青木氏氏 研究室
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  [No.257] 甲斐青木氏の研究(花菱紋)−後編
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/09/29(Tue) 15:21:16

[花菱紋から丸に花菱紋]
親族の豊定の柳沢氏の菩提寺は常光寺−光沢寺−永慶寺−護国神社となります。
その柳沢氏は上記の理由で曹洞宗常光寺から引き上げて浄土宗光沢寺を開山しました。
同じく兄の正定の本家筋を継がした青木氏の菩提寺は常光寺−源空寺(末寺 明治廃寺)を開山しました。そして、自分の青木氏は山間部の「国衆」の防衛団役として住んでいた北巨摩郡の菩提寺松源寺を開山したのです。
柳沢郡青木村の人の青木氏の菩提寺は結局は有りませんから甲斐に戻った後は「丸に花菱紋」の曹洞宗常光寺としたのです。
”何故、柳沢郡に青木村があるのか”と云う理由は信定が臨終の間際に採った父子の「路線争い」と「宗派争い」の苦肉の策と観られます。
14代目兄弟正定、豊定の親族では特に豊定自身が継ぐものと思っていただけに苦々しく思っており、止む無く伝統の無い柳沢氏を発祥させられる羽目に成った事に成ります。
後刻、末裔は花菱紋の別家を起こした兄と共に、この養子信之の末裔(長男元忠襲名)に対して異議を申し立てた事になります。
事実、この伝統ある皇族青木氏の柳沢郡青木氏を血縁の無い青木氏が継いでいる事に対して、甲斐全体の青木一族には、継承の経緯もあり決着を付けるべく、”伝統ある青木氏を血縁の無い者が継ぐ事は罷り成らん”と申し込んだと観られます。
”事実、血縁が無い事は否めない事実”として”「花菱紋の使用」と「浄土宗派」をやめるが、「系譜」と「青木氏」を改める事は拒否する”として決着を図ったと成っている訳です。

果たして決着を見たのかは疑問です。
取り敢えず、「花菱紋」から伝統の無い分家的な扱いの「丸に花菱紋」に変紋した事で一応は納得した事にして”様子を見る事にした”としたと思われます。

と云うのは、この事は次ぎのことからも覗えます。
1 寛政の史書(1800頃)にも「寛永第三の青木氏」(1635頃)と示されていた事。
2 花菱紋青木氏元祖の正定の9代目末裔信政(1735頃)が、この「丸に花菱紋」の系譜を当時の口伝から偏纂し添書を詳細にして違いを表し、伝統を正確に遺した事
以上等で末裔は先祖の錯誤行為を一時納めたと観られます。
3 この時、末裔信政は”この「丸に花菱紋青木氏」は違うのだ”と後世に示す為に、年代も故意的にみえみえにずらして居ることもその憎悪の程が良く判ります。
4 9代目末裔「信政」が編集し直したとされるその養子「信之」を祖とする「丸に花菱紋」の系譜には、その添書もさることながら、「信正」の所が「某」と記されているのがその先祖に対する「遺憾の意」を表現している所で、その経緯が面白いと見られます。
自分の先祖の系譜には「信正−信定」と明記していながら、信之養子の系譜には「某」−「信定」とし添書を記しているのです。これでは直ぐに判ります。
これは遺憾の意を後世に表すために故意的に判る様にしたのです。

常光寺に祭祀されている「信安(11)」の弟「信生(11)」の次に「信正」(12)が来て更に「信定」(13)が来て養子「信之」(14)−養子「信茂」(15)....(20)として、この系譜は明らかであるのに、わざわざ「信正」を「某」とするのも故意的です。

この末裔信政は自分の系譜も添え書きの追記編集していてそこは正常に記載しています。
末裔信政は信定(13)よりは信正(12)に対して「遺憾」の感情を持っていた事が割ります。

当然、この様に系譜は明治までは花菱紋一族は、親族柳沢氏と同じ対応をしていた事に成りますが、源空寺の廃仏毀釈で、「お墓と仏像と過去帳と記録資料と石燈等」の「花菱紋青木氏の遺産」を何れかに移す必要に迫られた事になります。
その理由は、上記した「丸に花菱紋」と「常光寺曹洞宗」の経緯にあります。
南北の巨摩郡青木村青木氏と一門一族は、この歴史的史実を寛政の史書から少なくとも(1800-1900)年頃まで知っていたと思われます。少なくとも本家筋の南巨摩郡の浄土宗派は。
「丸付き紋」とした為に分家となった派は曹洞宗に入信し、宗派争いは3宗派で燻り続けて明治まで続いたと見られます。
養子続きの系譜上の経緯から「丸付き紋」青木氏の一部が浄土宗のお寺にする訳には行かなかったのでしょう。”止む無く、曹洞宗とし、南明寺を墓所とした”と云う事に成ります。

ところが、「丸に花菱紋」曹洞宗の青木氏(第三氏)派に対して、明治初期に発祥した「第3の青木氏」の存在が更に複雑にして、廃仏毀釈廃寺の浄土宗源空寺の「歴史遺産」に複雑にしている様子です。
恐らくは、この歴史遺産は明治初期頃までは承知されていたとすれば、昭和の末期に不明に成ったとすると、その廃寺後の処置から紛失経緯を鑑みた場合、現存する花菱紋本家分家筋に引き取られている可能性があります。
現在、源空寺跡近在の歴史家等によって市の文化遺産にした事や、曹洞宗などの対応から観て、この「第3氏」等や「宗派問題」の解消又は区切りを図ったと見られます。

実は地元がこの「第3氏」の問題に苦慮するには理由があるのです。それは甲斐の「第3氏」の青木氏の問題は「特別な背景」と云うか事情を持っているからなのです。(後述)
もし、これ(第3氏の主張)を認めると文化遺産の所有権の問題が更に複雑になることが予想できるからなのです。
兎も角も、1573-2009年頃まで続いた甲斐花菱紋青木氏の問題はこの研究レポートが一助になることを期待しています。
この「特別な背景」を理解する前に必要とする経緯を復習したいと考えます。

「柳沢青木氏の復習」
経緯
武田氏系青木氏と同じく、柳沢郡の青木氏は「長篠の戦い」(天正3年)で敗戦しました。
(武田勝頼に奇策を提案したが受け入れられなかったので、武川12騎は勝頼から離れ戦線から離脱した)
その直前(1567)に、信定(巨摩郡青木氏と柳沢郡青木氏の父 常光寺を曹洞宗に改宗した人物)の妻の実家(安芸国桜井安芸守)を頼り一族は安芸に移動します。
この柳沢郡の青木氏は元は織田信長に攻められる前は和泉守(高尾氏)でした。(和歌山と大阪の境の国 後に毛利氏から浅野氏になり紀州徳川氏に移る)
柳沢郡青木氏はこの後、母安芸の実家の安芸守の縁で「毛利元就」(中国地方の覇者)に仕官します。
そして、勲功で安芸の尾引城の城主となります。
毛利氏の勢力拡大に著しい勲功をあげます。
更に元亀4年の元の和泉守を取り戻します。
しかし、この者は(初代養子信之)尼子の戦いで戦死します。
そこで子供の次男毛利氏の伸張で志摩守と成り信之の跡目を天正5年に継ぎます。
ところが、この次男は毛利氏の配下で讃岐元吉城の合戦で戦死します。(長篠の敗戦から2年後)
この志摩守の兄(青木助兵衛元忠)が跡を継ぎ父の名信之を襲名し、その後、三田尻(山口)に移りそこから一族は甲斐国韮崎(1582)に帰ります。(墓は安芸、三田尻近在になしの記載あり)
この毛利で3代続いた養子一族の柳沢郡青木氏一族は、和泉守、志摩守等をして大きく財を築きました。1577年頃、その勢力と財力で先祖の曹洞宗常光寺を再興し先祖祭りを再び開始します。
この時(天正中頃:寛永に記録)、北巨摩郡青木氏から家紋と系譜の使用で協議します。
この時期の北巨摩郡の青木氏を含む「武川衆」は「武州鉢形に国替え」は起こっていないので、丁度柳沢郡の養子青木氏も戻った所であり協議と成ったと考えられます。
協議結論は家紋は丸付き紋に変紋と改宗で妥協、系譜は譲らずと成ります。(慣習は原則丸付き紋は不使用)

これが、曹洞宗常光寺の寺紋「丸に花菱紋」の所以で、「丸に花菱紋」の発祥理由です。
系譜には末裔に対して理解を得る為に経緯の詳細を書添に遺した事に成ります。

次に、理解する事として「尾張守」に対する知識です。

「尾張守の意味」
さて、ここで、この「尾張守」の持つ意味はどのようなものかを歴史の変化で述べます。
官職で職位です。尾張の守護職で尾張の守護地から取れる石米を糧としていた事を意味します。
史料から次ぎのものが観られます。
甲斐氏一族には武田氏本家の「甲斐守」があります。
菱紋青木氏、割菱紋青木、花菱紋本家青木氏は「尾張守」です。
武田氏が最大勢力を張っていた時期はここまでです。軍制にも「尾張衆」とあります。
残る家紋の一門柳沢郡青木氏は「和泉守」(高尾氏)と一部の史料に記載されています。
花菱紋の別家青木時光は「摂津守」です。
甲斐でいながら尾張の守護とは変ですが、平安時代、鎌倉時代、室町時代前期は自分は朝廷の仕事をし領地には朝廷、幕府から国司、地頭、守護を送ります。この国司、地頭、守護が守護主に代わって勤めます。自分は朝廷、幕府の仕事をします。
鎌倉時代からは守護の代わりに地頭を送りますが、殆ど自分が赴く制度です。

平安時代は守護は公家と貴族と朝臣、宿禰族が領地を持ちましたので、公家貴族は采地には軍事を持ちませんので護ることが出来ません。そこで「国司」「地頭」を送ったのです。
江戸時代に成ると、この守護は無くなり領主となり自ら当ります。そして家臣に任せて幕府に仕えます。
ところが、しかし、次第に江戸中期以降、中級以上の武士は金品を天皇家に送り名誉職の実質の伴なわない官位官職を貰う事に成ったのです。衰退した朝廷の経済的財源と成りました。
むしろ、幕府はそのように仕向けたのです。天皇家に僅かな経済的な潤いを与えて幕府の経費を削減して朝廷が幕府に歯向かわないように縛り上げたのです。
当然、幕府の職位と天皇家の名誉職とダブル事に成ります。
この事で争いが起こっています。
ですから、ある時期を通じてこの官職に対する見方評価は別にする必要があります。
平安期、鎌倉期、室町期はほぼ正等に評価して史料史実として考察する判断材料に成ります。

というのは、この武田系青木氏にはこの尾張守が大きく左右する疑問点があるのです。
下記で系譜上の最大疑問点であるこの事を論じます。
その前にもう一度「一条氏」の事に付いて検証します。

「一条氏呼称の疑問」
次ぎに”一条氏と武田氏と青木氏とで家紋が変わるのか”の疑問です。
一条氏は一応武田氏では母方です。忠頼の母一条郷出身であると云う前提に立っています。
本来は「氏家制度」は男系継承です。
武田氏の血を引いた源の時光ですので、前編と中編で述べた様に身分と家柄という点では弟より落ちる事に成ります。
そこで、忠頼の一条氏をとりわけ誇張したのであって男系の一条氏では有りません。
この一条氏の系譜継承で名乗るにも問題があり過ぎるのです。
本来は一条氏は藤原北家筋の摂関家です。藤原秀郷は北家です。その秀郷の血筋も陸奥の小田氏(武田氏は)で血筋を引いている事に成ります。
武田氏は源氏末裔を名乗っていますが、清和源氏の頼光が本家筋です。
弟の頼信系の分家で河内源氏の更に傍流と成ります。更に、陸奥小田氏(秀郷一も門杜血縁)から豪族となった甲斐の武田氏にこの傍流の跡目を送り込み源氏系としたもので、藤原秀郷一門の支流に源氏の跡目を入れたことを意味します。
よって、この血縁は氏家制度の中では下の氏との血縁を源氏がしたことを意味します。本来は源氏は下の氏との血縁はしないのが慣習で殆どが青木氏を含む賜姓族、皇族16氏の同族血縁が主流なのです
しかし、止む終えない事でした。源氏の16の一門は平家一門に圧迫を受けていましたので、なんとしても子孫を遺す必要があったのです。そこで下の氏との血縁をした事に成ります。
ただ、武田氏には藤原秀郷一門の筋が流れていますので、源氏としては建前は護れた事を意味します。従って、武田氏は源氏の跡目が婿として入ったので、源氏の血筋の良い方の家柄身分の方を誇張したのです。
この時光系の一条氏を名乗るものと同じです。
清和源氏の河内源氏の傍流からすると、支流の直系ではない末端の源氏です。(史実が取れているので未勘氏にならない)それも頼信系の分家筋の賜姓清和源氏です。
ですから、女系側の清和源氏には藤原摂関家の母方一条氏の血が流れていますので史実の如何を問わずより一条郷を作り出し忠頼の一条氏を名乗りたかったのでしょう。
同じ清和源氏の分家本流の河内源氏の頼朝に謀殺された初代忠頼も甲斐一条郷の出身として名乗っていますが、一条郷に一条氏が流れ着いたかの確証は見当たりません。
そんなにあちこちに一条氏が逃がれるだけの一族が居たのでしょうか。これは明らかに疑問です。
これは清和源氏母方の一条氏の誇張ではと観ています。
時光の末裔の仕組んだ誇張宣伝ではなかったかと観ているのです。
この時代大変にこの風潮が蔓延した時期なのです。第3氏と未勘氏の発祥もこの時期が多いのです。
(江戸初期前後の2期目混乱期)
ですから、家紋は笹竜胆ではなく、武田氏の菱紋で、更に、分家のその分家筋の花菱紋なのです。
武田氏一門は厳密には6つの菱紋、概して8つの菱紋を一門としています。
氏として分けると、花菱紋はこの第3番目です。
1番は本家武田菱紋、2番は割菱紋、3番目が花菱紋です。
これでは時光の気持ちは判ります。まして、弟の源光系は1番2番で、朝臣族皇子の甲斐賜姓青木氏との血縁を主流としていますから兄としてはたまりませんね。
ですから、武田氏は笹竜胆紋は使えませんし、宗家から認められません。ですから使用していません、武田氏の家紋類だけです。
甲斐武田氏が直系の源氏であれば笹竜胆紋の筈ですが、同じ分家頼信系列でありながら、義経、頼朝等は「笹竜胆紋」ですし、甲斐の皇族賜姓青木氏も笹竜胆紋です。
甲斐源氏と名乗っていますが、分家の支流の分家の武田氏です。(公表している史料は誇張)

信濃足利氏でも、陸奥から藤原秀郷一門と血縁して護衛団として足利の赴任地に同行した花房氏が地元に定着し勢力を得て土豪と成り地名を採って足利氏と名乗りました。
その後、藤原秀郷一門がこの足利氏の絶えた分家に藤原秀郷一門の者を入れて分家を興して、最後はこの本家を排除して足利氏を乗っ取ったのです。
其処に清和源氏頼信系本流との跡目血縁を2度して清和源氏系足利氏が出来たのです。
後にはこの様によく似た事件が起こっていますが、武田氏ではこれ程では有りません。
足利氏の場合は藤原秀郷一門が大きく足利氏に関わっています。
清和源氏の時光は下の家柄の武田氏と繋がります。

そして、清和源氏は第6位皇子の経基王の子孫で甲斐賜姓青木氏も第6位皇子です。
源光自らはこの清和源氏(清和天皇第6位皇子系)頼信系の末裔であり、且つ、甲斐国守護王の皇族賜姓青木氏(光仁第6位皇子)と血縁をした賜姓族系であります。
時光は甲斐武田氏に跡目として入った一族の血縁朝臣族として単族で皇族青木氏を名乗った訳ですから兄でありながら身分は下と成ります。

この時光が名乗った青木氏は「嵯峨期の詔」によるものです。
嵯峨天皇期の詔とは ”皇族者が平民になる事の「下俗」する時に青木氏を名乗れ””その青木を他氏は名乗ってはいけない”の天皇の勅令の命令です。
父桓武天皇の賜姓青木氏に対する反発から、子供嵯峨天皇は賜姓をこの青木氏から氏名を変えて賜姓源氏としたのです。
この命令に従い清和源氏は第6位皇子ですので(「朝臣族」ですので)青木氏を名乗れるのです。
この詔を使って下の身分の武田氏と血縁した時には身分家柄が下がりますので「青木氏」を名乗ったのです。
この詔を使える資格者は歴史上18人居て内確認出来る範囲で4−5人です。
本来、時光は源光に対抗して詔を使ったと云う説を採用しています。。
しかし、弟の源光は、尚且つ、武田氏でも本家筋の上の家紋2つの菱紋と割菱紋と笹竜胆紋との血縁ですので差が大きく出ています。この二つは賜姓青木氏系と成ります。
同じ武田氏系でも家臣ではなく客人扱いです。座る位置は全く兄弟と言えども時光は家臣となってしまいますので下座下末座です。これでは面子が有りませんので、だから母方一条氏や詔の青木氏を持ち込んだと成ります。
これが青木氏や一条氏の名乗りの背景と成ります。

しかし、この末裔の正定らは更に下の扱いと成り、「国衆」と云う驚くべき階級なのです。
しかしながら、その家柄では朝廷が嵯峨期の詔が認めている証拠として次ぎのことがあるのです。

「源空寺と吉田氏」
そこで時光系の正定(14)では浄土宗源空寺を菩提寺として建立しますが、この寺の位置付けを示す事柄があるのです。それはその住職に吉田氏を迎えて居る事なのです。
何故そのように成るのかと云う事なのですが、その住職吉田氏に付いてお話します。

先ず、源空寺をどれだけ大切にしていたかと云う事を意味しその寺の位置付けが判るのです。
つまり、この吉田氏住職は源空寺の寺院の威厳、権威、又はレベルを示すものなのです。

「吉田兼好」徒然草の作者を承知されている事として、吉田兼好は朝廷の役人(官僚)をしていましたが、役所勤めが嫌に成って放浪の旅に出ました。
その役所の勤めとは何であったかと云う疑問です。
吉田氏は日本書紀に出てきます古い伝統の藤原氏に負けない氏です、
つまり、朝廷の祭祀を司る斎蔵の藤原氏の下役人だったのです。
中臣鎌足、つまり、藤原鎌足は大化改新の功労者です。
その仕事は朝廷の官僚機構の3蔵の一つの「斎蔵」の祭祀を司る官僚でした。
昔奈良期−平安初期の政治機構は3つの機構で出来ていました。

1 「斎蔵」です。朝廷、天皇家の事務一切を取り仕切る政治機構です。
2 「大蔵」です。朝廷の財政全般を取り仕切る政治機構です。
3 「内蔵」です。天皇家の一切の財政全般を取り仕切る政治機構です。
これを「3蔵」と云います。
これに軍事が着き「斎蔵」が指揮する形です。

そこで、この「斎蔵」は事務一切の中には、朝廷の祭祀行事(政治を含む政所:まんどころ)が主な仕事ですが、斎蔵の藤原氏はだから摂関家なのです。
これを藤原氏の下で専門に祭祀だけを行っていた官僚が吉田氏です。
この吉田氏は奈良時代からの氏です。
吉田氏は朝廷と天皇家の神社仏閣の専門祭祀役人です。
全国に最も多い神社の宮司は吉田氏ですが、この関係から来ているのです。
また、寺社も吉田氏が多いのです。余り知られていないのですが吉田氏は祭祀の名門族なのです。
関西の神社には吉田氏は大変多く、とりわけ熊野権現社を始めとして万葉の世界が残る紀州には吉田氏が多く宮司として現在も任官しています。

(参考 世界遺産の熊野権現第1社の藤白神社は吉田氏です鈴木氏の発祥社です)

青木氏、佐々木氏も浄土宗菩提寺を自らの氏で運営をしていましたので多いのです。
独自の菩提寺と氏神を持つ身分でしたので、身内の者がそれを勤めました。佐々木氏と青木氏の家紋で見分けが着くのです。その伝統が今でも続いているのです。
吉田兼好はこの祭祀役人でした。藤原氏の下で役人勤めが嫌に成ったのは今も同じですね。
これ等の事は「研究室」の「鈴木氏関係のレポート」2つに書いていますので参照して下さい。

どう言うことかと云うと、常光寺の曹洞宗改宗の時に浄土宗源空寺を開基しました。
この時、この寺に対する肝いり具合が判るのです。
藤原氏を通じて朝廷関係者から吉田氏を迎え入れた可能性があると云う事です。
源空寺の元墓には現在も住職吉田氏の墓があると云う事はこのことを意味しています。
つまり、それだけに花菱紋の青木氏は皇族系ですので、藤原氏を通じて吉田氏派遣を願い出たという事に成ります。
”何時から源空寺の住職は吉田氏か”は現在、私も未確認ですが、恐らくは最初からではないでしょうか。まだ今でも、吉田氏の墓があると云う事は、昔から吉田氏系統の住職であった可能性があります。だから廃寺になっても吉田氏の墓があると云う事に成ります。
吉田氏を住職、宮司としてある神社仏閣は位の高い神社仏閣と言う事を意味します。
吉田氏を迎えるだけの氏柄、身分でなくては派遣されません。
まして、京や奈良ではなくて、甲斐ですので、余程の氏身分では無くては北家の藤原摂関家からは派遣される事は有りません。
時光系は賜姓源氏で皇族朝臣族青木氏ですので、文句無く派遣される事です。
武田氏の元は、源信義が跡目に入る前は北家の藤原秀郷一門と陸奥小田氏との血縁族でした。
筋目から全く問題はありません。

「吉田氏」の住職で「源空寺」は最高の組み合わせです。
時代的に”吉田氏は何時からで、青木氏の住職は合ったのか”の確認が必要です。
研究課題として調べていましすがまだ見つかりません
この様に吉田氏の史実一つでも源空寺の時光系青木氏の確証が取れます。

「系譜上から観た武田氏系青木氏の系譜経緯」

さて、次ぎは時光系青木氏の実系譜を記述します。
これは上記した系譜上の疑問点の解決に必要とするもので、公開されている誇張された史料とは一部異なるところがあります。

寛政までの系譜(割菱紋 葉菱紋 時光系本家)
信義−信光−信長−信経ー時信−時光*−常光−信連−貞義−義遠−安遠−義虎−信種−信親−信時信安−信就−信幸−信峯−信祐−信任−信*−信考−某

(割菱紋 時光系分家)
義虎−信正ー信定−正定−正重−信久−信知−信秋−信富−信保−正蜜−信政
累代です。


さて、この系譜では、信正は8代目、信定は9代目となる筈です。
ところが、本来の本家と分家の系譜では、信安11の義弟落合氏養子の信生11系列に成っているのです。
信生11は信安11の義弟ですから、本流の系譜の中には有りません。又、常光寺には祭祀されていません。
どの様に系譜の位置付けに成っているかと云うと次ぎの様に成ります。

北巨摩郡青木氏 信生11−信正12−信定13−正定14−正重15・・と成ります。(後述)
柳沢郡青木氏 信生11−信正12−信定13−信之14−与蔵15(次男)−元忠16(長男:襲名)−信茂・・・(後述)

上記二つのどちらにも系譜には11代目の信安の義弟の信生11が8代目、9代目の信正とその子の信定の前に来ています。最大の疑問です。
先ず年代的に観てみると、信正は信虎と信玄、信定は信玄と勝頼に仕えています。
信生は勝頼に仕えて徳川氏に仕官しています。
信生の経歴は信安の実父信時に養われています。
武田氏家臣で落合常陸守信資の三男です。
子供の居無かった信時は落合氏から養子として縁組し小さい時から養ったが、その後に実子が生まれ信生の扱いは部屋住みと成りました。

次ぎに、この信正に付いて考察します。
信正は青木氏本家の義虎の子供で嫡子は信種であるので、嫡子外の子供で妾子です。
しかし、信種は尾張守と成っています。信正も尾張守です。同時期に尾張守に成っています。
ところが、嫡子外妾子の信正には後継ぎの通名の「与兵衛」が与えられ尾張守にも成っています。
何れも信虎と信玄に仕えています。

疑問
1 同時期に尾張守
2 世継ぎの通名「与兵衛」は信正に

これを”どの様に理解したら良いのか”の「信生の系譜の位置」と合わせて2つ目の最大疑問です。

これから推理すると、先ず考えられる筋目としては、次ぎの様な事に成ります。
1 信種は信正であろうとする説が成り立ちます。つまり信正=信種説です。
年代共に一致しある一点を除いては疑問は解決します。

次ぎの事も成り立ちます。それは信種の子供嫡子信親は尾張守で通名の与兵衛が着いています。
2 信正が信種の子供嫡子の信親であろうとする説です。信正=信親説です。
年代もほぼ一致しある一点を除いては疑問は尾張守と通名の点で解決します。

信親の子供の信時つまり、信安の実父で信生の義父です。尾張守ですが通名の与兵衛は有りません。
3 信正が信親の子供嫡子の信時であろうとする説です。信正=信時説です。
この説では年代は何とか一致しますし信生が先代に据える事は可能です。

先ず、ここで通名が大きなキーワードに成っていますので、中編でも記述しましたが、系譜上からこの通名を名乗った人物をもう一度引き出します。

「通名の考察」
義虎は弥七郎−信種は無し−信正は与兵衛−信親は与兵衛−信時は無し−信安は与兵衛−信就は与兵衛−信幸は与右衛門−信峯は与右衛門−信祐は与兵衛−信任は与兵衛−信*は与右衛門−後は与右衛門
義虎以前には与兵衛は無い。尾張守は嫡子は代々継承している。

このことからすると嫡子であれば与兵衛の通名を継ぐ事に成っているとすると、信種と信時の2人は通名が無い事が不自然であるので、1番の尾張守でもあり同一説が納得できる事に成ります。
では、信種なのか信時なのかを考察すると、次ぎの様に成ります。
しかし、上記した様に、正定ルーツの系譜(花菱紋)と養子柳沢郡青木氏の信之ルーツ(丸に花菱紋)の系譜の二つはこの1番の説では起こらないことに成ります。しかし、子孫は現存しています。
ある以上は1番の信種説と3番の信時説は成立しません。

2番の信親説には信親は、又の名を「信立」であると添書に書かれています。
この「信立」は全ての系譜上には出てきません。
つまり、しかし、「信立」は柳沢氏の系譜から公開されている史料では初代人物の元祖であるとしています。
しかし、柳沢氏は系譜では豊定を初代として明らかに系譜にありますので、信生−信正−信定−豊定としていますので本流の信親の「信立」ルーツでは無くなります。
とすると、”この「信立」は一体誰なのか”を解く必要が出てきます。

一種架空の人物の「信立」は本来系譜の信正の子供の信定であろうとする説です。
つまり、系譜を作る際、或いは信政が再編集する再に、信定の「定」の字の行書を「立」と観てしまった、又は書いてしまったのではないかと考えられます。
系譜資料では字体の崩し様で確かに「立」に読み取れるのです。

そうすると、123の説は消えますので、信種の腹違いの弟妾子信正は別家の割り菱紋を起こした事に成ります。これが正しい答えと成ります。

では、次ぎは尾張守と与兵衛の件を解決する事です。
先ず、信正と信種の年齢です。
明確な史料は有りません。そこで、戒名を特別に調べました。(個人情報に関わるので詳細不公表)

信正の戒名から死亡年は不明ですが、法名は信正は深見、信種は浄賢と明らかに異なりますので別人である事は間違い有りません。

考察経緯
A 信正の死亡年代は1548年頃、信種の死亡年代は不明だがこの僅か前と成ります。
先ず、当初妾子の信正が別家を興した。
B しかし、嫡子の信種が尾張守を名乗り死亡した。
C そこで、別家の信正が嫡子扱いとなり、それより以後「与兵衛」を通名として名乗り、跡を継いで尾張守に成ったが戦いで信正も死亡した。
D その跡を信種のルーツに戻しての豚ねの子供嫡子信親が尾張守に成り通名を与兵衛を名乗った。
E そして、嫡子信親が死亡した。
F これを再び別家信正の子供の信定が継いだ為に通名の無い尾張守と成った。
G この間20年程度の経緯で、その後、信定は長篠の戦い(1575)で戦死した。
H そこで、又本家に戻して通名の無い形式上信時が尾張守となった。
I しかし、この時は既に尾張守は有名無実のもので、2年後の1578年で滅亡の一時期であったので通名は後世滅亡か存続かどの様になるかは判らない為に名乗らなかった。
J その後、本家分家ともに徳川氏に仕官出来たし、本家嫡子の信安は真田氏の上田城攻めに加わる事に成ったし、分家正定は武州鉢形に国替えとなり徳川氏の旗本に成ったとすれば疑問は解けます。

因みに、尾張守は時光より3代目の信連から始まり、嫡子貞義−義遠なし−安遠−義虎なし−信種と続きました。
信種の親の義虎は無役でした。それだけに、信種に対する期待は大きかったとみられますが戦死したので嫡子信親にせずに別家の信正に移した。
この時代の信虎の武田氏はひどい戦いに明け暮れていたので嫡子を失う事を嫌ったのではないかと観られます。
この時には信虎と信玄の軋轢の争いが物語っていますが、信玄も結局40数回もの戦いをしたのでこの様な系譜と成ったと見られ、その影響もあって戒名等には詳細が書き込まれていないのもこの事から来ているものと思われます。この間20年であるので如何に難しかったかが判ります。
以上系譜の添書から割り出した系譜の経緯です。

次ぎは、信正の上に信生が来る系譜である。
A 信生は信時に養子嫡子として育てられたが実子信安が生まれた事から信安を嫡子とした。
B そこで、信生の扱いに不憫に思い苦慮した信時は別家の信正の跡取として据える事を考え系譜上で信生を別家の上に据える事を相談したのではと観られます。

この時は別家は信定の時代で上記の系譜の経緯からすると、本家側から見ると別家からの人の移動が無いが本家との区別が少ないと観ていたのではないだろうか。
信定の子供としては実子の正定や豊定や豊勝等が居て親子争いを起こしていたので、子供として養子にする事は難しいと観たのではないか。そこで、上にすえる事で、形式上何とか処理したのではと観られます。 
下にすえる事は1575年前の軍事的な連携から高尾氏との関係もあり、信之の柳沢郡の青木氏の養子もあるので、最早別家を興させる手が無く成っていたと観られます。
この時は1567年頃後の織田氏との戦いを前にした緊張時期でもあり、年齢は無視して5年程度の期間の系譜として扱ったと観られます。

これが、不思議な系譜が出来上がっている原因と観られます。
前編と中編の系譜はこの信生−信正−信定の前提に立っていますので、ここで、系譜や添書や史料や戒名などで検証しました。
このような20年の間に上記に近い経緯を持っていたと考えられます。
本来であれば、信正−信定−信生(落合氏養子)と成るのですが、信正−信定−信之(高尾氏養子)と成れば、実子3人も居る上に養子2人と成ってしまいます。
それでなくても実子との軋轢が起こっているのに、この上に信生の養子は幾ら戦乱とは言え受け入れ難いことだろうと考えます。
結局、この様な系譜に納まったのではと考えます。

「内容の整理」(重複)
参考
因みに、「与兵衛」の通名を使っている人物は次ぎの通りです。
割菱紋青木氏本家(義虎系)
信種(嫡子)の子の信親
信時(信親の子)の子の信安
信安の子の信就
信就、信幸、信峯の子の信祐
信祐の子の信任

割菱紋青木氏分家(義虎系)
信虎の子の信正(妾子:信種弟)
以上6人です。

参考
注 信種は信正と同人物との説もある。
注 信種は信定と同人物との説もある。
注 信親は信立と同人物との説もある。
注 信親は信定と同人物との説もある。
注 信時は信定と同人物との説もある。

参考
「尾張守」を名乗った者は次ぎの通りです。
始祖時光は甲斐守
時光系割菱紋の本家
A 時光-常光の子の信連
B 信連の子の貞義
C 貞義-義遠の子の安遠
D 安遠-嘉虎の子の信種
E 信種の子の信親
F 信親の子の信時

時光系割菱紋の分家
G 義虎の子の信正
H 信正の子の信定
以上8人です。

参考
注 信正と信種は兄弟で同時期に尾張守である。
注 信定と信親は従兄弟で同時期に尾張守である。
注 信時で武田氏は滅ぶ。

参考
疑問点
以上の「通名」と「尾張守」からの疑問点が浮かび上がる。
1 通名「与兵衛」が付く事は本流本家筋を意味する。しかし、信正だけは分家である。
2 官職名「尾張守」は本来は本流本家筋となるが、しかし、信正とその子の信定が引き継いでいる。つまり、本流本家の信種と信正は「尾張守」が重複している。(疑問)
3 更に、本流本家の信種には「与兵衛」の通名が無いが、分家の信正(妾子)には通名がある。
4 本流本家の信親と分家の信定は「尾張守」が重複している。(疑問)
5 本流本家でありながら信時は「尾張守」だが「通名」が無い。
6 分家でありながら信定は「尾張守」だが「通名」が無い。
7 重複人物説の疑問がある。
以上を複合的見地から解明しなくてはならない。

参考
信立
柳沢氏は4つの流れがある事は前述しましたが、青木と血縁を同じくする(柳沢)豊定を祖とする柳沢氏は青木氏との関連で源空寺に石燈を送ったという史実は間違いの無い事である事がこの石塔で証明されます。
「浄土宗源空寺」(南巨摩郡)と「浄土宗松源寺」(北巨摩郡)の二つの菩提寺と強い繋がりが合ったことを意味します。
送ったと記録されている柳沢家の柳沢吉保はこの流れの青木氏から出ていることを意味します。
それは「豊定−信立−信俊」系列である事を意味し、その中でも疑問又は不明人物と成っている「信立」の人物解明に付いて大きく前進する事に成ります。
「信生−信正−信定−豊定」の時光系の割菱紋副紋葉菱紋本家から分家した割菱紋系列である事に成りますので、「信立」の人物はこの4人の中の一人である事を意味します。


ところで話を戻します。
この様な事は話し合いによる訳ですから、この武田氏系青木氏の滅亡か存続かの瀬戸際に系譜がどうのこうのと云う単純事で、”この時期にこの事に付いての話し合いが果たして出来るだろうか”という素朴な疑問が湧くのです。
何らかの都合が一族間に起こらなければ出来る話では有りません。
”それは何なのか””何かがあったのか”です。

戦乱の世に於いては他にも宗派間の違いが兎角争いの元と成っています。
ところが、この武田氏系青木氏(時光系)には他氏には見られない程に宗派に拘り、挙句は別家を興すほどの事を起こしているのです。そして明らかに「争いの遍歴」が大きく起こっているのです。
中でも日本最大といわれる112年に及ぶ宗教界を巻き込んだ「天保騒動」が甲斐で起こっているのです。これではなかなか一族一門は納まりが付きません。
そこで、その経緯と宗派の競争の状況を調べて見ました。

武田氏系青木氏時光系の宗派経緯
信義−...−時光 浄土宗(明楽寺 宝林寺、前常光寺)
常光−...−信正 真言宗(常光寺の中興開基 改宗)
信定−.......曹洞宗(中興開基 改宗 天正3年まで)
正定−(割り菱紋).浄土宗(源空寺 中興開基 菩提寺解除 天正5年頃−明治廃仏毀釈廃寺)
正定(花菱紋分流).浄土宗(武川衆 松源寺 関東に武蔵鉢形に国替え移転と移設)
信之(丸に花菱紋).曹洞宗(武田氏滅亡で常光寺を再建)
廃寺後、......曹洞宗(第3氏 南明寺 信定派曹洞宗派)


以上の様に。甲斐武田氏の信義から5回の改宗が起こっています。
この事から次ぎの争いが起こったと観られます。

第1回目の信義の時
改宗時には青木氏の浄土宗の伝統を護ろうとする宝林寺派と、母方一条氏派の真言宗派との間で争いが起こったと観られます。
元祖時光を宝林寺に祭祀しようとする一族と、時光を常光寺に祭祀しようとする一族が争いを起こしたと観られます。(これに時光赴任先の摂津からも菩提寺説が出ている)
第2回目の常光の時
この時、常光派が勝ち皇族賜姓青木氏と皇族賜姓源光系武田氏系青木氏の2つの派を巻き込んで争いが起こり常光寺派が勝ち常光寺を開基しました。そして、亡き父時光を常光寺に祭祀しました。
そして、曹洞宗で上記の11代が祀り続けられたと観られます。(11代目信安まで祭祀)
浄土宗、真言宗の者が曹洞宗に祀られると云う前代未聞の事が続けられた事に成ります。
第3回目の信定の時
ところが、又再び、12代目の信正の死後、信正を祭祀するところを巡って、又争いが起こります。
元の真言宗派の一族と、現在の曹洞宗派の一族と、元来の浄土宗派の元に戻そうとする一族が争いました。3つ巴の争いです。話し合いで解決できる事などあり得ません。
結局、この時は信定が帰依する曹洞宗派が勝ちました。しかし、12代目の信正の墓は曹洞宗常光寺には祭祀されていません。11代目信安までですが、これも異常です。
曹洞宗が勝ったとは云え12代目13代目は常光寺には並べて墓は無いのです。
第4回目の正定の時
納得しなかった信正別家正定派本流は元来の青木氏の浄土宗源空寺を南巨摩郡に開基しました。そして、曹洞宗常光寺から脱退したのです。
この時正定は別家を興した青木氏、豊定も別付けを興した柳沢氏が父子争いを起こしたのです。
第5回目の正定の時
そして、本流は正定実子昌輝に任し、正定分流派は北巨摩郡に浄土宗松源寺を開基したのです。
恐らくは、親子軋轢の結果、宙に浮いた12代目と13代目は「御魂移し」をして源空寺に存在したとも考えられますが史実の経緯がありませんし、明治の廃寺で不明です。
尊たい寺と光福寺にあったと観られますが、武田氏滅亡により信正と信定の墓は関東に移動により墓、過去帳、仏像、記録等も含めて移したとも考えられます。
上記の様に、其れより光福寺と尊たい寺への祭祀が経緯から妥当と考えられます。
(現在でも一部はこの浄土宗派はどこかの浄土宗の寺に墓と御魂を移して祭祀している可能性があります。)
第6回目の信之の時
信之は毛利氏に仕官して戦死し、その後跡目を継いだ次男も戦死し、長男が信之を襲名し甲斐に帰ります。そして、武田氏滅亡で廃寺となった常光寺を再興して丸に花菱紋の寺紋とします。
血縁の無い養子一族が本来のこれまで本流本家の10代を祭祀している曹洞宗常光寺を再び興し割り菱紋から丸に花菱紋に寺紋を変紋して血縁性の無い信之一族の曹洞宗派の寺としたのです。
本来であれば本流本家の常光から信時まで祭祀されているのですからその割り菱紋の末裔一族が再興してこれを祀るが本筋です。
しかし、違ったのです。信正別家の養子の血縁性の無い信之一族(以後も血縁性の無い跡目養子縁組が続く)と成っているのです。

ここで、11代の信安は本流本家割り菱紋の嫡子ですし、信之とは同年代であり既に家は別家と成っているし、寺も信之の一族の丸に花菱紋の寺として再興されています。既に武田氏も滅亡しています。信安は徳川家の家臣として江戸に赴きそしてその後上田城攻めに参加しています。
その人物が死んだとして、全く血縁性の無い信之一族の曹洞宗常光寺に祭祀された史実と成るのです。
この浄土宗の信安11が最後の人物として信之の別族が運営する常光寺に、且つ異宗の曹洞宗に祀られる事はこの2つの大異常性がありながら、ここに何らかの大きい経緯があると観ています。
本来ならば、氏家制度ではありえません。
これは信安は絶っての願いとして2代目襲名信之に頼んだという事に成ります。そしてこの2つの異常性が認められたのです。

「協議の内容推理」
実は、上記した系譜協議の結末が、ここに、”系譜を其の侭に家紋を変更する事だけ”で治めた妥協の経緯があるのではと考えているのです。
「・・・・よりて各々のその見ゆるところを記して後勘に備う」とするこの一文を系譜に記され且つ文章の表現を考察すると「・・各々・・」の表現は多数関係者の同意に基づく表現と観えますし、「・・見ゆるところを記して・・」は衆議の意見を書き記して置くことにするとの表現に成ります。
更に、「・・後勘に備う」の表現は明らかに衆議合意の上での記述となると観えます。
この様な事から、「多数関係者」が存在して「関係する事柄」を「協議合意」したと成ります。

そうすると、別家の正定と、別家本流の昌輝と、本家本流の信安と、別家の祖と成った信生と、柳沢氏の豊定等の関係者を交えた協議が「常光寺」で行われて、「信安11の常光寺祭祀の約束」と「信生11の別家の祖」と「丸に花菱紋使用」と「信正系譜」と「常光寺の譲渡」等を正式に決めたのではと推理しているのです。
そして、この事が1578−1580年の2年間の間に行われたと観ています。
これだけの宗派の遍歴を起こしていて後に大きな問題が起こっていないのはこの様な協議の成立があった事を意味していると考えます。
それでなければ、普通本来であれば、氏家制度の中では、青木一族の柳沢吉保が甲府藩の領主と成り甲斐に対して権力を持った時にもめる筈です。しかし、揉め事は起こっていません。

これがより経緯とより立体的に理解を得る為の後編の冒頭からの説明に起因する事であったのです。

「花菱紋一族の証明」
ところで、第7番目の明治の廃仏毀釈による廃寺が問題です。
この廃寺に依って多くの資料と系譜の如何が複雑にしてしまっているのです。
4宗派の争いがあり、信之一族の「丸付き紋の花菱紋」の「第三氏」に、本来の丸付き紋を使った「第3氏」が入り乱れて信之の末裔に大して区別し判断する事が出来なくなっていることがあります。
特に、北巨摩郡の正定の花菱紋は武蔵の鉢形に国替えが起こり一族全て強制的に移動していますので判別問題は明確です。
南巨摩郡では第3氏青木氏が存在し主張している花菱紋末裔はこの歴史的史実を知らない結果に拠りますので判別は明らかです。
しかし、南巨摩郡の昌輝の別家本流と柳沢郡青木氏の甲斐帰国後の信之の末裔に判別が付き難い事が起こります。
南巨摩郡の昌輝の別家本流の末裔も徳川氏の仕官となり旗本と成った事から八王子近隣から江戸にかけて移り住みましたので、これも第3氏の主張が判別できます。
しかし、とりわけ、信之末裔との判別です。
信之末裔も本多氏の家臣と徳川氏の家臣と成って武蔵、常陸、上総、栃木の関東に最終移動していますので大方は判別が可能なのです。
しかし、この末裔一部が先祖の寺を守る為にか常光寺付近に残ったとする説があります。
この「第三氏」と「第3氏」の判別が困難のです。

更に複雑なのはこの「第3氏」には二通りあります。
一つは明治の苗字令による「第3氏」です。
二つは1575年前の農兵による制度から来る苗字帯刀を許した青木氏があります。
戦いの場合は家臣だけでは兵力成り立ちません。そこで「農兵制度」と云う組織があり、農民との契約で兵として参加する方式です。戦勝すれば契約報奨金と褒美が与えられます。
この時に、その農兵の庄屋や名主や郷士の長等に青木氏の苗字を名乗る事と家紋使用を許す事が在りました。特に武田氏は兵を多く集めましたので、この方式を採用したのです。
明治期の「第3氏」と異なりこの名乗る根拠のある「第3氏」があります。

この根拠のある農兵「第3氏」と武士の信之末裔の甲斐残存子孫の「第三氏」との判別が付き難いのです。
明治期には先祖が戦いに参加したこの農兵の長とは違う者等もこの「第3氏」を名乗ったことになります。何も経緯の無い「第3氏」が殆どですがこの中にはこの青木氏もあるのです。
つまり、甲斐では「第3氏」は4種ある事に成ります。

全国青木氏が定住する地域に対しては夫々異なりますが、甲斐での武田氏系青木氏に関する「第3氏」には4種もあり、それなりの根拠を保持していて、この様な経緯を持っているのです。

そこで、これ等を特別に判別できる事があるのです。これだけは同じくすることは出来ないからです。それは継ぎの事柄です。
そこで、これ等を次にを詳しく説明します。

俗名、戒名、法名、没年はこれ等の青木氏の独特の戒名を持っています。
宗派と寺と土地によって宗教的教義が違う為にまた、習慣が違う事から必ずしも統一している訳では有りません。
しかし、浄土宗青木氏では戒名と没年は必ず記載しますが、俗名はそのものを書くものと、俗名を戒名の中に二文字を読み込んで入れる習慣とがあります。
俗名そのものは仮の名として厳格に教義を護り書かない宗派もあります。
浄土宗と浄土真宗は原則として「俗名」と「法名」と「生き様」の3つを表すように書いています。

A 戒名にはその人物の現世の生き様が判ります。
B 戒名にはその人物の身分と家柄が判ります。
C 戒名にはその人物の財力勢力判ります。

花菱紋の青木氏であれば、その戒名は必ず「院殿居士」と云う最高級の戒名が付いています。
この「院殿居士」を観ることで、AからCを判別できます。
この「院殿居士」は次ぎの様に成ります。

「院」とは現世から離脱した時に庭園などを含む広域な住まいとする処で、その位を意味します。
天皇など皇族のものが「現世」の身分を離れ、「彼世」の御仏に仕える時に持つ最高級の院号です。
この住まいを「門跡寺院」と云います。僧化することを意味します。
仏教で云う「宇宙」であり教義では「立体」を意味しています。

「殿」とはその院の中の目的に合った「住居」とする処で、「院」に続く位を意味します。
この位の「殿」の位が敬称として使用されています。
「殿」のような処に住む貴方と成ります。
仏教では「立体」を構成する「面」を意味します。

「居」とはその殿の何処かの目的に合った「部屋」とする処で、「殿」に続く位を意味します。
住居とする所です。
仏教では「面」を構成する「線」を意味します。

「士」とは「居」に居住まいする者の身分を意味します。「居」に続く位を意味します。
「武士」とはその「院殿居」にて「武」を以って仕える身分の士者と成ります。
従って、「武」の意味する処は観仏に仕える者であり、「義」を基本としている事をされます。
「侍」は「院殿居」(寺院)に仕える者と「さむらい」(仕えるという意味の「古語さぶろう」の変意)です。
仏教では「線」を構成する「点」を意味します。
つまり、「氏家制度」では社会の力の尺度し「建物」を用いたのです。
この様に「彼世」の絵姿を描いた形でその建物を使って位階を定めたものなのです。

では、「院」では”どの程度の者が戒名としての「位」を付けて貰えるのか”と云う事ですが、氏家制度の社会の中では、「院」つまり、寺には「院殿居」に相当する建物がありますので、その寺を一つ建てられるだけの力のある者と成ります。
「殿」、「居」では「院」の尺度に推して知るべしで一段下の者が受けられる戒名と成ります。
「士」では階級として存在する最下位で「武」を有する者が受けられる戒名と成ります。
現在では社会に対してそれなりの勲功を収めた者が得られる位階です。
その勲功の大きさから「殿」の前にその勲功を読み込みます。
これ以下は階級なしの「院殿居士」の無い身分の者とし、俗名或いは法名のみと成ります。

「氏家制度」では、「氏姓」を持つのみの者が墓を持つ事が出来る訳ですから、庶民は河原の路傍のに俗名を書き込む習慣でした。
武士は尺度して「院殿居士」の「士」に当り氏姓を持ちますので、戒名と墓と過去帳がある事に成ります。
(氏姓を持たない事は時系列的に戒名を付け過去帳に記する事は論理的に出来ませんので、庄屋などが書き記す村の一時的な人別帳に「・・村・・」とする習慣でした。)
そこで、甲斐の武田氏系青木氏にはこの「院殿居士」の尺度に相当する事に成りますので、どの程度の戒名が付けられているかに依ってその立場や身分や貢献度や人物像が観得て来るのです。
現在に於いても、この「院殿居士」は相当な財力があり支払能力が無ければ付けて貰えません。
しかし、「士」は「信士」と「信女」として多くの戒名に付いているのは現状です。

この様に戒名や過去帳はその過去の生き様を表すものでした。
ただ古い時代にはこの習慣が徹底していなくて、また不明な事も多い時代でした事、戦いで判らなくなった事、大火、焼き討ちなどで消失したことなどで、完全に復元できない事などから、史料で観ると3つが何時も完璧という事は有りません。
特に室町時代の下克上、戦国時代では「寺は戦いの拠点」として使われましたので、一番に持ち出すものですが、遺されている可能性は低く、跡で復元したものが多いのです。
そのために不明な点が出て来るのです。

鎌倉時代初期、室町時代末期、安土桃山時代、江戸末期の混乱期の間はその寺がどのような災難にあったかによりますので必ずという事では有りません。
特に、江戸中期から明治初めまで、宗教を全面に押し出した一揆、村騒動な各地で頻発に起こりました。
特に曹洞宗や一向宗や時宗は農民や下級武士等が入信する宗派でした。ですから、この農民や下級武士が起す一揆、村騒動などの背景には曹洞宗寺等が必ず居て指揮していました。
よって、騒動を鎮める為に寺を焼くと言う行為で治める側は行いました。
当然、多くの犠牲者が出ますので、混乱の中、とても3つを揃えて書き記す事すら難しい事でした。
その意味では、浄土宗、真言宗、真宗などは比較的江戸時代中期以降には3つの原則は護れてたと思います。
ただ、この宗派は室町時代の下級武士が起した上級武士への(青木氏や藤原氏など)「下克上」の「焼き討ち」の対象寺でした。
また、戦国時代には氏寺は戦いの拠点(作戦本部)として使われましたので記録が消失している事が多いのです。
ですから、農民や武士はこの時代の人物には生年月日や没年がはっきりしないと云う事が起こりました。特に農民は姓を持ちませんので、過去帳は作れないのです。庄屋等が作るその時代の人別帳だけでした。
人別帳を使って復元するなどを寺は行いましたが、人別帳は詳しく記録しているものでは有りませんし系統的では無いのでそのような事が起こるのです。
そして、江戸中期までは、兵農の慣習がまだ残っていて分離せずにいましたので、農業をし、戦いの際は兵として参加しました。
戦死すると不明者が多く、記録は戒名どころか俗名程度しか書けかけなかったのです。
九州、四国、中部地方には明治前までこの兵農の仕来りはまだ残っていました。武士だけでは兵が足りませんので、この方式が採用されていたのです。
例として、西郷隆盛等は侍でしたが、農業もしていたのです。
明治維新の長州と土佐と薩摩軍はこの農民兵でした。”ちんらいさん”と呼ばれ強かったのです。
この寺の過去帳を調べる事でこの「第3氏」の判別がわかります。

例え、系譜や曼荼羅過去帳などは自由に作ることは出来ますが、寺が管理するこの過去帳は出来ません。
仮に作るとすると、過去の人物を調べ出す事に成りますので上記した様に記録が有りません。従って出来ないのですし、一人の過去帳を作っても親族縁者の統一した過去帳までも物理的に出来ません。
又、氏家制度は「国抜法度」ですので、何処からか流れてきても何々村移住と明記されますので出来ません。
ですから、どんなに飾っても過去帳を調べて戒名を見ると氏家制度の身分が一目瞭然と成ります。
過去帳の一番古い人を調べる事で年代が判りますので判別は簡単と成ります。

「甲斐の宗教戦」
さて、この様なことですので、甲斐は武田氏ですから、このシステムを用いていました。後に徳川氏の配下に入りますが、「武田の赤兜」で有名ですが、これに従ったのは地元の地侍と農民兵です。
だから強かったのです。
甲斐では、曹洞宗が多く一揆の多いところで100年以上も続いた「天保騒動」の例の様に、寺の焼き討ちも多く、明治維新前の徳川側として戦いの場にもなった地域です。
寺は寺の宗教的目的だけでは無く、軍事的拠点としても使われ、作戦本部としても使われましたし、その為に軍略上要衝地に建立しました。
甲斐ではこの様に宗派間争いが強く、次ぎに記述する日本最大の「天保騒動」が有名です。
これが起こったという事は上記したような甲斐のそのものを物語る物です。

「甲斐騒動(天保騒動)」
特に、「甲斐騒動」又は「天保騒動」と呼ばれ、1724年から頻発し1836年までの112年に及ぶ一揆で甲斐の国全域で起こりました。日本最大の一揆で広域一揆で、日本歴史上最も有名な一揆です。

農民、商人、下級武士らによる鉄砲刀等の武器を持ち焼き討ち、打ちこわしをし、食糧難から政治不満(米穀商と徳川甲府藩との癒着)に発展した甲府域を中心にした戦いでした。
商人らは経済的支えをし炊き出しまで行いました。
多分、家臣の宗家本家は別として、多くは農業と武士とを兼ねる生活をしていたと観られます。

仮に一部の者が武士を棄て甲斐に戻った武田氏系青木氏3氏6家の花菱紋らの一部の遺産は明治前の「維新戦争」に巻き込まれ、尚、「宗派争い」とこの「100年に及ぶ一揆」で全てを失ったと観ています。甲斐に武田氏系青木氏は残る事が珍しかったと考えます。
この様に記録や記録の遺し方は不完全であることが当り前の地域でした。
農民や下級武士にとっては甲斐の歴史上最も苦難の時期でした。
当時は氏寺に出来るだけ寺に証拠などのものを遺す習慣でしたから、寺の消失が起こると過去帳関係や歴史資料が消えてしまうのです。ですから不完全なのです。
花菱紋の宗派争いもこのことに大きく影響していると考察しています。

世の中には、「宗閥」「派閥」が生まれるのは止むなしです。自然の摂理です。
現在も、浄土宗派と真言宗派と曹洞宗派が出来れば、必然的にこの派閥が生まれ一致団結が難しくなる事は必然です。当然に、この宗派の派閥は「伝統」のレベルを弱めます。
その伝統が今も続いていると見られます。「因果応報」です。
祭祀するものが無く成った事に成ります曹洞宗常光寺は、結局、柳沢郡青木村の青木氏が直ぐ後にこれを再興しました。兎も角も、この2人(12、13代目)の墓所は不明確で無く「御魂移し」で済ましたと観られます。
この場合、一条氏を名乗る真言宗派は潰れたと見られます。それは一条氏を名乗る事に無理があり味方を得られなかったと考えられます。
その理由として、中国地方や四国でもこの一条氏を名乗る者が各地で出てその正当性を疑問視された事によると観られます。ここには、当時の社会システムの氏家制度の矛盾があるのです。
明らかに、時光らは清和源氏頼信系分家の源氏系統です。
しかし、一条氏は藤原北家摂関家四家の一つの公家です。
(藤原氏四家は北家、式家、南家、京家であり、北家が残る。この北家は更に2氏摂関家と秀郷一族に分かれる。その摂関家は四家の一条、九条、京極、鷹司氏に分かれる)
公家は元来、武力を保持しないのですが、武器を持つ一条氏です。
(秀郷は貴族に成った為に第3子千国を侍として護衛隊にした)
この源氏傍流が母方の一条氏を名乗ったのです。
武田氏は甲斐源氏と呼称していますが、一条氏を名乗るのであれば源氏では有りません。男系跡目の社会です。まして、時光は源氏として土豪武田氏に跡目として入り源氏と成ったと呼称しているのです。なのに一条時光は慣習の矛盾です。
正規の書物は源氏と成っています。そして武田氏は甲斐源氏支流と河内源氏傍系と呼称しています。
でも、河内源氏などの源氏は皆、本流笹竜胆紋です。武田氏は菱紋です。
一条氏といい、甲斐源氏といい、矛盾です。
慣習で源氏と名乗るのであれば、全て源氏になってしまいます。
ですから、一条氏はある時期のある人物の時に家柄を更に誇張する為に世間に対して偏纂したものと観ています。
甲斐には一条郷の一条氏を名乗り又他の村などに一条氏の子孫の繁栄は無い事から判断できます。
だから真言密教の宗派は消えたのです。まして、密教を教義としている真言宗です。
そして、明治になり、廃寺と成って、再び、浄土宗派と曹洞宗派との間で争いが起こります。
ところが、浄土宗源空寺の伝統を重んじる派がありながら、多くは曹洞宗に帰依する事を決めたものです。
この時、当然に、浄土宗派はその伝統とする仏像と墓を隠す手段に出たものではないでしょうか。
”歴史は繰り返す”と云いますが、過去5回も立て続けに同じ「宗派争い」の戦いをしたものと当時の慣習から考えられます。
他の国でも同じ事が起こっていることなどを考えると、この伝統と歴史を持って神奈川、横浜、栃木、常陸、鉢形、八王子、仙台手前域などには時光系、源光系の武田氏系青木氏が全て移動して子孫を拡大している事に成ります。
今回、青木氏としてのかなりの疑問を解決しましたが、甲斐武田氏系花菱紋の一族にはまだその「伝統」が明確に成らないこの宿命がまだ続いていると見られます。
5回の宗派争いの中に伝統を護ったのは、正定の弟の別家を興した豊定の柳沢氏で浄土宗光沢寺-永慶寺として伝統を明治まで護り続けました。
柳沢氏の発祥と元祖とが明確になり、更にこの柳沢氏も4つの柳沢氏がある事が確認する事が出来ました。

今回のこれ等の研究で甲斐の割り菱紋と花菱紋の青木氏の歴史的な史実が多く表に出す事が出来たと感じています。これからも、個人情報の難しさもありますが、青木氏の史料を整備しながらも各地の青木氏のより深い研究を続けたいと考えています。

ここで、もう一つ疑問があります。
それは、「信生」です。
「信生」は武田氏家臣落合常陸守信資の三男で、信時の養子となり、幼少の頃より養われるとあり、「信安」と義兄弟です。
「信安」は常光寺の最後の11代目として祭祀された人物で時光系本家割菱紋 葉菱紋の本家を継承している人物です
「信正」と「信定」より系譜上で上に来ています。
本来であれば、「信正−信定−信生−正定」と成る筈です。



史料
「甲斐の宗派別勢力表」(廃寺含まず)
甲斐百八霊場より宗派の影響がどのように成っているかを分析すると、次ぎの様に成ります。
浄土宗.. 3.7%
曹洞宗.. 33.3%
浄土真宗..2.7%
真言宗...16.7%
臨済宗...22.2%
日蓮宗...12.9%
時宗....2.7%
法華宗...2.7%
単一....1.8%
考察
3派(浄土宗、真言宗、曹洞宗)で全体の54%を占めています。

浄土宗は%が低いがこの宗派は朝臣族、宿禰族等の高位の特定氏がその菩提寺として独自に寺を建て運営する真言宗に近い古代密教に近い方式を採っていた事から、低いながらもその権力の座にいる者が支配していましたので、宗派を維持するためにも武力を背景に3派の争いに成る事が覗えます。

真言宗は密教を主体としている為に公家、貴族など自らは武力を持ず権力だけの層に入信を許す事と成ります。これは武士の生き方に合わない教義でもある事から特異な層貴族や公家の宗派でもあります。
その意味でも一条氏を名乗るのもこの真言宗で無くてはならない事を意味します。
2代目常光が浄土宗から開基して真言宗に帰依した事はこの一条氏を名乗った事に起因します。
又、真言宗は密教ですので16.7%の率は相当な甲斐での力を持っていたことを示します。
全体で54%と成りますが恐らくは70%程度の勢力を占めていたと考えられます。

浄土真宗は2.7%と低いですが、この宗派は浄土宗の代用宗派としての役割を担っていました。
浄土宗派は特定氏、特定域に存在する寺ですので、赴任する事などでは更に寺を建てると云う経済的な負担が掛かります。従って、その代用として藤原秀郷流青木氏などはこの中級-下級武士層が入信する宗派を一時的に利用し、領国に戻ると元の浄土宗派に戻るなどしたのです。

曹洞宗は33.3%ととして下級武士や農民層等を取り込み宗教とは思えぬ影の武力的勢力を持っていました。自らの力で寺を建て、運営をしそこを一種城郭的なものとして利用していたのでそのためにも農兵を動かす為にはこの宗派を見方にする必要時要件として必要があったのです。
信定が真言宗から曹洞宗に改宗したのは最早、名誉から力へと移っていた事からの処置と見られます。

臨在宗が目立っていますが、これは後発である事と農民層を主体としていた為に国府近在では拡がらない事が観えます。曹洞宗とあわせると55.5%にも成ります。

浄土宗と真宗と真言宗の3つの宗派を合わせると23.1%と成ります。

このA55.5%とB23.1%とは教義や信者や宗教的作法は全く異なり宗派対立の元と成るのです。
この意味から、信定の採った処置は晴天霹靂なのです。当然に正定との父子間の争いは起こります。
その証拠に、この結果1724年から12年に及ぶ「天保騒動」が起こるのは当然と云えば当然であったことに成ります。144年歴史を遡って史実を分析し観れば正定等が正しかった事を意味します。この父子対立は如何に激しい対立であったかを物語るものなのです。
柳沢吉保が甲府藩を去った直ぐあとに始まった事なのです。
仮に55.5の宗派連合をAとすると、A宗派は柳沢吉保等の武田一族が健在の間は静かにして置き虎視眈々と狙っていたと成ります。
このA3派が国府近在に集中しています。
ただ、浄土真宗が拡がらない事が不思議です。浄土真宗は藤原秀郷流青木氏が赴任地移動時は浄土宗の代替宗派として帰依していた宗派です。しかし、甲斐では全く見放されています。
其れと、臨済宗が近隣に接近してきていますが3派に入らなかった点が不思議です。
「後発、農民層」の2つが影響しています。
甲斐を揺るがした112年に及ぶ「天保騒動一揆」が明らかに間近に迫っている事が判ります。
この騒動の裏の煽動者(曹洞宗34、臨済宗22、日蓮宗13 下級武士と農民)70%が集まれば起こらない方がおかしいです。
武田氏滅亡と同時期にタガが外れた様に始まった事がこれで理解できます。
特記したい事は、信定の「曹洞宗改宗」の裏の事情はこの「迫り来る圧迫」に左右されていた事も考えられます。だから「宗派争い」なのです。
花菱紋浄土宗の正定派が親と対立した根拠は少ない浄土宗を「伝統」の意味から護ろうとした事が判りますし、源空寺の建立の意味も出てきます。
このデータが、信定−正定間の軋轢が手にとる様に判り、その大きな意味を持っています。

この様にして多くの史実を基に武田系青木氏花菱紋の遍歴を観れば、その当時の生き様が目に観る様に浮き出てきて真実の史実が出てくるのです。
他の青木氏と異なり宗派の問題は甲斐の武田氏系青木氏の研究に欠かす事の出来ない要素なのです。
以下にその史料を記述しますが、未だ多くの事柄を引き出す事が出来るのです。
しかし、又の機会に更に論じる事にします。

これら前編から後編までの研究論を通じて、お読みに成られた歴史ファンの方々に一辺の史料と成る事が出来れば幸いであります。
更に青木サイトでは全国の青木さんと本サイトのファンの方々に他の青木氏の生き様をも再現したいと考えています。

史料

近隣地域分布
浄土宗3 曹洞宗23 浄土真宗6 真言宗14 臨済宗18 日蓮宗0 時宗0 法華0

浄土宗75 曹洞宗64 浄土真宗0 真言宗78 臨済宗64


甲斐青木氏が定住していた近隣地域の分布
甲府
浄土宗3 曹洞宗4 浄土真宗3 真言宗2 臨済宗4 日蓮宗2 時宗0 法華0
山梨
浄土宗0 曹洞宗3 浄土真宗0 真言宗1 臨済宗2 日蓮宗0 時宗0 法華0
甲州
浄土宗0 曹洞宗1 浄土真宗2 真言宗2 臨済宗5 日蓮宗1 時宗0 法華0
巨摩郡
浄土宗0 曹洞宗5 浄土真宗0 真言宗6 臨済宗3 日蓮宗6 時宗0 法華0
笛吹
浄土宗0 曹洞宗2 浄土真宗1 真言宗3 臨済宗4 日蓮宗2 時宗1 法華0
韮崎
浄土宗0 曹洞宗4 浄土真宗0 真言宗0 臨済宗0 日蓮宗0 時宗0 法華0
甲斐
浄土宗0 曹洞宗4 浄土真宗0 真言宗0 臨済宗0 日蓮宗0 時宗0 法華0

宗派別寺数
浄土宗...4
曹洞宗...36
浄土真宗..3
真言宗...18
臨済宗...28
日蓮宗...14
時宗....3
法華宗...3
単一 ...2



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