青木氏氏 研究室
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  [No.280] Re:青木氏と守護神(神明社)−12
     投稿者:福管理人   投稿日:2011/10/13(Thu) 11:02:46

以下 神明社の12に続く
>「2足の草鞋策」や「シンジケート」と云った「自由性を持つ組織」を保持しながらも、このスクラムは別の意味で「排他的環境」の傾向であった事も考えられます。この「氏」の青木氏も「姓化」をしようとする方も遠慮した事も考えられます。そもそも徒弟制度の中で「氏の継承」をしていた事もあって「姓化」は”「差別化に成る」”と考えたかも知れません。
>これは「商い」のみならず「3つの発祥源」と云う立場の印象から来るものが強く出ていて「2面性」を持っていた事による弊害とも考えられますが、これは「家訓10訓」で誡めているので考え難いのです。

>それはそれで当然に止む無き事として、これは「姓化」に依って起こる「商取引」が当時の「運搬・運送状況の環境」に影響して全体的に大きく関係している事から来ていると観ます。
>全体的に観ても、例えば鍛冶族は「金属の搬送」が可能な港と云う様に。上記した様に、その職能種の「殖産」の特長を生かす「地理性(環境)」を先ず優先し、「商い」に必要とする「市場性」は現在と異なり第2次的要素と成っているのです。従って、其処にはこの「地理性(環境)」−「市場性」の「2つの要素を結ぶ線上」の「運搬・運送」に適する地域に「姓化」が起こっているのです。
(前文末尾)

  「指導階層の融合:2階層の融合」
主に「民族氏」に所属していた「180もの職能集団」から「姓化」による「姓氏」が上記した様に起こっていたのですが、一方の「融合氏」にも一つではなく2階層に分離した「融合」が起こっているのです。そこで少しこの事にも触れて置きます。
そもそも「指導階層の融合」とは、平安末期の頃に最終的に「氏の優劣」は決まり鎌倉幕府へと移行しますが、「完全な氏融合」は更に「細分化」の途へと変化して行くのです。
(「第1融合氏」と「第2融合氏」)
そして、一方「民の融合」は鎌倉期からその「融合技能集団」の首魁を長として上記の経緯と背景から一大勢力を持つ様に成り、その勢いで「正式な姓氏」への過程を歩み始めるのです。
この様に日本には「指導階層の融合」(融合氏、民族氏)と「民の融合」(姓氏)の「2つの異なる経緯の融合」が分離して起こったのです。
それは「氏家制度」即ち「身分家柄制度」による結果から分離したのです。
「指導階層の融合」=(「融合氏」+「民族氏」)=「第1融合氏」+「第2融合氏」
「民衆階層の融合」=(「職能技能集団」の「姓氏」)=(「品部」と「部曲」の2つの融合)

前記した「移動、移民、難民、帰化人」の第0期から第5期までの経緯により頑なにその属性を護っていた「民族氏」が、鎌倉期以降は「第1融合氏」との血縁を積極的に進めた事から「第2融合氏」(融合2)へと変化して、国内では「完璧な2種の雑種融合」が起こったのです。
これは九州全域を勢力圏に置く阿多倍一族一門の「大蔵氏」が「自治」を獲得した事、又一門の「たいら族の滅亡」を切っ掛けに、「民族氏」としては先読みして最早このままでは生きて行く事は困難と観て「盤石な勢力」(「融合力」)を固める為に、その「自治の特権・自由性」(「融合要素」)を生かして、特に関東以北を征圧している藤原北家筋秀郷一族一門との血縁に踏み切ったのです。これに依って「民族氏」は「第2の融合氏」へと変化して行ったのです。
この「指導階層の2つ融合」(第1融合氏、第2融合氏)と、「民の融合」(「品部」と「部曲」の2つの融合)に分かれて行った事が後に「完全融合」を成した要因であったと考えられます。
もしこの「4つの階層」が混在一体と成って融合していたとすると、身分階層の境界が薄らぎ鎌倉期以降の社会体制は全く違ったものに成っていたと考えられますし、「共和国的な社会」に成っていた可能性があります。
これらの「融合」が「上層部の2つ」と「下層部の2つ」に分かれてそれなりの特徴を生かして「融合」が進んだ事と成ります。
ところが、この階級社会の中で「上層部」と「下層部」の間には、実は積極的な「融合」は起こらなかったのです。この状態は「士農工商」の身分制度と「氏家制度」の家柄身分の「吊り合い慣習」により歯止めがかかり原則として江戸時代中期まで続きました。(室町期の下克上、戦国時代の混乱期を除く)
況や、これは「下層部」の「民の融合」が国民の最低8割以上を占めていた事から、彼等の全てが「職能集団」の「品部の民」と「部曲の民」で主であった事から、「物造り」を「絆」にして「融合」が起こった事が原因していたのです。
「上層部の2つ」は身分家柄制度があった為に「横関係」で相互間の「融合」は進み、「下層部の2つ」では身分家柄制度が希薄であつた為に「縦横関係」で相互間の「融合」は進みましたが、「上層部」と「下層部」の間には「身分制度の垣根」が強く「融合」を起すだけの「力」つまり「融合力」とその基と成る「融合要素」が無かったのです。
「融合力」+「融合要素」=「異種間融合」
しかし、「下層部」の「品部」と「部曲」の間には「融合」を阻害するこの「身分制度の垣根」と成るものが無かった事に依って「自由性」(「融合力」)が発揮されて「限定した領域」で「融合」は進んだのです。
上記した「部曲の融合」は「品部の融合」に比べて「異なる融合の発展」を起こしますが、然しながらその「融合要素」となったのが、「部曲」は農業の傍ら「物造り」の「一つの工程」(原材料生産)をも一部で荷っていた事なのです。つまり、「融合要素」=「物造りの工程」であって、その「限定した領域」とは「物造りの工程」に関わった「重複部分での血縁融合」であったのです。
「物造りの工程」が縁と成って血縁して行ったのです。
総じて云えば、「品部の民」即ちその先祖は「後漢の民」と「在来民」(部曲)との「血縁融合」と云う事に成ります。
その証拠に平安期に使用されていた「百姓」(おおみたから)と云う「百のかばね」の言葉は、本来は、正しくは「皇族」と「賤民」を除く良民一般(公民、地方豪族含む)の総称(奈良大化期から平安末期)であったのです。「農」を意味する言葉ではなかったのです。
これは「品部」と「部曲」との階層の間には上記の「物造りの工程」の「融合」が有った事から一つとして見なされて区別せず相称して「百姓」と呼称されたのです。
(「品部」や「部曲」の中には姓を構築した「豪族」・「豪農」も存在していた。)
「百姓」の呼称が「農民」(部曲)のみと使用し限定されたのは室町末期から江戸期初期に掛けての事なのです。正式には「士農工商」の「封建社会の身分制度」が確立してからの呼称なのであって、平安期から室町末期までは「氏家制度」の下では「士農工商」の「士」の上層部「氏」を構成する「武家」階級を除く総称であったのです。「士」にも下記に述べる「3つの階層」(123)があって「農工商」に類する
結局、奈良期・平安期から室町末期までの「農」と、室町末期から江戸期中期までの「農」ではその質は異なるのです。
従って、因みにルーツ探求から観てみると、藤原秀郷一門が鎌倉期に成ると失職離散して「農」に携わった事は江戸期の「農」とその持つ意味合いは異なるのです。
鎌倉期以後から室町期末期の「農」は「兵農方式」が未だ主流の時代でもあった為に一時的に主体をどちらに置き変えたかの違いだけであったのです。身分的要素の低い呼称なのです。
 鎌倉期以後から室町期末期の「農」(兵農民)≠ 室町末期から江戸期中期までの「農」(農民)
(これ等の雑学はルーツ探求で資料を考察する時に特に注意する必要があり、時代考証に於いて大変な判断の間違いを起す。)

ところがこの「農」に関わったものとして分類するとそもそも次ぎの「4つの農」があるのです。
1 「武士」で有るが生活の糧として「農」も兼ねる者(兵農)
2 「農民」で「農兵」を兼ねている者(農兵)
3 「農民」で若者が「傭兵制度の組織」に組する者
4 「農民」として純然として「農」を営む者

そして1には次ぎの階層があったのです。
A 下級武士で姓名・家紋を保持しない「兵農民」である者
B 下級武士で地元の地侍の「郷士」である者(姓名・家紋を保持)
C 中級武士で土豪(郷士長・首魁)である「庄屋、名主」である者(平安期に豪族であった)
D 上級武士で豪族で「郷氏」で「大豪農、大地主」である者(室町期前期に守護等の氏上)

1のAと2と3が室町期の末期に「農兵」として働き「武士」として名乗りを挙げたのです。
1のAと2と3は元々姓名や家紋や氏を形成せず、江戸初期に成って仕官し改めて姓氏、家紋、等を持つ様に成ったのです。
因みに青木氏における「農の青木氏」と成るルーツは、1のB、C、Dで、多くは記録からCとDが主流と成りますが、「4つの青木氏」の「家臣団」の「未勘氏」と、前記した青木氏に所属する「部民」の「絆結合」の「第3氏」と、青木村の「4の農民」の3つが明治期に「姓氏」として発祥しているのです。
皇族賜姓族青木氏にはこの「農兵」は原則として存在しません。
皇族青木氏と特別賜姓族の藤原秀郷流青木氏の一部には「農兵」は存在していた事が添書などから僅かに観られますが、そもそも秀郷流青木氏には護衛集団(武装集団)を平安期から室町末期までそれを本職とする集団であって特段に「農兵」を傭兵する必要性が無かったのです。
(皇族青木氏の甲斐武田氏系青木氏や丹治氏青木氏の2氏は除く)
5家5流の賜姓青木氏は、源氏と異なりその「生様」は前記した様に抑止力(シンジケート、秀郷流青木氏、経済力)を全面に押し出し「戦い」を前提とした「農兵」を必要とする事に組しなかったのです。

上記した「品部の姓化の氏」と、上記1から3の「農民(部曲)の姓化の氏」が別系列で興った事に成ります。
実際は「百姓」の呼称は「農民」だけではなく山民や海民等を指す「調庸の税」の「被支配民一般」の用語として正式には平安期(現実は室町期)までに用いられた言葉なのです。
「農民」が「百姓」と限定して呼称され始めたのは資料の表現から観ると鎌倉末期から室町期に入ってからの事なのです。(タイムラグがありここでは奈良期−平安期の意味を採る)
これは、奈良期から鎌倉期末期(平安期)まで農業の傍らこの「品部」の集団に組み込まれて「物造り」の一工程(素材生産)を担っていた構造に成っていたからによります。
「物造り」の「原材料の生産と加工」、一部はそれを本業の農業として彼らに委ねられていたからなのです。
依ってこれ等の「物造り」の関係から「品部」と「部曲」の関係は切り離せない関係にあって「品部」と「部曲」の「融合」も当然に起こったのです。
しかし、実は平安期では「氏家制度の根幹」と成っている「身分制度」を護る為には5つある階層間の血縁を朝廷は嫌ったのですが、「下層域」では護られず「税の徴収体制」が崩れる事を恐れた為に法を定めて護ろうとしました。中でも「部曲」と「品部」の血縁には注意を払ったのです。この状況は鎌倉期まで維持され、室町期に入り群雄割拠が起こり次第に崩れ始め、この結果「下克上、戦国時代」の混乱期を招き、安土桃山からは引き締め始め、遂には江戸時代に入り再び「氏家制度と税の徴収制度」の根幹部分を護る為に「士農工商」ではなく「士・農・工商」の身分制度を確立しました。
この制度の中でも「物造り」の勢いが強く「融合力と融合要素」が働いて上記した限定部分で「品部と部曲」との間では血縁が続いたのです。
そもそも「後漢の品部」が渡来してその技能を最初に教わり吸収したのはこの「部曲」なのです。従って、そのような絆から血縁融合は止める事は出来なかったと観られます。
即ち、日本の「民の融合」は名付けて「物造り」を媒体とした「物造融合」であった事に成ります。
ですから、日本は「融合」と「物造り」は無縁ではないのです。
「民の融合」(品部、部曲)=「物造融合」=「雑種の優秀性」
この国民総出で「物造り」が進んだからこそ積極的な「融合」は起こったのであり、その「融合」が進んだからこそ「物造り」が顕著に進んだと云えるのです。そしてその「物造り」は当然に「雑種の優秀性」を生み出し増幅させて行ったのです。この「民の融合」即ち「物造融合」が自然の「サイクルの流」を生み出したのです。
しかし、其処にはサイクルから出る弊害も見逃せず、「荘園制の行き過ぎ」等前記する様に色々な角度から論じて来た様に「天智天皇」等数人の優秀な天皇が「国策3策」を命を賭けて「弊害の苦難」を乗り越えて遂行したからこそ成し得た優秀性をベースとする「物造り国家」が完成したのです。
そしてその「物心両面からの策」が後世から観ると理に叶っていたのです。此処に本文前節の力説部分があるのです。

 「現在が完全融合期」(「民の融合2つ」「指導階層の融合2つ」)
遂には、日本は「自然の摂理」により「渦中の芯」に向かって、室町末期では「下克上」と「戦国時代」の混乱に合わせて、次第にこの「民の融合2つ」と「指導階層の融合2つ」は更に一つに成る為の「完全融合」を重ねる過程へと辿るのです。
しかし、ところがこの過程を辿るものの「完全融合」を成す過程は「氏家制度」と「封建制度」の社会により「身分家柄」の「縛り」が起こり、その「縛り」により「指導階層の融合2つ」には更に階層に階層を何段も造るという「吊り合い」による血縁現象が生まれ、結局、江戸末期か明治初期まで緩やかな変化と成ったのです。
ですから重要な事は、「完璧な2種の雑種融合」の論理的な「完全融合」と言う定義では、未だそう遠くない100年程度前の明治初期(平等の契約社会)の過去に始まり起こって居るのです。
この過程で見る限りは様々な「縛り」が取れて「完全融合」は丁度、現在であるかも知れません。
論理的に云えば、日本に於いては現在が最大の「雑種による優秀性」が顕著に出て来る時期と観られます。
つまり、この様に明らかな様に、「日本人の優秀さ」は動物に見られる「雑種による優秀性」が顕著に出た事に依る結果以外には有りません。
そして、その「根源・基点」は天智天皇の「青木氏」から始まった「融合氏」(国策3策)の厳しい経緯から起こっているのです。我々「4つの青木一族一門」はこの「根源・基点の象徴氏」なのです。
「根源・基点の象徴氏」青木氏から始まった「融合氏」の現在の発展は天智・天武天皇の先見性に関わっていたとするも過言ではありません。

「研磨剤」(「3つの脳」)
論理的に云えば、現在がその「雑種による優秀性」が出る時期であると観られる事に成ります。
では、”その「優秀性」はどの様な処に出るのか”と云うことですが、特に、それは「融合」に切り離せなかった「物造り」と云う場面にあると観ていて、その「優秀性」を引き出す原石を磨く「研磨剤」(「3つの脳」)は家訓8にもある様に下記の事だと見て居るのです。
宝石(融合氏)も磨く事(思考訓練)なしでは成し得ませんが、故に其処に「力説点」を置いているのです。

「民の融合2つ」→「雑種による優秀性」←「3つの脳」→「物造り」←「指導階層の融合2つ」

「力説点」
その「融合氏」の「優秀性」(特技)が、”「3つの脳」(「思考訓練」「熟練技能」「熟練技術」)の努力”の「遺伝性特技」に現れたものであると青木氏の歴史的史観からの研究結果から主張しているのです。

「3つの脳」=(「思考訓練」「熟練技能」「熟練技術」)=日本人の「遺伝性特技」
”「物事」についてよく考え、それを何かに「応用」し卓越し、それを「文明の形」にして生かす。”
この特質です。

逆に云えば、「三国志」の中にも出ている様に劉備が立ち上がった理由の「中国の国民性」ですが、中国では今でもその気風は消えていません。
それは「法より人」「石は薬」「雑は良識」の中国の諺に物語ります。
日本の「遺伝性特技」=「3つの脳」の「思考訓練」の「物事に真面目に考える国民性」と、「法より人」「石は薬」「雑は良識」の考え方とは逆なのです。
此処に「中国との違い」があり決定的要素として差が出ているのです。
それは「7つの民族」の「融合の所以」であって、「民族氏」の「個人の志向」を重視するより「集団性」を重視する「融合氏」」(2+2=4の融合)から起こった「国民性」なのです。

その昔は中国は世界でも「物造り」は先進国であった筈ですが、それが1/10の国力も無い小さい日本が「物造り」の先進国に成って行ったのは、中国の支配民族がころころと変わった事でもあり、取分け主にその「物造り」を進めたのは、中でもそれをリードした「優秀とされる漢民族」で有った事によります。
日本には大きい意味で「支配民族」は無く「7つの融合単一民族」で支配されていた処に差異があります。しかし、其処に「漢民族」が日本に流入したのです。
「漢民族」は中国西側域(ヘトナム)にも武力難民と成り流れ「西国の民族」は押し出されて北九州と南九州に渡来する事と成ったのです。

その優秀な漢国が滅び16国に分散してしまい、その結果、中国では「物造り」の精神は衰退したと観られます。しかし、その「漢民族」の東の国を統制していた将軍の「光武帝」が東に勢力を伸ばし朝鮮半島の3韓を制圧して統合して「後漢国」を建国しました。
矢張り、この優秀な後漢の民は「物造り」を伸ばし、結局21代末帝の献帝の時に滅びます。その後、後漢は隋に徳化して行き618年に滅びますが、それまでは「物造り」は「180の職能集団」に分類されて強く政策的に継承され続けていました。
現在から観てもこの時代までには後漢の民は素晴らしい優れた文化財を遺しているのです。漢民族の「物造りの優秀さ」が証明されます。
その618年の時に末帝末裔の子「阿智使王」と孫の「阿多倍王」が後漢の民の17県民200万人を引き連れて日本に渡来し、帰化して来たのですが、青木氏の関係論文で論じている様に彼等がこの「物造り」の技能の下地を日本にもたらすした事でも明らかです。
しかし、この様に「三国志」頃から観ても、中国の国を支配した「民族同士の融合」は一つの融合民族を構成する程に起こって居ないのです。これは中国人は「個の意識」が強くその延長の「民族意識」も強くそれが下で中国の長安を中心として「民族の住み分け」で済ました事に依ります。
日本に帰化した彼らの神は「道教」−「産土神」であった事でも判ります。
つまり、「意識問題」として云えば、この頃の「民族の縛りの意識」は”一民族はその民族の中で暮らす”と云う事が常識であった事なのですが、日本では「7つの民族」が集まっていて不思議にその「縛り」は低かった事が「融合」を促進させたのです。
確かに、彼等が渡来した時は、色々な資料を観ても、上陸時の初期から奈良期の前半までは遺跡からこの傾向が観られましたが、大化期を境にそれなりの「縛り」はあるにしても中国の様に生活圏の全周囲に城壁を構えその中に「民族」を防御するまでには至っていません。
大化期付近から変化したしたのは数々の「天智天皇の施政」からも観ても判る様にこの「民族」の「縛り」を無くす「公地公民」等の「中央集権政策」を矢継ぎ早に実行した事が原因しているのです。
つまり、これ等の政策は全てその「融合政策」に通じているのです。
その「融合の象徴的代表」が「青木氏」なのです。つまり「青木氏」そのものが「民族の縛り」を無くす「象徴策」であったのです。
恐らく日本は山岳部の多い「国土の地形」が「縛り意識」を起す環境下に無かった事も原因していると観ます。
中国では、”一族が住む地域の周囲全域を城郭で広く囲み、その中に同一民族が暮らす”と云う、つまり、”城郭内に住む民は皆少なからず親族”と云う形の中国の都市構成を観ても解ります。
この「民族状態」では、地形から「民族の縛り」が起こらず開放された状態の日本の様には、中国では大きな「雑種交配」は起こりません。
「山岳地形による集団生活」と「平地での城郭による集団生活」との差が融合をより容易にしたのです。
とすれば、この住み分けと云う事等から考えれば、中国では「民族」、日本ではより小さい単位の「氏」の「住み分け」であった事であります。

中国=「民族」=「平地での城郭による集団生活」
日本=「氏族」=「山岳地形による集団生活」

この「氏」の社会の中に「異民族」が混入し来たのです。ましてや「国土の地形環境」の違う中に入ってくれば「自然の摂理」で「人心の拒絶反応」が起こるのは必然です。
しかし、この「拒絶反応」が「技能伝授」と云う形で「在来民」に福をもたらし事で大きく起こらなかったのです。「拒絶反応」−「技能伝授」=「在来民に福」
しかし、「拒絶反応」が起こらなかったとしても「民族性の思考原理」は依然として残っていたのです。何とも不思議な現象です。
「拒絶反応」と成る原因の基の「民族性の思考原理」がそのままに潜在したままで「技能伝授」がそれを押さえ込んだと云う事です。
普通ならば「拒絶反応」が起こり「民族性の思考原理」を排除してくれる筈です。
しかし起こらなかったのですから「民族性の思考原理」は社会の中にそのままに存在してしまったのです。丁度、「日本」の九州に「中国」が出来た事に成ります。
これでは中央の為政者は慌てます。”何とかしてこの「民族性の思考原理」を解消しないと危険だ””何か起こる”とする危惧を抱いた筈です。
それが前記した様に「民族氏」と「7つの民族融合」を成した「融合氏」とのその2つに問題が起こったのです。
当然に初期的に「7つの民族融合」が折角進んだ社会の中に腫瘍の様に再び危険な火種の「民族性」が出来てしまった様相です。こうなればもう一度中期的に「融合政策」を推し進める必要性が出てきます。
初期は恐らく「地形的環境」から自然淘汰が起こり「自然融合」が起こったと考えられ、中期は「自然淘汰」では行きません。政策的な解決策の実行が必要と成ります。
それが「大化の融合政策」であったのです。それには為政的にはシンボル的なものが必要と成ります。
つまりそれが「青木氏」で有ったのです。シンボルに位置づけられた「青木氏」にとっては国体の成否の如何を左右する任務であり宿命でありますが、嵯峨期(弘仁の詔勅)から発祥した源氏に取っては既に165年も経過してその任務の認識度は低下していた筈です。
前記した様にこの2つの賜姓族グループの間には根本的に認識度が異なっていた事に成り、清和源氏分家頼信系の義家等が採った「愚かな行動」はこの国体如何を左右すると云う「認識欠如」がその任務を全うする事も無く、更には「源氏滅亡」までを招いてしまったのです。

「融合氏の血縁性」
更には、日本では「国民思想」として「氏間の融合」を「子孫存続」の「血縁の前提」としていた事でもあります。
飛鳥、奈良、、平安期の記録から「融合」という観点で分析して観ると次ぎの様に成ります。
例えば、「氏の象徴」の天皇家で観てみると、現在では考えられない極めて高い「純血」を護りながらも一つのルールに従っていた事が解ります。
そのルールを検証すると、奈良期の子供の作り方で観ると、前半は2親等から4親等の近親婚を行って極めて高い純血婚で保持していたのですが、後半は大化の改新により、天智天皇が「氏の融合」とこの「近親婚の弊害」をより無くす為に、次ぎの様な改革を行ったのです。
例えば、純然たる「融合氏」の「発祥源」と成った天智天皇と天武天皇の間では、天智天皇(中大兄皇子)の子供は地方の豪族からの娘(いらつめ 郎女:妥女 人質)を仕組みとして入れて子供を作り、その子供(姪)を天武天皇の妻に迎えて「純血」を護ると云う慣習が採られています。
そして、その地方の豪族も同じ慣習に従っているのです。特に「八色の姓」族までの身分家柄の氏を構成する宗家、本家筋ではこの「純血」が維持されていたのです。
そして、この「妥女の制度」(うねめ)は「氏の融合」を推し進める為に全ての一般地方豪族からの郎女(いらつめ)を「人質」として朝廷に仕えさせ、その性質は「女官奴隷」とし、「純血」の中に制度的に「混血」を行う為の正式な「妻の制度」(皇后、妃、嬪)の補助身分として「妥女」(うねめ)制度を導入したのです。
その為に、妻は4段階にして、先ず、皇后と妃は2親-4親等の親族 嬪は大豪族とし、妥女は地方の小豪族の他氏の郎女とし、この前2段階で産まれた子供の中から近親婚の弊害を受けた皇子を除き4段階の妻の身分に順じて皇子順位が定められ、4世族王までそのルールに従う形を採っているのです。
そして4世族までも上記した「純血保持」のルールに従に従います。(大化期前は6世族まで)
皇子数が少ない場合は第5世族、場合に依っては第6世族まで引き上げてその皇子を定める皇族身分の継承を行い、「子孫の融合」を天皇家に入れる仕組みにしたのです。
この意味で「皇族関係者」のみならず「八色の姓」の範囲の各豪族の氏等はこの「仕来り」に従いますが、決して「性的目的」や「権力継承者」の保全目的からの「妻4段階の慣習」を保持したのでは無いのです。近親婚は定められた「仕来り」であって異常とされる慣習では無かったのです。
つまり、「氏融合」の政策が進むに連れて薄れる「純血低下」に対する「権威の低下」の防止策であった事に成ります。
「純血」は当時の社会体制から民を除く為政者の立場にある者の「権威保全システム」で有った事に成ります。
平安期までの「氏」はこの意味で鎌倉期以降の急激に増えた「氏」とは「純血保全」と云う点と、「氏として朝廷の承認」(「八色の姓制度」と「氏姓制度」で縛られていた)の有無も含めてこの2点が異なっているのです。
平安期に於いては無法治に「氏姓」が発祥したのではなく「血縁性の縛りや制度」に依ってある一定の「品格、資格、家柄、身分、勢力」などの条件に依って管理されていたのです。
「日本の民」も「中国の民」の様に「民」の段階に於いても、初期は地域を限定して「民族間血縁」であり、ある種の「近親婚」で有ったのですが、それが崩れて日本では、第2期頃(飛鳥期-大化期)からやや早く完全な「混血婚」と成って行きます。
少なくとも、平安末期までは「純血の保全」と「子孫融合」又は「氏の融合」を本来の目的としていた慣習だったのです。しかし、第4期の鎌倉期以後、爆発的、飛躍的に「氏の融合」が進んだ結果その目的が変化して「権力継承者の保全」へと変化していったのです。

「純血の保全」と「子孫融合」(「氏の融合」)⇒「権力継承者の保全」

その意味で第2期頃この「仕来り」と「慣習」で生まれた第6位皇子の皇族賜姓族を始めとする青木氏は「氏の発祥源」であった事を意味します。
平安末期の賜姓源氏(10代目頃)には、「氏の融合」よりは「武家」(公家に対する武家の意味)の「権力継承者の保全」に変化して、この意味合いは少し異なって行きます。
反して云えば、「氏の融合」が進みそれに連れて「純血保全」は低下して、その意味合いが社会の中で低下した事に成ります。

この様な「仕来り」で生まれた平安初期までの「氏の融合」に付いては、若干、この時には記録では「渡来人」と云う言葉が存在している事から観て、未だ確かに「幾つかの民族」を意識していた事に成ります。
日本書紀にも”蘇我入鹿が「中大兄皇子」のグループに粛清された時にこれを聞きつけた「古人親王」が[渡来人が殺された]と叫び奥に逃げた”とするその発言が記録では遺されています。恐らく、蘇我一族類縁の「古人親王」は「中大兄皇子」の宿敵であり、この粛清がどの程度に及ぶか判らない為に恐れて逃げた事が伺えます。
その時に発した言葉が30年後(675)の「舎人親王」の日本書紀編集時に記録されるという事は、その時の発言の意味が大きく「朝廷内の意識」の中に未だ残っていて継承されいた事に成ります。
つまり、この記録から観ても、皇族の一部が応仁期に渡来した蘇我一族の類縁でありながらも自らも「渡来人」の意識を持っていて、然りながら一方では「渡来人」で無いとする「不思議な過程域」(重複期)であった事を物語ります。
丁度、何年も経たないこの時期に「青木氏」が賜姓され発祥をした事もこの「不思議な過程域」即ち「融合意識」が「氏意識」へと「移行する時期」の中にあった事にも成ります。
そうすると日本書紀に”この記録を遺す”と云う事は50年後の700年頃にはかなり「氏への融合」が急激に進んでいた事を物語ります。
そして70−130年後頃には全体の書物の記録から「渡来人」の言葉が消えているのですから、「氏の融合」は爆発的に進んだ事を物語ります。「氏融合意識」で「渡来人意識」を消え去られる程度に融合が急激であったことに成ります。
この「不思議な過程域」が「氏融合の急激な変化」に依って「渡来人意識」が人心から消え去った事に成ります。
奈良時代末期は「初期の民族融合」が進む中で未だ在来民の「民族の意識」は多少残っていたことを物語り、「氏の融合」は上記した様に20程度の「民族氏」の中で、同じこの時期に発祥した伊勢青木氏や近江青木氏がその「氏の融合」の発祥基点と成った事を証明します。
(当時の一般の民は「民族氏」又は「氏」の構成員の立場にあり、「部」の職能集団での構成員でもあった。)

古代の「物造り」の「部」を管理統括する国の長官を「国造」(くにのみやつこ)、管理者「伴造」(とものみやつこ)と云う呼称であった事はこの政策を優先したと観られます。
(この下に現地で実務管理をさせた「伴造]: とものみやつこ、労役をする民を伴って朝廷の税外の仕事に出仕した事からの呼称)
”「物造り」即ち「部制度」を「国造」(国つくり)”としている事は、明らかに奈良期から朝廷は「優先政策」として「物造り」としていた事を物語ります。
これは「国造り」=「物造り」から来ています。
「国家の安定」とその根幹を成す「物造り」の政策を推し進める為には、日本の人民を一つにする必要があり、その為に「民族氏」から「融合氏」へ政策的に移行させる必要に迫られていたことを物語ります。
「物造り」は「国造り」であり「氏造り」(融合)であることに成ります。
逆に云えばこの事は「7つの民族」の「異民族国家」の認識が未だあった事に成ります。
この意味でも大化期から平安末期では、「国造り」=「物造り」を成すには「民族氏」から「融合氏への政策転換」に迫られていた事に成ります。

「国造り」=「物造り」=「氏造り」(融合)⇒「シンボル賜姓青木氏」〓(3つの発祥源)国策3策

そもそも筆者は「青木氏」を研究している中で、とりわけ本論の神明社の研究で”「青木氏の持つ意味」は何であったのか”と云う事に拘り研究して来ました。
それは、中大兄皇子は第6位皇子を臣下させる目的の「天皇自らを護衛する集団の構成」の目的と、もう一つの目的は「7つの民族」で構成される国からより民族同士での争いを無くす為により安定した国、又は「日本人」にするには「氏の融合」と云う「政治的テーマ」が有ったのだと考えて居るのです。
それを裏付ける次ぎの11の事柄が考えられます。

1「不思議な過程域」(融合意識が氏意識への移行期)であった事。
2「氏の発祥源の青木氏」と「嵯峨天皇による青木氏から源氏に変名」と云う「源」の氏名の賜姓を使った事。(青木氏から源氏まで16代も賜姓を続けた理由)
3「天皇の皇族」をしてこの「臣下」と云う手段を採った事
以上の主要3点に観られると考えているのです。

何も臣下せずしても護衛集団の目的は果たせる筈です。確かに皇族は「武力を持たず」の皇族の仕来りはあったにせよ第4世王の有名な「栗隈王」らは自ら武器を持っていた事は日本書紀の中の大友皇子と大海人皇子との争いの場面でも出てきますし、他の記録を観ると徹底されていなかったと見られます。わざわざ「臣下」という手段に出たのもこの「氏の融合」政策を押し進める目的があったと強く考えているのです。
更には、次ぎの事柄でも検証出来ます。

4「第6世族」までを皇族王としていたのを第4世族までとした事、
5「第7世族」を都より遠路の坂東に配置した政策の「坂東八平氏」と名づけられた事、
6「准賜姓」を許し彼等に地名の氏名を名乗らせ坂東守護を許した事、
7「嵯峨天皇」の以後の皇族が下族する際に使用する氏名を「青木氏」と詔で定めた事、
8「後漢の阿多倍王」の渡来子孫に坂上氏、大蔵氏、内蔵氏等の賜姓をした事、
9「敏達天皇」の孫の芽淳王の末裔をこの渡来人に娶らし融和策を講じた事、
10「後漢渡来人」等を「遠の朝廷」として「錦の御旗」を与え九州全土の政治を任せた事、
11「本文の神明社」の配置策などから観れば明らかに「氏の融合策」で有った事
以上の事が覗えます。

故に、この平安期初期までの「氏融合」の積極策が効を奏して、”「氏の融合」は爆発的に進んだ(100年間)”のだと観ているのです。
その「氏の融合」は文化・由来の括りで分ければ次ぎの「6つの族」に分類されます。ここでは「A〜Dの族」を中心に論じています。
EからJまでは個々に異なる文化・由来の経緯を持っています。

青木氏の関係族の構成(守護神別分類)
A 皇族賜姓族の氏の発祥源青木氏(朝臣族 5家5流青木氏 25氏)
B Aの母方で繋がる藤原秀郷流青木氏(藤原秀郷流青木氏:嵯峨期詔勅の特別賜姓族青木氏116氏)
C 室町期と江戸初期にA、Bの縁類として発祥した青木氏(未勘氏 家臣団 徒弟制度)
D 明治初期の苗字令で発祥した青木氏(第3氏 村民 絆結合 職能集団)
E 宿禰族橘氏(葛城王始祖)の青木氏(石清水社社家 皇族1氏 A族別系)   
F 嵯峨期詔勅にて発祥した皇族系青木氏(多治彦王・島王配流孫青木氏2氏 甲斐青木氏4氏)
G 嵯峨期から花山天皇期までの賜姓源氏(賜姓同族源氏11氏 源氏系配流孫青木氏1氏)
H 皇族賜姓族佐々木氏(天智天皇賜姓氏 近江佐々木氏1氏 同族血縁氏青木氏1氏)
J 宇多天皇佐々木氏(嵯峨期詔勅氏 滋賀佐々木氏1氏)
K 上山氏系滋賀青木氏(近江賜姓青木氏の遠戚青木族1氏)
 
「4つの青木氏族」(A〜D族)
(2つの血縁氏)−神明社
Aの5家5流25氏を発祥源とした青木氏
Aの藤原氏の母方で繋がる嵯峨期の「血縁的類」の116氏の青木氏、(神明社・春日大社)
(2つの絆結合氏)−神明社
A、Bの青木氏116氏に何らかの間接的な縁者関係にあったとされる「縁者的類」の青木氏、
A、B及びCの青木氏と郡村で「生活を共にした民」の「社会的縁類」の青木氏、

E族は、A族の慣習に基づき本来は朝臣族が務めるところ橘諸兄(葛城王)の母橘三千代が藤原不比等に嫁した為に橘諸兄は朝臣族となり、その末裔が橘氏の守護神の石清水社社家を務めた事からA族の慣習に基づき青木氏を名乗った橘系青木族1流 (石清水社)

F族は、関東丹治氏系青木氏1流と島氏系青木氏1流 甲斐の源源光系青木氏2流 源時光系青木氏3流

G族は、 Aの皇族第6位皇子の同族賜姓族の青木氏より変名した賜姓源氏族(Aと同族) 九州源有綱−高綱配流孫の源氏−廻氏系青木氏1流

H族は、天智天皇の特別賜姓族川島皇子始祖系近江佐々木氏1流と、近江賜姓青木氏との血縁族青木氏1流

J族は、嵯峨期詔勅に基づく賜姓族の滋賀賜姓佐々木氏1流 青木氏を賜姓せず同属H族に倣って佐々木氏を宇多天皇は賜姓した。

K族は、近江青木氏が滋賀に移動した時の遠戚末裔廃絶孫の名籍を伊賀上山郷の上山氏が盗籍し興し滋賀青木氏を継承氏1流(継承は戦いの末に承認)

つまり、AからKの「10の族」に対して「縁と云う関係」から観ると次第に緩やかな「縁的関係」を保持する青木氏に分類されるのです。

中でもA〜D族は「悠久の歴史」が血縁に勝るとも劣らず強い頑強な「絆結合」を構築したのです。
(4つの青木氏)=(2つの血縁氏)+(2つの絆結合氏)←「縁的絆関係」
「悠久の千年歴史」→「縁的絆関係」

そして、「天智天皇」から「光仁天皇」まで、「桓武天皇」と「平城天皇」の続けて2代の天皇を除き、「Aの同族」としての「嵯峨天皇」から「賜姓源氏族」と変名して続けられたのです。
(この2代の天皇は賜姓を皇族にせず、自らの母方阿多倍王の孫娘の実家先を賜姓した。後の「たいら族」の「賜姓平氏」で5代後の太政大臣平清盛の一族一門である。)
この2代の親子の天皇の反動がもし無ければ、本来であれば皇族賜姓青木氏は続いていた筈なのです。
ただ、「律令国家」の完成を成した天皇としては実家先の青木氏等の「皇親政治族」の存在で国の運営が左右される事には問題であった事は確かに考えられますし、その完成を成し遂げ官僚を牛耳っている母方の阿多倍一族一門を賜姓して引き上げて”律令国家体制を軌道に乗せる”とする事も充分に考えられます。そうも物事が上手く進まないのもこれも「浮世の現実」でありますが、現実には賜姓青木氏源氏と云う氏名では続いているのです。
問題は上記した様にこの”賜姓源氏の採るべき態度が間違えていた”と云う事なのです。
源氏に観られない「4つの青木氏」の数式が物語る様に、「血縁の前提」(縁的絆関係)の考え方なのです。

「家紋の意味」
その証明する最たる「血縁の前提」の考え方は、主に平安期から顕著に始まった「氏の象徴」の「家紋」に重点を置いていた事で証明できます。
大別すると、2期に分けられます。
先ず1期目は、未だ「民族意識」の存在する中での「氏の融合期」、即ちこの平安期の時期「民族融合」の終了期(桓武期 1次800年頃-2次900年頃)です。
次ぎに2期目は、「民族意識」が無くなり其処からは鎌倉期からは積極的な純然たる「氏の融合」へと変化して行くのです。
つまり、日本は「民族融合」⇒「氏の融合」=(氏家制度)の過程を辿ります。
これに伴って上記数式の「氏家制度」は「数多くの仕来りが」生まれ確実に「氏の集団互助システム」として充実して行きます。そして、これには「氏の象徴」である「家紋」も連動して「数多くの仕来り」が生まれが並行的に増加して行くのです。(特に藤原氏は最も多い「仕来り」を持った。)
これらは時代毎の「氏の数の変化」(最大1500)と「家紋の数の変化」(最大8000)でも証明出来るのです。(研究室参照)
要するに「家紋の持つ意味」として、「民族融合」⇒「氏の融合」に依って「融合の単位」が「民族」からより小さい「氏」に変化した事に依って、その「氏」を判別する目的として「家紋」が用いられたのですが、この「家紋」が「融合」を助長する役目を大きく果たしたのです。
「氏の境目」がはっきりしなくて判別が出来なければ社会組織「氏の集団互助システム」の「氏家制度」は成立しなかったからです。「家紋」はその醸成された仕来りで「氏の境目」を明示させたのです。
はっきりとした氏間の「血縁融合」(血縁の前提と縁的絆関係)が判別出来た事に依ります。

ところが「民族性」の強い中国は現在に於いてもこの「氏の融合」が積極的に起こっていない事によります。つまり「家紋化」が起こらなかった事で、「血縁の前提」(縁的絆関係)の判別が観えなかったのです。自然発生的な「氏家制度の構築」が成されなかったのです。
結局、日本では突き詰めると「氏融合」が「家紋」に依ってより「雑種の優秀性」が助長されて発揮される様に成り、その優秀性は「氏と部曲、品部」との連携により「殖産・物造り」へと変化を興し、この「物造り」への変化は今度は「家紋」の変化に象徴される様に成って行ったのです。
そして其処に「家紋」のより「大きな役割」が生まれ、「家紋の持つ意味合い」が追加醸成されて行ったのです。
この様に当初は「家紋」は「3つの発祥源」の青木氏の「象徴紋」であったものが、何時しかそれが「氏の家紋」と成り、その「家紋」が「血縁雑種の優秀性」から「物造り」へと結び付き、又その事が逆に経路を辿る事で加速性のある「著しい融合」が進んだのです。
この様に「家紋」に於いても、「物造り」に於いてもその根源は「青木氏」に無関係ではないのです。従って「物造りの象徴紋」は「青木氏の笹竜胆紋」と云っても過言ではないのです。

「氏融合」=「物造り」=「笹竜胆紋」=「賜姓青木氏」

ただ、同族の「賜姓源氏」の「笹竜胆紋」は賜姓族として青木氏と並んで使用したのですが、本来、前記する「愚かな行動」からすると「笹竜胆紋」は相応しく無く単純な無味乾燥の「家紋」に過ぎないとしているのです。”その認識が薄かった”と考えているのです。
賜姓源氏は家紋に持つ「物造り」や「3つの発祥源」の崇高な意味合いに欠けていたのです。
此処に「青木氏の笹竜胆紋」は「家紋」とするよりは元来は「象徴紋」であって、その意味合いも次ぎの関係式が成り立つともしているのです。

「氏融合」=「物造りの象徴紋」=「青木氏の笹竜胆紋」(象徴紋)

当然、この「氏融合」は「祖先神」の「神明社」に繋がります。
「氏融合」=「神明社」(祖先神)となり、「神明社」(祖先神)=「物造り」の以上の数式の関係が生まれたのです。

1・・・「氏融合」=「神明社」
2・・・「神明社」=「物造り」
3・・・「3つの発祥源」=「賜姓青木氏」
4・・・ ∴「氏融合」=「物造り」=「笹竜胆紋」=「賜姓青木氏」=「神明社」=「3つの発祥源」

そして、この数式の過程を辿る中で次ぎの関係式が続けて起こります。

5・・・「氏間の血縁融合」(血縁の前提と縁的絆関係)=「4つの青木氏」

この幅広い関係式が成立し「氏家制度の成長」が氏の代表の青木氏の中で醸成されて行ったのです。

6・・・「氏間の血縁融合」(血縁の前提と縁的絆関係)=「氏家制度の成長」
7・・・ ∴「4つの青木氏」=「氏家制度の成長」

以上の7つの連立する関係式が起こり、その「氏家制度」には社会組織の必須条件の「物心両面の基盤」が醸成されて行ったのです。

上記7つの数式が中国と異なる処であり、これが「国民性の優秀さ」となって現われ、「物造り」は基を正せば中国でありながらもこの「国民性」が「物造りの基盤」の差異と成って現れたのです。

この頃から後漢からもたらされた「物造り」の経済活動と共に、後漢渡来人と彼等に育てられたと日本の民等の「技能集団」等が力を持ち、「氏」と「姓氏」を構成し、「2段階の氏家制度」を拡大させ、その「氏」と「姓氏」の家紋を象徴紋として拡げて行く経緯を辿るのです。

「氏名の持つ意味」
この様に「物造り」は「青木氏」と「家紋」に無関係ではないのです。
それは初代「青木氏」は647年頃に日本で初めて「皇族賜姓族」として発祥した「氏としての発祥源」ですが、この時に「象徴紋」として「笹竜胆紋」を氏の正式なものとして定められたものです。
それまでは「大和政権」時代の紀族、巨勢族、葛城族、平群族、物部族、蘇我族等20程度の族は「単位氏」では無く、「ヤマト政権」の初代「応仁大王」等の出自に観られる様に夫々は大半は南北の「韓民族」(3韓の中の集団名)の渡来人の「民族集団名」であり、むしろ、上記した「民族」の「小単位の氏名」であったのです。
応仁期(応神期)以前は「正式な民族」の「固有の氏名」はそもそも無かった事は歴史的に認められている事なのです。(以後 これを「民族氏」と記する)
しかし、この事から純然とした「正式な氏名」として分類すれば伊勢の「青木氏」から始まったとしても過言ではないのです。(以後 これを「融合氏」と記する)

その後の奈良期末期から平安期に掛けてこれに見習って主に地名や役職名等から採った氏名が自然発生的に「豪族の氏名」として広がりを示し、それらが朝廷の認可(八色の姓制度)の下に20から40程度に成ったものなのです。
この頃は「氏名」と言う確固たる習慣ではなく、「ヤマト政権」時頃の「族呼称」の20程度を除いてその「族の存在する位置関係」を固有名詞的に用いていたのです。「民族氏」
例えば、青木氏で云えば「越道君伊羅都女ー施基皇子」と成るのです。
「越」「道」「君」「伊」「羅」「都女」(「郎女」:「伊羅都女」は終局「妥女」の意味を持つ)

この「6つの要素」で、国、出自、身分、家柄、官職、立場、母筋などを明確にし「施基皇子」の位置関係を表していたのです。
奈良期の大化期からはこの「6つの要素」を「氏」として表したのです。後にこれに「象徴紋」を付け加えて「青木氏」の「氏名」で表現する様に成ったのです。
つまり、平安期以前の「氏名」にはこの「6つの要素」を持っていたのです。
平安期までは人は「青木」と聞き取る事に依って上記で述べました様に「青木の神木」の持つ意味から「氏の源」と云う事が判り上記「6つの要素」の意味を読み取ったのです。
そして、「八色の姓制度」と「有品の制」(蔭位の制)が加わりこの「6つの要素」の意味合いと共に「有品」「朝臣」の2つが付け加えられて正式な呼称として「青木三位朝臣・・・」と称する事に成ります。
これに永代の冠位官職を加えると「浄大1位 六衛府軍上佐 青木三位朝臣 民部上佐 左衛門佐信定」
(源氏で云えば青木氏に跡目に入った清和源氏頼光系4家の宗家では「源三位朝臣頼政・」と成る。)
これが「青木氏」の固有名詞として「呼称の氏名」とされていたのです。
人々は"「青木氏」"と名乗れば「八色、有品の祖」と「3つの発祥源」の「氏」である事を悟り理解したのです。
その慣習は現在は全く消えていますが、明治初期頃まで上層階級の人々の常識の中に遺されていたのです。当然に「青木氏」呼称の他に、「賜姓族」としてはその「象徴紋の笹竜胆紋」や「生仏像様」、中には江戸中期までは「伊勢紙屋長兵衛」等でも「氏」を物語るものとして通じていたのです。
特別賜姓族(秀郷流青木氏)としてもこれに順ずる「氏族」との認識が高く、且つ、藤原氏北家筋名門「第2の宗家」として人々の認識の中に深く遺されていたのです。
特に賜姓族と特別賜姓族の「2つの伊勢青木氏」には口伝によれば大正半ば頃(14年)まで遺されていた事が伝えられています。
(平成15年頃まで神仏職関係者にとりわけ菩提寺の住職には認識が遺されていた)
しかし、上記する呼称「青木氏」は1125年頃に「2足の草鞋策」を採用しますが、当時の人々は「3つの発祥源の青木氏」との認識が強かったところに、突然に「2足の草鞋策の青木氏」が現れたのです。
恐らくは、一時、「青木氏」と「殖産・物造り」(2足の草鞋策)との繋がりに戸惑ったものと観られます。
当然に、青木氏の中でも「笹竜胆紋」と「生仏像様」と「祖先神・神明社」の「青木氏」を物語るステイタスが厳然として存在しているのですから切り替えに戸惑ったと考えます。
人々はこの印象・認識がどの様な変化を示したかを記録から考察すると、次ぎの4段階に分かれている模様です。

「印象・認識の経緯」
第1期(平安期末期)
平安末期50年前頃は知る者と知らない者との区別がはっきりしていたと観られます。
和紙に関る者が知る範囲であったと観られます。恐らくはこの時期には「2面作戦」に出たと考えられます。時代は「融合氏政策」を実行している中で、「青木氏」が「2足の草鞋策」を採ったとすれば世間の批判は無条件で「青木氏」に向けられ、強いては朝廷への批判となり国策推進に影響を及ぼす事に成ります。もし、そうなれば終局、愚かな行動を採り朝廷から疎んじられ民から見放された滅亡に向かった源氏一門の様に存続そのものが難しく成っていた筈です。
丁度、「荘園制の行き過ぎ」による粛清がなされていた時期でもあり、平族の繁栄期でもあります。先ずは納まらなかったと考えられます。
同じ平族も伊賀和紙の殖産紙に共に関わり海外に殖産貿易を行っていた時期でもある事から、内々で黙認されていた筈です。依って恐らくはこの事態を避ける為に「2面作戦」で挑む以外には無かった筈です。
その証拠となる事が起こっています。丁度50年後に「以仁王の乱」が起こって主謀者の源頼政が敗退に依って滅亡を避ける為に事前に「平族」との親交のある伊勢青木氏に京綱を跡目として入れて遺します。
この事は5家5流の賜姓青木氏が「清和源氏宗家」を武力では無い形で継ぐだけの力が備わっていた事を意味します。
それは和紙などで繋がっている事で「平族」に潰される事が無く、且つ裏面の「2足の草鞋策による経済力」に裏打ちされていて安定していたからです。
「商家と青木氏」(2足の草鞋の家筋)が表立っていてはっきりしていれば、家柄前提とする氏家制度の中では「清和源氏宗家の跡目」を継ぐ事は出来ませんが、あくまでもこれは賜姓族「青木氏」だけであって出来る事です。取りも直さずこの行動は、つまり「商家」は衆目には未だ「陰」であった事を物語ります。

第2期
しかし、鎌倉中期から室町期初期にはこの「2面作戦」は長くは続けられる事は有りません。
北条氏の執権により青木氏の守護地は本領安堵されたとしてもその職務は地頭等により管理される事に成ります。「2足の草鞋策」が続けられるとしても守護職は失職しますので「殖産・商い」に主力を移す事に成ります。平安期と比べ限られた本領の中での事に成ります。まして、伊賀の平族は滅亡して伊賀一族は武装放棄の状態で取り敢えずは残りますが、「青木氏」と同じよう「殖産・和紙」で生き延びなければならない状況に陥りました。
この時期は「2面作戦」の一面は縮小した状態で「3つの発祥源」のステイタスを保た無くてはならない状況と成っていたのです。しかしこの時期でも「氏家制度」は保たれながらも「武家社会」と云うより「2足の草鞋策」は平安期にまして厳しいものと成った筈です。
その証拠として残されているものとして「青木氏の家訓10訓」の内容で、その家訓はこの時期の影響を色濃く繁栄していると見ているのです。
しかし、この「2面作戦」は「本領の一面」は縮小した分だけ「殖産・商い」は「鎌倉期」−「室町文化」のハシリから「紙文化」が拡大して行き大きく繁栄拡大を果たした事に成ります。
「3つの発祥源」のステイタスと「本領安堵」の中では「2面作戦」は続けねば成りません。
「本領安堵」により当然に為政者領域では認知の範囲と成ります。
拡大する「商家」は衆目には”知る者は知る、知らぬ者は知らぬ”の状態の「半陰」であったと観られます。

第3期
室町期初期から江戸初期前までには「2足の草鞋策」も「室町文化」の発展で「2面作戦」の「武家の一面」が弱く成ったもののそれを補い超える力を持つ様に成ります。それは「殖産・商い」の経済力を補完し、その「青木氏」を防御する為の目的で採った対応策が厳然として「陰の力」(シンジケート)として働き始めたのです。何とその力は10万の軍をも餓死させ敗退させるだけの「陰の力」と成っていたのです。
それは和紙の「殖産・商い」で生きる5家5流の青木氏(背景には特別賜姓族の青木氏が存在)の連携を守ったのです。
それはシンジケートなのです。「大商い」には「陸海の利権と安全」の問題が伴ないますが、他の既存の勢力に頼らず自らがその経済力を背景に創り上げた「絆」に依って成り立つ、真に「2面作戦」による「陰の軍事力」なのです。
例えば何度も例に挙げていますが、この下記の2つの事件は「青木氏」にとってその「生き様」を如実に物語るものであるからです。
南北朝の北条氏と楠木正成の戦いでも3千の軍が10万の軍を餓死に追いやり勝利したのはこの青木氏が持つ伊勢−信濃の「陰の軍事力」が楠木軍の裏に控え「ゲリラ作戦」で勝ったのです。
周囲の食料調達網の遮断作戦、深夜の局地的攻撃による兵の疲労作戦が働いたのです。
織田信長が「伊勢の3乱」で青木氏が採ったこの「陰の軍事力作戦」で織田信雄と軍監滝川一益の2万軍を敗走させるだけの力を持っていたのです。
この時、信雄はこの青木氏の「陰の軍事力」を知らなかったのです。しかし秀吉は知っていたのです。その為に信長に叱責され蟄居させられる事件まで起こります。
何れも戦場と成る周囲の村全域がこの「絆による陰の力」として協力したのです。
この「陰の力」(シンジケート)は「絆で結ばれる互助組織」であり、これは「氏姓」や「血縁性」や武家や身分家柄に無関係の新たな「氏家制度」に変わる「絆互助制度」を広域に構築したのです。
この段階では、この例に観る様に、既に衆目の知るところでありながら、未だ公然としたものではなかったのです。衆目は「3つの発祥源」の「青木氏」と認めながらも「2足の草鞋策」も積極的に認めると云う不思議な印象と認識を持っていた事に成ります。
それは公然とした目に見える「いかつい軍事力」を背景にするのでは無く、武士から一般の民衆(衆目)の「絆」を「陰の力」として身分家柄に拘らない「互助・協力の体制」を構築したからだと考えられます。真にこれが「青木氏の家訓10訓」に観られる真意だと考えられます。
「絆」を「陰の力」として身分家柄に拘らない「互助・協力の体制」の「長の戒め」を解いたものなのです。その「青木氏は」もとより「悠久の絆」で結ばれた「4つの青木氏」なのです。
この様に最早、特定の範囲ではなく一般の範囲での「半透明な陰」であったと観られます。

第4期
江戸初期から明治期までには「半透明な陰」では無くなり、それは衆目全てが衆知する「2足の草鞋策」と成っていたのです。
そして、それは5家5流の土地の「殖産・和紙」を含む「商い」と「総合商社」を兼ねた「大商い」で摂津堺に大店を構える「海外貿易」をこなす豪商に成長していたのです。
むしろ、最早、小さなながらも本領を護りつつある「3つの発祥源」の「青木氏」から「豪商青木氏」の印象の方が勝る処まで繁栄していたのです。
しかし、衆知の史実と成っていたにも関わらず「3つの発祥源」の「青木氏」は「2面作戦」の形は守っていた様で、「菩提寺」と「青蓮寺」等「3つの寺」を維持していた事と「4つの城」を維持していた事がこれが物語ります。この「3つの寺」と「4つの城」は本領だけでは維持困難であり「商い」には無関係の拠点でありますが、この維持は商いからの補完で成り立っていたのです。
この目的は「2面作戦」の「青木氏の結束の拠点」であった模様である事が記録から判断出来ます。
例えば、これも何度も例として記述していますが、大阪の陣の時、徳川家康は名古屋城で本陣秀忠の東山道掃討軍を待ちますが、この時、この青木氏に対して「合力参戦」を促します。
軍事力としては保持しない「青木氏」に対してわざわざ正式に促したのです。これは明らかに第3期、第4期の記述する「2面作戦」の計り知れない「両方の力」を期待したのです。
3日後に合力を伝えますが、この時、伊勢−信濃のシンジケートと250の手勢(兵ではない)で信濃−伊勢−近江までの進軍路(東山道と伊勢路)の安全確保と食料の補給調達を担当したとあります。(青木氏の分家は豊臣軍に参戦した事実もあり、伊勢より以西は豊臣軍の勢力範囲で極めて危険で真田軍等の戦略が働いていた地域であった)
「軍による力攻め」をするのではなく「青木氏の陰の力」で押さえ込んだのです。
(1) 秀郷一門近江の「蒲生氏」本家
(2) 伊勢の蒲生氏郷
(3) 末裔の特別賜姓族でもある秀郷流伊勢青木氏
(4) 賜姓伊勢青木氏の「2つの青木氏」の融合縁戚力
(5) 東山道は藤原秀郷一族一門の勢力ライン(第2の宗家青木氏の指揮下)
(6) この近江−東山道ライン上に働くシンジケート
以上を確保した事に成ります。
この「6つの勢力」の確保は「2つの青木氏」の「2面作戦」の「陰の力」をオープンに相当に評価していた事を示します。
この後、家康は次男の頼宣を遣わし伊勢松阪で代表の伊勢青木氏と会見をしたと記録されています。
この後、「2足の草鞋策の商い」の「青木氏」は、8代将軍吉宗の「享保改革」の勘定方の協力貢献(吉宗の親代わり伊勢加納氏と伊勢青木氏は縁戚関係で育てる 伊勢加納氏も「2足の草鞋策」で伊勢加納屋を営む)、徳川紀州家の財政建て直しに勘定奉行として協力貢献している事(大正14年まで親交)等を挙げると、これは最早、衆目は”知らない者はない”「透明な陰」と成ります。

ここで、だとすると当然に青木氏の由来や経緯の中に、この「2面作戦」の「殖産・物造り」の何がしかの軌跡があったと考えられます。
それが、上記した通り、即ち「青木氏の家訓10訓」全体の真意であり、とりわけ「家訓8」が、何故に家訓と成っているかはこの事で理解出来るのです。
「家訓8」は武家的でもあり商家的でもありその誡めは両面に渡ったものと成っているのはこの軌跡であると観ています。(家訓8の詳細に付いては「青木氏の家訓10訓」を参照)
特に印象的な事として上記した青木氏の「3つの発祥源」の立場を特別に恣意的に強調していない事です。本来ならばその立場を意識して守ろうとして家訓とするのが普通の常識ですが、そうではなく確かに「立場」に重きを置いている事は認めますが、それが「長」と云うあるべき「人間的姿」を追い求めているものに成っています。
「3つの発祥源」そのものを戒めとするのではなく、突き詰めるとその中の共通する真意である「長:人間的成長の姿」を戒めとしていると観ているのです。
平安初期の頃であれば真に「3つの発祥源」の立場に重点が置かれていた可能性があったと考えられます。平安初期から中期頃に家訓があったかは確認出来ませんが、「象徴紋 笹竜胆紋」と「生仏像様」の「青木氏の遺産の存在」とがある事は何がしかの「戒め」的なものがあったとするのが普通であると考えます。青木氏から光仁天皇が出ていることも考え合わせると無い方がおかしいと観られます。
しかし、明治35年に家訓的なものの資料や口伝や物語る遺品も消失し全く確認は出来ません。
恐らくは1125年代頃に「2足の草鞋策」を採った事に依って、それまであった家訓的なもの(古代家訓とする)が合わなくなった事から見直されて、「殖産・物造り」が加わり「3つの発祥源」を基とする「古代家訓」は論理的に意味を生さなくなったと考えられます。
子孫存続に厳しい時代を生き抜いてきた先祖からすると、この時かなり思い悩み、終局、”「長」と云うあるべき「人間的姿」を追い求めた”ものと成ったと考えます。
この時、同じ立場にあった他の4家4流の皇族賜姓青木氏は「和紙の殖産・物造り」でより強く結び付き連携し、「3つの発祥源の古代家訓」らしきものは霧散して、伊勢青木氏に遺されていた「家訓10訓」が「笹竜胆紋、生仏像様」の下に「青木氏の共通認識」に成って行ったのではと考えられます。
伊勢青木氏以外の賜姓族に補足的な個別の家訓的なものがあったのかは確認出来ませんが、「青木氏」の上記1〜4期の経緯から察するところがある限り「伊勢青木氏」に遺された「家訓10訓」が同族全青木氏の家訓に成っていた可能性が高いと観ており、生活基盤の「殖産・物造り」と思考の規準とする「皇祖神・神明社」を共通認識に成っていて、「3つの発祥源」の立場、「笹竜胆紋と生仏像様」のステイタスを持つ家柄からすると大きく異なる家訓的なものは考え難いのです。
一致結束して「悠久の1千年」を共に全く「同じ道と同じ糧」を求めての「4つの青木氏」と生き抜いてきた事からしてもあり得ないと考えているのです。
伊勢−信濃−甲斐では「笹竜胆紋、生仏像様」、「殖産・物造り」に関わる関係資料が多く遺されているのですが、ただ近江と美濃に於いてはそれを物語る資料が「和紙と殖産」以外には佐々木氏の関係資料以外に信頼出来て裏付けられるものが矢張り見付からないのです。
逆説的に考えれば、同族賜姓族である源氏11代は上記した本道を通らず異なる道を歩んで400年で滅んでいるのです。5家5流がばらばらに源氏の様に異なる道を歩んでいたとすると厳しい環境の中では滅亡は必至であったと考えられます。

「美濃青木氏の疑問」と「紀伊守の検証」
ただ、秀郷流青木氏は兎も角として、5家5流が全て上手く行っていたかは保障が困難なのです。
実は「美濃賜姓青木氏」の末裔が少ない事には多少の疑念を持っているのです。
上記した様に同じ道を歩んだ事は事実であるのですが、少ないとする原因が何なのかを研究したのです。この事から、前回での「たいら族」の「織田氏の研究」にも論じましたが、美濃は不安定地域であって、美濃での源平の激しい戦いに巻き込まれた可能性が一応は高いと観ているのです。
”源氏のような体質的な何かがあったのであろうか”と疑問が湧きます。
此処では最後に遺された3つの源氏(近江、美濃、尾張源氏)さえもが滅んでいる事からして一部の「美濃青木氏」も源氏方に味方した事が原因しているのではないかと考えられるのです。
美濃と近江の賜姓青木氏は、何れも清和源氏の宗家根拠地として近江摂津源氏、全11流源氏の集積地域として美濃−尾張源氏であった事から大きな影響を受けていた事があるからです。
源平の初期の戦いで平族に滅ぼされて近江源氏の一族郎党が美濃−尾張に逃げ込んでいますし、他の関西中部域の圧迫された源氏は美濃の富士川決戦に備えて集結・集積していますので、同族として近江美濃青木氏も同行していて壊滅に近い状態で滅亡した可能性が高いのです。
「近江−美濃」と「伊勢−信濃−甲斐」との間には「笹竜胆紋、生仏像様」、「殖産・物造り」、「家訓10訓」
の多少の「生き様に温度差」があり、「同族源氏との親交差」があったと考えられます。
これは「藤原秀郷流青木氏との親交さ」に起因していると考えられるのです。
数式に纏めると平安末期には次ぎの様な関係式にあったと結論付けています。

「伊勢−信濃−甲斐」→「藤原秀郷流青木氏との親交差」>「同族源氏との親交差」
「近江−美濃」→「藤原秀郷流青木氏との親交差」<「同族源氏との親交差」

「伊勢−信濃−甲斐」→「シンジケート」+「2足の草鞋策」+「藤原秀郷流青木氏」=「抑止力」
「近江−美濃」→「2足の草鞋策」+「同族源氏」=「抑止力」

「伊勢−信濃−甲斐」→「神明社」+「伊勢社」+「笹竜胆紋、生仏像様、家訓10訓」
「近江−美濃」→「八幡社」>「神明社」>「笹竜胆紋、生仏像様、家訓10訓」

この「3つの関係数式」から「源氏力」が低下すれば「近江−美濃」は崩れることに成ります。
その意味では「不入不倫の権」で護られていた事から「伊勢と信濃と甲斐」はその「源氏力」の影響力が少なかったのです。有ったとしても「分家頼信系」ではなく「清和源氏本家頼光系」の守護代地であった事、「2足の草鞋策」、「伊勢−信濃シンジケート」等から独立性が高かったのです。
(甲斐とは無冠の源時光系武田氏系2流ではなく、賜姓信濃青木氏と血縁した別当蔵人の源源光系賜姓青木氏2本流の事)
此処美濃には「秀郷流青木氏」が「源平の緩衝氏」として武蔵を背景に以西に対して最前線でその総力を傾けていた地域であります。その緩衝環境の中で「秀郷流青木氏」以外に一方の源氏に肩入れをする事はそれだけに危険性を孕んでいます。
「源平の緩衝地帯」として止む終えない仕儀であった事とは考えられますが、氏性の「源平の緩衝氏」と地理性の「源平の緩衝地帯」との2つの事を考えると、戦略上”生き延びる”と云う最大使命からは「氏性の緩衝氏藤原氏」に組する事は兎も角も、”「伊勢−信濃−甲斐」−「近江−美濃」の関係強化を「2足の草鞋策」のみならず図るべきではなかったのか”と云う疑問が湧きます。
結果的には、”「藤原秀郷流青木氏」との関係強化”と云う事にも成りますが。
近江には秀郷一門の蒲生氏の定住地であり藤原一門が無かった訳では無く、この蒲生氏は伊勢青木氏と血縁性を持つ「伊勢秀郷流青木氏の祖」でもあるのであり、当時は伊勢にも勢力を伸ばしていたのです
(後に大河内、松ケ島、松阪と3ケ所に勢力圏を伸ばす)。
近江は「たいら族」の東勢力圏内であった事もあり、逸早く「たいら族」に抑えられる宿命を背負っていた事は否めませんが、美濃に引きずられて滅亡の憂き目を受けた事はその「生き様」に間違いがあったと考えられます。むしろ「不入不倫の権」の領域の「伊勢青木氏」に逃げ込むべきであったと考えられ、「たいら族」は伊賀本拠地と青木氏との親密な関係もあり手は出せなかった筈です。
(現実に以仁王の乱の時には手を出さなかったし、主謀者頼政の孫の2人を助命嘆願を受けているし攻めなかった 頼政さえも松阪に向けて逃亡しているし、孫京綱を伊勢青木氏の跡目に入れた事は「たいら族」は攻めないと観ていたからだ)
では、”何故逃げ込まなかったのか”疑問と成ります。
それは美濃に集結した事で、未だ、「美濃−尾張−甲斐」などの青木氏と源氏と坂東勢力の秀郷一門も味方して美濃域で「たいら族」と戦い支える事が出来ると観ていた事に成ります。確かに坂東八平氏を背景に支えて勝利しますが、その前に現実には「富士川の大激戦地」となり、集結した近江−美濃−尾張−木曽−新宮等の多くの源氏と近江−美濃の青木氏は潰されてしまうのです。
源氏に大きな犠牲を払い過ぎてその5年後に頼朝は勝利します。
結局、殆どの源氏が滅亡して立ち上がることさえ出来ない程に勢力低下を起こし、その2年後に全源氏族は皇族第7世族の坂東八平氏に抹殺されるのです。
「近江−美濃」の青木氏は何とか、”「伊勢−信濃−甲斐」の青木氏と秀郷一門の伊勢秀郷流青木氏と近江蒲生氏の援護・保護の下にて本流は滅亡しましたが末孫は生き延びる事が出来たのです。

この一帯には「皇族賜姓美濃青木氏」とその流れの「土岐氏系青木氏」の2流が定住している筈ですが、この2つの系統では明確には存在は確認出来ないのです。土岐氏は、未勘氏や第3氏は別として、史実として明らかに完全滅亡していますので、同系列と成った賜姓族の土岐氏系青木氏も先ずは滅亡としたと考えられます。

「皇族賜姓美濃青木氏」の確認
問題は「皇族賜姓美濃青木氏」の確認が取れないのです。筆者は存在していると確信しています。
それは「和紙」の関係調査から「みの和紙」は平安期から明治期まで「有名な和紙」で和紙に関係する人であればよく知っている和紙です。「みの和紙」の商人の青木氏は確認出来ていますのでまず間違いはないと考えられますが「笹竜胆紋」の「皇族賜姓美濃青木氏」の確認が取れません。
家紋などの氏家制度の仕来りから考証には一部に疑問が残る事と、この地域は「下克上、戦国時代、一揆」など混乱の大きかった事から伝統や資料や遺品や記録が青木に関して存在しないと云うのが現状です。土岐氏系の伊川津7党の青木氏等がありますが未勘氏とも観られます。
そこで戦略上で観て岐阜と愛知の国境域に賜姓美濃青木氏の末裔が現存していると観られる事から、本流は別として、伊勢と美濃と尾張の秀郷流青木氏の影響が背後に働いていたので支流末裔が生き延びられたのではないかと考えられるのです。

実はこの域には前記した「皇族賜姓美濃青木氏」と「秀郷流青木氏」の血縁氏の「融合青木氏」現象の強く起こっている地域でもあるからなのです。
家紋から観ると、多くの「秀郷流青木氏」が最もこの地域に集中している事もあり、その結果、つまり判別が付かなくなっている事もあるのです。
「皇族賜姓美濃青木氏」は集中する秀郷流青木氏に吸収されていて「融合青木氏」と成っている地域であると観ているのです。
むしろ平安末期から鎌倉期に生き延びる為に大勢力の秀郷流青木氏の中に戦略的に溶け込んで行った、或いは最も生き延びるには厳しい地域であった事から秀郷流青木氏が保護したと観るのが妥当では無いかと考えていて家紋考証からこの説が納得できるのです。

もう一つ美濃には、西側で隣接するは「員弁や桑名」には伊勢青木氏が集団で多く存在しています。
場合に依っては「源平の混乱期」に末裔が伊勢青木氏を頼って逃げ延びて来た事が充分に有り得ます。それは平安末期からのシンジケートの存在がこの事を裏打ちしている筈です。最も肝心な事にシンジケートが動かない筈は有り得ません。又伊勢−信濃の青木氏が動かすのが普通です。
特に、信濃青木氏や近江青木氏との繋がりが「和紙」と云うキーワードで調べると明治期まで強く確認出来ることから連携はかなりのものであったと考えられます。
江戸中期から明治初期に掛けて起こった伊勢−美濃−尾張の大一揆には、「2足の草鞋」の青木氏と伊勢加納氏が経済的背景としてシンジケートとして関わっていた事は記録から明らかですので、上記の2つの説は何れも同時に動いたと考えられます。
美濃の青木氏は和紙に関わっていた青木氏である事は間違いはないと考えられます。

調査の疑問点は「融合青木氏」の特長ですので生き延びていた事を実証出来るのではと考えます。
美濃−尾張では源氏系列は滅亡していますが、矢張り「殖産・物造り」の青木氏は生き延びていた事に成ります。明治35年まで美濃−近江との「和紙」で付き合いがあった事が確認出来ていますので、この相手が美濃と近江の「賜姓青木氏の末裔」である可能性ありますが、青木氏に関わる「家臣団の未勘氏」か「絆による第3氏」か「徒弟制度の青木氏」か「融合青木氏」かの判別が付かなくなっているのです。
家紋からある程度の判別が就きますが確定は困難な状況です。

問題は室町末期の美濃境に定住していた伊勢青木氏とも観られる「青木紀伊守一矩 従五位左衛門佐」が確認出来ます。秀吉に任じられて越前府中北の庄8万石の領主(徳川除封禄記載 末裔は若狭−越前−越後−陸奥等に逃亡)の存在から観て、この本家筋の問題は兎も角も支流としては確認出来ますので、伊勢青木氏の「融合青木氏」の可能性も高い事が認められます。

(青木紀伊守一矩の検証)
(紀伊守には諸説あり搾取偏纂に多く利用されていますのでここで青木氏として一度整理しておきます)
先ず丹治氏と言う説もありますが、丹治氏系青木氏は徳川方に味方して麻田藩摂津4万石を獲得しているのでこの説は搾取偏纂説であることは間違いありませんし、この丹治氏はこの従五位左衛門佐の冠位官職位は得られません氏、家紋も丹治氏は青木富士山に三鱗主紋(霧紋もある)で異なります。

筆者は鎌倉期以降に美濃境の員弁域に定住していた「青木紀伊守」は、その冠位官職の「従五位左衛門佐」の六衛府軍の永代最高職を持っています事から、これを前提とすると伊勢青木氏系以外には無いと考えますが、美濃青木氏は宗家本家は滅亡していますのでこの冠位官職は本来は継承できません。
伊勢青木氏一族で、豊臣方に分家筋の形で「紀伊守」として合力したとした青木氏の資料には記録があり、これと同時に伊勢青木氏の「青木伊賀守忠元」が合力し越前坂井郡丸岡4.6万石を領し豊臣に味方したと記録もあります。また「青木民部上尉信定」が徳川方に合力したと記録があるところから、伊勢青木氏本家筋は徳川方、伊勢青木分家筋として忠元が豊臣方に合力し、伊勢−美濃青木氏(融合青木氏)が豊臣方に味方した事に成ります。
つまり、信長の時は伊勢青木氏本家筋は「3つの発祥源」の立場から千年もの間常に中立を保っていたが攻められ、秀吉が柴田氏を滅ぼした時には秀吉に「紀伊守」と「伊賀守」は合力しました。この時、立場上、伊勢青木氏本家筋は二つに分けて「青木民部上尉信定」は中立を保ち、天下分け目では徳川方に味方したと事に成ります。

又、別説の清和源氏の義光流系青木氏がありまして、近江甲賀郡照養寺には義光より16代青木下野守祐清は足利幕府に仕え、その末裔青木紀伊守8万石は豊臣に仕えたとする説もあります。、
更に別説では近江甲賀青木氏の女がいて、その女は武田勝頼の嫡男信勝の妾となり、懐妊して近江に甲賀に帰り青木新五郎を産み、この者は豊臣に仕えて四国に任じられたとする説もありこれを紀伊守だとしています。

この3つ説には系譜の繋がりの確証が取れない事と家紋が異なります。
義光流青木氏の場合、武田氏の系譜には多くの疑問矛盾が定常的ありますのでの俄に信じ難いのです。特に義光系青木氏とは何なのか不明です。義光系青木氏には源の源光なのか源の時光なのかはたまた誰なのかはっきりしません。
青木別当蔵人は確かに源の源光ですが、源光ルーツは明確ですので「紀伊守」は疑問ですし、もしそうだとしたら家紋は笹竜胆紋ですが、「丸に揚羽蝶木一文字」と違っています。
これは源氏と青木氏の家紋継承の慣習に一致しません。当然に搾取偏纂で寛政系譜や寛永史でも第3氏とされています。
時光系は無官の青木氏ですので、上記の冠位官職は得られませんので異なりますし、時光系青木氏も武田氏系ルーツが完全に解明されていますので異なりますので搾取偏纂は明らかです。
「紀伊守」の末裔と観られる子孫が越前を中心に各地に分布していますが家紋は全て異なっていて統一していませんが、その中でも越前の末裔が主家と見られます。この家紋が「丸に揚羽蝶木一文字」です。
(越前には「丸に違い鷹の羽」系もあります。)
「紀伊守」は新五郎説とする説は余りにも唐突で家紋、冠位官職、発祥地、出自、生没も全て合いません。この手は搾取偏纂には良く使われる手で全く信用根拠がありません。
「青木紀伊守」が持つ史実を無視しての我田引水のこの様な多くのルーツ説が室町末期から江戸初期にかけて実に多いのです。
恐らく当時の社会がそれを「チェックする機能」や「人心の無関心さ」があったものと観られ、搾取偏纂する側も”ある限定した範囲での家柄搾取が通ればそれでよい”とする安易な感覚もあったと考えられます。
「寛政系譜」等では比較的この点を厳しく査定している様で当時としては珍しい書籍です。
社会のこの様な風潮が充満しこれを厳しく批判していたのではないでしょうか。
その証拠に信頼出来うる史書や書籍には疑わしきは”「後勘に問う、後勘に備える」”と記述追記しているか「添書」を添えています。

(何度も論じている事ですが、例えば、個人の系譜を自分の家柄に都合良く見せる為に搾取偏纂した。それを暫くは一族に隠して公表せず何代か後に遺品整理していたら箱から出てきた。子孫は身内を疑う事も当然に無く、疑うだけの歴史雑学の知識も無く、これを信じ切って後生大事に更に末裔に伝える。これでこの系譜は末裔にとっては実しやかに史実と成る。「姓氏」の処まで系譜が掴めない情報量の無い社会であったのに、まして菩提寺や守護神も持たない「姓氏」のルーツをどの様に管理できたのかも考えずに、江戸期を越えて鎌倉期までこの様に系譜を搾取している状況を観る事が多い。
現在では中には最たるものとしては書籍やマスコミも時代考証と検証をも行わずそれを信じて演出しているものも多く見かける。「姓氏」は最古でも海部氏と室町期後期発祥であるのに。 云いたい事は近江青木氏と美濃青木氏はこの搾取に惑わされてしまった事なのです。これを元に戻すには資料も無くなりつつある中で最早自らの努力で青木氏が行う以外に無くなっているのです。)

そこで、伊勢−美濃青木氏の「融合青木氏説」を採る筆者の説では、”では何故、親族の「紀伊守」がいる伊勢青木氏を信長は「伊勢丸山攻め」をしたのか”が唯一疑問と成ります。
美濃域の伊勢−美濃青木氏(紀伊守)の定住地は美濃の織田氏との国境域である為に織田氏に家臣と成り合力体制を採っていましたが、この攻めると云う事は、信長が「紀伊守」を「伊勢青木氏」とは見ていなかった事を意味します。
然し、実際は直接に伊勢青木氏を攻めてはいないのであり、丸山に前線基地の城を築き伊勢一帯の征圧に乗り出したもので、伊勢青木氏側も伊勢−信濃シンジケートがゲリラ戦でこれに対抗した戦いであったし、「伊賀攻め」も「永嶋攻め」も「北畠氏攻め」も「松阪攻め」も伊勢青木氏は「シンジケート」による「間接的参戦の合力」であったのです。最終、信長没後に秀吉の命にて蒲生氏郷による「松阪攻め」の「直接戦」も伊勢の秀郷流青木氏は氏郷末裔であり、且つ、伊勢秀郷流青木氏は伊勢青木氏とは親族関係にあることから「一時無戦撤退」の形を採り1年後に戻され5万石程度の本領安堵されています。
信長−秀吉の「伊勢攻め」に関しては実態は「直接抗戦」は無かったのです。
そもそも信長に取ってみれば伊賀は信長のルーツの「たいら族」の根拠地でありながら攻めたのですからそのような関係には無頓着な戦略を採っています。織田氏親族をも意に背けば滅ぼすのが彼の常道でまして家臣の親族ともなれば論外と成ります。
(「伊賀攻め」の際には実戦は落城寸前に名張の側面からシンジケートの軍が側面を突いたのみ)
依って、この疑問は解けます

「紀伊守検証」(纏わる諸条件)
次ぎはそもそも「紀伊守」の家紋とする「丸に揚羽蝶木一文字」は主紋の揚羽蝶は伊賀を根拠地にする「たいら族」の綜紋ですが、「丸付き紋」は家紋継承の慣習では「たいら族」は採用していません。類似副紋方式を採用していますので疑問です。そうなると、美濃−伊勢域の「たいら族」の血筋を一部に受けて家紋掟にて変紋を余儀なくされた事を意味しますが、この時、「たいら族一門」ではない為に「丸付き紋」とした事が考えられます。
「笹竜胆紋」は、美濃青木氏が滅亡して傍系支流分流の血縁末孫(木一文字紋)の伊勢青木氏との血縁氏であった事から継承できずに、「たいら族」の血筋の揚羽蝶の家紋に丸を付けて類似副紋を木一文字として採用したとすれば「伊勢−美濃の融合青木氏」の家紋とする事が出来ます。
「紀伊守」は織田氏(信長)にも仕えた事から織田氏の綜紋「たいら族」揚羽蝶紋とも何らかの血縁による因縁があったとも推測されます。
柴田氏の領地(49万石)の府中8万石、北の庄の20万石を秀吉から与えられる身分であった事等のこの因縁は否定出来ません。同様に伊勢青木氏の青木伊賀守忠元も越前の坂井郡丸岡4.6万石を秀吉から与えられている事を考え合わせると、「青木紀伊守一矩」は伊勢−美濃の青木氏以外にはこれだけの領地を2度に渡り与えられる事はあり得ません。織田家家臣一統の中でも相当な立場と軍功が無くては有り得ない事です。依って揚羽蝶の家紋は織田家との因縁は完全否定は出来ません。少なくとも何らかの関わりがあった事を意味します。
それには「住域は伊勢伊賀のたいら族隣」、「美濃のたいら族の織田氏」、「員弁桑名の伊勢−美濃国境域の住人」、「美濃南域の木一文字の土豪の家紋分布域」、「丸付き蝶紋は織田揚羽蝶の使用」、「祖先神神明社」の伊勢−美濃に纏わる条件が附合します。
(判別条件)
揚羽蝶紋の見分け方はその「足の数」、「輪郭」、「姿勢」、「羽根模様」の4つで判別しますが、この丸付き紋にはこの「4つの判別条件」をいろいろ組み合わせた文様が多くあります。
そこでこの「丸に揚羽蝶紋」は「織田蝶」ではなく「伊賀たいら族」の文様そのものでして「判別条件」の4つが全一致採用しているのです。
正真正銘の「伊賀たいら族宗家筋の揚羽蝶紋」なのです。
このところから「丸付き紋」はそもそも直系孫ではありませんが、何らかの関係性を持つ青木氏である事が云えます。
(丸付き紋)
丸付き紋使用は「家紋掟」により「6つのパターン」があります。
例えば、「笹竜胆紋」も「丸付き紋」は使用しません。然し、「丸に笹竜胆紋」が存在する理由として次ぎの事があります。
青木氏宗家のその末裔が直系孫ではないとして次ぎの4つがありえます。
A 嗣子であるが罪などを犯して除籍された者の場合
B 妾子や配流孫である場合
C 血縁子であるが一族として認めがたい事情がある場合
D 5つは未勘子や第3氏や明治期の不特定氏の使用の場合です。
以上の場合に宗家本家が「丸付き紋の使用」を強制する事に成ります。

この場合のその青木氏の見分け方は竜胆の花の下の軸の部分を正紋と区別する事に成ります。
同様に、丸付き紋の揚羽蝶紋もこの掟に従いますので、「4つの判別条件」が揃っていますし、それが「たいら族」の一門の者では無く「伊勢青木氏」ですから、Cの場合に成ります。

「伊勢青木氏の分家」が経緯として「伊賀のたいら族の分家」から養子を迎えたが嫡子が出来ずに女系と成り、結局家紋掟により変紋を余儀なくされた。しかし、「青木氏」と「たいら族」は平安末期に敵対関係にあり、一族の手前上、養子先の「たいら族宗家」は「揚羽蝶の家紋」の使用は認める事が出来ないと判断し、妥協案として「丸付き紋使用」を許した事に成ります。(当然許さない時もあり得る。)
この場合は普通は「4つの判別条件」のどれか或いは全てを変える事に成ります。
然し、この「紀伊守」の「丸付き紋」は4つ共に全く変えていないのです。
これは相当な信頼関係が成り立っていた事を意味します。
「紀伊守」は”「従五位左衛門佐」の六衛府軍の永代最高職”の平安期初期からの青木氏だけそのものの冠位間職位を保持している事からもこの「血縁関係」の仕儀は納得出来得ます。
伊勢青木氏の宗家筋の者であればAからCに関わらず「笹竜胆紋」を継承し続ける掟ですが、変紋は名張や伊賀や員弁や桑名や脇出や四日市の分家筋一門と云う事に成ります。
これに上記の「伊勢−美濃に纏わる条件」を加味すると、伊勢−美濃の「融合青木氏」である事に成ります。
(「冠位官職位」を継承)
そうすると、伊勢青木氏の宗家嫡子が「冠位官職位」を継承する事に成りますから、もう一つ”「従五位左衛門佐」を名乗っている事はもう一つ先祖伝来の「冠位官職位」を継承しているものが伊勢青木氏系の中にある事を意味します。つまり、これが伊勢青木氏系の美濃青木氏(「融合青木氏」)が継承していた事を意味します。と云う事はこの事から、美濃青木氏が「源平の戦い」の「富士川の激戦」前で「美濃青木氏」の一族が滅亡したのですが、この中から「伝統の永代冠位官職位」を継承し得る「嗣子の者」が隣の伊勢青木氏に逃げ込んだ事を物語ります。伊勢青木氏だけが「源平の戦い」の追手から逃れられます。
(信濃青木氏に逃げ込むのも一策と考えられますが、知行国越前より「美濃のたいら族」を助けに主力が南下して来ていますので帰る方向の信濃方向には危険であったのです。)
当然に信長の8−20万石を領する家臣に成り得る勢力を持ち得ていたのですから、この時この嗣子を護って美濃青木氏のかなりの数の重臣も同行していた事に成ります。向後、伊勢青木氏と同族血縁をして伊勢青木氏の中に組み入れられ鎌倉期から室町期中期まで生き延びていた事が判ります。
そして、前記で論じた織田氏の勢力経緯で美濃尾張の守護代と成った時に美濃境界に住していたこれ等の家臣団は嗣子を押し立てて織田氏に合力して独立した事に成ります。
恐らく、伊勢青木氏に逃げ込んだ時から織田氏に合力した時の家臣や兵力までも伊勢−信濃シンジケートに擁護されての事であった事が考えられます。
この「融合青木氏」は鎌倉期から室町末期まで350年間は「伊勢青木氏」の扱い受けてその保護下いた事に成ります。伊勢青木氏は前記で論じた様に当然に伊勢秀郷流青木氏と美濃秀郷流青木氏の抑止力を受けて護られていた事からこそ、故に「伊勢青木氏」や「近江佐々木氏」や「伊勢秀郷流青木氏」の資料に何らかの形で遺されているのです。(「伊勢青木氏」に組み込まれていた事を物語る)
そうなるとこの記録からは、「伊賀たいら族」と関係性を強く持っていたのは唯一伊勢青木氏でありますので、他に関係性を持ち得るのは後は「美濃青木氏」ですが、「源平の美濃戦い」で滅亡しているし、「美濃青木氏」の「生き延び方」としての「たいら族との独自の血縁」は、一食触発の緩衝地帯でもあったし、厳しい敵側であったのでこの血縁は難しいことに成ります。依って家紋検証と記録との矛盾が起こりこの件は消えます。
故に、これが筆者が伊勢青木氏系に入れている根拠の一つなのです。
つまり「員弁−桑名域の伊勢青木氏系」と成りますが、「系」としたのは「伊勢青木氏」は、この家紋は直系孫では慣習上あり得ませんので、南の四日市の秀郷流青木氏との「融合青木氏」と同じく、「家紋掟」により家紋は近隣豪族の家紋と成っています。依って慣習に一致しない事から「美濃青木氏」との「融合青木氏」である事に成ります。家紋から観た場合美濃に纏わる条件に完全に一致するのです。

(「皇祖神の神明社」)
そこで他氏と判別でき得る絶対条件として、「青木氏の守護神」の「祖先神の神明社」の存在です。
美濃青木氏は後述しますが「美濃の源平の戦い」で神明社を消失しています。
依って鎌倉期から室町期末期までの間は美濃の神明社は建立する事はその勢力、能力、立場からもありえません。伊勢の四日市の神明社の2社と本宮伊勢神宮3社が守護神になっていた筈です。
そうすると、その後、信長に合力したのは尾張守護代の頃1545年代から北の庄の時代30年間程度、北の庄から関が原までの間20年間程度の何れかに成ります。
後述するデータから全期30年間の定住地にはこの年代に立てられたと観られる神明社は発見できないのです。次ぎは後期20年間の北の庄でこの時代までに建立された北の庄には分霊神明社は2社確認されます。
(現在の福井市域に祠を含む神明社関係大小23社あり、建立地域は5ブロックに分けられている。 この時代までの福井市近効で主な分霊社は8社と観られ、該当するのはこの2社のみ。 データは後述)
建立する能力としては後期20年間にしかないと考えられますが、5年程度を建立に要します。
この2社の内一つは924年代の平安期に建立されています。(福井市宝永)
もう一つは明確ではないが建物形式より1585−1595年代と見られます。(福井市・)
関が原は1600年ですからせいぜい豊臣方の趨勢は見えていた筈ですから、1590年以降には立てられない事が判ります。北の庄に赴任して直ぐに建てたと成ります。1585年はぎりぎりの年代と成ります。
2者択一で難しいのですが、そうすると”何故同じ所にもう一つ神明社を建てたのか”と言う疑問が重要に成ります。
924年代の越前のこの分霊神明社は、陸奥に865年に陸奥征圧を記念して阪上田村麻呂が桓武天皇に命により、桓武天皇と阪上田村麻呂の同没の直前に建てたものに継ぐ最も古い神明社で、これ以後その全国統一した証しとして主要各国に建立したものです。この50年後に建立した分霊神明社は、伊勢神宮の正式な分霊による朝廷の命による下克上の洗礼や戦国時代の焼き討ちにも逃れられた有名な「越前神明社」です。歴史上に遺された「祖先神の神明社」です。
依って、この分霊神明社を紀伊守の美濃青木氏が「氏の守護神」として復活して使う事には問題が出ます。
そうすると、守護神として同地域内にもう一つ建立する事以外に無く成りますので、1585年代の神明社が紀伊守の美濃青木氏の分霊神明社と考えられるのです。現在では「不祥扱い」にされている為に最終の確認が採れませんが間違いはないのでは無いかと見られます。
(しかし、神社はなかなか建立者や建立年代等を明確にしないのが慣習なのです。又古社はそれまでの歴史的混乱にて殆ど不祥に成っている事由もあるのです。)
そうすると、紀伊守説を搾取引用している多くの他説の氏は「姓氏」ばかりですから、現実に「祖先神」ではありませんので搾取で完全排除出来ます。
(青木伊賀守も坂上郡丸山に同時期に分霊神明社を建立している)
ところが、氏として観られる佐々木氏系の「滋賀丹波青木氏説」に付いては、この様な検証は行われず、且つ重要な青木氏のみが持っている情報がありませんので、家柄搾取偏纂の行為の説に成ります。
特に、「祖先神の神明社」の条件を検証する事で以下の全ての説には青木氏にとっては「紀伊守の件」では検討するに値しません。

(搾取偏纂の真意)
神明社の事でも明らかですが、これには次ぎの別の意味を持っているのです。
秀吉立会い面前にて200の兵を以って近江青木氏と滋賀青木氏が「滋賀青木氏の名籍」をめぐって「争いの決着」をつけました。勝利した側の青木氏が滋賀青木氏の名籍を獲得継承する事が出来る事としたのですが、結局、滋賀青木氏を名乗る側が勝利します。これは元上山氏の青木氏と近江青木氏との戦いで近江青木氏は滋賀の断絶名籍を奪われる事となったのですが、この戦いが秀吉との関係からこの青木氏が「紀伊守」と間違われているのです。否、ある目的を以って恣意的に間違っているのです。
又、豊臣側系譜作成上で「従兄弟説」に付いても恣意的に上手く利用されて搾取偏纂されたのです。何れも弱味につけ込まれたのです。
これは豊臣家をより良く思わせる為の工作劇であったと観ていて、鎌倉期にあった過去の事件に模して戦わせて、”「青木氏の名籍」が豊臣家のルーツの中にあるのだ”と印象付ける演出であったのであって、その為には「戦い」をわざわざゲームの様に仕立て自らが立ち会うと云う演出までしてのけたのです。
何処にでも常に起っている「名籍争い事件」であれば秀吉自らが立ち会う必要など全く無い筈です。
其処が「朝臣族青木氏」と云う所に意味があったのであって、それを縁者と見せていた家臣の元上山氏にさせたのです。この時点では上山氏は衆目の知る範囲ではなったのであって、”縁者”と衆目に思わせてる為に足軽であった者を秀吉に取り立てられてわざわざ現地の丹波に住まわせて準備万端にして「青木美作守家頼」と名乗らせていたのです。
(上山郷の農民であった事は「丹波志」の資料から判明 丹波青木氏は元は上記した佐々木氏系近江青木氏)
これに更に柴田氏の所領跡にわざわざ「青木紀伊守」と「青木伊賀守」の青木氏ばかりを宛がい与えて、更には上記の滋賀丹波には上山氏の青木氏を与え宛がえて演出して強く青木氏を衆目に印象付けたのです。主だったところに皇族賜姓族と衆目から見られている青木氏を配置したのです。その上で皇族に繋がる系譜上の演出の為に、又、秀吉は、天皇の子供を湯殿女であった母が懐妊して里に戻り産んだ遺子であるとする系譜さえ作る程の搾取偏纂に徹していたのです。周囲の親族も近江青木氏や近江佐々木氏等の断絶名籍を狙って系譜の中に入れる事は当たり前の仕儀であったのです。
ここに紀伊守が持ち込まれて美濃青木氏の鎌倉期滅亡後の後の出自がややこしくなってしまったのです。

(注 滋賀青木氏の名籍は近江青木氏が滋賀に移動定住した時の断絶名籍であった。滋賀青木氏を元上山氏を名乗る者がこの名籍を奪った事件 よく似た事件が鎌倉期にもあり、近江青木氏と美濃青木氏に限りこの「断絶名籍」を狙った事件は室町期から江戸初期までに数度起こっている。
実は、平安末期からこの類似事件が起こっていて、元上山氏が美作守家頼の時に丹波にて青木氏を名乗った搾取事件があり、その後には関西のこの元上山氏の青木氏と関東の元上山氏のこの青木氏が名籍争いも起している。他に元上山氏の青木氏だけによる本家名籍争いも他に2件も起こっている。)

この青木氏は佐々木氏より出自した佐々木氏系青木氏で、佐々木氏が北陸、越後、近江、山城、大和、淡路、阿波、土佐、伊予、石見等11の守護地を建仁3年から承久3年の19年に掛けて守護職歴任、この時に各地に同行したこの佐々木氏系青木氏の一族の末裔一部が残留したものでこの中には名籍断絶もあります。丹波氷上郡友政城はこの末裔青木久政の居城ですが、この様な名籍が四国地方に多く残されているのです。この佐々木氏系青木氏の一族からは更に枝葉として「多々良姓青木氏」が出自しています。
この佐々木氏系青木一族が各地で実に「名籍争い」を起こされていて、記録から室町期末期から江戸初期に架けて他に5件も確認出来ます。秀吉面前での近江青木氏の名籍争いはこの中の一つであります。
紀伊守の「秀吉の従兄弟説」があるのはこの事件より拡大解釈した搾取偏纂説で賜姓青木氏か特別賜姓青木氏以外には名乗れない「従五位左衛門佐」と、この氏の家紋は「丸に揚羽蝶に木一文字」である事から従兄弟説等は、”みえみえの明らかな搾取偏纂説”であるのです。”みえみえ”を承知の上で搾取偏纂しているのです。
(川島の皇子を祖とする近江佐々木氏の事で、宇多天皇系の滋賀佐々木氏より青木氏は出自なし これも間違われている)
依って、この家紋などからも明らかに「青木紀伊守」は伊勢−美濃の「融合青木氏」である事に成ります。
青木氏としては乱され搾取された部分を自らこれ等を紐解きなおして解明しておく必要があると考え、敢えて分類では、今まで筆者は「伊勢青木氏」として論じていますが、「青木紀伊守」は青木氏資料からも佐々木氏資料からも「源平の戦い」で滅亡又は衰退した美濃としての青木氏と観る事が出来るのです。
敢えて、ここで論じました。
(加賀前田氏を頼った越前にて本家現存 分家筋は越後、陸奥、土佐、讃岐、阿波、安芸、中には肥前に避難 主に鎌倉期以降の近江佐々木:近江佐々木氏系青木氏の守護職の赴任移動先に叙封後逃亡している)

(近江青木氏の背景力」)
「美濃青木氏」と「近江青木氏」とが組み込んだ搾取偏纂説が多く起るほどなのですが、何れも一族か衰退して「断絶名籍」が起りそれを狙われたのです。しかし、近江は近江で別なのです。
「近江青木氏」の方は、上記した様に「名籍争い」が多く起こり、合わせて「名籍の搾取偏纂」も多く起こっています。
親族の「近江佐々木氏系青木氏」が「近江佐々木氏」の助けで宗家である「近江青木氏」の名籍を護ろうとした事件です。現実には一時は平安期には「近江佐々木氏」と「近江青木氏」が同族争いを起し、滋賀に一族が移動しますが再び戻ったのです。この後、摂津に定住しますが、「近江佐々木氏」が「近江青木氏」を護った事件なのです。この滋賀移動時の「断絶名籍」を巡って元上山氏に食いつかれて搾取の事件が幾つも起こったのです。

「徳川氏の源朝臣」の搾取
この様に「断絶名籍の搾取」はみえみえの搾取偏纂であっても、”時代が過ぎるとそれは正当化する”と云う傾向があります。
因みに徳川氏は、幕府樹立の条件として「源氏」か「青木氏」の朝臣族で無くてはなりませんが、これを獲得する為に南北朝の第6位皇子を作り出し、その皇子が比叡山門跡僧侶となり全国托鉢の旅に出て三河の松平氏の門前に立ち逗留して娘との間に子供が生まれた。それが16代目の源氏遺子だとしていてその3代後子孫が家康だとしているのです。このストリーは明らかに搾取偏纂である事は判ります。
そもそも源氏は11代目花山天皇までであり、その以後の第6位皇子は皇子数が少なく無く天皇に成る者等も少なく苦労している時で、まして「南北朝」でもめている時です。且つ、松平氏と「時代性」をあわす為に採った苦肉の策で源氏賜姓の意味は最早この時期は南北朝では無く成っていたのです。
その為には12代から16代までの賜姓源氏を作り出す事が必要に成りますが、この12から16代までは現存しない人物で、幕府樹立際にこの旨を申請して天皇家から搾取である事が明らかであるので却下されます。
これに対して天皇家に対して生活も侭成らないほどに徹底した経済的圧力を掛けて認めさせます。
嵩に掛かって、更に2つ目の条件の「武家の頭領」も認めさせようとしますが、さすが天皇家も頑としてこれを認めませんでした。そこで徳川氏は「武家の長者」で妥協して認められ幕府は樹立します。
時代が過ぎると、この事は人々の意識から遠ざかり恰も「源氏朝臣」が「搾取」から「事実」の様に成ります。これが世の常であり、現在に於いては「時代考証力」の低いマスメディアはこの「搾取の時代遍歴」を信じて「正」として「源氏朝臣」と徳川氏が成っているが現状です。
注 然し、この事に付いては少し違うのです。
徳川氏側はこの搾取偏纂には自らは酔ってはいない事実があるのです。その証拠を伊勢青木氏だけが掴んでいるのです。
実は、家康の次男扱い頼宣が紀州徳川氏と成り、飛地領伊勢松阪で伊勢青木氏と面談した時に頼宣は上座から下座し座布団を外し儀礼の挨拶を伊勢青木氏に採ったと伝えられていて、この慣習は筆者祖父の代の大正14年まで続いたと聞かされています。
普通なら「源氏朝臣」であると信じていれば、否、信じていなくても、「時の最高権力者」であり、天皇家に認めさせた直後でもり、まして唯一遺されている青木朝臣族の賜姓伊勢青木氏で有っても、むしろ逆に無理にでも「源氏朝臣」を威圧的に認めさせて世に知らしめたい処です。正式な面談ですから少なくとも同位であるので、同座か又は”無礼者”で処理される筈です。家臣も黙ってはいなかった筈です。
しかし最初から家臣も平伏して「上座下座の問題」が解決する長い間を頭を上げなかったと伝えられていて、面談の間までの家臣の扱いは”極めて鄭重過ぎた”と伝えられているのです。
家康が最も信頼した紀州藩初代次男扱い頼宣がそのようにしたのです。それも伝え聞く一癖のあった頼宣がその様にしたのです。これは頼宣個人の思惑では無かった事を意味しています。兎も角も先祖は少なくとも座布団を外し同座を主張して押し問答と成ったとあり、この間、列座する家臣は平伏のままであったと伝えられていて、結局、同座で落ち着いたとあります。
以後、先祖は頼宣以降15代まで、南画、禅問答、俳句、漢詩、和歌、茶道の師を務め、政道の話し相手を祖父の代まで累代で務め、この時の慣習が引き継がれたとあります。
つまり、完全に違って逆だったのです。だから、筆者先祖も驚き「稀有と尊敬の念」を抱きその事を後世に伝えんとしたのだと思うのです。
また特に、8代将軍吉宗の代には伊勢青木氏と伊勢加納氏は「育ての親代わり」(伊勢青木氏と伊勢可能氏は親族関係にある)として関わった事もあり、また吉宗の「享保の改革」の裏方(直接の経済学の相談相手 御側用人扱い 加納氏と同等)として江戸で経済改革を主導したと伝えられ青木氏と紀州家に記録に残っていますし、吉宗の郷里の「紀州藩の財政改革」も平行して伊勢青木氏が依頼されて断行したと記録にあります。これも「2足の草鞋策」の所以であり、徳川氏の家臣でなかった為に家臣面前でも「布衣」をつけての特別待遇であったと伝えられています。謝礼として「十二人扶持」を5万石の大地主で紙問屋を営む襲名伊勢青木長兵衛は代々受けていたと記録と口伝で伝えられています。
この「享保の改革」の時に伊勢青木氏と共に信濃青木氏も協力して江戸にその子孫を送り遺しています。

この様に吉宗も「伊勢−信濃の関係」をも掌握していた事が判ります。(江戸6流の青木氏が定住 有名な青木六左衛門は筆者の先祖)
この事(徳川氏の上記経緯:源朝臣)は「幕府樹立」と云う「国の安定」の為の「権威擁立手段」に過ぎなかった事を意味します。「源朝臣」と成った以上は源氏11代は滅亡しているので、上位は傍系化した近江と美濃を除き伊勢、信濃、甲斐の賜姓青木氏と藤原秀郷流の特別賜姓族青木氏のみがそのルーツを保全維持していた事に成ります。
逆に言えば、上記の事は、徳川氏は、源氏の様に武力的権威に溺れず「家訓10訓」を護り「表の氏」に成るのではなく「3つの発祥源」として「神明社」を護り「悠久の年月」を「地道」で歩んで生残った「特別賜姓族」を含む青木氏の立場を認めていた事を物語ります。
故にこの儀礼を敢えて江戸時代末までに成っても徳川氏は守った事を意味します。特に頼宣と吉宗の代が最もその関係が強化されていた事が判ります。

「時代の慣習癖」
この様に「時代の慣習癖」を見越した上で、各氏は室町末期から江戸中期頃まで恣意的、故意的にこの「時代習性癖」を悪用して家柄呼称や系譜に搾取偏纂が横行したのです。そして、現在では何がほんとで何が嘘なのかも判らない様に成ってしまっているのです。
特に「系譜」に付いては「個人所有の系譜」は殆ど搾取偏纂であり、本来はその「氏の菩提寺」が所蔵保管しているもので過去帳と共に個人が書き記して行くのではなく寺が間接的に書き記して行く方式が本来の形なのです。「姓氏」の不特定の姓の「檀家寺」ではなく「氏」を形成し「氏の菩提寺」か青木氏の様に「氏の祖先神の神明社」を保有する処に保管されている系譜は信用できるのです。
「個人書き」には当然にその書き記した「人物の思惑と歴史知識」に左右されてしまいます。「個人書き」には過去に遡るだけの資料の保全が当時には無い訳ですから「過去に遡った系譜の作成」は論理的に有り得ません。まして上記して来た「姓氏」には江戸初期にやっと系譜の人物故人が出来る程度であり、人数的にも慣習的にも平安期まで遡っての系譜は物理的、論理的に有り得ない訳でありますのに、実しやかに「系譜」を全面に押し出して家柄を誇張する「氏」や「姓氏」が殆どです。
そもそも「氏」は下克上、戦国時代で滅亡して遺されている氏は1%にも満たないのです。全て室町期末期の「姓氏」であります。その事から考えて、「氏の菩提寺」と「氏の神の社」を持ち信頼できる系譜などを保有する氏は青木氏や藤原氏一門など全国20にも及ばない筈です。(8000の姓氏の中で)
「姓氏」に於いても「個人書きの系譜」で信用し得るものには、必ず、”「個人書き」した者の明記”と”後勘に問う”と”歴史上の箇条添書”が存在しています。信用出来ない推測領域には書き及んでいないのが定番です。この様な系譜「3つの条件」に合致しない系譜には必ず「搾取の系譜3つのパターン」があり史実雑学に照合すると間違いなく「矛盾」が生まれます。
事程左様に、信用できない「時代の慣習癖」を経た系譜の多くの通説では、例えば「近江青木氏」と「近江佐々木氏系青木氏」との様に混同していますし、又、同じく「佐々木氏」も「天智天皇(川島皇子)系近江佐々木氏」と「宇多天皇系の滋賀佐々木氏」とも混同している傾向を持つのです。
(近江と攝津にて2家青木氏の末裔家現存 摂津は「近江青木氏」 近江は「近江佐々木氏系青木氏」 滋賀は「上山氏系滋賀青木氏」)
(家訓と神明社)
奈良期から始まった「青木氏」は平安期の藤原氏系の「青木氏」へと繋がりそして明治期の「青木氏」へと広がりを示し変化して行く過程から、この佐々木氏や秀郷一門に支えられて互いに助け合い地道に生き抜いた青木氏の行動指針の「家訓10訓」は大きな効果を発揮しました。
これは「祖先神の神明社」と「家訓10訓」が連動していたからに他ならないのです。
(源氏とはここが異なっていたのです。 同じ賜姓族の「近江佐々木氏」も「近江青木氏」を支えていた事から観て、青木氏側からは近江佐々木氏に付いてその研究は大きくは進んでいませんが、青木氏と同じ様な生き方をしたと観られます。  近江佐々木氏資料から平安期の全青木氏の事が多く出てくる事は鎌倉−室町期には藤原一門と同じ位に同族の関係性を強く維持していたのではないかと推測していて、今後の研究課題と成っています。  
その証拠が多くあるのです。例えば神明社の神職に佐々木氏、春日社にも佐々木氏、八幡社に佐々木氏、青木氏菩提寺に住職として佐々木氏、青木氏の村主に佐々木氏等が資料から観られるのです。 於佐々木氏資料より考証)

青木氏とほぼ同じ時代経緯や祖先神や宗教や由来や末裔の地域性や藤原一門の特別賜姓族との関係などほぼ一致している佐々木氏の資料などからも考証すると、上記した様に「氏の融合期」の初期頃(平安末期:「民族融合」の終了期後 1125年頃)にこの家訓は定められたと考えて居るのです。
幅広い関係性の中で定められたと考えられます。
恐らく、奈良期に「中国後漢の民」からもたらされた第1次産業がこの頃に飛躍的に進化して日本全土に拡大し、そして質的にも醸成され始めた「初期的な物造り」の「社会の気風」が起こり、それが更に強くなり民にその意識が高まったと観ています。この頃からむしろ「平安文化」「鎌倉文化」「室町文化」の「3つの文化」(紙文化)の発展に支えられて「生活の糧」の目的から「文化」の目的に質的量的にも拡大進化して変化を遂げます。
この「文化の基盤」が出来た「殖産・物造り」は基盤と成った「文化」の「心の余裕」がより「神明社信仰」へと結びつき、「神明社」は「青木氏の祖先神」から「庶民の神明社」へと変質して行きます。
結果として「民は生活の糧」のよりよい発展を期待して「民の物造り」の「神」の対象として崇める様に成って行くのです。
この時、「神明社」の変化は「氏から民まで巻き込んだ信仰体」と成って行った事から「3つの発祥源」の青木氏はその正しい行動とより高い規範の維持を要求されて来たのです。
その結果、平安期末期の「源平の戦い」で衰退し「青木氏」として生残るには家訓10訓の中でも特により高い「家訓8の考え方」が物心両面で大きく左右して行ったのではないかと見て居るのです。
その結果、「神明社」の維持と相俟って、「殖産・物造り」を最初に「5つの和紙」を扱う青木氏の「2足の草鞋策」は(青木氏口伝からも含めて)伊勢の青木長兵衛(民部上尉)が主導して互助組織の氏家制度を通して、この時に各地の秀郷流青木氏を巻き込んで一族一門を通して一斉に「商い」を起したのではないかと観ています。(1125年頃)
「物造り」とそれに関係する「民の信仰対象」と言う要素が付加されて青木氏の「2足の草鞋策」は前記したように「色々なしがらみ」が1125年頃に一度に増え続けて絡み、結局は「時代の渦と流れ」が青木氏を「2足の草鞋策」へと押しやったと考えます。
ここを的確に「渦と流れ」を捕らえたからこそ生き残れたのです。
しかし、ほぼ同じ環境にあった同族の嵯峨期からの11家の賜姓源氏はこの「渦と流れ」を短絡的に履き違えて捕らえ「滅亡の道」へと押し進んだのです。(荘園制)
そして、その異なる要件の一つとして、彼等の源氏の守護神の「八幡社」に「物造り」=「八幡社」の構図が出来ず「民との絆」が生まれなかった事なのです。
前記した「絆」に基ずく「4つの青木氏」の関係に類する様な「11つの源氏」には生まれなかったのです。
青木氏と対比対象となる同族の「源氏の生き様」は”「皇族」と云う身分家柄に始終し民との間には溝を構えた為に「絆」は出来なかった”のです。
(渦と流れの入り口で最早如何ともし難くなり頼信系に引きずられて止む無く清和源氏頼光系4家は伊勢−信濃−甲斐の賜姓青木氏に跡目を遺したのです。)
つまり、源氏には「重厚な生きる力」=「絆」は生まれなかった事に成ります。
(近江佐々木氏との関係)
特筆するは研究が進んでいない「近江佐々木氏」が「源平の戦い」に巻き込まれて「近江青木氏」と共にこの時から衰退し、一時は江戸期には滅亡を危惧されるまで衰退を起しますが、然し、末裔は生き残り拡大して現在に至っています。(近江佐々木氏末裔の剣豪佐々木小次郎の頃 )
「近江佐々木氏」は「2即の草鞋策」−「祖先神」を連動させたのか等は不祥で、青木氏から観た事では判る事は「神職住職」が大変多い傾向を持っていて、全国各地にくまなくその子孫を遺している特長を持っている事なのです。
「神職住職」が青木氏と藤原氏の寺社神社にも多い事が気に成るのです。「祖先神の神明社」を論じる場合内心は欠かせない事ではないかと危惧している処です。未だ其処まで研究が行っていせんが今後の課題とします。
つまり、何故かと云いますと、皇族と藤原氏の両方の血縁族を得ている事から「祖先神」と「鎮守神」を守護神とし、「神明社」と「春日社」を護ってきた事が生き残りの根幹と成っていたのではと観ているからです。更に源氏滅亡後に同族であった事から「八幡社」も「近江佐々木氏」が祭祀続けたのではないかと考えられます。(特に近江攝津に拠点を置く頼光系清和源氏系の八幡社に対して)
結局、江戸期に入って「神明社」と「春日社」と「八幡社」の信仰が盛んになった事で、各地に存在するこの3つの全国の社を合わせると3−5万社と成り、この内の2割程度から3割程度が佐々木氏で有ったとすると、全国各地に末裔が広がる事の大きな要因に成ります。
(明治期の神明社で観ると大概に3割程度弱 特に関東以北に多く観られる)
まして、当時の神職の慣習は「氏の守護神」(「氏の菩提寺」)であった事から、上記した様に「4つの青木氏」の職能集団を抱え、その神職は室町期までは青木氏、佐々木氏、藤原氏が多く、他氏の誰でもが成れると言う慣習ではなかったのです。(住職も同じ。)

(注 江戸期から明治期にかけては神社仏閣の宗教改革は幾度と行われたためにこのシステムは消えた。浄土督奨令 神仏分離令 大教宣布 寺請制度 廃仏毀釈 寺社領上知令、地租改正等で「特定の氏」の「独善的排他性の組織体制」は国体に好ましくないとして解体されて行った。 これに対して反発の混乱が長く続いた。これ等に関する一揆も含む混乱は江戸初期から始まり明治9年頃にほぼ納まった。この終息期の明治3年の苗字令から明治8年の督促令がこの「仕上げの政治」であった。「特定の氏」と「宗教」は深く関わりあっていたので「特定の氏」の「特権とその勢力」を削ぐ為に「宗教分離」と「土地の剥奪政策」を明治6年までに実行した。これで氏家制度の氏は根本から解体された。)

青木氏と異なり佐々木氏はこの3つの守護神(氏の菩提寺も含む)に関わっていた事が生き残りの要因に成っていたのではないかと考えているのです。青木氏の「2足の草鞋策」の様な役割を果たしていたのではないでしょうか。青木氏は「2足の草鞋策」で回避できたとしても、「近江佐々木氏」は江戸初期から始まった上記の経緯で「江戸期の衰退」が起こったと観られ、研究はこの辺にポイントがあると観ています。
然し、この混乱期で最も資料が遺されていると観られる寺社の改革である為に資料が遺されていない事が考えられ、更には寺社は「霊験新たか」を前提にする為その資料を積極的に公的にしない傾向があり研究は困難が予想されます。
しかし、。研究が進めば、更に発展してこの「3つの賜姓族の氏」が鎌倉期以降「三つ巴のスクラム」を組んでいたのではないかと観ていますが今後の研究課題です。
「近江佐々木氏」が幅広く「青木氏」を研究している事から観れば大きく関係性がある事を意味します。
青木氏の「生き様」がより幅広く蘇させられるのではないかと観ています。

青木氏と守護神(神明社)−13に続く。



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