐野氏を名乗った初代の相伝である。
その相伝の基綱より7代目の行久(二郎)が青木氏の跡目継承に入っている。
次には、その前には、秀郷より直系10代目で青木氏本家筋に跡目を入れている。この時は第2子である。10代目で青木氏本家に跡目を入れた事に早くも成る。
更には、その前には千国の母方(平家)の嶋崎氏から青木氏の分家支流に跡目が入っている。

この他には、清和源氏の頼光系宗家筋より賜姓青木氏各5家5流本家にも跡目が入っているのだが、藤原秀郷流青木氏にも清和源氏の分家頼信系筋からも入っているのである。
秀郷宗家から出せないので、この時は上位の朝臣族の賜姓源氏(母方継承)から跡目を入れて繋いだと観られる。
記録を見つけることが出来ないが、主要5氏の家紋から共通血縁族(5氏共通)には笹竜胆紋の青木氏が入っている事から、皇族賜姓源氏のみならず皇族賜姓青木氏からも跡目継承が行われた事は確実である。
特に、主要5氏の血縁分布から観ると伊勢青木氏からの跡目が濃厚である。
秀郷一門となったこの笹竜胆紋の青木氏から他の主要4氏に血縁が広まって共通血縁族と成った考えている。
更には、皇族宿禰族の橘氏の橘紋も共通血縁族である処から観て、嵯峨期の詔に基づく皇族青木氏の一つ橘紋の皇族宿禰族の青木氏からも跡目に入った事は確実である。
つまり、何れも同じ青木氏の血縁であり、氏名は変わらない事に成る。
これだけの史実から観ても十数度以上の跡目が青木氏に入っている事が判る。

だから、歴史上、信長や秀吉に追われた賜姓青木氏が親族と成っている秀郷一門の青木氏のあるところを頼って逃げ延びて子孫を遺す事が出来たのである。全く無縁の所に逃げ延びたと言う事ではない。

先ず、その一つの例を挙げる。
藤姓足利氏(秀郷直系7代目:下野国足利郡開発足利庄:成行の護衛の直流青木氏)に清和源氏分家の頼信系の源義家(征夷大将軍)の孫の義康が跡目に入る。
更に、1185年頃に平氏方(嶋崎氏)の藤姓(足利氏)末裔(直系青木氏)が没落し、ここに足利成行の一族の基綱の娘と源義国との間に出来た子供がこの青木氏の跡目継承をしている。
(基綱は始祖佐野氏)
(藤姓足利氏とは秀郷の直系子孫の6代目成行一族の事(実質青木氏である)。

又、この足利氏ではもう一つの跡目騒動が起こっている。
一方の元足利氏は藤原一門の5代目頼行が陸奥国の鎮守府将軍としていたが、信濃国に転勤し、その藤原秀郷一門(青木氏を含む)に同行して信濃国に定住した陸奥の住人である。
この藤原氏との血縁を持つ分家陸奥の小田氏(小山、花山氏)の血縁族末裔が土豪と成って勢力を高め足利氏を名乗った一族である。(常陸の小田氏はこの末裔)
この藤原氏の血筋を陸奥で受けた配下の小田氏系足利氏と、其処に赴任した藤原秀郷宗家の成行の藤姓足利氏の二つが存在した。その藤姓の足利氏は実質青木氏である。

藤姓足利氏は上記系譜の兼行の子供の成行(弟の考綱は長沼氏)から始まり末裔が引き続いている。
この「兼行」から「足利大夫」として足利氏を発祥させているが、実は「足利氏」に事件が起こった。
陸奥から来た元足利氏の本家の嫡男跡目に対して、秀郷宗家はこれに異義を唱えた。跡目をなくした元足利氏の分家に対して、秀郷宗家より第2子の跡目をいれて、足利本家を潰して、この秀郷の宗家跡目を入れた元足利氏の分家を藤姓足利系本家とする戦略に出た。
豪族となり地名から足利氏を名乗った元足利氏と、秀郷一門の成行との間で争いが起こった。
跡目に関する足利での勢力争いである。
結局、秀郷宗家の勝ちとなり秀郷一門が入った分家が足利氏の本家と成ったのである。
この結果、陸奥から来た元足利本家は若狭湾沿岸沿いに逃亡して、鳥取米子と八頭当りに到達して定住した。これに同行した一部の賜姓青木氏の足利氏系青木氏はここに米子青木氏を発祥させた経緯があり、この時の事件の原因も跡目に関する廃嫡事件であった

そこで、秀郷一門の跡目を観ると、主要5氏の兼光流2氏では次のように成っている。

秀郷9代目の成俊の弟の有綱が足利氏を継ぎ、それより更に6代目の行長が初代永嶋氏をなのったのである。行久の跡目では青木氏とは基綱系の同族である。

跡目系譜
秀郷−成俊9・{佐野氏相伝}−(有綱-基綱-国綱-宗綱-宗行-行春-為行)−行久17・{青木氏}
   有綱9・{足利氏}−基綱10・{佐野氏}−(景綱-秀綱-行政)−行長14・{永嶋氏}

秀郷7代目の成行の弟の考綱が長沼大夫となり、初代長沼氏である。

跡目系譜
秀郷−成行7・{足利氏相伝}−家綱−有綱9
   考綱7・{長沼氏相伝・長沼氏}−秀基−秀忠・{大屋氏}

秀郷−行尊6・{太田氏}−行政−政光−宗政・{中沼氏}
                  −朝光・{結城氏}
               −行義・{下川辺氏}
 
注:{有綱−基綱}は有綱は兄の成俊の「跡目」に入り「後継ぎ」となり、基綱の子の景綱と国綱
は、景綱は秀綱に繋ぎ永嶋氏に、国綱は宗綱に繋ぎ青木氏の跡目の行久に繋がる。
成俊の嫡子を外して弟を跡目に入れると言うことが起こったのである。

下記レポートには重要な判断の系譜であるのでこれを事前に特記する。

このレポートからは宗家一門より「第3子跡目」(第2子の場合もある)で本家分家筋から116氏の上位の家筋に跡目を入れていた事が覗える。それ程に藤原秀郷一門の領国を含めて赴任地24地方への青木氏の護衛役の意味は大きかった事でもある。
秀郷武士団の主要5氏の青木氏外の4氏は自らが護衛役を組織して赴任地を移動したものである。
それだけに、比較的に末裔の広がりは小さく、夫々その血縁族の有様の特長を持っている。
これに較べて、秀郷一門の宗家筋からの「第3子跡目」上位継承で跡目が入る事で、青木氏は、取りも還さず、「第2の宗家」とも考えられる。
上記の「藤姓足利氏」のところでも、当時の史書は青木氏を本家扱いをしている。他の23氏と較べても「宗家からの跡目」であるから、立場上は上位であるからトップの位置に氏家制度の中では存在していた筈である。
跡目系譜から観ても主要4氏も青木一族として含めた書籍もある位である。

第1、2子は宗家筋としての跡目として定め、第3子は広まった青木氏の跡目に据え、この事は純血を保つ「忠誠心の高い護衛」と言う秀郷一門の大戦略であった。

この「大戦略」には、次ぎの様な事が常に起こっていたのである。
ただ”「跡目を入れる」”と云う簡単な事ではないのである。

既に自前の跡目子孫が青木氏に存在しても、「護衛」と言う目的からその「嫡子跡目」は、場合に依っては宗家筋より強引に第3子を入れるという戦略上の目的を最優先していたのである。
その場合とは嫡子の能力であった。
「忠誠心の高い護衛」を目的とする以上、純血を保つ事になり、同族の血縁はそれだけに子孫に対して奇形児の危険性を持っていた事になる。それをも克服する手段として宗家筋の第3子を、青木氏に嫡男があるとしても廃嫡して、跡目を入れるという手段を採っていたものである。
(それだけに当時は「系譜の編集」は難しく成っていた)

そもそも「氏家制度」の封建社会では、この時代は「子孫存続」を前提として、嫡男が必ずしも嫡子になるという家法の慣習ではなかったのである。

この嫡男(長男)が嫡子になると言う方式は、江戸の始めである。
家康が徳川幕府樹立後に「2つの家法」の発言をした。武家社会ではこの一つとしての「長男方式」を採った事から始まったまだ新しい家法習慣である。
以後、徳川時代を経て昭和20年までの法改正まで続き、当時は大名以下上級武士以上全てこれに従ったのである。
それだけに江戸以降は長男に能力がないと何処でも跡目事件が起こったのである。

例えば、この様な跡目騒動の例が秀郷一門にも大事件として度々起こっている。
その内の一つを上げると、上記の「2つ足利氏」の藤原秀郷血縁族の「足利氏騒動」である。
これは一つの事例であるが、当時はこの様な事が各地で盛んに起こっていた事である。
同時に、青木氏にもその役目柄からかこの跡目に関しては宗家に6度も跡目騒動的なものが起こるという程に事は厳しいものがあったのである。
この当時の「跡目」と言う事にはこの様な事が起こっていた。

ここでは、上記の事を念頭にその血縁族の特長を次に検証して見る事とする。
面白いことが観えて来る。

先ず、その「氏拡大」であるが、ただ、青木氏116氏は余りにも大きい末裔集団である。
宗家一門に付き従い24地方への護衛役で入り、土地の豪族との血縁戦略(秀郷一門の統一戦略)だけではここまでにはならないであろう事が考えられる。

そこで、秀郷一門の子孫繁栄の隆盛期は4期が考えられる。
先ず、平安末期までは北家筋として隆盛した。
この間(958−1185)220年である。
この期間は24地方への赴任で土地の豪族と血縁するとした主戦略で氏拡大を図った。自然拡大ではない。そうすると次ぎのようになるであろう。
最大で24−30の氏の拡大程度でなかろうか。これを1期とする。

ついで、鎌倉幕府の樹立で一門は各地に失職離散したが、武蔵、下野付近の坂東では源頼朝に合力して本領安堵され藤原朝光などは生き残りを図ったし、各地の一門は土地に名主や庄屋や大農や郷氏と成って、一段と隆盛は下げた形ではあるが子孫繁栄拡大を図ったであろう。
赴任地に遺された子孫は守護、地頭、御家人などに圧迫されて血縁はなかなか難しいものであった筈である。
この間は鎌倉幕府倒壊までの期間(1358-1185)173年とする。
1期の30程度の拡大分を計算すると、最大で10−19の氏の拡大程度でなかろうか。これを2期とする。

その後、室町幕府が樹立して各地の秀郷一門は土地の豪族となり、一部は仕官したとしても各地でもこの時、全国的に発生した下級武士の「下克上」や「戦国時代」の藤原氏の様な高位の家柄筋の打ち壊しと狙い撃ちが重なり、藤原一門が狙い撃ちにされて権勢は低下し隆盛の域どころではなく衰退域にあったと考えられるであろう。その期間(1358-1408)50年とする。
当時の寿命からして最大で3−6の氏の拡大程度であろう。これを3期とする。

その後、安土桃山時代では兵農分離や天下分け目の戦いで子孫の拡大は衰退期の横ばいが最大であろう。この期間(1408−1603)195年とする。
子孫拡大分を計算すると、最大で12−23の氏の拡大程度であろう。これを4期とする。
(江戸時代以降は家紋から観た氏の拡大は信頼できないので除外する)

考えられる範囲としても、1期から4期までの合計は最大49−78となる。
(ただし、子孫を一代3人として分家化する分は断絶家と他家化の分とで相殺する)

この程度が普通ではないか。永嶋氏、長沼氏、進藤氏の拡大氏と同等程度(52と38)である。
この様に考えてみると、116氏に対して、67−38の氏分が足りない事になる。
(合計638年間)
この足りない分はどの様に考えれば良いのか疑問である。(疑問1)
この疑問1は本文で主要4氏との関係で個々に分析して解き明かす事にする。

これらの事も次ぎのレポートの解析で判断出来る。
上記の数字49−78は普通の子孫拡大で得られる数字と観ると、藤原秀郷一門にとっても、主要5氏の間でも、護衛役の青木氏の氏の子孫の存在が最大の問題であって、116氏に広がったところを観ると、これを何とかして必至に護ろうとしていた結果事が観えて来る。

では、これ等の事に付いて解析して観る。

藤原秀郷一門の主要5氏は次ぎの通りである。
兼光流は青木氏、永嶋氏、長沼氏
文行流は長谷川氏、進藤氏

青木氏に付いては既に研究室の「青木氏と血縁族」(家紋)等と家紋掲示板に掲載しているので、特に示さない。(ただし、次の比較は第3の氏を含む)

先ず、兼光流は次ぎの様になる。
青木氏116氏に対して、
永嶋氏は35氏に末裔を広げている。
長沼氏では52氏に末裔を拡げている。

文行流は次ぎの様になる。
長谷川氏は111氏に末裔を広げている。
進藤氏は48氏に末裔を広げている。

藤原秀郷一門は、兼光流と文行流と合わせて361氏(不詳含まず)と成る。

この数字を観ても如何に青木氏は大きい氏であるかが判る。
普通はせいぜい多くても20程度以下である。
歴史的長さと権勢の大きさもあるが、藤原秀郷一門の採った戦略が大きく左右していると見る。
歴史と権勢で観れば、例えば、典型的な氏として源氏11代もあるが、直系氏孫は遺し得ていない。
同じく、平安の栄華を欲しい侭にした平家も同様であり、隆盛を極めた割にはこの様にはっきりと氏を遺していない。
子孫を遺すと云う事は何らかのそれなりのものがあって始めて成し得る事である。
栄耀栄華は子孫を遺す前提ではない。そうすると、藤原秀郷一門は例外であると云う事になる。
藤原氏四家(北家、式家、京家、南家)の中では北家が隆盛を極めたが、跡目が上手く行かず北家以外は子孫を多く遺していない。
また、跡目を理由に他を潰したが、秀郷一門の中では、これだけ大きくなれば、「自然の摂理」により、秀郷一門は、時代と共に先ずは「烏合衆参」するかして、終局は再び「離散分裂」を起すが歴史の習いだが、しかし、起こっていないのである。
これは何故なのか疑問が湧く。(疑問2)

その「戦略」は先ずは、秀郷一門の中では、時の権威の朝廷との政治的繋がりは除いて、主に次の様な理由に成るだろう。

「生残り戦略」(疑問2)
「氏家制度」と「強食弱肉」と「権謀術策」の社会体制の時代の中での背景を前提とする
1 「武力」身内から専門の護衛役の氏を造った事にある。
2 「掟」宗家より「第3子の跡目」に入れる家法にある。
3 「権威」万が一の事を考えて武力を持つ「第2の宗家」を造った事にある。
4 「外防衛」赴任地24地方に血縁族を作り全国的防御網を張った戦略にある。
5 「内防衛」武蔵国(入間)を中心に神奈川横浜を半径とした渦円に単独青木氏116氏の防御網を築いた事にある。
6 「血縁」全国主要豪族氏との血縁を勧めた事にある。
7 「権威と象徴」皇族賜姓族(源氏、青木氏)との血縁を重複的にした事にある。
8 「組織強化」総宗本家と秀郷主要5氏との相互間の血縁族を作ったことにある。
9 「宗教」神社、寺社の宗教勢力との血縁を勧めた事にある。
10 「政治連携」積極的に北家一族との連携をとった事にある。
11 「経済力」長期間に穀倉地の武蔵下野の領国を死守した事にある。
12 「独立採算制」各氏は「武力と経済」の「2足の草鞋策」を積極的に採用した事にある。

「生残り戦略(1−12)」を一言でいうと、「跡目血縁」を中心として「政治、経済、軍事」の要件の「相互関係」が上手く取れていたことを示すものである。

本文を理解する上で、上記の序文を参考にしてお読み頂きたい。

これ等の事が本文のデータの考察から観る事が出来るのである。
主要5氏の氏の構成も判る史料も掲載するので、永嶋氏、長沼氏、長谷川氏、進藤氏と、青木氏の関係からの影響も参考にも成る。



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