青木氏氏 研究室
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  [No.307] Re:青木氏の分布と子孫力−3
     投稿者:takao   投稿日:2014/03/30(Sun) 08:20:33


>従って、「岡山の0」は讃岐地域に匹敵する地域ではあるが、パラメータが採れなかったし、10年間の間に「記帳」や「ルーツ掲示板」からデータが採れなかったのが不思議中の不思議であったが調査で判った。
>「瀬戸内」で「子孫拡大」が成された事から、岡山=香川とすると、上記の通り「岡山」は0から1に修正される。
>全国に分布する事からパラメータが、「三つの条件」で成り立ち、そこから「岡山」は2以上を超える事はなく、「瀬戸内」の中では「三つの条件」が同一である香川と同等と見込まれる。

青木氏の分布と子孫力−3


・「香川と岡山」の原因
そこで、これを根拠付ける為に、この原因には具体的な何かある事が考えられる。それを考察して観る。
その先ずは大きな原因の一つには、ここに定住移動した「讃岐青木氏」は、「瀬戸内の歴史」の上に出てくるくらいに大勢力を張り、”廻船などの商い”に従事していて、昭和20年までこの商いは盛大に行われていた。
その後、昭和の「戦後の混乱の影響」と、「大地主の地租改正」の「二つの影響」を受けて「廻船業」などが圧迫されて衰退させて、関東や北海道やブラジルなどへの移動定住を起こしている。
その証拠に、入植地の北海道のパラメータは何と11である。
そもそも、「北海道」は、鎌倉期までは「未開の蝦夷地」(下記)であった。
「秀郷流青木氏」は「陸奥広域」に大勢力を張ったが、ところが、この「北海道」には歴史の史実を観ると、「青木氏の定住地」ではなかった。
そもそも「陸奥の鎮守府将軍」までであったし、室町期末期まで永嶋氏が「陸奥広域」を支配していた事の勢力を以てすれば、北海道はその範疇に充分にあった。しかし、手を出さなかった。
その理由は、そもそも「賜姓族」の「古来からの戒律」で、平安初期(806年頃)には「陸奥広域」を征討した時には、「神明社」を建立したのに従って「皇族賜姓族の神職(信濃青木氏)」(神明社 20社 桓武天皇建立)を「陸奥広域」(平安初期の陸奥は福島までの広域)に配置した。
この北海道が改めて”「蝦夷の地」”(醜い族の地の意)として認定された為に、特別の理由を以って敢えて子孫を配置しなかった。

・「蝦夷地の考察」
(「蝦夷地」は正式には「1599年」にアイヌ族との間で行う正式な交易権を松前藩に与えた。
その前からは非公式でのものであったが、この後に2度の激しい戦いが起こりアイヌを追放した。
これを機に「松前藩」は家臣を正式に送り、「交易船」を仕立て各大名との交易を開始した。
「豪商」にも交易の権利を許し販売した。「家臣」にも独自に交易船を作らせてでも交易をする事を奨励許可した。この結果、急速に各藩も北海道に正式に「貿易拠点」を設けて家臣を配置した。
幕府は「松前藩」から上がるこの「交易権」と「独占権」の莫大な利益を享受した)
(「広域陸奥域」も平安初期は”「蝦夷の地」”として扱われていた。)

「子孫拡大」は、「三つの条件」のみならずパラメータとして表れるには、少なくとも「時代性」が必ず伴う。この「時代性」は、「賜姓族」としては「平安期末期」が「限界点」と見込まれる。
(青木氏は1025年頃から「二足の草鞋策」の「古代和紙の殖産と販売」の商いを正式に開始した。それまでは「税納の処分」の範囲の行為であった。大々的に総合商社産業としては100年後の1125年頃と成っている。)
それは「子孫拡大の慣習、仕来り、掟」の「厳しい戒律」が”自由なもの”でなかった事から、この「時代の限界点」を超えないと「青木氏のパラメータ」が2を超える事はない。
「皇族賜姓族」はこの「二つの限界点」の間で、「子孫力」「子孫拡大力」は著しく伸びた。

そもそも、「子孫」を「孫」或は「曾孫」にまでするには、「三つの条件」以外にある期間を必要とする。ある「限界点」があって突然に出来ると云うものではない。
当時の50歳を寿命とすると、当時は「皇族・賜姓族系」の族は男子15歳を以て成人し、「婚姻の対象」とする慣習であった。そして、女子はもっと早く「妊娠の条件」が整わなくても形式上の嫁入り(10歳程度 当時は妊娠条件は早期であった。子孫拡大は純潔性を重んじた為)をした。
中には記録から観ると7歳と云う者もいた。殆どは「純潔血制度の慣習」から「養女ー嫁の経過」を辿った。そうすると曾孫域までに達するには、約36年程度最速で掛かる。
仮に「ねずみ算」で観ると、子供4人として「2の二乗」で子孫は拡大して行くとして、「青木村」を形成できる範囲(4代ー1000人)では、4代か5代と成る。
しかし、「寿命50歳」は「ねずみ算」ではなかった事を意味するから、最低でも5代と成る。
5代世は最低で75年で最大でも90年と成る。

鎌倉期に頼朝が得た官職は、それまでの平安期の陸奥の「鎮守府将軍」から、鎌倉期の蝦夷地の「征夷大将軍」に切り替わった事の意味から、仮にこの時点から「青木氏」が移動定住したとしても1300年代に「青木村」が形成される事に成る。
しかし、この1300年代には北海道には、上記した様に、記録の経緯から観て非公式に未だ何れの「青木氏」も移動定住していない。

「許可制の定住移動」では何れの「青木氏」にとっては他氏に比べて「別の制約」があった。
イ 「皇族賜姓族」としての「慣習や仕来りや掟」などの戒律の制約
ロ 氏家制度の中で一族一門の了解の制約
ハ 守護神や菩提寺の保全の制約
ニ 御師、氏上様の社会的立場な制約
ホ 「二足の草鞋策」和紙殖産の制約

以上の様な制約があり、先ず「定住移動」、尚更、「入植移動」はあり得ない。
あるとするならば、ただ一つある。
それは、上記の制約が全て「廃棄」になった時にある。
これには、平安期のみならず江戸期までこの制約は続いたが、何れの時代にも「入植の定住移動」にはこの「制約の廃棄」が必要であった。
要するに、「皇族賜姓族」には少なくともこの「廃棄」はあり得ない事から不可能である。
上記した時代に「入植移動」を起こしたのは、「何らかの事由、事変」がお起こった事に依る移動であった。
「皇族賜姓族の青木氏」にはただ一つの許された公然とした要件があった。これ以外にはない。

それは次ぎの通りである。
A 皇祖神の子神祖先神の守護神の建立に伴う青木氏の神職
B 古代密教浄土宗の菩提寺住職
この二つに付いては”赴任による移動”と成る。

これには「最低条件」として「青木村」が形成されている事が必要条件である。
「皇族賜姓族」の「青木氏」が「イからホの制約」によって移動定住は出来ない訳であるから、「特別賜姓族」の「秀郷流青木氏」にはこの「制約」に強くは拘束されていなかった。
(但し、例外があった。それは「伊勢秀郷流青木氏」と「武蔵入間の宗家」であった。)
上記した様に、各地の「秀郷流青木氏」が定住移動し、「青木村」を形成した時に、AとBの「皇族賜姓族青木氏」は移動出来る事となる。
現実に「神職と住職」の「移動と定住」が起こっている。

例外がある。戦いに巻き込まれて各地に逃亡した「皇族賜姓族」即ち「制約の廃棄」が起こった「青木氏」には移動定住は可能である。
兎に角、逃亡先に「青木村」が形成された時点で、AとBの「皇族賜姓青木氏」が移動し、必要に応じて定住が許される事になる。自発的な「移動と定住」は矢張り認められていなかった。
特に、「特別賜姓族」の中でも、「伊勢秀郷流青木氏」と武蔵入間の「主要8氏の青木氏の本家筋」は「イからホの制約」に縛られていた。
何れにしても、116氏の宗家のみならず本家筋は「イからホの制約」から無理であったと考えられる。
この範囲外で「北海道の入植移動」は可能であった。「他氏の移動」とは違い大いに制約に縛られていた事に成る。

・「入植の時期の考察」
そこで、「室町末期」には「結城永嶋氏」が陸奥域に戻っていることから、秀郷一門の「護衛同行」を基本とする「青木氏」にとっては未だ北海道には定住移動していない事に成る。
そうすると、1575年から1590年代に未だ正式の定住移動はしていない。
この「秀郷一門の青木氏族」の「永嶋氏」は豊臣秀吉に依って「天正17年」に「陸奥の結城永嶋氏」は滅ぼされた。
(この時、「皇族賜姓族青木氏」と血縁もある「伊勢秀郷流青木氏」も禁令の戒律を反故にして「陸奥」に馳せ参じ定住しないで敗退して逃げ帰っている。)
この直後に「陸奥の青木氏」、特に「青森ー秋田の青木氏」は「生活の糧」を含む「三つの条件」を失った事から、逃亡先も含めて最短で日本中から「蝦夷の地」として敬遠されていた北海道に逃亡した。逃亡地としては「北海道蝦夷の地」が追手の事も含めて最適地であった。

筆者の持つ商業記録の一部からと、「讃岐青木氏」の江戸初期(1616年)の「太平洋周りの廻船の許可」が認可が下りている事からも考え合わせると、この「北海道」が出て来る時代は「慶長」の前後と成る。
「商業取引」と「廻船許可」はここに多くの人が移植した事を物語る。それでなくては経営が成り立たないし許可しない。
そうすると、1616年の少し前、1595年頃と範囲が限定されて来る。
北海道に、「青木村」を形成出来る程度としては、この1595年に90年を加算した1685年頃と限定される。好景気になった元禄文化の元禄年間前後と成る。
この元禄年間から100年間後には「享保の改革」が吉宗によって実行された。
この享保の時、「紀州藩の勘定方」を指導し、且つ、吉宗に同行して幕府の「享保の改革実行」(布衣着用を認められた勘定方:大名扱い 家臣ではなかった。青木六左衛門)を任された。
その「吉宗」を育てたのは「伊勢加納氏」と「伊勢青木氏」(主に経済面で後押しをした)である。
この時に江戸には「6家12流の青木氏」が存在している事が江戸の記録から読み取れる。
筆者のルーツは記録から伊勢から同行した6つの一つ「六左衛門ルーツ」(伊勢青木氏)と成っている。 12流もの青木氏が江戸に移動して定住している事は、この「蝦夷地」にも各大名の家臣などに成って赴任的にもかなり移動する理由があった事を物語る。

・「瀬戸内族の入植の考察」
「大蔵氏と塩飽族の資料」の中にもこの事が掛かれている。大型輸送を必要とする北海道の入植は、「海運」を主にしていた事からこの状況が一部に書き込まれていて、大蔵氏は「海産物の責任者」と「廻船の責任者」をそれぞれ一族の中で決めている。
「責任者」を決めるその必要性が特にあった事から決めた事であるから、この時頃に「交易拠点」を北海道に設けた事が明らかである。これは上記した「松前藩の資料」の中の文章と一致する。
この様に最も南の「九州の豪族」が決めている事から、全国の主だった豪族は競って交易に走った事を物語るものである。
「伊勢青木氏」は「二足の草鞋策」で「古代和紙の殖産」を通じて「総合商社の商い」をしていた事から、この北海道にも支店を設けていた筈で、出火でこの部分の詳細な記録は無いが、「千石船」を3艘持っていた事があって、それが「日本海周り」と「太平洋周り」に寄港していた事が判っていますので、「3艘の大船」をやり繰りして日本海と太平洋周りに廻す事などが起こっていた事を示す。
この時の記録から観て、「蝦夷地」には、「青木氏」は次ぎの様な経緯を経た事に成る。

「移動入植」1595ー「定住村」1685ー「活動期」1715と成る。

つまり、享保の時期1715年代には、各地の「青木氏」はその正式な「定住移動の根拠」を示しながらも、「賜姓族」としてはかなりの「自由度」で移動定住している事に成る。
言い換えれば、この「享保の状況」のこの「青木氏の移動活動」(幕府に質素倹約を進め財政再建として大船を使って交易利潤:「伊勢青木氏の大船」を使った可能性がある)から観て、逆算して1715年代の記録から90年を引くと、矢張り、上記の通り、「慶長期」と成る。

従って、「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」とは「商い」で深い長い親交があった事が商業記録で判っていて、その事から「瀬戸内族」の居る「岡山」もやや早いこの時期には可能に成っていた筈である。
(「伊勢青木氏」は「讃岐青木氏の要請」で「浅野藩取り潰し」(1703年)の際に「財産買取」に”3艘の大船を廻した”等が書かれている。「総合商社」を営んでいた事が理由で要請された。
弾薬や火薬も扱っていた。その13年後に「伊勢青木氏の主導」で「享保改革」を開始している。)

「移動入植」1590ー「定住村」1680ー「活動期」1710の経緯

上記の経緯を経て、日本の「初代の姓族」と成った「瀬戸内族の海部族や塩飽族」の「姓族」と共に移動定住した「讃岐青木氏」は瀬戸内から北海道に定住移動していた事に成る。

(青木氏主導の「享保改革」は、”「質素倹約」で「出」を抑え、「蝦夷地開拓」で「入り」を強化した政策)

・「北海道の11の吟味」
これが北海道の「パラメータは11」の中味である。
しかし、この「パラメータ11」では、この時期、つまり「慶長から享保の時代」の「入植定住と子孫拡大」だけではない事が判る。

この「北海道のパラメータ11」は「千葉の11」と一致する。
そもそも、「千葉」は、平安の古来より「藤原秀郷流青木氏」(朝光系)の定住地である。
ここは、「結城」を初めとして1000年以上の土地柄である。
上記の瀬戸内からの「入植定住の90年」とは訳が違う。
他の青木氏家からの入植定住があったとしても、「瀬戸内5県」からの「パラメータ7」とすると、残りの4を埋めるとすると、問題がある。
11−7=4は全国平均のパラメータである。バイアスとしては無視できない。
「他氏の青木家」の北海道に入植定住した「青木氏」は判っている。
その内容から観ても難しい。
つまり、「岡山」等の瀬戸内だけではこの経緯からでは、上記の計算から観ても11は得られない。

その前に、この「岡山」について吟味して観る必要がある。何かが観えて来る筈だ。
先ず「岡山」は、せいぜいパラメータは「全国平均の4」は超える事はなく、パラメータは1ー2程度と成る。
「全瀬戸内族の青木氏」として観ると、次ぎの様に成る。
「岡山1」と「香川2」と「広島2」と「島根1」と支店の「青森1」と「秋田」
これらを全部移したとしても、以上からパラメータは7/11程度と成る。

これは、他の地域から移動定住した「青木氏」が大きかった事を示すし、「ルーツ掲示板」でも明確に確認でき、且つ、筆者の家にも僅かに残る商業記録としてそれを物語る記録が遺されている。
それは、この「讃岐青木氏の廻船問屋」(総合商社であった)との関係である。
1 「廻船問屋」で「北海道産の海産物」の搬送と販売
2 「北海道と東北」から「太平洋周り」(外周り廻船)の「江戸向け」の「廻船の定期便の許可」
以上が「讃岐青木氏」に江戸初期に幕府から特別に認可されている史実がある。

「日本海周りの廻船」(内回り廻船)も平安期より持っていた事があって、その為に「岡山」から宍道湖の西寄りに平安期から定住地を認められていた。
これは「廻船による寄港地」として各港域に条件付きで定住が認められていた事を物語る。

(西には讃岐青木氏が、東には「足利氏系青木氏」が信濃から秀郷一門との争いで逃亡して「米子や八頭」に定住した賜姓族の「足利氏系青木氏」が存在して居て、それが宍道湖を境に東寄りに住み分けていた。)

・「讃岐青木氏の入植の吟味」
平安期から、”瀬戸内を制する者は国を制する”と云われ、それを「純友の乱」が物語るが、その後、衰退した「讃岐藤氏の青木氏」は、再び鎌倉期には、ここを制していた大蔵氏の勢力低下と同族の平氏の滅亡等により、再び、これを機に息を吹き返した。
再び、以前の支配下にあった「姓族」の初代と云われた「海部族」や「塩飽族」の「瀬戸内海族」をまとめて上げて「廻船問屋」を「2足の草鞋策」で再び勢力を盛り返した事が判っている。

(「海族」と「海賊」は異なる。明治期にはこの「海族」のこの「操船技術」が「日本海軍の操船技術」と成った。それだけに群を超えて優れている事を意味する。この「操船技術」を以って子孫拡大は進んだ。支配下にあった「海部族と塩飽族」等の「海族」も「姓族」として経済的にも一人立ち出来る様になった事が何よりの証拠である。)

この「讃岐青木氏と姓族の勢力」が、元々「蝦夷地の支店」として配置していたところに「讃岐藤氏一門の青木氏」が定住し、更に、戦後が上記した経緯の北海道に、衰退を防ぐ為に瀬戸内から定住移動をした事の2件が商業記録から読み取れる。

ただ、「香川の1」と「岡山の0」がその勢力に比してパラメータは余りにも低過ぎる。
これは、上記の北海道への「入植定住」が「個人単位」ではなく「一族の範囲の単位」で起こった事によるもので、現在のパラメータの数字は残った子孫が其処から拡大させたものであろう。


・「高松藩」と「弘前藩」の関係
それを物語るものがある。この記録の中には、次ぎの様な経緯が書かれている。
資料を取りまとめて観ると次ぎの様に成る。
「瀬戸内の本家」の「首魁」(頭領)が、「海部族」と「塩飽族」と共に「廻船の指導」を名目で、江戸時代に「弘前藩」から依頼されて、「江戸幕府」に特別に認められて移動定住している。
この「特別許可」とは、「弘前藩」の有名な「お家騒動」に関わりがある。

「弘前藩のお家騒動」(財政難と跡目問題が絡んだ数度の勢力争い)とは、積極的財政改革を主張する家老が、「讃岐の松平氏」(高松藩)に逃げ込んだ。幕府は当面この家老を罰する事で裁定を下し、「配流先」に高松藩を指定した。(内情は逃げ込んだ形)そして、「廃藩」にして幕府直轄の領地とする経緯を持っていた。
ところが、「高松藩」はより幕府に取って有利なシナリオを推奨し幕府を説得していた。
その間、「高松藩」は「讃岐藤氏の讃岐青木氏」とその「支配下の海族」に事前に話を通した。
その話とは、「瀬戸内の廻船業と海産物の販売」を「弘前藩」に指導させる事と、その事による利益の確保を幕府に収める事で「弘前藩の財政」を立て直し、「お家騒動の争い」を積極的財政改革を主張する一派に委ね、他派を排除し、納める事にして渋る幕府を納得させた。

そこで、「高松藩」は「讃岐青木氏」を説得し、「弘前藩」にこの「瀬戸内の廻船業と海産物の販売」の一切のノウハウとそのプラントの殖産を敷く事を任した。
この「瀬戸内の廻船業」を「弘前藩」に取り入れて「財政再建」を果たす事で立て直し、その事に依って得られた「利益」を幕府に献納金とし収める事で、お家騒動に決着を付けて「廃藩の憂き目」から生き延びた経緯があった。
(弘前藩はたびたび「お家騒動の事件」を起こしていた藩で有名)

この時、「高松藩の領主」(徳川氏)が乗り出したこの話は、瀬戸内に関係する族に取っては大変な事であった。
そこで、「讃岐青木氏」(香川と岡山)は一族の多く「弘前藩」に配置し、操船を担当する塩飽族は一族の本家の頭領を「4年の期間」を定めて「弘前藩」に配置しする事に成った。
この直前この頭領は倒れた。そこで、縁者から当主を迎えて「塩飽族の頭領」とした。
「海部族」もこれに倣って「海産物の殖産」を指導する事で主だった者を「弘前藩」に配置した。
「高松藩」との協議で4年を計画期間と定めて戻る事が決められていた。
ところが、4年経っても「塩飽族の頭領」等は帰らなかった。そこで、その頭領を廃嫡して新たに塩飽族の頭領を定めた。「海部族」も「讃岐青木氏」(香川と岡山から赴任した)でも同じ事が起こった。
恐らくは、資料の文章の言語の使い方が、”恣意的で敵対的な表現”が採られている事からある意味が出て来る。
端的に読み取れる「塩飽族の内容」を観ると、”廃嫡の言葉””絶縁””頭領に迎えてやったのに””待ったが遂に帰って来なかった””一族の危機的表現”と云う様な意味合いが書かれている。後で書き記したもので、跡目を引き継いだ者が、”一族の非常事態の不満”からこのような表現に成ったのではないかと観られる。
三者の資料を通して云える事は、恐らくは ”約束と違う 騙された”であったと観られる。
三者とも、”大きな打撃で、”相当な陣容”で取り組んだのに”一族存亡”であった事が判る。
幕府は、「幕府の財政的な窮地」を救える大きなこの「計画の利益確保 献納金」に重点を置いて、”4年で帰らすこと”は、”利益確保に支障を来す事”が懸念された為に帰還を一切許さなかった事が判る。「政治的な配慮」が読み取れる。
瀬戸内の現地では、その事の不満(子孫存続が危うくなる)を後世に遺す為にわざわざ書き残す事にしたのではないかと考えられる。
この様に”何らかの事変”が起こって帰れなくなったと観られる。
(幕府や為政者側からは”返さなかった”と成る。「高松藩」の幕府への斡旋 「莫大な利益」が幕府に入ることで「お家騒動」に決着 お家騒動を幕府は上手く利用した。)
この時の「瀬戸内から来た末裔」が青木氏等と共に、「職能集団の塩飽族」の一団が禁令にも関わらず特例を以って”現地に定住する事”も認められた。
”認められた”と云うよりは”定住を命じられた””帰る事を許さなかった。”が正しい。

・「松前藩」
この時の「讃岐青木氏」の末裔が、明治期に北海道に入植で定住した記録があるが、江戸期には「弘前藩」の事もあって優先的に入植を認めたし、明治期にもこの「海運業と廻船業と海鮮殖産」とによる改革に効果がある事を承知の上で、特に「瀬戸内族の入植」を幕府は推し進めた経緯である。
(「讃岐青木氏」と「伊勢青木氏」が裏で動いたと考えられる。)
筆者は、幕府が「弘前藩」に廻った瀬戸内族全員を蝦夷地にそっくり廻したと観ている。
「松前藩」にその特権を与えて置いて、それにこの「弘前藩の者と成った瀬戸内族」を今度は「松前藩」に廻したと観ている。
”「松前藩」の資料では、場所を限定して「交易権」を「家臣」にも与え「船」を作らした”と記載されている。これはおかしい。
本来は「松前藩」が「藩」として取り扱う所に意味があり、それでこそ「特権の利益を確保」が出来るものである。「黒印状」からも幕府は「松前藩」に与えていて付帯条件はない。

そもそも、「家臣」が「船」を作り「交易」をする行為は、最早、「家臣の力量」を遥かに超えてのもので「家臣」では無い。それだけの「家臣の財力」を超えた「力量」はそもそも簡単に持ち得る事は、家臣の仕事の中で出来得ないし、多くのノウハウを必要とするし、それが可能であれば「弘前藩」に対して行った”「高松藩の過酷な行政指導」は何だったのか”と云う事に成る。矛盾している。
況して、1万石の大名の家臣が1万石以上の家臣がある訳がない。
そのノウハウを持っている「瀬戸内族」を「家臣扱い」として、これに対して「場所請負制」をわざわざ敷いて場所を限定して交易を任したのである。
この「場所請負制」では「民間の商人」にもこの「割り当て」を行っている。「場所請負」はこの3種の場所限定で分けられていたのだ。
その証拠に「松前藩」が、”独自に行う交易場所”もあった。
松前藩の場所は「瀬戸内族の指導」を受けての交易であった事が判る。この様にすれば藩も直ぐに交易が出来切る体制が採り得る事と成る。

この「松前藩の経緯」は、1599年に家康から見いだされ「客臣」ー「寄合旗本」ー「享保4年」に「柳間1万石外様大名」、その後にこの「入植政策」が認められて「3万石大名」となった。
「享保4年」には「1万人の都市」と成った事で大名に任じられた。
(1万石は3万石に対して「後付格式」であった。)
(「享保改革」は「伊勢青木氏」が主導している。その享保4年である。「質素倹約の出と蝦夷地開拓の入りの政策」)

A 上記した様に、元禄時1703年の「讃岐青木氏」と「伊勢青木氏」の付き合い
B 17年後(享保4年 1720年)に「1万石の大名 1万人都市の入植」
C 1716年から「伊勢青木氏の享保の改革実行」

つまり、Aの事があって、Cの事があった。当然にAの付き合いの上で、Bの事が実行されたと観るのが妥当であろう。
要するに、「蝦夷地の入植開墾計画」は、「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」とが「幕府財政改革」の為に組んで主導した政策であった事が裏付けられる。
(「信濃青木氏」も「伊勢青木氏」とは「二足の草鞋策」を敷いて一心同体であった事から参画していた可能性がある。)
それは、享保に入ってからこの計画が両青木氏によって進められたのではなく、上記した様に、「讃岐青木氏」が”蝦夷地から外回りの廻船業”が江戸初期に認可された時期(1600年)には既に進められていた事に成る。
「松前藩」が家康から「蝦夷交易権の黒印状」を与えられた1599年と、「讃岐青木氏」の蝦夷地からの外回り廻船を認められた時期1600年はそもそも同じである。

・「弘前藩と松前藩の関係」
兎も角も、”家臣にも与えて船を作らした”というのは、幕府に対して申し開きが出来ない筈でありこれは「瀬戸内族」を「弘前藩」から「松前藩」に家臣として移した事を物語るものである。

(”廻した”、或は、”廻さなくてはならない”背景があった。「高松藩」から「お家立て直し」で藩を救われながら「弘前藩」は約束通りに「讃岐」に返さなかった事情から、この「弘前」に居た「瀬戸内族」への恩義から、「蝦夷地交易による利権」を彼らに与える為に「松前藩」と話し合い、「松前藩の家臣の身分」で「独占的な交易権」と「破格の特定の場所」までも用意して優先的に与えて約束保護の代償として優遇した。この時、「松前藩」は「弘前藩」から米の供給を受けていた恩義もあり、「弘前藩」の申し出を快く受けた事に成る。
しかし、これには、現実には家臣として特典を受けている事実は、この「弘前藩」に廻した「瀬戸内族」をそっくり「幕府の命令」で「松前藩」に預けたのではないだろうか。彼等を家臣として扱った事から、この表現に成ったと観ている。そうすればすべてが納得できる。
何故、「幕府の命令」とするかは、江戸初期からこの「瀬戸内族の首魁の讃岐青木氏」と平安期から親交のあった「伊勢青木氏主導の享保改革」の「商人としての江戸初期からの計画」が裏ではあって、この計画を実行する為に、「蝦夷地開墾の促進」から「伊勢青木氏」が徳川吉宗に働きかけて内々の「幕府の意向」を両藩に内示していたと考えられるからである。
(「伊勢青木氏」は「伊勢加納家」と共に「徳川吉宗の不遇の時の育ての親」である。)
幕府(伊勢青木氏主導の改革)に取ってみれば、江戸初期から関わって来た「蝦夷地入植開拓」である。「弘前藩の成功」を「松前藩」にもさせて成功させ、その「献納金」を獲得する戦術に出たのは当然の事ではないだろうか。(享保改革:質素倹約の出策、蝦夷地開墾の入策」)
これは、「蝦夷地の入植開拓」の”呼び水”と成る事を狙っていた事を意味する。
(「家康の黒印状」から丁度100年後に享保4年の「1万人の都市化」が成されている。)
みすみすこの様に、幕府自らの「成功体験」があるのに無視する事は、政治家として劣っているし、「享保改革主導の豪商伊勢青木氏」としても利用しなければ商人では無い。
100年前に家康が見込んで松前氏に蝦夷地開拓を任した事であって「当然の事」であったと考えられる。
現実に、各藩は上記した様に交易に走った事は判っているし、「豪商讃岐青木氏」と「豪商伊勢青木氏」も加わっていれば「近江商人」や「駿河商人」や「越前商人」など「各地の商人」も加わらない事は無い。
この背後には、この「瀬戸内族」と「弘前藩」と「松前藩」と「幕府」と「高松藩」が大きく関わっていたのである。(下記の状況証拠から伊勢青木氏も関わっていた)

・「青木氏の役割」
その証拠には、次ぎの事が確認できる。
「無石藩の松前藩」は「弘前藩」から「最初は1万石」(後付)の給付であった。「最終は3万石の藩」に成ったが、都市化に依って「最終は10万石」の「実質の藩力」を持っていた。
この為には、松前藩は無石藩である為に、「10万石の米の支給」が必要に成った。
そこで「弘前藩以外」(1万石)から補足分以上を「松前藩」は求めなくてはならなくなった。
ところが、その途中の「享保の時代」までには「5つの大飢饉」(1619、1642、1675、1680 1732)が起こった。この飢饉で「弘前藩」からも十分に入らなくなった。
しかし、飢饉時のみならず「松前藩」にはこの補足分が「大阪」から供給されているのである。
「米」は「幕府の統制下」にあるのに、「5大飢饉」の特に後ろ「享保前後の3つの飢饉」の時には”「大阪」から供給されている記録”がある。
(享保以後には1782年の天明飢饉、1833年の天保飢饉がある。)

これはそれだけに、”「蝦夷地開墾政策」が重視されていた政策”であった事を示すものではあるが、この「5大飢饉」の以後にも供給されているのである。それも”公然”とである。
そこから、これは「大阪からの供給」の事前了承の下で非公式に「幕府許可」を得て受けていた事になる。
これだけの事をやってのけられる人物、”誰が受けていたのか”と云う事に成る。
「飢饉」とその後の不足から「松前藩」だけに「10万石もの米」を供給する事は暴動が起こる。
現に各地で起こっている。それだけに幕府は公然とは出来ない。しかし、出来ている。
それも”大阪”と記録されている。その「10万石もの米」を何処から、それをどの様にして運ぶのか、そんな要するに「ヤミ米」を集められる人物は誰なのか、等の疑問が次ぎから次ぎへと湧いて来る。この大疑問を解決しなければ「蝦夷地開墾の実態」は見えない。
”これだけの事を何の問題もなく一人でやり遂げられ、且つ、咎められない人物は誰なのか”である。極めて条件が絞られるがそれは確実に居る。
それは”「伊勢青木氏」である”と観ている。

注釈
「伊勢青木氏」は伊勢松坂に2つの本拠点を置いて、愛知までの沿岸部周囲に4大店準拠点、「摂津」と「堺」に大船を停泊させる大店の4店舗の拠点、各地主要都市に産物を仕入れる支店を置いていた。三重県松阪市の2割程度は何らかの関係する土地で、隣の玉城市全域は伊勢青木氏の蔵群と青木氏に関わる全ての職人の長屋であった。享保年間では690年の「豪商の歴史」を持っていた。
日本でも「賜姓族の歴史」のみならず「豪商としての有数歴史」をも持っていた。確認できる範囲で大船3艘以上 小船100隻以上 大小店舗数100程度と成る。

問題はこれらを有効的に利用でき得る能力にある。
それは
1 「大商いを動かす政治力」
2 「大商いを護る防衛力」
3 「商情報を獲得する情報力」
以上のこの3つが必要絶対条件である。これ無くしては成し得ないであろう。

1に付いては、「伊勢青木氏」は、「特別賜姓族藤原秀郷流青木氏116氏」とは平安期からの同族関係にあり、親族の「伊勢秀郷流青木氏」を通じて116氏と繋がっていた。この「特別賜姓族」は、上記した様に、江戸期には大名では無かったが「幕府高級官僚の地位」を多く確保し、この「横の関係」に依って「計り知れない政治的な力」を生み出されていた。
「伊勢青木氏」自らも「紀州藩」とは代々「財政の勘定方」を指導すると云う立場にあり、「紀州藩」を通じての「横の関係の政治力」を最大に保持していた。
上記する様に、「享保時代」では自らが「布衣着用」で「徳川吉宗」を補佐して「享保の改革」を主導した立場もあり、「政治力」はある歴史家の単行本の言葉を引用すれば「豪商の頂点」の位置に居た。
(「布衣着用」:幕臣では無かった事から大大名の地位を持ち将軍に拝謁して意見を述べられる立場 と合わせて、形式上「皇族賜姓族」としては将軍以上の「永代身分」を持っていた。)

2に付いては、「商交渉」は元より「交易品の搬送」の安全が無ければ「大型の搬送」は陸海ともに不可能である。先ずここまでは持ち得ている豪商はまず無い。
1の特別賜姓族の「横の関係」の24地域の「軍事力」を利用すればほぼ可能であるが、伊勢青木氏自らも織田信長の2万の軍を撃破する程の強力な「伊勢シンジケート」を保有している。
これが、「陸海の郵送の安全」を守る事が出来る。
先ず、「縦横の関係」でこれだけの「防衛力」を保持していた豪商は調べた範囲では無い。

3に付いては、1の官僚機構を伴う「横の関係」と、全国500社に及ぶ「守護神 神明社」の組織を使えば、頂点から末端の情報まで早期に掴む事が出来る。
この「情報力」を使って1の「政治力」をも補完出来る。この「情報力」と「政治力」と「防衛力」は相互に連携させれば「相乗的な補完関係」をより大きく生み出す。

ここで、言い方を変えれば「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」の事は「海に面している青木氏」には成っているが、「信濃青木氏」は「陸の青木氏」であるから、その意味で商いと云う面では信濃と云えば「陸の特典」を活かした商いを補完していたのではないかと考えている。
況や、「農産物」の殖産と販売の面で「伊勢青木氏」の足りない面を補っていた関係にあった事から、「一心同体の関係」であったと観ている。
例えば、今回の「1万石の米」と成ると、全国各地から余剰米を集めて来る事に成ったとしても「伊勢青木氏」や「讃岐青木氏」は確かに「穀倉地帯」ではあるが、「穀倉地帯」であるが故に「余剰米」は生活圏としての必要性から出難い。
「米、海産物、農産物」が揃っている地域では、結局は金銭での交渉と成り、集まらないし集めすぎると問題が起こる事が欠点と成るが、しかし、「信濃青木氏」では、上記123の力を使って、「周囲の穀倉地帯」からも「余剰米」を海の「代替品」と交換して集めれば必需品として集め易いし、問題も無く、「問題の10万石」は何とか成り得る。
飢饉などの時にも「暴動の対象」とは成り難く悪評と成り難い。
「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」が集めた「余剰米」に合わせて、それを上記123を使って「堺や摂津の拠点」の「大阪」に集めれば全ての面で安全に「松前藩」に搬送できる。

この様な事は「金銭の売買」だけでの獲得では無く、「信濃青木氏」と「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」との連携での、多少の金銭の兌換があったとしても、主に「陸海の産物の交換」で可能と成るのは「全国数多の豪商」があるとは言え「青木氏」にしか出来得ない事である。

関西在住の歴史家で歴史脚本家で、且つ、「青木氏の事」をよく研究している有名な人の言を捉えれば、「江戸期の豪商の頂点」にあるとして、どのように評価基準であるかはわからないが、「紀伊国屋文左衛門」の類では無いと評価している。筆者もルーツではあるが客観的にも同感で先ず無かったのでは無いかと観ている。色々研究過程で各地の「豪商の記録」に遭遇するが、これだけの「総合力」と「高いレベル」のものは未だ見つけられない。

・「松前藩の10万石問題」
この「松前藩の10万石供給」は、「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」と「信濃青木氏」の連携以外に無いと観ている。
つまり、「蝦夷地の開墾」即ち「入植定住」は「青木氏の行為」が根幹に関わっていた事を物語る。
「北海道の11パラメータ」の説明はこの経緯で可能と成る。

各地の大名としても交易する以上は、これらの「瀬戸内族や青木氏への特典」も”蝦夷地開墾の幕府の政策方針”として承知しこれに従っていた筈である。
(殆どの大藩の譜代大名の記録から観ると、蝦夷地に交易の為に場所を確保し家臣を送っている。)
従って、ここで幕府の政策上、「松前藩」を飢饉で潰す訳にはいかなかった事を意味するから、「暗黙の了解」として、むしろ”影では後押しして ”特に享保期には、「政治力」は当然に「青木氏」には充分にあったが、「松前藩の10万石供給」は飢饉外であったとしても「暗黙の了解」をしていたと考えられる。
ところが、この「暗黙の了解」の裏には次の様な法的な「米に関する取り締まり令」があったのである。
「享保改革」には「買米令」と云うものがあって、大名と堺を含む大阪商人等に限定して「168人」に対して「合計60万石」を限界として「米を買い上げる義務」を与えていたが、この「義務」に対して「蔵屋敷米の売却禁止」を課せている。
更に大名に対して「上米令」を発して1万石に対して100石を返納させて「米を確保する」法を発して極力「闇米」を抑え込んだ。 何れも「米価高値安定政策」である。
更には、米の動きを抑え高値安定化の為に「廻米の禁令」を発し江戸と難波に「米」を廻す事を禁止している。
「堺」と「摂津」に大店を構え「蔵屋敷」を持っていた「伊勢青木氏」もこの168人のトップクラスの中にあり例外では無かった。(この168人は大名を含む大阪に蔵屋敷や店を構える人数で、大名と豪商は大阪に集中して蔵店を持っていた。)

「伊勢青木氏」は、この「米に関する取り締まり令」の中での「松前藩の10万石供給」であった。
普通では、「事前了解」が無ければ「法治外行為」であるし、「幕府の改革の主導者」である者がこの行為は反逆行為と成る。
しかし、「社会からの暗黙の了解」で実行されている。

そこで、果たして、「10万石」なのかを吟味して観る。
「享保4年」で「1万人人口」として考察すると、武士階級で、当時4−6人の家族と2人の雇人での生活費200石(金銭に兌換)程度とされていたとすると、米100石必要であり、1250世帯とすると、「12万5000石程度」が市場には必要と計算上で出て来る。
全て武士では無いのでその分を割愛すると10万石程度と成ろう。記録の10万石は妥当である。
この時、松前藩は、幕府から無石藩ではあるが、「3万石」と認定されて1万石から「3万石大名」に格上げされた。(正式には「1万石」は「後付格付け」である。)
実態は蝦夷地松前には正味10万石が供給されていた。
そもそも「大名の石高」は「米高」に兌換してのもので、他の産物の取れ高を米に兌換して表現して格式を決めていた。「蝦夷地の松前」は「無石藩」であるので「産物の交易額」を「石高」に表現して急遽に格式を決めた経緯である。従って、この吟味の10万石は実質の必要な米料である。
従って、「蝦夷地開拓政策」を成功させるには、「3万石」では無く「正味10万石の影の供給」が確実に必要であった。
しかし、「上記の法令」で縛られている。「蝦夷地開拓政策」とは確実に矛盾している。
この勘定方として自ら進めた「厳しい法令」を護らなくてはならないし、「蝦夷地開拓政策」を遂行しなければならないし、「享保の改革の主導役」の立場もあるし、蔭で「10万石を調達」をしなければならないし、「焼き討ちや暴動」も配慮しなければならないし、下手をすれば反対派から「密告されること」も覚悟しておかなければならないし、上記した「5つの飢饉」の中でも絶対に実行しなければならない苦しい仕事であった。

「子孫力」と云う事から考えると、最も注意しなければならない事は、下手をすれば、”飢饉の中での儲けの買い占め”として庶民から”蔵打ちこわしの暴動”を受けていた事も考えられる。しかし無かった。社会全体が「暗黙の了解」の中にあった事と成る。
(飢饉時には多くの商人は大小この攻撃を受けた。)
これはまさに”世に晒す事無かれ”の「生き様の訓戒」の表れで、だからその「悠久の姿勢」から ”「青木氏」はそのような事をしない”とする「信頼の遡上」が出来上がっていた。
「御師様 氏上様」の尊称が在った様に、これは「青木氏の子孫力」を大いに高めさせたものであった。

・「享保の改革」と「蝦夷地入植」
重要な注釈として、「松前氏」は1599年に家康に見込まれてより「蝦夷地の交易の特典」を受け、その結果100年後の「享保4年」には、「3万石の大名」と成り、何と「1万人の大都市」と成ったが、この時は「吉宗の享保の改革」で「伊勢青木氏」が「吉宗の勘定方」として「青木六左衛門」が「財政政策の顧問」を行っていた時期でもある。
「享保改革」を主導した「伊勢青木氏」から観た事の「六左衛門手記の資料」によると、「享保改革」では ”「質素倹約」で「出」を抑え、「蝦夷地開拓」で「入」を高める政策の財政改革”であったとの主意が記されていて これに対して御三家の一部からは猛烈に反対を受けたとある。
これに対して「改革理論の効果」を証明する為に「紀州藩の財政改革」も「伊勢青木氏」が「紀州勘定方」を同時に指導して行ってこれを証明したとある。
この結果から考察すると、この同時期に反対していた尾張藩主は蟄居させられている経緯があった。
この様に現実に極めて危険な状況に陥っていたのである。
徳川吉宗と伊勢青木氏は懸命に成って対抗した事が判る。
「享保改革」は「三大改革」と呼ばれ他に多くの改革があるが、「青木氏は財政改革」の面の勘定方を主軸に担当していた事がこの手記から読み取れる。
特に商人として参画した経緯から「米ー財政」に重点を置いていた事が判る。
(安土桃山時代は1603年で終り、1614年で江戸時代に入る。この期間は徳川家康に実権が移っていた。)
まさに、享保期までの「蝦夷地開拓」は「青木氏の政策指導」(質素倹約の中での政策として「蝦夷地開拓」での献納金で幕府財政立直策)であった事に成る。
上記した様に、「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」は、古来より深い親交があった事から上記した事が起こっていたと考えている。
つまり、この一連の「瀬戸内族」の「入植政策」では、状況証拠から「両青木氏」の「裏での合意」があったのではないだろうか。
この「裏での合意」が無ければ「瀬戸内族の一族」ごっそりこの「弘前から松前」(旧蝦夷地)までの「蝦夷地入植計画」に注ぎ込んでいる事はない。
先ずこの計画を進められるには「普通の豪商」では成し得ない。「総合力」を持ち得ている「特別な豪商」でなくては成し得ない事である。
仮に「讃岐青木氏」に不足するところがあるとするならば「伊勢青木氏」がこれを補填する事が出来る。
この”悠久な歴史を持つ二つの特別な豪商”があってこそ「蝦夷地入植と開墾の計画」は進む事はなかったと考えられる。故に、幕府はその「進行具合」を観つつ、100年後の「享保の改革」で直接、「伊勢青木氏」を幕政に取り込み、この計画を成功裏に収めようとしたのである。
結果として、「幕府財政の改善」が可能であると考えていたのである。




> > [地域別分布力]
> > 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
> > 全国平均(全国単位 % 表ー1)
> > 地域      異変の県        分布力
> > 九州地方   長崎、大分       5%
> > 四国地方   高知          2.5% 
> > 中国地方   山口、岡山      2.5%
> > 関西地方   三重(筆者ルーツ) 14%
> > 東北地方   秋田           7%
> > 中部地方                15%
> > 関東地方                45%
> > 北海道・沖縄               6%
> > その他                   3%
> >
> > 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
> > 九州地方  1.3
> > 四国地方  1.3
> > 中国地方  1.3
> > 関西地方  4.7
> > 中部地方  4.3
> > 関東地方  11.3
> > 東北地方  2.0
> > その他   11.0
> >
> > 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
> >
> > 修正地域(表ー3)
> > 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1−7 三重 12 福井 4 愛知 13−7
> > 秋田 1
> >
> > 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
> > 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
> > 福岡  2   山口  0   愛媛  3     兵庫  3    三重  1
> > 長崎  0     島根  2   香川  1     大阪  14   石川  2
> > 佐賀  1     広島  3   高知  0     京都  5    福井  1
> > 大分  0     岡山  0   徳島  1     奈良  1    岐阜  3
> > 熊本  4                        和歌山 4    愛知  13   
> > 宮崎  2                        滋賀  1    長野  9
> > 鹿児島 1                                  山梨  1
> >
> > 域平均 1.25 平均  1.25  平均  1.25  平均  4.7  平均  4.3        
> >
> > 関東地方(45%)東北北陸地方(7%)沖縄、北海道地方(17.5%)
> > 静岡  5    青森  1     沖縄  1
> > 神奈川 21   山形  2     北海道 11
> > 東京  18    岩手  1
> > 埼玉  17    新潟  4
> > 群馬  6    秋田  0
> > 千葉  11   福島  4
> > 茨木  4    宮城  2
> > 栃木  8                                     
> >
> > 域平均 11.3  平均  2.0   平均  11.0  
> >

青木氏の分布と子孫力−4に続く。



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