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  [No.305] 青木氏の分布と子孫力−1
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/03/25(Tue) 09:10:26

「青木氏の分布と伝統力」



「伝統」とは、”そもそも何なのか”と云う事に気が進む。
「伝統」の”原動力”と云うものに着目すると判るかも知れない。
その「原動力」を維持させるものは、その「伝統」を持っている「集団の存在」と、その「集団の動向」に左右されている筈だ。
その「集団」が消えればその「集団」が持つ「伝統」も消えるが常道である。
「集団の如何」に左右されるは必定である。
「伝統」のシリーズを進めて「青木氏」を更に解明するには、先ずはこの「集団の如何」を解明しなければならない。そこで、問題はどの様に解明するかである。
それをこれまでの論文を基本として、それに対比する「集団の如何」の「現在の動向」を論じれば可能に成る筈である。
そこで、次ぎのデータを使いそれをパラメータにする事で「伝統」の”何なのか”が判ると考えた。
主に次ぎの三つのデータを使った。
当初、それを試みる為に、「家紋分析」を使って家紋を分類化してその数を地域ごとに把握する方式を採った。この「家紋の分類化」は「青木氏の家紋群」は別の目的の研究で判っているので、その「家紋群」が各県毎にどの程度の数を持っているかを調べた。
先に「青木氏の歴史上の分布域」が判っているのでそこを調べて、その隣接する地域にも拡大分布していると判断して広げていった。
凡そは掴めたが問題が出た。その問題は予想はしていたが、「虚偽に家紋」を使っている事でデータの信頼度が低くなる事であった。
虚偽の家紋は平安末期、室町期末期、江戸初期、江戸末期、明治初期に行われた。
夫々、状況が違った形で使われた。平安末期から特定の氏に使われ始め、当初は「象徴紋」としてであったが、その後に武士の台頭で家紋化していった。
特に、「荘園制」で「名義貸しの行為」からその内には「家紋」も勝手に使われるようになった。
室町末期は下剋上の終末で勃興した家臣が主の家紋を盗用する事が起こった。
江戸初期は旗本御家人が競って家柄を誇張する目的からすべての家臣は家紋を持つ様に成った。
この時も元主の「家紋」を偽って使った。
明治初期は「苗字令」に基づくもので全て「家紋」に関係の無かった9割の庶民は「家紋」を持ったが、「家紋」を考える余裕が無かったことから便宜的に周囲の気が付いた家紋を使用した。
何れの時期も「類似家紋]か[丸付き紋]を使うのが良心的行為ではあった。
殆どは「虚偽の家柄」を誇張する目的から使った「家紋」が多かった。
これは「家紋」は「氏と姓」、「宗派」、「地域」などと関連している為に矛盾が出てすぐに判別できるが、結局は”矛盾の持ったデータ”が出来上がってしまった。
結局、「家紋分析」から最後にこの「虚偽の洗い出し」をしたが、矢張り信頼度が低下した。
最も多かったのは「宗派の判別」の虚偽、次ぎは「氏姓ー族の判別」の虚偽、次ぎは「地域、国別の判別」の虚偽、等であった。
江戸期を含む以前は、原則「国抜け制度」で「自由移動定住」が「斬罪の禁令」であったにも関わらず、現代風の「自由移動」に考えて、それの「過去の慣習の知識」を忘れて他県、他氏、他家の家紋を使っている虚偽であった。
そもそも江戸期前の「氏家制度」では、「慣習と仕来りと掟」に依って成り立っているものであるにも関わらず、これを無視した様なこの様な「搾取による虚偽」が横行していた。
この状況は完全に見抜けるのだが、無視して使っている。
筆者は、この「虚偽」は明治後のかなり後の時期にその末裔が書き改めたものが多かったと観ている。
殆ど、この「慣習仕来り掟」の「縛り」が民衆の中に消え去った後の書き改めによるものである。
特に「家譜」などはほとんどが「虚偽」である。
第一、「家譜」をどの様にして作るのかと考えればすぐに判る筈だ。
家譜を作るには、その記録の保管と継承が必要で、そもそも江戸期前には下級武士以下の者にはこの”先祖を手繰る慣習”と概念もなかったし、それを行うのは「密教の菩提寺」で行われていた。
菩提寺を持つ事が出来る氏であれば可能であるが「姓族」にはこの習慣は元々無かった。
にも拘らず、「系譜」を作り上げている。
先祖が一人ひとり死ぬごとに書き足していったのか、書き足していったとするとそのようなシステムを敷いているくらいの「相当な家」(守護や大名クラス)であったのか、歴史家でもないのにそのデーターをどこで調べたのか、殆どが同じ筆跡で書いていると云う事は誰か一人が作ったのであって、そのデータをどこから持ってきたのか、唯一、江戸期以前は全て氏の運営する「菩提寺」で”限定された身分の氏”が管理されていたのである。「檀家寺」はあったとしても「人別帳」で代々の累計はない。一代限りである。その「菩提寺」も判らないし「過去帳」もない状況でどの様にして作ったのか甚だ疑問である。
江戸期初期に「家康の宗教改革」では、「浄土宗」は「密教」であった事から、その慣習は厳しく、これを改めたのが「家康の浄土宗督奨令」であって、特定の「上級武士」だけに認められた「菩提寺」であった。
それも「密教」では無く、「一氏一寺」のでは無く、全て「檀家方式」による「浄土宗寺」でもあった。
この様な慣習などがあったにも関わらず「家譜」を堂々と前面にして家柄を誇張する「姓名」が多い。
「家譜」と連動して「家紋分析」にも、最もこの「虚偽」のものが多いのだ。

注記
(注記 筆者は「姓族」が全体の9割を占める状況の中で、室町期以前に「家譜」を持つ事は100%あり得ないと考えていて、それなのにそれを公然と「家譜」として公表するなどの行為は納得できず殆ど信用していない。
もし、これらの「家譜」を「家譜」として認めたら日本は古来から9割の人が武士で武家であった事に成ってしまう。そんな論調はわざわざ採り得ない。
そもそも、参考の為に、江戸時代には「武士」を「武家」と呼称しているが、学問的には「武家」とは「公家」に対して朝廷が認めた呼称であって、原則は僅かに認可された「48氏」がこれに相当した。広げたとして鎌倉期に准認可の形式を採っている「180氏」の範囲に留まる。
その筆頭が奈良期に賜姓族が「三つの発祥源」として認められて最初に臣下した「青木氏」が、「武家」と呼称する事を許された最初のもので、この後に「48氏」が認められている。
この「48氏」の多くは、「藤原氏北家一門」(公家)から武家に成った「氏族」と、阿多倍一族の「氏族」が大半であり、この根源から出自した180氏に成る。
「源平藤橘」の他の族は多くは滅亡している。
そもそも日本は「二つの族」に分けられる。
「姓族」(かばね 姓名:せいめい)と「氏族」(うじ 氏名:しめい)とに分けられているし、日本語もその様に分けられてこの「二つの言葉」が未だ遺されている。この事を考えれば自分がこの二つの内のどちらの族であったかは判る筈である。搾取・偏纂・虚偽しても判る筈なのに判らない人にだけ騙す行為である。
そもそも「氏族」と「姓族」とは同じ系譜等を持つ事は絶対にないのだ。
「姓族」は最初に発祥したのは、瀬戸内の某寺の記録に出て来る範囲では、室町期末期の”「海部族」”と”「塩飽族」”であり、その多くは瀬戸内から出ている。
その後に室町期の勃興で立身出世した者が「姓」を名乗ったのが最初である。
この「姓族」には「職能集団の姓族」と「立身出世の姓族」(農民)との2流がある。
「姓族の姓名」を持つ家が「氏族の氏名」のルーツを持つ事は原則無いのである。
よく搾取・偏纂・虚偽として用いられているのは、端的なのは「源氏」であろう。
判り易い例は、「姓名の家」が「氏名の源氏」では絶対に無いと云う事だ。
筆者は歴史を論じる時、この編のところを明確に正確にする事に務めているので、他氏の事は兎も角もそのつもりで「青木氏論」をお読みいただきたい。

(下記「馳走の説」等でも世に論じる事を憚れる事を当時の「生の慣習」として用いられていたので、「歴史の真の意」として論じたのもこの為にある。違うと思うのであれば放念放棄されたい。)

データ採取
そこで、「守護神の神明社の研究」の存在分布と歴史的経緯の記録データを使ってこれを補正した。
しかし、確かに信頼度は向上したが、論文にするには問題があるとして、別の方法を用いて補正する事を考えてデータを集めた。
疑問や問題が出た時は、現地の歴史等のマニア仲間に依頼して調べた。約10年かけた。それが次ぎのデータであった。
このデータを統計学でパラメータ化してエラーとバイアスを抑える事に務めた。(CP=1程度)
(末尾 参照)
この様に「来場記帳」のデータと、「ルーツ掲示板」のデータに記録されているデータと、筆者が過去に研究した古い時代の青木氏の「定住地論」と「守護神論」や「家紋分析論」等を基本にして比較勘案して分析する事にした。(投稿済)
何と結局、「分布図」、「伝統力」、「子孫力」「子孫拡大力」としての論文に30年かかった事に成る。
出来て仕舞うと、大した論文ではない気もするが、「青木氏の伝統の解明」では一つのやるべき研究が出来た気がする。
その結果、次ぎの様な結果が出た。本論末尾に記載する。

結論から云うと、明治以降では、基本的に ”青木氏はあまり移動していない。”が云える。
では、”何故、他氏と同じ様に自由に拡大分布しないのか”が疑問と成る。
筆者は、「清和源氏頼信系の源の義経」の家来と成って、全国津々浦々に子孫を拡大させ、日本一の氏となっている「鈴木氏」を研究した事があり、研究室にも論文を載せている。
その「分布状況の原理」とは大きく異なっている事が判る。
それは「分布の範囲」と「分布の仕方」に違いが出ている。

そこで、主にこの「二つの事」(「分布の範囲」と「分布の仕方」)に焦点を当てて、「青木氏」を炙りだ出す事にする。
そこから、「青木氏の伝統」の”「土台」と成っている「物事」が何であるか”が観えて来る筈だ。
そこで、”青木氏の子孫の分布力”に、先ず、”変わった事”が起こっているので、判り易くする為にそれを先に論じる事とする。

それは次ぎの事である。
”パラメータが妥当に取れなかった地域が存在する事”である。
「青木氏」が歴史的に見て存在し得ない地域にはデータは採れないのは当然だ。しかし、”存在し得ていた地域にも関わらずデータが採れない”と云う現象はおかしいのである。
つまり、”何かがあった”から採れなかった訳であるから、”それが何であるか”を浮き出させる必要がある。
本題の「分布図」、或は「子孫力」「伝統力」「子孫拡大力」云う意味で重要である。

「三つの現象」
それは次ぎの「三つの現象」に分けられる。
A 歴史的に確実に存在している筈であるのに確認できない地域
B 存在しなかった地域に存在している地域
C 存在しても多すぎるか又は少なすぎる地域

この「三つの現象」を先ず分析すれば、「青木氏」の全体の「子孫力」「子孫拡大」の状況が把握できる。
この「子孫拡大の状況」とは、「分布図」「分布力」「伝統力」に絞って論じる。
これらの分析に用いる情報は、「研究室」「ルーツ掲示板」「家紋掲示板」「地名地形データベース」等の殆どの論文に記載しているものを用いる。
既に、これを読んで頂いている場合はよりこの論文の理解が深まると確信している。
それを前提にしている。依って、若干、これらの情報は本論では改めて理解を深める為に各所で重複するところがある。
詳細は、これらを参照して頂く事とする。

それではABCに付いて論じる。
このABCは連携している。何らかの原因があったからABCが生まれているのだから、Aを中心にBとCを関連付けて論じる事とする。

A パラメータが採れなかった地域
筆者の研究データやルーツ掲示板や家紋分析等では、「青木氏の分布」は確認出来るが、10年間でのデータ採集では不思議に採れなかった県である。
「現在の状況」を「来場記帳」と「ルーツ掲示板」の二つの内容と「家紋分析」等を用いて数値化(パラメータ)したもので、表したものであり、「来場記帳」は10年間の「200件」、「ルーツ掲示板」で10年間での「1千件」のデーターを使用している。
これに「家紋分析や守護神や定住地論」等で調整する。
では、次ぎの県からの直接の記帳はない事である。
「他の地域」から観て、「下記の地域」のルーツとしてのデータはあるが、地元からのデータは確認できない地域である。
しかし、「過去の状況」は「定住地論」や「守護神論」や「家紋分析」などで数値化を出来るものでは、”確認できない”と云う事ではない。「現在の状況」である。
この「パラメータの有無」は、”存在しない”と云う必ずしも前提ではなく、「過去の状況」に比べて、「有無」を含めた”何かの異変がある”と云う事である。

[地域別分布力]
「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
全国平均(全国単位 % 表ー1)
地域      異変の県        分布力
九州地方   長崎、大分       5%
四国地方   高知          2.5% 
中国地方   山口、岡山      2.5%
関西地方   三重(筆者ルーツ) 14%
東北地方   秋田           7%
中部地方                15%
関東地方                45%
北海道・沖縄               6%
その他                   3%

地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
九州地方  1.3
四国地方  1.3
中国地方  1.3
関西地方  4.7
中部地方  4.3
関東地方  11.3
東北地方  2.0
その他   11.0

「青木氏」は現在も以上の様に分布している。

修正地域(表ー3)
長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1−7 三重 12 福井 4 愛知 13−7
秋田 1

「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
福岡  2   山口  0   愛媛  3     兵庫  3    三重  1
長崎  0     島根  2   香川  1     大阪  14   石川  2
佐賀  1     広島  3   高知  0     京都  5    福井  1
大分  0     岡山  0   徳島  1     奈良  1    岐阜  3
熊本  4                        和歌山 4    愛知  13   
宮崎  2                        滋賀  1    長野  9
鹿児島 1                                  山梨  1

域平均 1.25 平均  1.25  平均  1.25  平均  4.7  平均  4.3        

関東地方(45%)東北北陸地方(7%)沖縄、北海道地方(17.5%)
静岡  5    青森  1     沖縄  1
神奈川 21   山形  2     北海道 11
東京  18    岩手  1
埼玉  17    新潟  4
群馬  6    秋田  0
千葉  11   福島  4
茨木  4    宮城  2
栃木  8                                     

域平均 11.3  平均  2.0   平均  11.0  


ところが、この「異変の県」Aの7県は意外な県ばかりである。

「長崎」
先ず、「長崎」は「藤原秀郷流青木氏」で、鎌倉期に赴任後に定住して「青木村」を形成する程の「子孫拡大地」である。「家紋分析」から「116氏ー24地方」もの「子孫拡大」である。
この勢いは現在も確認できる。この「異変の県」は「116氏ー24地方」の一つである。
絶対に0と云う事ではない。九州地方は全体で5%で、九州地方のAVE1.5であるとすると、少なくとも「九州と云う地域性」から観て、パラメータは2−5の中にあり、これに「定住地論」と「守護神論」や「家紋分析論」等から勘案すると、6は超えない。
恐らくは「青木村の形成力」から観て「長崎」はパラメータは本来は5であろう。
しかし、異変は0を示している。(下記)
そこで、この異変の県「長崎」のパラメータを推測するには、九州の他の歴史的な繋がりのある地域のパラメータを先ず吟味する必要がある。

「大分」「山口」
次ぎはBに属する「大分」と「山口」である。
確かに歴史上は何れも「青木氏」としては直接関係のある地域ではない事は確かである。
しかし、この2県には「藤原秀郷流青木氏」が鎌倉期と室町中期に一部に移動している史実があるが、「子孫拡大」がされていない事が云える。
特に、「山口」は「2つの青木氏」にとっては移動しにくい条件が鎌倉期ー室町期中期までにあった。
ここは藤原氏北家外の「皇族系の公家衆」が逃げ込んだ地域でもある事から、平安初期から観て「青木氏」の「皇族賜姓族」としての立場上では難しい地域であった。ここは毛利の前は室町期は「陶氏」が中国全土を抑えていた。
この「陶氏」は、後漢帰化人の阿多倍王の首魁が引き連れて来た職能集団で、その中でも勢力を持った「姓族」であり、「朝廷の官僚族」を牛耳っていた一門でもあり、平安期の平族の支配下にあって平族が滅亡した後も勢力を伸張させた。
「賜姓族青木氏」からするとこの勢力範囲は「親地域」では無かった。
依って、官僚の「公家の逃避地域」でもあったことから、今も然ることながら室町期まで定住分布に至る状況は観られなかった。パラメータが0である事には問題ではない。
むしろ、「分布できない地域」であったのである方がおかしい地域である。

特に、ところが一方「大分」は特別賜姓族の「藤原秀郷流青木氏」との関係が深く、「大分の豪族」が関係強化の為に室町期に武蔵と常陸にまで往来して関係を保っていたほどの地域でもある。
直接、「青木氏」が定住移動した記録はないが、関東に大分の「佐伯氏」が存在している等から観ても、ここに室町期の豪族の支流末裔の「青木氏」が無かった事は考え難い。
逆に、関東の酒井氏(青木氏族永嶋氏)が大分に存在する事からも「青木氏」が存在していた筈である。
(九州進藤氏も極少数ではあるが永嶋氏と同じ分布力があった。)
この大分の分布が「九州の地域性」から観て、「大分」と同じ状況であった「佐賀の1」に相当していて、結局は小で支流化して「氏か姓」として維持できなかった事に成る。
即ち、青木氏の子孫を遺せなかった可能性が大である。

そもそも、北九州としては、鎌倉期末期に藤原秀郷一門の「青木氏」と「長谷川氏」や「永嶋氏」等と、北九州と云うよりは九州全体を支配下に置いていた元「太宰大監」として自治を認められていた「大蔵氏族」との血縁を結んでいる記録がある。
その末裔が現存している事から、「菊池氏」や「酒井氏」や「宗像氏」等との支流族が確実に生まれていた。
この事は「家紋分析」からも「神職一族」との血縁が生まれていた事が確認できる。
しかし、「長谷川氏」や「永嶋氏」が子孫を大きく残しているにも関わらず、「秀郷流青木氏」との末裔は遺されていない。
この「秀郷流青木氏」は絶えた又は子孫を遺せなかったのでは無く、「武蔵の本領地」に戻った可能性が高い。「家紋分析」に表れて来ないのである。
それは「秀郷流青木氏」には「秀郷一門の護衛」と云う職務と、「本領の守護」の責務もあり、「朝廷の護衛」との官職の守らなければならない「三つの役職」があった。
更には、「皇族賜姓族青木氏」と「特別賜姓族青木氏」との連携による定住関係地に「守護神の神明社の建立」と「青木氏族菩提寺の建立」の役職もあった。
従って、この為には、「子孫」と「血縁関係族」を絶対的に増やす必要があったにせよ、「子孫」を必要以上に拡散させる事が出来なかった絡みがあった。
これは一面では、秀郷一門の「赴任地の子孫定住の戒律方針」と矛盾するところがあったが、九州域に「青木氏」を定着させて子孫を増やしたとしても、維持費にばかり経費が掛かり役目を果たす上での利点が少なかった事が云える。
特に、上記の表でも、関西以北の定住地に比べ、九州地域は「疎遠の地」でもあった事から「長谷川氏」や「永嶋氏」などと異なり、必要以上に「護衛力として残す必要性」はなかったと考えられる。
それは、「大蔵氏」と云う九州全土を有形無形に「支配する背景力」が厳然としてあって、それに頼ったと云う向きも大きかったのである。
むしろ、筆者は、「青木氏」と「進藤氏」は積極的に戦略的に”引いた”とする判断をしている。
何故ならば、この「大蔵氏」と「秀郷一門」との間の血縁を取り持った「進藤氏」も北九州では血縁をしながら引き揚げているのである。
この「進藤氏」は家譜や添書などから観ても「子孫拡大力」が非常に弱く、「一門の仲介役」を担っていた為に各地に分散させるより関東以北の拠点を固める必要があった。
これは一門の「第二の宗家」と呼ばれた「青木氏との連携」による結果であった事が判る。
両氏が共にその「氏の持っている事情」から引き揚げた事が判る。
九州に子孫を遺さなかったのである。

注釈
(進藤氏は鎌倉期末期とは別に「定住の時代性」は不詳ながら僅かに北九州の東域に確認できるが、室町末期か明治初期の「第三の進藤氏」である可能性が高い。
そもそも、「青木氏族」の「秀郷流進藤氏」は関東以北に支流一族を拡大させている。
あるとしても「阿波国」に赴任していた「北家藤原利仁流進藤氏」であるかも知れない。)

この様に、九州には血縁しても「一族末孫」に至るまで一切本領に戻さなければならない「秀郷流青木氏族」には厳しい内なる「環境条件」があったのである。
尚、この「内の環境条件」のみならず、更には「外の環境条件」にも厳しい「一族の賜姓族の戒律」で縛られていた。
「青木氏と進藤氏」は、共に”「大蔵氏との強い背景」”が無ければ「疎遠の地」として子孫存続に関わる「三つの条件」が成立せず、生き延びる事が出来なかった。
この「強い背景」とは、”「大蔵氏」の中に溶け込む事”を意味する。
つまり、端的には”「大蔵氏系永嶋氏」に成る事”である。
「秀郷流青木氏」は皇族系に絡む「賜姓族」である以上、その立場上の絡みから、「大蔵氏系青木氏」は元来成り立たなかったのである。
「氏家制度」の中で「身分、家柄、官職、官位」から「青木氏系大蔵氏」は成り立つにしても「青木氏の戒律」からこれを許される事ではなかった。
その根拠は、南北に大きく子孫を拡大させた「九州大蔵氏系永嶋氏」の「生き様の経緯」が物語る。(ルーツ掲示板参照)
この背景から、しかし、ここ「大分」には「青木村」はない事から数字的に観て、0或は1であろう。
パラメータの0はこの様な由来はあったにせよ納得できるものである。

「宮崎」
ところが、因みに、その由来として、近隣には、「宮崎の2」については次ぎの様な経緯がある。
理解を深める為に特記する。(上記「長崎」を評価するには大変に重要)
「宮崎の廻村」から「鹿児島の大口市」にかけて「清和源氏」の「宗家頼光系四家」の「頼政の孫(仲綱の子)」で、「宗綱」と「有綱」、それに叔父の「高綱」が「以仁王の乱」(源の頼政首謀)で「伊勢青木氏の助命嘆願」で許されて、特例を以って「宮崎廻村」に配流となった。
この時、世話を受けた土豪の「廻氏」との血縁による「配流孫」が生まれ、この土地の豪族の廻氏と周辺の土豪勢力等を使って、再び、北九州を守護していた「日向平軍団」を攻めた。
しかし、敗戦して懸命にこの「配流孫」を護って「薩摩大口村」まで何とか辿り着いたが、ここも攻められた時、大口村の住職の忠告でこの「配流孫」は、「嵯峨期詔勅」に基づいて、伊勢の「青木氏」の末孫を名乗った。
「伊勢青木氏」は「不入不倫の権」で護られていた為に、この時「配流孫」は一命を取り留めた。
ここには許される訳があった。
実は「頼光」の孫(「仲綱」の子)の三男で、乱に参加していなかった「京綱」は「伊勢青木氏の跡目」に入っていた。「清和源氏の四家」を「源平の戦い」で絶やさない為にも、事前に仕来りに従い同族跡目に入っていた。

(頼政の領国の伊豆国は「伊勢青木氏」を中心に「信濃青木氏」も加わり護っていた。頼光の経済的背景はこの伊勢と信濃の「二足の草鞋策」があった。)
上記の「助命嘆願」もこの「伊勢青木氏」からであった。その理由は、「伊勢北部伊賀地方」を「半国割譲」して「平族の領国」としていた「伊勢平衆」と、「伊勢青木氏」とは「伊賀和紙の殖産」を通じて隣国外にも繋がって強い親交があった。)
この経緯で「平族」は手が出せず「伊勢青木氏系日向末孫」として生き残った。
(不入不倫の権で保護する義務もあった。)

この「伊勢青木氏の配流孫」は、その後、「大口村」を山岳地を開墾しながら「黒田藩の傭兵の農兵」として働き、勲功を立て「苗字帯刀」、「五七桐紋の家紋」と「布衣着用」と「登城の権利」と「墓所の許可」を与えられ、「郷士の身分」(政治的背景)を獲得して、「三つの条件」の「経済的背景」(傭兵・開墾地)を得て明治期まで子孫を大いに拡大させた。
これが「日向青木氏」である。
この「日向青木氏」の「子孫拡大」は、「パラメータ2」に相当する程度に九州に初めて正規に「青木氏」を定住させた。これが「日向青木氏」であるが超有名人も現存している。
この九州に、独自に初めから「日向青木氏」の2のパラメータの「分布力」で発祥させた事から勘案すると、「大分、山口」のパラメータ0としても、上記する「日向青木氏」の経緯から見て、その「分布力の根拠」はないのでパラメータ0であろう。
逆に、「日向青木氏」のパラメータから観れば、「長崎」は現在はパラメータが0ではあるが、「長崎の推定 0−5」は妥当であろう。

さて、そうすると、上記の経緯から観て、「日向青木氏の2のパラメタ」は妥当なのかと云う疑問がある。これを確定させれば、上記の「長崎」はこの推定パラメータを確定できる。

そこで、確定させるには九州地域にはもう一つCの異変があるのだ。

「熊本」
それは、「熊本の4」のパラメータは「大分、山口」以上に全く「青木氏の根拠」がない地域である。Bである。
従って、この「日向青木氏の2」と「熊本の4」とを分離して考察することには問題がある。

恐らくは、この「日向青木氏の子孫拡大の方向」は「熊本域の横方向」にも広がったのではないか。
「熊本の4」は、ここには「青木氏の歴史」は全くない。
それにも関わらず全国平均の4のパラメータを確保している。
「パラメータの4」を得るには「歴史的な発祥根拠の定住」があって得られるものである。
元々、九州全土は、”何れの青木氏”に於いても「青木氏の歴史的発祥根拠」が本来は無い地域である。
あるとしても、上記した様に「日向青木氏」だけであり、「長崎」は「藤原秀郷一門の赴任」による「青木氏の護衛同行」が原因としての鎌倉末期から室町期初期の「移動定住」である。
「子孫拡大」には、現在と違い放って置いても単純に拡大すると云う生易しいものではない。
戦乱に近い状況の中では、主にその「経済的背景」(三つの条件)があってこそ拡大する。
要するに、「子孫拡大」=「経済的背景」+「武力的背景」+「政治的背景」にある。
この「三つの条件」のどれを主体にして「子孫拡大」を図るかにある。
その「氏」のこの「三つの条件」をどの様に生かすかによるが、「藤原秀郷流青木氏」(116氏)の様に、この「三つの条件」を平均的に高いレベルを保持して「子孫拡大」を果たした氏もある。
では「皇族賜姓青木氏」はどうであろうか。

1に「経済的背景」、2に「政治的背景」、3に「武力的背景」で「経済的背景」(1 「二足の草鞋策」)を基に「シンジケート力」(3)が補完していた。
「政治的背景」(2)は「皇族賜姓族」と云う保護された優位な背景があった事は他氏に比べると有利であったが、それなりにその立場を生活の中で生かさなければならないと云う責務と苦悩があった筈で、一概には有利とは云えない。
特に「子孫拡大」と云う点では制約が働いていた。
他氏と比べて著しい「慣習仕来り掟」の「厳しい戒律」に縛られていたのである。
特に「子孫拡大」に於いてこの「慣習仕来り掟」の「戒律」は大きな障害に成っていた筈である。
その為には「家訓10訓」等で「一族の行動」を制約されていた。
特に「血縁」を”「純潔」の「古来から戒律」(無形の伝統)”があった中では、”「一族の子孫拡大」がなされなければ「純潔の子孫拡大」はない”と云う何とも理解できない矛盾する条理に縛られていた。
兎に角は、依って、「子孫拡大」はこの「三つの条件」を何れにしても全て大なり小なりに持ち得ていなければ成し得ない事になる。
従って、「ねずみ算」の様に「子孫拡大」は望めない事が判るし、それ故に、「福井越前などの保護地」などの政策を採ったのである。
しかし、この「日向青木氏」には「伊勢青木氏族」とは云え、この「厳しい縛り」は全く無かったが、逆に、「発祥の基盤」(子孫を生み出す慣習)も何一つも無かったのである。
この「熊本の4」の「青木氏」には「三つの条件」を保持している歴史的経緯は全くない。
従って、「熊本の子孫拡大」は4であろうが何であろうが、本来は成し得ない筈である。
しかし、パラメータは「全国平均の4」である。
急に拡大して得られるパラメータではなく無視できない地域であるとすると、では、何なのかである。
「定住地論」や「守護神論」や「家紋分析論」をベースに考察吟味して勘案すると、答えは確実に出る。特に「家紋分析論」が大きく判定を加速させる。

その前に、上記に論じた様に、「氏族」の「上級武士」の「子孫拡大」は「子孫を生み出す慣習」の如何に左右される。この事に付いて先に論じて置く。

・「子孫を生み出す慣習」
この九州では「青木氏の歴史的経緯」の無いところから、「子孫を生み出す慣習」は「厳しい戒律」に縛られた「賜姓族」としては、唯一、血縁外に「子孫力」を高める手段として社会的に認められたものがあった。それは下記の慣習であった。
つまり、「現地の土豪」からの嫁取り等の「傍系支流の末孫」である。
「子孫を生み出す慣習」として、平安期末期から起こった「皇族などの氏族」にはそもそも許された「戦地妻の制度」があった。
赴いた地方の「現地の土豪」に「支流末孫」を故意的に作り上げて一族一門の勢力を拡大させる手段である。
この手段の「婚姻外」で現地の土豪の娘(娘が無ければ縁者の娘 更になければ家臣の娘で子供が出来れば「養女」として迎える。)、或は、中には妻を宛がってその氏族に子供を作らせ「現地の末孫」を作り、認知してイザと云う時には一族として”馳せ参じる”事とし、その勢力を維持する「正式な制度」であった。
この時、現地妻に「末裔」が出来れば、その傘下に正式に組み入れられる仕組みである。
俗に云う「馳走」の語源は、一般的には、「馳せ」は、”「馬の状態」を云い「馬」を駆けずり走りまわして食材を集めて食事する事”となっている。
しかし、これだけの意味だけではなく、語源の平安期の時期から観て元々この慣習から来ていると云われている。
食事からこの行為までの”遇し”を古来では”「馳走」”として常識化していた。
「馬の食事説」では、平安期では”お相伴に與かる”と成っていて、”馳走に與かる”とは異なっていたが、その内に明治期に社会制度が変わった事から「馬の食事説」に成ってしまった。
高い身分家柄の者が土地の土豪勢力などの”遇し”には、必ずと言ってもよいほどに慣習事として採用されていた。特に、平安末期から室町期中期まで採用されていた。
況や、「荘園制」との絡みの中で積極的に用いられた。
これは、現在からすると、”不道徳”と見なされる行為であるが、社会制度の異なる「氏家制度」の中では、「氏の構成」を”最高目的とする社会”では異常と見なされる事ではなく、「氏の構成」を目的とする限りに於いて当然の範囲の行為であった。
「氏の構成」即ち「子孫拡大と存続」は「最大の命題」であったし、その為の「一夫多妻の環境」の中の「習慣」では当然の行為であり、両者が進んでこの行為を容認していた社会であった。
ある「勢力の傘下」に入って「氏」を護らねば生きてゆけない社会であったからこそ認められた行為であった。
つまり、「御相伴」と「御馳走」とは持つ意味が違っていたのである。
そもそも、”走り”の深意(裔から族に至るまでの経緯を”走”とした意)と、”馳せ参じて”の”傘下に入る”の意味なのである。
これを清和源氏などが主に「荘園制度」を通じて積極的に用いた「戦地妻の制度」で、要するに、この「二つの制度」を通じて生まれた族が「未勘氏族」である。
現地の大小の土豪の荘園開発主に、この「戦地妻の制度」で子供が生まれなくても「名義借り」をして「源氏族」などを名乗った。

”源氏、源氏”と騒いで書き記して誇張する系譜は、殆どが「姓族」でありながら「氏族」ではないのに偽っているものである。多くはこの「戦地妻の制度」にて生まれたこの「未勘氏族」である。(荘園制度にもこの制度を併用した)
特に「藤原秀郷一門」はこの制度を「24の地域」に掟として積極的に採用した。
上記「長崎」もこの「赴任地発祥」の「24の地域」の一つである。
「藤原秀郷流青木氏116氏」の「24の地域」には、全てに「青木村」を形成していないが、「長崎」には「青木村」、「日向青木氏」にも「青木村」があり、この「青木村」がある事は「戦地妻の制度」よりも、別の方法として「赴任地」に「嫡子外の嗣子」(妾子扱い)を残して、「土豪との血縁」を進めた地域である事を示す。(「戦地妻の嗣子」の場合は「青木村」は形成出来ない。)
この「赴任地の嗣子制度」は「藤原氏の男系継承」を前提として子孫を遺した事を意味する正式な慣習であった。
「子孫を生み出す慣習」にはこの「二つの慣習」(戦地妻 赴任地)が多く利用された。
しかし、この「熊本の4」はこの何れにも適合した履歴はない。
つまり、そうすると「長崎」か「日向」からの「拡大分布」による事に成る。
そうなると、既に「長崎の青木村」を形成している以上は藤原秀郷一門では無くなる。

・「青木村」と「五七の桐紋」
その理由は、そもそも、”「氏名」を使った村名”は、「朝廷の許可」を得て「賜姓族」にしか許されていなかった。同じ「賜姓族」でも許されなかった氏もある。
例えば、「天智天皇」の「第6位皇子の施基皇子(青木氏)」の弟の「第7位皇子」の「川島皇子」も特別に賜姓を受けていながら地名の佐々木から近江の「佐々木氏」の賜姓を受けた。
「嵯峨期詔勅」では、更にこれの使用を禁じて正式に強化した。
従って、故に「青木村の存在」は一つの「青木氏の判断材料」と成る。
「地名」から「氏名」や「姓名」としたものはあるが、「賜姓の氏名」からの「村名」は青木氏外に無い。

この様に「青木村」が存在すると云う事はルーツの大きな決め手になるのだ。
それは「家紋分析」と「家柄身分」と「宗派」と「職能」で判断できる。

そこで、この「熊本の青木氏」の家紋を調べると、多くは「五七の桐紋」である。
後は、中には”「丸付き紋」”の明治期の家紋もあり、「墓所」には、この家紋を入れた墓所もある。これは明治以後に使用されるように成った花崗岩(ミカゲ石)が墓石である。(それ以前は仏説にて砂岩が仕来り)
「丸付き紋と花崗岩」のこの慣習事は「子孫拡大」が大きく起こっていた事を示すものである。
そもそも、「桐紋」は「天皇家の式紋」であって、「丸付き紋」共に禁令紋であったが、それに「丸付き紋」を付けた事は、独自に「丸付き紋」にしなければならない「子孫拡大」があった事を示す。
江戸期前に、この禁令を当時まだ破る事は出来ない筈で、資料としては出来て確認していない事から「桐紋の丸付き紋」の使用の物語るものは、元来「子孫拡大の多様性」があった事に成る。
そもそも、「象徴紋」系には「丸付き紋」は用いない。武家が用いる「本家分家の慣習」もない事から、当然に「丸付き紋の慣習」もなかった。
つまり、その慣習の無かった中で、この様に「禁紋の家紋」の「多様性」”があった事は、”「子孫拡大」が大きかった”事を示す。
「青木村」に集中する墓所のこの様な「家紋状況」を観る事で、その一族の子孫拡大の状況は掴める。
本来の「墓所の石」は古来の仏説により「砂岩」を”土に帰る”を基に由としていた。
しかし、それを砂岩から花崗岩にした事は、明治期の行為であって、その氏の「子孫拡大の証」に成る。

・「熊本」「宮崎」の吟味
先ず、「熊本の4」では次の事が判断要素となる。
一つ目は「墓所の桐紋」が使用されている。
二つ目は「青木村」は形成されていない。
三つ目は宗派は日蓮宗が多い。
四つ目は明治以後の履歴と過去帳は持たない。
五つ目は黒田藩の農民か傭兵の農兵である。
六つ目は「熊本の4」の発祥地域が南の鹿児島よりの熊本の「球磨郡」領域である。

考察すると、「熊本の八代郡」を境にして北部の阿蘇郡と菊池郡には分布は無い。
地理的条件と豪族が間に存在していた事から、そこを貫いて北九州側に出る事は出来なかった。
貫いていたら「戦いの渦」に巻き込まれ4のパラメータが得られない。
先ず、この阿蘇郡や菊池郡などの豪族には大蔵氏との血縁をしている。
その大蔵氏の背景を貫く力は無かった筈で、この地域に限定していた事に成る。
この事から”縦の南端の大口村”を起点として、そこから「山岳部の西」に真直ぐに拡大した事が判る。
北部には「大蔵氏」をはじめとして「菊池氏」「宗像市」「酒井氏」などの「神職系の大豪族」があって壁を作り、北部には伸びる事は絶対に出来なかったと観られる。
従って、「農兵や傭兵」として上記した様に伸びる為の「三つの条件」が何であったのかと云う問題であるが、この何れにも無く、それは次ぎの二つにあった。

一つは「山岳部の開墾」で「移動定住」
二つは「傭兵」にて「移動定着」
以上この二つにある。

(何れの領主にも属さない民は、「山岳部の開墾」で生き延びた。「源平の戦い」で敗れた平氏はこの「山岳部の開墾」で生き延びた。俗に云う「山族」である。)

さて、ここで問題なのは四つの国と神職系の豪族の壁がありながら、”「黒田藩との関わり」は何処で起こったのか”と云う事に成る。
「日向青木氏」が「傭兵」として働いた黒田藩は筑前福岡である。
「日向」にしても、「肥後」にしても間には豊後、筑後、肥前、豊前の「四つの国」が存在している。自然発生的に関係保持の「子孫拡大」は到底に無理である。
従って、明らかにこの「藤原氏北家の条件」に合致しない。
依って、上記の様に全て「日向青木氏の経緯」に合致する事から、「日向青木氏」が鎌倉期以降に「宮崎廻村ー鹿児島大口村」の「日向灘の縦方向の拡大」と、横に分布して行った事を示す。
それは「山岳地開墾」を行った事により、「傭兵、農兵」として横にも移動していった事を示す。
つまり、「山岳開墾」はこれを積極的に行ったのは「黒田藩」であるが、”黒田藩の傭兵と農兵をしていて保護された「日向青木氏」”と成る。
記録では「黒田藩の農兵」とする意味の事が記されている
しかし、この「四つの国」が介在して西に伸長したとしても、”北域の黒田藩の「傭兵や農兵」は成り立つのか”と云う疑問が起こる。

・「桐紋の考察」
それを解く鍵があるのだ。
一つは、「墓所の五七桐紋」である。
(一部に間違って明治後に書き込まれたと思われる「五三の桐紋」(花崗岩)が使われているが、これは間違いである。
「五三の桐紋」は「天皇家の正式な式紋」で天皇家が室町期に財政難に陥らされた時に太閤秀吉に対して、妥協してこの「五三の桐紋の式紋」の変紋の「五七の桐紋」の使用を渋々認めて財政難を救った経緯である。
これを豊臣秀吉は、更にこの「五七の桐紋」を勲功のあった家臣に使用を勝手に許した。
この「五七の桐紋」は与えられた藩主が、更には、特に”勲功のあった限られた家臣”にも与えたものである。その一藩が豊臣秀吉の最大の信頼を置いた軍師の「黒田藩」である。
この「黒田藩」も同じ手口で、積極的に勲功のあった「家臣や傭兵」に与えた記録がある。
この家紋の使用と共に併用して「特別扱いの権利」も認可した。
「日向青木氏」がこの「家紋の使用」と「特別扱いの権利」を与えられた事は記録から史実であるから、間に「四つの国」が存在していても「傭兵」として黒田藩に参加出来た事を意味する。
問題はこの「傭兵の有り様」である。
「農兵」とも伝えられているが、「戦いの下働き」をする「農兵」は四つ国を越えての行為は「国抜けの斬罪」の適用を受ける事からこれを超える事は不可能である。
しかし、国を持たない「私的軍事集団」の「傭兵」は自由に動くことができる為に可能である。
「国境の山岳地の開墾」で「糧」を得ながら、時には「傭兵」に成る「軍事集団」で、四つ国を越えてこれを採用していた「黒田藩」で勲功を挙げたのである。
況して、この「黒田藩」は、”兵庫の姫路の頃の薬売り”から出世した小寺氏の頃から、この「傭兵」を盛んに用いた事は有名である。
「傭兵」を戦いに初めて積極的に用いた織田信長と共に有名な氏である。
(黒田氏はこの「織田氏の戦い方」を研究し踏襲した。)
「織田信長」は「紀州雑賀氏」と「紀州根来氏」の「傭兵集団」の「鉄砲技能集団」を用いて「浅井ー朝倉」の連合軍を攻め落とした事は有名で、これを習って豊臣秀吉と共に黒田藩は「傭兵」を盛んに用いた記録がある。
(「雑賀氏」は「鉄砲鍛冶の技能集団」でもあり、「紀伊水道の海族」で、更に「諜報活動」を職務とする「雑賀忍者」でもあった。)
(源の義経が平氏の船団を先頭に立って打ち破ったのはこの雑賀氏の海族である。「根来衆」は根来神社の僧兵軍団で「忍者系の軍団」である。この様に各地にある「傭兵集団」には夫々「専門職の職能」を以て合戦等に傭兵として合力する。)

この「傭兵」が九州では「日向青木氏」であった事が、墓所にこの黒田藩との繋がりで「桐紋」の変紋を用いている事で判る。
どの様な職能を専門とする「傭兵」であったかと云う事であるが、「日向青木氏」に黒田藩から与えられた上記した特典から観て、まさに「戦う兵の軍団」であった事に成る。
限定した「傭兵」の「職能集団」には、この「歴史上の記録」からも雇側はこの特典を与えていない事で判る。
後に「徳川氏に傭兵」となった「雑賀氏、根来氏」にはこの特典はない事からも判る。
「柳生氏」は最終は家臣と成ったが「諜報軍団」を専門としていて徳川氏の軍師の家臣と成った事からも判る。
紀州真田軍団は諜報と実戦の軍団で、豊臣側の家臣団と成って味方して家康を窮地に追い込んだ事で有名で、”実際に戦う軍団”に上記する様な特典を与えている。

そこで、農民のみならず庶民が「墓所の使用」と、それにこの墓所の「墓石に家紋」を用いる事は法度であったが、「郷士扱い」の「墓所 苗字帯刀、登城、布衣着用」などのこれら「特権」を黒田藩から明治前に許されていた事はこれを証明する。
「登城権」と「布衣着用」までを許されたとする事は「相当の扱い」で普通ではない。
「登城権」は「家臣扱い」で、「布衣着用」は殿様に会え意見を述べられる権利で、「上級武士」が持つ権利である。「日向青木氏」はこれに「布衣に家紋の使用」を合わせて認めている。
「傭兵」としては考えられない「破格の扱い」である。
この扱いは「傭兵の勲功」とは別に「日向青木氏」のルーツにあったと考えられる。
「郷士」ではなく江戸期に与えられた「青木氏」などの「特別の氏」の「郷氏」と観られていた事を示す。
黒田藩の間に介在する四つ国には「日向青木氏の記録」は発見できない。
この事から、「日向青木氏」は次ぎの行動を採った事が判る。
”縦の北の発祥地の廻村から大口村の子孫拡大”
”大口村を起点に西の横に山岳部の球磨郡へ子孫拡大”
以上を起こした事に成る。

それは「傭兵」てして、「日向灘の沿岸部」と「球磨郡への山岳部」の開墾で土地を確保して糧として生き残った事に成る。
その起点と成っている地域の大口村の山岳付近に「青木村」がある事からここに定住している「青木氏の本家」が現存する事も考えると、「沿岸部の日向青木氏」は「兵や物資」を輸送する「日向灘の沿岸部の総戦術・軍船」で活躍し、「山岳部の日向青木氏」は球磨郡の山岳技能を使って「陸送」を中心とする軍団と、何れでも実戦を伴う「戦闘軍団」をも形成して傭兵と成っていたと観られる。
これを指揮していたのは大口市の「薩摩の青木村」からであったと観られる。

依って、「熊本の4」と「宮崎の2」と合わせて「日向青木氏」は「6のパラメータ」を持ち合わせていた事に成る。

・「パラメータ 6」の吟味
では、このパラメータの6は妥当なのかと云う問題である。吟味して観る。
「以仁王の乱」から約500年間で、全国平均以上の「パラメータの6」の子孫拡大を図った事に成る。
「皇族賜姓族青木氏」は別格としても、「他の秀郷流青木氏の歴史期間」平安中期960年からの1000年間から観ても、500/1000で約半分とすると、関東地域の平均11.3のパラメータの丁度半分5.6であり、「日向青木氏」の「パラメータの6」は充分に納得出来る。
むしろ、上記の経緯から「パラメータの6」でなくては成らない筈である。
相当に「日向青木氏」は上記した様な背景から「子孫拡大力」は大きかった事を物語る。
ただ、この「日向青木氏」には「子孫拡大力」の「分布力」に比例する”「伝統力」は必ずしもあるか”と云う事であるが、残念ながら「傭兵」と云う事もあって、殆ど消失しているので必ずしもそうではない。
「伊勢青木氏族日向青木氏」と成るが、「伊勢青木氏」の様に戒律に縛られる事なく、「子孫拡大」が吐かれた結果である。
そこで、「日向青木氏」のパラメータは6とすると、そうなると、上記「長崎」は同程度の0から6としていた上記の推論は当たる。
上記の「長崎」は6以下であろう。「日向青木氏」から観れば6は超えない。


長崎に続く


  [No.306] Re:青木氏の分布と子孫力−2
     投稿者:takao   投稿日:2014/03/26(Wed) 12:34:09


>「伊勢青木氏族日向青木氏」と成るが、「伊勢青木氏」の様に戒律に縛られる事なく、「子孫拡大」が吐かれた結果である。.
>そこで、「日向青木氏」のパラメータは6とすると、そうなると、上記「長崎」は同程度の0から6としていた上記の推論は当たる。
>上記の「長崎」は6以下であろう。「日向青木氏」から観れば6は超えない。

「青木氏の分布と伝統力」−2


・「長崎の考察」
この「長崎」の「青木氏」は、ここは「太宰大監」として自治を認められた地域であって、元々「大蔵氏族の居住地」で直接に勢力範囲の届く地域であって、藤原氏が大きく入り込む余地はなかった。
(この時は平家の影で藤原氏は衰退していた)
従って、鎌倉末期後の「元寇の役」の「鎌倉期ー室町期」の赴任による定住地である。
そこで「青木村」を形成している事から「平安末期の子孫」とも考えられるが、上記する様に本来の形の定住地でなかった事から、恐らくは、この時の「青木村」は、後からの秀郷宗家一族の赴任に依って、それに護衛団として同行した「秀郷流青木氏」が、その時に「青木村」を形成して定住したと観られる。
「青木村」を形成する以上はそれなりの期間を必要とする。赴任だけでは成し得ない事に成る。
では、形成できた時期となると、「元寇の役」の時の「進藤氏の仲介」で「大蔵氏と青木氏の血縁関係」がなされた時期と成る。
恐らくは、この時の子孫がこの「青木村」を形成したが、「青木氏の氏環境」からこの「青木村」を留守居か、放棄して武蔵入間に一族全員が引き揚げた事に成る。
そこに、再び、鎌倉期に秀郷宗家が赴任して、この時に護衛同行した「青木氏」が、この「青木村」に再び住み着き、その後に「護衛役」を入れ替わった別の家紋の異なる「青木氏」がこの「青木村」の近隣に住んだと観られる。
その証拠に青木村外の近隣に住んでいた家紋の異なる「青木氏」もいた事が史実の記録から読み取れる。そして、ここに「赴任先」とされた事もあり、この地域の事が差配出来る「縁故の理由」として、この「青木村の存在」が左右した事が考えられる。
しかし、記録的には確実に定住移動しているのにパラメータでは0と成っている。
(ルーツ掲示板では長崎からの投稿が多い)
数字的に観ても、「赴任定住の青木村」がある事から、この「長崎」は全国平均の4のパラメータはにあり得る。
(「日向青木氏」から観れば、「青木村」を形成している事から観れば、6までのパラメータは実質得られる。)
「ルーツ掲示板」(1000件)から観て、「長崎」に定住か先祖が「長崎の青木氏」からの関係するお便りは全体の凡そ2割に成る。
「青木氏族外」からのお便りもある事からこれらを差し引きするとパラメータとして直せば、5ー6と成る。
「家紋分析」から観ても、パラメータとして直すことは難しいが、116氏の家紋中に占める「長崎」の青木村付近の家紋群数の%は4.6%であった。これから観ると、子孫は大きく拡大していない事と成る。
「家紋掟」により家紋が増える事は「跡目養子」が多かった事が云え、「子孫拡大」が増えている事にも成るが、「藤原氏秀郷一門の361氏」から観ると、「子孫拡大」は低い方にある。
これは周辺に大豪族が分布していて伸びるチャンスも難しかった事が考えられるが、多くは「神職系」と「大蔵氏系」と云う事に制約されて、「関東の青木氏」として入り込むことは難しかったのではと考えられる。
赴任である以上、戦いに依って周囲の土豪を切従えて土地を獲得する事は出来なかったし、治安を維持する事を任務としている以上は江戸期末期まで出来なかった事に成る。
仮に「子孫拡大」とすると成れば、「赴任地の経済力」だけでは無理であり、「入間宗家の経済的支援」に頼る以外に無かった筈である。これは無理な事で、”それならば帰って来い”と成る。
それは「過去からの伝統」として、”武蔵に帰る”と云う風評が左右したと観られるし、「長谷川氏」や「永嶋氏」の様に、大蔵氏系の中に組み込まれてしまう事も「青木氏の戒律」から避けたのではないかと考えられる。
つまり、「血縁の利点」が青木氏側に九州では無かった事を意味する。
依って、「パラメータは4」であろう。これを超える力は先ずないだろう。
従って、「長崎」の「子孫拡大」は0と観るよりは6以下と観た方が適切である。
九州の地域平均の1.3%と全国平均の5%から観て、関西以北を原則定住地としている中で、殆ど「青木氏疎遠の地」として考えても、「長崎備前青木氏」の4−5と「宮崎日向青木氏」の6はよく「子孫拡大」を果たしたと考えられる。

「高知」
次ぎは、四国地方の「高知青木氏」(土佐青木氏)は、「甲斐の武田氏系青木氏」が、当初、「讃岐青木氏」(香川)に保護されて「庇護地の讃岐」から土佐に移動して定住したものである。
この「高知青木氏」の「子孫拡大」も「讃岐青木氏」の保護の下で「逃亡移動先」で「青木村」を形成して拡大しているくらいでもある。
現在も定住の確認が出来るが、パラメータは0であるが「子孫繁栄」は他の地域で起こしている可能性がある。滅亡した事はない。
それは「讃岐青木氏」(香川)に保護されながら「高知」にその勢力を伸ばして領地を確保してここを「永住の地」として「青木村」を形成したのである。
記録から観ても、「子孫拡大」の「三つの条件」の内、「経済的背景」と「武力的背景」は確保出来ていた。
この「三つの条件」(「政治的背景」 「経済的背景」 「武力的背景」)の経緯順は
一 「讃岐青木氏」のみならず「讃岐藤氏の背景」の「武力的背景」を(1)とした。
二 その「武力的背景」をベースに領地を確保して「経済的背景」を(2)とした。

「讃岐青木氏」の背景とその庇護が無くてはこの「青木氏疎遠の地」「高知土佐」では「子孫拡大」は無かった。
「政治的背景」は「皆無」として伸長した珍しい「皇族の武田氏系青木氏」である。
この「政治的背景」は「讃岐藤氏と讃岐青木氏」が前面に出ていた事から「皇族系族」としての「政治的背景」は必要でなかった。
その代り表に出ていなかった事から「厳しい皇族系族の戒律」に縛られていなかった事、「不入不倫の権」に守られない環境の中では柵が無く「自由」であった事が云える。
それだけに「三つの条件」の欠如があったにせよ、「子孫拡大」は比較的伸びやすかったのではないかと考えられ、その為か研究では半面で比較的に「伝統」は消えている。
調査研究では、家紋や宗派や守護神などの「伝統」は消えていて「青木氏」自らも「ルーツの如何」の認識も薄かった。「甲斐武田氏系青木氏」の家紋に関しても消えている。当然に宗派は別であるし、「守護神の神明社」も少ない。
どちらかと云うと、「讃岐藤氏の藤原氏族の青木氏族」の認識が強かった。
現在、投稿が少ないのもこの影響ではないかとも考えられる。
東側の「阿波青木氏」(徳島)に比べて西域に限り「子孫拡大」、或は「勢力拡大」をさせた事がその原因と成っていて隔離的な形に成っていたと考えられる。

(徳島の青木村  阿南市見能材町青木村  板野郡藍住町青木村)

従って、その意味から、明治後に移動が自由になった事から、その自由さから大阪に移動して行った事が考えられる。
(「ブラジル移植」もあった。土佐には紀州の漁民が「カタカタ漁」を広める為に多く移動した。この為にブラジルにも紀州と高知の漁村の全体が入植した。この時にも入植していると観られる。)

「青木村」があったにも関わらずその「伝統」を守れていないのは、この「都会移動」と「入植移動」を明治後に大きく起こしたと考えられる。
そこで、この「青木氏」の「家紋」は、本来は「家紋掟」から「賜姓族」であるなら「笹竜胆紋」である筈ではあるが、「武田花菱紋」である。「武田氏系青木氏」と成っている。
この事から「本家筋」が消えている事を意味するし、他にありえない一般の家紋も観られる。
要するに、”「武田花菱紋」が残っている”と観られる事は、「家紋掟」はあまりに庶民化して守られていなかった事を物語る。
従って、明治初期の「苗字令と督促令」があったが、”「青木氏の氏名」はどの様に維持してきたのか”と云う疑問がある。
それは「江戸期の間の環境」に左右されていた筈で、「血縁が自由」が決めてでは無かったかと考えられる。これを解明する資料は見つからないが、「青木氏」を遺すには最低でも「身分」が「郷士」であった事になる。
それは、”青木氏でない氏の資料”で証明している。

・「郷氏名義札」
四国と云えば、「紀州」まで「子孫拡大」を起こしていた有名な氏がある。それは「高知の坂本氏」である。
有名な「坂本竜馬」の家で、その坂本氏は高知ー徳島ー和歌山の紀州に子孫を遺していて、紀州では「坂本氏屋敷跡」を「歴史遺跡」として認定されていて、史跡の土地に家を建てる時には、建設前に先ず調査が義務付けられているくらいである。
「坂本竜馬の実家」はこの「坂本氏」の「郷士名義札」を買い取り、商家から「坂本の氏」を名乗った事は有名である。この様な事は江戸期には可能であった。
「青木氏」の様な氏は、この「郷士名義札」のトップ対象の中にあり、経済的に氏を維持できなくなった本家筋が最後の手段としてこの「郷士名義売り」を行った。
ただ、「賜姓族と特別賜姓族の青木氏」は行っていない。
特にこの現象が盛んに行われた時期は次ぎの4期に盛んに起こった。

第1期 下剋上で立身出世した者がこの名義買いを行った室町期末期
第2期 江戸初期に徳川氏の家臣と成り「氏姓」を持たない下級武士の名義買い
第3期 江戸中期末期に起こった豪商などが「商い」をより拡大する為に「郷氏」の家柄の名義買い
第4期 最後には明治期初期の苗字令の名義買い

この「名義札を買った青木氏」は、これを「青木氏の場合」は、「第三の青木氏」と呼ばれた。(寛政の歴史書にこの「第三の氏」として記されている。)
「高知」では、その「青木氏の地域性の低さ」からこの様な現象が起こった。
届けて審査されて認可される正式な仕組みであった。高地では第3期と第4期が主である。
(国や地域により認めていない地域もあった。主に地域の経済的な理由にあった。) 
「山内藩の発祥由緒」からも「高知」ではこれを認めていた。
つまり、この「高知青木氏」にも「青木村」がある様に「郷氏」扱いで売却が起こったと考えられる。
その証拠に、「須崎市青木町」と 、「高岡市青木町」の「二つの青木村」があった。

「二つの青木村」を持つほどにその勢力、即ち、「子孫拡大力」は元々持ち得ていなく、然も、その意識に欠けていた事から、「二つの青木村」は通常ではあり得ない。
「秀郷一門の青木氏」であっても「一地域一青木村」であるのにおかしい事である。
それにはこの様に成る理由が一つあった。
それは上記した「郷氏の名義札の制度」である。
一方の「青木村」が「元々の青木氏」で、他方の「青木村」が「名義買いの青木氏」であった事に成る。
「氏名村」を形成している以上はかなり古い時期からの「名義札」である。
恐らくは新しい方は江戸中期頃と観られる。

そもそも、この「名義札の売却」の中には、いくつかのパターンがあった。
1 「嫁取り」を基本にする方式
2 「氏名と財産売却」を基本にする方式
3 「単純名義札売り」を基本とする方式
4 「一族一門の跡目断絶」を基本とする方式
5 「1から4の複用」を基本とする方式

1 「完全女系」となった「本家筋の青木氏」から「嫁取り」をし、その時に「結納金」とは別に、その「嫁側の名義買い」も行って「縁続きの形」で「氏名」を作った形式が多かった。
  要するに「家紋掟外の行為」である。
2 中には「名義」だけではなく、その「財産」の一切も合わせてその金額の中で買い取ったものもある。
 この方式によれば親族や縁者からの反発を避ける事が出来たのである。
  (本来では「家紋掟」でも「嫁入り」では「氏名と家紋」は変わらない)
  分家筋がこれを行う時は、親族中でも「本家筋の承諾」が必要であった。
3 単純に「名義」の使用を選定とする「名義買い」があった。「名義」を売った方は名義が消滅する。
  農民や漁民や商人に転身した。
4 一族が完全に跡目が断絶し、その「氏名の使用」だけを売却する方式もあった。
  「跡目」とは別に「借金の肩代わり」に「名義売り」に成る場合もあった。

これら全ては、その「郷士や郷氏」の「経済的な背景」が左右していた。
「娘」(女子)が無かった場合は、形式上、縁者や他氏から求めて「養女」を仕立てて、この形に持ち込んだものもある。この方式は最も有利であったからで、「1の方式」に持ち込む事が出来ない場合には2から3と変えて行ったものもあった。
「青木氏の戒律」に縛られないで、「地域性」に左右されて経済的に低かった「高知青木氏」には、「郷士の坂本氏」でも起こっている程から、よりこの現象が起こった可能性が高い。
恐らくは、「本家筋」の範囲ではこの方式で「高知青木氏」を保もたれていた事も考えられる。
依って、その「氏の衰退」と「名義売り」をしてしまった事からも、自由になった明治後の「都会移動」と「入植移動」が起こったと考えられ、それと共に老齢化していた事が考えられるのである。
故に「青木村」を形成しながらパラメータが0と成り得ているのであろう。
つまり、「二つの青木村」に成っている事から、「本家筋の名義売り」になった事に成る。
一方で「青木村」が残り、二つ目の「青木村」を形成した事に成っているので、「1の場合」に限定される。故に「二つの青木村」が形成されたのである。
この場合であると、家紋も何もかも一切「札の条件」に成って居る事から判別が出来ないのである。

この様に、上記した様に「日向青木氏」の様に、現在でも子孫拡大が進んでいる「青木氏」もあれば、「高知青木氏」の様に衰退している地域もある。
況や、この「栄枯盛衰」は「伝統」の「継承有無の如何」に関わっている。
今後、伝統の継承のより強い意識が無ければ、この「高知の青木氏」の「伝統」のみならず「青木氏」も残念ながら消える見込みであろう。

・「徳島の青木村考察」
ところが、この四国に於いて、「二つの青木村」を持っている県がもう一つ珍しくある。それは徳島である。
ここは「高知」とは全く違うのである。
平安期初期からの北家筋の赴任定住地である。藤原秀郷流一門と同じ北家筋の利仁流一門の赴任地である。
ここには「護衛同行団の秀郷流青木氏」が定住の形式を一応採った地域であり特異な地域でもある。
その「子孫拡大」の「高知青木氏」の方向は、「徳島」の南側から西に向かって伸ばしたが、西に伸ばさなければならない理由があった事に成る。東には隆盛を極めたこの「秀郷流青木氏」が定住していたからである。
この東には上記する様に「剣片喰族の秀郷流青木氏」が定住していた。その定住には特異さがあった。パラメータは1である。
しかし、この1は単純な1ではない。高知で上記した様な衰退の様な現象が起こっていた事が思えるが、ところが隣接する東では全く別であった。(下記)
高知から観れば、隣国であった事から東にも青木氏が存在する事は、東にも「青木村」が2か所もあって、この事は高知では、長い間の歴史の中で風評として承知していた筈である。

その「高知青木氏の経済的背景」の経緯は次ぎの様な現象であった。
特に、「日向青木氏」の様に無人の山岳部や沿岸部を開墾して「生活の糧」とした訳ではなく、一族逃避時からその力を使って「讃岐青木氏の援護」を受けて領地を拡大した戦乱の室町期の「子孫拡大」であった。「讃岐藤氏」にとっては「背後の憂い」をなくす意味でも都合が良かった。
ところが「高知の青木村」が隣接する東側の地域の阿波徳島一帯には、愛知から来た「剣片喰族」の「秀郷流青木氏」が赴任して土地に絶大な勢力を張っていた。
東には憂いが無かった事が「高知青木氏」(土佐)にも成し得た勢力で「子孫拡大」は成し得た。
しかし、この「子孫拡大」は室町期末期までのもので、「山内氏の領地」となった「江戸期の安定期」と、「明治期の地租改正」などで「生活の基盤」と成る土地は力に頼った「子孫力」であった事から霧消した筈である。
その背景と成っていた「讃岐藤氏」も「四国の勢力争い」の「戦乱の苦境」の中にあっての「高知青木氏」は「讃岐青木氏の庇護」は無くなったと考えられる。
筆者は上記の「高知の名義札問題」は、この時に起こったと考えている。
「高知」では財政的に子孫存続が難しくなった「名義売りの青木氏の方」は衰退し、「名義買いの方」は逆にその財政力を使って隆盛して、この「名義買いの方」の青木氏が残った可能性がある。
多くは「名義買いの方」は「坂本氏の例」に観る様に「商家」であった。
とすると、「一方の青木村」は当然に消滅する筈である。

しかし、残っていると成ると、”一体どのような事が起こっていたのか”と云う問題がある。
だから、上記の2や3や4ではなく1である事に成る。
つまり、「娘」を娶り、「名義買い」もして、「財産」も買い上げて、「家柄」を「郷氏」に一段上に上げて、後に子孫が生まれれば、その一人を元の「名義売りの家」を興し直す事で可能に成る。
こうする事に依って、「名義買いの方」は名実ともに「青木氏と縁続き」と成る。
更に、そこで更に子供が出来れば、完全に「名義買いの方」の「血筋」の「青木氏」に特化してしまうのである。この経緯が本来の目的である。
「商家」が「武家」に特化する身分変更の奥の手であった。
財政的に優位にある「商家」は挙ってこの手を使った。「氏族」に成ると同時に「商い」にも有利と云う事が起こる。「商家 商家」と蔑げすまれる事は無くなる。
「室町期中期からの豪商」と呼ばれる者は殆どが「二足の草鞋策」(室町文化 殖産業)で、「江戸期の豪商」は逆に商家が「郷士や郷氏の札」を買う事で「二足の草鞋策」(元禄文化 販売業)に成った。

従って、4、3、2より1に持ち込もうとして、「名義売りの方」に娘が無くてもどこから女子を連れてきて先ず「養女」にしてこの取引を両者の合意で行った。
要するに、「血筋」と云うよりは「家柄」を重視した。これは「商い」にも役立つ利得からの選択であった。幕府や藩の「認可の便宜」と「公共事業の受注」にあった。今とあまり変わらない。

「弘前藩の事件」もこの「太平洋周りの廻船」の認可と「海産物の殖産海運」が物語っている。

恐らくは「商家の武家への特化」この事が起こったと観られる。
突き詰めれば、「札の買い手」の「家の継承」と云うよりは「利得のための特化現象」である。
故に、「二つの青木村」が残ったのである。
結局は、「名義札」にする側の青木氏は存続が出来なくなった事によって1から4の事が起こったのである。
終局は、断絶か滅亡の憂き目に成る運命であるから、「売る側」も「買う側」にもそれなりの利点があった。それ以外には無理である。
通常の「氏名継承」の「男系継承」の逆の事を起こしたのであり、元に戻す手段としても当時は認められていない「女系継承」が起こった事に成る。それを「正常な形にする手段」として「名義札制度」があったのである。
「氏家制度」が、”下剋上と戦乱の下級武士の勃興”で「社会の組織形態」が崩れて、室町期末期頃から「崩壊の憂き目」が起こった。
そこで考え出されたのがこの「名義札制度」であった。
この制度は江戸期の中期に入る前には「お家を護る」と云う大義名分の名目で盛んに行われた。
全くの他人の子供を「養子や養女」に迎えて家を継がせると云う事が頻繁に行われ、旗本や御家人の家柄を断絶から護ったのである。
当初は武士間だけであったが、それのみにあらず「庶民ー武家」からも「名義札」で取引して「養子や養女」を迎えて「家」を護ったのである。この「慣習の継承の裏」には、必ず「名義札」が動いた。
この「名義札」も社会的に認められたものであっても、「利得」より「家柄」と云うものに重点を置くと、江戸期または室町期に於いても「士農工商の縛り」がある以上は”「商家」が「武家」に”と蔑まれるは必定で、その為には、「名義札」も表にはなかなか出しにくい行為で制度である。
子供が出来るまでの少しの時間をかければ「売り手」の元の家に「再興の子供」を仕立てる事で名実共に「青木氏」には成れるが、そこに「商いの利得」が絡んでいれば密やかに「名義札の売買」は行われなくてはならない柵がある。
これは「武士」もより上の家柄にする事に限らず、「商家」もこれに参画して「武家の家柄」を獲得したのである。

・「高知の山内氏の考察」
この背景と成っていた「讃岐青木氏」は瀬戸内を通じて北に延ばした事から、「高知の青木氏」は「三つの条件」の全てを連鎖的になくして行った事が云える。
尚、合わせて江戸期の四国は大きく勢力図は変わった。
つまり、「姓族の時代」と成って、「氏家制度」の中で「高知の土佐青木氏」は生き延びるための基盤を失った事に成る。
恐らくは、「下級武士」から家を興した「山内氏」は愛知から家臣団を連れての「高知への転封」で、「土地の豪族」や「郷士、郷氏」等の勢力との激しい反発を受けた「有名な転封藩主」であった。
事件では、「話し合い」を前提として城内に入った「郷士団」「土豪団」と「山内氏」との間で城門を閉ざして城内で全滅に至るまで激戦を繰り広げた。この「激しい反乱」(有名な反乱)の末に解決した経緯があり、この「怨念と警戒」があって、「地元の勢力」、「土豪団」取り分け「郷士団」や「郷氏」には、山内氏は警戒していて「厳しい政策」を幕末までを採った事でも特に有名である。
(この事件でも郷氏が少なく成り「子孫力」が低い原因になった。)
その政策は「江戸末期の土佐藩」にもよく出ていて、「坂本龍馬」もこの事が原因で許可なく国元を離れた経緯がある位で、一部懐柔策としてこれらを家臣に加えたが「郷士や郷氏」には特に厳しい軋轢を加えた事でも有名である。
依って、「高知青木氏」も例外ではなく、通称歴史上では「名義買い」で称される上記した様な事が起こり「農民か漁民」(入植移動)に転身して生き延びた事が云える。
その事から土地に居づらい元青木氏は、後に特に明治期の「都会移動」「入植移動」の原因となった。
筆者の研究からも、この地域の「武家の青木氏の強い息遣い」は観られなかった。
「ルーツ掲示板」にも同じく観られない。「ルーツ掲示板」の比率に表現できない数字である。
しかし、「墓所の家紋分析」と「守護神の調査」の研究からまだ存在は確認できる。
数字的には1あるいは2以下のパラメータが得られる程度と考えられる。
しかし、記帳とルーツ掲示板にも無いと云う事は、その原因として「名義買いの青木氏」にも「高知在住の青木氏の老齢化」も起こっているのではないだろか。

下記に示す大阪や東京などの都会に、つまり、パラメータが多過ぎる地域に「移動定住」している事を示すが、外の四国3県のパラメータにはそれなりに妥当なものとして考えられる事から、この3県には高知からの移動の原因は考えられない。
「山内氏事件」「名義札」「入植移動」「都会移動」「戦乱期衰退」が原因して「武田氏系青木氏」の「高知青木氏」はパラメータが得られなかったと観られる。

「徳島」
そこで、比較対象として上記した様に隣接する「徳島の1」に付いて「特異性」があるので論じて置く。
その証拠には「徳島の1」である。(このパラメータの1には意味がある)
「徳島」は上記した様に、「剣片喰族」の「秀郷流青木氏」が愛知より移動して赴任定住していた。この期間は平安期から室町期中期まで赴任している。
この定住には、初期には「秀郷流一門」、その後に「藤原利仁流の藤原氏」も越後から赴任している。
ここには「秀郷流青木氏」が鎌倉期まで赴任していて定住していた事から、「秀郷一門」と「利仁一門」は一族系列である事から深い親交があって、その後に「阿波の秀郷流青木氏」は警護をしている。

(利仁と秀郷の関係 「秀郷」の祖祖父の「藤成」の兄弟の「鷲取」の5代目が「利仁」、「藤成」から4代目が秀郷 従兄弟としての関係程度であった事が記録から観られる。「陸奥の鎮守府将軍」としても「利仁流」も務めているくらいで相互に親交があった。両者を取り持ったのは「進藤氏」で仲介していた。「利仁流進藤氏」が越後と岩代の中間の東北地域には発祥している。)

この為に、「阿波徳島青木氏」はパラメータ1に関わらず江戸期末期まで「郷氏」として生き延びて子孫を確実に拡大させている。
この「パラメータの1」は徳島の南北に「青木村」を「二か所」も形成している事から観ると、”低い”と判断できるが、「高知青木氏」と違い、この”低い”のにはそれなりの理由があった。
この「剣片喰族」は愛知から静岡の沿岸部に分布していて江戸期まで青木氏外にも「片喰族」として大勢力を維持していた。
室町期末期の天正末期まで一門の永嶋氏が、伊勢域まで勢力を拡大させたが、これには「片喰族」と「剣片喰族」が加勢して勢力を維持させた。その為に、「四国阿波青木氏」も勢力を維持させた。
何故ならば、この「剣片喰族」は阿波に定住地二か所を設けながらも、固定定住するのではなく「愛知ー静岡」の地域から”「交代制」で維持する”という制度を採用していた。
本来の「入間帰還」の「青木氏の制度」と違い、これに従い「片喰族」として「子孫拡大」を分散させない様に確実なシステムを独自に敷いていた。

武蔵の前哨地として採用していた為に、本来は武蔵の国に復帰するが、この「片喰族」だけは「愛知ー静岡」に復帰していたのである。
この為に、「阿波」にはその勢力が固定されて、江戸期でも「郷氏」になったとしても「氏力」は保たれたのである。一族の相互間の連携を採っていた事が「家紋分析」でもこの事が裏付けられる。
故に、江戸期でも安定した勢力を保持した為に秀郷一門の主要家紋8氏の一つと成っていた。

高知の青木村の二か所は、「須崎市青木町」ー「高岡市青木町」の隣接市にある。
徳島の青木村の二か所は、「南端域の阿南市青木町」と「北端域の板野郡青木村」に完全に分離している。

つまり、「徳島の青木村」は上記したその制度にあった。
これは、利仁流一門の護衛の時は、「板野郡」に、秀郷一門の時は「阿南市」に分けて赴任住まいしていた事が判る。
両方には留守居を置いていたが、この「二つの青木村」の態勢は「利仁流と秀郷流の距離感」を保っていた事が考えられる。阿波国は紀伊水道に沿って南北に長い土地柄である。
利仁と秀郷の二門の護衛となると「青木村」一つで務める事は、幾ら親交があったとしても問題が生まれる。阿南と板野の中間に置いたとしても縦に長い地形から距離が生まれ初動に時間が掛かる。
そこで別々に「青木村」を置いた。
家紋が別の青木氏であれば「二か所の青木村」も考えられるが、「秀郷流青木氏」としては全国に支障なく護衛の軍団を配置するとなると、阿波の一国に「二つの青木軍団」を置く余裕はなかった。
長崎のところでも論じた様に、定住策を採りながらも入間を防御に支障を来さないためにもに帰還させる体制を採っていた。
特に阿波は秀郷一門ではなく、「北家利仁流一門」も赴任していると云う事から考えると、家紋別の青木氏を配置する事は無理であり、「北家利仁流一門」にも越後からの赴任と成ると、最低限の多少の護衛団を引き連れて来る事に成る。この「二つの北家護衛軍団」が一つのところと云う事は不可能で、「北家利仁流一門」には賜姓族でない為に「青木村の様な村の権利」は許されていない。
護衛団を駐留する場所の確保には土地の豪族との関係もあり難しく、「最小限の軍団」と成る。
「村の形成」は先ず「軍団駐留」と「守護の生活」を維持する「土地確保の許可」と、そこに必要な「農民などの職能集団」を置かなければならない事と成ると簡単には不可能である。
阿波には、平安期で確認できるところで10回程度で年数は3から5年(原則4年)で凡そ交互に務めている。この状況からも、一か所は無理である。
そして、この交代制が出来る条件が阿波にもっとも近い「秀郷流青木氏」でなくてはならないし、越後域からでは無理である。まさに江戸時代の苦痛の参勤交代の様に成ってしまう。
参勤交代の様に成れば「氏力」は低下してしまう。そうなると、秀郷一門の勢力圏の最西域は完全に限定される。 

・「愛知の考察」
「愛知から静岡」に勢力を張る「片喰族の青木氏」と成り、その中でも、愛知側の「剣片喰族」と限定される。だから、最も合理的な「年期制度の交代制」を採る事が出来たのである。
これを本来の「帰還先の入間」と成ると問題が生まれる。
通常では116氏の本家筋は全て入間の護衛に当たるのが「秀郷一門の掟」であり、その例外として「剣片喰族」は許されていて関東にはこの家紋は少ないのはこの事による。
そもそも、「片喰族の分家」の「剣片喰族」の方が勢力が大きかった事が判っていて、そこで、「片喰族」一門としては「本家筋」の片喰族が「入間護衛」に回った事に成っている。
従って、「徳島の1」のパラメータは1で良いのであって、大きい事はあり得ないのである。
それ故に、「愛知ー静岡」域のパラメータは、「愛知の13」、「静岡の5」として大きいのであって、特に、「愛知の13」は一見して入間本領の17から比較すると”大き過ぎる”と見えるが大きくないのである。
「愛知の13」では本領域に近いパラメータと成るが、愛知は確かに勢力はあったが本領並の勢力下にあった事はなかった。
恐らくは、平均以上である事は否めないが、せいぜい本領の半分以下であった筈で、「秀郷一門の「第二の宗家」として勤めていた「秀郷流青木氏」としては統制下の中にあっての事で、「子孫拡大」の「三つの条件」を13にして置くことはあり得ない。
その必要性があるのならば、その元の「三つの条件」を入間に充てる事とする筈で、それほどに無策ではなかったし、余裕は無かった筈である。
「全国24地域」にそれなりの「三つの条件」を配置しなければならないだけではなく、「利仁流一門」にも加勢していた史実から、依って、愛知の実態は13ではなく7であった事が考えられる。
「愛知13ー7」は13から7への変動地であった事に成る。
特に、「経済的背景」に支障を来す事に成った筈で、この残り分は「徳島の1」に充てられた。
従って、「徳島の1」は7になり1に成りする「流動性のあるパラメータ」なのであって、そのパラメータの元は愛知の13の中にあって、全ての青木氏の中では特異な徳島と成る。
逆に、愛知は13に成り7に成りする「分布力」であった。
結局は、現在、愛知が13と成っている事から江戸期末期頃には徳島から多くは愛知に戻った事を示すものである。
どれだけ「徳島の青木氏」が「蜂須賀藩の家臣」に成ったかは不明ではあるが、成ったとしても徳島の本家筋が家臣になった事程度であって、地元の民間所蔵の資料から観ても、家紋分析の内容からも「高知の青木氏」と同じ様に「徳島の青木氏」の多くは「郷氏」に成った事が判っている。
その元主であった「郷氏」と「漁民」が組んで「蜂須賀藩」との間でも「揉め事」を起こした事が書かれている。「徳島」の「郷氏ー漁民団」の場合は、資料では「船を使った戦法」を採ったところがその技術技能の無い蜂須賀藩には堪えたと観られ、彼らに「船の交易の特典」を与えた。この特典を活かして昭和20年代まで「阿波水軍」で有名を馳せた。この事が「徳島青木氏」の「子孫力」を遺した背景でもある。
ただ、「山内氏ー高知青木氏」(甲斐武田氏系青木氏)と「蜂須賀藩ー徳島青木氏」(藤原秀郷流青木氏)のその「元の基盤」が異なっていた事に成る。
この様に、「子孫力」を遺せるかどうかは「生き様の経緯」で決まる。
そして、その「生き様の経緯の流れ」には何人も”人は抗する事は出来ない”のである。

この「徳島ー愛知の現象」は少なくとも「室町末期ー江戸初期」まで続いていた事が、この事は「結城青木氏」の資料の記録の中でも凡その姿が書かれていて判る。

恐らくは、”世に憚る事無かれ”は、上記の「生き様の経緯の流れ」にうまく乗る事の「究極の秘訣」であって、その「身の処し方」はの意は、”必要以上に表に憚る事無く、一歩下がった処に身を置くことの大事さ”を示唆している。そして、その時、「心の持ち様」の意は、”「萎縮」する事無く「卑屈」に成らない事”とある。それを資料の語意から読み取れる。

これが「秀郷流青木氏」が「第二の宗家」として主導する「秀郷一門の掟」と成っていたと考えられる。
これは元々、「皇族賜姓族青木氏の生き方」でもあった。その証拠に「青木氏の掟」 ”世に晒す事無かれ、何れに利無し。”から来ている筈である。現在もこの「訓戒」は伝えられている。
これこそが、「全ての「青木氏の子孫力の根幹」に成っているのだ。
この様に「秀郷一門の青木氏」は、”生き残る為に巧みに処世を読み高望みせずに、丁度良い位置に身柄を置き江戸末期まで泳ぎ切った”のである。
(北家秀郷一門をリードする「第二の宗家」の「青木氏」の伝統的な生き方)

秀郷一門の「定住地域の24地域」の殆どは、これを護って大きな事件を起こさずに江戸期に入ったのである。(意に反して流れの中で巻き込まれて事件と成った事もあった。)
この゜生き様」は、「秀郷一門北家筋9氏」が家紋として用いている「下り藤紋」をはじめとする「主要8家紋の動向」の家紋分析でも判る。
そもそも、”下がる”を忌み嫌い「上る」を由として「上り藤紋」に多くの北家筋は伝統ある家紋を変えたが、敢えて、「秀郷一門の9氏」のみがこの「下がり藤紋」を変えなかった。
何故ならば、人が抗する事の出来ない「生き様の経緯の流れ」に対応するのには、「”世に憚る事無かれ”」の「究極の考え方」であるとしていたからである。

・「藤原秀郷一門の生き様」
その後の江戸初期前後の秀郷一門は、「皇族賜姓族青木氏」を除く、「丹治氏系青木氏」を含む「関東の青木氏」は「幕府または徳川氏の旗本家臣団」に加わり、「江戸幕府の本領安堵策」によりその勢力を保持した。

(例1 大名に充分に成り得る「土地持ちの御家人」でありながら、大名になったのは361氏の中で何とたった1氏の「内藤氏」だけである)

(例2 「丹治彦王の配流孫」の末裔「皇族青木氏」の「丹治氏系青木氏」は当初、豊臣側に着き奈良の地域を拝領する事を約束されていたが、「家康の調略」により徳川方に着き、その勲功で摂津4万石の大名に成った唯一の例がある。)

(例3 豊臣秀吉が家柄をよく見せる為に、豊臣家の「虚偽の系譜」に書き記して「縁者、親族」であるとして利用された「青木紀伊守」は越前北の庄八万石、「青木伊賀守」は越前丸岡四万六千石と成った「伝統ある青木氏の戒律」を破った経緯があるが、何れも徳川家康に依って、結局は除封されて越前福井に逃げ込んで「子孫力」を著しく弱めた。)

・「子孫力」「生き様の形」を作る秀郷一門の戦略
それは、そもそも、その「青木氏」は室町期末期から江戸初期に掛けての「生き様の形」は、「秀吉と家康の駆け引き」の流れの中にもあった。

そこでこの子孫を護る「生き様の形」の端的に物語る歴史上の有名な事件があった。
「秀吉」より「家康」が関東に国換えを命じられ時、即応した家康は、この「藤原氏」の各関東を中心とした各地にある”秀郷一門の絶大な勢力”を取り込むことで、豊臣以上の勢力が確保できる事を目論んだからであった。
「本領安堵」を前提として、最初に旗本の家臣団の傘下に入る事の交渉に入った事は歴史上の有名な史実であった。
「青木氏」を含む「秀郷一門」はそっくり徳川氏の中で「土地付きの上級武士団」(御家人)を形成したが、「大名」は敢えて好まず「青木氏」を含む一族一門は「御家人と旗本」を目指した。

この「子孫力」の「生き様の形」は、平安の時代が終わりの鎌倉時代と成った時も、「秀郷一門の行く末」を決める時も、「秀郷宗家の朝光」が採った戦略と全く同じ戦略を採ったのである。
頼朝はこれを認めた。(「本領安堵」ー「一族の家臣化」ー否大名化」)

又、別の例として、陸奥で秀吉に敵対しながらも「青木氏族」の秀郷流結城永嶋氏の領国 愛知は「関東屋形」として呼ばれていながらも江戸初期まで愛知まで勢力圏を補完した。
徳川氏に対して充分に大名に成り得る勲功を挙げている「永嶋氏」であっていながら、且つ「大名」としては充分な勢力を補完していながら、”絶対に大名と成らない事”で徳川氏との軋轢を避けた事にもあった。
「生き様の形」「生き延びる事」、「子孫力の保全確保」の為に採った一門の歴史的な「究極の選択方針」であった。この考え方が「子孫力」に大きく影響した。何も大名に成る事が「子孫力」を高めると云う前提ではない事を一族一門はよく承知していた。
大名と同じ勢力を保持している事であれば、憚って大名に成る必要性はないとしたのである。
(その「1/361」は、その一門の究極の生き様の掟は完全に守られていたとしても過言ではない。)

つまりは、其の儘では、「秀吉の調略」に乗せられて「徳川氏の基盤」を”江戸の周囲から突き崩す戦略”に”巻き込まれる事の経緯の流れ”を避けたのである。
秀吉は”関東を与える事”の先の事を読み込んでいたのである。
それは「藤原氏」を調略して、最終は「藤原氏の勢力」を使って周囲からせめて潰す計画にあった。
これを読んだ「家康ー関東藤原氏」は、「本領安堵」と「御家人家臣団」として「上級武士団」で解決した。(これに依って却って秀吉は逆に徳川氏を潰す事が難しくなった。)
江戸幕府の上級武士の中に「下り藤紋の藤原氏」が多いのはこの事による。
秀郷一門を家臣団に納めた事で、家康は秀吉との関係で、”鳴く迄待とう不如帰”の家康は、この奈良期から生き残って来た「北家藤原氏」の中でも「秀郷一門」の「生き様の形」、「生き延びる事」、「子孫力」の「究極の選択方針」(”世に憚る事なかれ”)を見習ったのでは無いかと考えられる。

・「江戸時代の秀郷一門の大名」
全北家筋で江戸時代に大名に成ったのは、凡そ280藩中で次ぎの5氏にすぎない。
その5氏も殆どは「内藤氏」である。「下り藤紋」(秀郷一門:361氏)
1 陸奥 湯長谷藩 内藤氏 
2 越後 村上藩 内藤氏 
3 駿河 高遠藩 内藤氏 
4 日向 延岡藩 内藤氏 
5 近江 水口藩 加藤氏
(北家筋の9家がこの家紋を使った。殆どは「上り藤紋」に変えた。)
これでも「究極の選択方針」を貫いた事が判る。

家康は、これと同時に、更にこの藤原氏が抱えていた「神職系の神社集団」と「浄土宗系集団」を取り込むために、幕府開幕前後から、直ちに、全国全ての「神明社(青木氏)」は幕府、徳川氏の管轄下に置き、浄土宗の信者集団も管轄下にして開幕後に直ちに「浄土宗督奨令とその法令」を発した。
そして、「青木氏の守護神」の全国500社にも及ぶ「神明社の全国修復の令」をも同時に発したのである。
これに依って、「皇祖神の子神の祖先神の勢力集団」が徳川氏に入った事で「他の神社集団」もこれに倣ったのである。
(この時点で「青木氏による神明社」と主な「浄土宗寺」は幕府ー維新政府の一級の管理の下に引き継がれた。これも「青木氏の巧みな生き様」である。)

(因みに、限定された歴史の史実であるので例として記述して置くと、筆者の伊勢の「青木氏の菩提寺」も接収されて「紀州徳川氏の菩提寺」と成り、寺も改めて菩提寺後のすぐ横に建て替えられた。そして、そこに「青木氏の墓所の権利」を与えられ、「寺名」も青木氏の時の同じものとなった。
「伊勢青木氏」が管轄していた「神明社」は全て「紀州徳川氏」に「修復前提」として引き渡した事が記録され、且つ、この時の様子を口伝にて伝わっている。)

更に、余談とも成るが、「伝統」云う事では意味があるので、敢えてその時の様子を短く記述する。
この時の伊勢松坂で紀州徳川氏との交渉が行われた事が記録されていて、会談に入った時に、我が家「当主長兵衛」と「徳川頼宣」との座る位置について問題が先ず起こった。
(身分家柄は古来より「青木氏」の方が上 「永代浄大1位」)

”どちらが上座に座るか”の問題で、家臣との談合が行われたが結論が出なかった。
そこで、「徳川頼宣」と青木氏当主の直接の決着で解決する事に成り、その場で自発的に「頼宣」は下座した。
困った当主長兵衛も礼儀から下座したので、結局、上座で同座となった。
しかし、ここでまた問題が起こった。当主長兵衛が座布団を敷かなかったところ頼宣も敷かず、家臣は平伏したままであった。そこで当主長兵衛は敷くと全て平伏を解いた。
この期にこの交渉に入った事が伝えられ、神明社と菩提寺の放棄の変わりの名目で、この時に、青木氏の土地の所有権(地主)を認められた。「吉宗の養父方の親交」、「享保改革の財政方」や、「幕末期の紀州藩の財政悪化をも指導」をして救った。この事が伝えられている。この後、祖父の代の大正14年まで深い親交があった。

”世に晒す事無かれ 一利無し”を護って世の記録としては遺されているが大館で出て来ない。
「二つの賜姓青木氏」は、この様に、表には出ずに”常に裏方に回る「子孫力」”を発揮した。
「子孫力」を作り上げる「青木氏の家訓10訓」はこの考え方にあった。

「岡山」
次ぎは、中国地方の「岡山」である。
この岡山(備前)は、「讃岐青木氏」の活動分布域に匹敵するほどの活動地域であり、更には、藤原氏北家筋からも鎌倉期と室町期に赴任して定住しているが「秀郷流青木氏」に関わりはない。
「瀬戸内」を経由して「讃岐青木氏」の活動領域である。ここには別の京都などの北家筋藤原氏の赴任地でもあった。紀州等もこの藤原氏(脩種ー脩行系の藤原氏)の赴任地であるが、この備前(岡山)の内の美作や備後にはこの系列の藤原氏が赴任している。
しかし、この「讃岐青木氏」が関わる「岡山の地域の沿岸部」の中では「備前ー備中の瀬戸内沿岸部」に定住していた。
況して、その「子孫拡大」の勢いは、この「岡山」を経由して北の宍道湖西域まで貫いて移動定住しているくらいである。
「島根のパラメータ2」はここに移動定住した末裔の「子孫拡大」によるものである。
この「移動定住」は本業の「廻船業」と、それを利用した「瀬戸内海産物の殖産販売」にて支店を開店して住み着いたもので、その末裔の子孫拡大である。
依って、「岡山」と「島根」とは同じ「讃岐青木氏」と同じ「廻船業関連の背景」にて「子孫拡大」に繋がったものである。「岡山の0」は最低でも「岡山の1」が認められる。 
この「讃岐青木氏」の「香川」の「パラメータは1」ではあるが、「愛媛のパラメータの3」も「讃岐青木氏」であり、「讃岐」として地域を限定しているが、「愛媛の3」は「讃岐青木氏の横の分布領域」である。

(讃岐や日向など国を限定しての呼称と成っているが必ずしも限定する分布域ではなく、発祥起点を呼称していて、分布域=発祥域とはならないし、現実に限定の呼称は無理である。)

・「讃岐青木氏」
従って、この「愛媛」には「青木氏の歴史的縁故」は全くない。”無い”と云うよりはここの豪族が毛利系に保護されたの公家系西園寺氏とその配下の隅切り角紋族の土地柄(四国の豪族)であった事が原因していた。
戦国時代は「讃岐藤氏」が横に支配勢力を伸ばす事に制約があったし、「瀬戸内」を制していたとしても、南西域から「長曾我部一族」に侵攻される危険があって、沿岸沿いに西に伸ばすのがいっぱいであった。
従って、「香川」よりの「愛媛の3」のパラメータは「讃岐青木氏の3」であるので、「讃岐青木氏」は四国側では、次ぎの様に成る。
合わせて「パラメータは4」と成る。
中国側では「広島の3」、「島根の2」、「鳥取の2」と「岡山 0から1」を合わせての小計は「パラメータは8」と成る。

これら全て「瀬戸内沿岸部」を制していた「讃岐藤氏」の「讃岐青木氏」であり、四国と中国を合わせると合計「パラメータは12」と成る。
この「讃岐青木氏」の瀬戸内沿岸部の「小計パラメータ12」が、昭和20年代まで維持されていた事である。

(この「讃岐青木氏」の瀬戸内の「小計パラメータ12」は、昭和20年頃に北海道に入植移動定住していて、この内のパラメータは北海道のパラメータ11の中に入っているので、「讃岐青木氏」の「瀬戸内の子孫力」の総計はより大きくなる。下記 総計 パラメータ17)

・「入植地 北海道の関係考察」
これに、入植先の北海道の11の一部(下記 5/11が見込まれる)を加えると、「讃岐青木氏」の総合で「合計パラメータは17」と成る。 
これは、「武蔵の秀郷一門の入間の本領地の17」と同等と成り、秀郷一門でありながら、且つ、「藤原氏北家筋」でありながら、「瀬戸内の財産」(経済的背景)を背景、根拠に「独立性」を高めていた所以である。
この事を考えると納得できる「讃岐青木氏の総合子孫力」は「パラメータの17」であった事に成る。

従って、「岡山の0」は讃岐地域に匹敵する地域ではあるが、パラメータが採れなかったし、10年間の間に「記帳」や「ルーツ掲示板」からデータが採れなかったのが不思議中の不思議であったが調査で判った。
「瀬戸内」で「子孫拡大」が成された事から、岡山=香川とすると、上記の通り「岡山」は0から1に修正される。
全国に分布する事からパラメータが、「三つの条件」で成り立ち、そこから「岡山」は2以上を超える事はなく、「瀬戸内」の中では「三つの条件」が同一である香川と同等と見込まれる。




>
> [地域別分布力]
> 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
> 全国平均(全国単位 % 表ー1)
> 地域      異変の県        分布力
> 九州地方   長崎、大分       5%
> 四国地方   高知          2.5% 
> 中国地方   山口、岡山      2.5%
> 関西地方   三重(筆者ルーツ) 14%
> 東北地方   秋田           7%
> 中部地方                15%
> 関東地方                45%
> 北海道・沖縄               6%
> その他                   3%
>
> 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
> 九州地方  1.3
> 四国地方  1.3
> 中国地方  1.3
> 関西地方  4.7
> 中部地方  4.3
> 関東地方  11.3
> 東北地方  2.0
> その他   11.0
>
> 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
>
> 修正地域(表ー3)
> 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1−7 三重 12 福井 4 愛知 13−7
> 秋田 1
>
> 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
> 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
> 福岡  2   山口  0   愛媛  3     兵庫  3    三重  1
> 長崎  0     島根  2   香川  1     大阪  14   石川  2
> 佐賀  1     広島  3   高知  0     京都  5    福井  1
> 大分  0     岡山  0   徳島  1     奈良  1    岐阜  3
> 熊本  4                        和歌山 4    愛知  13   
> 宮崎  2                        滋賀  1    長野  9
> 鹿児島 1                                  山梨  1
>
> 域平均 1.25 平均  1.25  平均  1.25  平均  4.7  平均  4.3        
>
> 関東地方(45%)東北北陸地方(7%)沖縄、北海道地方(17.5%)
> 静岡  5    青森  1     沖縄  1
> 神奈川 21   山形  2     北海道 11
> 東京  18    岩手  1
> 埼玉  17    新潟  4
> 群馬  6    秋田  0
> 千葉  11   福島  4
> 茨木  4    宮城  2
> 栃木  8                                     
>
> 域平均 11.3  平均  2.0   平均  11.0  
>




>・「香川と岡山」の原因に続く。


  [No.307] Re:青木氏の分布と子孫力−3
     投稿者:takao   投稿日:2014/03/30(Sun) 08:20:33


>従って、「岡山の0」は讃岐地域に匹敵する地域ではあるが、パラメータが採れなかったし、10年間の間に「記帳」や「ルーツ掲示板」からデータが採れなかったのが不思議中の不思議であったが調査で判った。
>「瀬戸内」で「子孫拡大」が成された事から、岡山=香川とすると、上記の通り「岡山」は0から1に修正される。
>全国に分布する事からパラメータが、「三つの条件」で成り立ち、そこから「岡山」は2以上を超える事はなく、「瀬戸内」の中では「三つの条件」が同一である香川と同等と見込まれる。

青木氏の分布と子孫力−3


・「香川と岡山」の原因
そこで、これを根拠付ける為に、この原因には具体的な何かある事が考えられる。それを考察して観る。
その先ずは大きな原因の一つには、ここに定住移動した「讃岐青木氏」は、「瀬戸内の歴史」の上に出てくるくらいに大勢力を張り、”廻船などの商い”に従事していて、昭和20年までこの商いは盛大に行われていた。
その後、昭和の「戦後の混乱の影響」と、「大地主の地租改正」の「二つの影響」を受けて「廻船業」などが圧迫されて衰退させて、関東や北海道やブラジルなどへの移動定住を起こしている。
その証拠に、入植地の北海道のパラメータは何と11である。
そもそも、「北海道」は、鎌倉期までは「未開の蝦夷地」(下記)であった。
「秀郷流青木氏」は「陸奥広域」に大勢力を張ったが、ところが、この「北海道」には歴史の史実を観ると、「青木氏の定住地」ではなかった。
そもそも「陸奥の鎮守府将軍」までであったし、室町期末期まで永嶋氏が「陸奥広域」を支配していた事の勢力を以てすれば、北海道はその範疇に充分にあった。しかし、手を出さなかった。
その理由は、そもそも「賜姓族」の「古来からの戒律」で、平安初期(806年頃)には「陸奥広域」を征討した時には、「神明社」を建立したのに従って「皇族賜姓族の神職(信濃青木氏)」(神明社 20社 桓武天皇建立)を「陸奥広域」(平安初期の陸奥は福島までの広域)に配置した。
この北海道が改めて”「蝦夷の地」”(醜い族の地の意)として認定された為に、特別の理由を以って敢えて子孫を配置しなかった。

・「蝦夷地の考察」
(「蝦夷地」は正式には「1599年」にアイヌ族との間で行う正式な交易権を松前藩に与えた。
その前からは非公式でのものであったが、この後に2度の激しい戦いが起こりアイヌを追放した。
これを機に「松前藩」は家臣を正式に送り、「交易船」を仕立て各大名との交易を開始した。
「豪商」にも交易の権利を許し販売した。「家臣」にも独自に交易船を作らせてでも交易をする事を奨励許可した。この結果、急速に各藩も北海道に正式に「貿易拠点」を設けて家臣を配置した。
幕府は「松前藩」から上がるこの「交易権」と「独占権」の莫大な利益を享受した)
(「広域陸奥域」も平安初期は”「蝦夷の地」”として扱われていた。)

「子孫拡大」は、「三つの条件」のみならずパラメータとして表れるには、少なくとも「時代性」が必ず伴う。この「時代性」は、「賜姓族」としては「平安期末期」が「限界点」と見込まれる。
(青木氏は1025年頃から「二足の草鞋策」の「古代和紙の殖産と販売」の商いを正式に開始した。それまでは「税納の処分」の範囲の行為であった。大々的に総合商社産業としては100年後の1125年頃と成っている。)
それは「子孫拡大の慣習、仕来り、掟」の「厳しい戒律」が”自由なもの”でなかった事から、この「時代の限界点」を超えないと「青木氏のパラメータ」が2を超える事はない。
「皇族賜姓族」はこの「二つの限界点」の間で、「子孫力」「子孫拡大力」は著しく伸びた。

そもそも、「子孫」を「孫」或は「曾孫」にまでするには、「三つの条件」以外にある期間を必要とする。ある「限界点」があって突然に出来ると云うものではない。
当時の50歳を寿命とすると、当時は「皇族・賜姓族系」の族は男子15歳を以て成人し、「婚姻の対象」とする慣習であった。そして、女子はもっと早く「妊娠の条件」が整わなくても形式上の嫁入り(10歳程度 当時は妊娠条件は早期であった。子孫拡大は純潔性を重んじた為)をした。
中には記録から観ると7歳と云う者もいた。殆どは「純潔血制度の慣習」から「養女ー嫁の経過」を辿った。そうすると曾孫域までに達するには、約36年程度最速で掛かる。
仮に「ねずみ算」で観ると、子供4人として「2の二乗」で子孫は拡大して行くとして、「青木村」を形成できる範囲(4代ー1000人)では、4代か5代と成る。
しかし、「寿命50歳」は「ねずみ算」ではなかった事を意味するから、最低でも5代と成る。
5代世は最低で75年で最大でも90年と成る。

鎌倉期に頼朝が得た官職は、それまでの平安期の陸奥の「鎮守府将軍」から、鎌倉期の蝦夷地の「征夷大将軍」に切り替わった事の意味から、仮にこの時点から「青木氏」が移動定住したとしても1300年代に「青木村」が形成される事に成る。
しかし、この1300年代には北海道には、上記した様に、記録の経緯から観て非公式に未だ何れの「青木氏」も移動定住していない。

「許可制の定住移動」では何れの「青木氏」にとっては他氏に比べて「別の制約」があった。
イ 「皇族賜姓族」としての「慣習や仕来りや掟」などの戒律の制約
ロ 氏家制度の中で一族一門の了解の制約
ハ 守護神や菩提寺の保全の制約
ニ 御師、氏上様の社会的立場な制約
ホ 「二足の草鞋策」和紙殖産の制約

以上の様な制約があり、先ず「定住移動」、尚更、「入植移動」はあり得ない。
あるとするならば、ただ一つある。
それは、上記の制約が全て「廃棄」になった時にある。
これには、平安期のみならず江戸期までこの制約は続いたが、何れの時代にも「入植の定住移動」にはこの「制約の廃棄」が必要であった。
要するに、「皇族賜姓族」には少なくともこの「廃棄」はあり得ない事から不可能である。
上記した時代に「入植移動」を起こしたのは、「何らかの事由、事変」がお起こった事に依る移動であった。
「皇族賜姓族の青木氏」にはただ一つの許された公然とした要件があった。これ以外にはない。

それは次ぎの通りである。
A 皇祖神の子神祖先神の守護神の建立に伴う青木氏の神職
B 古代密教浄土宗の菩提寺住職
この二つに付いては”赴任による移動”と成る。

これには「最低条件」として「青木村」が形成されている事が必要条件である。
「皇族賜姓族」の「青木氏」が「イからホの制約」によって移動定住は出来ない訳であるから、「特別賜姓族」の「秀郷流青木氏」にはこの「制約」に強くは拘束されていなかった。
(但し、例外があった。それは「伊勢秀郷流青木氏」と「武蔵入間の宗家」であった。)
上記した様に、各地の「秀郷流青木氏」が定住移動し、「青木村」を形成した時に、AとBの「皇族賜姓族青木氏」は移動出来る事となる。
現実に「神職と住職」の「移動と定住」が起こっている。

例外がある。戦いに巻き込まれて各地に逃亡した「皇族賜姓族」即ち「制約の廃棄」が起こった「青木氏」には移動定住は可能である。
兎に角、逃亡先に「青木村」が形成された時点で、AとBの「皇族賜姓青木氏」が移動し、必要に応じて定住が許される事になる。自発的な「移動と定住」は矢張り認められていなかった。
特に、「特別賜姓族」の中でも、「伊勢秀郷流青木氏」と武蔵入間の「主要8氏の青木氏の本家筋」は「イからホの制約」に縛られていた。
何れにしても、116氏の宗家のみならず本家筋は「イからホの制約」から無理であったと考えられる。
この範囲外で「北海道の入植移動」は可能であった。「他氏の移動」とは違い大いに制約に縛られていた事に成る。

・「入植の時期の考察」
そこで、「室町末期」には「結城永嶋氏」が陸奥域に戻っていることから、秀郷一門の「護衛同行」を基本とする「青木氏」にとっては未だ北海道には定住移動していない事に成る。
そうすると、1575年から1590年代に未だ正式の定住移動はしていない。
この「秀郷一門の青木氏族」の「永嶋氏」は豊臣秀吉に依って「天正17年」に「陸奥の結城永嶋氏」は滅ぼされた。
(この時、「皇族賜姓族青木氏」と血縁もある「伊勢秀郷流青木氏」も禁令の戒律を反故にして「陸奥」に馳せ参じ定住しないで敗退して逃げ帰っている。)
この直後に「陸奥の青木氏」、特に「青森ー秋田の青木氏」は「生活の糧」を含む「三つの条件」を失った事から、逃亡先も含めて最短で日本中から「蝦夷の地」として敬遠されていた北海道に逃亡した。逃亡地としては「北海道蝦夷の地」が追手の事も含めて最適地であった。

筆者の持つ商業記録の一部からと、「讃岐青木氏」の江戸初期(1616年)の「太平洋周りの廻船の許可」が認可が下りている事からも考え合わせると、この「北海道」が出て来る時代は「慶長」の前後と成る。
「商業取引」と「廻船許可」はここに多くの人が移植した事を物語る。それでなくては経営が成り立たないし許可しない。
そうすると、1616年の少し前、1595年頃と範囲が限定されて来る。
北海道に、「青木村」を形成出来る程度としては、この1595年に90年を加算した1685年頃と限定される。好景気になった元禄文化の元禄年間前後と成る。
この元禄年間から100年間後には「享保の改革」が吉宗によって実行された。
この享保の時、「紀州藩の勘定方」を指導し、且つ、吉宗に同行して幕府の「享保の改革実行」(布衣着用を認められた勘定方:大名扱い 家臣ではなかった。青木六左衛門)を任された。
その「吉宗」を育てたのは「伊勢加納氏」と「伊勢青木氏」(主に経済面で後押しをした)である。
この時に江戸には「6家12流の青木氏」が存在している事が江戸の記録から読み取れる。
筆者のルーツは記録から伊勢から同行した6つの一つ「六左衛門ルーツ」(伊勢青木氏)と成っている。 12流もの青木氏が江戸に移動して定住している事は、この「蝦夷地」にも各大名の家臣などに成って赴任的にもかなり移動する理由があった事を物語る。

・「瀬戸内族の入植の考察」
「大蔵氏と塩飽族の資料」の中にもこの事が掛かれている。大型輸送を必要とする北海道の入植は、「海運」を主にしていた事からこの状況が一部に書き込まれていて、大蔵氏は「海産物の責任者」と「廻船の責任者」をそれぞれ一族の中で決めている。
「責任者」を決めるその必要性が特にあった事から決めた事であるから、この時頃に「交易拠点」を北海道に設けた事が明らかである。これは上記した「松前藩の資料」の中の文章と一致する。
この様に最も南の「九州の豪族」が決めている事から、全国の主だった豪族は競って交易に走った事を物語るものである。
「伊勢青木氏」は「二足の草鞋策」で「古代和紙の殖産」を通じて「総合商社の商い」をしていた事から、この北海道にも支店を設けていた筈で、出火でこの部分の詳細な記録は無いが、「千石船」を3艘持っていた事があって、それが「日本海周り」と「太平洋周り」に寄港していた事が判っていますので、「3艘の大船」をやり繰りして日本海と太平洋周りに廻す事などが起こっていた事を示す。
この時の記録から観て、「蝦夷地」には、「青木氏」は次ぎの様な経緯を経た事に成る。

「移動入植」1595ー「定住村」1685ー「活動期」1715と成る。

つまり、享保の時期1715年代には、各地の「青木氏」はその正式な「定住移動の根拠」を示しながらも、「賜姓族」としてはかなりの「自由度」で移動定住している事に成る。
言い換えれば、この「享保の状況」のこの「青木氏の移動活動」(幕府に質素倹約を進め財政再建として大船を使って交易利潤:「伊勢青木氏の大船」を使った可能性がある)から観て、逆算して1715年代の記録から90年を引くと、矢張り、上記の通り、「慶長期」と成る。

従って、「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」とは「商い」で深い長い親交があった事が商業記録で判っていて、その事から「瀬戸内族」の居る「岡山」もやや早いこの時期には可能に成っていた筈である。
(「伊勢青木氏」は「讃岐青木氏の要請」で「浅野藩取り潰し」(1703年)の際に「財産買取」に”3艘の大船を廻した”等が書かれている。「総合商社」を営んでいた事が理由で要請された。
弾薬や火薬も扱っていた。その13年後に「伊勢青木氏の主導」で「享保改革」を開始している。)

「移動入植」1590ー「定住村」1680ー「活動期」1710の経緯

上記の経緯を経て、日本の「初代の姓族」と成った「瀬戸内族の海部族や塩飽族」の「姓族」と共に移動定住した「讃岐青木氏」は瀬戸内から北海道に定住移動していた事に成る。

(青木氏主導の「享保改革」は、”「質素倹約」で「出」を抑え、「蝦夷地開拓」で「入り」を強化した政策)

・「北海道の11の吟味」
これが北海道の「パラメータは11」の中味である。
しかし、この「パラメータ11」では、この時期、つまり「慶長から享保の時代」の「入植定住と子孫拡大」だけではない事が判る。

この「北海道のパラメータ11」は「千葉の11」と一致する。
そもそも、「千葉」は、平安の古来より「藤原秀郷流青木氏」(朝光系)の定住地である。
ここは、「結城」を初めとして1000年以上の土地柄である。
上記の瀬戸内からの「入植定住の90年」とは訳が違う。
他の青木氏家からの入植定住があったとしても、「瀬戸内5県」からの「パラメータ7」とすると、残りの4を埋めるとすると、問題がある。
11−7=4は全国平均のパラメータである。バイアスとしては無視できない。
「他氏の青木家」の北海道に入植定住した「青木氏」は判っている。
その内容から観ても難しい。
つまり、「岡山」等の瀬戸内だけではこの経緯からでは、上記の計算から観ても11は得られない。

その前に、この「岡山」について吟味して観る必要がある。何かが観えて来る筈だ。
先ず「岡山」は、せいぜいパラメータは「全国平均の4」は超える事はなく、パラメータは1ー2程度と成る。
「全瀬戸内族の青木氏」として観ると、次ぎの様に成る。
「岡山1」と「香川2」と「広島2」と「島根1」と支店の「青森1」と「秋田」
これらを全部移したとしても、以上からパラメータは7/11程度と成る。

これは、他の地域から移動定住した「青木氏」が大きかった事を示すし、「ルーツ掲示板」でも明確に確認でき、且つ、筆者の家にも僅かに残る商業記録としてそれを物語る記録が遺されている。
それは、この「讃岐青木氏の廻船問屋」(総合商社であった)との関係である。
1 「廻船問屋」で「北海道産の海産物」の搬送と販売
2 「北海道と東北」から「太平洋周り」(外周り廻船)の「江戸向け」の「廻船の定期便の許可」
以上が「讃岐青木氏」に江戸初期に幕府から特別に認可されている史実がある。

「日本海周りの廻船」(内回り廻船)も平安期より持っていた事があって、その為に「岡山」から宍道湖の西寄りに平安期から定住地を認められていた。
これは「廻船による寄港地」として各港域に条件付きで定住が認められていた事を物語る。

(西には讃岐青木氏が、東には「足利氏系青木氏」が信濃から秀郷一門との争いで逃亡して「米子や八頭」に定住した賜姓族の「足利氏系青木氏」が存在して居て、それが宍道湖を境に東寄りに住み分けていた。)

・「讃岐青木氏の入植の吟味」
平安期から、”瀬戸内を制する者は国を制する”と云われ、それを「純友の乱」が物語るが、その後、衰退した「讃岐藤氏の青木氏」は、再び鎌倉期には、ここを制していた大蔵氏の勢力低下と同族の平氏の滅亡等により、再び、これを機に息を吹き返した。
再び、以前の支配下にあった「姓族」の初代と云われた「海部族」や「塩飽族」の「瀬戸内海族」をまとめて上げて「廻船問屋」を「2足の草鞋策」で再び勢力を盛り返した事が判っている。

(「海族」と「海賊」は異なる。明治期にはこの「海族」のこの「操船技術」が「日本海軍の操船技術」と成った。それだけに群を超えて優れている事を意味する。この「操船技術」を以って子孫拡大は進んだ。支配下にあった「海部族と塩飽族」等の「海族」も「姓族」として経済的にも一人立ち出来る様になった事が何よりの証拠である。)

この「讃岐青木氏と姓族の勢力」が、元々「蝦夷地の支店」として配置していたところに「讃岐藤氏一門の青木氏」が定住し、更に、戦後が上記した経緯の北海道に、衰退を防ぐ為に瀬戸内から定住移動をした事の2件が商業記録から読み取れる。

ただ、「香川の1」と「岡山の0」がその勢力に比してパラメータは余りにも低過ぎる。
これは、上記の北海道への「入植定住」が「個人単位」ではなく「一族の範囲の単位」で起こった事によるもので、現在のパラメータの数字は残った子孫が其処から拡大させたものであろう。


・「高松藩」と「弘前藩」の関係
それを物語るものがある。この記録の中には、次ぎの様な経緯が書かれている。
資料を取りまとめて観ると次ぎの様に成る。
「瀬戸内の本家」の「首魁」(頭領)が、「海部族」と「塩飽族」と共に「廻船の指導」を名目で、江戸時代に「弘前藩」から依頼されて、「江戸幕府」に特別に認められて移動定住している。
この「特別許可」とは、「弘前藩」の有名な「お家騒動」に関わりがある。

「弘前藩のお家騒動」(財政難と跡目問題が絡んだ数度の勢力争い)とは、積極的財政改革を主張する家老が、「讃岐の松平氏」(高松藩)に逃げ込んだ。幕府は当面この家老を罰する事で裁定を下し、「配流先」に高松藩を指定した。(内情は逃げ込んだ形)そして、「廃藩」にして幕府直轄の領地とする経緯を持っていた。
ところが、「高松藩」はより幕府に取って有利なシナリオを推奨し幕府を説得していた。
その間、「高松藩」は「讃岐藤氏の讃岐青木氏」とその「支配下の海族」に事前に話を通した。
その話とは、「瀬戸内の廻船業と海産物の販売」を「弘前藩」に指導させる事と、その事による利益の確保を幕府に収める事で「弘前藩の財政」を立て直し、「お家騒動の争い」を積極的財政改革を主張する一派に委ね、他派を排除し、納める事にして渋る幕府を納得させた。

そこで、「高松藩」は「讃岐青木氏」を説得し、「弘前藩」にこの「瀬戸内の廻船業と海産物の販売」の一切のノウハウとそのプラントの殖産を敷く事を任した。
この「瀬戸内の廻船業」を「弘前藩」に取り入れて「財政再建」を果たす事で立て直し、その事に依って得られた「利益」を幕府に献納金とし収める事で、お家騒動に決着を付けて「廃藩の憂き目」から生き延びた経緯があった。
(弘前藩はたびたび「お家騒動の事件」を起こしていた藩で有名)

この時、「高松藩の領主」(徳川氏)が乗り出したこの話は、瀬戸内に関係する族に取っては大変な事であった。
そこで、「讃岐青木氏」(香川と岡山)は一族の多く「弘前藩」に配置し、操船を担当する塩飽族は一族の本家の頭領を「4年の期間」を定めて「弘前藩」に配置しする事に成った。
この直前この頭領は倒れた。そこで、縁者から当主を迎えて「塩飽族の頭領」とした。
「海部族」もこれに倣って「海産物の殖産」を指導する事で主だった者を「弘前藩」に配置した。
「高松藩」との協議で4年を計画期間と定めて戻る事が決められていた。
ところが、4年経っても「塩飽族の頭領」等は帰らなかった。そこで、その頭領を廃嫡して新たに塩飽族の頭領を定めた。「海部族」も「讃岐青木氏」(香川と岡山から赴任した)でも同じ事が起こった。
恐らくは、資料の文章の言語の使い方が、”恣意的で敵対的な表現”が採られている事からある意味が出て来る。
端的に読み取れる「塩飽族の内容」を観ると、”廃嫡の言葉””絶縁””頭領に迎えてやったのに””待ったが遂に帰って来なかった””一族の危機的表現”と云う様な意味合いが書かれている。後で書き記したもので、跡目を引き継いだ者が、”一族の非常事態の不満”からこのような表現に成ったのではないかと観られる。
三者の資料を通して云える事は、恐らくは ”約束と違う 騙された”であったと観られる。
三者とも、”大きな打撃で、”相当な陣容”で取り組んだのに”一族存亡”であった事が判る。
幕府は、「幕府の財政的な窮地」を救える大きなこの「計画の利益確保 献納金」に重点を置いて、”4年で帰らすこと”は、”利益確保に支障を来す事”が懸念された為に帰還を一切許さなかった事が判る。「政治的な配慮」が読み取れる。
瀬戸内の現地では、その事の不満(子孫存続が危うくなる)を後世に遺す為にわざわざ書き残す事にしたのではないかと考えられる。
この様に”何らかの事変”が起こって帰れなくなったと観られる。
(幕府や為政者側からは”返さなかった”と成る。「高松藩」の幕府への斡旋 「莫大な利益」が幕府に入ることで「お家騒動」に決着 お家騒動を幕府は上手く利用した。)
この時の「瀬戸内から来た末裔」が青木氏等と共に、「職能集団の塩飽族」の一団が禁令にも関わらず特例を以って”現地に定住する事”も認められた。
”認められた”と云うよりは”定住を命じられた””帰る事を許さなかった。”が正しい。

・「松前藩」
この時の「讃岐青木氏」の末裔が、明治期に北海道に入植で定住した記録があるが、江戸期には「弘前藩」の事もあって優先的に入植を認めたし、明治期にもこの「海運業と廻船業と海鮮殖産」とによる改革に効果がある事を承知の上で、特に「瀬戸内族の入植」を幕府は推し進めた経緯である。
(「讃岐青木氏」と「伊勢青木氏」が裏で動いたと考えられる。)
筆者は、幕府が「弘前藩」に廻った瀬戸内族全員を蝦夷地にそっくり廻したと観ている。
「松前藩」にその特権を与えて置いて、それにこの「弘前藩の者と成った瀬戸内族」を今度は「松前藩」に廻したと観ている。
”「松前藩」の資料では、場所を限定して「交易権」を「家臣」にも与え「船」を作らした”と記載されている。これはおかしい。
本来は「松前藩」が「藩」として取り扱う所に意味があり、それでこそ「特権の利益を確保」が出来るものである。「黒印状」からも幕府は「松前藩」に与えていて付帯条件はない。

そもそも、「家臣」が「船」を作り「交易」をする行為は、最早、「家臣の力量」を遥かに超えてのもので「家臣」では無い。それだけの「家臣の財力」を超えた「力量」はそもそも簡単に持ち得る事は、家臣の仕事の中で出来得ないし、多くのノウハウを必要とするし、それが可能であれば「弘前藩」に対して行った”「高松藩の過酷な行政指導」は何だったのか”と云う事に成る。矛盾している。
況して、1万石の大名の家臣が1万石以上の家臣がある訳がない。
そのノウハウを持っている「瀬戸内族」を「家臣扱い」として、これに対して「場所請負制」をわざわざ敷いて場所を限定して交易を任したのである。
この「場所請負制」では「民間の商人」にもこの「割り当て」を行っている。「場所請負」はこの3種の場所限定で分けられていたのだ。
その証拠に「松前藩」が、”独自に行う交易場所”もあった。
松前藩の場所は「瀬戸内族の指導」を受けての交易であった事が判る。この様にすれば藩も直ぐに交易が出来切る体制が採り得る事と成る。

この「松前藩の経緯」は、1599年に家康から見いだされ「客臣」ー「寄合旗本」ー「享保4年」に「柳間1万石外様大名」、その後にこの「入植政策」が認められて「3万石大名」となった。
「享保4年」には「1万人の都市」と成った事で大名に任じられた。
(1万石は3万石に対して「後付格式」であった。)
(「享保改革」は「伊勢青木氏」が主導している。その享保4年である。「質素倹約の出と蝦夷地開拓の入りの政策」)

A 上記した様に、元禄時1703年の「讃岐青木氏」と「伊勢青木氏」の付き合い
B 17年後(享保4年 1720年)に「1万石の大名 1万人都市の入植」
C 1716年から「伊勢青木氏の享保の改革実行」

つまり、Aの事があって、Cの事があった。当然にAの付き合いの上で、Bの事が実行されたと観るのが妥当であろう。
要するに、「蝦夷地の入植開墾計画」は、「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」とが「幕府財政改革」の為に組んで主導した政策であった事が裏付けられる。
(「信濃青木氏」も「伊勢青木氏」とは「二足の草鞋策」を敷いて一心同体であった事から参画していた可能性がある。)
それは、享保に入ってからこの計画が両青木氏によって進められたのではなく、上記した様に、「讃岐青木氏」が”蝦夷地から外回りの廻船業”が江戸初期に認可された時期(1600年)には既に進められていた事に成る。
「松前藩」が家康から「蝦夷交易権の黒印状」を与えられた1599年と、「讃岐青木氏」の蝦夷地からの外回り廻船を認められた時期1600年はそもそも同じである。

・「弘前藩と松前藩の関係」
兎も角も、”家臣にも与えて船を作らした”というのは、幕府に対して申し開きが出来ない筈でありこれは「瀬戸内族」を「弘前藩」から「松前藩」に家臣として移した事を物語るものである。

(”廻した”、或は、”廻さなくてはならない”背景があった。「高松藩」から「お家立て直し」で藩を救われながら「弘前藩」は約束通りに「讃岐」に返さなかった事情から、この「弘前」に居た「瀬戸内族」への恩義から、「蝦夷地交易による利権」を彼らに与える為に「松前藩」と話し合い、「松前藩の家臣の身分」で「独占的な交易権」と「破格の特定の場所」までも用意して優先的に与えて約束保護の代償として優遇した。この時、「松前藩」は「弘前藩」から米の供給を受けていた恩義もあり、「弘前藩」の申し出を快く受けた事に成る。
しかし、これには、現実には家臣として特典を受けている事実は、この「弘前藩」に廻した「瀬戸内族」をそっくり「幕府の命令」で「松前藩」に預けたのではないだろうか。彼等を家臣として扱った事から、この表現に成ったと観ている。そうすればすべてが納得できる。
何故、「幕府の命令」とするかは、江戸初期からこの「瀬戸内族の首魁の讃岐青木氏」と平安期から親交のあった「伊勢青木氏主導の享保改革」の「商人としての江戸初期からの計画」が裏ではあって、この計画を実行する為に、「蝦夷地開墾の促進」から「伊勢青木氏」が徳川吉宗に働きかけて内々の「幕府の意向」を両藩に内示していたと考えられるからである。
(「伊勢青木氏」は「伊勢加納家」と共に「徳川吉宗の不遇の時の育ての親」である。)
幕府(伊勢青木氏主導の改革)に取ってみれば、江戸初期から関わって来た「蝦夷地入植開拓」である。「弘前藩の成功」を「松前藩」にもさせて成功させ、その「献納金」を獲得する戦術に出たのは当然の事ではないだろうか。(享保改革:質素倹約の出策、蝦夷地開墾の入策」)
これは、「蝦夷地の入植開拓」の”呼び水”と成る事を狙っていた事を意味する。
(「家康の黒印状」から丁度100年後に享保4年の「1万人の都市化」が成されている。)
みすみすこの様に、幕府自らの「成功体験」があるのに無視する事は、政治家として劣っているし、「享保改革主導の豪商伊勢青木氏」としても利用しなければ商人では無い。
100年前に家康が見込んで松前氏に蝦夷地開拓を任した事であって「当然の事」であったと考えられる。
現実に、各藩は上記した様に交易に走った事は判っているし、「豪商讃岐青木氏」と「豪商伊勢青木氏」も加わっていれば「近江商人」や「駿河商人」や「越前商人」など「各地の商人」も加わらない事は無い。
この背後には、この「瀬戸内族」と「弘前藩」と「松前藩」と「幕府」と「高松藩」が大きく関わっていたのである。(下記の状況証拠から伊勢青木氏も関わっていた)

・「青木氏の役割」
その証拠には、次ぎの事が確認できる。
「無石藩の松前藩」は「弘前藩」から「最初は1万石」(後付)の給付であった。「最終は3万石の藩」に成ったが、都市化に依って「最終は10万石」の「実質の藩力」を持っていた。
この為には、松前藩は無石藩である為に、「10万石の米の支給」が必要に成った。
そこで「弘前藩以外」(1万石)から補足分以上を「松前藩」は求めなくてはならなくなった。
ところが、その途中の「享保の時代」までには「5つの大飢饉」(1619、1642、1675、1680 1732)が起こった。この飢饉で「弘前藩」からも十分に入らなくなった。
しかし、飢饉時のみならず「松前藩」にはこの補足分が「大阪」から供給されているのである。
「米」は「幕府の統制下」にあるのに、「5大飢饉」の特に後ろ「享保前後の3つの飢饉」の時には”「大阪」から供給されている記録”がある。
(享保以後には1782年の天明飢饉、1833年の天保飢饉がある。)

これはそれだけに、”「蝦夷地開墾政策」が重視されていた政策”であった事を示すものではあるが、この「5大飢饉」の以後にも供給されているのである。それも”公然”とである。
そこから、これは「大阪からの供給」の事前了承の下で非公式に「幕府許可」を得て受けていた事になる。
これだけの事をやってのけられる人物、”誰が受けていたのか”と云う事に成る。
「飢饉」とその後の不足から「松前藩」だけに「10万石もの米」を供給する事は暴動が起こる。
現に各地で起こっている。それだけに幕府は公然とは出来ない。しかし、出来ている。
それも”大阪”と記録されている。その「10万石もの米」を何処から、それをどの様にして運ぶのか、そんな要するに「ヤミ米」を集められる人物は誰なのか、等の疑問が次ぎから次ぎへと湧いて来る。この大疑問を解決しなければ「蝦夷地開墾の実態」は見えない。
”これだけの事を何の問題もなく一人でやり遂げられ、且つ、咎められない人物は誰なのか”である。極めて条件が絞られるがそれは確実に居る。
それは”「伊勢青木氏」である”と観ている。

注釈
「伊勢青木氏」は伊勢松坂に2つの本拠点を置いて、愛知までの沿岸部周囲に4大店準拠点、「摂津」と「堺」に大船を停泊させる大店の4店舗の拠点、各地主要都市に産物を仕入れる支店を置いていた。三重県松阪市の2割程度は何らかの関係する土地で、隣の玉城市全域は伊勢青木氏の蔵群と青木氏に関わる全ての職人の長屋であった。享保年間では690年の「豪商の歴史」を持っていた。
日本でも「賜姓族の歴史」のみならず「豪商としての有数歴史」をも持っていた。確認できる範囲で大船3艘以上 小船100隻以上 大小店舗数100程度と成る。

問題はこれらを有効的に利用でき得る能力にある。
それは
1 「大商いを動かす政治力」
2 「大商いを護る防衛力」
3 「商情報を獲得する情報力」
以上のこの3つが必要絶対条件である。これ無くしては成し得ないであろう。

1に付いては、「伊勢青木氏」は、「特別賜姓族藤原秀郷流青木氏116氏」とは平安期からの同族関係にあり、親族の「伊勢秀郷流青木氏」を通じて116氏と繋がっていた。この「特別賜姓族」は、上記した様に、江戸期には大名では無かったが「幕府高級官僚の地位」を多く確保し、この「横の関係」に依って「計り知れない政治的な力」を生み出されていた。
「伊勢青木氏」自らも「紀州藩」とは代々「財政の勘定方」を指導すると云う立場にあり、「紀州藩」を通じての「横の関係の政治力」を最大に保持していた。
上記する様に、「享保時代」では自らが「布衣着用」で「徳川吉宗」を補佐して「享保の改革」を主導した立場もあり、「政治力」はある歴史家の単行本の言葉を引用すれば「豪商の頂点」の位置に居た。
(「布衣着用」:幕臣では無かった事から大大名の地位を持ち将軍に拝謁して意見を述べられる立場 と合わせて、形式上「皇族賜姓族」としては将軍以上の「永代身分」を持っていた。)

2に付いては、「商交渉」は元より「交易品の搬送」の安全が無ければ「大型の搬送」は陸海ともに不可能である。先ずここまでは持ち得ている豪商はまず無い。
1の特別賜姓族の「横の関係」の24地域の「軍事力」を利用すればほぼ可能であるが、伊勢青木氏自らも織田信長の2万の軍を撃破する程の強力な「伊勢シンジケート」を保有している。
これが、「陸海の郵送の安全」を守る事が出来る。
先ず、「縦横の関係」でこれだけの「防衛力」を保持していた豪商は調べた範囲では無い。

3に付いては、1の官僚機構を伴う「横の関係」と、全国500社に及ぶ「守護神 神明社」の組織を使えば、頂点から末端の情報まで早期に掴む事が出来る。
この「情報力」を使って1の「政治力」をも補完出来る。この「情報力」と「政治力」と「防衛力」は相互に連携させれば「相乗的な補完関係」をより大きく生み出す。

ここで、言い方を変えれば「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」の事は「海に面している青木氏」には成っているが、「信濃青木氏」は「陸の青木氏」であるから、その意味で商いと云う面では信濃と云えば「陸の特典」を活かした商いを補完していたのではないかと考えている。
況や、「農産物」の殖産と販売の面で「伊勢青木氏」の足りない面を補っていた関係にあった事から、「一心同体の関係」であったと観ている。
例えば、今回の「1万石の米」と成ると、全国各地から余剰米を集めて来る事に成ったとしても「伊勢青木氏」や「讃岐青木氏」は確かに「穀倉地帯」ではあるが、「穀倉地帯」であるが故に「余剰米」は生活圏としての必要性から出難い。
「米、海産物、農産物」が揃っている地域では、結局は金銭での交渉と成り、集まらないし集めすぎると問題が起こる事が欠点と成るが、しかし、「信濃青木氏」では、上記123の力を使って、「周囲の穀倉地帯」からも「余剰米」を海の「代替品」と交換して集めれば必需品として集め易いし、問題も無く、「問題の10万石」は何とか成り得る。
飢饉などの時にも「暴動の対象」とは成り難く悪評と成り難い。
「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」が集めた「余剰米」に合わせて、それを上記123を使って「堺や摂津の拠点」の「大阪」に集めれば全ての面で安全に「松前藩」に搬送できる。

この様な事は「金銭の売買」だけでの獲得では無く、「信濃青木氏」と「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」との連携での、多少の金銭の兌換があったとしても、主に「陸海の産物の交換」で可能と成るのは「全国数多の豪商」があるとは言え「青木氏」にしか出来得ない事である。

関西在住の歴史家で歴史脚本家で、且つ、「青木氏の事」をよく研究している有名な人の言を捉えれば、「江戸期の豪商の頂点」にあるとして、どのように評価基準であるかはわからないが、「紀伊国屋文左衛門」の類では無いと評価している。筆者もルーツではあるが客観的にも同感で先ず無かったのでは無いかと観ている。色々研究過程で各地の「豪商の記録」に遭遇するが、これだけの「総合力」と「高いレベル」のものは未だ見つけられない。

・「松前藩の10万石問題」
この「松前藩の10万石供給」は、「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」と「信濃青木氏」の連携以外に無いと観ている。
つまり、「蝦夷地の開墾」即ち「入植定住」は「青木氏の行為」が根幹に関わっていた事を物語る。
「北海道の11パラメータ」の説明はこの経緯で可能と成る。

各地の大名としても交易する以上は、これらの「瀬戸内族や青木氏への特典」も”蝦夷地開墾の幕府の政策方針”として承知しこれに従っていた筈である。
(殆どの大藩の譜代大名の記録から観ると、蝦夷地に交易の為に場所を確保し家臣を送っている。)
従って、ここで幕府の政策上、「松前藩」を飢饉で潰す訳にはいかなかった事を意味するから、「暗黙の了解」として、むしろ”影では後押しして ”特に享保期には、「政治力」は当然に「青木氏」には充分にあったが、「松前藩の10万石供給」は飢饉外であったとしても「暗黙の了解」をしていたと考えられる。
ところが、この「暗黙の了解」の裏には次の様な法的な「米に関する取り締まり令」があったのである。
「享保改革」には「買米令」と云うものがあって、大名と堺を含む大阪商人等に限定して「168人」に対して「合計60万石」を限界として「米を買い上げる義務」を与えていたが、この「義務」に対して「蔵屋敷米の売却禁止」を課せている。
更に大名に対して「上米令」を発して1万石に対して100石を返納させて「米を確保する」法を発して極力「闇米」を抑え込んだ。 何れも「米価高値安定政策」である。
更には、米の動きを抑え高値安定化の為に「廻米の禁令」を発し江戸と難波に「米」を廻す事を禁止している。
「堺」と「摂津」に大店を構え「蔵屋敷」を持っていた「伊勢青木氏」もこの168人のトップクラスの中にあり例外では無かった。(この168人は大名を含む大阪に蔵屋敷や店を構える人数で、大名と豪商は大阪に集中して蔵店を持っていた。)

「伊勢青木氏」は、この「米に関する取り締まり令」の中での「松前藩の10万石供給」であった。
普通では、「事前了解」が無ければ「法治外行為」であるし、「幕府の改革の主導者」である者がこの行為は反逆行為と成る。
しかし、「社会からの暗黙の了解」で実行されている。

そこで、果たして、「10万石」なのかを吟味して観る。
「享保4年」で「1万人人口」として考察すると、武士階級で、当時4−6人の家族と2人の雇人での生活費200石(金銭に兌換)程度とされていたとすると、米100石必要であり、1250世帯とすると、「12万5000石程度」が市場には必要と計算上で出て来る。
全て武士では無いのでその分を割愛すると10万石程度と成ろう。記録の10万石は妥当である。
この時、松前藩は、幕府から無石藩ではあるが、「3万石」と認定されて1万石から「3万石大名」に格上げされた。(正式には「1万石」は「後付格付け」である。)
実態は蝦夷地松前には正味10万石が供給されていた。
そもそも「大名の石高」は「米高」に兌換してのもので、他の産物の取れ高を米に兌換して表現して格式を決めていた。「蝦夷地の松前」は「無石藩」であるので「産物の交易額」を「石高」に表現して急遽に格式を決めた経緯である。従って、この吟味の10万石は実質の必要な米料である。
従って、「蝦夷地開拓政策」を成功させるには、「3万石」では無く「正味10万石の影の供給」が確実に必要であった。
しかし、「上記の法令」で縛られている。「蝦夷地開拓政策」とは確実に矛盾している。
この勘定方として自ら進めた「厳しい法令」を護らなくてはならないし、「蝦夷地開拓政策」を遂行しなければならないし、「享保の改革の主導役」の立場もあるし、蔭で「10万石を調達」をしなければならないし、「焼き討ちや暴動」も配慮しなければならないし、下手をすれば反対派から「密告されること」も覚悟しておかなければならないし、上記した「5つの飢饉」の中でも絶対に実行しなければならない苦しい仕事であった。

「子孫力」と云う事から考えると、最も注意しなければならない事は、下手をすれば、”飢饉の中での儲けの買い占め”として庶民から”蔵打ちこわしの暴動”を受けていた事も考えられる。しかし無かった。社会全体が「暗黙の了解」の中にあった事と成る。
(飢饉時には多くの商人は大小この攻撃を受けた。)
これはまさに”世に晒す事無かれ”の「生き様の訓戒」の表れで、だからその「悠久の姿勢」から ”「青木氏」はそのような事をしない”とする「信頼の遡上」が出来上がっていた。
「御師様 氏上様」の尊称が在った様に、これは「青木氏の子孫力」を大いに高めさせたものであった。

・「享保の改革」と「蝦夷地入植」
重要な注釈として、「松前氏」は1599年に家康に見込まれてより「蝦夷地の交易の特典」を受け、その結果100年後の「享保4年」には、「3万石の大名」と成り、何と「1万人の大都市」と成ったが、この時は「吉宗の享保の改革」で「伊勢青木氏」が「吉宗の勘定方」として「青木六左衛門」が「財政政策の顧問」を行っていた時期でもある。
「享保改革」を主導した「伊勢青木氏」から観た事の「六左衛門手記の資料」によると、「享保改革」では ”「質素倹約」で「出」を抑え、「蝦夷地開拓」で「入」を高める政策の財政改革”であったとの主意が記されていて これに対して御三家の一部からは猛烈に反対を受けたとある。
これに対して「改革理論の効果」を証明する為に「紀州藩の財政改革」も「伊勢青木氏」が「紀州勘定方」を同時に指導して行ってこれを証明したとある。
この結果から考察すると、この同時期に反対していた尾張藩主は蟄居させられている経緯があった。
この様に現実に極めて危険な状況に陥っていたのである。
徳川吉宗と伊勢青木氏は懸命に成って対抗した事が判る。
「享保改革」は「三大改革」と呼ばれ他に多くの改革があるが、「青木氏は財政改革」の面の勘定方を主軸に担当していた事がこの手記から読み取れる。
特に商人として参画した経緯から「米ー財政」に重点を置いていた事が判る。
(安土桃山時代は1603年で終り、1614年で江戸時代に入る。この期間は徳川家康に実権が移っていた。)
まさに、享保期までの「蝦夷地開拓」は「青木氏の政策指導」(質素倹約の中での政策として「蝦夷地開拓」での献納金で幕府財政立直策)であった事に成る。
上記した様に、「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」は、古来より深い親交があった事から上記した事が起こっていたと考えている。
つまり、この一連の「瀬戸内族」の「入植政策」では、状況証拠から「両青木氏」の「裏での合意」があったのではないだろうか。
この「裏での合意」が無ければ「瀬戸内族の一族」ごっそりこの「弘前から松前」(旧蝦夷地)までの「蝦夷地入植計画」に注ぎ込んでいる事はない。
先ずこの計画を進められるには「普通の豪商」では成し得ない。「総合力」を持ち得ている「特別な豪商」でなくては成し得ない事である。
仮に「讃岐青木氏」に不足するところがあるとするならば「伊勢青木氏」がこれを補填する事が出来る。
この”悠久な歴史を持つ二つの特別な豪商”があってこそ「蝦夷地入植と開墾の計画」は進む事はなかったと考えられる。故に、幕府はその「進行具合」を観つつ、100年後の「享保の改革」で直接、「伊勢青木氏」を幕政に取り込み、この計画を成功裏に収めようとしたのである。
結果として、「幕府財政の改善」が可能であると考えていたのである。




> > [地域別分布力]
> > 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
> > 全国平均(全国単位 % 表ー1)
> > 地域      異変の県        分布力
> > 九州地方   長崎、大分       5%
> > 四国地方   高知          2.5% 
> > 中国地方   山口、岡山      2.5%
> > 関西地方   三重(筆者ルーツ) 14%
> > 東北地方   秋田           7%
> > 中部地方                15%
> > 関東地方                45%
> > 北海道・沖縄               6%
> > その他                   3%
> >
> > 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
> > 九州地方  1.3
> > 四国地方  1.3
> > 中国地方  1.3
> > 関西地方  4.7
> > 中部地方  4.3
> > 関東地方  11.3
> > 東北地方  2.0
> > その他   11.0
> >
> > 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
> >
> > 修正地域(表ー3)
> > 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1−7 三重 12 福井 4 愛知 13−7
> > 秋田 1
> >
> > 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
> > 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
> > 福岡  2   山口  0   愛媛  3     兵庫  3    三重  1
> > 長崎  0     島根  2   香川  1     大阪  14   石川  2
> > 佐賀  1     広島  3   高知  0     京都  5    福井  1
> > 大分  0     岡山  0   徳島  1     奈良  1    岐阜  3
> > 熊本  4                        和歌山 4    愛知  13   
> > 宮崎  2                        滋賀  1    長野  9
> > 鹿児島 1                                  山梨  1
> >
> > 域平均 1.25 平均  1.25  平均  1.25  平均  4.7  平均  4.3        
> >
> > 関東地方(45%)東北北陸地方(7%)沖縄、北海道地方(17.5%)
> > 静岡  5    青森  1     沖縄  1
> > 神奈川 21   山形  2     北海道 11
> > 東京  18    岩手  1
> > 埼玉  17    新潟  4
> > 群馬  6    秋田  0
> > 千葉  11   福島  4
> > 茨木  4    宮城  2
> > 栃木  8                                     
> >
> > 域平均 11.3  平均  2.0   平均  11.0  
> >

青木氏の分布と子孫力−4に続く。


  [No.308] Re:青木氏の分布と子孫力−4
     投稿者:takao   投稿日:2014/04/06(Sun) 07:51:53

>特に商人として参画した経緯から「米ー財政」に重点を置いていた事が判る。
>(安土桃山時代は1603年で終り、1614年で江戸時代に入る。この期間は徳川家康に実権が移っていた。)
>まさに、享保期までの「蝦夷地開拓」は「青木氏の政策指導」(質素倹約の中での政策として「蝦夷地開拓」での献納金で幕府財政立直策)であった事に成る。
>上記した様に、「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」は、古来より深い親交があった事から上記した事が起こっていたと考えている。.
>つまり、この一連の「瀬戸内族」の「入植政策」では、状況証拠から「両青木氏」の「裏での合意」があったのではないだろうか。
>この「裏での合意」が無ければ「瀬戸内族の一族」ごっそりこの「弘前から松前」(旧蝦夷地)までの「蝦夷地入植計画」に注ぎ込んでいる事はない。
>先ずこの計画を進められるには「普通の豪商」では成し得ない。「総合力」を持ち得ている「特別な豪商」でなくては成し得ない事である。
>仮に「讃岐青木氏」に不足するところがあるとするならば「伊勢青木氏」がこれを補填する事が出来る。
>この”悠久な歴史を持つ二つの特別な豪商”があってこそ「蝦夷地入植と開墾の計画」は進む事はなかったと考えられる。故に、幕府はその「進行具合」を観つつ、100年後の「享保の改革」で直接、「伊勢青木氏」を幕政に取り込み、この計画を成功裏に収めようとしたのである。
>結果として、「幕府財政の改善」が可能であると考えていたのである。





青木氏の分布と子孫力−4



・「青木氏ー吉宗」の関係
実は、”吉宗が将軍に成った経緯”の中にこの事が隠されている。
そもそも、徳川宗家外の御三家の紀州藩の吉宗が将軍に成り得る立場に本来は無かった。
ところが、全く逆に「御三家」でも将軍に成り得る全ての条件が揃っていた尾張藩の第6代藩主の「継友」が成る予定であった。
この部屋住みの身分にあった「継友」は優秀で節約家で経済観念の特別に強いものがあった。
それを将軍からも信頼されていて、次期将軍に適材であるとして指名されていた程の人物であった。
「紀州藩の吉宗」は2人の兄が居た。兄は公家の血筋、吉宗は湯殿女との間に出来た子供で「紀州巨勢族」の血筋であった。

(巨勢とは、飛鳥期のヤマト政権を支えた5大豪族の一つで紀族、葛城族、平群族等と共に「巨勢族」があった。その末裔)

吉宗は幼少の頃はその血筋から排斥されて紀州藩の飛地領の伊勢に密かに匿われた。
この時、お付き番として下級家臣であった加納氏を吉宗に付けられ養子の様にして預けられた。
この時、紀州藩主より密かに依頼されて「伊勢青木氏」は一切の経済的な事を含めて加納氏と共に親代わりに成って育てた。
この時、伊勢青木氏の息子の「六左衛門」は「吉宗の稚友」と成って育てられた。
経済的に低かった「加納氏」は、吉宗を一人前に育てる為に経済的な自立を目指し、この時、「二足の草鞋策」を青木氏から手解きを受けて「加納屋」を開いた。

「伊勢青木氏」と「加納氏」は明治35年までの200年間に数度の血縁関係を持った。
(直近では筆者の曾祖母も伊勢加納氏)
飢饉続きの「藩財政悪化」の中で「紀州藩主世継ぎ問題」で藩内が荒れたが、二人の兄にはこの見識と後見人の背後は無かった。
「伊勢青木氏の経済の見識と財政力」を以てする「藩財政立て直し派」が有利を納め、「伊勢青木氏」が後見人と成って不遇の吉宗を藩主に押し上げた。
「吉宗の紀州藩」は、「伊勢青木氏」の指導の下、「財政改革」を押し進め藩財政が改善に向かっていた。
この時、幕府でも「世継ぎ問題」と、上記した「4度の飢饉」と、「幕臣のマンネリ化」で幕政が乱れ、「幕府財政立て直し」の問題が急務として出ていた。

その中で殆ど将軍としては尾張藩(継友)と決まっていた。
ところが、この「世継ぎ問題」が、「幕政建て直し」と「幕府財政改革」に対して考え方に切り替わってしまったのである。

”この二つの問題解決には誰が適任なのか”と云う経緯に成ってしまったのである。
(伊勢青木氏等に依って、「経済学の教育」を受けていた「極めて優秀な吉宗」を将軍にして改革実行を推進させる様に、裏で「世継ぎ問題」を「幕政改革問題」に「切替える戦略」を展開した)

その結果、「尾張藩の考え方」と「紀州藩の考え方」とが異なり真っ向から対立した。
確かに何れの藩も藩内は「財政改革」が進んでいて自信があった。
その考え方をまとめると次ぎの様であった。

尾張藩は「緊縮蓄積財政派」ー蓄積で消費を抑え経済を安定化させ、蓄積収入増を図り民間投資を呼び込み進める方式
                    財政を安定維持する方式
                   「デフレ政策」ー江戸豪商越後屋の「三井家」

紀州藩は「均衡財政改革派」ー質素倹約で消費を抑え財源改革で収入増加を図り収支差を最大に高める方式
                   物米貨等を管理統制する方式
                   「リフレ政策」ー伊勢豪商紙屋の「青木家」

紀州藩が説いた「財源改革」とは、”「3価政策」”と呼ばれる政策で、「物価、米価、貨価」の安定策に「殖産政策と新田開発」を連動させる改革案であった。
         
これは「伊勢青木氏」の平安期から採って来た「商法」で、「殖産を中心とする農政政策」と交易を連動させる商法でもあった。

(実は、「吉宗」は「紙屋長兵衛の商売」の現場に来て「六左衛門」と共に働いていたと記録されているので、そこで得た「実践経験論」を持っていたのである。)

俗説では、「天英院」が「紀州藩の吉宗」を感情的に推奨して決まったと成っているが、実際は「幕府財政改革」の争いであって、その背後には、「江戸の三井家」と「伊勢の青木家」が「経済力」を背景に論陣を張っていたのである。
そもそも、この「天英院説」は、紀州藩の「均衡財政改革」が自分たちに都合が良く、専門的な教育を受けていて「不遇から身を起こした優秀な吉宗」に感情的信頼を置いた結果、推奨した事が将軍に成ったとする説であるが、内容をよく調べない愚説である。


・「伊勢青木氏と徳川家康の関係」
ところが、この論戦のその「勝負の基」は江戸初期に遡るのである。
実は、「伊勢青木氏」と「徳川家康」との「最初の出会い」は「関ヶ原の戦い」の時にあった。

(但し、信長の「三つの伊勢攻め」の一つ「丸山城の戦い」で「伊勢青木氏」が勝利した事は有名で、岐阜城での信長烈火の叱責で「信雄蟄居の事件」でも「家康」もその場に同座していて知っている。
又、「伊勢伊賀の戦い」で名張城から突然に側面を付いて信長軍を一時敗走させた事件も知っているし、「伊勢長嶋の戦い」でも「山岳部ゲリラ戦」で食糧調達を混乱させた事も知っている。
依って、この「3つの事」から「青木氏の印象」(影の力)は「家康」に事前にあった事が判る。)

「家康」は大阪に攻込む為に江戸の秀忠の本陣を名古屋城で待った。
大阪に攻込む為には「伊勢路−大阪路」(旧国道ー「畿内道」)を通らなくてはならないが、「畿内道の確保」が出来ていなかった。
そこで、困った家康は、この「」畿内道の確保」」の為に「伊勢青木氏」に合力する様に話を持ち込んだのである。
「伊勢青木氏」が「3つの発祥源」として「賜姓族の戒律」と「不入不倫の権」の「3つ立場」からも、この「関ヶ原の戦い」に合力する事は無い事は家康は充分に承知していた。
そもそも、「有形の軍」を持たないこの「伊勢青木氏」に対しての ”敢えての家康の「合力要請」”である。
家康は、既に、織田軍の傘下にあって観ていた経験から、「信長の伊勢攻めの戦い」で上記した様に「伊勢青木氏の実力」をよく知っていた。
つまり、「伊勢ー信濃シンジケート」と「青木氏と連携している瀬戸内族」との「連携勢力」を知っていたのである。
”敢えて”である以上、これを暗に敵にする事は今後の意味で得策ではないと考えた事になる。
この時、「家康の申し出」に対し3日で「250の要員配置」と「伊勢ー信濃シンジケート」と「瀬戸内族への連絡」を取って「伊勢路の安全」に合力する事に応じたと記録されている。
この時も「家康」と「伊勢青木氏」は名古屋で「合力要請」で面会している。
この中で「讃岐青木氏」への「家康の期待」は、最悪の場合は、海路で抜け出す手立てと、勝利した場合には「毛利水軍に対する圧力」をと考えていたと観られる。

もう一つは、天下に名高い「毛利水軍」に対して、その勢力を「讃岐青木氏」を味方に引き入れる事で壁にして削いだと観られる。
(「瀬戸内族」と「毛利水軍の村上水軍」は元は同じ海部族と塩飽族から成っている。)
「毛利水軍の動き」を防いで置かないと堺や河内や紀州の湾から上陸して背後に廻割られると戦略上四面楚歌を招く事と成り拙い。
その為にも、「海の守壁として讃岐青木氏」(壁)、「上陸時の背後の陸の守り」(シンジケート)と「海陸の情報収集力」を整える必要が家康にはあった。
特に「家康の守備軍」に対して「側面と背後」を護る必要があったのである。
それと「畿内道のシンジケートによる掃討作戦」を期待した。
これは「畿内道の戦略」であったが、もう一つ「伊勢路ー大阪路」の「伊勢路の護り」は畿内道の進軍中に「紀州九度山付近」から「真田軍」が側面を突かれる事は充分にあった。
「軍事的防御」と云うよりは、「真田軍の動きの情報収集」と「シンジケートの攪乱作戦」を目的としていた。

現実に、この意味を持った「合力要請」は青木氏等に依って完全に実行された。(しかし、正面は不用意であった。)
この結果、”戦後、「家康」から讃岐ー紀州ー伊勢ー奈良ー信濃一帯の「一切安堵」(権利保全)を得た”と記されている。
この地域の「環境保全」と「権利保全」をして置いて安定させ、その中心に速やかに「御三家の紀州徳川藩」を置いた意味は良く判る。

大阪の堺などで得た事前知識で、この「一帯一連の環境」を「将来の戦略上の計画」で保全したかったのであろう。
この時、「3つの青木氏」等が主張する「3価政策と新地開拓と殖産開拓」の論を聞いていて、開幕後に、その最大のプロジェクトの「蝦夷地開拓」を進める為にも、この「政策の中心」をこの地域に置きたかったと判断される。
故に、ここに「御三家」を置き、家康自身で駿府で育てた最も信頼していた「優秀な頼宣」に、この計画実行を託した。
家康没後3年、「秀忠」は この「遺訓・遺命」を実行する為に、わざわざ「紀州浅野家」を転付させて、そこに「紀州藩」(1619年)を置いて初代藩主としたのである。


注釈
(紀州に定めた理由は、「瀬戸内族」と「伊勢青木氏」と「商い大阪」の地の中間の地域、伊勢は皇祖神の神聖の地で、為政地に不適切な地であり、計画実行の後ろ盾と成る「伊勢青木氏」の地を「保全安堵の約束地」、大阪は「商いの地」の専用の地域として作り上げる為に為政地に不向きの地、瀬戸内は海路の地であり要衝地として不適切、この中間に位置させる事で計画は可能と家康は判断して遺命として秀忠に遺訓したのである。その人物を”10男の頼宣”に託し、わざわざ水戸藩主から外して自ら駿府に連れて来て育てて計画実行するに値する人物に育て上げた。「遺訓・遺命」として秀忠に引き渡したのである。)

注釈
(”頼宣”は家康から託された「遺訓・遺命実現」の為に、紀州では多くの改革を次ぎから次ぎへと実行して善政を敷いた藩主として有名で、優秀な家臣を育てたとしても有名である。 
その為に ”名声を奪われた”として家光に妬まれ疎まれ、遂には”謀反を企てた”として10年間も紀州に帰れなくなった経緯を持つ。
その有名さは、「頼宣」が「紀州の領民」から「最高の藩主」として崇められ、「伊勢菩提寺」のみならず、紀州には「頼宣単独の菩提寺」が建立され現在も祭祀されている程であり、この事は江戸にも聞こえていた筈である。
「駿府」から「紀州」に、秀忠による「遺命の転封」も、家光は「将軍」に在位した後に、”頼宣をも自由に出来る”として、「10年間謀反嫌疑」は「家光の威光の誇示」と史実、家光自身が発言しているのだ。
家康に可愛がられ信頼され「家康の遺訓」を直接受けていた”頼宣”を許さなかった。
「将軍家光の威光」を誇示するのであれば、「御三家」から外し、適当な理由を付けて紀州には配置しないで他藩遠東に転封する事が出来る筈である。
現実にもっと厳しい頼宣の命に係わる「謀反嫌疑」を掛けている。
其れに依って「頼宣」が無くなれば託された周囲家臣が承知していた「神君の家康遺訓・遺命」が消滅して、自らも”遺命を無視した”として「将軍位」どころか命さえ危なかった筈である。
だから、腹いせに「謀反嫌疑」を掛けて置いていながら「有名無実の形」を採ったのである。
それが出来ずに、むしろ「紀州栄転」をさせていなければならない「御三家と計画実行」の「家康遺訓・遺命」への嫉妬である。
それを実行できる「頼宣の優秀さ」にも嫉妬したのである。
要するに、この「紀州藩転封」は「家康の計画実行の夢」の「家康遺訓・遺命」であったから出来なかったのである。)

注釈
(藩主に成る前に浅野家の内情、紀州藩の領民の不満、政治経済軍事の面、等の綿密な事前調査、城改築建設などの問題でも良く聞きよく調べて即断し、「優秀有能多才」をモデルにする様な人物で、温和でよく頭の廻る権威を振り回さない人物であった事が青木氏に伝わっている。
「青木氏の口伝」には多く伝わっているが、紀州地元でも、領民の治水や地形や農政の要望をよく聞き優秀な家臣を差し向けて解決した藩主であった事が云い伝えとして伝わっている。紀州にある「頼宣菩提寺」もその一つの表れであろうことが判るし、その地域では多くの藩士が残っている。形式的な言い伝えでは無く、頼宣が自ら指導した堀や堤防や開墾地や産物等の形として遺されている。
この「頼宣の姿勢」が「孫の吉宗」に引き継がれ、将軍の時に汚職捜査や事故飢饉の現場指揮を直接の現場で行った等の記録がある。
祖父の性格を継いで徹底した「現場指揮主義」であった。)

(家康駿府隠居 1616年没 頼宣1602年生 2歳水戸藩主 4歳駿府藩主 17歳紀州藩主 家光1623年着位)


・「家康と青木氏の関係」
更には、「家康との関係」は、次ぎの時にも起こった。
「幕府樹立」に対して「征夷大将軍の称号」(1603年)を獲得する時、「賜姓源氏の棟梁」(「武家の棟梁」か「賜姓族宗家」の「称号」)か、「正二位以上の官位」”が「故事の慣例」に従い必要であった。
この時の「朝廷と天皇」は、徳川氏がこの「二つの地位」を取得するに「適合する氏」では無い事で、”先例を破る事が出来ない”としてこの「二つの授与」を渋った。
この何れかを獲得しなければ「征夷大将軍」には成れず、権威ある幕府は開けず、頼朝以後の「賜姓武家源氏」では無く、只の源氏(摂家源氏・公家源氏とも云う)の鎌倉幕府の様に「執権」となる。
そこで、窮地に陥った「家康」は、室町末期の南北朝の皇室の中から、「南北朝の乱れ」を利用して「第16代の源氏」を強引に作り出した。
”故事に従って引っ張り出した者の末裔である” と主張して、朝廷に対して圧力をかけた。
その「搾取ストリー」とは、その皇子が比叡山門跡僧から下族して三河に流れ着いて松平家に逗留して子供生まれたとして、本来の「賜姓武家源氏」では無い「源氏」だと勝手に搾取して名乗った。
「朝廷と天皇」は搾取である事を承知していて更に拒んだ。

注釈
(況して「摂家源氏」では”「征夷大将軍」”にはなれない。ところが、その前は家康は、秀吉による「関東転封」後、秀郷一門を配下にした事から「藤原氏の朝臣」を名乗っていた。
しかし、突然に「秀吉」が家柄をよく見せる為に搾取偏纂で、「賜姓藤原氏朝臣」を名乗ったので、今度は「源氏」を上記の様に名乗ったのである。
そもそも「姓族の松平氏」は、「源氏」では誰が観ても明確な搾取である。
(長は賜姓平氏を名乗った事は納得できる。)

しかし、賜姓であろうが無かろうが、「源氏」は既に11代の「花山源氏」で終わっている。
既に、室町期末期まで残った唯一の「村上源氏」の支流族の「北畠氏」も、信長等の「権威族の掃討作戦」で完全に滅亡している史実があった。
(信雄を強引に北畠跡目に入れて最後に城内内部で皆殺しで潰した)
この「搾取の源氏」を持ち出して認めさせようとしたが、「朝廷と天皇」は認めなかった。
結局、各地にある「天領地接収」等の「経済封鎖」を受けながらも、「朝廷と天皇」の「朝廷の粘り強い抵抗」でこの二つは受け入れられなかった。

注釈
(「天領地接収」の主な地は全て「皇族賜姓族の5地」に関わる地であるが、「伊勢」と「信濃」と「甲斐」を「徳川氏直轄の地」とした。
この為に、「天領地」の本来の意味は、「天皇家直轄地」であるが、この全てを「徳川氏直轄地」とした為に、「天領地」とは「徳川氏の直轄地」の意味と成ってしまっていて、文献でも間違って使っている。
この間違いはこの時の事変が原因で間違われてしまった。)
(その結果、宮廷は塀も壁も家もボロボロで生活は困窮していたと記されている)

・「二つの故事」
そこで、見兼ねたこの接収地に住んでいる「皇族賜姓族」一統流の末裔の「伊勢ー信濃の青木氏」が商業記録から読み取れるが裏で援助工作をした模様である。
(資料文意から「秀郷流青木氏等」の「両賜姓族」も加わった形跡がある)
「朝廷への援助」を裏で行いながら、徳川氏とは裏で「調停工作」をした模様である。
(家康に遠慮してか明確には記述していないが文意の流れで理解できる。)
そこで、”「棟梁」”では無く、「青木氏等」が持つ ”故事に習って古来の「賜姓族」に対する呼称”として使われたことがあるものを出した。
それは ”「長者」”と云う称号と、頼朝に与えた官位の同じ「正二位」を与える事で解決した経緯と成った。

「伊勢青木氏と信濃青木氏」等(甲斐は衰退)は、「皇族方氏一統」としての立場上、「二束の草鞋策」で「子孫力」を充分に蓄えている中では、経済的に救える事が出来る事から、立場上は絶対に放置できなかった筈である。
「皇族賜姓族」とは本来「3つの発祥源」としてその立場にあった。
援助するとしても、公には、大平には、「家康との親交」が出来た関係上、「裏切り」と成り無理には出来ず、苦慮したと考えられたが、”影で目立たない様に支援していた”のである。
この事が決まるまでには、元和の家康没の直前のまる3年を要したのである。
この間、「天皇の恥」に成る記録と成るので、その文意は柔らかな表現を使っていて、その文意から観ても「支援」をした模様である。

注釈
(筆者の判断では、青木氏等のこの行為は、家康が、天皇家に経済的圧力をかけて、裏では知古と成った皇族方一統の「伊勢青木氏」等に「最低限の経済的援助」を恣意的に「暗黙の了解」でさせて置いて「天皇家崩壊」を避けた模様である。
そもそも、「天皇家崩壊」ともなれば、幾ら「徳川氏の天下」と成っても、家康に「朝敵」としてそのツケが廻る事は承知していた筈で、諸大名や民から「為政者」としての信頼を失う事になり兼ねない。
それが「幕府崩壊」に繋がる事に成り苦慮して、「青木氏等の裏行為」に期待した模様である。
しかし、誰彼なしに「裏行為」をしても「天皇家の権威」がこれを許さないし、その人物との問題が天皇家と幕府の間に生まれ好ましくない。
先ず「賜姓族青木氏」以外には引き受けられる者も居ないであろうし、又、現実に引き受けないであろう。
わざわざ”渦中の栗は拾わない”は常道である。
この「裏行為」が出来るのは「天領地」から「直轄領」とも成った地に住む「天皇家」と共に同じ「悠久の歴史」を持つ「子孫力」の高い「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と「伊勢秀郷流青木氏」の日本広しと云えどもただこの3家であろう。
「讃岐青木氏」は古来に「天皇家との蟠り」を持ち無理である。
まあ、上記する「経済的な見識」も信頼された事は事実としても、「別の戦略」としても、「家康」も「頼宣」もこの立場にある事も一つの大きな利用価値を見出して付き合ったのであろう。
それは、「秀吉」が「二人の青木氏」を親族として祭り上げて利用した。
しかし、「信長」はこの「権威を潰し」、「秀吉」はこの”「権威威光」を自分の中に取り込み「親族」とし、「家康」は「親交」と云う形で利用した事に成る。
 
自らの出自にそれが無ければ、「為政者」はそれを何らかの形で持とうとするは、”人族は「屯・みやけ」を形成する”性を持つ以上は、この”世の成り立ちの条理”である。
その「最高の権威」は「力の有無」は別として「天皇」であり、「青木氏」はその「最高の権威」への「繋ぎの道」と成る立場にあった。)

ここにも通説歴史の記録外で、個人資料の文意や文脈や経緯から「伊勢青木氏」等が「徳川氏」と深く関わっていた事が「裏の行為」として働いていたのである。

・「頼宣と青木氏の関係」              
実は、その経緯を証明するものが「伊勢青木氏」にある。
この数年後に、「紀州徳川氏」(頼宣)が仲介して天皇家に対して「伊勢青木氏」と「正式な謁見」の面会を実現させている。
これは上記の経緯からの「徳川氏の返礼行為」と考えられる。
「伊勢青木氏」は「南画の絵画」を献納した。その複製画が遺されている。
これに対して、その時に、「天皇家」から拝領した天皇家にしかない「日本最古の墨(藤白墨)」と他物品数点を拝領し、現在も家宝として遺されている。
この時の「紀州徳川氏」から「数通の手紙」も遺されている。

更に、紀州藩が出来た時までは、上記した様に、「伊勢」には唯一の「天皇家の天領地」があった。
ここを接収して「紀州藩飛地領」とした時、「伊勢青木氏」と「初代藩主の頼宣」が面会して「伊勢の土地」と「青木氏の守護神ー神明社」等の取り扱いについて話し合った。
この結果、「全国の神明社」は幕府に引き渡し、幕府が「神明社修復令」を発する事で話が着いた。
更には、「伊勢青木氏」等が管理する「古代密教浄土宗」は「密教性」を解いて「菩提寺性」を排除して、限定した特定の上級武士の「檀家方式」に変更することで解決した。
そこで、「浄土宗督奨令」を発し「全国の青木氏が管理する浄土宗寺」を幕府に引き渡した。
「家康」がこの事を行ったと公式資料では成っているが、遺命を受けたの秀忠の政令とも考えられる。
実行された年代が1610年頃から1622年のまでの期間の中で在るために判断が難しい。
何れにしても「家康の命」である事には変わりはない。
「青木氏の資料」では「頼宣の経緯」の中に記されているので、成否は別として、資料を信じて「遺命実行」として「1619年頃説」としている。
これも「遺命」でなければ「頼宣ー家光」と成る筈である。
その結果、伊勢の「青木氏の菩提寺」は、「紀州徳川氏の菩提寺」となり、元の菩提寺の敷地横に建立して寺名も同じとし、その一角に「青木氏一族の墓所」を与えられた。

ところが、ここで解明しなければならない事がある。
それは「頼宣の菩提寺」は地元和歌山にもある。
「和歌山県海南市の長保寺」(頼宣の菩提寺)である。
ここは「頼宣の藩主としての名声」から”頼宣だけの菩提寺”である。

・「頼宣の菩提寺」
ここには、大きな「一つの意味」が隠されている。
そもそも、「紀州徳川氏の菩提寺」であれば、紀州に作るべきが本来であり、現実に他の徳川氏の菩提寺は地元に建立されている。
しかし、「伊勢松阪」にあるのだ。
何故、「伊勢松阪」なのか
何故、「青木氏の菩提寺」跡にあるのか
何故、「青木氏の菩提寺の寺名」なのか
何故、「頼宣」だけが紀州なのか
一連の疑問が次から次へと湧く。
何かがあったからこの様に成っているのだから、この一連の疑問をこれを解けば、「青木氏と紀州徳川氏」の関係等、”上記した内容の裏付け”と成る。

先ず、紀州の「頼宣菩提寺の長保寺」は「頼宣」の後の者が、”始祖の秀明を馳せた事”に対する領民や家臣や子孫の「感謝と尊厳」の「心の反映」として建立されたものである事は「寺の由緒」と周囲の「領民の口伝」から読み取れる。
依って、先ず、藩主・始祖に対する”形式的な行為では無かった事”が判る。
そこで、重要な次の二つの事が解決の糸口に成る。
それは、”「寺紋」は「笹竜胆紋」で、宗派は「密教浄土宗」”である。
「寺紋」は本来は「三つ葉葵紋」である。「宗派」は室町期中期の「三河の姓族」であるので、本来は門徒ではない「真宗」である筈である。
上記した様に、江戸に成って家康の「浄土宗督奨令」で上級武士は「檀家方式」の「浄土宗」に変えた。
しかし、この「二つの事」は「皇族賜姓族」だけが持つ「二つの故事」(慣習仕来り掟)の慣習と成っているのだ。

この事から、領民だけの祭祀ではない事が判る。領民単独で勝手な事でこの「二つの故事」を使う事は無い。
当然に家臣だけでも無い。末裔だけでもない事が判る。
この「二つの故事」を公然と使うにはそれなりの「了解」を必要とする。
特に、「密教浄土宗」は上記三者でも無理であり、ただ1氏しか江戸期には無かった。
徳川氏は、本来「姓族」であり、上記した様に全く「源氏」では無い。搾取偏纂である事は明明白白である。
源氏の「未勘氏族」でもない。
明治期まで守られた「嵯峨期の詔勅の禁令」を守れば、本来は出来ない事である。
徳川氏に「摂家の源氏の搾取偏纂」があったとしても、これ以外は「幕府為政者」として公然と破る事は出来ない。
取り分け、家紋は兎も角も「密教系」は難しい。
但し、上記の一連の「疑問の事」と「二つの故事」を一挙に同時に解決する事が出来るものがある。
それは、上記の疑問の中に答えが出ている。

・「青木氏と紀州藩」
「松阪」「青木氏菩提寺跡」「菩提寺の寺名」の3つである。
つまり、この3つは「伊勢青木氏との繋がり」を持つ事で解決する。

その「繋がり具合」に問題が移る。
A 「血縁」を誇示するのか
B 「悠久の古」と認定するのか
C 「一族性」「関係族性」を誇示するのか
以上の3つに関わる事に少なくとも成る。

先ずは、Aに付いては、「伊勢青木氏」とは「直接の血縁」は明確に記載が無いが、一族四家の中に江戸初期に何らかの直系か間接かの女系の血かはわからないが、一部には入っている可能性がある。
ただ、「松阪の宗家」には確認出来ない。しかし、「信濃青木氏や甲斐青木氏」には「直轄地」と成った関係上、家康が「将軍権威」を作り出す過程で、女系で血縁している事も充分に考えられる。
「伊勢青木氏」には確認できる記載がない。
しかし、上記した様に、「吉宗育ての付き人加納氏」とは、「伊勢青木氏」は数度の直接の血縁関係にある。
この加納氏には紀州徳川氏の何がしかの直間の血流がある可能性が高いが、この「血縁」で説明は無理である。


次ぎに、Bに付いては、当にこの「悠久の知古関係」があるかの様に、「親密に付き合い」を構築している事でもあり、肯定するも否定はできない。
ただ、周囲が誤解する程の付き合いであった事は、「12人扶持の礼米」でも判るし、「藩勘定方」を家臣でもないのに代々無給で指導しているともなれば、普通は「親族関係者」しかない事になる。
先ず家臣を含む周囲の人は、100%「悠久の知古関係」にあったと観るであろう。
「悠久の知古」には、当然に「女系の血縁関係」を持ったとする発想はあり得る。
「徳川氏」側に取ってみれば、上記した様に「青木氏との利点」は、「秀吉」が使った手と同じである。
ここにも”伊勢と信濃の青木氏との付き合い”は「本来の目的の利点」があった筈である。
それ故に、「皇族賜姓族の青木氏の故事」に習う「”長者”の呼称」と「正二位官位」が天皇から授与されたと当事者以外は思う筈である。
現実に、「賜姓族」でもないのに ”棟梁”であろうが、”長者”であろうが、”棟梁”で拒んでいるのであるから、”長者”でも拒む筈である。
しかし、「調停工作」では拒まなかった。
”何故に拒まなかったか”は、この”調停”に意味を持っている。
それには、「朝廷と天皇」が了解するには、ただ一つ解決策がある。
それは「伊勢、信濃、甲斐の青木氏と秀郷流伊勢青木氏(融合血縁族)」の4氏の何れか一つが男系女系の妥協し得る何らかの形で血縁する事であろう。

記録から「男系」はないので、少なくとも「女系」であった筈で、この事で「朝廷と天皇」は妥協できる筈である。

且つ、この「調停」は、「他の無縁の族の調停」では無く、「賜姓族の調停」である。
直に、”調停”の「話し合い」が忌憚なく出来得る。
確定できないが、筆者は四氏の内の「藤原秀郷流伊勢青木氏」であったと観ていた。

それは、何故かである。
もし「信濃か甲斐」にあったとすれば、「伊勢の記録」のどこかに何がしかの記載があっても良い筈である。記載はの類は無い。
そうすると、そもそも「融合族」であって、且つ、「秀郷流青木氏119氏」は、「特別賜姓族」で「秀郷流伊勢青木氏」はそのリード役を演じていた。
且つ、「家康」も御家人旗本の家臣として「藤原氏」を上記した様に多く迎え、且つ、それを利用して「藤原氏」を名乗った事から、ここに血縁をすれば疑う事は無くなる。
要するに、”全てが辻褄が合う。”と云う事である。
これであれば、「朝廷と天皇」は 「青木氏の故事」の”長者”で納得する筈である。

更に、Cに付いては、「悠久の知古関係」でなくても、むしろ、「藤原秀郷流一門」との様に母方筋を通じての「関係族性」か、「秀郷流伊勢青木氏」との「一族性」と観られる事は充分にある。

況して、「搾取の”「源氏」”の前は、「搾取の”藤原氏」”を名乗っていたのであるから、辻褄が合う。
そうすれば、この関連から ”「皇族賜姓族青木氏」との関係を持っている”と万人は思う筈である。
当事者以外は間違いなく思う。
少なくとも、「賜姓族地」の「伊勢と信濃と甲斐」までもが「直轄領」ともなれば、思う以外に疑う者はまず居ない事に成ろう。
其処に「伊勢青木氏ー信濃青木氏ー讃岐青木氏」との「深い関係」を持ったともなれば、疑うどころか信用してしまう事に成ろう。
筆者は、「皇族賜姓族の青木氏」の「二つの故事」(「長者の呼称」「正二位官位」)が天皇から授与されたものである。
しかし、”Cは勿論の事、AとBとも連動させて全てを当事者以外は信じた”と観ている。

・「調停工作の3年の意味」
「調停工作開始(1600年)」からに「まる3年」を要したが、この”3年の持つ意味”は奈辺にあるのか。何か意味が在りそうである。

ところで、その「解決策の血縁」の対象と成る姫は、家康直系で子供3人と秀忠の適齢期の子孫の4人の計7人に成る。
しかし、全て対象外である。
「外孫」としては調べ切れない数であるが、この「外孫」の中から適切な対象者を選び出すのにも時間が掛かったと観られる。(下記)
当時の「賜姓族」は未だ遠縁を含む「同族血縁」を主体としていた。
ところが、「系譜や添書」を観ると、「特別賜姓族」の「秀郷流伊勢青木氏」は「賜姓族」の様には徹底した戒律の中には無かった模様である。

従って、血縁するとしても、それ相当の「氏族の家柄」から求める慣習に成る。
徳川氏は確かに「権力」は持ったが、元来「姓族」である。
「権力」を欲するものとしてはそれは大変な血縁と成ろう。
しかし、「賜姓青木氏」の様に、「権力」には「無縁の氏」である。
「権力の背景」には「権威」を求めなければならない。
「権力側」からすれば「青木氏」は無縁である以上、極めて動し難い。
そもそも、媚も平伏す事もしないものには何も効かない。
政治、経済、軍事や金や脅しでも抑え込む事も出来ないが、ただ一つ動かす事が出来るものがある。
それは、”信頼を勝ち得ること”以外にない。
では、”どの様して信頼を勝ち得るのか”と云う事に成る。
ここに「鍵」がある。

その「鍵」とは、「青木氏」等が主張している上記した「蝦夷地開拓」を含む「リフレ経済政策」である。
その「主張」を聞き、納得し、自ら堺や摂津や河内を見学をした。
その見学の見識から、次ぎの事を矢継ぎ早に行っている。

1 「松前氏」に「蝦夷地交易権」を与えた。
2 「讃岐青木氏」に蝦夷寄りの外回りの廻船を認可」した。
3 「松前氏」に蝦夷地一部を領させて、瀬戸内族を蝦夷に移した。
4 「家臣と民間の豪商」にも特典を与え、「場所請負制」を敷いた。
5 「地域外の民間参入」にも一部を運送販売などの商業行為の便宜を図った。
6 「港の拡張」とその割り当てする等の可能な限りの「準備の政策」を採用した。

以上を家康は同時期に着実に実行したのである。
先ず、これだけの事をすれば本腰を入れたと人は思う。少なくともこの事を主張していた伊勢青木氏と讃岐青木氏は信用する。

その為に、家康の代だけでは無く、”身内に優秀な才能を持った後に続く者”が無くてはならない。
この計画の「家康の夢の実現」の「次期継承者」を作る為に、一度、2歳の時に水戸に配置したものの、直ぐに変更して駿府に6歳の「頼宣」を呼び寄せ鍛え上げて計画を託したのである。
そして、その為には、この「頼宣」を、”特別に力の持った「御三家」”にし、紀州に「計画実行の拠点」を作り、秀忠にこの「計画の遺命」を伝えたのである。
そうする事で、「伊勢青木氏等」は、”家康を信頼し”その姿勢を観て、裏で調停工作に応じたのである。
「家康」は、これらの”「準備計画」で「信頼」を勝ち得るための「期間」が3年”必要なのであった。

筆者は、実務的な事は上記の事として、”信頼を勝ち得た暁”には、上記ABCを何とかして是が非でも作り出したと考えている。
それでなくては「Bの形」と成り、「Aの形」が不足する弱いものに成るし、意味が無く、それ故に必ず実行した。

ところがこの青木氏が持つ資料や系譜などからは「Aの形」が全く確認出来ない。

それには”確認できない事”には問題がある。
そもそも、系譜は男系を中心としての譜である。
「女系」の場合、系譜上には直接出ないので「添書」に記載されているものから調べださなくてはならない。
なかなか「添書」は実態が書いてあるので公開されないので実は判らないと成る。

「伊勢青木氏」等には、”世に晒す事成らず 一利無し”の戒律があって絶対に表にしない筈である。
当に、「伊勢青木氏」に取っては、この「最高権力者との繋がり」は、”晒す事”そのものであるからだ。
青木氏には、家康と云えども、”「悠久の戒律」を破らなくてはならない理由”は何も無かった。
破っているのであれば、悠久の歴史の1000年を超える時の権力者に破っている。
そうなると、家康は、”世に憚る事ならず”の「伊勢秀郷流青木氏」との「何らかの形」の「血縁関係」を構築した可能性が高い。

そもそも、この世の「事の流れ」は、その緩やかな方向に何人も向かうだろう。

同じ時期に、上記した様な経緯から、「家康の家臣」と成った「秀郷一門」は、当然に「伊勢秀郷流青木氏」に圧力を掛けて来る筈である。
同じく家康も圧力をかけた筈で、受け入れなければ、上記の経緯から「秀郷一門」も立場は無い。
しかし「賜姓族」にはかけられないし掛けてもかからない。
間違いなく、”女系で「秀郷流青木氏」が圧力を受けた”と考えられる。
中でも、”より都合のよい「血縁の形」”は、「融合族」の「四日市殿の家」ではないかと観ている。
それは、何より「長者の要件」に近づくからだ。しかし、徳川氏がこの「融合族」を指定して臨んだかは疑問である。
家康に「融合族」の認識感覚は無かったのではないだろうか。
要するに「融合族」は「秀郷流伊勢青木氏」が「受ける側」としての判断材料である筈だ。
一族的な形で観れば、「融合族」は、「皇族賜姓族」をも巻き込んだ総合的な無理のない血縁策に成る。
家康がこれを知ったとしてもより「賜姓族」により近づく”文句のない血縁策”と受け取ると考えられる。
兎も角も、「秀郷流伊勢青木氏」は、まず「女系」で受けて、その子供に「徳川氏」のどこかに入れて継がせる等の事をすれ良い筈である。
そうすれば、「故事の賜姓族」としての”「象徴と笹竜胆紋と密教浄土宗」”は完全に継承出来るし、”「長者と正二位」”も継承して獲得できる。
結局、結果としては、故事の”長者”は可能に成り、「朝廷と天皇」が拒む理由は無くなる。
そう成ると、これに要する期間としても3年は絶対に必要である。
「説得のそのものの時間」と云うよりは、その為の「準備時間」が必要である。
むしろ、1年とかでは疑う。最低でも3年と成ろう。
これが「3年の意味」である。


・> 青木氏の分布と子孫力
>
>
>
> > > [地域別分布力]
> > > 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
> > > 全国平均(全国単位 % 表ー1)
> > > 地域      異変の県        分布力
> > > 九州地方   長崎、大分       5%
> > > 四国地方   高知           2.5% 
> > > 中国地方   山口、岡山       2.5%
> > > 関西地方   三重(筆者ルーツ)  14%
> > > 東北地方   秋田           7%
> > > 中部地方                 15%
> > > 関東地方                 45%
> > > 北海道・沖縄               6%
> > > その他                   3%
> > >
> > > 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
> > > 九州地方  1.3
> > > 四国地方  1.3
> > > 中国地方  1.3
> > > 関西地方  4.7
> > > 中部地方  4.3
> > > 関東地方  11.3
> > > 東北地方  2.0
> > > その他   11.0
> > >
> > > 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
> > >
> > > 修正地域(表ー3)
> > > 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1−7 三重 12 福井 4 愛知 13−7
> > > 秋田 1
> > >
> > > 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
> > > 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
> > > 福岡  2   山口  0   愛媛  3     兵庫  3    三重  1
> > > 長崎  0     島根  2   香川  1     大阪  14   石川  2
> > > 佐賀  1     広島  3   高知  0     京都  5    福井  1
> > > 大分  0     岡山  0   徳島  1     奈良  1    岐阜  3
> > > 熊本  4                        和歌山 4    愛知  13   
> > > 宮崎  2                        滋賀  1    長野  9
> > > 鹿児島 1                                  山梨  1
> > >
> > > 域平均 1.25  平均 1.25  平均 1.25    平均 4.7     平均  4.3        
> > >
> > > 関東地方(45%) 東北北陸地方(7%) 沖縄、北海道地方(17.5%)
> > > 静岡  5    青森  1      沖縄  1
> > > 神奈川 21   山形  2      北海道 11
> > > 東京  18    岩手  1
> > > 埼玉  17    新潟  4
> > > 群馬  6    秋田  0
> > > 千葉  11   福島  4
> > > 茨木  4    宮城  2
> > > 栃木  8                                     
> > >
> > > 域平均 11.3   平均  2.0      平均  11.0  
> > >
>
青木氏の分布と子孫力−5に続く。


  [No.309] Re:青木氏の分布と子孫力−5
     投稿者:takao   投稿日:2014/04/13(Sun) 09:55:30

青木氏の分布と子孫力−4末尾

>
> 同じ時期に、上記した様な経緯から、「家康の家臣」と成った「秀郷一門」は、当然に「伊勢秀郷流青木氏」に圧力を掛けて来る筈である。
> 同じく家康も圧力をかけた筈で、受け入れなければ、上記の経緯から「秀郷一門」も立場は無い。
> しかし「賜姓族」にはかけられないし掛けてもかからない。
> 間違いなく、”女系で「秀郷流青木氏」が圧力を受けた”と考えられる。
> 中でも、”より都合のよい「血縁の形」”は、「融合族」の「四日市殿の家」ではないかと観ている。
> それは、何より「長者の要件」に近づくからだ。しかし、徳川氏がこの「融合族」を指定して臨んだかは疑問である。
> 家康に「融合族」の認識感覚は無かったのではないだろうか。
> 要するに「融合族」は「秀郷流伊勢青木氏」が「受ける側」としての判断材料である筈だ。
> 一族的な形で観れば、「融合族」は、「皇族賜姓族」をも巻き込んだ総合的な無理のない血縁策に成る。
> 家康がこれを知ったとしてもより「賜姓族」により近づく”文句のない血縁策”と受け取ると考えられる。
> 兎も角も、「秀郷流伊勢青木氏」は、まず「女系」で受けて、その子供に「徳川氏」のどこかに入れて継がせる等の事をすれ良い筈である。
> そうすれば、「故事の賜姓族」としての”「象徴と笹竜胆紋と密教浄土宗」”は完全に継承出来るし、”「長者と正二位」”も継承して獲得できる。
> 結局、結果としては、故事の”長者”は可能に成り、「朝廷と天皇」が拒む理由は無くなる。
> そう成ると、これに要する期間としても3年は絶対に必要である。
> 「説得のそのものの時間」と云うよりは、その為の「準備時間」が必要である。
> むしろ、1年とかでは疑う。最低でも3年と成ろう。
> これが「3年の意味」である。

>
青木氏の分布と子孫力−5


・「家紋分析から考察」
そこで、「秀郷流伊勢青木氏」に系譜関係で掴めないとすれば、「家紋分析」と「神明社関係」で調べ上げた。
ところが「社会性を多く持った家紋」では非常に確率が少ない。
どの様な「家紋」がこの要件を成し得るのか。先ず考えられる家紋は次ぎの様に成るだろう。
徳川氏の「三つ葉葵紋」とその「系列の家紋」に絞り込んだ。これだけでも大変な作業で難解であった。
結局は、この「系列の葵紋」は、全部で85文様ある。
そもそも、徳川氏は「三つ葉葵」を家紋とした時から、許可なく「三つ葉葵系の紋」の使用を禁じた。
室町期中ほどからこの家紋類を使い始め、1590年代に一切等類似家紋も含めて全てを禁じていて罰則を科している。
「徳川氏の威光」を感じさせる様に、「類似家紋」を使った者や縁者やその他の家紋を持とうとする「姓族」に対して、この「葵文様類」を使用すると刑罰を与えて変更を命じている厳しさで禁じている。
其れでも85文様の類似紋が出来上がってしまった。
先ず、この事は「徳川氏の威光」を利用しようとしていたかが良く判る。
そこで、次ぎはより「徳川家宗家」に近い家紋類を選び出してみたが、この「調停工作」に文句の出ない家紋類は11/85と成った。

そもそも、この葵紋の文様には謂れがあって、「京都賀茂神社」の神門として扱われていた。
その神紋と成った経緯は、この文様が家紋神社系の神事の時に使用する神具で、一種の神木ならず神草の様な位置づけで用いられていた。
ところが、これを京都丹波地方の賀茂神社の氏子であった者が、立身出世して、この葵文様を家紋として用いた。
これが丹波西田氏が最初であった。その後、戦国時代に成って、三河に勃興した松平氏、本多氏がこの「賀茂神社」の神事神具に肖って、家紋とした。
これは、本多氏や松平氏等のその最初の元出自は、「賀茂神社系の「神官」か氏子」であったとされる。

先ず、葵紋の「徳川三つ葉葵」としては次ぎの関係する文様がある。
A 「丸に三つ葵系7紋」と
B 「立葵紋系」には2紋、
C 「丸に立葵紋系」には5紋
以上が先ず選択され得る。

更に対象とされるものを厳選して行くと次の様に検証される

「丸に立葵系5紋」は本多氏等の「賀茂神社」の「神官職系」の文様類の3紋
以上は対象外として外す事が出来る。

a 徳川葵紋系の「丸に三つ葵系7紋」などは、「賀茂神社氏子系」の文様類として対象と成る。
b 徳川宗家が独自に特別に禁令対象に指定した本来神事、神具の「立葵紋2紋」が対象と成る。

合わせて、徳川氏が特に厳罰を科して禁令を発した葵紋としての内の11文様が重要紋として扱われた事に成る。
これらが「調停工作」に用いられる可能性があったものであろう。

この「11の葵系の家紋類」が一族の中に無いかである。これも大変な根気の居る作業であった。
在れば、生まれた子供の中で「母方の家の徳川氏」を最終の要領として継がさせている筈である。
或は、直接、「三つ葉葵紋」を使う「父方の青木家」を興している事に成る。
この「二つの血縁組」が考えられこれを許可する筈である。

「徳川氏」は、「葵家紋の使用」は、身内でも「特別許可制」で対処した。
「特別許可」では、「女系の嫁ぎ先」でも使う事を許可したが、多くは限定して1年使用で終らしているし、使用の規則までも定められていた。
徳川氏と血縁した家臣では、当時の中では許可したのはただ1氏で、側近中の側近本田氏(本多氏)である。
それと、家臣ではないが、直轄領とした信濃国の「信濃善光寺」だけが「永代で使用」が可能として許されている。
この二つを検証すれば何かが観えて来る筈である。
先ず「本田氏」の件は、徳川氏に憚ってこの家紋に「丸付き紋」として使用したので、これも合わせて「丸付き紋の使用」をも禁じている。
つまり、葵家紋類を一切禁じたのである。

当然に、「丸付き紋」は皇族系は、戒律によって「同族血縁一統」としている為に一切慣例に従って使用していない。
この事から、「丸付の立葵紋」は、原則として「支流紋」として扱われる為に、「調停工作」の例外として扱われる筈である。
そうすると、「徳川葵紋系の7紋」の内で、御三家と水戸と分家の「三つ葵紋」は「調停工作」後の「後の事(始末要領)」として除外できる。
つまり、分家の家紋類を「調停工作」の対象家としては提案する事は無い事に成る。
そうすると、要するに、三つ葉の「立葵紋2紋」の内、「花立葵」は本流外文様である事から除外出来る。
従って、宗家紋の三つ葉の「徳川葵紋」と本流の「宗家の独自禁令紋」とした「立葵紋」の1紋が「調停工作の文様」として扱われる事に成る。

実は、これには重要な経緯がある。それは、二つ目の善光寺の神紋である。これを検証すれば何か観える。
そもそも、「信濃善光寺」は、住職が「本田善光」なる者が、室町末期に住職と成り、家康の一の家臣の本田氏はその神官職の支流末裔であった。
この事から、この家紋は「特別許可」を家康から得たが、使用するには本田氏(本多氏)の支流である為に「丸付き紋」とした経緯を持っている。
故に、”善光寺”の呼称の経緯となったのである。
徳川氏は「宗家と御三家」は「、三つ葉葵紋」の「葉芯数33」を使用し、特別の一族には「三つ葉立葵紋」の使用を特別に認める態勢を採った。
(「特別の理由」には意味がある。 下記)

この「宗家と御三家」の三つ葉葵の葉の芯は33本で限定し、区別し、系列の松平氏等には厳格に対処した。
この「宗家と御三家」が使う「葵紋の使用」は類似家紋も含めて一切禁じた。
そこで、本家筋に限定許可した関係する「立葵紋」は9種あり、この「主流紋」では、徳川氏により使用を固く禁じられている。
この「本流の立葵紋類」は「7文様」/9種である。
内3つが「主流紋」で、更に、内1つが「本流特別紋」として扱っていたのである。
「宗家と御三家」の「三つ葉葵紋」ではない本流しか使えないこの「7文様の立葵紋」の中では、最も限定されていたのは「立葵紋」の「主流の本流紋」である。
この家紋は、松平氏でも徳川氏でも使用禁止された「権威ある家紋」として扱われたのである。
この「本流立葵紋」の位置づけは、徳川氏の一種の「最高級権威紋」(ステイタス紋)としてのものであった。
これを使用許可を受けたのは徳川氏系の資料から観ると、たった一つ「信濃善光寺」と成っているのである。

・「信濃善光寺」の持つ意味
従って、この「信濃善光寺」の経緯の中に解決する答えがあると観て調べた。
さて、その前に、その「最高級権威紋」を受けた「信濃善光寺」とは一体”どの様な寺”なのかである。
「悠久の歴史」(644年創建)を持つ寺で、古来より「天皇家の皇子」が成る「還俗僧」が、先ず「比叡山門跡院」に入る。
その後、「門跡寺院」から下山したその皇族出自の「門跡僧」が、代々「善光寺の住職」を務める「一種の門跡寺院」の形を持っている「権威ある寺」である。
又、「密教浄土宗寺」の「皇族系の僧侶」や「皇族系の者」が下族して僧に成った寺でもあった。
最終、従って、「天台宗の僧侶」や「浄土宗の僧侶」が集まる寺と成った事から、「無宗派の寺」の位置づけと成り、寺には天台宗の25坊、浄土宗の14坊から成り立っている。
ところが戦乱期から室町末期までは、「無宗派」であった為に、この権威を使って、信長に利用されて岐阜に、秀吉に利用されて京都に、「本尊」を移されて「権威付け」に勝手に利用された寺でもあった。
その為に「本尊」を無くした寺として極めて衰退した。丁度、天皇家が家康に圧力を掛けられて瀕したと同じ様な経緯を経ていた。
何れも「皇族方の衰退」の形であった。
そこで、更に調べて観ると、「家康」も例外では全く同じ手を使った。
「家康」もこの「本尊」を尾張に移して何とか「権威付け」をしようとした。しかし、思惑通りには行かなくなった。
ところが、「天領地の信濃と甲斐」が「徳川氏の直轄地」に成った事(仕組んだ)から、「1599年−1601年」に家康は、元の「信濃善光寺」にこの「本尊」を戻して荒れた寺院を逆に修復した。
そして、この寺に、徳川氏の「特別権威紋」の「本流立葵紋」を贈り「寺紋」と決めたのである。
信濃が直轄地と成った事を理由に、「徳川氏の寺」(宗家の菩提寺)であるかの様に印象付けたのである。
その「徳川氏の寺」として、”印象付ける為の象徴”として「本流立葵紋」を「寺紋」として決めて。他の関連寺を含めて一切この家紋の使用を禁じたのである。
そもそも、「徳川氏の葵紋」を、大化期から存在するこの寺に”「寺紋」”と決め付ける訳には、社会の反発を招く事に成るので、無理であり、そこで「家康」は、特別に「三つ葉葵紋」の基紋と成った「三つ葉立葵紋」を「権威紋」としたのである。
それを「寺紋」として「徳川氏の寺の印象」を与え、且つ、「社会の反発」を防いだのである
この為に社会から「信濃善光寺」は「徳川氏の寺」と目され、特別に「最高権威紋」の「立葵紋の使用」を永代に許された。
正式な「門跡寺院」ではないが「皇族系僧の寺」として、代々その住職が変わる度に、「天台宗」や「浄土宗」の勢力が変わる等した。
又、無宗派でありながら「密教系の寺」になる等の「大変遷の経緯」を持っていた。
「女人禁制」となる「密教系の門跡寺院」と謳われながらも、「尼寺」に成った事も一時あったくらいである。

・「徳川氏の本流立葵紋」
さて、この特別家紋扱いにしている「徳川氏の本流立葵紋」が、「皇族系の門跡寺院の僧侶」が集まる寺である事が重要なポイントである。
だから、この家紋が同じ「皇族賜姓族の青木氏」か「特別賜姓族伊勢青木氏」にも、「調停工作」の一環として、与えている可能性があると考えて虱潰しに調べた。
合計140氏の家紋となった。何と奇遇とも云えるほどに、たった1氏にあった。
その1氏がこの「最高級権威紋の本流立葵紋」を持っている「秀郷流伊勢青木氏一族」の中にあったのである。
他の10の立葵の家紋類は無かった。

本来では、この血縁は「氏家制度の社会慣習」では家柄身分からして通常ではあり得ないし、つり合いの採れる同族血縁を主体としている戒律の中で、この時期では本来は無い。
しかし、特別の何かがあったから、この「最高級本流立葵紋」が「秀郷流伊勢青木氏」の一族の中に家紋と成っているのである。
非常に「厳しい禁令」の中で、「罰則」まで設けられて、変更を命じられて従わない場合は潰されるか「罰則」で厳しい制裁を受けた筈である。
しかし、調べても「権力の強くなった徳川氏」から、「秀郷流伊勢青木氏」にはこの時期に全く受けた形跡が無く何も受けていない。
「秀郷流青木氏」は、「特別賜姓族の立場」にあり、「皇族賜姓族の伊勢青木氏」とは母方を同じルーツを持ち同族血縁している一族で「融合族」も持っている。
「信濃善光寺の門跡僧族」とは「皇族系」では同じ家柄である。この点では共通している。
ところがもう一つ共通点があった。
それは、家康が「信濃善光寺」の「徳川氏の寺」とした時と、上記する”「故事の長者問題」”とは全く同じ時期である。
「時期」と云うよりは当に「時」である。
”殆ど同じ時”に、この「立葵の本流家紋」を、「信濃善光寺」と「秀郷流伊勢青木氏」に使用を許可している事に成る。

この両者は、何れも共通する事は、「皇族方」にあり、それも最高の「悠久の皇子の位階」を持っている事も共通点である。
つまり、この事から、この「立葵紋の主流本流紋の同紋」は、徳川氏の中でも、”「皇族賜姓族」並みの血筋を有する一族” のみだけに与えられる特別の”「最高級権威紋」”であった事に成る。
この立場に無いものには向後に絶対に与えていない家紋である。
「時」が一致する共通点では、この事でも、「2つの本流立葵紋」が「調停工作」に合わせて行った事であることに成る。
つまり、名目ともに実質の徳川氏の特別の”権威紋である事”を印象付けた事が判る。

善光寺の「皇族方の門跡僧」を徳川氏が合わせて保護する事で「調停工作」を有利に運ぶ事も目論んだのだ。

注釈
(「徳川氏の記録」には、同時期にありながら、この善光寺にだけ記録されている事に付いては、「藤原秀郷流伊勢青木氏」への「本流立葵紋」の件には意味があった。
そもそも、青木氏側にとっては、”記録として残す事”は、「調停工作」をあからさまにしてしまう事に成る。
その結果、「権威の低下」を招くので得策では無い。
特に青木氏側には、”世に晒す事なかれ、何れ一利無し。”の戒律があって、その点でも、徳川氏に注文を付けた。)

注釈
(”晒す事”のみならず、秀郷流の”憚る事”では、徳川氏が最高権力者と云えども ”謙る事は無い 何だかんだと騒ぐな 常であれ”と戒めている。
この事からすると、「晒す」も、「憚る」も両方の立場からも、この「調停工作」には全てが「裏の行為」でそもそも臨んだのである。
そもそも、伊勢の両青木氏は、古来からの絶対的な「先祖の戒律」をこの件で自ら破る事はしない。
そこで、”不記録扱い”として、 ”実質の「本流立葵紋」の発祥を示現させる事” だけで、 ”青木氏の「故事の長者」の社会に対する誇示” は充分であると考えたのである。
ところが、発祥は認められるが、伊勢にも記録一切がないのである。本来であればあるのに無いのはこの戒律に従った事を意味する。

ただ、柵の少ない「本流立葵紋の青木氏」か「宗家葵紋の青木氏」の千葉ー茨木の家には、何れかの末裔が”何がしかの記録に類するもの”を遺している可能性もある。
しかし、現段階では筆者側には未だ検証できる段階に至っていない。)

つまり、「徳川氏の最高級権威紋」の「本流立葵紋」を家紋とした「秀郷流伊勢青木氏」には、次の様な事が起こった事になるのである。

”「朝廷と天皇」に対する「調停工作」(青木氏の故事に依る”長者の権威獲得”)の為に、「青木氏との血縁の繋がり」を構築する事を青木氏と徳川氏は目論んだ。
それには、次ぎの「3つの要領」(家興要領)の事を実行しなくては成らなかった。

1 徳川氏宗家と伊勢秀郷流青木氏(四日市殿)との「本流立葵紋(特別権威紋)」での「血縁関係の構築」
2 1の末裔の一人を「本流立葵紋」の秀郷流青木氏(四日市殿)」を発祥させる。
3 1の末裔の一人を「伊勢秀郷流青木氏(四日市殿)」の「全ステイタス」を持たせた徳川氏を徳川氏の中に発祥させる。
4 3の要領の代わりに、1の末裔の一人を「宗家葵紋の青木氏」を発祥させる。

但し、3は「女系側の徳川氏」と成る事で徳川氏は受けにくいし、「格式の差違」から青木氏側は慣例に従えば受け難い。
しかし、3は絶対に行わなくては、故事に習った ”徳川氏の長者” は1だけでは「女系の形」に成るので不充分と成る。
その為に、「紀州藩主初代頼宣」にこの「3のステイタス」を与えて、一代限りの「笹竜胆紋の徳川氏」を継承させる。
この補足として、4を発祥させる事で、徳川氏との血縁関係を青木氏との間で構築することが必要であった。

これが、下位の位階と格式にある徳川氏にと取っては、「真人族か朝臣族」の「上位の格式の氏」を名実共に構築する手段であった。
「青木氏の資料」によると、これは、古くは鎌倉期から行われていて「3つ要領」(”「家興要領」”と呼ばれていたのである。

一般には”「名義札制度」”と呼ばれ、豪農や豪商が「郷氏の名義」を金銭対価をベースに上記要領で行われていた。
特に江戸期には、家柄を重んじる社会であった為に、頻繁に行われた。
中には、「郷氏」のみならず、下級武士が上級武士の断絶した家を金を貯めて、「金銭対価ベース」でこの制度を使って出世を試みた。

参考 
平安期中期頃にも、この事例が青木氏にもある。(江戸期まで4件起こっている)
これが「青木氏の資料」とした「戒め」として遺した理由である。
”世に晒した結果”で起こった不祥事と判断されたのである。(4件ともに戦いまで起こした。)
「近江青木氏」が滋賀に移動した後に再び近江に戻る際に、この現象が起こった。
現地に残った分家断絶の家を、この方法で強引に、上田郷の「上山氏」が「青木の家」を近江で興した経緯がある。
これを、近江青木氏の許可を得ずに、朝廷に届けて認可されたのである。
(家興要領としては成り立つので認可 上山氏に依る裏工作があった。)
その結果、この「上山氏の青木氏」は高い能力を発揮して信頼されて出世して10の守護職代を務めた。
後に「近江青木氏本家」と争いとなった。 遂にはその優秀な才能で子孫を広げ「滋賀青木氏の祖」となったのである。
(「近江青木氏」は戒律的に弱いところが歴史的にある。この後、源氏に合力して滅亡し、「摂津青木氏」に成る。)

先ず、それには ”徳川氏一族から 「何らかの姫娘」(下記) を「秀郷流伊勢青木氏」に入れて血縁した。”と云う事に成る。
そして、”生まれたその子供の一人にこの「徳川氏最高級権威紋」の家を興して継がせた。”と成る。
これで、先ず、「秀郷流青木氏」と「徳川氏」は「親族」と成った事に成る。
これで同時に、最低でも、「調停工作」での「朝廷と天皇」が求める要件を叶えられる事に成る。

更に、この「主流本流立葵紋」を持つ「秀郷流伊勢青木氏」の住んでいる地域は「伊勢四日市付近」に一番多い事にある。
家紋分析から、関東千葉ー茨木付近の結城域と茨木の水戸域にも、この家紋の「秀郷流青木氏」が少ないが移動定住して現存している。

(筆者は、この「本流立葵紋の青木氏」を存じ上げている。「青木氏の出自の条件」に全く問題はない。)

この「本流立葵紋の青木氏」の伊勢から関東千葉ー茨木地域に移動定住した「時期と理由」が何時であるかは、下記の状況であるが「子孫拡大」に伴って移動している。
恐らくは、参勤交代等の移動の機会とそれに伴う血縁機会が起こした定住根拠と成る。

注釈
(上記の”何らかの姫娘”はこの地域(千葉ー茨木)の徳川氏から来ているのではないかと推測する。下記
その人物などの経緯は判明しない。しかし、これも「青木氏の戒律」 ”世に晒す事なかれ・・”に依って、上記の徳川氏の「立葵紋の不記録」と共に「不記録」とした。)

・「江戸定住の時期と理由」
筆者は、この「時期と理由」として、次ぎの様に考えている。
吉宗が将軍となって江戸に赴くが、この時に「伊勢青木氏」と同じく吉宗に従って同行したと観ている。
「伊勢青木氏」は上記した様に「青木六左衛門」が勘定方指導として「享保改革」を主導した。
”この時に「六左衛門」に従って「四日市殿一族」として同行した”と観ている。
「六左衛門」の配下で「享保の改革」に同族として助力したと観られる。
「松阪殿の六左衛門」の末裔も江戸で子孫拡大しているが、この「四日市殿の末裔」も定住し子孫拡大したと観られる。

吉宗は将軍に成るに従って、先ず20人程度の家臣で江戸城に臨んだ。(同行の青木氏らの別班は含まず。別班と記載)
しかし、改革が進むにつれて、一気に尾張藩などで構成されていた旧幕臣を排除し、幕僚の6割も紀州から呼び寄せた家臣で改革を実行したと記録されている事からまず間違いはない。
徳川氏の慣例を観てみると、将軍を出した班は「廃藩」する事に成っていたが吉宗はこれを廃止した。
何故、廃止したかは幾つかの自由が事由があるが、吉宗は「経済改革」を主体とした為に、紀州藩は勘定方などの事務方の多くの幕臣は江戸に出向した。
この為に、伊勢青木氏は、六左衛門等を江戸に向かわせると共に、一族を駆使して、紀州藩の勘定方を補佐した。
この事に一つの大きな下記の理由があった。

吉宗経済改革(前段−4で記述)に対して尾張の継友等は猛反対をしていた。そこで、吉宗経済改革の手法が間違いない事を立証する為に、この小モデルを紀州藩に置いた。
この紀州藩の勘定方を伊勢青木氏が担当して、幕府の「六左衛門グループ」と「紀州藩の実家松阪グループ」が改革を進める事に成った。
紀州藩の「実家松阪グループ」は、蝦夷交易等の為に交易船を充実させて懸命の改革の取り組みで藩財政が改善して成功した。
この事で尾張藩の継友は攻撃をする根拠を失った。そこで、吉宗は一挙にその経験をした各役方を呼び寄せて、このチャンスを利用して尾張の幕臣と入れ替えたのである。
これが、元々からの「吉宗の戦略」であった。大きな実権を握ったのである。
ところが、「享保の大飢饉」が起こった。その為に、「五公五民の増税」を実行せざるを得なくなった。
これが悪評を生んだが、「享保の改革」のリフレ効果で非常事態に成らずに何とか乗り切ったのである。
紀州藩は、質素倹約と交易に依る新改革が効果を発揮して改善に向かったのである。
紀州藩では、「財政改革」を軌道させる為に「農業改革」と「漁業改革」も並行させて、”「殖産事業」”を興し、これを「交易事業」と伴わせて効果を発揮させた。
これは当に伊勢青木氏の経済手法であった。この改革の為に「水利事業」を整備した。紀州では”有名な語り草”に成って居る。
この伊勢青木氏等の後押しによる交易船を使った交易事業の手法は効果を発揮し幕末まで続いた。

注釈
この事を物語るその交易船で有名なある事件が幕末にあった。
坂本龍馬の船と紀州藩の交易船の衝突である。
紀州藩の操舵ミスが原因で坂本龍馬の船は沈んだ。
藩財政が良く直ぐに賠償した事が記録に残っている。
ここにも、「青木氏の貢献」が裏であった。

幕府の「六左衛門グループ」と、紀州藩の「実家松阪グループ」と、「伊勢紙屋グループ」の3班に分かれての態勢であった事が記録から読み取れる。
結局、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と「讃岐青木氏」と「一部摂津青木氏等」を動員しての「交易船班」と、「商い班」の総動員であった事が商業記録から読み取れる。
松阪殿、名張殿、員弁殿、桑名殿、四日市殿、永嶋殿(秀郷流)の一族総動員であった模様である。
この時は、既に、「総合商社」であった様で、交易船大船の数、讃岐青木氏の廻船大船(交易もした)の数を合わせて大船団であった。
これをフル活用して吉宗を懸命に支えたのである。
尾張藩継友は三井が背景に、吉宗の幕府は伊勢青木氏等を背景に展開された政治的な意味合いの強い「商業戦争」でもあった。
この商業記録から観た紀州側の事情から考察しても、頼宣の時代からの「家臣説」はあり得ないのである。

何より証拠に、「12人扶持の礼米」がこれを証明する。
伊勢青木氏の200万石の経済力と信濃青木氏と讃岐青木氏の持つ経済力を合わせれば、「12人扶持の礼米」は明らかに「礼米」である。
家臣であればこの程度の小礼禄米では済まない。家臣説は完全に消える。



話を戻して。
この「本流立葵紋」での「調停工作」の血縁関係から、子孫を得たのに1600年代の3年経ていて、享保までの約100年間を経過している。
そうすると、3代目か4代目が移動定住している事に成る。

「頼宣」が「謀反の嫌疑」を掛けられて、江戸に10年間居た時に紀州から同行した頼宣の近習家臣と成った「伊勢の立葵紋の青木氏」の者が子孫を遺した事も考えられる。
それには、この「立葵紋の伊勢秀郷流青木氏」の「融合族の者」の2代目か3代目の末裔が「頼宣の直参近習家臣」と成って、同行して、江戸で子孫を遺したと考える事も出来るが証拠はない。
この場合は10年後に、二度と江戸に来る事がないとして、留守居を残して一切紀州に引き上げている。
(紀州から”古参のご意見番”として睨みを効かした事が記録されている)

注釈
(徳川氏としては「本流立葵紋」は「最高級権威紋」である事から、賜姓族や皇族方でなくては使えない事に成った。
「本流立葵紋系の徳川氏」(本流立葵紋の青木氏)は、”身分家柄を合法的に変える方式”としても、向後に本来は発祥しない事に成った。

先ず、発祥させるには、頼宣自身が葵紋と立葵紋の二つの出自を一代限りで持つ事に成る。
依って「立葵紋の徳川氏の末裔」は、「宗家の特別権威紋」として善光寺を遺して維持しなければならない「調停工作の約束」である以上は、起こらない事に成る。)

(実は、筆者はこの「本流立葵紋の末裔」と観られる方を関東で存じ上げている。本サイト運営に最大に御尽力されている。この方のルーツ探究が研究のヒントとなった。
恐らくは、この方は江戸定住族の末裔と成る。)

従って、この場合は、「秀郷流伊勢青木氏」(四日市殿系列青木氏)であった事に成る。
その後、「頼宣」は紀州に居て、紀州藩主の2代目が江戸に向かっているので、「立葵紋の秀郷流伊勢青木氏の者」の本体は伊勢に戻っている筈である。
依って、「頼宣家臣説」の可能性では考え難く低い。
ただ、紀州藩に対して、上記した様に、親密な付き合いがあって、家臣の身分ではないが、勘定方の指導役と紀州藩の交易船の創設に尽力し、指導するなどの事を実行している。
当然に、以上の事では、「伊勢の青木氏」から「多くの人」を送り込んでいた事は事実である。
しかし、家臣でない者が頼宣と共に江戸に同行する事は考え難い。
そもそも、何かの理由が無い限りは、将軍と同じ葵家紋の紋付を着て、将軍より権威のある徳川氏の特別権威紋の立葵紋を付けた紋付を着た者が周囲でうろうろされては家臣はたまらない。
兎も角も、頼宣も周囲に於いて立場上で困るだろうし、依って、「頼宣家臣説」と「同行説」はない。
これは、上記する様に、”青木氏の晒すと憚るの戒律” からしても ”「頼宣の周りに蔓延る事”に成る事からも、戒律に反する。
100%ないとされ、従って「青木側の記録」にはない。
(あるのは、関連する内容としては「青木六左衛門の件」だけである。紀州徳川氏には「青木氏の不記録」の原則から無い。)

そうすると、この「本流立葵紋の青木氏」の「江戸定住族」は、「青木六左衛門」と共に「吉宗同行班の説」に成る。
下記の「青木氏融合族」(四日市殿末裔)である事も踏まえて、「吉宗の稚友」で「同育で義兄弟」の「青木六左衛門」と共に別同班で同行した事に成る。
とすると、仕事は「六左衛門」の下で、伊勢での「商いの職能の利点」を生かして、働いた事に成る。
そうする事で、「宗家徳川葵紋と権威本流立葵紋」の件から起こる「周囲の問題」は無くなる。
まして、「将軍の吉宗」や側用人の加納氏とは、「六左衛門」と同じく伊勢では同年代として、「2つの徳川家紋の青木氏」の者は知友で充分な面識があるから、先ず問題は起こらない。
「青木六左衛門」等には、「布衣着用」(将軍に直接意見を云える大名扱い)を許されているのは、この様な周囲との不必要な問題を解消する手立てでもあった。

(吉宗は伊勢青木の教育を受けて「現場主義の将軍」であったと記録されている。
依って、家紋による周囲の問題は軽減されていた事が判る。)

「皇族賜姓族伊勢青木氏」と「秀郷流伊勢青木氏」とは、平安期から血縁関係にあるが、両方の「青木氏の融合族末裔」(夫婦が青木氏)が、この「四日市の地域」に住み分けて定住しているのである。
これはより血縁的には「皇族賜姓族に近づいた青木氏」である。
「徳川氏」と「藤原氏」と「青木氏」の「3つの血縁性」を持った「賜姓族系の青木氏」が発祥した事に成る。

これらの一連の考察から、家紋から観ると明らかに、「調停工作」の「朝廷と天皇」が求める要件を叶えられる事を証明できた。
この条件が出来たから、次の様に、「二つの故事の要件」を徳川氏は使える事に成ったのである。

これで「青木氏」の中にも「徳川氏」が入った事に成り、一族として「徳川氏」も文句無く、「笹竜胆紋」「密教浄土宗」「長者呼称」「正二位」「征夷大将軍」「浄大一位」「正統 左衛門上佐」「民部上佐」等の永代ステイタスの「故事条件」の全てをば使える事に成る。
「賜姓族」を前提としては、「賜姓族の武家源氏」の血縁性が直接無いにしても、「青木氏の長者」は「源氏の棟梁」より格式は上であるから、正式に堂々と「朝臣族」は名乗る事が出来る事に成る。
むしろ、「源氏の棟梁」は「天皇家の故事」によるものでは無い。”長者”は「武家の発祥源」であり、「格式位階」はこれ以上はない。
故に、「徳川氏の征夷大将軍」は格式位階から観ると、青木氏等の綿密な「調停工作」によって「鎌倉幕府」や「室町幕府」の上位と成った事に成る。
文句の出し様が無くなった事に成る。
だから、「家康」も「朝廷と天皇」も納得したのであり、その「調停工作」の裏工作を「由緒ある賜姓族の青木氏」が行った事も納得させられたのである。
これだけの事は”他氏の余人”では成し得ないし格式位階上で無理である。
そもそも、”「長者」”は、「3つの発祥源」=「長者」の「衣冠の関係」にあり、「青木氏の故事」である以上、「青木氏の了解」無くしては成し得ない。

ただ、上記の中で、「笹竜胆紋と密教浄土宗」の「権威事項」の使用は「紀州藩の頼宣」だけと成る。
現実に、「宗家と御三家」の中では「個人の権威」としては誰一人も使っていない。
「紀州藩の頼宣一代」だけである。

注釈
(源氏の笹竜胆は、「長者の青木氏」が、「天智天皇」より「青木氏の象徴紋」として授かったものを、同族賜姓族として使ったものである。
「嵯峨天皇の詔勅」の中には、源氏賜姓時には象徴紋として何もは受けていない。
むしろ、”朝臣として臣下させて与えるが、民の労苦を思えば、領地などの特典は与えない。 その代わり「戒律」も与えない”と記されている。
要するに、”朝臣族とはするが、後は自分で切り開け”の意味合いであったので、象徴紋はなかったのである。
同じ賜姓でも、「青木氏」には、「長者」として「3つの発祥源」の「義務と戒律」を与える代わりに、領地などを与えて保護し「不入不倫の大権」を与えて保護したのとは、同じ賜姓でも異なる。
青木氏は「二足の草鞋策」で、源氏は「武力」で生き延びようとした。
だから、青木氏は「長者」、源氏は「棟梁」と成ったのである。
「武力の者」は何時か”潰れる者”、「商いの者」は”長じる者”なのである。
この「青木氏の故事の長者」からは、後に一般に使われ、”億万長者”と云う言葉が生まれたが、「億万棟梁」とは云わなかった。
この事は、「調停工作」に依って得た「家康の長者」の事はよく民衆に知られていた事に成る。
故に、民衆を含めて、誰も家康の征夷大将軍の権威に文句を附ける者が無かったを物語り、青木氏と徳川氏等が目論んだ「権威」は保たれたのである。)

注釈
更には、場合によっては、上記した「権威の位階」を獲得した事から、紀州藩は「青木氏」をも名乗る事も可能となる家柄と成った事に成る。
(但し、徳川氏に執っては何れもの権威の位階である「格式の上の権威」である以上は「青木氏の容認」が必要である。
”晒す憚るの戒律”を前提とする以上は、同族血縁を前提とする以上は、前例のない姓族の徳川氏の”青木朝臣”は認めない事に成る。)

要するに、正確に云えば、「賜姓族青木氏系藤原氏関係族徳川氏」となった事に成る。
しかし、前例を認めない以上は、現実には、「調停工作の成果」である「青木氏の故事」に習った「長者」の方を使って「源朝臣徳川家康」と名乗っている。
この名乗りには、従って、「家興要領」を構築した事に依って、 ”源の朝臣徳川・・” の名乗りは納得できる事に成る。
”源の朝臣” の源氏との直接の繋がりは無いにしても、その ”格式と位階上の青木氏” との繋がりを構築したのである。
「嵯峨期の詔勅」に基づき、源氏が青木氏を、青木氏が源氏を名乗る事には問題は無くなった事に成る。
向後に誰も異論の口は挟まない事に成る。当然に「朝廷と天皇」も異論は出さない。
況して、一度、征夷大将軍に成れない「藤原氏」を名乗って置いて、今度は「征夷大将軍」を名乗ると矛盾が生まれるし、「民の信用」が無くなる。
しかし、これで、一切の異論が出なくなる事に成ったのである。
「調停工作」は大成功である。

恐らくは、徳川氏宗家は、この「本流立葵紋の青木氏」と「徳川葵紋の青木氏」を保護したと観られる。
伊勢と江戸の末裔に対して、その返礼として青木一族に対して「本領安堵」(「伊勢一帯の大地主」と上記した商いの利権保護)したのである。
そして、その「裏の意」には「賜姓族青木氏」が徳川氏の中に遺されている事に成る。
しかし、この儀礼も現実を調べると、将軍3代までの事であった様である。
将軍4代目では、伊勢神宮参詣時に、青木氏と「格式の違い事件」を起こしている。
(将軍になった家筋が原因している。吉宗に成ったと時には又戻っている。)

ともあれ、つまり、家紋から観ると、上記の「ABCの総合族」と考えた方が良いのである。
(この立葵の家紋に付いては既に投稿している家紋研究の論文にある。)

注釈
この方式は、上記の「高知の青木氏」の「名義札方式」と同じで、「名義札の売り買い」と「青木氏が現存」するところがその点が異なるが、、”身分家柄を合法的に変える方式”として室町末期からよく使われた血縁方式である。
室町末期から生き延びた”身分家柄の低い立身出世族”は、何とか獲得して次の出世に結び付ける為に特に目立って江戸初期からこの方式を採用された。一種のブームの時期であった。
江戸初期には、上記した様に、「調停工作」が成功し、「最高の権威」を家康が獲得する事に成り、人々は安心して社会が安定化し、その結果、「家柄身分官位官職」等の「権威」が出世に大きく影響する社会体制に成って行ったからである。
徳川氏は名実ともに、現実に「搾取から名実」の「身分家柄の最高権威」を獲得し、1614年を以って以降は、社会は、”最早戦いは無い”として安定し変化したのである。
この”キッカケ”を作ったのは、当に「上記した一連の調停工作」の「青木氏」にあって、引き続き、”安定化に向けた社会構築”の為に、影で吉宗を育て押し出し、家康や青木氏等が夢とした「改革の完成」を目指したのである。

恐らくは、この背景から、「注釈の方式の要領」から考えると、徳川氏のみならず青木氏も積極的に、この後、直ぐにもう一人の子供に「本流立葵紋の徳川氏」か、少なくとも、宗家の三つ葉の「徳川葵紋の青木氏」を発祥させたのである。
将来の「青木氏と家康の夢実現」に向けての「準備作業」として完成させなければならない事は、”身分家柄を合法的に変える方式”として、目的は「本流立葵紋の徳川氏」か「徳川葵紋の青木氏」を段取りとして発祥させる事にあった筈である。
(上記した様に、徳川氏の別人を以って「本流立葵紋の徳川氏」を発祥させる事は出来ない。)

それは「家康」のみならず、「夢の計画」の戦略上は、次ぎの「頼宣の育成」を完成させる事であった筈である。

その前には、徳川氏の何らかの女系の子供(上記)で、「名義・権威の家」を「自分の家」に興し、最後に、”「名義・権威先」の家を別の子供で興す要領”では、先ずは「自分の家」(藤原秀郷流青木氏)に興す必要があった。
これ無しでは「名義・権威先の家」を興す事は掟に依り出来ない。

歴史のこの場合の資料を観ると、次ぎの様な事が主流であった。
現状に子供が居る居ないは別にして、取り敢えず、「形式的に事前に家を興す習慣」も現実にあった。
出世の為の「身分家柄の確実な確保」の為に、末裔が出来ない前にも、既に確定させておいて、より早く確実にする為に「事前発祥を裏の手」として使っていた。
この様に、早くて平安期末期頃から、既に「身分家柄を合法的に変える方式」として採用されていた。
何はともあれ、形式を先ず整えて、後で子供が出来た時点で、その子供に正式に継がせる方法もあった。
この場合は、子供が適齢期に達しておらずとも、”幼女の時”から嫁がせる方法を好く採った。
そして、その子供は、男子では、嫡子、嗣子、妾子、養子、貰子の如何は問わなかった場合が多かった。
女子では、適齢期の年齢は関係なく、妾子、養女、縁者から貰女が多く使われた。

注釈
現在の晩婚化と違って、一般的に明治期でも14から15歳程度が適齢期とされいた。
上層階級では更に早い年齢で婚姻関係を結んだ。
これは適齢期の年齢であって、平安期では、適齢期に達する前の5から7歳くらいで先ずは嫁ぐ慣習であった。
当時の平均年齢は50歳前後であった事から、子孫を遺すと成れば、現在で80歳−15歳とすると、40歳−7歳と成る。
(平均年齢が低ければ、人は本能的に子孫を遺そうとして、生理現象を自然に下げる本能がある。)
この本能とは別に、知恵を使った子孫を遺す方法を考え出す。(許婚制度)
確実に子孫を遺すと成り、更に「家興し」等の政略上の事情など伴えば、7歳を待たずして、1歳での慣習も当然に生まれる事と成る。
生まれる前の0歳でも「政略上の婚姻」ともなれば、「通常の事」としてあり得た事は資料を観ずとも納得できる慣習である。
つまり、今はこの概念としては無くなっているが、明治期まで確実に遺されていた「許嫁制度」は、これを物語る。

従って、室町期の戦乱後の人口減少の最中の江戸初期であって、徳川氏の家興しの政略上の婚姻であって、「調停工作」の条件としても、家康の年齢としても、「許婚制度」を待つ以前の問題であった。
ここに、3年の期間の中で解決しなくてはならないとすると、この「許婚制度」の0婚が要求されていた事に成る。
それにしても、10年は待てずともせいぜい2年から3年と云った期間内に血縁の関係の形は持っておく必要があった筈である。
継承する子供が、次ぎの問題で、1年程度内に出来る見込まれていれば、先行して血縁を早く結んで置くことには「許婚制度の慣習」の中の事と成る。

徳川氏と青木氏等はこの「許婚制度の慣習」の中でのぎりぎりのところで進めた事が判る。
この事から割り出せば、”家康の女子と男系の女孫”の中で、この対象の中に入る「姫娘」を調べ上げることをすれば必ず見つかる事に成る。
それには、青木氏のこの場合の条件で、「不記載、不記録」がある筈である。
その姫娘を見つけ出す事に成る。対象者は凡そ150人程度となった。


「本流立葵紋の徳川氏」は、頼宣が長保寺の件で先ずは一つ目の要領は成立している。
問題は、次ぎの2つ目の最後の要領と成る。
宗家の三つ葉の「徳川葵紋の青木氏」である。
これを成立させて、初めて「朝廷と天皇」が求める故事に従った「調停工作」であって 青木氏の故事の”長者”の求める完成した条件であった筈であった。
この「徳川葵紋の青木氏」が伊勢ー紀州か、関東(東京ー茨木−千葉)の何れかに上記の経緯から大きくは子孫を広げてはいないと考えられるが、他に存在して居ると観ていて末裔調査している。
上記した様に、「立葵紋の青木氏」は伊勢と千葉で確認できている。
参勤交代等によって、「伊勢ー紀州」には定住していない事は調査で判明しているので、現在も東京か千葉に定住したと考えている。

そこで、「徳川葵紋の青木氏」がお膝元の江戸定住は果たして可能か”と云う問題を検討して、”江戸の青木さん”を調べたが発見できなかった。


・「徳川葵紋の青木氏」の検証

参考
次の様に「江戸時代の青木氏の住居」を調べるとその家筋が観えて来る。

青木新五兵衛 新御番頭 二千十石 1460坪
現代の場所  東京都文京区後楽1丁目の周辺
現代の建物  日中友好会館 後楽国際ビル

青木2軒
現代の場所 東京都新宿区市谷薬王寺町の周辺

摂津麻田藩 青木甲斐守一成 一万石 2000坪
現代の場所 東京都港区三田2丁目の周辺 三つ盛州浜紋

青木与右衛門
現代の場所 東京都千代田区九段北3丁目の周辺
現代の建物 靖国神社

青木鉄之助 御書院番 650石 943坪
現代の場所 東京都千代田区一番町の周辺

青木又四郎
現代の場所 東京都文京区水道1丁目の周辺

青木一軒
現代の場所 東京都文京区関口2丁目の周辺

青木一軒
現代の場所 東京都千代田区三番町の周辺
現代の建物 千鳥ヶ淵 戦没者墓苑

青木一軒
現代の場所 東京都千代田区神田神保町1丁目の周辺

青木一軒
現代の場所 東京都文京区千石3丁目の周辺
現代の建物 東福寺、東洋女子学園校近く

青木半蔵
現代の場所 東京都千代田区九段北2丁目
現代の建物 白百合学園

青木一軒
現代の場所 東京都新宿区北町の周辺

青木左京
現代の場所 東京都新宿区神楽坂5丁目
現代の建物 牛込署

青木孫太郎 寄合 五千石 1400坪
現代の場所 東京都港区南麻布4丁目の周辺 ホーマットアンバサダー フランス大使館近く
         東京都港区東麻布2丁目の周辺
現代の建物 出光ガソリンスタンド

青木甲斐守
摂津麻田藩
現代の場所 東京都新宿区神楽坂5丁目
現代の建物 フランス大使館邸

青木一軒
現代の場所 東京都渋谷区千駄ケ谷6丁目の周辺
現代の建物 新宿御苑 上池

青木一軒
現代の場所 東京都渋谷区代々木1丁目の周辺
現代の建物 JR代々木駅

青木一軒
現代の場所 東京都文京区白山4丁目の周辺
現代の建物 寂円寺近く

以上が江戸時代に住居していた青木氏である。

筆者が持っている「江戸の上級武士」(藤原氏秀郷流青木氏らの御家人・旗本や5家5流の青木氏等)の記載はない。
これには慣習があって、江戸には幕府から与えられた住居は仮屋敷として、本拠は神奈川や千葉や埼玉の江戸近隣に居を構えていた。
筆者の先祖の吉宗に同行した伊勢の青木六左衛門は伊豆を本居としして家族を置き、江戸はお勤めの仮居として家人が居た。
これは家柄身分上からの「古来の仕来り」を護ったと考えられる。

同様の仕来りを護ったとした場合、「徳川葵紋の青木氏」ともなれば、本居は伊豆か千葉ー茨木の何れかに成る。
子孫を遺していると成れば、”どちらが融合して生活出来得る方にあるか”の選択をしたと考えられる。
「伊勢の秀郷流青木氏」との「融合族の末裔」(四日市殿)ともなれば、「同族血縁の融合族」の父方を先ず選ぶ事に成るだろう。
「徳川葵紋」は、「秀郷流青木氏」に「徳川氏」から嫁取りをして、その子孫の一人が「徳川氏方」の母方の「本流立葵紋」を継承させ、もう一人が「徳川葵紋」を継承させた形である。
「父方の融合族」の「笹竜胆紋」の継承は、形式上としては紀州藩主の徳川頼宣が継承した形を採ったのである。

上記の凡そ150人程度を調べ上げた結果、たった一人の家康の息子で、条件中の条件の持ち主の条件に完全合致する「姫娘」が下記の通り居た。
それも、見事に「青木氏の不記録」の条件に合致する事も符合していた。

この要領では、母方は江戸か茨木(水戸)と成るが、江戸は慣習上は無いとなれば、茨木(水戸)と成る。
この”1600年前の頃には水戸に徳川氏が子孫を多く輩出する程に定住していたか”の問題であるが、この年代には水戸に徳川氏は多く存在した。
「頼宣」は8歳まで藩主ではあったが、実質上は駿府の家康の下で育てられていた。
その後は、家康11男の「頼房」が水戸の藩祖と成る。
150人中の第一対象者は、何とこの「水戸の頼房」だけとなった。後全ては他氏との血縁している。
そして、その頼房には、これも驚くべきか他の家康の息子の中でもある事情があって早婚であった。
「姫娘」たけでも、嫡子の跡目男子も多いが、何と「女系の姫娘」は記録から観ると正規の記録に載る姫娘は18人も居た。
この頼房の”有名な素行”から、ただ記録に載らない「姫娘」は他にも多くいた事が記録されている。

さて、この記録の中でも、長女次女あたりに成る「姫娘」で、詳細記録が故意に消されている姫娘が二人いる。名は一人は判っている。

後は、家康の娘を始めとして、孫姫娘で、この「調停工作」の「対象者」と成り得る者の「姫娘」の直系性、時代性等を調べた。
結局、最終の対象者と成り得る「姫娘」は合わせて4人いた。
(頼宣には子供が少ない。「頼房」以外に「姫娘の対象者」はいなかった。


中でも、「頼宣」の跡目に入った「頼房の姫娘」の記録抹消の二人の内の一人姫娘(A)に注目している。
後3人に若干の考察疑問点があった。
(うち二人は時代性が大きく異なり、後での詳細調査では家臣に嫁いでいるので除外。)

二人の内のこの一人の姫娘(A)を伊勢秀郷流青木氏に嫁入りさせたと観られる。

「本流立葵紋」の不記録と不記載と共に、この姫娘(A)の履歴を ”恣意的に記録抹消された” と資料の流れから観て取れる。
それは、その側室(勝)の母と兄弟等は全てはっきりとしているのに、この「姫娘」(A)の名前だけが遺されて、他は履歴も ”敢えて”消されている。

注釈
二人の内のもう一人姫娘(B)は詳細は矢張り消されているが、生誕日とも観られるものが記録。
この姫娘(B)の生誕日とも観られる年代が、他と5年ほどずれている。年代的にずれている。
(不合理の検証は下記 他は「破棄」の「棄」と記載あり。生誕日の意味に不合理の疑問あり。)
しかし、上記した当時の「許婚制度」等の慣習から、今回の場合は、当にこの慣習に適合している。

ただ、考えられるのは、「宗家徳川葵紋の青木氏」は、上記の「家興要領」と「調停工作」上から考えて、”ずれてても良い”のではと考えられる。
仮にそうだとしたら、”この「姫娘」(B)を続けて「水戸」から嫁がせた” とも考えられる。
同じ様に、この姫娘(A)にも嫁ぎ先などの詳細記録が消されている。

平安期では「通常の慣習」で、江戸期には徳川氏の初期の政略結婚では、5歳程度でも「許婚」として嫁がせる慣習と成っていた。
従って、「徳川政権」を早期に安定させる為には、養女的形でも政略させいる。(例 秀頼の千姫)
「調停工作」の「家興要領」では、生まれたらすぐに、”養女的形で政略”を行った事が考えられる。
この事から、この姫娘(B)の場合は記録が抹消されたのである。
そして、何と資料には、廃棄の「棄」とわざわざ表示している。

そもそも、子の「頼房」も家康の下で育てられ経歴は「頼宣」と殆ど同じである。
ただ、優秀で落ち着いた堅実型の「頼宣」に比べて、この「頼房」には「素行問題」の性癖を持っていた。

参考A
水戸藩主は1609年、 元服は1611年、就藩は1609年の2年間 1619年水戸詰め
生没は1603ー1661年 婚姻可能な年齢は、1619年の前後頃
記録上の長女誕生では、側室 勝の子 1623年頃
記録上の第一嫡子では、側室 の子  1622年

参考Aから、この対象者の姫娘(A)の生誕は、頼房元服後の1616年から1619年頃と推計出来る。

対象者の姫娘(A)の幼名は「松」(詳細履歴抹消) 側室 勝 (近江佐々木氏)

対象者の姫娘(B)の生誕は、1617年頃(下記) 側室 那那 (公家藤原氏)

「頼房」は水戸ー江戸往復した藩主である。
参勤交代」を採らなかった唯一の藩主で、家光からの「江戸詰めの命」があった。
その為に、就藩は1年に一回で在藩は最低1月から4月であった。短期間であった。
それも、水戸藩主(1609年)を命じられてから以来、就藩は1627年からであった。
以後、1年間隔の就藩であった。
全ての側室は水戸住まいであった。
側室のこの二人は、勝は7人 那那は6人を出産 側室10人中二人は段突に出産した。

その状況は、以上で不合理な疑問がある。
先ず那那は毎年一人を5年間も出産し続けている。
これは体力的な期間的、生理的な期間、就藩と済藩の期間的に不合理(不可能)。
論理的に出産期間1年とすると、資料記載の「年」が合わず不合理(不可能)。
那那の第1子の姫娘(B)の生誕年と目されるものは特に合わない。
水戸住まいの側室の那那は、頼房の就藩期間の中では無く、頼房江戸詰めであったので不合理。
就藩は1627年からで、資料の記載期間では、江戸詰めの時で就藩の時ではないので不合理。
つまり、資料の「生誕日」らしきデータには、子供の作れない不合理が存在する。

この「生誕日データ?」には、必ずしも「生誕日」のみならず、”何かの意味を持たした数字”であることが判る。

特に、この”那那の第1子の姫娘(B)の不合理”から、その他一切は不記載である。
しかし、この”期間だけ表示”の不合理の意味は異なっている。

上記した「許婚制度」に依って、”伊勢からの姫娘(B)の第1子誕生を記載した”とすれば、破棄の「棄」は意味が合う。
又、「調整工作」の「家興要領」からも年数的にも符合一致する。
姫娘(A)では、”「一切不記載」”と成っている事から、この姫娘(B)の「廃棄」も同じであった事に成る。
敢えて、全てのデータを「棄」としていながら、この「年数の事」だけが追記されているのである。

依って、棄とした姫娘(B)のところに、”第1子誕生の事”を態々記載したのである。

姫娘(A)と姫娘(B)の側室の「勝」と「那那」の「13人の子供」の「生誕日らしき記載日」は照合するとほぼ一致している。
この「記載日」は、上記の不合理があって、必ずしも「出産日」とは成らない事を意味している。
厳密な生誕日だけでは無く ”備考的な意味合い”でも記したと考えられる。
特に、姫娘(A)は「不記載」、姫娘(B)は「破棄」としながらも、姫娘(B)には伊勢からの連絡などがあり、敢えて記載したと考えられる。
姫娘(A)は伊勢からの何の連絡も無く、不記載や不記録の強い要求もあって、何もかかなかったと判断できる。

これに他の側室の記載日もが1627年からのものと一致しているのは、「江戸詰めー水戸就藩」の関係からも成り立たたずこれも不合理である。
要するに、上記の不合理は、、”何かの意味を持たした数字” で理解できる。
筆者は、この原因は、”頼房の素行”から来るもので、事務方は正確なものとして扱えず、、”何かの意味を持たした数字”で処理したと成る。

この事から、側室の勝と側室の那那の全ての出産内容が、ほぼ一致している。
この事から考えて、”姫娘(A)と姫娘(B)の生誕日と許婚期” はほぼ一致している事に成る。

この時期の出産可能年齢を10歳頃とすると、姫娘(A)と姫娘(B)は生誕1616年から1617年と成る。
「調整工作」の「家興要領」の「許婚制度」の0歳、又は2歳から3歳は可能と成る。
これは上記 参考A に合致する。

これには次の事も大きく関わっていたと考えられる。
「頼宣と家光の確執」に対して、「頼房は家光の友」であった。
ところが、家康の肝いりで、頼宣側の伊勢で、この「調停工作」と「家興要領」が動いていた。
頼房の性格は「素行不良 乱暴者」(有名な家臣の換言事件 歌舞伎にも成る。
(特に、女御への手付けが有名。)
家康と幕府は警戒して、この為に、「頼房」には徳川姓を27年も遅れて1636年に授与した経緯を持つ。 
「頼宣」−「家光」ー「頼房」の関係で、「綱引」が行われていた関係にもあった。
「頼房」には、この為に「不明の遺子」が居た事が判っている。

この環境の中で、次ぎの事が起こった。
この「頼房の姫娘2人(A)(B)」が150人中の中で対象上に入る唯一の姫娘である。
姫娘(A)は、「本流立葵紋の青木氏」 (賜姓族   近江佐々木氏)
姫娘(B)は、「徳川葵紋の青木氏」  (特別賜姓族 北家筋秀郷流藤原氏 公家)

姫娘(A)は、母方の血筋 「皇族賜姓族近江佐々木氏」は、「調停工作」の同族血縁の条件に完全に一致する。
姫娘(B)は、母方の血筋 「北家秀郷流藤原氏」は、「調停工作」の同族血縁の条件に完全に一致する。

「頼房」の正室と側室の記録上の11人の中の二人以外には、この「格式」の持つ家柄は一切ない。
他の9人の出自は、「無位無官」「無名姓族」で、侍女・女御である。中には「某」とした側室もある。
この二人が正式に”格式氏族の側室”として迎えた事が判る。
その子供姫娘(A)と姫娘(B)であり、且つ、この「二人の側室」の「二人の子供」の記録を恣意的に消しているのである。
故意的に、「棄」と記したところに意味を持っている。

頼房の子供のこの姫娘(A)と姫娘(B)を除いては、16人の嫁ぎ先は全て家臣である。
この事は大きな意味を持っている。
「頼房」としては、「頼宣側」で進められている「調停工作と家興要領」に対して、その「基」を「水戸の頼房」のところで行われていると云う間尺に合わない感情があったと観られる。

その「基」とは、この「調停工作」の為に、敢えて勝と那那の側室二人を「頼房の側室」として迎えたことは全体を観ると間違いない。

(その他の側室全員の子供は全て家臣に嫁いでいるし、その他の全側室の出自は姓族で無官位無格式である。)
(”何かの意味を持たした数字”の記録と「姫娘(A)と姫娘(B)の二人の記録にも影響をもたらした事の原因となった。)

そして、この「姫娘(A)と姫娘(B)の二人を、「伊勢秀郷流青木氏の四日市殿」の末裔との同族血縁をさせる事で、「調停工作の完全性」を狙ったと考える。
これに依って、「朝廷と天皇」は、どんなに”無理な横槍”を入れようとしても、これでは文句の附けようがない。
まして、「四日市殿」である。偶然に、符合一致しすぎる位である。

藤原氏を直接の氏姓名として記載し、名乗る事が出来るのは、宗家又は本家のみである。
この慣習の事から、充分な格式を持った血縁工作であった。
依って、筆者は、この説を自信を持って採っている。


・「家興要領」から、先ずは、絶対的な対応として、「本流立葵紋の青木氏」の発祥が必要である。
姫娘(A) 「松」が、「許婚制度」の0歳児か、2から3歳に嫁入りした事に成る。

・「家興要領」から、次ぎは、現実的な対応として、「宗家徳川葵紋の青木氏」の発祥が必要であった。
姫娘(B) 「・・」が、「許婚制度」の0歳児から1歳で嫁入りした事に成る。(上記検証と ”棄”の記載で判断)

(注記 上記の「姫娘(A)と姫娘(B)の検証」は不記載の計画で論じていたが、指摘により追記する事にした。)


当の「頼宣」が、1602年に2歳で水戸藩主(6歳で駿府転封 この間水戸には居ない)と成った。
その後に「頼房」が水戸藩主に成った。この「所縁の地域」である事からすると、経緯からしても間違いなく水戸と成る。

この「調停工作」の形式上の母方は、「頼房」が継承している事も踏まえて、「本流立葵紋の青木氏」は「「水戸」に本居を構えた極めて可能性が高い。
「本流立葵の青木氏」は、現在、千葉に確認できるとすると、本居は青木氏の経緯から「伊豆」では無い事に成る。

(伊豆は、宗家源頼政の領地で、ここに「笹竜胆紋と古代密教浄土宗」をステイタスとする「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」の定住地である。)

更に、「千葉ー茨木」は「秀郷流青木氏の定住地」である事を考え合わせると、「本流立葵紋の青木氏」と「徳川葵紋の青木氏」の2氏は、少なくとも千葉から水戸よりに居た事に成る。
(「頼宣」1609年駿府藩 1616年家康没 1619年紀州藩)

「情報提供の徳川葵の青木さん」の所在地とほぼ一致する。
「本流立葵の青木さん」の千葉に現存しいる。

上記の江戸期の青木さんの一覧の中には、「徳川葵紋の青木氏」の「対象氏」は無い。
江戸時代には、以上の内容を含めて江戸期青木氏6氏の末裔が確認できるが「対象氏」は無い。

結局、情報提供に依る千葉ー茨木の・「徳川葵紋の青木氏」が「対象氏」として特定できる。
従って、現在は茨城ー(千葉)か東京近郊外に定住している筈である。
最近、歴史マニアからの情報提供を得て存在して居る事が判ってきている。

(現在地は移動している可能性もあるが、定住地が情報と高い推論から一致しているので、後は”明治期の「第3の青木氏」であるのか”を確認している。
情報提供に依れば、条件はほぼ揃っているが、何かの経緯を持っているのかある一点確認する必要があって調べている。)

(確認次第にここに追記する)


・「頼宣の長保寺」
それが「頼宣の長保寺」の「笹竜胆紋と密教浄土宗」が使われている証拠である。

これで藤原氏と青木氏の中に「徳川氏の発祥」が興った事を物語っているが、「名義札制度」の「1のタイプ」の最後の仕上げの「名義側の跡目引継ぎ」と同じ事が必ず成されている筈である。
”身分家柄を合法的に変える方式”としては必ず実行されている筈である。
徳川氏のなかでは少なくとも「伊勢の経緯」から「紀州藩側」にあると観られる。
調べたが、一応青木氏側に発祥させている以上は、「故事条件」は充分であるから、この時期と少し後の時期に行われている可能性がある。
徳川氏の中で、この「故事の条件」に合致する出自は当然に、”「起用禁止の最高級権威紋」”であるから見つからなかった。

ところが、”灯台下暗し”であった。明確な事があった。
それは、上記した「頼宣の紀州菩提寺」である。
全ての徳川氏の中で、この「頼宣」だけが「源氏紋と密教浄土宗」とその「故事に習う寺慣習」を持っているのは、この「菩提寺の長保寺」だけである。
それを証明するものがある。
「青木氏」の「故事の慣習」に従って「頼宣」に関わった「采女族」を含む子供を除く一切の「女性家族」は海南市藤白の「比丘尼山」と云う小山に寺屋敷を建立し、周囲と断絶して一生をここで終わっている。
この「戒律の持った寺」があって、その寺の一切の面倒を看る農民がいた。
その農民は代々1家で繋がれて、周囲との関係が寺に入らない様に隔離した。
普通は、せいぜい尼僧に成るのが普通か、元に戻って下族するのが慣習である。
この様な”厳しく現世と完全隔離した寺”は紀州には他に無い。
これは「同族血縁」を主体としていた ”「青木氏の故事」に習った慣習であり仕来り”であった。

下族した「女系族」が下族して又別の子孫を拡大させる事は、「同族の内容」を下げて仕舞う結果と成り、悠久時を維持して来た「賜姓族の立場」は保てなくなる。
この為に、下記の別枠で論じる「女仕来り」があったのである。
この”頼宣の比丘尼山”の仕来りは、「故事の条件」を頼宣が継承した時から、頼宣によってこの「青木氏の仕来り」が引き継がれたのである。
(その後、紀州藩では、この仕来りを厳格に維持されておらず、代々一族に関わった者が、その個人の意志によって「比丘尼僧」に成るかは決められ、この寺を選ぶかは意志に沿った慣習であった。
一旦下族した者が、老いて下界を嫌って、この寺に入る者も居た事から、一種の「逃げ込み寺」の様相を呈していた。)
現在は山と寺跡は遺っているし、その面倒を看た寺元の家は現存している。
その末裔を筆者は知っている。

伊勢の松阪の「紀州徳川氏の菩提寺」以外に、紀州に別に菩提寺を持っているのは「頼宣」だけである。
それは「故事の条件」を持ったからで、他の一族とは、頼宣はこの「二つの格上の権威」を持った事により青木氏等と同じ「菩提寺」を持ち、別にして格上げしたのである。
「菩提寺」を形式上、別にする事は、「別の皇族賜姓族方の発祥」を「徳川氏の中」で唯一持ったから出来る「格上げの仕来り」である事を物語る。
「紀州徳川氏の始祖」のみならず、形式的には、この”3年の間の紀州藩藩主に成る前”か、更に、”3年後の紀州藩藩主に成った時”の何れかの時に、形式的には「紀州青木氏系徳川氏族」が「頼宣」に依って引き継がれたからである。
「本流立葵紋族」からの発祥の徳川氏である事により、「一代限りの継承」となる。
それでも徳川氏に取っては良かった。徳川に無かった弱かった「権威の創設」が成したのである。
後は青木氏等に依った「調停工作」に依ってその「創設した権威」を継承する事だけである。
それ以上の事は動き始めている以上は戦略的に不必要でむしろ好ましくない。
紀州徳川氏の中で、正式にこの「故事条件」を継承している者は居ないのはこの事による。

結局は、「紀州徳川氏」である事には変わりはないのであるが、将軍家を含む累代の徳川氏の中で「頼宣」だけが、故事に従えば ”最高位の身分と権威”を持った事に成る。
有名な「家光の妬み」もこの辺にもあったのであろう。
「将軍家光」と会う時、「将軍」と「紀州藩主」の身分で会うのか、故事に従う身分で会うのか問題と成る。

注釈
紀州では、徳川氏と会う時は、青木氏が上座に座る慣習であったから、これでは家光は将軍であっても全ての面で下位に置かれている事に成る。
従って、トップで在りながら、トップでは無いとする矛盾に対して耐えられなかったのであろう。
家光には「謀反」等と嫉妬する以外には無かったのだろう。
(由井正雪のご落胤事件の偽判が原因説で謀反を掛けられたとするが、これは調べればわかる事である。
口実に過ぎず裏意はここにあった。)

現実に、「伊勢青木氏」が「伊勢神宮参詣」で2代将軍の秀忠まで守られていたこの「故事に習う慣習」があった。
しかし、「賜姓族の伊勢青木氏」が「4代将軍」と会った時に、この「故事に習う慣習仕来り」の知らない将軍は怒ったが、家臣が窘める事で何とか納まった。
江戸に帰った将軍は「徳川氏の権力」に従わない「権力に勝る権威」の氏が居る事を知って、愕然として青木氏に対して、その後、敵対した態度(商いへの嫌がらせ)を一時採ったと伝えられている。
3代将軍の家光も将軍に成る前から、この「故事に習う慣習」を知って、それどころか、更には身内の兄弟の「頼宣」がこの「故事条件の立場」を持った事で、「権力<権威」が納得出来なかったのである。
何とかして「権力>権威」にしようとして「謀反」と云う感情に走ったが、「謀反」が成り立たなかったのは、「家康の遺命」が「頼宣」に引き継がれていたから手出しが出来なかったという事である。
「謀反」は、「将軍」より「上位の者」で、且つ「家康の遺命」を持ち、家康お墨付きの有能な能力を持つ者が居れば、自分は何時か「将軍の座」を”引き摺り下ろされる”のではと恐怖したのである。
現実にそうなる可能性が充分にあった。
「家康の夢実現」で青木氏等が背景に成っている「頼宣の周囲」が、「家光云々」は別として、「紀州藩ー青木氏」を中心に動いていたのは上記の通り事実である。
現実には、「頼宣」より「3代目の吉宗」の時に現実化したのである。
「尾張の継友」で「将軍後継者」は決まっていたものを途中で覆したのである。
「家康ー頼宣ー吉宗」の「夢の計画実現」が無ければ、何も覆してまで将軍に成らなくても可能である。
紀州藩の範囲で示現すればよいだけで済む。
しかし、それでは「神君家康の夢」の実現にはならない。
時期状況を見極めて幕府で実現で叶えようとするは自然の行動である。
これを家光が「謀反」とするかは判断の仕方見方の如何であろう。
「謀反嫌疑」の「江戸の10年間」はお膝元に置いて監視されていた「頼宣」は、”「徳川一族の重石」と成り、極めて慕われて、何事も相談お伺いを立てていた”と記録されている。
この「重石」が今度は、逆に「家光」には「目障り」と成り紀州に帰したのである。

注釈
(反対に家光は頼房と仲が良かった。ところが、家康はこの「頼房」が謀反を起こす性癖の持ち主として、水戸藩主にはしたが、遺命で27年間徳川氏を名乗らせなかったのである。
ところが頼房は逆にこの気は無かったから、家康からもその性格を信頼されていて、遺命で「朝廷工作」の「家興要領」に組み込まれていた皮肉な事が起こっていた。
故に、家光は頼房との差を隠すために「由井正雪事件の謀反嫌疑」を掛けたのである。)

”頼宣の孫の吉宗”が青木氏と強い結びつきを持ったかは云うまでも無く判る。
それは、上記した様に、”何故に「伊勢青木氏」が親代わりに成った”かは、又、その後の”「享保の改革」の事”、”紀州藩の勘定方指導の事”等も含めて、上記したこの経緯の事で充分に判る。
更には、祖父の「頼宣」の「形式上の出自元」と成ったからであり、「ABCの族」即ち、「賜姓族青木氏系藤原氏関係族徳川氏」であるからである。
「伊勢青木氏」からすると「吉宗」は「家康ー頼宣」の繋がりからも、又「一族の縁者」でもあった事に成る。

この上記に論じた「考察の問題」は、この「調停工作」の「権威付け」を「全ての青木氏」取り分け「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と「秀郷流伊勢青木氏」の三者がこれを容認するか、どうかである。
容認すれば、上記の”「長保寺」”が物語るものは解明できる。
当然に、密かに「調停工作」をしたのだから、青木氏は容認する以外には無いし容認しなければ意味が無い。
否定すれば「朝廷と天皇」が求める故事の「長者の呼称」「正二位官位」は消える。
そうなれば「徳川氏との軋轢」が決定的に生まれ、当然に「青木氏」は消滅する事に成る。
当然に、青木氏等の背景保護もなくし、天皇家のみならず朝廷は立ち上がれないほどに衰退していたと考えられる。
つまり、上記するこれらの権威を容認したのである。

「権力と権威」を主体とする絶対社会では、「子孫力」を作り出すには、”世に晒す事無かれ、世に憚る事無かれ”であり、「否定」は「自己の主張を世に前面に押し出す事」に成り、これは当に「晒し憚る行為」である。
そんな事は、絶対に青木氏はしない。それが長年の「青木氏の子孫力」の基と成る戒律である。

「長保寺問題」は上記した事の「青木氏ー徳川氏」の関係の度合いを一挙に解析出来得るテーマである。
仮に、「紀州徳川氏の菩提寺」を紀州に置いたとすると、一体”どう様になるか”である。
「伊勢」と云う「二つの故事」を継承している「伊勢青木氏」が、「伊勢」は古来より青木氏が定住している「天領地」であるからで、人は疑いなく信じるのであり、「紀州」では前は「藤原氏」を名乗っていたのが、今度は又「源氏」かと成る。
徳川幕府の様に、”権威を基本とした権力構造”の中では、人は信じないし、「権威」は低下し、「為政力」は低下し、末には、権力を押し付ける無理な構造が出来上がる。
結局は「政治体制の崩壊」に繋がる。
「賜姓族」の様に、この「二つの故事」を「紀州」で使えば、逆に疑う方向に周囲は働くが、折角の「権威獲得」は「水の泡」であり、「徳川政権」は「秀吉政権」と同じ様にそう長く無かった事に成ろう。



> ・> 青木氏の分布と子孫力
> >
> >
> >
> > > > [地域別分布力]
> > > > 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
> > > > 全国平均(全国単位 % 表ー1)
> > > > 地域      異変の県        分布力
> > > > 九州地方   長崎、大分       5%
> > > > 四国地方   高知           2.5% 
> > > > 中国地方   山口、岡山       2.5%
> > > > 関西地方   三重(筆者ルーツ)  14%
> > > > 東北地方   秋田           7%
> > > > 中部地方                 15%
> > > > 関東地方                 45%
> > > > 北海道・沖縄               6%
> > > > その他                   3%
> > > >
> > > > 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
> > > > 九州地方  1.3
> > > > 四国地方  1.3
> > > > 中国地方  1.3
> > > > 関西地方  4.7
> > > > 中部地方  4.3
> > > > 関東地方  11.3
> > > > 東北地方  2.0
> > > > その他   11.0
> > > >
> > > > 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
> > > >
> > > > 修正地域(表ー3)
> > > > 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1−7 三重 12 福井 4 愛知 13−7
> > > > 秋田 1
> > > >
> > > > 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
> > > > 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
> > > > 福岡  2   山口  0   愛媛  3     兵庫  3    三重  1
> > > > 長崎  0     島根  2   香川  1     大阪  14   石川  2
> > > > 佐賀  1     広島  3   高知  0     京都  5    福井  1
> > > > 大分  0     岡山  0   徳島  1     奈良  1    岐阜  3
> > > > 熊本  4                        和歌山 4    愛知  13   
> > > > 宮崎  2                        滋賀  1    長野  9
> > > > 鹿児島 1                                  山梨  1
> > > >
> > > > 域平均 1.25  平均 1.25  平均 1.25    平均 4.7     平均  4.3        
> > > >
> > > > 関東地方(45%) 東北北陸地方(7%) 沖縄、北海道地方(17.5%)
> > > > 静岡  5    青森  1      沖縄  1
> > > > 神奈川 21   山形  2      北海道 11
> > > > 東京  18    岩手  1
> > > > 埼玉  17    新潟  4
> > > > 群馬  6    秋田  0
> > > > 千葉  11   福島  4
> > > > 茨木  4    宮城  2
> > > > 栃木  8                                     
> > > >
> > > > 域平均 11.3   平均  2.0      平均  11.0  
> > > >
> >
> 青木氏の分布と子孫力−6に続く。


  [No.310] Re:青木氏の分布と子孫力−6
     投稿者:takao   投稿日:2014/04/20(Sun) 10:55:08

> 青木氏の分布と子孫力−5末尾
>
> 注釈
> (反対に家光は頼房と仲が良かった。ところが、家康はこの「頼房」が謀反を起こす性癖の持ち主として、水戸藩主にはしたが、遺命で27年間徳川氏を名乗らせなかったのである。
> ところが頼房は逆にこの気は無かったから、家康からもその性格を信頼されていて、遺命で「朝廷工作」の「家興要領」に組み込まれていた皮肉な事が起こっていた。
> 故に、家光は頼房との差を隠すために「由井正雪事件の謀反嫌疑」を掛けたのである。)
>
> ”頼宣の孫の吉宗”が青木氏と強い結びつきを持ったかは云うまでも無く判る。
> それは、上記した様に、”何故に「伊勢青木氏」が親代わりに成った”かは、又、その後の”「享保の改革」の事”、”紀州藩の勘定方指導の事”等も含めて、上記したこの経緯の事で充分に判る。
> 更には、祖父の「頼宣」の「形式上の出自元」と成ったからであり、「ABCの族」即ち、「賜姓族青木氏系藤原氏関係族徳川氏」であるからである。
> 「伊勢青木氏」からすると「吉宗」は「家康ー頼宣」の繋がりからも、又「一族の縁者」でもあった事に成る。
>
> この上記に論じた「考察の問題」は、この「調停工作」の「権威付け」を「全ての青木氏」取り分け「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と「秀郷流伊勢青木氏」の三者がこれを容認するか、どうかである。
> 容認すれば、上記の”「長保寺」”が物語るものは解明できる。
> 当然に、密かに「調停工作」をしたのだから、青木氏は容認する以外には無いし容認しなければ意味が無い。
> 否定すれば「朝廷と天皇」が求める故事の「長者の呼称」「正二位官位」は消える。
> そうなれば「徳川氏との軋轢」が決定的に生まれ、当然に「青木氏」は消滅する事に成る。
> 当然に、青木氏等の背景保護もなくし、天皇家のみならず朝廷は立ち上がれないほどに衰退していたと考えられる。
> つまり、上記するこれらの権威を容認したのである。
>
> 「権力と権威」を主体とする絶対社会では、「子孫力」を作り出すには、”世に晒す事無かれ、世に憚る事無かれ”であり、「否定」は「自己の主張を世に前面に押し出す事」に成り、これは当に「晒し憚る行為」である。
> そんな事は、絶対に青木氏はしない。それが長年の「青木氏の子孫力」の基と成る戒律である。
>
> 「長保寺問題」は上記した事の「青木氏ー徳川氏」の関係の度合いを一挙に解析出来得るテーマである。
> 仮に、「紀州徳川氏の菩提寺」を紀州に置いたとすると、一体”どう様になるか”である。
> 「伊勢」と云う「二つの故事」を継承している「伊勢青木氏」が、「伊勢」は古来より青木氏が定住している「天領地」であるからで、人は疑いなく信じるのであり、「紀州」では前は「藤原氏」を名乗っていたのが、今度は又「源氏」かと成る。
> 徳川幕府の様に、”権威を基本とした権力構造”の中では、人は信じないし、「権威」は低下し、「為政力」は低下し、末には、権力を押し付ける無理な構造が出来上がる。
> 結局は「政治体制の崩壊」に繋がる。
> 「賜姓族」の様に、この「二つの故事」を「紀州」で使えば、逆に疑う方向に周囲は働くが、折角の「権威獲得」は「水の泡」であり、「徳川政権」は「秀吉政権」と同じ様にそう長く無かった事に成ろう。
>

青木氏の分布と子孫力−6



・「伊勢の菩提寺と紀州」
徳川氏との関係の親密さは、紀州徳川氏の菩提寺が「伊勢松阪」にあって、且つ、「青木氏菩提寺跡」に建立し、「同じ青木氏菩提寺の寺名」を同じくし、古来よりの「賜姓族青木氏」の「伊勢」にあるこの「3つ要素」が最低でも裏付けてられている。
だから、”人はその権威を信じた”のであって、「紀州」に置いたとすれば、”人は無味乾燥と成り、「権威」の「故事の目論見」は消えうせた”筈で無理であった。
それが、「伊勢」であったからこそ、「故事に従った血縁関係」を「本流立葵紋」で成し得たのである。
否、成し得たから、「紀州藩の始祖」を祭祀する「長保寺」に「嵯峨期詔勅の禁令紋」の「笹竜胆紋」が使えたのである。
そして、家康の「浄土宗督奨令」(密教系と菩提寺方式を解除)に反して、わざわざ「密教排除の禁令」に反して、「密教浄土宗の寺」を建立出来たのである。
故に、この「二つの故事」の「禁令条件」を観て、その作り上げた権威を人々から信じられて使えたのである。
そして、この”信じられた影響が、徳川氏全体の行為に伝播して疑う者は居なくなった”ものである。
紀州の「民衆」、のみならず「家臣」までもが、全国の全ての民が、信じ疑わなくなったのである。
むしろ、「歴史の場」では、実際は、「徳川氏の出自」を暴かれているものの、以前は確かに「搾取偏纂」であったものであった。
しかし、それを払拭する様に、上記の「2つの故事」の事で、民衆を含む全ての人は完全に信じてしまったのである。

イ 「青木氏側」から観れば、この「本流立葵紋の青木氏」が、存在する限りは、最早、「搾取偏纂の域」を超えた「認められた正統行為」と成る。
ロ 「徳川氏側」から観れば、「本流立葵紋の徳川氏」を引き継いだ「頼宣」までの「一代限り」では、「搾取偏纂の域」を超えた手続き上では、確実に「正統な賜姓族」で「源氏の末裔孫」と成る。

このイとロの「二つの考察事」を捉えれば、徳川氏の他の直系一族(宗家と御三家)も、心情的には、「源氏末孫」を名乗る事は、「頼宣の事」を捉えて、”「仕方無い」”ともなろう。(前は藤原氏だったから。)

注釈
(「頼宣」の名は、そもそも、「清和源氏」の分家河内源氏の始祖「頼信」から来ている。
「頼宣」の「2つの故事の条件」を取得した事からこそ、「嵯峨期詔勅」に従って、始祖とする「頼信」から、「頼宣」の河内源氏の「通名」を使えたのである。
「頼将(よりのぶ)」から一度は肖って同名の「頼信」にしたが、最後には「2つの故事」の完成に憚って「頼宣」にした経緯である。
この経緯から観ても、上記の「調停工作」と「家興要領」での成功裏の「笹竜胆紋と密教浄土宗」の取得が、どれだけの影響を徳川氏に与えていたかはよく判る。)

「頼宣」の孫の「吉宗」が、「8代将軍」と成って「徳川宗家」に成ったとすれば、”一代限り”とは云え、形式上は「直系孫」となった。
その限りは、「二つの考察事」から観れば、「賜姓族」系と成ったと見做される。
形式的には「男系の血液上の繋がり」は無いが、「徳川宗家」(田安氏、保科氏等)は形式上からすると「未勘源氏」並みと云う事に成るだろう。
前は「搾取の藤原氏」であったが、今度は何とか「源氏朝臣」は名乗れるし、「青木氏」と「朝廷と天皇」はこれを確実に容認する。

これは「伊勢青木氏」等に対する親密な行動で動いた”「家康ー頼宣の戦略」”が功を奏したと成る。
これだけ、”「徳川氏の全氏」に影響を与えた功績”でも、「家光」は「頼宣」により嫉妬するであろう。
「征夷大将軍の権威」の条件が、「調停工作」の「家興要領」に基づく搾取的行為であっても、万民に信じさせて「将軍の権威」を創出したのである。
仕事でも「長保寺」の如くに、名声を挙げた事は、エレベータの様に押し上げられた「家光」には到底出来ない事であり、叶わない事であろう。
この「頼宣」は、「家康の意志夢実現」の為に、鍛えられたからこそ才能を発揮したのである。

(青木氏の上記した「経済学」は、それは其れなりにこの事とは別の行動であるが、「頼宣の才能」の条件が整ったからこそ吉宗までの成功を遂げられたのである。)


更に重ねて次ぎに考察する。
そもそも、”日本全国広し”と云えど、これらの「歴史的な事柄」を論じられるのは、「関係した氏」としても、「資料保全」からしても、「青木氏」だけである。
中でも「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と「讃岐青木氏」と「秀郷流伊勢青木氏」と「近江佐々木氏」とに限られる。
この5氏が保有する資料から、この様に考察して論じなければ、「歴史の表裏の実態」は、絶対に解明できないし、消え去る憂き目を持つ事に成る。
「青木氏氏のサイト」だけの「徳川氏の江戸初期の行動」を解明できる資料である。
更に、この事は、当に「青木氏の伝統」であるので、解明の為に論じる事を続ける。
「青木氏の分布と子孫力」のこれらの「青木氏の行為」は「大変な子孫力」に大きく関わるからである。
ただ、筆者は ”世に晒す事無かれ 何れ一利無し”の戒律の姿勢は崩さない。
(注記 この論文は青木氏の範囲に留める。その心算でお読み頂きたい。)

さて、そこで、上記の事で論じ得られた筈ではあるが、青木氏だけが成し得る事として、放置すれば消え去るのみであり、出来得る限りの論調を論じて置きたい。

・「紀州藩と青木氏」
更に、「長保寺」以外に次の事が更に証明している。
この時以来、「頼宣」との「再三の談合」が持たれ、「伊勢青木氏」は「頼宣」に対して、南画絵画、俳句、禅問答、歌、茶道、書、商学、殖産学」等を指導した。
又、「藩主の話し相手」として以後、接する事と成り、この状態は江戸初期から大正14年まで代々の藩主に続いた。
この為に「12人扶持米」の「礼米」を支給し続けられた。(明治期まで)

この時のこの「付き合い」の中で、「伊勢青木氏」は、”「頼宣」に、「家康」と同じく「蝦夷地開拓」の必要性”を解き推奨した様である。
「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」はこれに関わっていた事が文意から読み取れる。
故に、この話を1600年前頃に「伊勢青木氏」から受け、堺などで見識を広めた「家康」が、「松前氏」に「蝦夷地交易権」(1599年)を与えた。
そして、続けて「讃岐青木氏」には、「外回りの蝦夷地からの新規廻船」(1600年)を同時に許可しているのである。

注釈
(上記した様に、「伊勢青木氏」は、「家康との親交」は、資料とは別に、正式には「関ヶ原」(1614年)以来からであった。
信長が光秀に討たれた時にも、「大阪の堺」に家康は居て、「堺の青木氏屋敷と店」等でも親交を深めていた状況であったことが口伝にある。
その「光秀謀反」を知った「伊勢青木氏」は、「伊勢シンジケート」に連絡を取り、その後、伊賀上野経路で逃亡し、伊賀館まで何とか辿り着いた。
この時、「伊勢シンジケート」が周囲を固めて護った事が判っている。)
この後、幕末までこの「付き合い」から、伊勢青木氏の四家(伊勢郷流青木氏含む)は、 ”「紀州藩の勘定方を指導する事」”は何度も続いた。
しかし、上記した様に「家康の時」は勿論の事、「頼宣の時」、「吉宗の時」、「幕末の時」の3度の事は詳しくよく伝わっている。
筆者までは口伝でも物語風でよく伝わっている。

(「伊勢秀郷流青木氏」とは、「本流立葵紋の青木氏」「宗家葵紋の青木氏」の「伊勢末裔四日市殿」である。
「四日市殿」を含めて「四家」は「伊勢青木氏の総合商社」を一族で運営していた。)
この時の「信濃青木氏」と「讃岐青木氏」の「徳川氏への貢献具合」のより詳細な資料が不足で掴めない状況である。伊勢青木氏側の遺資料だけで、消失した模様。)

「頼宣の時」には、「伊勢青木氏」の指導の下で「交易船」を建造している。
この事は「家康の意向」の基に「蝦夷地開拓」を含む交易を先んじて始めた事を意味する。
そもそも、「交易船」を作っても、創藩したばかりの「紀州藩」には、元々このノウハウが無い。
これを「伊勢青木氏と讃岐青木氏と信濃青木氏」が指導して直ぐに交易した事が商業資料から判る。
商業記録から、紀州と信濃と安芸ー讃岐の殖産物の取り扱いの記録から読み取れる。
指導した内容として、交易するには「海産物や農産物の買い集め」から、それを「大量に生産する殖産態勢」、「売買の交渉技術」、何よりも「大船の操船技術」と、その「運送技術」を獲得しなければ出来ない事であ。
これはノウハウと経験の無い紀州藩が、独自で一朝一夜で出来る事では無い。
況して他藩から来た官僚の家臣では尚更である。
この「3つの青木氏」が関わっても、この「システム作り」では相当に苦労する筈である。
この事は交易の事に付いては、「家康」も充分に知っていた筈で、これを「伊勢青木氏」から知り指導を受けたのである。
恐らくは、名義上は、「紀州藩」として「代表家臣」を載せ、「伊勢青木氏か讃岐青木氏や信濃青木氏」から送り込んだ「各種の職能集団」(青木氏か抱えていた「2つの絆青木氏」)が運用したと観られる。
「吉宗の享保の改革」の段階までは、「宗家葵紋の青木氏」と「本流立葵紋の青木氏」等の「四日市殿」を含むこの「3つの青木氏」は、商業記録などから「総動員」であった様子であった。

注釈
(この時の「伊勢秀郷流青木氏の宗家」の動きの記録が、「秀吉の伊勢攻め」の時と、明治の「伊勢の2度の大火」で消失していて掴めない。
ただ、天正期に於いて秀郷一門の同族で伊勢の「伊藤氏」との同族血縁関係を持っている事、更には、この融合の「伊藤氏」と「伊勢賜姓青木氏」との”「血縁の繋がり」の記録”が残っている事。
この2つ事から判断して、これらの”何回かの縁組”が起こっている事は、江戸中期以降も「伊勢秀郷流青木氏」とは、依然として緊密に繋がっていた事が判る。
実は、筆者の継祖母も、この伊藤氏の宗家の娘である。明治期までは何度も血縁していた事が判る。
この「伊勢秀郷流青木氏ー伊勢賜姓青木氏ー伊勢の伊藤氏」のより強固な関係が構築されていた事が判る。 
何故、この「悠久の歴史」を持つ「2つの青木氏の関係」に同じ悠久の伊藤氏が入ってきているのかと云う疑問である。

そして、ただ、「伊藤氏」がこの「3者の関係」の中で ”どの様な働きをしていたか” は実のところそこまで研究が進んでいなくよく掴み切れていない。
若干の資料はあるにしても、推測の範囲として述べると、「信長と秀吉の伊勢攻め」の為に、互いに結束した事は記録から間違いない事が読み取れる。
「長嶋攻め」「北畠攻め」等の資料、青木氏のこの「伊勢攻め」の資料から互いに合力した事が判る。
その直後の上記した「家康の調停工作と家興要領」の完成遂行の為に、「関東の秀郷宗家との調整」の”「役目の一部」”を担ったとされる節がある。
実は、この事を物語る事として、ここにも「大きな繋がり」を持っていたのである。

前段で論じた「宗家葵紋の青木氏」の始祖母で、頼房の側室の「那那の実家先」(実家先では「弥弥」)の父は、「藤原准尊昭玄」 興正寺住職 顕如の孫 兄弟に「皇族賜姓族青木氏」の菩提寺系同門の住職と成っている。
(寺名は個人情報により不記載とする。)
「藤原氏の格式」と、更には、「菩提寺住職」でも「青木氏との繋がり」が、重複してここでも繋がっていたのである。
つまり、何とかして、「朝廷と天皇」を納得させ文句の出ない様な縁籍を構築しようとした事が判る。
この「重複の繋がり」は、放って置いて出来上がるものでは決してない。
誰かが強力に押し進めない限りは起こらない。
では、伊勢の「2つの伊勢青木氏」と「徳川氏」だけでは、「格式」と「繋がり」から観ても、この「那那の縁籍」は成し得ない。
これを「押し進めた者」「取り持った者」が必ずいる。
筆者は、それが、”伊勢の伊藤氏であった”と観ている。
実は、伊勢の伊藤氏の出自関係を観れば良く判る。
「5家5流皇族賜姓族青木氏」の「菩提寺系の同門寺の住職」(萩)に繋がっていたのである。
「伊藤氏」は、「伊勢秀郷流青木氏」から依頼されて、この「伊勢青木氏の菩提寺」の「同門寺系の住職」(萩)の弟を通じて、父の、「藤原准尊昭玄」 (興正寺住職)に「姉の婚姻先」として「徳川氏の頼房」に政略結婚先として嫁がせる話を通したと観られる。
伊藤氏はこの住職との繋がりを持っていた形跡がある。
「伊勢賜姓青木氏」は「近江賜姓佐々木氏」(勝姫)に、「伊藤氏」は萩の同門住職に話を推し進めたのである。
「伊勢賜姓青木氏」は、「菩提寺同門寺系とは云え、格式上はこの同門系寺は下位に位置していた事から勧められなかった。
そこで、「伊勢の伊藤氏」に仲介役を依頼したと云う事に成る。

輪の様に「繋がり」が出来る程に「調停工作」は進められていた事が判る。

(伊藤氏 :秀郷より 第1子千常系文行流    始祖9代目基景 詳細は別途 興正寺住職准尊は北家藤原氏文行流神職系)
(伊勢秀郷流青木氏:第3子千国系兼光流    始祖 秀郷祖祖父藤成ー秀郷ー千国ー兼光

(「2つの絆青木氏」に付いては、「神明社守護神」のところで詳しく論じている。現在の伊勢の玉城市の全域は青木氏のこれらの職能集団の長屋や家屋と蔵群であった。)

この様に、「伊勢青木氏と徳川氏の付き合い」は、「只の付き合い」では無く、殆ど一体化していると観られる。
「12扶持礼米」は「伊勢青木氏」に於いては「糧」ではないが、「礼米」の形で受け取っていた事に成り、「礼米」の「受給の意志」がそれを全て明らかに物語る。

「天保の飢饉」の頃には、「藩財政」を立て直すために幕末の時まで「勘定方」に、伊勢より人を廻して無給で専門に指導していた事が判っている。
この中でも面白い事が書かれていて、幕末に”「坂本龍馬の船」を「紀州藩の船」が「操船ミス」で沈めて「高額の賠償金」を払った事”が記されている。
(坂本龍馬の「海援隊の記録」からも同じ事が記載されている。)
それでも藩財政は立て直したと成っている。

「吉宗の将軍に成る経緯」には、上記の様に、「青木氏」と「紀州藩」が絶対とする「祖神・神君の家康の意志」を引き継いで、「藩財政の改革」を実行していると云う事があって、「幕政改革の議論」にも終止符を打ったのである。
これを裏では「伊勢青木氏ー信濃青木氏ー讃岐青木氏」等は、幕臣と成っていた関東の「藤原秀郷一門」らを味方に引き入れて、「吉宗」を「将軍の座」に押し上げたのである。
この「吉宗」は、「家康の意志」を次いで「改革実行」の為に、幕臣の6割を紀州藩から採用し、旧幕臣を徹底的に排除して、「藤原秀郷一門」の多くを上級家臣として引き揚げて、「計画実行の態勢」を固めた。

尾張藩も三井家等の「江戸の豪商」を背景にしていた事が、「尾張藩の町づくり」が越後屋を始めとして「民間の豪商」らの力によって成された事が記されていて、この事でも判る。

紀州藩は、「質素倹約」で「出」を抑え、「各藩の力」と「瀬戸内族の力」と「民間の力」との3つの力で、「蝦夷地等の開拓」を成して「開拓の利益」や「交易金」や「運用金」や「献納金」で「入」を高めて、収支の「出と入の収支差」を最大に高める「財政改革」であった。
家康はそもそもこれを目指していたものである。
(紀州藩と享保の幕府と伊勢青木氏等は「リフレ政策論」であった。

注釈
(デフレとインフレの丁度、間をくり抜ける経済政策論。
この江戸期は、丁度、地球の気候変動が大きくなる「300年周期」の中の「100年期」に入っていた。
江戸時代はこの気候変動に依る影響で大飢饉が多発していた。
この為に、物価が値上がりし、激しいインフレの状況に陥っていた。
経済力が低下する現象が起こる等のインフレ現象の中に、逆に社会は疲弊して購買力が低下するデフレ現象も片方で起こる等複雑な経済状況であった。
この為に、幕藩財政も悪化して崩壊寸前の状態に陥っていた。止む無く年貢の「五公五民の増税」に踏み切った。
これが「享保の改革」の「リフレ政策の効果」を低下させた大きな原因と観られる。
この「リフレ政策」とは、「出」を抑え「入り」を高める「中間政策」である為に「大きな増税」は「禁じ手」である。
この「入り」を高めるには、「増税」では無く、「交易や殖産能力」を高めての「入り」でなくてはならない。
それを「交易や殖産開発」をしながら、一方で「増税」もした為に、「入り」が高まり過ぎて、「出」の収支差が確かに良くなった。
一方で「出」の「質素倹約令」と「増税の令」とで、「フラストレーション(不満)」が社会の中に起こったのである。
そこで、「五公五民の弊害」に対して、これを何とかしようとして、吉宗は「米将軍」と称されるくらいで、自らの判断で、基幹の米相場の操作を実行した。
しかし、操作に依って起こるリスクヘッジに合い失敗した。

しかし、ここで疑問点がある。
「伊勢青木氏」は、増税は「禁じ手」ある事を知っていた筈であるし、「リスクヘッジ」も商人である以上は常識で知っていた筈である。
しかし、行われた。ただ、米相場のリスクヘッジは「相場の操作」を元に戻す事で解決するので問題は無い。
現実に慌ててその様にした。
問題は、「五公五民」の「増税」はありながらも、強い「反対勢力」を抑え込む為の「モデル実験の紀州藩」では成功した経済改革である。
”一体、何が幕政で違ったのか”である。
そこで「青木六左衛門」を始めとするグループは、原因を考えた。
一つは、「交易と殖産開発」の「入り」の違い差。
二つは、「出」の「質素倹約」のレベル差。

彼らが調査した原因は、「二つ目の累進性」であった。つまり、「出」の「累進性」であった。

江戸の「六左衛門グループ」は、「紀州の改革」に取り組んでいた「紀州班グループ」に問い合わせた。
その情報の分析で「出の累進性」の事を知った「六左衛門」は、その原因を吉宗に慌てて進言した。
その大元凶は、「女の園」の「大奥制度」であった。
「紀州班グループ」では、前段−5で論じた様に、「頼宣の比丘尼山の制度」が「仕来り」として引き継がれていた事であった。
「紀州班グループ」の指摘で、代々藩主の「女系家族」は、例外なく「還俗制度」を採用していた事であった。
「頼宣の比丘尼山」に習って「還俗制度」を「勘定方」を指導する立場として厳しく指導したのである。
この事を知った「六左衛門グループ」は、紀州と江戸の「大奥」の差が、藩と幕府との「出」の比例的な関係に無い事に気づいた。

「紀州:幕府」は「1:15」の関係にあった。しかし、大奥では「1:120」の関係であった。
当然に、これでは「比例関係」での「質素倹約」での効果は出ない。
(累進性は「比例線」では無く、「放物線」の形で働く。商で培った知識を持っていた「六左衛門」等はハッと気が付いた。
紀州の大奥は、30で、1:15とすると次の様な事に成る。
経済学では、比例30:450に成るに対して、先ずこの450に対して第一段階の累進性が働く。
ところが3500(450)で、本来あるべき数より約8倍である。
この関係から幕府大奥の出費は、累進性が働く為に、より450+累進率量以上の出費を、先ずは抑えなくてはならない。
しかし、更には、この8倍の数であるから、その累進性は放物線であるから比例線からその差は大きく離れて行く。
その8倍であるから「膨大な数字」と成る。
「紀州藩並」に成功させるには、この”「膨大な数字」の出費”に対しては絶対に抑えなくてはならない。
実質、”将軍7代までの全ての「女系家族」”が大奥に存在して貯め込んでいた。
これが元凶として大改革を吉宗に迫った。
吉宗は、「六左衛門の指摘」を猛烈な反対を受けながらも直ちに実行した。
そこで、吉宗は反対派に対して妥協して、1/3の1000人程度まで削減した。
(絶対条件は450以下必要)
しかし、紀州藩は「実質0ベース」である。この差を解決しなければ、「累進性」は解消しない。
そこで、困った「六左衛門グループ」は、「次ぎの手」(下記)を吉宗に提案した。
それは、大奥の「出」の元凶は、正室と男系の子供は別としても、「側室」と「姫娘」にあるとして、次ぎの提案を進言した。

イ 「無役の側室」を家臣などに転嫁する事。
ロ 「役済の側室」は「家」を興して「独立性」を持たせる事。
ハ 「将軍の家」は「別家」を興して「独立性」を持たせる事。
ニ 「役済側室と無役側室」を紀州藩に習って「比丘尼制度」を設ける事。
ホ 「上級武家からの側室」は実家に戻す事。
ヘ 「将軍に成る藩主」の藩は廃藩にして、全て家族も含めて「江戸詰め」にする制度を中止し,そのままに残す制度にして独立性採算制を敷かせた。
ト 「無位無官の側室」の姫娘は「許婚制度」によって家臣に婚姻させる事。

以上を実行したのである。

禁じ手の増税は、この様な累進性の改善で何とかバランスが取れて解決した。
(江戸時代の全ての改革は、この「享保の改革」の「リフレ政策」が見本と成った。
252年中に「8つの飢饉」があった事に依る。単純平均すれば何と1回/32年間の高頻度である。
回復したと思えば”又来た”と云う感覚であった。それだけに「専門的な改革」が必要と成る。
「吉宗」は「育親許」と成った豪商「伊勢紙屋長兵衛」の「六左衛門グループ等」を引き連れて将軍と成った。)
それだけに、これは、「六左衛門グループ」(累進性の失敗)の明らかな「沈痛な失敗」であった。
恐らくは、「宗家葵紋の青木氏」と「本流立葵紋の青木氏」は、その「裏調査と研究」に懸命と成ったと考えられる。
この事から得た知識が、吉宗大御所の専門家ブレーンとして「享保の改革」の「最後の詰め」として実行した。
この事が、江戸252年期間中の改革の中で、唯一成功裏に導いた最大の要因であった。
裏を返せば、、危険を孕みながらも「宗家葵紋の青木氏」と「本流立葵紋の青木氏」を江戸時代に子孫を遺せた最大の要因であった事に成る。

しかし、米相場だけは「吉宗の判断」であった事が、後から発見された「吉宗独自のメモ資料」から判明した。

これで紀州藩との比較の累進性は、改善に向かって「享保の改革」の幕府財政は改善された。

注釈
(公的に書かれている吉宗資料には、「伊勢青木氏の貢献」は出て来ないが、吉宗と関わった伊勢青木氏のものからは上記の事が判明する。)
そもそも、勘定方を指導したとするが、一族を総動員して家臣で無い為に「無償」で改革を進めた。
”世に晒す事ならず、何れ一利無し。”の戒律から、「不記録」を行動規範としているので、徳川氏の資料の中には出て来ない。
「青木氏の中」と「近江佐々木氏」の中にのみ断片的に記載配慮して遺される事に成る。
そもそも、”何故、「近江佐々木氏」がこの情報を青木氏と同じく掴んでいた”のかは「重要な事」でもある。(下記)
その接点があった。

前段−5で、「頼房」の「側室の勝」の出自は、同族大化期の「近江佐々木氏」であって、その「姫娘A」が「本流立葵紋の青木氏」の「発祥母」であった事を論じた。
ここで、繋がっていて同じ事が記録されたと考えられる。
「近江佐々木氏」の始祖「川島皇子」と「伊勢青木氏」の始祖「施基皇子」は兄弟で、共に第6位皇子、第7位皇子として賜姓を同時に受けた「皇族賜姓族」である。
故に、「近江佐々木氏」の資料には「青木氏の事」が多く遺されている。
「近江佐々木氏」の方から筆者の先祖が頂戴した非売品の資料本である。

兎も角も、そもそも、”改革を進める”と云っても、家臣の権限を持ち得ていない。
然すれば、幕臣を先ずは説得しなければ成せられないし、何事も成し得ない。
「吉宗の背景」があるとしても、「直接権力の行使」は反発を招く。
其れこそ、”世に晒す事無かれ、何れ一利無し”を間違いなく招く。
「六左衛門の能力」の「差配の能力の有無」が大いに問われていた筈である。
ところが、事件を招いている記録があった。

実は、「近江佐々木氏の資料」によると、”吉宗に同行したこの「六左衛門に近い人物」の「若い者」が、「享保9年」に、江戸で「小普請の役」の途中で、「不慮の事故」で死亡した。”と云う事が記録されている。
この”「不慮の事故」の記述”は、間違いなく ”反対派の襲撃を受けた”のではないかと筆者は判断している。
説得の為の調査や資料つくり等の事務方の仕事、交易などの準備の実質作業、上層部の説得の為の交際、時には実務の代行をしなくてはならない。
この作業に大変な危険を孕んでいた事がこれで充分に判る。
この「危険」のみならず、この為の「膨大な出費」、「一族の生活費」、「家人の人件費」を捻出するのに、恐らくは、伊勢青木氏の経済力(200万石相当)に「相当な歪」を興していた事が判る。
これは好き好んで出来る事では無い。

この時期の商業記録や遺産文書から観て、その「生き様」が読み取れる。

何故、近江佐々木似の資料にこの記述があるのかは、一つは、青木氏側には外の公に成った事に付いては戒律で記録を遺せない。
しかし、近江佐々木氏にはこの戒律事が無い。故に記録の遺した。
”遺した”と云う事は、一般市民は兎も角も「幕府内」では「有名な事」であった事に成り、「近江佐々木氏」と徳川氏との間に何がしかのパイプがあった事から同族の事件を記載されて記録として遺されたと成る。
では、その「パイプ」とは、”何処にあったのか”と云えば、上記する様に、「江戸詰めの頼房」の「側室の勝の方」(姫娘Aを出した)の「佐々木氏の家臣」から入手した情報である事に成る。
身内の「姫娘Aの嫁ぎ先」の末裔が事件に巻き込まれたのである。

恐らくは、この様な危険に満ちた改革を進める青木氏には徳川氏からの支援は公には当然に無い。
その中で、「宗家葵紋の青木氏」と「「本流立葵紋の青木氏」は、「江戸での人命や経済力」で”江戸での子孫拡大”に大きな影響を与えていた事が理解できる。
上記した様に、「紀州での礼米」(12人扶持)はあったが、「六左衛門」の「江戸での礼米」の「援助記録」が発見できない。
(吉宗は率先して「綿の着物」で通した。)

注釈
その後、「六左衛門」は、この後、”「享保の改革」を始末した後、息子の慶次郎に跡目を引き継いだ”とある。
これは吉宗が将軍を息子に引き継いだが、この「吉宗の世継ぎになった息子」には言葉の言語発言に問題があった。
そこで、大御所として実権を握っていたのだが、この為に、「六左衛門」は隠居したが、息子が引き継いで「大御所の吉宗」を支えたと記されている。
この六左衛門の息子慶次郎も役目を終えて、伊勢の記録では江戸に「末裔」を遺したと記されている。
しかし、「佐々木氏の資料」では、”江戸に子孫を遺して、江戸から離れて伊勢に戻ったと成って居る”と書かれている。
この意味合いが不詳であるので、調査をした。

筆者の調査では、江戸近郊に”笹竜胆家紋とする青木氏”は確認できない。
しかし、後刻、「調停工作の論文」で、調べ直した結果、江戸に残った末裔は、伊勢の記録では、「四日市殿の末裔」の事である事が判った。
つまり、親族の「宗家葵紋の青木氏」と「本流立葵紋の青木氏」とである事が判った。
その内容(江戸の歴史書)では、この末裔には、大御所時代に、引き続き”準家臣的な立場”と観れる扱いで続けて仕えたとある。
「「立葵紋の青木氏」は、「小普請組頭」で、「宗家葵紋の青木氏」は、”「小納戸役頭」として働いた”と記されている。
何れも「礼米300俵」を賜ったと記されている。

この事から、殺されたと観られる若者は、「小普請組」の「宗家葵紋の青木氏」の一族の者である事が判る。
何れも「御家人扱い」の「布衣着用の許し」を特別に引き続き受けていた事も書かれている。
「江戸の青木氏グループ」の組頭は、「布衣着用の高位の身分:将軍に対し発言権を持った大大名格以上」であった。
この事からすると、明らかに反対派の「他藩の大名藩主の命」を受けての「狙撃」であった事が判る。
この様に、危険ながらも「四日市殿末裔」は、江戸に残り子孫繁栄を果たした事が判るのである。
これは六左衛門の「笹竜胆紋の松坂殿」は、「不入不倫の大権」で保護されている事から別にして、「立葵紋の青木氏」と「宗家葵紋の青木氏」にはこの様な危険を孕んでいたのである。
「葵紋文様類」と云う事から来る反発:紀州藩を除く松平一族の反発が宿命であった事が判る。

「狙撃の原因」は、上記した「厳しい経済改革」が原因していたのである。
又、”狙撃される”と云う事は、”「改革」を裏で主導していた事”を物語る証拠でもある。
この改革は、資料には、”幕臣のみならず各藩の家臣までその「影響の余波」として浸透して行った”と記されている。
それだけに、”城に居る葵紋の者”と違い、”市中に自由に姿を現して出て来ている「葵紋系」”には、大きな危険を孕んでいた。

参考
(江戸時代300年はこの「300年周期」にぴったりと入っていた。この300周期の100年期間隔で大きな気候変動が起こるデータと成る。)

注釈
(「比丘尼僧」に付いて、これは梵語で「比」と「丘」を音韻で日本語にした言葉、意味は女子が僧に成る際に、あるいくつかの「戒律」を守らねばならないとした。
その「戒律」は「具足戒」と云うもので、具足=旅の意味 全国を「布施行脚」で生活に困った場合の「売春行為」等を「戒め」として禁じたものである。
日本では、この言葉は室町末期に使われ、「比丘尼」と云う言葉として全国に広まったのは江戸中期頃である。
しかし、「頼宣の比丘尼山」は江戸初期で、そま前からこの山は「比丘尼山」と呼称されていた。
「比丘尼」が使われた頃と一致する。
本来は、純然たる布施に頼る「行脚尼僧」の事である。
しかし、世俗から、江戸中期頃から生活苦から、この「売春戒律」を破る尼僧が出たのである。
そのことから、俗意は、”尼僧の姿をした売春婦”の意味として使われる様になった。
この「行脚尼僧」は、「山寺」にて密かに売春行為をした事から、比(戒)の丘(山)の当字となった。
この事から、この江戸初期の「頼宣の比丘尼山」から、この言葉が江戸中期頃に全国に広まったと観られる。
江戸初期は、未だこの「売春」の意味は無かった為に、「比丘尼山」と名付けられたと観られる。
しかし、その後に、「行脚尼僧」には飢饉から布施行為が無くなり、止む無くこの行為が目立ったために汚名の呼称と成ったと観られる。
故に、この「頼宣の比丘尼山」は布施行為による独立採算の寺でもあった。
その為に安定しない生活苦から売春に走らない様に、これを取り締まる為にも、厳しく下界とを遮断したと観られる。
その為に、わざわざ世話役の「寺元」を作り、「生活の保護」と「食の保護」を「地元の善意」で維持したと観られる。
江戸中期から末期まで、乞食の様に、「食と衣服」などはかなり瀕していたと地元の口伝で伝わる。
江戸中期以降には、「売春」は密かに行われていた事も考えられる。この尼寺は大正末期に無くなった。
この「山寺」は、藤白浜の入り江の突き出た先端の小高い丘の上にあった。
その丘の周囲は鯔場(いな)と云う小さい池程度の山の真水と海水の混じる湖に囲まれている「孤島」の様な地形のところに立っている。)

これも、「紀州藩の質素倹約の厳しい実行の例」である。
これを観ると、紀州藩は徹底していた事が判る。
これに比べて幕府は安易であった事を「六左衛門」は知ったのである。
祖父の尼寺として、吉宗もこの「比丘尼山」は充分に事の重要性を知っていたから、上記の提案に応じたのである。

そこで、「デフレとインフレの現象」が起こる中で、この「二つの経済政策」の間の「安定政策」を採ったのである。
つまり、「リフレ政策」を採ったのである。論理的には正しい。
デフレの方に舵を切れば更にデフレに、インフレの方に舵を切ればよりインフレになるは必定である。
問題は、その「政策の如何」に関わることであった。
そこで考えられたのは、その政策が上記した「前段−4」に論じたものであった。
しかし、この時、当然に激しい反対論が継友らの尾張藩から出た。
「将軍継承問題」の遺恨も重なって、幕臣を巻き込んでの収拾の就かない状況に成りかけていた。
そこで、吉宗は、紀州藩の勘定方を指導している伊勢青木氏に対して、指示をだした。
「吉宗と六左衛門」は、「リフレ政策の実証」を証明する「モデル藩」として、在藩中と同じ様に「改革」を続けて促進する様に督促したのである。

注釈
(伊勢青木氏等は、[総合商社]であった為に外国との交易から、この「気候変動説」を承知していたと観られ、尚且つ、この「リフレ政策」を採ったと観られる。)

そこで、「蝦夷地開拓」を各藩に対して奨励し、又、幕府自身も「新田開発」と「殖産開発」を積極的に行った。
(新田開発では、合わせて、より強化するために「流地禁止令」を採用した。)
「蝦夷地開拓」は、当に「新地」を開墾し、そこに「殖産」を根付ける両方の目的を持った「大プロジェクト」であったのだ。
家康が青木氏等から教えられて「目標」としていた考え方であった。
「新地開墾ー殖産事業」政策であった。
これを「吉宗」が”「幕臣」にせよ”と命じてもその経験とノウハウが無ければ動かないし動けない。
しかし、動いたとする事はその経験とノウハウを吉宗の「裏の背景」にあった事を示す。
又、吉宗もこの裏の背景があるから、自信を持って命じる事が出来る。
そして、吉宗にも、青木氏に商業を鍛えられて紀州藩でも「青木らの裏の背景」と共に「小さい改革」ながらも成功裏に治めていて、他藩から尊敬されていて「裏の背景」に「羨望の念」があった筈である。
大いに自信を以って臨んだと観られる。其れに周囲は圧倒された事が外に出ている資料からも覗える。

それを100年後に「吉宗の紀州藩」が率先して「家康の夢実現」に向けて、「範例外の御三家」では、無理を承知で、既に決まろうとしていた「将軍の座」を巡って果敢に挑戦して行ったのである。
結局は、周囲は、「尾張藩の継友」の考え方よりも「紀州藩の吉宗」が実現させようとする「祖神」や「神君」と崇められる「家康の夢実現」の方に突然に傾いたのである。

この「家康の夢実現」の為には、これを確実にする為に、経済学上は、吉宗等は「経済の流通の基幹」となる「3つの安定化策」(物価と米価と貨価=三価政策)を実行しなければならなかった。

この「3つの安定化策=3価政策」に対して尾張藩の継友は、将軍に成れなかった腹いせのことも含めて、猛反対して余りの口惜しさの捌け口として、藩主として「媚態行動」を取り、批判を受け信用を無くしたのである。
更には、「尾張藩の景気」は、「国政」でのレベルでは無く、「藩政」の範囲として跳ね除けられ、且つ、「紀州藩の改革実証」(青木氏指導)で、その論調の裏付けを失い、終局は立場を失って結局は蟄居となった。

この様に「将軍擁立」にも個人資料の「積み重ね説」として、記録の裏側では ”「青木氏の活躍」” があったのである。
この事から観ると、「青木氏の子孫力」は伊勢の一族一門の総力で、「一氏」が幕政を動かしている力を持つ「子孫力」であった。

・「瀬戸内族と讃岐青木氏」
瀬戸内族の「江戸初期の外回り廻船の開設」は1600年前後に家康の命に似て行われた事でもあり、その「技術の優秀さ」から「明治初期後の海軍の操船技術採用」があった事は有名で、「瀬戸内族」が全国に定住移動して、この「瀬戸内族の操船技術」も全国に普及された事を意味し、その「瀬戸内族の優秀さ」も認められていた事を明確に物語るものである。

「家康」も「瀬戸内族の優秀さ」は、「伊勢青木氏等」からも紹介されて承知していた筈で、且つ、歴史書にも「純友の乱」の事でも認知していた筈である。
それ故に、全国から「瀬戸内族の廻船技術」のみならず、それと連動した「瀬戸内の海産物の殖産技術」とその「商法・販売方法の優秀さ」の「総合力」が有名を馳せて認められていたのである。
むしろ、筆者は、関ヶ原から付き合いの中で、「伊勢青木氏ー瀬戸内族の関係」の「総合的な仕事」ぶりを観て知って、「家康」はこれを見本としたと観ている。
上記した、紀州藩が主張する”「殖産政策と新田開発」の連動策”には、この「家康の見識」を通じて優秀な頼宣から紀州藩に引き継がれて行ったのである。
故に、家康から一番に信頼されていた優秀な「10男の頼宣」を以てして「紀州藩主」にしたと考えられる。「頼宣」しか「家康の意志」を「示現できる人物」はないと考えた事に成る。

上記の「吉宗将軍擁立」には、簡単に将軍に成ったのではなく、この「瀬戸内族の事」は幕臣にも周知されていて、それだけに「紀州藩らの説得」は効力を発揮させていた。
「吉宗」には、「各地の青木氏や瀬戸内族」の「大きな後ろ盾」があることは「事前の周知」として受け取られていて、それだけに周囲は警戒してみまもつたのである。
政治とは、「表の姿」では無く、「裏の姿」を観る事が必要なので、「真の姿」が観えて来る。
「心ある者」は、この「裏の姿」を観て事に構える。
だから、「蝦夷地開墾・開拓」では、”いの一番”に特典を以てしても積極的に迎え入れられたし、幕府も継続してこれを政策として用いたものである。
「飢饉の時」も特別を以て救い、両青木氏らの天保期の「10万石問題」(上記)も幕府のみならず民間に於いてでさえ不問であったのである。
しかし、”青木氏に対する暴動”は一度も無かったどころか、この「青木氏一連の行動」も逆に賛同されていた。
これらは、この”「蝦夷地に関する一連の行動」”のみならず、”「青木氏の根本的な生き様」に賛同を得ていたのではないか”と考えられ、それが「青木氏の子孫力」に大きく影響を与えていたと考えられる。

・「青木氏の援助」
その証拠としてこの事を物語る次ぎの記録が残されている。
幕末の「天保大飢饉(1833−1839年)」の時、伊勢の「二つの青木氏」は、”私財を投入して中部地域一帯の飢えを救った”と記録されている。
この時、長く続いた飢饉であった事もあり、各地で不満を幕府に向けられ「一揆動乱」が起こった。
しかし、この時、「信濃青木氏」と共に「一揆動乱の経済的支援」(領民側に)をした事が記録されている。
これは幕府から観れば、これは明らかに動乱の「扇動行為」であり、「お家取潰し等の重罰」を受ける筈であるが無かった。
この時、幕府はこの中部地域一帯で起こった「一揆動乱」は、「長期間の飢饉」が原因であり、むしろ、その「飢饉の飢えを凌ぐ援助行為」として観た。
この様に観る行為には、それまでの上記した様に、「過去の青木氏の生き様に対する信用」があったからである。
まかり間違えば「援助」であっても、「出方次第」では、又、「過去の行為」の如何では、”流れに抗する事が出来ない事”から潰されていた可能性は充分にあった。
これが、当に ”積み重ねて来た「伝統のある子孫力」「目に見えない子孫力」”なのである。
このすごい生命力のある「子孫力」は得ようとしても簡単に得られるものでは無い。

(明治初期から9年まで起こった動乱にも同じ援助行為があった事が記録されている。)

上記した様に、江戸初期のから享保年代までの100年の間に起こった「5つの大飢饉」(中小飢饉も含めて8飢饉)でも同じ事が云えた筈である。

(江戸時代の飢饉 この「5大飢饉」を含み記録されているものでは8つの大小の飢饉があり、約32年毎に1回起こっている。)

話をもどす。
上記の「瀬戸内族等の蝦夷地開拓に関わる変遷の論証」は、出来たと考える。
そこで、江戸期まで云われていた ”瀬戸内を制する者は国を制する” の言葉の通り、上記した様に「瀬戸内族」は平安期でもそうであった。
しかし、この様に「伊勢青木氏・信濃青木氏」と共に、「瀬戸内族の生き様」、即ち「瀬戸内族の子孫力」は、「幕府内に浸透した秀郷一門の横の関係力」と連携している。
江戸期でも矢張り特別に重視されていたのである。
そして、上記した様にその子孫力は「幕政改革」にも利用されたのである。

従って、「瀬戸内族」の地元の「香川1」と「岡山0」の「子孫力のパラメータ」は、この様な「背景の経緯」にあった為に、”一族存亡に成るほどに注ぎ込んだ”のである。
依って、その後の地元での「子孫力」や「子孫拡大力」には、当然に支障を来した事を物語るのである。
しかし、その分、この「子孫力」で「江戸期ー明治期」までで、最低でも北海道の7/11にシフトしている事に成ったのである。
衰退していたのでは決して無いのである。
普通なら、上記した様な ”波乱に満ちた世の中の荒波”に洗われて、一族を注ぎ込んだが諸共に消えて仕舞う憂き目を受けている。
しかし、これもこの「現世の条理」であり、普通である。


> ・> 青木氏の分布と子孫力
> >
> [地域別分布力]
> > 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
> > 全国平均(全国単位 % 表ー1)
> > 地域      異変の県        分布力
> > 九州地方   長崎、大分       5%
> > 四国地方   高知           2.5% 
> > 中国地方   山口、岡山       2.5%
> > 関西地方   三重(筆者ルーツ)  14%
> > 東北地方   秋田           7%
> > 中部地方                 15%
> > 関東地方                 45%
> > 北海道・沖縄               6%
> > その他                   3%
> >
> > 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
> > 九州地方  1.3
> > 四国地方  1.3
> > 中国地方  1.3
> > 関西地方  4.7
> > 中部地方  4.3
> > 関東地方  11.3
> > 東北地方  2.0
> > その他   11.0
> >
> > 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
> >
> > 修正地域(表ー3)
> > 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1−7 三重 12 福井 4 愛知 13−7
> > 秋田 1
> >
> > 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
> > 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
> > 福岡  2   山口  0   愛媛  3     兵庫  3    三重  1
> > 長崎  0     島根  2   香川  1     大阪  14   石川  2
> > 佐賀  1     広島  3   高知  0     京都  5    福井  1
> > 大分  0     岡山  0   徳島  1     奈良  1    岐阜  3
> > 熊本  4                        和歌山 4    愛知  13   
> > 宮崎  2                        滋賀  1    長野  9
> > 鹿児島 1                                  山梨  1
> >
> > 域平均 1.25  平均 1.25  平均 1.25    平均 4.7     平均  4.3        
>
> > 関東地方(45%) 東北北陸地方(7%) 沖縄、北海道地方(17.5%)
> > 静岡  5    青森  1      沖縄  1
> > 神奈川 21   山形  2      北海道 11
> > 東京  18    岩手  1
> > 埼玉  17    新潟  4
> > 群馬  6    秋田  0
> > 千葉  11   福島  4
> > 茨木  4    宮城  2
> > 栃木  8                                     
>
> > 域平均 11.3   平均  2.0      平均  11.0  


> 青木氏の分布と子孫力−7に続く。


  [No.311] Re:青木氏の分布と子孫力−7
     投稿者:takao   投稿日:2014/04/27(Sun) 14:24:11

> 青木氏の分布と子孫力−6末尾

> 話をもどす。
> 上記の「瀬戸内族等の蝦夷地開拓に関わる変遷の論証」は、出来たと考える。
> そこで、江戸期まで云われていた ”瀬戸内を制する者は国を制する” の言葉の通り、上記した様に「瀬戸内族」は平安期でもそうであった。
> しかし、この様に「伊勢青木氏・信濃青木氏」と共に、「瀬戸内族の生き様」、即ち「瀬戸内族の子孫力」は、「幕府内に浸透した秀郷一門の横の関係力」と連携している。
> 江戸期でも矢張り特別に重視されていたのである。
> そして、上記した様にその子孫力は「幕政改革」にも利用されたのである。
>
> 従って、「瀬戸内族」の地元の「香川1」と「岡山0」の「子孫力のパラメータ」は、この様な「背景の経緯」にあった為に、”一族存亡に成るほどに注ぎ込んだ”のである。
> 依って、その後の地元での「子孫力」や「子孫拡大力」には、当然に支障を来した事を物語るのである。
> しかし、その分、この「子孫力」で「江戸期ー明治期」までで、最低でも北海道の7/11にシフトしている事に成ったのである。
> 衰退していたのでは決して無いのである。
> 普通なら、上記した様な ”波乱に満ちた世の中の荒波”に洗われて、一族を注ぎ込んだが諸共に消えて仕舞う憂き目を受けている。
> しかし、これもこの「現世の条理」であり、普通である。




青木氏の分布と子孫力−7


・「戦後の入植」
更には、これに重ねて「昭和20年後(戦後の混乱期・経済的悪化)」にも同じことが「瀬戸内族」に起こったのである。
この「昭和の瀬戸内族の危機」でも、このパラメータに大きく影響を与えたのである。
「讃岐青木氏」には、上記した「江戸期の経験」があったからこそ、また現地にも一族を廻している。
だから、既に、「受け入れの土壌」も出来上がっている事から、「瀬戸内の廻船業」から「蝦夷地の入植と廻船」に切り換えて、再び盛り返す事を狙ったものである。

従って、逆に、北海道には、この「昭和の入植移動」でも、その分「北海道のパラメータ」(1.5分)が拡大したのである。
上記した様に、「弘前藩」の救援劇に関わった「讃岐の瀬戸内族」、とりわけ「弘前の讃岐青木氏」(陸奥の「香川の移動族」と「岡山の末裔族」)の両方とも「北海道」に入植した。
この入植には、下記した「弘前藩と松前藩の関係」(下記)が大きく影響したのである。
この「陸奥青木氏の入植」には、この「弘前の讃岐青木氏」も含まれていると観ていて、故に、「秋田の分」が「北海道」に引っ張られて、秋田は0と成っているのだ。

ところで、それまでの経緯に付いて重複するが、改めて記述すると次の様に成る。

イ 「北海道の支配権」を家康から1599年に「松前藩」に与えられて正式に認められた。
ロ この「松前藩」は家臣(瀬戸内族)を配置して交易を正式に開始した。
ハ ただ、この元々は「青森に居た松前氏」には、「蝦夷地の支配権」を家康は特別に見込んで任した。
ニ ところが、米が採れない「無石の藩」であったので、「青森の弘前藩」との間で「米の供給」をする契約が交わされていた。
ホ 最初は「1万石相当」を「弘前藩」から供給を受けていたが 次第に交易が拡大し人口が増え、「米の供給」が不足し始めた。
ヘ 享保4年には「1万人人口の都市」と成り、この「基本的な米の供給」のみならず、「10万石」が不足していた。
ト この為に、「弘前藩」に対しては、「蝦夷地の入植」と、その「海産物などの殖産貿易の権利」の優遇を図っていた。
チ この事から、他のどの藩よりも「北海道の入植とその利権」は優位にあったし、積極的に行った。
リ この為に「交易と殖産」の為の「弘前からの入植移動」は「最大の条件下」にあった。
ヌ 「松前藩」も、財政的な面から観て、「弘前藩の北海道の入植」は、”「コメの供給」の対価支払が出来、それと「継続的な供給状態」が維持出来る事の負担面で都合が良かった。
ル 「弘前藩」は、この関係から積極的に「瀬戸内族」をその経験を見込んで「家臣」としての扱いで優遇し北海道に配置した。
ヲ 「松前藩」に対しても「幕府の肝いり」もあり「瀬戸内族」には同様に家臣として扱ったのである。
ワ 記録では、「松前藩」は、江戸時代の「5大飢饉」に起こった ”「米の飢饉」の時も度々に救われた” と記されている。
カ 「松前藩」は、「弘前藩」に対して「恩義」に思っていたのである。
ヨ 「弘前藩」は、「お家騒動の体質」で苦労している事から、「経済的な背景」は「藩政安定」につながる事から、”絶対に崩せない”と云う弱みもあった。
タ その「瀬戸内族」に依って運営されていた ”「海運による海産物の交易の利」”も身に染みて知っていた。
レ この状況から、「幕府の強い意向」もあり、「瀬戸内から来ていた関係者」を全てつぎ込んだ。
ソ 上記した様に、これが「青木氏」の「歴史的な定住地」ではなかったが、これが「北海道の11」の内容の一つに成っているのである。

従って、この数字的には、「北海道」には次ぎの様に成る。
1 「信濃」から「皇族賜姓族の神職系の移動」
2 「陸奥からの秀郷一門の移動」
3 「瀬戸内族の陸奥からの移動」
以上の3件の室町期末期の記録がある。

この事があるので、全国平均の4のパラメータから観ると次の様に成る。

「讃岐青木氏」(瀬戸内族)としての「実質の子孫力」は次ぎの様に成る。、
北海道分 7
香川の分 1
岡山の分 0(X)
広島の分 3
島根の分 2 

岡山の分は0としているが(X)は2以上は見込める。

以上で、最低でも「13のパラメータ以上」が認められる。
(北海道分の7は昭和の最終吟味で異なる。)

この「パラメータ13以上」に付いては、長年同じ行動を採って来た「伊勢青木氏」等の「実質のパラメータ12」に匹敵するものとして納得できる。
以上の様に、実質の「讃岐青木氏」は、「武蔵」と肩を競い合っていたところから、17以上にはならないものの、15程度に匹敵するものを持っていると考えられる。
そこで、この「讃岐のパラメータ」を最終確定させるには、その前に、上記の経緯から、次ぎの「青森ー秋田」の状況を吟味して置く必要がある。

「青森ー秋田」
しかし、「瀬戸内族」が一時、定住したこの陸奥地域の「青木氏の動き」が解明されたとしても、”地元「青森ー秋田」の「秀郷流青木氏」は一体どうしたのか” と云う疑問がある。
そもそも、「青森ー秋田の陸奥青木氏」は、秀郷一門の「鎮守府将軍」の頃から、「青木氏」の「入間の本領地」に継ぐ位の定住地でもあった。
しかし、「青木氏の守護神の神明社建立」と云う面からにしても、データは、「陸奥の秋田」と云う範囲では「青木氏の子孫力」は不思議に低い。
因みに、「青木氏族の永嶋氏」も、関東でも、愛知でも、陸奥でも、「子孫拡大」を室町期末期まで大きく興している。
にも拘らず、この事を考えると、「秋田」では、「同族の青木氏」が、”何故に「子孫拡大」が大きく起こらなかったのか”が疑問である。
この疑問を解決する必要がある。

陸奥域の周囲には同族の一門も居たし、土地の豪族も殆どが「血縁族」であるにも関わらず、「軍事的背景」、「経済的背景」、「周囲の一族」などから観ても「政治的背景の環境」も決して悪くは無かった。
むしろ「子孫拡大」には「三つの条件」が揃い過ぎている。
もう一つの「時代的背景」にしても、確かに、陸奥域には「荘園制」に関わる有名な「子孫力」を低下させる「奴婢事件」等が起こった。
この国を動かすほどの大事件が、平安期末期や室町期末期には大きな事件が多く起こった。
しかし、「青木氏の分布やその子孫力」の「拡大抑制の元凶」と成っていた「荘園制」が、「平安末期の禁止令」に依って無く成った。
依って、その後の「子孫力」は再び盛り返している。

元陸奥域の「周囲の5県」には、「秀郷一族一門」と「北家利仁流一門」にも囲まれている。
しかし、「唯一の脅威」としては「阿多倍一族」の有名な「内蔵氏系」の「安倍氏や清水氏」などの勢力に囲まれていたことは事実である。
ところが、この「内蔵氏族」の氏とは、歴史的に見て「子孫力」を下げる大きな事件を起こしていない。
その証拠に、「藤原利仁流族」や「秀郷流進藤氏」は、この中間地域に挟まれていながら子孫を伸ばしている。

では、”何が子孫力を下げていたのか”である。後は、「子孫力」を低下させるこの地域の要因は厳しい「気候」しか浮かばない。
では、”「気候的背景」があったのか”、しかし、「青木氏」が ”気候的背景に弱い”という事は聞いた事はない。
とすると、考えられる事は次ぎの事が只一つである。
この「気候的背景」が原因して、「秀郷流青木氏の護衛団」の ”入間との間の交代制”にあった事が考えられる。
そもそも、陸奥の「花房氏」や「小山氏」や「小田氏」などの土豪との「全ての血縁族」が、関東に来て「秀郷一門の勢力」を背景を基にして大豪族と成っている。
この事が物語る事は ”子孫拡大の流れ” が確かに「北から南」にあった事は否めない。
そもそも、「秀郷流青木氏」の「陸奥の定住」は、あくまでも ”「赴任定住」” にあった。
従って、「陸奥土豪の血縁族」等が、関東に出てきて勢力を伸ばしている中で、本家筋の「赴任定住の青木氏」が「逆の行動」を採るかは大いに疑問である。

先ずは採る可能性は無い。
「秀郷流青木氏116氏」の「24地域」では「入間帰還」を前提としたシステムを元より採用している。
確かに「赴任定住」で各地域の赴任地には、「子孫末裔」を遺してきている事は確かである。
そうすると、この「24地域」の中で、「子孫力」「子孫存続拡大」に関わる”異なる条件”とすれば、「環境の影響」である。
この中でも、厳しい「気候的背景」だけが「子孫力差」として出て来る。
この「陸奥域の気候的背景」が、この「子孫力の限界値」として観てみると ”、「赴任定住・交代制」に大きく影響を与えたのではないか” と考えられる。

特に、上記した様に、「讃岐青木氏」などの「瀬戸内族」に依って、江戸期初期には「太平洋周りの廻船」が新たに創設された。
これに依って、四季を通して凡そ二日か三日で赴任地から護衛団が入間に帰還できる様に成った。

江戸初期の「造船力の発展」が原因した。気候の厳しい「蝦夷地等の交易」が「造船技術」を伸ばした。

この「造船力の発展」に依って、”豪雪の中での護衛”と云う役目は、「冬場での役目」としてあまり意味がなくなった事に成る。
それまで、帰還に要する危険や難儀から留守居の形で定住する事に成っていたが、その必要性が一年中無くなった事に成る。
何日もかけて危険を背景に必死に陸送で帰還するよりは、「帰還」と云う点では画期的なものであった。
この”瀬戸内族による外回りの廻船の開設” が、”入間帰還のシステム”が現実のものとして”効果的なシステム”と成ったと考えられる。

「陸奥の瀬戸内族の操船入植貢献」と、「讃岐の瀬戸内族の外回りの廻船開設」と何れも瀬戸内族の貢献であった。
「蝦夷地の開拓」と「陸奥の秀郷一門の帰還」に大きく貢献したのである。
「讃岐の瀬戸内族の外回りの廻船開設」は、「蝦夷地の開拓」にも「人と者」を運送する事でも大いに貢献したのである。

そこで、「陸奥の環境」の「気候的背景」が「限界点」に成ったとしても、これで「入間帰還」は容易に成った。
これで「赴任定住の留守居役」も必要と無くなる程の移動と成った。
この事で、「現地末裔孫」も伴い「全陸奥青木氏」の「入間帰還」と成った。
依って、「陸奥秋田の青木氏」はパラメータが0に成るほどの地域と成った事が考えられる。

現実に「そっくり帰還」(根削ぎ帰還)は、温暖の地の「紀伊国」や「阿波国」や「肥前国」でも起こっていた。下記
何れも、「造船力の発展」で陸送で何日もかけての帰還より、数日で楽に帰還できる様に成ったことからの結果である。
この現象は「陸奥だけの事」では無かったのである。
これは「室町期」のみならず、上記した様に、江戸幕府の「旗本 御家人集団」と成った「土地付き家臣団」の「秀郷一門の青木氏」があった。
江戸時代に成っても、室町期の「縁故の地」に「現地派遣の幕府代官」として派遣されていた。

そこで調べて観ると、「家紋分析論」と「守護神論」でも判るのだが、この「広域陸奥」には「18の大名」が配置されていた。
この18の大名の内の「7の大名」は、何らかの秀郷一門との縁故を持っていた。
その「土地付き家臣団」には3割程度が秀郷一門で占めているのである。
江戸期に成っても、この「秀郷一門の青木氏」は、この様に「24地域の縁故地」に派遣されていた事が判る。
秀吉に依って、家康が関東に転封された時に、この地域一帯を治めていた秀郷一門には、「家康の本領安堵策」に依って関東域は安堵された。
その後、「家康の天下」と成った時も含めて、各地の「24地域の縁故地」もその後、安堵され保証された。
家康の藤原秀郷一門に対する「本領安堵策」で「土地付き家臣団」(准大名扱い:地主:御家人)が生まれたのである。
因みに、「土地付き家臣団」を超えて、江戸時代の全国大名の内の「6大名」に「下り藤紋」の藤原一門が成っている。

A 陸奥、越後、
B 信濃、近江、
C 紀伊、日向
以上が成っている。

この「6つの小大名」の藩士の多くは、「秀郷流青木氏116氏」の一門の家紋群である。

しかし、他の「縁故の地」(24地域)では、凡そ2割から3割が秀郷一門の家紋群である。
ほぼ、他の陸奥域も同じ程度である。地主として名主や豪農や庄屋や郷氏や、土地の藩の家臣として生き延びた。

この地域も家康に依って、「藤原氏の勢力」を維持させる為に、「縁故の地」も「本領安堵の策」が採られたのである。

この様に、「土地付きの家臣(御家人、上級旗本)」と成っている地域は、下記に参考に記す様に、主に「青木氏116氏の主要地域」に成っている。

武蔵、越後、讃岐、備前、
下野、相模、三河、下総、
常陸、紀伊、陸奥、上野、
美作、備後、伊予、豊後

以上16の地域に集中しているのだが、これは二つに分類できる。
一つは、「秀郷流青木氏」の平安期と室町期までの「領地」か「赴任地」
二つは、「松平氏か徳川氏の藩主」と成っている「守護地」

一つ目は、「縁故の地」に対して派遣された幕府の代官、役人等
二つ目は、江戸初期に徳川家臣団と成って藩主が赴任した地域

以上の様に、室町期に引き続いて江戸期にもほぼ同じ勢力で同じ分布域を示している。
これは「子孫力維持」と云う点で重要な事柄である。
そこには、当然に強い「子孫力」が存在する。要するに、”古来より縁故の地”であるからだ。
「室町期」と「江戸期」では、社会の不安定さや混乱差は大きく変化した。
しかし、「縁故の地」に関わる事により「子孫力」は、冒頭でも記したが ”変わらない”として論じる事が出来るのだ。

従って、「陸奥」に於いては、要するに、「基礎的な子孫力」が全く無くなったのではなく、”「子孫力」が出自先の入間に戻った”と成る。
故に、「陸奥」では、「子孫力」が激減していたのであるから、「陸奥」から「北海道」への「入植移動」は、「陸奥青木氏」だけではない事に成る。
更に、上記した様に、各地から「陸奥」に来ていた「青木氏」(瀬戸内族等)も「北海道」に入植移動した事にもなるのである。
後住の「瀬戸内族の入植」とは別に、先住の「陸奥青木氏の入植移動」は、むしろ、どの時代を通しても「入間帰還」を中心とした慣習に従っていたので、極めて少なかった。
この事から、せいぜい「留守居程度」のもの定住と考えられるから、入植移動は無かったと見做される。
依って、パラメータに出て来る範囲ではなかったと考えられる。
(「陸奥域」を始めとして、24地域の「入間帰還」は改善された。)

丁度、上記した”徳島の剣片喰族の愛知への帰還方式”と類似するが、その期間の「土地の生活環境」は大きく異なる。
「肥前の青木村」も同じである。
当初は、「期間限定の定住策」であったと考えられるが、「蝦夷地開拓」に伴う「造船力の発展」が、この「肥前の定住」にも大きな変化をもたらしたのである。
逆に、この「讃岐青木氏」ら「瀬戸内族の入植移動」が「造船力の発展」を促し、その「造船力の発展」が今度は「瀬戸内族の廻船業や殖産業の発展」を促した事に成る。
陸送より「海送の発展」が、質、量、速さ、楽さに於いて優れ社会を大いに変えた時代と成ったのである。

ところが、昭和に成って始まった機械化が、戦後に成って、その代表と成る鉄道の急激な発達によって「陸送の発展」が起こり海運を超える結果と成ったのである。

瀬戸内族の母体と成っていた廻船業と殖産業は、鉄道の陸送の発達で取って代わられたのである。
そこで、「讃岐青木氏」等の「瀬戸内族」は、「北海道開発」に賭けて「戦後入植」と成って表れたのである。
この様に、地域毎にその「子孫力や子孫拡大力」の「有り様」が異なり、それに伴って「青木氏の分布と子孫力」は変化したのである。
しかし、その「分布と子孫力」は、根底を覆すような変化までには至らなかったのである。

恐らくは、1600年経っても”あまり変わっていない”と評価されるが、これからの「時代の変化具合」によっては「青木氏の分布と子孫力」は変化する可能性がある。
どの様に変化するかは判らないが、判る現在の範囲で過去の事を遺しておきたい。
後世の青木氏の末裔にロマンを与えられる。
この異なる「青木氏の歴史」には、「先祖の生き様」がよく見えて来て面白いのである。
その「分布図や伝統の有り様」も面白くなるのだと考える。

従って、「青木氏の子孫力の有り様」を続けて論じる事とする。


・> 青木氏の分布と子孫力
>
> [地域別分布力]
> > 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
> > 全国平均(全国単位 % 表ー1)
> > 地域      異変の県        分布力
>> 九州地方   長崎、大分       5%
>> 四国地方   高知           2.5% 
>> 中国地方   山口、岡山       2.5%
>> 関西地方   三重(筆者ルーツ)  14%
>> 東北地方   秋田           7%
>> 中部地方                 15%
>> 関東地方                 45%
>> 北海道・沖縄               6%
>> その他                   3%
>>
>> 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
>> 九州地方  1.3
>> 四国地方  1.3
>> 中国地方  1.3
>> 関西地方  4.7
>> 中部地方  4.3
>> 関東地方  11.3
>> 東北地方  2.0
>> その他   11.0
>>
>> 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
>>
>> 修正地域(表ー3)
>> 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1−7 三重 12 福井 4 愛知 13−7
>> 秋田 1
>>
> 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
>> 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
>> 福岡  2      山口  0   愛媛  3     兵庫   3    三重  1
>> 長崎  0      島根  2   香川  1     大阪  14    石川  2
>> 佐賀  1     広島  3   高知  0     京都   5    福井  1
>> 大分  0     岡山  0   徳島  1     奈良   1    岐阜  3
>> 熊本  4                        和歌山 4     愛知  13   
>> 宮崎  2                        滋賀   1    長野  9
>> 鹿児島 1                                   山梨  1
>>
>> 域平均 1.25  平均 1.25  平均 1.25    平均 4.7     平均  4.3        
>
>> 関東地方(45%) 東北北陸地方(7%) 沖縄、北海道地方(17.5%)
>> 静岡   5   青森  1      沖縄   1
>> 神奈川 21   山形  2      北海道 11
>> 東京  18    岩手  1
>> 埼玉  17    新潟  4
>> 群馬   6   秋田  0
>> 千葉  11   福島  4
>> 茨木   4   宮城  2
>> 栃木   8                                     
>>
>> 域平均 11.3   平均  2.0      平均  11.0  

 青木氏の分布と子孫力−8に続く。


  [No.312] Re:青木氏の分布と子孫力−8
     投稿者:takao   投稿日:2014/05/07(Wed) 16:25:40

青木氏の分布と子孫力−8

・「讃岐青木氏」
さて、ここからは改めて歴史論をお読み頂くとする。
話を中国地方の「讃岐青木氏」に戻す。もう少し「讃岐青木氏」を考察する必要がある。
従って、中国地方のパラメータは、次ぎの通りである。

「讃岐青木氏」=「島根2+広島3+岡山0ー1」=5−6である。

(移動と入植定住は入れない)
(本来、秀郷一門には、赴任による定住はあるが、各地域の単純移動の定住は原則ない)

「陸奥青木氏」は、室町末期に「結城陸奥永嶋氏」と合力して、「秀吉と戦い」で敗戦して北海道に移動逃亡した。
「伊勢秀郷流青木氏」も陸奥で合力し敗戦した。
この「陸奥青木氏」と共に、越後域からも「越後青木氏」が明治期に入植移動した。

「瀬戸内の讃岐秀郷流青木氏」以外に入植定住したとする記録には、次の記録が観られる。
1 「信濃青木氏の神職(:明治期)」
2 「陸奥青木氏(秋田 青森: 室町末期 明治期)」
3 「越後秀郷流青木氏(明治期)」
4 「甲斐の武田氏系青木氏(花菱紋と抱き角紋: 越後移動 明治期)」
5 「越後の諏訪族青木氏(抱き角紋 :室町末期 明治期」
以上は「家紋分析」からも納得できる。

そもそも、「陸奥青木氏」は、「陸奥結城永嶋氏」が滅んだ「天正17年」と「明治期」にも入植定住した。
この五家の「明治期の入植定住」が、記録と家紋分析論と守護神論の調査で判るが、現在までとしてその期間は”150年”に成る。

上記の「子孫拡大」は、最速で150/90年、で約1.5倍と成る。 

「讃岐青木氏」は、パラメータの「埼玉武蔵の17の子孫力」と同じ程度の「子孫力」を持っている筈である。
これを基準に、この「瀬戸内からの子孫拡大」(讃岐青木氏)の「パラメータが8」として吟味して観ると、次ぎの様なパラメータが出る。

(但し、”「子孫力」”は拡大して行く力を除いたもので「静の定義」、”「子孫拡大力」”は推し進める力として「動の定義」として区別して使う。)

1−「長野 9」の内の「神職の子孫力」は、パラメータとしては1に満たない。

「神職」と云う職業柄で、その為に大きく「子孫拡大」を図れない職業に起因する。
一応、パラメータは0ではないので・ 0.3とする。(家紋分析数の比)

2−「秋田 0」である事からパラメータを持たないが、少なくとも歴史上記録がある事から0ではないので、これも・ 0.2とする。

問題のパラメータ0域の「秋田」は、少なくとも天正期までその子孫を保っていた事から完全滅亡ではない。
少なくとも 「越後4」や「福島4」 に匹敵する以上の「子孫力」を持っていた。
或は、「山形2」や「宮城2」 の2倍から3倍に匹敵する「子孫力」を元来持っていた。
この事からは、「家紋分析数の比」からも明治期までには、その「子孫力」は持っていた。
天正期に滅んだ事に依って、確かに「子孫力」は明らかに低下している事は否めない。
しかし、決して0域ではない。

3−「越後 4」ではあるが、この4には、武田氏滅亡時の「武田氏系 諏訪族系の2氏」の分も含む事から得られる。

逃亡域には、神奈川・横浜域の逃亡と新潟域の逃亡と土佐行の逃亡がある。
この新潟の越後域にはこの2氏が逃亡した。
この事からは、「家紋分析数の比」から1/8なのでパラメータは凡そ・ 0.5と見込む。


4−「甲斐青木氏」は越後に定住後に明治期に移動している。

甲斐の「子孫力」が、「越後の青木氏」(家紋分析数の比)から1/5として、・ 0.2と見込む。
(逃亡外としては、「埼玉の鉢形」と「武蔵の八王子」に、「武田氏の皇族青木氏」の強制疎開がある。)
この事からは、「家紋分析数の比」から1/8なのでパラメータは凡そ・ 0.5と見込む。

5−「信濃の賜姓族の諏訪族青木氏」が、武田氏滅亡で巻き込まれて越後に逃亡した。

その後に室町末期と明治期に入植移動した。
以上は史実であるが、「家紋分析数の比」から観て小規模でパラメータに出ない程度で・0.01とする。

これで1から5の総計は、パラメータは1.7である。

これに仮に年数を比例的に観て、上記最速で 「150/90年」、で約1.5倍の「倍数1.5」を乗じるとパラメータは2.5と成る。

そこで、「北海道の11」 「讃岐青木氏の7」である。
計算して11−7=4の内、2.5を占める。
そうすると、4−2.5=1.5のパラメータが残る。

北海道の「パラメータの11」の内の「1.5のパラメータ」の分が残る事に成る。

さて、この1.5は何なのかである。この余りとも観られる1.5を検証する必要がある。

「北海道の残1.5の吟味」
さて、「北海道の入植移動」を更に考察する。
「パラメータの11」の内、明治期までに入植移動した「青木氏のパラメータ分」を加算して評価する。
そうすると、「パラメータの11」に満たない事が判る。

そこで残ったこの「パラメータの1.5」をどの様に評価するかである。
これは無視できる範囲ではない。
家紋分析論や守護神論やルーツ掲示板のお便りなどのいろいろな記録を調査した。
するとこの過程でこのパラメータを説明出来る答えが出た。

その答えは次ぎの通りである。
上記のこの様な変化が、「讃岐青木氏の子孫拡大」に影響を与えたのは「室町末期 江戸末期 明治期」の3期となる。
ところが、実は、「前段−7」で論じた様に、・「昭和期の20年代」にも大きく「子孫力」を阻害した事が起こっている事が判った。

(讃岐ー弘前ー松前)
つまり、「讃岐青木氏」の昭和20年代の「三つの条件」の内の「経済的背景」が崩壊したのである。
この原因は、「戦後の混乱」による”古い体質の廻船業の衰退”であった。
その内なる原因には、古来より、ここには、「讃岐藤氏」と呼ばれて、発祥期より「藤原氏北家一族」とは一線を画くしていた。
そして、”「讃岐藤氏」”として呼称される様に、独立して存在し続けて来た。
しかし、「社会の新風」を素直に受け入れる良い体質の「独立性」ならば良いが、この「排他的な独立性」が弊害して、「社会の新風」を拒んだのである。
戦後の大きな変化の ”うねり” に「体質改善」が遅れて対応する能力を失っていたのである。
これは、”悠久の歴史”を持つ全ての「賜姓族」に取って起こり得る体質でもある。
その「独立性」を頑なに保った事も原因していて、「戦後の子孫力」に大きな影響を与えた可能性がある。
それ故に、「経済的背景」の消滅によって、第二次大戦後には、「政治的背景」と「軍事的背景」をも無くした。
三つ要件を急激に失ったのである。漸次の変化ならばいざ知らず、余りにも急激な変化であった為に殆ど絶える事は出来なかったのである。
外なる原因として、この戦後の「経済構造の変化」は、”過去の「造船力の発展」”から、”昭和の「鉄道の発達」”に変わったのである。
その為に、「造船力の発展」に主軸を置いた廻船業の事業は、急激に傾き、更には衰退した上に、その結果、「子孫力の根底」さえも無くしたのである。

古来より江戸期まで「独立性」を「伝統」として、それを前面に歴史的に押し出していた事から、経済的悪化を来したのである。
氏の「独立性」を強調するあまり、「支援する背景」(藤原北家一門)をも遠ざかり無くした事から、急激に元からの「存立基盤」を失ったのである。
歴史上には、常時に出て来る「瀬戸内の経済力」を背景としていたが、それが故に、脆くも崩れたのである。
最早、”瀬戸内を制するものは国を制する”の神話は、脆くも戦後には体制が変わった事から崩れ去ったのである。
この時には、記録からも明らかに北海道に入植している。
況や、”蝦夷を制する者は国を制する。”の神話に変化したのである
それが故に、”瀬戸内族”であった為に、今度は ”蝦夷”を求めたのである。
つまり、これが、一攫値千金の、”蝦夷を制する者は国を制する。”に値する「1.5」であって、この時の「入植移動」の1.5のパラメータである。

注釈
同じ環境にあった「伊勢青木氏」も出火消失に成る明治35年まではその子孫力は維持されていた。
この調子で行けば、「基本の商い」は「紙と殖産」であるが故に、昭和まで充分に存続していた筈である。
その意味からすると、「讃岐青木氏」も時代変革の起こり始めた昭和初期頃までは廻船業も充分な存続が可能であったと考えられる。
ただ、近代化の「産業革命の波」が押し寄せていた事は否めない。
「讃岐青木氏の船」は、その意味で「伊勢青木氏の紙」と異なり、影響を大きく受けていた筈である。
恐らくは、この”20年間”の大波に、「体質改善」が遅れたと観ている。

「紙」は1500年来、何時の世も”革命や文化の発達”に欠かせないものとして位置づけられて来た。
「室町文化」、「元禄文化」の時も「巨万の富」を獲得した。その分、「子孫力」を伸ばして来た。
しかし、現在、「PC」成る物が「紙」に取って代わろうとしている。
恐らくは、ここで、「伊勢青木氏」も、「廻船業」は「産業の革命」には弱い事が在ったにせよ「讃岐青木氏」と同じ事が起こっていた筈である。
下記に論じるが、「伊勢青木氏の子孫力」も、「平成」(筆者の代)では、極度に低下していたと考えられる。

この「戦後移動」の「1.5のパラメータ」には、上記した様に、「陸奥青木氏」の中の「弘前ー松前の讃岐青木氏」の「入植の分」も入っていると観ている。
これが「1.5」の内の「0.5のパラメータ」程度であろう。
「家紋分析数の比」から観ても、明らかに「讃岐青木氏」の関西域に分布する「下り藤紋に雁金紋」が陸奥と北海道にも分布している証拠でもある。

故に、「北海道のパラメータ11」は、この「戦後」の「讃岐青木氏」の「入植移動」の「パラメータの1.5」で完済する。

これだけに「陸奥と北海道」に移動定住すれば、「香川と岡山」のパラメータは、当然に上がらないのは当然である。
逆にその分、「北海道のパラメータ」は上がる事に成る。
依って、「北海道の入植移動」の「パラメータ11」は、「讃岐青木氏関係比は75%台」が占める事に成ったのである。

「北海道の開拓」は、この上記した論調面から観てみると、「讃岐青木氏」即ち、「瀬戸内族」に成し遂げられたと云っても過言では無い。
「青木氏に関係する家紋数」から観ても、かなりの率(60%程度)である事は否めず、大半を占めている事が頷ける。

(広島の3は「弘前ー松前藩の移動」には組した記録は現在も見つからない。)

つまり、題して、”「讃岐青木氏の北海道大移動」”と云う事に成る。

結局、「讃岐青木氏」の子孫力の総計のパラメータは、結局、上記の13に、この北海道の余り分の1.5を加えると14.5と成る。

「讃岐青木氏」=14.5/ 「武蔵青木氏」=17
以上の様に比較すれば、充分に納得できる。


・「鳥取」
ところで、「鳥取のパラメータ」は「讃岐青木氏のデータ」では無い。
一見して、その「讃岐青木氏の活動範囲」から、「鳥取」はその様に観える。
しかし、中国地方の「鳥取」は、上記した様に、「足利氏系青木氏の逃避地」で、「米子、八頭」に定住したもので「讃岐青木氏」とは異なる。
「鳥取の青木氏」はその歴史性と地理性から観て、「地味」である。逃避に依る移動定住であるからだ。
この「鳥取のパラメータ」はその経緯から納得出来る。

その後、ある程度の勢力を得て、西の宍道湖際の東側まで、無戦でじわじわと「子孫拡大」をさせている。
日本海側に沿って東から西域に「子孫拡大」を図っている。
北から南域への「子孫拡大」は、間に中国山脈もあり、山越えはその「子孫力」から難しかったのであろう。
「先制的な武力」に頼らない「米子の青木氏」に取っては、戦略的に、「平野部」の山間部を開墾しながら西に進んだ。
同時に、それに沿って伸びている「海岸線」に、その「子孫力」を伸ばす方が、身の丈に合った生き方であった。
「平野部海岸線」ともなれば、他の豪族との摩擦が生じる。
ところが、「武力」を使わなく、「村主」の「米子青木氏」に取っては、唯一「子孫力」を拡げる方法がある。
それは、沿岸部に存在する土豪との「血縁関係」を結びながら、その「子孫力」を拡大させる事が「最高の戦略」である。
それには、「青木氏」と云う「ステイタス」が大きく働いたと考える。
その証拠に、「家紋分析」などからも判るが、宍道湖手前でピッタとその「子孫拡大」を止めている。
それには、二つの理由があった。
一つは、宍道湖西域には、「讃岐青木氏」が、その廻船業と殖産業の勢いを以って伸長してきている事。
二つは、宍道湖西域は、「出雲族の豪族集団」が「亀甲族連合体」を作り、古来より他勢をブロックする排他的な壁を構築していた事。
この”二つを押し崩す力”は、その「村主としての生き様」から全く無かった。
では、何故、「讃岐青木氏」が伸長できたのかの疑問であるが、それははっきりしている。
この「亀甲族との血縁」を成し得ているのである。
「亀甲族側の連合体」にとって、排他的壁を護る上で、瀬戸内を制する「軍事力と経済力」は、この上ない防衛同盟戦略である。
一種の「血縁同盟」を結んだ事に成る。「讃岐青木氏」にとっても廻船、殖産、子孫拡大、防衛力にしても実に得策である。
これは「米子青木氏」の「村主」では成し得ない事であった。
依って、この「村主」としての「生き様」から観ると、「パラメータの2」は納得できる。

この「鳥取」は、”逃避に依る移動定住”では、「土佐」と同じである。
しかし、「高知の土佐青木氏」の逃亡では、「武田氏の滅亡」による原因である。
確かに、よく似た「逃亡の経緯」として見込まれる。
そもそも、「長野の信濃青木氏」には、”藤原秀郷一門との本家争い”で「秀郷一門」が「後押しをした事件」に巻き込まれた事件が原因していた。

その経緯として、その「分家筋」が「本家筋の跡目」を乗っ取ろうとして、古くから居た「本家足利氏」を、分家と成る「秀郷流の跡目血縁」の家を本家とした事から起こる。
その「後押し」したのが秀郷一門の宗家であり、その目的は「本家」としての「発言力」を持ち「信濃の支配」を目論んだ。
結局、戦いの結果、秀郷一門の血筋の無い、従来より土地にいた「本家の足利氏」が敗退して、これに一部同調した「賜姓族の信濃青木氏」が「越前福井」に逃亡した。
「本家足利氏」と共に、この時に「護衛」を名目として同行した。
その縁で、「福井越前」の「皇族賜姓族」の「奈良期からの逃避地」に逃亡したが、相手も同じ「皇族賜姓族」であった為に「不入不倫の権」の例外と成った。
そして、同族の強い追跡を受けて、結局、日本海沿岸部を経由して鳥取の東にやっと辿り着いた。
ここで「山岳部の未開地の開墾」をして生き延びた。
その後、宍道湖の東端まで「子孫拡大」を無戦で単純に果たした。

この「信濃青木氏」の一部は、福井越前から結局は、「信濃足利氏の護衛同行」を続ける事を決めた。
当然に、この逃避行で「三つの条件」の全てを失っていた。
しかし、ここで米子の「地元の豪族」の援助を受けて「信濃足利氏」に代わって、「信濃青木氏」が主導したのである。

本来は、「福井越前の逃避地」までの「護衛同行」であったが、この「護衛同行の青木氏」は「青木村」を形成した。
そして、地域の人から崇められて、”「村主」(すぐり)”として争いを避けて生き延びた。
その「先制的な武力」の持たない”「村主」”として、この地域をリードして、宍道湖まで沿岸沿いの山岳部の開墾と血縁で生き延びた。

これはむしろ、土佐の「武力を背景とした生き様」よりも、前段でも論じたが、「日向青木氏の経緯」と類似する。
ここで「青木村」を形成して「村主」として伝統を守り、「普通の農民・郷氏」として生き延びた。

「傭兵」で「生活の糧」を確保して、海と山岳部の開墾での「子孫存続と拡大」を図り、郷士に成った「宮崎の日向青木氏」が一方であった。
「讃岐青木氏」の背景を基に武力で勢力図を広めた甲斐の「土佐青木氏」とがあった。
これには大きな「子孫力」の違いがあった。

「村主」として単純に当面の「生活の糧」は得られたとしても勢いをつける力はそもそも無かった。
その中で、「子孫存続と拡大」を図った「鳥取の米子青木氏」であった。
しかし、「日向青木氏」と「因幡青木氏」の、この「二つの青木氏」には「伝統」は保たれていた。
本来であれば、「土佐青木氏」の様に「武力的背景」に主軸を置く事を「生き様」とすれば、その「権威の伝統の継承」は積極的に求める筈である。
しかし、その「伝統」が消えている。
況や、「伝統の継承」とは、「武力的背景の権威の継承」だけでは遺し得ない事が判る。
これは ”「動の定義」による子孫力”と、”「静の定義」による子孫力”とでは、明らかに「静の定義の子孫力」が「伝統」を維持させ、継承させるものであると考えられる。
その意味で、”世に晒す事無かれ 何れ一利無し。 世に憚る事無かれ、何れ一利無し。” の「2つの血縁賜姓青木氏」の「戒律」は正しかった事が云える。
その「代表的な青木氏」は、総合的に観た「伝統」を継承しているのは、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」の融合族の「伊豆の青木氏」ではないかと観られる。
次ぎに、厳しい戦乱の中で「村主」として生き延びて来た「米子青木氏」ではないかと考えられる。
それは、「米子の青木氏」(因幡青木氏)には、「家紋分析」で、「象徴紋の笹竜胆の家紋」が維持されている事が確認できる。
これはあらゆる「悠久の伝統」が、ある程度の面で総合的に伝承されていた事を示すからである。

ここは、次ぎの豪族が治めていた。
戦国時代、
因幡の国には、山名氏、亀井氏、草刈氏の3氏
伯耆の国には、庄氏、南条氏の2氏

江戸時代
因幡の国には、池田氏の3藩

この藩に家臣として仕官しているかの調査と「家紋分析」とをした。
戦国時代には、「米子青木氏」(信濃青木氏の賜姓族系足利氏系青木氏)は5氏の家臣に観られなかった。
江戸時代には、「池田氏」は平家末裔である。青木氏はあったが、「家紋分析」から「米子青木氏」のものは無かった。
この青木氏は、どの青木氏かは判らないが、秀郷流青木氏の家紋の類似紋を持っていた。

この事から、矢張り、郷氏の「村主」として勤めた事が判る。

鳥取(因幡と伯耆)には、「子孫存続」の「三つの条件」が全く認められない範囲である事から、鳥取の「平均の4」のパラメータが得られない事は理解できる。
「鳥取青木氏」は、その意味で「青木氏伝統」の「堅実型の子孫力」と云える。

その”「経緯」と「村主」” としての「子孫力・生存力」から、鳥取の「パラメータは2」は納得出来る。

下記に論じる「伊勢青木氏」もこの「堅実型の子孫力」を護って来た。
むしろ、「子孫」そのものの「遺伝子」がその様に成ってしまっている。
明らかに先々代までの「同族血縁の影響」を引き継いだか、突然変異の型の「血液型AB」で、筆者の代までそれで引き継いでいる事でも判る。

(血液型ABは、3代前までにO型が存在すると、「隔世遺伝」に依りA型、B型に分離する事が起こる。
如何に便利な血液型でもあり、況や、「堅実型の子孫力」を示している。他の親族を調べると矢張り、この現象が起こしているし、現実に筆者の3人の子孫にこの現象を起こしている。)
その伊勢に付いて次ぎに論じる。


・「三重 和歌山」
さて、「2つの血縁賜姓族青木氏」の中心的存在と成った「関西域」、取り分け、「伊勢域」の「青木氏」に付いて論じる。
「伊勢域」とは、古来より、「奈良の都」の東に隣接する伊勢国と、西域に隣接する紀州国を以て伊勢域と呼ばれていた。

「奈良期の大和朝廷」の前の「ヤマト政権」の頃には、「五大豪族の連合体」で治められていた。
その内、「紀州」の豪族には、 奈良盆地の「猿沢の池」を中心にそれを源泉として流れる大和川域に存在した。
この「東南部の三輪山麓一帯」に次の様な五大豪族が勢力を張っていた。

「紀氏」   現在の和歌山県の西部域 西海側域
「巨勢氏」  現在の和歌山県の北部域 東山側域
以上2氏が存在した。

「葛城氏」 和歌山県と大阪府の南部河内域 南平野側域
以下の大阪域との中間に位置していた。

「平群氏」 
「物部氏」
以上2氏が大阪府の南部の大和川沿域
以上が五氏が奈良域ー和歌山側ー大阪南部と東部域に存在した。

現在の「奈良」とは違い、古来の奈良盆地は、「猿沢の池」は広大で、周囲山岳部の1/2は「広大な湖」で、そこから流れる大和川域にこれらの豪族が存在し、「連合国家」を作っていた。
その為に、奈良期に入っても、「伊勢域」とは、未だ以上の2氏が存在した名残から「紀州域」までを以って呼ばれていた。
現に、「伊勢路」とは、太湖に沿っての紀伊山脈の「山岳道」であった為に、そもそも「紀州熊野域」までの領域を「伊勢路」と呼ばれている。

参考
紀州の2氏の末裔は現存し、地名も残っている。
奈良盆地の太湖は地盤沈下で次第にひえ上がり、現在の「猿沢の池」のところの底まで曳けた。
この為に、「地形と地名」が混乱して変化してしまったのである。

奈良期の大化期に発祥した時期には、現在の「伊勢」のみならず「紀州域」までを以て「”伊勢”の範疇」として考えられていた。
故に、「青木氏の守護神神明社」で論じた様に、「伊勢ー紀州」域には、「伊勢神宮」の「90社」にも及ぶ「遷宮社」の内、この域では41社があり最も多いのである。
「日本書紀」の記述にも、”「吉野」”をも含んだものとしての”伊勢”の表現があり、”神域の行動範囲”は、この様に広域に捉えられていた。
従って、歴史を正しく考える場合は、「行政区分の伊勢域」と、「神域範囲の”伊勢域”」とは区別して考える必要がある。
「分布と子孫力の領域」は、この「神域範囲の伊勢域」を考える事が必須の条件である。
この様な事は、他にもあり、”陸奥域”や”武蔵域”や”近江域”なども、「行政区分の領域」とは異なっている。

これは、「国の括り」とは別に、古来は、”意識(神域)”の中の「”伊勢”の範疇」であった事を示すものであった。
故に、”「伊勢」”を正しく論じる場合は、”行政区分を外す事”が必要である。
依って、「紀州」を外して論じる事は出来ないのである。
中でも、「紀州」は、「地形の変化」と「伊勢の神域」と「大和の政権」が大きく影響している為に、例外中の例外扱いと成る。

関西地域では、「三重」と「和歌山」は、「伝統の国」と云われている様に、ここに問題がある。
この二つには、大きく連動している史実があるので、同時に論じる事が必要なのである。
故に、「伊勢」のみならず「奈良」を研究する場合は、「紀州」を絶対的に研究する事が必要に成る。
「伊勢時代のあらゆる面の伝統」が、未だ、この「紀州」には少なくなったとは云え、他の県に比べて多く遺されている。

ここは「伊勢ー紀州」は「筆者の地域」であり、「子孫拡大」は「伝統の国」である以上は、「パラメータ」も大きいのである。


上記で論じた様に、その「伊勢青木一族」の「経済的な根拠」になっていた「大商い」は、明治35年にて「松阪大火」(出火元)で破産した。
依って、「子孫拡大」のその根拠を一時失った。

その為に、次ぎの事が起こっている。
イ 「経済的背景」を急激に失って、大きく「子孫拡大」に至っていない事、
ロ 「子孫拡大の根拠」と成っていた歴史的な安定した血縁関係にも、明治後、消滅した事

以上の事などから、「大正ー昭和の子孫拡大」は、それ以前の「150万石から200万石」と云われた勢力が、賠償に使い極端に小さくなった。
結局、「福家・(宗家)」は「商い」から手を引き、分家に当たる「作左衛門の家」が、「摂津大阪の支店」で「紙屋」を再開した。

「三つの条件」の「経済的背景」は、「二足の草鞋策」で、「政治的背景」は「不入不倫の権」で、「軍事的背景」はシンジケートで補完されていた。
しかし、この「三つの条件」の最大の「経済的背景」(超大地主)をも失ったのである。
後の二つも明治維新での「地租改正」でも、紀州域まで含むかなりの範囲で、「絆青木氏」を含む「青木氏関係族」に引き渡し、福家(宗家)は極度に衰退した。

現在も一族一門は主に「三重」を中心に関西域の8地域に存続している。
そもそも記帳がないのはその「家柄の体質」(慎重な性質)にあると考えられる。

a 平安期から室町期初期の「初期の移動期」
b 江戸享保期と末期の「後期の移動期」

以上のこの2つには、各地の「青木氏の定住地」としての地域には大小移動定住している。
「移動定住地」は次ぎの通りである。
「大阪」に、「兵庫」に、
「愛知」に、「長野「に、
「伊豆」に、「神奈川」に
「福井」に、「新潟」に、「陸奥」に、
「東京」に、「千葉」に、「茨木」に、
(和歌山)

以上の12地域に定住移動」している。
(5家地域と神職関係と小移動は除く。 「伊勢秀郷流青木氏」は除く。)

この各地の「子孫拡大」に大小はあるが、その中でも、「移動定住」で、大きく「子孫拡大」した「伊豆青木氏」は特別である。
一国以上の定住地である。

ここ「伊豆の青木氏」は、「伊勢青木氏と信濃青木氏」の「融合族」で、「青木村」全体で「笹竜胆紋」を現在でも護っている。
ここは、「清和源氏の摂津源氏」 「宗家頼光」の「四家の長老」4代目正三位頼政の領国である。
この「頼政」の孫の「京綱」は、「伊勢青木氏の跡目」に入ったのだが、それまでに、同族としての「男系女系の血縁」を含む「親族的な付き合い」が高かった。
ただ、それは、清和源氏の分家「頼信の河内源氏」との「生き様」が異なっていた為に、永来に親交は無かった。
この為に、「伊勢青木氏」と、「信濃青木氏」は、宗家四家の棟梁「頼政」を盛り立てた。
それが「伊豆の青木氏」なのである。
(「信濃青木氏」も伊勢青木氏と同様に「摂津源氏」との血縁親交を持ち続けたことが記録にある。)
そもそも、この「伊豆地域」は、”「青木氏の伝統国」”と呼ばれる地域でもある。
ここに行けば、現在も、上記する様な、「笹竜胆紋」のステイタスを「青木村」の全域で継承している。
「青木氏の伝統」を調べようとすれば先ずは「伊豆」である。

その証拠の最大のパラメータを持つ「神奈川の21」には、次ぎの様な、パラーメータが見込まれる。
「伊豆の4」と、「東京の18」には「2」と、「兵庫の3」には「摂津の1」としての「伊勢青木氏のパラメータ 7」が合わせて見込まれる。

筆者の福家・(宗家)は、その後、子孫を拡大させて各地に大きく分布している。
数字的には、極めて深い親交のあった長野の「信濃青木氏」の「パラメータが9」とすると、明治期まで「不入不倫の権」で守られて来た。
このことから、「三重」は少なくとも「平均の4」以上の ”7” には相当していると観られる。
次ぎの事で、「伊勢青木氏」は、少なくとも、実質「パラメータ 7」以上である事が判る。

ところが、上記する「伊勢域」の、この「三重」に隣接する和歌山には、「パラメータが4」と成っている。
ここには、本来は、何れの青木氏も歴史的に定住地ではない。
しかし、定住地論ではないが、”「青木」”と云う地名が、”和歌山有田郡”に存在する。
ここには、平安末期に、確かに「藤原氏」が守護として赴任している。
しかし、この「藤原氏」は「脩行系の藤原氏」で、「秀郷流青木氏」とは無関係である。

この「藤原氏」が赴任移動した地域は、有田郡の”「明恵」”と云う地名に成っている。
”「藤原明恵」の赴任先末孫だ”と云う一族がこの「明恵」地域に住んでいる。(家紋が疑問)
そこから離れた地域に、「青木」と云う地名があるが、ここには歴史的に村の形成は無い。
恐らくは、明治期初期に地名として、「第3の青木氏」の「青木村」が多く作られたが、その時に名づけられたものである。
周囲に、最早、その「第3の青木氏」は全く存在しない。
ところが、上記した様に、「紀州」は「神域の伊勢域」であった。
この事から、長い歴史の中で「伊勢青木氏」は”「紀州」”の方向に「子孫拡大」で伸長して行った。

伸長の経緯
(1) 実は、この和歌山の「有田郡」には、明治初期から筆者の「伊勢青木氏」の「絆青木氏」が存在する (1)。
(2) 祖父の代に「伊勢青木氏」に所属していた「職能団」の中から、「絆青木氏」を発祥させた (2)。
   この「絆青木氏」が明治期から定住している。
   この「絆青木氏」には、(1)と(2)と、以下の「二流の青木氏」がある。
(3) 一つは、伊勢での「家臣団の絆青木氏」が伊勢青木氏倒産で和歌山に移動定住した (3)。
(4) もう一つは、「伊勢青木氏」の「職能集団の絆青木氏」も和歌山に移動定住した (4)。
   合わせて、先ず、「4つの絆青木氏」がある。

(5) この「職能集団の絆青木氏」には、更に、和歌山で祖父の代で「絆青木氏」として発祥させた元は「藤田姓(明治期の農民)」の「絆青木氏」が有田郡域に定住した (5)。
   (この藤田の「絆青木氏」は明治の終わり頃に「絆の養子縁組」を破棄した。)
(6) これと別に、「伊勢秀郷流青木氏」の一部が明治期に、和歌山ー有田域に定住移動した (6)。

(7) これに同行した職能集団が、「主家の氏名」を「明治期の苗字令」に基づき名乗った「第三の青木氏」がある (7)。
(8) 当然に、倒産時に「福家(宗家)の伊勢青木氏」は、伊勢に子供を一人残して跡を引き継がせて、福家(宗家)の「伊勢青木氏」の地の新宮と云う地域に移動した (8)。

この時、福家(宗家)以外は伊勢に残る。「三家の青木氏」が伊勢の地に残った。

現在も、この”伊勢域”の古来からの「8地域」に存続し、拡大している。

従って、和歌山には以上の「8つの青木氏」が存在する。
これらが「子孫拡大」をしていった「伊勢青木氏の経緯」である。

この全ての「青木氏」が大阪(摂津域)にも移動して子孫を現在も拡大させている。

和歌山には、従って、「パラメータ 4」が出たのである。

更に、この4の内訳は次ぎの様に成る。
「伊勢青木氏」は1、
「秀郷流青木氏」が1
女系血縁性の「絆青木氏」の1
「第三の青木氏」の1
以上がこれに相当する。

但し、祖父の代の「絆青木氏」は血縁性を持っていないので「第三の青木氏」の中に入れる。
従って、「伊勢青木氏」は次ぎの様に成る。
「伊豆の青木氏の「3」
「三重ー和歌山の青木氏の「4」
合わせて、「伊勢青木氏の子孫力」の「パラメータ」は”7”と成る。

しかし、「信濃 9」に対しては、「伊勢青木氏 7」は少なくとも9かそれ以上と成り得る。
その答えが「奈良 1」である。
この「奈良の1」は「名張の伊勢青木氏」である。

小計としては、「伊勢青木氏」は、7+1で、「パラメータ 8」と成る。

そもそも、「伊勢青木氏」は、次ぎの様に成る。

・松坂、名張、員弁、桑名、四日市
(伊勢青木氏と伊勢秀郷流青木氏と青木氏融合族)
(四日市は融合族)

・伊賀、脇坂、上田
(「2つの絆青木氏」 「職能集団」)

・玉城
(「2つの絆青木氏」 「家人集団」)
「青木氏の絆青木氏の本流筋」、

「絆青木氏」には、次ぎの2流がある。
「家人」と呼ばれる家臣に相当する一門
「職能集団」の一門

参考
「家人集団」も「職能集団」も、その本家筋は「女系の血縁関係」を構築していた。
現在の「玉城市の全域」は、明治35年以前は、「2つの絆青木氏」の住人と蔵群であった。(明治35年)
「名張」はこの「奈良の1」である。

以上から成り立っていた。

結局は、これで「伊勢青木氏」の「パラメータ 8」と成るが、これに「都会流失分」が加味される。

これに、下記の「大阪の都会移動分」を加味すれば、「パラメータ 11」以上程度と成ろう。
(「和歌山の移動分 2」ー絆、「兵庫摂津の移動分 1」ー支店が加算される。)

以上は、「賜姓族伊勢青木氏」のカウントである。
従って、殆ど親族関係にあった「伊勢秀郷流青木氏」の分が「伊勢域」の中に組み込まれている。
「皇族賜姓族5家5流の青木氏」の”古来からの定住地”に、直接、平安中期から定住しているところはこの「伊勢域」だけである。
それだけに、「伊勢秀郷流青木氏」の「特別賜姓族」は、前段−5でも論じたが、「全くの同族」なのである。

ここで、それを加味すれば、次ぎの様に成る。

「パラメータ 11」+「伊勢秀郷流青木氏分の3」=「パラメータ 14」

前段−5、6、7で論じた様に、「伊勢青木氏」のバラメータ は次ぎの様に成るだろう。

「伊勢青木氏」は、最大「パラメータ 14」と成ろう。 


上記した様に、「明治後の都会移動分」として「大阪14」と「東京18」の分の幾らかが加算される。


「大阪」には、「関西域の青木氏」の定住地から「都会移動」が明治後に起こっている。
「伊勢青木氏」が、この「大阪」にどの程度のパラメータで食い込んでいるかは判らない。
ただ、筆者の分家に相当する「伊勢青木一族」は、明治35年倒産の後、大阪に移動定住して平安期からの「和紙の問屋」を今も続けている。
これは「ルーツ掲示板」と「家紋分析」から観察する事が出来る。
何れのデータでも信頼度は、「都会」と云う事もあって、過去からの伝統的なデータが維持されていない。
裏付けるものがないので、「虚偽」のものとで渾然としていて低下する事から、正確なデータが採れない。

・「大阪の14の内訳吟味」
「大阪の14」の全てが、「集合パラメータ」である事から、関西と中国と中部域の周辺の定住地の総合が14−15である。
従って、全て「パラメータ 1」で、均等に集合したとして考えると、下記の様に、丁度14ー15と成る。
現在も「集合域」なので、「家紋分析」などではそのルーツが判らない。
又、この地域の「青木氏自身」が、その「ルーツの情報」を持ち得ていない場合が多い。
これは「移動定住の所以」であろう。

これでも、「都会の青木氏」の「ルーツの情報」は、この現象から消えるのみである。
大阪の「都会」も然ることながら、「田舎」に於いては、老化して継承出来なくなった現象が起こっているので、「ルーツ情報」は最早、まじかに消える。
仮に、遺されたとしても問題は、「正しいルーツ情報」が遺されたかとうかの問題である。
この様な状況の中では、「遺される情報」は、「慣習仕来り掟」の伴わない環境の中では正しく遺されずに湾曲されるが世の常である。


とすれば、「大阪周辺地域」の「伊勢青木氏」の場合は、周辺の「伊勢青木氏」が、関係する定住地は「3地域」と成る。
従って、「大阪の14」の内の「3」は獲得できる。

依って、「伊勢青木氏の定住地」の「パラメータとして 「14」、これに「都会移動分」を加えて、その「総合の子孫力」の「パラメータ」は14と3で「15」と成る。

結局は、「伊勢青木氏」の合計「パラメータ」 15」(実質12)である。

事ほど左様に、大阪に集まる「青木氏」は次ぎの様に成る。

「伊勢青木氏」と「伊勢秀郷流青木氏」を始めとして、
「香川青木氏」、「高知青木氏」、「徳島青木氏」、
「福井青木氏」、「長野青木氏」、
「愛知青木氏」、「岐阜青木氏」、
「近江青木氏」、「兵庫青木氏」、「滋賀青木氏」、「鳥取青木氏」、
その他地域の青木氏

以上の地域に、「大阪の14」が分散して「子孫力」として各地域に加算される。
全体の20%程度が大阪に集まっているのだが、上記の14地域から、1地域に「パラメータは1」を配分できる。

比較対象として、「都会」の「東京18」は「武蔵国」で「秀郷一門の定住地」であるので、「パラメータ」の持つ意味は若干異なる。
「大阪の14」は、その意味で、「伝統の継承」は、「東京の18」に比べて、関西域は、これからは低く成る事を物語る。

その事から、「伊勢青木氏」の「遺された伝統」の意味は実に大きい。


そもそも、「伝統」とは、その「伝統」を維持している「氏の思考の基準」となるものである。
「氏の思考基準から外れた考え方」はその氏は排除する。
要するに、「伝統」=「思考基準」(行動規範)である。
況して、「氏の独善の宗教」=「密教」であるとすれば、「宗教的な作法」の「伝統」は”自らの氏が決めた作法”である。
「氏の思考基準」である。
次ぎの”「青木氏だけの伝統」”は、”「青木氏の思考基準」”となる。
「青木氏」は、”この様なものの考え方をしていた”と云う事で理解するべきである。


所感(伝統 2)
筆者の「伊勢青木氏」の生活の中にも、何気なく行ってる「慣習仕来り掟」は、外から観れば、”古来のもの”と観られる。
筆者はそれを当たり前だと「無意識」に受け取っていた。
子供の頃から、”何か違うな”と思いながらも、その「無意識の感覚」が強く打ち消していた傾向があった。
今、思えば、「部屋の間取り」や「構え」や「大きさ」や「家具」や「調度品」や「装飾品」や「作法」等は確かに違う事が判る。
例えば、「達親の論文」で論じた様に、「祭祀の作法」の”「達親」”等はよく調べると、「古代慣習の継承」であったりする。
この様な事が、未だ、沢山ある筈で、「無意識」を「有意識」にして、これから「伝統」を掘り起こして行く計画である。
何せ、相当伝授されたが、その”有意識の持った人”が居なくなっている現状である。
何とか「違い差」を見つける事と認識している。そこから検証を進めて投稿する。

後に、詳しく伝統の論文として、投稿する予定だが、「無意識」を「有意識」にして、因みに一つ簡単な例を挙げる。

祭祀で、仏様に、線香を捧げる。
この時の”「仏法作法」”が異なっていて、”「古来の密教浄土宗の作法」”が遺り継承されている事がある。

「仏説作法」
それは、先ず「仏」に向かって挨拶をする。
「数珠」は、親指に賭ける。ところが一般は親指以外の4本の手に賭ける。
そして、「粉の線香」を、先ず、一摘みして、一般ではそのままに香炉に入れる。
ところが、この時、その一摘みの線香を、香炉に入れずに、「額中央」に当てる。
その後、に香炉に入れる。
これを、3度繰り返す。

これを他の宗派では日蓮宗は一度で、真宗は2度にして、額に当てずに、直ぐに香炉に入れる作法である。
ここで、重要な異なる作法が2つある。

”「親指に数珠」”を掛けるのは、「親指」の持つ意味から来ている。
この”「数珠作法」”は、他の宗派にもあり、「自然神」をも崇め、「神仏合体」で信仰する「修験道師」にも、一部作法として遺されている。
これも「古来の作法」であったと観られる。
古来は「現在の数珠のサイズ」の様では無く、現在は小さくなかった。
古来は「108の球」を連ねた「長い数珠繋ぎ」であったのです。それを両方の親指に賭ける。
そして、その「長い数珠」を両手で擦り合わせて、”「擬音」”を出す作法であった。
この”「擬音」”で、「仏への合図」とした。
これは現在では無く成って居る。
青木氏の中でも無く成って居るが、”親指に賭ける作法”だけは遺されている。
ところが次の作法では異なっている。

「作法の相違点」
A 一つは、回数が3度にする作法
B 二つは、額に当てる作法

これらには、2つの作法には、「古代密教浄土宗」のみ「本来古来の姿」が「仏説根拠」を伴って遺されている。

先に、Bに付いて、この「額に当てる」とは、何なのかである。
それは、古来より、「額中央」に、人間には、「瘤」の様に膨らんだ「複眼機能」と云うものがあった。
現在は、その機能は退化して、大脳の下に10ミリ程度の大きさで押し込まれている。
これは「前頭葉」が進化して大きく成った事により退化して、更に、存在場所が圧迫されて奥に引きこもった様に成って居る。

ここで、この「複眼機能」は、ここに「無我無心」にして「全神経」を集中させると、右脳より「ベータ波」を飛ばす事が出来る。
これは、「未来」を予見し、「過去」を悟り、「現在」を見据える事、の出来る「予知機能」を有している。
この「予知機能」を使って、「過去の人」と成った「仏」に対して、「未来」に生まれ変わってくる「仏」に対して、「現在」の世に未だ居る「仏」に対して、「信号」を送る事が出来る。
(現在、中国では、現実性を以って研究が進んでいる。「中国山岳民族」に、未だ、この「複眼機能」を有している「少数民族」がある。)
この「信号」の「ベータ波」で、「三世の仏」に対して、”「会話」をする事が出来る、”と信じられている仏説である。
この「仏との会話」は、例えば、”生前中は大変にお世話に成りました。ありがとうございます。”との事が出来るとして、この「仏説作法」が遺されているのである。

この「3度」とは、「過去、未来、現在」の「仏」に対する「三度」と成っている。
これが、「古代密教浄土宗の仏説作法」である。
これは、一概に、”迷信”では無く、実は、”生態学的に根拠のある現象”なのである。
この「複眼機能」は、現在も「動物の本能」として持っているもので、人間には退化している。
ところが、未だ、人間の元と成る「女性」には、「母性本能」の一輪として遺されている。
そして、この”「機能」”を鍛える事で、「予知能力」は高まる事が判っている。
特に、「男性」は全く働かないが、「女性」には未だ現実に持っている。
現実に、右脳から発する「ベータ波」が「母性本能」の中で高く成ることが判っている。
「女性」が子供を育てる時には、現在も、この機能の一部を使っている。

これが「古代仏説」として、その「作法」が、「三世の仏」に「話しかける手段」として、未だ「青木氏」の中で遺されているのである。
これは、「古来の仏説」では、”「仏」が死する事は、「肉体の消滅」 を意味し、「霊威」は一定期間遺る”とする「仏法」である。
従って、この遺された「霊威」に対して、上記する”「古来の仏説作法」でのみ話しかける事が出来る”とした説法である。
その”「霊威」の存在する期間”が、”「現在過去未来」の何れにか存在する”として、「3度」と成って居るのだ。
その「祭祀の目的」、例えば、「葬式」では、「現在」に存在するとして「現在」を、「法事」であれば、「過去」に存在するとして「過去」をと成る。
「常の祭祀・お勉め」では、「未来」(「仏」が生まれ変わる)に存在するとして「未来」に向かって、「仏との会話」をするとした仏説である。
一切の「祭祀の作法」として、「密教浄土宗」では、総括して「三界の3度の動作」を繰り返す作法と成っている。
これを、この「動作の回数」と「額の所作」を省いて、その「宗派の考え方」で、「過去現在未来」の何れかの「三界」に対して1度、2度とした。
これが、「顕教の浄土宗」では無く、「密教の浄土宗」の中に遺されている「密教の古来作法」の一つである。
以上の事を「根拠」とした、上記した「古来作法」なのである。

以上、「達親」に続き、「伝統」の一つを披露した。
「伊勢青木氏」等の慣習の中には、この「古代仏説の作法」を、未だ遺されたものとして、現在も引き継いでいるのである。
これらの「伝統」は、「先祖の青木氏」を正しく理解する上で、”意味のある事だ”と考えられる。


> ・> 青木氏の分布と子孫力
> >
> > [地域別分布力]
> > > 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
> > > 全国平均(全国単位 % 表ー1)
> > > 地域      異変の県        分布力
> >> 九州地方   長崎、大分       5%
> >> 四国地方   高知           2.5% 
> >> 中国地方   山口、岡山       2.5%
> >> 関西地方   三重(筆者ルーツ)  14%
> >> 東北地方   秋田           7%
> >> 中部地方                 15%
> >> 関東地方                 45%
> >> 北海道・沖縄               6%
> >> その他                   3%
> >>
> >> 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
> >> 九州地方  1.3
> >> 四国地方  1.3
> >> 中国地方  1.3
> >> 関西地方  4.7
> >> 中部地方  4.3
> >> 関東地方  11.3
> >> 東北地方  2.0
> >> その他   11.0
> >>
> >> 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
> >>
> >> 修正地域(表ー3)
> >> 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1−7 三重 12 福井 4 愛知 13−7
> >> 秋田 1
> >>
> > 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
> >> 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
> >> 福岡  2      山口  0   愛媛  3     兵庫   3    三重  1
> >> 長崎  0      島根  2   香川  1     大阪  14    石川  2
> >> 佐賀  1     広島  3   高知  0     京都   5    福井  1
> >> 大分  0     岡山  0   徳島  1     奈良   1    岐阜  3
> >> 熊本  4                        和歌山 4     愛知  13   
> >> 宮崎  2                        滋賀   1    長野  9
> >> 鹿児島 1                                   山梨  1
> >>
> >> 域平均 1.25  平均 1.25  平均 1.25    平均 4.7     平均  4.3        
> >
> >> 関東地方(45%) 東北北陸地方(7%) 沖縄、北海道地方(17.5%)
> >> 静岡   5   青森  1      沖縄   1
> >> 神奈川 21   山形  2      北海道 11
> >> 東京  18    岩手  1
> >> 埼玉  17    新潟  4
> >> 群馬   6   秋田  0
> >> 千葉  11   福島  4
> >> 茨木   4   宮城  2
> >> 栃木   8                                     
> >>
> >> 域平均 11.3   平均  2.0      平均  11.0  
>
>  青木氏の分布と子孫力−9に続く。
>


  [No.313] Re:青木氏の分布と子孫力−9
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/05/24(Sat) 07:43:10

> 青木氏の分布と子孫力−8の末尾

> 事ほど左様に、大阪に集まる「青木氏」は次ぎの様に成る。
>
> 「伊勢青木氏」と「伊勢秀郷流青木氏」を始めとして、
> 「香川青木氏」、「高知青木氏」、「徳島青木氏」、
> 「福井青木氏」、「長野青木氏」、
> 「愛知青木氏」、「岐阜青木氏」、
> 「近江青木氏」、「兵庫青木氏」、「滋賀青木氏」、「鳥取青木氏」、
> その他地域の青木氏
>
> 以上の地域に、「大阪の14」が分散して「子孫力」として各地域に加算される。
> 全体の20%程度が大阪に集まっているのだが、上記の14地域から、1地域に「パラメータは1」を配分できる。
>
> 比較対象として、「都会」の「東京18」は「武蔵国」で「秀郷一門の定住地」であるので、「パラメータ」の持つ意味は若干異なる。
> 「大阪の14」は、その意味で、「伝統の継承」は、「東京の18」に比べて、関西域は、これからは低く成る事を物語る。
>
> その事から、「伊勢青木氏」の「遺された伝統」の意味は実に大きい。
>
>
> そもそも、「伝統」とは、その「伝統」を維持している「氏の思考の基準」となるものである。
> 「氏の思考基準から外れた考え方」はその氏は排除する。
> 要するに、「伝統」=「思考基準」(行動規範)である。
> 況して、「氏の独善の宗教」=「密教」であるとすれば、「宗教的な作法」の「伝統」は”自らの氏が決めた作法”である。
> 「氏の思考基準」である。
> 次ぎの”「青木氏だけの伝統」”は、”「青木氏の思考基準」”となる。
> 「青木氏」は、”この様なものの考え方をしていた”と云う事で理解するべきである。




青木氏の分布と子孫力−9


・「東京の18の内訳」
「東京の18」には「江戸時代の六左兵衛門ルーツ」(吉宗に同行 享保改革)として1が見込まれるので、伊勢のパラメータは総合12と成る。
筆者の縁者が東京に「昭和の移動」として既に4家族移動しているので、更に、その子孫力は12以上に伸びると考えられる。
東京は関東域と北陸東北域と中部域からの移動として算出する。
東京は大阪に比べて「ルーツ情報」は無くなっている可能性が高く、在ったとしても、且つ、政治の場であった事から、一層、情報は錯綜し搾取偏纂され矛盾に満ちた情報と成っている。
家紋分析などいろいろ駆使したがまとめられなかった。
「浄土宗」なのに「日蓮宗」、「菩提寺」が何処かにある筈なのに「檀家寺」、「氏」であるべきなのに姓名等の矛盾が多すぎる。
「東京」に定住移動し易い地域となれば次の通り、関東域を中心として定住移動すると見込まれる。
青木氏の定住している地域を区切るとした場合、次の様な地域から移動が起こる。

「埼玉、千葉」、「栃木、群馬、山梨」、
「新潟、秋田、青森」、「岩手、福島、宮城」、
「山形、群馬、茨木」、「神奈川、静岡」、
「信濃、富山、石川」、その他

「大阪」の「都会移動」の出来得る「6定住地域」:

「高知香川徳島」 「和歌山三重愛知」
「兵庫岡山広島」 「福井長野岐阜」
「滋賀鳥取島根」「その他」

・「滋賀」
この「滋賀」であるが、一見して「近江青木氏」と考えがちであるが、実は違うのである。
「滋賀」に付いて、ここには少し歴史的に違った経緯を持っている。
ここには確かに、「青木氏」は平安期から存在する。
ところが、ここで思いもよらない事件が起こった。
「嵯峨期の詔勅」の禁令を破ったのである。

先ず、「近江青木氏」は、そもそも「5家5流の皇族賜姓族」の一つである。
ところが、この「近江」には、「天智天皇」の「第7位皇子」の「川島皇子」の定住地でもあった。
この「川島皇子」は、「第4世族」であったが、賜姓を受けられる「第6位皇子」では無かった。
そこで、”その勲功が高い”として、特別に「近江佐々木」の地名を採って「近江佐々木氏」を賜姓した。
この「近江佐々木」は「第6位皇子の施基皇子」(伊勢の青木氏の賜姓を受ける)の弟ではあって、近江一帯の守護に任じられた。
(日本書紀にもよく出て来る人物である)
ところが、その後、「文武天皇期」に「第4世族の皇子」に対して「近江青木氏」を賜姓した。
この「近江」には「賜姓族」が2氏発祥した。
ところが、この2氏が「慣習掟」を破って平安期初期に勢力争いをした。
そこで、「近江青木氏」は争いを避ける為に、滋賀地域に一族一門が揃って移動して引き下がった。
「全青木氏」は、族毎に棲み分けを基本としていた。
ところが、この「近江」には同族血縁による仕来りから、「賜姓族佐々木氏」と血縁した「近江青木氏」との「佐々木氏系青木氏」が発祥していた。
(始祖川島皇子の佐々木氏の方が永代で二段上位)
結局、「佐々木氏系青木氏」はこの「近江」に残ったが、「近江青木氏」は、「滋賀」で平安末期頃まで定住していた。
しかし、「滋賀」での政治的な混乱を避ける為に、再び、元の「近江」に戻った。
この時、この「滋賀」に家を断絶してしまった「娘一人の家」と成った支流家がただ一つ残った。
(青木氏側の記録では娘も無くなったとされてい「完全断絶」と成っている。)
そこに、伊勢北部上田郷から農兵として出て来ていた者が、「滋賀」で力を着けて山賊の様な形で周囲を圧迫していた。
ところが、この者がこの「支流の娘」を取り込み強引に「近江青木氏」を名乗った。
ところが、この者は能力に優れ多くの配下(山賊・軍事力)を従える事と成った。
この「青木の娘」を前面に押し出して「正規の賜姓族青木氏」として朝廷に入り込み、その結果、11の守護代に10の役職を務めて信頼を勝ち得た。
ところが、逆にこの「近江青木氏」の方は役職から遠のくように成ってしまった。
そこで、この「近江青木氏」は「賜姓族の禁令」を破って、この「近江青木氏」を実質上乗っ取った「上田氏」と戦ったが敗退した。
この勝利した上田氏は「滋賀青木氏」として拡大し続け、その後、「滋賀」で「氏族」として完全定住し子孫を大きく拡大させた。
その後、鎌倉期には、この「末裔子孫」の内の一族が失職して、静岡ー千葉と流れて行き、遂に、下総にまで移動して落ち着いた。
下総には、平安中期から「秀郷流青木氏の定住地」でもあった。
この「下総青木氏」と千葉に辿り着いた「上田氏の嗣子」の「滋賀青木氏」を名乗るこの一族との間に血縁族が生まれた。
遂には、上田氏の搾取の「滋賀青木氏」が信頼されて「下総青木氏」と同化してしまった。
挙句は徳川氏の家臣とも成ってしまった。(「家興要領」)
一方で、戦いに敗れて一門が失墜してしまった事で、「近江」には居られなくなり、結局は、「兵庫」にこの正当な「近江青木氏」は一族全ては移動した。
そして、ここに定住していた「清和源氏の宗家」の「頼光系の源氏」に助けられた。
再び、新たに「兵庫の青木氏」としてある程度の勢力を持ち得た。
「伊勢ー信濃ー甲斐の青木氏」が行う「古代和紙の殖産と販売」の「二足の草鞋策」の指導の支援を受けた。
その内、財力を高めて「衰退していた近江青木氏」を遂には「兵庫摂津」で元の勢力に戻した。
ところが、ここで「源平の戦い」が始まり、世話を受けた「清和源氏」に対して恩義を果たすために「嵯峨期の禁令」を破って合力した。
そして、「近江佐々木氏」と「佐々木氏系青木氏」ら共に、「源氏」に合力して共に敗退して、再び、「美濃青木氏」を頼って移動した。
この「美濃」も「古代和紙」での財力を背景に「源氏」に味方して、「近江青木氏」と「美濃青木氏」は一族一門末裔に至るまで厳しい平家の掃討作戦で完全に滅亡した。
この時、近江源氏」、「美濃源氏」、「駿河源氏」、「木曽源氏」等の周囲の「源氏一統」は完全に絶えた。
ただ、この中の「近江青木氏」の「末端末裔」が、何とか「越前福井の逃避地」に逃げ込んで保護を受けて生き残った。
この「支流末裔の者」が、越前福井で「伊勢青木氏と信濃青木氏」らの「影の支援(和紙の生産)」の下に「近江青木氏」を兵庫で遺した。

従って、この「兵庫の3」は、「皇族賜姓族の5家5流」の一つであるにも関わらず、「近江青木氏」である。
そして、この「越前福井の末裔」である。
この為に「伊勢青木氏 12」や、「信濃青木氏 9」の様に、「全国平均4のパラメータ」を得ていないのである。

従って、この「滋賀の1」は上記した様に、「皇族賜姓族」ではない「第三の青木氏」の上田氏の「滋賀青木氏」である。
その「第三の青木氏」のパラメータに出た「唯一の青木氏」である。
上記した様に、この「滋賀青木氏」は、平安期では勢力を持ったが、鎌倉期に成って失職し土地を奪われ、完全に衰退した。
千葉下総の「滋賀青木氏」が「千葉青木氏の融合族」と成って生き残っている。
この千葉下総の「滋賀青木氏」は「宗派と家紋で判別」できる。
「千葉の11」の1程度であろうから、合わせて「滋賀青木氏」の「第三の青木氏」は結局は2と成る。

結局は、「滋賀青木氏」のパラメータは「2」と成る。

(そもそも、「第三の青木氏」は、元よりその「ルーツの系統性の概念」が元より無かった事から、「青木氏」としてのデータが採り難いのである。
この「滋賀青木氏」にしても、青木氏とは成ったとが、滋賀のみの系統性しか確認できず、その後の確実なデータは、流れとしては確認できるが、確定できない。)


・「第三の青木氏」
そこで、この「「第三の青木氏」に付いて追記して置く。
そもそも、この「寛政の史書」にも記載されている様に、確かに「第三の青木氏」は4期に発生している。

その4期とは次の通りである。
平安末期  上田氏の「滋賀の青木氏」で「近江青木氏の末裔」を名乗った。
室町末期  下剋上で「主家の青木氏」を名乗った。主に「美濃青木氏」、「甲斐青木氏」を名乗った。
江戸初期  立身出世には家柄身分を必要として社会と成った。「郷氏や郷士の名義札」の売買が行われ、合法的に青木氏をなのった。「女系の青木氏」を名乗る事も起こった。
明治初期  苗字令に基づき「全国24地域の藤原秀郷流青木氏」と、「伊勢青木氏」、「信濃青木氏」、「甲斐青木氏」、「近江青木氏」を名乗った。

「嵯峨期詔勅」に基づく禁令であった為に、「明治初期」を除き、「平安末期」と「室町末期」と「江戸期」は、それなりに「理由づけした青木氏」である。
「流れ」としての内容は把握できる。
しかし、「明治初期の第三の青木氏」は、先祖の「過去帳」を持たない事と、「年期」が無い事の為に、パラメータに出て来ない。
「家紋分析」などでも「家紋の系統性と正統性」が無い為に、明治期前の「ルーツの内容」が残念ながら捉えられないのである。
恐らくは、これからも、よほどの事が無い限りは、その宗派の作法からも、「姓としての系統性」が依然として無い為に難しいと観られる。
明治期以降の「自己の家の管理」にしか方法はない。
その意味で、「過去帳」と「年期」の「二つの条件」を持った平安期の「上田氏の滋賀青木氏」のみがパラメータを持った事に成った。
従って、この鎌倉期ー室町期中期頃までの資料は遺されている。

「室町末期の甲斐青木氏」(武田氏系青木氏:皇族青木氏)の中に、この血縁性の無い「第三の青木氏」が発祥した。
「賜姓族」ではない「皇族青木氏」は、「清和源氏の傍系支流」である事を前面に押し出して名乗り、それを理由に「青木氏」を名乗った。
(「嵯峨期の詔勅」に「第4世族の皇族出出自者」は、下族する際に「青木氏」を名乗れる。)

ところが、この「甲斐の皇族青木氏」には、「一族争い」が起こり、この時、この「分家側」が、”跡目が得られない”として初期より家臣からの「貰子」を「養子」にし、「分家の跡目」を継がした。
しかし、その後に「妾子」の子供ができ、その子供が「分家の跡目」を継いで、「2つの青木氏」が出来て仕舞ってた。
親子の「主家の争い」を起こして「同族争い」が起こった。
ところが、この親が「貰子ー養子」を「分家の跡目」として頑固に立てた。
妾子の「3人の子供」らは、怒って反旗を親に対して翻した。
遂には、その「親の行動」は、本家に対して無断で「宗派変え」の異常行動にでた。
貰子ー養子」の立場が、「曹洞宗」であった事から、本家の”本筋を通す様に”の圧力に反発したのである。
結局、本家筋は、この「貰子−養子」を「安岐の武田氏」に移動させた。
ところが、この「貰子−養子」は力を発揮して、安岐で財力を蓄えて、甲斐に戻って来た。
この「本家−分家争い」から共に衰退し、一族の自らの菩提寺も衰退させてしまって放置の状態と成っていた。
そこに、この貰子−養子」の青木氏は、その財力を使ってこの「青木氏の立て直し」を図った。
結局は、「妾子の青木氏」は、武田氏から排斥されて、甲斐の山奥山間部の巨摩郡に追いやられ、その日暮らしの生活を送っていた。
結局は、この争いは「4派」に分かれて、この様に、同族の「跡目騒動」の争いが続いた。
ところが、経済的に優れて、且つ、武力等の面で優れていた「貰子」の「養子の青木氏」が、各地に転戦して勢力を付けて「子孫拡大」をさせたのである。
最終は、この血縁の無い「養子の青木氏」が、本家の衰退していた「菩提寺の常光寺」を復興させたのである。
そして、その後にこの同族4氏が話し合ったが、話は就かなかった。
(甲斐には奈良期より「甲斐賜姓族青木氏」が別に存在して居た。)

しかし、この「貰子ー養子」のこのルーツの「過去帳」が、「曹洞宗」であったので、寺では「人別帳」である事から、「年期」があってもパラメータが採れないのである。
ところが、結局は、”復興した常光寺”も「曹洞宗」に改宗してしまった為に、ある室町期の中期の時期までのルーツは確認できるが、それ以後は判らない。
「明治期の苗字令」で「青木氏」から、「表記変更」か「家紋掟」に依って元の「別姓」に変更した可能性の証拠が観られる。

「秀郷流一門の24地域」や「近江と兵庫と甲斐」等には色々な「青樹氏、葵木氏、蒼樹氏、仰木氏、青城氏」があるのはこの事による。
中には「ウォーキ」と呼称するものもある。
「藤原利仁流の青樹氏」のみならず、一夫多妻から妾子には、「甲斐の皇族青木氏」の様に、「青木氏の呼称」の跡目は取らさずにこの呼称を用いたのも原因の一つである。
明治期の呼称では、遠慮なく「青木氏」を名乗る者もあり、憚って、上記の「青木氏」を名乗った者もあった。
これはその「地元の青木氏」との「関わり具合」や「地元の青木氏」の「考え方」にも左右された。
ただ、「伊勢青木氏」や「信濃青木氏」の様な場合は、一族の血縁制度(「養子縁組の絆制度」)により、その絆の関係の「長」には、女系での「青木氏」を当初から制度として用いてた。
この為に、この「あおき」の各種の呼称の「姓名」は生まれなかった。

(この「絆青木氏」の「長」から更にはその配下へと養子や女系などで血縁を進めて「青木氏」を護っていた。
明治期にはそれでも、紀州では、無縁ではないが、「第三の青木氏」が生まれた。)

因みに、実は、強ち、「ウォーキ」の呼称の仕方は間違いではないのだ。
「守護神の神明社」では「青木氏」を「ウォーキ」と古来から呼称する慣習があった。
恐らくは、上記の様な状況に陥っていた「養子の青木氏族」の多くは、この「ウォーキ・あおき」の呼称を室町期か明治期に憚って使った呼称の一つである。
(江戸初期にもこれらの「ウォーキ・あおき」は、「青木氏の権威性」を社会に誇張する為に、恣意的に「幕府」によって「青木氏」に変更する様に命じられた経緯がある。)

この事と、「家紋」と「宗派」と「守護神」が相当しない為にパラメータに成る為の数値が低くなる事が原因である。上記した90〜150年が限界点であるので、各地でそろそろパラメータが採れる時期に来ている。


・「京都」
「京都の5」は3流の「近江の青木氏」の総合である。
この3流の「近江青木氏」は、鎌倉幕府の「2度の本領安堵策」で近江に戻った。
頼朝はこれらの同族と賜姓族の「本領安堵策」を優先した。
しかし、この事に依って頼朝は、北条氏に身の危険が迫るほどに反対反発された。
しかし、これを押し切って2度も土地以外にも色々な安堵策を実行した。
この為に頼朝は”トリカブトで毒殺”される始末と成った。

この兵庫の「近江青木氏」の一部(1)と、近江の「佐々木氏系青木氏」(2)と「佐々木氏」が、源平合戦後に逃げ延びた。
この為に、「日向青木氏」の様に、逃亡の為に「佐々木氏」から「青木氏」に名乗り替えした「青木氏」(3)である。

この「3流の青木氏」は、その後、平家の追手を逃れる為に、越前福井から「神明社の神職」として「伊勢青木氏と信濃青木氏の支援」で各地に「神職」として配置移動した。

(「佐々木氏」も同じ神職として以北の「神明社の神職」と成っていて、各地、取り分け、東北地方に「佐々木氏の神職」が多いのはこの事に依る。)

「佐々木氏系青木氏」は、隣の越前福井に逃げ込んだ末裔が、「伊勢青木氏や信濃青木氏の支援」(古代和紙の殖産)を受けて、再び「青木氏」を盛り返し、平家滅亡で鎌倉幕府から「本領安堵策」で何れも元の近江に戻った「近江佐々木氏系青木氏」である。
そして、「嵯峨期の詔勅」を利用して「青木氏の不入不倫の権」で名乗り替えした。
「神明社の神職」はこの意味で保護された。
「越前福井の逃避地」とは別に、「神明社の神職」に成る事は同じ「皇族賜姓族の慣習」として周囲から認められていた。

「越前福井」
この様に、「青木氏の逃避地の越前福井」は「青木氏存続」に大きく貢献していた事が良く判る。
そこで、この「越前福井」の逃避地の「子孫力」が果たしてどの程度であったのかを論じてみる。
当然に、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」が主導して、それが原因しているのであるが、その効果の基に成っていたのは「二足の草鞋策」である。
「保護」や「情報の収集」や「生活の糧の準備の手伝い」をするのが「伊勢と信濃のシンジケート」で、それを匿うのは「神明社」であった。
上記の様に、「近江青木氏」等が絶滅に瀕している時に、情報を集めて救いだし保護して越前に運び、そこで「近江青木氏」等の世話する事は相当の力を必要とする。
平家などは掃討作戦を厳しく実施した事は有名で、それを救い出す事は並大抵の事ではない。
幾ら、「不入不倫の権」で保護されているとしても、それを護るかどうかは相手次第である。
公然と出来る事では決してない。少なくとも、”文句のつけようのないある範囲”までは持ち込む必要がある。
”それ以上に攻撃すると「朝敵」となる”までは、”隠密裏に救出を進める事”が肝心だ。
その”安全な領域に持ち込む限界点”は、まさに”神明社”にあったと考えられる。

「安全の限界点=神明社」

以上の数式が最低に成り立っていたのである。

其の上で、次ぎの数式が成り立っていた。

「神明社」=「青木氏」=「皇族賜姓族」 

以上の「2つの数式」が世の中の人々に「仕来り」として成りたっていたのである。

この「守護神の神明社」は、古来3世紀より「自然神ー皇祖神ー祖先神」の流れの中にあった。
「不入不倫の権」で護られた”「青木氏」を犯す事”の前に、この”「神明社」を犯す事”が何人も出来なかった事に成る。
要するに、「神明社の神通力」であった。
その社会の認識の構図は次ぎの様であった。

「神通力」=「2つの数式」

以上として認識されていたのであって、それが”「御師様、氏上様」”と呼ばれていた所以であった。

ところが、この「神明社の神通力」に頼る事は無かった。
のみならず、「軍事戦略的」として「神明社」をある戦略的な領域に配置して「テリトリー」を作った。
その「テリトリー」の中に入れば、「神明社の力」で排除できる様に成って居た。
要するに、”袋のねずみ”に成る様にもしていた事が「神明社の分布」でも判る。
では、「神明社」に”「軍事的な構え」を備えていたのか”を調べたが違った。
「シンジケート」が敵を”袋の中の鼠”にして、これを殲滅できる様にしていたのである。
「伊勢ー信濃シンジケート」と他のシンジケートとの「経済力」を使った連携であった。
更には、「神明社」の信心する周囲の民の”「氏子衆」”もがこれを補完的に護ったのである。

要するに、不用意に入り込めば、どこから攻めて来るのか、誰が敵なのかは分らない「見えない敵」との「ゲリラ戦」と成る。
つまり、ここに入れば”袋の中の鼠”に成るよと云う認識が「青木氏の抑止力」と成って、殺傷力を使わずして入り口で留めるものであった。
これは、上記の数式の認識が、「悠久の歴史」の中で培われていたのであって、それが社会全体にも浸透していたのである。
その代名詞が、”御師様”であって、”氏上様”の呼称で呼ばれていたのである。
全国に、”500社にも及ぶ神明社”の「青木氏の神職」は、”御師様”と呼ばれていて、室町期の資料からも読み取れる事として次ぎの様な役目を持っていた。
それは、次ぎの事柄が書かれている。

1 「情報能力」     政治、経済、軍事の領域までもの「情報収集」の内容であった。
2 「医術能力」     当時の医術の「漢方医の知識」を持ち合わせていた。
3 「薬師」        当然に、2に付随して「漢方薬」の「薬師の役」も担っていた。
4 「歴史学」      1の事から氏の菩提寺とも伴って情報がまとめられて過去の「歴史収集源」であった。 

全国の主要地に存在する「神明社の情報連絡網」が相互間に出来上がっていて、氏子などの活躍もあって、相当な情報収集能力を持っていた事が伺える。
更には、これには、3の事が大きく働いていて、全国に氏子と共に、「薬草の捜索や収集」で全国を探索した事が書かれている。
この時に、得られた情報を「神明社」に集めていたと観られる。
その「御師の副業」として、「薬師」として「薬」を手広く販売していた事も書かれている。
この「薬師の役割」は、その1の「情報収集力」も含めて、「青木氏の二足の草鞋策」の「商い」に大きく貢献していたのである。
当時、未だ医療組織が出来ていない社会の中では、「薬師の役目」は「薬」のみならず、当時の「医術の担い手」でもあったのである。
当然に、これらを4つを一つにまとめ上げて整理すれば、「歴史学」は生まれる。
江戸時代は識字率は低かったが、江戸の寺子屋と同じく、室町期から寺と共に社殿を使っての氏子等の教育にも関わっていたのである。
一種のコミニュケイションの場の役目も果たしていたのである。
中でも「薬師の役目」は、1、2、4と共に大きかった事が多くの資料に観られる。
即ち、「御師」は「薬師」とも云える活躍であったのであろう。
これは「青木氏の神職」より多くの医師が生まれた所以でもある。

筆者は、次の様に考えている。
社会組織が未だ未完成な古代の時代には、誰がこの役目を担っていたのであろうか。
間違いなく「伊勢神宮」から発祥した「御師」にあって、その「呼称の根源」はここにあったと考えている。
故に、「御」であって、「師」であったのではないかと観ている。
そもそも、「伊勢青木氏」の「御師頭」から観ても、「伊勢神宮」の「自然神」から来る「鬼道」−「神道」は、そもそも「神の職」のみならず、この「4つの役目」も担っていたと観ている。
「巫女の占い」を始めとして「五穀豊穣」と、「命を有り様」(家内安全)を占いと祈願する行為は、2と3に関わる事でもある。
それらを維持する「情報と識力」(1と4)を高めてこそ、2と3は生きて来る。
元よりこの「4つの役目」を当初からその呼称の根源は来ていて、その「4つの役目」を担っていたと考えている。
故に、それを「伊勢神宮」の「皇祖神」の役目のみならず、”「子神」”の「祖先神=神明社」にもその役目を担わしたのであろう。
恣意的に「神明社」が、この「4つの役目」を突然に持ったと云う事より、元より、「神明社の主務」であったのである。
「神明社」が、1、2、3、4の力を持てば、上記した数式論は、自然発生的に起こるは常道である。
民衆から、「青木氏」を「御師様」や「氏上様」と呼称され、崇め慕われる立場にあったのは、この事に依る。
「祖先神」+「神明社」=「4つの役目」
依って以上の数式は充分には頷ける。

「皇族賜姓族」で「3つの発祥源」の氏が、公然と武力を使う事は出来ない。
その事からすると、1から4の役目を担う事で、「神明社」のみならず周囲からの防御が働き自然的に「抑止力」は働く。
よくも考えたものだと思われる。故に、「神明社」は氏の守護神」であり「匿う場所」のみならず「安全の限界点」であった。
この様に「神明社」は、”神を祭祀する形式的な場所”のなみならず、”実質的な護りの場所”であったのである。

従って、故意的に「越前福井」に「守護神の神明社」を多く集めたのである。
その相互間で連携をすることが必要であった。
「越前福井」に限らず、「隣国2国」と、この前提にある全国の500社ある「神明社の緊密な連携」と成ろう。

その最も分布させている地域が、「富山ー石川ー福井」の日本海の沿岸上にあった事に成る。

当然に、この”「3つの地域の子孫力」がどの様であったのか”が問題になる。
ここには世話をする「神明社の神職」(青木氏)や、逃避地した一族の統一した「菩提寺の住職」(青木氏)もあったので、「商いなどの指導をする者」も必ず定住していた事に成る。
それを実行する「子孫力」は少なくとも「パラメータの1」は必要であろう。
それが「富山1」「石川2」「福井1」と成っている。
この「3つの地域」には、平均的な全く妥当な「パラメータ 4」が得られている。
この「越前福井」に逃避した「青木氏」は、全て「商い」をしていた事が判っている。
「賜姓族の武家」ではなく「商人」を選んでいた。「子孫力」と云うよりは「生きる為」であった。
ここには意味があった。
「伊勢ー信濃の古代和紙の殖産と販売」(末期には総合産業)が背景にあった。
従って、「子孫力」を高めて「子孫拡大」に至るまでの勢いは無かった筈で目的でも無かった。
この事から、パラーメータは「平均の4」を決して超えるものでは無かった事に成る。
故に、「富山1ー石川2ー福井1」と成り得ているのである。
上記の「1、2、3、4の神明社の護り」が在ったからこそ「バラメータ 4」で済んだのである。
それだけに、ここ「越前福井」では、「三つの条件」や「時代性」の影響を受けずに、「自然な子孫力」を保った事が判る。
それの割には「家紋分析論」や「守護神論」から観て、「伝統」の「家紋」と云う点では、「虚偽家紋」などはここには少ない。

これには、「二つの条件」があった。
他の賜姓族の「厳しい戒律や伝統」に縛られた「賜姓族の子孫力」では無かったのである。

「石川の2」は、福井の北域の越前よりに拠点があった事から、その後の分布は石川よりに成った。
後の「加賀」と「越前」と「美濃」と「飛騨」の「四国の国境」に分布していた。

「富山の1」は、「岐阜と富山と信濃と新潟」の「3つの国境」の三角体は「足利氏系青木氏の定住地」であった。
その定住地の岐阜の国境沿いに分布していた。要するに、越中ー飛騨の国境である。

「福井の1」は、越前と美濃の国境の美濃側に国境沿いがへこんだ地帯に沿って分布していた。
要するに、この「3つの定住地」は”「北陸道」の国境沿いに繋がって一線条”にあった。

以上3国は、極めて「機動的な位置」を確保していた事に成る。

上記の「匿う場所」を補完する”うーん”と唸る程の「理想的な分布域」と成っていた。

この地域の「青木氏」の「子孫拡大」は、兎も角としても「子孫力」を現在まで維持し続けられた事は、この「地形の好条件」から「商い」をベースとしている限り頷ける。
又、”「商い」でなくてはならなかったのではないか”と考えられる。
それは、「賜姓族」として集中していれば、また”政治的に利用される危険性”があった。
下手をすれば滅亡と成り得た筈である。現実に、豊臣秀吉に利用された史実がある。
従って、「商い」を中心に据える限りは声高に子孫拡大の策は採り得ない。
それは、「個人」ではなく一つの「集団」としての「掟」であった。
それを「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」が、「商い」と「神明社」を通じて統制していた事に成る。
依って、”「子孫拡大」”と云うよりは、”維持した”と考えられ、「パラメータ4」を超さない範囲で維持していた事に成る。
「伊勢青木氏」や「信濃青木氏」等が、持っていた「慣習仕来り掟」と云う戒律は、適用しなかったと考えられる。
その最たるものとしての「血縁」は、”本家筋を除いて適用せずに「青木氏」外に子孫を横に広げて ”「拡大」ではなく「維持」としたのである。
これは「商人」と云う事であったからこそ出来得た事である。
元来、「青木氏」では「家紋」とするものは「象徴紋」としての考え方であった。
この「3つの地域」の「青木氏」には、「笹竜胆紋」以外の青木氏は極めて少ないのはこの事から来ている。

恐らくは、継承する家紋があったとすると、それは「商標」として扱われていたことが判る。
この地域では、恣意的に「笹竜胆紋」は表には出ずに「総紋」としての扱いであった事が伺える。
秀吉の家臣と成って家康に除封された青木伊豆守と青木伊賀守の福井での青木氏末裔は、現在も「笹竜胆紋」を継承しているが、「本家の総紋」としている事でも判る。


・> 青木氏の分布と子孫力
>
> [地域別分布力]
> 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
> 全国平均(全国単位 % 表ー1)
> 地域      異変の県        分布力
> 九州地方   長崎、大分       5%
> 四国地方   高知           2.5% 
> 中国地方   山口、岡山       2.5%
> 関西地方   三重(筆者ルーツ)  14%
> 東北地方   秋田           7%
> 中部地方                 15%
> 関東地方                 45%
> 北海道・沖縄               6%
> その他                   3%
>
> 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
> 九州地方  1.3
> 四国地方  1.3
> 中国地方  1.3
> 関西地方  4.7
> 中部地方  4.3
> 関東地方  11.3
> 東北地方  2.0
> その他   11.0

> 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
>
> 修正地域(表ー3)
> 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1−7 三重 12 福井 4 愛知 13−7
> 秋田 1
>
> 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
> 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
> 福岡  2      山口  0   愛媛  3     兵庫   3    三重  1
> 長崎  0      島根  2   香川  1     大阪  14    石川  2
> 佐賀  1     広島  3   高知  0     京都   5    福井  1
> 大分  0     岡山  0   徳島  1     奈良   1    岐阜  3
> 熊本  4                        和歌山 4     愛知  13   
> 宮崎  2                        滋賀   1    長野  9
> 鹿児島 1                                   山梨  1

> 域平均 1.25  平均 1.25  平均 1.25    平均 4.7     平均  4.3        

> 関東地方(45%) 東北北陸地方(7%) 沖縄、北海道地方(17.5%)
> 静岡   5   青森  1      沖縄   1
> 神奈川 21   山形  2      北海道 11
> 東京  18    岩手  1
> 埼玉  17    新潟  4
> 群馬   6   秋田  0
> 千葉  11   福島  4
> 茨木   4   宮城  2
> 栃木   8                                     

> 域平均 11.3   平均  2.0      平均  11.0  

>  青木氏の分布と子孫力−10に続く。


  [No.314] Re:青木氏の分布と子孫力−10
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/06/17(Tue) 14:35:09

> > 青木氏の分布と子孫力−9の末尾
> それは、「個人」ではなく一つの「集団」としての「掟」であった。
>それを「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」が、「商い」と「神明社」を通じて統制していた事に成る。
>依って、”「子孫拡大」”と云うよりは、”維持した”と考えられ、「パラメータ4」を超さない範囲で維持していた事に成る。
>「伊勢青木氏」や「信濃青木氏」等が、持っていた「慣習仕来り掟」と云う戒律は、適用しなかったと考えられる。
>その最たるものとしての「血縁」は、”本家筋を除いて適用せずに「青木氏」外に子孫を横に広げて ”「拡大」ではなく「維持」としたのである。
>これは「商人」と云う事であったからこそ出来得た事である。
>元来、「青木氏」では「家紋」とするものは「象徴紋」としての考え方であった。
>この「3つの地域」の「青木氏」には、「笹竜胆紋」以外の青木氏は極めて少ないのはこの事から来ている。

>恐らくは、継承する家紋があったとすると、それは「商標」として扱われていたことが判る。
>この地域では、恣意的に「笹竜胆紋」は表には出ずに「総紋」としての扱いであった事が伺える。
>秀吉の家臣と成って家康に除封された青木伊豆守と青木伊賀守の福井での青木氏末裔は、現在も「笹竜胆紋」を継承しているが、「本家の総紋」としている事でも判る。


青木氏の分布と子孫力−10


「秋田」
東北地方の6県についてである。
この中での「秋田」は、「陸奥地域」として「藤原秀郷流青木氏」の古くからの根拠地である。
「青木村」も形成して「越後青木氏」との連携もあり、「陸奥青木氏」の記帳のないのも不思議の一つである。
(北海道入植移動と室町期末期の混乱の影響はある)
少なくとも「関東の青木氏」と同じ程度の「子孫拡大」を持っている筈で、「青木氏」の現代の存在も確認できている。
”何故に記帳やデータのパラメータが採れないのか”は不思議である。
老化が進んでいることも考えられるが、投稿もある事もあり「青木氏氏のサイト情報」が伝わっていないとも考え難い。
「老化」となると「青木氏の今後」のこの地の「子孫拡大」に不安が残る。
しかしながら、その「周囲の分布」(青森1、岩手1、山形2、宮城2、福島4、新潟4)が納得できる件数にあり、「秋田」だけが全族が移動しているとも考えにくい事とを合わせると不思議である。
周囲が採れているのに「秋田」が0に成るのは”何かが青木氏に起こったから1以下に成っているのであろう。

その不思議のヒントは「大阪」と「東京」の「都会」にある。
先ず、上記した様に、「青木氏」に関係が歴史的にない「大阪」である。
「14のパラメータ」で全体の7%もある。
この「大阪の都会」は関西の県の青木氏の定住地からの移動が主体であろう。
つまり、定住地では無かった大阪ー兵庫東域に「皇族青木氏」の「丹治氏系青木氏」が江戸期初期に四万石の大名として摂津域に赴任している。
この事から、パラメータとして2が考えられるが、その他の数字は考えられない数字である。
又、「伊勢青木氏」が堺に長い間、「大店の支店」を持っていた記録もあるが、「伊勢青木氏」の分家が現在も紙問屋を営んでいるが、パラメータに出てくる数字でも無い。
このパラメータの大半は、つまり、これは上記の答えの一つには「都会への定住移動」の事が考えられる。
(秋田は家紋分析から主に東京などから)
何時の世も、この政治、経済でこの「行動パターン」はある。
では、果たして「秋田」が「大阪」かと云う事になるが、矢張り、「地理的環境」から「東京のパラメータ18」になる。
「大阪14」は、関西以西のパラメータの0域の取り分け4県の吸収地となろう。
「関西以北の移動」があったとしても、現在もその比は少ない事からパラメータを構成するには「以西」である。

とすると、「秋田」の0のパラメータは老化は兎も角として、パラメータの過剰を示している「東京」となる。
そこで、次ぎに「過剰地の東京」の吟味とすると、「青木氏」の最大の定住地の東京である。
18のパラメータで全国比の9%もある。
「藤原秀郷流青木氏」と「丹治氏流青木氏」の定住地の121氏の本領地である。
「武蔵」として「埼玉と東京」に成るが、本領地の埼玉入間に17の全国比の9%もあるとすると、全体から観るとこの埼玉で納得できる数字である。
武蔵入間を中心として神奈川横浜を半径とした円状の中に定住していた事を考えると、神奈川は21である事、埼玉の17である事、
神奈川の秀郷流青木氏に保護されて後に、領地を以北に求めた「諏訪族青木氏」で拡大分布した「栃木の8」である事、
「群馬の6」、「千葉の11」、「茨木の4」が妥当なパラメータと考えられる。
この事から、「東京の18」は矢張り大きすぎるパラメータと成る。

しかし、東京にも18とあり、「埼玉の17」では多すぎる。
「秀郷流青木氏」の東京の分が余計な数字とも考えられる。
この東京には、江戸期に「6つの青木氏」が集まった事が判っていて定住移動している。
更には、武田氏滅亡後、「皇族青木氏」の「武田氏系青木氏」が家康の配下に組み込まれて「埼玉鉢形」に移動定住された。
この分を考慮する必要がある。
次ぎに、江戸初期武蔵の「丹治氏系青木氏」が信濃を経由して摂津に移動定住している。
残りの一族があったとしても、これら二つの分を加算しても埼玉17から2を差し引いたとして、その分「秀郷流青木氏」は東京に少なくとも 2を持っている事に成ろう。

武蔵の「秀郷流青木氏」は元より、三重、千葉、越後、越前、越後、「皇族青木氏の武田氏系青木氏の甲斐」と、「丹治氏系青木氏」が江戸期に確認できる。
しかし、これらを全て合わせても江戸期の家臣の移動族であるので赴任を終えての国に帰る事から、無理に定住したとしてもパラメータは最大でも1程度を見込まれる。
そうすると、それにしても大き過ぎる。
「宗家秀郷流青木氏」を「東京の分」として 2としてもせいぜい 9と成る。
そうすると、「国抜け」として「一族斬罪の罰」になる事の江戸期に「青木氏」としては自由に移動定住できなかった事を考え合わせると、結局は「明治後の9」と成る。

つまり、この二つの数字から考えると、上記した7県の内の大分と山口を除いた「5県の分」がこの大阪と東京に集まった形に成っている。
その内の「秋田」は明治後の「都会への定住移動」の東京の方に含まれる事となる。

東京は秀郷流青木氏の分の2
各地域からの移動定住族の1
下記の「第三の青木氏」の8
秋田の秀郷流青木氏の移動分の2
江戸期の6氏12流の定住分の4
その他の各地からの分として1
総計 都会移動分  18
   

この東京と大阪の二つの地域31パラメータの半分17−18は上記の5県の分として計算でき、残りの分は全体からの移動分と成る。
17の8%−9%が「全体移動分」と考えられる。
全体を平均4として、これからの「青木氏の定住の勢力図」として観てみると、これらの周囲は青木氏の分布状況に匹敵する数字を示している。

実は、ここで「明治期の異変」が起こっているのだ。
それは「秀郷流青木氏」には3年の苗字令と8年の督促令で関東周辺の氏姓名を持たない庶民は進まない氏姓名に対して政府の指導の下に、ある日、突然に村全体が「青木氏」を名乗ると云う事が起こった。
中には郡の村の大半が「青木氏」を名乗ったと云うことが関東であった。
「青木氏」では、「寛政の歴史書」に基づきこれらを「第三の青木氏」と呼称された。
これらの一般の人は大小何らかの形で「青木氏の生活」に関わった村人であった。
従って、この人口の数は「青木氏」を超えている。
これは「青木氏」の全国に関わった村で起こっているが、特に、関東は上記した様に、”一夜明ければ青木氏”と云う状況であった。
この事から、青木氏の平均のパラメータを4とすると、この倍は少なくともあった事に成る。
「一夜明けて」の人口は村主一族の10倍程度以上に成らなければ村は維持できない筈だ。
だから、この人口の1/4が子孫力と見做して、この「東京の18」−「全体の移動分」を差し引けば、平均のパラメータ4の倍の8に計算から成る事に成る。

この現象は関西(賜姓族は禁令)よりは主に関東を中心にして集中的に起こったのであるから、この分のパラメータ8を考慮する必要がある。
このパラメータの8の数パーセントは「秋田」の分が含まれているこ事に成る。
この「秋田」も、明治期にこの現象を起こした地域で、その人々は明治期に移動の自由もあって「都会移動」を盛んに起こした地域なのである。

「山梨」
「山梨1」についてであるが、ここで特記して置くと、甲斐から「皇族青木氏」が家康の命で鉢形に移動定住してきた。
「武田氏系青木氏」(時光)として残るは、「本流の青木氏」と「養子筋の分家青木氏」が甲斐に居た。
この内、「養子筋の分家青木氏」は「安芸」などにも移動して定住しているが、最終は甲斐青木氏が衰退した為に戻った。(一部は残った。常光寺を再建した。)
従って、甲斐には「皇族賜姓族青木氏」(源光系 0)が奈良期より定住する。
この「皇族賜姓青木氏」が武田氏から養子を迎えて血縁したが、その養子に跡目が生まれずに家紋掟に依って賜姓族系の「武田氏系青木氏」が発祥した。
依って、この「賜姓族武田氏系青木氏」(1)と「皇族青木氏の武田氏系青木氏」(A)が甲斐にはある。
諏訪族が「武田氏系青木氏」と血縁した「武田氏系諏訪族青木氏」(B)、「賜姓族青木氏」と血縁した「賜姓族の諏訪族系青木氏」(2)がある。「諏訪氏系武田氏族青木氏」(C)
甲斐には、以上、「賜姓族系3氏」 「皇族系3氏」の「6つの青木氏」が存在する。

この様に血縁に依って「青木氏」が多く出ているにも関わらず、「甲斐」は室町期は戦乱の中にあった。この為にどうしても巻き込まれて「子孫力」を落とした経緯がある。
ところがあまり「越前福井の逃避地」に逃げ込んている記録が見つからない。
恐らくは、(0と1)は定住して戦いから極力避けたと考えられる。
(2)は武田信玄の有名な由依姫事件の調略にかかり武田氏に組み込まれた事から、各所に分散して逃げた。
恐らくはこの一部が越前福井に逃げ込んでいる筈で「抱き角紋」がわずかに確認できる。
(0と1)は定住
(2)は神奈川・栃木・越後
(A)埼玉武蔵鉢形と高知土佐に移動
(B)神奈川に移動
(C)越後に移動 

「甲斐の賜姓族」は定住して「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と連携して「古代和紙の殖産」に関わったが、記録から「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」の様に積極的に活動した記録が発見できない。
この事から、「山梨の1」は「伊勢や信濃」と違ってパラメータは低い事は納得できる。

「埼玉 神奈川 千葉」「栃木 群馬」
埼玉17、神奈川21、千葉11の3県は、全ての「青木氏の融合定住地」である事から観ると、やや大き目の程度のパラメータであるが納得できる。
「神奈川の21」は上記で論じたがお大きいとは観られるが、そうでもないのである。
ここには「伊勢と信濃」と、「諏訪族系3氏と武田氏系3氏」が室町期末期に定住移動している。
「秀郷流青木氏」の保護もあって、経済的にも恵まれて子孫拡大も何れも実に大きかった。
その内には、この神奈川の地で保護されて子孫拡大が大き過ぎた為に、「秀郷流青木氏の保護」を得て栃木に更に移動して、武力で北方向に領地を獲得する等して「栃木の8」の事が起こるくらいであった。
「群馬の6」も本領地であることから、入間だけではなくこの地域にも子孫を拡大させている。
かなり群馬の北域の国境沿いは争いが起こっていたが、室町期末期の諏訪族の拡大もあって平定に近づいた。
この諏訪族の勢力の「栃木の8」は平均のパラメータ4の2倍である。
異変や単純に子孫拡大しても8までには成らない。
つまり、如何に「神奈川の勢力」がこの「栃木の8」を後押ししていたかが判るし、全国最大であったが大きかった事が云えるのである。
「諏訪神社」を独自に勢力地の各地に数多く建立しているところからもその勢力は頷ける。
その意味で「栃木の8」は頷ける。

(栃木は当初、神奈川に逃げ込んだがその一部が神奈川の勢力を背景に栃木の以北を攻めて安住の地を獲得して守った。)

「明治後の移動」のみを考えても、「移動のパラメータ」は「平均の4」を超える事は論理的にない事から2程度位以上にはならない。
この「神奈川の21」はその意味で妥当性を持っている。

「沖縄」
最後に、「沖縄の1」に付いては全く判らない。家紋分析も守護神からも判らない。
明治後の移動である事は間違いない。
歴史的な経緯が全く無く記録も確認できない。
薩摩藩との関わりが大きかった事から薩摩藩に青木氏が家臣として出仕していた可能性は「日向青木氏」の経緯から観ても低いので、「沖縄の青木氏」が江戸期には定住していた事は先ず無く、明治後の事であろう。
「沖縄の1」を示しているが、パラメータ1は上記した様に、90−150年程度は必要である。
明治期からすると何とか得られるパラメータではある。
大阪や東京の「都会移動」、北海道の「入植移動」、沖縄の「自由移動」等がある中で、パラメータ0の地域もある。
「沖縄」の「自由移動」の青木氏は柵が無いことから今後拡大する事であろう。
「沖縄青木氏」の新しい呼称が出来た事は喜ばしい。

「結」
この様に本来の定住地で無いところの地域に分布の数字を示しているのは、室町期の青木氏の拡大伸長の移動方向も現在にも示している。
本来定住地ではないが、歴史的な室町期の記録からも勢力拡大の経緯として納得できる。
その県として観れば、この「沖縄」を除きその数字は適切に投稿数字に表れている。

因みにこの「記帳の数字」と「ルーツ掲示板」の投稿数字はほぼ同じ傾向をしめすが、この分析は、筆者が過去について調べた「青木氏の分布」と「青木氏の村の分析」とで勘案すると、その後の分布として非常に適切に歴史的な史実を表していて興味深い。

この数字のバイアスは統計的に1以下で0.5程度と見込まれる。その範囲でパラメータは「青木氏の分布図」として観られ、且つ、同時に「伝統の存在力」としてのパラメータとしても観られる。

そこで、気に成る事がある。
それは上記の表や下記の表の様に各地の「青木氏の分布図」(子孫力)を示しているが、これが”面積とどの様な関係にあるのか”と云う事である。
広いところ広い様に分布し「子孫力」が広がっているのかと云う事である。
「青木氏」は「青木村」を形成しているのであるから、その”「青木村」が地域に依って大きさが違っているのか”を把握しておく必要がある。
その答えは出る。
次ぎの2つの表から出る。





・> 青木氏の分布と子孫力

> > [地域別分布力]
> > 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
> > 全国平均(全国単位 % 表ー1)
> > 地域      異変の県        分布力
> > 九州地方   長崎、大分       5%
> > 四国地方   高知           2.5% 
> > 中国地方   山口、岡山       2.5%
> > 関西地方   三重(筆者ルーツ)  14%
> > 東北地方   秋田           7%
> > 中部地方                 15%
> > 関東地方                 45%
> > 北海道・沖縄               6%
> > その他                   3%
> >
> > 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
> > 九州地方  1.3
> > 四国地方  1.3
> > 中国地方  1.3
> > 関西地方  4.7
> > 中部地方  4.3
> > 関東地方  11.3
> > 東北地方  2.0
> > その他   11.0
>
> > 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
> >
> > 修正地域(表ー3)
> > 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1−7 三重 12 福井 4 愛知 13−7
> > 秋田 1
> >
> > 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
> > 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
> > 福岡  2      山口  0   愛媛  3     兵庫   3    三重  1
> > 長崎  0      島根  2   香川  1     大阪  14    石川  2
> > 佐賀  1     広島  3   高知  0     京都   5    福井  1
> > 大分  0     岡山  0   徳島  1     奈良   1    岐阜  3
> > 熊本  4                        和歌山 4     愛知  13   
> > 宮崎  2                        滋賀   1    長野  9
> > 鹿児島 1                                   山梨  1
>
> > 域平均 1.25  平均 1.25  平均 1.25    平均 4.7     平均  4.3        
>
> > 関東地方(45%) 東北北陸地方(7%) 沖縄、北海道地方(17.5%)
> > 静岡   5   青森  1      沖縄   1
> > 神奈川 21   山形  2      北海道 11
> > 東京  18    岩手  1
> > 埼玉  17    新潟  4
> > 群馬   6   秋田  0
> > 千葉  11   福島  4
> > 茨木   4   宮城  2
> > 栃木   8                                     
>
> > 域平均 11.3   平均  2.0      平均  11.0  
>
> >  青木氏の分布と子孫力−11に続く。
>


  [No.315] Re:青木氏の分布と子孫力−11
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/07/06(Sun) 07:19:52

> 青木氏の分布と子孫力−10の末尾

>因みにこの「記帳の数字」と「ルーツ掲示板」の投稿数字はほぼ同じ傾向をしめすが、この分析は、筆者が過去について調べた「青木氏の分布」と「青木氏の村の分析」とで勘案すると、その後の分布として非常に適切に歴史的な史実を表していて興味深い。

>この数字のバイアスは統計的に1以下で0.5程度と見込まれる。その範囲でパラメータは「青木氏の分布図」として観られ、且つ、同時に「伝統の存在力」としてのパラメータとしても観られる。

>そこで、気に成る事がある。
>それは上記の表や下記の表の様に各地の「青木氏の分布図」(子孫力)を示しているが、これが”面積とどの様な関係にあるのか”と云う事である。
>広いところ広い様に分布し「子孫力」が広がっているのかと云う事である。
>「青木氏」は「青木村」を形成しているのであるから、その”「青木村」が地域に依って大きさが違っているのか”を把握しておく必要がある。
>その答えは出る。
>末尾の2つの表から出る。


福岡
さて、最後に福岡です。
ここは確かに、この地域としては「青木氏」が3氏が定住している事は確認できる。
そして、近隣の肥前と筑後から国境に3氏の「青木氏」が移動して定住している。
しかし、これには長い説明を要する。
当然に、青木氏の分布の確実なパラメータとして「青木村」が確認できる筈なのだが、それがある特別な理由で無いのである。
あるべき「青木村」が確認できない理由がこの福岡の「核心の問題」と成る。

先ず、ここには、筑前域では次ぎの3氏が存在する。
1 播磨国の黒田藩にある理由(下記)があって、「摂津青木氏」が家臣と成って黒田藩の移動に伴い、筑前に移動して博多北側域に定住した子孫が存在する。

2 平安期に「平治の乱」の「源平の勢力争いの戦い」で、「清和源氏」の分家 頼宣の末裔の「河内源氏」の源為朝が九州を転々と逃げ延びて、この筑前に配流孫を遺した。
この末裔が東国境沿いに定住した。

3 鎌倉時代に「藤原利仁」の末裔が3代に渡りこの筑前に赴任した。この時に現地の豪族との間に出来た末裔が、室町期に「嵯峨期の詔勅」と「禁令」に反して、「青樹氏」を名乗り、博多から太宰府域に定住した。

次ぎに、近隣域から国境沿いに次ぎの3氏が存在する。
4 肥前には藤原秀郷一門が赴任して、それに護衛団として同行して「青木村」を形成している。
この末裔が、筑前の1と2の青木氏との同族血縁で遺した末裔が筑前の西国境沿いに定住した。

5 「日向青木氏」が1の「黒田藩の傭兵」として働いて、黒田藩より「特典の権利」を与えられて厚遇された。この「日向青木氏」が筑前に遺した末裔が青木氏として南国境沿いに定住した。

6 「1の摂津青木氏」と「5の日向青木氏」との融合族と成った青木氏が筑前の南域に定住している。

7 江戸初期には苗字の持たない下級武士、及び、明治初期の苗字令、督促令に基づいた庶民が、この2期に、江戸期には1の青木氏、或は、明治期には3の青木氏(青樹氏)に肖った「第3の青木氏」が勃興し、それぞれの地域に定住している。 

福岡は、他の地域と比べて、いろいろな「青木氏の集合地域」であった。
ただ、それぞれの6つの青木氏は「棲み分け」をして、「青木村」の「集合村」を形成しなかった。
”出来無かった”とした方が経緯としては適切である。

参考
3では「正規の青木村」を形成出来ない理由があった。
その他は室町期中期までは既定の大きさの「村」では無く、当時の税制上からの区分けで全て「字」領域であった。
「分離村」ー「散村」ー「路村」の形態を採った。

参考
3は「賜姓族」、「嵯峨期詔勅」の令則に習い「青樹氏」であった事から正式な氏名に基づく「青木村」ではない。(詳細下記)

注意 (本論では平安期の「村の定義」から判断して、福岡は”青木村が無い”とした。)

ところが、1の黒田藩家臣の「摂津青木氏」は、明治期にこの「青木氏」(「情報提供の青木理兵衛」の直系ルーツは絶えた。

そこで、この先ずは、1に付いて詳細を論じる事とする。
1のルーツは、黒田藩の播磨国から始まり、江戸期には筑前に転封となった。
この転封時に「摂津青木氏」の経緯が起こります。
「伊勢青木氏」の商業記録から考察すると、この1560年代の時期に、九州域(豊後ー筑前方面)に対して船を大きく動かした記録が残っている。(黒田藩とは不記載)
更に、それ以前に播磨の豪族(黒田氏と観られる)との交易記録と観られる「配船記録」がかなりの回数で確認できる。
その中の一つにこの「九州方面」の記録がある。
これには、「伊勢青木氏」と「摂津青木氏」と「黒田藩」の間に「時代考証」と「環境考証」をするとある「共通する経緯」が起こっている。

実は、この黒田藩に付き従った「摂津青木氏」にはある事情があった。
そもそも、この「摂津域の瀬戸内」は、「播磨灘」として難所で、この海域に「摂津青木氏」は「水先案内人」として平安末期より生計を立てていた。
この「播磨灘域」は、海流が激しく、その為に、この地域の海域を熟知して、そこを勢域(聖域)として、「能島水軍」(村上水軍)と呼ばれる「海族」がいた。
この能島水軍と呼称される「海族」は、この海域通過時の水先案内の案内料と通行料を徴収して生計を立てていた。
(「海族」とは「海賊」と異なる。 混同して使われている書籍が多い。)
この「海族」が「能島」と云う播磨沖に並ぶ小島群の一つを拠点としていた。

(筑前の青木氏の情報提供によると、この中に、「摂津青木氏」には、この”「理兵衛」”なる優秀な技量の持ち主の人物が居た事に成る。能島を拠点とした「村上水軍」との検証が必要)

そこで、ここで、先に、この”能島水軍の理兵衛”に付いて下記で論じる。
「史実1」
実は、「摂津青木氏」(出自末裔の青木理兵衛)の居た摂津播磨域には、「摂津青木氏」を保護しながら同族の「伊勢青木氏」が、この域を「大商い」で活動する為に「大船三隻」を以って活動していた史実がある。
「史実2」
更には、この「瀬戸内全域」には「伊勢青木氏」と深い繋がりを持っていた「讃岐青木氏」が「大廻船業と海産物殖産業」を営んで大活躍をしていた史実がある。
「史実3」
「伊勢青木氏」も「讃岐青木氏」も「二足の草鞋策」で大活躍していて、武力を直接使わずしてシンジケートに依って信長と3度も戦って勝った歴史記録がある。
「史実4」
「伊勢青木氏」は、伊勢松阪を拠点に、「兵庫の摂津」と「大坂の堺」にも大店を構えていた。
(平安期から明治35年まで続く。)
「史実5」
この大船を持ったこの「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」の庇護を受けていた「摂津青木氏」、つまり「近江青木氏」(「青木理兵衛」ルーツ)は、「富士川の源平の戦い」で滅亡してからは、その僅かに遺された「遺子末裔」は、最終、摂津域で定住し、「能島の水先案内」として「播磨灘域」で働いていた事が商業記録から判る。

「史実6」
「摂津青木氏の経緯」
(残存した「近江青木氏の遺子」は、「青木氏の庇護地福井」に逃げ込んだ。
「伊勢青木氏」等が奈良期から構築していた「皇族系の朝臣族者」が事件に巻き込まれた場合に逃げ込んで子孫を護る為の「庇護地」が福井にあった。
ここに「近江青木氏」の残存した「遺子末裔」が逃げ込んで生き残った。
その後、この「遺子末裔」は「伊勢青木氏」の「摂津の大店」の拠点を頼って、生計を立てる為に摂津に移動した。
そこで、この「摂津青木氏」の一族は、「伊勢青木氏」の船と「讃岐青木氏」の船に乗り、「瀬戸内の操船術」を学び、何時しか、「能島の海族」として成長した。
推測だが、「能島付近の海域」の船頭の「頭領的立場」に成って居たのではないかとも考えられる。
この者が、情報提供によると ”能島の理兵衛さん”と呼ばれ者がいた。
「能島水軍」とは「海の豪族」の「村上水軍族」の事で、播磨灘の極めて小さい小島に館があった。
この「情報提供の青木理兵衛」は、この「村上水軍」との「関わり具合」の有無は不明だが、この「海域の船頭」であった模様で、その同じ「海域船頭」としての「付き合い」を持っていたと観られる。
「史実7」
「瀬戸内」には、平安初期から「讃岐青木氏」として、「村上水軍」より以前から、この海域を元々支配していた。その時は、「海部族」や「塩飽族」の中まであって、その一部の別れが「村上族」となった。
しかし、平安末期には「平家水軍」、室町期には「陶族」の支配下に成った「村上族」で、その後にの「村上水軍の母体」と成った。
商業の廻船分野での「讃岐青木氏」と共に、「海部族と塩飽族」が、「海族の母体」と成って、この水域を利用する「海族の2氏」であった。
「史実8」
「讃岐青木氏」の支配の下で、「瀬戸内族」」(海部族と塩飽族が母体)が「讃岐藤氏」の傘下に成って居た。
そもそも、歴史を辿れば、「海部族と塩飽族」も元をただせば、阿多倍王の引き連れて来た「部の職能軍団の末裔」である。
「平家」と「陶氏」の配下にあった「村上水軍」(瀬戸内族の別れ)は、基を質せば、「阿多倍王」(後の平家)の引き連れて来た「部の職能軍団の末裔」であった。
何れも、「部の職能軍団の仲間」なのであった。
そもそも、室町に中国地方一帯を支配した「陶氏」は「陶部」の「陶器」を作る「部の職能集団」であった。
この全体を支配していたのが、伊勢北部伊賀地方を半国割譲を受けた「阿多倍王」の子孫の「伊勢平氏」なのである。
「史実9」
この「伊勢平氏」と「伊勢青木氏」は、奈良期より隣同志で「古代和紙の殖産」で深く親密的に付き合っていた。
「近江青木氏」の末裔の「摂津青木氏」は、「伊勢青木氏」「讃岐青木氏」等の庇護を受けての一族であった。
そして、この海域の「水先案内」か、「讃岐青木氏」、「伊勢青木氏」の船頭であった可能性が高く、従って、同じ「瀬戸内海域」では、「村上水軍(能島水軍)」とも”同業の協調関係”にあった筈である。
故に、情報提供の「”能島水軍の青木理兵衛”」と呼ばれていたと考えられる。

どうも「伊勢青木氏」の商業記録の一部から判断すると、個人は特定できないが、”能島水軍(青木理兵衛さん”)とは、「伊勢青木氏」(伊勢水軍)の千石船の大船か、「讃岐青木氏」の廻船かに乗っていた”優秀な船頭”で、その経験の持ち主でもあった可能性が高いのである。

ここまでの史実から次の事が判る。
「摂津青木氏の青木理兵衛」と「能島水軍の理兵衛」は同一人物であったと考えられる。
「”能島水軍”の理兵衛」と「村上水軍の”能島水軍”」は共に、同じ播磨灘の海域で働く者達を”「能島水軍」”と呼んでいた事に成る。

「史実10」
そもそも、この事をはっきりさせる事がある。
この「村上水軍」の「能島水軍」母体と、「摂津青木氏の理兵衛」等の、この海域の水先案内の徴収行為とは、秀吉に依って同時期の1586年に廃止と、解散命令が出ている。
「能島水軍」の「村上水軍」は、秀吉に依って1586年に攻め滅ぼされている。
この1年後の1587年に黒田藩は豊前中津城主に転封されている。
1600年には福岡城主に転封されている。
故に、この経緯から、「摂津青木氏の青木理兵衛」は、1586年に秀吉の命で失職した。
そこで、「伊勢青木氏」や「讃岐青木氏」等の下記の”黒田藩の水軍要請”で、水軍の船頭の頭領として就き、豊前中津に従ったと観られる。

そもそも、この「近江青木氏」(摂津青木氏)と「近江佐々木氏」は同族関係(大化期の朝臣族)にあり、「近江佐々木氏系青木氏」と「近江青木氏系佐々木氏」が発祥している。

注釈
その黒田氏は、この「近江佐々木氏」の「傍系支流族」である。
この「近江佐々木氏」は室町期末期頃に衰退し、多くは離散した。
この「黒田氏」も薬売りをして全国各地を廻り、再興のチャンスを狙っていた。
江戸期の有名な剣豪の「佐々木小次郎」もこの「近江佐々木氏」の本流孫であった。
その「近江佐々木氏の黒田氏」の証拠として、「伊勢青木氏」と同じく「皇祖神の子神 神明社の”御師」”の立場にあった。
「黒田氏」は自らも「近江佐々木氏」を名乗り、別のところでは「藤原氏」を名乗っている両説がある。
しかし、伊勢に秀吉から差し向けられた「蒲生氏」は、「伊勢青木氏」との繋がりもあり、「近江青木氏」と同族の「近江佐々木氏」も、「蒲生氏の近江藤原氏」は同じ格式の家柄であった事から、血縁関係もあったと考えられる。
「近江青木氏」と「伊勢青木氏」との同族血縁関係
「伊勢青木氏」と「伊勢秀郷流青木氏」との血縁関係
「伊勢秀郷流青木氏」と「近江藤原氏の蒲生氏」とのは同族血縁関係
「近江藤原氏の蒲生氏」と「伊勢青木氏」との血縁関係
「近江佐々木氏」と「近江青木氏」との同族血縁関係
以上は輪状に血縁関係があった事から、充分に上記の「近江佐々木氏」と「近江藤原氏の蒲生氏」の血縁関係はあったと考えられる。
依って、「黒田氏」の「藤原氏説」には根拠はあり得る。
しかし、本流は「近江佐々木氏系」であり、「藤原氏説」は本流では無い事が見抜ける。

何よりも、証拠として「伊勢青木氏の御師頭」と同じく、”「御師」と「薬師」”を親族に持つ黒田氏である事から、「近江佐々木」が適切な説として捉えている。
(「御師」と「薬師」は藤原氏と秀郷一門にはこの役柄は無かった。)

そこで、「近江佐々木氏の傍系支流の末裔の黒田氏」が、「豊前中津城主」の大名と成った時、「伊勢青木氏」や「摂津青木氏」や「讃岐青木氏」の「青木一族」等は、上記の様に、「同族の黒田氏」に対して、”中津では「藩経営」に付いて、”最早、徳川の時代と成って安定期に入った”として、戦略的に「水軍力」(交易に関する経済力)を付ける事が必要となった”と考えていて、その為に、黒田氏との「話し合い」をした事が資料から読み取れる。
その結果、(情報提供の”青木理兵衛”を「黒田氏の水軍の頭」に付けた。)”同族として協力をした”と「商業記録の流れ」から観て考えられる。

注釈
それが情報提供の、”能島水軍の理兵衛”と呼ばれてた根拠である。
この場合の”水軍”の意味合いは”海に生きる族”、即ち「海族」の意味として表現されたと考えられる。
何故ならば、武力の持たない「伊勢青木氏」の「伊勢水軍」も、「村上水軍」の様に”武力的な背景”のものでは無かった。
要するに”海の豪族”の意味合いでは無く、”海に働く族”の意味合いであった。
この当時、各地に「・・水軍」は多くあった。
その「水軍」の事で書かれた書籍の中では、「水軍」の意味には、「海の豪族」と「海で働く族」の二通りの意味合いとして使われていた。
この情報提供の”能島水軍の理兵衛”は「海の働く族」である。
この「海の豪族」の中で、「海の働く族」が働けるのには、上記注釈の ”「海の豪族」の「村上水軍」と、「海の働く族」の「讃岐青木氏+伊勢青木氏」”の”瀬戸内の協力関係”があったから成り立つ話である。
この「協力関係」がなくては「讃岐青木氏の廻船業」、「伊勢青木氏の交易運送」は成り立たない。もし、「海の豪族」の「村上水軍」とは云え、戦ったとして「讃岐青木氏の海部族と塩飽族」と「伊勢青木氏のシンジケート」で対抗すれば、「村上水軍」を潰す事は簡単であった筈である。
何故ならば、「伊勢青木氏」は「海のシンジケート」の「伊勢水軍」と「駿河水軍」と「熊野水軍」と「紀伊水軍」と働かせて、「村上水軍の領域」を包囲する事で、食糧を絶つ事で、無傷で簡単に潰せる。
この「連合軍」を味方に出来る「讃岐青木氏」と「伊勢青木氏」と「摂津青木氏」とを敵に廻す事は「村上水軍」には元より不可能である。
依って、「能島水軍の理兵衛」は「村上水軍」では無い事が判る。

注釈
「能島水軍」=「村上水軍」の意味だけでは無く、この”「播磨灘海域」を「生活の糧」としている族”の事を以って当時は表現されていたのである。
「武力軍団」で無かった「伊勢水軍」や「駿河水軍」や「熊野水軍」も”「水軍」”と呼称されている。「伊勢青木氏」が自ら持つのも「伊勢水軍」の呼称である。
(「雑賀軍団」の「紀伊水軍」は「武力的背景」を持った”水軍”で「海賊的要素」もあった事が記録から判る。「熊野水軍」は「熊野灘」の「半武力的な水軍」でもあった事が記録から判る。)

現実に、秀吉は「村上水軍の拠点」の周りに船で取り囲み、弱まったところで風のある日に船に火を着けて島方向に走らせた。そして、「島の拠点」は周囲から火が廻り丸焼けで簡単に潰したのである。

ここで、”「摂津水軍」”の事で書かれた書籍がある。
「源義経」が「陶族の村上水軍」を中心とした「平家水軍」と戦った時、義経の軍監の「熊谷直実」が統括する「浪速水軍団」の前で、”同族の「摂津水軍」を義経が自ら編成した「水軍団」の「駿河水軍」、「伊勢水軍」、「熊野水軍」、「紀伊水軍」の軍団に加えた”と記されている。
(軍監の熊谷直実は、作戦通りに「浪速水軍団」を、義経の一人手柄を阻止する為に、動かそうとしなかった。そこで「摂津水軍」だけを戦いの参加させる様に裏工作をしていた。戦いに成った「時摂津水軍」だけは動いた。)
この事から「近江青木氏」には「摂津」に古来より「水軍」を歴史的に持っていた事が判る。
しかし、「近江青木氏」は「富士川の戦い」以降壊滅した。この「摂津水軍」を「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」の援護の下で、何とか立て直し復興に持ち込んだ。
そこで「壇ノ浦の戦い」にわざわざ「義経」は、この同族の「摂津水軍」を無理やりに参戦さしたのだと考えられる。
「坂東八平氏」の「軍監の熊谷氏」は、この海域の水軍の参戦に恣意的に反対したので、止む無く同族の上記の4水軍に頼み込んだ事が書かれている。
中でも、最も「海賊的戦力」を持っていた「紀伊水軍」はなかなか合力しなかったが、実戦に成った時、この「紀伊水軍の海族的働き」で「弓矢の戦い」では無く、”相手の船に乗り移る戦法”で、「村上水軍」の前身とも云える「平家水軍」に勝った。
この後、「摂津水軍」は「近江青木氏」の「母体滅亡」と、「頼朝の義経追討令」の2件が原因して衰退した経緯を持っていた。

「青木一族」は、そもそも”「氏家制度」”の中では、”「単独行動」をしない掟”があって、”一族で助け合う集団”であって、故に、下剋上や戦国時代にここまで生き延びて来て子孫を遺してきた。

摂津の地元には、「伊勢青木氏」や「信濃青木氏」等が「大商い」で居て、全国の青木氏一族が「古代和紙の殖産と販売」と「守護神の神明社」で生活は完全に繋がっていた。
従って、「情報提供の青木理兵衛」なる人物一人が勝手な行動は採れなかった筈である。
それが他氏と違う立場を持っている特異とも考えられる「3つの発祥源の青木氏」なのである。
「氏家制度」の中では、尚の事、一族全体の中で動く必要があった社会であった。
故に、互いに助け合ってその立場を守っていたのである。
それに奈良期から朝廷より「不入不倫の権」で護られていた「特別な戒律」を持った「唯一の氏」なのである。
この「情報提供の人物(青木理兵衛)」も少なくとも”黒田氏との関係”でもこの範囲で動いていた筈である。
この人物(「青木理兵衛」)が1567年頃に黒田藩に従って豊前と筑前に移動して、”上記1の子孫”を広げた事になる。

(丁度、この直前に秀吉は、この”能島の水軍の解散命令”を発している。
つまり、情報提供の青木理兵衛は失職した事になる。)

実は、この「情報提供の青木理兵衛」を祖とする「筑前青木氏」が明治期に絶えた情報提供もあり、この「青木氏の跡目」を「西原氏」と云う「現地の姓族」が一時継承したが、これも放棄される始末となったとの情報がある。

この「摂津青木氏」と「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」が、以前からの商業の付き合いと同族関係から、「豊前中津」に「黒田藩の荷物」を輸送したと観られる商業記録があった。
この時に、そこで、この「黒田藩との話し合い」の中で決まった「摂津青木氏の人物」(「情報提供の青木理兵衛」)が、結局は「黒田藩の家臣」として移動定住した事に成る。

ここで「福岡の青木氏」との関係に付いて、情報提供によると、後に「青木市左衛門」と云う別のルーツと観られる人物が、「西原氏」の前に、この”理兵衛の青木氏”の跡目を継承しているとの事である。
問題は、この情報提供の”市左衛門なる人物”がどのルーツの青木氏であるかと云う事に成る。
結論は、先に、「福岡の青木氏」は「日向青木氏の配流孫」の末裔孫と成る。

それを検証する。
先ず、福岡は上記した様に「3つの流れの配流孫」の「青木氏」があった地域である。
そこで、上記の5の「日向青木氏」は、「伊勢青木氏系族」で「兄弟族」としてのルーツが明確に成っている。
その更に「配流孫の青木氏」と成ると、情報提供の内原氏が「青木氏」を名乗るには憚られたのではないかと考えられる。
其れよりは、「情報提供の青木市左衛門」は、「父方の青木氏」であるけれども、推測の域を超えないが、「母方の西原姓」を敢えて名乗ったのではないか。(下記)

明治まで続いた父方の「青木理兵衛ルーツ」は上記の通り「摂津青木氏」とほぼ断定できる。
しかし、母方とも観られる「今宿青木のルーツ」としての”「青木市左衛門」の流れを持つ西原氏”に付いて、「青木氏の慣習仕来り掟」から来る問題がある。
其処から糸口を見出い事が出来る。

実は、「皇族賜姓族系の青木氏」には青木氏から「氏分流の別れ」として他の姓を名乗る事を禁じている。
そこで、その前に「青木氏の慣習」を理解する必要がある。
従って、本家ー分家の区別は一切無いし、その為に家紋も変化しない。
当然に、「同族血縁」をして、「男系跡目」を繋ぐ「皇族系の賜姓族」として「青木氏」を絶対に変えてはならないとする戒律があった。
従って、この他氏では「家紋」であって、「家の区別」をする「家紋」では無く、青木氏では「象徴紋」としての扱いであった。
「家紋と氏名」が変わらないことから、「家」としての位置づけは無く「氏」を示す「青木氏の象徴紋」として位置づけられるのである。
当然に、同じ考え方で、「全青木氏族」の「全ての子孫(嗣子・嫡子)」は、単一の「家の子供」では無く、全ての「氏の共通の子供」としての位置づけである。
氏内の「Aの家」の子供は、「Bの家」の子供でもあり、「Aの子供」は「Bの家」の跡目を継ぐ事は当前の「慣習仕来り掟」として認識され、この逆も当然に起こる。
女子も、他氏では跡目には関わらないが、青木氏は、「女の子供」の嫁ぎ先での生まれた「男の嗣子」は、「実家先の跡目」を一代限りで継ぐこともあり得ることに成っていた。
但し、「男の子供」が実家先の「氏の親族関係」に無ければ、この「嫁ぎ先の嗣子の男子」を跡目に入れる事は問題がない。これは「男女の子供」も広い「同族血縁」の仕来りの中にある事に依る。


さて、”今宿青木”の「村」、または「字」を形成している以上は、最低限の「青木氏の慣習や仕来りや掟」を守っていた筈である。
だから、普通は「情報提供の青木市左衛門」のルーツが「西原姓」に成るのは疑問である。
成るには、「女系」か「母方」の「二つの仕来り」による方法しかない事に成る。

では、先ず「女系」の方法である。
青木氏の「同族血縁の掟」を護れず、結局は、「今宿の青木氏」に男系跡目が出来ず、娘に養子を取り、更にその養子婿にも男系跡目が作れず、再び、その養子婿の娘に養子婿を取ったが又嫡子に恵まれずに、二度に渡り完全に女系と成って仕舞った。
そこで、「男系が氏継承の掟」であるから、一番目の養子先の姓を名乗った。
それが、「西原姓」であった事に成り、以後、「西原の姓」を名乗る事に成る。
ここで、次ぎに、三番目の娘の養子婿にも跡目にも嫡子に恵まれなかった場合は、二番目の養子先の姓を名乗る事に成る。
三度目の養子婿に嫡子に恵まれれば、その子の一人に「西原姓」を名乗らせる事は出来る。
但し、この時点では、最早、女系と成った事から「青木氏」を名乗る事は本来は出来ない。
普通は、特に本家筋は絶対にこの様に成らない様にするのが務めである。
それにはあらゆる「青木氏」を名乗る近隣や遠方でも「縁者先」から、「跡目養子」を上記の「氏の子供の掟」に依り、迎え入れて、この様に出来るだけ成らない様にする。
(この時は、青木氏では「養子」の定義は無い)
ここが青木氏の”厳しいところ”で、「本家ー分家」の仕来りが無い「賜姓族」では、「青木氏の子供」は「全体の青木氏の子供」なのである。
(この時は、青木氏では「養子」の定義は無い)

嗣子・嫡子に関わらず、青木氏に生まれた男子は、何処の青木の跡目に入るかは各家の跡目問題に依って変わる事に成る。
これが天皇から”賜姓”された絶対的な”氏の宿命”である。

仮に、「西原姓」が興った事は「今宿の青木氏」には、この縁者先からの方法も採れなかった事を意味する。
或は、「情報提供の市左衛門むは、”賜姓族では無かった青木氏”であった事かも知れない。
「嵯峨期の詔勅」に基づいて名乗った「配流孫」の様な「賜姓族ではない青木氏」には、この掟は適用されない。
そこで、「福岡の今宿青木の市左衛門」の事は、記録からは”「字青木」”である。
依って、7でない事は、クリヤーできている事から、上記の1から6の中で、「日向青木氏」の「配流孫ー末裔孫」となる。
上記のこの掟は適用しなかったと考えられる。

「賜姓族の近江青木氏」(「摂津青木氏の青木理兵衛」黒田氏家臣)の「青木氏」に、男系跡目が取れなかったので、「今宿青木」(情報提供の市左衛門)の「青木氏」から跡目を取って「青木氏」を継承した事に成る。
しかし、結局は、その途中で上記の事が起こって、やむなく女系の「西原姓」を継承したと云う事に成る。

次ぎは母方の方法である。
娘の嫁ぎ先に嗣子・嫡子の子供が大勢生まれた。
「実家の青木氏」に跡目が無かった。縁者関係にも無かった。
そこで、この内の一人に「青木氏」を継がせ嫁取りをした。
しかし、嫡子・嗣子等に恵まれず、嫁ぎ先の西原姓を名乗る事となった。
この場合は、上記の女系の場合の一代限りの範囲で、娘に男子が生まれたと同じ事に成る。
従って、青木氏に戻す事は可能である。
ところが、戻したがその跡目の男子に、又、子供が生まれなければ同じ結果と成る。
要するに一代限りの範囲で終わることに成る。
依って、情報提供の西原姓を継承した事に成る。

結論として、「青木氏」を継承しなかった理由は、「女系」の場合では無かったかと観られる。

昔は、「氏家制度」の中では、現在とは違って、「氏家の継承」には「掟」があった。
特に青木氏には「賜姓族」と云う厳しい掟があった。
未だ、江戸時代では、お金に依る「特別な方法」以外(名義札制度)にはこの様な事は起こらない。

青木氏は「氏族」(うじ)>西原姓は「姓族」(かばね)の関係にあるので、「西原姓」から「青木氏」であれば、「名義札制度」の「お金」で興こり得るが、この逆であるので起こらない。

(ルーツなどの歴史史実を調べる時には、出来るだけ多くの昔の慣習や仕来りや掟の知識を把握し、それを正しく持っていて判断するかに全て関わる。現在風では全く逆の判断が起こる。)


この様に福岡の件については充分な説明をしなくてはなかなか判らない子孫状況となっている。

先ず、”福岡に青木村が無かった”を続ける。
この地域には、上記した様に、福岡には「3つのルーツ」の青木さんが時代は異なって定住していた。
1の青木さんのルーツは判明できた。「青木村」を形成できる大きさでは無く記録では「字」であった。

先ず、この「3つのルーツ」を全て説明すると膨大なものと成るので、「地名地形データーベース」を参考にしたとして、そのルーツと観られる一つに付いて説明する。
この事で、「福岡に青木村は無かった」とする事が判る。

次ぎは3の青木氏の検証である。
福岡北の太宰府付近のここには、鎌倉時代に派遣された(「青木氏」)者が確かにいた。
記録に残っている。この派遣された者には2氏がある。
一つは、鎌倉時代末期に「元寇の役」が起こった。
この時、幕府から防衛軍として、「藤原秀郷流青木氏族の5氏」が派遣された。
この5氏は秀郷の第3子の「千国」を始祖とする「兼行流」の「青木氏」、「永嶋氏」、「長沼氏」の3氏と、「文行流」の「長谷川氏」と「進藤氏」の2氏が派遣された。
そこで、「元寇の役」が終われば、元の関東に戻るのが規則であるが、この5氏は九州の自治をしていた九州全土を支配下に治めていた「大蔵氏」と血縁関係を結んだ。
ところが、「秀郷流」の「青木氏と進藤氏」は、現地で生まれた子孫も引き連れて関東に帰ってしまった。
「秀郷流の長谷川氏」と「秀郷流の永嶋氏」の「青木氏族」は「現地の末裔」を残して本体は関東に戻った。
この残った「現地末裔」の「2氏の子孫」が「大蔵氏の末裔」として子孫を拡大させた。
これが「九州大蔵氏系永嶋氏」と「九州大蔵氏系長谷川氏」である。
この5氏は有名な「藤原秀郷流青木氏族主要一門」である。
この5氏の内、「青木氏」は勿論の事、「永嶋氏」と「長沼氏」は、「青木氏」を名乗ろうとすれば名乗る事は「兼行流」である為に名乗る事は可能である。
しかし、両氏とも名乗っていない。

念の為に、下記Aに付いて、この「特別賜姓族」の「藤原秀郷流青木氏」は119氏に広がり、赴任地域の「24地域」に末裔を残している。全て現存している。
この119氏の事は全ての内容が明確に判っている
「武蔵の国」入間の「宗家」を中心に、全国24の地域に認定を受けた「青木村」を形成して定住している。
一方、「皇族賜姓族5家5流青木氏」の14氏も全ての内容が明確に判明している。
更に、「嵯峨期詔勅」に基づく「皇族青木氏」も5氏として全ての内容が明確に判明している。


さて、この氏の内容も殆ど明確に判明している。
鎌倉期に北家筋の「藤原利仁」の一族もこの地に派遣された。(太宰府)
派遣された3人は現地の土豪との「血縁族」を作った。
この「血縁族」が、後に「青木氏」を名乗った。
(但し、江戸期初期に「青樹氏」から「青木氏」に後に変更)
「嵯峨期の詔勅」にて、「青木氏」を名乗れるのは、「皇族の者」と決められていた。
ところが、「皇族賜姓族青木氏5家5流青木氏」を補佐するために、特別に「母方族」の「藤原秀郷」に対して、皇族外から特別に賜姓して「青木氏」を名乗る事を許した。
この「青木氏」を「秀郷の第3子の千国」に対して継承する事を定めた。 

この藤原秀郷は「平の将門の乱」を沈めた勲功から「武蔵と下野」を「領地」とし「貴族の家柄」をも与えられた。
そこで、”貴族は武力を持つ事は出来ない”事から、一族の宗家の「第3子」に、代々この「一族の護衛団の役目」を与えて永続的に役られる事で朝廷の認可が下った。
更に、「皇族賜姓族青木氏」と同じく補佐する「天皇の親衛隊の役目」も与えたのである。
そして、「皇族賜姓族青木氏」と全く同じ「全ての格式と立場」を与えた。

ところが、この秀郷の親族の「利仁なる者の末裔」が筑前に派遣されたが、現地の末裔が室町期の後に青木氏(青樹氏)を名乗った。
(秀郷一門は青木氏を名乗れるが、利仁一門は名乗れない)

北家筋の「藤原利仁流一門」は、「皇族系一門」ではない為に「青木氏」は名乗れる事が出来ない。
そこで、「嵯峨期等の禁令」を破って強引に名乗った。
当然に朝廷からも賜姓は受けられる身分では無い。
勝手に名乗った「あおき氏」である為に、「本流の青木氏」ではない為に、歴史的領域では、「第3の青木氏」と呼ばれている。
室町期から江戸期までの歴史書の全ては、この「福岡の利仁流」で名乗った「青木氏」を「第3の青木氏」と定義されている。筆者も論文としてはその説を採っている。

定義上からは”「第3の青木氏」”と成る。
ところが、この「第3の青木氏」は、記録から、当初のその呼称は「あおき」では無く、「ウォーキ」であった。その漢字も「青樹」であった。
実は、この「ウォーキ」の呼称には根拠がある。

そもそも、「皇族賜姓青木氏」の”青木の氏名”の賜姓は、「青木」と云う木があり、それを基に「天智天皇」は賜姓したのである。
奈良期からこの木は「神の木」として用いられ、その実の真紅は「血」、枝の青さは常緑の青さから「体」と考えられ、又、その木の成長力の強さから「生命」と考えられ、「天皇家の祭祀に用いる皇祖神の神木」として用いられていた。
つまり、この「木の成り立ち」が、この世の「生物の源」として崇められていてたのである。
この「生物の源」として「皇族の者」が、この木に準えて「賜姓」を授かり、下族して臣下として天皇の下に働く事に成る。
この「天皇の末裔」が「下族」で生きる事は、”初めての「民の根源」”の意味を持たして、「賜姓の氏名」とした。
そもそも、”「全ての民」は「天皇の子」であると云う概念”が「古来の概念」であった事から、”その「子の基」と成るのだ”として賜姓したのである。
そして、この「神木のあおきの木」を以って、これが「青木氏の賜姓木」と成ったのである。

しかし、この「青樹氏の呼称」は次ぎの様な由来から来ている。
この「神木」の「あおきの木」の呼び方を「神明社の祭祀」では、「ウォーキの木」と発声していた。
この事を引用して「利仁流藤原氏」は、この「青樹で ウォーキ」と発声したのである。
この事から、「慣例の禁令」を「利仁流藤原氏」は破った事から、「青木氏」だけでは無く、「青樹氏」とし、更には、「あおき」ではなく、「ウォーキ」として発生して、その違いを出して罰を逃れたのである。

ここで「賜姓族の役目」を少し論じて置く。
この事は「青木氏の守護神の神明社」のところで詳細に論じている。
この「皇族賜姓青木氏5家5流」と「特別賜姓秀郷流青木氏116氏」の「2つの青木氏」には「最高級の格式」を与え、「3つの役目」を与えて、「不入不倫の大権」を与えた。
この「青木氏」に「皇祖神」の子神の「祖先神の神明社」を「青木氏守護神」として、”民の安寧を図る事を目的”として全国に建立する事を命じた。
566社に及ぶ建立をした。他にも「皇族の者」が事件などに巻き込まれた場合に庇護するシステムなどの多くの役目を任じられている。
これらを実行する為に、「2つの血縁青木氏」は「経済的自立」を図ったのである。(二足の草鞋策)
その為に「伊勢古代和紙」を他の「四家の青木氏」に広げて、「殖産ー販売のシステム」を構築するなどをした。
中でも徹底した「3つの発祥源の役目」を果たすように命じられ厳しい「特別の戒律」を与えられた。
特に、「侍の根源」(武家の根源等)としての50以上にもなる「慣習仕来り掟」と、「訓」と「戒め」を与えて「民の模範と成る事の役」を果たす様に定められた。
そして、「皇祖神の伊勢神宮」を「守護する氏」として始祖の「施基皇子」に「伊勢王」として命じたのが最初である。
(他の四家にも「守護する氏」としての役目を与えました。)
その為に、「皇位継承の改革」を実行した「天智天皇」と「天武天皇」は、「王の格式と呼称」は、この時、「皇子の第4世族」までとして変更した。(それまでは第6世族までであった。)
この「第4世族」を「5つの地域」に配置したのである。
これが「5家5流の青木氏」と成って、「光仁天皇」まで「5代の天皇」の「皇位継承者」から外れた皇子を、この「5家5流の青木氏」の跡目に入れて護ったのである。
(光仁天皇は施基皇子の長男 女系天皇が続いた為に継承外の第6位皇子の伊勢から天皇に成った)
そして、この臣下した「青木氏」には「天皇と宮廷を護る役目」を与えた。
それが親衛隊の護衛軍トップの「左衛門上佐」として命じたのである。
これを平安期では「北面武士」として呼ばれていた。

この後、「嵯峨天皇」は、更に、この役目を強化して細目の「禁令と詔勅」を発し、その時に、「青木氏の賜姓」から、同じ賜姓の意味を持つ「源」を基にして、以後、「源氏」として賜姓する事に成ったのである。
この「源氏」は「嵯峨源氏」を始めとして、「花山天皇」まで11代の「第6位皇子」で継続された。
参考
(16代とする説もあるが、これは徳川氏の源氏の正統性を戯曲した資料をベースに論じた説で、16代目は正規に賜姓した数から南北朝時代の頃と成り、この頃は既に源氏賜姓の必要性は無かった。徳川氏はこの16代を松平氏発祥の時代性に合わせて偏纂したものである。賜姓は平安期までのものとされる。賜姓された「武家源氏」として発祥した正規に確認できる最後の源氏は11代目の花山天皇である。源氏には「摂家源氏」と呼ばれる賜姓ではない源氏もあり生き延びた実績はない。)

この賜姓の受ける資格の持つ皇子は「真人族と朝臣族」に限定したのである。
そして、この資格は第4世族皇子で第6位皇子に与え、資格から外れた者が下族する際には「青木氏」を名乗る事を定めたのである。
「詔勅と禁令」は、「全ての民」がこの「青木氏」を名乗る事のみならず、この「一切の青木氏の慣例の使用」をも禁じたのである。

この「5家5流の青木氏の跡目」に入れなく成った「下族皇子」と「還俗皇子」は「賜姓族」では無い「皇族青木氏」と呼ばれた。
この「皇族青木氏」を名乗る場合は「朝廷の認証」はなかった。皇族であるとする証を以って自由に名乗る事が出来た。
その「皇族青木氏」には4氏が存在しているが、「自由の呼称」であるが為に、この「青木氏」には厳しい多くの戒律は与えられなかった。
逆に身辺の保護も経済的な保護も何も与えなかった。ただ「呼称権」だけであった。
この「青木氏」から「源氏」に変わった「賜姓」は、11代続き、この間に18人の皇子と7皇女とが対象となった。
しかし、「賜姓」を受けた皇子以外は、殆どは「比叡山門跡院の門跡僧」と、皇女は「皇祖神の斎王」に成った。
この「源氏族」には、「賜姓青木氏の様な役目」を与えない代わりに、生活の糧と成る土地も身分の保護も無かったし、厳しい戒律も無かった。ただ朝臣族とする云う事のみであった。「家の格式」も与えられなかった。
それを「嵯峨天皇」は詔勅に明記して発した。
従って、この事から、「利仁流藤原氏のあおき氏」は、正規の朝廷から認可された「青木氏」でも無く、有資格者でも無かったのである。
「青木氏」でも無い「北家利仁流藤原氏」の「青樹氏」である為に、当然に「氏名の青木村」は認可されなかった。

注釈
ただ、これらの族の「青木村」があるとすると、それは明治初期の「村」である事に成る。
実は、「苗字令と督促令」を発して「農工商の民」に、青木氏等の「賜姓族」、即ち「権威族」の氏名が一夜にして、ある地域全体が「青木氏」を名乗ったのであるが、この為に、この地域を「青木村」と呼称させる様に維新政府は主導した。この「明治期の青木村」がある。この村は判っている。

この「嵯峨期の禁令」で「青木氏」を除く全ての氏は ”地名による氏名”となりました。
つまり、この時から”「氏名」を地名とする事”は出来なくなった。
それだけに「青木村の存在」は、「権威の象徴」として見られていたのである。
ところが、この「青樹氏」は、後に江戸初期に「江戸幕府初期の系譜作成の命」に従って権威のある方の「青木氏」に変更しているのである。
他の地域でも、この令に従って、武士としての旗本や御家人などは、次ぎの様な類似の氏名を名乗った。
この江戸初期と明治初期の「あおき」には次の様なものがあった。
青樹氏 青城氏
仰木氏 葵木氏
蒼樹氏 青城氏
・攣�
以上等があった。

江戸初期には「青樹氏」等の昔の「武士階級の第3氏」に対しては、「条件付き」で「青木氏」に変更さしたのである。

多くは、「利仁流」の様な北家筋の関係豪族が名乗った。
「北家筋藤原氏」は9氏 
「橘氏未勘氏族」は1氏 
「源氏未勘氏族」は2氏 
「佐々木氏未勘氏族」は2氏 
「摂家源氏族」は4氏(”摂家”とは武家族では無い貴族の源氏)
以上等が「あおき」を名乗った事が記録から確認できる。

以上は、全て「2つの血縁の賜姓青木氏」とは、何らかの”間接的な立場”にある「氏族」である。

注釈
そもそも、「未勘氏族」とは、平安期から鎌倉期までに「荘園制」で、「荘園」を創った者が、「権威のある氏族」に「権威の名義」を借りて荘園を護った方式で、「権威族」は「名義貸し」だけで「名義貸し料」として「莫大な利益」を挙げた。この見返りとして、血筋は無いが、「名義」だけを名乗る事を許した制度て、この「借名義族」を「未勘氏族」と歴史上では呼ばれた。
「不明確な族」と云う意味合いである。「青木氏」は権威として最高であったが、立場上でこの「荘園制」に一切組しなかった。

しかし、逆に、室町期に上記の「数々のあおき」の呼称が起こり、これを「青木」に変更させる事態が江戸初期に起こった。
江戸幕府は、”正規の賜姓族の青木氏の権威”に似せて、「権威付け」を社会に浸透させ様としてこれらの数々の「あおき氏」を「青木氏」に変更させたのである。
要するに、「権威付けの対象氏」を増やして「権威」と云うステイタスを社会に浸透させようとしたのである。
この「政治的な目的」の為に、上記の「あおき氏」等に「青木氏」に変更する様に命じた。

注意
この幾つかの「あおき」を使って、「逆の現象」が起こり、江戸初期には「姓」を持たなかった農民から伸し上がった「下級武士」らもこの上記の異なる「あおき」を名乗ったのである。
又、明治初期にも、「苗字令」「督促令」に依って、全ての「農工商の民」は苗字を持つ事に成るが、この時にも、この上記の数々の「あおき」を名乗ると云う現象も起こった。

更に、この「青木氏の権威」は、正式には「平安期までの朝廷の権威」で保障されていたのであり、「鎌倉期の権威」では、最早、「幕府の権威」ではなかった。
ただ、「朝廷の禁令の権威」は遺され、且つ、「社会的慣習」による「権威」は遺った。

従って、「利仁流の藤原氏」の「青樹氏」は、「青木氏」の名乗りも、のみならず「青木村」も認可外のものと成るのである。
「青樹氏」の氏名の「青木村」は、本来であれば「青樹村」に成るが、「氏名」から「村名」にするのは禁令ですから「青木村」は出来なかったのである。

故に、「室町期の青木氏」は存在する事は、当然の事としても、”論調の範囲では無い事”から存在するも”「青木村」は無い”としているのである。
(他の理由もある 下記)
この様な「青木村と青木氏」は、福岡以外の他にも和歌山等の北家筋や橘氏等が定住している数か所でも存在して居る。

この「第3の青木氏」では、室町期初期ー室町期末期ー江戸初期ー明治初期の4期に起こっている。(下記)

「利仁流藤原氏」の場合は、「青木村」は使えないのであるから、禁令を破っている事に成るのである。但し、当時には、この「村」の種類も「3つの種類」があった。

当時の税制上の仕組みからであるが、「村」より少し大きい「しょう 庄・㽵」、「村」より少し小さい「あざ 字」があります。

参考
4郡から5郡で「国」、4村から5村で「こおり 郡」、「しょう 庄(㽵)」は2村程度 、「あざ 字」は0.5村程度、一村は400から500人程度となっていたとされています。

そこで、「青樹氏(青木氏)」の「青木村」とすると、鎌倉期の頃は、税の記録から「字」の範囲であった事が記されていた。
つまり、禁令のみならず、実質的にも元々「青木村」ではなかったのである。
その後、室町期の中頃から末期頃には「大きめの村程度」には成っていた事が確認出来る。
「村の定義」の「青木村」としての記録は発見されない。
従って、ここでも鎌倉期末期から室町初期頃の事では、「字程度」として記録されていて「青木村の定義」からも外れるのである。

何れにしても、以上の様に、全ての「青木氏の条件」からは外れる事に成るので、本論では福岡の青木氏では論じていないのである。

ただ、「第3の青木氏」を論じる場合は、余りにその”多種多様な範囲での青木氏”と成るので、一括して論じる事は難しいのである。

改めて記述すると、千差万別の内容の異なる「青木氏」を名乗った時期は次ぎの4期に成る。
A 奈良期末期から平安期末期(皇族賜姓青木氏 賜姓秀郷流青木氏)
B 鎌倉期末期から室町期初期(源氏から青木氏 皇族から青木氏 北家公家族から青木氏)
C 室町期末期から江戸期初期(武士からの第3の青木氏) 
D 江戸期末期から明治期初期(民衆からの第3の青木氏)

「利仁流のあおき氏」(・太宰府から糸島青木にかけて分布する)は、このBに当たる。
(ここまでの論議範囲)

従って、判っているこの福岡地域の「他の青木氏」は、全て判っている。
一つ目は、「黒田藩の日向青木氏」 (•福岡県 三潴郡 城島町 大字青木島)
二つ目は、「黒田藩の摂津青木氏」 (•福岡県 福岡市 西区 今宿青木)
である事が判っている。
何れも、「青木村」では無い。
この流れの中に、「別の2つの青木氏」が「筑後」と「肥前」から流れ込んできている事も判っている。家紋分析からは判別できる。

そもそも、「別の2つの青木氏」とは次ぎの通りです。
イ この「筑後」は、「源の為朝」が平家に追われてこの地に逃げ込んで出来た「配流孫」が、後に「青木氏」を「為朝書付」(真偽不明)を根拠に名乗った事が判っている。
(•福岡県 下毛郡青木村  「嵯峨期の詔勅」による「正規の青木氏」)

(何故「源氏」を名乗らなかったかには疑問があるが、「社会の圧迫、平家の追跡」などを恐れて名乗らなかった事も考えられる。「青木村」は認可村かは不明)

ロ 
この「肥前」は、ここには「藤原秀郷流青木氏」が平安期から鎌倉期にかけて「秀郷一門宗家」の赴任に同行して「正規の青木村」を形成して「秀郷流青木氏」が護衛団として定住している。

このイロの「2つの青木氏」が、”「筑前の国境」付近の地域に定住”していた事も判っている。
この「肥前の青木氏」の判別も可能で「平安期の詔勅」による「正規の青木氏」である。

(これらは「宗派」と「家紋」と「菩提寺」と「守護神」と「戒名」などの慣習で判別できる)。

当時は、「氏家制度」の社会では、その「家柄や身分」などに依ってこれらの慣習は決められていて、自由には選択できない社会であった。
これらの事がその「氏の絶対的ステイタス」に成っていたのである。

「氏家制度」の社会の中では、「苗字や家紋」は「絶対的なステイタス」として扱われていて、これを護るために「厳しい戒律」として「同族血縁」を繰り返して守ってきたのである。
この”「絶対的ステイタス」”が侵されれば戦いも辞さない時代であった。
現実に、記録から観ると、「青木氏」では事件も含めて10回程度起こっている。(研究室に記載)

当然に、この「絶対的なステイタス」を護るには、「宗派や戒名」等の慣習もそれに準じて分けられていたのである。
自由に、誰でもが、家紋や宗派や寺や神社や戒名等のステイタスを勝手に選ぶ事が出来ない社会であった。(宗派や戒名でも氏のステイタスは判る。)

青木氏の場合は、「賜姓族」として、「武家」のその先頭に立っていたのであるから、絶対にこれを護ったし、故に、「氏の絶対的命題」として「同族血縁」を進めていたのである。

注釈
(明治初期までこの慣習が護られていた。)
(ここで云う「武家」とは、「公家」に類する「武家」であり、江戸時代で云われた武家では無い。「八色の姓の制」に従った「正規の呼称」。
「賜姓族青木氏」はその「武家の頂点」にあり、「武家、侍の発祥源」として位置づけられ、権威付けられていた。)


そもそも、「青木氏」は、社会に対して政治的に”体制の確固たるあるべき姿”を民に示す為にも、”起源を護る事を主務としての賜姓氏”であった。
従って、この為に、それを護ろうとして「必死の同族血縁」が進むために、近隣の「筑後」や「肥前」や「日向」から、「筑前」に同族を求めて血縁し、「棲み分け」の為に両者により近い地域に定住地を構えて近づいて来るのである。
そして、その為に近隣地域には「棲み分け」が起こるのである。
同じ「青木氏」でも「氏」が異なれば、絶対に”棲み分ける当時の慣習”が護られていたのである。
他氏と異なり血縁に依って「混在する村」(「集合村」)は形成されなかった。
(「賜姓族青木氏」でも、「家の格式順位」があって、その格式で棲み分けていた。)
それが「氏名」を「村名」とする「由緒を示す青木村」の持つ意味なのである。

情報提供の摂津青木氏の青木理兵衛、日向青木氏の青木市左衛門のルーツも異なっている事に成るのであり、当然に、「格式の違い」によっても「地域」を変えて定住地は上記の様に異なる事に成る。

(故に、上記した様に、その「氏」その「家」に依って異なるところから、「家紋や宗派や過去帳」などの事が判れば判別できる。)

上記する「福岡の3氏」と「近隣の3氏」の青木氏は、故に、他氏が行う「集合村」では無いことから、「氏家制度の棲み分けの慣習」からすべて異なっているのである。
(「集合村」以外に学問的には「村の形」には多くある)
この福岡も従って、「福岡3地域」「近隣3地域」に分かれていて、「家紋、宗派、守護神、菩提寺」等が異なっている事に成る。
この様に、同族であれば、「青木氏」の場合は異ならず、「戒律」に依って「統一したステイタス」を持っているのである。(「集合村」の場合は統一性が低下する)

この守られたステイタスから、「青木氏の身分呼称」は他氏とは異なり、一定の「ステイタスの呼称」が付く事に成る。
(これが他氏とは、当然に青木氏内でも判別方法は異なる事になり、それが判別条件にもなる。
上記にも記述した様に、青木氏の最高のステイタスは次ぎの様に成る。、

「青木氏ステイタス」







>
> ・> 青木氏の分布と子孫力
>
> > > [地域別分布力]
> > > 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
> > > 全国平均(全国単位 % 表ー1)
> > > 地域      異変の県        分布力
> > > 九州地方   長崎、大分       5%
> > > 四国地方   高知           2.5% 
> > > 中国地方   山口、岡山       2.5%
> > > 関西地方   三重(筆者ルーツ)  14%
> > > 東北地方   秋田           7%
> > > 中部地方                 15%
> > > 関東地方                 45%
> > > 北海道・沖縄               6%
> > > その他                   3%
> > >
> > > 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
> > > 九州地方  1.3
> > > 四国地方  1.3
> > > 中国地方  1.3
> > > 関西地方  4.7
> > > 中部地方  4.3
> > > 関東地方  11.3
> > > 東北地方  2.0
> > > その他   11.0
> >
> > > 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
> > >
> > > 修正地域(表ー3)
> > > 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1−7 三重 12 福井 4 愛知 13−7
> > > 秋田 1
> > >
> > > 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
> > > 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
> > > 福岡  2      山口  0   愛媛  3     兵庫   3    三重  1
> > > 長崎  0      島根  2   香川  1     大阪  14    石川  2
> > > 佐賀  1     広島  3   高知  0     京都   5    福井  1
> > > 大分  0     岡山  0   徳島  1     奈良   1    岐阜  3
> > > 熊本  4                        和歌山 4     愛知  13   
> > > 宮崎  2                        滋賀   1    長野  9
> > > 鹿児島 1                                   山梨  1
> >
> > > 域平均 1.25  平均 1.25  平均 1.25    平均 4.7     平均  4.3        
> >
> > > 関東地方(45%) 東北北陸地方(7%) 沖縄、北海道地方(17.5%)
> > > 静岡   5   青森  1      沖縄   1
> > > 神奈川 21   山形  2      北海道 11
> > > 東京  18    岩手  1
> > > 埼玉  17    新潟  4
> > > 群馬   6   秋田  0
> > > 千葉  11   福島  4
> > > 茨木   4   宮城  2
> > > 栃木   8                                     
> >
> > > 域平均 11.3   平均  2.0      平均  11.0  
> >
> > >  青木氏の分布と子孫力−12に続く。
> >


  [No.316] Re:青木氏の分布と子孫力−12
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/07/19(Sat) 10:50:22

> > 青木氏の分布と子孫力−1の末尾

>この守られたステイタスから、「青木氏の身分呼称」は他氏とは異なり、一定の「ステイタスの呼称」が付く事に成る。
>(これが他氏とは、当然に青木氏内でも判別方法は異なる事になり、それが判別条件にもなる。
>上記にも記述した様に、青木氏の最高のステイタスは次ぎの様に成る。、


以下12



「青木氏ステイタス」
身分は皇族朝臣族、
家柄では浄大一位、 (下位では浄高二位)
官位では正二位、  (下位では従五位) 
職位では左衛門上佐、(下位では右衛門下尉:右衛門尉) 
担当職では民部上尉 (下位では民部下尉:民部尉)
以上の「氏の格式の立場」を持っていた。

この「格式の立場」は、「皇族賜姓族青木氏」と「特別賜姓族青木氏」以外には名乗れない。
これは永代に朝廷から認められたものである。
因みに、この「格式の立場」はどの程度かと云うと、例を挙げて次の様に成る。

格式立場の例
「征夷大将軍の徳川家康」が「青木氏」と面会したとすると、「徳川家康」が下位の儀礼の立場を採らなければならない立場なのである。
殿様が座る上段の場では、家康は席を譲って下段に座り、座布団などの敷物は外す作法の慣例の立場にある。馬に乗っていれば下馬する立場なのである。
(現実にこの慣例に則り家康と対面している。)
因みに、この事を物語る事件が歴史上に起こっている。
この「二つの事件」は有名な歌舞伎にもなっている。

例1
一つは、信長が甲斐武田氏を滅ぼした。そして、甲斐視察を実行している時、甲斐の賜姓族源氏と青木氏が白の布衣を着て、白の馬に乗ったままに信長を迎えたのである。
これを観たこの格式の慣例の知らない信長が、怒ってこの白装束で白馬の者を自分で引き釣り降ろし殴る蹴る乱行に及んだである。極めて有名な歴史上の事件である。

例2
次ぎは、4代将軍が伊勢神宮参詣に至った時に、「伊勢青木氏」がこの慣例に従って迎えた。
それを観た将軍は怒って家臣に命じて罰する様に命じたが、家臣がこの「古式の慣例」を知っていて、将軍を咎めて難無くを得るが、江戸に帰ってから将軍は収まらず、「伊勢青木氏」に対して嫌がらせをした。この事は「青木氏の口伝」にも伝えられている。これも有名な歴史上の事件である。

事ほど左様に、現実には、筆者の祖父の代まで、紀州藩とはその慣例に原則従ったと伝えられている。現実にその儀礼に従った徳川氏の手紙の記録もある。

正式に名乗る時には、”正二位青木朝臣左衛門上佐信定”と云う事になる。
少なくとも、どんなに「格式の立場」が低くても、「青木氏」であった場合は、必ず最高で「左衛門上佐」か「左衛門尉」か「右衛門尉」が付く筈である。
通称、「兵衛」、「衛門」に左右、或は、「摂津青木氏の情報状提供」の様に、理や市等の呼称名がつけられる。(左が上位 衛門が上位)
これに依って、室町期中期前では、その者がその氏の嫡子か嗣子の判別が出来、且つ、「正規の青木氏」かの証拠にも成るである。

参考
情報提供の青木理兵衛、青木市左衛門、共に付いている。
この事でも、「福岡の3氏」か「近隣の3氏」かは判別できるし、その氏の違いが判る。
青木理兵衛は、摂津青木氏系、青木市左衛門は日向青木氏の伊勢青木氏系と成る。
ただ、室町期末期から江戸期には大名や上級家幕臣は、衰退した朝廷の財政を賄う為に、一代限りの官位と職位を金品で買って名乗る事が起こった。

参考
例えば、よく知るところでは”遠山の金さん”の”遠山左衛門尉景元”と名乗る等、これは朝廷に金品を出して、幕府の許可を得て授かった一代限りの官位である。
殆どの武士はこの「一代限り」の官位呼称である。「・・守」も殆どこの一代限りの名義上の官位呼称で中には重複が多い。
幕末中期頃から末期には、武士はこの左衛門、右衛門を勝手に付けて名前にした。
明治期には遂には庶民も名前にするほどに成った。
鎌倉期から室町期中期まではこの格式の慣例はまだ守られていた。


以上の事柄から「利仁流藤原氏の青樹氏」の呼称が「第3の青木氏」である証拠となる。
依って、福岡のパラメータには論処の一つは「日向青木氏」、一つは「摂津青木氏」としてカウントし、「利仁流藤原氏の青樹氏」には「第3の青木氏」としては別途とした。
何れも「青木村の形成範囲」の条件では無かった。

しかし、パラメータとしては、「字」の領域である事から、パラメータは単独では平均パラメータ4として観ると、「村」で2とすると、「字」である事からパラメータは1に留まる範囲と成る。

これは、明らかに、「江戸期の歴史書」の通説通り、福岡の「第3の青木氏」である事を物語っているが、これを更に証明するものがある。
合わせて、江戸期の「第3の青木氏」の可能性が無いのかを検証する必要がある。

それは「利仁流藤原氏の青木氏」の持つステイタスの「家紋」と「宗派」と「菩提寺」と「過去帳」と「戒名」でも判る。
上記した様に、「利仁流藤原氏」が持つステイタスとして、「家紋群」、「密教浄土宗」か「真言宗密教」か、「菩提寺か檀家寺」か、「過去帳か人別帳」か、「院殿居士の有無とその内容」、等で区別されている。この確認をする事でも判る。

「利仁流藤原氏族青木氏」のステイタスは次ぎの通りである。
・家紋群
上藤 檜扇 隻雁 五三桐 丸に三引 
・宗派
密教浄土宗、或は、密教天台宗
・寺
菩提寺 (達親方式)
・系譜
過去帳(一族一門系譜伝承)
・戒名
院殿居士(釈優位名付帯)

以上のステイタスを持つが、ところが「北家筋利仁流藤原氏族」には、「北家筋秀郷流藤原氏族の文行系」の「長谷川氏」と「進藤氏」との血縁族は発祥させている。
又、この「北家筋利仁流藤原氏」と血縁した「青木氏族」の2氏は、更に同族血縁にて「長谷川氏族進藤氏」、「進藤氏族長谷川氏」、の「複合融合族」を発祥させている。
しかしながら、「北家筋秀郷流藤原氏族の兼行系の青木氏族」の3氏(青木氏、永嶋氏、長沼氏)とは、「北家筋利仁流藤原氏」とは同族血縁を一切していない。
重要な史実の一点である。ここが大きなポイントで、本来なら在り得る同族血縁でもある。
しかし、それも一切無いのである。
従って、博多に赴任した「利仁流藤原氏族」のこの事で「九州の青木氏」は一切無いのである。
ある事が、元来おかしいのである。
その証拠に九州の「福岡糸島」から「太宰府域」までの流域の青木氏の上記の家紋群は無いのである。

当然に、重要な事として次ぎの地域にもない。
「黒田藩の日向青木氏」の在所域の福岡県 三潴郡 城島町 大字青木島、
「黒田藩の摂津青木氏」の在所域の福岡県 福岡市 西区 今宿青木
以上の2地域にも、この家紋群は無い。

従って、上記の「福岡の3氏」のこの3地域には「利仁流藤原氏」が、ステイタスとする「菩提寺」(寺名は個人情報にて不記載)は無い事に成る。

つまり、この事は、九州の「利仁流藤原氏の青木氏」は、鎌倉期間の3代の赴任中には「正規の青木氏」の呼称は無かった事を示すものである。
従って、合わせて、”室町期中期頃の「青樹氏」の名乗り”であった事を物語る。
当然に、これは”「利仁流藤原氏の宗家」からの許可を得ての名乗り”では無かった事に成る。
独自に現地に遺した土豪との血縁族の末裔が勝手に名乗った事を意味している。
許可を得ていれば、上記のステイタスの使用を許可され、且つ、経済的な庇護もあった事に成るがそうでもなかった事に成る。
朝廷も無法治に許可を出す事はしない。

a 氏の家紋群の使用、
b 氏の巨額の菩提寺の建立、
c それに伴って氏の系譜過去帳の作成、
d ステイタスに見合った戒名
以上の氏のステイタスは無い事に成る。

「九州の青樹氏」は、ここに赴任した「利仁流藤原氏」が、正規に「青樹氏」と名乗った事には成らない事を物語る。

つまり、現地に遺した「傍系支流」の「末裔」(未勘氏族とも観られる)が、「秀郷流青木氏の権威」に準えて名乗ったものと成る。

結局、「江戸初期の系譜作成の令」に基づき「青木氏」と変更した事からの「第3の青木氏」と成った。
筆者の検証では以上と成るが、これは江戸期の史書の「第3の青木氏」の説に合致する。

その上記のステイタスの最たるものは「家紋」である。
その家紋には次の様な権威を表している。

・「上り藤紋」
「北家筋藤原氏」が本来の総紋が「下がり藤紋」であるが、”下がる”を忌み嫌い、秀郷一門9氏を除いて藤原氏は全て”上り”に変更した。
「利仁流藤原氏」は、この北家筋として「総紋」をこの「上り藤紋」としているが、秀郷流とは一線を画していた事がこれで判る。当然に、そのステイタスの順守度も異なってくる。
中でも、秀郷一門の「兼行流」の「青木氏」と「永嶋氏」と「長沼氏」とは血縁族がない事もこの事で証明している。

・「檜扇」
この家紋は、当に「公家紋」として有名で、北家筋の藤原氏の「公家族」を象徴している家紋である。
ここでも差違がでていて、秀郷流一門に無い家紋である。
「秀郷流一門」も「平の将門乱」で「貴族」に成ったが、「公家族」との違いを鑑みれば、「行動規範」の違いを「上り藤紋」と共に表している。

・「五三の桐紋」
これは「天皇家の式紋」で「最高の権威紋」である。
これに似せて天皇家より秀吉に送った「五七の桐紋」があり、この「五七の桐紋」を「黒田氏」から送られた「日向青木氏」がある。
この「五三の桐紋」は、天皇家から公家藤原氏に使用を認められたものである。その藤原氏の守護神の「春日社」の「神紋」に用いられた「公家族象徴紋」であり、一門が特別に使用できる事を許可した「神社権威紋」である。

・「丸に三引紋」
「引き両紋」は「花房氏」を始祖とする「足利氏の家紋類」である。
足利将軍の「二引両紋」との血縁族で、「利仁流藤原氏」と「信濃足利氏」との血縁族が用いた「丸に三引両紋」である。室町幕府との繋がりを表す「権威紋」である。

・「隻雁」
これは室町期末期に勃興した真田氏の家紋である。
この基紋は、頼朝より高知の土佐ノ坊昌俊に送った雁文様で、「利仁流藤原氏」が関東で花房氏も用いていて足利氏との繋がり示すもので血縁を結んだ事による類似家紋である事が判る。

この家紋群の持つ意味は、「上り藤紋、檜扇紋、五三の桐紋 丸に三引両紋、隻雁紋」の5紋全体は、「藤原氏」を象徴し、”権威を誇示する家紋群”である。
「隻雁紋」は”関東の豪族足利氏”との血縁を示すものである。
この”象徴と権威の最高家紋”を持つ氏は福岡にはない。
同族血縁を戒律とした「利仁流藤原氏」が持つ「象徴と権威」に匹敵する「家柄身分の豪族」は福岡には大蔵氏を除いて無い。
何故ならば、「遠の朝廷」と呼ばれ、「錦の御旗」を与えられ、「天皇家」と血縁し、「賜姓族の唯一の氏」で「太宰大監」として「九州域の自治」を仕切っていた「大蔵氏」が居た事から、福岡には他のステイタスが入る余地が無かった事がむしろ原因と云える。
”関東や関西の勢力”が、この”筑前”のみならず”九州地域”に入り、”子孫の裾野”を拡げられる情勢下には無かったのである。
まして、「皇族賜姓族青木氏」と「特別賜姓族青木氏」が赴任同行の現地の末裔を遺す事はあるとしても、その「役目柄と戒律」から無かった。
「丹治氏系青木氏」も子孫を大きく遺すだけのその勢力を保持していなかった。
鎌倉期ー室町期まで大蔵氏族系のその勢力は保持され、”枝葉末孫の裾野”を拡げ、室町期末期頃から江戸期に入って、その勢力は”分散化”した経緯なのである。
この事でも、「利仁流藤原氏族」の末裔(「あおき氏」等)が ”3代の赴任中”には発祥している事は先ずあり得ないのである。

上記した様に、”独自に現地に遺した土豪との「血縁族の末裔」が、室町期末期以降に勝手に名乗った事”を重ねて意味している。

この”「氏の末裔」だ”と主張する内容を簡単に検証する。
主張の相違点
1 産土神
「青木氏」はそもそも”「産土神」”ではなく、”「祖先神」”である。
「青木氏の守護神」は「皇祖神の子神の祖先神の神明社」である。
「藤原秀郷流青木氏」も、「神明社」と「春日社」である。
「産土神」は「九州域の大蔵氏系族の守護神」である。
「第3の青木氏」である事を物語る確実な証拠である。

2 「氏名」を「神社の社名」
「嵯峨期の詔勅」と「禁令」に反し、「青木氏」にはこの慣習はない。
「社名」は統一して「神明社」である事。他の社名を附ける事は「禁令」である。
「氏名」を社名とする慣習は「禁令」である為に無い。
通説通りの「第3の青木氏」である事を物語る。

3 「氏名」と「呼称」
当初は「青樹」を使い、呼称も「ウォーキ」であった史実がある事。
それを「江戸初期の令」により「青木」に変更した。(各地でも起こった)
通説通り「第3の青木氏」である事を物語る。

4 「宗派」・「寺名」・「菩提寺」
「青木氏」は「密教浄土宗」であるが、「真言宗」である事は疑問である。
「氏独自」に寺を創建して、自らの氏の中から住職を出す仕来りである事。他氏の住職は無い。
「菩提寺」では無く、情報の寺は「檀家寺」である事。根本的に違っていて「時代性」も違う。
「青木氏」は「独自独善の菩提寺」は「寺名」も統一されている事。その「寺名」も違っている。
通説通り「第3の青木氏」である事を物語る。

5 「禁令と慣習慣例」
「青木の氏名」を山名に使っている事。「禁令」で「氏名」は使えない。
「青木氏」は「嵯峨期の詔勅と禁令」に従って、勝手な所に「青木」を使う事は禁じられている事。
通説通り「第3の青木氏」である事を物語る。

6 「住職氏名」
「青木氏の菩提寺」の「住職」は、「密教」であり全て「青木氏」である事。他氏名はない。
(同族の近江佐々木氏が代行している)
他の上人が建立することはない。
通説通り「第3の青木氏」である事を物語る。

7 「達親方式」
「自らの氏」が「自らの力」で「自らの住職」が「自らの僧侶」を揃えて建て、自ら”で運営する。
”青木氏の仕来りの「達親方式」が、「布施方式」である事。全く「宗教の慣習」は違っている。
通説通り「第3の青木氏」である事を物語る。

8 「時代性」
「布施方式」は、真言宗も密教方式で、この時代は「布施方式」は正式には採用していない。
まして、青木氏の浄土宗の「浄土密教」と異なる。「真言密教」の「布施方式」はあり得ない。
その「真言密教」が「密教」を解いて「布施方式」と「檀家方式」に変えたのは、江戸初期に家康が全ての宗派に対して、「密教方式」を解き、「菩提寺方式」を解いて、全て「檀家方式」に変え、「達親方式」を止めさせて「布施方式」に変えさせた時からに成る事。
通説通り「第3の青木氏」である事を物語る。

9 「神職住職の姓」
住職と神職共に青木氏であったとしても、この福岡地域には「3つの青木氏」と、近隣には「3つの青木氏」が存在して居るし、「明治期の第3の青木氏」は発祥している。不確定の事柄である。
「青木氏」の「真言宗住職」は「戒律と禁令」で有り得ない。
通説通り「第3の青木氏」である事を物語る。
そもそも、既に、「達親方式」では無く、上記で「布施方式」で、「檀家寺方式」である。

(秀郷流と利仁流は、秀郷の祖祖父の藤成と、利仁の祖祖父の鷲取は兄弟)


ここで上記の様な検証をする際に、配慮しなければならない問題と成る事柄に付いて述べて置く。

「郷土史の心得」
特に、ルーツを調べる多くの場合は「郷土史」を参考にする事がある。
ところが、この「郷土史」は果たして「史書」として全て正しいのかと云う問題である。
多くの人の場合は「郷土史」に「万来の信頼」を無条件で、感情的に「正」としての前提で使っている場合が多い。

何故上記の様に、余りにもの”違い”が起こるのは、次ぎの事から起こっている。
1 郷土等が持つ「古文書資料の検証」が、「総合的な知識」によって成されていない書を使用した事による間違いである。
2 特に青木氏には「悠久の歴史」とその「慣習仕来り掟」とそれを構成する「特別の戒律」がある為に、この様に、間違いを起こしてしまったものである。
3 「青木氏」が「他氏」或は「姓族」と同じ様にあるとして、現代風に考えてしまうので間違いを起こすのである。
しかし、この様に何度も研究室や掲示板でも論じている様に、その”「郷土史の論処」は何辺にあるのだろうか”を先ず考えないと大変な間違いを起こす。
”間違いだらけのルーツ青木氏”であるのは「自己満足の領域」である。
それならば、極端に云えば天皇家との系譜と自由にくっければ良い訳で、まあ、それで良いのであれば吝かでは無い。
「自己満足の領域」のそれは、最早、「ルーツ」では無い。歴史の「小説の領域」に成るだろう。

筆者も初期の頃は、多くの正しい研究の手続きを採った資料などを読み続けると、ある処で大きな矛盾に行き詰まる事が起こった。そこからは、全く矛盾だらけの意味の無いレポートが出来上がり前に全く進まなかった。10年位経った頃であった。原因はよく判らなかった。
ところが、ある時、歴史マニアの先輩に何気なくアドバイスを受けた事があった。
暫くは判らなかった。ある時、ある「郷土史」と別県の「郷土史」に同じ事が書かれていた。
ハット気付いた。次ぎの3つの事に気が付いた。

A 「郷土史」の書いている基本前提となった書籍の真偽の事。
B 「郷土史」は「自らの郷土」の宣伝目的が潜在して優先として真偽だけを優先していない事。
C 「郷土史」の論処の殆どは、江戸初期に幕府が命じた「家譜作成の令」が前提である事。

「家系」や「由来書」や「歴史書」や「宗派」や「家紋」等の”一切の格式に関する家譜書籍”の「作成令」で出来たものが前提と成って居ることであった。
それを”正しいとする前提”で書かれている事に気が付いた。これが「先輩の忠告」であった。

「郷土史」の編者自らが「歴史の研究」をして、その「論処の是非」を研究して、つくり上げたものとは言い難いもので、多くはこの「江戸初期の書籍」を基に「写し書き」で作成されている事であった。
現実には、上記した様に、「搾取偏纂の権威の構築」の政情下にあった為に、江戸期前のまともな資料は少なく、又信頼度が低いし、この時期のものを使って史書を作る事は至難の業である。
特に「青木氏」に関しては、室町期からの「勃興氏姓族の慣習」等に社会の多勢が従っている為に、「違いのある慣習仕来り掟」に従っている為にこの様な事に成るのである。

この「江戸初期の大名」やそれに「準ずる豪族」と、その「上級家臣」等の主だった「武士」達、要するに、「系譜偏纂」を江戸幕府に命じられた者達は、平安期からの「悠久の歴史の持つ者達」であったのであろうか。そうではなかった。
室町期の下剋上、戦国時代で、殆どの歴史や由来を持つものは11代の源氏を始めとして豪族と云う豪族は悉く例外なくすべて滅亡している。
そして、それらと入れ替わって、歴史由来の「慣習と概念」の持っていなかった”立身出世した有能な農民や庶民”が伸し上がったのである。
「主君」に例外が無いのであるから、「家臣」の領域までも例外がない。
”作れ”と成れば、例外なく ”搾取偏纂の虚偽の書籍しか作り様がない。
作らなかった場合は「藩の存続の保証」「俸禄の保証」はない。
江戸初期の幕府は、それでもよかったのであって、「権威つくりの政治体制」を作らねば、政治に「権威」を無くし、世は又乱れる。その「権威づくり」に幕府は躍起となった。
「過去の権威」と繋がった様に書いていなければ受け付けなかった。
当然に「領主」階級がそうであったように、幕府が求めていなかった下級家臣クラスにもこの影響が及んだのである。
そうして、社会全体が、”「家柄 身分の格式」を重んじる社会”となって行ったのであるが、結局は徹底した封建社会が確立した。
この”作られた搾取の書籍”は、事態と時代が進む程に、「真偽化」していくことに成る。
この「虚偽」を打ち消す「資料と人」は、無くなって行くことが「搾取資料」を正当化する。
これが世の中の条理である。
さて、そうなると、この「虚偽の書籍類」を信じて以外に「郷土史」を作る方法は無くなる。
それが「郷土史の実態」で、上記の様に、文章などに「時代考証」や「慣習考証」などに各所に矛盾が生まれるのである。
肝心な事は。「ルーツ探究」には、この様な背景のそれを取り除いてから採用する必要があるのだ。
それには、上記のA、B、Cを取り除く事を実行する事になる。
筆者は、矛盾だらけの内容の原因である事にその事に気づいた。
実に仕事量は増えたが、研究の中で「矛盾と疑問」は少なくなったし、研究は高速で進んだ。
何よりも、この為に「推論立て」が良くなり、その「推論」の「的中の確率」が高くなったのであった。

幸い、その中でも、最も「悠久の歴史と由来や慣習や仕来り掟」などが、消えずに残していて、悠久の中で生き残った「青木氏」が存在していた。
その生き残った以上は「青木氏が持つ資料」も遺されるので、この様な「郷土史」に対しては、この遺された資料は、”是非を判定する比較対象”に成り得る。
この為に、「搾取偏纂虚偽の削除」と「真偽の判別」が可能と成るのである。
「青木氏」に限ってこそ、可能と成る「真偽の判別」である。佐々木氏や藤原氏等を除いては、「他氏」や「姓族」では無理であろう。
「慣習や仕来りや掟」や「戒律」の違う「他氏」と同じ扱いで探究すると、この様な”矛盾だらけのルーツ探究”と成るである。
それだけに、サイトは、この「青木氏」だけの「慣習・仕来り・掟」と「戒律」のありとあらゆる事を研究してそれを論文として遺そうともしている。
是非、この論文を使って、「青木氏」の「ルーツ探究」をして頂きたい。
歴史を研究する者は、確かに「郷土史」も一応は資料対象とするが、その「真偽」から先ず調査して「研究の資料」とする。
殆どは、「郷土史」は、必ずしも”虚偽搾取偏纂”とは言わずとも、「矛盾」を持っているのが現状と考える。
これを”推論を建てて取り除いた上で”の資料として使うのが普通である。
そもそも、この世の中の事はその条理の手続きの中にあると信じるし、「仏説」もその様に説いている。

典型的な例がある。
それは、「家の格式や立場」を表すステイタスの”「家紋」”である。
1つの権威ある「家紋」に対して、判りにくいところを少し変えて「類似家紋」に作り変えているのである。
大抵は、”1つの権威を有する家紋”に対して、100から200位は類似家紋がある。
「類似家紋」、そのものの存在が、「権威の搾取偏纂」に外ならない。
「江戸期の作成令」のこの数字の示す事は、如何に”捏造”が凄かったかで、それが判る。

現に、そこで、徳川幕府は、「家紋」に対する「権威の保全」を徹底させる為に、無断使用と類似家紋の使用等の一切のステイタスの模倣と無断使用を禁じていて、極めて厳しい厳罰で臨んでいる。

特に、「福岡の青木氏」の検証には、「7つの氏姓」が上記の事に複雑に絡んでいて「真偽」を見つけるのに苦労した最大の要因であった。
言い換えれば、”「真偽の追及」=「搾取偏纂の除去」”の末の「パラメータの決定」であった。

本論を終わるに付いて、”上記の事”を実行しての「青木氏の分布と子孫力」の長い間の研究であった。
是非、本論をご覧に成って、研究に「郷土史」類などを利用される場合は、上記「40年前の経験」を忠告して終わりたい。


参考
「現在の福岡の青木の地名」

福岡県福岡市博多区大字青木
福岡県福岡市博多区青木1丁目
福岡県福岡市博多区青木2丁目
福岡県福岡市西区今宿青木
福岡県久留米市城島町青木島
福岡県久留米市城島町上青木
福岡県久留米市城島町下青木
福岡県久留米市城島町西青木
福岡県大川市大字下青木

以上、9地域に青木の地名がある。


所感「伝統 3」
さて、終わる前に、「青木氏の伝統」に関わる事が「福岡の青木さん」の検証に大きく関わっていたので、追記としてここで今後の参考に論じて置く。

家の家紋には、一般に使われない「女紋」「女墓」等の”女系に関する「慣習や仕来り」”があって、「青木氏」は、この「女紋」や「女墓」等の「女系のステイタス」も継承する慣習を持っていて、それに多くの「慣習仕来りや掟」が付随していた。
この「女紋」や「女墓」の事を知識として持ち配慮して検証しないと、ルーツなどには判明しない事が度々に起こるし、間違える事が出る。
そこで、今回の「摂津青木氏の検証」には、次ぎの「女紋」として家紋が大きく左右した。
以下は、この情報提供を受けて、「摂津青木氏の判定」がより確実となった。
なかなか、現在では、この「女紋」「女墓」等の習慣を継承している青木氏でさえ少なくなった。
「青木氏の慣習」に習って、勃興した上級武家もこの慣習に習って継承した経緯がある。
この「女の慣習」と云うべき「慣習仕来りや掟」は、主に江戸初期まで維持されたもので、江戸期に入って「女性の立場」は社会の中で抑え込まれた様な環境に成って行った。
その為に、これらの慣習は、「特定な家柄筋」の中で維持されてきた。
特に、青木氏には、「女紋」は主に「儀式祭祀」の中で昭和の中頃まで遺されていた。

そもそも、「皇族賜姓青木氏」は、家紋は「象徴紋」の扱いである事から、支流傍系等の事を表す手段として「丸付き紋」は一切使用していない。
但し、「象徴紋=総紋=家紋」となるが、この為に、「副紋」は使わず「女紋」を慣習として用いた。
他氏には観られない「女墓」も同じ考え方である。
この事は本論の上記でも論じたが、「特別賜姓族青木氏」は次ぎの様なこの慣習を家紋に直接反映させる方法採っていた。
特別賜姓族は「副紋」を使う代わりに、原則として、「丸付き紋」は使用しない仕来りと成っていた。
文様が元より「丸付き」の文様として出来た家紋の場合は例外とした。

先ず、大別すると次の様に成る。
A 氏一族一門全体を示す「総紋」がある。
B 家のルーツを個々に示す「家紋」がある。
C 家の副ルーツを示す「副紋」がある。
D 家の女系ルーツを示す「女紋」がある。
F CとDを兼ねた「副紋」=「女紋」がある。

Aは、「下がり藤紋」となるが、「総紋」をそのものを「家紋」とする事は、「総宗本家」と、それぞれの「流れ」の「宗家」「本家」までが「家紋」として継承する仕来りである。
従って、「総紋」を「分家」は家紋とは出来ない。同様に同じ目的の「藤原氏の氏名」もこの「仕来りの内容」に従っている。

Bは、「総紋」だけではその子細なルーツを示す事が出来ない為に、先ず「家紋」を用いて判別させる仕組みで「流れ」を示す仕来りである。
この場合は「総紋」の中に文様として組み込んで使う手法と別に分けて使う場合がある。
特に、枝葉から観て、判別要領は次ぎの様に成る。
イ ”「幹部」に位置する独立性の高い「流れ」の「青木氏」の場合”は、「組み込み方式」を採用する仕来りである。(本家筋)
ロ 逆に、”「抹枝」に位置する流れの青木氏の場合”は、別に分けて使う「分離併用方式」を採用する仕来りである。「併用紋」である。

特に、イの「組み込み方式」の家紋は、”独立性の高い「宗家筋」(本家筋)の流れの家柄”を示す。
例えば、「組み込み方式」では
「讃岐藤氏の青木氏」の「下り藤紋に雁金紋」
「武蔵藤氏の加藤氏」の「下り藤紋に巴紋」
「尾張藤氏の柴田氏」の「下り藤紋に一文字紋」
「結城藤氏の結城氏」の「下り藤紋に左三巴紋」
等がある。
「分離併用方式」では、
「下り藤紋 違鷹羽紋」がある。
「下り藤紋 州浜紋」
等がある。

Cは、藤原氏の様に全体で361氏にも枝葉末孫が拡大している場合、その青木氏が116氏にも拡大している場合は、B方式では未だ子細は充分でない。
そこで、更に、この「流れ」を更に判別する方法として、Cの「副紋」を用いた。

例えば、次ぎの様なものがある。
秀郷一門の「主要家紋8氏」の中の家紋で「家紋主要8氏」が用いたものである
「違鷹羽紋に一文字と開き蛤紋」の様に、「一文字紋」と「開き蛤紋」を「副紋」として用いた。
これは、「分離併用方式」の”併用する方法”とは違い、これは、別の「第二家紋」扱いで使用した。
「左三巴紋に釘抜紋」「左三巴紋に三角藤」
「左三巴紋に上藤丸紋」「左三巴紋に蛇目紋」
「檜扇紋に隻雁と五三の桐と丸に三引紋」
以上等が「第二家紋」扱いの副紋である。

依って、「一般の氏」には、この「Cの副紋」(第二家紋)は原則的に用いられていない。

a 「北家藤原秀郷一門一族」の361氏に成る様な「子孫力・子孫拡大」を起こしていない事
b 「高い格式」と「同族血縁」が無い事
c 「青木村」の様な「権威村」を構築出来ない事
以上等が原因して「Cの副紋」は用いていないし、用いられない。

(「氏族」では無理に誇示する為に用いたものもあるが、「姓族」そもそもない。)

このBの「分離方式併用方式」の「副紋」は、「家紋掟」に依って、「跡目継承の問題」で「変紋」を余儀なくされた”本家筋が用いた手法”である。
従って、”分家、支流、傍系”には、この「Bの副紋」の「分離併用方式」の「副紋」は原則ない。
そもそも、重要な事は、”「副紋」を持つと云う事”は、その「流れ」の”「本家筋」以上の格式の家筋を示す事”を意味する事に成る。
要するに、「Cの副紋」は「第二家紋扱い」の家紋である。
AとBとCの家紋方式を以って秀郷流青木氏の家筋は解明できるのである。

Dは、AとBとCの家紋に対しての「男系ルーツ」に対して、「女系ルーツ」を明示して、その「ルーツの正統性」を誇示する慣習である。
一見して、「Cの副紋」と間違いやすいが、違う所は、この家紋は「女が使う家紋」で、跡目と成る嫡子嗣子は用いない。
この「女系のルーツ」を誇示する為に、「女系側の家紋」を用いる。
しかし、これにはある「一定の仕来り」があって、”どの段階の女系のルーツの家紋”を「女紋」にするかの要領がある。

「女紋要領」を下記に説明する。
「女紋」は先ず、その家の跡目の「嫁のルーツ」の家紋を、その嫁が「実家先の家紋」を用いる。
跡目を譲った後のその家の姑には、下記の「2通りの慣習」がある。
要するに「女紋掟」と呼ばれるものである。

「女紋掟」
1の方法は、その姑の実家先の家紋を用い続ける。
2の方法は、その姑は夫の家紋に戻る。この場合は、孫の跡目が出来た事が条件と成る。

「2の方法」
これには、重要な「青木氏族の賜姓族の役の考え方」が存在する。
それは、”子孫を遺す”と云う定義が、”「孫」の跡目が出来た事”を以って、”子孫を遺した”とされる。
「息子の段階」では、”子孫を遺した”と云う考え方を採らないのである。
息子の跡目の段階では、まだ ”子孫を遺した”とは云わない考え方である。
何故ならば、これは、”子孫を遺した”とする「考え方の根拠」は、「分身説」を採っているからである。
これは、「古代密教浄土宗」の考え方にあり、「過去ー現在ー未来」の「3世」を「一つの世界」として捉えている。
この「三世の考え方」では、この「3つの完成」を成し得て、初めて”分身を遺した”とする考え方なのである。
つまり、子供が出来た段階で、「自分の位置」は、「現在の位置」に居て、子供は「未来の位置」にいる事に成り、「現在ー未来」のプロセスが完成する。
しかし、更にその子供に「孫」が出来たとすると、「自分の位置」は、「過去の位置」に移動して、子供は「現在の位置」に、孫が「未来の位置」になり、遂に「過去ー現在ー未来」の「三世の形」が出来上がる事に成る。
この時、初めて、”子孫を遺した”、”分身を遺した”、とする考え方である。
「三世慣習」と呼ばれるもので、「青木氏」に於いては全て、この「世の事」はこの「三世慣習」に沿って考えられる。

この「三世慣習」の根拠は次ぎの様に成る。
例えば、「自分の子供」が結婚して、「孫」が出来たとすると、「自分の子供」は「嫁」に引き渡して、「子供」を引き続き ”次ぎの段階の養育の役”をこの「嫁」に任す事を意味する。
息子の「第一段階の養育」は終わり、次ぎの「第二段階の養育」に移る。
この息子の「第二段階の養育」を「嫁」が引き継ぐ。
「孫」が出来れば、「未来の子供」(孫)と「現在の子供」(息子)の”二つの子供”を「嫁」に育ててもらうと云う考え方をする。
従って、「孫」は「嫁の者」では無く、未だ「姑の者」として考えて、”「育てて貰う」”と云う考え方をする。
従って、「嫁」の位置づけは、「嫁」では無く、「娘」の考え方に位置する。
これは、上記した様に、「同族血縁の仕来り」から来る考え方に成る。
「家の子供」は「氏の子供」であって、「同族」であるが為に、取り分け、「嫁の位置」づけは「外者の感覚」より「内者の感覚」「同族の感覚」「縁者の感覚」の方が強かった事に依る。
「娘の感覚」の方が強かった事になるのである。
結局は、つまり、「子供の養育」の「バトンタッチ方式」である。
「親の姑」から「娘の嫁」へのバトンタッチである。
当然に、故に、この「バトンタッチ」は”「段階の変化」を来した事”だけを意味する。
「自分の子供」の段階では、「子供」の「基礎養育段階」(第一段階)であり、「嫁」に引き渡した「子供の養育」は、子供を遺す為の「成長養育段階」(第二段階)と考える。
この時、「孫」が出来れば、その「孫」と子供(息子)とは、「嫁」に依って「家の子供」として育てられる。
そして、その「孫」に子供が出来れば、「嫁」は「人の目的」、即ち、「2つの養育段階」の目的は、”果たした”と云われる事に成る。
この時、祖祖母に成った自分は、”「人生の目的」を果たした”と云われることに成る。
「家」の取り仕切りは、「姑」から「嫁」に一切引き渡されるのである。
「嫁」は、「人の目的、」「2つの養育段階」の達成を以って、「家の人」と成った事に成り、「氏の家紋」を引き継ぐ事に成る。
この時、「姑の自分」と「嫁」は「氏の家紋」を使う。
その前は「嫁の段階」では、未だ「実家の家紋」なのである。
「嫁」は「過去の位置」に成った時、「2つの養育段階の役目」を果たした事を以って、「氏の人」と成ったと評価される。故に「氏の家紋」の使用を許される。

これは、「孫」もその「家の子供」とする考え方であり、「嫁」もその「家の娘」に成ったとする考え方である。従って、「青木氏」には、「嫁」という概念が低いのである。
この「嫁の概念」の低さは、「同族血縁」を主体としていた為である。
他氏から来た「嫁」でないからで、その差から来て来るのである。
子供は、同族の「氏の子供」の感覚であるから、「嫁」も「氏の一族一門や縁者」から来ているので、「姑」にとっては「嫁」と云うよりは「子供」の域の感覚にある。
「嫁」は、”「家の娘」化の感覚”が起こるのである。
「青木氏」では、「子供」(現在の子供)も「孫」(未来の子供)も含めた「子供の定義」の中にあり、要するに「子供」と成る。
「孫」の位置は、あるにしても「子供」の概念の中にある。
従って、「青木氏」では、「跡目」や「嫡子」は、この孫も含めた「子供」の中から選ばれる事に成る。
更には、「青木氏の賜姓族」は、子供は「家の子供」では無く、「氏の子供」として考える。
「各家の跡目」は、「各家の子供」を直接に「跡目」とする考え方では無く、「氏の跡目」として「跡目」が無い家には、「氏」の「他の子供」を「別の家」に廻して「跡目を継承する方式」を採用する考え方である。
「氏の子供」は、「自分の家の子供」であるとする考え方を採る。
これは「血筋の純血度」を一定に高めて、それを広域な範囲にして置く「血縁戦略」である。
こうする事で、「家の断絶」や「氏の衰退」は無くなるとしたのである。
この様にして、如何なる事由が在ろうとも、絶対に、「氏の継承」と、「氏の純血の血筋」と、「氏の名の継承」と、「氏の役の継承」とを守り通す為に、「古代密教浄土宗の考え方」を「青木氏子孫存続」の「システムの考え方」に取り入れたのである。
これには、「3つの発祥源の立場」を守り通さなければならない「絶対的な役の戒律」があった事に由来する。
この「跡目となる子供」は、上記の「三世慣習」の考え方に従ったのである。
この「三世慣習」から、氏の「家間の差」が無く成り、「分家、支流、傍流」の感覚は無く成ったのである。
当然、その「家間の差」が無い為に「家紋」は無く、「家紋」の元と成った「象徴紋」の侭にあるのである。
ここには、その「システムの維持」に絶対的に不可欠な事は、「女系の血縁維持」も同じ様に保つことが必要と成る。「男系」だけでは成し得ない。
この「三世慣習」は、むしろ「女系システム」と云っても良い。
「青木氏の家訓10訓」の「家訓1」と「家訓2」にある様に、これを重視している。
「女系」が「三世慣習」を作り出しているから「女紋」が生まれているのである。
「三世慣習」からすると、つまり「家訓1」「家訓2」からすると、「男系」はあくまでも「あらゆる面に使われる一種の道具」である。
それを使っているのは「姑ー嫁ー娘」の「女系」であり、「2つの養育段階」は「女系」によって左右される。
「氏の発展如何」は「三世慣習」の「女系」によって決まる。
故に、「女」への考え方も異なるが、「女紋の存在」そのものが他氏とは違って存在する。

もう一つの「女紋の存在」を決定付ける慣習がある。

「家紋の存在」の慣習
「娘」が藤原氏等の同族の他氏に嫁ぐが、「同族血縁」で嫁ぐかの如何に関わらず、その娘の「第一嫡子」は、「実家の跡目継承の資格」を有している。
これは、天皇家や皇族の継承の仕来りと同じである。
「女系天皇」があるのはこの「仕来り」に従っている。
つまり、これは当時の「血縁の概念」は、”「娘」は男子と同様に「半分の血筋」を有している”と考えられていたからである。

そもそも、現在では、「遺伝学」が発達して、父と血液型を同じくする場合は、その父の遺伝子の85%も子供は維持している事になる。明らかに殆ど”分身”である。
「青木氏」は、上記する様に、早くからこの「分身説」を採用している。
但し、「女子」である事から、父の「男子の遺伝部分」は無いので、80%前後には下がるが、血液型を同じくとする場合は、「息子の血液型」が「母型」に成っていた時よりも、遺伝部分は多く遺伝している事になる。
古来は、半分と考えられていて、男女同じと考えられていた。
そして、血筋として、特に娘の「第一嫡子」が高い継承率を持っていると考えられていた。
この為に、この嫁ぎ先の娘の「第一嫡子」は「実家の跡目継承の資格」を持っていると考えられていた。これは「遺伝学的には合理性」を持っていた慣習である。
この場合、正当な男子の「実家の跡目継承」が成立出来ないとした場合に、「嫁ぎ先の娘の第一嫡子」を「実家の跡目」に入れる事は可能としていたのである。
この場合には、「第一嫡子」は「嫁ぎ先の跡目」でもある。
これでは、「嫁ぎ先」の方でも「跡目の問題」も生まれる。
そこで、室町期までは、嗣子の中から跡目にするには、「優秀な嗣子」を選んで継がせる事が優先されていた。

しかし、江戸期では、「血筋」と云うよりは、「跡目騒動」を無くす目的から「長男が跡目」を優先する事に成る事が決められていた。
これを「家康」が「家光の跡目騒動」で決めたことである。その後、これに習って社会は長男が跡目を継ぐ仕来りと成った。
「嗣子」の中から、優秀な者を「嫡子」にする制度は次第に消えて行った。
これは、
1 江戸期の安定した社会変化で、「同族血縁」を制度として取り入れている氏が少なく成った事。
2 戦乱の世に嗣子が戦いなどで減少する中、嫡子を長男とすると跡目が無く成り騒動の下になる   が、この必要性が無く成った事。
3 戦乱で家を維持する為には、嗣子の中から沈着冷静、勇猛果敢、剛勇豪胆な人物を選ぶ必要が   あったが、安定社会ではその必要性は無く成った事。
4 安定した社会では寿命が延びて嗣子を多く設ける必要性が低下した事。
5 特定階級を除き「妾」による嗣子の必要性が低下し一夫多妻の制度は衰退した事。
6 俸禄制度に代わって、嗣子を多く設ける事の負担が増した事。
7 30年に一度の大飢饉多発発生で経済が疲弊し、嗣子を多くする事が出来なくなった。

ところが、「青木氏」は、「二足の草鞋策」で経済的に潤い、この「江戸慣習」に従わずに、上記の「独自の伝承」をまだ護っていた。
それは、むしろ、「商いと殖産」を手広くし、前段に論じた様に、江戸幕府に貢献し、交易を盛んにした為に、むしろ、嗣子を多く必要としていたのである。
前段−5、6で論じた「青木氏」の「2つの新しい氏の発祥」もこの辺の事も影響していたのではとも考えられる。
これらを維持する為には、氏の家間の差をより無くし、跡目を確実に家間に振り分けて、「氏の跡目」を確実にしなくてはならない状況と成っていた。
つまり、江戸期に於いても、社会とは「逆の現象」が起こっていたのである。
上記の様な、「同族血縁」や「慣習仕来り掟」をより厳しく護る必要が出ていたのである。

「青木氏」は、「男系」のみならず「女系」に於いても、可能な限りに「同族内の血縁」を「従兄弟の段階」まで優先させていた。
依って、”他氏に嫁ぐ”と云うよりは”「遠縁に嫁ぐ」”を優先していた。
その意味では、娘の「第一嫡子」には、抵抗感は少なく、「同族血縁の範囲」として「氏の子供」を前提として、盛んに用いられていた。

そもそも、現代の生物学では、人間の元は、「男女の一対」が存在した訳では無く、「ミトコンドリヤ」から、4回の進化を遂げたが、元は「雌」であった。
「4回目の進化」の最終は、「雌の機能」の中の「雄の機能」を分離して、「雌の存続」を優先して図る為に、天敵から身を護る役割として「雄機能」を分離させた進化を遂げた。
より多くの「雌」を遺す事に依って、「雄」が仮に1でも子孫は繁殖してより多く遺せるのである。
しかし、この逆は成り立たない。
(この事も「雌」であった事を示す証拠である。「雄雌一対論」では同じ「生存能力」を持たした筈である。)
この方式が最も子孫を多く遺せる事と成って、「人族」が最も繁殖したのである。
当然に、故に「人遺伝情報」はオスには無くメスに持っているのである。
そのオスが元メスであったとする「名残」がオスには、4か所遺されている。
それは「乳首」と「へそ」である。
この二つは在っても全く機能していない。(後二つは不適切用語になるのでここで論じない。)
当然に、逆にメスにはあるが、オスには無いものが多くある。
ところが、逆に、オスには有るが、メスには無いとするものは無い。
オスだけには確かに有る様に見えるが、それは「雌の生理機能具」が全て「オスの能力」を充分に発揮させる為に、「オス様」に変化させたものなのである。
元の原型は全て「雌の機能」なのである。

因みに、「雄」が「雌」から分離したとする典型的な例を敢えて述べるとして、子孫を遺そうとする「人間族の性欲・生理機能」がある。
「雄の性欲」は、”元の「雌」の母体に戻ろうとする本能の変化”であると云われていて、その「性欲の行動」の全ては、この元の雌の体の中に戻ろうとする行動パターンに分類される表現である。
ところが、「雌の性欲」は、あくまでも、”子孫を遺そうとする本能の変化”であると云われ、分離させた雄機能を雌の中に戻そうとする本能の変化である。
この「行動パターン」の全ては分類される表現であって、この原理から外れる行為は一切無い。
つまり、この「性欲の原理機能」からも、元は「雌」なのであって、「雄」は、雌のその”分身”で、「子孫存続の道具」である事にすぎない事に成る。
これは「体の機能」のみならず「脳の機能」に於いても云える事である。
因みに、「人族」に必要とする同時に二つの事を考えられる能力の「女性の連想能力」(子孫存続に必要とする母性本能に由来する)は男性には無い。元は雌であった事を物語る機能である。
右脳を積極的に使う機能を持ち、「ベータ波」を高めて察知する機能は雌に持っているが、雄は低い。これも元は「雌」であった事を物語る機能である。
又、「複眼機能」は女子には遺されているが、訓練すればこの機能を復元できる状況にある。
しかし、男子には僅かに遺されてはいるが、最早、乳首やへそに類していて訓練如何に関わらず働かない。
これも元は「雌」であった事を物語る機能である。
他にも多く説明できるものがある。ただ、これでは人族の男子は生き残れない。そこで、これらの女子が持つ機能に匹敵する様な「脳」を”脳の一部””を変化させて進化させたのである。
例えば、「左脳の情報脳」の一部を進化させて、複眼機能と連想機能に匹敵する様に、「左脳の情報」を基に「予知する能力」の脳を作り上げたのである。これを左耳の上に「中紀帯」と云う「進化脳」を作り上げたのである。

ここでも、「青木氏」の「子供の分身説」「三世慣習説」は合理性を持っている。

とするとなれば、「雄の機能」と「雌の機能」を保全した形の上で、”「雌」が跡目を継承して行く事”が道理であろう。
その意味で、上記した様に、「女系の第一嫡子」が”実家の跡目の有資格”は、実に合理性が高い事に成る。
「人族」の発祥地の「アフリカの民族」には、「女系家族」を主体とした民族が未だ多く存在するのは、上記した原理に従っている。自然摂理に従った合理形態とも云える。
しかし、余り近代化の進んでいない社会の中で成り立つ制度である事は間違いない。
「人の社会」が進むにつれて、「雌」から分離した「雄の機能」を使わなくては「子孫存続」が難しくなった。
「雄の力」「雄の知恵」でなくては維持されない社会構造と成ってしまった。
必然的に「雄」が主体と成る社会が出来上がったのである。
故に、人間社会の中では、「男系の跡目」として引き継がなければ成らない社会構造が出来上がったのである。
これはあくまで「社会構造維持の範疇」であり、事「子孫存続の世界」とも成れば、「力」「知恵」は無用で「女系の範疇」と成る。(「戦乱の社会」ともなれば尚更の事である。)

「子孫存続の世界」の「跡目」ともなれば、況して、「青木氏」の様に「3つの発祥源」の役目を「賜姓族」として守り通そうとすれば、「純血性を維持する同族血縁」は「古代の条理」とは云え、必然的に絶対的に「必要な条理」と成る。
「屯」(みやけ)を形成した時代からの「古代の条理」ではあっても、古来の一部の社会の中では全てこの「青木氏の慣習仕来り掟」に類していたと考えれる。
それを「古代密教と云う概念」の中で維持されて来たものであると観られる。

そうすると、そこで問題が生まれる。
「同族血縁の弊害」である。
血縁すると成れば、先ずは「第一段階」として「跡目の家紋」でそのルーツを判別し、更に重ねて詳しく判別する為に、当代の「女系」の家紋、即ち、「嫁の実家先」の家紋を知る必要がある。
その為に、「嫁の実家先の家紋」を「嫁ぎ先の慣習」に出過ぎない範囲で何らかの形で表示する必要が出て来る。
これが、「女紋」で、祭祀などの正式行事には羽織の袖や背中や、箪笥や長持ち高級食器などの正式な諸具には表示したのである。
この「二つの家紋」で、「同族血縁の濃さの度合い」を判断する術とした。
この「類似の慣習」として、「祭祀」などに先祖の墓所には参るが、ここに「累代の女系」を碑にして連ねて「俗名、戒名」と共に「出自」を表記して「女墓」として用いた。
この「女紋の表示の仕方」が、上記した要領に基づいたのである。
この「二つの家紋」をみて「同族血縁」を進めた。
基本は、「3親等」(従兄弟等)からであった。
奈良期から平安期頃までは2親等の範囲(叔父、叔母等)でも積極的に行われていた。

一般の他氏は、本家筋は兎も角も、分家筋は大いに「他族血縁」を積極的にすすめた為に、むしろそのルーツの確認が必要無く成ったので、「女紋」「女墓」等の習慣は必然的に生まれなかった。
本家筋は、この混血の分家筋から抹消の同族血縁をした事で、「新しい血」が入って行った。
依って、この慣習は一切生まれなかったのである。
ただ、この場合は、「本家ー分家の関係」では、その「習慣や仕来りや掟」の縛りは大きな差があった。
従って、「自分の家」が、 ”「本家筋の末梢」に当たるのか”、”「分家筋に当たるのか”で、判定は大いに異なってくるのである。
しかし、「皇族賜姓族青木氏5家5流」のみは、上記した様に、この「本家ー分家の関係」を「同族血縁」を「仕来り」としていた為に採らなかった。
(ただ、「3つの発祥源の役」を護る為に「厳しい戒律」が伴った。)
その見極めとして、上記したAからFの「家紋システム」を採用して表示したのである。
これは、「格式の誇示」と「血筋の如何」に関わっていたのである。

さて、果たして、この「3つの発祥源の役」が無ければ、どうなったのか疑問である。
何故、上記の「家紋の要領」を採らなかったのか、何故、「本家ー分家等の方法」を採らなかったのか、と云う点は、これらの要領は「古代密教浄土宗」の影響であった事が大きく、必ずしも「3つの発祥源の役」だけでは無かったと考えられる。

1の方法
1の方法は、その「姑」の実家先の家紋を用い続ける方法である。
通常は「2の方法」を採用する。
しかし、この「仕来り」は「地域」によって異なる。
その異なる理由は、「地域の環境」にあり、大まかに分けるとすると、「田舎」か「都会」の環境下によって分けられる。
何故ならば、「都会」であれば血縁関係が多様化しているが、「田舎」は縁者関係で繋がっているし多くは面識がある。
「都会」は、従って、この「面識」が薄らいでいるから「2の方法」で「確実性」を求めて判別する。
都会は何れにしても、”多様化している”から、「家の誇示」も強くなるが、「田舎」ではよく似た家柄である事から必要以上の誇示は無く成る。
結局は、「1の方法」と「2の方法」は、この差に従って使用された。
元々は「仕来り」としては、「1の方法」であったが、「多様化」が進むに連れて「2の方法」に成ったのである。
基本的には、「都会」であろうが「田舎」であろうが「2の方法」であれば確実性は高まる。
「1の方法」は、”「封建制」が強い仕来り”である。
これは”「田舎」”と云う事から来ている。
後は、その使用の選択は ”時代性が働く”と云う事に成る。
”時代性が働く”ことは、「多様化」が進む条理に従う訳であるから「2の方法」に収斂されて行く。
では、どの様な方法かを説明する。
「家」は「家族制度」があって、「家長」が存在する。
その「家長」は「伝統の家」の「ステイタス」を「家紋」として引き継ぐ事に成る。
この「家紋」は、上記した「家紋制度」の中で保たれる。
しかし、ここに「格式」と云うものが働くと、”よりステイタスを強調する事”に成る。
そうすると、「2の方法」の様に、その「家長の妻」の「実家先の家紋」をも用いる事に成る。
つまり、これが「女紋」である。
さて、そうすると、「家長」は、「家族制度」の中で、”どの位置の者が成るか”の問題で、「祖祖父ー祖父ー父ー子ー孫」であるとすると、「祖父」が成っているとすれば、「姑」の「実家先の家紋」を「女紋」として用いられる事に成る。
当然に、この「女紋」を使うのは、「祭祀と儀式」の時等に用いられる。
当然に、そうなると、「家」の「姑」が「家内の実権」を握っている事に成る。
その「姑」も「夫の家長」が亡く成れば、「家長」は「息子」に移る事に成り、「家の実権」は「息子の妻」の「嫁」に移る。
この時に、「姑の女紋」は消え、「嫁の実家先の家紋」が用いられる事に成る。
従って、「姑」が用いる「紋」は「家長の家紋」と成る。
これを「世代交代」、「跡目相続」毎に変化して繰り返される。
しかし、血縁対象は「娘子」であるから、相手側からすると、「娘子」の「母親の女紋」は判らない事に成る。
これでは、「同族血縁の度合い」の判断は低くなる。
しかし、ここがポイントで、「田舎」と云う環境であるのだから、「母親ー嫁」の出自は、未だ人の面識の中で知り得ている。
依って、「人の記憶」に薄らいだ「姑の実家先の家紋」、即ち「女紋」で判断しても問題は無く成る。
ここに、”1の方法と2の方法の「仕来り」の違い”が、「面識」と云う点で生まれているし、「家長制度」に従っている。
結局、「1の方法」か「2の方法」かの使い方で、その「氏」のその「女紋」を観れば、出自は凡そ判る事に成り、更には「女紋」で完全に判別する事が出来るのである。

ただ、「賜姓族の青木氏」は、「同族血縁」を主体としている事から、「女紋の範囲」も限られて来るので、判別は「家紋」と「女紋」で充分に判るが、「家紋」は「象徴紋」である為に変わらない事になる傾向が強いので、「女紋」の判別の意味合いは強くなる。

ただ、同じ格式の範囲で行われる「母方の血縁」では、「家紋」も重要な意味を持って来る事に成る。
例えば、「母方」で繋がる「特別賜姓族の秀郷流青木氏」とは全く格式は同じである。
「116氏」にも成ると、家紋は116もの数に成ると、当然に判別は困難であるので、「家紋」と「女紋」とで判別が必要と成る。
ここに「秀郷宗家361氏」との血縁ともなれば、「格式」は多少の変化を来す。
益々、「家紋と女紋」の重要性は高まるし、「家紋」だけでは不足と成り、「副紋」も用いての判別と成るので必要と成る。
他氏では、「同族血縁」が成されない事から、結局は、「家柄」と「家のステイタス」の「誇示」に利用される。
「より低い氏姓」は「より高い氏姓」との血縁を望む事に成り、「家紋」一つに「判断の重要性」は高まる事に成る。
依って、「青木氏」は、「皇族賜姓族」にしろ、「特別賜姓族」にしろ、「同族血縁」をする為に「氏の地域性」は明確に成って居るし、「地方性(田舎)」は「青木村」を構成する事を許されている為に「1の方法」が主体と成る。
しかし、「夫々の賜姓族内」では、「1の方法」で、「賜姓族」が跨げば「2の方法」に従う事と成る。

この「慣習仕来り掟」の範囲で同族は護られる事に成る。
兎も角も、以上の事全ては、”「氏家制度」”の中での「慣習仕来り掟」である。
なので、この様な「血縁関係」は「氏全体」で管理されている事に成る。
つまり、その作業が「密教の菩提寺」に求められ、その「菩提寺」の「過去帳」に記される事に成るのである。
これが、何度も論じている「菩提寺と過去帳」の位置づけなのである。
上記に論じた「青木氏の家紋に関する事」や「青木氏の考え方の如何」は、この「密教の菩提寺」と「過去帳」の所に繋がる事に成るのである。


上記の事を承知した上で、情報提供のあった下記の例を検証してみる。

そこで、「福岡の第3氏」を入れた「7組の青木氏」が、入り組んだこの「特殊な地域」で、且つ、「青木氏」を判別する場合は、次の様な事に成る。
「特殊性」が出て来て、この「青木氏」が持つ「家紋」などを含む全ての「慣習仕来り掟」の「熟知の度合い」が大きく左右する事に成る。
情報提供の下記の例は次ぎの様に成る。


先ず、「女紋」は「五瓜に唐花紋」である。
そもそも、この「家紋」には次の様な情報を持っているのである。
「家紋」には、全国8000の家紋があるが、その内で豪族として大きなルーツを持つ”「主要家紋200選」”と云うものがあり、この家紋はその中の一つである。
歴史的に日本の「主要氏の家紋」と云う事に成る。
この「家紋の文様」は、元は、「唐の官僚の階級」を示す袖に記した「官僚階級紋」である。
これを「大和朝廷の官僚」の「象徴の印」としたのである。
専門家ではこれを「官僚紋」と通称は云う。
そして、この「官僚紋」の「文様紋」を使えるのが、「大和朝廷」の当時の「五大官僚」と云われる「氏」が独占したのである。
「瓜の切口」とか「ボケの花の断面」とも言われているが、これは大きな間違いである。

注釈
この辺のところが「郷土史」では間違いを起こす。
「俗説」を用いてしまった事からこの説が全国に広まった。間違いの大きな事例である。

この「五大官僚」の「高級官僚」は、「唐花の文様」を少しつずつ変えたものを「象徴紋」とし、誇示する為に牛車などの道具に使用した。
室町期末期から江戸初期の後に多くの「姓」が使ったこの文様の「類似家紋」は190程度もある。

そこで、何故この家紋が「九州福岡」と云う地域にあるのかと云う疑問を考えると、ここには「明確な根拠」がある。
ここには、奈良期には、その「五大官僚」の一つの「伴氏」が、この「九州地域一帯」を任されていた。
その「伴氏の職務」は、主に「弁済使」であった。
つまり、この「伴氏」は「税務監」を主務としていたのである。
そうすれば、「税」であるので多くの豪族などとの親交が生まれる。
この結果、「九州一帯」の殆どの「豪族」はこの「血縁関係の血筋」を受けている。
「北九州の豪族」では例外は殆どない。
最も大きい氏で、殆ど「大蔵氏」に依って制圧されるまでは、九州全土を支配下にしていた有名な「肝付氏」がある。
後に「大隅の肝付氏」は、薩摩藩の勢いに押されて敗戦して薩摩藩の家老と成った。
ところが、この「伴氏と肝付氏」の勢力の中に「大蔵氏」と云う別の大勢力が入って来た。

そこで、その「大蔵氏」の事に付いて少し説明して置く。(研究室などに何度も論じている。)
大化期に中国の「後漢国」が亡び、その国の17県民の200万人の「職能集団」が、福岡に難民として上陸してきて、瞬く間に九州全土を無戦で制圧してしまった。
日本の第一次産業の基礎は、この「技能集団」の進んだ技能によってもたらされ築かれたものである。
在来民も挙ってその配下に入って生活程度をあげた。
この時、この集団を首魁として率いていたのが「光武帝」より21代献帝の孫子の「阿智使王」とその子の「阿多倍王」であった。
(”阿多”の地名は鹿児島にある。大隅の隼人に居を構えた。)
更に、この集団は中国地方も無戦制圧し、”いざ都の制圧”と云う所で立ち止まり、朝廷と和睦を選び争いを避けて帰化する。大化期である。
この中国地方には、首魁の「阿多倍王」が引き連れて来た多くの部の職能集団が定住して在来民の生活を豊かにした。
その「部の職能集団」の中で、「陶器を作る技能集団」が勢力を持ち、室町末期まで中国地方の全土を制圧して勢力下に治めた。
その中には多くの「部の職能集団」がこの同じ部の勢力を持った「陶族」に従ったのである。

そして、首魁の「阿多倍王」は「敏達天皇」の曾孫の「芽淳王」の娘を娶り、准大臣に任じられ、3人の子供を作った。
そして、この「部の職能集団」は、「大和朝廷の官僚組織」の6割を占めて大勢力を握った。
上記の「五大官僚」もこの勢力に飲み込まれた。
この「部の職能集団」が進んだ中国の政治手法を大和朝廷の中に導入した。
この職能集団を「・・・部」と呼び、例えば「服部」や「織部」等180程度の「部」から成り立つ組織を作り上げた。
依って、大和朝廷から政治と経済システムとしてこの「部制度」を採用しました。
この政治機構の改善を主導したのが、首魁の阿多倍王の父の「阿智使王」であった。
「史部」と呼ばれた。
この時に作り上げた「政治機構」の「官僚の象徴紋」として、この「五瓜に唐花紋」を使用したのである。
この3人の子供の長男は「坂上氏」の賜姓を受け朝廷軍を担う。
次男は、当時の政治機構は「三蔵」と云われ、朝廷の財政を担う「大蔵」を担当し、「大蔵氏」の賜姓を受ける。
三男は天皇家の財政を担当する「内蔵」を担当し、「内蔵氏」の賜姓を受る。
この次男の「大蔵氏」が九州全土の自治を任されたである。900年から940年頃の事である。
「遠の朝廷」と呼ばれ「錦の御旗」を与えられ「太宰府の大監」と成る。
首魁「阿多倍王」は、大隅国にも半国割譲を受け、更には伊勢北部伊賀地方の国を半国割譲を受けて実家はここに住み着いたのである。
この時、半国割譲したのは伊勢守護王の伊勢青木氏である。
この隣の伊賀の阿多倍(高尊王 平望王)の実家は「たいら族」の賜姓を受ける。
この「たいら族」の「伊勢平氏」が五代後の「平清盛」である。
この支流の血筋を受けたのが「織田氏」である。
この織田信長の家紋も「五瓜に唐花紋」の「織田木瓜紋」である。
つまり、「伊勢平氏」と「大蔵氏」、「内蔵氏」、「坂上氏」の「3氏」の同族で「官僚の6割」を占める事から、この傍系末裔と観られる織田氏(可能性がある)も、この末裔だとして由緒ある「官僚紋」を採用したのである。
これが、有名な類似家紋として、「織田木瓜紋」である。
この「伴氏」と「大蔵氏」は血縁して、「2つの官僚氏」が九州全土を血縁の輪で固めたのである。
従って、「九州の大蔵氏系豪族」と「九州の鎮守神の神官族」はこの家紋を使用しているのである。

さて、「福岡の青木氏」の1氏が、この家紋である事から、「大蔵氏」の血筋を持つ「伴氏系の姓族」である事になる。
恐らくは、早くて室町中期、遅くて室町期末期に、「姓の家」を福岡筑前のこの地域で興している事に成る。
これを「女紋」としている事は、このルーツから出自した”歴史性の持った家柄”である事を示す。
当然に、この「五瓜に唐花紋」を上記した末裔と成る「家柄筋」が保持しているとすると、この「家筋との血縁相手」は、「家柄と格式」を重んじた社会の中では、必然と決まってくる。
この「五瓜に唐花文様」が「女紋」である事から、「嫁ぎ先の家柄格式」は、「同位」かわずかに「上位の家柄筋」に成る。
そうなると、この地域に、それに相当する氏ともなれば、歴史上から確認できる「青木氏」は、次ぎの様に成る。
平安期から鎌倉期までに筑前に遺した青木氏の末裔氏は、「筑前では2氏」と成り、江戸初期には「筑前の1氏」の青木氏と成る。
先ずは、この「3氏」で、他の要素を組み入れて検証を進めれば、その青木氏は判別できる事に成る。
「検証の櫛田神社」
ここで、「検証の要素」として、筑前にある”「櫛田神社」”が出て来る。
この「神社の由来」を調べれば、この「五瓜に唐花紋」に絡んで来る事に成る筈である。
そこで、更に検証を続けると、次ぎの様に成る。
そもそも、「櫛田神社」は「鎮守系の神社」(大蔵氏の守護神)であるから、「九州神官族の家紋」の「五瓜に唐花紋」となる。先ずここで繋がる。

その家紋の分布は、神社のある地元(内原)でよく使われている。
その背景から、この「神官族の末裔」が、後に地名を採って「内原姓」と名乗った。
この「鎮守系の櫛田神社」の元の「神官族名」は、何であったかが判れば更にはっきりする。

そこで、櫛田神社の由来を調査する。
そもそも、この「櫛田神社」の「大幡大神(大幡主命)」は、「伊勢国松坂」の「櫛田神社」から霊位を勧請した事は有名である。
この事から、この「鎮守系神社」と云っても、その「祭神」は、「皇祖神」の子神の「神明社系神社」とは同じ事に成る。
つまり”兄弟社の様な社格”を持っている事に成る。
実際にも祭祀している「大幡大神」はその格式にある。
櫛田神社がどんな理由で移したのかが問題に成る。
「伊勢松阪」の「櫛田神社」から「大蔵氏」が、”ある事情”で「霊位」を移している事から、初代は松坂の「伊勢青木氏の神官」であった可能性極めて高い。
しかし、あくまでも「筑前の櫛田神社」は「大蔵氏の鎮守神」であるので、「神明社の青木氏」を移したからと云って其の儘に続ける事は出来ない筈である。
何時か変更しなければならない筈であるし、この時の「伊勢青木氏の神官」が筑前に末裔を遺した可能性も否定できない。
しかし、遺したとすると、この場合は、「笹竜胆紋」を維持している「青木氏」と成る。
「源為朝の配流孫の笹竜胆紋」は別として、この「笹竜胆の家紋の青木氏」は1氏が江戸期に移動定住している事が確認できる。
即ち、黒田氏の家臣と成った「摂津青木氏」である。
ところで、「神社の格式」には、”「霊位の有無」”が大きな意味を持つ事に成る。
要するに、「神明社」は「青木氏の守護神」であるから櫛田神社は、所謂「兄弟社」と成る。
故に、祭祀する櫛田神社の「大幡大神」は、「伊勢神宮」の「天照大御神」に仕える「一族神」と成る。

従って、この「博多の櫛田神社」だけは、「大蔵氏の鎮守神」と云いながらも、全国にある「櫛田神社」とは、その「祭神の格式」のレベルが元々違うのである。
それは「筑前の櫛田神社の由来」に関わる。

その「由来、ある事情」とは、次ぎの様に成る。
平安末期に「瀬戸内」で起こった「讃岐藤氏」の「藤原純友の乱」を鎮めるために「伊勢松阪の伊勢神宮」の「皇祖神」の子神の「櫛田神社」と「京都八坂神社」に「乱の鎮静」を命じられた。
朝廷より鎮圧を命じられたのは九州最大豪族の大蔵氏である。大蔵氏はこの二つの神社に祈願をした。
そして、鎮静のその結果を以って、その時に祈願した大蔵氏が、その礼に応じて、筑前に”松阪の櫛田神社の霊位”を遷移して「筑前櫛田神社」を建立したのである。
要するに「分霊」をしたのである。
そして、この「純友の乱」を鎮圧したのは、「阿多倍王」より10代目の「九州太宰府大監」の「大蔵春実」である。
「分霊の筑前櫛田神社」と「本霊の伊勢櫛田神社」も「伊勢青木氏」とこの様に思いがけないところで繋がっている。
更に「青木氏」と繋がった事から、最早、筑前には「青木氏の存在」は否定できない。

そうすると、「櫛田神社」の要素から次の「2つの青木氏」が浮かび上がる。
この「櫛田神社」の位置する地域性から、次ぎの事が判る。
(イ) 黒田氏の家臣と成って移動定住した「摂津青木氏」の末裔
(ロ) 櫛田神社の初代の神官の「伊勢青木氏」の末裔

そうすると、この「女紋側」の「五瓜に唐花紋」を「女紋」として使っているとすると、九州地域では、この文様は「鎮守神の神官族」が使用している文様である事から、この「地域性」が出ている。
この「神官」が、”地域の地名を名乗った”と成る訳であるから、「女紋側」(神官側)に地名の「内原姓」の要素があるので、(イ)の「摂津青木氏」の説に成る。

「五瓜に唐花紋」(女紋)を持つ「鎮守神の神官」の末裔(内原姓)が(イ)の「摂津青木氏」に嫁いだ事に成る。

何故ならば、(ロ)の「初代神官の伊勢青木氏」は、そもそも「笹竜胆紋」で、「神官」であっても「五瓜に唐花紋」では無い。
そして、尚更、神社在所の地名の「内原姓」を、「青木氏」であるにも関わらず、態々と名乗る事が無い訳で、そもそも「青木氏の戒律」から不可能である。
依って「伊勢青木氏」の説は消えるので、「摂津青木氏の説」と成る。

これで、「九州の鎮守神の神官族」の「五瓜に唐花紋」を「女紋」としている筑前の内原地域に定住している「青木氏」は、結局、「黒田藩家臣の摂津青木氏」であった事に成る。

さても、問題は、この「黒田藩家臣の摂津青木氏」の家紋が、「笹竜胆紋」を維持出来ていたかは検証しなければならない疑問である。
そもそも、「摂津青木氏」は、「源平の争い」で、近江で、滋賀で、美濃で滅亡している。

福井に逃避して庇護され僅かに遺した支流の末裔が、摂津に移り「伊勢青木氏」の大店に庇護されて再興を遂げた賜姓族の一族である。
元々、「近江青木氏」の一団の「摂津水軍」の名残を持つ事から、「伊勢青木氏」等の大船に従事して糧を得て来て生き延びて来た。
従って、「笹竜胆紋」を維持するだけの「血縁力」「子孫力」は持ち得ていなかった筈で、「家紋掟」に依り「変紋」を余儀なく成って居た可能性が高い事が充分に考えられる。
実際に、現在の「摂津域の青木氏」には「笹竜胆紋」は1家しか確認できない。
しかし、調査でこの1家は、「伊勢青木氏」の大店を維持した「絆青木氏」(養子縁組制度)ではないかと考えられる。
「黒田藩家臣の摂津青木氏」の家紋が、情報提供によると ”何であったか”は「現在の末裔」は掴み切れていないのが現状である。

情報提供の内容
「黒田藩家臣の摂津青木氏」の再興後、筑前の祖は「青木氏理兵衛」である事。
この家に別のルーツの「青木市左衛門」が跡目に入った事。
この「青木市左衛門」は「日向青木氏」で遠祖は「伊勢青木氏」である事。
「摂津青木氏の近江青木氏」と「伊勢青木氏」は「皇族賜姓族5家5流青木氏」の「同族血縁族」と成る。

そこで、「青木市左衛門」のルーツに関する検証は必要となる。
その内容を下記に記述する。
つまり、この血縁の意味する事は、「青木理兵衛側」は、「青木市左衛門の青木氏」とは、”「同族の青木氏」である”と認識していた事に成る。
「青木氏の慣習仕来り掟」に従い、且つ、当時の「氏家制度」の中で、「同族血縁」を戒律とする「跡目継承」には、「青木理兵衛側」が、「青木市左衛門側」から「跡目養子」を求め入れて、「青木氏」を守ろうとした事が判る。

尚、「青木氏」には、「藤原秀郷流青木氏の特別賜姓族の青木氏」が、隣の長崎に「青木村」を形成して住んでいた。

(「氏名」を「村名」にして村を構築する事は、正式には「嵯峨期の詔勅」で禁じられていて、許可なく構築できない。依って、正式な「村名」があると云う事はそれなりに意味が大きいのである。
「日向青木氏」には、「正式な青木村」を鹿児島の大口市に構築しているし、筑前南国境にも青木字が構築されている。)

「5家5流の賜姓族青木氏」と母方で繋がる「特別賜姓族の秀郷流青木氏」とは「純血性」を守る為に盛んに「同族血縁」を主体としていた。
当時は、この「二つの賜姓族青木氏」にはこの「厳しい戒律」があった。
どんな事があろうとも、跡目は絶対に守ると云う「絶対的な氏の戒律」があった。
それには、「11家11流」の「賜姓源氏一族」を含む「皇族系一族一門29氏」と「特別賜姓族の秀郷流青木氏116氏」と、その「女系の縁者一門」のどこからでも持って来てでも継承すると云う「青木氏」を継ぐべき厳しい「同族血縁の戒律」があった。

つまり、「近江青木氏ー摂津青木氏」の「青木理兵衛」はこの戒律を守ったという事である。

念の為に、「摂津青木氏」は「総紋」は、「笹竜胆紋」(変紋している可能性が高い)、「日向青木氏」は「五七の桐紋」と、配流孫の為に「丸に笹竜胆紋」が家紋と成る。
ところが下記に記する事があって「日向青木氏」は「五七の桐紋」を使用している。

次ぎは「女紋」の事で検証する。
さて、「青木市左衛門」ルーツの「女紋」は「三連鎧揚羽蝶紋」である。
この家紋は、信長に贈られた「池田氏の家紋」で有名である。
この「池田氏」は「岡山ー鳥取」地域と、「福岡ー豊後」地域に分布する「氏の家紋」である。
同時に、この文様は、「平家末裔の織田氏」も上記するCの「副紋」(第二家紋)として使っていた家紋である。
これを織田氏が同じ「平氏末裔族」の「池田氏」に送った家紋である。(一部を変更した)
結局、「青木市左衛門」の家の「女系」の方に「九州池田氏」の流れを持っている事を示している事に成る。

「黒田藩の家臣」で「摂津青木氏」の「女系」(「鎮守神の神官職」)の内原姓は「五瓜に唐花紋」、更にその女系には「三連鎧揚羽蝶紋」、この何れもが「平氏系の主要家紋群」である。
「黒田藩の摂津青木氏」の「女系側」には、何れも「平家一門の血筋」で維持されて来た事が判る。
上記した様に九州の「大蔵氏」も平氏とは同族である。
「平家一門の血筋の中」に、「黒田藩の摂津青木氏」が存在して居た事を物語る。
そうなると、「黒田藩の摂津青木氏」は、「同族血縁の戒律」もある事も含めて、「平家一門の女系血筋」に対抗して、何とかして九州にある「青木氏一門との血縁」を求めようとしていた事が判る。
それを物語るのが、つまり「青木市左衛門」である。
この「青木市左衛門」は、周囲の「筑前近隣の青木氏」か、「筑前外の周囲の青木氏3氏」かの何れかから血縁を求めた事に成る。
後は、「青木理兵衛」の「青木氏の家紋」と、「青木市左衛門の青木氏の家紋」が、”何であるか”が判ればルーツは明確になるが、この検証には答えは出る。

その前に、「上記の平家一門の血筋」の「女系側」に付いて検証をする。
何かが観えて来る筈である。

平安末期、「大蔵氏」に代わって、一時、同族の「伊勢平氏の清盛」が「太宰府大監尉」(大監の上司)に成ります。
ここに「平清盛の所領」が、この「肥前国神埼」にあり、そして、上記の「櫛田神社」を、「日宋貿易の拠点」とした事は有名である。
一時、「平清盛」がこの「太宰大監」の上司にも成った事がある。
従って、同族の大蔵氏の居る所に、ここにも平氏は「九州護衛平氏軍団」を送った。
この平氏で九州域を守っていた「平氏軍団」である。
故に、「青木氏の女系側」には、この「平氏の血筋」が流れていて、その「九州池田氏」の流れを持っている事に成る。


この「平氏軍団」が北九州の地域の氏構成に大きな影響を与えた。
「日向廻氏」に守られた「日向青木氏」と成った「宗綱ー有綱」の”清和源氏の配流軍”と、この九州の「平氏軍団」とが再興を期して戦いました。
平氏に配流された「宗綱ー有綱」等が、周囲の小豪族を集めて、再びこの「平氏軍団」と戦ったのである。
結局は、再び敗退して薩摩大口村まで南下して落ち延びて、最後は追撃に窮して大口村の寺で「伊勢の青木氏」を名乗ったのです。(寺の住職の勧めにて名乗る。)
何故ならば、「宗綱と有綱と京綱」は3兄弟で、その「三男の京綱」は「伊勢青木氏の跡目」に入り戦いで一族が亡びる事の無い様に「摂津源氏の安泰」を「伊勢青木氏」の中に図ったのである。
「伊勢青木氏」は、「不入不倫の大権」で護られていた為に、この「京綱の伊勢青木氏」を名乗ったのである。

「日向青木氏」は、況して、「以仁王の乱」の敗退で「助命嘆願」をしたのが、この「伊勢青木氏の京綱」ですので、「日向青木氏」と成って生き延びる為にも、その「伊勢青木氏」を名乗ったのである。
「伊勢青木氏」は、上記する様に、朝廷より特別に「不入不倫の権」で護られ、且つ、隣の伊賀に住む「清盛の実家」とは、「伊勢和紙の殖産と販売」で共に利を得ていた深い付き合いの関係もあり、討ち滅ぼす事が「九州の平氏軍団」は出来なかったのである。
それが「日向青木氏」の発祥の由来なのである。
それが「黒田藩の家臣の摂津青木氏の「青木市左衛門」のルーツに成る。(市左衛門の棲み分け地域から判別)
ここでも、「青木市左衛門」も「伊勢青木氏」と思いがけないところで繋がっているのです。
そもそも、この「青木市左衛門」の出所は、「筑後と筑前の国境」に住していた事が判っている。
上記に記した様に、「7つの青木氏」の内、「第3の青木氏」を除いて、「近隣の青木氏」も含めて「6つの青木氏」は、上記した青木氏の慣習から「棲み分け」をする慣習があった。
従って、その「棲み分け」でどの「青木氏」であるかは判るのである。
依って、「青木市左衛門」は「日向青木氏」と判定できるのである。
「黒田藩の家臣の摂津青木氏」は、「日向青木氏」の「養子跡目」に入った事を物語る。

そこで、「家紋掟」から、「摂津青木氏」は、上記した様に、「家紋の変紋」は起こっている筈である。
更には、「日向青木氏」は、本来は「笹竜胆紋」ですが、「配流孫」であるので、「丸に笹竜胆紋」と成る。
しかし、この「日向青木氏」も「丸に笹竜胆紋」では無く、長い間の「半農と傭兵の生活」から家紋を失った。
「黒田藩の傭兵」の下記の勲功で与えられた「家紋使用の特別許可」で、「五七の桐紋」を使用していた。
「青木市左衛門」の段階では、「五七の桐紋」が使われていた事が判断できる。
問題は、「同族血縁」をこの九州域で続けられたかは疑問である。
そもそも、「跡目養子の事」が2度続けば家紋は変紋する。
但し、この「五七の桐紋」は「跡目継承」に依って起こった家紋では無い事から、この勲功の「五七の桐紋」は江戸初期前から永続的に継承されていた事に成る。
「大口郷の青木村」の家紋は、従って、「五七の桐紋」を継承している。
(一族の明治初期の墓所の紋と形式で判明する。)
幕末から現在までの間の150年に市民化して、”伝統不継承の状態”が起こっていない限りは、「五七の桐紋」と「丸に笹竜胆紋」の「2つの家紋継承」が可能に成って居た筈であるが、現在までこの「二つの伝統」は明確に継承されている事が確認された。
この「青木市左衛門」の時までは、家紋から観て、前回の「跡目継承の原則」が守られていた事を物語る。

では、次ぎに、”何時頃からこの正式な伝統を継承し始めたのか”を確認する必要がある。
それには ”何で、この「養子跡目の縁組」が出来たか”の疑問を先に検証する必要がある。

そもそも、実は、この「青木市左衛門」ルーツの「日向青木氏」は、「黒田藩」に「傭兵」として働いていた。
「傭兵」であって家臣ではないながら、黒田藩から特別に「苗字帯刀、家紋、登城権、布衣着用等」を許可され上級家臣(郷氏)なみの資格を与えられていた。
従って、「日向青木氏」は黒田藩から特別に使用を許された「五七の桐紋」を使用していた。

注釈
そもそも、この元「桐紋」は、「天皇家の式紋」で「五三の桐紋」が元紋に成る。
天皇家は、室町期からの極度の財政難から、秀吉にこの由緒ある「五三の桐紋」の使用と変紋の「五七の桐紋」を使わせて財政を賄いました。
秀吉は、今度は勲功のあった大名に対して、変紋してこの「五七の桐紋」にしたこの家紋の使用を「権威紋」として認めました。
出自に対して格式の無かった秀吉には、この「権威」が必要であった。
朝廷に対して、その格式の一つの天皇家で使う祭祀や儀式に使用する「式紋」を金銭を対価にして「五三の桐紋」の使用を要求して得た文様であった。
これをベースに家臣に対して与える「権威を示す褒美」として「五七の桐紋」を与える様にしたのである。
この「特別な勲功」で「権威紋」の「五七の桐紋」の使用を許された大名は、今度は家臣などにもこの「五七の桐紋」の使用を同じ目的で許可したのである。
その与えられた代表的な大名が「黒田藩」なのです。
「黒田藩」は、「傭兵」として「黒田藩に合力した事」を理由に、上記した特権と共に、この「名誉の式紋の桐紋」を永代使用として「日向青木氏」に与えたのである。
「青木理兵衛」が居る黒田藩では、「傭兵」の「日向青木氏」の事は知っていた筈ですし、一族の「青木市左衛門」の事も知っていた筈である。

実は、繋がりはこれだけではないである。
この「日向青木氏」は、平常時は農業や漁業をしながら、「戦い」となると「日向灘での操船戦術」と「陸の山岳戦闘術」の2面から「傭兵」として黒田藩に合力していたのである。
この「青木理兵衛」は、「摂津水軍」時に「操船術」を任務としていたと観られ事から、”仕事”の上でも「青木市左衛門」との付き合いは充分にあったと考えらる。
その上での同族としての認識の上で、「跡目継承」に「青木市左衛門のルーツ」と繋がったと考えられる。

実は、「青木理兵衛」の青木氏は「黒田藩の家臣」、「青木市左衛門」の「日向青木氏」も「黒田藩の家臣扱い」であったのである。
つまり、「青木理兵衛ルーツ」は、この認識に立っていた事と、何れの青木氏も「伊勢青木氏」に繋がった同族であると云う事の認識にあった事を物語っているのである。
この為に、”黒田藩の働き”の中で互いに親睦を深めていた事を充分に物語る。

従って、「青木理兵衛ルーツ」の「摂津青木氏」と「摂津」に大店と大船をもっていた「伊勢青木氏」とには、何かの記録が遺されているのではないかと観ている。調査中。

以上の三つの事を合わせると、このルーツに関係する状況は次の様に成る。
A 黒田氏ー近江佐々木氏系末裔ー摂津青木氏(理兵衛)ー近江青木氏ー伊勢青木氏ー日向青木  氏(市左衛門)
B 九州博多の櫛田神社ー伊勢松阪の櫛田神社ー皇祖神子神の神明社ー伊勢青木氏の守護神
C 鎮守系神社(大蔵氏と平氏の守護神)ー神明社系神社(青木氏の守護神)
D 櫛田神社の神紋(五瓜に唐花紋)ー内原氏の家紋(五瓜に唐花紋)ー伊勢平氏の家紋(織田木瓜  紋)
E 青木氏女系の家紋ー「三連鎧揚羽蝶紋」ー伊勢平氏紋ー九州池田氏

以上の様に関係が不思議に繋がっている。
これは、格式を重んじて「九州の2つの青木氏」は縁組を構築していた事が判る。

移動定住した九州でも「青木氏」を継承する上で、”血縁上で採った考え方”をしていた事が観えて来る。

「独特の慣習」の”「女紋」”を使っているところを観ると、「男紋」も含めて、「紋」即ち、「青木氏ルーツ」と云うものに”拘り”を持っていた事を物語っている。

そもそも、「女紋」を使われている慣習を続けていた事であるのなら、「女墓」の慣習も続けられていたと観られる。
「女墓」も女紋と同様に、「青木氏等の賜姓族」が継承してきた慣習である。
代々の女御の俗名と戒名を記載した大きな墓碑で、系統的に維持し、単独に先祖墓の横に別の墓所を設けているものである。

この事は、「男側の継承」にも「賜姓族青木氏」として、「女側の継承」にも「賜姓族平氏」として、”拘り”があった事を想像出来る。
これらの情報の詳細な事は研究室に全て網羅している。

そうすると、日向青木氏が、”何時頃からこの正式な伝統を継承し始めたのか”の検証であるが、少なくとも、「日向青木氏の青木市左衛門」と「黒田家臣の青木理兵衛」の「跡目の血縁」が成された時期より少なくとも前に成る。
つまり、既に、「青木氏の跡目の伝統」と「女紋」などの慣習を持っていた事に成るのであるから、その前に成る。
と云う事は、「黒田藩の傭兵」と成って、青木市左衛門が黒田藩に関わり、黒田藩の青木理兵衛が博多に来て両者が知り合った時の前に成る。
黒田藩から、”勲功として「特権」を与えられ、「郷氏」に成った時”と云う事に成る。
最終的な勲功と成れば、1615年から1618年の間と成る。
この時に、改めて正式に「家筋の伊勢青木氏系」の「氏族としての条件」を整えた事に成る。
黒田藩から「五七の桐紋」、伊勢青木氏の配流孫としての「丸に笹竜胆」を一族に示した事に成る。
無冠の「土着の民」から、始祖の青木氏の格式を持つ「郷氏」に成った時に、世間に対して「家筋の正統性」を誇示したのである。


参考
「三連鎧揚羽蝶紋」は「揚羽蝶紋」を調べて、その羽の右上の二つの尾びれの様なところが鳥の羽の様に成っている家紋で、羽の筋文様が黒線になり、その上の文様が黒点に成った文様である。
この文様の羽が三つ連なっているところから「三連鎧揚羽蝶紋」と云う。

画して、「福岡の分布と子孫力」に付いては、上記した様に、複雑な経緯を持っている。
それが故に、これを紐解く為に、かなりの調査と検証が必要と成り研究には時間が掛かった。
この「福岡の青木氏」を論じる場合は、他の定住地の事や歴史性などの知識も考慮に入れて読み込まなくてはならない。
それでなくては、正しい理解は進まない。重要な「情報提供」を得て、事例を用いた。
故に、敢えて、最後に論じたものである。
未だ、多くの歴史マニア等にお願いしての「情報提供」を待っている状況でもある。それだけに時間が掛かる。判り次第追記する。

本論を読まれる際には、ルーツ掲示板と研究室などの論文も是非にお読み頂けると、筆者の論じる翻意は誤解なく通ずるのではないかと考える。是非お読み頂く事をお願いしたい。

更に、続けて、「伝統シリーズ」を仕上げる為に、現在、「論文の見直し」を続けている。
ご期待頂きたい。

「青木氏の分布と子孫力」はこれで終わる。



> > ・> 青木氏の分布と子孫力
> >
> > > > [地域別分布力]
> > > > 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
> > > > 全国平均(全国単位 % 表ー1)
> > > > 地域      異変の県        分布力
> > > > 九州地方   長崎、大分       5%
> > > > 四国地方   高知           2.5% 
> > > > 中国地方   山口、岡山       2.5%
> > > > 関西地方   三重(筆者ルーツ)  14%
> > > > 東北地方   秋田           7%
> > > > 中部地方                 15%
> > > > 関東地方                 45%
> > > > 北海道・沖縄               6%
> > > > その他                   3%
> > > >
> > > > 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
> > > > 九州地方  1.3
> > > > 四国地方  1.3
> > > > 中国地方  1.3
> > > > 関西地方  4.7
> > > > 中部地方  4.3
> > > > 関東地方  11.3
> > > > 東北地方  2.0
> > > > その他   11.0
> > >
> > > > 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
> > > >
> > > > 修正地域(表ー3)
> > > > 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1−7 三重 12 福井 4 愛知 13−7
> > > > 秋田 1
> > > >
> > > > 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
> > > > 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
> > > > 福岡  2      山口  0   愛媛  3     兵庫   3    三重  1
> > > > 長崎  0      島根  2   香川  1     大阪  14    石川  2
> > > > 佐賀  1     広島  3   高知  0     京都   5    福井  1
> > > > 大分  0     岡山  0   徳島  1     奈良   1    岐阜  3
> > > > 熊本  4                        和歌山 4     愛知  13   
> > > > 宮崎  2                        滋賀   1    長野  9
> > > > 鹿児島 1                                   山梨  1
> > >
> > > > 域平均 1.25  平均 1.25  平均 1.25    平均 4.7     平均  4.3        
> > >
> > > > 関東地方(45%) 東北北陸地方(7%) 沖縄、北海道地方(17.5%)
> > > > 静岡   5   青森  1      沖縄   1
> > > > 神奈川 21   山形  2      北海道 11
> > > > 東京  18    岩手  1
> > > > 埼玉  17    新潟  4
> > > > 群馬   6   秋田  0
> > > > 千葉  11   福島  4
> > > > 茨木   4   宮城  2
> > > > 栃木   8                                     
> > >
> > > > 域平均 11.3   平均  2.0      平均  11.0  
> > >
> > > >  青木氏の分布と子孫力−終わり。
> > >