青木氏氏 研究室
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  [No.206] Re: 皇族賜姓青木氏の背景 7
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/24(Sat) 08:52:26

Re: 皇族賜姓青木氏の背景 投稿者:福管理人 投稿日:2009/01/18(Sun) 15:48:10


Re: 皇族賜姓青木氏の背景
青木研究員 さん 2005/06/23 (木) 12:39
上記のように青木氏には基本的な事柄の背景を持つていることを前提に次に記述を進めます。
645年の大化の改新で誕生した青木氏であるが、正式には668年に伊勢王となり、臣下して賜姓を受け、次第に勢力をつけて天智天皇や天武天皇の所期の目的を達成しながら、他の4地方までに4代の天皇に引き継がれて青木氏を広げていきました。
朝廷の軍事舞台の渡来系の坂上氏には達しないまでも、天皇家の親衛隊としての力をつけてきました。しかし、阿多倍一族との武装集団としての対抗が芽生えた。これがまた、青木氏の発展の障害となつたのです。世の常といえばそのとおりで、出る釘は打たれるのたとえ通りで、780年頃桓武天皇期にはこの荒波が押し寄せることとなりました。806
桓武天皇はそれまで続けていた第6位の皇子の臣籍と賜姓青木氏を変更し、突然、次の様な4つの理由で賜姓を渡来系一族におこないました。では、その理由ですが、
1 大化から引き継がれて拡大した4家青木氏の朝廷に対する勢力を律令体制を完成させた天皇としてはそぐ必要に迫られた。
2 渡来系阿多倍王の一族の九州から始まり、関西まで及んだその
32/66国の勢力。
3 阿田倍王一族が持ち込んだ国内へ部制度による産業基盤の技能と彼等による国内の軍事平定と律令体制への完成作業など、過去にだれにも成しえなかったその超貢献度。それによる朝廷の経済的財政力と政治的安定性の獲得。平安遷都はこれにより成し得たのである事。
4 慣例外の渡来人の豪族からの世間の風当たりなどの中で、桓武天皇の渡来系の母(高野新仁)とその義祖父への思い。

桓武天皇前の各天皇はこの超大勢力の阿多倍王一族との融和策だけではすまない政治的な決断に迫られていた。
皇族との結婚、子孫の朝廷内への主要役務の取立て、賜姓、特別地の支給と不輪と不入の権での保護を最大限に行ってきた。
桓武期にはそれまでの伊勢王などの貢献に比して、更には引き立てを実行せざるを得ない政治状況に落ち至る。
桓武天皇は次の施策を実行した。
1 伊勢北部伊賀国の容認と国司の任命扱い800頃
2 伝統ある伊勢の守護の青木氏からの剥奪と藤原藤成の任命820
3 青木氏に対抗する阿多倍一族の賜姓(後の平氏)797
4 藤原一族氏の重用(鎌足から4代目783頃から北家の台頭引上)
5 青木氏を政治から遠去ける。806
 (天皇の相談相手としての軍略所の軽視)
特に、青木氏の中心としての伊勢青木氏に対する締め付けは大で
4家の青木氏は衰退の一途を辿る。
伊勢松阪付近に集中して生き残る。そして、源氏との連携が始まる
この桓武天皇の賜姓と渡来族の台頭に警戒感を持った次の子供の嵯峨天皇はこの動きを止めようとした。そして、詔を出した。
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