青木氏氏 研究室
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  [No.322] Re:「青木氏の伝統 5」−「毘沙門天の影響 1」
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/08/29(Fri) 15:14:16

前回の末尾

>事ほど左様に、他の四節句も、”休ませる事”に重点が置かれ、「人日の節句」の通りに考え方が、上巳、端午、七夕、重陽にしても、全てこの”休ませる事”の解釈であった。(別記)

>”何故、この様に成ったか”と云う論調には、上記の「稲荷信仰体」と同じく、次ぎの「庶民信仰体」の影響が左右されていたのである。


伝統−5


「毘沙門天の影響」
この「庶民の五節句」の「祝日祭りの影響」は、江戸期からの”民衆化した「3つの毘沙門天の神格化」(「戎神」「勝負神」「無病息災神」)”に大きく影響された事もあったと観られる。(下記)

何故、この特定階級の中でも、「上級階層の密教」そのものの「毘沙門信仰」が浸透したかと云う疑問がある。

それは、江戸期250年の間に、何と全国的に起こる「気候変動の大飢饉」が8回も起こっているのである。30年に1回である。
地方の小さい飢饉にすると数えられない位で、「小さい飢饉」は殆どが「河川反乱」であった。
この為に「土木事業」が盛んであった。
「薩摩藩」や「紀州藩」は、その「最先端の技術」を持っていて、幕府に請われて他藩に主張して「河川改修」を命を掛けて盛んに行った記録がある。

江戸期の庶民は、これは「日本古来の和魂と荒魂」の考え方が蘇り、「荒魂の悪神の悪神」が暴れていて、これを鎮める「毘沙門天」や「荒神」が働かず、「庶民の無信心」で勝手気儘に暴れているのだと考えたのである。

それまでは、当に、「密教範囲の信仰体」であったのに、民衆は藁をも掴む思いで、この信仰体に再び飛びついた。
「古来の荒神信仰」が「武士」の間で信仰されていた事を知ったのである。
其れが元は「庶民信仰の地荒神信仰」(道祖神や産土神)であった事を知ったのである。

そこで「神社仏閣」は、いち早く、民衆を呼び止める為に、「毘沙門天像」や「不動明王」や「荒神像」を祭祀した。

ところが、毘沙門天像と不動王像の神格に対して、新たに「戎神」「勝負神」「無病息災神」を求めたが、「武神」「守護神」「財神」の「3神格」は求めなかったのである。

その代わりに、「地荒神」を発展させて「万能神の様」にしてまったのである。
この「地荒神」と「毘沙門天の神格」の「無病息災」等に”願いを込める休む日”とする節句をつくりだしたのである。

この様な経緯から、「節会」が「節句」に変わった事も、庶民の「毘沙門天の神格」が「戎」「勝」「無」の「現世の生活観」に特化した為に、「会」に持つ”彼世の仏の意味”が消え失せて、「句」の”現世の人の息遣いの意味”に変化したものである事が判る。
庶民の中では、最早、”「武」「守」「財」の3神格”は影形も全くなく成ったのである。
(武士階級の中で護られた)
ところが、その後に、「本来の3神格」を維持して来た「伊勢青木氏」にも、これを維持することが難しくなった時期が発生したのである。
室町期末期に戦乱と大火で、「菩提寺」が消失して、「本来の密教作法」に依る祭祀が充分に行えなく成った。
そこで、「大日如来坐像」も居宅に安置されて「毘沙門天像」と共に祭祀を何とか維持していたにも関わらず、今度も「明治の大火」に依って「毘沙門天像」そのものの偶像を消失しまった。
完全な意気消沈状態であった事か伝わっている。
暫くは、祭祀そのものが危ぶまれた時期があったとされる。

当然に、この時期から、青木氏には、「本来の目的」(「武神」「守護神」「財福神」)の概念が低下して行ったと観られる。
大正期に入り何とか祭祀は盛り返されたが、この時、「護り本尊」の「毘沙門天像」の代わりに「節句」に使っていた「義経ー弁慶像」を使う事で「密教作法」は何とか遺されたのである。

従って、「青木氏」のこの「義経ー弁慶像」(二代目)は、江戸期の庶民が用いた偶像の「義経ー弁慶像」では無かったのである。
「毘沙門天像の身代わり像」であった事に成る。
”消失による概念の低下”を防ぐ目的の為に、むしろ「庶民文化の偶像」を上手く利用した事に成る。
奈良の発祥期から観ると、「伊勢青木氏」には、「氏存続」に関わったものとして、「一度の衰退」「3度の戦禍」「2度の災難」が起こった。

毘沙門天像等の遍歴(三昧耶形仏具)
大化期初期ー居宅 ー・・・  賜像「毘沙門天像」・「大日如来座像」
平安期初期ー菩提寺ー150年 桓武天皇 皇親族排除
平安期中期ー居宅 ー50年  秀郷流青木氏賜姓 商い開始
鎌倉期初期ー菩提寺ー125年 源平合戦 以仁王の乱 孫京綱跡目
室町期初期ー居宅 ー175年 紙文化 室町文化開始 巨万の富 「大日如来座像の移転」
室町期末期ー新宮 ー350年 信長の伊勢三乱 商い中断 「大日如来座像の移転」
江戸期初期ー松阪 ー10年  本領安堵 商い再開 「大日如来座像の移転」
明治期初期ー鎌倉 ー275年 伊勢動乱 一揆支援 家勢再興 「大日如来座像の移転」
明治期中期ー松阪 ー25年  松阪大火・毘沙門天像消失 商い倒産 「大日如来座像の移転」
大正期初期ー松阪 ー20年  家勢再興 仏具整理


その事から「縁起」を担ぐ事で一族の中にその意識が遠退いたのであろう。
その証拠として、幸いにも遺された「お仏像様」にも、この「縁起」を担ぐ事が在って、”その「お仏像様」を祭祀するに、それに「見合う人物」でないと、その人物に「不祥事」が起こる”と云われていて、厳しく戒められていた。
現実に、筆者もその人物で無い為にあるところに安置して頂き祭祀している。
二度とこの様な事が起こらない様にする「訓戒」であろう。
事ほど左様に、この「毘沙門天像」(「護り本尊様」)にも同じ事の戒めが課せられていたが、「松坂大火」で消失して仕舞う仕儀と成った。
この為に、”この「戒めの咎目」を受けた”として祖父は、そけを祭祀する人物でないと自若し「毘沙門天の事件」で「祭祀」には口を固く閉ざしたものと観られる。
(祖父は当時、伊勢ー紀州ー奈良ー大阪ー京都圏域では誰でも知る有名な人物で、紀州徳川家や天皇家との付き合いもあった。しかし、「咎目」を受けた。)
結局は、900年以上続いた「伊勢の紙屋長兵衛」を倒産さした事への祖父の痛恨の反省なのであった。
しかし、晩年、再び祖父は、何とかこの「毘沙門天の祭祀」を甦らせ、父を経由して筆者の代まで引き継いで来た。
筆者以後は、先ずこの継承事全ては、文章にして遺す以外に最早、完全に無理な状況と成って居るのである。子孫は多く遺したが、何れの者も持って生まれた意識がそれを成し得る意識に到達していないのでは致し方無しである。仏説の当に”縁無き衆生 動し難し”である。
恐らくは,”[伝統]”と云うものはこの様にして消え去って行くものである事が判る。
消したくなくても「自然の力」はそれを超えていて、古来から伝わる「密教」の様々な「伝統」は完全に消える。何とか文章にまとめて記録して、全国の青木氏の末裔が「ロマン追求」の役に立つ為に出来るだけ詳しくして遺そうとしている。
恐らくは、全国の青木さんも殆どは伝統があるにしてもこの様な事で消えて仕舞ったと観ている。
最早、伝統そのものよりも「ルーツ探究」も侭ならない状況に成っている筈である。

事ほど左様に、以下に遺すべき歴史の史実をより詳しく解析して論じ続ける。

さて、この「義経ー弁慶像」(二代目)は、「人形」と云うよりは、”彫刻に彩色粉飾を施した木仏像”のものであたと伝えられている。
この事は、”何とか「毘沙門天像」に似せてのものに”と考えてのことであったらしい。
祖父の意識感覚が伝わって来る。
新たに「毘沙門天像」を作る財力は、「紙屋」は倒産したとは云え、未だ充分にあったと考えられるが、何故なのかは判らない。恐らくは、毘沙門天像に似せようとしたと考えられる。
当初は「毘沙門天像」は、上記した様に平安初期には「菩提寺」に保存されていたと聞かされている事から、その後、「室町末期の戦乱・大火」から「お仏像様」と共に居宅に移した。
しかし、この「毘沙門天像」(護り本尊様)は、上記の配慮から ”古く成った”との理由づけになってはいるが、正しくは「明治期の松阪大火」で消失したのである。
「毘沙門天像(護り本尊様)」の代わりかは不明であるが、上記した様に、一般文化を取り入れてか「義経ー弁慶像」(二代目)に変わった模様なのか、「毘沙門天像」に何故しなかったのか、調査したが、「菩提寺の消失」で「建立する力 維持する力」に総力を上げようとした事があって、「毘沙門天像の復元」には至らず、結局、「義経ー弁慶像」(二代目)で我慢したと云う事であったらしい。
つまりは、「偶像」は変わったが、”「祭祀の密教所作」は遺こす事で治めた”と云うことであった。

(「2度の大火の災難」から”「縁起」を担いではっきりさせていないの”が原因で、恐らくは「消失」である。ところが、この「消失の過失」を認めると、未来に「祖父の名誉の禍根」を遺すと判断したと観られる。この消失は「類焼」では無く「出火元」であった事から余計に意識したと観られる。)

現在の「義経ー弁慶像」(二代目)の人形は、明治35年(2度目の松阪大火 出火元)で「毘沙門天像」と共に「義経ー弁慶像(一代目)は消失して、その以後のものである。
後世には、悠久の歴史を持つ伝来の「毘沙門天像」であった事を明確にせず、「義経ー弁慶像」で繋ごうとしたのである。
昔は、この人形に色々な装飾物があった様であるが、現在は無いが、何とか「毘沙門天像」に近づける努力はした様である。
消失するまでの居宅での「毘沙門天像(護り本尊)」と「お仏像様」の祭祀では、色々な「仏法作法」があった。
以下の所作が伴う「密教所作」は、「義経ー弁慶像」(二代目)であるにしても、「江戸の節句行事」では無かった事が良く判る。

「密教所作 (九度作法・節会所作)」
遺されているのは「道標行燈の作法」と「茶釜の作法」の他に次ぎの「作法事」がある。
この祭祀には、次の様な作法が遺されている。
イ 「家伝の宝刀」を幼児に背負わす作法が遺されている。  (武家訓魂)
ロ 「武神」と云う事からの「武の基本所作」が遺されている。(軍配挙手、馬杯酒飲、刀剣手掛)
ハ 「紅白の角餅」を供る作法が行われいる。        (白は賜姓族の象徴色)
ニ 「幔幕」(家紋入り)を張る作法が行われている。    (福家象徴)
ホ 「方位」は北に向けての物であり、その祭祀には「方位の障害物」等を清浄する。(邪気払い)
ヘ 「回り行燈一対」を左右に据えて「仏壇」を飾り立てる作法が行われる。    (法華経典)
ト 「仏壇」は「古来の武具」の合わせた「小型金具の黒武具」の仏具が添えられる。(三昧耶形)

この様に、「青木氏の節会」は ”先祖との会する場”ではあるが、この”会する事”は「賜姓族(3つの発祥源)」を頑なに護る事の意を持っていたのである。
其処には、「護る意」のみならず「歴史的な意味」が語りつくせないほどにあった。
恐らくは、これらの「密教所作や仏具」は、仏法の「戟」「宝塔」「法棒」等の「三昧耶形の一式」であり、「九度作法」(節会作法)と呼ばれ、れぞれの「節会所作」にはそれなりの意味があった。
それを次ぎに注釈として論じて置く。
兎に角、「道標行燈」にしろ、「毘沙門天信仰」にしろ、「茶釜の作法」にしろその理解の前提と成る予備知識がないと「青木氏の密教所作」は充分な理解が得られないであろう。

・「注釈1」
ハに付いて、「紅白の配色」には、通説は「源平合戦の色分け」とされているが、元より「賜姓族青木氏の象徴色」として、且つ、奈良期から「3つの発祥源」として「色の源元」の「白」が用いられた。要するに ”「青木氏の賜姓色」”である。
他に”「あおき木の賜姓木」””「象徴紋の笹竜胆の賜姓紋」””「大日如来坐像の賜姓像」””「毘沙門天像の賜姓像」”等と共に「白色」は「青木氏の氏色」であった。
これに対して、同じ「賜姓族源氏」が、「源平の戦い」に際して、「賜姓青木氏の賜姓白」を用いた。それに対応して「賜姓平氏」は、「紅」を用いたものである。
本来であれば、「賜姓平氏」は対象色は「赤」と成るが、「中国の故事」に習い「紅」を用いたものである。
「青木氏の象徴紋の笹竜胆紋」も源氏がこれに習って使用したものであるが、そもそも、「嵯峨期の詔勅と禁令」には、「源氏」には「象徴紋や白」などの「賜物の規定」は元より何もない。
むしろ、「嵯峨天皇の詔勅」には、反対の意味合いの内容(”「朝臣族の身分」のみを与えるが、「民への負担」を考えると何事も自ら切り開け”)が記されている。
従って、「賜姓源氏」は「同族の賜姓青木氏の賜物」を用いたのである。
昭和の終わりころまで「紅白角餅」と「紅白饅頭」を配った。


・「注釈2」
ホに付いて、家の中の南北の位置に「護り神棚」があり、これを清浄にして、且つ、南北の屋敷内に不浄なものがが無いかの清掃を行う。
この「護り神棚」は「荒神様」と呼称されて、古来より毎日一族がお神酒を捧げて祭る慣習が続けられた。
そもそも、「仏教」が伝来する前は、日本古来には、信仰するものを分けると、「和魂 にぎみたま」と「荒魂 あらみたま」とがあった。
特に、「民間の伝承」としては「和魂」が信仰された。
ところが「荒魂」は悪外を成すとして民衆は祀る事はしなかった。
ところが、「賜姓青木氏」は、民衆とは異なり、発祥時より、この「和魂」と「荒魂」を祭祀していたのである。
ところが、そこに「仏教伝来」があった。
古来より「荒魂」に当たる「荒神」なるものがあったが、ところが、この「荒神」の「悪神」を、逆に祀り、この「荒神」の「神通力」を利用して「守護神」にすると云う考え方を持っていた。
ところが、ここに「仏教の密教」が持ち込まれたのである。
そもそも、上記した様に、インド伝来の「密教の神格」には「毘沙門天」や「不動明王」などもこの「荒神」であった。
そこで、この「密教」では、その「荒魂」の「荒神」の「悪神」の「神通力」を使って「守護神」とする考え方があると説かれたのである。
元よりの考え方にこの密教説が一致し、「日本の風土」にもこの考え方が根付いたである。
つまり、どう云う説かと云うと、古来からいう「荒魂」を祀って、それを「荒神」として祀ることで「悪神」の部分を取り除くことが出来ると説いたのである。
言い換えれば、”祀らないと「荒魂」の「荒神の悪神部分」は消えず悪さを起こす。”と「陰陽師」や「占師」は説いた。祀る事で逆に「荒神」と成るとしたのである。
そして、その「荒神」は、ある特定の「荒魂」に宿るとしたのである。
「荒の魂」には「武の魂」「守護の魂」「財福の魂」があり、この「荒魂」に「荒の神」が宿り、「荒神」はその「荒の神通力」を発揮して「魂」を護ると説いた。
この「守護神」が「荒神様」なのであって、神格化した「毘沙門天」や「不動明王」なのである。
「青木氏」は、元来からあった「神道の和魂と荒魂」の中に融合して、この考え方を「青木氏密教」として取り入れたのである。
要するに、「神仏習合」を「仏教伝来」と共に古来に成し得たのである。

上記した様に、「密教の神格」の「毘沙門天」は、北方十二域を守護すると云う「密教説」に従い「毘沙門天」の神を、南北の「家の中」の位置に「青木氏」は古来から祭っていたのである。
これが「荒神信仰」と云うものに発展した。
しかし、この「荒神信仰」には大別すると「二通りの系統」があった。

「屋内」の「三宝荒神」 「守護神」を持つ青木氏等が祭祀する「荒神信仰」の事
「屋外」の「地荒神」  庶民等が祭祀する「自然物」を祭祀する「荒神信仰」の事
以上とがある。

・「屋内の荒神」は、「中世の神仏習合」に依って「神社や修験者等の関与」により、「火神」「竈神」の「荒神信仰」に、「密教仏教」や「修験道」等が伝道した「三宝信仰」(下記)が結びついたものである。
これらの「屋内荒神」は、密教を宗派としている青木氏等の「特定階級の荒神信仰」であった。

・「屋外の地荒神」は、山神、屋敷神、氏神、村落神の「神格」があり、「樹木や塚」の様な自然物をも「地荒神」と呼んだ。「自然=地」から「地荒神」と呼んだ。
中には飛躍させて、民は「牛馬の守護神」として「荒神信仰」も創出した。
これらの「地荒神」は全て「庶民の荒神信仰」であった。

有名な祭神には次の様なものがある。
「道祖神」「産土神」がある。火神系を「荒神」として祀っている。
「神道系」にもこれら「火神系」と「竈神系」の「荒神信仰」がある。
「密教」「道教」「陰陽道」等が習合した独特の「スサノオ信仰」がある。
「祇園社」(八坂神社)でも、「三宝荒神」を祭祀している。

「三宝」
さて、この「三宝」とは何なのかである。
その前に、次ぎの注意事を知っておく必要がある。
平安中期頃に密教側の中で、屋内の「三宝荒神」には次の様なものがあるとされていた。
如来荒神(にょらいこうじん)
麁乱荒神(そらんこうじん)
忿怒荒神(ふんぬこうじん)
の三神を指す。
ところがこれらは「偽経」とされる説でもあった。
(「偽経」とは中国で作成されたお経の事。)
「仏教の如来」の扱いは、日本古来宗教側から観れば、「和魂」である。
其れなのに「荒魂」とは矛盾している。
この事から、大和には根付かない「妥協の産物」として排除された。
後の二つの荒神は、至るところに”「乱怒の諍い」を起こす”と批判され、当に、荒れ狂う「荒の神」の「悪神」である。
この「悪神」を「仏教の三宝の力」で沈められるとしながらも、「悪神」も「神」としてそのものが存在すると云う偽経の説は大和には受け入れられなかった。
それは、この「悪神」そのものを「沈め治める力」は、最早、「人」には無いとして「偽経の神」と扱われた。
インドの「釈迦仏教」では無く、「中国仏教の説」で、中国の「最古の道教」の影響を受けた「中国仏教」と観られ「虚偽の荒神」として大和では排除された。
中国の”石も薬”から来る思考原理で ”矛盾も又真成り”の論調の中国宗教であった。

「伝承解決者」
では、この様な国家的問題を一体誰が解決したのであろうか。
放って置いて解決する問題でも無く、国家的問題を古来の占者が、時代考証的にも平安期の陰陽師でも無い事は判る。果たして誰なのか。
この様に、文学は兎も角も、中国宗教に関しては、「中国儒教」と共に、不思議に日本には古来より根付かない歴史を持っていた。
”矛盾も又真成り”の「中国特有の論調」が「大和の人民」には素直に受け入れられない歴史を持っているのである。ここが、決定的な ”漢人と倭人との違い”である。
丁度、この「和魂」「荒魂」の古来宗教の奈良期の頃に、後漢の阿多倍王が率いる「200万人の職能集団の帰化」と「古代仏教」が持ち込まれたのである。
恐らくは、”漢人と倭人との違い”大きく出て、大変な騒ぎと成った事が容易に判る。
そこで、考えられたのが、両者の繋がりの「妥協の産物」として、「和魂」は兎も角も、「荒魂」に「三宝」を結び附ける事で、「荒魂」の「悪神」は消え、荒々しい「武魂」は、「武神」に成るとした仏説を創造した。
そして、その「武魂」が「神」と成った事で、「武魂の守護」も「神」と成り、「武魂」に依って得られる「財」も「福神」に代わるのだとする密教説を造出した。
そこで、この「武神」を密教仏教の「毘沙門天像」に偶像として求めた。
この「荒魂」に類する密教の「武神」と成った「毘沙門天像」と、古来の「荒魂」の「荒神の偶像」とを結び付けたのである。
この時に、上記する様に、幾つかの結び付け方が現れたが、取捨選別されて、「武神と成った毘沙門天」と「荒神と成った悪神の荒神」が結びついたのである。

さて、この時、最初に新しい「密教仏教説」を受け入れ、且つ、「和魂と荒魂」を護っていたのは、他でも無い「賜姓族青木氏」であって、「三つの発祥源」として、「国策氏」としてその役を担わされたのである。
当に、寸分も違わない同時期である。
これは偶然でも無く、朝廷はあらゆることを鑑みて、「国策氏」としてこの問題の解決に取り組む様に役付されたのである。
その為には、これらの問題に直面していた「天智天皇」と「天武天皇」は、「自らの子孫」をその役務に付ける事が必要に成り、最も信頼していた「施基皇子」と「川島皇子」にその役目を与えたのである。
その為には、「天皇」に継ぐ「家柄と身分官位官職」などの一切の「高位公職」を皇太子を超えて与える必要があった。それを、「第四世族内の朝臣族」にして「第六位皇子」にして「賜姓」したのが、この所以なのであった。
(補佐として第七位皇子の「川島皇子」にした。後には、「藤原秀郷」に対して特別に「青木氏」を賜姓して更に補佐させた。)
つまり、「国策氏」として、最初にこの問題に取り組んだのが「5家5流賜姓青木氏」であった。
言い換えれば、上記の様に「違い差」が出ていた「和魂ー荒魂の古来宗教」+「密教仏説」の”結びつきの解決”を図ったのが、歴史的にこの「2つの青木氏」であった事になるのである。
この「2つの賜姓青木氏」以外に、この時期に両者に関わっていて、古代密教を継承して、解決に必要とする「特権」を持ち得ていたのは、「青木氏」に於いて有史来他に無い。
これが、「毘沙門天信仰」と「三宝荒神信仰」とを悠久の歴史を以て継承して来た所以なのであった。


この「三宝荒神」の三神は、後世、「僧や陰陽師や占師」の「生活援助」の為に、この「三宝荒神」を信仰(帰依)するよう考え出されて説いた稚拙仏法のものであって、陰陽師が政治に絡んだ時期を境に平安期中頃には消え去った。
これらの「荒神」は、結局は「インド由来の仏教尊像」では無かったのである。
結局は、この論調を採る「密教の氏」は出ず排除されたのである。
本来の「三宝荒神」は、日本古来から存在する宗教(「和魂」「荒魂」)に、「古代密教仏教の信仰」が加わって独自に「習合発展した尊像」である。
本来の「三宝荒神」はその代表的な物である。

「仏・法・僧」の「三宝」”
では、その「三宝」とは、そもそも「仏教」を維持する上で、最も「大事な宝」とするものであり、それは「仏・法・僧」であるとした。
”密教仏教での「仏・法・僧」の「三宝」”とは、”日本古来宗教の「荒魂の荒神」を沈める”との「神仏習合」を成し得た「仏説」の「密教具」とされる。
ところが、この「三宝荒神」には三神があるとされるが、ここで云う「三宝」とは何れのもの何なのか。
1「同体三宝」の説
2「別体三宝」の説
3「連携三宝」の説
以上があるが、通説の「三宝」とは、3の”仏教を維持し伝えて行く上の「三宝」で、「仏像」と「経巻」と「出家僧」の三つを言う説”が一般である。

つまり、次ぎの密教説である。
a「仏」=悟った仏
b「法」=仏説真理
c「僧」=釈迦伝道師
と説かれていた。
ところが、この「abc」の「同体説」と「別体説」の「二つの三宝」は、大和には馴染まなかった。
この「abc」の「3つの連携」で以って、”ここに特徴を生かしてその力を発揮して「大和古来の荒魂」の「荒神の悪神の神通力」を沈め治める”としたものである。
この事に依って、「荒神の悪神」は鎮まるとしたのである。
これらの「三宝荒神信仰」は、「荒魂」の「武神」や「守護神」を神格としている事から、「密教」を宗派とする「武家の氏」(青木氏)の「信仰体」として大きく発展した。
この「三宝荒神信仰体」は、江戸期に入っては、「三代密教」のみならず「密教系を基とした顕教の宗派」(真宗や曹洞宗)の武士にも一部信仰される様になった。

(江戸初期には「密教作法」は禁止されたし、全て宗教は顕教とした。「密教作法」が禁止された事に依って「三宝荒神の作法」は一部無く成った。)

この様にして、江戸期に成って、上記した「上級武家屋敷」には、「荒神の神棚」が設けられ、これを「荒神棚」と云った。
結局、江戸期に成って「密教作法」が無く成った事に依って、「青木氏」が行う「密教の毘沙門天信仰」との連動は、「上級武家屋敷」では無く成り、「上級武士屋敷」の”「年暮節会」の「荒神祓い」”のみに成ってしまった。
この「荒神棚」は、南北の位置に配置し、毎月には「晦日(みそか)の祭り」を行い、「荒神祓(はらい)」と云う祭祀を行った。
「伊勢青木氏」は、兎も角も、他の数少ない「密教氏」であった家でも、「毘沙門天の節会作法」(九度作法 )との連動は殆ど無く成り、”先祖との会する場”の「概念の伝達」は残念ながら消え去り、「荒神祓い」のみの祭祀になったのである。
従って、今や、頑なにもその立場を守り通して来た「伊勢青木氏」にしか「三宝荒神信仰」と「毘沙門天信仰」の「密教作法」は遺されなかった。

「地荒神信仰」としても、民衆の中には「大きな伝道」を興したが、矢張り、元々、何れも古来よりの「密教所作」である事から、「伝道の力」は極めて弱かったものであろう。

去りとて一方、”「不浄や災難」を除去する神(荒神力)”とされることから、逆に、江戸中期には庶民には見直され、「火と竈の神」として信仰され、台所の”「かまど神」”として祭られた。
日本では、”「台所やかまど」が最も清浄なる場所である”とする事から、庶民の「地荒神信仰」と共に、密教氏の「三宝荒神信仰」でも、江戸期に成って、次第に庶民の間でも、「密教の三宝」とは関わらず、単なる信仰として ”「限定された場所」”で信仰される様になった。

因みに、その良い例が、次ぎの事で証明される。
現在は ”かまど”は全く無く成ったが、現在でもその習慣が一部遺されている。
この「竈荒神」によると、「幼児の額」に「荒神墨」を塗る習慣が江戸中期から起こった。
それは、「竈墨」を”額の中央に塗る”と、”「荒神様の神通力」に依って「子供の難」を逃れられる”と云う習慣である。
庶民は「墨」の×印、武士は「朱」の丸印を点けた。
これは、京都から以西に広く広がった”「あやつこ」”と呼ばれる習慣で、現在でも、「祖先神の神明社」等の神明系神社では盛んに引き継がれている。
これは「青木氏」の「皇祖神ー子神の祖先神の神明社」の500社程の建立に明治期初めまで携わった事から江戸期に成ってもすたれずに遺されて引き継がれて来ているものと観られる。

平安期の「古文献」によると、この「あやつこ(綾子)」は”元は「紅」で書いた”とある。
だが「紅」は、上流階級でのみ使われたことから、一般の庶民は「すみ」、それも「なべずみ」で書くのが決まりであった。
この庶民の「なべずみ」を額に付けることは、「家の神」としての「荒神の庇護」を受けていることの印であった。
東北地方でも、この印を書く事を”「やすこ」”を呼ばれていた。
関東以北にも、この「荒神信仰」の「かまど信仰」は伝わった事を物語る。
ここには「一切の密教性」が無く、「仏教性」さえも無く成っている。
「密教性」、「仏教性」が無く成れば、最早、それは、元の「和魂」「荒魂」の「古来の宗教」に戻っている筈である。
然り乍ら、「荒魂」の「荒神」の「悪神」は消えているのである。
「庶民の消化力」は、”時には「仏教力」を超え、時にはその「仏教力」に頼る。”と云う能力を発揮する。
ここが、「密教力に頼った氏」青木氏とは、その柔軟性には大差がある。

一方、全国的に「御宮参り」のみではなく、一切の「神事」に参列する「稚児(ちご)」が、同様の「朱印」を付ける慣習が関西には未だあるが、これらは上記した「武家の習慣」(あやつこ)が逆に庶民に同化したものである。
庶民は、”自らに利あり”とすると、”貪欲に余計なものを取り除いて、「自らの神」として同化させる。”のである。
古来より、「武家」の「朱印」の「あやつこ(綾子)」を付けたものは、「神の保護」を受けたものであることを明示し、それに触れることを禁じたのであった。
これが庶民に一部同化した「三宝荒神信仰」の名残である。

遺された「古来の絵」には、「奈良時代の宮女」には、「あやつこ(綾子)」の影響を受けたと思われる「化粧の絵」と、又、「象徴する物品」にもこの「朱印」を付ける習慣もあった「絵」が遺されている。
これらは「古来」の「伝統的」な「宗教」の「荒神祭り」の所以である。

参考
「あやつこ」とは、その語源は、”あや”は「言葉の綾」と云う風に、言葉と言葉の間の微妙な意味合いを指す。つまり、現世と彼世の間を取り持つ事を指し、「荒神」や「毘沙門天神」がその働きをすることから ”あや”成る言葉が使われた。
”つこ”の語源は、”やっこ”の「奴」に通じ、その「綾」を伝える物体を指す。
関西の一部では”やっこ”と呼称する地域もある。
つまり、「綾奴」の意味を成す。
東北の ”やすこ”は、”やっこ”(奴:荒神や毘沙門天)が訛った形で変化したものである。
「奴の顔」が「毘沙門天像」に似せて描くのもこの事から来ている。

参考
逆に、「地荒神」では、江戸期に入って「庄屋、名主、豪農、村主、豪商 郷士 郷氏 元武士」の屋外に、”「屋敷神」「同族神」”等として祀る「荒神」があった。
各地方で大きく祭祀の方法が異なるので、一概には言えないが、「名主や庄屋や豪農や郷士や郷氏」などの「旧家武家」では、「屋敷」かその周辺に「屋敷荒神」を祀る例があった
庶民の「地荒神」も、密教系の武家階級の「三宝荒神」と同様に、上記した様に、節句には、「荒神祭り」を、「稲作の収穫祭」のような感じを以って行われた。
これらは「頭屋制(とうや)」で、「同族や集落の家々」が「輪番」で祭を主宰する古い祭りの形式を伝えている。
これらは、”古来より土地に根付いた武士達”が、古来の「和魂」「荒魂」の概念を受け継ぎ、「密教の影響」をあまり受けなかった「郷士や郷氏」に受け継がれて来た。
逆の現象として「地荒神」が遺された。
未だ、地方の田舎に行けばこの慣習は細々と維持されている。


そもそも、この「荒神」の「像」は、「毘沙門天」や「不動明王」に通じた「怒りの形相」である。
「持ち物」は、一般には 右手…独鈷・蓮華・宝塔(五鈷杵・金剛剣・矢)。左手…金剛鈴・宝珠・羯磨(金剛鈴・弓・戟または槍)のような形がとられている。
これは上記した様に「毘沙門天像」と全く同じである。

つまり、「日本古来の荒魂の荒神」と「密教仏教伝来の神」とが融合して「荒神」=「毘沙門天」と成った事を意味しているのである。
古来の奈良期に起こった「初期の神仏習合現象」であって、「賜姓青木氏」はいち早くこの現象を捉えた事を意味するのである。
「毘沙門天信仰」=「三宝荒神信仰」であった。
それが、現在まで「伊勢青木氏」の「個人の家間」の中で、「古来の伝統」として頑なに維持されて来た事を物語る「密教作法」(節会作法)なのである。

(正直な処、もう少し早く筆者が「伝統の研究」に気が付けば、更に貴重な復元が成されていたとも感じられる作法である。何か違うなとは思ってはいたが、残念ながら、「有形の物品」では無く、「無形の作法」であったところが落とし穴であった。)


・「注釈3]
イに付いて、「家伝宝刀」は、現在は法律にて所持出来ないので、模型が使われているが、昭和25年までは、「伝家の名刀」(大小10振り)であった。
「武神」である事から、先ず「刀類」は祭祀には欠かせない。
「3つの発祥源」の「第四世族 第6位皇子」から「皇族」を臣下して初めて「公家」とは異なる生き方をする「武家」を発祥させた。
そして、この「武家」が「公家」とは異なり、初めて天皇を護衛する「武力」を持った身分の「侍」を発祥させた。
それまでは、”天皇を直接護衛する「親衛隊」”と云う組織は無かった。
「天皇」に四六時中、着きつ離れずに「さぶらう役」から”さむらい”(侍)と呼称される様に成った。平安期には”「武家」の「さむらい」”が護る事から、「武士」と呼ばれた。
この「武士」が宮廷の北門を護ることから「北面武士」と呼ばれた。

この最も有名な侍としての歴史上の人物は「源の頼光」であろう。
「藤原道長」に終身仕えこの「武家」ー「侍」としてその「典型的な役」を全うした人物である。
この「武家ー侍」は、下記に述べる「武人」「防人」「鎮兵」の「兵士」とは別であった。

因みに、この「武家出自の侍」の位置づけがどの様な所にあったのかを論じて置く。
それまでには、次ぎの「3つの武装集団」が奈良期から室町期末期まであった。
1 中央の豪族や地方豪族が「従者と隷者」に武器を持たせた軍があった。これを「国造軍」と呼ばれた。評や郡の地方組織が独自に編成していた。
2 阿多倍王に率いられた後漢からの「職能軍団」が存在した。「漢氏」と「東漢氏」と呼ばれ蘇我氏等がこの職能軍団を雇っていた。
3 奈良期の「大宝期」に「国家統一」の為と、沿岸部が他国から侵略される事が多く成った為に、国による軍団が編成された。
税に対する目的から初めて戸籍(庚午年籍)が天智天皇に依って編成された事を踏まえて「徴兵制」が敷かれた。これを兵では「防人」や「鎮兵」と呼ばれ、将では「武人」と呼ばれた。

これらは「武装集団」であって、個人としては「一般人」であって、「個人」がある「特定の人物」等を「武」を以って護りさぶらう役目の「武士」即ち「侍」は、「武家の賜姓青木氏」が初めてである。
この”「武家」”は、江戸期に「一般武士」を以って”「武家=武士」”を呼称されたものとはその意味が異なる。
この「武家」は「公家」に対する呼称で、氏家制度の中で「氏」を大きく構成する家筋の「身分家柄」を意味するのであって、「立場」のみを意味しない。

上記123は、3に集約されて平安期は朝廷軍、鎌倉期は幕府軍に成り、この軍団の編成は、指揮する上位5階級までは「侍」の「武士」が全てを担う様に成った。
その5階級の「武士」の配下にそれぞれの従者や隷者(家来、家臣と呼称した)が編成して軍団を編成する様に変わったのである。

その軍団の指揮に当たるのは上位5階級の軍階級であった。
大毅(だいき) 大軍団 小毅2名 
小毅(しょうき)小軍団 500人
校尉(こうい) 200人
旅帥(ろそち) 100人
隊長(たいちょう)50人(一騎 最低単位の指揮官)

以上が兵士を統率した。
軍団は百人単位の編制である。

主帳(さかん)主計局
火長 炊事斑 10人

奈良期からの一騎の隊長は、自ら50人の兵士を何らかの形で集めなくてはならない。
この兵士には、上記2の傭兵も含めて、常時、家臣として確保しておく事が義務づけられる必要があった。
実際は、平時はこの6割程度の範囲で治めていた。
この常時の一代限りの傭兵の俸禄は家臣の約半分120石程度が相場であった。
武器具は、原則手弁であった。大型具などは軍団の指定支給であった。
鎧兜等の特殊具はその軍団の経済力に左右した。
戦いの時は4割の兵を「鑑札をもった者」(仲介人)に頼んで近隣の村から農兵等を集めて貰う。
「上記2の末裔」は、地方で細分化した「傭兵軍団」を編成し「・・党」を形成して、各地に”「国衆」”として転戦してはその勢力を拡大させて行った。
勢力と転戦の経験に依ってその「傭兵の契約金」が変わる仕組みであった。
この制度は、室町期末期まで続いた。

以上の軍人に対比して、「賜姓青木氏」は「3つの発祥源」の立場にあった。
「軍人」≠「侍」で、「侍」は「武家」を構成した。
奈良期から、「技能官人」と呼ばれ、その官人は二つに分類されていて異なった世界を持っていた。「武術の技能官人」
「単なる技能官人」
とがあった。
前者は、「侍」として「武家を構成する高級官人」で、公家の上級官僚の「侍」を務める。
後者は、「武人」として、「家柄、身分、位階等を有しない下級官人」で軍団に所属する。
大化期前までは、後者の「武人」と徴兵制で集めた「防人」に依って編成されていた。
「武人」は従者や隷者を集めて兵士を構成した。

大化期後は、「青木氏」の様に、特定の賜姓により「武家」を新たに構築して、「特定の人」をその技能を以て護衛する官人を新たに作り上げた。これをその役職から「侍」と呼称した。
そもそも「侍」とは、”天皇を含む上級の特定の人にさぶらう事”で、この”「特定の上級の人」”は、「仏教の作法」で、生きている時から、「法名」としての戒名の”「寺・院」”を持っていた。
この「寺院の人」に”「さぶらう人」”で、この「寺と人」の造語として「侍」として、これを”さむらい”と呼称する様に成った。
(天皇等の人が位階在位を退いた時に、この自分の”「門跡寺院」”に入る。)
これが、最初に「賜姓」を受けて成ったのが、当に ”「青木氏」”であった。
この「武家、侍」の「二つの発祥源」に続き、「天皇」は「万民の象徴」として「民族の頂点の人」として位置づけられ、これに従って、その子は「真人族、朝臣族」として、賜姓して下族臣下すれば、「民の発祥子の元」として位置づけられた。
”「民は天皇の子」(朝臣子)”であるとする「万民一計の図」から、況や、”その「子の発祥源」と成り、その「子」の範たる位置を成す”とされた。
この”「賜姓五役」”を与える代わりに「不入、不倫の権」の大権を与えた。

参考
(平安末期には、「源氏」の様に「武家」を構成しても、必ずしも「侍」に成れるかは保証は無かった。特に分家筋には「侍」に成る為の就職活動や縁故が必要であった。嵯峨期詔勅で、”朝臣の身分を与えるから自ら切り開け”と明記。 強いて”幾つもの難しく重要な役目”を与えられた「青木氏の賜姓」とは異なった。嵯峨天皇は、”これは民に負担を掛けない事による”と明記した。従って、天智天皇から光仁天皇までの「青木氏の賜姓」と、嵯峨天皇から花山天皇までの「源氏の賜姓」とは意味が異なっていた。「青木氏の賜姓」は「役を与える賜姓」、「源氏の賜姓」は上記の「朝臣子のみの賜姓」であった。 況や、「皇室の負担減らし」であった。これが、社会に「戦乱の前兆」と「荘園制の弊害」を生んだ。)

・「注釈4」
ロに付いて、「武の基本所作」の「軍配挙手」では「伝来の扇軍配」を持ち、伝来の馬杯に酒を注ぎ、「馬杯酒飲」を行い、「刀剣手掛」では鹿の角で出来た「伝来刀掛け」に刀を掛ける所作の3つを行う。
結局、次ぎの所作が成される。
一 「武家」には「伝家の宝刀」
二 「侍」には「将騎」として「伝家の軍杯」
三 「朝臣子」には「伝家の馬杯」
四 「国策氏」には、「永代正二位青木朝臣左衛門上佐」として「伝家の家紋刀掛け」
五 「融合氏」には 「陣笠」と「黒瓢箪」(江戸期は鎧兜着用)
以上は、「賜姓五役」と呼ばれた
紋付袴の正装でこの儀式を嫡子が行う。
(「鎧兜具足類一式装」は明治35年に消失した。)
「三つの発祥源」の「三つの役目」には、夫々の「伝統の武具」があって、それを使って、「武の所作」を指し示す事に成っていた。
ところが、江戸時代中期までは、この「所作」にも”正式なもの”があった様で、現在では伝わっていない。
一族一門が集まっての「盛大な儀式」であったらしく、「一族一門の者」から次ぎの時代を担う若者が選ばれていた。
青木氏は、慣習仕来りから一族の者は全て子供であり、「福家」のみの子供とは限らない。
15歳程度の若者が複数選ばれてこの役目を果たしたとある。

参考
一人とは限らず、主な5人がこの「5つの役割」に分けて務めたとある。選ばれる事に誇りを持っていたとされ、何時しか、「青木氏」をリードする役目を担わされる事が約束された儀式でもあった。
世間への”お目見え儀式、お披露目の儀式”の”意味合いも兼ねていた”とされている。
古来よりこの「賜姓五役」には、細分化すると「多くの役」を持っていた事があって、「守護神」、「神明社」、「菩提寺」、「絆青木氏」、「殖産事業」、「二足の草鞋策」、「伊勢藤原秀郷流青木氏」・・等に分けて、その「若者の長所」を見抜いて若い時から指定して、「部の長」等が彼等を教育し指導する体制であった。その為に、一門化する為に女系の「2つの絆青木氏」(「部の長」)を広く構成した。「武家」の「賜姓五役」と「二足の草鞋策」(殖産・総合商社)であった事から、現在の会社組織に類似していた。
若者が足りない時は、「信濃」から「甲斐」から一族の若者を養子として子供の時から養育していた。
この「賜姓五役」の達成の為の「神格偶像」を求めて、「五つの儀式の所作」には、「三宝荒神信仰」と「毘沙門天信仰」が組み込まれていた。


・「注釈5」
ニに付いて、これらの「所作伝統」は「福家」が行うが、「笹竜胆紋入りの幔幕」がその「象徴物」として用いられた。
然し、現実には、現在では「幕」の家紋部の一部を見せるだけで「幕」としての事はしない。
「幔幕」を張る事への世間への余りにも違和感が、現在ではあって実行しない。
大正の終わりまで行われていた。むしろ、明治期までは、「嵯峨期の詔勅と禁令」が明治期まで護られた事もあって、「賜姓族」として誇示をしていた傾向があった。
大組織を維持する「青木一族と長の判断」だけでは無く、組織そのものが、その様に押し上げる傾向があったらしく、「幔幕」は、その「誇示する象徴物」で「家紋」と同じ意味を持っていた。
むしろ、「家紋」そのものを”誇張する道具”でもあった。
「伊勢青木氏」は、「四家」と呼ばれる家が伊勢の各地にあって、松坂を中心に、員弁、桑名、名張、四日市に「一つの流れ」を持っている。
しかし、家の優先順位は無い。ただ、全体のリード役としての家を「福家」と呼称し、「・・殿」と着けて呼称する。「松阪殿」が「福家」である。
武士で云えば「本家ー分家」の組織に成るが、氏家制度の「絶対的権利」を持っていない。
従って、「本家ー分家」の家紋では無く、「氏の象徴紋」である。
従って、「家紋」では無い為に「副紋」や「丸付き紋」は使用しない。

この「幔幕」の中央より左右に大きな「笹竜胆紋」の文様が染め込まれていた。
一族一門とそれに連なる関係者(氏関係者と商業関係者)が羽織袴で挙って集まり祝いする。
この「主な儀式」(四大節会)には次ぎのものがあった。
「氏に関係する儀式」は「端午節会」
「女系の氏に関係する儀式」は「雛節会」
「伊勢族に関係する儀式」は「盆節会・彼岸節会」
「伊勢四家族に関係する儀式」は「暮節会・正節会」、
後は、「親族の内家」で、「荒神毘沙門信仰」として「月節会」が簡単に行われた。
(実は、「稲荷信仰」も、「古来の和魂宗教」と「祖先神の神明社守護神」の「伊勢神宮 豊受大御神」の関係から、「賜姓五役」の副役として細々と行われていた。)
以上が盛大に行われた。

参考
相当の経済力が無いとこの節会は行えず、「信濃青木氏」は、「伊勢青木氏」との親交が深かった為にいざ知らず、「甲斐青木氏」は、その「二足の草鞋策」への取り組みがあまり積極的に無かったことから、独自に以上の様な「密教の儀式」を行えたかどうか、将又、「節会の作法」等を遺し得たかは疑問である。
室町期中期頃からは「甲斐青木氏」には家勢から無理であったと観られるし、何がしかの記録に突き当たらない。
普通の江戸期の「五節句」程度の事の祝事は営まれていた事は考えられるが、「密教性作法」のものは考え難い。

中でも「端午節会」は、信濃、甲斐、近江、美濃一族と関係者を集めての儀式であった。
菩提寺と居宅に幔幕を張って行われた。
幔幕には「賜姓族」を表す「白幕」と「青幕」があった。
「白幕」は、「嵯峨期の禁令」にて「賜姓族青木氏」以外には一般には使えない事に成っていた。
この禁令も明治期まで護られていた。
「笹竜胆の家紋入白幕」は青木氏に関わる上記の「四節会」には使われた。
一般では「黒幕か濃紺幕」であるが、「青木氏」は、葬儀、法事でも「白幕」を使った事が判っている。
これは、その「使用する目的」によって分けるのでは無く、上記した様に「紅白角餅」等と同じく、「白」は「氏色」であった為に用いた。この事はよく聞かされていた。
「白色」の中に、「黒色の笹竜胆紋」が染め込まれている。
「青幕」(緑系青)は、「氏木」の「あおきの木」の色であった事から、独自の「副氏色」として使用していた模様で、婚姻、祝事等の「密教性作法」に関わらない諸事に用いられた。
何事にも「白幕」ばかりを使う事には、朝廷や他の賜姓族(秀郷流青木氏一門)に憚られたと考える。
青の幕の中に「対の白の笹竜胆紋」が染め抜かれている。
(現在も伝来品が遺されている。筆者の息子の結婚式に使ったところ質問攻めにあった。)

参考
因みに、その盛大さは、「超大地主」であったことから、奈良や紀州や伊勢の各地の農民等の代表者等が泊りがけで集まったと伝えられている。
その為の宿泊の準備では、「菩提寺と関係寺の解放」、「各地神明社の解放」と「全ての居宅や旅館」を確保したとされる。
「土産物」「引き出物」などは、地元の家々の分も大八車に載せて列を組んで運んだと聞かされている。
明治35年以降は、「端午、雛の節会」は、形式的に終わらせ、「盆彼岸の節会」は普通に内家で行った。
現在は、「盆彼岸の節会」「暮正の節会」は「毘沙門天荒神節会」と合わせて家内で形式的に消えない範囲で行っている程度である。実際のところ”文書に遺せる範囲の維持”と成っている。



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