青木氏氏 研究室
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  [No.328] Re:「青木氏の伝統 11」−「血縁の伝統と概念」
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/02/14(Sat) 07:40:49

「伝統 11」

>前回の末尾

>論は「密教の道標行燈」に関わる「密教作法]の処から「毘沙門天像」と「三宝荒神像」の処までの「密教性のある伝統所作」を論じて来た。
>これだけの範囲ではあるが、「可成りの伝統」が未だ「青木氏」には遺されている。
>更に続けて、既に若い頃の論文原稿が有るので、修正を加えて生活に密着した「草の根の密教の伝統」を論じる計画である。

>”「密教性のある伝統所作」”としては、次ぎの事も大きく作用していると考えられる。
>それは、”「血縁の伝統」”と位置付けられる。



・「血縁の伝統と概念」
「青木氏の跡目」に関する「子孫定義」として論じる。

そもそも、「青木氏」には、”「子孫」に対する考え方”の定義が、古来より特別に持っていた。
これには、”「高位の家筋」”を継承する為の「慣習仕来り掟」(純血主義の概念)から来る”「特別な条件」”が在った。
この”「子孫概念」”では、その定められた”「氏の慣習仕来り掟」”により異なるが、「二つの賜姓族青木氏」では、ほぼ同じ「慣習仕来り掟」を用いていた。
(特に,「特別賜姓族伊勢青木氏」は、同等の慣習仕来り掟を敷いていた事が判る。)
特に、「青木氏」と「藤原氏北家秀郷一門」(特に本家筋での仕来)には、次ぎの様な「慣習仕来り掟」を持っていた。
現在から観れば、”特別な血族維持の概念”である。
従って、各地の秀郷一門の関東の秀郷一族一門等を含む「青木氏族」も異なるところもあるが応分にこれに従っていた。
少なくとも、室町期の「下剋上」や「戦乱期」があって、”「悠久の伝統」を持った氏”が、次々と消滅し衰退し、逆に、「姓氏」(農民庶民の武士 かばね)や、「勃興氏」(下級の武士)が発祥するまでの室町期末期までは、この”血縁に関する伝統”(奈良期からの「氏の純血性」の保全システム)はほぼ保たれていた。
ところが、江戸初期の時点では、ほぼ200氏程度あったこの「伝統」を誇る”「氏族」”も、遂には「青木氏]や「藤原氏」や[佐々木氏」等を除く20氏にも満たない「氏族」に成って仕舞っていたのである。

この”20氏にも満たない「氏族」”のこの”「根本的な氏の純血性」”を頑なに保全しようとする考え方は、次ぎの通りと成っている。

(注釈 平安初期に「公家」に対して、「侍」として発祥し、”「家」”を興した事から、”「武家」”として発祥した。
しかし、「一族の子供」は、”「孫の領域」”までを、全て”「子供」”として定義して扱うが、本来は、江戸期に云う”全ての武士の家”を”武家”と呼称する”「家」”の意味では無い。
平安期の”「公家の身分」を呼称する家柄”に対して、同じ身分と家柄を持つ”「氏族」”の”「侍の家柄]”を呼称したものである。
況や、ある”「子孫存続のルール」”を持ち、且つ、それに依って「伝統を興した氏族」として区分けするのが妥当であろう。
これが江戸期には”「武士の家」”から”「武家」”として呼称した。即ち、”「姓族」”を一般化した呼称と成ったのである。
資料から観て、室町期初期に瀬戸内から発祥した「海部氏」が「最初の姓氏」と成っている。
そもそも、「武家」を構成したこの”「氏族」”とは、「平安期の朝廷」と、「鎌倉期の幕府」の認可を得て、「氏」と「家」を構成したものの呼称で、所謂、「江戸期の呼称」とは質的に異なる。)

・「子の定義」
先ず、この「武家」の「氏族」の「子の定義」は、次ぎの通りと成っていたのである。
家には三代あるとして、「祖父母の親」から観て、「子供」とは、”「子」と「孫」”をこの範囲のものとする。
純然として ”跡目の権利”を持った前提として、「子と孫」は、”「氏の子供」”として扱われる。
況や、室町期からの「姓族」が敷いた ”本家−分家の「独占的な家の子供」”を定義しない。
そして、区別して”「孫」”を敢えて「孫扱い」とはしない。
つまり、「孫」を「孫」として、”特別な扱い”はせず、「跡目の権利」を持った「氏の子の範囲」として扱われる。「孫」=[子」「孫」≠「孫」と云う事である。
つまり、「跡目の可能性」が、当初から「孫域の者」までに無ければ、つまり、「跡目」を継ぐ必要性が無ければ、それは ”現在と同じ意味の「本来の孫」”の範囲にあるとするのである。
つまり、「孫」=「孫」と成り得る。
しかし、”跡目を継ぐ必要性が無い”と云う事のその様な現象は、”「氏家制度」”の中では、”大きな「氏族=武家」”である程に絶対に無い。
つまり、”「跡目継承の必要性」が無い”と云う事は、”「氏の滅亡」”を意味するので、あり得ないのである。
これが「氏家制度の社会」であり、この社会の中で生きている限りは、「跡目」の「数と質の確保」に徹する社会である。
それを成し得る手段として、「青木氏」であれば、表記した「四家制度」であり、「福家制度」であり、「氏是 訓戒」「慣習仕来り掟」の類の「伝統」なのである。
未だ、これでも、現実には、室町期以降の「氏族」と「姓族」には、実質は、「必要とする跡目数と質」では、”足りない位”の社会環境であった。
そこで、”「氏族=武家」”の範囲では、定義範囲の「孫域」では無く、”「曾孫域」”までに、「子の定義」は及び、「曾孫域の子孫」を ”「養子や養女」”としての定義を取り付けて、”「跡目の権利」”を、更に拡大させたのである。
しかし、”定義づけた”とは云え、「曾孫域」まで、その定義を広げる事は、当時の氏家制度の社会で、且つ、何時潰されるかわからない乱世の世の中では、並大抵の事では出来ない。
其処には、「氏の権力」や「氏の制度」を充分に及ばすことは難しく成る。
「氏家制度」とは云え、関係する氏の末端までに完全に制度は届かない。
むしろ、逆に、「遠縁」に成れば成る程に、多くの氏が「横の血縁」で関わり、「氏の独立」の感覚は必然的に強く成り、「賜姓族」としての「権威」を中心とした「青木氏の発言力」が届かなくなる。
しかし、更に、”「曾孫域」まで「青木氏の養女養子」”としても、そう簡単ではない。
せいぜい「孫域」までの「青木氏の発言力」「青木氏の統制力」であろう。
では、”「青木氏」としてはどうすればよいのか”と云う事に成る。
上記した「青木氏」の「賜姓族の権威力」だけでは最早、無理である。
”武力で抑え込む”とする方法もあるが、「青木氏」には、正式な表向きの”「武力」”は持ち得ていない。
謂わば、総じては「賜姓族」としての「権威」だけである。
「特別賜姓族」にしても、”「賜姓族」”と云う立場に於いては、「絶大な武力」は持ち得ていても、「賜姓族の氏の範囲」に於いては、「権威と力」を”表向きに放れ課す事”は無理である。
後は、「残された力」は、「経済力」にある。
この「経済力」は、「武力の行使の弊害」(力の連鎖)の様な事を無くする事が出来る。
しかし、「税に依る経済力」の範囲では到底無理である。
「民」に「税」として「負担」を強いるだけで、「永代」に続けなければならない制度であれば有るほどに、後に「弊害」を生む。
況してや、「青木氏」は「賜姓族」であり、「二つの絆青木氏」とも強く関係を持つ立場に於いては、”民の反感反発を買う事”は絶対に避けなければならない事でもある。
むしろ、絶対に使ってはならない「禁じ手」である。

(注釈 明治9年まで何度も「一揆等の支援」をしての「経済的背景」に成ったし、一族に「二つの絆青木氏」を持ち、「民」を含む「シンジケートの首魁」でもあった。
「民」と共に生きる、当に”「共生氏族」”であった。)

注釈として、 この”「共生氏族」”である事は、”世に晒す事無かれ 何れ一利無し 世に憚る事無かれ 何れ一利無し”の意に通じ、結果として、”「共生氏族」であれ”と宣言している事にも成る。
この「青木氏の氏是」は、「共生」を宣言している事を物語る。
 ”晒せて”世に積極的に「青木氏」が出る事は、社会に”阿る事”に成り、去りとて”憚ればれば”社会に萎縮する。
これは「賜姓族としての範たる姿勢」を失い、”民との間の解離”を生み出す。
依って、共生して生きる事が必要であった。
これは”「賜姓族」である”とする「宿命の所以」である。
この「氏家制度」の中で、この”「青木氏の氏是]を持つと云う事”を理解される「氏」はいなかった筈である。
有るとすれば、「共生族の民」であった筈である。故に、”民が作る和紙の殖産業”であった。

・「青木氏の発言力」
では、どうしたのかである。
終局は、「氏存続」の為にも、「共生」の為にも、この”「曾孫域の定義」を押し通さなければならない”と成れば、後は、残された手段は、”「二足の草鞋策」の「経済力」”と成り得る。
この他に「定義を押し通す力」と成り得るものは無い。
”「曾孫域」や「遠縁域」”とは言え、未だ薄い血縁の”「青木氏に関わる縁続き」”でもある。
この「経済力」をこの範囲に浸透され得れば、この”「発言力」”は、「縁続き+経済力」の関係で無理が無く、”「弊害」”を取り除いて達成させることは可能に成る。
従って、後は、”この数式論をを如何に浸透させるか”に関わる。


「定義を押し通す力」=「氏の発言力」=「経済力」


要は、上記の「力」そのものより、その”「浸透方法」”であったであろう。
恐らくは、”馬の鼻に人参”のやり方で”金品を放れ課す事”では、一時的な効果に終わる。
つまり、ギブアンドテイクに終わり、”「永代の発言力の浸透」”は無理である。

そこで、重要な事で有るので、”どの様な方式を採っていたのか”を調べて観た。

つまり、「二足の草鞋策」の「商いの範囲」が、”どの辺まで「組織力」を使っていたのか”を調べた。
(比較的、「商いの資料」は残されている。)
その結果から観て、「曾孫域」から「夜叉孫」までの領域の”「縁者」”と見做される家が、「商いの末端」までに充分に関わっている事が判る。
そうすれば、後は、その”家筋”を特定すればよい事に成る。

(注釈 「青木氏」は、そもそも、奈良期から「役務」から始まって、「商い」とした平安初期から、 ”「和紙」”を中心として”「殖産興業」を持つ「総合商社」”であった。 
それ故に、数多く出て来る「特定の氏名、姓名」と「屋号」の出自の調査研究をした。)


即ち、”「四家の副役」”の範囲を超えて、”大きく関わっている「氏名」、或は「姓名」と「屋号」”が、「遠縁筋」に当たる事から、この範囲に絞り込めば、実質の「商いの青木氏の組織力」は広がっている事に成るし、その”「組織力の浸透範囲」”が判る筈である。。
つまり、「商い」を通じて、これに依って、「青木氏の発言力」は浸透していた事に成る筈である。
既に、明らかに「広域の和紙殖産の商い」が、「悠久の歴史」を以って成り立っている事である事からも、間違いなく「発言力」は浸透していた事に成る。
この「青木氏の発言力」無くして遠縁までに「商い」が成り立つ道理はない。
つまり、間違いなく、”「遠縁」とする領域までの「適切な発言力」”は確かにあった事に成る。
そうすれば、後は、”「商い」”を通じての”「経済力との関係」”を強化すればよかった筈である。
”「経済力」”をベースとして深く繋がれば、「遠縁の者」に取っても、「縁続き」が深く成り、且つ、永代に「家」は潤い成り立つ事に成り、両者に執っても間違いなく「利得」である。
恐らくは、むしろ、「遠縁」の方から”「青木氏」の「跡目の状況」”を具に分析して、「福家」に「積極的な働き」を事前に示していたと考えられる。
(「特別賜姓族の伊勢青木氏」もこの「商い」と「伊勢シンジケート」に大きく関わっていた。)

この結果、中には、調べると、「青木氏との関わり」が想定できない”不思議な「姓名」”が、「商いの譜」の中に出て来る。
この「姓名」は、”歴史的に他の事変”でも時々出て来る「姓名」でもあった。
そうすると、この”「不思議な姓名」”とは、これは、恐らくは、「シンジケートの組織」の中との ”「氏外の縁組」”をして、”「養女での血縁力」”を高めていた事を物語る”「姓名」”である筈である。
つまり、「四家」や「家人」 (「商い」に従事し、「青木氏の嗣子」が「家人」と成った家筋) の中に、この”「姓名の血筋」”を入れて、「血筋のある遠縁の縁組」を積極的に作り上げて、所謂、”「曾孫域」(養女養子)”を敷いていたと観られる。
この事は、この様に、「曾孫域」までとする「養子養女システム」は、「縁続き+経済力」で、充分に成り立っていた事を物語っているものである事が判る。

・「曾孫域 遠縁組の組織化」
これらの”「遠縁組」”が、「四家」や「家人」と繋がって、「二つの血縁青木氏」と「二つの絆青木氏」と ”どの様に組織化されていたか”の調査をして見たが、判らないと云うよりは、”判別が就かない”であった。
そもそも、”判別が就かないと云う事”は、普通は「商社」であればおかしい。
逆に、”「商社」だからこそ「判別」を就き難くしている事”も考えられる。
”「賜姓族の商社」であるから、”強いて隠しておかねばならない事”と云う事が、「紙屋の青木長兵衛」に在ったのか”と云う事に成る。
在った筈である。
何故ならば、そもそも、根本的に「青木氏」には、”「賜姓族」と云う「民」の範たる立場”の保全の宿命を負っている。
世間から観て、”範としておかしい”とされる事は、”表向きにする事”は無理であり、常に配慮しなければならない立場にあった。
では、その”隠しておかねばならない事”とは何なのかである。
”隠す”と云う事は、陰鬱である。要は、世間に対して”公然”と云う事に成らなければよい事である。
そもそも、”「賜姓族」と「商い」の関係”は、”隠す”と云うよりは、”公に出来ない「既成の史実」と云った処であろう。
これは「悠久の歴史」を持った「公然の史実」で問題とは成らない。
故に、これ以外にあった事に成る。

”「青木氏」にだけ”に在ったものとして、次ぎの二つが出て来る。
考えられるのは、”「影の組織」”とそれを”「補完し合った組織」”である。

一つ目は、「影の組織」の「青木氏」に良く資料の範囲に出て来る「伊勢シンジケート」である。
二つ目は、各地に建立し続けた500社以上の「祖先神 神明社」である。

・「戦略上の手段」
そもそも、「祖先神 神明社」は、”「国策氏」としての役務”でもありながら、「青木氏の守護神」でもあり、「青木氏の諸々の戦略上の手段」でもあった。
「戦略上の手段」であるのなら、何等かのものとは繋がっていた筈である。
態々、500社にも成る程の「膨大な神明社」を、幾ら「国策」であるからと云って、全国に「自前の財力」で建立する事は先ず無い。
その”「財力投資」に見合った利得”が無ければ、建立する事は無いし、朝廷も”「特別賜姓族」を以ってして補完させる事”もしない筈である。
その「膨大な財力」を「商い」で賄っていたのであるから、「青木氏の最大の目的」(子孫存続の手段)に関わらさせない事は先ずあり得ない。

(注釈 「三つの発祥源」、「賜姓五役」など極めて難しい立場を熟さなければならない「青木氏」の「福家」と成り得る者は、多くの子孫の嗣子の中から ”「氏存続」の目的を成し得る能力がある”と見込まれた者が、選択されて成り得ている。
ここを見逃す「愚鈍な者」は成り得ていない。況して、累代の「福家」と成る者が”愚鈍であれば”ここまで子孫を遺さずに滅亡している。
”商才や一芸に長ける者”では無く、「指導力」のみならず、「指導」に必要とする”「権謀術策の才」”を持ち得ている大組織を動かし得る”「総合力のある者」”が「福家」に成り得ているのである。
世間が好む”通り一遍の綺麗事だけの指導者”では成し得ない難しさであった。
「青木氏の訓戒」に出て来る”「知略」に長ける事”が、”要求される「福家」”であったと考えられる。
これは、「総合力の在った者」かどうかは、「氏是」や「慣習仕来り掟の書」や「家訓添書等」の内容の意を読み取り観れば良く判る。
当に、「天地、天武、持統」の「天皇三代」に仕えた始祖”執政「施基皇子」の所以”でもある。
況や、その為の「四家制度」や「子の定義」が構築されている所以でもある。

(注釈 これだけの多くの「重要な役目」を同時に果たさなくてはならない「福家」は「一人顔」で社会に対して押し通す事が出来るかは実に疑問である。
幾ら「絆青木氏」を持ち、「共生氏族」であって、”「民」との繋がり”を強く持っていたとしても”理解し得ない「矛盾」”が生まれる。

「二つの絆青木氏」=「共生氏族」の数式論が成り立っていたのである。

これを理解してくれる程に社会は甘くはない。
従って、「一人の福家」が「幾つかの顔」を持っていたと考えられる。
その端的な証拠として有名な「歴史的に記録」として遺されている。
それは、室町期末期の「伊勢三乱」である。
「伊賀丸山城の戦い」は、一面では「豪商の紙屋長兵衛の出番」であった。武力は一切使わず出城築城の資材の手配商人として表に出て交渉し、資材調達の期間を遅延させ挙句は暴利を獲得して相手を弱らせると云う手段に出た。
更に、継続して二面では、裏で築城を大工組等で請負、「シンジケート」の「ゲリラの大工」を大量に潜入させて築城の邪魔をした。
三面では、時には、「織田信雄軍」に山岳部で正体不明の「シンジケート」の「ゲリラ戦」と食糧調達の邪魔を仕掛け疲れさせて、遂には、築城完成間近で、潜入した大工組が焼き討ちを掛けて燃やしてしまうと云う「三面の陽動作戦」を展開して勝利した。
この乱には、一切、指揮は執っていたが、「伊勢青木氏」の顔は表に出て来ないのである。

名張の「清蓮寺城の戦い」と「伊賀城の戦い」では、恣意的に態と「伊勢青木氏の顔」を表に出して、中立を保っている事を見せ、落城寸前に織田軍を油断させて清蓮寺側の側面の弱点を付いて突いて、敗走させた上で清蓮寺城の戦略上の拠点を護った。
更には、「伊勢北部の伊賀氏」を援助して、「シンジケート」を使って山岳部や平地のゲリラ戦で長期戦に持ち込み、一時的に「伊賀氏」を逃がす時間稼ぎの作戦を採ったのである。
これは「伊勢青木氏の長兵衛の顔」を表に、「シンジケートの顔」を裏にして使い分けたのである。
「丸山城の戦い」とは「逆の陽動作戦」であった。
信長軍は、「押せ押せの戦い」は強かったが、「商い」を駆使した戦いや「シンジケート」を使った「ゲリラ戦」には弱かった。

(注釈 後を引き継いだ秀吉はこの事を良く承知していた。伊勢の秀郷一門の「伊勢青木氏」と「伊勢伊藤氏」の協力を得ていたが、「青木氏」は、唯一遺された「村上源氏の支流北畠氏」を救う事が出来ず、「永嶋の戦い」では、この「陽動作戦」に持ち込めず早期に敗退し新宮に後退した。
「詰め」として、秀郷一門の「近江の蒲生氏郷」に「伊勢の後始末」を命じたが、「伊勢秀郷流青木氏」や秀郷の遠祖の「伊勢伊藤氏」との繋がりを持つ事から、「青木氏の伊勢」を本領安堵して松阪に戻した。)

結局は、奈良期−平安期−鎌倉期−室町期−江戸期の五つの期を通じて次ぎの様な「数多い顔」が「二つの青木氏」には出来上がっていた。

・「5つの面」「20の顔」
次ぎの「5つの面」と「20の顔」を持っていて、これを使い分けなければならなかった。

・権威
「賜姓族の顔」−「権威と象徴」を「民」の前で「範」として通さねばならない立場
「衣冠の顔」−「最上の位階」の立場
「朝臣族の顔」−「天皇を護る身分家柄」の立場
「三つの発祥源の顔」−「武家、護衛侍、氏族」として「権威と象徴の範」としての立場
「賜姓五役の顔」−「国策氏」として政策を実行する立場

・家柄
「青木氏の顔」−「二つの青木氏」との連携を図る立場
「四家の顔」−「青木氏一族一門の福家」としての立場
「郷氏の顔」−「地域の村主地主」の立場
「氏族の顔」−「姓族と民」の範と成る「氏上」の立場
「共生族の顔」−「民」側に位置して共生する立場

・宗教
「祖先神の顔」−「青木氏の守護神 祖先神」を護り通す立場
「神職の顔」−「神明社」を維持する立場
「住職の顔」−「氏の菩提寺」を護る立場
「密教の顔」−「慣習仕来り掟」の伝統を守る立場

・首魁
「御師の顔」−「皇祖神(伊勢神宮)の職能集団」を統率指揮する立場
「職能の顔」−「青木部の首魁」の立場
「商いの顔」−「紙屋長兵衛」として商いを統率指揮する立場
「首魁の顔」−「伊勢シンジケート」を統率指揮する立場

・血縁
「同族の顔」−「血縁関係」(佐々木氏等)を繋ぐ立場
「氏外の顔」−「他氏との関係」を繋ぐ立場

以上の様に、「20の顔」を使い分けなければならない「青木氏」に執っては、一人で成し得ていたかは疑問で、「主役の四家の福家」に全てを頼らず、「主役の四家の当主」が、「5つの面」を事と次第で「福家」に成り切って、代役を演じていたのではないかと考えている。
結果として、「主役の四家の福家」の差配で動いていたが、「氏存続」と云う目的からは、”知略”
が「氏是の概念」の様にしていた事から、相手と成る周囲は、「主役の四家の当主」を「主役の福家」と思い込ませていたと考えられる。
これの方が、「福家」に何らかの「異変」が在ったとしても、「組織」は乱れず、「身内」や「周囲」に対しても”「組織の安定感」”として印象付ける事が可能である。即座に、異変なく「継承」が進む事に成る。

(注釈 室町期の中頃に、「長兵衛」、「次左衛門」、「作左衛門」、「高右衛門」、の「四家の当主」の四人が重要な処に名の記述が同時に出て来る。これは”「福家の長兵衛」”の代役で、上記の「四つ面」で「福家長兵衛」として務めていた事を物語る。
ある「神宮の寄付帳」には、「紙屋」と「青木氏」と「御師」と「青木部」の名で、この「四人の名」が記されている。又、「伊勢神宮の大灯篭」にも、本来は「青木氏」として一つとして寄付する処を、この四人の名で、「四灯篭」が別個に「青木氏」として寄付がされている。
奈良期から伊勢神宮の守護は青木氏が務めていた。”「伊勢神宮」の「御師」”は、その「称号」。
世間の殆どは、”「福家襲名の長兵衛」”が”「四家の福家」”とは承知していなかった事を物語る。)

・「二つの組織と範囲」
事ほど左様の環境下に於いて、この「二つの組織」は、互いにそれぞれの「役目・目的」を持ちながらも繋がっていたのである。
故に、”「遠縁組の組織化」”にも、この「二つの組織」が大きく関わっていた事に成る。
(「青木氏の守護神 祖先神 神明社」の論文参照)
つまり、”「青木氏の組織」”と”「シンジケート組織+神明社の組織」”とが、”横で繋がっていた”のである。
ここから、「孫域」とは別に、”「養女(養子)」”と成る ”「曾孫域+遠縁域」の「組織化」”が、案にして出来ていた事に成る。

・・「シンジケートの範囲」
そこで、参考として、”「シンジケート」”の「範囲」を明確にする為に、「青木氏の資料」に出て来る「氏名」「姓名」から、その「定住地」を押えて観ると、その分布は次ぎの様に成っている。

「伊勢シンジケート」は若干東域に外れる傾向はある。
・「分布が集中している地域」
東西に、播磨・摂津−美濃・尾張
南北に、和泉・紀州−若狭・但馬
以上に「集中」して分布している。

外れるものとして、次ぎの様に成っている。
・「分布が点在している地域」
西域に、因幡、北域に、越前、
南域に、尾張、東域に、信濃
以上に「点在」するものがあった。

これが、「伊勢シンジケートの活動範囲」と成る。
この事から、凡そ横に長い「関西域」で、一部突出の「中部域]と成っている。

この分布から、次ぎの事が云える。

(1)「神明社」の分布域 45%
(2)「青木氏」の定住域 25%
(3)「関連した姓族」の分布域 15%
(4)「佐々木氏」の分布域 8%
(5)「源氏(郷士)」の逃亡分布域 5%
(6)「平家(郷士)」の逃亡分布域 2% 

以上の順での比率で分けられる。

(2)の「青木氏の定住地」は、当然の事として、5家5流賜姓族地は勿論の処、特別賜姓族地の青木氏の24の定住地の中でも次ぎの地域では連携していたと観られる記録がある。

・・「特別賜姓族関連地」
「5家5流の青木氏」が戦乱での逃亡地 「越後」「越前」「相模」「下野」「土佐」
時の朝廷幕府より役務等で配置転換された土地 「広域陸奥」「上野」
特別賜姓族の定住地 「讃岐」「土佐」「尾張」「常陸」 

・・「賜姓族外の関連地」
源氏の守備隊として移動定住した土地 「伊豆」
勢力争いで逃亡した土地 「因幡」「安芸」「美作」
役務や住職等の移動関連地 「陸奥」「紀州」「但馬」「摂津」

以上の地域での活動が観られるが、上記外の「24赴任地定住地」との連携では特段に記録が見つからない。

矢張り、(1)の「神明社」が、分布量から観て、最も関係が深かった事が判る。
恐らくは,「神明社の組織力」を使っての「情報拠点と保護役割」を果たしていたと観られる。

(4)の「佐々木氏」は、「近江」を中心にして、その「子孫」は全国各地、主に北の「陸奥域」までに、殆ど「神職」(八幡宮と神明社)として分布している事から、”「佐々木氏一門の組織力」との連携”を広域に図っていた事が判る。

(注釈 「近江佐々木」の始祖は、「天智天皇第七位皇子の「川島皇子」で、特別に賜姓を受け地名から佐々木氏を賜った正式な氏族 「青木氏」とは、血縁関係も深く「佐々木氏系青木氏」が発祥している。「特別賜姓族伊勢青木氏」も「近江佐々木氏」とは血縁関係が深く、秀郷一門とも近江国司守護であった関係から血縁関係を持っている。「近江秀郷流藤原氏」も出ている。)

(注釈 「陸奥域」には、信濃から、「青木氏」は数は少ないが、平安期初期に「坂之上田村麿の陸奥域制圧」後の「現地守備隊」の僧侶(住職)として役目を命じられて移動し定住した。この「浄土宗の菩提寺住職」の末裔が子孫をある程度に拡げ現存する。
これと共に、「桓武天皇」が「神明社」を「青木氏」に代わって「20社程度」建立した。
そこに「信濃青木氏」と「近江佐々木氏」の「神明社の神職」も移動している。
ここが「佐々木氏」との「情報伝達の中継点」に成っていたのであろう。)

「天智天皇」時の同族の「佐々木氏」は、「陸奥域」までその勢力は及んで子孫を拡大させて遺している事から、「伊勢シンジケート」外の「影響力」の及ばない「他の地域」に対しては、
主に次ぎの通りである。
1 「各地の神明社経由」
2 「伊勢から直接経由」
以上の「二つのルート」で、「佐々木氏]の「八幡宮の組織」を使ったと観られる。

取り分け、「摂津」(紙屋支店と摂津青木氏定住)に「八幡宮本宮」があった関係から、次ぎのルートがあった。
3 「伊勢からの近江摂津経由」
以上の「ルート」もあって、内容に依って三つのルートを使い分けしていた事が判る。
つまり、このルートは「広域ルートの拠点」として働いていた事が判る。

(5)の「源氏」では、全て滅亡したが、その「傍系流の逃亡末孫」は、「関西東域から中部の山間部」で僅かに生き延びたが、これらの者が「影の組織」を形成して「姓族」と成り、「伊勢シンジケート」で関わり「経済的な糧」を得ていた事が判っている。

(注釈 近江源氏、美濃源氏、木曽源氏、新宮源氏、駿河源氏の「傍系末孫」が、「源平富士川の戦い」で敗退滅亡し、山岳部に逃げんで生き延びた。平家と同じ末路。)

「青木氏」は、これらに対して「商い」を通じて陰で手を差し伸べて支援していたのであって、「商い」に関わる援護と、”いざ”と云う時には、「伊勢シンジケートの一員」として働いたのである。

(注釈 「福井」は、その意味で、元々、奈良期からの「皇族系の避難地」を「青木氏」は形成していた。従って、「神明社の建立数」も「最多の地域むであり、これらの「避難者」には「商い」を営ませ、ここに「避難者」を集めた上で「連絡の拠点」としていた。)

(注釈 ここで、特筆すべき事が沢山ある。「滅亡した京平家」が、主に「紀州山間部」と「四国山間部」に逃げ込んで、山を切り開いて生き延びたが、これらは、土地の「郷士」と成って「地域集団」を形成し、下界との関係を持つ為に、「シンジケート」に入り、”「経済的な繋がり」と「情報獲得」”の為に働いた。
時には、「室町期の戦乱期」には、山から下りて来て「雇兵」として活躍し、「地域の豪族」の配下に入って参加した。
平常時は「伊勢シンジケート」の一員として連絡を受けて働いて「生計の糧」を立てた。
この「伊勢シンジケート」での「面白い事件」があって,「紀州の北側」には「平家方落人」が、「紀州南側」では「源氏方落人」が、山間部で「郷士」として住み分けて生活していた。
これらの「二つの郷士集団」が、「伊勢シンジケート」として活躍していて、「秀吉」は、[伊勢−長嶋攻め三乱」で、戦いを有利にする為に、これらの「郷士集団」を味方に引き入れようとして働きかけたが失敗し、結局は、自らの家臣を使って「吉野−熊野の材木」を「シンジケートのゲリラ戦」に耐えながらも運んで山から降ろし、やっと「出城の建築」に成功し戦いに勝利した歴史上の有名な戦いがあった。)

特に、(3)の「姓族の分布域」には、特徴が観られる。
鎌倉期から室町期末期に掛けて亡びたとされる元は「氏族」で、「姓族」として土地の名に変えて名乗った土豪や、その「家臣で在った姓族」の地域が殆どである。
これらの多くの「姓族」は、次ぎの限定地域に散在して「小族」を形成して住み着いていた。
集中すると警戒されて潰される為に散在して、”いざ”と云う時には集会して事に当たった。

・「姓族の定住地」
山間部に住みついた「山族」
漁村に住み着いた「海族」
平地山際の過疎地域の「野武士族」
特定の寺の周辺地域の「山伏集団」
鉱山地域の「土豪」

以上の順での比率で分けられる。

この「二つの組織」が、「祖先神 神明社」は、「民」に+に捉えられるであろうし、「心の支え」としても民に働く。
しかし、”「シンジケート」は、戦乱などの事変で社会の隅に追いやられていた小さい組織が、この組織に入って「経済的な糧」を得て、再び生きて行く事が出来ているのである。
本来は、+に働いているのであるが、”「影の力」”と云う印象から、民にとっては、”得体の知れない組織”と捉えられいて、その組織を構築している「賜姓族の青木氏」には、”「民の範」”としての印象を低下させる結果と成る。

・「氏族=武家」の「純血性保全」
従って、「曾孫域と遠縁の組織」として存在したとしても”「影の力の抑止力」の範囲”であり、これを「諸々の弊害」を「抑え込む手段」としては「表向き」には使えない。
あくまでも、「影の力」である。
「影の力の組織」で「表向き」には、「使えない組織」である限り、この”組織との「縁組」”の一切は表には出せない事に成る。
その為に、「皇祖神の子神」の「位置づけのある権威」を誇る”「祖先神 神明社」”との「横の繋がり」を持たす事で、「シンジケート」の「影の−の印象」を相殺させていると観られる。
「シンジケート」を「商いの手段」や「周囲への抑止力」などとして使う限りは、完全に「影」だけでは成り立たない筈である。「表」に出る事は充分にあり得る。
そこを、「横の関係」を保ちながらも補うのが、”「祖先神 神明社」の「権威と善意」”なのである。
仮に知ったとしても、「利」に成る事に聡い「民」はむしろ黙認する。
そもそも、「青木氏」には、”「民の二つの絆青木氏」”が存在することから、表に出る事は必然である。

(注釈 筆者は、むしろ「隠す」と云うよりも、公然と「表に出る事」を狙っていた事もあったと考えている。ただ、あまり「記録」は残したくないとしていたのであろう。それの方が「リスク」は少ないし、”「四家」”から「嗣子や娘」をこの組織に入れて、”「組織力」”を強化した方がやり易い筈である。
その証拠がある。江戸末期から明治9年まで続いた「伊勢一揆」と、それに連動した「信濃、岐阜、栃木、茨木」等の「大農民一揆」や、室町期の「甲斐100年一揆」と呼ばれる一揆の背後に、各地の「青木氏」が「シンジケート」と「経済的支援」を使って関わって居た事が記録でも残されていて有名な事である。)

依って、「曾孫域」「遠縁域」の「養女養子制度」の「青木氏の発言力」は成り立っていたのである。(「養女」が基本に成っていた。)

故に、「氏族=武家」の範囲では、”「嗣子や嫡子」”に充分に恵まれながらも、敢えて、「曾孫域」「遠縁域」での”「養女養子」”が盛んに行われた理由なのである。
これには、”「氏族=武家」の「純血性保全」”の為に、積極的に並行して行われた”絶対条件の慣行”なのである。
「青木氏」に執っては、この「曾孫域」「遠縁域」の「養女(養子)」は、”「世間との接着剤の役割」”を果たしていたもので、極めて重要であった。

・「養女の定義」
そこで、「子の定義」の説明を更に進める。
この「養女養子の制度」が「絶対条件の慣行」として在ったとしても、従って、そこで、”「祖父に位置する者の親」”は、”「子の定義」”である以上は、最低限に”「孫の領域」”までの「養育の総括責任」を負う事に成る。
それならば,「孫域」とするなら、「曾孫遠縁」に位置する”「養女養子」”をどの様に「制度」として扱うかの疑問である。
つまり、「親の責任の範囲」なのか、「息子の責任の範囲」なのかの”「位置の問題」”がある。
「曾孫遠縁」とすれば、「親の責任の範囲」である。
しかし、「養女養子」とすれば「息子の責任の範囲」である。

幼少からの”「養女」”としてすれば、「子の嫁」として将来扱われる事に成る。
この事からすると、”「嫁」を迎える事”は、「氏家制度」では、”「親の責任の範囲」”と成る。
そうすると、「青木氏」は、「孫域」までを”「子」”として定義して二段階を一段階として扱う以上は、次ぎの様に成る。
「子」の”「子」”としては、「養女」は「息子の位置」に成る。
「孫」の”「子」”としては、「養女」は「息子の子の位置」に成る。
つまり、”「養女」の「迎え方の如何」”に左右される事に成る。

「四家方式」を次ぎの方式を採用している。
「主役の四家」(4)
「副役の四家」(16)
以上の「二つの四家」(20家)で構成している。

「副役の四家」は、「主役の四家」の「予備軍的存在]で、「見習い的な位置」であり、「世代交代」で「主役の四家」に成る仕組みである。
その仕事は、原則として、「主役の四家」が「全体の差配」を仕切り,その仕事の「下部の差配」を実行する位置にある。時には、「上部の差配」を「見習い」として任されて成長する。
その「仕事の種類」は、上記の「5面−20の顔」に関わる。

その「主役の親」に位置する「福家」は、一族の”「四家」”を纏めて行く以上は、出来るだけ早くこの制度を完成させなければならない責任を負っている。
”「一族存亡の責任」”と云っても良い筈である。
(4+16)=「20家」を見渡して、「ブランク(空白)」に成っている部分(家)を早めに埋めて体制を確立させなければ成らなくなる。
この時に、「ブランク部分」を埋めるのが、”「養子」”なのか、将又、”「養女」”なのかに依って決まって来る。
この時、”「養子」”の場合は,「子の実娘」又は、「孫の実娘」のこの「遠縁の養子」として入るが、多くは、「子・孫の娘」の婿養子は、「四家」の中に「女系」が発生してしまう可能性がある事に成り得る。
その為にも、一族の「四家20家」の「孫域」までを”「子」”として定義して、このブランクの出た家の跡目に、四家の子の中から入れる事に成る。
これに依って「女系」に成る事が防げるのである。
其れは、「四家方式」としては「弱点」であって、この「曾孫、遠縁の養子」は「四家の組織」を弱め、或いは、壊す事にも成りかねないので、「子の実娘」「孫の実娘」は「他氏に嫁ぐ事」が原則に成る。その「嫁ぎ先」の男児・女児(孫)は、「子の定義」で、実家に「跡目に成り得る子」(男児)として、「跡目に嫁ぐ子(女児)として、扱われる事に成る。
従って、”「跡目の非常事態」”を除いては、この「曾孫と遠縁の縁組」は、主には ”「養女」”であるのだが、「四家」(主役)の「ブランク」に入れる「養女」なのか、「四家(副役)」の「ブランク」に入れる”「養女」”なのかに依って、変わる事に成る。

(注釈 「跡目の非常事態」は「戦禍」に依る事が殆どの原因である事から、”「遠縁の養子」”を避ける為に、”「氏是」「慣習仕来り掟」「訓戒」等”に依って、この「戦禍の原因」を作らさせない策の一つとしているのである。)

”「子」と「孫」”を”「一つの子」”にして、扱う以上は、次ぎの「二つの事」に成る。

「四家の主役」の「ブランク」の場合は、「親の責任の範囲」
「四家の副役」の「ブランク」の場合は、「息子の責任の範囲」
以上と成る。

「四家の主役」の「福家]が中心と成って仕切り、「四家の副役」の「福家」と「親」とで合議してこの事を進める事に成る。
「四家制度」(方式)を敷く以上は、この”「ブランク」”を埋めて支障の無い様に進めなければならない。
この”「ブランク」”は、”「20家の範囲」”では常時に起こる。
従って、”「ブランク」が出来たから”と云って動くようでは間に合わない。
故に、「幼少の頃」から「養女の子」を引き取り、何れかの「四家」の「福家」で事前に養育する事に成る。
「跡目」が「成人」と成っていれば、「養女」が「成人」すれば、直ちに「20の四家」の何れかの当主に成る前にも、”先に結婚させる事”と成る。
依って、「四家の戦略上の観点」から、傾向としては、必然的に”「早婚」”を前提と成る。
この”「早婚」”は、より”「青木氏」”の”「氏是」「慣習仕来り掟」「訓戒」「伝統」”に充分に「馴染ませる事」が可能に成り、「嗣子の特性や能力」を図り、育成する事の長所が逆に生まれる。
”「四家の弱点」”の”「遠縁の養子」”を避ける様に原因を除いて、”「早婚」”を促せば、逆に”「四家の長所」”と成り得るのである。
それには、上記した様に、 ”「幼少期」を前提とした「養女」”と成るのである。
百々の詰まりは、「幼少期」を外せば、「四家の戦略上の効果」は半減して、全体の「子孫存続」の「青木氏の態勢」は、弱体化に進むのである。
「幼少期の養女」は、「青木氏の要」なのであった。

この「四家制度」(方式)に依って、早めに「青木氏」に馴染み、且つ、「嗣子」として「優秀な者」を見極めて、この中から、適材適所に「四家」に選ばれる事に成る。

(注意 ”「四家」”の意味は大きいので、「制度」の字句は”全体”、「方式」は”各所”と定義して使い分ける。)

・「養育の責任」
但し、「四家の戦略上の効果」だけでは事は済まない。
ここで、”「養育方法の責任の問題」”が生まれる。
”放置しておけば育つ”と云う事では済まない。
”「四家方式」”を敷く以上は、つまり、”「養育の仕方」”によって左右されてはならない訳である。
この”「養育の仕方」で左右すると云う”事は、”「四家の一致団結」”が成されない事に成る。
そもそも、「四家方式」は、”「四家」”と云う小範囲に留めて、”「血縁性」”を高めて、”遺伝的に思考概念の統一”を狙ったもので、その結果、”「同じ方向性」”を獲得して「一致団結」が図られるとしたものである。更には、「福家方式」で「子の範囲の定義」を行って、「四家」から”はみ出す危険性”を排除したのである。
そこで、この危険性を排除した上は、この”「養育責任」”に対する範囲の”「歯止め」”を設けたのである。
つまり、その範囲は、”養育に関する「抹消的な養育発言」”と、”その「養育の基本行動」”には、「親」は、”「基本的な口出し」を「法度」とする”と成っていたのである。
「青木氏」の養育に関する「伝統的な訓戒」であった。
あくまでも、「跡目継承の範囲」で ”「総括責任」に徹する事”に成る。

つまり、”「息子」と「孫」までを子供”としての「子の定義」として「位置づけ」をした。

 ・「四家訓戒と法度」
”息子である子供”は、「成人期」までを ”「祖父母の親」”が育てる。
「成人後」の”息子である子”は、その”息子の嫁”が育てる”

以上とする「養育の思考概念」である。
世間から観れば異質の概念であろう。
つまり、”「養育の概念」”を分離したのである。
守るか守らないかとする「訓戒」のみならず”「四家の法度」”としてより厳しくしたのである。
これは一種、「20家」を[家族制度」にまとめた「四家方式」だからこそ出来る事であろう。
”「賜姓族」と云う特異な立場”にあるからこそ、”納得して守られる方式”である。
”「子と孫」を「子の定義」として「四家」が育てる”とするからこそ、この「訓戒法度」は成り立つ事である。

”「息子の嫁」”に依って、”「息子である子供」”が育てられるとする「養育の定義」である以上は、「養育権」は、「息子」即ち、「子」でありながらも、「祖父母の親」に無く、当然に”嫁側にある”としたのである。

この様な、”「跡目の歯止め」”として、「賜姓族」には、”特別な仕来り”を持っていたのである。
従って、「祖父母の親」は、家に「嫁」を娶ると、”息子に口出しならぬ”とする家訓が生まれたのである。
世間から観て、”「祖父母の親」の行動”は、一種の”息子に対して「放任主義」の育て方”と観られがちである。
そこで「青木氏」では、この所謂、この一種の「放任主義」は、「良し悪しの問題」では無いとしている。
「家訓十訓」を観れば、そうで無い事は一目瞭然である様に、下記の「家訓の考え方」に従っているのである。

  ・「四家訓戒」
”自らの「経験」を通じて「才」を獲得して成長を得させる。”

これは、”「経験=才能」”としての ”「経験重視」の「養育方針」”である。

世間では”「放任」”と観えるけれども、”「四家」”と云う範囲で、「20の顔の範囲」で、むしろ、”徹底して幼少期から嗣子として鍛えられる”「養育方針」なのである。
この世間には無い ”厳しい「行動範囲の歯止め」”が効いているのである。
況して、”「嫁」に養育を委ねる”としているのであるから、世間が観える「放任」では無い事が判る。
何もしなければ「放任」とは成るが、”嫁に養育を委ねる”としている事は、これは正当な「一つの養育の考え方」なのである。
何も、”嫁も放任して育てる”としていないのである。
其処には、青木氏は、下記に示す様に、”「育て方の概念」”を指し示しているのである。
むしろ、この方が考え方としては難しいのではないだろうか。

故に、”「経験=才能」とする概念”を重視した結果であって、「親」に執っては「放任」と観られる育て方に成るのだが、むしろ、「青木氏」に執っては、正当に次ぎの様に捉えているのである。

  ・「四家訓戒」
”「放任」は「豊かな経験」を産み「豊かな才能」を開花させる”

そもそも、この訓戒の”「放任」”とは、”[四家の範囲で」”とする「四家の伝統の考え方」なのである。
恐らくは、この”「四家の伝統の考え方」”は、”「青木氏密教の所以」”であろう。

この”「四家の放任」”には、「育て方の概念」(下記)が付加されている。

そうで無ければ、この「子の定義」の方式(システム)は上手く行かない。
世間から観ると、この「概念の影響」から”「日常の生活慣習」”も一般と異なり、一般から観れば、”異質”或は、”特別”と観られる事に成る。
つまり、この”「息子の養育」”の、その後は、”結婚の段階”の契機を経て、”「嫁」に引き渡す”と云う考え方を採る事に成るのである。

この場合、”「嫁」(殆どは、「曾孫域の養女」、或は、「遠縁の養女」)”に対して、必ず、この”「嫁(養女)」”に言い渡さなくてはならない一つの”伝統的な申し伝え”があった。

・「育て方の概念」
それは、次ぎの事である。

  ・訓戒
”「お仏像様」の掌で育てよ”

以上とする考え方を伝達する事にある。

そもそも、”育てよ”とは、「息子」とその「息子の子供」(孫)までの「養育の事」であって、取り分け、”「息子の夫」”としての「成人後の養育の事」を意味するのであろう。
(当時は寿命の関係から「早婚」であった。)
”掌”とは、実に意味が深い。
当然に、「妻−夫の関係」にありながら、相対的な関係に置くよりも、広く長く穏やかに優しく厳しくして「心」を保ち、 ”「女」として操れ”。 ”如何にも「母性愛」を以って「子」に接する様に操れ”と云う意味であろう。
家訓などにこの様な「添え書きの解説書」は無い。
決して、”「対立的な相対関係」に持ち込んではならない。とする意味合いが存在するのであろう。”故に、「子供の定義」になっているのである。
あくまでも、「概念の扱い」は、”「子」”なのである。
”全ての扱いは、「子の域」を一切脱してはならないと捉えよ”と成る。
そして、この「訓戒」は、次ぎの事と成る。

  ・「四家訓戒」
”「人の継承」、就中、「家の継承」は、本来は「女」にある”

以上とする「青木氏の考え方」に由来している事を告げていると観られる。
(この考え方は、「青木氏家訓十訓」の「家訓一」と「家訓二」に表れている。)

”「お仏像様」”とは、「氏の護り本尊」であり、「氏の象徴仏」であり、「氏の権威」であれ、それを支える「氏の賜仏像」である。
依って、そもそも、「お仏像様」は、「青木氏」の「単なる仏像」では無く、「擬人化した人」、つまり「絶対的な人」なのであった。
つまり、”「氏」そのものの「有り様」”を一つにして物語るものであった。
この”「擬人化した人」の「絶対的な人」の掌”とは、次ぎの様に成るだろう。

  ・「四家訓戒」
況や、”「氏の環境」に身を委ねて、「氏是」や「家訓」を信じて、その「氏の心」に従って、その範囲で育てよ”としているとも考えられる。

・「青木氏三様」
つまり、次ぎの「青木氏の三様」を物語っている。
”お仏像様”とは、考え方の「基準の様」
”掌で”とは、考え方の「持ち方の様」
”育てよ”とは、考え方の「扱い方の様」

確かに、この「三つの様」を以ってすれば「世の事」「氏の事」は成せる事は判る。
何れの世界にしてもこれは当に「条理」であろう。
「青木氏」は、これを「青木氏密教の教え」として”「青木氏三様」”としての「四家訓戒」の一つとしている。「青木氏の家訓」にも記述されている訓戒である。
取り分け、”「賜姓五役」を務める「賜姓族」”に執っては、「世間の普通の考え方」では、何事も成し得なかったであろう。
恐らくは、「子孫存続」の為の”「四家」や「福家」の制度”を敷く”「賜姓族」”であるとし、その”「模範」”と成るに「必要な環境」は、周囲には極めて少なかった事が挙げられる。
従って、”「三様」「三相」の提示”が、「必要条件」として、「息子の養育」を任した”「嫁」”に、「何かの規準と成る考え方」を、是非に「申し伝える事」は必要であった筈である。
そうで無ければ、この「訓戒」を以ってしなければ、この難しい環境では”「嫁の位置」”は明らかに果たし得ない事が判る。
況して、”「賜姓族の四家」”である。この「難しい環境下」で、所謂、”「夫と成る子」”を育てなければならないのである。
それ故に、”幼少期からの「養女」「養子」の制度”を敷いて、”「氏家の環境」”に馴染ませる必要性もあった筈であり、その”「馴染んだ上での訓戒」”として申し伝える様にした「四家制度」の「特異なシステム」であった事が云える。

注釈 これは、現在感覚から観ればであるが、当時は、社会は「氏家制度」の中での事であった為に、周囲や氏内も当然の事と納得していた筈である。況して、その当時でも”「賜姓族」”と云う立場であった事から、「一族一門」と「縁者遠縁」と「家人郎党」は、”「当たり前の事」”と認識していたと考えられる。
即ち、”「当たり前の事」=「伝統」”である。
そもそも、”「伝統」”とは”「当たり前」”として認識して納得しての事だからこそ、 ”長く歴史を経て「継承できる事」”であろう。
”特異”として認識していた「娘」や「嫁」は、既に「氏内」に存在する事さえも出来ない事であった筈で、況して、そのような者が「嫁」には成り得なかった事であろうし、一族郎党は認める事さえなかった筈である。むしろ、”特異”と考える事自体が”特異”と見做される「四家の社会」であった事に成る。
故に、「幼少期」からの「養女」であり、「娘」であり、「嫁」であったのである。
結果としては、”早婚中の早婚”であった事に成る。
恐らくは、筆者は、”「嫁」”と云う感覚は、”無い”とは言い難いが、最早、極めて薄かった意識であったと観ている。要するに、”「娘」で「子」”の概念の中にあった方が強かったと考えている。
この方が、”「四家方式」の[子の定義]の趣旨”を逸脱していないだろう。

その意味で、この「早婚」と成り得る”「早婚方式」(「幼少期の養女」)”は四家の中では”理に叶う事”に成っていたと考えられる。
そうすれば、「深い理解」は可能と成ろう。
そして、「氏の純血の目的」”もあったが、より”「氏の環境」”が多少なりとも理解できている”事に成り、依って、”「縁者」”の”「娘の範囲」”を画したと観られる。
そもそも、全くの ”「他氏の嫁」”では、”「物心」の就かない「幼少期の養女」”とする事は、青木氏に「謙る事の印象」を与えかねず「社会的立場」から難しく成る。
しかし、上記した様な「四家方式」の背景から「青木氏」に執っては、100%と”「幼少期の養女」”としなければ成し得ない環境事であった。
それ故に根本的に「四家」の中では無理な事であった筈である。
つまり、”血縁の無い「他氏の娘」の「嫁」”では、この「娘域の血縁」からでは成し得ず無理と成っていた事に成る。
況や、「四家の概念」としては、”「無血縁」<「四家方式」の感覚”の方が優先されていた事であっただろう。
(4)については下記に論じる処ではあるが、「概念」としては次ぎの様に成るだろう。

(1)「無血縁」<「四家方式」>「血縁弊害」
(2)「純血性」=「四家方式」>[無血縁]

故に、(1)(2)から(3)
(3)「無血縁性」<「純血性」>「血縁弊害」
(4)「子孫存続」=「純血性」>「氏拡大性」

故に、(3)(4)から(5)(6)
(5)「無血縁性」<「子孫存続」>「血縁障害」
(6)「無血縁性」<「子孫存続」>「氏拡大性」

故に、(2)(4)(6)から(7)(8)(9)
(7)「四家方式」=「子孫存続」>「無血縁性」
(8)「四家方式」=「子孫存続」>「血縁障害」
(9)「四家方式」>「氏拡大性」

故に、(7)(8)(9)から(10)
(10)「無血縁性」≒「血縁障害」≒「氏拡大性」

「3リスク」 
  「無血縁性」で起こるリスク 
  「血縁障害」で起こるリスク
  「氏拡大性」で起こるリスク
 即ち、「青木氏」には、この「3リスク」を持っている事に成る。

∴ 「四家方式」に依って、この「3リスク」は克服できる事に成る。
  
以上の様に、「社会との接点」に必ず発生する「3リスク」には、「青木氏」が採っている「四家方式」は論理的に矛盾は無く打ち勝つ事が出来る事が判る。
故に、矛盾が無くして、「賜姓族」として生き延びて来られたのである。

・「理と利の融合」
この「3リスク」を克服できる「四家方式」を更に次ぎに検証する。

”他氏の娘の嫁”を入れて「同族血縁の障害」を取り除く事には問題はない。
しかし、上記の数式論で説明できる様に、確かに ”理は叶ってはいる”が、敢えて、”「四家の制度」”として選ばなかった理由の一つには、ここにもあったのである。
特筆して、この「四家方式」の”「縁者 遠縁の養女方式」”には、強い”「氏の合理性の環境」”が青木氏の氏の中に働いていた事が読み取れる。
可成り強かった事が読み取れる。
先ず、何はともあれこの「四家制度」を考え出した事そのものに驚く。

(注釈 実は、平成に成っても、筆者も、この事は、現在の感覚や医学的な遺伝子の判断からも、”理に叶っている”として、この「伝統」の「訓戒の二つ」を「ある家の祝宴」に祝辞の中で申し上げたことがあった。
しかし、その”「嫁」”は、始めは ”きょとん”としていたが、上記の「子の定義」の事を、後に、”「青木の伝統の考え方」”として説明してからは、ある時間を経て経験して理解される様に成った。理に叶っていると納得したと観られる。
今は、この「青木氏の訓戒」を”「笑い話」”の様にして何とか馴染んでいる。
生活の中で、成程と「合理性」を感じたのではないかと観られる。
何時しか「孫」にも「曾孫」等にも、この”「笑い話」”成るものを伝えてくれるものと思って、うれしく成っている。意外に、現在では、家族関係では希薄に成っている中で、”理解されやすい感覚”であるのかも知れないと思った。これが長く続けられる”「伝統の本質」”なのではないかと考えられる。何時しか「子孫」も、その「時期」、その「心根」が来れば「ロマン」を感じてくれると信じている。)

実は、筆者は、そもそも、”「伝統の本質」=「理に叶う合理性」”だと判断している。
所詮、”「理の無い伝統」”は消えるのであろう。
依って、最早、筆者が、この様な”「伝統」”を後世に伝えられるのも限界であろうと考えている。
この”「伝統」”は、何度も書くが ”ロマン”でも良いのであるが、この”「伝統の不継承」”が「現代社会の歪」を生み出しているとも観ている。
”「理に叶う事」”がなかなか難しく成った社会に於いては、現代風に”「利に叶う事」”でも敢えて良いと観ている。
一挙に、現代社会を、”「理に叶う事」>「利に叶う事」”に変える事は、幾ら、”「伝統」は大事だ”と云ってもそれは無理な事である。
「利に叶う事」の社会には、それなりの「理由と根拠」とが在って、その様に成っているのであるからして、無理に換える事は反って問題を生み出す。
”「伝統」”を少なからしめる”「利に叶う事」”であるとは云え、決して、”「利に叶う事」は短絡的に悪い”と云う事では決して無い。むしろ正しい。
逆に、”「理に叶う事」”が、”何事に付いても正しい”と云う事でもないし、「理に叶う事」が逆に弊害や問題を産む事もある。
それの「理と利の境」は、「青木氏密教の氏是」とも云える「仏説」である[三相の理」(人、時、場)に従っていると教えられているのである。(家訓に記載)
({家訓]にあると云う事は、先祖は、「理に叶う事」「利に叶う事」に付いて、全てを知り得ていた事を証明する。)

「理」より「利」に聡く成った「現代社会」であるならばこそ、ここで、この数式論で、”「伝統」”をもう一回生み出して行く事も必要であろう。
ただ、この”「伝統」”とは、青木氏の賜姓族が継承して来た「慣習仕来り掟」を云う物では決して無く、”人間の本来のこの世に存在している根拠”、即ち、次ぎの事であると考える。

この「世の万物の目的」である”「子孫存続」”に対して、この世に生を得た「生きる者」の「尊敬の念」の「表現と行動」を云う。

この結果、”この念が継続的に維持されたもの”を”「伝統」”と云うのであろう。

これが、「希薄」に成っていると云う現象であろう。
つまり、現在社会の構成の中では、本来は、次ぎの数式論が働く筈である。

「理に叶う事」≒「利に叶う事」
この環境の中にあると考える。

しかし、この数式論が、次ぎの様に成っていると考えられる。

「理に叶う事」<「利に叶う事」
この環境に成っている事だと考える。

依って、この数式論では、次ぎの様に成るだろう。

(X) ”「伝統の本質」=「理に叶う合理性」」+「利に叶う合理性」”

そもそも、”「伝統の本質」”とは、何なのか。
この世に”「伝統]”と云うものが存在するには、”「理」”だけでは成り立たず、”「利」”が在ってこそ成り立つ。
何故ならば、”「伝統」”は、「生活」の中に存在する限り、”「利」”が無くては困難である。
従って、丁度、「理と利」は、”「骨と肉」の「一対の関係」”で成り立ち、”「理と利の和の相乗効果」”で以って成り立つと考えられる。
その”「伝統」”が持つ”「本質」”とは、何で構成されているかと云う問題である。
それは”「合理性」”であると考えられる。
”意味を持たず、無理の絡むもの”には、人は反応しないは常理であり、従って「継続性」も無い。
在っても一時的にものに終わる。それは、最早、”「伝統」”では無い。一時の”形式ばった戯れ”に過ぎない。
そこに、”納得出来得るもの”、即ち、”「合理性」”が求められる。
この”「合理性」”は,[骨と肉」に対して「血の質」に相当する。
故に、[骨と肉」それに「血の質」が相まってこそ”「伝統」”の「本質」は生まれる。
これを、数式論に置き換えたとして、次ぎの様に成るだろう。

「合理性」=(「理」+「利」)・「継続」=(骨+肉)・「血の質」

「継続」とは、「理と利」を「力強い信念」を以って進める事にある。
だとすれば、数式論は次ぎの様に成る。

「継続」=(理+利)・「信念」

そうすると、「継続」は、「理と利」に対して、その”「信念」=「2倍の力」”程度を発揮する事で達成される事に成る。

「信念」=「継続」=2

故に、次ぎの数式論の関係式が成立する

「合理性」=(「理」+「利])・2

依って、以上の数式論の関係式が成立する筈である。

「過去の青木氏」の「四家」の中では、この「数式論の環境(状態)」が、既に、当然の様に成り立っていたのではないかと考えられる。
その根拠は、”「奈良期からの生き様」”がこの数式論の環境(状態)を裏付けている。

(X)「伝統の本質」=「理に叶う合理性」」+「利に叶う合理性」
   「合理性」=(「理」+「利])・2
(A)「商いの氏族」+「賜姓族の氏族」=「二足の草鞋策の氏族」

この”「二つ環境」(4つの状態)”の数式論の中にあったからである。

即ち、”「二足の草鞋策の氏族」の形”が、奇しくも、”「伝統の本来の環境」”を作り上げていた事に成る。

(a)「伝統」≒「理」+「利」

(b)「理に叶う事」≒「伝統」≒「利に叶う事」

(c)「商いの氏族」=「利に叶う事」
(d)「賜姓の氏族」=「理に叶う事」
(X)「伝統の本質」=「理に叶う合理性」」+「利に叶う合理性」
   「合理性」=(「理」+「利])・2
(A)「商いの氏族」+「賜姓の氏族」=「二足の草鞋策の氏族」

以上であるから、従って、次の数式論が成立する。

故に、(b)(c)(d)から(e)
(e)「商いの氏族」≒「伝統」≒「賜姓の氏族」
   「商いの氏族」≒「賜姓の氏族」

故に、(A)(c)(d)から(f)
(f)「理に叶う事」+「利に叶う事」=「二足の草鞋策の氏族」

故に、(A)(X)(e)から(g)
(g) 2×「理に叶う事」≒「伝統の本質」≒2×「利に叶う事」

(2×「理に叶う事」と2×「利に叶う事」は、(「理」+「利])・2=「合理性」を表す。)

故に、(A)(f)から(h)
(h) 2×「理に叶う事」≒「二足の草鞋策の氏族」≒2×「利に叶う事」
   (2×「理に叶う事」≒2×「利に叶う事」→「理に叶う事」」≒「利に叶う事」)

(現在まで伝統が継承された事は、「信念」があった事に成る。依って[2]は数式論として削除)
   

故に、(g)(h)から(i)
(i) 「伝統」≒「二足の草鞋策の氏族」

故に、(a)(g)から(j)
(a)「伝統」≒「理」」+「利」

(j)「伝統の本質」≒{「伝統」≒「二足の草鞋策の氏族」}≒「理に叶う事」≒「利に叶う事」

故に、(a)(e)(f)(g)(h)(i)(j)から(k)
(k)「伝統」≒「二足の草鞋策の氏族」≒「賜姓の氏族」≒「商いの氏族]≒「伝統の本質」

結果として、以上の論理が働くからだ。

そもそも、即ち、この「数式論の関係式」は、普通の武家社会では起こらない事を示している。
それは,「賜姓の氏族」(理)と「商いの氏族」(利)であると云う[特質な環境」を保有していた事に成るからこそ成り立っていた事であり、且つ、上記の”「伝統の原理]”が成り立つ”「不思議な環境」”を持ち合わせた「青木氏」”で在ったからこそ、”「伝統」は保障され維持されて来たのである。

故に、上記の数式論は、”「青木氏]”のみであり、「平安期−鎌倉期の48氏ある氏族」でも成り立たず、況してや「一般武家」では、決して成り立たない。

何れにしても、この「世の事」が、将又、「青木氏」にも、数式論通りに、”論理的に全てが働く”とは言い難いが、凡そ、その「流れ」は、この数式論での様に、確保出来ている事は証明出来る。
個々の末梢事は、兎も角も、”「流れ」の確保”がこの世に於いて重要な事なのである。
”「流れの確保」”のその「前提」は、少なくとも、最低限にも、”論理的に状況の骨組みを作り上げて置く事”にある。
「青木氏」のみならず、この世の全ての「事の流れ」には、この「前提」が必要なのである。




「伝統 12」に続く。



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