青木氏氏 研究室
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  [No.308] Re:青木氏の分布と子孫力−4
     投稿者:takao   投稿日:2014/04/06(Sun) 07:51:53

>特に商人として参画した経緯から「米ー財政」に重点を置いていた事が判る。
>(安土桃山時代は1603年で終り、1614年で江戸時代に入る。この期間は徳川家康に実権が移っていた。)
>まさに、享保期までの「蝦夷地開拓」は「青木氏の政策指導」(質素倹約の中での政策として「蝦夷地開拓」での献納金で幕府財政立直策)であった事に成る。
>上記した様に、「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」は、古来より深い親交があった事から上記した事が起こっていたと考えている。.
>つまり、この一連の「瀬戸内族」の「入植政策」では、状況証拠から「両青木氏」の「裏での合意」があったのではないだろうか。
>この「裏での合意」が無ければ「瀬戸内族の一族」ごっそりこの「弘前から松前」(旧蝦夷地)までの「蝦夷地入植計画」に注ぎ込んでいる事はない。
>先ずこの計画を進められるには「普通の豪商」では成し得ない。「総合力」を持ち得ている「特別な豪商」でなくては成し得ない事である。
>仮に「讃岐青木氏」に不足するところがあるとするならば「伊勢青木氏」がこれを補填する事が出来る。
>この”悠久な歴史を持つ二つの特別な豪商”があってこそ「蝦夷地入植と開墾の計画」は進む事はなかったと考えられる。故に、幕府はその「進行具合」を観つつ、100年後の「享保の改革」で直接、「伊勢青木氏」を幕政に取り込み、この計画を成功裏に収めようとしたのである。
>結果として、「幕府財政の改善」が可能であると考えていたのである。





青木氏の分布と子孫力−4



・「青木氏ー吉宗」の関係
実は、”吉宗が将軍に成った経緯”の中にこの事が隠されている。
そもそも、徳川宗家外の御三家の紀州藩の吉宗が将軍に成り得る立場に本来は無かった。
ところが、全く逆に「御三家」でも将軍に成り得る全ての条件が揃っていた尾張藩の第6代藩主の「継友」が成る予定であった。
この部屋住みの身分にあった「継友」は優秀で節約家で経済観念の特別に強いものがあった。
それを将軍からも信頼されていて、次期将軍に適材であるとして指名されていた程の人物であった。
「紀州藩の吉宗」は2人の兄が居た。兄は公家の血筋、吉宗は湯殿女との間に出来た子供で「紀州巨勢族」の血筋であった。

(巨勢とは、飛鳥期のヤマト政権を支えた5大豪族の一つで紀族、葛城族、平群族等と共に「巨勢族」があった。その末裔)

吉宗は幼少の頃はその血筋から排斥されて紀州藩の飛地領の伊勢に密かに匿われた。
この時、お付き番として下級家臣であった加納氏を吉宗に付けられ養子の様にして預けられた。
この時、紀州藩主より密かに依頼されて「伊勢青木氏」は一切の経済的な事を含めて加納氏と共に親代わりに成って育てた。
この時、伊勢青木氏の息子の「六左衛門」は「吉宗の稚友」と成って育てられた。
経済的に低かった「加納氏」は、吉宗を一人前に育てる為に経済的な自立を目指し、この時、「二足の草鞋策」を青木氏から手解きを受けて「加納屋」を開いた。

「伊勢青木氏」と「加納氏」は明治35年までの200年間に数度の血縁関係を持った。
(直近では筆者の曾祖母も伊勢加納氏)
飢饉続きの「藩財政悪化」の中で「紀州藩主世継ぎ問題」で藩内が荒れたが、二人の兄にはこの見識と後見人の背後は無かった。
「伊勢青木氏の経済の見識と財政力」を以てする「藩財政立て直し派」が有利を納め、「伊勢青木氏」が後見人と成って不遇の吉宗を藩主に押し上げた。
「吉宗の紀州藩」は、「伊勢青木氏」の指導の下、「財政改革」を押し進め藩財政が改善に向かっていた。
この時、幕府でも「世継ぎ問題」と、上記した「4度の飢饉」と、「幕臣のマンネリ化」で幕政が乱れ、「幕府財政立て直し」の問題が急務として出ていた。

その中で殆ど将軍としては尾張藩(継友)と決まっていた。
ところが、この「世継ぎ問題」が、「幕政建て直し」と「幕府財政改革」に対して考え方に切り替わってしまったのである。

”この二つの問題解決には誰が適任なのか”と云う経緯に成ってしまったのである。
(伊勢青木氏等に依って、「経済学の教育」を受けていた「極めて優秀な吉宗」を将軍にして改革実行を推進させる様に、裏で「世継ぎ問題」を「幕政改革問題」に「切替える戦略」を展開した)

その結果、「尾張藩の考え方」と「紀州藩の考え方」とが異なり真っ向から対立した。
確かに何れの藩も藩内は「財政改革」が進んでいて自信があった。
その考え方をまとめると次ぎの様であった。

尾張藩は「緊縮蓄積財政派」ー蓄積で消費を抑え経済を安定化させ、蓄積収入増を図り民間投資を呼び込み進める方式
                    財政を安定維持する方式
                   「デフレ政策」ー江戸豪商越後屋の「三井家」

紀州藩は「均衡財政改革派」ー質素倹約で消費を抑え財源改革で収入増加を図り収支差を最大に高める方式
                   物米貨等を管理統制する方式
                   「リフレ政策」ー伊勢豪商紙屋の「青木家」

紀州藩が説いた「財源改革」とは、”「3価政策」”と呼ばれる政策で、「物価、米価、貨価」の安定策に「殖産政策と新田開発」を連動させる改革案であった。
         
これは「伊勢青木氏」の平安期から採って来た「商法」で、「殖産を中心とする農政政策」と交易を連動させる商法でもあった。

(実は、「吉宗」は「紙屋長兵衛の商売」の現場に来て「六左衛門」と共に働いていたと記録されているので、そこで得た「実践経験論」を持っていたのである。)

俗説では、「天英院」が「紀州藩の吉宗」を感情的に推奨して決まったと成っているが、実際は「幕府財政改革」の争いであって、その背後には、「江戸の三井家」と「伊勢の青木家」が「経済力」を背景に論陣を張っていたのである。
そもそも、この「天英院説」は、紀州藩の「均衡財政改革」が自分たちに都合が良く、専門的な教育を受けていて「不遇から身を起こした優秀な吉宗」に感情的信頼を置いた結果、推奨した事が将軍に成ったとする説であるが、内容をよく調べない愚説である。


・「伊勢青木氏と徳川家康の関係」
ところが、この論戦のその「勝負の基」は江戸初期に遡るのである。
実は、「伊勢青木氏」と「徳川家康」との「最初の出会い」は「関ヶ原の戦い」の時にあった。

(但し、信長の「三つの伊勢攻め」の一つ「丸山城の戦い」で「伊勢青木氏」が勝利した事は有名で、岐阜城での信長烈火の叱責で「信雄蟄居の事件」でも「家康」もその場に同座していて知っている。
又、「伊勢伊賀の戦い」で名張城から突然に側面を付いて信長軍を一時敗走させた事件も知っているし、「伊勢長嶋の戦い」でも「山岳部ゲリラ戦」で食糧調達を混乱させた事も知っている。
依って、この「3つの事」から「青木氏の印象」(影の力)は「家康」に事前にあった事が判る。)

「家康」は大阪に攻込む為に江戸の秀忠の本陣を名古屋城で待った。
大阪に攻込む為には「伊勢路−大阪路」(旧国道ー「畿内道」)を通らなくてはならないが、「畿内道の確保」が出来ていなかった。
そこで、困った家康は、この「」畿内道の確保」」の為に「伊勢青木氏」に合力する様に話を持ち込んだのである。
「伊勢青木氏」が「3つの発祥源」として「賜姓族の戒律」と「不入不倫の権」の「3つ立場」からも、この「関ヶ原の戦い」に合力する事は無い事は家康は充分に承知していた。
そもそも、「有形の軍」を持たないこの「伊勢青木氏」に対しての ”敢えての家康の「合力要請」”である。
家康は、既に、織田軍の傘下にあって観ていた経験から、「信長の伊勢攻めの戦い」で上記した様に「伊勢青木氏の実力」をよく知っていた。
つまり、「伊勢ー信濃シンジケート」と「青木氏と連携している瀬戸内族」との「連携勢力」を知っていたのである。
”敢えて”である以上、これを暗に敵にする事は今後の意味で得策ではないと考えた事になる。
この時、「家康の申し出」に対し3日で「250の要員配置」と「伊勢ー信濃シンジケート」と「瀬戸内族への連絡」を取って「伊勢路の安全」に合力する事に応じたと記録されている。
この時も「家康」と「伊勢青木氏」は名古屋で「合力要請」で面会している。
この中で「讃岐青木氏」への「家康の期待」は、最悪の場合は、海路で抜け出す手立てと、勝利した場合には「毛利水軍に対する圧力」をと考えていたと観られる。

もう一つは、天下に名高い「毛利水軍」に対して、その勢力を「讃岐青木氏」を味方に引き入れる事で壁にして削いだと観られる。
(「瀬戸内族」と「毛利水軍の村上水軍」は元は同じ海部族と塩飽族から成っている。)
「毛利水軍の動き」を防いで置かないと堺や河内や紀州の湾から上陸して背後に廻割られると戦略上四面楚歌を招く事と成り拙い。
その為にも、「海の守壁として讃岐青木氏」(壁)、「上陸時の背後の陸の守り」(シンジケート)と「海陸の情報収集力」を整える必要が家康にはあった。
特に「家康の守備軍」に対して「側面と背後」を護る必要があったのである。
それと「畿内道のシンジケートによる掃討作戦」を期待した。
これは「畿内道の戦略」であったが、もう一つ「伊勢路ー大阪路」の「伊勢路の護り」は畿内道の進軍中に「紀州九度山付近」から「真田軍」が側面を突かれる事は充分にあった。
「軍事的防御」と云うよりは、「真田軍の動きの情報収集」と「シンジケートの攪乱作戦」を目的としていた。

現実に、この意味を持った「合力要請」は青木氏等に依って完全に実行された。(しかし、正面は不用意であった。)
この結果、”戦後、「家康」から讃岐ー紀州ー伊勢ー奈良ー信濃一帯の「一切安堵」(権利保全)を得た”と記されている。
この地域の「環境保全」と「権利保全」をして置いて安定させ、その中心に速やかに「御三家の紀州徳川藩」を置いた意味は良く判る。

大阪の堺などで得た事前知識で、この「一帯一連の環境」を「将来の戦略上の計画」で保全したかったのであろう。
この時、「3つの青木氏」等が主張する「3価政策と新地開拓と殖産開拓」の論を聞いていて、開幕後に、その最大のプロジェクトの「蝦夷地開拓」を進める為にも、この「政策の中心」をこの地域に置きたかったと判断される。
故に、ここに「御三家」を置き、家康自身で駿府で育てた最も信頼していた「優秀な頼宣」に、この計画実行を託した。
家康没後3年、「秀忠」は この「遺訓・遺命」を実行する為に、わざわざ「紀州浅野家」を転付させて、そこに「紀州藩」(1619年)を置いて初代藩主としたのである。


注釈
(紀州に定めた理由は、「瀬戸内族」と「伊勢青木氏」と「商い大阪」の地の中間の地域、伊勢は皇祖神の神聖の地で、為政地に不適切な地であり、計画実行の後ろ盾と成る「伊勢青木氏」の地を「保全安堵の約束地」、大阪は「商いの地」の専用の地域として作り上げる為に為政地に不向きの地、瀬戸内は海路の地であり要衝地として不適切、この中間に位置させる事で計画は可能と家康は判断して遺命として秀忠に遺訓したのである。その人物を”10男の頼宣”に託し、わざわざ水戸藩主から外して自ら駿府に連れて来て育てて計画実行するに値する人物に育て上げた。「遺訓・遺命」として秀忠に引き渡したのである。)

注釈
(”頼宣”は家康から託された「遺訓・遺命実現」の為に、紀州では多くの改革を次ぎから次ぎへと実行して善政を敷いた藩主として有名で、優秀な家臣を育てたとしても有名である。 
その為に ”名声を奪われた”として家光に妬まれ疎まれ、遂には”謀反を企てた”として10年間も紀州に帰れなくなった経緯を持つ。
その有名さは、「頼宣」が「紀州の領民」から「最高の藩主」として崇められ、「伊勢菩提寺」のみならず、紀州には「頼宣単独の菩提寺」が建立され現在も祭祀されている程であり、この事は江戸にも聞こえていた筈である。
「駿府」から「紀州」に、秀忠による「遺命の転封」も、家光は「将軍」に在位した後に、”頼宣をも自由に出来る”として、「10年間謀反嫌疑」は「家光の威光の誇示」と史実、家光自身が発言しているのだ。
家康に可愛がられ信頼され「家康の遺訓」を直接受けていた”頼宣”を許さなかった。
「将軍家光の威光」を誇示するのであれば、「御三家」から外し、適当な理由を付けて紀州には配置しないで他藩遠東に転封する事が出来る筈である。
現実にもっと厳しい頼宣の命に係わる「謀反嫌疑」を掛けている。
其れに依って「頼宣」が無くなれば託された周囲家臣が承知していた「神君の家康遺訓・遺命」が消滅して、自らも”遺命を無視した”として「将軍位」どころか命さえ危なかった筈である。
だから、腹いせに「謀反嫌疑」を掛けて置いていながら「有名無実の形」を採ったのである。
それが出来ずに、むしろ「紀州栄転」をさせていなければならない「御三家と計画実行」の「家康遺訓・遺命」への嫉妬である。
それを実行できる「頼宣の優秀さ」にも嫉妬したのである。
要するに、この「紀州藩転封」は「家康の計画実行の夢」の「家康遺訓・遺命」であったから出来なかったのである。)

注釈
(藩主に成る前に浅野家の内情、紀州藩の領民の不満、政治経済軍事の面、等の綿密な事前調査、城改築建設などの問題でも良く聞きよく調べて即断し、「優秀有能多才」をモデルにする様な人物で、温和でよく頭の廻る権威を振り回さない人物であった事が青木氏に伝わっている。
「青木氏の口伝」には多く伝わっているが、紀州地元でも、領民の治水や地形や農政の要望をよく聞き優秀な家臣を差し向けて解決した藩主であった事が云い伝えとして伝わっている。紀州にある「頼宣菩提寺」もその一つの表れであろうことが判るし、その地域では多くの藩士が残っている。形式的な言い伝えでは無く、頼宣が自ら指導した堀や堤防や開墾地や産物等の形として遺されている。
この「頼宣の姿勢」が「孫の吉宗」に引き継がれ、将軍の時に汚職捜査や事故飢饉の現場指揮を直接の現場で行った等の記録がある。
祖父の性格を継いで徹底した「現場指揮主義」であった。)

(家康駿府隠居 1616年没 頼宣1602年生 2歳水戸藩主 4歳駿府藩主 17歳紀州藩主 家光1623年着位)


・「家康と青木氏の関係」
更には、「家康との関係」は、次ぎの時にも起こった。
「幕府樹立」に対して「征夷大将軍の称号」(1603年)を獲得する時、「賜姓源氏の棟梁」(「武家の棟梁」か「賜姓族宗家」の「称号」)か、「正二位以上の官位」”が「故事の慣例」に従い必要であった。
この時の「朝廷と天皇」は、徳川氏がこの「二つの地位」を取得するに「適合する氏」では無い事で、”先例を破る事が出来ない”としてこの「二つの授与」を渋った。
この何れかを獲得しなければ「征夷大将軍」には成れず、権威ある幕府は開けず、頼朝以後の「賜姓武家源氏」では無く、只の源氏(摂家源氏・公家源氏とも云う)の鎌倉幕府の様に「執権」となる。
そこで、窮地に陥った「家康」は、室町末期の南北朝の皇室の中から、「南北朝の乱れ」を利用して「第16代の源氏」を強引に作り出した。
”故事に従って引っ張り出した者の末裔である” と主張して、朝廷に対して圧力をかけた。
その「搾取ストリー」とは、その皇子が比叡山門跡僧から下族して三河に流れ着いて松平家に逗留して子供生まれたとして、本来の「賜姓武家源氏」では無い「源氏」だと勝手に搾取して名乗った。
「朝廷と天皇」は搾取である事を承知していて更に拒んだ。

注釈
(況して「摂家源氏」では”「征夷大将軍」”にはなれない。ところが、その前は家康は、秀吉による「関東転封」後、秀郷一門を配下にした事から「藤原氏の朝臣」を名乗っていた。
しかし、突然に「秀吉」が家柄をよく見せる為に搾取偏纂で、「賜姓藤原氏朝臣」を名乗ったので、今度は「源氏」を上記の様に名乗ったのである。
そもそも「姓族の松平氏」は、「源氏」では誰が観ても明確な搾取である。
(長は賜姓平氏を名乗った事は納得できる。)

しかし、賜姓であろうが無かろうが、「源氏」は既に11代の「花山源氏」で終わっている。
既に、室町期末期まで残った唯一の「村上源氏」の支流族の「北畠氏」も、信長等の「権威族の掃討作戦」で完全に滅亡している史実があった。
(信雄を強引に北畠跡目に入れて最後に城内内部で皆殺しで潰した)
この「搾取の源氏」を持ち出して認めさせようとしたが、「朝廷と天皇」は認めなかった。
結局、各地にある「天領地接収」等の「経済封鎖」を受けながらも、「朝廷と天皇」の「朝廷の粘り強い抵抗」でこの二つは受け入れられなかった。

注釈
(「天領地接収」の主な地は全て「皇族賜姓族の5地」に関わる地であるが、「伊勢」と「信濃」と「甲斐」を「徳川氏直轄の地」とした。
この為に、「天領地」の本来の意味は、「天皇家直轄地」であるが、この全てを「徳川氏直轄地」とした為に、「天領地」とは「徳川氏の直轄地」の意味と成ってしまっていて、文献でも間違って使っている。
この間違いはこの時の事変が原因で間違われてしまった。)
(その結果、宮廷は塀も壁も家もボロボロで生活は困窮していたと記されている)

・「二つの故事」
そこで、見兼ねたこの接収地に住んでいる「皇族賜姓族」一統流の末裔の「伊勢ー信濃の青木氏」が商業記録から読み取れるが裏で援助工作をした模様である。
(資料文意から「秀郷流青木氏等」の「両賜姓族」も加わった形跡がある)
「朝廷への援助」を裏で行いながら、徳川氏とは裏で「調停工作」をした模様である。
(家康に遠慮してか明確には記述していないが文意の流れで理解できる。)
そこで、”「棟梁」”では無く、「青木氏等」が持つ ”故事に習って古来の「賜姓族」に対する呼称”として使われたことがあるものを出した。
それは ”「長者」”と云う称号と、頼朝に与えた官位の同じ「正二位」を与える事で解決した経緯と成った。

「伊勢青木氏と信濃青木氏」等(甲斐は衰退)は、「皇族方氏一統」としての立場上、「二束の草鞋策」で「子孫力」を充分に蓄えている中では、経済的に救える事が出来る事から、立場上は絶対に放置できなかった筈である。
「皇族賜姓族」とは本来「3つの発祥源」としてその立場にあった。
援助するとしても、公には、大平には、「家康との親交」が出来た関係上、「裏切り」と成り無理には出来ず、苦慮したと考えられたが、”影で目立たない様に支援していた”のである。
この事が決まるまでには、元和の家康没の直前のまる3年を要したのである。
この間、「天皇の恥」に成る記録と成るので、その文意は柔らかな表現を使っていて、その文意から観ても「支援」をした模様である。

注釈
(筆者の判断では、青木氏等のこの行為は、家康が、天皇家に経済的圧力をかけて、裏では知古と成った皇族方一統の「伊勢青木氏」等に「最低限の経済的援助」を恣意的に「暗黙の了解」でさせて置いて「天皇家崩壊」を避けた模様である。
そもそも、「天皇家崩壊」ともなれば、幾ら「徳川氏の天下」と成っても、家康に「朝敵」としてそのツケが廻る事は承知していた筈で、諸大名や民から「為政者」としての信頼を失う事になり兼ねない。
それが「幕府崩壊」に繋がる事に成り苦慮して、「青木氏等の裏行為」に期待した模様である。
しかし、誰彼なしに「裏行為」をしても「天皇家の権威」がこれを許さないし、その人物との問題が天皇家と幕府の間に生まれ好ましくない。
先ず「賜姓族青木氏」以外には引き受けられる者も居ないであろうし、又、現実に引き受けないであろう。
わざわざ”渦中の栗は拾わない”は常道である。
この「裏行為」が出来るのは「天領地」から「直轄領」とも成った地に住む「天皇家」と共に同じ「悠久の歴史」を持つ「子孫力」の高い「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と「伊勢秀郷流青木氏」の日本広しと云えどもただこの3家であろう。
「讃岐青木氏」は古来に「天皇家との蟠り」を持ち無理である。
まあ、上記する「経済的な見識」も信頼された事は事実としても、「別の戦略」としても、「家康」も「頼宣」もこの立場にある事も一つの大きな利用価値を見出して付き合ったのであろう。
それは、「秀吉」が「二人の青木氏」を親族として祭り上げて利用した。
しかし、「信長」はこの「権威を潰し」、「秀吉」はこの”「権威威光」を自分の中に取り込み「親族」とし、「家康」は「親交」と云う形で利用した事に成る。
 
自らの出自にそれが無ければ、「為政者」はそれを何らかの形で持とうとするは、”人族は「屯・みやけ」を形成する”性を持つ以上は、この”世の成り立ちの条理”である。
その「最高の権威」は「力の有無」は別として「天皇」であり、「青木氏」はその「最高の権威」への「繋ぎの道」と成る立場にあった。)

ここにも通説歴史の記録外で、個人資料の文意や文脈や経緯から「伊勢青木氏」等が「徳川氏」と深く関わっていた事が「裏の行為」として働いていたのである。

・「頼宣と青木氏の関係」              
実は、その経緯を証明するものが「伊勢青木氏」にある。
この数年後に、「紀州徳川氏」(頼宣)が仲介して天皇家に対して「伊勢青木氏」と「正式な謁見」の面会を実現させている。
これは上記の経緯からの「徳川氏の返礼行為」と考えられる。
「伊勢青木氏」は「南画の絵画」を献納した。その複製画が遺されている。
これに対して、その時に、「天皇家」から拝領した天皇家にしかない「日本最古の墨(藤白墨)」と他物品数点を拝領し、現在も家宝として遺されている。
この時の「紀州徳川氏」から「数通の手紙」も遺されている。

更に、紀州藩が出来た時までは、上記した様に、「伊勢」には唯一の「天皇家の天領地」があった。
ここを接収して「紀州藩飛地領」とした時、「伊勢青木氏」と「初代藩主の頼宣」が面会して「伊勢の土地」と「青木氏の守護神ー神明社」等の取り扱いについて話し合った。
この結果、「全国の神明社」は幕府に引き渡し、幕府が「神明社修復令」を発する事で話が着いた。
更には、「伊勢青木氏」等が管理する「古代密教浄土宗」は「密教性」を解いて「菩提寺性」を排除して、限定した特定の上級武士の「檀家方式」に変更することで解決した。
そこで、「浄土宗督奨令」を発し「全国の青木氏が管理する浄土宗寺」を幕府に引き渡した。
「家康」がこの事を行ったと公式資料では成っているが、遺命を受けたの秀忠の政令とも考えられる。
実行された年代が1610年頃から1622年のまでの期間の中で在るために判断が難しい。
何れにしても「家康の命」である事には変わりはない。
「青木氏の資料」では「頼宣の経緯」の中に記されているので、成否は別として、資料を信じて「遺命実行」として「1619年頃説」としている。
これも「遺命」でなければ「頼宣ー家光」と成る筈である。
その結果、伊勢の「青木氏の菩提寺」は、「紀州徳川氏の菩提寺」となり、元の菩提寺の敷地横に建立して寺名も同じとし、その一角に「青木氏一族の墓所」を与えられた。

ところが、ここで解明しなければならない事がある。
それは「頼宣の菩提寺」は地元和歌山にもある。
「和歌山県海南市の長保寺」(頼宣の菩提寺)である。
ここは「頼宣の藩主としての名声」から”頼宣だけの菩提寺”である。

・「頼宣の菩提寺」
ここには、大きな「一つの意味」が隠されている。
そもそも、「紀州徳川氏の菩提寺」であれば、紀州に作るべきが本来であり、現実に他の徳川氏の菩提寺は地元に建立されている。
しかし、「伊勢松阪」にあるのだ。
何故、「伊勢松阪」なのか
何故、「青木氏の菩提寺」跡にあるのか
何故、「青木氏の菩提寺の寺名」なのか
何故、「頼宣」だけが紀州なのか
一連の疑問が次から次へと湧く。
何かがあったからこの様に成っているのだから、この一連の疑問をこれを解けば、「青木氏と紀州徳川氏」の関係等、”上記した内容の裏付け”と成る。

先ず、紀州の「頼宣菩提寺の長保寺」は「頼宣」の後の者が、”始祖の秀明を馳せた事”に対する領民や家臣や子孫の「感謝と尊厳」の「心の反映」として建立されたものである事は「寺の由緒」と周囲の「領民の口伝」から読み取れる。
依って、先ず、藩主・始祖に対する”形式的な行為では無かった事”が判る。
そこで、重要な次の二つの事が解決の糸口に成る。
それは、”「寺紋」は「笹竜胆紋」で、宗派は「密教浄土宗」”である。
「寺紋」は本来は「三つ葉葵紋」である。「宗派」は室町期中期の「三河の姓族」であるので、本来は門徒ではない「真宗」である筈である。
上記した様に、江戸に成って家康の「浄土宗督奨令」で上級武士は「檀家方式」の「浄土宗」に変えた。
しかし、この「二つの事」は「皇族賜姓族」だけが持つ「二つの故事」(慣習仕来り掟)の慣習と成っているのだ。

この事から、領民だけの祭祀ではない事が判る。領民単独で勝手な事でこの「二つの故事」を使う事は無い。
当然に家臣だけでも無い。末裔だけでもない事が判る。
この「二つの故事」を公然と使うにはそれなりの「了解」を必要とする。
特に、「密教浄土宗」は上記三者でも無理であり、ただ1氏しか江戸期には無かった。
徳川氏は、本来「姓族」であり、上記した様に全く「源氏」では無い。搾取偏纂である事は明明白白である。
源氏の「未勘氏族」でもない。
明治期まで守られた「嵯峨期の詔勅の禁令」を守れば、本来は出来ない事である。
徳川氏に「摂家の源氏の搾取偏纂」があったとしても、これ以外は「幕府為政者」として公然と破る事は出来ない。
取り分け、家紋は兎も角も「密教系」は難しい。
但し、上記の一連の「疑問の事」と「二つの故事」を一挙に同時に解決する事が出来るものがある。
それは、上記の疑問の中に答えが出ている。

・「青木氏と紀州藩」
「松阪」「青木氏菩提寺跡」「菩提寺の寺名」の3つである。
つまり、この3つは「伊勢青木氏との繋がり」を持つ事で解決する。

その「繋がり具合」に問題が移る。
A 「血縁」を誇示するのか
B 「悠久の古」と認定するのか
C 「一族性」「関係族性」を誇示するのか
以上の3つに関わる事に少なくとも成る。

先ずは、Aに付いては、「伊勢青木氏」とは「直接の血縁」は明確に記載が無いが、一族四家の中に江戸初期に何らかの直系か間接かの女系の血かはわからないが、一部には入っている可能性がある。
ただ、「松阪の宗家」には確認出来ない。しかし、「信濃青木氏や甲斐青木氏」には「直轄地」と成った関係上、家康が「将軍権威」を作り出す過程で、女系で血縁している事も充分に考えられる。
「伊勢青木氏」には確認できる記載がない。
しかし、上記した様に、「吉宗育ての付き人加納氏」とは、「伊勢青木氏」は数度の直接の血縁関係にある。
この加納氏には紀州徳川氏の何がしかの直間の血流がある可能性が高いが、この「血縁」で説明は無理である。


次ぎに、Bに付いては、当にこの「悠久の知古関係」があるかの様に、「親密に付き合い」を構築している事でもあり、肯定するも否定はできない。
ただ、周囲が誤解する程の付き合いであった事は、「12人扶持の礼米」でも判るし、「藩勘定方」を家臣でもないのに代々無給で指導しているともなれば、普通は「親族関係者」しかない事になる。
先ず家臣を含む周囲の人は、100%「悠久の知古関係」にあったと観るであろう。
「悠久の知古」には、当然に「女系の血縁関係」を持ったとする発想はあり得る。
「徳川氏」側に取ってみれば、上記した様に「青木氏との利点」は、「秀吉」が使った手と同じである。
ここにも”伊勢と信濃の青木氏との付き合い”は「本来の目的の利点」があった筈である。
それ故に、「皇族賜姓族の青木氏の故事」に習う「”長者”の呼称」と「正二位官位」が天皇から授与されたと当事者以外は思う筈である。
現実に、「賜姓族」でもないのに ”棟梁”であろうが、”長者”であろうが、”棟梁”で拒んでいるのであるから、”長者”でも拒む筈である。
しかし、「調停工作」では拒まなかった。
”何故に拒まなかったか”は、この”調停”に意味を持っている。
それには、「朝廷と天皇」が了解するには、ただ一つ解決策がある。
それは「伊勢、信濃、甲斐の青木氏と秀郷流伊勢青木氏(融合血縁族)」の4氏の何れか一つが男系女系の妥協し得る何らかの形で血縁する事であろう。

記録から「男系」はないので、少なくとも「女系」であった筈で、この事で「朝廷と天皇」は妥協できる筈である。

且つ、この「調停」は、「他の無縁の族の調停」では無く、「賜姓族の調停」である。
直に、”調停”の「話し合い」が忌憚なく出来得る。
確定できないが、筆者は四氏の内の「藤原秀郷流伊勢青木氏」であったと観ていた。

それは、何故かである。
もし「信濃か甲斐」にあったとすれば、「伊勢の記録」のどこかに何がしかの記載があっても良い筈である。記載はの類は無い。
そうすると、そもそも「融合族」であって、且つ、「秀郷流青木氏119氏」は、「特別賜姓族」で「秀郷流伊勢青木氏」はそのリード役を演じていた。
且つ、「家康」も御家人旗本の家臣として「藤原氏」を上記した様に多く迎え、且つ、それを利用して「藤原氏」を名乗った事から、ここに血縁をすれば疑う事は無くなる。
要するに、”全てが辻褄が合う。”と云う事である。
これであれば、「朝廷と天皇」は 「青木氏の故事」の”長者”で納得する筈である。

更に、Cに付いては、「悠久の知古関係」でなくても、むしろ、「藤原秀郷流一門」との様に母方筋を通じての「関係族性」か、「秀郷流伊勢青木氏」との「一族性」と観られる事は充分にある。

況して、「搾取の”「源氏」”の前は、「搾取の”藤原氏」”を名乗っていたのであるから、辻褄が合う。
そうすれば、この関連から ”「皇族賜姓族青木氏」との関係を持っている”と万人は思う筈である。
当事者以外は間違いなく思う。
少なくとも、「賜姓族地」の「伊勢と信濃と甲斐」までもが「直轄領」ともなれば、思う以外に疑う者はまず居ない事に成ろう。
其処に「伊勢青木氏ー信濃青木氏ー讃岐青木氏」との「深い関係」を持ったともなれば、疑うどころか信用してしまう事に成ろう。
筆者は、「皇族賜姓族の青木氏」の「二つの故事」(「長者の呼称」「正二位官位」)が天皇から授与されたものである。
しかし、”Cは勿論の事、AとBとも連動させて全てを当事者以外は信じた”と観ている。

・「調停工作の3年の意味」
「調停工作開始(1600年)」からに「まる3年」を要したが、この”3年の持つ意味”は奈辺にあるのか。何か意味が在りそうである。

ところで、その「解決策の血縁」の対象と成る姫は、家康直系で子供3人と秀忠の適齢期の子孫の4人の計7人に成る。
しかし、全て対象外である。
「外孫」としては調べ切れない数であるが、この「外孫」の中から適切な対象者を選び出すのにも時間が掛かったと観られる。(下記)
当時の「賜姓族」は未だ遠縁を含む「同族血縁」を主体としていた。
ところが、「系譜や添書」を観ると、「特別賜姓族」の「秀郷流伊勢青木氏」は「賜姓族」の様には徹底した戒律の中には無かった模様である。

従って、血縁するとしても、それ相当の「氏族の家柄」から求める慣習に成る。
徳川氏は確かに「権力」は持ったが、元来「姓族」である。
「権力」を欲するものとしてはそれは大変な血縁と成ろう。
しかし、「賜姓青木氏」の様に、「権力」には「無縁の氏」である。
「権力の背景」には「権威」を求めなければならない。
「権力側」からすれば「青木氏」は無縁である以上、極めて動し難い。
そもそも、媚も平伏す事もしないものには何も効かない。
政治、経済、軍事や金や脅しでも抑え込む事も出来ないが、ただ一つ動かす事が出来るものがある。
それは、”信頼を勝ち得ること”以外にない。
では、”どの様して信頼を勝ち得るのか”と云う事に成る。
ここに「鍵」がある。

その「鍵」とは、「青木氏」等が主張している上記した「蝦夷地開拓」を含む「リフレ経済政策」である。
その「主張」を聞き、納得し、自ら堺や摂津や河内を見学をした。
その見学の見識から、次ぎの事を矢継ぎ早に行っている。

1 「松前氏」に「蝦夷地交易権」を与えた。
2 「讃岐青木氏」に蝦夷寄りの外回りの廻船を認可」した。
3 「松前氏」に蝦夷地一部を領させて、瀬戸内族を蝦夷に移した。
4 「家臣と民間の豪商」にも特典を与え、「場所請負制」を敷いた。
5 「地域外の民間参入」にも一部を運送販売などの商業行為の便宜を図った。
6 「港の拡張」とその割り当てする等の可能な限りの「準備の政策」を採用した。

以上を家康は同時期に着実に実行したのである。
先ず、これだけの事をすれば本腰を入れたと人は思う。少なくともこの事を主張していた伊勢青木氏と讃岐青木氏は信用する。

その為に、家康の代だけでは無く、”身内に優秀な才能を持った後に続く者”が無くてはならない。
この計画の「家康の夢の実現」の「次期継承者」を作る為に、一度、2歳の時に水戸に配置したものの、直ぐに変更して駿府に6歳の「頼宣」を呼び寄せ鍛え上げて計画を託したのである。
そして、その為には、この「頼宣」を、”特別に力の持った「御三家」”にし、紀州に「計画実行の拠点」を作り、秀忠にこの「計画の遺命」を伝えたのである。
そうする事で、「伊勢青木氏等」は、”家康を信頼し”その姿勢を観て、裏で調停工作に応じたのである。
「家康」は、これらの”「準備計画」で「信頼」を勝ち得るための「期間」が3年”必要なのであった。

筆者は、実務的な事は上記の事として、”信頼を勝ち得た暁”には、上記ABCを何とかして是が非でも作り出したと考えている。
それでなくては「Bの形」と成り、「Aの形」が不足する弱いものに成るし、意味が無く、それ故に必ず実行した。

ところがこの青木氏が持つ資料や系譜などからは「Aの形」が全く確認出来ない。

それには”確認できない事”には問題がある。
そもそも、系譜は男系を中心としての譜である。
「女系」の場合、系譜上には直接出ないので「添書」に記載されているものから調べださなくてはならない。
なかなか「添書」は実態が書いてあるので公開されないので実は判らないと成る。

「伊勢青木氏」等には、”世に晒す事成らず 一利無し”の戒律があって絶対に表にしない筈である。
当に、「伊勢青木氏」に取っては、この「最高権力者との繋がり」は、”晒す事”そのものであるからだ。
青木氏には、家康と云えども、”「悠久の戒律」を破らなくてはならない理由”は何も無かった。
破っているのであれば、悠久の歴史の1000年を超える時の権力者に破っている。
そうなると、家康は、”世に憚る事ならず”の「伊勢秀郷流青木氏」との「何らかの形」の「血縁関係」を構築した可能性が高い。

そもそも、この世の「事の流れ」は、その緩やかな方向に何人も向かうだろう。

同じ時期に、上記した様な経緯から、「家康の家臣」と成った「秀郷一門」は、当然に「伊勢秀郷流青木氏」に圧力を掛けて来る筈である。
同じく家康も圧力をかけた筈で、受け入れなければ、上記の経緯から「秀郷一門」も立場は無い。
しかし「賜姓族」にはかけられないし掛けてもかからない。
間違いなく、”女系で「秀郷流青木氏」が圧力を受けた”と考えられる。
中でも、”より都合のよい「血縁の形」”は、「融合族」の「四日市殿の家」ではないかと観ている。
それは、何より「長者の要件」に近づくからだ。しかし、徳川氏がこの「融合族」を指定して臨んだかは疑問である。
家康に「融合族」の認識感覚は無かったのではないだろうか。
要するに「融合族」は「秀郷流伊勢青木氏」が「受ける側」としての判断材料である筈だ。
一族的な形で観れば、「融合族」は、「皇族賜姓族」をも巻き込んだ総合的な無理のない血縁策に成る。
家康がこれを知ったとしてもより「賜姓族」により近づく”文句のない血縁策”と受け取ると考えられる。
兎も角も、「秀郷流伊勢青木氏」は、まず「女系」で受けて、その子供に「徳川氏」のどこかに入れて継がせる等の事をすれ良い筈である。
そうすれば、「故事の賜姓族」としての”「象徴と笹竜胆紋と密教浄土宗」”は完全に継承出来るし、”「長者と正二位」”も継承して獲得できる。
結局、結果としては、故事の”長者”は可能に成り、「朝廷と天皇」が拒む理由は無くなる。
そう成ると、これに要する期間としても3年は絶対に必要である。
「説得のそのものの時間」と云うよりは、その為の「準備時間」が必要である。
むしろ、1年とかでは疑う。最低でも3年と成ろう。
これが「3年の意味」である。


・> 青木氏の分布と子孫力
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> > > [地域別分布力]
> > > 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
> > > 全国平均(全国単位 % 表ー1)
> > > 地域      異変の県        分布力
> > > 九州地方   長崎、大分       5%
> > > 四国地方   高知           2.5% 
> > > 中国地方   山口、岡山       2.5%
> > > 関西地方   三重(筆者ルーツ)  14%
> > > 東北地方   秋田           7%
> > > 中部地方                 15%
> > > 関東地方                 45%
> > > 北海道・沖縄               6%
> > > その他                   3%
> > >
> > > 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
> > > 九州地方  1.3
> > > 四国地方  1.3
> > > 中国地方  1.3
> > > 関西地方  4.7
> > > 中部地方  4.3
> > > 関東地方  11.3
> > > 東北地方  2.0
> > > その他   11.0
> > >
> > > 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
> > >
> > > 修正地域(表ー3)
> > > 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1−7 三重 12 福井 4 愛知 13−7
> > > 秋田 1
> > >
> > > 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
> > > 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
> > > 福岡  2   山口  0   愛媛  3     兵庫  3    三重  1
> > > 長崎  0     島根  2   香川  1     大阪  14   石川  2
> > > 佐賀  1     広島  3   高知  0     京都  5    福井  1
> > > 大分  0     岡山  0   徳島  1     奈良  1    岐阜  3
> > > 熊本  4                        和歌山 4    愛知  13   
> > > 宮崎  2                        滋賀  1    長野  9
> > > 鹿児島 1                                  山梨  1
> > >
> > > 域平均 1.25  平均 1.25  平均 1.25    平均 4.7     平均  4.3        
> > >
> > > 関東地方(45%) 東北北陸地方(7%) 沖縄、北海道地方(17.5%)
> > > 静岡  5    青森  1      沖縄  1
> > > 神奈川 21   山形  2      北海道 11
> > > 東京  18    岩手  1
> > > 埼玉  17    新潟  4
> > > 群馬  6    秋田  0
> > > 千葉  11   福島  4
> > > 茨木  4    宮城  2
> > > 栃木  8                                     
> > >
> > > 域平均 11.3   平均  2.0      平均  11.0  
> > >
>
青木氏の分布と子孫力−5に続く。



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