青木氏氏 研究室
このフォームからは投稿できません。
name
e-mail
url
subject
comment

[研究室トップ(ツリー表示)] [新規順タイトル表示] [新着順記事] [留意事項] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]

  [No.210] Re: 青木氏と血縁族(家紋)-26(鱗紋)
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/24(Sat) 09:45:29
Re: 青木氏と血縁族(家紋)-26(鱗紋) (画像サイズ: 2028×2028 22kB)

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-26(鱗紋)
青木研究員 さん 2006/09/29 (金) 22:25
第25/33番目の紋様である。

この紋様は全部で26ある。

この紋様のうち青木氏に拘る紋様は次の1つの紋様である
「丸に三つ鱗紋」である。

この紋様は家紋200選にえらばれている。

この家紋は鎌倉時代の執権北条氏の家紋である。

この北条氏は前北条氏と後北条氏とがある。

この北条氏の末裔の分流は平野氏、江間氏、岡野氏である。

この北条氏は鎌倉幕府の執権として1333年まで維持したが、この北条氏は平家(たいらぞく)の清盛に追われ伊豆に流罪となつた清和源氏の源頼朝の引き受け先となつた氏である。

この北条氏は「坂東八平氏」として関東千葉地方からこの伊豆付近までを勢力範囲とする8族の平族(ひらぞく)である。

この「坂東八平氏」のルーツは奈良時代から天皇家の第7世以降の皇族から下俗した氏で、天皇が代替わりするたびにその天皇から数えて7世以降になつた者が坂東の国々に移動させられた者で土地に根付き氏を発生させた元皇族の者であつた。
これ等のものは勢力を拡大して8つの族を形成した。この8つの族を「ひら族」と言う。つまり「ひら」に下がったことを意味する総称である。

ひら族の坂東八平氏に付いては研究室の「京平氏と坂東八平氏」のレポート参照

参考として、付帯すると
では平清盛らの「たいら族」の由来とは次のとおりである。
大化の改新の時代に中国北東部と朝鮮を勢力範囲として国を樹立していた中国の後漢国がありこの国が滅びた。

後漢は、漢国が滅びたがこの中で光武帝という将軍がいた。この将軍は滅びた漢の民を集めて東部地域に引きこもり国を作りその勢いで三韓(馬韓、弁韓、辰韓)攻め落として後漢という国を樹立、この国は640年頃にまで21代続いた。「光武帝」より末帝の「献帝」までである。

献帝には阿智使王の子と孫の阿多倍王がいた。
この子孫を守る為に阿智使王と阿多倍王に後漢の国の17県の民(200万人)を引き連れさせて、北九州に上陸してきた。

この一団には武力集団から始まり技能、官僚、など全ての国を構成するに必要とする高く進んだ集団から構成されていた。

この集団の首長の阿智使王と阿多倍王は戦いを避けて帰化を朝廷に申し出た。
この集団は瞬く間に九州全土を無戦で制圧し引き続き中国地方をも制圧した。

大和国66国のうち32国を制圧した勢力をもち朝廷にその圧力を加えて認めさせます。

しかし、殆どは無戦で進んでその配下に入る地方の豪族が殆どであった。
その理由はこの集団の能力にあった。

軍事、政治、経済での高く進んだ知識と技能を土地の者に普及させて生活力を高めさせたのである。
現代の第1次産業の殆どはこの集団が持ち込んだものである。

この集団の首長の阿多倍王らに付いては日本書紀にも度々出てくる。
(大隈の首長の阿多倍)

この阿多倍王は敏達天皇の曾孫の子の娘を娶り3人の子供を生む。

阿多倍は准大臣にもなり、子供の長男は朝廷の軍事の長として坂上氏の賜姓を受けます。次男は朝廷の財務関係の長として大蔵氏を、三男は天皇家の執事としての内蔵を担い内蔵氏の賜姓を受ける。

この当時の政治体制は「3蔵」と呼び2つまでをその高い進んだ官僚知識で担った。

朝廷はこの阿多倍王に伊勢国を1/3にして伊賀北部の半国を与え「不入不倫の件」を与え半国司とさせる。

この阿多倍より3代目の貞盛が武蔵国の押領使(軍事と警察)として任務についていた。
この時、坂東平氏の5年間の「平の将門の乱」が起こり藤原の秀郷(下野の押領使)とともにこれを制圧します。誰もこの戦いにすすんで戦わず苦戦の末に鎮圧。
平貞盛と藤原秀郷らは朝廷に2つの条件を認めさせた上で戦った。

条件とは1つは貴族にすること。2つは武蔵と下野国を領国とすることであつた。
貞盛は朝廷勤めになりその子供は国司になった。

この勲功にて貞盛は出世して5代後には平清盛になり太政大臣まで上り詰めた。

これが桓武天皇の賜姓族の「たいら族」(ひら族扱いの意)である。
本来であれば第6位皇子を賜姓するのが慣例であるにも拘らず、桓武天皇の母(阿多倍王の孫娘)である実家先を引き上げて坂東の7世族「ひら族」に習って渡来人を「たいら族」として平氏を賜姓した。

この集団の官僚の政治知識でやつと桓武天皇期に日本の律令国家が完成した。
賜姓したのはこの勲功もあつた。

この「たいら族」の賜姓に対し、嵯峨天皇期からの第6位皇子を賜姓源氏(桓武期の賜姓平家族に対して次の子供の嵯峨天皇)に変名して戻した。
(この時、青木氏は皇族関係者が下俗するときに名乗る氏として詔を発す。)

この嵯峨天皇から九代目の清和天皇の第6位皇子の経基王が清和源氏の賜姓を受けます。
この3代目の宗家頼光より4代目の源三位の頼政がこの伊豆国の守護となった。この時にここを護衛した賜姓伊勢青木氏の子孫の一部がこの地に定住した。

また、頼光の弟の頼信が甲斐の国の守護を兄から譲られて守護となり、勢力を拡大するために坂東平氏を圧迫して、その4代目の子孫は此処伊豆東部に坂東制圧の拠点を起く。(坂東八平氏は関東東よりに圧迫される)
この時にも、甲斐の賜姓青木氏の一部が護衛してここに定住した。

この地より以東の神奈川横浜には藤原秀郷一族の青木氏が定住した。
(1180―1195年代)

後には、神奈川横浜には甲斐の諏訪族青木氏も織田信長の追求を避けて落ち延びてきた。(1560年代)

この付近一帯には4つの青木氏が存在することに成る。

そこで、この「丸に三つ鱗紋」の青木氏のルーツは次の検証する。

鱗紋は三つの鱗を組み合わせたものが主要紋である。
つまり、北条氏の「三つ鱗紋」です。「丸に三つ鱗紋」はこの分家ですから本家では有りませんので血縁するとしては氏家制度から本家筋かとの血縁に成るのがこの時代の慣習である。

よって「三つ鱗紋」の青木氏がないのはこの慣習が乱れた時期であり、1330年代以降の10年余りの出来事と見らる。

つまり、清和源氏滅亡した後の北条氏滅亡直前で足利氏に移る間の時期に血縁を結んだことが考えられる。

上記上2つの賜姓族青木氏のいずれかがこの北条氏の末裔と血縁し2代続きの男系不継承で女系化して、止む無く家紋掟で養子先の家紋継承となったものと見られる。
この青木氏の村を形成している定住地から見ても充分に頷ける。

要するに北条氏の子孫が絶えない方策として滅亡の混乱期に血縁にて分家が賜姓青木氏を選んだと見られる。

北条氏の血筋を引き受けた賜姓青木氏であると見られる。
この家紋は鱗の数で紋様を変化させているが、北条鱗紋の三つ鱗が元である。


家紋掲示板にも掲示します。



- 関連一覧ツリー (◆ をクリックするとツリー全体を一括表示します)

- 以下のフォームから自分の投稿記事を修正・削除することができます -
処理 記事No 削除キー