青木氏氏 研究室
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  [No.199] Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−進藤氏との関係
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/23(Fri) 19:59:55

Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−進藤氏との関係
副管理人さん 2008/11/22 (土) 09:47
先発進藤氏に付いては次ぎのレポートで延べる。

本文では、藤原秀郷一門の主要5氏の永嶋氏、長沼氏、長谷川氏と青木氏の関係を述べて来たが、最後は進藤氏である。
夫々3氏は特長ある氏力を持って青木氏と関わって来た。そして、その中で、比較対象として進藤氏の事にも触れてた。ここでは、それ以外の特に主な役割に付いて述べるとする。
次ぎの進藤氏も例外ではなく、極めてはっきりとした特長を持っている。そして、その特長はその「氏力」に合わした重要な役割を演じている。
では先ずは家紋群から入るとする。

文行流の進藤氏48家紋は次の様な血縁族となる。

血縁族の家紋類
(以下第3の進藤氏の家紋含む)
(・印 家紋200選 23/48 48%) 

・上り藤、・下がり藤、左藤巴、かに藤
・笹竜胆
・橘、・丸に橘
・蔦、・丸に蔦、丸に鬼蔦、丸に陰蔦
・丸に剣片喰、・丸に片喰、隅切り角に剣片喰
・丸に桔梗、太田桔梗、五瓜に桔梗
・丸に梅鉢
・丸に立ち沢瀉
・丸に三つ柏
・丸に違い鷹の羽、丸に並び鷹の羽、藤の輪に違い鷹の羽
・抱き茗荷
・丸に二つ引き
・九枚笹
・九曜
・三つ鱗
・左三つ巴、・左二つ巴、左二つ丁字巴
・丸に雁金、丸に対噛合い雁金
・三階菱、丸に花菱
・五三の桐
丸に釘抜き
丸に横木瓜
亀甲に三つ星
茶の実、丸に茶の実
丸に木の字
丸に宋の字
抱き柊
組井桁に花菱
井桁に違い扇
丸に隅立て井筒
浮線菊十六菊

29氏の分類である。

進藤氏の血縁族の考察

さて、進藤氏の考察に付いては、青木氏を中心に主要3氏の考察をして来た中で、概ねは比較対照として述べて来たが、主要5氏は夫々の立場などを生かして特長ある血縁戦略を採っている。
その中で、進藤氏は秀郷流から外れて利仁流にも進藤氏も発祥させている。
これが最も他の主要4氏と違う所ではないかと考えられる。
永嶋氏は兼光流の中での2流を発祥させている。
青木氏には利仁流があるとされているが、これは室町期の混乱期の搾取偏纂である事が高い。
長沼氏は中沼氏等を発祥させているが兼光流を越えていない。
長谷川氏は自らの氏の勢力拡大と兼光流の3氏中でも青木氏との関係を強く維持したのである。
勿論、文行流の主導者としての長谷川氏は、兼光流の主導者としての青木氏の立場と同様に、利仁流進藤氏(為輔)との関係も維持したのであった。(利仁流一族との血縁は直接は持っていない。)

元々、進藤氏は下記に詳細を記するが秀郷流からの発祥であり利仁流との次ぎの様な縁で末裔が拡がったものである。
この進藤氏は利仁流から進藤氏を発祥させている事の意味は大きいので特記する。
単純に利仁流進藤氏と言う事だけではない。これは血縁戦略の重要な一つである。
つまり、関東に勢力を持つ兼光流と文行流を持つ秀郷一門と、同じ地域に勢力圏を持つ藤原北家利仁流一門とを固める大きな要素に成っているのである。
利仁流と秀郷流を両方の進藤氏の仲介で結びつける事は、より強固に北家一門が固まる事になり、その「接着剤的働き」をする事に成る。
まして、利仁流は秀郷一門の「鎮守府将軍」も歴任する等「同じ地域」でも「同じ環境」に繁栄している。利仁流に付いての赴任地を見てみても2地域に限定はされているが秀郷一門と余り代わらない位である。
「藤原秀郷一族の赴任地と発祥氏と主要五氏 」を参照して観てもかなりの多くの赴任地を占めている。それも代々の赴任地である。
因みに、そこで重要な関係であるので、利仁流との関係に付いて先に少し述べる事とする。

先ず次ぎの様に成る。
赴任地とは云え「藤原氏の血縁戦略」として「土地に子孫を遺す」と云う事から、当然に次ぎの土地にも子孫を多く遺している事に成る。
赴任地は「藤原氏の血縁戦略」の最たるものでもあるので、これ等の検証を先ず進めると何かが見えてくる筈である。

利仁流の赴任地は次ぎの通りである。
豊後2人、5、12代目
豊前1人 5、(15)代目 
筑前4人、19、20、20、21代目
陸奥2人、1、2代目
加賀8人、5、7、8、11、12、13、14、15代目
能登2人、14、17、(26)代目
越前7人、7、10、11、13、14、20、20代目
越中4人、12、13、14、20代目
越後1人、10代目
相模1人、15代目
隠岐1人、12代目
肥後1人、22代目
飛騨1人、22代目
出羽2人、5、9代目(18、20)
秀郷流24地方に較べて、14地方37人である。

(注)出羽と豊前と能登は時代性より対象外とした。
(注)「藤原秀郷一族の赴任地と発祥氏と主要五氏 」のレポートとは分布を前提にし影響ある下位の役職範囲を広げた事から若干異なる。

これで、「藤原氏の血縁戦略」であるので利仁流の概ねの「氏力」が判る。約半分であろう。
氏数から観ては25%程度(下記)であろう。
赴任地の大きさから、次ぎの様に成る。

1 越前、越中、越後、加賀、能登、陸奥 の北陸道地方
2 豊前、豊後、筑前、肥後 の北九州地方
主に以上の2地域に限られる。

北陸道は秀郷一門は特に赴任していないが、北九州地方は赴任している事は特長ある戦略である。
これは明らかに秀郷一門の手薄な地方の北陸地方を利仁一門が補完した形態である。
北九州地方の土地は秀郷一門が、阿多倍一門、即ち、京平家の大勢力圏を後ろから牽制する力を利仁一門に補完してもらった形態である。
しかし、後に、この「敵対関係」は北条氏の鎌倉幕府に成ってからは、むしろ「同盟関係」を樹立した。それは念の為に記するが、秀郷一門の鎌倉幕府樹立による「失職離散」の憂き目と、阿多倍一門大蔵氏の「元寇の役」による責任「太宰大監の失職」の憂き目とが一致した「血縁同盟」であった。
この事は、長谷川氏のところで詳細に論じた「大蔵永嶋氏との関係」で証明した事であるが、重要であるので概容だけを重複させる。
これが秀郷−利仁ラインの主な「戦略的な関係」であった。
そして、その繋がりと成ったのが「進藤氏」である。
その意味で、「大蔵氏との血縁同盟」も然ることながら、北家一門の2氏の「接着剤役割」=「進藤氏」なのである。
これは秀郷一門をまとめるには下記に述べる「大事な役割」である。

先ずその前にこの内、その進藤氏の赴任地としては次ぎの通りである。
豊前1人
豊後1人
筑前4人
加賀4人
能登1人
越前6人
越中4人
越後1人
隠岐1人
出羽1人、

但し、進藤氏は秀郷流進藤氏と利仁流進藤氏とがあるが区別は無しとする。
「藤原秀郷一族の赴任地と発祥氏と主要五氏 」のレポートとは分布を前提にし影響ある下位の役職範囲を広げた事から若干異なる。
陸奥の利仁本人と父の時長の2人であるので進藤氏ではない。

この地域は同時に進藤氏の末裔の分布域である。

北陸道の赴任地は主に昔の越国と出羽国域である。
(注:後に、越国は越前、加賀、越中、越後と4分轄、出羽国は羽前、羽後と2分轄)

利仁流の赴任地37人中で進藤氏は29人であり、78%を占めているのである。

進藤氏でない赴任地
相模1人
能登1人
肥後1人
飛騨1人
加賀2人
越前1人
出羽1人

以上の7赴任地8人が進藤氏でない事に成る。

残りのこの進藤氏が利仁流と血縁をし大きく交流を続けていたことが判る。

利仁流藤原氏(8)と進藤氏(29)では、この赴任地から観ると利仁一門の働き(78%)は進藤氏が主役である事になる。
この数字78%は2つの進藤氏の「接着剤的役割」の大きさが証明出来る。
では”この進藤氏の中で秀郷流進藤氏の割合がどの程度占めているのか”が問題と成る。

先に数字的には下記に示す7人で進藤氏の中では秀郷流進藤氏は24%(7/29)である。

この内、先ず秀郷流進藤氏の内情を調べると、「下がり藤紋」より「かに藤紋」が主家主流と成っていて、この一族の末裔は出羽国(山形、秋田)の山形地方に広く定住した(現存:仙台岩切)進藤氏であった。
この進藤氏の家紋から観て、血縁に依って北家の京、近江、丹波付近に定住する「上り藤紋」の進藤氏もあり、「下がり藤紋」の秀郷一門の本家筋も下野国付近に存在するが、長い歴史の中で「かに藤紋」の進藤氏が子孫繁栄には隆盛を極めたものと考えられる。
これは利仁一門との関わりからその居住地(出羽)に定住した進藤氏が主流となったと考えられる。
しかし、この多くの進藤氏は利仁流進藤氏が76%(22:7)で占める働きをしている事に成る。
その比率は、利仁流の赴任地(37)の中での29人である事から観て、この29人の中で秀郷流進藤氏は、確定出来ないが、下記に示す血縁族の分布と史料、系譜から観ると次ぎの通り7人である。

この7つの国域帯に秀郷流進藤氏の末裔が分布した。
特に、分布域は次ぎの様に成る。
出羽国域(延沢、里見)
陸前国境域(宮城:大崎)
越後国境域(出羽国境)
越前域(主に斯波域)
能登域(2人の域は判別できない。)

出羽、越前域には両方の進藤氏が分布した。

秀郷流進藤氏
出羽1人
越後1人
越前1人(斯波域)
隠岐1人
能登1人
筑前1人
豊前1人

以上7域の7人と考えられる。

全進藤氏29人:秀郷進藤氏7人で約24%であろう。(4:1)

そこで、秀郷流進藤氏と利仁流進藤氏の系譜上の接点は何処にあるのかが次ぎに問題と成る。

そもそも、元の進藤氏の始祖は秀郷−千常−脩行−行景の系譜で「行景」がその始祖と成る。
先ず「脩行」が官職「進藤大夫」と成り、その子「行景」が「進藤左衛門尉」の官職と従五位下と成った。そこで、進藤氏の発祥の基が生まれた。発祥は明らかに秀郷一門である。

この進藤氏は利仁流進藤氏では、次ぎの様に成る。
これには斎藤氏が発祥の基と成っている。

「利仁」の子の「叙用」(斎宮頭)が「流」と成り、下記の通り次ぎの9氏の「斎藤氏」が発祥している。この「斎藤氏」の内「疋田斎藤氏」から発祥している。
この疋田斎藤氏から進藤氏に到達するには次ぎの事を理解する必要がある。

藤原一門は全て2つの氏名の使い方をしている。
1つ目は役職官職を藤原の「藤」の前につけて区別して氏名としている事。
(役職を前に着ける。左衛門佐の左藤氏、佐藤氏 斎宮頭の斎藤氏等)
2つ目は土地の名を藤の前につけて区別する何れかの方法である事。
(24地方の国名の前だけを着ける。伊勢で伊藤氏 加賀で加藤氏等)
北家は大変多くの藤原氏を出したが、「姓名」だけでは区別判別が難しいし、同じ「姓名」の者も多く居る。よって主に上記2つの方法を採った。
3つ目は少ないが爵位より着けた氏名がある事。(爵位 諸臣の位6回階級の第6番目の「進位」でその進藤氏は藤原氏の爵位の「進」と「藤」とで進藤氏とした)

参考
宗家以外に藤原氏を直接「姓」として各地に名乗る氏があるが、多くは明治初期の村全体が或いは郡全体が名乗ると云う現象が、特に”藤原”姓に起こったが、この「第3の藤原氏」か「未勘の藤原氏」である。上記2つの方式で名乗っているのが本来の藤原氏である。
家紋も同様で、藤原氏は丸付き紋の藤紋は使わず副紋を使う定めである。
多い丸付き紋は「未勘氏」か「第3の氏」と成る。
「藤原氏」そのものの「氏名」を名乗れるのは基本的に夫々の「宗家、本家」と「総宗本家」である。以上の知識を把握すると家紋類の分析が正しく出来る。

元に戻して。
役職官職では「斎藤氏」はそもそも朝廷の藤原氏の本職の「斎蔵」の官職「斎宮頭」に成った事により「斎藤氏」と号するように成ったものである。
「斎蔵」は奈良期、主に大化期から「朝廷の政治機構」を3つに分けると「3蔵」と称し分けられた。
この内、律令が進むに連れてその立役者と成った阿多倍の子の次男の「大蔵」の大蔵氏と、3男の「内蔵」の内蔵氏が2つを占めていた。賜姓である。

律令体制が完成する桓武期にはこの高い知識を持った後漢の帰化人が官僚の6割を占めていたことが日本書紀に記録されており、天武期には一般からも官僚として採用するように命じている。
この桓武期以降には史料から渡来人、帰化人などの言葉が消えている。この事から150年で融合同化したものと考えられる。
(この日本書紀そのものが、舎人親王を中心に主にこれ等の官僚の編集組織で構成されていた。)
この事を念頭に次ぎの事柄を把握されると概ね全体像が見えてくると考える。
その全体像の中で、次ぎの事柄の流と時代背景(氏家制度の社会慣習)を思考されたい。

天智天皇の大化の改新以降、「皇親政治」の祀り事一切(政治含む)を司る「斎蔵」、朝廷の財政を司る「大蔵」、天皇家の財政を司る「内蔵」の「3つの機構」と「軍事(朝廷軍と親衛隊の2軍と藤原氏の押領使)」に分かれていた。
朝廷軍は「阿多倍」の子の長男の「坂上氏」が征夷大将軍を司った。親衛隊は「北面武士」に語られるように宮廷の衛兵軍の近衛兵で天皇を護る「親衛隊」の役目から「青木氏」と、「斎蔵」の役目から各地の押領使役の「藤原氏」であり、この2氏には永代の左と右の衛門尉か佐の官職が与えられた。
(宮廷門の左右の門の衛兵から来ている。2つの青木氏、即ち、賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏はこの事からは民部尉か佐、右左の門(左衛門尉か左衛門佐)の役職と成る)

この「斎蔵頭」の「疋田斎藤氏」が上記の越前の国の押領使(警察と軍の役割)に成った「藤原為延」から起こり進藤氏の祖と成った。
そして、その子の4兄弟の一人「為輔」が史料から勘案すると進藤氏を名乗ったと成っている。利仁より6代目である。

秀郷流進藤氏は「行景」で4代目、利仁流進藤氏では「為輔」で6代目である。
秀郷の代から合わせると、利仁は「時長」の子であるので「為輔」は7代目に当る。
では、秀郷流の相伝の「行景」の進藤氏の末裔の誰がこの「為輔」と関わったのか問題である。

秀郷流の進藤氏系統では、可能性のある人物は次ぎの4人に絞られる。
6代目では「脩俊」(隠岐八嶋冠者)
7代目は「好治」(進藤太郎)
8代目では「治卿」(左衛門尉、母は豊後守藤原安隆の娘)
9代目では「秀世」(進藤左馬允)
以上4人が可能性のある人物と成る。

つまり、秀郷流より発祥した進藤氏は、利仁流の進藤氏相伝の「為輔」との血縁か縁組かをした事に成るが、上記の秀郷流の4人の内の誰かとの子孫と跡目継承か血縁をしたことを意味する。

そこで、繋がるキーは「為輔」と繋がる関係を持つところを調べる事で判別できる。

次ぎの通り検証した。
同じ年代7代目の「進藤好治」では実質の進藤太郎で嫡子であるので難しいし、その親の「進藤脩俊」は源の頼朝から冠者として命ぜられて平家を西海に討ち紀州和歌山の地の領主となっているから血縁は無い。
8代目の「進藤治卿」は豊後守の利仁流安隆の娘を母にしている。豊後と言う利仁流子孫の赴任地から血縁して可能性が高まるが、経歴から将軍宗尊の近臣を務めた事から山形にいる「為輔」とは関係は薄いので疑問である。

最後は次ぎの「進藤秀世」である。
この「進藤秀世」の親が利仁流と血縁関係を先ず母方で完全に繋がり、更にこの「進藤秀世」の経歴を調べると完全に繋がるのである。
その経歴の一部から、元弘の建武の乱の時、北条尊時に属し勲功、その後、足利幕府家兼家に仕え、家兼の奥州官領の時、陸前の「大崎五郡」(現在の宮城大崎市)を知行するによって、その一部を知行とし、元の赴任地の「越前斯波」の一部加美郡保柳(現在の宮城加美郡 大崎市の隣り)2百余町を加え知行する。秀世大老として働く。
その後、足利家兼の嫡男家督し大崎治部大輔になり継承する、次男が斯波修理大夫として延文元年に出羽探題(山形、秋田地方)と成り、最上地方(現在の山形北部最上郡)に移動した時、秀世は同行する、この代々秀世の末裔12代まで足利氏(最上家)に仕える。
秀世はこの地の「為輔の知行」の一部「寒河江小国」(現在の山形中央部の寒河江市)を知行する。その後、「手の粉城主」(手の子城)となる。(山形と宮城の圏域地帯の藤原氏と最上家の知行帯)

この事から、1秀郷流の秀世の母(利仁流)の豊後、
2大崎の一部知行地、
3利仁流の主な赴任地の越前、
4「為輔」の斯波、
5利仁流の「為輔」の官職知行の一部取得、
6利仁一門の代々の山形居城の出城の「手の粉城主」
から観て、明らかにこの「秀世」が関わったと観ている。

その一族の履歴がこの経緯を示す重要な史料となるので次に記する。
「為輔」の父は「疋田斎藤氏」の祖で「為延」である。
「為延」は「越前押領使」で「北陸道7国押領使」も兼ねている。(重要)
利仁より4代目の祖父は「伊傳」で越前押領使で官位は高い「民部小輔」である。
伊傳の兄弟の一人嫡男「忠頼」は加賀守で加賀斎藤氏である。
次男「重光」は豊後守で豊後の斎藤氏である。
三男の尚忠は官位は「春宮小進」であり、爵位の進位の「進」の氏の役官である。
四男は「文紀」で隠岐守、讃岐守である。
他無役4人の男子が居る。

そして、上記赴任地の北陸道一帯を勢力圏として納めていた一族の中で、「進藤為輔」には4人の兄弟が居る。

「為兼」(疋田大夫)疋田氏相伝した
「為頼」(越前権介)越前権介 総追捕使、7代目の利仁流跡目
「行用」(無役無禄:妾子)
「為輔」(進藤氏祖)居所最上に捨扶持知行地
以上の4人となる。

この事から残りの部屋住みの「為輔」と成る。

つまり、”秀世との上記の6つの関係が興り、4兄弟の身内から身軽な「為輔」が秀郷流との関係強化の目的から秀郷流進藤氏の実質後継者の「進藤秀世」の「進藤氏」を名乗り引き継いだ”と考えられる。
「秀世」と「為輔」は同知行地の地域で懇親を深めて部屋住みで斎藤氏を継げない所から秀郷一門からの働きかけにより「養子縁組(秀世の娘との血縁)」の形を採り進藤氏を名乗ったものと考えられる
そこで、「為輔」の捨扶持知行地一部が何故「秀世」に渡ったかは確証は取れないが、次ぎの経緯からと考えられる。

その経緯とは、朝廷より命ぜられた「秀世」の赴任地が「越前斯波と陸前大崎」に成った事から、この経緯から、恐らくは、「北陸道7国」を納めていた利仁流の父、祖父が、秀郷流一門との関係強化の目的から、「為輔」の知行地の一部の「寒河江小国」を同地に来た「秀世」に与え、その見返りに部屋住みの「為輔」に「秀世」の娘を嫁がせて「進藤氏」を名乗らせひとり立ちを進めたと観られる。つまり、秀郷と利仁の両方の一門の思惑がこの「秀世」の時に一致した事に成る。
(秀世は跡目をなくしている 下記の「血縁の経緯」参照)
同時に「為兼」には「疋田氏」を名乗らせ、「為頼には斎藤氏」を名乗らせて独立させいるから
”為輔には、進藤氏を”と成ったとしても経緯から自然である。

(参考 斎藤氏主要9氏 加賀斎藤氏、広岡斎藤氏、疋田斎藤氏、河合斎藤氏、長井斎藤氏、勢田斎藤氏、吉原斎藤氏、豊後斎藤氏 他1氏)

参考
秀郷流進藤氏と利仁流進藤氏があるが、他に未勘の進藤氏がある。

乙部氏族の進藤氏
源の頼政流の乙部氏族の未勘末裔が信長との軋轢から進藤氏に改名したとある。
伊勢国の乙部郷に住する。

綾姓羽床氏族の進藤氏
讃岐の羽床氏が進藤氏を名乗る。
以上2氏は何らかの形で藤原氏の血縁を受けていると見られる。

武田氏進藤氏
吉良氏進藤氏
近衛氏進藤氏
以上3氏は何らかの形で藤原氏の血縁を受けていると見られる。

以上5氏が時代を経て室町末期以降から江戸期初期に発祥した進藤氏である。
秀郷一門と関係があると認められるこれ等5氏は、進藤氏に何らかの血縁を先祖に持つ事から、後に何らかの理由にて縁先の進藤氏を名乗ったものと考えられる。

出羽の進藤氏
近江の進藤氏
丹波の進藤氏
安芸の進藤氏
出雲の進藤氏
他の13の未勘進藤氏がある。
夫々の国に合わせて18氏(全部で23氏)の未勘進藤氏があるが確定できない。第3氏で無いかと見られる

この様に、主流2氏の進藤氏は上記の経緯を以って一族固め戦略を7代目辺りで採った事に成る。

進藤氏は他の主要4氏の血縁戦略とは違う中間的な血縁戦略の生残りを図ったのであるが、その一つとして、地域的な血縁戦略より、上記した9つの「地方の赴任地」で血縁を固め、且つ、「利仁流の勢力圏」を利用する2つ形で主要族に成った。
それを補完した利仁流の勢力圏は14地方が秀郷流進藤氏(7)を創り上げた。
この様に、秀郷流進藤氏は「接着剤役割」で青木氏からの依頼を受けて利仁流とのパイプ役を演じていた。

参考
長谷川氏のところで九州永嶋氏との関係の仮説4つのキー探しは、接着剤役進藤氏の役目柄、”青木氏に依頼されて、利仁流の北九州の赴任地との関係から、この進藤氏が絡んでいるのでは”と見ているが現在確証は出来ない。

しかし、この「接着剤役」の文行ルートの進藤氏では、秀郷流兼光ルートの青木氏が主動していたが、一門の中で最も重要視していた血縁戦略であった筈である。
と云うのも、この「接着剤の役目」が上手く働かなければ、戦略上、関東以北の同地、身内の中に爆薬を抱える結果と成るだろう。
武蔵以西の事を主要3氏のところで、その戦略の合理性、完璧性を論じてきたが、しかし、武蔵以北が秀郷一門の弱点とも言えるところであり、武蔵以北と北陸道を抑えている利仁一門との関係が藤原秀郷一門の最悪の弱点であったでと観ている。
それだけに両方の進藤氏の出方は秀郷一門を仕切る「第2の宗家」の青木氏の最大のテーマであろう。他の4氏との戦略的関係は上手く行っているとしてもである。

その青木氏に対して、逆の見方からすると進藤氏は、江戸期までの間で平安期は13%と血縁族を多く創り上げている。(普通は3%−5%程度)
進藤氏の発祥は文行流の一族であるが、青木氏と進藤氏は対象的なのは、「護衛役の有無」と「一門の立場」と「戦略の違い」の3つに差があったと考えられるが、進藤氏には、「藤成」からの「秀郷」の一門進藤氏と、「鷲取」からの利仁流進藤氏もあり、上記の赴任地の内容から同時期、同地、同族、親族間の血縁連携をも図っていた戦略がはっきりと観える。

利仁流は鎮守府将軍や阿波と北陸道の守護を代々続けるなど、藤原氏の中でも秀郷一門と共同の活動を採って来た一門で、秀郷流と利仁流の進藤氏があるほど連携をして来たのである。
進藤氏はどちらかと言うと同じく一族内を固くする「篭城戦略」に似た「身内戦略」を採ったと観られる。上記「接着剤的役割」はこの「身内戦略」から出たものである。
永嶋氏とは少し違うのは、血縁族を赴任地だけに留め、広く求めなかった所にあり、即ち勢力圏は極めて小さい処にある。
”広く求めなかった”と云うより”求められなかった”とする可能性が下記の系譜の所の史料で判断できる。
赴任地は北九州の目的とは別に、主に能登、加賀、越前、越中、越後、陸奥の「北陸道」に限られている事からも、むしろ、鎌倉期以降の血縁族を広められなかった原因の一つではと考えられる。
それと二つ目は本流の「跡目継承の子孫繁栄」が上手く行かなかった事であろう。
それに依って、失職離散する前の成長期の平安期の血縁率(13%)が高く成ったと観られる。
その結果が室町期、安土桃山期、江戸期と余り延びていないのである。青木氏と対照的である。
(詳細は進藤氏の本文考察参照)

青木氏との共通血縁族を観てみると、進藤氏は下記の主要5氏の「共通血縁族」の「主要8氏」が殆どである。この事は進藤氏が独自に血縁戦略にて血縁族を拡げた傾向は少ないことを意味する。
青木氏に指導に基づき「主要8氏」に留めていることに成る。
その分、利仁流との関係を強化したと観られる。
この事は上記の「為輔との血縁の経緯」を観ても、「第2の宗家」との相談で、むしろ、秀郷流進藤氏の「最大の役目」としていた事を物語る証でもある。
つまり、腹の中に爆薬を抱えた秀郷一門の弱点を補う「接着剤的役割」に主眼を置いていた事に成る。
室町期から江戸期にかけて発祥している未勘の進藤氏を含む進藤氏の上記データを観ても、秀郷一門の「西側防衛域」には全く進出していない。秀郷一門の戦略上の規定域内だけである。
これも一つの「最大の役」即ち「接着剤的役割」を越えることの無い証であろう。
この秀郷一門の血縁戦略から誰が見ても明らかに見えて来る「弱点」を進藤氏で補っている。これ程の完璧な戦略事は、自然にその戦略が出来上がったと云うことではないであろう。
明らかに「恣意的な戦略計画」で実行されたものと考えられる。

”それは誰が主動したか”であろうか。当然「第2の宗家」の青木氏となろう。
青木氏との「共通血縁族」とは、”大きな笊(ざる)に血縁族というものを入れて流れ落ちて残ったものが「主要8氏」である”と云う事に成る。
と云う事は、この笊の原理からすると、「青木氏「=「共通血縁族」の条件と、上記「進藤氏」<「共通血縁族」の条件とで、共通項=「共通血縁族」と成り、結果、「青木氏」=「進藤氏」が残る。
青木氏が主導の下で、進藤氏は「行景」より発祥後、6代目「秀世」のところで利仁流の「為輔」と「接着剤的役割」を果たしたと成る。
しかし、ここで、「秀世」は秀郷流進藤氏の本家跡目を継いで子供の「脩久」に引き継いでいる事から、「跡目血縁」は無い事に成る。
では、”どのような形の血縁か”と云う事に成る。

「血縁の経緯」は次ぎの通りである。
「秀世」には子供が4人居る。2男2女である。
長男の嫡男は”秀世18歳の時の子供で実に聡明である事から足利将軍の寵愛を受け、2つ引き両紋の家紋を授与されるが、短命で死す。”とある。”次男が将軍に仕え「脩久」が跡目を継ぐが、これも若くして死す。跡目耐える。その暫時後、その跡目に養子を取る。養子「実理」成る者を跡目として進藤氏を継ぐ。”とある。”「実理」の実父は大崎家の家臣の四亀(伊予)氏で、「実理」はその次男で、65歳で没する。”と成っている。
この大崎家は秀世の2度目の赴任先で大崎五郡の知行地のある土地で其処の豪族である。

2女の”次女は里見に嫁ぎ、長女は山形の延沢に嫁ぐ”とある。
長女の延沢は現在の(出羽)山形県尾花沢市で最上線が走る最上地方であり、隣りの寒河江市地域でもある。(延沢の進藤氏発祥)
次女の里見は現在の(出羽)秋田県横手市である。(後に里見の進藤氏発祥)
これは上記の「為輔」「秀世」の記述と完全一致する。
このことから、「秀世」は跡目2人を若くして無くし、暫く跡目を探していたが、「為輔」も「4兄弟の部屋住み」である事から、長女を山形の延沢(「藤原為輔」居所)に嫁がせ進藤氏を絶えさせない努力をした。そして、この相伝「為輔」が形式上の養子縁組の形を採り進藤氏の姓を継いでもらった。(実質は延沢の末裔の吉継の継承)その後、秀郷流の進藤氏も耐える事の無い様に、支流で大崎家の家臣の四亀(伊予)氏から養子を取った。
以上が血縁経緯であり、秀郷流進藤氏は「秀世」の子供の代で絶え、支流大崎家(秀世の知行地)より跡目養子の進藤氏となり、利仁流進藤氏は「秀世」の娘の女系進藤氏と成る。

実は、この後も養子「実理」後の跡目末裔も48歳、30歳、39歳、38歳、その後も討死、親子腹切等があり、「跡目継承」は大いに乱れて大変苦労している。
この秀郷流進藤氏の本流は殆ど枝葉の無い系図である。この系図から観ると、この様に、嫡子だけでも他氏から迎えるくらいで、嗣子と女子を外に出すほどの余裕は無く秀郷流進藤氏は子孫繁栄に極めて苦労している。
ところが利仁流進藤氏の「為輔」の末裔は全く逆で枝葉を伸ばし多くの子孫を遺している。
これは上記の家紋群29分類の48家紋の氏は「未勘氏」が多いことを意味する。
未勘氏に対しては、上記の進藤氏家紋群の家紋と、進藤氏の上記の小さい地理性から観て殆ど繋がりは採れない。
室町末期と江戸初期、江戸末期と明治初期の苗字令の混乱期の移動性から来た分布氏ではと考えられる。
上記に記した「未勘氏18氏」(23)があるとしているが(他の主要4氏と異なり未勘氏が多い)殆ど枝葉の無い系譜から察するに「主要共通血縁族8氏」を除いては未勘氏と成る。

進藤氏の利仁流一門との「接着剤的役割」は主に「主要共通血縁族8氏」に委ねられていた事を物語る。
では、その「主要共通血縁族8氏」が働いた「接着剤的役割」の血縁を他の主要3氏と比較して観てみる。

参考
主要5氏の「共通血縁族」(青木氏と同じ家紋を持つ氏)
主要5氏共通:「家紋4大血縁族」・丸に片喰、・丸に剣片喰、・丸に違い鷹の羽、・丸に梅鉢族
主要4氏共通:「家紋4血縁族」・九曜、・抱き茗荷、・丸に桔梗、・丸に立ち沢瀉。

「家紋4大血縁族」+「家紋4血縁族」=青木氏
(注 5氏共通の下がり藤と笹竜胆と第3氏の五三の桐紋は除く、4氏共通の上り藤と橘紋は除く)

青木氏と同一血縁族の分類
「共通血縁族」
1・下がり藤、・上り藤
2・笹竜胆
3・橘、丸に橘
4・丸に片喰、・丸に剣片喰
5・丸に違い鷹の羽
6・丸に梅鉢
7・九曜
8・抱き茗荷、・丸に抱き茗荷
9・丸に桔梗
10・丸に立ち沢瀉
11・蔦、・丸に蔦、丸に陰蔦
12・三つ柏
13・三階菱
14・丸に二つ引き
15 丸に横木瓜
以上15分類21「共通血縁族」

参考
長谷川氏           長沼氏            永嶋氏           
1・下がり藤・上り藤     1 ・下がり藤        1 ・上り藤、・下がり藤   
2・笹竜胆          2 ・笹竜胆         2 ・笹竜胆         
3・桔梗           3 ・桔梗、・丸に桔梗    3 ・丸に隅立て4つ目    
4・木瓜・丸に木瓜      4 ・九曜          4 ・丸に片喰、・丸に剣片喰 
5・橘・丸に橘       5 ・抱き茗荷        5 ・丸に沢瀉        
6・梅鉢・丸に梅鉢      6 ・丸に立ち沢瀉、抱き沢瀉 6 ・丸に抱き茗荷      
7・九枚笹・丸に根笹     7 ・丸に三つ鱗       7 ・丸に違い鷹の羽     
8・片喰・丸に片喰      8 ・丸に橘         8 ・丸に桔梗        
9・九曜・丸に九曜      9 ・丸に剣花菱       9 ・丸に蔓柏        
10・蔦・丸に蔦        10 ・丸に剣片喰       10 ・丸に木瓜        
11・立ち沢瀉・丸に立ち沢瀉  11 ・丸に違い鷹の羽     11 ・梅鉢、・丸に梅鉢    
12・剣片喰・丸に剣片喰    12 ・丸に梅鉢        12 ・三階菱         
13・武田菱・剣花菱      13 ・五三の桐        13 ・五三の桐        
14・抱き茗荷・丸に抱き茗荷                 14 釘抜き          
15・丸に蔓柏・違い柏     以上13分類15「共通血縁族」以上14分類17「共通血縁族」
16・違い鷹の羽・丸に違い鷹の羽                              
17・丸に一つ引き・丸に二つ引き・丸に三つ引き                       
18・三階菱                                        
19・松皮菱                                        
20・揚羽蝶                                        
21・五三の桐                                       
22・丸に隅立て四つ目                                   
23 横木瓜 丸に横木瓜                                  
以上23分類40「共通血縁族」である。
(謝罪 画面の乱れはソフトの関係)

進藤氏は以上15分類で青木氏との共通血縁族は29に成る。
分類/共通血縁族の分類比は、進藤氏52%に対して、長谷川氏58%、永嶋氏87%、長沼氏82%である。
この比は、%が高い事は同じ家紋の文様が多いことを示し、他氏やその本流に限らず支流分流分派の末裔まで及ぶ広い血縁をしている事を示すもになる。つまり、「血縁活動」が高かった事を物語る。「血縁活動」が高かったと言う事は「氏力」が高いと云う事になる。

そこで進藤氏は同じ文行流の長谷川氏と同じ程度であるが、永嶋氏と長沼氏とでは大きな差がある。
進藤氏と長谷川氏とでは同率であるが元々体質が異なる。
先ず、上記した様に未勘氏(18+5)が進藤氏に多い事で、これを勘案すると、上記した様に25%程度の分類比と成る。
「家紋200選」では48%である。
上記の考察の「共通血縁族」=「家紋200選」=「主要血縁族8氏」とすると、この分類比25%と勘案すると、支流族などと殆ど血縁していない藤原一門外の「普通の氏の血縁力」と言え得る。
故に、「共通血縁族」=「家紋200選」=「主要血縁族8氏」=「接着剤的役割」の数式の結果と成る。

つまり、秀郷流進藤氏の「氏力」(25)は「接着剤的役割」の一点に絞られていたことを示すものである。「氏力」(25)=「接着剤的役割」の数式と成ろう。
そうでなければ、この他の役割を果たす以外に25%では氏力が小さく「氏力の余裕」は出てこないであろう。
これでは、主要5氏に成る要素は無い事だし、自分の氏さえも護ることは難しい事に成るが、そこの「氏力の余裕の役割」の補填は利仁流進藤氏に頼ったという事であろう。それ以外に無いだろう。
その事は、現実に主要氏と成っていることから、2つの進藤の交流が高かった事にも成るだろう。
つまり、数式では、秀郷流進藤氏+利仁流進藤氏=氏力と評価される。
但し、この「接着剤的役割」は藤原北家一門にとって無くては成らない何物にも変え難い「最大の役目」なのである。
むしろ、進藤氏にこの役目が在った事からこの様な低い「氏力」と成り得た可能性がある。
それに進藤氏の「氏エネルギー」を使い果たしていたと言えるだろう。
その証拠に、この進藤氏の官位官職は八嶋冠者、左衛門尉、左馬允、右近蔵人、主税介、駿河守、程度であり、他の主要4氏と異なり高位高官は無く官職も少ない。
これは政治的に活発に活動をしていない事に成る。上記した活動地域も出羽を中心とした利仁一門と同じ域の北陸道に限られるし、この役目に徹していたと言え、役割に専念したからこそ藤原秀郷一門はこれ程の子孫繁栄を果たしたと言える。

この戦略的な主導的働きを進藤氏に与えたのは青木氏と成る。
今までの永嶋氏、長沼氏、長谷川氏、史料1/10−6/10の考察にも比較対照として進藤氏の血縁戦略を合わせて考察し述べて来たが、進藤氏にはこの様な大きな役割が存在したのである。
以前のレポートに、長谷川氏の様に「野戦的血縁戦略」、永嶋氏や長沼氏の様に「篭城的血縁戦略」であって、世の中の諸事には、その役割が「外向き」と「内向き」とがあり、その両方をコントロールする「調整役」が居て上手く行くのであるが、この3氏は「外向き」で、進藤氏は「身内戦略」の「内向きの役割」を担っていたのである。所謂、「身内の女房役」とでもいう役割を演じた。
そして、その「外向き」と「内向き」の「調整役」が「第2の宗家」の青木氏と言う事に成る。

この時代は平安末期から室町末期までの混乱期であった事から、「外向き」と「内向き」の比率が3:1の形に成っているが、平安初期や江戸時代の安定期では1:3の逆の比率として戦略を採る事も必要であっただろう。それだけに、混乱期に「調整役の青木氏」にとっては「系譜に弱点」を持つ「氏力」の小さい「進藤氏」にこの役を担わしたのであろう。
それだけに、青木氏は利仁一門との関係強化を目論んだと観られ、上記する「秀世」−「為輔」との関係を強力に図ったものと考えられる。
それが、上記した「秀世」の跡目養子の縁組と「為輔」の婿養子の縁組(女系)の采配に現れている。
秀郷流進藤氏に対して「調整役青木氏」が大きく関わった証として、「かに藤紋」の進藤本家と、殆ど「主要8氏の共通血縁族」だけの血縁枠にある。

本来、進藤氏の家紋類には、綜紋の「下がり藤紋」が本家家紋の持つ家があるにも関わらず、出羽国域に居所する「かに藤紋」一族の分家筋を「主家筋」として扱った事。
青木氏が推し進めた秀郷一門内での戦略血縁を推し進めた「共通血縁族」が進藤氏血縁族であった事。
この氏家制度の中で青木氏だけが成し得るこの2点にある。

この様に、氏家制度の中で、一門の運営を総括する「第2の宗家」としての「調整役の青木氏」は「内向き役」の「一門の弱点」の強化に大変苦労したと考えられる。

「所感」
何にせよ、主要5氏の血縁戦略を検証するに当って、感嘆することは、その「血縁戦略」が揺るぎないものと成っている事、戦略としての定法に欠けるものが無い事、強処弱処の押さえ事、攻め護りの定法事、等を「氏」の維持に必要とする戦略上の疑問が湧く点事を、尽く史料分析から証明されて「理」に叶い否の付く所が無かった事にある。
実際、筆者の長年の検証が進むに連れて、その戦略が”定法ではこの戦略は何処に”と次々と疑問が湧く状況であったが、尽く潰された。
日本書紀には大化改新より藤原一門と賜姓青木氏の天皇の相談役の軍略司の記述が多い中で、伝統的に確かに如何に青木氏が優れた「戦略師」であったかを思い知らされた検証事であった。

「結」
本論文は、元々は「青木氏」の調査の中での他の氏に疑問を感じて調べていると大変な繋がりがある事を知れ得て、更に青木氏の巾を横に広げたのが経緯であった。
しかし、秀郷一門の「青木氏」と「主要5氏」、それに「主要8氏の共通血縁族」に付いては血縁族ではあるが、どのような関係で成り立っていたかを長い間で試みたが、あまり関係研究の資料が無い中で、苦労はしたが何とか網羅できたかとも思っている。
その苦労とは、「史料調査−疑問−推論−史料探索−考察−検証−確定調査」の繰り返しでここまで到達する事が出来たが、今後、ルーツ探しなどに挑戦しようとされる方は、この手順を踏まれる事をお勧めする。
中でも、「疑問−推論」のプロセスが大変大事であり、”「推論」が当らなければ又元に戻り推論を建て直す”とする根気の必要とする作業である。
そして、その「推論」の当る秘訣は、当時の時代性の「氏家制度の社会慣習」の知識を習得する事にあり、「現代感覚」では決して推論は当らないことである。
その「社会慣習」を習得するには、上記のプロセスは役に立たず、”只、一言「雑学」を試みる。”に以外に無い事による。この「雑学」が上がれば、「推論」も確率的に不思議に高まるのである。
筆者は物理系技術者であるので、本職的に上記プロセス作業は専門であった為に比較的にこの作業は楽であった。しかし、「科学的雑学」は領域内であったが「文科系雑学」は特に大苦手で読む事さえも毛嫌いし苦労をした。従って、この「文科系雑学」に極めて努力を重ねたものである。
それに、最後は、「男の社会経験」(ネゴシエイション)にあると考えている。
この3つがあると、「魚釣り」の吊り上げる直前のググウと引き込まれる手に伝わる「感触感と歓喜」を味わえる。
釣であろうと、何であろうと、上記「プロセス」は同じであり、それを補う「雑学」や「ネゴシエイション」も同じ「必要素」では無いだろうか。そして、其処に、「達成の歓喜」が生まれるのではないだろうか。その「達成の歓喜」が次ぎの「ヤルキ」に繋がるもと考える。
況や、これは「人生学の摂理」ではないと考える。

兎も角も、これで、他のレポートと合わせて、筆者は「歴史の伝統資産」を少しでも後世に遺す事が出来ると自己満足の域にある。今後、歴史に興味のある方は、大いに利用し挑戦して頂きたい。
その為に、本文の後に、本文関係資料を続けて掲載する。



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