青木氏氏 研究室
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  [No.303] 卑屈と萎縮の脱皮
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/01/14(Tue) 19:07:33

最近の青木氏氏のチャツトを観て思う事があります。
チャツトのご意見を見て、投稿を寄せて頂いている”あおきさん”とチャット外でよくお話する事があります。
今回の新春のお話の中で、昨年のチャツトに議論が及びその事に付いて一つご意見がまとまった事がありました。取りまとめの役目を負いましたのでそれをご披露したいと思います。
今、政治問題化している「日本の現状の問題」に成っている事柄です。
つい最近次ぎの様なことが起こりました。
それは「靖国問題」に対する、或いは日本に対する「米国の失望論」です。
実はここには大きな意味が潜んでいます。
その事に付いて少し議論したいと思います。

「米国の失望論」
先日、安倍氏が「靖国神社」を訪問したが、これに対して米国は”失望した”とコメントを出した。
今までの「米国の反応」と違った「異質の流れ」のコメントであって、その「言葉の持つ意味」には大変な「米国の態度」を示した事に成る。
この事は、今後の日本が採るべき、或いは考えておかなければならない事柄が潜んでいる。

先ず、この事に付いて、中国と韓国の反応は、過去に重要な「歴史的経緯」がある為に当然の結果としても、 問題は米国の”失望論”であり、これにはそもそも「移民族の米国の概念」と「融合民族の日本の民族の概念」が異なる事が存在している。云い換えれば、「伝統」なるものの違いが存在している。
特に、米国人は他民族に比べて、この「伝統」なるものの理解が低い。「移民族の他民族国家」であるが所以で一面ではやむ終えない事ではあるが。しかし、駆け引きの場の「政治の場」の面ではそうは行かない。
米国内ではいざ知らず、国家間では考え方の異なる他民族との折衝と成るからだ。
その異なる事を租借して国家間のコメントを出すのが常識でありながら、そうではなかった事が先ず第一に挙げられる。(もともとこの傾向はヨーロッパ系の民族には強い傾向がある)
日本には米国と比べて、戦死者に対する「日本人の尊崇の念」の有り様と、 それを具現的に表す神社と云う概念の結びついた国民的概念の有り様は日本には厳然として必然的にあり、それは他国に比べて異質で強いものである。この異質の概念の一つが外国から”サムライ”と表現される所以であろう。
しかし、この概念のない米国はこの概念の違いを無視した。 ここに大きな潜在的な問題がある。

では、果たして、問題とする ”失望”と云う概念の奥にはどの様な意味合いがあるのか考えてみる。
今回の場合は、この”失望”とする言葉の先には、先ずは ”仲良く”とする「主観的感情」が存在する。
更に、失望するには、”以前に”信用していて”それが裏切られた”と云う事にも合わせて成る。
この2つの事が問題と成る。

そこで、先ず、この”「主観的感情」”を専攻して民族や国家が持つ民族的な「尊崇の概念」を無視して、この ”仲良く”を専攻させるべき事であるかは明らかに違う。
それは”仲良く”は”主観的”に関わる。”主観的”は人、民族、国家によって明らかに異なる。
日本と云う国家では「尊崇の概念」は、最早、”サムライ”と日本人自らも自認し呼称される様に「主観的な事柄」ではない。
日本国民が持つ「共通の基本概念」である。
確かに「主観的感情」で個人的要素のものではあるが、日本人全てが共通して持つ欠かす事の出来ない感情で、生活の慣習の中に深く浸透していて共通している事で、この念を欠落すると日本人として社会の中でなかなかスムーズに生きて行けないし、兎角、信用されず低く見られる事に成る重要な欠かす事の出来ない概念である。
つまり、「感情の域」を超え、「主観の域」を超えているのである。
所謂、「国民性」なのである。
この概念を”共通に持つ事に依って強く結ばれている”と云っても過言ではない。
判りやすく数式論に置き換えれば次の様に成る。
「主観的感情」<「共通基本概念」=「国民性」の数式が成立ち「国家」を構成する。
ここが米国の「移民族の国家」の「思考原理」と異なるのである。恐らくは100万遍労を駆使しても、彼らには充分な理解は得られないだろう。
つまりは、「移民族の思考原理」で、「融合民族」を評価した事に成る。
それは彼等(ヨーロッパ系の民族)が示す”自己の民族の思考の優越論”からくる論調の結果であろう。(筆者は特にこの論調で議論になった多くのこの経験を持っている。)
つまり、「融合民族の思考原理」≠「移民族の思考原理」であり得る。
彼等の”思考の矛盾点とも云える。
そもそも、この「世の自然原理」として万物に適合する摂理として ”考え方が違うから「同じ考え方」の者が集合し、だから「国家」として「屯」を民族は構成する。
人間のみならず鉱物も同じである。万物の核の構成もこの自然摂理で成立っている。
従って、この関係が無ければ「屯」はしない。「屯」の前提である。価値観は良く似ているが考え方が違うと云う事である。価値観=考え方では必ずしも無い。
故に、”「優越」を前提として他民族の考え方を否定し低く見る思考原理”の「民族性」は矛盾である。
「民族性」、或いは「国民性」が低かろうが高かろうが存在するのである。
”優越するから相手には考え方が無い”と云う事でもないし、”無視しても良い”と云う事ではない。

最近は、”世界の平均的な考え方”として「グローバル思想」と云うものが漠然とあるが、「屯」を構成する国内の行為ではこの「グローバル思想」は別問題である。
取り分け、「尊崇の念」の様な「国民性」は国内では「是」である。「屯」を構成する以上は国内では”グローバル”ではない。「国民性の坩堝」の中にある。
それでなくては、”日本国では無い事”に成る。周りが「国民性」が無くなって、全てが”グローバル”に成ってしまったら「屯」では無く、果てには「国家」では無くなる。米国の様な国に成ってしまう。
しかし、端的に云えば、「尊崇の念」は”尊敬に値する概念”であり、所謂、世に云う ”グローバル”であり、「良い国民性」である。
「尊敬の強弱」はあるにしても、”尊敬を否定する者”は幾らなんでも、”グローバル”ではないと「米国人」でも云わないであろう。
ところが、況や、この「国民性と伝統」に対して ”グローバルの末の形”には相反するものがあるのだ。”グローバル”が進みすぎると「国民性と伝統」がアメーバーのように食われてしまう危険性を持っている。
強いて云えば、「国民性」は、兎も角も、最近では、この行過ぎた”グローバルの考え方”が「伝統」を消し去る「最大の要因」と成って来たのである。
そもそも「伝統」とはその国の「国民性」が構築するからだ。
依って、国内までも、この”グローバル”を容認するも”絶対的な思考”として持ち込むべきではない。
何故ならば、”グローバル思考”の果てには、論理的に”「伝統」の否定”が起こる。
重ねて何故ならば、「国民性」を維持しているのは「伝統」であるからだ。
むしろ、”グローバルの考え方”は、諸外国、取り分け先進国との「政治と経済の運用手段」、又は明快に「知識」として位置づけて活用するべき考え方である性質のものである。
つまり、「国民性」を色濃く持ち「伝統」が多く存在すれば、その果てには ”グローバルの思考”は成立たない訳である。
そもそも、”グローバル”の思考は他民族が共通の場で共存して生きて行く為の ”平均思考のルール”である筈で、依って、米国の様な「他民族の坩堝」の「移民族」の中の思考が主と成っている。
最近、世界情勢から”難民と移民の傾向”が進み、各国は「移民族化」を起こしている事による流れの現象もその一つであろう。
日本の様な、「異民族」の「他民族」が、初期に唯一”「単一融合化した民族」には、つまり、この「国民性」や「伝統」が多く存在する国には、この”グローバル”はある範囲では容認するも「要注意の思考」であろう。

そもそも、”グローバル、グローバル”と鬼の首を取った様に云うが、確かに、「世界の民族」の考え方や商習慣や社会習慣等を知る事は、上記している様に ”「国民性」を知った上での判断の事”として指摘しているが、何も全ての考え方を ”グローバルに成れ”と云う事では無く”、グローバル”に成る事そのものが目的では無い。
そもそも、「語学の習得」がグローバルと思っている節がある事は問題で、それを成し得るに必要とする一つのツールであっても、「全ての目的」でもなく、要は、相手の国の「良い国民性」を良く知る事に重点を置く事に成るのだ。
今までも、日本の発展に供したのは「語学」のみならず、”何らかの方法”で「異民族の国民性」を勉学し、習得し、それを以って折衝して来たが、その際には互いに何とか「共通の理解」を得て来たのだ。無かった訳ではない。
それには先ず何よりも互いの「良い国民性」を良く理解し、互いの「悪い国民性」を指摘し、排除して、「コミニュケイション」を得て来た。
矢張り、この様に論理の終局は ”、グローバル”は「良い国民性」に繋がる事なのである。
ただ、ここで「卑屈と萎縮」を排除して、我々日本人はより一層の「コミニュケイション力」を獲得しようとするものである。
昔は、筆者は、中国や世界各国から来た「企業実習生」と懇談してこの事に付いて議論した事がある。
世界で活躍して貰う為に ”グローバル的な行動と考え方”を、端的に、彼らに理解を得た例題は意外なものであった。それは当初、彼らに云わせれば、”国民性の良い悪いの判断”が付かないとの事であった。その理解を得たのは、それは、何と”「立小便」”である。
私たちの若い時には、この「道端の立小便」は何の抵抗もなくしていた。不思議に爽快な一時であった。しかし、「良い悪いの国民性」はこの「道端の立小便」の例で有った。
中国人は、最初、猛反発した。その「論理の根拠」は、矢張り、”「小便」は、”人間が持つ最も自然な生理機能”であり、”人は無条件にその「自然な生理機能」を尊重すべきである”と主張した。
矢張り、「法より人」の考え方に従う国民である。
その例に挙がったのは、「観光地での立小便」で、中でも”「富士山登山」で外国人は平気で立小便や痰の排出などの「生理機能」を到る所で平気に果たしている”とする批判があった。そして、注意すると、矢張り、「上記の論調」であった。
そこで ”中国では良くても日本では「悪い性癖」なので、この「悪い性癖」は世界の先進国でも「悪い性癖」であり、何処の国でも「社会の良い環境」を維持する「ルール」を破壊する「悪い性癖の国民性」であるのだから、貴方達の言い分には一理あるにしても、世界の「平均的な約束事」として護らねば成らない”と説いた。
日本にいる場合では「日本の法」に従うのが普通であり、「中国の法」に従うとする論調は異常である。依って、「仕来り 慣習」も例外ではない。
例え、「法より人」の考え方を持っていたにせよ日本では古来より「人より法」の社会と成っている。”自己の主張をするのであれば日本から出て中国でして貰いたい”と繰り返した。

元々、実習でも「自国の考え方」を日本でも平気で主張する傾向があり、なかなか注意を受け入れない傾向(国民性の性癖)があった。挙句の果てには、”中国は大国である”と虚勢を張って主張する始末であった。まさに例外なく「中国人」である。

”「人、時、場所」の要素が異なるのだから、日本にいる限りは「日本の慣習や考え方」を少なくとも護るべきだ。その「日本の考え方」が「良い考え方」であって、「世界の考え方」の平均に成っているのであれば少なくとも守るべであると、その事に依って、現在の「日本の発展」に供しているとした考え方が、要するに「良い考え方」の定義なのだと、「良い考え方」(良い国民性と伝統)であるからこそ発展したのだ”と説得した。
そしてところが、現在の様に国が発展した日本も60年前までは例外ではなかった。
しかし、”この様な事を改め無くして行った”と説いた。
国に帰り「日本の様に発展した国」を作りたいのであれば、”「悪い性癖の国民性」は排除しなければならないのだ”と、それには”「立小便論」を会得せよ”として彼らを納得させた。
”何時もグローバルを考えた時には「立小便論」を思い出せ”と説いたのである。
この「立小便論理」で、”「意匠問題」に繋がる「物真似」も同じである”と説いた。
日本の労働条件や日本の商慣習など数え切れない考え方もこの「立小便論」でクリヤー出来た。
要するに、それは全て”「グローバル」”で、「日本の良い国民性」であった。
その時には「語学力」は「大きな問題」では無かった。
その秘訣は、”双方の国民性の対比が出来る程度のカタコトの語学力”であった。
これが、”グローバル”の判断なのである。

筆者は、結局は、「グローバル」=「国民性」の関係にあると信じている。
決して、”適度のグローバル”は、”「国民性」、或いは「伝統」を否定するものではない”と云う事である。「日本のグローバル化」はそれを前提としなければ成らないのだ。
何も「国民性」を否定した”行き過ぎたグローバル”ではない。
この「失望」のコメントをだした人物や機関は、この考え方を失落して優越論の末に更には「感情主観」に走ってしまったのである。

因みに、中国は「偽物」を平気で作るが、彼らの言い分は、人間には、本来 ”物を真似るという本質”を持っている。故に、”その「本質」を働かせるのは何故悪い”と云う言い分を決まって述べる。これには一理はある。
しかし、”グローバル”では、これは許さない。しかし、依って、彼らは「意匠権・商用権などの特許権」を認めようとしない。しかし、これは「良い国民性」を代表する「概念」ではない。何でもかんでもではない。
「尊崇の念」の様な「国民性」を物語る「良い伝統」を伝える概念は”グローバル”の対象ではないのが定義だ。
依って、国内は「国民性」であるべきである。国内にも地方色がある様に、「情緒豊かな環境」であるべきである。
”グローバル”は ”「他民族との折衝の場」の「共通する手段」” として「別の認識」として持って置かなければ成らない「知識の領域」の事であるべきだ。
依って、”グローバル”に拘って、「国民性」、即ち「尊崇の念」の為にも、国内ではこれを否定する「卑屈と萎縮」を取り除くべきである。
敗戦に依った「卑屈と萎縮」がそれを(必要な適切なグローバル化の遅れ)起こしているからだ。
逆に、彼らの「優越論」は、この”グローバル”の過剰思想の所以である。”グローバル”に陥り過ぎても優越論の様な事に成り好ましくない。
彼らには、「自分の国の考え方」が何処でも”グローバルだ” と必要以上に考え過ぎているのである。
確かに、グローバル”の多くは”自由”を前提としている「移民族の思考原理」に多いのは否定できない。
そうでなければ、彼らの社会は構成出来ないであろうことは否めない。
米国は、国内でも「自由」を前提とした思考原理の”グローバル”の概念だから、国外も殆ど”グローバル”の概念に成っているから、他国の国内でも”グローバル”の概念であるべきだ” と思い込むのも無理の無い事だが、ここに彼らの矛盾点がある。
然し、国内は「屯」を構成している以上は「国民性」を保持するべきである。
”グローバル”は「国民性」(伝統)を否定するものでは決してない。
故に、2「良いとされる国民性」”が存在する限り、他民族の者は、この場合は、「日本民族の思考原理」が同であるかを思考をめぐらして「答えの発言」をしなければ成らない訳であった。

しかし、米国の「失望論」はしなかった。自らの「民族性の欠陥」から、これを欠落したのであり、当然にその思考は「政治の場」の判断としては低質すぎるし、「感情主観」である事になる。
まあ、百歩譲って「感情主観論」のものであるとして、妥協して考察すれば、次に、この「主観的感情論」にその国民がどの程度のウエイトを置く思考原理を持っているかに問題は移る事に成る。
ところが、移民族の他民族の国家であるから、論理的に考えれば、相反する徹底した「合理主観論」が「共通する概念」となろう。
しかし、この「失望論」は、そんな環境の中でも、「感情主観論」を展開した事に成る。
つまり、今までとは異質のコメントに成る。大使館を管轄する国務省コメントであるが、大統領府のコメントではないところにまだ救いは有る。国務省だとしても問題は問題である。

これには”米国の失望”の根拠とする中には”仲良く”と云う思考と、もう一つ ”相手を信用しなかった”と云う意味合いが大きく潜んでいる事になる。
過去に「信用」していたが、「靖国」で「信用」できなくなった。だから、「失望」した事に成る。
「信用」していなければ「失望」には成らない。現在にも”信用しない”と発言した事に成る。
この「失望」には、この”仲良く”と、”信用”と云う問題にすべき要素が含まれている。
だから、この2つの事の「米国の失望論」に対して日本の人々は「違和感」を強く感じて ”センセーションの渦”と成ったのである。(日本の反応に対して彼らは当然の如く驚きヒートした。)
その”仲良く”に対しては、今、”仲良く”とする行動を採るべきか、その”時期”にあるのか、どの様な”仲良く”が存在するのか、はたまた”仲良く”した先には”何”が待ち受けているのか、普通は考える。
少なくとも日本人の「国民性」からすれば、常識となっている「人時場所の思考原理」を働かせる。
そうしなければ「7つの民族」が融合して「屯」を形成させる事は不可能であったし、現在も同じである。
だから、”うん、変化だ、おかしい、異質だ、その先には、果たして「同盟」に与える影響はどの様になるのか、今後、どうすればよいのか、” を瞬時に考えた。と云う事に成ったのである。
それが「噂」では無く、日本大使主導の「正式な国務省発言」であったからだ。

そして、「信用」には急に出て来た「米国の態度表明」でもあった。
そもそも、この”「信用」”には、仲良くするには色々な「政治の場」での「条件や立場」がある。
それなのに「自分の国の思考原理」だけで低質で短慮に単純に考えて、日本が ”米国の言う通りに行動しないと、今後、信用しないよ”と成る。
「信用」しなくても良い、「同盟」と云う事を結んでいなければそれでも良い。
「同盟」は”信用を前提”として成立っているからだ。「信用」できない相手と「同盟」を結ぶ事は無い。「信用」=「同盟」の関係にある。
つまり、この”失望した=信用しない”と発言した米国は、暗にこの「同盟の破棄」を結果として臭わしてしまった事に成るだろう。
更に突き詰めれば、次の米国との「政治交渉の場」に、この「失望」、”信用しないの発言”を取り除かないと、”何時まで信用されていない外交交渉”をする事に成る。
「同盟」の中では有り得ない事に成る。
例え、「失望感」があっても思っていても発しては成らない禁句である筈で、それを発してしまったのだから、日本側は、今後は注意をして置かなければ成らない事に「政治の場」では戦略上は成る。
ある政府の高官が発した言葉では無く、大使や更には国務省の正式コメントであるのだから、十分にこの禁句のチェックは効いていた事に成る。失言ではないのだ。
オバマ氏と習氏との会談以降、米国は”中国より”に発言するように成っている事には失念しては成らない。大なり小なり ”同盟の如何”に変化を来たしている事に成る。
自衛隊との合同演習にもこの態度は露骨に出始めている。

「米国が観る中国」と、「日本が観る中国」とはその「国民性」が異なる為にその重要性は異なる。
「日本が観る中国」は、事を起こせば軍事と経済に於いて、中国がそのファンダメンタルが外資に頼っている比率が大きいし、取り分け、日本に頼る事が強い筈で、「一国二制度の矛盾」を持っている事から「共産党の崩壊」に繋がるは必定で、「尖閣問題」の様なある程度の小競り合いはあるにしても「実戦」は起こせない筈で、故に「政治の場」の駆け引きの範囲の「虚勢」は張る事には成るだろうし、これからも続く。
そもそも、「一国二制度の矛盾」は市場経済の制度は「自由」を前提として売買は進む。
「市場経済」を無制限に進めれば人は「自由の良さ」を知り、政府に対して「自由」を求める。
しかし、「共産主義」はある程度の「自由」を制限する主義である。依って、何時かこの「自由の要求」が強く成った時点で論理的に「乖離」が起こる。
その「乖離」は、何かキッカケで起こる筈で、”日本とのある程度の争い”でその矛先は共産党の政府に向けられるは必定である。従って、中国国民向けにも「虚勢」を張り通す事になるのである。
要は、日本が「弱み」を見せない姿勢を日本側が採る限りは現状維持を図る事は出来るだろう。
それには、別つの意味で ”「卑屈と萎縮」は禁物である”と観る。
むしろ、「中国」と云うより先には「失望」と云う言葉を発する「米国」との関係の悪化が懸念される。
それは、日本が[ファンダメンタルの影響]の”歯止め”と成る垣根が無い米国ならではの事であるからだ。
筆者は、米国が「中国よりの政治路線」をこれからも採る限りは、この事が「第2次大戦の経緯」を辿る事に心配をする。
その意味で ”失望した=信用しない”には、この「失望」と云う発言に危機感を感じる。
日本側が絶対に避けねばならない「経緯」である。
そもそも「戦争」とは国家の明確な「意思」では無くその前の「経緯」から勃発するものであるからだ。
上記した様に、「中国より米国」と「失望発言」と「習会談」や「合同演習」などあらゆる関係を考察するとその危険性が懸念される。
況して、「自主防衛」「憲法改正」「基地返還」「米国を凌ぐ経済発展」等を進めれば、「日本の発言力」は増す事は間違いはなく、”米国側に採ってこれをどう観るか”と成る。
まさに、「第2次大戦の経緯」である。又、「石油の制限等の経済封鎖戦略」で来る事は最早無いであろう。
しかし、一つその懸念事項があるのだ。それは「日本産のエネルギー資源」が発見されて充分な資源国に成った時点では、事態は異なるだろう。
メタンハイトレートや自然エネルギーが発見されて来ている現状では「資源国」に成る可能性は高いし、その対策は進んでいる。10年程度の先には、資源国に成った事に依る危険な問題が露出して来るだろう。
何故ならば、資源に掛かる経費は日本全体の経済の国家予算の最大5割程度を占めている現在、これが資源国に成った事に依ってこの経費の多くは浮いてくる。
問題は ”この経費が何処に回されるか”は明らかである。「資源国」を護る為の「国防費」となるは必定である。そうすれば、「卑屈と萎縮」を持つ日本に関わらず、エネルギーで「世界の勢力図」は変わる事に成る。石油枯渇の問題もあり、当然に、隣国と先進国は今以上にこれを警戒する。
これが戦争への逃れ得ない「経緯」の流れの一つに成るのだ。
むしろ、現在の中国と韓国と米国のイライラは内心はここにもあるのだろう。
「憲法改正」や「自衛権拡大」などの保守化が進む日本がこの立場に立てば、その実行するファンダメンタルは充分にある事から、「現実の問題」と成って来るのは間違いない。
だからと云って、「卑屈と萎縮」をそのままにしてはこれからの国が発展するチャンスを失う。
元々、他国と異なり、”「国民性」として優秀な「発展する能力」とその「チャンス」”に恵まれているのだから、「卑屈と萎縮」をそのままにして圧力に屈し現状で甘んじる手は無い。
日本が資源国に成る事は”鬼に金棒”である。この為の要素が日本の周囲には整いつつある中で唯一つそれを成しえる為の「心の気概」に不足している。それが「敗戦の後遺症」の「卑屈と萎縮」であると談じている。
その為にも、今以上に成長させるには「卑屈と萎縮」から脱皮する事が必要で、今の様な態度の維持はこれを成し得ない。それには”米国の失望から来る圧力”に屈しては成らないのである。
しかし、屈しないと、上記の経緯を辿る羽目に陥る事は必定であろう。
そもそも、日本での日常の会話の中では、「失望発言」は上から目線である。圧力を臭わしている言葉になる。日常会話の中ではないとすると、少なくとも日本人はその様に採るだろう。
言葉のニュアンスは「国民性」であるので、”上から目線を彼等に租借せよ”とまでは云わないが、圧力的な意味合いは少なくとも「失望と信用とする言葉」からはある。
そもそも「2者択一」である。この事を韓国は別として中国は必ず観ている筈である。
何故ならば、中国の「国民性」や「政治事情」はあるにしても、両国は古代からの「歴史の関係」から良く似た思考原理をそもそも採るからだ。
因みに、「駆け引きの古書」の様に、上記した様に「六稲三略」はそれを具に物語っている。
この「六稲三略」は政治や軍事や経済の駆け引きの場で使うが、日本と中国は古来にこの中国から持ち込まれた考え方を「駆け引きの思考の原点」としている。
従って、この「思考の原点」から、むしろ、中国は「米国の失望論」で「虚勢」の足しに成る事からほくそ笑んでいるだろう。
「一国2制度の矛盾」をクリヤー出来るからだ。自ら手を下さずに「米国-日本の関係」が崩れてくれればこの矛盾の危険性は排除出来るからで、「虚勢」の代わりに成る。

先ず、次に、この”仲良く”には、「国家」や「民族」と云う前に「人の性」の思考原理にも関わる。
そもそも”仲良く”は「女性的な思考原理」に左右されている判断で、特に”政治の場”ではあまり採用され得ない思考である。
何故ならば、”主観”である事によりその人によりその”主観”が異なるからで、千差万別の結果が招かれるから賛同が得られにくい思考であるからだ。
当然に、主観であるから”仲良く”の程度も千差万別と成る。
喧嘩状態でも”仲良く”とする論調も生まれる。
しかし、”仲良く”は否定はしない。”仲良く”が採用し維持できる環境である事に越した事はない。
では、百歩譲って、この相手の国の中国と韓国に、ここで ”その”仲良く”を採用したとして、果たして、その ”仲良く”の「良い結果」を招き入れる事が可能であるのか大いに疑問である。
恐らくは、過去の事例から ”歴史認識”と云う理由を背景に量にかかって更に上から言い続ける事になる。恐らくは、その過去の遺恨から土下座してでもいい続ける筈だ

何故ならば、事実、日本はこの2国を過去にその理由如何によらず「侵略した行為の非」を持っているからだ。された方にすれば、”「侵略の恥部」は何年経っても消し去る事の出来ない憤懣のしこり”であるからだ。
中国の様に”面子を重んじる国民性”では、「政治の場」や「教育の場」に「喧伝の道具」としてこの「憤懣の誇張」を持ち込んでいる。
況して、この2国には不幸にしてか合わせて「儒教思想」から ”過去に拘ること”を推奨する思考原理”をも「国民性」として強く持っている。それ故に効果は大きい。
それだけに「過去の事」に拘れば、中国にして観れば、各国から侵略された為に、”今はそうじゃないんだ”と「虚勢」を示し続け無ければならない事になり、それには「国民の目」を外に向ける必要が「政治の場」の事として戦略上ある。放置しておけばこの「憤懣」は政府に向けられる事に成る難儀な事がある。
それには、日中には格好の事がある。

その前に参考として、因みに、最近の”中国の中古空母の購入と改造”は「虚勢」の最たるものである。
現在では空母は近代戦の戦略上は無用の長物と成りつつある中では「中国の虚勢」を示したものに成る。何故ならば、この空母とは「最大の軍事費」の掛かるもので、経済成長の低下の中では将来は無理であろう。兎に角、空母は「周囲の戦機」が整わないと使えない代物であるのだ。
これからは「イージス艦の保有」であろう事は明々白々で、空母にしても「ヘリ空母」が機能的に戦略上良く働くと見られている。
(この「ヘリ空母」とイージス艦とは日本は主体的に保有し、その製造は日本の独断場である)
この様に、中国には政治戦略上、アンバランスが多く良く考察すると「虚勢」と見られるものが多いのだ。

それは「過去の日本の侵略」であり、これを誇張する事で国民に「憤懣」を助長させる事が出来る。
既に、戦後70年も経っているにも関わらず、この動きは衰える事が無く、常に格好の”日本非難の材料”として使われている。
こんな「格好の事」は先ず無い。”過去に拘る儒教の国民性”もある事からその効果は実に大きい。
今までは教科書にも載せての喧伝であったが、現在では、「改革開放路線」と「情報社会と経済進出」から真実を国民は知った為に、この「格好の手段」に効果が採れなくなったのである。
その為に、今度は「尖閣問題」と「防空識別圏」等の問題を持ち出して「格好の手段の国」として日本に「虚勢」を張り出したと見るべきであるが、しかし、これも”笛吹けど踊らず”に成って来たのである。
むしろ、日本を肯定し政府を攻撃し始めているのである。
しかし、国民の間では、概ね、「醸成化」に向かっているだろうが、これでは「虚勢」は成立たない事だし、その効果は低いから、何か”小競り合い” になる事を持ち出してくる事は今後も必定である。
その意味で、「絶好のチャンス」で、今回の「米国の失望論」は願ってもいない「格好の事柄」であった筈である。
自ら手を汚さずに”米国と日本の間に楔を入れる事”が出来たと云う点では叶ったって得られるものではない事で、最も「虚勢」の張る事の障害と成っていた「同盟」に楔を打ち込んでくれた、と観ている筈である。
その意味で、今回の”米国の大使主導の失望論は低質である”と云えるのだ。
その考えは「性」を超える事が出来なかった事を示す。

そもそも、この「感情主観の性」は、”神が人間に与えた絶対的な「性」”であって、この「感情主観」の「性」は女性が持っている。「女性」である限りはこの「性」から脱する事は出来ない。如何なる「男性の論理主観」を持ち得たとしても”イザ”と云う時にはこの感情主観に左右される。
これは決して「良し悪しの問題」ではない。況して「差別の問題」ではない。「神が決めた事」である。
問題なのは、「政治の場」では、残念ながらこの「感情主観の論調」は通じ得ないからだ。
今回はこの「政治の駆け引きの場」にこの「失望」のコメントを出した事にある。

恐らくは、これからもこの失態は間違いなく続くだろう。況や、これを繰り返せば、「同盟」に不必要な傷をつける事に成り、最悪の場合、日本は「卑屈と萎縮」を排除して「積極的平和外交」を続けるのであるから、上記の経緯に不本意に乗ってしまう事に成るかも知れない。
そうかと云って昔の様に、”米国の言い分と圧力”を飲んで無理やりに”仲良く” して、「卑屈と萎縮」に戻る事も出来ないジレンマに陥ってしまった事に成る。
況や、「卑屈と萎縮」をそのままに「憲法改正」は有り得ない。
日本側から見ると、”実に馬鹿なコメントを出してくれた”と成ってしまった事に成る。
先ずはこのコメントを無視する事が得策であろう。
無視される事で「自分の発言」(大使)に何かの異質に気がつく事を狙う必要がある。悪戯に反応してはならない。反応し続けると、上記したこの「最悪の経緯」に乗ってしまう事になるだろう。
要するに、「低質な性」から来る「米国の国民性」の露出であろう。
しかし、当のヒートした米国のこの事に対する主導する意見は、矢張り、「移民族の国民性」と云うか、「ヨーロッパ系の民族優越論」が花を咲かしている。
「同盟」を前提とする「失策の言」の意見は極めて少ない。
意見が少ないと云う事は、「同盟」は日本では「防衛の要」と考えているが、強国の米国側では比較的「同盟の意識」が低い事が云える。恐らくは米国の ”中国より”もここから来ているのであろう。
米国としてはこれは当然の事であろう事は良く判るが、米国側にしては大なり小なり自国の「直接的な脅威」であると云う訳ではない。極東に於ける平和維持の同盟である事は否めないのであるから、一歩譲って、日本側への「失望」コメントの「同盟意識の欠如」は、この観点からはまぁ仕方の無い発言とも取れる。
但し、それは”米国の国民の範囲の意見”に限られるのである。
日本を良く知る者の意見でも「民族性の概念の違いの神社論」とする意見は無かった。
筆者の過去の経験とほぼ合致するものでヒートしている。「中国重視論」が意見上に出ているのもある。

そもそも、逆に、自画自賛には成るが、「日本人の国民性」の優れているところは、この「仏教的思想」から”未来を志向する点”にあり、現に過去に敵対して占領された米国に対して、この”しこり”を消し去ってしまう「国民性の思考原理」を持っている程である。東北震災時の”友達”を物語る。
まぁ ”過去に拘る性癖”より人生を鑑みると ”未来志向の性癖”の方が生き易く楽しいのではないだろうか。「反省力」がないと彼等から批判されるだろうが。
「色即是空 空即是色 空不異色 色不異空」と仏教の「般若心経」は教えているのだから、「良悪」の問題でない。

その「未来性の志向原理」を持つ国民に対して、それから2年後に”失望”と云う態度で米国は示したのだ。「失望論」は「人時場所」に依って使い分けるのが上質の人間がする思考である。
この事に依って、その人、或いは「民族や国家」を周囲は高く評価する。
現実に日本人は高く評価されている。
つまり、日本が持つ「人時場所」の判断要素が、考え方の異なる「移民族」で構成されている事自体がそれぞれバラバラなのに、更にはその「異なる移民族の米国」は自由奔放な「移民族の思考原理」を前提にして日本を評価したのだ。
自分の狭い思考原理で相手を評価してしまったのだ。
この傾向はヨーロッパ゜系の民族に極めて強い。
どう評価するは勝手であるが、「同盟」と云う前提にある事を忘れてしまった「感情主観論」である。

そもそも、米国は別にして、中国と取り分け韓国の「国民性の思考原理」は、その儒教の影響から、”過去を重視し、” 仏教の日本の国民性は、有史来、”未来を重視する性癖”を持っているのだ。
違うのだ。違うものを味噌糞を同じにして思考するは、その判断能力は感情主観にしてもあまりに低質すぎる。
故に、その日本はこの状況の米国に対して、中国や韓国の様に過去に拘らず、「未来の有り様」に思考原理を展開するのである。そして、現実にその敵であった米国の良いところを吸収して今や米国に勝るとも劣らずの近代国家を未来に築いたのである。この判断を忘れている。
これは日本人の「武道の精神」の”負けて勝つ”にあるのだ。
その”負けて勝つ”の精神を構成しているのが、他に類と比を観ない”「尊崇の念」の強さ”にあるのだ。
これが中国や韓国に観られない「日本人の国民性」なのだ。
恐らくは、つまり、この精神をなくしては、”日本と云う国家”は成立たない限界の一線なのである。
その事を今回の米国の国務省の判断はそもそも欠落している。
(情報では日本大使の意見が主導したらしいとあるが、今後、”失望”と評価する根底の知識力に注意しなくては成らない相手と見られる。弱体化する今後の米国に、この様な間違いの判断が示される可能性が強い。)
そもそも、この様に、「政治の場」は国家の「駆け引きの場」である。
普通の商業の交渉の場ではないのだ。
「国家の主体性」を如何に相手に強く示す事が出来るかの「戦略の場」なのであって、場当たり的な「戦術の場」ではない。この「戦略の場」で負ければ、それは「国家が負ける場」なのである。
まさに”失望”とする判断は、「国家の主体性」を意味しているのに、この「米国の失望論」は「戦術の場」のものである。
この事はまさに米国は今回の事で”政治の何たるか”を失念しているのではないかとも思える。
故に、米国の言う通りにこの2国に対して、「国民性」が色濃く出ている国家の為に命を投げ出してくれた「尊崇の念」で譲れば、「国家」がまた負けるのである。
「実戦」で負け「国民性」でも又負ける事になるのである。”これでは申し訳が無い”とする感覚が強く生まれる「国民性」である。他民族とこの一点が違うのである。
(戦後、敗戦と占領の結果、「自信」を喪失して「卑屈と萎縮」が蔓延りこの傾向が強く成った。)
まして”「個人」”では無く”「日本民族」”と云う「国家」に命を投げ出してもらったのである。
当然に「国家」がこれに対して深い「尊崇の念」を示し、「向後の責任」を負うは当然の事であって議論の余地は無い。その責任の”表現の仕方”が他民族とは異なっているし、その強さは「基本概念」とも成っているのである。
日本民族の者の ”最高の尊崇の念を表現する方法”は古来から引き継がれて来たもので、それは「自然神」から来る「神道」との結びつきの表現なのである。
「神道」との結びつきの無い方法もよくあるが、それは一段下がった念の行為である。
「日本人の国民性」はこの様にあらゆる様々な「念の表現方法」にも「差別化」を図り、その重要性を表現するのである。
その「神道」の神社も、日本人の中で、多くの神社のある中でも限定して、戦死した人も国民も「靖国神社」と決めているのであるから、「靖国神社」に参拝して「尊崇の念」を表現する事は「最高の念」の表現方法に成る。
日本人の中にコンセンサスとして決めていなければ再考の余地も有ろうが、”靖国で又逢おう”と誓って散っていった人の意志を尊重するは「最高の念」の要素でもある。
これを無視する事では「尊崇の念」は成立たない。
例え、その「神社」にどの様な人物が祭祀されていようと「尊崇の念」には無関係であり、止めさせようとする念の低い一派の”こじ付けの低質論”であり、「尊い命」を「国家」の為に捧げてくれた故人への為にも左右されるべき事では決してない。
他民族、取り分け米国の様な「移民族」は、十束一絡げに「戦没者慰霊碑」で事は済むのであって、他民族国家である所以から日本の様な差別化した「神道」などと結びつく「尊崇の念」の表現方法はとり難く、「集約的な概念」の祭祀と成る事は無理な事であろう。
故に、「ヨーロッパ゜系民族の優越論」以外にも、この”他民族”と云う事も誘引して「差別化の概念」は彼等には無いのである。
依って、彼等には「神道と尊崇の念」との結びつきに対して”理解する事”は「困難」と云うより「無理」と云った方が適切であろう。
先日、米国の2人の長官が、”これ見よがし”に日本の「戦没者慰霊碑」に参拝したが、何も”靖国に参拝してくれ”とは云わないが、その彼等の思考原理の表れであって、「靖国神社」と「戦没者慰霊碑」とは、日本人の中では「最高の尊崇の念」の表現方法が異なっているのである。
「靖国神社」は上記する様に「命の約束事」の場であるのだ。
「戦没者慰霊碑」は国が行なう「政治の場」での「祭祀の場」に過ぎないのだ。
「最高の尊崇の念」と云う行為の中には、この「命の約束事」が条件と成っているのだから、この「命の約束事」が欠落すれば、それは「最高の尊崇の念」には成らないのである。
故に、その彼等の思考原理の感覚からすれば、「神社」との結びつき、又は「靖国神社」への「差別化」の「最高の念」の「表現方法」に理解が成し得ないである。
「卑屈と萎縮」の所以の一つとして「最高の尊崇の念」をかなぐり捨てて ”「戦没者慰霊碑」で良いのではないか”とする意見とは、この”国家に対して投げ出してくれた命”への「尊崇の念」の行為の表現とは異なるのである。
つまり「最高」では無くなる事の行為となる。他の「尊崇の念」であれば下げてでもそれでも良いが、この一点は譲れない「尊崇の念」の行為なのである。
個人で親などが自分の為に命を投げ出してくれて、自分の命が助けられたとした場合、その人は一生その人たちに感謝し、その人に執って最高とする「尊崇の念」を表現するであろう。
それが「国家」であり、強いては「父母等」に対しての保護などの報いと成る。
「国家」と成るからその念の表現が希薄に成る傾向がある人がいるが、それを国を代表するものが代して表現したに過ぎない。その表現方法が最高の方法で表現した事に過ぎない。
奇異に感じる事はその人に「希薄の感」がある事を否めない。
何故、希薄に成ったかは云うまでも無く「卑屈と萎縮」の所以である。
現に、自分の足元を観て見れば判ることである。
それは個々の家庭で毎年行なう「尊崇の念」の行事として、正月から年末まで行なう数々の祭祀の行事には、その多くはこの「神道」との結びついたものが多いのは、この日本人の「尊崇の念の差別化」の結果である。
中には「伊勢神宮」や多くの悠久の歴史を持つ由緒ある大社に参詣して、わざわざ「尊崇の念の差別化」をして、その「尊崇の念」に対する経緯の表現を採っている。
筆者は他民族との間で議論した数々の経験を持っているが、この「尊崇の念の表現方法の差別化」には理解は得られなかった。
特にキリスト教徒との議論は殆どの機会で白熱したが、韓国人との議論は別の意味が介在して議論に成り難く、「儒教」と云う点でも合致点は得られなかった。
しかし、儒教の中国系の者との議論にはある程度の理解は得られたが、”其処までする必要性が余り無いのでは”との結論の様であった。
それは”其処まで、と余り”とする意味にはある程度の合意や賛同の意味が潜んでいた。
そもそも「中国の儒教」には、我々日本人と同じく「日本の神道」には ”「自然神」を基幹とする中国の祖神の「鬼道神の流れ」”がある事と、”仏教の通過国”でもあり、更には ”法の政治より人を重視する思考原理”が彼等に存在する事から ”何らかの共通性”を感じたのではないかと考えられる。
何せ「文化や概念」を輸入した「過去の模範国」であった所以であろうし、日本人には2割程度の漢民族の融合族が存在する所以でもあろう。
何せ、その元を正せば、そもそもの「安倍氏」は6世紀の帰化人の後漢民族の首魁の「阿多倍王」の支流末裔の氏である。皮肉なものであろう。
「政治の場」が働いた事以外はもう少しの「醸成期間」が得られれば、民間の中国人には決して理解が得られないとは考えられない。
故に、筆者は中国は、この”靖国”には「政治の場の駆け引きの道具」にされてはいるが、一般国民には同意は得られていると考える。
今回の中国の国民の”笛吹けど踊らず”の結果は、この表れであって「靖国の問題」は、”心底からのものでは無い”と観ている。
そもそも、江戸時代に儒教は幕府に依って日本人社会に不適合として、関係者全てが一生投獄されて根絶させた歴史的経緯があるし、日本の生活のなかにもその名残が未だ色濃く残っている。
例えば、判り易い例として、「正座」である。儒教では礼を正すときには「正座」をする。しかし、仏教では「胡坐」であり、女性は「立膝」が正式な礼法である。
共通の慣習は遺されているのだから、「以心伝心」で何かを通ずるものがあるのだ。

チャツト意見にあった”「虚勢の表現」の「政治の場」の道具にされている”Tと考えられる。
中国の「改革開放」から閉ざされた窓が開き、「真の日本」を知り、更には上記する「共通点」を知り、「親近感」とまでは未だ行かずとも、ある程度の「理解」が醸成して来ている状況の中にあると観ている。
韓国は本来は共通点は多いし、中国とは異なり窓は自由に開かれている。
醸成する範疇でも無いし、文化や概念も古来より「倭人」が南韓域に韓民の1割にも成る程度に融合していて、日本では3割にも成る韓国人が融合している関係にある。
しかし、中国の様に、”醸成するキッカケさえ掴めば理解は得られる”と考える事も出来るが、韓国は元よりこの「醸成のキッカケ」は既に出来ている。
問題は、儒教から来る”韓国民の過去への拘りの性癖”にあり、且つ、女性大統領と成っている以上は感情主観論に左右されたその「性」から脱皮は難しい事と、「日本への借財」の「政治の場の駆け引き」から今はその時期ではないだろう。
この場合、無理をして”仲良く”を実行すれば、その結末には「無理の末路」が待っている。
その時期を待つ以外にはないと考えられる。
ただ一つあるは、韓国にやむなく「妥協の場」を発生した時にある。
つまり、再び韓国の日本への借財の原因と成っている「円安-ウオン高」で、「外貨準備高の不足」が起こる事以外には窓を開かないで有ろう。
その時がチャンスと成ろう。それ以外は「感情主観の歴史認識論」を持ち出して、何時までも日本に対して暗に「借財の放棄」を狙うだろう。

問題は、上記する様に、この様に「米国の失望論」にある。
これまた「女性大使の交代」に依って暫くはこの主観的で歴史の知識の欠落の論が起こり、難しい場面が出てくる事が考えられる。この今の米国のコメントの主観論は人が代われば、また元の知識と認識のある人物がなれば消えるだろうから、ここでも時期を待つにあると観られる。
では、何故、この「失望論」を出したのかを考えた時には、”米国のある焦り”が読み取れる。
それは、米国との同盟国の韓国に「外貨準備高の不足」が起こりかけているのではないだろうか。
「安倍氏の円安誘導」に依って、20円の差が発生した。
この差は「韓国経済」には大打撃である事に間違いは無い。過去に2度が韓国は「外貨準備高の欠損」を起こし、日本がこれを救ったがこれが大きな借財となっている。
むしろ、「韓国経済」が成長を遂げたのは、「円高」によって極度の「ウオン安」が起こり、三菱の電気と自動車のプラント輸出に依って、企業が起こり、これに円安と日本からの借財を全て注ぎ込んでその出資額の殆どを占める国家企業を仕上げ、その後、”恣意的な労働争議”を起こして三菱はその利益を無くして放棄した企業である。
しかし、ここに来て日本は円高誘導から円安誘導へと変換して経済を立て直しつつあるが、この影響を受けて、韓国は再び「外貨準備高不足の欠損」が起ころうとしていて、先日の日本の自衛隊による「アフリカでの銃弾提供」はこの現象を具に表している。
軍が遠征するのに銃を持って行くが銃弾を持って行かないのは笑い話である。
先ず有り得ない事態で間違いなく資金力が不足していた筈である。
米国は、この韓国の経済欠損の事を承知していて、アジア同盟国にスペインのような事が発生し、その中で中国や北朝鮮に戦略上の事が起こってはまずいと考えて、慌てて””仲良く”の言葉を発してしまったと観られる。
韓国のこの「経済欠損」を救うのは過去の2度と同じく日本だけである事を米国は承知している。
果たして、この償還は有り得るのかは疑問である。
この米国の失望論の背景の”仲良く”にはこの意味合いが強く含まれているのではと考えられる。
韓国は密かに米国に泣きついて行っているのではないだろうか。
「20円の円安」は”韓国にとって非常事態”で、この傾向はアベノミクスで未だ続くと考えられる。
間違いなくこの「欠損状態」が起こっている筈である。
そもそも韓国の国家企業には起こらない方がおかしく、この2大国家企業は日本の技術者のヘッドハントとに依って円安を利用して類似品を作った事による成長であって、その成長もその製品より優れた開発品が再び日本から再び出て後退している現状で、そのヘッド゛ハンティングの人材も高齢期に入り、その持った技術も古くなって「価格安い-品質は低い」に依って市場から後退している。
尚、この類似品の韓国の市場の実態は、「ウオン高」でドイツ製品等の攻勢が激しく、円安の原因以外にも「経済欠損の危機」が迫っている。
其処に「北朝鮮の動向」が働いている事と、TPPの事から米国は躍起と成って「政治の場」で日本に圧力を掛けたと観ている。
ただ、一つ、韓国経済界が上記の事を判断して韓国大統領に対して、”日本との関係を良くする様に抗議した”が聞き入れず、依然として「感情主観論」を展開して一方的な「歴史認識論」に拘り、韓国政府との間に「乖離現象」が起こっている事に注目すべき点であろう。
更に、最近、「河野談話」は韓国政府との調整により発せられた談話である事が日本政府と企業からつきあげを食った韓国政府の一部からも暴露された。
つまり、これによれば「歴史認識論」はすでに国家間で済んでいる事になる。
”済んでいること”に成っているものをわざわざ何度も繰り返すのかはそれは「政治の場」の事として判る。
恐らくは、これを座台にして借財の帳消しを狙っているのであろう。
そもそも、「歴史認識」では、その仮に日本に「歴史認識の悪さ」が有ったとしてその咎は日本が負うものであって韓国ではない。
況して、”歴史認識を無視するものに未来はない”と主意の発言をしているが、戦後、混乱の中からいち早く立ち上がり世界第2位まで伸し上がって生活力を挙げたのは日本であり韓国ではない。
日本に未来があった事に成る。日本の未来は日本人が追うものであって韓国ではないし、韓国が日本を救える力はまったく無い。
逆であり、上記する様に、最近に於いて「外貨準備高欠損」で2度も助けているし、今度も日本からの救助となろうが、ここで韓国に「外貨準備高の欠損」で日本が支援することは恐らくは不可能であり、アベノミクスは失敗に終る。
何故ならば、支援に依って「ウオン安-円高」が起こる事になり、その支援で再び国家企業にその資金の流入が起こるので、日本経済の足元をすくわれる結果になり、「国家的な失敗」をする事になるからだ。

「河野談話」でも、韓国大統領は国家間の言い分を無くしている筈であるが、また無くしていながらも平然とその後でも、同じ歴史認識論を展開した。これでは、大統領個人の範囲の事と成り、個人の主観感情に捉われた一国の指導者もどきの人物の言い分には日本政府は対処に難しい事に成った。
これでは日本政府としては 今は”仲良く”は無理であろう。様子を見るが得策である。
そもそも、米国の日本大使館前にその女性像を建立するは、最早、理性ある一国の行為とは思えない。
この様な場合は、米国政府も撤去を促す事が国際儀礼上、求められるが撤去させない。
この様な事に目を瞑って”仲良く”は無理である。
少なくとも”仲良く”の前にその時期では無い事が明らかである。
米国もこの韓国の態度を放置して、”仲良く”に理解に苦しむ。
昔の日本であれば、「卑屈と萎縮」から米国の言い分に従った筈で、「政治の場での力」は皆無であった。命を投げ出してくれた尊い日本人の若者に申し分けなかった事に成る。
戦後70余年の現在、この意味でもここで「卑屈と萎縮」から脱却すべき時期に来ている筈で、国家としての「成長の活力」を生み出すのにも、この”「卑屈と萎縮」から脱却”しなければ、それこそ「日本の未来」は無いだろう。
その為にも「失望論」には毅然として対処しなければならない。
「過去の歴史」を観て「卑屈と萎縮」に苛まれるより、゜未来」を観て「卑屈と萎縮」から脱却するべきが日本人の「良い国民性」であり、その事に依って現在の日本は築かれたが、「卑屈と萎縮」からの脱却で活力を生みだすのである。
これからは、決して、”失望のコメント”の裏で示す「米国の圧力」に「卑屈と萎縮」で屈しては成らない。

その米国の”失望論の仲良く”には、それこそ「中国の書」の「六稲三略」から、今は国家間のその時期ではないことに成り、2国からその意志が明確に成らない限りは ”待つ”が得策で、「政治の場」の「米国の発言」は当を得ていない。
本古書を「思考の基幹」としている発行元の中国も知っている筈であろう。
況して、国民は知っている筈で、「尖閣問題」も「航空識別圏」も「政治の場の虚勢」としてどこまで問題を大きくしてくるかを観る必要があるが、恐らくは、「国民との乖離」が起こる事は共産党政権としては「一国2制度の矛盾」が噴出し危険であるから、その「足元」を狙うべきであろう。
「中国国民との醸成化」に総力を注ぐ今は時期であろう事が判る。中国政府の弱点ではある。
「政治の場」が「戦略の駆け引きの場」であるとすると、この「日本理解の醸成化」を官民挙げて取り組む課題であり、その時期に来ているし、「醸成化による相互理解」は両国にとって「悪」では無い。
中国政府にとっては弱点であるが、相互理解には「大儀明文」が存在し、「尖閣問題」も防衛航空識別圏」もこれ以上にはエスカレートさせ難くなる事になろう。
これ以上に「卑屈と萎縮」が続けば、レベルを上げて「尖閣上陸」と「識別圏の実質取締り強化」に出てくる筈である。
「卑屈と萎縮の脱却・脱皮」からは、その先には、「憲法改正」や「集団的自衛権」の解釈問題等が存在し、オバマ政権の様な政治が続けば、「同盟」と云う姿も検討の余地が有り得るし、その先には国家として本来あるべき「自衛力の範囲」も検討せざるを得ない事に成る。
何にしても、この「卑屈と萎縮」から脱却しなければ「憲法改正」など「絵空事の内容」と成り意味が無いだろう。
沖縄の様に米軍基地が日本の領土を大きく占めている現状も自衛力に特化させる問題も出てくる事に成る。
「同盟」と云うキーで基地提供しているが、米国は基地以上に日本を「卑屈と萎縮」の先に置いておく必要性があり、「政治の場」では「同盟」で護られているかの様に見えて、実は「卑屈と萎縮」の先にあるのだ。
果たして、「戦い」が起こったとして中国になるが、上記する様に中国にも弱点があり、米国の戦力を借りて戦わなくては成らない状況になるかは甚だ疑問であり、その前に「法より人」の国民から乖離現象が起こり、ロシア帝国の様にその経緯を経て共産党は解体する事に成るので、国内の基地の削減化は可能である。
現に、大国ロシア帝国との戦いはこの「足元の戦略」(レーニンに資金提供)を日本政府が採った事は記録から明らかで、故に「日露戦争」は「国民との乖離」が原因して勝利したのである。

問題は現在の米国政権では、この様な場合に日本に味方するかは疑問であり、中国を敵国と看做すより同盟国の「米国の出方の方」が懸念材料となろう。
「卑屈と萎縮から脱皮・脱却」にはこの問題が付きまとっているのである。中国ではない米国なのだ。
この「失望論の背後」にはこの問題が潜んでいるのだ。突き詰めて「同盟」そのものを否定するかの意も含むセンセーショナルな発言であるのだ。
今の「オバマ政権」には”失望”のコメントの「深意」が示す様に、この危険性が伴っているが、その後にどの様な政権が就くかが今後の「卑屈と萎縮」の先は見える筈である。
今までとは「異質な発言」で急に変化したオバマ政権の日本へのコメントである。
この失言は「日本大使の交代」での時期に符合するし、その意味で「コメントの主体」は当初は大使館とされているので、米国政府なのか大使館なのかの先ずは見極めが必要であろう。
それにしても大変なコメントである。
政府とするならば「卑屈と萎縮の脱皮・脱却」は是非により加速して進めなければならない事である。

そもそも、ここで合わせて云いたい事は、「伝統」とは一体何なのかと云う事で、「伝統」はこの「卑屈と萎縮」からは生まれず、「卑屈と萎縮」に依って「消滅する性質」のものであると云う事なのである。
要するに、「酸とアルカリの様な関係」にあると考えられ、どちらかと云えば酸化反応と云うよりは「還元反応」に近い関係にあると考えられる。
その「卑屈と萎縮」はどちらかと云えば「伝統」にとって「酸」に相当する働きをする。
日本人の「国民性」と成っている「尊崇の念」はこの「伝統」に値するもので、「卑屈と萎縮」はこれを阻害する。
「日本人の国民性」を示す「良い伝統」とは、「卑屈」に成り「萎縮」するとその「良い伝統」のものを分離させ分解させ、何時かは焼却させてしまう最大の原因であろう。
還元である以上その基と成るものは遺されている筈で、それを再びもとの元素の形に戻すには、「反応力」のエネルギーが必要で、その力を阻害している「卑屈と萎縮」を取り除けば「蘇る活力」を生み出す事に成る。
ただ、放置すれば酸化反応により破壊されて原型を取り戻す事が出来なくなる事に成る。

「卑屈と萎縮」に左右され得ない「正しい心根」を持つ事に依って「良い伝統」は維持されて行くものであると認識する。この「尊崇の念」はまさに「伝統」なのである。
戦前までに維持されて来た「良い伝統」は、この「卑屈と萎縮」に左右されずにしたから遺されて来ているものであり、日本人が始めて経験した「戦後の敗戦の衝撃」に依って「卑屈と萎縮」がこの「伝統」を消し去ってしまったのであり、むしろ、その「卑屈と萎縮」から”消し去る事が正しい行為”であるかの様に成ってしまうと云う現象が起こったのである。
明治期の廃仏毀釈の様なムードの現象が国民の中に起こったのである。
最も古く維持されて来た多く遺されていた筈の青木氏に「良い伝統」もこの事に抗することが出来ずに消え去ってしまったのである。
今、サイトはそれを「卑屈と萎縮」から脱皮して、何とか掘り起こそうとしているのである。
「伝統シリーズ」に取り組む為にも、その前に「伝統を維持する力」はこの「卑屈と萎縮」とを排除する事から起こると考えられる。
その為にも、丁度良いテーマが発生したので、サイトにご意見を投稿してくれた人々と相談し、この投稿の原文の流れの構築を試みた。

以上



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