青木氏氏 研究室
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  [No.284] Re:青木氏と守護神(神明社)−16
     投稿者:福管理人   投稿日:2012/03/02(Fri) 08:10:36

:「北陸東北域」の続き
>八幡社の分布順位(地域分布・重複)
>1 関東域    7県−94−26.5%(全体比)−平均13/県 清和源氏勢力圏域
>2 九州域    8県−70−19.8%(全体比)−平均 9/県 未氏族の圏域
>3 関西域    6県−52−14.7%(全体比)−平均 7/県 氏の出自元の圏域
>4 中部域    8県−52−14.4%(全体比)−平均 7/県 清和源氏・秀郷一門圏域
>5 東北北陸域 8県−38−10.7%(全体比)−平均 5/県 反河内源氏の圏域
>6 中国域    5県−24− 7.9%(全体比)−平均 5/県 源氏空白域・讃岐藤氏圏域
>7 四国域    4県−21− 5.9%(全体比)−平均 5/県 讃岐藤氏圏域・源氏空白域
>(詳細データは本論末尾添付)

「3つの守護神の神明社」
前段で論じてきた論処の通り、この「八幡社38+神明社97」=135と成る数字は疑う事無く「神明社」そのものなのです。しかし、では”何故に「八幡社」としているのか”についての疑問です。
それは「4の中部域」では「神明化八幡社」と発展させてましたが、この「北陸東北域」では「八幡化神明社」と成り得たのです。そしてこの八幡化した「八幡社」はこの地域では最早「弓矢の神」では無く、「4の中部域」の「農兵」の「身の安全を護る神」から、更に発展させて「家内安全の神」の守護神として考えられていたのです。
それは、「神明社」の「生活の神」「物造りの神」は勿論の事、前段で論じた様に「400年に及ぶ苦難」の末にこの地域では弓矢に変えて民は「家内安全の神」を求めたのです。
それは「合祀」ではなく「神明社」そのものに「3つの守護神」を求めたのです。
この「3つの守護神」を持った神明社の一部が鎌倉期に成って「家内安全の神」を強く主張する「神明社」が現れ、その「神明社」が室町期に入っての「下克上と戦乱」を背景に「創建主の勢力」が衰退し「管理維持」が困難に成り、「神社経営」の為に「神明社」と区別して「八幡社」と呼称されるように成ったものなのです。
これは呼称の範囲のものであってその元は「3つの守護神の神明社」であり続けたものなのです。

「3つの守護神」
>神明社の存在意義=「生活の神」「物造りの神」+「身の安全を護る神」→「家内安全の神」→「万能の神」

「八幡社呼称の経緯」
地域の「八幡社」の現在の呼称の経緯としては、鳥居の形や社屋の形状は多くは「神明造り」であり、元は「神明社」としての建立であった傾向が有り、室町期に入ってからの呼称と観られるのです。
その結果、「3つの守護神」の傾向が更に進み「家内安全の神」をそのものを求めたのです。
この地域は「生活の神」「物造りの神」として上記したように古くから神明域であった事から、当然の事として「時代の背景」が影響して武士も民も全ての民が「生活の神」を発展させて「家内安全の神」を「主の守護神」として民は求めたのです。
その為に「神明社」が一部「八幡社」に単純に変名したと云う事なのです。
「八幡社」と云っても此処では「弓矢の八幡社」で無い「神明社的な家内安全の八幡社」であった事から変名の抵抗は最早無かったと観られます。
「生活の神」「物造りの神」に、そして「家内安全の神」に、遂には八幡社の本来の「国家鎮魂」を加えた神を創造したのです。そしてそれは「神明社」のみならず「八幡社」との距離感を殆ど無くし、何れも「民の守護神」として崇める風習が生まれたのです。
その証拠に次ぎのような事がこの地域に限って起こったのです。
そして、そもそもこの地域の「神明」とする呼称は、「3つの守護神」の意味を持ち、それを単純に”「神様」を「神明」”と古くから呼称されていて、”神明”と云えば”神様”の総称の事であったのです。
それには「雄略天皇の八幡社」の意味合いも含んでいて、一応は「八幡社」の呼称はあるとしても根本的に「応神天皇」の「神明」であったのです。
>「民の”神様”」=「民の守護神」=「”神明”の呼称」
つまり、全ての守護神の総称を”「神明」”と呼称したのです。
「神明社」「八幡社」に分ける事に大した意味は無く全て大まかに”「神明」”であって、その”「神明」”は「神明社」なのです。
神社の経営的な意味のみであるのであって「民の心の区分け」を意味するものでは無かったのです。

北陸東北域の「神明社-八幡社の関係式」
>「神明社」≒「八幡社」→「神明社」+「八幡社」→「神様」=「神明」=「民の守護神」
>「生活の神」+「物造りの神」+「家内安全の神」+「国家鎮魂」+「身の安全神」=「八幡社+神明社」

実は「神明社」には「2つの通説」があるのですが、この中の一つの「神明=神の説」は此処から来ているのです。強ち、関東以北ではこの「神明=神の説」は間違いないのです。

ところが関西以西では八幡社、神明社、鎮守社、春日社、住吉社、出雲社等の前段で論じた自然神に繋がる「5つの守護神」を祭祀する社はその存在意義は又明らかに別なのです。
特に「氏の神」の神に代表される春日社等は区別化は当然の事として、上記した様に以西に行くに従い「八幡社の区別化」は明確に成って行くのです。
それは「荘園と未勘氏族」のあり方に起因しているのです。
「荘園に依って酷い苦しみを受けた地域と未勘氏族」と、「荘園に依って利益を受けた地域と未勘氏族」との「パラメータの差」が「八幡社と神明社の区別化」を促しているのです。
そして、その「荘園と未勘氏族」の有様は、平安期中期、平安後期、鎌倉期、室町期初期、室町期中期、室町期後期の「6つの期」になって現れ、それは「政治的な施策」と「戦乱の影響」に依って変化して行くのです。それが関西を中心に「以西と以北との変化」に差として生まれて来たのです。
この「八幡社と神明社の区別化」の差が次ぎの様な関係を示しているのです。

>”「以西・大>関西>以北・小」の関係”
が生まれて行ったのです。

この事は「4の中部域」で論じた様に、「圏域の勢力数」の関西を基準にした関係表(冒頭の表 上記の重複表)でもこの傾向を顕著に示しています。

実はこの事が次ぎの数にも表れているのです。

「北陸東北域のデータの検証」
「4の中部域の論説」の通りこの「北陸東北域」はそもそもそれ以上の地域であり、それからするとこの下の数は更に少な過ぎるのです。

関西域に対して1.8倍は低すぎるし、神明社3.9も低すぎると考えられます。
つまり、「関西域の八幡社」が概ね15%であるとすると、この地域の八幡社38は多すぎ、全国比1割を占める事は考えられずもっと低い筈です。
当然に神明社は「関東域115」に対してこの地域での「神明社97」は少なすぎ、「関東域の全国比20%」に比べて「北陸東北域の全国比17%」は低すぎると考えられます。
もし、このままの数字であるとするならば前段で論じた様な事件が ”歴史的に何も無かった”と云う事に成ってしまいます。
既に関西から関東に掛けて「八幡社」は勿論の事、「神明社」もその「歴史的な経緯」による変化を起こして来ていて、その様にデーターの変化を起こしています。”何も無かった”はあり得ずそんな事は絶対に無い筈です。
この「北陸東北域」に於いて現実に厳然と「特異な歴史的な経緯」を持っているのに ”何も無かった”と云う事をこのデータは示している事に成ります。「八幡社」だけならいざ知らず「神明社」も歴史的な状況に一致しないデータなのです。

”現世は移ろい去り行く”の例えの通りの如く歴史につれて「人の営み」は変化するものです。
つまりは「八幡社」の数は(+)であり「神明社」の数は(−)である事から、これは明らかに「時間の経過」に伴い「神明社→八幡社の変化」を起こした事を意味します。

そこで、では、どの様なデータならこの地域のデータに成り得るのかを検証します。
次ぎの表を参照して下さい。

>総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率
>1.8倍    3.9     0.7

>八幡社 7県−38−10.7%(全体比)−平均5/県
>神明社 7県−97−17.1%(全体比)−平均14/県 

>関西域八幡社 6県−52−14.7%(全体比)−平均 7/県  源氏の出自元の圏域
>関西域神明社 6県−14− 0.2%(全体比)

>八幡社 秋田3  山形7  宮城7  青森3  岩手4  福島2 北海道9
>神明社 秋田33 山形15 宮城14 青森13 岩手11 福島9 北海道2

上記する経緯から、「以西・大>関西>以北・小」の関係から考えると、”中部域の「5割域の分布」の自説は「46.6%の計算値」”に匹敵する位の「神明社の数」である筈です。
この「八幡社38」を加えて135として観ると24%となり、関西域を基準として観ると5.4倍と成ります。
「関西域25」を基準としたこの地域の神明社の97の倍率3.9ですので、5.4はそれなりの比率と観られます。
しかし、「地理的要素」と上記の「歴史的要素」を考慮した場合、少なくとも秀郷一門の「関東域の数字」位は少なくとも保有していると考えられますので、因って「関東域の倍率4.6」に対し「5.4」は納得出来る倍率と考えられます。
そうすると、比較すると次ぎの様に成ります。

>関東全域 神明社 7県−115−20%(全体比)−平均16/県 本家域
>北陸東北 神明社 7県−135−24%(全体比)−平均19/県

神明社の全体比として考えれば20%/24%は、遜色なく相当として納得出来る数字と成ります。
それに「関東域」と「北陸東北域」の人口比(1/2と試算)から考えれば、48%程度と成り「中部域46%」に匹敵することに成ります。
これを下の表の通り「県分布」で考察すると、この地は”越後域から陸奥域に掛けて神明社の勢力圏が移動し構築されている事”が良く判ります。
他の6県域ではほぼ一定で変化が無い事等は、真に「歴史的な青木氏の経緯」と一致します。
つまり、この地域の「八幡社」は全て「神明社」と観て検証する必要があるのです。
そうすると次ぎの様な「北陸東北域の総合分布」に成ります。.

「北陸東北域の総合分布」
>神明社 秋田36 山形22 宮城21 青森16 岩手15 福島11 北海道2

以上と成ります。

「統治経路と末裔分布経路」
上記の事は秀郷一門のこの域の「統治経路」か「末裔分布の経路」を調べる事で判る筈です。
これはこの域の「八幡社」を「神明社」として観てしまうと、明らかに「青木氏の末裔分布、又は勢力分布」に極めて酷似しています。
前段で論じたこの地域の立役者である「特別賜姓族」の「越後青木氏」は、歴史的な幾つもの戦乱から「賜姓青木氏を保護」し受け入れて護り、且つ陸奥への「戦略的ルートを構築」し、陸奥域の「青木氏の基盤」を護った地域でもあり、越後はその拠点と成った所であります。
そして、その陸奥より南下の岩手に勢力圏を伸張して同門の「進藤氏などの力」を借りて「山形の勢力圏」を築いたのです。つまり、次ぎの表の経路を示しているのです。

>「新潟の拠点」→「青森域」→「岩手域」→「山形域」→「秋田域」→「宮城域」

以上の順で勢力圏を拡大しそれに伴って「神明社の分布」は拡大したのです。

本来であれば、「北陸ライン」を北に採って、統治経路を造るのが戦略上では理想的です。

>「新潟の拠点」→「山形域」→「秋田域」→「青森域」→「岩手域」→「宮城域」

以上と成る筈です。

しかし、この圏域全般は阿多倍一門の「産土神」の「内蔵氏」や「阿倍氏」の「末裔の勢力分布域」であった地域です。この域を抜くのは大戦闘を意味しますので戦略上得策ではありません。

この事から「鎮守府将軍」として秀郷一門が先ず「陸奥域」に赴任して、その地を統治するには「越後」を拠点とするも「出羽の山形域と秋田域」は直ぐには「越後域の一門」と結ぶ事(北陸ライン)は困難であったのです。
そこで先ず「陸奥域」の「東北ライン」の「岩手域」を統治し、そこから左隣国の「山形域」を「越後域」の拠点と結んで統治し、その勢いで上の領域に伸張して「秋田域」を制圧して、最終には「宮城域」の北側を統治する勢力圏と成ったのです。それに伴い「神明社」が分布するのです。
この経路で「神明社」が分布する事は、前段でも論じた神明社の第2の別の目的の「戦略拠点」なのですから、この「分布経路」に沿って「統治経路」の戦略を採った事を意味します。
つまり、これには平安初期からのこの地域は阿多倍一門の「内蔵氏」等の勢力圏でも在った事から、未だこの地には「産土神の地盤」でもあったのです。「敵対地域」だけではなかったのです。
それが200年の間に秀郷一門の統治により阿多倍一門の末裔は、思考の根底には「産土神」の考え方も在っても次第にこれを変化させ、「秀郷一門の青木氏」の影響を受けて「祖先神−神明社」へと変化させて行ったのです。
返して云えば、「産土神」から「祖先神−神明社」に変化させるだけの「秀郷流青木氏の影響力」が実に大きかったかを物語るものです。少なくとも大なり小成りに ”思考の根源を変えさせた”と云う事を意味します。これはある条件が揃わなくては成し得る事ではありません。少なくとも争いの連鎖を生む「武力」ではない筈です。
本来ならば、上記した「統治経路」は進藤氏や一部長谷川氏等の協力を得ているのですから、間違いなく「春日社」と成る筈です。
ところが、それどころか「春日社」勢力圏に成らず、のみならず「産土神」さえ殆ど消え去り「祖先神の神明社」と成って行ったのです。そうなると人の思考を変え得るのは唯一つです。考えられるのは「血縁力」と成ります。

(参考 明治2年 陸奥→磐城、岩代、陸前、陸中の東北圏に分ける 出羽→羽前、雨後の北陸圏に分ける それまでは北陸東北域は陸奥と出羽であった)

「進藤氏の活動経緯」
特にこの地域の「神明社の分布」の発展は、真にこの「進藤氏の活動経緯」と一致しているのです。
前段で論じたこの”進藤氏の歴史に残る秀郷一門の中での活動行動”が無くして「神明社の分布発展」は無かったのです。
これは”神明社を直接に進藤氏が建立した”と云う事ではなく、建立に必要とする「秀郷流青木氏の勢力保持」をこの地域に於いて側面からバックアップしたと云う事なのです。
恐らくは、この地域に於いて上記した「歴史的経緯」があったからこそ「秀郷流青木氏の力」だけではなく陸奥域から関東以北全般に掛けての「進藤氏の圏域」が必要であって成し得たものであります。
「人の心」は武力に頼らない「鎮守府将軍」の方に向いた事を物語ります。
その中心と成って働いたのが「第2の宗家」と成っている「特別賜姓族」で「秀郷流青木氏」であります。
又、一門の中でその「調整役の立場」にあった「進藤氏」は為政の為に自らの氏を犠牲にしても積極的に出て来た結果であると考えられます。
上記の”ある条件”とは、民から慕われる神明社建立の役目を担う「特別賜姓族」と「進藤氏」と「血縁力」の3つにあった考えられます。故にこの様な総合分布の分布データを示しているのです。

一族一門が束に成って掛かって初めて成し得るもので、「特別賜姓族」だけではたとえ「勅命」があったとしても、平安時代の「氏家制度」の柵の中ではなかなか簡単に成し得るものではありません。
そもそも「神明社」とは「生活の神」「物造りの神」「家内安全の神」「身の安全の神」とは云えど、別の面で前段で論じた「戦略的拠点の役目」も担っていた訳ですから、”これだけの広範囲の中に「神明社」を建立する”と云う事は他氏との関係から観て無理やりに建立する事は不可能です。
しかし、ただ一つ可能な方法と云うか戦術戦略と云うか解決する方法があったのです。
それは他氏との大小濃淡に関わらず「血縁関係の輪」を構築する事です。
それが氏家制度の社会の中では最も大事で効果的な手法である筈で、断りきれない柵に填まる筈です。それを演じたのが”進藤氏だった”と云うのです。
勿論、前段で論じた様に小田氏や小山氏や花房氏の様に秀郷流青木氏の努力はあるのですが、「武力的」、「経済的」、「政治的」な手法に因らない進藤氏の「人間関係の構築」によるものなのです。
秀郷一門の中で主要5氏の系譜・添書を調べても、進藤氏ほど上下左右に血縁関係を広げている一門は無いのです。
例え一門の取りまとめ役の「第2の宗家」と呼ばれる青木氏でも進藤氏程ではないのです。
前段で論じた様に自らの氏の跡目を犠牲にする位に分家・分派・支流の末端の処までを使って大小の血縁関係を結んでいるのです。
秀郷流青木氏は116氏に対して進藤氏は48氏で1/3なのですが、「進藤氏の血縁関係」は殆どが相手先に出す「養子縁組」なのです。
(この養子縁組枝葉を入れれば青木氏と遜色ない氏数になると観られます)
これは「進藤氏の影響力」を強めることには効果的でありますが、自らの本家の氏は逆に跡目が無くなり一門から跡目を入れて継承すると云う形であって、本家のこの方針に対して内紛が度々起こる程であったのです。
これは一門の中で「自らの役目」を認識しての事で、「添書」を観ると、実に詳しく記述されているのです。
「系譜書」と云うよりは「添書綴り」と云うものと成っていて、他の一門と比べ物にならない程でその役目の一端の認識具合が確認できます。
恐らく、それだけにこの「添書の形式」は、一門の中で「自らの氏の役目」の必要性を末裔に理解させる為に、又、”その務めを先祖がどの様に苦労して来たのか”を知らしめる為に添書に書き記す事に重点を置いていたと考えられます。
「自らの氏」は「自らの力」で護るのは普通ですが、血縁関係を推し進める為に進藤氏はこのぎりぎりの所にあり、「秀郷流青木氏」に護ってもらっていた事が添書から読み取れます。
その証拠に冠位等のものが他の一門に比べて少ないのです。役目に徹していた事が良く判ります。
その役目の血縁は主にどちらかと云えば「小党との血縁関係」が主流と成っているのです。
血縁を豪族や貴族や公家に結んでいれば更に自らの氏の発展に繋がっていた筈ですが「小党との血縁関係」に徹していたのです。(青木氏の様に「賜姓」と云う特別の立場にない進藤氏にとっては難しかったかも知れないだけに役目に徹したと観られます。)
陸奥域から関東域では「武蔵7党」、「丹治党」等、西は美濃域の「伊川津7党」等までの秀郷一門が定住する地域の「土豪の自衛集団」との関係保持が目立ちます。
(この事は中国域に於いても亀甲氏子集団等に観られる)
これは「中部域」とは異なる”「神明社の建立」に関わる「基盤づくり」”であり、特に北陸東北域の特徴を大きく反映した一門の戦略であったのです。
(「神明社建立」は「統治拡大」に伴う「民の人心の掌握戦術」や「戦略的拠点」と共に同じく「統治戦術の象徴」でもあった)
恐らく、他の地域と異なり「関東以北-北陸東北域」に掛けての「歴史的な経緯」から観て秀郷一門には戦略的にこれ以外には無かったと考えられます。余りにも惨く辛い醜い仕打ちを受けていたからです。
そして、この地域の「民の心」はこの穏やかに応じる特別賜姓族青木氏に向いて行ったのです。
故に血縁も成し得たのであってこの「血縁の輪」がまた「民の心」を神明に向けたのです。
進藤氏の成す「血縁の輪」と特別賜姓族の成す「血縁の輪」が連動して民の「心の輪」に波状しその象徴とする「神明社」の「生活の神」「物造りの神」に向いて行ったのです。
それだからこそ”神明=神様 神様=神明の言葉”が生まれたのです。
>”神明=神様 神様=神明の言葉”
これは「2つの血縁の輪」 がこの呼称のみに終わらず「民の心の有様」全てに波及して云った事を物語っているのです。
筆者は、”秀郷一門に朝廷が特別賜姓族を委ねた”その要因の一つには、一門が持つ各地のこの「血縁の輪」と「戦略的な背景」を見込んでの施政に対する「賜姓」であったと考えているのです。
返して云えば、実質12代も「鎮守府将軍」が続いたのですが、青木氏を始めとする「鎮守府将軍」の役目に対して朝廷は信頼評価していた事を物語ります。
その「最高の手段」が ”「賜姓青木氏の神明社建立」を担わせる事にあった”と観ていて、総合的な力を保持しているし真摯な姿勢で対応すると見込んでいたのです。
故に”全く賜姓青木氏と寸分違わない冠位、官位、官職の諸待遇の全てを同じとした”と観ています。
”全て同じ”と云う事は総簡単な事ではありません。そこには ”それだけに相当に秀郷の行動に対して信頼していた”と云う事に成ります。
桓武天皇が推し進めた神明社20の上に、さらに特別賜姓族が推し進めた神明社97−135が存在するのです。この信頼は「2つの心の輪」と結びついた神明社の数に依って評価されるのです。

秀郷第3子千国の秀郷流青木氏が入間の秀郷宗家以上の扱いを受け「家柄、身分、官位、冠位、官職」が全て上と成っているのです。”宗家以上”とは宗家の立場もあり一門で問題を起こす事もあり得ますが宗家もこれで納得したのです。
これだけ与えて河内源氏の様に振舞われては「朝廷の権威」にかかわる恐れがありますが万来の信頼で与えて行った事に成ります。
「11代の源氏」の「やり過ぎ」と対比して「賜姓青木氏の生き様」が「民の心」を捉え、そしてその特別賜姓族青木氏がそれに勝るとも劣らずの氏であった事が「民の心」を和ませ信頼して行った結果であると観られます。それを自らの身を削って補完して行った進藤氏が居たからこその成し得た功績であったと云えるのです。秀郷一門「青木族」の一つ「進藤氏」ならではの行為であります。
(我々青木族は末裔として同族の進藤氏に対して尊敬せねば成りません)
その意味で、神明社もこの様な非常な努力の上に成り立つものであり、初期の「国家鎮魂の八幡社の建立」を担う「皇族賜姓族」が元々無かったのは、「朝廷の勅命」に頼る以外には建立する方法が無かったのであって、それだけに神社建立は一筋縄ではいかない非常に難しい事であった筈です。
(源氏の様にカーとならずに沈着冷静に人の道を外さずにそれを成し得た事の結果なのです。)
まして、後の「弓矢の神の八幡社」とも成れば、武士階級に限られ歴史的な辛い経緯から観て少なくともこの地域に於いては全く不可能であった筈で、そもそもこの地域には余りにも「民の心」にすっきりと浸透して行った神明社があったのですから、「国家鎮魂の八幡社」さえをもそもそも建立する必要性は無かった事が云えます。
ここが重要で、奈良期から「神明社」がどんどん建立が増えて行きながらも、同じ奈良期からの「八幡社」の方は「再建などの勅命」が無ければ荒廃して行ったのです。
「神明社と八幡社の明暗」はこの北陸東北域に於いて顕著に出たのです。論じている7つの地域には「神明社と八幡社の明暗」はそれぞれ又違う明暗を示しているのです。
「神明社」と「八幡社」の大きな違いはここにあるのです。「2つの賜姓族青木氏」と「11代の源氏」との明暗と極めて類似しているのです。

「神明社」は「2つの青木氏」が「皇祖神−祖先神」のつながりの中で建立する、「八幡社」は豪族への勅命による建立と成っていたからなのです。その違いの大本は「守護神の存在意義」であって、「生活の神」「物造りの神」としての民に直結する意義であり、八幡社は国家的な「国家鎮魂」の意義であって民に直接的な意義ではなかった事にあります。なかなか勅命とは言え豪族にその建設を命じる事は何かの適宜な根拠か理由が無ければ難しい事に成ります。普通ではあれば朝廷自らの財力で建設する以外には無いところです。せいぜい出来たとしても修理が関の山ではないかと考えられますし、現実にはその様であったのです。
河内源氏や未勘氏族がこれに目をつけたと考えられ、その「存在意義」を歪曲して ”国家鎮魂は武士の弓矢により成し得るものだ”とする理屈を付けて、”八幡社を自らの氏の守護神”の様に扱ったとする傾向が見られるのです。
そうかと云って”自らの氏の守護神”と宣言豪語するには「皇族系の祖先神」の立場にある以上難しかったと考えられます。

それは「神明社」がその役目を同じ立場にいた「皇族系の祖先神」の「2つの青木氏」が担っていて、且つ「桓武天皇期の建立」(伊勢青木氏の末裔-光仁天皇の父施基皇子の皇孫)に観られる様に天皇自らが積極的に担っていたからです。

「八幡社の現実」
この事から逆に言えば「河内源氏」の大きく関わった地域のみに「弓矢の八幡社の建立」が可能であった事が云えます。
現に調べて観ると、因みに河内南隣の最も近い紀州では上記した様に「八幡社」は極めて少ないのです。「弓矢の八幡社」は限定された局部地域に於いてであり、室町期後期以降の後付のものである事が傾向として云えるのです。矢張り相当後ろめたい気を使っていた事を物語る事象です。
そもそも隣国である紀州であれば「河内源氏の荘園」が出来ている筈です。すぐ隣で都合が良い筈です。
しかし、出来ていなくて「藤原北家筋」(藤原脩行)の荘園」と「熊野大社の系列」が殆どです。
返して云えば「神明社建立」で成り立つ事であるからです。
前段で論じて来た様に、紀州はそもそも古来より「皇祖神の遍歴地域」でもあり、ここに「河内源氏」が食い入って「荘園や八幡社」を建立する事は朝廷に対しても歴史的にも皇族の立場上も難しかった事が考えられます。これ以上朝廷との軋轢を悪化させられなかった背景が観られます。
地形的にも紀伊半島と云う地理条件と温暖な環境からすると荘園としては最高の立地条件であります。
”喉から手が出るほどで”あった筈です。しかし、ここにはこの「弓矢の八幡社」は極めて少ないのです。
殆ど無いと云っても過言ではありません。
「熊野大社の社領」と云っても主体は南紀であり、北紀は平安期は藤原北家の所領で、現在でも特に「春日社」が多い地域なのです。「伊勢神宮の社領域は勿論の事と、この神宮を中心とする一定の円系内には一切の社物は禁止されていた事もあって、少なくとも北紀州の領域は「皇祖神遍歴地域」であった為にいくら「河内源氏」でも出来なかったと考えられます。
少なくとも平安時代には伊勢を中心として「南に向かっての太陽の昇る方向の地域」に対しては避ける配慮があって「不入不倫の権」の解釈拡大で護られていた事もあると考えられます。
故に太陽の昇る方位地域の「熊野詣で」の30年間の間に65回も累代天皇が詣でる地域であった南紀も然ることながら、”八幡神社”の呼称すら余り聴かない地域なのです。
事程然様に、紀州の如くにそもそも「勅命による国家鎮魂の八幡社」はいざ知らず「河内源氏の弓矢の八幡社」としての建立は極めて難しかった筈です。
それは、上記のように「古来からの環境」がある中でも紀州の様に難しいものであっただけでは無く、別には「神明社の氏上様」は「賜姓青木氏」でもあったからです。
つまり、「神明社=青木氏」と観られていた地域であって、且つ「3つの発祥源」であったからで、元々「神明の意味」を普通に解せば、「生活神」「物造神」「家内安全神」「身安全神」「国家鎮魂神」「武神」は「皇祖神」に繋がり、「自然神」に繋がり、「応仁神」に繋がり、「雄略神」に繋がり、あまつさえ「皇祖神」の「天照大神」の「伊勢神宮」の2神に繋がる「総合神」としての「祖先神の神明社」であるからです。
だから、この関西域の”「神明=青木」”と同じく、北陸東北域の ”「神様」と云えば「神明」、「神明」と云えば「神様」”の呼称が生まれ慣わしと成っていたのです。この「呼称の意味」が神明社を大きく物語ります。
何も「国家鎮魂・弓矢の八幡社」に殊更に信心する必要性は無かったのです。

「神明社は総神」
隣国国境の北紀州に於いてでさえも「国家鎮魂や弓矢の八幡社」は無かったのですから、北陸東北域に於いてでは、上記の通りの「環境と歴史の経緯」から観ても ”「神様」=「神明」”以外には無かった筈です。
まして、上記した様に、歴史的な民族の経緯に因って「産土神の思考原理」が奥深く潜んでいる「祖先神の神明社」です。
こう成るとこの地域の「祖先神」には、「皇祖神」は勿論の事として、「産土神」「八幡神」、強ち地域性から観ても「春日神」や「鎮守神」の「存在意義」も潜んでいる事を否定出来ないのですから、最早、「慣わし」の域を超えて当然の「総神」である事は否めません。
そもそも平安期から「氏家制度」は「社会の慣習」を「伝統」として重んじる社会構成である中では、突然に「勅命」による為政の「国家鎮魂の八幡社」も、あまつさえ「弓矢の八幡社」は相当な事で無いと新規建立は出来ない慣習です。
筆者は「氏家制度」が強く慣習として護られていた室町紀中期・下克上・戦国時代以前の社会の中では慣習的にも論理的にも有り得ない”と観ています。

この考え方からすると「弓矢の八幡社」は殆どは「未勘氏族」による「後付の行為」であって、それは「氏家制度」が緩んだ室町期後期からの事であり、徳川家康-家光の3代に渡る「宗教改革の一環」として「武士の社会」を安定化と固定化するために打ち出した「八幡社奨励令」(浄土宗督奨令)にて拡がったものと考えているのです。

この考え方と上記した「藤原一門の組織形態」が関東から北陸東北の神明社建立に大きく貢献しているのです。何も「八幡社」に拘る必要性はこの地域では、上記の通り「総神」である以上、最早、無かった事を意味します。
この様な背景の中で秀郷一門の行動が上記した「神明社-八幡社の関係式」を作り上げたのです。

「神明社の分布進路」
それが「以北方向」からと他方「関東方向」からの2つの方向から進み、宮城では常陸や武蔵から下野、上野へと北に伸張し、保護した諏訪族青木氏の立ち直った力を借りて仙台の直前までその勢力圏を伸張したのです。
つまり「神明社の分布進路」の経路は2つの方向から起こったのです。
その意味で、「北陸東北域の総合分布」の表は、”「秀郷流青木氏の活動」があったからこれだけの建立が出来た”と云うのではなく、何時の世も「特段の事」を成すには何がしかの「特段の要素」が働いて成し得るものですが、この「特異な経緯」を持つこの地域では、前段で特筆している「進藤氏の活動」があっての事であって、その行動とこの総合分布の結果と真に一致するのです。
青木氏と進藤氏の「活動分布」とこの「分布の比率」が一致するのです。
つまり、「秀郷流青木氏(特別賜姓族)」の真にこの「勢力分布」と「青木氏末裔分布」に「神明社建立分布数」が相対しその進路さえも相対しているのです。
とりも直さず、「越後を前線基地の拠点」として働き、「特別賜姓族」「第2の宗家」「秀郷流青木氏」の夫々の「3つの役目」が的確に進められていた事を物語ります。
戦略的に観て、これには「進藤氏の活躍」と「越後の前線基地」としての働きが大いに功を奏したと考えています。
そして、それは「桓武天皇期の20の神明社」と「義家事件の直後の時期」の条件が合致した結果(566)と考えられます。
この様な確固たる基盤に護られていたからこそ「関東域」にも勝るとも劣らず、「最大勢力圏8.5の中部域」にも逼迫する分布が成されたものであります。

「6の中国域」
・「6の中国域」は「7の四国域」と共に「たいら族」の圏域でもあった事や「出雲大社」の圏域でもあり、「源氏の勢力圏の外」にありますが、「荘園制」による「未勘氏族」の多い所で在った事から日本海側の北域の多くは「未勘氏族」に依って建立されたものと成ります。
この域は神明社のデータを観ても「神明社の完全な圏域外」でもあります。
しかし、極めて微妙な地域でもあり、「瀬戸内」に限っては日本最大の利権が潜む地域を有しているのです。
”「瀬戸内を制する者は国を制する」”と云われて来た地域でもあり、その影響を受けて日本海側の北域にも少なからず影響を与えた地域なのです。
古来より醜い政治性が渦巻く地域を有しているのです。その中に「神明社と八幡社」が存在しているのですから無影響である筈はありません。
関東域と北陸東北域の状況と大きく異なる処があるのです。その意味で対比して論じる必要が出てきます。

>6の中国域は「八幡社24+神明社9」=33

>総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率
>0.4倍    0.4     0.5

>6 中国域 八幡社 5県−24−7.9%(全体比)−平均5/県
>  中国域 神明社 5県− 9−1.6%(全体比)−平均2/県

>八幡社 山口9 広島5 岡山4 島根4 鳥取2
>神明社 山口1 広島6 岡山1 島根1 鳥取0 

「県別分布の現実」
この域の青木氏は前段で論じた様に、平安初期から「讃岐藤氏」の「秀郷流青木氏」の絶大な圏域で、「讃岐」は元より「瀬戸内」、「土佐の一部」、「安芸や美作」には土地の土豪との間に血縁族を作り、「出雲大社の氏子集団」の「亀甲衆団」との血縁も進め、その勢力を宍道湖のところまで伸張して、其処には「2足の草鞋策」を足懸りに「讃岐藤氏の勢力圏」を構築したのです。
その為に県別分布では広島域が神明社が最も多い事でも証明できます。
ただ「亀甲衆団」との血縁族で広げた圏域は、「神明社」を一つ作る勢力が精一杯のものであったと観られ、広島は八幡社でも神明社も同じ勢力ですが、ここの「神明社」は「讃岐青木氏」が「未勘氏族の八幡社」の中に食い込んだ事で、室町末期の中国域の豪族から「八幡社勢力」と成ったと観られます。

「八幡社」の山口9、つまり「長州の八幡社」は納得出来ます。
実はこの中国域には、因みに「源氏の未勘氏族」は3氏があり、この3氏とも清和源氏頼信系で小笠原氏(山口9)と安芸武田氏(広島5−安芸4)と山名氏(島根4)ですが、この「3氏の圏域範囲」のみに「八幡社」の分布と成っています。
島根と鳥取の神明社は、此処には秀郷一門に追い出された土豪足利氏の本家一族とこの一族と血縁した「足利氏系青木氏」の賜姓族の一部末裔が秀郷一門に追い遣られて八頭と米子に移動定住し、その後、宍道湖東まで定住域を広げていますが、この末裔が神明社を1社程度建立する勢力圏を構築していて、その「勢力分布」と「末裔分布」であった事を示しています。
神明社の広島6は「讃岐青木氏の血縁族」を広げての「勢力分布」であり「末裔分布」で在った事になります
この地域は「神明社」の「生活の神」「物造りの神」の守護神であり、「八幡社」は単純に「弓矢の神」の「八幡社」であったのです。
この中国域は奈良期から「阿多倍が引き連れてきた職能集団の土地柄」で室町末期までその最大勢力を誇り、中国域全土を制覇した「陶部」の「陶氏族の土地柄」です。
依って、元より阿多倍一門の西の九州は大蔵氏、北の北陸東北には内蔵氏、中部北には阿倍氏、この中国域には「たいら族」の圏域と成っていて、他の勢力が食い込む事はなかなか困難な土地柄で、そもそも、”蟻の隙間も無い”くらいに「神明社や八幡社」が食い汲む事の事態が珍しい事なのです。

このデータは、其処に「讃岐藤氏」がうまく「血縁による戦略的な方法」で食い込んだ事の意味や、問題と成る「清和源氏頼信系義家」の「荘園制拡大で未勘氏族を広めた事」の勢力のパラメータの数字としても吟味できるものなのです。
まして、この「中国域」には古来より「出雲大社」と「厳島神社」の「2つの神域」でもあります。
其処にこれだけの「神明社9と八幡社24」の33は「関西域77」に匹敵する位の意味合いを持っています。
それだけに中部域の「神明化八幡社」や「北陸東北域」の「八幡化神明社」の様な「存在意義の変異」は起こり得なかったのです。
むしろ「弓矢の八幡社」をより鮮明にしてその背景に対峙したと考えられます。
「神明社の存在意義」も元より「陶氏」に観られる様に「職能集団の地場」であった事から「生活の神」「物造りの神」はそのままに新鮮に受け入れられたのです。それは真に「陶部の陶氏」が物語ります。
この中国域は「瀬戸内」を四国域と挟んでいる限りには分離して論じる事には危険があり、次ぎに合わせて「瀬戸内」を中心に論じる事にします。
それだけに「瀬戸内」は両域に取って大きな意味を持っていて「接着剤の役割」または両域の特徴の重複する部分なのです。

「7の四国域」
・先ず「7の四国域」は「讃岐藤氏の讃岐青木氏」と「阿波の阿波青木氏」で何れも秀郷一門の「秀郷流青木氏」の土地柄です。ここに特別賜姓族の青木氏が建立した「神明社」より「2倍の八幡社」が建立されているのですが、この「神明社」が建立されている背景は、この「讃岐青木氏」の香川1と愛媛2と高知3の6神明社で、この建立地の範囲が「下がり藤に雁金紋」の「讃岐青木氏」の丁度、その勢力圏でもあります。
徳島3は「剣片喰族」の「阿波青木氏の勢力圏」です。讃岐と阿波の6対3の比率に相似する末裔分布でもあり、この「2つの青木氏」は秀郷一門の中でも主要な青木氏で、「主要8家紋」の一つでもあり、かなりの「第2の宗家」としての「発言力」を占めていた事が判ります。
特に「讃岐青木氏」は家紋に示す様に綜紋である「下がり藤紋に副紋付き」の家柄で「第2の宗家」の本家筋に相当する力を持っていたのです。
平安期の関東の「平将門の乱」と呼応して起こった「瀬戸内」の「海賊騒動」の「藤原純友の乱」(多説あり)に観られる様に、「清和源氏の祖の経基王」に「海賊の嫌疑」を掛けられたほどに、「瀬戸内の制圧権と利権」をめぐる「朝廷との軋轢」はすさまじいものがあり、その中での「神明社建立」とそれに伴なうその「讃岐藤氏」の「勢力伸張」は警戒されていたのです。
藤原氏北家の中では「田舎の藤原氏」と蔑まれ、しかしその田舎者が「瀬戸内」と云う地域で「利権と権力」を拡大させていたのです。その中で瀬戸内の「海の族」を纏め上げて行ったのです。


>八幡社 香川6 徳島3 愛媛9 高知3
>神明社 香川1 徳島3 愛媛2 高知3
(下記重複)

この高知を除いた香川と徳島と愛媛の計「神明社6」は「関西域の25」に対してその「立場と勢力」から観て小さいと考えられます。しかし、「讃岐青木氏1氏」の実力から観ると、「中国域9の神明社」も合わせると「15の神明社」と成りますので、関西域は3氏として観ると25/3対15/1と成り、「讃岐青木氏」は他の秀郷流青木氏と比べて約「2倍の力」を持ち得ていた事が「神明社」を1つのパラメータとして観ると良く判ります。「瀬戸内の富」を背景に「田舎者藤氏」は「入間の宗家」に匹敵するくらいに財力と利権と勢力を拡大していたのです。「妬み」が生まれるのはこの世の常です。警戒をしなくてはなりません。
この事から観ると、「武田氏滅亡」により「讃岐青木氏」を頼って逃亡して来た土佐に住み着いた「甲斐賜姓族」の「武田氏系青木氏」を匿う能力が十分にあったとされます。
依ってこの高知3の神明社はこの「讃岐青木氏」の援護の下に建立された事が判ります。
恐らくは、他の地域の逃亡先の「神明社自力の建立能力」は「神明社1程度」が相当と成っていますので、高知3の内の1は青木村を形成している事も考え合わせると「土佐の青木氏」が建立したと成ります。

この様にこの四国地域の「神明社の建立」は良く判るし、室町期中期頃までの守護神の社を建立出来る豪族となると、藤原氏を除くとこの四国域では14の豪族と成ります。
この14の豪族の内、藤原氏の血縁族は家紋分析から6割を占めます。
しかし、この中で「八幡社」を建立する「清和源氏頼信系の豪族」はただ1氏で「阿波の三好氏」だけであります。
徳島3はこの三好氏に因って建立されたと考えられますが、「八幡社」では愛媛9の伊予とすると4氏の豪族、香川6の讃岐とすると3氏の豪族、高知3の土佐は6氏の豪族と成ります。
これは”平安末期に「清和源氏頼信系一門」の影響(主に荘園制)を受けた豪族は少ない”と云える事に成りますし、或いは海を越える地理的な要素を勘案すると、「讃岐藤氏」の「瀬戸内」を跨ぎ中国域も勢力圏に納める大圏域の影響等から考察すると、この域では「河内源氏の荘園名義貸し」の難しさが大きく働いていたのでは無いかと考えられます。

「八幡社の疑問」
そうすると、では”誰が八幡社を建立したのか(イ)”、又”「弓矢の神」を守護神にしたのか(ロ)”と云う疑問が出て来ます。現実には吟味したデータでは21社が室町期中期までには建立されている筈です。
この「建立する能力」を持った豪族は藤原氏宗家と讃岐と阿波の秀郷流青木氏16氏とすると、残るは「2つの秀郷流青木氏」と「小さい未勘氏族の集合体」以外には無い事に成ります。
幾らこの讃岐と阿波の「2つの秀郷流青木氏」が建立したとしても「春日社」、「神明社」、「八幡社」の ”「3つの守護神」を建立する事は可能なのかどうか”(ハ)です。

そこでこの3つの疑問(イ)(ロ)(ハ)に付いて検証する必要があります。
先ず、下記の通り「八幡社と神明社」の合計31と「春日社」を合わせても、下記の関西域との比の総合倍率0.4をパラメータとして使ったとして、「春日社」は30社と成りますから併せて61社と成ります。
これに「中国域の建立分33」と「春日社」の同じく総合倍率0.4ですのでこれを積算したとして66社となります。
これを合わせて全127社と成ります。
上記の「2倍の勢力」(15)を持つ「讃岐青木氏」と、徳島3の「阿波青木氏」の勢力を同倍率からほぼ0.3と観て、2.3倍率と成ります。
これを合わせたとしての127社の建立は、他の域のデータと比較すると、「関東域の115社」と「北陸東北域の135社」の丁度その中間の勢力を保持していれば可能と云う判断に成ります。
そうすると下記の表の通り「関東域の勢力」2.7と「北陸東北域の勢力」1.8と成ります。

>           総合倍率  神明社倍率 八幡社倍率
>A 関東域      2.7     4.6     1.8
>B 北陸東北域   1.8     3.9     0.7
>  (A/B)     (1.5)   (1.2)    (2.5)
>C 四国域      0.4     0.4     0.4
>D 中国・四国域  [2.3]   (0.8)    (0.9)   

以上の表より次ぎの関係式が成立します。

>「関東域の勢力」(2.7)>「四国域の勢力」(2.3)>北陸東北域(1.8)

丁度、「関東域の勢力」と「北陸東北域」との「中間の勢力」を保持している事が云えます。
中国・四国のこの総合調整倍率[2.3の勢力]と云う事のみでは、”建立する能力はあるか”と云う事に成ります。
そこで、個別の「神明社倍率」と「八幡社倍率」の(A/B)の比1.5から観て「神明社倍率」もほぼ同比率1.2である為に1.5≒1.2と成り「建立可能」と成ります。

次ぎに「八幡社倍率」は2.5/1.5ですから確かにハンディーがある事は認められますが、この「中国域の八幡社建立」は、山名氏や武田氏や小笠原氏の大豪族3氏の清和源氏頼信系の豪族と、その「未勘氏族」に依って建立されているので、このハンディーは抹消されますので問題はなく成ります。
むしろこのハンディー(2.5/1.5)は「余力」1.0と観る事が出来ます。
そうすると次ぎの要件がこの地域にありますのでこれを吟味する必要が出てきます。

>7の四国域は「八幡社21+神明社10」=31

>「関西域基準比」
>四国域                    (中国域)
>総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率  (総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率)
>0.4倍    0.4     0.4      (0.4倍    0.4     0.4)

>「全国比」
>7 四国域 八幡社 4県−21−5.9%(全体比)−平均5/県
>  四国域 神明社 4県−10−1.7%(全体比)−平均3/県

>「県域数」
>八幡社 香川6 徳島3 愛媛9 高知3
>神明社 香川1 徳島3 愛媛2 高知3

この検証の問題には次ぎの「5つの要素」が働きます。
A「地理性」
B「経済性」
C「歴史性」
D「圏域の広さ」
E「武力」
以上の「5つの要素」が影響します。

「5つの要素」
この「5つの要素」は次ぎの様に成ります。
・Dの「圏域の広さ」は中国域5+四国域4で9県であり、ほぼ一致しますので問題は無いと観られます。
・Cの「歴史性」は比較は難しいですが、平安末期は「関東の動乱」と「瀬戸内四国の動乱」は一致しますし、その後も「下克上と戦国戦乱」は同じであったとほぼ考えられます。
・Eの「武力」は「神明社」と「八幡社」を他氏から侵食を防ぐには必要な要素ですが、平安中期からのこの地域での「長期間の経緯」を背景にすれば、この「2氏の秀郷流青木氏一門の勢力」を持ってすれば可能と考えられます。(下記 藤原の純友の乱以外は現実に護られて来た。)
・Bの「経済性」は日本海側まで出た瀬戸内全体の廻船業の権勢を誇っていますので「2足の草鞋策」から全く問題は無い事に成ります。

そこで筆者はこの「5つの要素」のキーポイントは最後に残る大きく「地理性」に関わっていると観ているのです。
この「地域の特徴」は”「地理性」そのものにある事だ”と考えていて、それは”「瀬戸内」”と云う要素だと云う事なのです。
この”瀬戸内”は10国の沿岸部を持ち、これに依って「姓氏」の始祖の「海部氏」等に代表されるように「海鮮業」が盛んに成り、当然にこれに伴い「造船業」や「廻船業」も起こります。
ましてこの海は古来より中国域を制していた陶部の「陶氏」に代表される様に「物造り」の盛んな地域でもあったのです。「総合産業域」といっても過言ではない「瀬戸内」圏で、その圏域や勢力が廃り侵食される事は100%無い事が判りますし、現在でも健在です。
現実に昭和20年までこの圏域は「総合経済圏」で保たれていたのです。
因って、この海域を制することは「莫大な経済的な富」(a)と「海利権などの威力」(b)を獲得します。
この「2つの富」(a)(b)を以って勢力圏を高めれば上記する関係式の[2.3]の「勢力の基盤」の構築は可能と成ります。
この「経済的な基盤」(a)(b)の裏打ちが可能と成る事に依って「八幡社の建立能力」は出て来ます。
それは「武力」に依って得られる「税的な経済的基盤」だけではなく、自ら営む「商業」、つまり「2足の草鞋策」に依っても充分に成り立つものです。
この「讃岐青木氏」と「阿波の青木氏」はこの”「瀬戸内の海域の廻船業と造船業」”を営み、取り分け「讃岐青木氏」はこの力を以って安芸、美作を越え石見、出雲の北の海まで伸張しているのです。
それは「商い」のみならず「血縁関係」までを構築して末裔を定住させると云う実に「高度な戦略的手法」に観ても「三相の理」を得る「完璧な戦略」を駆使しているのです。
この結果、記録によると昭和20年頃までこの廻船業・造船業を営んでいるのです。
又、「阿波青木氏」も史資料によると、その末裔も淡路までの範囲で「廻船業・造船業」を営み「紀伊水道域」を征し手広く北の海まで出かけている事の資料が多く遺されています。
この2氏はこの様に「2足の草鞋策」を手広く営んでいたのです。
これらの検証から(イ)(ロ)(ハ)の疑問は説明できます。

「瀬戸内」と「2つの鍵」
「讃岐と阿波の2氏の青木氏」が「瀬戸内」と「紀伊水道」を制していた事は「政治的・戦略的」に観て「清和源氏頼信系の八幡社」の勢力伸張は難しかった事が判ります。
筆者は前段で論じた清和源氏の祖の「経基王の讒訴」「藤原純友の乱」の「海賊嫌疑」はこの「勢力圏の拡大」の「嫉み」に依るものと観られ、裏を返せば ”この地域の利権の獲得を狙っていた”と観ているのです。それは清和源氏の「勢力拡大の基礎力」にしたいとする狙いであったと考えられます。

実は「瀬戸内」のこの「海賊(海族)の正体」と「勢力伸張の難しさ」とを顕著に現れている事件があります。
それはこの「瀬戸内」で起った「源平の2つの戦い」の「義経の行動背景」にあるのです。
ここにはこの「瀬戸内」と云うものを説明する「2つの鍵」が隠されているのです。
その「2つの鍵」とは一つ目は「海賊・海賊」と云うものであり、二つ目は「財力・利権」なのです。
それは関西域の海域圏の東側の沿岸沿いにこの「摂津水軍」と「紀伊水軍」と「熊野水軍」と「伊勢水軍」と「駿河水軍」が制していて、これに対して義経は「源氏への合力」の為に半年を掛けて懸命に数度の談合を試み、遂にはその合力を獲得する事が出来た歴史史実があるのです。
この「談合」にはその「合力の目的」として「2つの鍵」が義経の腹中にあったのです。
その「2つの鍵」は「平家側」には存在し「源氏側」には無かったものなのです。
この「2つの鍵」に必要とするものは、つまり「海族」を意味する「水軍」なのです。

(資料に因れば、「たいら族」の忠盛は密かにこの水軍を使って禁令の「宋貿易」を始めていて莫大な利益を獲得していて清盛に成って本格的に貿易を行った。朝廷からも疑われていて藤原氏もこの事は讃岐藤氏からの情報で承知していた。大蔵氏も承知していた。)

先ずは勝利の為には「水軍の獲得」であり、その水軍を獲得した暁には勝利し、そして遂には当面の目的として2つ目の「財力・利権」を平家から奪取し、その「財力・利権」に依って最終目的として「清和源氏の繁栄」と「生き残り」であったのです。
それには先ずは「平家と同じ戦力」に到達させる事であり、「同じ戦力」に到達させた上で相手の弱点を突く戦術を構築して戦いの前哨戦を制する事であって、その後は同等の戦力で常套作戦で挑む戦略を描いていたのです。
その元と成るのは「水軍」であったのです。その為には平家と同じ「兵能水軍」ではなく弱点を突ける水軍でなくては成りません。それを持っているのが上記の「5つの水軍」であり、弱点を突ける共通する武力を保持していたのです。
この「5つの水軍」の中でも「紀伊水軍」はその能力を最大に持った水軍であったのです。
中でも、瀬戸内に明るい「摂津水軍」(摂津を中心とする大阪湾海域の水軍)と最大の能力を持った「紀伊水軍」(大阪湾から淡路から紀伊水道海域)に対しては「合力嘆願」には苦労を重ね、記録によると時には義経が襲われると云う事の中から得られた強烈で強力なものでした。
この「弱点を突ける能力」とは「海族」の中に潜む「海賊の戦闘術」であったのです。
この「5つの水軍」にはそれぞれの地域の海域の違いにより大小があるにしてもこの「海賊の戦闘術」を必要性として保有していたのです。
平家水軍は職能集団の海の「兵能集団」でこの海賊性はもとより保有していないのです。「陸の兵」に対して高度で常套な操船術を保有した「海の兵」なのです。

「義経の行動と瀬戸内」
平安時代は「武」に従事する者として、「源氏」の様に「武家」を組織して兵とする集団と、「平家」の戦力の様に組織化されない「兵能」の兵とする集団との2つが混在していたのです。
「源平の戦い」は別の意味でこの2つの異なる覇権をめぐる「兵の集団の戦い」でもあったのです。
義経はこの「2つの違いの弱点」を突く発想であったのです。
この事に付いてはその「2つの水軍」の末裔の「私史資料」が発見され、共通する事としてその中に詳細に記録されているのです。
その2つの資料に共通する事は「義経の人柄、将の力量」とこの「源平の海上戦」の「義経勝利の秘訣」であって、そのつまりはその「戦い方」にあるとして、それは「水軍の野戦的戦法」(海族的戦法)と記録されているのです。
この「瀬戸内」と「紀伊」の「2つの水軍」は不慣れな「平家水軍の通常戦の常套的戦法」(後の村上水軍)様な戦い方を嫌い ”海族的な「野戦的戦法」なら合力する”との双方の考え方の合意が得られたからなのです。この様に記録されているのです。
「義経の人柄、将の力量」を見抜くに時間を掛けたとする「末裔の忘備禄」が発見されたのです。

「八幡社・神明社」を論じる時にこの「瀬戸内」に於いては、この「義経の行動」が「瀬戸内」を語る上で欠かす事が出来ない事なのです。
上記した様に”「瀬戸内を制する者は国を制する」”の事に大いに関係してくるのです。
そして、その「義経の戦略」が平家を倒し「源氏体制」を確立する為には「絶対条件の瀬戸内」であったのです。
そして「義経」はその「2つの鍵」を念頭に綿密にその様に行動したのです。そして”その判断(2つの鍵)に賛同したからこそ合力した”と記されているのです。
紀伊水軍は”この「2つの鍵」が理解されていないと合力しても敗退し却って自らも滅ぼす”と考えていた事に成ります。
そして彼等の水軍は”それを理解できているか”の”「将としての力量」があるか”の「瀬踏み」をした事に成ります。
そしてその「瀬踏み」では、実に「用意周到な性格」で「勇猛果敢」で実に「沈着冷静」の「源氏の将」と記録されているのです。資料から観て筆者の印象も同じです。
そして、戦いでは、特に「紀伊水軍」は真に「海族的戦法」で奈良期からの阿多倍の「職能集団の平家水軍」を戦いの勝負が決まる前哨戦で打ち破ったのです。
そして、この「紀伊水軍」は海戦終了後、恩賞を受け取らず直ちに紀州に戻った事が記録されているのです。
他の合力した「3つの水軍」は一つは前段の青木氏の「伊勢シンジケート」の水軍、後の2つは「熊野源氏」と「駿河源氏」方の水軍です。
この「2水軍の戦力」と「5つのライン上の5水軍」が整えられていれば「神明社と八幡社」の勢力圏を揺るぎ無いものにしていた事が判ります。

(参考 紀伊水軍の「海賊的野戦戦法」と3つの水軍の「常套戦法」の「2段構え戦法」であった事が記録されていて、この戦法に「海賊的な紀伊水軍」がやっと賛成し「義経個人」を信頼して個人に合力したと記録されている)

日本全国何処の海域でも上記した「5つの水軍」の様な「海族」が「陸の土豪」と同じ様に存在します。
これ等が「海の支配権」を持ち「海域」の「勢力バランス」を保っているのです。全く陸と同じなのです。
「海・陸」何れにしても、この「海域支配権」「領地の支配権」を無視し、或いは軽視する場合は攻撃されるは当たり前の事で、これを「海賊」とすれば、陸の土豪・豪族も「山賊」と成ります。世に俗に云う「一所懸命」なのです。
もし「海賊」がいるとすればそれはこれ等の「海族」が掃討し自らの海域を護るのです。これは海と陸は同じであって、それに依って船舶の「航行の安全」がより保てる海域となるのです。
そして、何時か多少の荒くれがあるとしても海賊の類は結局は掃討されて、秩序としてこれ等の「海族」の支配下に置かれるのです。
現在の契約社会から観れば「海賊」であっても、当時の時代考証からはこれ等は当然の事であって、「一定の支配権」の下にその「安全の契約」を「暗黙の社会のルール」の中で保てばむしろ逆に安全な手法となるのです。これは陸も同じです。
前段でも論じてきた「大規模な商い」を行おうとすれば、この「安全の契約」が必要に成り輸送などの事が行えるのです。多くは「自らの経済力」にてシンジケートを構築すればよい事に成ります。
これも一つの「安全の契約」で現在でも同じ「安全の契約」は必要であるのと同じです。

「安全の契約」と「水軍・海族」
現在と過去の「安全の契約」の違いは直接的に保障されるのか、はたまた間接的に保障されるのかの違いであります。
過去の場合はこれ等の海の「海族」と陸の「山族」を一つの組織の中に取り込み、各地の勢力の届く範囲でそれをシンジケートとして構築する直接的な「安全の契約」の保障制度を採用していたのです。
要するに現在の様に「律令制度」(契約社会)が未だ完備されていない中では、「氏家制度」の中の「社会の秩序」を保つ為の当然の「安全の契約の保障制度」であって、この「シンジケート」にして纏め上げる「慣習システム」は一つの「社会の暗黙の慣習制度」なのです。
これを現在感覚の契約社会感覚で「海賊や山賊」と見てしまえばそれはそれまでの事であり、少なくとも明治以前の社会は「シンジケート」はある意味で「社会の暗黙了解」のある「治安維持機構」であり、「警察機構」でもあり、「職業更正機構」でもありして、本質的に「善悪の考え方の量と質」が違うのです
要するに「純友」は海の族を「海族と海賊」を一つにまとめ「水軍」として統括し、これを武力に頼らず義経の様に「政治的」に行っただけの行為であったのです。
むしろ、当事の世情と時代背景から考えると、武力による解決は武力の連鎖が起こり、この結果の「恨み辛みの怨念」が渦巻く社会世界が生まれます。
しかし、純友の様にして要するに「海のシンジケート」を構築する事は「恨み辛みの怨念」は霧消します。
彼等にも家族先祖伝統の普通の社会生活があるのですから、むしろ、「理想的とするべき処置」でもあったのです。
その行為がより伊予・讃岐の土豪の藤原一族一門の「安全の契約の保障制度」になっていたのです。
当然にこの「安全の契約」によってそこには「莫大な利権と勢力の圏域」が生まれるは何時の世も同じです。
上記した「2つの鍵」を紐解く「義経の行動」を述べましたが、実は下記に述べる様にこの事には大きな意味を持っていたのです。

注釈 「水軍と海族の論処」
これには多くの通説があって大別すると、土豪が海賊に味方して首領に成ったとする説と、筆者が採用する上記の「シンジケート説」の2つに成ります。青木氏から観たシンジケート説です。
遺された資料からよく調べると、「海賊」と云っても「1000艘以上の大船団」を持ち、当事としては全国トップの勢力を誇り、「複数の自港」(日振島等)を持ち、その船団の組織化された首領格には正式な「藤原氏」が多く存在し、船団以外にも「地上戦」も行い強く各沿岸部の地域を奪取していて、北九州から紀州域までの海域と陸地も豊後や伊予や讃岐や安芸や紀伊の「地域を領有する豪族」と成り、「純友神社」や「純友城」等も有する「海と陸の両方を有する豪族」で、「叙位従5位下の下級貴族」なのです。
更には”周囲の沿岸部の民からも慕われていた”とする「神社の記録」複数が残されていて、その記録を信じるとして、「純友」が納めている間は「穏やか」であったとしているのです。
上記の「恨み辛みの怨念」は”何処吹く風”でむしろ”民から慕われていた”のです。
これはどう観ても「海賊」ではありません。上記した様にまさしくこの地域の荒くれをまとめて組織化し成し遂げた「海族」なのです。
まして「自らの神社」(大きな意味を持っている)を持つ者など陸にも少ないのです。これは下記に論じますが本論の本質を意味しているのです。
この純友の「神社・城」はただの「神社・城」の意味だけではなく、「神明社・八幡社」で論じている様に、これには「歴史的な生き様」が遺されているのです。絶対に見逃してはならない要素なのです。
つまり、そこには「神明社の青木氏」と同じく ”それは組織から崇拝されていた事”を色濃く示す事にも成ります。
その「組織の局部」を捉えれば荒くれである以上は「海賊的な要素」も見え隠れするでしょうが、それを捕らえればそれはその様に見えるかも知れません。しかし、「神社・城の存在」は「神明社」で論じている様に”「何がしかのその儀」”を有している事に成る訳ですから、それを基下に組織化している限りは「陸の豪族」とは内容は異なりません。
その「何がしかの儀の如何」と「局部の荒くれ」であるかどうかの違いだけです。「局部の荒くれ」であるからと云って”「海賊だ」”とするにはそれをその様に決め付けた側の ”何か「裏の意」”が感じられます。
その”「裏の意」とは一体何なのか”です。
そもそも「海賊説」とそれを発端とする「出自説(複数)」等を良く調べると、兎も角も、先ずは当時の社会の「時代考証」が不十分なのです。これらの「海賊説」は古くは無く「跡付け」と観られる近代の説であります。(通説にはこの類が実に多い)
これをもし「海賊説」とすると上記した駿河、伊勢、熊野、紀伊、大島、伊豆等の「主要な水軍」も同じ要素を大なり小なりに持っているのですから、この論理で行けば全て「海賊」に成ってしまいますし、その大きさもトップで組織化されているのですから、日本の古来水軍は全て「海賊」に成ります。
この事を知り得ていて「海賊説」とした「朝廷の記録」には、「政治の世界での政争」に使われる「醜い常套手段」の「大きな裏の意」がある事を匂わせています。
何時の世も盗人、盗賊、山賊、海賊の類はありますが、上記した様にその内容と時代の社会構造の慣習はそもそも違うのです。
古来より”勝てば官軍 負ければ賊軍”の日本人の「悪い慣習」がこの様な通説を生み出して、史実を歪め、「正しさ」を記録として遺さない「日本人の性癖」には「歴史の掘り起こし」に於いても充分注意しなくては成らない事なのです。何等現在でも変わらない性癖です。

本論でも何度かこの事に付いて論じていますが、その意味で「公的な資料」に類するものには「判断の参考」とする場合は、ここが雑学フィルターを通して観て特に「注意する点」なのです。
又、「本論の神明社」に関わるとして論じている「八幡社」の場合も「未勘氏族の資料」には”身内を良くする背景や経緯を作り出し、はたまた搾取偏纂しているところを雑学を駆使して見抜き矛盾点を掘り出す事が大切なのです。
「青木氏の歴史」の「生き様の掘り起こし」にはこの作業の繰り返しに時間がかかるのです。
特に筆者は先祖たちの性癖を受け継いでいるのか”勝てば官軍 負ければ賊軍”が肌が受け付けれないと云うか嫌悪を感じるのです。”判官びいき”とまでは云わなくてもその元の本質の姿を知りたくなるのです。

「”瀬戸内を制する者は国を制する”」
古来から言い伝えられていたこの言葉には瀬戸内の地域の「神明社と八幡社」を論じる時には大きな意味を持っているのです。全てはこの言葉に事象は左右されるのです。
故に、「純友海賊説」に関わるものも例外ではないのです。
恐らくは「源経基の讒訴」は、藤原氏等が制するこの”「5つのライン上の絶大な圏域」を清和源氏側に獲得しようと画策したものであった”と観ているのです。
そもそも古来に於いて”瀬戸内を制する者は国を制する”の言葉がある様に、この「地域の利権と安定の確保」は無視できる話ではない筈で、その状況を「為政者」や「利権者」の側は上記した様に本音では純友に変えられては困る訳です。
ましてや民に人気があり人が出来ない事を成し遂げたと成ると、”人は嫉妬の念にとらわれる”は「仏説」の通りであります。
この世に於いて例外なくこの情理を脱した者は居ない筈です。
まして「為政者と利権者」とも成ると「自己顕示欲」の強い者でありますから、、”人は嫉妬の念にとらわれる”は必定であります。それが朝廷とも成ればこれ等の者の集合場所でもあります。要するに巣窟であります。
そこで、何時の世も海賊や山賊の類の存在は有るのがこの世の無常の定めであり、それを声高に剥きに成って事に当たるは「為政の範疇」ではない訳で殊更に取り掛かる政治問題では無い筈です。
むしろ”瀬戸内を制する者は国を制する”の言葉の通り「海域の利権」が大きく絡んでいれば、「海賊」を懐柔して纏め上げられれば、「利権者」と「為政者側」取り分け「為政者」にとって見れば困ることに成ります。
それは純友側にこの”瀬戸内を制する者は国を制する”の権利を与えてしまう事に成ります。
まして「民を味方」にして「何がしかの儀」を重んじ「民の暮らしを安定にし安寧にする守護神」を持っている以上はこの権利を確実に保障する事を意味します。本音では放置できません。
表向きでは「海賊の騒動」は困るが、本音のところで「海賊」を懐柔されて「利権」が「純友」の方に全て移れば、「為政者」にとっては ”この世の無常の定め”どころの話では無くなり死活問題であり、更に実に困るのです。
これがそもそも「大儀と本音」の政治です。口では態度では”海賊が騒ぐのは困る”と云いながらも、本音は”利権がなくなるのはもっと困る”のです。この2つは最早、天秤にかける問題ではないものです。
そこで、困る側の為政者側は、国、即ち天皇や朝廷から観れば「大儀」を自分の方に引き寄せるには ”純友を「海賊」の仲間とする”事に決め付ける事が必要に成り、「表向きの海賊問題」を解決して、且つ、「邪魔な純友」を抹殺して、「地域の利権と安定」を確保するには「海賊」と決め付ける方が都合が良い訳です。むしろそれしかなかった筈です。
”そう成るとどうすれば良いのか”と成りますが、簡単な事です。
上記した”勝てば官軍 負ければ賊軍”を行える立場に為政者が特権として持っている訳ですから全く問題は無い訳です。そしてそれを世に知らしめる為には、まずそれとして「勅命」や「宣旨」や「院宣」を発し、且つ、為政者側には資料や証拠類や風説をそれに合せた様に搾取し偏纂して遺す事に務めるのが偏纂役の務めでそれを密かに命じれば事は済みます。
それにはその事の内容を公文書外にも関係する役所や神社や寺等に遺させる手立てを講じる事だけです。「公文書の類」に密かに書けばそれで充分なのです。利権者もこれに習うでしょう。これで大儀は利権者や為政者に移ることは必定です。
そしてそれが史実の形として後勘に触れてそれを信じ史実が歪み、公文書を正として通説が生まれるのです。
(しかし、事の真偽を歪めているのですから矛盾と疑問が必ず生まれるのです。これを正すのが「後勘の役目」です。「青木氏の歴史」はこの事に努めている。)
これは上記した様に「未勘氏族問題」でも同じで、「自らの側」の良い様に後勘に遺す事は当たり前の事なのです。
問題はそれを雑学で「見抜く側の読解力」に関わる能力なのです。現代でもこの世に於いてはこの事は同じです。
前段で論じた「陸奥の安部氏の奴婢の問題」でも安部氏等には非は無く蝦夷・征夷として処理されたのもこの「純友問題」と全く同じです。その意味で「河内源氏」の”義家に対する白河院の策謀説”も殆ど同じです。”安部氏に無常な嫌疑を掛けた上で義家に陸奥での利権を潰させておいて今度はその義家を潰す”これが「為政側の常套作戦」なのです。(前段でも論じた様に義家にも禁令を無視した無理があった。)

「為政者側の矛盾」
この”瀬戸内を制する者は国を制する”の「2つの圏域」はデータでも上記した様に「河内源氏」のみならず「清和源氏の圏域外」(荘園本領・未勘氏族)にあったのです。
経基が、平安期に伊予まで及んだ讃岐藤氏の藤原氏を讒訴に落としいれてそれを獲得しようとした画策であったのです。
これは「3つ巴、否4つ巴の事件」なのです。讃岐藤氏・清和源氏・大蔵氏・朝廷天皇の利権争いそのものの事件であったのです。結局、下記に論じます様に純友が旨く”勝てば官軍 負ければ賊軍”の策に掛けられたのです。
その証拠に詳細に調べれば上記した事も含めて矛盾が多すぎるのです。上記した様に「矛盾が多い事」が何よりの証拠なのです。
因みに、先ずこの「瀬戸内の海族問題」(純友・伊予国司代・瀬戸内追捕使の令外官)を朝廷が解決させたのは、前段で論じた”阿多倍一門の九州自治”を狙っていた「大蔵春実」(小野好古・藤原正衡・橘遠保:源経基も参加説もある)であります。
そもそもこの「海域の問題」を最初に特別に朝廷から任命され派遣された「治世権と警察権」を与えられた者は「令外官の純友」なのです。その「純友」を討伐する又令外官を送る事のそのものの事態がおかしいのです。
(この順序と任官そのものを ”あやふやにした記録”を根拠とする為政者・利権者側の説もある。 「海賊」とするには矛盾を消す為にした偏纂行為と観られる。)

これ等の資料に基づくと、為政者側の特権で色々な資料が遺されていて複数の説が生まれているのですが、この説の中で先ず信頼できる史実は、「純友」はこの地域(伊予・讃岐)の「瀬戸内の政治」を任された国司代(3等官・伊予掾)で、且つ、当初は「海賊問題解決」の「令外官」(特別問題解決の為に任命された官)であった事ですから、「3等官・伊予掾」と「瀬戸内海賊掃討追捕使令外官」の「両方の任務」を持っていた事に成ります。
この事の意味は「伊予と讃岐」と中国域を含む「瀬戸内沿岸域」の「為政に関する全権」を任された事を意味します。先ずは”任した”とする矛盾があります。普通は任す以上は純友の事は承知している筈です。
摂関家と同じ一族一門で藤原氏北家なので「讃岐藤氏」と呼称されるくらいに都にも聞こえた一族です。
知らないとは云えない筈です。この事件の前に別件で仕事をしていますし、国司代(3等官・伊予掾)です。何も経基に云われなくても知っているのです。事件直前に令外官追捕使として任じられているのです。
それが急に「海賊呼ばわり」とは笑止千万はなはだしい事であります。
つまりそもそも瀬戸内の「全権大使」であり、そうすると、その「全権大使」を「海賊」と決め付けるには「朝廷側の失態」が表に出てきます。
そこで「順序と任官」の部分の記録を”あやふや”にして置く必要が出てきます。その処置を朝廷側と利権者側は行った事を証明します。
ですから、「純友」は「全権大使」として、「令外官の任務」の「海賊掃討」だけを任務とするのであれば「武力」により解決して根絶やしは無理としても押さえ込める事は可能であり任務は全うします。
しかし、地元の為政権を持つ「3等官・伊予掾」で、地元の住人の讃岐藤氏でもあります。
彼等はこの富を生む瀬戸内の国策に対して大貢献しているのです。

「海賊」と看做されている「瀬戸内沿岸地域の民」とは敵対している訳では無くむしろ絆を持っているのですし、「藤原氏の戦略」の「血縁関係」で中国域までその圏域を広めている訳でもあり、尚且つこの海域の「廻船業や造船業」やこれを基にした「大商い」の「2足の草鞋策」を敷いている土地柄でもあります。
そうなると、解決方法は唯一つ瀬戸内の住民が無傷に解決できる方法は決まって来ます。
純友にしてみれば「絆」を基に「談合」により解決するしか無い筈です。
しかし、この「談合解決」は本音のところでは、「為政者」と「利権者」と「敵対勢力側」からすると、最も好ましくない解決方法です。
何故ならばますます純友を大きくしてしまう結果になる訳です。
大水軍を控えて「政治」「経済」「軍事」の「3権」を掌握した訳ですから、上記した「瀬戸内を制する者は国を制する」事と成りこれに対抗する者は無く成ります。放置する訳には行きません。
”早い内に何とかしなくては”と「為政者」と「利権者」と「敵対勢力側」は考えるが必定です。
それには「純友」から「大義名分」を無くす事で潰すしか無く成ります。それが「海賊」なのです。
そして、「為政者」と「利権者」は自ら手を汚さずに、それを「利権」を欲しがっていて「清和源氏の勢力」を伸ばそうと野心に漲っていた「敵対勢力側」の経基に言わしめた事に成ります。

「純友」もこの事は充分に読めていた筈です。しかし、解決方法は一つです。
”「絆」を採るか” ”権力側3者に迎合するか”の二者選択を迫られた事に成ります。
何れにしても後は出方を観る仕儀と成ります。
そこで「絆」を選んだのです。現実には彼にはそれしかなかった事に成るでしょう。
「純友」にすれば、後者の「権力者3者」を選ぶ事は、信義の上で ”死に値する”事に成り、結果しても「権力者3者」は ”彼を生かす事”は解決には成らない筈で、”向後に憂いを残す事”に成りますから、機会を観て ”何らかの嫌疑を作り出して葬る事”にする筈です。
何れにしても ”死を決意しなくては成らない事”に気が付いては居た筈です。
周囲の者達もその事は”百も承知”であり、だとすれば”「絆」を選ぶ事”を勧めたと考えられます。
”では、どうすればよいのか”と云う事に成ります。考える戦略は唯一つです。
「絆」を選ぶ限りは ”例え純友死しても絆は遺す。”であり、その為には ”絆の中に「讃岐藤氏」を遺す。”つまり言い換えれば、”「絆組織」の「次ぎの継承者」を生き残らせる事”にあります。
そして、それを盛り立て蘇させるには「結束の象徴」を造る事に成るでしょう。
それが、”「純友神社」であった”のです。だから1度ならずも2度、否5度の蘇りを興して昭和まで生残れたのです。仮称の「純友神社むは神社だけの意味ではなかったのです。
何時の世も、現世の事象(事件、問題、乱、変など)森羅万象には、「諸悪」(5悪)が巣食うのです。
仏説の通りです。「為政者」と「利権者」と「敵対勢力者」と「無関心者」と、そして「被者」です。
(被者は「純友」ですが、仏教では”一分の非がある”と説いています。”「完全無欠」ではない”と云う事です。「諸行無常」です。)
この”「5悪」の何れに「大儀」が来るか”は、”その「5悪」の「質」に因る”と解いています。
”決して「権利や富の大小」ではない”とするのです。
では、この海賊問題は真にこのパターンに填まります。この場合は「質」を得ていたのは憤死した「純友」にあったのです。”純友に大儀があった”事を意味しています。
後勘から観れば、「被者」の純友以外の「3悪」(「為政者」と「利権者」と「敵対勢力者」)は200年後には滅びているのです。
浄土宗を思考の原理としている平安期の武家では、純友とその周囲と讃岐藤氏はこの事を承知していた筈です。
とすると、現世は「諸行無常」であって憤死しても「絆」を護れば「後勘」は「大儀の者」となる事を覚悟して次ぎの行動に出たのです。「純友の志」は昭和まで「海の族」として引き継がれたのです。

「純友」は「争いの連鎖」を起こす「武力」に因らず、無数の海賊団と談合し説得してこの問題を見事に解決したのです。
そしてこの無数の大小の海賊団の民とその瀬戸内地域の民衆から信頼され崇められて神社が建立されたのです。その神社の建立時期は不明ですが状況証拠から生前の前後の直前と観られます。
「純友神社」(産土神)と云うよりは当初は「海族」と成った集団の「心の拠り所」と、その集団結束の「象徴の守護神」であって、没後に地域住民に慕われて「純友神社」と呼称されたと観られます。
純友は乱後の暫くしての後に捕まり斬首に成りましたが、純友の憤死没後に難を逃れた「讃岐の藤原氏末裔」が再結成してからもこの”瀬戸内は穏やかであった”と記されていて、明らかに海賊ではなかった事が良く判ります。
それを讒訴して”海賊に成った”と告訴され、現在発見された資料よりその資料を基にすれば「経基王に讒訴密告された経緯」となるのです。
但し、ましてこれは「海賊」では無く「海族」であり、古来よりこの瀬戸内に住する「海の土豪集団」であったのです。そもそもその末裔は、つまりこの「海族の末裔」は「後漢の阿多倍の海の兵能集団」で「奈良期初期の帰化人の末裔」(陸は東漢氏・物部氏などがある。)であります。
その特徴は「海利権」を護らない場合は襲う事がある土豪なのです。この事は「陸の土豪」も「陸の支配権」を護らないと同じ目にあう事は同じであって、そもそもこの「海利権」を護らない側からするとその見方は「海賊」と成るでしょう。
当然にこの「海利権」を護らない側は伊予と讃岐の分布する讃岐藤氏と「瀬戸内で覇権争い」をしている大小の中国と四国と北九州の集団となるでしょう。

「兵能・職能集団」の主筋
ここで面白い現象が起こっている事に成ります。
それはこの「瀬戸内沿岸の海族」の多くは上記した「阿多倍の兵能集団と職能集団の末裔」です。
しかし、利権を護らない覇権争いをしている主要集団はこれも阿多倍一門中でも最大の大蔵一門です。
500年経過後の「兵能・職能集団」の主筋に当たる訳です。
彼等は ”忘れられたのか忘れていないのか”は不明ですが、室町期のこの「瀬戸内水軍」を保有し中国域を制した「陶氏」と、「海部氏」や「武部氏」等の彼等の職能集団の末裔が現存している事から考えると忘れていなかったと考えられます。
彼等の守護神は「産土神」であり、その考え方からすると不思議な現象が起こっていた事に成ります。
そもそも官僚を専守している為政者側と利権者側にある「大蔵氏の主筋」に味方せずに「讃岐藤氏」の「純友に合力」した事に成ります。
この事には大きな意味を持っているのです。本来であれば「儀」と「利害関係」から観ても普通は主筋の大蔵氏を選ぶ筈です、しかし敢えて利害関係にある「讃岐藤氏」をわざわざ選んだのですからここには何か大きな意味がある事に成ります。
それもこの瀬戸内の全ての海の族の大小の集団が挙って集まり「儀と利害」を捨てるだけの何かが在った事に成ります。
”それは何であったのか”解明する必要があります。
それは色々な資料から「2つの共通するもの」としての答は出ています。
それは一つは「純友神社」であり、二つは「純友個人」だけではなく「讃岐藤氏の一族」がこの水軍の「海族」には入っていると云う事です。
そうと成ると、彼等への「理解」と「利害」と身の「安全」を護ってくれる「者」、或いは、「氏」は「大蔵氏」か「讃岐藤氏」かと云う事に成りますが、彼等は「讃岐藤氏」を選んだと云うことに成ります。
勿論、その「氏」を支配し統治する「讃岐藤氏」の実質の信頼できる支配者・頭の「純友」の「個人的魅力」に魅かれた事をも意味します。
「好みや利害」ではいざ知らず単に複数の「海の族」が集ったのではないのです。
瀬戸内の全ての海の族が挙って集ったのです。ここに意味があってこれはまさしくそれを護ってくれる「氏の選択」とそれを指揮する「棟梁の魅力」が伴っての命を懸ける彼等の「選択」を主筋から替える大決断をした事に成ります。
当然に少なくとも大小の多くの「瀬戸内の海の族」が集って協議した結果でなければこの様な事には成りません。故にこの「意思表示」を「純友神社」と云う形で表し且つそれを「集団の象徴」とした事に成ります。
この裏を返して云えば”大蔵氏に対する何がしかの共通する不満が在った事”を意味します。
古来からの主筋の大蔵氏が彼等の「理解」と「利害」と「安全」を護ってやっていれば「儀」を捨てて主筋を外すような事は「氏家制度」の社会慣習の中では絶対に無かった筈です。
そうすると奈良期から500年の経過が主筋感覚が薄れたのかと云う事に成ります。
実は違うのです。原因は彼等の守護神「産土神」にあるのです。
守護神の「産土神」に付いては前段で論じてきましたが、後段でも改めて詳細に論じます。
ここでは「海の族」の「行動の根源」となる「産土神の位置づけとその考え方」に付いて次ぎに論じます。


青木氏と守護神(神明社)−17に続く。



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