青木氏氏 研究室
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  [No.306] Re:青木氏の分布と子孫力−2
     投稿者:takao   投稿日:2014/03/26(Wed) 12:34:09


>「伊勢青木氏族日向青木氏」と成るが、「伊勢青木氏」の様に戒律に縛られる事なく、「子孫拡大」が吐かれた結果である。.
>そこで、「日向青木氏」のパラメータは6とすると、そうなると、上記「長崎」は同程度の0から6としていた上記の推論は当たる。
>上記の「長崎」は6以下であろう。「日向青木氏」から観れば6は超えない。

「青木氏の分布と伝統力」−2


・「長崎の考察」
この「長崎」の「青木氏」は、ここは「太宰大監」として自治を認められた地域であって、元々「大蔵氏族の居住地」で直接に勢力範囲の届く地域であって、藤原氏が大きく入り込む余地はなかった。
(この時は平家の影で藤原氏は衰退していた)
従って、鎌倉末期後の「元寇の役」の「鎌倉期ー室町期」の赴任による定住地である。
そこで「青木村」を形成している事から「平安末期の子孫」とも考えられるが、上記する様に本来の形の定住地でなかった事から、恐らくは、この時の「青木村」は、後からの秀郷宗家一族の赴任に依って、それに護衛団として同行した「秀郷流青木氏」が、その時に「青木村」を形成して定住したと観られる。
「青木村」を形成する以上はそれなりの期間を必要とする。赴任だけでは成し得ない事に成る。
では、形成できた時期となると、「元寇の役」の時の「進藤氏の仲介」で「大蔵氏と青木氏の血縁関係」がなされた時期と成る。
恐らくは、この時の子孫がこの「青木村」を形成したが、「青木氏の氏環境」からこの「青木村」を留守居か、放棄して武蔵入間に一族全員が引き揚げた事に成る。
そこに、再び、鎌倉期に秀郷宗家が赴任して、この時に護衛同行した「青木氏」が、この「青木村」に再び住み着き、その後に「護衛役」を入れ替わった別の家紋の異なる「青木氏」がこの「青木村」の近隣に住んだと観られる。
その証拠に青木村外の近隣に住んでいた家紋の異なる「青木氏」もいた事が史実の記録から読み取れる。そして、ここに「赴任先」とされた事もあり、この地域の事が差配出来る「縁故の理由」として、この「青木村の存在」が左右した事が考えられる。
しかし、記録的には確実に定住移動しているのにパラメータでは0と成っている。
(ルーツ掲示板では長崎からの投稿が多い)
数字的に観ても、「赴任定住の青木村」がある事から、この「長崎」は全国平均の4のパラメータはにあり得る。
(「日向青木氏」から観れば、「青木村」を形成している事から観れば、6までのパラメータは実質得られる。)
「ルーツ掲示板」(1000件)から観て、「長崎」に定住か先祖が「長崎の青木氏」からの関係するお便りは全体の凡そ2割に成る。
「青木氏族外」からのお便りもある事からこれらを差し引きするとパラメータとして直せば、5ー6と成る。
「家紋分析」から観ても、パラメータとして直すことは難しいが、116氏の家紋中に占める「長崎」の青木村付近の家紋群数の%は4.6%であった。これから観ると、子孫は大きく拡大していない事と成る。
「家紋掟」により家紋が増える事は「跡目養子」が多かった事が云え、「子孫拡大」が増えている事にも成るが、「藤原氏秀郷一門の361氏」から観ると、「子孫拡大」は低い方にある。
これは周辺に大豪族が分布していて伸びるチャンスも難しかった事が考えられるが、多くは「神職系」と「大蔵氏系」と云う事に制約されて、「関東の青木氏」として入り込むことは難しかったのではと考えられる。
赴任である以上、戦いに依って周囲の土豪を切従えて土地を獲得する事は出来なかったし、治安を維持する事を任務としている以上は江戸期末期まで出来なかった事に成る。
仮に「子孫拡大」とすると成れば、「赴任地の経済力」だけでは無理であり、「入間宗家の経済的支援」に頼る以外に無かった筈である。これは無理な事で、”それならば帰って来い”と成る。
それは「過去からの伝統」として、”武蔵に帰る”と云う風評が左右したと観られるし、「長谷川氏」や「永嶋氏」の様に、大蔵氏系の中に組み込まれてしまう事も「青木氏の戒律」から避けたのではないかと考えられる。
つまり、「血縁の利点」が青木氏側に九州では無かった事を意味する。
依って、「パラメータは4」であろう。これを超える力は先ずないだろう。
従って、「長崎」の「子孫拡大」は0と観るよりは6以下と観た方が適切である。
九州の地域平均の1.3%と全国平均の5%から観て、関西以北を原則定住地としている中で、殆ど「青木氏疎遠の地」として考えても、「長崎備前青木氏」の4−5と「宮崎日向青木氏」の6はよく「子孫拡大」を果たしたと考えられる。

「高知」
次ぎは、四国地方の「高知青木氏」(土佐青木氏)は、「甲斐の武田氏系青木氏」が、当初、「讃岐青木氏」(香川)に保護されて「庇護地の讃岐」から土佐に移動して定住したものである。
この「高知青木氏」の「子孫拡大」も「讃岐青木氏」の保護の下で「逃亡移動先」で「青木村」を形成して拡大しているくらいでもある。
現在も定住の確認が出来るが、パラメータは0であるが「子孫繁栄」は他の地域で起こしている可能性がある。滅亡した事はない。
それは「讃岐青木氏」(香川)に保護されながら「高知」にその勢力を伸ばして領地を確保してここを「永住の地」として「青木村」を形成したのである。
記録から観ても、「子孫拡大」の「三つの条件」の内、「経済的背景」と「武力的背景」は確保出来ていた。
この「三つの条件」(「政治的背景」 「経済的背景」 「武力的背景」)の経緯順は
一 「讃岐青木氏」のみならず「讃岐藤氏の背景」の「武力的背景」を(1)とした。
二 その「武力的背景」をベースに領地を確保して「経済的背景」を(2)とした。

「讃岐青木氏」の背景とその庇護が無くてはこの「青木氏疎遠の地」「高知土佐」では「子孫拡大」は無かった。
「政治的背景」は「皆無」として伸長した珍しい「皇族の武田氏系青木氏」である。
この「政治的背景」は「讃岐藤氏と讃岐青木氏」が前面に出ていた事から「皇族系族」としての「政治的背景」は必要でなかった。
その代り表に出ていなかった事から「厳しい皇族系族の戒律」に縛られていなかった事、「不入不倫の権」に守られない環境の中では柵が無く「自由」であった事が云える。
それだけに「三つの条件」の欠如があったにせよ、「子孫拡大」は比較的伸びやすかったのではないかと考えられ、その為か研究では半面で比較的に「伝統」は消えている。
調査研究では、家紋や宗派や守護神などの「伝統」は消えていて「青木氏」自らも「ルーツの如何」の認識も薄かった。「甲斐武田氏系青木氏」の家紋に関しても消えている。当然に宗派は別であるし、「守護神の神明社」も少ない。
どちらかと云うと、「讃岐藤氏の藤原氏族の青木氏族」の認識が強かった。
現在、投稿が少ないのもこの影響ではないかとも考えられる。
東側の「阿波青木氏」(徳島)に比べて西域に限り「子孫拡大」、或は「勢力拡大」をさせた事がその原因と成っていて隔離的な形に成っていたと考えられる。

(徳島の青木村  阿南市見能材町青木村  板野郡藍住町青木村)

従って、その意味から、明治後に移動が自由になった事から、その自由さから大阪に移動して行った事が考えられる。
(「ブラジル移植」もあった。土佐には紀州の漁民が「カタカタ漁」を広める為に多く移動した。この為にブラジルにも紀州と高知の漁村の全体が入植した。この時にも入植していると観られる。)

「青木村」があったにも関わらずその「伝統」を守れていないのは、この「都会移動」と「入植移動」を明治後に大きく起こしたと考えられる。
そこで、この「青木氏」の「家紋」は、本来は「家紋掟」から「賜姓族」であるなら「笹竜胆紋」である筈ではあるが、「武田花菱紋」である。「武田氏系青木氏」と成っている。
この事から「本家筋」が消えている事を意味するし、他にありえない一般の家紋も観られる。
要するに、”「武田花菱紋」が残っている”と観られる事は、「家紋掟」はあまりに庶民化して守られていなかった事を物語る。
従って、明治初期の「苗字令と督促令」があったが、”「青木氏の氏名」はどの様に維持してきたのか”と云う疑問がある。
それは「江戸期の間の環境」に左右されていた筈で、「血縁が自由」が決めてでは無かったかと考えられる。これを解明する資料は見つからないが、「青木氏」を遺すには最低でも「身分」が「郷士」であった事になる。
それは、”青木氏でない氏の資料”で証明している。

・「郷氏名義札」
四国と云えば、「紀州」まで「子孫拡大」を起こしていた有名な氏がある。それは「高知の坂本氏」である。
有名な「坂本竜馬」の家で、その坂本氏は高知ー徳島ー和歌山の紀州に子孫を遺していて、紀州では「坂本氏屋敷跡」を「歴史遺跡」として認定されていて、史跡の土地に家を建てる時には、建設前に先ず調査が義務付けられているくらいである。
「坂本竜馬の実家」はこの「坂本氏」の「郷士名義札」を買い取り、商家から「坂本の氏」を名乗った事は有名である。この様な事は江戸期には可能であった。
「青木氏」の様な氏は、この「郷士名義札」のトップ対象の中にあり、経済的に氏を維持できなくなった本家筋が最後の手段としてこの「郷士名義売り」を行った。
ただ、「賜姓族と特別賜姓族の青木氏」は行っていない。
特にこの現象が盛んに行われた時期は次ぎの4期に盛んに起こった。

第1期 下剋上で立身出世した者がこの名義買いを行った室町期末期
第2期 江戸初期に徳川氏の家臣と成り「氏姓」を持たない下級武士の名義買い
第3期 江戸中期末期に起こった豪商などが「商い」をより拡大する為に「郷氏」の家柄の名義買い
第4期 最後には明治期初期の苗字令の名義買い

この「名義札を買った青木氏」は、これを「青木氏の場合」は、「第三の青木氏」と呼ばれた。(寛政の歴史書にこの「第三の氏」として記されている。)
「高知」では、その「青木氏の地域性の低さ」からこの様な現象が起こった。
届けて審査されて認可される正式な仕組みであった。高地では第3期と第4期が主である。
(国や地域により認めていない地域もあった。主に地域の経済的な理由にあった。) 
「山内藩の発祥由緒」からも「高知」ではこれを認めていた。
つまり、この「高知青木氏」にも「青木村」がある様に「郷氏」扱いで売却が起こったと考えられる。
その証拠に、「須崎市青木町」と 、「高岡市青木町」の「二つの青木村」があった。

「二つの青木村」を持つほどにその勢力、即ち、「子孫拡大力」は元々持ち得ていなく、然も、その意識に欠けていた事から、「二つの青木村」は通常ではあり得ない。
「秀郷一門の青木氏」であっても「一地域一青木村」であるのにおかしい事である。
それにはこの様に成る理由が一つあった。
それは上記した「郷氏の名義札の制度」である。
一方の「青木村」が「元々の青木氏」で、他方の「青木村」が「名義買いの青木氏」であった事に成る。
「氏名村」を形成している以上はかなり古い時期からの「名義札」である。
恐らくは新しい方は江戸中期頃と観られる。

そもそも、この「名義札の売却」の中には、いくつかのパターンがあった。
1 「嫁取り」を基本にする方式
2 「氏名と財産売却」を基本にする方式
3 「単純名義札売り」を基本とする方式
4 「一族一門の跡目断絶」を基本とする方式
5 「1から4の複用」を基本とする方式

1 「完全女系」となった「本家筋の青木氏」から「嫁取り」をし、その時に「結納金」とは別に、その「嫁側の名義買い」も行って「縁続きの形」で「氏名」を作った形式が多かった。
  要するに「家紋掟外の行為」である。
2 中には「名義」だけではなく、その「財産」の一切も合わせてその金額の中で買い取ったものもある。
 この方式によれば親族や縁者からの反発を避ける事が出来たのである。
  (本来では「家紋掟」でも「嫁入り」では「氏名と家紋」は変わらない)
  分家筋がこれを行う時は、親族中でも「本家筋の承諾」が必要であった。
3 単純に「名義」の使用を選定とする「名義買い」があった。「名義」を売った方は名義が消滅する。
  農民や漁民や商人に転身した。
4 一族が完全に跡目が断絶し、その「氏名の使用」だけを売却する方式もあった。
  「跡目」とは別に「借金の肩代わり」に「名義売り」に成る場合もあった。

これら全ては、その「郷士や郷氏」の「経済的な背景」が左右していた。
「娘」(女子)が無かった場合は、形式上、縁者や他氏から求めて「養女」を仕立てて、この形に持ち込んだものもある。この方式は最も有利であったからで、「1の方式」に持ち込む事が出来ない場合には2から3と変えて行ったものもあった。
「青木氏の戒律」に縛られないで、「地域性」に左右されて経済的に低かった「高知青木氏」には、「郷士の坂本氏」でも起こっている程から、よりこの現象が起こった可能性が高い。
恐らくは、「本家筋」の範囲ではこの方式で「高知青木氏」を保もたれていた事も考えられる。
依って、その「氏の衰退」と「名義売り」をしてしまった事からも、自由になった明治後の「都会移動」と「入植移動」が起こったと考えられ、それと共に老齢化していた事が考えられるのである。
故に「青木村」を形成しながらパラメータが0と成り得ているのであろう。
つまり、「二つの青木村」に成っている事から、「本家筋の名義売り」になった事に成る。
一方で「青木村」が残り、二つ目の「青木村」を形成した事に成っているので、「1の場合」に限定される。故に「二つの青木村」が形成されたのである。
この場合であると、家紋も何もかも一切「札の条件」に成って居る事から判別が出来ないのである。

この様に、上記した様に「日向青木氏」の様に、現在でも子孫拡大が進んでいる「青木氏」もあれば、「高知青木氏」の様に衰退している地域もある。
況や、この「栄枯盛衰」は「伝統」の「継承有無の如何」に関わっている。
今後、伝統の継承のより強い意識が無ければ、この「高知の青木氏」の「伝統」のみならず「青木氏」も残念ながら消える見込みであろう。

・「徳島の青木村考察」
ところが、この四国に於いて、「二つの青木村」を持っている県がもう一つ珍しくある。それは徳島である。
ここは「高知」とは全く違うのである。
平安期初期からの北家筋の赴任定住地である。藤原秀郷流一門と同じ北家筋の利仁流一門の赴任地である。
ここには「護衛同行団の秀郷流青木氏」が定住の形式を一応採った地域であり特異な地域でもある。
その「子孫拡大」の「高知青木氏」の方向は、「徳島」の南側から西に向かって伸ばしたが、西に伸ばさなければならない理由があった事に成る。東には隆盛を極めたこの「秀郷流青木氏」が定住していたからである。
この東には上記する様に「剣片喰族の秀郷流青木氏」が定住していた。その定住には特異さがあった。パラメータは1である。
しかし、この1は単純な1ではない。高知で上記した様な衰退の様な現象が起こっていた事が思えるが、ところが隣接する東では全く別であった。(下記)
高知から観れば、隣国であった事から東にも青木氏が存在する事は、東にも「青木村」が2か所もあって、この事は高知では、長い間の歴史の中で風評として承知していた筈である。

その「高知青木氏の経済的背景」の経緯は次ぎの様な現象であった。
特に、「日向青木氏」の様に無人の山岳部や沿岸部を開墾して「生活の糧」とした訳ではなく、一族逃避時からその力を使って「讃岐青木氏の援護」を受けて領地を拡大した戦乱の室町期の「子孫拡大」であった。「讃岐藤氏」にとっては「背後の憂い」をなくす意味でも都合が良かった。
ところが「高知の青木村」が隣接する東側の地域の阿波徳島一帯には、愛知から来た「剣片喰族」の「秀郷流青木氏」が赴任して土地に絶大な勢力を張っていた。
東には憂いが無かった事が「高知青木氏」(土佐)にも成し得た勢力で「子孫拡大」は成し得た。
しかし、この「子孫拡大」は室町期末期までのもので、「山内氏の領地」となった「江戸期の安定期」と、「明治期の地租改正」などで「生活の基盤」と成る土地は力に頼った「子孫力」であった事から霧消した筈である。
その背景と成っていた「讃岐藤氏」も「四国の勢力争い」の「戦乱の苦境」の中にあっての「高知青木氏」は「讃岐青木氏の庇護」は無くなったと考えられる。
筆者は上記の「高知の名義札問題」は、この時に起こったと考えている。
「高知」では財政的に子孫存続が難しくなった「名義売りの青木氏の方」は衰退し、「名義買いの方」は逆にその財政力を使って隆盛して、この「名義買いの方」の青木氏が残った可能性がある。
多くは「名義買いの方」は「坂本氏の例」に観る様に「商家」であった。
とすると、「一方の青木村」は当然に消滅する筈である。

しかし、残っていると成ると、”一体どのような事が起こっていたのか”と云う問題がある。
だから、上記の2や3や4ではなく1である事に成る。
つまり、「娘」を娶り、「名義買い」もして、「財産」も買い上げて、「家柄」を「郷氏」に一段上に上げて、後に子孫が生まれれば、その一人を元の「名義売りの家」を興し直す事で可能に成る。
こうする事に依って、「名義買いの方」は名実ともに「青木氏と縁続き」と成る。
更に、そこで更に子供が出来れば、完全に「名義買いの方」の「血筋」の「青木氏」に特化してしまうのである。この経緯が本来の目的である。
「商家」が「武家」に特化する身分変更の奥の手であった。
財政的に優位にある「商家」は挙ってこの手を使った。「氏族」に成ると同時に「商い」にも有利と云う事が起こる。「商家 商家」と蔑げすまれる事は無くなる。
「室町期中期からの豪商」と呼ばれる者は殆どが「二足の草鞋策」(室町文化 殖産業)で、「江戸期の豪商」は逆に商家が「郷士や郷氏の札」を買う事で「二足の草鞋策」(元禄文化 販売業)に成った。

従って、4、3、2より1に持ち込もうとして、「名義売りの方」に娘が無くてもどこから女子を連れてきて先ず「養女」にしてこの取引を両者の合意で行った。
要するに、「血筋」と云うよりは「家柄」を重視した。これは「商い」にも役立つ利得からの選択であった。幕府や藩の「認可の便宜」と「公共事業の受注」にあった。今とあまり変わらない。

「弘前藩の事件」もこの「太平洋周りの廻船」の認可と「海産物の殖産海運」が物語っている。

恐らくは「商家の武家への特化」この事が起こったと観られる。
突き詰めれば、「札の買い手」の「家の継承」と云うよりは「利得のための特化現象」である。
故に、「二つの青木村」が残ったのである。
結局は、「名義札」にする側の青木氏は存続が出来なくなった事によって1から4の事が起こったのである。
終局は、断絶か滅亡の憂き目に成る運命であるから、「売る側」も「買う側」にもそれなりの利点があった。それ以外には無理である。
通常の「氏名継承」の「男系継承」の逆の事を起こしたのであり、元に戻す手段としても当時は認められていない「女系継承」が起こった事に成る。それを「正常な形にする手段」として「名義札制度」があったのである。
「氏家制度」が、”下剋上と戦乱の下級武士の勃興”で「社会の組織形態」が崩れて、室町期末期頃から「崩壊の憂き目」が起こった。
そこで考え出されたのがこの「名義札制度」であった。
この制度は江戸期の中期に入る前には「お家を護る」と云う大義名分の名目で盛んに行われた。
全くの他人の子供を「養子や養女」に迎えて家を継がせると云う事が頻繁に行われ、旗本や御家人の家柄を断絶から護ったのである。
当初は武士間だけであったが、それのみにあらず「庶民ー武家」からも「名義札」で取引して「養子や養女」を迎えて「家」を護ったのである。この「慣習の継承の裏」には、必ず「名義札」が動いた。
この「名義札」も社会的に認められたものであっても、「利得」より「家柄」と云うものに重点を置くと、江戸期または室町期に於いても「士農工商の縛り」がある以上は”「商家」が「武家」に”と蔑まれるは必定で、その為には、「名義札」も表にはなかなか出しにくい行為で制度である。
子供が出来るまでの少しの時間をかければ「売り手」の元の家に「再興の子供」を仕立てる事で名実共に「青木氏」には成れるが、そこに「商いの利得」が絡んでいれば密やかに「名義札の売買」は行われなくてはならない柵がある。
これは「武士」もより上の家柄にする事に限らず、「商家」もこれに参画して「武家の家柄」を獲得したのである。

・「高知の山内氏の考察」
この背景と成っていた「讃岐青木氏」は瀬戸内を通じて北に延ばした事から、「高知の青木氏」は「三つの条件」の全てを連鎖的になくして行った事が云える。
尚、合わせて江戸期の四国は大きく勢力図は変わった。
つまり、「姓族の時代」と成って、「氏家制度」の中で「高知の土佐青木氏」は生き延びるための基盤を失った事に成る。
恐らくは、「下級武士」から家を興した「山内氏」は愛知から家臣団を連れての「高知への転封」で、「土地の豪族」や「郷士、郷氏」等の勢力との激しい反発を受けた「有名な転封藩主」であった。
事件では、「話し合い」を前提として城内に入った「郷士団」「土豪団」と「山内氏」との間で城門を閉ざして城内で全滅に至るまで激戦を繰り広げた。この「激しい反乱」(有名な反乱)の末に解決した経緯があり、この「怨念と警戒」があって、「地元の勢力」、「土豪団」取り分け「郷士団」や「郷氏」には、山内氏は警戒していて「厳しい政策」を幕末までを採った事でも特に有名である。
(この事件でも郷氏が少なく成り「子孫力」が低い原因になった。)
その政策は「江戸末期の土佐藩」にもよく出ていて、「坂本龍馬」もこの事が原因で許可なく国元を離れた経緯がある位で、一部懐柔策としてこれらを家臣に加えたが「郷士や郷氏」には特に厳しい軋轢を加えた事でも有名である。
依って、「高知青木氏」も例外ではなく、通称歴史上では「名義買い」で称される上記した様な事が起こり「農民か漁民」(入植移動)に転身して生き延びた事が云える。
その事から土地に居づらい元青木氏は、後に特に明治期の「都会移動」「入植移動」の原因となった。
筆者の研究からも、この地域の「武家の青木氏の強い息遣い」は観られなかった。
「ルーツ掲示板」にも同じく観られない。「ルーツ掲示板」の比率に表現できない数字である。
しかし、「墓所の家紋分析」と「守護神の調査」の研究からまだ存在は確認できる。
数字的には1あるいは2以下のパラメータが得られる程度と考えられる。
しかし、記帳とルーツ掲示板にも無いと云う事は、その原因として「名義買いの青木氏」にも「高知在住の青木氏の老齢化」も起こっているのではないだろか。

下記に示す大阪や東京などの都会に、つまり、パラメータが多過ぎる地域に「移動定住」している事を示すが、外の四国3県のパラメータにはそれなりに妥当なものとして考えられる事から、この3県には高知からの移動の原因は考えられない。
「山内氏事件」「名義札」「入植移動」「都会移動」「戦乱期衰退」が原因して「武田氏系青木氏」の「高知青木氏」はパラメータが得られなかったと観られる。

「徳島」
そこで、比較対象として上記した様に隣接する「徳島の1」に付いて「特異性」があるので論じて置く。
その証拠には「徳島の1」である。(このパラメータの1には意味がある)
「徳島」は上記した様に、「剣片喰族」の「秀郷流青木氏」が愛知より移動して赴任定住していた。この期間は平安期から室町期中期まで赴任している。
この定住には、初期には「秀郷流一門」、その後に「藤原利仁流の藤原氏」も越後から赴任している。
ここには「秀郷流青木氏」が鎌倉期まで赴任していて定住していた事から、「秀郷一門」と「利仁一門」は一族系列である事から深い親交があって、その後に「阿波の秀郷流青木氏」は警護をしている。

(利仁と秀郷の関係 「秀郷」の祖祖父の「藤成」の兄弟の「鷲取」の5代目が「利仁」、「藤成」から4代目が秀郷 従兄弟としての関係程度であった事が記録から観られる。「陸奥の鎮守府将軍」としても「利仁流」も務めているくらいで相互に親交があった。両者を取り持ったのは「進藤氏」で仲介していた。「利仁流進藤氏」が越後と岩代の中間の東北地域には発祥している。)

この為に、「阿波徳島青木氏」はパラメータ1に関わらず江戸期末期まで「郷氏」として生き延びて子孫を確実に拡大させている。
この「パラメータの1」は徳島の南北に「青木村」を「二か所」も形成している事から観ると、”低い”と判断できるが、「高知青木氏」と違い、この”低い”のにはそれなりの理由があった。
この「剣片喰族」は愛知から静岡の沿岸部に分布していて江戸期まで青木氏外にも「片喰族」として大勢力を維持していた。
室町期末期の天正末期まで一門の永嶋氏が、伊勢域まで勢力を拡大させたが、これには「片喰族」と「剣片喰族」が加勢して勢力を維持させた。その為に、「四国阿波青木氏」も勢力を維持させた。
何故ならば、この「剣片喰族」は阿波に定住地二か所を設けながらも、固定定住するのではなく「愛知ー静岡」の地域から”「交代制」で維持する”という制度を採用していた。
本来の「入間帰還」の「青木氏の制度」と違い、これに従い「片喰族」として「子孫拡大」を分散させない様に確実なシステムを独自に敷いていた。

武蔵の前哨地として採用していた為に、本来は武蔵の国に復帰するが、この「片喰族」だけは「愛知ー静岡」に復帰していたのである。
この為に、「阿波」にはその勢力が固定されて、江戸期でも「郷氏」になったとしても「氏力」は保たれたのである。一族の相互間の連携を採っていた事が「家紋分析」でもこの事が裏付けられる。
故に、江戸期でも安定した勢力を保持した為に秀郷一門の主要家紋8氏の一つと成っていた。

高知の青木村の二か所は、「須崎市青木町」ー「高岡市青木町」の隣接市にある。
徳島の青木村の二か所は、「南端域の阿南市青木町」と「北端域の板野郡青木村」に完全に分離している。

つまり、「徳島の青木村」は上記したその制度にあった。
これは、利仁流一門の護衛の時は、「板野郡」に、秀郷一門の時は「阿南市」に分けて赴任住まいしていた事が判る。
両方には留守居を置いていたが、この「二つの青木村」の態勢は「利仁流と秀郷流の距離感」を保っていた事が考えられる。阿波国は紀伊水道に沿って南北に長い土地柄である。
利仁と秀郷の二門の護衛となると「青木村」一つで務める事は、幾ら親交があったとしても問題が生まれる。阿南と板野の中間に置いたとしても縦に長い地形から距離が生まれ初動に時間が掛かる。
そこで別々に「青木村」を置いた。
家紋が別の青木氏であれば「二か所の青木村」も考えられるが、「秀郷流青木氏」としては全国に支障なく護衛の軍団を配置するとなると、阿波の一国に「二つの青木軍団」を置く余裕はなかった。
長崎のところでも論じた様に、定住策を採りながらも入間を防御に支障を来さないためにもに帰還させる体制を採っていた。
特に阿波は秀郷一門ではなく、「北家利仁流一門」も赴任していると云う事から考えると、家紋別の青木氏を配置する事は無理であり、「北家利仁流一門」にも越後からの赴任と成ると、最低限の多少の護衛団を引き連れて来る事に成る。この「二つの北家護衛軍団」が一つのところと云う事は不可能で、「北家利仁流一門」には賜姓族でない為に「青木村の様な村の権利」は許されていない。
護衛団を駐留する場所の確保には土地の豪族との関係もあり難しく、「最小限の軍団」と成る。
「村の形成」は先ず「軍団駐留」と「守護の生活」を維持する「土地確保の許可」と、そこに必要な「農民などの職能集団」を置かなければならない事と成ると簡単には不可能である。
阿波には、平安期で確認できるところで10回程度で年数は3から5年(原則4年)で凡そ交互に務めている。この状況からも、一か所は無理である。
そして、この交代制が出来る条件が阿波にもっとも近い「秀郷流青木氏」でなくてはならないし、越後域からでは無理である。まさに江戸時代の苦痛の参勤交代の様に成ってしまう。
参勤交代の様に成れば「氏力」は低下してしまう。そうなると、秀郷一門の勢力圏の最西域は完全に限定される。 

・「愛知の考察」
「愛知から静岡」に勢力を張る「片喰族の青木氏」と成り、その中でも、愛知側の「剣片喰族」と限定される。だから、最も合理的な「年期制度の交代制」を採る事が出来たのである。
これを本来の「帰還先の入間」と成ると問題が生まれる。
通常では116氏の本家筋は全て入間の護衛に当たるのが「秀郷一門の掟」であり、その例外として「剣片喰族」は許されていて関東にはこの家紋は少ないのはこの事による。
そもそも、「片喰族の分家」の「剣片喰族」の方が勢力が大きかった事が判っていて、そこで、「片喰族」一門としては「本家筋」の片喰族が「入間護衛」に回った事に成っている。
従って、「徳島の1」のパラメータは1で良いのであって、大きい事はあり得ないのである。
それ故に、「愛知ー静岡」域のパラメータは、「愛知の13」、「静岡の5」として大きいのであって、特に、「愛知の13」は一見して入間本領の17から比較すると”大き過ぎる”と見えるが大きくないのである。
「愛知の13」では本領域に近いパラメータと成るが、愛知は確かに勢力はあったが本領並の勢力下にあった事はなかった。
恐らくは、平均以上である事は否めないが、せいぜい本領の半分以下であった筈で、「秀郷一門の「第二の宗家」として勤めていた「秀郷流青木氏」としては統制下の中にあっての事で、「子孫拡大」の「三つの条件」を13にして置くことはあり得ない。
その必要性があるのならば、その元の「三つの条件」を入間に充てる事とする筈で、それほどに無策ではなかったし、余裕は無かった筈である。
「全国24地域」にそれなりの「三つの条件」を配置しなければならないだけではなく、「利仁流一門」にも加勢していた史実から、依って、愛知の実態は13ではなく7であった事が考えられる。
「愛知13ー7」は13から7への変動地であった事に成る。
特に、「経済的背景」に支障を来す事に成った筈で、この残り分は「徳島の1」に充てられた。
従って、「徳島の1」は7になり1に成りする「流動性のあるパラメータ」なのであって、そのパラメータの元は愛知の13の中にあって、全ての青木氏の中では特異な徳島と成る。
逆に、愛知は13に成り7に成りする「分布力」であった。
結局は、現在、愛知が13と成っている事から江戸期末期頃には徳島から多くは愛知に戻った事を示すものである。
どれだけ「徳島の青木氏」が「蜂須賀藩の家臣」に成ったかは不明ではあるが、成ったとしても徳島の本家筋が家臣になった事程度であって、地元の民間所蔵の資料から観ても、家紋分析の内容からも「高知の青木氏」と同じ様に「徳島の青木氏」の多くは「郷氏」に成った事が判っている。
その元主であった「郷氏」と「漁民」が組んで「蜂須賀藩」との間でも「揉め事」を起こした事が書かれている。「徳島」の「郷氏ー漁民団」の場合は、資料では「船を使った戦法」を採ったところがその技術技能の無い蜂須賀藩には堪えたと観られ、彼らに「船の交易の特典」を与えた。この特典を活かして昭和20年代まで「阿波水軍」で有名を馳せた。この事が「徳島青木氏」の「子孫力」を遺した背景でもある。
ただ、「山内氏ー高知青木氏」(甲斐武田氏系青木氏)と「蜂須賀藩ー徳島青木氏」(藤原秀郷流青木氏)のその「元の基盤」が異なっていた事に成る。
この様に、「子孫力」を遺せるかどうかは「生き様の経緯」で決まる。
そして、その「生き様の経緯の流れ」には何人も”人は抗する事は出来ない”のである。

この「徳島ー愛知の現象」は少なくとも「室町末期ー江戸初期」まで続いていた事が、この事は「結城青木氏」の資料の記録の中でも凡その姿が書かれていて判る。

恐らくは、”世に憚る事無かれ”は、上記の「生き様の経緯の流れ」にうまく乗る事の「究極の秘訣」であって、その「身の処し方」はの意は、”必要以上に表に憚る事無く、一歩下がった処に身を置くことの大事さ”を示唆している。そして、その時、「心の持ち様」の意は、”「萎縮」する事無く「卑屈」に成らない事”とある。それを資料の語意から読み取れる。

これが「秀郷流青木氏」が「第二の宗家」として主導する「秀郷一門の掟」と成っていたと考えられる。
これは元々、「皇族賜姓族青木氏の生き方」でもあった。その証拠に「青木氏の掟」 ”世に晒す事無かれ、何れに利無し。”から来ている筈である。現在もこの「訓戒」は伝えられている。
これこそが、「全ての「青木氏の子孫力の根幹」に成っているのだ。
この様に「秀郷一門の青木氏」は、”生き残る為に巧みに処世を読み高望みせずに、丁度良い位置に身柄を置き江戸末期まで泳ぎ切った”のである。
(北家秀郷一門をリードする「第二の宗家」の「青木氏」の伝統的な生き方)

秀郷一門の「定住地域の24地域」の殆どは、これを護って大きな事件を起こさずに江戸期に入ったのである。(意に反して流れの中で巻き込まれて事件と成った事もあった。)
この゜生き様」は、「秀郷一門北家筋9氏」が家紋として用いている「下り藤紋」をはじめとする「主要8家紋の動向」の家紋分析でも判る。
そもそも、”下がる”を忌み嫌い「上る」を由として「上り藤紋」に多くの北家筋は伝統ある家紋を変えたが、敢えて、「秀郷一門の9氏」のみがこの「下がり藤紋」を変えなかった。
何故ならば、人が抗する事の出来ない「生き様の経緯の流れ」に対応するのには、「”世に憚る事無かれ”」の「究極の考え方」であるとしていたからである。

・「藤原秀郷一門の生き様」
その後の江戸初期前後の秀郷一門は、「皇族賜姓族青木氏」を除く、「丹治氏系青木氏」を含む「関東の青木氏」は「幕府または徳川氏の旗本家臣団」に加わり、「江戸幕府の本領安堵策」によりその勢力を保持した。

(例1 大名に充分に成り得る「土地持ちの御家人」でありながら、大名になったのは361氏の中で何とたった1氏の「内藤氏」だけである)

(例2 「丹治彦王の配流孫」の末裔「皇族青木氏」の「丹治氏系青木氏」は当初、豊臣側に着き奈良の地域を拝領する事を約束されていたが、「家康の調略」により徳川方に着き、その勲功で摂津4万石の大名に成った唯一の例がある。)

(例3 豊臣秀吉が家柄をよく見せる為に、豊臣家の「虚偽の系譜」に書き記して「縁者、親族」であるとして利用された「青木紀伊守」は越前北の庄八万石、「青木伊賀守」は越前丸岡四万六千石と成った「伝統ある青木氏の戒律」を破った経緯があるが、何れも徳川家康に依って、結局は除封されて越前福井に逃げ込んで「子孫力」を著しく弱めた。)

・「子孫力」「生き様の形」を作る秀郷一門の戦略
それは、そもそも、その「青木氏」は室町期末期から江戸初期に掛けての「生き様の形」は、「秀吉と家康の駆け引き」の流れの中にもあった。

そこでこの子孫を護る「生き様の形」の端的に物語る歴史上の有名な事件があった。
「秀吉」より「家康」が関東に国換えを命じられ時、即応した家康は、この「藤原氏」の各関東を中心とした各地にある”秀郷一門の絶大な勢力”を取り込むことで、豊臣以上の勢力が確保できる事を目論んだからであった。
「本領安堵」を前提として、最初に旗本の家臣団の傘下に入る事の交渉に入った事は歴史上の有名な史実であった。
「青木氏」を含む「秀郷一門」はそっくり徳川氏の中で「土地付きの上級武士団」(御家人)を形成したが、「大名」は敢えて好まず「青木氏」を含む一族一門は「御家人と旗本」を目指した。

この「子孫力」の「生き様の形」は、平安の時代が終わりの鎌倉時代と成った時も、「秀郷一門の行く末」を決める時も、「秀郷宗家の朝光」が採った戦略と全く同じ戦略を採ったのである。
頼朝はこれを認めた。(「本領安堵」ー「一族の家臣化」ー否大名化」)

又、別の例として、陸奥で秀吉に敵対しながらも「青木氏族」の秀郷流結城永嶋氏の領国 愛知は「関東屋形」として呼ばれていながらも江戸初期まで愛知まで勢力圏を補完した。
徳川氏に対して充分に大名に成り得る勲功を挙げている「永嶋氏」であっていながら、且つ「大名」としては充分な勢力を補完していながら、”絶対に大名と成らない事”で徳川氏との軋轢を避けた事にもあった。
「生き様の形」「生き延びる事」、「子孫力の保全確保」の為に採った一門の歴史的な「究極の選択方針」であった。この考え方が「子孫力」に大きく影響した。何も大名に成る事が「子孫力」を高めると云う前提ではない事を一族一門はよく承知していた。
大名と同じ勢力を保持している事であれば、憚って大名に成る必要性はないとしたのである。
(その「1/361」は、その一門の究極の生き様の掟は完全に守られていたとしても過言ではない。)

つまりは、其の儘では、「秀吉の調略」に乗せられて「徳川氏の基盤」を”江戸の周囲から突き崩す戦略”に”巻き込まれる事の経緯の流れ”を避けたのである。
秀吉は”関東を与える事”の先の事を読み込んでいたのである。
それは「藤原氏」を調略して、最終は「藤原氏の勢力」を使って周囲からせめて潰す計画にあった。
これを読んだ「家康ー関東藤原氏」は、「本領安堵」と「御家人家臣団」として「上級武士団」で解決した。(これに依って却って秀吉は逆に徳川氏を潰す事が難しくなった。)
江戸幕府の上級武士の中に「下り藤紋の藤原氏」が多いのはこの事による。
秀郷一門を家臣団に納めた事で、家康は秀吉との関係で、”鳴く迄待とう不如帰”の家康は、この奈良期から生き残って来た「北家藤原氏」の中でも「秀郷一門」の「生き様の形」、「生き延びる事」、「子孫力」の「究極の選択方針」(”世に憚る事なかれ”)を見習ったのでは無いかと考えられる。

・「江戸時代の秀郷一門の大名」
全北家筋で江戸時代に大名に成ったのは、凡そ280藩中で次ぎの5氏にすぎない。
その5氏も殆どは「内藤氏」である。「下り藤紋」(秀郷一門:361氏)
1 陸奥 湯長谷藩 内藤氏 
2 越後 村上藩 内藤氏 
3 駿河 高遠藩 内藤氏 
4 日向 延岡藩 内藤氏 
5 近江 水口藩 加藤氏
(北家筋の9家がこの家紋を使った。殆どは「上り藤紋」に変えた。)
これでも「究極の選択方針」を貫いた事が判る。

家康は、これと同時に、更にこの藤原氏が抱えていた「神職系の神社集団」と「浄土宗系集団」を取り込むために、幕府開幕前後から、直ちに、全国全ての「神明社(青木氏)」は幕府、徳川氏の管轄下に置き、浄土宗の信者集団も管轄下にして開幕後に直ちに「浄土宗督奨令とその法令」を発した。
そして、「青木氏の守護神」の全国500社にも及ぶ「神明社の全国修復の令」をも同時に発したのである。
これに依って、「皇祖神の子神の祖先神の勢力集団」が徳川氏に入った事で「他の神社集団」もこれに倣ったのである。
(この時点で「青木氏による神明社」と主な「浄土宗寺」は幕府ー維新政府の一級の管理の下に引き継がれた。これも「青木氏の巧みな生き様」である。)

(因みに、限定された歴史の史実であるので例として記述して置くと、筆者の伊勢の「青木氏の菩提寺」も接収されて「紀州徳川氏の菩提寺」と成り、寺も改めて菩提寺後のすぐ横に建て替えられた。そして、そこに「青木氏の墓所の権利」を与えられ、「寺名」も青木氏の時の同じものとなった。
「伊勢青木氏」が管轄していた「神明社」は全て「紀州徳川氏」に「修復前提」として引き渡した事が記録され、且つ、この時の様子を口伝にて伝わっている。)

更に、余談とも成るが、「伝統」云う事では意味があるので、敢えてその時の様子を短く記述する。
この時の伊勢松坂で紀州徳川氏との交渉が行われた事が記録されていて、会談に入った時に、我が家「当主長兵衛」と「徳川頼宣」との座る位置について問題が先ず起こった。
(身分家柄は古来より「青木氏」の方が上 「永代浄大1位」)

”どちらが上座に座るか”の問題で、家臣との談合が行われたが結論が出なかった。
そこで、「徳川頼宣」と青木氏当主の直接の決着で解決する事に成り、その場で自発的に「頼宣」は下座した。
困った当主長兵衛も礼儀から下座したので、結局、上座で同座となった。
しかし、ここでまた問題が起こった。当主長兵衛が座布団を敷かなかったところ頼宣も敷かず、家臣は平伏したままであった。そこで当主長兵衛は敷くと全て平伏を解いた。
この期にこの交渉に入った事が伝えられ、神明社と菩提寺の放棄の変わりの名目で、この時に、青木氏の土地の所有権(地主)を認められた。「吉宗の養父方の親交」、「享保改革の財政方」や、「幕末期の紀州藩の財政悪化をも指導」をして救った。この事が伝えられている。この後、祖父の代の大正14年まで深い親交があった。

”世に晒す事無かれ 一利無し”を護って世の記録としては遺されているが大館で出て来ない。
「二つの賜姓青木氏」は、この様に、表には出ずに”常に裏方に回る「子孫力」”を発揮した。
「子孫力」を作り上げる「青木氏の家訓10訓」はこの考え方にあった。

「岡山」
次ぎは、中国地方の「岡山」である。
この岡山(備前)は、「讃岐青木氏」の活動分布域に匹敵するほどの活動地域であり、更には、藤原氏北家筋からも鎌倉期と室町期に赴任して定住しているが「秀郷流青木氏」に関わりはない。
「瀬戸内」を経由して「讃岐青木氏」の活動領域である。ここには別の京都などの北家筋藤原氏の赴任地でもあった。紀州等もこの藤原氏(脩種ー脩行系の藤原氏)の赴任地であるが、この備前(岡山)の内の美作や備後にはこの系列の藤原氏が赴任している。
しかし、この「讃岐青木氏」が関わる「岡山の地域の沿岸部」の中では「備前ー備中の瀬戸内沿岸部」に定住していた。
況して、その「子孫拡大」の勢いは、この「岡山」を経由して北の宍道湖西域まで貫いて移動定住しているくらいである。
「島根のパラメータ2」はここに移動定住した末裔の「子孫拡大」によるものである。
この「移動定住」は本業の「廻船業」と、それを利用した「瀬戸内海産物の殖産販売」にて支店を開店して住み着いたもので、その末裔の子孫拡大である。
依って、「岡山」と「島根」とは同じ「讃岐青木氏」と同じ「廻船業関連の背景」にて「子孫拡大」に繋がったものである。「岡山の0」は最低でも「岡山の1」が認められる。 
この「讃岐青木氏」の「香川」の「パラメータは1」ではあるが、「愛媛のパラメータの3」も「讃岐青木氏」であり、「讃岐」として地域を限定しているが、「愛媛の3」は「讃岐青木氏の横の分布領域」である。

(讃岐や日向など国を限定しての呼称と成っているが必ずしも限定する分布域ではなく、発祥起点を呼称していて、分布域=発祥域とはならないし、現実に限定の呼称は無理である。)

・「讃岐青木氏」
従って、この「愛媛」には「青木氏の歴史的縁故」は全くない。”無い”と云うよりはここの豪族が毛利系に保護されたの公家系西園寺氏とその配下の隅切り角紋族の土地柄(四国の豪族)であった事が原因していた。
戦国時代は「讃岐藤氏」が横に支配勢力を伸ばす事に制約があったし、「瀬戸内」を制していたとしても、南西域から「長曾我部一族」に侵攻される危険があって、沿岸沿いに西に伸ばすのがいっぱいであった。
従って、「香川」よりの「愛媛の3」のパラメータは「讃岐青木氏の3」であるので、「讃岐青木氏」は四国側では、次ぎの様に成る。
合わせて「パラメータは4」と成る。
中国側では「広島の3」、「島根の2」、「鳥取の2」と「岡山 0から1」を合わせての小計は「パラメータは8」と成る。

これら全て「瀬戸内沿岸部」を制していた「讃岐藤氏」の「讃岐青木氏」であり、四国と中国を合わせると合計「パラメータは12」と成る。
この「讃岐青木氏」の瀬戸内沿岸部の「小計パラメータ12」が、昭和20年代まで維持されていた事である。

(この「讃岐青木氏」の瀬戸内の「小計パラメータ12」は、昭和20年頃に北海道に入植移動定住していて、この内のパラメータは北海道のパラメータ11の中に入っているので、「讃岐青木氏」の「瀬戸内の子孫力」の総計はより大きくなる。下記 総計 パラメータ17)

・「入植地 北海道の関係考察」
これに、入植先の北海道の11の一部(下記 5/11が見込まれる)を加えると、「讃岐青木氏」の総合で「合計パラメータは17」と成る。 
これは、「武蔵の秀郷一門の入間の本領地の17」と同等と成り、秀郷一門でありながら、且つ、「藤原氏北家筋」でありながら、「瀬戸内の財産」(経済的背景)を背景、根拠に「独立性」を高めていた所以である。
この事を考えると納得できる「讃岐青木氏の総合子孫力」は「パラメータの17」であった事に成る。

従って、「岡山の0」は讃岐地域に匹敵する地域ではあるが、パラメータが採れなかったし、10年間の間に「記帳」や「ルーツ掲示板」からデータが採れなかったのが不思議中の不思議であったが調査で判った。
「瀬戸内」で「子孫拡大」が成された事から、岡山=香川とすると、上記の通り「岡山」は0から1に修正される。
全国に分布する事からパラメータが、「三つの条件」で成り立ち、そこから「岡山」は2以上を超える事はなく、「瀬戸内」の中では「三つの条件」が同一である香川と同等と見込まれる。




>
> [地域別分布力]
> 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
> 全国平均(全国単位 % 表ー1)
> 地域      異変の県        分布力
> 九州地方   長崎、大分       5%
> 四国地方   高知          2.5% 
> 中国地方   山口、岡山      2.5%
> 関西地方   三重(筆者ルーツ) 14%
> 東北地方   秋田           7%
> 中部地方                15%
> 関東地方                45%
> 北海道・沖縄               6%
> その他                   3%
>
> 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
> 九州地方  1.3
> 四国地方  1.3
> 中国地方  1.3
> 関西地方  4.7
> 中部地方  4.3
> 関東地方  11.3
> 東北地方  2.0
> その他   11.0
>
> 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
>
> 修正地域(表ー3)
> 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1−7 三重 12 福井 4 愛知 13−7
> 秋田 1
>
> 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
> 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
> 福岡  2   山口  0   愛媛  3     兵庫  3    三重  1
> 長崎  0     島根  2   香川  1     大阪  14   石川  2
> 佐賀  1     広島  3   高知  0     京都  5    福井  1
> 大分  0     岡山  0   徳島  1     奈良  1    岐阜  3
> 熊本  4                        和歌山 4    愛知  13   
> 宮崎  2                        滋賀  1    長野  9
> 鹿児島 1                                  山梨  1
>
> 域平均 1.25 平均  1.25  平均  1.25  平均  4.7  平均  4.3        
>
> 関東地方(45%)東北北陸地方(7%)沖縄、北海道地方(17.5%)
> 静岡  5    青森  1     沖縄  1
> 神奈川 21   山形  2     北海道 11
> 東京  18    岩手  1
> 埼玉  17    新潟  4
> 群馬  6    秋田  0
> 千葉  11   福島  4
> 茨木  4    宮城  2
> 栃木  8                                     
>
> 域平均 11.3  平均  2.0   平均  11.0  
>




>・「香川と岡山」の原因に続く。



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