青木氏氏 研究室
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  [No.311] Re:青木氏の分布と子孫力−7
     投稿者:takao   投稿日:2014/04/27(Sun) 14:24:11

> 青木氏の分布と子孫力−6末尾

> 話をもどす。
> 上記の「瀬戸内族等の蝦夷地開拓に関わる変遷の論証」は、出来たと考える。
> そこで、江戸期まで云われていた ”瀬戸内を制する者は国を制する” の言葉の通り、上記した様に「瀬戸内族」は平安期でもそうであった。
> しかし、この様に「伊勢青木氏・信濃青木氏」と共に、「瀬戸内族の生き様」、即ち「瀬戸内族の子孫力」は、「幕府内に浸透した秀郷一門の横の関係力」と連携している。
> 江戸期でも矢張り特別に重視されていたのである。
> そして、上記した様にその子孫力は「幕政改革」にも利用されたのである。
>
> 従って、「瀬戸内族」の地元の「香川1」と「岡山0」の「子孫力のパラメータ」は、この様な「背景の経緯」にあった為に、”一族存亡に成るほどに注ぎ込んだ”のである。
> 依って、その後の地元での「子孫力」や「子孫拡大力」には、当然に支障を来した事を物語るのである。
> しかし、その分、この「子孫力」で「江戸期ー明治期」までで、最低でも北海道の7/11にシフトしている事に成ったのである。
> 衰退していたのでは決して無いのである。
> 普通なら、上記した様な ”波乱に満ちた世の中の荒波”に洗われて、一族を注ぎ込んだが諸共に消えて仕舞う憂き目を受けている。
> しかし、これもこの「現世の条理」であり、普通である。




青木氏の分布と子孫力−7


・「戦後の入植」
更には、これに重ねて「昭和20年後(戦後の混乱期・経済的悪化)」にも同じことが「瀬戸内族」に起こったのである。
この「昭和の瀬戸内族の危機」でも、このパラメータに大きく影響を与えたのである。
「讃岐青木氏」には、上記した「江戸期の経験」があったからこそ、また現地にも一族を廻している。
だから、既に、「受け入れの土壌」も出来上がっている事から、「瀬戸内の廻船業」から「蝦夷地の入植と廻船」に切り換えて、再び盛り返す事を狙ったものである。

従って、逆に、北海道には、この「昭和の入植移動」でも、その分「北海道のパラメータ」(1.5分)が拡大したのである。
上記した様に、「弘前藩」の救援劇に関わった「讃岐の瀬戸内族」、とりわけ「弘前の讃岐青木氏」(陸奥の「香川の移動族」と「岡山の末裔族」)の両方とも「北海道」に入植した。
この入植には、下記した「弘前藩と松前藩の関係」(下記)が大きく影響したのである。
この「陸奥青木氏の入植」には、この「弘前の讃岐青木氏」も含まれていると観ていて、故に、「秋田の分」が「北海道」に引っ張られて、秋田は0と成っているのだ。

ところで、それまでの経緯に付いて重複するが、改めて記述すると次の様に成る。

イ 「北海道の支配権」を家康から1599年に「松前藩」に与えられて正式に認められた。
ロ この「松前藩」は家臣(瀬戸内族)を配置して交易を正式に開始した。
ハ ただ、この元々は「青森に居た松前氏」には、「蝦夷地の支配権」を家康は特別に見込んで任した。
ニ ところが、米が採れない「無石の藩」であったので、「青森の弘前藩」との間で「米の供給」をする契約が交わされていた。
ホ 最初は「1万石相当」を「弘前藩」から供給を受けていたが 次第に交易が拡大し人口が増え、「米の供給」が不足し始めた。
ヘ 享保4年には「1万人人口の都市」と成り、この「基本的な米の供給」のみならず、「10万石」が不足していた。
ト この為に、「弘前藩」に対しては、「蝦夷地の入植」と、その「海産物などの殖産貿易の権利」の優遇を図っていた。
チ この事から、他のどの藩よりも「北海道の入植とその利権」は優位にあったし、積極的に行った。
リ この為に「交易と殖産」の為の「弘前からの入植移動」は「最大の条件下」にあった。
ヌ 「松前藩」も、財政的な面から観て、「弘前藩の北海道の入植」は、”「コメの供給」の対価支払が出来、それと「継続的な供給状態」が維持出来る事の負担面で都合が良かった。
ル 「弘前藩」は、この関係から積極的に「瀬戸内族」をその経験を見込んで「家臣」としての扱いで優遇し北海道に配置した。
ヲ 「松前藩」に対しても「幕府の肝いり」もあり「瀬戸内族」には同様に家臣として扱ったのである。
ワ 記録では、「松前藩」は、江戸時代の「5大飢饉」に起こった ”「米の飢饉」の時も度々に救われた” と記されている。
カ 「松前藩」は、「弘前藩」に対して「恩義」に思っていたのである。
ヨ 「弘前藩」は、「お家騒動の体質」で苦労している事から、「経済的な背景」は「藩政安定」につながる事から、”絶対に崩せない”と云う弱みもあった。
タ その「瀬戸内族」に依って運営されていた ”「海運による海産物の交易の利」”も身に染みて知っていた。
レ この状況から、「幕府の強い意向」もあり、「瀬戸内から来ていた関係者」を全てつぎ込んだ。
ソ 上記した様に、これが「青木氏」の「歴史的な定住地」ではなかったが、これが「北海道の11」の内容の一つに成っているのである。

従って、この数字的には、「北海道」には次ぎの様に成る。
1 「信濃」から「皇族賜姓族の神職系の移動」
2 「陸奥からの秀郷一門の移動」
3 「瀬戸内族の陸奥からの移動」
以上の3件の室町期末期の記録がある。

この事があるので、全国平均の4のパラメータから観ると次の様に成る。

「讃岐青木氏」(瀬戸内族)としての「実質の子孫力」は次ぎの様に成る。、
北海道分 7
香川の分 1
岡山の分 0(X)
広島の分 3
島根の分 2 

岡山の分は0としているが(X)は2以上は見込める。

以上で、最低でも「13のパラメータ以上」が認められる。
(北海道分の7は昭和の最終吟味で異なる。)

この「パラメータ13以上」に付いては、長年同じ行動を採って来た「伊勢青木氏」等の「実質のパラメータ12」に匹敵するものとして納得できる。
以上の様に、実質の「讃岐青木氏」は、「武蔵」と肩を競い合っていたところから、17以上にはならないものの、15程度に匹敵するものを持っていると考えられる。
そこで、この「讃岐のパラメータ」を最終確定させるには、その前に、上記の経緯から、次ぎの「青森ー秋田」の状況を吟味して置く必要がある。

「青森ー秋田」
しかし、「瀬戸内族」が一時、定住したこの陸奥地域の「青木氏の動き」が解明されたとしても、”地元「青森ー秋田」の「秀郷流青木氏」は一体どうしたのか” と云う疑問がある。
そもそも、「青森ー秋田の陸奥青木氏」は、秀郷一門の「鎮守府将軍」の頃から、「青木氏」の「入間の本領地」に継ぐ位の定住地でもあった。
しかし、「青木氏の守護神の神明社建立」と云う面からにしても、データは、「陸奥の秋田」と云う範囲では「青木氏の子孫力」は不思議に低い。
因みに、「青木氏族の永嶋氏」も、関東でも、愛知でも、陸奥でも、「子孫拡大」を室町期末期まで大きく興している。
にも拘らず、この事を考えると、「秋田」では、「同族の青木氏」が、”何故に「子孫拡大」が大きく起こらなかったのか”が疑問である。
この疑問を解決する必要がある。

陸奥域の周囲には同族の一門も居たし、土地の豪族も殆どが「血縁族」であるにも関わらず、「軍事的背景」、「経済的背景」、「周囲の一族」などから観ても「政治的背景の環境」も決して悪くは無かった。
むしろ「子孫拡大」には「三つの条件」が揃い過ぎている。
もう一つの「時代的背景」にしても、確かに、陸奥域には「荘園制」に関わる有名な「子孫力」を低下させる「奴婢事件」等が起こった。
この国を動かすほどの大事件が、平安期末期や室町期末期には大きな事件が多く起こった。
しかし、「青木氏の分布やその子孫力」の「拡大抑制の元凶」と成っていた「荘園制」が、「平安末期の禁止令」に依って無く成った。
依って、その後の「子孫力」は再び盛り返している。

元陸奥域の「周囲の5県」には、「秀郷一族一門」と「北家利仁流一門」にも囲まれている。
しかし、「唯一の脅威」としては「阿多倍一族」の有名な「内蔵氏系」の「安倍氏や清水氏」などの勢力に囲まれていたことは事実である。
ところが、この「内蔵氏族」の氏とは、歴史的に見て「子孫力」を下げる大きな事件を起こしていない。
その証拠に、「藤原利仁流族」や「秀郷流進藤氏」は、この中間地域に挟まれていながら子孫を伸ばしている。

では、”何が子孫力を下げていたのか”である。後は、「子孫力」を低下させるこの地域の要因は厳しい「気候」しか浮かばない。
では、”「気候的背景」があったのか”、しかし、「青木氏」が ”気候的背景に弱い”という事は聞いた事はない。
とすると、考えられる事は次ぎの事が只一つである。
この「気候的背景」が原因して、「秀郷流青木氏の護衛団」の ”入間との間の交代制”にあった事が考えられる。
そもそも、陸奥の「花房氏」や「小山氏」や「小田氏」などの土豪との「全ての血縁族」が、関東に来て「秀郷一門の勢力」を背景を基にして大豪族と成っている。
この事が物語る事は ”子孫拡大の流れ” が確かに「北から南」にあった事は否めない。
そもそも、「秀郷流青木氏」の「陸奥の定住」は、あくまでも ”「赴任定住」” にあった。
従って、「陸奥土豪の血縁族」等が、関東に出てきて勢力を伸ばしている中で、本家筋の「赴任定住の青木氏」が「逆の行動」を採るかは大いに疑問である。

先ずは採る可能性は無い。
「秀郷流青木氏116氏」の「24地域」では「入間帰還」を前提としたシステムを元より採用している。
確かに「赴任定住」で各地域の赴任地には、「子孫末裔」を遺してきている事は確かである。
そうすると、この「24地域」の中で、「子孫力」「子孫存続拡大」に関わる”異なる条件”とすれば、「環境の影響」である。
この中でも、厳しい「気候的背景」だけが「子孫力差」として出て来る。
この「陸奥域の気候的背景」が、この「子孫力の限界値」として観てみると ”、「赴任定住・交代制」に大きく影響を与えたのではないか” と考えられる。

特に、上記した様に、「讃岐青木氏」などの「瀬戸内族」に依って、江戸期初期には「太平洋周りの廻船」が新たに創設された。
これに依って、四季を通して凡そ二日か三日で赴任地から護衛団が入間に帰還できる様に成った。

江戸初期の「造船力の発展」が原因した。気候の厳しい「蝦夷地等の交易」が「造船技術」を伸ばした。

この「造船力の発展」に依って、”豪雪の中での護衛”と云う役目は、「冬場での役目」としてあまり意味がなくなった事に成る。
それまで、帰還に要する危険や難儀から留守居の形で定住する事に成っていたが、その必要性が一年中無くなった事に成る。
何日もかけて危険を背景に必死に陸送で帰還するよりは、「帰還」と云う点では画期的なものであった。
この”瀬戸内族による外回りの廻船の開設” が、”入間帰還のシステム”が現実のものとして”効果的なシステム”と成ったと考えられる。

「陸奥の瀬戸内族の操船入植貢献」と、「讃岐の瀬戸内族の外回りの廻船開設」と何れも瀬戸内族の貢献であった。
「蝦夷地の開拓」と「陸奥の秀郷一門の帰還」に大きく貢献したのである。
「讃岐の瀬戸内族の外回りの廻船開設」は、「蝦夷地の開拓」にも「人と者」を運送する事でも大いに貢献したのである。

そこで、「陸奥の環境」の「気候的背景」が「限界点」に成ったとしても、これで「入間帰還」は容易に成った。
これで「赴任定住の留守居役」も必要と無くなる程の移動と成った。
この事で、「現地末裔孫」も伴い「全陸奥青木氏」の「入間帰還」と成った。
依って、「陸奥秋田の青木氏」はパラメータが0に成るほどの地域と成った事が考えられる。

現実に「そっくり帰還」(根削ぎ帰還)は、温暖の地の「紀伊国」や「阿波国」や「肥前国」でも起こっていた。下記
何れも、「造船力の発展」で陸送で何日もかけての帰還より、数日で楽に帰還できる様に成ったことからの結果である。
この現象は「陸奥だけの事」では無かったのである。
これは「室町期」のみならず、上記した様に、江戸幕府の「旗本 御家人集団」と成った「土地付き家臣団」の「秀郷一門の青木氏」があった。
江戸時代に成っても、室町期の「縁故の地」に「現地派遣の幕府代官」として派遣されていた。

そこで調べて観ると、「家紋分析論」と「守護神論」でも判るのだが、この「広域陸奥」には「18の大名」が配置されていた。
この18の大名の内の「7の大名」は、何らかの秀郷一門との縁故を持っていた。
その「土地付き家臣団」には3割程度が秀郷一門で占めているのである。
江戸期に成っても、この「秀郷一門の青木氏」は、この様に「24地域の縁故地」に派遣されていた事が判る。
秀吉に依って、家康が関東に転封された時に、この地域一帯を治めていた秀郷一門には、「家康の本領安堵策」に依って関東域は安堵された。
その後、「家康の天下」と成った時も含めて、各地の「24地域の縁故地」もその後、安堵され保証された。
家康の藤原秀郷一門に対する「本領安堵策」で「土地付き家臣団」(准大名扱い:地主:御家人)が生まれたのである。
因みに、「土地付き家臣団」を超えて、江戸時代の全国大名の内の「6大名」に「下り藤紋」の藤原一門が成っている。

A 陸奥、越後、
B 信濃、近江、
C 紀伊、日向
以上が成っている。

この「6つの小大名」の藩士の多くは、「秀郷流青木氏116氏」の一門の家紋群である。

しかし、他の「縁故の地」(24地域)では、凡そ2割から3割が秀郷一門の家紋群である。
ほぼ、他の陸奥域も同じ程度である。地主として名主や豪農や庄屋や郷氏や、土地の藩の家臣として生き延びた。

この地域も家康に依って、「藤原氏の勢力」を維持させる為に、「縁故の地」も「本領安堵の策」が採られたのである。

この様に、「土地付きの家臣(御家人、上級旗本)」と成っている地域は、下記に参考に記す様に、主に「青木氏116氏の主要地域」に成っている。

武蔵、越後、讃岐、備前、
下野、相模、三河、下総、
常陸、紀伊、陸奥、上野、
美作、備後、伊予、豊後

以上16の地域に集中しているのだが、これは二つに分類できる。
一つは、「秀郷流青木氏」の平安期と室町期までの「領地」か「赴任地」
二つは、「松平氏か徳川氏の藩主」と成っている「守護地」

一つ目は、「縁故の地」に対して派遣された幕府の代官、役人等
二つ目は、江戸初期に徳川家臣団と成って藩主が赴任した地域

以上の様に、室町期に引き続いて江戸期にもほぼ同じ勢力で同じ分布域を示している。
これは「子孫力維持」と云う点で重要な事柄である。
そこには、当然に強い「子孫力」が存在する。要するに、”古来より縁故の地”であるからだ。
「室町期」と「江戸期」では、社会の不安定さや混乱差は大きく変化した。
しかし、「縁故の地」に関わる事により「子孫力」は、冒頭でも記したが ”変わらない”として論じる事が出来るのだ。

従って、「陸奥」に於いては、要するに、「基礎的な子孫力」が全く無くなったのではなく、”「子孫力」が出自先の入間に戻った”と成る。
故に、「陸奥」では、「子孫力」が激減していたのであるから、「陸奥」から「北海道」への「入植移動」は、「陸奥青木氏」だけではない事に成る。
更に、上記した様に、各地から「陸奥」に来ていた「青木氏」(瀬戸内族等)も「北海道」に入植移動した事にもなるのである。
後住の「瀬戸内族の入植」とは別に、先住の「陸奥青木氏の入植移動」は、むしろ、どの時代を通しても「入間帰還」を中心とした慣習に従っていたので、極めて少なかった。
この事から、せいぜい「留守居程度」のもの定住と考えられるから、入植移動は無かったと見做される。
依って、パラメータに出て来る範囲ではなかったと考えられる。
(「陸奥域」を始めとして、24地域の「入間帰還」は改善された。)

丁度、上記した”徳島の剣片喰族の愛知への帰還方式”と類似するが、その期間の「土地の生活環境」は大きく異なる。
「肥前の青木村」も同じである。
当初は、「期間限定の定住策」であったと考えられるが、「蝦夷地開拓」に伴う「造船力の発展」が、この「肥前の定住」にも大きな変化をもたらしたのである。
逆に、この「讃岐青木氏」ら「瀬戸内族の入植移動」が「造船力の発展」を促し、その「造船力の発展」が今度は「瀬戸内族の廻船業や殖産業の発展」を促した事に成る。
陸送より「海送の発展」が、質、量、速さ、楽さに於いて優れ社会を大いに変えた時代と成ったのである。

ところが、昭和に成って始まった機械化が、戦後に成って、その代表と成る鉄道の急激な発達によって「陸送の発展」が起こり海運を超える結果と成ったのである。

瀬戸内族の母体と成っていた廻船業と殖産業は、鉄道の陸送の発達で取って代わられたのである。
そこで、「讃岐青木氏」等の「瀬戸内族」は、「北海道開発」に賭けて「戦後入植」と成って表れたのである。
この様に、地域毎にその「子孫力や子孫拡大力」の「有り様」が異なり、それに伴って「青木氏の分布と子孫力」は変化したのである。
しかし、その「分布と子孫力」は、根底を覆すような変化までには至らなかったのである。

恐らくは、1600年経っても”あまり変わっていない”と評価されるが、これからの「時代の変化具合」によっては「青木氏の分布と子孫力」は変化する可能性がある。
どの様に変化するかは判らないが、判る現在の範囲で過去の事を遺しておきたい。
後世の青木氏の末裔にロマンを与えられる。
この異なる「青木氏の歴史」には、「先祖の生き様」がよく見えて来て面白いのである。
その「分布図や伝統の有り様」も面白くなるのだと考える。

従って、「青木氏の子孫力の有り様」を続けて論じる事とする。


・> 青木氏の分布と子孫力
>
> [地域別分布力]
> > 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
> > 全国平均(全国単位 % 表ー1)
> > 地域      異変の県        分布力
>> 九州地方   長崎、大分       5%
>> 四国地方   高知           2.5% 
>> 中国地方   山口、岡山       2.5%
>> 関西地方   三重(筆者ルーツ)  14%
>> 東北地方   秋田           7%
>> 中部地方                 15%
>> 関東地方                 45%
>> 北海道・沖縄               6%
>> その他                   3%
>>
>> 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
>> 九州地方  1.3
>> 四国地方  1.3
>> 中国地方  1.3
>> 関西地方  4.7
>> 中部地方  4.3
>> 関東地方  11.3
>> 東北地方  2.0
>> その他   11.0
>>
>> 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
>>
>> 修正地域(表ー3)
>> 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1−7 三重 12 福井 4 愛知 13−7
>> 秋田 1
>>
> 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
>> 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
>> 福岡  2      山口  0   愛媛  3     兵庫   3    三重  1
>> 長崎  0      島根  2   香川  1     大阪  14    石川  2
>> 佐賀  1     広島  3   高知  0     京都   5    福井  1
>> 大分  0     岡山  0   徳島  1     奈良   1    岐阜  3
>> 熊本  4                        和歌山 4     愛知  13   
>> 宮崎  2                        滋賀   1    長野  9
>> 鹿児島 1                                   山梨  1
>>
>> 域平均 1.25  平均 1.25  平均 1.25    平均 4.7     平均  4.3        
>
>> 関東地方(45%) 東北北陸地方(7%) 沖縄、北海道地方(17.5%)
>> 静岡   5   青森  1      沖縄   1
>> 神奈川 21   山形  2      北海道 11
>> 東京  18    岩手  1
>> 埼玉  17    新潟  4
>> 群馬   6   秋田  0
>> 千葉  11   福島  4
>> 茨木   4   宮城  2
>> 栃木   8                                     
>>
>> 域平均 11.3   平均  2.0      平均  11.0  

 青木氏の分布と子孫力−8に続く。



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