青木氏氏 研究室
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  [No.332] Re:「青木氏の伝統 15」−「秀郷流青木氏」と「融合族の発祥」 
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/06/13(Sat) 16:19:13

>「青木氏の伝統−14」の末尾

>この時、この「賜姓方式」は、「賜姓名」を改めて「源氏」とし、「皇族の臣下族」、又は、「下族する皇子族」に対しても「青木氏」を名乗る方式に変えたのである。
>但し、この「賜姓源氏」と、賜姓ではない「皇族系青木氏」に対しては、「光仁天皇まで続いた賜姓青木氏」が持つ様な一切の同じ「利権」、「財産」、「主務」、「官位官職」、「権威」等を全く与えないとする「嵯峨期詔勅」を発した。
>合わせて「賜姓青木氏の慣習仕来り掟」の一般の「使用の禁令」を発したのである。
>(明治3年まで護られた。)
>「五家五流青木氏」以外に、「百姓の民」が「青木氏」を名乗る事と、その「習慣仕来り掟の使用」を禁止して、「賜姓青木氏」を特別保護したのである。

>(この「百姓」とは、元来、公家と武家を除く全ての民の事を表現した言葉で、室町期まで使われていたが、江戸期に成って、「士農工商」の身分制度に依り、「百姓」とは、「農民」を指す言葉に変化した。)




>「青木氏の伝統−14」の続き

この「四家」は、つまり、「四つの家」に用いられている制度には、「朝廷の仕来り」(高い純血性を護る為)により、“「四、或は五」を超える家を構成できない仕来り事”に成っていた。
「近江、美濃、信濃、甲斐」の「賜姓青木氏」にも同様の「四家制度」を敷く事に定められていた。
「皇族賜姓族の近江佐々木氏」もこれに準じた。
(下記に論ずる「嶋崎殿の青木氏」と呼ばれていた「伊賀の青木氏」も用いていた。)

しかし、「平安末期の源平戦」で、「近江」と「美濃」は、「発祥時の禁令」を破り、結局は滅亡した。
「甲斐」は「内部騒動」と「武田氏の台頭」で「四家」は衰退し弱体化して仕舞った。
結局、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」は、「和紙の殖産と商い」を通じて、その力で「福井の逃避地」で何とか生き残った「傍系の末裔」を保護して「三地域の復興」を試みた。
しかし、大きく子孫拡大には至らず、「近江と甲斐」では、「青木氏守護神」の「祖先神の神明社」を通じて「シンジケート」の中で何とか江戸期まで生き延びられた。
特に、「近江」では「佐々木氏系青木氏」が発祥したものの生き延びは出来たが、室町期中期からは、「播磨と摂津」に移動して子孫を何とか伸ばした。
しかし、同族の「近江佐々木氏」そのものが「源平の戦乱」に巻き込まれて、一時、衰退して子孫を大きくする事は出来なかった。

「甲斐」も「武田氏系青木氏」が発祥して勢力を盛り返したものの、「内部分裂」と「武田氏滅亡」とで室町期末期には衰退して仕舞った。
「武田氏系青木氏」と「武田氏」に組み込まれた「諏訪族青木氏」は、逃亡して各地で「秀郷流青木氏」に保護されて武士として生き延びる事は何とか出来た。
しかし、何れも「三氏の四家制度」と、それに伴う「権威と富」も維持させる事は無く、「青木氏の四家の伝統」は殆ど消滅して仕舞ったのである。
結局は、この三氏は「四家制度」を構築する事は出来なかった。

従って、上記する「四家制度」は、「二足の草鞋策」を以って「巨万の富」との獲得と、「権威の象徴」を継承して、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」とは成長した。
そこで、少なく成った「皇族賜姓族]は、「賜姓五役」を維持する事が苦しく成っていた。
これに対して平安中期に、この「四家の青木氏」を補佐させる目的で、朝廷から特別に「皇族外の賜姓」を受けた「秀郷流青木氏」(伊勢 皇族母方族)の三氏に依って護られたのである。
(「二つの絆青木氏」含む 。「伝統」と云う意味で、この「発祥に関わった伝統である経緯」を本論で論じる。)

参考
 「光仁天皇」の妻 :

 「皇后 井上内親王」
 「妃 藤原産子 藤原曹司」
 「嬪 高野新笠 紀宮子」
 「後宮(后」 尾張女王」
 「妾 県犬養男耳」

「施基皇子」の二代目は、「白壁王」に観る様に、未だ、上記した「四家制度」の「血縁システム」は完全には敷かれていなかった。
そこで、周囲の「高位の族」から迎えて「子孫拡大の体制」を整えようとしているところであった。

(注釈 「白壁王」は天皇に成った事で公に成っているが、他の「四家の王」の妻の内容は不記載にする。)


「紀州」から「紀宮子」、
「公家」から「藤原産子と藤原曹司」
「伊賀」から「高野新笠」
「四家」から「後宮 尾張王女」(姪)
「天皇家」から「井上内親王」

以上と云う風に、「高位族」から「賜姓臣下族の青木氏」に「母方」として嫁している。

(注釈 「白壁王の母」は「紀橡姫」で、飛鳥期の「ヤマト政権」の主要五氏の一つの「紀氏」の豪族である。
「伊勢」に居て「紀橡姫」と「紀宮子」の存在は,「紀州」が当時、如何に「重要な位置」にあったかが判る。)

その中でも、作り上げたばかりの「四家」から「後宮」として、姪の「尾張王女」が入っているのは「四家制度」の「血縁システム」の「コンセンサス」が一族の中で出来ていた事を物語る。
そして、“朝廷の「公家」”、“周囲の「豪族」”と云う風に「血縁の態勢」を「賜姓族」として固め始めていることが判る。

更に、「氏家制度」が機能し始めたが、「妾子」には「王位」を与えていない事も「血縁システムの純血性」を定めていた事をも物語る。
既に、「血縁システム維持」の「四段階の妻制度」(皇后、后、妃、嬪 :妾)も採用されていた事がこれで良く判る。

「第六子の白壁王」が、天皇に成る前に、この内容である事から、次ぎの三人は「白壁王」と同じ立場に成った。
(”成った”と云うよりは、”された”と云う方が事実である。)

「湯原王」
「榎井王」
「春日王」

「白壁王」の他にこの三人も「同等の位置」に置かれ「同等の扱い」であった事が云える。
(「白壁王」含めて急遽訪れたこの事件から愚者を装って避けようとしていた記録が遺されている。)

この事から云うと、「青木氏」から観ると、積極的を論処とする中の ”「春日王」に子供が居なかった”としている説の前提には、疑問が残る。
これだけの「男系継承者」が無く成り互いに「政権の発言力」を獲得しようとしての「政争の渦中」にあった事から”「何らかの事情」”があったと考えられる。
(「青木氏」に執ってはこの事は重要 検証下記 詳細は他の論文を参照)

(注釈 「口伝」とは、明治35年の松阪大火失火消失により、「青木氏の由来書原本」が無く成った。
しかし、「曾祖父と祖父」が、「忘備録」と「記憶の範囲と遺産物と寺社の記録」を基に、「重要な範囲」の処の事を「青木氏の史実」として遺した。
それを、更に筆者が「寺関係の書籍」や「佐々木氏の史書」なども解析して駆使し、「外部記録との照合」も添え、「父からも断片的な口伝」も混えて「口伝」としてまとめあげたものである。
この時代の記録そのものが、「日本書紀」以外に信頼できる「青木氏」に関するものは少ない。
その後に表された記録、つまり、「三大史書」[累代類聚三代格]なども参考にしている。
「青木氏」には900年代頃からの「商業記録」が遺る。
これを「青木氏]では「青木氏年譜」と称している。)

以上の背景から、前段の「四家制度」では、世間にとっては、この(ア)と(イ)の二つは「大きな魅力(憧れ)」であった。

前段で論じた内容
「越前の逃避システム」(ア)
「皇族の継承外者の受入先システム」(イ)

その為に、「勃興の姓氏族」等は、”「自らの家の名声」”を高める為に、積極的に利用しようとした。

つまり、あの手この手を使って何らかの形で、この高い格式を持つ「四家青木氏」の中に入り込もうとしたのである。
それには、最適な方法は、周囲に執っては、所謂、“何らかの血縁関係を結ぶ事”にあった。
それは「上記の青木氏」に入り込むには、明らかに”「婿養子」”と云う手段であった。
記録で観ると、周囲は積極的に動いた事が判る。 

(注釈 この「動いたとする根拠」は、「青木氏の末裔」と主張する「姓族」が、伊勢と信濃と摂津と紀州南部地域には多い。
しかし、これらは家紋分析から明らかに全て「未勘氏族」である。
前段と重複するが、「皇族賜姓族の青木氏」には、奈良期より「笹竜胆文様」の「象徴紋」以外には、「家紋とする概念の仕来り」はそもそも現在まで無いのである。
「四家制度」に依って、「本家分家と云う区分けの概念」が無く、「族」の区別をする「家紋の概念」を持たなかったのである。
「皇族賜姓族の青木氏」は、この「未勘氏族」と成る[荘園制」等には全く関わっていない事から、後は「商いに依る関係」からか、「青木氏の関連族」と主張したと観られる。
「家紋」を使わない事を承知の上で、当初は、この「未勘氏族」は「商い関係だけの青木氏との繋がり」である事を示す為に、「故意に使わない家紋」を付けて、「青木氏に商いで関連する姓族」として恣意的に独立し呼称していた模様であった。
この現象は地域的に限定している事が云える。
然し、後に、この事をこの「未勘氏族の末裔」は、この事等の「伝統」を忘却して、「青木氏末裔」と名乗ったと観られる。
従って、「皇族賜姓族の青木氏」には、「四家制度」がある為に、「青木氏外の跡目継承」に依る「他の氏名」は元より「姓名」も生まれない仕組みに成っている。
当然に「家紋」も同じ事に成るのである。
この様な事象が多発した模様で、この事象を防ぐ目的で、「青木氏部」の「家人と職能集団」に対して正式に「絆青木氏制度」(職能紋授与)を採用していた。
と云う事は、この「未勘氏族」が多く出て「権威失墜の問題」が出た事を認識して対策を打っていた事を物語る。
従って、これらの「姓族」との「婿養子の記録」は「青木氏側」には観られないのである。)

しかし、「皇族賜姓族の青木氏」は、「賜姓族としての立場」を保つ為に、同じ「同族系の氏族」との血縁を進める”「純血性の概念」”を頑なに「氏是」として持っていた。
つまり、「賜姓五役」を護る為には”「吊り合いの取れた血縁」”であった。
この”「釣り合いのとれた血縁」”と云っても、実質、「血縁出来得る氏族」は、多くてもこの時代は周囲には50氏にも満たないの状況であった。
(高級武士の姓族との血縁は江戸期に入ってからである。)
この「氏族」の最大発生期は鎌倉期末期の200氏である。室町期初期の下剋上で激減した。

この「賜姓族」としての「権威の象徴」を護ろうとすれば、結果的には、”「同族血縁」”と云う事にも成って仕舞う。
この防御策が「四家制度」であった。
必然的に、ここで好む好まざるに関わらず”「純血性の概念」”が生まれるのだ。
その「隙間」を狙って、”「勃興の姓氏族」等は、上記の様に「血縁」を積極的に進めようとして来るのである。
その“「隙間」”とは、”「四家制度」”を敷き、50にも及ぶ「慣習仕来り掟」で護られたところには、普通では生まれない。
生まれるのは、「青木氏の弱点」の“「政略上の事」“に成る。
従って、対策として採った事は、この「政略上の事」に関わるが、その事を「青木氏の氏是」(家訓)で厳しく戒めてはいる。
然し、流石に、「謀計謀略」ともなれば、この世には”「事の流れ」”と云う物が在ってなかなか「皇族賜姓族の青木氏」に執っても防ぎ様がない。

その内容としては、確かに”「養女」”と云う形も在ろうが、「氏家制度の男系社会」である限り ”「養子の存在力」”が、「養女の存在力」に比べて格段に高く、「自らの家の名声」を飛躍的に高め様とする。
従って、「下心」があれば「養子の社会」であった。

その「家の後継」としての”「跡目養子」”もあるが、“「吊り合いの取れた血縁」”(純血性の血縁)からすれば、先ずは「継承如何」は問わない”「婿養子」”以外には無い。
「跡目」「婿」の何れにせよ、その「目的」は、“血縁したと云う結果”であって、彼らに取っては先ずは、「自らの家の名声」を獲得する事では「婿養子」でも充分なのである。

(青木氏は「四家制度」を採っているので「婿養子=跡目養子」の図式とは成らない。)

一度、「男系」で繋がれば、その「名声」を使って「血縁関係」を高めて行く事に成り得て、「氏族の関係族」として”「姓族の家譜」”に反映させられる事が出来る。
その為には、「自らの家の名声」を高めようとする者は、先ずは“何らかの関係”を作り上げねばならない。
これは「勃興姓氏」にとっては「生き残る手立て」としては「最大の命題」でもある。

(注釈 青木氏の「最高の格式と権威」、「絶大な抑止力」、「莫大な経済力」の「三つの陰」の下に入る事の命題)

「手取り早い」のは、先ずは、「四家制度」外の「女系縁者ルーツ(妾子系)」の”「青木氏の遠縁」”との関係を持とうとする事であった。
其の上で、この「遠縁の関係」を使って、次ぎには、「青木氏の婿養子」の中に食い込もさせ様としたのである。
(南紀州に個人記録あり)
現実に、そこに、“隙間”が生まれた。

何故ならば、それは「四家制度」を構成する上記した”「5つの面 20の顔」”の事である。(前段記載)

この”「5つの面 20の顔」”に、人材を潤滑に送り込もうとすれば、時には、長い間には,不足する可能性を生み出す事も考えられる。
この時、ここに、所謂、“「隙間」”と云う物を生み出す。

(注釈 現実に室町期初期頃には既に起こっている。後に、「青木氏家人」と「青木氏部の職能集団」の「二つの絆青木氏」で対応した。前段記載)

この室町期は“「紙文化」”とも云われ、「青木氏」に執っては、有史来、「巨万の富」を得た時期でもあった。
「青木氏の組織力」も一段と大きく成り、「賜姓五役」を実行するこの”「5つの面 20の顔」”の役割は、其れに伴って大きく成り、“「隙間」“を生み出す結果と成った。

その為には、先ずは、”「青木氏の遠縁」”との関係を持ち、其の上で、この「遠縁の関係」を使って、次ぎには、「青木氏の婿養子」の中に食い込もうとしたのである。

この「隙間」の出る状況と成るに至って、「賜姓五役」を潤滑に務めさせるにはいよいよ問題が出始めた。
それは「財政的問題」」では無く、「四家制度」を護る為の”「人様」を整える事”にあった。

上記した様に積極的に近寄って血縁の関係を持とうとして来る他氏と血縁をすれば、”「人様の問題」”は容易に解決する。
然し、「純血性の宿命」があって、それは絶対に出来ない。

ここに下記に論じる本論の種々の問題が出て来るのである。

そもそも、格式的には、これに比する同族は「皇位族」の中には最早、男系が切れた事で全く無かった。

(注釈 「光仁天皇期」以降は、「一族の皇族方」としては存在するが、「桓武天皇から円融天皇期」までは、未だ天皇家の中に「光仁天皇」から引き継いだ「青木氏のルーツ意識」があった模様である。
然し、直系外と成った平安末期からは資料としては無く成る。
何とか観るとすれば「後三条天皇期」が限界と観られる。)

しかし、「皇族賜姓族の青木氏」の「賜姓五役」を担ってもらえる一族の「皇族方」は、「男系不足」のみならず、その「意志や能力」を持った皇族方は無かった。
勿論、下記にも論じるが同族と見做される「賜姓源氏」(意志と能力)にも無かったのである。

これは、恐らくは「皇族賜姓族の青木氏の賜姓」から変わった「ルーツ意識」の低い「賜姓源氏11家の台頭」が原因している。
現実に、「円融天皇」の後の「花山天皇期」でこの「賜姓源氏」は正式に中止と成っている事でも判る。

最早、「賜姓臣下族」の「皇親政治的感覚」は無く成り、皮肉にも一族の「桓武天皇」が始めた「律令政治の感覚」が軌道に乗った事から「意識の低下」が起こったと観られる。
これだけの皮肉では無い。「桓武平氏の台頭」も影響したのである。

「皇族賜姓族の青木氏」の資料から観ると、一族であった「桓武天皇の評価」は低い所以でもある。
しかし、一族の「嵯峨天皇」はこの「賜姓源氏」を発祥させたのに評価は高いのである。
これは、主題として下記に論じる「円融天皇の目論見策の所以」ではないかと観ている。

又、ここで「格式的な繋がり」を無理に作り出そうとすれば、「嵯峨期の詔勅と禁令」が障害と成っていたのである。
且つ、それは「朝廷の政治と財政」を大きく揺さぶる結果とも成り得策では無かった。

(注釈 前段記載 念の為に記載するが、 「嵯峨期の詔勅」では、次ぎの様な概要であった。
「皇子族」を減らす為に、臣下させるが、財政的、軍事的、政治的な特権を与えない。
ただ、「朝臣族」にするだけである。後は自らが切り開けとして賜姓した。
「皇族者」としての[朝臣族の格式の身分」を与えるだけとしたのである。
嫌であれば比叡山僧侶に成れとした。
この為に「源氏」はその基盤が弱い事から各地に散ったが衰退を余儀なくされた。
ところが、「清和源氏の満仲−頼宣系」は[荘園制」に目を付け、「地方の土豪」が「開墾した土地」に対して策略を講じた。
「源氏の名義貸し」と「武力に依る保護」を与える代わりに莫大な「名義貸し料」と「保護料」を要求し獲得した。 
「皇族の名義貸し」では、「源氏の権威」を周囲に誇示させ、その皇族系では「荘園の税」も軽減される事に目を着けての事であった。
この「莫大な財力」を獲得できる様子を観た「全ての源氏」のみならず「摂関家」もこれに乗じたのである。
この事が行き過ぎて、「荘園から入る財」を大きくする為に、「武力」で他の荘園を奪い取ると云う現象が頻発した。
これが更に行き過ぎ、奪い取った豪族の荘園の人間を捕虜として連れて来て、「奴隷」として「荘園の人力」に使うまでに成って仕舞った。
「清和源氏の義家」は、この「戦闘の大義」を「朝廷からの勅命」を偽装して、攻め落として捕虜を獲得して荘園は益々大きく成った。
然し、「天皇」は見兼ねて「義家の行為」を「私闘」として罰し、「清和源氏頼信系」を悉く罰した。
結局は、「花山天皇」で、この「存在意味」が低く、「社会の弊害」と成った「源氏賜姓制度」を正式に中止した。
そして、遂に、摂関家外の「後三条天皇」はこの「荘園制」を禁止して解決した。
この問題を解決すべく最初に動き出した天皇が下記に論じる「円融天皇」であった。
この「円融天皇」の後が「花山天皇」で、その三代後が「後三条天皇」である。
ここに「上記の立場」に居て活躍した「青木氏」が出て来るのである。

この「青木氏の活躍の背景根拠」と成ったのが、上記の論として記載している事である。
「嵯峨期の詔勅」が「賜姓源氏」の「青木氏に対するルーツ意識」も低下させた原因でもある。

そもそも、皮肉にも、「青木氏」から「源氏]にその「氏名」を変えただけの「同族賜姓族」であるのだから、「皇族賜姓族の青木氏」に執っては「味方」を増やした事に成る筈であった。
「嵯峨天皇の賜姓制度の翻意」はそれが目的であった筈である。
しかし、この「翻意」とは真逆に「11代源氏」は全て逆転したのである。
安易な「荘園制」に走ったのである。
「荘園制」にのめり込んで「社会的な弊害」を出している多くの「賜姓源氏」には,「賜姓五役の補完」は,逆の事をしているのであるから最早、頼む事は絶対に出来ない。

そもそも、「青木氏」に代わって賜姓された「11代の源氏」は、「嵯峨期の詔勅」の歯止めが有って、その「財力」は殆どの源氏は無かった。
在ったとしても、「賜姓族」「臣下族」「朝臣族」の「掟」(格式慣習)が有って、自由には出来なかったのである。
結果として、彼等には暗黙の内で「荘園制」を悪用して勢力を高め財力を得るしかなかった。
これを形振り構わずに顕著に犯したのが、「清和源氏頼信系」である。
時には、朝廷も騙して突っ走ったのである。 

(唯、清和源氏の宗家の摂津の「頼光系」の「四家一族」は限度を超えたこれを避けた。「五家五流の地の守護代」を務めた。故に、「五家五流の青木氏跡目」に入る事が出来たのである。)

そもそも、注釈で述べた様に、この「荘園制」は、「奴隷制度」などを誘発して社会問題に成っていた。
しかし、天皇家は「摂関家」に丸め込まれて、周知の事実として「摂関家」自らもこの「荘園制」に手を染めていた。
そして、政治は「勢力争い」に走り大いに乱れていた。

そこで、嵯峨天皇の賜姓源氏に「皇族賜姓族の青木氏の補完の役目」(賜姓五役)を期待していた。
然し、上記の通りで、期待は裏切られた。
そこで、次ぎに論じる「円融天皇」は、この問題に命を掛けて取り組みだしたのである。
そして、「荘園制の弊害」(奴隷制)を無くす事の為に、この「荘園制」をも禁止しようとした。
先ずは、戦略的には「禁止する為の背景]を強化しようとしたのである。
つまり、「身の回り」をまず固める「朝廷の強化策」であった。

この事に付いて、本論は、前段や上記の様な「青木氏が持つ背景や経緯」が大きく影響するので、それを充分に理解した上で無くては納得が成されないテーマであるので次ぎに詳細に論じる事にした。


以下 「青木氏の伝統―15」

・「秀郷流青木氏」と「融合族の発祥」

この前に、「青木氏」には、「発祥期別」に分けると次ぎの様に成る。

(1) 「天智期の青木氏」
(2) 「円融期の青木氏」
(3) 「嵯峨期の青木氏」

この事を先に判り易くする為に記述する。

上記注釈の直前に次ぎの様な事が起こっていたのである。
奈良末期の社会変動の激しかったところに、伊勢の「四家桑名殿」の「白壁王の家」が「天皇家」と成った為に、“「四家」“は一時「空家 37年間」と成っていた.
しかし、平安中期には、下記に論じる伊勢の「秀郷流青木氏」との「融合族」が発祥した。
この青木氏同士の「融合族青木氏」が、「副役の空家」に入り、「四日市殿」と呼称されていた。
それによって,より一層、「伊勢青木氏四家の主役と副役」が再び強化されて構成されたのである。

この強化された「青木氏の四家制度」は、「嵯峨天皇の意」を汲んで、平安中期には「秀郷流青木氏」が「特別賜姓族」として「補完する役目」を「円融天皇の命」(968年頃)により負った。
この事に依り、更に、強化されて拡大したのである。
「賜姓」をした「円融天皇」が、「三つの発祥源、賜姓五役、国策氏」の主役と、「福井逃避地」「下族者受け入れ役」等の[副役」を、今後、安定して続けて行かねばならなかった。
それには、次から次へと朝廷から無秩序に与えられる「臣下族としての役務」に対し、その「財力」と「遂行力」が、上記した様に、最早、明らかに不足していた。
天皇は、当面の「政治的課題」を解決させる為には、「信頼できる青木氏」に「財力」は兎も角も、先ずは別の信頼できる氏族に「賜姓」を与えて補完させる以外には無かった。
その「役務遂行の財力」を天皇家が保障してやるだけの余力はこの時期には無かったのである。
「賜姓臣下族」は、「直接的な武力の保持」は兎も角としても、公家と並んで「商いに通じる直接的な財力」を持つ事は慣例としては禁じられていた。
これは、「二足草鞋策」を「青木氏」に”「紙屋院」”として新たな「特別な朝廷の役目」を与えて暗黙に承認して構築しさせて居た。
然し乍らも、この事は「強い財力的手段」での「遂行力」に対してだけの「役務の遂行力」に強い「不安感」を抱いていた事を物語るものである。

未だ、この時期にも、上記した様に、皇族には、「荘園制から来る弊害」が蔓延し、それを解決しなければならない課題が強く遺されていた。
最早、「賜姓族臣下族の青木氏」だけの「受け入れ能力」に限界があって、それを解決しなければならない問題があった事をも示すものである。
「公家」や「他の臣下族(連族)」は,その「財力」をこの「荘園制から上がる利益」に頼っていた。
然し、「1の天智期の青木氏」は、この弊害の産んでいる「荘園制から来る力」に頼る事は「賜姓臣下族」としては「賜姓源氏」の様に立場上出来なかった。
従って、この「青木氏」の「朝廷からの役目」(賜姓五役)を滞りなく果たす為の「受け入れ能力」に問題が出て来ていた。
これを拡大させるには、最早、「青木氏の四家制度」では限界にあった。

そこで、この「円融天皇」は、暗黙の内に認めていた「二足の草鞋策」(925年頃本格営業)では繁栄したが、次から次へと与えられるその役を遂行する為の「財力(総合的な遂行力)」を捻出するものとして認めていた。
しかし、それだけでは、最早、無理と観ていたのである。
つまり、それは「財力の問題」だけでは無かった。

そもそも、「朝廷官僚族」と違い「賜姓族」として「臣下族」として役務を忠実に果たす信頼できる「身内の氏族(朝臣族)」がいよいよ出現した。
それに乗じて次から次へと調子に載って役務を与えられる事が出来る事への便利さがあって、”その「財力」のみならず「遂行力全般」への配慮なしの勅命”が発せられていた。
それでは当然の結果として、「1の天智期の青木氏の能力」に限界が起こる事は必定であった。

(注釈 この円融期の少し前の時期の「清和源氏の摂津系」の資料には、朝廷からの「社殿修理の勅命」を受けた事に対し、不満を述べなかなか実行に移さなかった処、催促を受けて止む無く一つの「社殿の修理」を実行して一時を凌いだ事が書かれている資料等がある。)

(注釈 「朝廷統治」が成された地域に対する「皇祖神の子神の神明社建立」と云う「莫大な財力と実行力」を必要とする役務、それ一つ執っても「1の天智期の青木氏」には大きく圧し掛かっていた。)

そこで、最早、「皇族賜姓青木氏」だけに頼る事は無理であると「天皇」自らも考えていて、これを加速させるには、他に「補完する役目を担う氏族」が必要であると考え始めていた事に成る。
然し、それを請け負わせられる「信頼できる適当な氏族」を見つけ出し、それを命じるチャンスをなかなか見いだせなかった。

(注釈 上記した様に、嵯峨期から発祥した「賜姓源氏」に請け負わせる「11代の天皇翻意」であったが、上記した様に「荘園制」に走って仕舞った。)

丁度、その時前に、「平将門の乱」等の事件が多く起こり、時代は”「著しい混乱期」”に入っていた。
「社会の混乱期」だけでは無く、「朝廷内部、天皇家の存在意義」も問われる乱れ様であった。
この中で、誰一人積極的に進んでこの複雑な様相を呈する「乱」を鎮められ、且つ、「引き受けられる者」はいなかった。
「天皇」自らの身も危ない程に、「補完する氏の選出」が出来るその様な簡単な社会情勢ではそもそも無かった。

そこで、乱直前には、渋々、「関東の治安の責任者」でもあった「藤原秀郷」と「平貞盛」の二人が、”「条件付き」”で乱鎮圧に名乗り出たのである。

有史来、そもそも「天皇」に「与えられた役目」に対して、「条件」を付けるなどの事は「不敬不遜の極まり」として「臣下の不作法」と捉えられる行為であった。
しかし、この二人はやって仕舞ったのである。「前代未聞の出来事」であった。
それだけ乱れていた事を示す証拠である。
(飛鳥期の蘇我氏の上記の様と類似していた。)
むしろ、それまでは、”「役目を与えられる事」”が名誉な時代であって、その様な「社会体制」でもあった筈であった。
然し、この時期は、そうでは無かった。その「社会体制」を背景に、二人は”何と条件を付けた”のである。
それだけ「天皇家の政治と権威」は失墜し窮地に陥っていて乱れに乱れていたのである。

(この「朝廷内の構造」と「社会情勢」には”ある原因”があった。下記)

然し、ここで何もしなかった弱体と成っていた「村上天皇」−「冷泉天皇」の後を引き継いだ「円融天皇」は、「平の将門の独立国の乱」後の解決も然ること乍ら、ここで、”「上記の課題」を一挙に解決させられるチャンスでもある”と観て採った。
(この時を得て密かに「献策」があった。下記)
先ずは、この「前代未聞の条件」等から起こる「政治課題」を解決する為には、一時この条件を認める事にして、「円融天皇」は、”「密かな献策」”に応じて勇断してある方向に舵を切ったのである。
然し、ここで上記の”ある原因”に「対抗し得る勢力(決断するに必要とする背景)」が必要であった筈である。
これは”闇雲に出来る話”では無い。「献策する者」が居た以上は、その者がこの”ある原因”に「対抗する勢力」を当然に充分に保持して居なければならない。
もし、そうで無ければ、「天皇の命」は愚か「朝廷は崩壊」に等しい大混乱に陥る。

その背景がある事を信じて、この「決断」と同時に、転んでもただでは起きて来ない判断を更にしたのである。下記

結局、この「鎮圧」に成功し、「勲功」のあった関東の「押領使の藤原秀郷」には、この「青木氏の補完作業の役目」も付け加える「白羽の矢」を当てたのである。

「藤原秀郷」は、北家筋でありながらも摂関家筋では無かった事から、「下野武蔵の押領使」(警察と軍隊)と云う低い役目柄で長い間「冷飯」を食って居た。
其れが理由か歴史的に有名な事件の「受領家の乱行」を重ねていた。

この時の「下野押領使説」には、幾つかの他説があった。

乱の直前に任じたとする「乱直前説」
乱の直後に任じたとする「乱直後説」
乱の30年後に任じたとする「乱事後説」

以上の3説がある。
筆者は、「青木氏」の資料から観ると、「種々の考証」の結果に矛盾なく合致するのは、「30年後の乱事後説」と成りこの説を採っている。
つまり、「本論の経緯」に基づく「円融期説」である。
この説で無ければ、「円融期説」に矛盾が生まれ成立しない。
当然に、2の「円融期の青木氏」は生まれて来ない事に成る。
然し、現実にはこの時期に発祥しているのである。

何もしなければ、これだけの116氏にも「成った青木氏」が自然発生の様に発祥する事は無い。
「氏族」である限りは「朝廷の認可」を得て発祥した氏である事は明明白白である。
況して、「嵯峨期の詔勅の禁令」で他の者が青木氏を名乗ってはならないとする禁令を発しているのである。
従って、「乱事後説」]の「円融期説」が立証される。

又、記録より史実である「30説や46説等の根拠」と成っている事から「乱事後説」は立証される。

これを「円融期説」とすると、その背景にあった「秀郷」は、先ず「武蔵の領国化」と「貴族の位階」の「二つの要求」が「乱鎮圧の条件」として提示していた。
この時に、「下野国の云々の事」は何も無かった。記録的にも無い。
ただ事前は「乱行」の激しい罪人の「下野の受領家」(掾)であった事は史実である。
この事を捉えて「年数の根拠」なしに推論に近い「事前説」が出来たと観られる。
然し、正式には「乱後の朝廷」が行う「勲功」の為の「国の再配置」後に正式に決まるものである事に付いての「国の仕来り」には何も論じていない。
単なる乱前の「下野の受領家」(官僚家)に過ぎなかつたのである。
下野国を領化するものでは決して無かった。
そうすると、明らかに領化したのは「30年後の乱事後説」と成る。
正式には「乱事後」に「武蔵守」と「下野守」に任じられている。

然し、この結果に対しては、「守護守」に成るまでの30年後までは、史実として朝廷はこの「約束」を護らなかった事に成るのである。
そして、30年後には、「守護職」の「国司」では無く「武蔵国」は領国と定められたのである。
この事からも疑う事無く、「30年後の事後説」に成り得て、2の「円融期の青木氏」の発祥と成り得た事を証明している。

(注釈 依って、正式には約30年程度は恣意的に勲功を放置した。 46年と云う説もあるが考証的に若干これは合わない。)
恐らくは、「天皇」としては、前代未聞の「不敬不遜の至りの不作法」に対して、どんな愚者であっても「天皇」である以上黙っている事は無い。
そもそも、「天皇」とはこの「権威と尊厳」の上に依って成り立っている「立場」である。
それを犯され、不満を述べられ騒がれて駄々を捏ねられる事は「許容の範囲外の事」である。)

唯、乱後には、確かに貴族に成り得る”「従四位下」”に任じられただけであった。

(注釈 ところが「貞盛」は「従五位上」であった。そもそも、秀郷より一ランク下である。
この意味は大きい。そもそも、この「官位」は「公家身分]の最低クラスの格式である。
然し、「秀郷」は最低の公家の官職に付ける位で、且つ、四つから成る名誉ある「各種の勲功や幇助」を受けられる立場である。
大きく「勲功」が違った事を意味する。
つまり、「乱鎮圧の評価」が違った事に成る。
それは、「乱の首謀者」の「一門の将門」を「宗家」として統率できなかったとする「責め」と「乱鎮圧の不手際」の「責め」を受けた事にある。
故に、差を付けられた「貞盛」は敢えて「不満」を露骨にしなかった理由でもあるし、「不敬不遜の至りの不作法」を知っていた事を意味する。)

その事の「不満」も重なっての理由と成って、「秀郷」は「乱行」を繰り返していたのではないかと観られる。
然し、ある時期(970年前後頃以降)を境に、この「秀郷]に「落ち着き」が起こったのである。

(注釈 この時期を境に「乱行の事件性の記録」があらゆる資料からも不思議に消える。)

それは、上記の様に、事後評価の「上記の勲功差」のみならず、下記に論じる「円融天皇の目論見策の結果」と観られる。


その「目論見策」とは、一体どの様なものであったのかを最も「青木氏」に関わる「基本的な歴史史実」の事なので下記に詳細に論じる。

そこで、「円融天皇」は、出されていた「提示条件」を全て容認するだけでは無く、この”「貴族の位階授与」”に託けて、その上に課せて、次ぎの「付帯条件」を付けたのである。
それは、一ランク上の「条件の貴族」と成った以上は、”この「賜姓五役の役目」も受けなければならない”としたのである。
つまり、「賜姓五役」を務めている「青木氏」の「特別の賜姓族」に成ると云う事に成る。
遅れはしたが、これは「最高の勲功」と成る事を意味する。
「従四位下」と低いが、この官位とは裏腹に「1の天智期の青木氏」と「同格の格式」を持つと云う事に成る。
「破格の扱い」と成る事を意味する。
つまり、格式としては、「従四位下」ではあるが、「賜姓五役を補完する立場」に成ったのであるから、最高位の「浄大一位に匹敵する立場」を暗に獲得した事を意味する。
恐らくは、摂関家や外戚は、「政治、経済、軍事の三権」では、秀郷一門が突然に上位に位置する事に成って、驚愕した事は間違いは無い。

(注釈 後に「賜姓五役」のみならず、全66中の24の守護職、最終28職も獲得するに至るのである。)

そして、この「条件の立場」を認める事として、更に次ぎの「勅命」を下したのである。

後刻に上記の経緯を経て、「武蔵」を「領国」とし、「押領使であった下野」の「支配権」をも与えられる事に成った。(詳細下記)

以上として円融天皇は、先ずは「当面の事態」を解決したのである。譲位前には「戦略的な基礎固め」が出来た事に成る。

(注釈 「秀郷」には全く問題はないどころか、下野の「田舎の受領家」からとんでもない「破格の家柄」と成った事で、「摂関家」にも勝るとも劣らずの格式を持ったことに成ったのである。
況してや、「無役」では無く、「財」は掛かるかも知れないが、「最高格式」の「賜姓五役の役務」を与えられたのであるから、これ以上のものは無い。

「円融天皇の目論見策」に執ってみれば、これで先ずは「第一段階の念願」の「青木氏の補完の役務の問題」は解決する事になったのである。
後は、この勢力を使って朝廷内を「一発逆転の改革」に入る事であった。下記

現実に、この時期を境に「秀郷の乱行期」は完全に霧消して行った。

(注釈 重要 資料からは、「960年頃以降」は、「秀郷個人の記載した記録」や「事件性の記録」は見つからない事から、「落ち着き」を取り戻して来たと観られる。

乱後の「勲功」は、「二条件」の内の「貴族の条件」の「従四位下」の官位のみで済まされていた事に成る。
しかし、記録を辿ると、「約30年後の円融天皇期」には「他の条件」も大筋で認め、最終的には、983年までに処置している。
その代わりに、この時に、「秀郷」には「円融天皇の目論見策」に載ることを命じたと観られる。

(注釈 乱後の余りの「勲功の大きさ」の為に、秀郷死後に「贈正二位」に列せられている。
明らかに,その後の天皇は[1の天智期の青木氏」の「賜姓子役の補完役」を見事に熟し、将又、[朝廷」を改革した「2の円融期の青木氏」の「働き」を評価して居た事が判る。)

それは、次ぎの事からも判る。(「円融天皇の目論見策」に載ることを命じた事)

・ 「青木氏の商業記録」によると、「971年 津殿伊勢入る」と記載されている。
・ 「佐々木氏の資料」の「青木氏の処書」を読み解くと、「下野受領家の系譜添書」に「秀郷流青木氏」の発祥とされる記載が「970年頃」と成る。
・ 「藤原氏諸氏略系図」を観ると、「秀郷の第三子出自の青木氏」は、計算から「969年頃」と成る。
・ 「藤原秀郷流進藤氏の系譜」を観ると、「青木氏発祥」と成り得る「千国の烏帽子期」は添書より読み解くと、「969年頃」と成る。

この記録から、「円融天皇の目論見策」の「千国系青木氏の発祥期」は「970年」である事に成る。

つまり、正規に「二足草鞋策」を採った「925年頃からの記録」である「伊勢の記録」では、「青木氏の着任期」に成る。


この時の「勲功の有り様」に付いては、「秀郷」だけでは無く同じ事が「繁盛」にも起こっていた。

「貞盛」の弟の「繁盛の勲功」にも朝廷は全く同じ仕打ちをしたのである。
この「繁盛」の場合は、この「不満」に対して採った行動が、資料で多く遺っている。
「朝廷」に対して、「明確な不満行動」を採っていて疑われた事が記録として遺されている。
この時、「繁盛」は、それを打ち消す為に「写経」して「恭順の姿勢」を採ったのである。(記録)

ところが、「秀郷」の場合は、結局、この「不満」に対して、「朝廷」に直接訴える行動では無かった。
「乱行と云う不満行為」で多くの事件を起こして、度々、朝廷より罰せられ、遂には下野に引き籠ったのである。

「不満の繁盛」の場合には、下記に論じる様に、「世間」も揶揄して”「岡田殿」”から”「嶋崎殿」”に格下げして呼ばれたのである。

実は、この「不満の繁盛」の場合は、30年後の後に、上記した”「嶋崎殿の青木氏」”と呼ばれる処置で解決したのである。下記

そして、「不満の秀郷」の場合は、30年後の後に、”「武蔵殿の青木氏」”と呼ばれる処置で解決したのである。下記

何と、何れも「賜姓 青木氏」であった。

その前に、この「勲功の時期の遅れ」は、何で遅らしたのかの疑問を説いて置く。
そもそも、これは「故意的」に朝廷が遅らした事である。

(注釈 この「故意的遅延策」は、「二足の草鞋策」を始めた頃の事である事から、未だ摂関家等の「外戚の勢力」を抑え込む「抑止力」は充分に醸成されていなかった。
この事から、「青木氏の氏是の知略」から鑑みて「青木氏の献策」では無かった筈である。)

では、そもそも、この「故意的な遅延策」は、”何故、起こったか”と云えば、次ぎの事から起こったのである。

そもそも、”「天皇に対して前代未聞の条件提示」”をした「臣下の不敬不遜な行為」に対して、「天皇の威厳と権威」を護る為にも直ぐに応じない「対抗処置」であった。

それは、「臣下族」が絶対に採ってはいけない前代未聞の「最大の不敬不遜の行為」であったからで有る。
これが「有史来の事」である事から、「乱」が起こり世間がこの「乱の始末」を観ている時に、「天皇」からすると「立場」と「権威と尊厳」を著しく傷つけられて、煮え返る程に「腹立たしい行為」であった筈である。

(注釈 実はこの事を証明する記録が遺されている。

「繁盛」が「不満の発言と行動」を採った事に対して、約30年前後に、「繁盛」は反省して何度も朝廷の外戚に頼み込んで執り成しを得ようとした。
ところが、「天皇」に無視される始末で、遂に思い余って「嘆願書」まで出した。
然し、その後、「周囲の執り成し」にて、一度は形式的に許されるが、結局は天皇の強い反対で無効と成っている。
その後は、”一族の印象を落としている”と云う事で、一族から邪魔をする者も出て来る始末であった。
何度も「執り成し」を「却下」される等の「仕打ち」を受けていた。) 

「秀郷」も「繁盛」とほぼ同様であった。
ところが「貞盛」は左程の不満の態度を示さずにいた。
そこで調べると、この時期を利用して密かに本領の九州と堺で「港の整備」をして、中国との”「商い」”に邁進していたのである。
つまり、「隣人の青木氏」に感化されて、「荘園」では無く「商いに依る財の獲得」に重点を置いていた事に成る。

(注釈 五代後の清盛は、遂にこれを引き継ぎ、「禁令の慣習」を破り正式に宋貿易まで発展させた。
「1の天智期の青木氏」は、925年から「二足の草鞋策」で「[商い化」して、この「商い」を「総合商社化」した時期でもあった。
恐らくは、「先祖の生き様」と「隣人の生き様」を観ていた事の結果と観ている。
「生き残る」には、「武力」では無く「商い」であることを感じていたと観ている。
その証拠に「源の義経」に「清盛」は何と「商いの必要性」を解いている「記録」が遺されている。) 

兎も角も、しかし、天皇家は弱体化している現状ではやむ得ず、心を何とか治めて我慢しての対抗処置であった事に成る。
朝廷は、この「貞盛の行為」に対して、敢えて”観て見ぬ形振り”をしたと観られる。
何故ならば、この事を大きくする事は、「禁令の商い」を営む隣の「青木氏」に対しても罰する事にも成る。
況してや、その「商材」は主に「和紙」である。
伊賀の「たいら氏」と伊勢の「青木氏」らが中心と成って「国産化に成功したばかりの「和紙」である。
両氏は「伊勢和紙(伊賀和紙)」で一緒に殖産している隣人である。
両氏を「罰する事」は、「天皇」に執っては、折角、「補完の役務」を「秀郷」に負わせようとしているし、「繁盛」には、「青木氏」を与えて、「秀郷の補完の役務」の補佐の「特別の役務」(実務役 下記)を与えて何とか「目論見策」を実現しようとしている時でもある。
こんな時期にそんな事は絶対に出来ない。全てぶち壊しと成り得る。

その状況を鑑みて「一発逆転の策」に出たのは、そもそも、「円融天皇」(下記)であった。

そこで、「前天皇」には、二年程度で外戚から退位させられた事からもその能力は全く無かった。
そこで、引き継いだ「円融天皇」は、「30年後のチャンス」として捉えてこれを利用したのである。

然し、「円融天皇の優秀さ」は、「一発逆転策の目論見策」だけでは無く、「事の流れ」を創出する能力に長けていた事に在った。

(注釈 これが「秀郷」にしても「貞盛」や「繁盛」にしても「繁栄の基礎」と成る様に仕向けた処にあったのである。)


この”「事の流れ」”を創出する為に、その後、この状況を観たこの「円融天皇」は其れだけでは済まなかった。

この時の「円融天皇の政治手腕」は、「外戚」に「政治の場」を奪われていながら、若かったがその資質は極めて優れていた。
取り分け、「外戚」が多いと云う事は、「外戚の発言」が多いと云う事にも成り、その中でも、それを聞きわける「判断力」に優れていた。

先ず、この時、“「貴族は武力を持つ事が出来ない」”とする「朝廷(奈良期大化期)の仕来り」があった。
それに絡めて、「武力を持つ護衛団」を別に作る様に「秀郷」に要求したのである。

然し、更には、これにも「勲功のあった秀郷」に持たすのではなく、又、その子供の跡目嫡子の「千常」にも渡すのでもなく、何と「部屋住み身分」の「第三子」(「千国」)に代々継がせることを命じたのである。
当時の「慣習仕来り掟」からして、この処置はこれも「前代未聞」であった。
臣下の採った「前代未聞」は、天皇の採った「前代未聞」で返したのである。

恐らくは、当時としては、これは世間があっと騒ぐほどの「仰天覚知」であったであろう。
30年と云う期間を得て流石に大人しく成り始めていた「秀郷」は、この事に対して「若い円融天皇の能力」を見直すだけの驚きを示した筈である。

そして、この「仰天覚知」はこれだけでは済まなかったである。
何とその「氏名」を「藤原氏」では無く、大化期からの「由緒ある氏名」の「青木氏」を名乗らせる事にしたのである。
これは「嵯峨期の禁令」に反している。
最早、「仰天覚知」を通り越していた筈で、「煩い外戚」に囲まれていながら、「円融天皇の能力の優秀さ」を感じ採っていた筈である。

この「賜姓臣下族の青木氏」が、「朝臣族」と成って、間接的に秀郷一門の貴族を護衛する一団の「氏族」としたのである。
つまり、「青木氏と朝臣族の名誉」だけを与えるのでは無く、これまた、「仰天覚知」であった。
「円融天皇」自らが、”例外中の例外の「武力」”を公然と持つ事を「貴族の家柄」に命じたのである。

この「円融天皇」が採った根拠は、「補完する役目」を負う以上は「賜姓五役の天皇の護衛団」の考え方を発展させたのである。
この「賜姓五役の護衛団」を使って、「従四位下の貴族」と成った「秀郷一門宗家」を護る役目も負わしたのである。

この「護衛団」を使って、「外戚」を先ず威圧して「天皇の権威」を取り戻そうとしたのである。
これで、現実にこれで「煩い外戚」は黙り始めたのである。

普通は、むしろ、「武力は禁じ手」として命じる事が、「天皇本来の仕来り」であるにも関わらず、「逆の事」を命じたのである。
むしろ、この段階で、「秀郷」は、”「円融天皇」を恐れ慄いた”と観られる。
これは、例外中の例外を飛び越えたそれほどの「勅命」であった。

ところが、未だ、この「円融天皇」は、これだけでは済まなかった。

その為に、”特別に「皇族外の臣下族(朝臣族)」を作り、永代に「賜姓族」にする”と云う策に「円融天皇」は出たのである。
本来は、「あり得ない勅命」であった。
これだけ「例外中の例外の勅命」を、「煩い外戚連中の意見」を入れずに、「勅命]を下したのである。

(注釈 この時の「外戚」は、一人や二人の外戚では無く、何と「40人」と云う「外戚」が政治に関わっており、余りに多い為に「外戚に依る勢力争い」の時代と云って良い程の状況であった。
この為に「政治腐敗」と「天皇の権威」は極度に衰退していたのである。下記)

恐らくは、朝廷内は「蜂の巣」を突いた様に騒いだであろうことが良く判る。
むしろ、「身の危険」さえも感じる程であった事は充分に想像できる。
先ず、普通であれば、阻止されていた事が当然で、病気か何かを理由に託けて即座に退位させられていた筈である。
現実に、「円融天皇」の前後の二代の天皇は、「外戚」に逆らう事も無かったのに「外戚」から退位を迫られ極めて短期間で譲位していて、その史実が遺されている。
これだけの事をした「円融天皇]である。

普通は即座に退位させられていた筈であったが、次から次へと策を講じて「勅命」を発したのである。
これには、それを阻止できる何かが働いていたからこそ出来た事である事は上記した様に容易に想像できる。
何せ「摂関家」の40にも成る「藤原氏等の外戚」にも打ち勝つだけの「相当な力」「影の何かの勢力」が働いていた事は間違いは無い。

我々「青木氏」から観れば、大変興味の湧く処であって、「影の何かの勢力」、況や、”それは何なのか誰なのか”である。

(先に経緯を記述して観れば判る故に下記に論じる。)

そして、次ぎには、貴族に列せられた「秀郷一門」は、「宗家の第三子」を、この「青木氏の跡目」に必ず入れる事が定められた。
この策の「永代の継続性」を保証する為に、「青木氏」に跡目が切れた場合に限り、「秀郷一門の宗家」から「青木氏跡目」に入れる事を条件にした。
早速、「秀郷の第三子の千国」にこの役を任じて提示した。
所謂、「第三子跡目の制」と云われたものである。
「皇族賜姓族青木氏」に適用されている「第六位皇子の賜姓の制」に準えた制度である。

(注釈 最初は、一門一族筆頭の宗家筋と成る「佐野氏」(秀郷の出自地)から多く跡目に入っている。下記)

この時、未だ「円融天皇」のこの処置は終わらなかった。
続けて、矢継ぎ早に次ぎの策を講じたのである。

「藤原秀郷」と「平貞盛」の二人が、この鎮圧に関わったが、ここで、「円融天皇」は、何と「将来の事」までを予測していた。
それは、この「平の貞盛」の台頭(たいら族の始祖 清盛の5代前)であった。
この関東に「大掾」や「押領使」として配置赴任させられていた。
然し、「平貞盛」等の「現地末裔子孫」の「嶋崎」に住んでいたとされる”「たいら族」の「嶋崎殿」”と呼ばれた家から、この何と「千国」に嫁がせたのである。

(当初は「貞盛」は、「京の佐馬允」の役務であった。「不満の態度」を取らず,密かに「商い」に向かったところを見抜いたと観られる。)

そこで、この”「嶋崎殿」”とは、”一体誰なのか”である。
この”「嶋崎殿」”を解明する事で、大きく「青木氏」との関係が観えて来る筈である。
”単なる血縁妃の「たいら族の事」”とは云え、長年の歴史観の感ではこれは避けて通れないテーマである事を感じる。

「円融天皇の目論見策の経緯」を先に述べてからこれを下記に論じる。

当に、”「影の何かの勢力」は誰か”と共に、この疑問の答えも、”世は輪廻”で動く事である。

つまり、将来台頭してくるであろう「京平氏」の「たいら族」を、「特別賜姓族」とする限りは、この「秀郷流青木氏」の血筋に「たいら族の血筋」を入れて血縁関係を構築させる手立てまで講じたのである。
この事で、「特別賜姓族の立場」を将来に渡って確実にして安定化させる手立てをしたのである。

(注釈 現実に、「桓武天皇」の「賜姓族のたいら族(桓武平氏、京平氏)」は、後の「太政大臣平清盛」である。
この「桓武天皇」の母は、「伊勢青木氏の始祖施基皇子」の子供の「白壁王 光仁天皇」の妃「高野新笠」である。
この「高野新笠」は、「伊勢北部伊賀地方」の「阿多倍王」(高尊王 平望王 渡来人後漢の王)の孫娘に当たる。

(注釈  念の為に註釈する。「桓武平氏又は京平氏」の「たいら族」とし、累代天皇から発する「第七世族」を臣下させて「ひら族(平氏)」として坂東に配置した。
これが所謂、「坂東八平氏」である。
これに区別して「桓武天皇」は、「母方族」を賜姓する「賜姓時の根拠」として、「過去の賜姓族」の「第七世族」の「ひら族」に準えて「たいら族」と呼称させて賜姓した。
この「ひら族(平氏)」と、区別する為に通称、「桓武平氏(京平氏)と呼称されている。
この「桓武平氏」は、「後漢21代目献帝」の子で、「後漢渡来系族の阿多倍王」とその父親の「阿知使王」を始祖とする。
618年に後漢が亡び数度に渡り渡来して来たが、その主隊の「後漢17県−200万人の職能集団」は「孝徳天皇期」を中心に渡来して来た。
主に九州北部に上陸し、無戦の状態で瞬く間に九州全土を制圧し、その根拠地を薩摩の大隅隼人に置いた。
鹿児島の阿多地域と隼人地域に拠点を置いていた族である。
その後、中国地方に移動させ、66国中32国の関西圏直前までを無戦制圧した。
「無銭制圧」の理由は、「17県民200万人の職能集団」が土地の者と同化する事を前提に技能享受をした事に依る。
そして、「在来民」の全ては生活向上を果たし、「後漢の渡来人」に従った事に依る。
現在の関西以西の「第一次産業」は、これらの享受の結果であり、「・・・部」とする呼称はこの「渡来人技能集団」の呼称である。
これを捉えて、朝廷は経済方式には「部制度」を敷いた。
平安中期頃には、書物から「渡来人」と云う字句は出て来ないところから、帰化後に完全に同化した事を意味する。
多くは、その進んだ学問から「朝廷の官僚族」にも成り朝廷を主導した。
「阿多倍王」は、又の名を「高尊王」と「平望王]と呼ばれていて、「桓武天皇」は後に伊賀に定住したこの「阿多倍王」の死後に「平望王」として「たいら族」への王位を「大和王式の仕来り」で授与した。
この事から大変多く公的資料は混同している。
最近では、この「高尊王」と、「桓武天皇の記録」にある後に授与されたとする”「平望王」”とを結合させた上で、室町期の家柄誇張の搾取偏纂の資料説を持ち出した”「高望王」なる王命説”で論じられている。)


この事一つ捉えても、これだけの事は、「藤原氏摂関家外の勢力」に依るものである事は容易に判る。
「円融天皇」が、この差配に対して直接発言して主導して仕掛けたかは別として、「京平家への処置」は、何らかのルートを使って仕向けた事は疑う余地は無い。
何故ならば、「摂関家」には、「藤原氏]としての高い格式もあり、「官僚族」としての激しいライバル関係にもあった事から「秀郷の北家筋」から絶対に採り得ない差配である事は判る。

そこで、では、上記の疑問の一つを論じる。
この「平氏の嶋崎殿」(氏名)について検証して観ると観えて来るものが多くある。

この通称、この”「嶋崎殿」”は、元は別に「姓名」としては”岡田”と号していた。

この”岡田”は、常陸国(茨城県)にあり、昔、「岡田郡」と云う郡があって、ここに「嶋崎」と云う地名が存在した。
つまり、常陸の岡田の住人と云う事に成る。
「常陸」は、「貞盛」が赴任していた土地で、「常陸の大掾」(国司の次ぎの官職)と成っていた。
明らかに、「貞盛本人」では無い事は判るが、子供か従兄弟等のその関係者である事はこれで判る。

ところが、その後に、先ず「氏名」を「藤原氏」とし、そこで「氏名」を今度は直ぐに「青木氏」に名乗り変えた事に成っている。
従って、この通称、この”「嶋崎殿の青木氏」”は、これを証明する事として次ぎの様なものがある。

先ず、家紋は「揚羽蝶紋」を「主紋」としている。
次に、「丸に一文字」「稲丸の内一文字」の「二つの副紋」としている。

以上の氏を物語るものを持っている。

この家紋分析より、「特別賜姓族」と成った「千国」に自然の形でライバル関係にあった「京平氏との縁組」が起こったとは考えられ無い。
一度、先ずは、慣習上、「藤原氏」に「氏族」を改めた上で、「娘の嫁ぎ先」の「氏名」の「青木氏」を名乗っている。
と云う事は、先ず慣習上からは普通ではない。

ここに間違いなく”何かの大きな力”が働いた事に成る。

「家紋」から観れば、当時の慣習は、先ず、「主紋」を持つ事は、朝廷が認めた「格式高く大きい氏族」であれば「総紋」を持つ事は許されている。
果たして、この段階で「桓武平氏」は「総紋」(主紋)を持ち得ていたであろうか。
累代天皇から出自する「皇族第七世族」の臣下族の「ひら族」は「皇族系」である事から、「総紋と家紋」を持ち得ている。
然し、「たいら族」は、あくまでも「賜姓族」であるが直系列の「朝臣族」では無い。

(注釈 後に、「芽純王」の娘を娶る事で「朝臣族」に列せられた。)

取り敢えず、格式的には「桓武平氏」で「賜姓族」であるので問題はない。

血縁的としても、奈良末期には「敏達天皇」の孫の「芽純王」の実娘を娶って「准大臣」の称号を獲得している事からも問題はない。

「官僚族トツプの氏族」で「官僚の6割」を占めていた事を、「日本書紀」に「天武天皇の質問」に対して「施基皇子」が答えている。

(注釈 「倭人の官僚」を教育して増やす様に命じている。平安初期の時期まで未だ”「渡来人」”として呼称され扱われていた事が記録にある。)

奈良期の末期頃以降から平安中期までは、「朝廷官僚族(伴氏等の五大官僚族)」を押えて、「6割の勢力」を持ち得ていた事を物語る記述である。

この事からは、その「勢力」を素早く見分ける為にも「総紋」(揚羽蝶紋)を持ち得ていて、個々の家紋を「各枝葉の氏族」(25枝葉程度の氏族であった)に持たしていた事に成る事は充分に判る。

「副紋」としている家紋では、そもそも、この”「一文字文様」”とは、平安期初期頃には、一は事の始や根本と捉えられ、鎌倉期から室町期には武士の間では「勝(かつ)」と読んでいた事から「無敵の意」があった。
この事から、「尚武的なもの」として家紋として用いられた。
取り分け、武士でも”「たいら族一門」”に用いられた家紋である。
最も広く用いられ始めたのは、室町期初期前後である。
現在は、「伊勢北部」を含み「中部以東」に多く分布する家紋群である。
取り分け、「南北朝期」に多く活躍した「家紋群」であり、その地域には分布が観られる文様である。

この意味からも、この「岡田」、或は「嶋崎殿」が、平安期の中期前後頃には用いていた事が判る。
可成り、「たいら族」の「初期の段階の末裔族」であった事が判る。
「国香−貞盛」は主筋であるが、この「嶋崎殿の呼称」がある事から、「貞盛」等に続く「主筋の末裔」であった事がこの家紋で判る。
現在も、この「嶋崎殿」を始祖とした「青木氏を名乗る末裔」は、三氏ある。
その子孫は珍しく関東に於いて広げている。
この「一文字文様の氏族」は、「秀郷流青木氏」116氏の中でも、「異色のルーツ」を持っている事に成る。
この事は「搾取の多い揚羽蝶族」の中でも「家紋」に対しても全く矛盾は無い。
「一文字紋」は「時代性」も全く同時期である事に成る。
この事からも、「貞盛」に極めて近い筋の者であった事が判る。

仮に、この「円融天皇の目論見策」が、「貞盛」とした場合は、余りにも直接的と云うか、わざとらしいと云うか、疑問である。
恐らくは、一門の周囲が「ライバルの家」に”「本筋」が取り込まれた”として黙っている事は先ず無かろう。
とすると、「貞盛」に近い者とすると、兄弟かせいぜい従兄弟の範囲では無いだろうか。

この”「一文字文様」”が鍵に成る。
この文様の物語る範囲とすれば、この範囲は超えないであろう。
そして、「たいら族」が滅亡した後の南北朝期までこの文様を高めている。
これも「重要な判断要素」に成り得る。
つまり、「たいら族」は関西以西で滅亡し、各地に逃亡して支流末孫が生き延びた。
然し、「南北朝期」にも亡びずに「末孫]を拡げていると云う事は、「南北朝期」の「紀伊半島地域」に存在した「たいら族」である事に成る。

そうなると判別も比較的容易である。
この「一文字紋のたいら氏」が、亡びる事が無かったのは、「揚羽蝶紋」を「総紋」としながらも、「藤原氏」−「青木氏」の範囲の中に居た事からである筈と考えられる。
そこで、この紀伊半島にて生き延びた「たいら族の里」は明確に「六か所」ある。
現在では何れも有名な観光名所でもあるし、古くからの保養温泉地でもある。
歴史的にも”「平家郷士集団」”と呼ばれ、室町期の戦乱期には「傭兵集団]として活躍した。
見逃してはならないのは、現在でも、その「平家郷士」としての「伝統(慣習仕来り掟)」を護り続けている地域・集団でもある。

紀伊半島の「平家郷士集団」

一つ目の地域は、長嶋域
二つ目の地域は、伊賀域
三つ目の地域は、吉野域
四つ目の地域は、北山域
五つ目の地域は、高野域と龍神域
六つ目の地域は、十津川域

以上の六地域となる。

この「郷士の六地域」は、現在でも”「平氏郷士集団」”と呼ばれているが、普通は「平家落人」と成っているが、ここはしっかりと生き延びた。
特に、中でも”「十津川郷士」”は、現在でもその「伝統」が護られ、その精神の一端は,全国剣道大会で常時連覇優勝する程のものである。
この紀伊山脈の山深い頂上付近にあるこの村は、紀州では”「十津川郷士」”の言葉で遺されていて有名である。

(注釈 「紀伊半島の歴史」は、この”「郷士」”のキーワートで調べれば殆どは判る。奈良期からその歴史性が遺されている事に依るが、「古代言葉」を調べるには「紀州言葉」を調べれば判ると云うほどである。
紀伊半島は俳諧人には「万葉の地」と云われる所以である。)

この「六地域」は、江戸期までの「歴史上の舞台」でも何れも忘れられない地域でもある。
それだけに、確かに「落人」ではあるが「落人」としての「生き様」を見せなかったのであり、故に、「主紋・副紋」の家紋も遺し得た事に成る。
この「主紋と副紋の家紋」が遺されていると云う事が、その「たいら族の生き様」が、所謂、「落人」では無かった事を意味しているのである。
当然に、伝統も遺し得ている事に成る。
検証するには、最も熱の上がる「環境テーマ」である。


その検証として、更に,その「子孫を拡大する能力」を持ち得たのは、「秀郷宗家一門」か、「秀郷流青木氏」に関わっている地域と云う事に成る。
そうすると、その地域は、前二つの「長嶋地域」か「伊賀地域」かである。
後はこの条件に関わっていないし、「一文字紋の家紋分布」は全く無い。

従って、「長嶋地域」と「伊賀地域」と成り、何れも家紋分布は僅かであるが認められる。
(多くはないが一部甲賀地域にも観られる。)
「家紋分析」から、大きく分布が伸びたとされるこの”「南北朝域の地域」”としては、この「家紋分布の限界範囲域」にある。

ただ、この「伊賀地域」は、平安末期に「貞盛」の子供の「四男維衡」が、この伊勢域を引き継ぎ、「平清盛」が、奈良期に伊勢割譲に依って得たこの「伊賀地域」を返上した。
そして、「播磨の国」に移動した事実がある。

(重要な注釈  「日本書紀」に、700年前半に「薩摩」の「隼人地域」と「阿多地域」を初期に半国割譲を正式に受け、その後、朝廷より呼び出されて伊賀北部の半国割譲を受けた事が書かれている。
この時、後漢「阿多倍王」とその配下は、飛鳥の湖の銀杏の木の下で天皇に「相撲」を朝覧してみせたと書かれている。
薩摩の半国割譲は、その前に「朝廷軍の船団」が、この「後漢の阿多倍軍団」が朝廷の威光を無視した事に依る懲罰として二度に渡り攻めたが失敗に終わり、結局は「半国割譲の懐柔策」に出て成功し、更に飛鳥に呼び出す口実として「伊勢の半国割譲」で「奈良朝の威光」の中に入れた事が書かれている。
これが、「伊勢北部伊賀地方」の始まりであり、その後には、「伊勢青木氏の出自」の「山部王」の「桓武天皇」は、「母方の郷」を理由に「伊勢北部伊賀地方」に「阿多倍王の見舞い」と理由で出向き、その場で「平望王の称号」を与えたとする記録がある。
この記録は、「阿多倍王の年齢」が「92歳位の高齢」に成るが、「後付の記録」ではないかと云う説もある。
母方の阿多倍王には「准大臣の称号」もあるが、「大和の王位」は無かった事から、死後の直ぐ後に、「平望王の称号」を与えたと成っている。
この「王位獲得」に依って、兎も角も、「皇族第四世族」を獲得した事を意味する。
つまり、「桓武天皇」は、母方を皇族方に加えて、「天皇の権威」を強化した事の目的であった。
この「山部王]は、「天智天皇の第六位皇子」で「賜姓臣下族で朝臣族」であった事から、本来は「皇位継承権」は正統系では無かった。
しかし、「男系皇位継承者」が全く無かった事から、止む無く、”それに準ずる者”として「施基皇子」の家系゛を指定された。
「施基皇子」の子供で「白壁王」に「白羽の矢」が当たり、「光仁天皇」と成り、その「皇位の跡目」を「施基皇子」の孫の「山部王」が継承した経緯である。
この時、「光仁天皇の妃」が「高野新笠」で、この「伊賀北部」に住んだ「阿多倍王の孫娘」に当たる。
兎も角も、この「伊勢北部伊賀地域」は、この由緒を持っていて、「青木氏」とは、奈良期から「徒ならぬ関係」にあった事が云えるのである。
記録から、播磨に郷を移して、その「伊勢伊賀北部地域」を「5代後の清盛」が返却した事に成る。ほぼ正規の使用期間は460年の期間と成る。)

この事から、ところが、この時に、移動を拒否してこの地域に居遺ったグループが居た。
このグループが、後の室町期から江戸期の「伊賀忍者傭兵集団」である。
このグループには、当然の様に「生き延びる為の路線争い」が勃発した。
それが、次ぎの様に成る。

「氏本体の播磨移動組」
「居残り組本体の伊賀の組」
「甲賀に移動分裂した組」
「長嶋山岳部に移動した組」

以上の四組に成る。

「氏本体の播磨移動組」を除いた三組は、何れも「忍者傭兵集団」と成って室町期と江戸期には活躍した。
この残留組の中に、「伊賀青木氏」が組み込まれていた。

(本体の「播磨移動組」は、平家滅亡後は四国に落ち延びた。)

そうすると、この「嶋崎殿の青木氏末裔」は、最も、「たいら族の郷」であって、奈良期からの「伊賀地域」である事に成る。
つまり、「貞盛の子供の兄弟」か「従兄弟の三親等の親族」であった事に成る。
常陸岡田郡で ”「嶋崎殿」”と呼ばれていた人物は、年代的、年数的には養子を含む”「貞盛子供7人と兄弟の2人」”の誰かである事は確実である。

そうすると、兄弟と子供でも、四男までの範囲と成る。

貞盛の兄弟
繁盛
兼任

貞盛の子供
維叙、長男 藤原済時の子
維将、
維敏,
維衡、四男 嫡男 伊賀継承
維幹、
維茂、弟繁盛の子
維時


しかし、岡田郡で”「嶋崎殿」”として呼ばれていて、”「南北朝の一文字文様」”を持ち得る可能性が有る人物と成る。
先ずは、「四男の維衡」が伊勢伊賀を引き継いだ事から、伊賀地域に遺し得る人物と成る。
然し、この時期は、「青木氏の四家制度」と同じ考え方で、「従兄弟の範囲」でも「養子」が盛んに行われた。
現実にこの伊賀でも行われている。

「貞盛」の兄弟の「繁盛」からも、「貞盛の子供」が5人もいるのに、”「伊賀養子」”が入っている。
「青木氏の四家制度」と同じで、「子供の範囲」は区別せず「子供・従兄弟・孫」までとしていて、この中で、「優秀な者」を主家に据える考え方である。
ところが、「繁盛の養子」(維茂)が入って居乍ら、結局は「四男の維衡」が継いでいる。

筆者は、この「繁盛の子供」を「貞盛養子の扱い」にした事そのものの「行為」が、この”「嶋崎殿の子供」”に「白羽の矢を立てた恣意的な行為」であったと観ている。
揶揄的に呼ばれた”「嶋崎殿」”は、記録から、貞盛の弟の「繁盛」である事は明白である。
では、この「繁盛」が「円融天皇の目論見策の人物」と成り得たのかと云う問題が伴う。
何故ならば、天皇家からの「賜姓」ともなれば、「不敬不遜な行為」は避けなければならない「仕来り」が有り、分家とか支流とか「氏の権威を損なう不作法」が在ってはならない。

この場合は、「不敬不遜の至りの不作法」は次ぎの点にある。

「天皇」に不満をぶちまけた「繁盛」は「問題の人物」である。
「平繁盛」は「伊賀の分家」である。
「藤原氏」は最高の「名籍の公家族」である。
「青木氏」は「朝臣族」「賜姓族]「臣下族]で「浄大一位」の「権威族」である.
「京平族」は「従四位下」の二氏の「格式下族」である。

以上、この四つの事柄を「不敬不遜の至り」の不作法に成らない様に「仕来り」として仕切らねばならない。

この為には、つまり、「殿上人」の尊い「円融天皇の目論見策」であるが故に、「粗相や祖誤」の無い様に「最高の仕来り」で臨まねばならなかった。
それには、次ぎの「仕来り」を取らねばならない。

「主家」に「主家の跡目」を壊さず、「繁盛」をより権威付ける為に「繁盛の嗣子」を「分家」からでは無く、先ず「主家の養子」に仕立てる。
その上で、この養子(維茂)を「主家」からの出自させる「最高の慣習」を護ったのである。

そして、その上で、「天皇家」とも繋がる「大氏族の藤原氏」にしては、次ぎの「仕来り」を採らねばならない。
それは、その跡目先を先ずは「藤原氏」にした上で、直に名誉の「青木氏の出自事」にした事にある。

こうする事で、「天皇に対する最高の儀礼的手続き」が先ずは整う事に成る。

この事で、仮に「貞盛嫡子」をこれに立てたとすると、「貞盛の宗家の跡目の問題」に支障が生まれる。
その「支障の執念」が「天皇」に注がれる仕儀と成り得る。
これでは、「円融天皇の目論見策」に対して、「恩を痣で返す結果」として、「不敬不遜の至り」に成り得る。
この「目論見策」には、「一連の継続性」のある「幾つかの策」が有って、その中の一つに、この「貞盛の厚遇」に対する「繁盛の不遇」に配慮してやる「円融天皇の深い心遣い」があった。
それだけに、「繁盛」に対して「秀郷」や「貞盛」と同じく「家柄、格式、官位、官職」を与えてやらねばならない。
「貞盛」と同じく同じ「恩賞と勲功」を与えれば、簡単である。
然し、「主家の貞盛の立場」は保てない。
「秀郷」も片手落ちとして「不満」を言い立てる事に成る。「不敬不遜の至りの不作法」と成る。
そもそも「前代未聞の条件付き役目」を演じた位の人物である。何を言い出すかは判らない。
大いに「献策者」はこの事柄に注意を払った筈である。

これらの事を上手く納めるには、「秀郷に採った勲功」の一つとして採った「青木氏の格式」を「繁盛の子供」にも与える事で丸く納まる。
主家の「貞盛の養子」として「繁盛の子供」の「維茂」を入れて「主家からの出自」とする。

ただ、これには「直接的血縁」では無いが、次ぎに、「娘嫁」させて、「繁盛」にも「藤原氏」と「青木氏」を一時的にも名乗らせ、それを息子に「別流の青木氏の跡目」とさせる事で万事納まる。

後は、「二代目の維茂」と末裔の採る「出方次第」である。
その「扱い方」では、「秀郷」に与えた「勲功」と「同じ結果」を生み出す事に成り得る。
そこまでは、最早、「円融天皇や周囲の献策者の範疇では無い。
生かすも殺すも、当時の慣習の「吊りあいの作法」が整う事が必要である。
ここからは、先ずは「纏めの作法」と成る。
形式的な形として、初代「繁盛」と二代目「維茂」の形を先ず採った。
これは、両氏の「人間的な能力」に関わることに依る。

先ず、「受けた側の藤原氏」と「出した側の平氏」との間の「吊りあい」の「纏めの作法」である。

ここで、この「吊り合いの慣習」から、この「円融天皇の目論見策」の「お返しの養子」と観られる事が起こっている。

「藤原氏(済時)からの養子」が伊賀に「跡目の形」で出した。
「貞盛の長男」として命名された「維叙」を出し、先ず「嫡男」として通名を名乗らせた。
そして、元の長男を次男として受け入れた。
「維茂」を「藤原氏]に形式上でも入れた代わりに、形式上、この「貞盛の養子」に入れたのである。
これで「不作法と成る仕儀」は無く成る。
これで「互いの氏族」としては「不作法」に成らない様に「バランス(つり合い制度)」を採った事に成る。

注釈
(恐らくは、「貞盛」(20歳)で、「受領家(秀郷側)」から、上記の始末後の後刻に、娘(秀郷の姉)を上記の経緯を踏まえて嫁したと観られる。
ところが、上記の経緯前に、血縁していたとする説がある。
然し、この「事前血縁説」には疑問が多い。
この「事前婚姻説」を前提とすると、そもそも本論が下記に示す様に歴史的矛盾や論理的矛盾が生まれ成り立たなくなる。
従ってこの検証を充分にしなくてはなら無く成った。
例え゛例として次ぎの様な事が挙げられる。

(イ) 先ず、下記に示す様に、[年数的」に15−20年程度の無理が在る事。
(ロ) 更に、「地理性」が京都域と下野域の地域差がある事。
(ハ) 両氏のこの910−930年頃代の「家勢」は未だ極めて低く、互いの関係は希薄で未だ無かった事。
(ニ) 両氏の「役柄関係」にも差があり、秀郷の受領側は紛争を幾つも起こしていて、又、嫡子秀郷も乱行があり再三罪を受けるなど極めていて婚姻どころ環境では無かった事。
(ホ) 上記の「円融天皇の経緯」のこの政治環境中で、且つ、未だ乱も起こっていない時期に、「両氏の血縁」は無し得ない環境下であった事。
(ヘ) 両氏には、軍勢は低く、兵を集めるにも「周囲の軍団」に条件を付けて頼み込んでまとめる程度のもので、「事前説」の様に「自力勢力」は無かった事。

参考
当時の多くの資料から観ると、「平安期の戦闘」は、そもそも「殺戮」そのものの結果では無く、如何に大義を上手く唱え、賛同得て「他氏兵力」を集めるかにあった。
当時は「5千の兵力」がその戦いのパラメータと成っていた。
従って、如何に「諜報戦」をするかに掛かり、この結果、急に戦局が一挙に変化する等の事が起こる戦場であった。
当に、この「将門の乱」は、この「典型的な戦い」として有名である。
この意味でも「貞盛事前説」には「事後説」でなくては無理が在るのである。
(「貞盛派歴史家」の「後付」の誇張偏纂説の所以)

年代検証
「貞盛」は、生は不詳 没は989年 佐馬允935年 役職は最低15歳 生は920年 将門乱鎮圧940年−20歳 没69歳 )
「秀郷」は、生没不詳 流罪916年 乱行罰929年 刑罰は最低15歳 生は901年 将門乱鎮圧940年−29歳 没82歳 )

結論
将門乱前、つまり、「乱の混乱期初期」の「事前の婚姻説」は、最低930年頃には、貞盛は受領家側から嫁取は年齢的に出来ない。
将門乱後、つまり、[乱の混乱期後期」の「以後の婚姻説」の最低942年頃以降でなくては、歴史上の史実から観ても成り立たない。
又、「受領家側の妹娘」の低年齢からも成り立たない。

これは当時の慣習年齢(婚姻や役職)などの「最低の条件」から算出しても、この条件以上の範囲では、{事前婚姻説(親族説)}等は成り立たない。


この様に、上記した様に「円融天皇期の混乱期の政治情勢」や、その環境を一発逆転しようとして「一連の目論見」が働いている中での検証としては、当時の「氏家制度の慣習仕来り掟」は洩れなく護られている。
明らかに,「目論見の中での仕来り」が好く動いている事に成り、よくある「氏家制度の慣習仕来り掟」の「矛盾」は無い。

(「事前婚姻説」があったとすれば、上記の「目論見の経緯」は決して起こり得ていなかった可能性が有る。しかし、「歴史の史実」は起こっているし、「青木氏」で云えば現存するに至っている。)

岡田での”「嶋崎殿」”の年齢的にも納得出来る人物としてでは、「繁盛養子」がこの為のものであった事に成るのである。
この様に「弟繁盛の息子等」が「貞盛の養子」と成っており、そうすると、この”「嶋崎殿の養子と成った子供」”は次ぎの人物と成る。

それは、彼の有名な逸話の「戸隠の鬼女紅葉退治」の伝承で名高い”「余五将軍平維茂」”ではないかと観ている。

ここで注目すべき事が、歴史的史実として「貞盛と繁盛」の間で起こっていた。
「将門の乱」後の「繁盛」には、兄に続いて「常陸大掾」に成るが、上記した様に、「貞盛」に比べて恩賞はこれだけであって、「不遇の人」として見られていた。
その為に、”「大掾繁盛殿」”等と境遇を揶揄的な形で扱われた。
多くに、特別呼称されていて、その中の一つで、「厚遇の貞盛」に対して、「不遇繁盛」を揶揄する意も込めての”「嶋崎殿」”と呼ばれていた。
この”「嶋崎殿」”の「揶揄の意」には、”兄に比べて常陸国の岡田郡の誰も知らない様な「片田舎の嶋崎」の豪者”と、「都人の揶揄の呼称」で噂されていた。
当初資料では、”岡田を号していた”としている事から、事件前は普通に、岡田郡の人と云う意味で、”岡田殿”と呼ばれていた事は、その意味で判る。
然し、事件後の結果から、更に、”小さい片田舎の嶋崎殿”に替えられた事は、明らかに揶揄であろう。普通は小さくは成らない。
その”揶揄”の中には、更には、兄に比べられて「繁盛の性格」が朝廷に疑われた可能性もあった。
その為に、「繁盛の事」に付いての資料には,”寺に籠り写経をする”等の様な事の内容が多い。
一族の中にこの繁盛の不満行動に対して、一族の恥として反発をする者が多く出事が記録されている。
この反発した一族の者等が、揶揄的に大きい国の「岡田殿」から、”小さい田舎の住人”とする揶揄で、呼称を”「嶋崎殿」”と呼ぶようになったと観られる。
その事もあったか、後日に、「不遇の親」として「子供の事」を思い、別に子供を上記の様に貞盛等の親族の家等に「養子」に出すなどの処置が起こっている。


参考(重要)
この「繁盛」の”「嶋崎殿の呼称」”に付いては、「二つの青木氏の記録」と「佐々木氏の記録」と、この「三氏の末裔の家記録」に見えている。
中でも注目するのは、「佐々木氏の資料」にある。
この「佐々木氏の資料」には、同族である「近江佐々木氏」は、全国的に子孫を展開していて特に、「神職と住職」に大きく関わる「氏族」である。
「神職と住職」は当時の時代に於いては、「農民の庶民」から「皇位に至るのまでの高位族」迄実に深く関わっている「氏族」である。
それは、返して、「末端の情報」から、「天皇に至るまでの情報」を詳細に獲得できる位置に居た。
むしろ、当時は、「神社仏閣]は、「軍事,政治,経済の拠点」とも成って、その役柄を果たしていた時代でもあった。
「神仏に努める者」とは必ずしも成って居なかった。
そもそも、この傾向は室町期に成ってその役割は増した位であった。
その意味で、この「佐々木氏」は、全国ネットのその「佐々木シンジケート」を使って「時代を左右」させたのである。
「川島皇子」を始祖とするこの「近江の賜姓族佐々木氏」は、同じ同族の「賜姓族青木氏」も「神明社組織」を使って良く似た役割を果たしていた。
そして、その「氏族の組織体制」や「慣習仕来り掟」や「伝統」も「酷似の範囲」にあった。
従って、唯、違う処は、「佐々木氏の全国ネットの差」にあった。
筆者は、殆ど「佐々木氏資料」は「青木氏資料」と観ていて、補えるところはこの範疇にある。

本論も、参考にしていて、取り分け、この「嶋崎殿の検証」の考証には大いに参考に成った。
「佐々木」には、もう一つ「青木氏」と違うところがある。
それは、宗家の地理的な関係もあってか、「藤原氏北家筋」との「親交の深い繋がり」や「血縁の絆」を持っていた事にある。

その「資料」には、”何気なく書かれている事柄”が、「歴史的検証」には非常に役に立ち、当時の「慣習仕来り掟等事」や[時事評論」が記載されての資料である事であった。
その事から、この広域から得なければならないこの”「嶋崎殿」”の事も、最初はこの「佐々木氏の資料」から習得した事であった。

あらゆる「検証」に絶対的に必要とする「歴史観の参考書」とも云えるものとして評価していて、これは他氏には絶対に及ぶことが無い「青木氏」ならではのものである。
故に、「青木氏の由来・伝統の解明」は、搾取偏纂説や誇張説」に惑わされる事が無く、正当に引きずられる様に進んだ。


さて、その資料をベースにして次ぎの事を更に論じる。
「円融天皇の朝廷」に、この事で「繁盛」はこの不遇に対して何度も朝廷に具申するも無視された。
その事も有って、「献策者」等の周囲が見兼ねたか、この「円融天皇の目論見策」に「白羽の矢」が当てられた。
つまり、「貞盛」に匹敵する「家柄」を与え「格式」を高める手立てに出た。

(京平族の中には、逆に、繁盛の遣り過ぎに京平族の権威を落とし天皇から信頼を落とすとして反対者も多く出た。記録にある。)

異常とも考えられる「40にも上る外戚」の中では、この扱い方では「議論百出の結果」と成った。
繁盛擁護の「外戚の働きかけ」は少なかったと観られる。
そのような様子は資料には、一部が「執り成し」をしたとする記録があるが、一族からは出て来ない。

形式上の慣習として、上記の様に、当時の「仕来り」に依る「藤原氏ー青木氏の名乗り」は、当時の「高位の氏族」の良く採る「慣習仕来り掟」から「嫁ぎ先の氏名」を実家先が先ず名乗った事に成る。
しかし、この「実娘」(不詳)が、「千国の妃」に入って、”「青木氏」”を名乗って、その子供が「秀郷流青木氏の始祖」と成ったと観られる。

この「妃の実家先の青木氏」を、三代目(繁盛−維茂の子)から正式に継続的に引き継いで名乗ったのである。

これは、当時の「高位の氏族」が頻繁に執る「重要な仕来り」である。
この時、「初代の嶋崎殿」と呼ばれた「初代の繁盛」の「青木氏」は、子孫が出来得れば、或は、出来なくても親族より上記の様に、「養子」を取り、その者にこの「青木氏」の「二代目跡目」を先ず継承させる。
この場合は、二代目は「維茂」と成る。
そして、「初代の繁盛」は、自ら隠居して「元の平氏」に戻ると云う「仕来り」を敷く事に成る。
次いで、「二代目の維茂」が、暫くして子供(三代目)に引き継いだ事で、適時に「元の平氏」に戻す事に成る。
結局、この「二代目(維茂)」までは「形式上の継承者」として取り仕切りられる。
そして、「三代目」から継続して正式に青木氏を継承して行く事に成る。

(注釈 二代目までは、その出自は現存した「他氏の者」であった事から、其の侭では「不作法」と成る。
そこで、正式に「藤原族の青木氏」と成って誕生した「三代目」が「正規の跡目者」として「青木氏」を興した事を意味する。

(注釈 「二代目までの仕来り」は、「円融天皇の目論見策」であった事を物語ります。)

これは「賜姓族」等が必ず採らねばならない「仕来り」であり、”「賜姓」はしたが「跡目」が無く引き継げなかった”と云う風な「失礼な事(「不作法」 「不敬不遜の至り」)」が起こらない様にする「仕来り」である。
その為に、「二代後」から正規に継承するか、「三代目」から継承するかで、”明らかに継承した”としての形を、「天皇」に対して「儀礼上の仕来り」を採る事に成る。
この場合は、「二代目」までは「平氏」で、「純粋な藤原族の青木氏」と成り得ていないので、「三代目」から正式継承で答える事と成る。

この時の「正規の初代(三代目)」は、正規に「藤原姓」を名乗る事を許され「兵右衛門利澄」の姓を受けていて、直ちに「青木氏」に改めている。

この、この「兵右衛門利澄」は、三代目以降に引き継がれて、正式に「藤原族の青木兵右衛門利澄」と成る。
これが、この「嶋崎殿の青木氏」の「藤原族青木氏」の今後の「通名」となるのである。

この「嫡子四代目」は、”「兵右衛門利備」”と云う様に、「利」又は「澄」が引き継がれて行っている。

(注釈 検証 この「受領家の藤原氏」を引き継いだのであるから、「藤原族青木利澄」には、「何かの根拠」が有ったと考えられる。

そこで、この「藤原氏の系譜」を調べて観た。
そうすると、丁度、全く同時期頃に「秀郷流」の「藤原公澄」なる人物が居た。
この「人物」には、問題があったか正式な形で「跡目」が継承されず、「公澄」より三代を経てやっと継承されている。
つまり、故意的に「空籍]にされている部分がある。

(注釈 [不敬不遜の至り」に成らない様に「故意的に空籍」にしたと観られる。)

この事に付いては、確証は得られていないが、恐らくは、この「空籍」の「公澄の跡目」の形で”「澄の通名」”を「嶋崎度の青木氏の三代目」に与えたと観られる。
その「空籍の跡目」の形で”「利澄]”が与えられた可能性が高い。
その結果、「添書」には不詳で、理由が判らないが、何故か、この「公澄の三代後」には「跡目」が正規に引き継がれている。

(注釈 その引き継がれた人物が、”与えた”とする事を証明している。下記注釈)

この「空籍の系譜」と、「二代目維茂」の後の「三代目」が正式に「藤原族の青木氏」が引き継がれたのであるから、この事から”「三代後」”が符号一致している。

(注釈 この「藤原族の青木利澄」のこの「分家族」には、この「公澄の系列」に就かれている「秀の通名」と同じで「忠秀」(・秀)で継承されている事でも証拠だてられる。)

(注釈 この「藤原公澄」は、秀郷の七代目正没不詳であるが、計算から1030年前後頃の人物である。
この「公澄」は、同時に二代目後の「伊勢伊藤氏の始祖」の「基景の祖父」に当たる。
これは同時期に「伊藤氏]が発祥した事に成る。
この「伊藤氏」は伊勢を室町期に支配した北畠氏の家老の「尾藤氏族」でもあり、この事でも繋がる。)

(注釈 実は、この「公澄」の子の「知基」は、「秀郷流文行系長谷川氏」に跡目が切れたために跡目に入り継承している。
この時、丁度、「文行系の跡目」が”「空籍」と成った事”から、この「跡目」を「繁盛−維茂」の後の「三代目」に継承させたと観られる。
これを「利澄」としたと観られる。)

そもそも、この”空籍と成った事”に付いて、故意的に、「長谷川氏の跡目」にしたかは不詳であるが、可能性は否定できない。
その可能性の根拠は、そもそも、その「空籍の状況」そのものがおかしい。
故に、この間の「公澄」の次ぎの二代は「空籍」として「系譜」を扱っている。
先ず、”二代”と云う事が疑問である。普通なら一代で充分である。
その後の実質の「跡目系譜」を観て見ると、元の「公澄の曾孫の知廣」に継承させて纏めている。

これが”空籍と成った事”の”「故意的か」の事”に付いては、わざとらしいので、”「曾孫の知廣」”が継承している事から観て、”「故意的」”と観られる。
何も、”二代”にする必要は跡目が居たのであるから無い。
例え、嫡男が「長谷川氏」に跡目に入ったとしても、直ぐに「孫か曾孫」が居たのであるから跡目を継承させれば良い筈である。
「空籍」にする必要性は全く無い。況してや、”「二代の空籍」”の必要性は尚更に無い。
何故ならば、普通ならば、「公澄」の跡目に「知基」を据え、「長谷川氏に跡目」が欠けたとすれば、「通常の慣習」の通りで「孫の知昌」か「曾孫の知廣」に「長谷川氏」を継がせれば良い事であって、何も「系譜」を態々「空籍」にしなくても良い事に成る。
何も無ければ「空籍の根拠」の必要性は全く無い。

これは系譜を、”態々「空籍」にしなければ成らない”「相当な理由」”の何かがあったからこそ「空籍」とした”のである。
それを、「一代空籍」としても良い事に成る。
然し、「二代空籍の系譜」としなければ成らない”「絶対制のある抜き差しならない相当な理由」”があった事に成る。
そして、その「二代空籍の系譜」とする以上は、普通ならば「知基」の子供(孫)」で済ませられる筈である。
然し、「曾孫(知廣)」として「系譜」を作り上げている。
つまり、「孫」では無く「曾孫」として置くことで「二代空籍の系譜」を作り上げた事に成る。

では、その「孫」は一体誰かと成る。
「系譜」は「公澄」−「知基」−「・?・」−「知廣」となるが、「・?・」は不明で出て来ない。
年数的にも、”「曾孫までの時間的間隔」”はこの場合は生まれない。
つまり、そもそも、「公澄」−「知基」−「知廣」であって、「二代空籍の系譜」を形式的にも絶対的に作らねばならない理由があった事に成る。
「知廣」は「曾孫」では無く「孫」なのである。(「知昌」も孫である。)
あくまでも、形式上の理由で、「藤原秀郷流諸氏略系譜」では「曾孫」として整えた事に成る。

後は、そこで、「知基の跡目」を受けた「長谷川氏の系譜」では、知基−知昌−知忠−知宗−秀康・・・と続く。

(注釈 重要 「伊勢伊藤氏」は、この公澄−知基−基景と成っている。)

この「長谷川氏の系譜」の「知基−知昌−知忠」の横に「別系」として「曾孫の位置」に「知廣」を繋げているが略系譜の譜には無い。
この「長谷川氏の系譜」で「略系譜の辻褄」を合わした事で、上記の事が証明される。

(注釈 伊勢の「伊藤氏の始祖」と成った「基景」とは、「利澄」と全く同時期である。大きな意味がある。)

では、その相当な理由とは何なのかであるが、明らかに、「不敬不遜の至りの不作法」に成らない様に「略系譜」では仕上げたのである。
それには、次ぎの二つの方法(作法)がある。

「公澄の系譜」に「二代空籍の作法」とした跡目

(ア)「藤原氏の籍」を形式的にも継承した「一代目繁盛−二代目維茂」の「二代分」を入れる事で空籍とした。
(イ)「実質的に「嶋崎殿の青木氏」の「三代目利澄−四代目利備の譜」を仕立て上げて「二代分」の空籍とした。

以上の二つの何れかの作法で「ルーツが完全に繋がった形の作法」で臨んだ事が云える。

では、この(ア)(イ)のどちらにしたのかと云う事に成る。
つまり、(ア)の形式的か、(イ)の実質的かと成る。

ここで、この判別はこの「略系譜」の表現にある。

「空籍」とせずに何も書き込めば良い事で済む筈に成る。
然し、この「略系譜」は「空籍」の形を採っている。
そして、「添書」としては次ぎの様に成っている。
「空籍」にしながら、”「この間に二代の継承有・・」”と記述している。
「公澄より三代後の継承者」として、「知廣と知宗」の継承と成っている。
然し、「公澄」より「四代目の継承者」の後の跡目は「知」の「通名」を使っていない。

これで、はっきりしている。

答えは、(イ)の「実質の継承者」であった事に成る。
(ア)では、「知」の通名は使えないからである。

恐らくは、「2の円融期の青木氏宗家」が持つ「藤原族の略系譜」の原本には、(ア)が書かれている筈である。
何故ならば、(ア)(イ)とは「青木氏の系譜」の上では上記の様に明確に成っているからである。
然し、筆者が持つ「藤原氏の略系譜」には「添書」で外している。
それは、”「この間に二代の継承有・・」”と云う事は、この系譜作成に関わった藤原氏の者等は、この「継承者の事」を知っている事に成る。
そうで無ければ、「不詳」で済ます筈である。知って居なけれは「・・二代の継承有・・」とは書かない。

”「藤原氏の略系譜」”である事からこそ、この「氏外の継承者」を不記載として、「添書」にその旨を表記して済ました事に成る。

(注釈 むしろ、研究ではこの方が「当時の経緯」がより詳細に追及出来たとして良かった。「添書」にはその間の「経緯」が潜んでいてその意味で重視している。
尚、「青木氏宗家」が持つ筈の青木氏に関わる”「藤原族の略系譜」”は、「個々の系譜」は出ているが、「全体の系譜」としては出て来ない。
入間に現存する宗家筋が、「青木氏の氏是」に沿って出さないのかも知れない。筆者も出さない様に。)



そもそも、ここで更に重要な事が在る。
「千常」と「千国」のルーツを含めて「公澄の系譜」も、累代は、”「左衛門尉」(宮廷警護役)”の”「永代の家柄」”である。
特に、「秀郷一門」の中でも、この「公澄ルーツ」は、累代は「左衛門尉」(宮廷警護役)の家柄であった事から、”「嶋崎殿の青木氏」”の「出自の系譜」(役職)となったのである。

その事から、「三代目の利澄の氏家の役柄」は、永代で「宮廷警護」の「左衛門尉」の配下の”「大番役」の「実務役」”を担った根拠に成るのである。

(注釈 この「利澄系譜」の三氏はこの「大番役」を主務としている。下記)

つまり、これはどういう事かと云うと、”「同時期」”に次ぎの様な事が起こった。

1  藤原氏の「秀郷」の「二代目」の「千国の青木氏」を武蔵で発祥させた。
2  平氏の「繁盛−維茂」の後の「三代目」の「利澄」は「伊賀の青木氏」を正式に発祥させた。
3  藤原氏の「公澄」の「三代目」の「基景」の「伊勢の伊藤氏」を正式に発祥させた。
4  藤原氏の「千国の二代目」(成行)が伊勢で「秀郷流青木氏」の任に付き「伊勢の青木氏」を正規に発祥させた。

4の「伊勢ルーツ」の検証 
・ ・−・成行−・家綱−・有綱−・景綱−・基網−・国綱−宗綱−宗行−行春−為行−行久−行兼−右近−行信−行勝−行春・−・・・と続く。

個々の系譜を観ると、次ぎの様に成る。(「2の円融期の伊勢青木氏」の生き様が良く観える。)

先ず、「初期の頃」は、各地に「派遣される護衛団」としての人員不足から「秀郷出自先の佐野氏」より原則として跡目が入っている。(円融期の取り決めどおりである。)

然し、「跡目の入れ替え」が興って居て、「6代目位」頃からは「同族長沼氏」、「12代目」頃からは「同族永嶋氏」からも跡目を受けている。

更に、「公澄の頃」には「調整役の進藤氏」(文行系)からも「青木氏の跡目」を受けている。

然し、この現象は、上記の「国綱の頃」まで興している。粗方の体制は整った頃と成る。

これは「宗家の赴任地」が増えるに従い「護衛団」を派遣しなくてはならない事も重なって起った現象である。

その為に、一度入った「跡目」から抜けて「別の赴任地」の「青木氏の跡目」に入る等のやり繰りを繰り返している。

「24地域の護衛団」、「500社の神明社建立管理団」、「宮廷親衛隊」、「五地域天領地護衛団」等に「跡目」を送り込む必要があったからである。

その為に「子孫拡大策」が「行久の頃」まで「最大の課題」であった模様で有る。

従って、「四妻制」から嫡子嗣子妾子に関わらず15歳になると同時に配置されて、「早婚制度」が興った。

何れの嗣子にもこの為に差別なしに「四家制度」で孫域までを子供として扱い動員した。

この為に「跡目の入れ替え」が盛んに起ったのであり、「同名の跡目」が地域のルーツに起こるのはこの事から来ている。

そこで、「本所」の「伊勢ルーツ」と、「本家」の「武蔵ルーツ」とを比較すると、「同名の跡目」が最も多く観られる。
この事は、この「跡目の入れ替え」が盛んに起こっていた事を示す。

従って、与えられた「賜姓五役」の「役務上の本所」は、「伊勢」が「本所」であった事に依る。

秀郷一門の「護衛団の役目柄」は、「本家」であった事に依る。

その意味で、伊勢は「本所」と、武蔵は「本家」と呼ばれていた。これは「本所=本家の関係」にあった事を示す。

中には、「西の本所」,「東の本家」と書いたものがある。この意味は「本所=本家の関係」の中で、「役務]を「東西]である程度分けていた事を示す。

「長沼氏にある跡目名」が「本所と本家の青木氏」にも同時代にあり、「永嶋氏にある跡目名」が「本所と本家の青木氏」にも同時代にあると云う現象も起こっている。

同名でなくても「通名」から観ても、「長沼氏、永嶋氏」から「本所と本家の跡目」に入っている現象も興っている。

「本所」と「本家」の程ではないが、「主要の地域ルーツ」にも「跡目名の移動」は余り観られないが、「通名」や「添書の記載」で「跡目」が入っている事が判る。

これ等が116氏に拡がった所以の一つでもある。

(注釈 「青木氏116氏」に及ぶ事で、”「固定的な跡目の概念の制度」”を敷くと、互いのルーツとテリトリーを護ろうとして「青木氏同士での勢力争い」が起こる事は必定である。
この事も避ける目的もあって、「跡目」には「ある程度の移動性」を持たせた事も考えられる。
更には、「赴任期間」が完了すると、「現地末孫」は別として、「本家に戻すと云う方式」も採っていた事も、「固定的な跡目概念」を排除する目的があったからである。
「116氏」と成ると「枝葉末孫」の「夫々の本家筋」が生まれ、その「本家元」に返す事に成っていた。
「本家筋の更に本家」を「宗家」と呼称し、「宗家筋の更に宗家」を「総宗本家」(大元 武蔵入間)と呼称した。
従って、「赴任地」には「家族同伴は禁令」であった。)

(注釈 従って、「赴任」は長期間を避け原則は朝廷の命に沿って、4年或は5年を限度とした。
その代わりに、「現地末孫」を義務付け、時には跡目が無く成る等の事が起こると「現地末孫」を本家に連れ戻ると云う現象が観られた。
これも、「本家筋」が採っていた「四家制度の概念」に在った。
要するに「跡目の人員確保」である。)

例えば、「伊勢ルーツ」は「伊勢ルーツ」で終わると云う「固定的な跡目の概念」を必ずしも持ち得ていなかった事を意味する。

その地域に対する「護衛上の能力」と「子孫力の強弱」から観て、柔軟に対処して「跡目の入れ替え」をして図ったものと観られる。

その子孫をどの様に扱うかは「四家制度の概念」に従った。

(注釈 この「跡目の入れ替え」が「24地域の116氏」の全てに及んでいたかは調べ切れない。)

この制度は、「役務上と護衛上の重要地域の範囲」と観られる。
その証拠に、「讃岐秀郷流青木氏等」は「自己能力」が高かった事から「上記の仕来り」は当初から無かった。


(注釈 特徴的な事は、「秀郷一門の調整役」であった別系の「文行系の進藤氏」から跡目が入っている事は大きな意味を持っている。
「進藤氏系青木氏」(阿波北)であるが、又は、「秀郷流近江蒲生氏」と繋がる「秀郷流近江脩行系州浜紋の青木氏」(紀州 伊予 土佐、美濃)である。
他に、「利仁流青木氏」もあるが、「阿波南以外」には無いので「跡目の入れ替え」は無かった。)

上記の事は、如何に「跡目の人員確保」が大変であったかを物語る。


以上の事が殆ど同時期に興った事を意味している。
当に、この「四氏族」を発祥させた「円融天皇の目論見策」は、「一発逆転の策」で有る事が良く判る。

伊勢では、あっと驚いたのではないかと想像できる。
伊勢では、今後、”何かが起こる”と人々は観たと思われる。
それが、”これで朝廷の内部が変わる”と「百姓の人」は明らかに想像したと考えられる。

(注釈 一部の資料に、朝廷内部の「外戚の勢力争いの弊害」が将来に危惧する表現が遺っている。
特に、多くの人と多くの立場の人と接する寺関係者の表現に観られる。
この事から、朝廷を左右させている外戚の摂関家を除いた「全ての百姓の思い」があった事が判る。)

では、伊勢では、今後、”何かが起こる”と人々は観たが、それは何故なのか、である。
それは取り分け「伊勢」に於いてでは、その前に「皇族賜姓青木氏」が、「二足の草鞋策」で「民を巻き込んだ殖産」を興し、「伊勢の民の生活」を良い方向に変えたからである。
この事が「円融天皇を動かした所以」でもあり、「青木氏の献策奏上」の「根源の元]と成った事が読み取れる。

だから、「(1)の天智期の青木氏」(「皇族賜姓青木氏」)等は、遂に「優秀であると観た円融天皇」を動かし、「目論見策」を献策して奏上する事を決めたのである。

そして、行動は興された。
この「青木氏」と同じ格式、権威、官位、官職、の「青木氏系氏族」が四つも一度に伊勢に発祥したのである。
「伊勢の百姓」の民は、この事、”何かが起こる”を思わない方がおかしい。

(注釈 現実にはこの後には”何かが起こった”のである。
約80年間の間に徐々にではあるが改善されて行った。
三代後の「後三条天皇」は、この外戚の外の天皇である。
40もの外戚は排除され、その40もの外戚が巣を食う「荘園制」は禁止された。
この弊害は排除され、その結果、[百姓の民」から「政治の天皇権威」は取り戻された。)

以上の検証の事も含めて(注釈内容からも含めて)、「嶋崎殿の青木氏」の継承にも、「受領家の藤原氏の系譜」とも比較しても、何らかの「政治的作為」(搾取偏纂)が経緯の中に無かった事が判る。

故に、この「2の円融期の青木氏」の「二つの流れの末裔」は、「伊勢]にて生き延びられて、伊賀より後に移動して、所謂、「嶋崎殿の青木氏」が,関東で「公澄の家柄と役柄」を引き継ぎ、その「大番役」で働き続け、現存するに至るのである。
(「二つの流れの末裔」:「嶋崎殿の青木氏」と「受領家の青木氏」 下記)


ここで、これらの事を更に確実に裏付けられる事として,この「嶋崎殿の青木氏の事」に付いて、上記の事も配慮して、更に別の面から検証を続けて論じて置く。

この「三代目以降」の「嶋崎殿の青木氏」の「末裔」と観られる「氏族」は、現在では「三氏系列」があり、何れも東関東(茨城域)に現存するのである。

この「三氏族」には、先ず一つの系列には、次ぎの事が成されいる。

A系列(主家筋)
秀郷一門の「近江族の蒲生左衛門太夫高郷」の末子(玄蕃允梵純)が、室町中期頃に母方の「伊勢秀郷流青木氏」を引き継いだが、この血筋を入れた事の系譜に成っている。
この系列が、「主筋」と観られる。

何故ならば、この「主筋」と観られる家の「系譜と伝統」には、それを証明するものを持っている。
この”「嶋崎殿の青木氏」”は、当初は直接的には秀郷一門の「秀郷流青木氏の血筋」を持っていない事に成る。
そこで、この「主筋」とする一族は、「伊勢秀郷流青木氏」の血筋を入れて、直接、間接に関わらず、一門の中に入る手段を選んだ事に成る。
現実に、他の一系列は、この手段を講じて居ない。
この「主筋」には、先ず、「主筋としての伝統」を持っている。
それは、この「主筋の三代目」の始祖と成る者(本家 「左衛門利澄」 分家 「左衛門忠秀」)の分家(利澄の弟)は、「猿楽で有名な春藤源七郎」の弟子と成り、その技を磨き、「徳川幕府の猿楽師範処」を務めている。
結局、紀州藩士であったが、江戸に召し出され「御廊下番」として「150俵」で召抱えられている。
この「主筋」と観られる家紋は、当初は「一文字紋]であったが、後に二代続きに男系跡目に恵まれず、「主紋]は「揚羽蝶紋」とし、「副紋」は「養子先の家紋(二葉蔓柏紋)」と成っている。

唯、この「二葉蔓柏紋」の家紋には、実は「青木氏」として重要な見逃せない謂れがあるのだ。
ただ「養子」と云う事で済ませられない「秀郷流青木氏」に関わる「謂れ」なのである。
この「二葉文様」は、特別に「青木葉文様」と云われ、「秀郷一門」の中でも「秀郷流青木氏」だけが使っていた「特別の文様(役紋)」である。
つまり、「秀郷一門の第二の宗家」としての「役割」を示す文様なのである。
正式には、「青木葉二葉文様」と云う。

(注釈 この「青木葉二葉文様」は、上記する様に、「賜姓五役の立場」であるからこそ使える「権威紋」であり、他氏は絶対に使えない。)

つまり、この「二葉蔓柏紋」は、「秀郷流青木氏」の本家筋(下り藤紋)の「枝葉末孫」で、本家筋ではあるが、「下がり藤紋」を直接使えない等の家筋の者が使った、謂わば、”「便宜的文様」”でもある。

(注釈 この様な「役紋 便宜的文様」を使えるのは、特別な事であって、「天皇家の式紋や役紋(権威紋)」と匹敵する朝廷から容認された「仕来り」である。
「徳川氏」は、これを真似て、「立葵紋」を「権威紋]として用いた。
「伊勢秀郷流青木氏」の「立葵紋の青木氏」が千葉と四日市に現存する。
「立葵紋の青木氏」も然ること乍ら、「青木葉二葉紋の青木氏」を観る事で、どの様な役務と権威のある家柄であるかを即座に判る様にしていた。)

更に、この系列下にある「青木氏を含む秀郷一門の蔓柏紋」を家紋とした家との血縁族であることを示している事に成る。

この「嶋崎殿の青木氏」が伊勢で「伊勢秀郷流青木氏」と先ず血縁して、更に、江戸に出て、その家は、この「二葉蔓柏紋の家」と養子縁組をした。
そして、この系列下に入った事を示している事に成る。
伊勢と江戸の二度に渡り、「秀郷流青木氏の血流」を入れた事に成る。

特に、この「二葉蔓柏紋」は、通称、家紋分析では、「青木葉文様」と呼ばれる文様で、実際には「秀郷流青木氏の家紋群」には無く、上記した様に「秀郷流青木氏の特別別流紋」としての「別扱い」で用いられた文様である。

「何かの特別な事情」のあった「青木氏本家筋」の「下り藤紋」を敢えて使わない者が使った文様を意味する。
この「何か特別な事情」に当たる事が、この「一文字紋」の「直接に青木氏の血筋を受けていない青木氏」を意味して居た事に成る。
その為に、この「青木葉文様の二葉紋」を使用して血縁した「蔓柏紋系の家筋」とあらわした事に成る。

従って、この様な使い方を本家筋の一門の中で良く使われた「青木葉紋」と云われるものである。
これは「完全な証拠」である。

この「青木葉文様」がここまで遺し得ている事に「青木氏」として驚きを感じる。
「青木氏の伝統」を「子孫」と共に「家紋などの仕来り」を遺し得ていた事である。
この一族は、「猿楽師範」として江戸に出向した時に一族ともども江戸に定住した事に成っている。

実は、この「青木葉文様」の「青木葉二枚葉紋」の「秀郷流青木氏」が他に関東に存在する。
この家は[揚羽蝶紋の総紋」では無い。
「下り藤紋」を総紋とする「蔦紋系の秀郷流青木氏」である。
江戸期には、「小十人組頭」となり「御家人」である。

つまり、上記主筋が伊勢で、「伊勢秀郷流青木氏の血筋」を入れた事で、上記した様に、家紋の「一文字紋」から、後に「青木葉二枚葉紋」の「二葉蔓柏紋」に変紋した。
しかし、この末裔が、正式に「秀郷流青木氏」に組み入れられる事に成った事から、矛盾の起こる「たいら族」の「揚羽蝶紋」を総紋(主紋)としないで、「下がり藤紋」を「総紋」とする「正規の青木葉文様」の「青木葉二枚紋」を改に興して継承した事に成る。
関東に来て、「二葉蔓柏紋の青木氏]と成った家が、その「末裔の者」の別の者に「秀郷流青木氏の本流としての青木氏」を「宗家の許可」を得て継承させた事に成る。

それを、更に、深める為にも、母方より一門の「蔦紋の血筋」のある事を理由に、「丸付き紋」(分家分派分流等が用いる印紋)を用いて「蔦紋」を「副紋」としたのである。
返して云えば、「二つの流れ」を敢えて興したのである。
この「二つの流れの家紋の存在」が、この「主筋である事とその存在」をも証明するものである。


「伊賀系(一文字系)の青木氏」は総紋を、「揚羽蝶紋系」と、「下り藤紋系」の「二つの流れ」を恣意的に興した事に成る。

B系列
次に、他の二系列の一つ(B)は、確かに[伊勢秀郷流青木氏」と血縁している。
しかし、この前に、紀州藩の前藩の「紀州浅野家の家臣」と成っていて、「浅野氏の分家筋」と血縁した系譜と成っている。
「浅野藩の和泉領域」は、紀州までの領域として、「伊賀の左横」に位置する地域である。
そこで、その分家筋と血縁したと観られる。
そして、この家紋は「違い鷹羽下一文字紋」である。
つまり、「浅野家の系列」に連なる「嶋崎殿の青木氏」(一文字紋)の一族である事を示している。
従って、この系列は、元は「浅野氏分家」の「根村」を号していてた。
後に、末裔の一人を元の所謂、「嶋崎殿の青木氏」を継承させている。
そして、「浅野家移封」と成って、「徳川頼宣の紀州藩」と成った時に、安芸に移動せずに、「紀州藩」に仕官している。
家康の次男「初代頼宣の紀州藩」は、この時に「仕官募集」(謀反を疑われた)を大々的に行った。
然し、その「仕官募集」が大がかりであった事から、家康死後、妬みもあって「頼宣謀反の嫌疑」を江戸から掛けられた位のものであった。
つまり、「伊勢の秀郷流青木氏」の”「一族一門丸抱えの策」”に出たのである。
依って、この「一文字紋の嶋崎殿の青木氏」は、この時、「伊勢秀郷流青木氏」に組み込まれて仕官が叶っている。
恐らくは、「一文字紋」では、「円融天皇の目論見策」から発祥し、「直接の血筋」を引いていない事から、更に、確実にする為に、この為の「伊勢秀郷流青木氏との縁組」をこの時に興したと観られる。
従って、「伊勢秀郷流青木氏」に組み込まれて「紀州藩]に仕官できた事に成った。
「紀州藩」に仕官できた事が、男系女系に関わらず「伊勢秀郷流青木氏」と血縁した事を物語るものである。

紀州藩の頼宣が、この「一文字紋の青木氏」を単なる家臣として仕官させたとは思えない。
恐らくは、「紀州藩の役柄」として江戸初期の未だ不安定な社会状況の中で、この「大番役」の果たせる氏族に極めて魅力を持ち、全国各藩の動向を探る上で欠かせない役柄と観て仕官させた事であると観ている。
その証拠に、250俵と云う高い石高で雇っているし、後に旗本で組頭にしている。

この時、どの「秀郷流青木氏」の組に組み込まれたかは、この家の「系譜と添書」から読み取ると、「伊賀組」とされたのではないかと観られる。
それは、伊勢にはこの伊賀氏に関わった「伊勢郷士」は20(天正の乱で18に成る。)は、この「伊賀組]に入った事に成っている。
「伊勢」は、「紀州徳川氏の飛び地領」として特別に扱われ、「伊勢組」の中の「伊賀組」に組み込まれたのである。
その後、吉宗に同行し、一族は紀州から江戸に移動定住している。
この「一文字系列」は、幕府では、最終は「旗本大番組 組頭」(250俵)に列している。
この一族は多能であった様で、系譜と添書から、次ぎの役柄を務めている。

勘定方、御書院番与力、御勘定方無役、小普請方、納戸方、大番組頭

(江戸時代の大番役に類する役柄 :小姓組、書院番、新番、大番、小十人組)

以上「6つの役柄」を務めている。

「1の天智期の青木氏」の「伊勢青木氏」は、「吉宗の育ての親」であり、嫡男六兵衛が家臣では無いが、将軍と成った時に江戸に同行している。
そして、「二足の草鞋策」の商いを利用して、「布衣着用の立場(大名扱いで謁見できる)」で「勘定方」と「納戸役」を務め、「享保の改革」を主導した。
この時、このB系列の「伊賀青木氏の一部」が、「勘定方」「納戸役」に入って「実務役」として共に働いたと観られる。

「御書院番与力」は、「将軍の秘書役で警護役」であるが、これも、「大名扱いの六兵衛」の下で「秘書役の実務」を担った事を意味している。

「大番組」は、「伊勢青木氏」は「伊勢神宮の職能集団「(「青木氏部」)」の「御師頭」であったが、この「御師制度」を吉宗は江戸幕府の組織の中に導入した。
この事から、「職能集団の普請方」と「本領の大番役」と成って「伊勢青木氏の配下」で「実務の初期の組織作り」で働いたのである。

B系列は、この「六つの役柄」では、「青木六兵衛」と共に「吉宗の意」を継嗣して全て江戸幕府の「役務の新規立ち上げ」(組織作り)に関わったと考えられる。

C系列
三系列のもう一つ系列(C)は、何故か家紋が変化していない。
由緒を示す「一文字紋」のままである。
然し、「伊勢秀郷流青木氏」との血縁も系譜から無い。
独自路線を「伊賀者」で貫いたと観られるが、しかし、吉宗に従い江戸に移動定住している。
もう一つの特徴は、系譜の一部が、他の系列と異なり一部で途切れて不思議に明確では無い。
どうも「伊賀忍者」の務めから来ているらしい。
添書から読み取る事が出来るのは、「近隣の土豪」であった「傭兵集団の柳生氏」等の配下に入っていた模様である。
そして「諜報活動」に従事したと観られる。それ故に系譜が確実に成っていないのであろう。
役務の恨みから里を擁護する為に隠した可能性が有る。
系譜などから確たる記録は見つからない。
この系譜は、確かに普通の下級武士ではあるが、添書には他の系列の格式は全く無い。
ただ、もう一つ不思議な事は、何とB系列と同じく「250俵」を知行し、上記の系列と同じく、代々、江戸幕府の「大番役」や[大番頭等」を務めている。
石高としては、普通の下級藩士であるが、やや上位に位置して居た事が判る。
この事から、この「Cの系列」は、上記の系列(B)の様にでは無く、「柳生氏配下」に入り多くの役務を果たした事に成っている。
然し、この「Cの系列」は、代々末裔は欠ける事無く「伊賀の諜報役の大番役」を引き継いだ系列に成っている。
「柳生氏の配下」でも上位の位置に居た事が判る。
このBとCの系列は、Aの系列の「御廊下番役」と異なり、一時、系譜から同じ「大番組」に位置して共に働いていた事が判る。


この事で、この三系列は「伊賀者」として、「親族の意識」を持ちながら、共に「旗本」を務めていた「青木氏」である事が証明できる。
特に、BとCの系列は吉宗に同行しての「旗本」である。
この事から、系列Aは、「猿楽師範の御廊下番」は「綱吉の時」の事である事。
従って、先ず「主家」が先導して、初期の「江戸入り」を役務を果たしていた事に成る。
その後に、BとCの系列が吉宗に同行して江戸入りを果たしていた事に成る。


更に、このAの系列を探ってみると、次ぎの様に成っている。
この「三系列]、つまり、初期末裔の一族の行動の採った最初の行動が良く判る。

この「三代目以降の嫡子」は次ぎの様に成る。
これに依って、「伊賀の青木氏の生き方の慣習」(伝統の一端)が良く読み取れる。

三代目は、鎌倉期末期頃、「伊勢伊賀の土着郷士(「伊勢秀郷流青木氏の保護下」)(−1354年)
四代目は、室町期初期頃、不詳 藤原氏仕官 「伊勢秀郷流青木氏」に従う。(−1520年)
五代目は、室町期中期頃、「織田家の配下」。(1596年−)
六代目は、室町期末期頃、「山内一豊」に従う。(−1660年)
七代目は、江戸期初期頃、初代山内家の「松平土佐守に扶助」(猿楽師)。(1701年−)
八代目は、「松平和泉守の家臣」(信輝)と成る。(1725年−)
九代目は、「丹波近江守(織田氏)に仕官。(1733年−)
十代目は、「幕府の猿楽師範」として出仕。(1771年−)

(特徴) 長命一族 平均寿命76歳 跡目17歳 父子仕官 嗣子継承

この「嗣子継承」とは、三代目と四代目の間には「年数のズレ」があるが、これは系譜から「兄弟間の跡目」で繋いできている事から起こっている現象である。
「系譜の跡目代」は、普通の「嫡子方式」に成っていて、原則としては記載されているが、11代まではこの「嗣子継承方式」と成っている。
ところが、必ずしも、この「嫡子」が「系譜」を継承したと云う風には不思議に成っていなのである。
特に、その八代目では、その「特徴」が顕著で、「父子兄弟嗣子」の五人が別個に重複仕官している。
これは「小十人組」と「大番組」と[御廊下番」の特徴ある「三つの役柄」から来ている。
この状況が何と幕末まで続いている。

要するに、この系譜の「跡目」は、本来は武士では原則は「嫡子」であるが、世代交代は「父子の一世代方式」では無く、「兄弟従兄弟の範囲」で次々と継承する「嗣子継承方式」を採っている。
つまりは、嫡子外が「部屋住み」と云う「一般武家の慣習」では無い事を意味する。
例えば、「三代目の嫡子」が職に就くが、その「兄弟の嗣子」も同じ様に職に就く。
「三代目嫡子」が仮に没すると、その「兄弟の嗣子」の一人が「三代目跡目」として引き継ぐ。
「三代目の嫡子嗣子」が全て没して、初めて「四代目嫡子」が跡目を引き継ぐ。
この「原理の繰り返し」で「世代の跡目」は引き継がれている。

これは、「大番役と云う職務」が「諜報と警備警護」を主務とする事から来ているものである。
その根本は「職務の秘匿性と継続性」を重視しなければならない「重要な職務」であった事に所以する。
「嫡子方式」だけでは、次ぎの世代の嫡子に引き継ぐときには、その熟練度が必ず低下する。
この事で、この「秘匿性と継続性」が切れる事が起こることは、戦国期には「危機存亡の事態」を招く事に成る。
これを防ぐ為の手段として、「親の兄弟−子の兄弟−孫の兄弟」の「世代交代」で行う方式を採った。

その為には、世代交代を成し得る為の継続性の「ある兄弟の職の補償」が必要と成った事から敷かれた”「大番役の仕来り」”である。
つまり、「訓練に依る熟練度」とその「適正度」が左右される職であった事から取られた方式である。
故に、上記の「主家筋の六の役柄」に関わった所以である。
恐らくは、”「何らかの関係」”があって、「勘定方」や「猿楽師」の様な「職」も生まれたのであろう。
むしろ、「諜報」と云う職務からも必要とした事も云える。
そもそも、この「六つの役職」は全てこの「諜報・護衛」に関わる仕事である。


この系譜から読み取れる事は、上記の「仕来り」に「一族間の仕来り」も従っているのである。

「主家」が先ず仕官して主導して、「一族三系列」に「枝葉末裔」を拡げている事が判る。
その為に、「父子」ともども、「嫡子」のみならず他の「嗣子」も「部屋住み」に成らず各地に仕官して、「一族存続」を懸命に広げている事がこの系譜から読み取れる。
明らかに「氏家制度」の”「嫡子の慣習」”は採用していない事が判る。
四代目の頃には、「伊勢藤原氏」の「秀郷流青木氏」は、「紀州藩」に「一族一門」が仕官を遂げている。
この事から、この時には、この「伊勢の秀郷流青木氏」の配下に入っているので、「江戸城の大番役」にも一部派遣されている事が予想できる。
江戸前から、有名な事として、家康が「軍編成改革」をしたが,この時にこの”「大番役」”を改に採用して、「武家様に概要」を作ったとされている。
この一族は、”「家康の身辺警護」の「親衛隊」”として「秀郷流青木氏」の配下で関西で務めていた。
この時に、主家の四代目か五代目がこの任に当っていた事に成る。
そして、江戸幕府を江戸城に開幕した時に次ぎの様な事をしている。
家康は、この”「大番役」”を上記の様に「5つの組織」に改革した。
然し、この時に、この「主家の一部」が”「江戸城詰め」”として赴任した。

そして、更に、猿楽は、四代当たりから習得が始まり、七代目あたりから、「宗家の一部」が、”「猿楽師の家」”として仕官(綱吉)に繋げている。
そもそも、この「猿楽」は、江戸期では「大名の嗜み」として扱われた事から、「大名の動向」を直接に探る目的からも用いられた「役柄」と観られる。
この事から、その「芸で身を立てる家」としても、父子、嫡子、嗣子が同時期に広く他藩にも仕官している。
「主家」では、「芸」では身を立てない者は、「伊賀者」として、「大番組」や「小十人組」に列して仕官を遂げている。
この形で、他の二系列に子孫を拡げさせている。
この「BとCの系列」は、基本的には、「小十人組」か「大番組」で仕官を遂げている。


(注釈 「小十人組」とは、江戸幕府の「警備・軍事の役職」で将軍等を護衛する護衛隊を云う。
「軍先衛隊」、「先遣警備隊」、「城中警備隊」の三役として働く役目である。
先見役、先衛役で「事前に情報収集」して於いて「現実の警備や掃討]に役立てる。
又、状況を把握して常時の警備に役立て働く役目で諜報と警備を果たした。
当に、この「三系列」が、「伊賀者」の”「伊賀の青木氏」”と呼称される所以である。)

(注釈 そもそも、この”「大番役」”とは、本来は、奈良期末期を経て平安時代から正式に敷かれていた「宮廷警護の役柄」であった。
「大番組」とは、江戸時代には、これを「旗本」で編制し、本陣を 固める精兵であったが、その元は「大番役」と云う平安期の「朝廷の宮廷の役柄」から来ているものであった。
「武士の江戸幕府」が、これを踏襲したが、当初は「江戸城および大坂城・京都二条城の警固」をする役務に利用したものであった。
然し、これは、もとは大化期の「青木氏の賜姓五役」の一つで、「賜姓臣下族」として「天皇を警護する役柄」から発展した役務で、「左衛門上佐」の官位の通り「青木氏」はこの指揮官であった。
この下に、「大番役」を置いて、「実際の宮廷内の警備警護」の実務を行うの事を主務として呼称された。
これが奈良期を経て平安期から室町期末期まで宮廷で続けられたものである。)

(注釈 「伊勢神宮」も、「皇祖神」である事、「皇族方の参詣」が多くあった事からも、この「大番役」を「青木氏の職能集団(青木氏部)」で果たした。
江戸期には、「青木氏と家康と関係」(前段の論文記載)から承知して、この「青木氏の役柄」を参考にして「武家政権」の内部に「徳川氏様仕様」として踏襲し直したものである。)


ここで、先に、「伊賀守」の呼称は、「一体誰なのか、どの流れなのか」の疑問が起こるので、先にこれを説く。
この事は、「伊賀地域」が、”どの様な位置関係に民衆から思われていたのか”をはっきりさせられる。
その事で、「伊賀の青木氏」の当時の社会の中での「立ち位置」を物語れる。

そもそも、この「伊賀守」が、「朝廷」、或は、「時の幕府」の「正式な官位官職」とするならば、それは、この”「伊賀の青木氏」”がどれだけ「当時の社会」に認められたものであったかが判るパラメータと成り得る。
又、その「伊賀守」と成った”「流れ」”が掴めれば、どれだけの「職業的な立場」を得られていたかも判る。
つまり、「地位の認知度]と「職業の立場」を推し量れる。

ところが、実はこの「伊賀守」とは特別なものであったのである。
そもそも、鎌倉期以降の「青木氏」に関わる「伊賀守」(伊賀域の定住者)の正式な官位を得た人物で実質支配権を持った人物は「三人」いる。
後は、「青木氏」に関わらずとも、殆ど”「官位」のみの呼称”であり、「現地の支配」と「現地子孫」は遺していない。


唯、ここで、述べて置かなければならない「歴史観」がある。
平安期から江戸期まで、この”「伊賀守」を名乗った人物”は、次ぎの様に成っている。

A 「朝廷」より「正式認可」された実質支配権を持つ伊賀守」
B 「朝廷」より「正式認可」されても実質支配権の無い「名誉官位の伊賀守」
C 「朝廷」の認可を得ても1年限り、或は一代限りに実質支配権の無い「限定された伊賀守」
D 「搾取の名乗り」の「伊賀守」
E 「室町末期」から起こった「幕府推薦で朝廷認可」の「一代限り金品」にて獲得した支配権の無い「伊賀守」

以上で獲得したものも含めて、江戸期初期までに何と18人にも居る。実に多い官位である。
この内訳は次ぎの通りである。

朝廷の「正式な官位認可」では、AとBの6人である。
この18人の内で、実質支配権を獲得しているのは、Aの3人である。
正式認可の6人の内で、実質支配権の全く無い名だけの「名誉官位は、Cの3人である。
18人の内の、12人の内で、Dに位置するのは、9人である。
12人の内の、3人の内で、1人は職能を称えた「名誉官位]で別枠である。
12人の内の、3人の内の2人は、Eで「金品官位」で、「重複で日替わり官位」である。


如何にこの「伊賀守」の「官位官職」が「政治的」に使われ「家柄誇張」等に使われたかが伺える。

中には、同時期に名乗っている者も居る。この様な「守]は他には少ない。
つまり、この様に多いと云う事は、この「伊賀守の立場」と云うものが、「如何に重要な格式のある立場」として利用できるとして信じられていたかは判る。
同時に、それを「授与していた朝廷]や「推薦した時の幕府」も「格式のある立場」として上手く政治的に利用して用いていた事が判る。

この「伊賀守」には、「伊賀」に全く何の繋がりや絆や関係ない者、伊賀に赴任していない者、などが殆どである。
そもそも、本来なら、「伊賀守」に成り得るには、それに「相当する格式と立場と家柄」を持っていなければ成らない。
然し、全く無い者までも含んでいる。むしろ多い。
流石、平安期には無い。室町期末期から江戸期全般に掛けて多い。
この現象は「下剋上」の始まる室町期からと成る。
つまり、「下剋上]と「搾取」と「金品」によって名乗った「伊賀守」が殆どと云う事に成る。

中には、明治期に成って、分析から元は農民であったのに、「個人の系譜」に書き込まれたものまである。
これは、恐らくは、後に末孫が歴史的史実や慣習を忘却していて、判断するに必要とする「歴史観の学識」は無いと観て、敢えて子孫に信じさせて家柄を将来まで搾取して誇張させようとしたものである。
異常にして搾取して家柄を誇張させようとした「虚栄心の異常な人物」も居たのである。
勿論、この検証では「第三氏」である事は確認は出来ているが,実はこの件では「青木氏」を名乗っている。
他に良く似た類似のものは他に二件があった。

つまり、この事は、これらを含めて少なくとも「青木氏の伊賀守」は、「世間の社会」の中でや「青木関係族」の中では、「重要な位置づけ」であったかを物語っている。
比較的に容易に反発の出ないそれを表現する手段が「伊賀守」であった事に成る。

「青木氏」が歴史上で、「守護職」に正式に任官した官職は、これも18である。
(「伝統シリーズ前段」か「青木氏の子孫力と分布」を参照)
然し、この中でも「伊賀守」と「紀伊守」は高かった事が判る。

「紀伊守」も同じ様な手口で用いられた。伊勢域の範囲と見做されていた事に成る。
伊勢神宮遷宮の時に紀伊がその遷宮地が最も多いのもこの事から来ている。
つまり、「準聖域的な国」としてみられていたのである。
要するに、これは、「伊勢」と云う「地域的なもの」が左右していたのである。

「伊勢国」は、古来から普通の国は4から5郡制であるが、特別に「2郡制」を採って来た。
然し、680年に後漢の阿多倍王に半国割譲して与えた。
この為に、伊勢国は「4郡制」に編成した。

北二郡
「阿拝郡」
「山田郡」

南二郡
「伊賀郡」
「名張郡」

以上の4郡にした。

伊勢北部域の「阿拝郡」は「阿多倍王」から通称の「あばい」から来ている。
(南九州には「阿多」と云う地名も遺している。)
「伊勢北部の二郡」は、奈良期の古来より「神の宿る地域」の「特別な神聖域」として扱われて来た。
そこに、伊勢から割譲した「伊賀」は、その意味から”「名誉域」”として利用され考えられた。
これが「名誉官位」の生まれる所以と成ったのである。
特に、江戸期には,この[伊賀」には「実質支配」は、”「伊勢秀郷流青木氏(忠元とその末裔)」に任す”として、官位そのものは別にして、幕府は「名誉官位」として政治的に利用した。
この「名誉官位」は6人中一人を除き「幕府推薦と朝廷承認」に利用された。

(注釈 「秀郷流伊勢青木氏の宗家(忠元)」は、「室町期末期(1570年頃)」から「実質支配」も持ち合わせ乍らこの「伊賀守」に任じられていた。

依って、本論では、「Aの3人」を論じる事に成る。

従って、果たして、「2の円融期の青木氏」の「伊賀の青木氏(嶋崎殿青木氏)」が、この「何れの青木氏」と成り得るのか検証した。
しかし、大方の検証は可能であるが、完全にf資料不足で確定できない。

その前に「青木氏」に関わる”「伊賀守」”は、次ぎの通りである。

(あ)
「藤原秀郷流宗家の朝光」(結城氏の祖の祖でもあるが、鎌倉期に頼朝に認められて「伊賀守」を務めた。
この「朝光の末裔」が鎌倉幕府の北条氏と血縁して後に、この絡みからこの末裔は「伊賀氏」を名乗り、、晩年、伊賀に住み着いた。
但し、ただ定住しただけで国主では無く正式には「伊賀守」は名乗っていない。
ここに後に、この「末裔」が「伊賀守」を名乗る結果と成ったと観られる。

(い)
「青木伊賀守」(任官1577年 忠元)は、室町期に信長に味方して、後に徳川氏から除封を受けた。
「藤原族の青木伊賀守忠元」の「伊賀守」がある。
この「忠元」は信長より推薦され正式に任官している。「秀郷流伊勢青木氏」で「宗家の嫡子」である。
「伊勢三乱」の時に活躍した有名な人物である。
(あ)も(い)も元を質せば、「秀郷流青木氏」である事に成る。
「結城の秀郷流一門宗家筋」か、「第二の宗家筋の伊勢の秀郷流青木氏」かの違いではあるが、「宗家」としての格式は何れも劣らずである。
江戸初期は、この(い)の「忠元」が、信頼されて「家康」から伊賀を任され、官位は外されるも紀州藩の「頼宣」からも伊賀も「実質支配」を任される。

(う)
平安期に清盛の租の国香−貞盛の二代目から清盛まで「伊賀守の半国守護」と成っている。
「青木氏の伊勢国647年」から「半国割譲680年」に伊賀国(4郡)に成っている。
「平安末期」に清盛はこれを朝廷に返している。
鎌倉期初期のその後に(あ)が入った。
然し、「清盛残留組」が「伊賀」に「伊賀衆郷士20氏」(青木氏が擁護)として遺る。
「伊賀の青木氏」もこの「残留組」に入った。
(い)と(う)の何れの流れも持つ複雑な立場であった。
つまり、この伊賀地域は、(あ)と(い)と(う)の末裔が混在した地域と成った。


(あ)の「鎌倉期の伊賀守」と、(い)の「室町期の伊賀守」と成る。

唯、次ぎの伊勢の経緯に付いて、「青木氏の歴史]を知る上で,知っておく必要がある。

そもそも、この(あ)と(い)の間には、ただ一人、「伊賀守」の官位だけでは無く、「実質支配」も目論んで乗り込んで来た人物が居た。
この時、概ねは、室町期中期の一定の短期間は、この「三河の仁木氏」と云う者が「伊賀守」と成った。
この「概ね」に意味があって、然し、伊賀に乗り込んだは良いが、殆ど、”「形式上の官位」”であって,全く「実質の支配力」は得られず殆ど皆無であった。
それも、「伊賀全域」では無く、「伊賀の阿拝の一部」であったと記録されている。
この「伊賀の仁木氏」の存在史実はあるが、実はその「ルーツの継承」ははっきりしていないのである。

この「伊賀仁木氏」の事では判る範囲で、「史実」として云えられているところでは、次ぎの様に成る。
この「足利氏系仁木氏(頼章)」は、「足利尊氏」に認められたが、この時、官位で「伊賀守」に任じられた。
然し、この「仁木一族」は「尊氏没後」(1358年)には衰退し滅亡している。(第一説)

ところが、この「仁木氏」は、尊氏死後の乱世で追われ、[丹波伊勢伊賀」等の9地域の任官先に居た一族は各地に散った。
この時、室町期中期頃の1400年前頃に「三河国額田郡仁木」に居た者等が、「足利氏傍系族(二引き両紋)」と名乗り、元の「任官先」であった[伊勢伊賀」の「一部」に入ったと記録されている。
然し、この「仁木氏」の人物は詳細不明で、入国後(1410年頃)、間も無く単に”「戦死」(1429年没)”と記されている。
この時点で「正当な仁木氏」は完全に絶えた事に成る。(第二説)

そして、その後、この伊賀の一部に「仁木氏外」の「山名氏」と名乗る者の出自不明成る者が、「伊賀守」を継いだとされる。
然し、その後、”「伊賀不穏」(1433年)” を理由に自ら「官位」のみの「伊賀守」を辞退した事に成っている。(第三説)

ここで、「山名氏」の後に、「第四説」の「仁木氏」と称する「出所不明な者」が現れ、1440年前頃にこれも完全に滅亡した。(第四説)

以上の記録では、入国したが、ところが、次ぎの様に成っている。
先ず、1429年頃には、「南二郡」が「国人郷士軍団」「(あ)から(う)の元勢力」に奪還され支配された。
1440年前頃には、「北二郡」も完全取り戻し支配したとある。

故に、衰退していた「足利幕府の伊賀守任官」に付いても、且つ、「実質支配」の無かった「一期間の勢力」に付いては「仁木氏」に関しては論外とする。

この「第二説の不詳の仁木氏」は、足利幕府の開幕後の入国後に、間も無く”戦死”と成っている記録もある。
然し、その後の「仁木氏の確証」の「末裔記録」は全く無い。
「仁木氏の系譜」とするものには、この「第二説以降のルーツの系譜」は載っていない。
つまり、「第一説の仁木氏」の三氏が「衰退した段階]で、この「伊賀」に関わった「仁木氏」は断絶したした事を物語る。
この”「断絶した原因」”には、「伊勢国人の勢力」に潰されたのか、跡目が絶えたのか、は不明である。
「伊賀の一部」と云う地域での「生きて行ける勢力範囲」は極めて小さい。
況して、殆ど「実質支配権」の無い中での小さい「勢力範囲の子孫力」である。
この「判断の最大の要素」は、「伊勢国人の勢力」との「付き合い関係の在り方」に関わる。
記録では「南部二郡」と「北部二郡」共に「伊勢国人の勢力」に排除されたと成っている。
それに古来からのある面で閉鎖的な「伊勢と云う国柄」と合わせて租借すると、「潰された関係」であった事に成る。
この”「潰された関係」”とすると、”「武力的子孫力」”に対する”「限定的な排除」”であったと観られる。
”「伊勢の国柄」”には、古来より”「武力アレルギー」”成るものがある。
「青木氏の氏是」も突き詰めれば「武力による警戒」である。
返して云えば、「武力」を除けば「迎え入れる事」に成る。
故に、「第二説」は「戦死」の記録で済ました事に成るのだ。
”「潰された関係」”とは、「武力的子孫力」を排除した上で、「伊賀地域」の中に溶け込ましたと観られる。
この”「武力的子孫力の排除範囲」”がどの程度であったかは、上記した様に、「伊勢戦史」の中には出て来ない事から、”「事件性」”の範囲で留まった事が判る。

注釈として 室町期末期の1500年以降にも、この滅亡している筈のこの「仁木氏」には、上記した「正当な滅亡記録」がありながらも、「活躍説」もあって他説が多くて信用できない。
然し乍ら、何れも「実質支配権の説」には至っていない。
この「1500「年代の不明な勢力」も「伊勢国人勢力」に依って排除されている。
間違いなく、後付の「江戸期の搾取偏纂説」と観られる。(第五説)



何せ、室町期は「下剋上」の世の中であった事から、この「第五説」は、その後、傍系末裔や家臣等の一部が、この「仁木氏」を名乗った可能性が高い。
記録では、上記の様に「4郡の国人の集団:青木氏の郷氏を含む伊勢集団」が取り戻している。
そもそも、この「第五説」の「仁木氏の伊賀説」は搾取偏纂である事が判る。
何故ならば、伊賀守に成り得る格式は全く無く、「伊賀の一部」の「出自の判らない小勢力]に過ぎない。
「後付の家柄誇張説」に過ぎない。
そもそも、この時期は、既に、「伊勢秀郷流青木氏の忠元」の「官位と実質支配」の「伊賀守の時代」である。


依って、そもそも、これ等の史実があれば、少なくとも次の二氏の記録には出て来なければならない。

「仁木氏」に付いては、「1の天智期の伊勢青木氏」のこの期間の「商業記録」には出て来ない事。
「仁木氏」に付いては、「2の円融期の青木氏」の伊勢の記録にも無い事。

以上、然し、不思議に無い。
同時期、「伊勢南域」を一時、「勢力圏」に置いた「北畠氏の事」は記録にありながら、「仁木氏の事」は無い。

(注釈 筆者は上記の「第二説」で、「伊賀守」は別として、「入国」は1429年までの「短期間10年程度」で終わったと観ている。
一種の「騒ぎか事件程度の範囲」であったと観ていて、多くの説は「江戸期の誇張説」である。)

これには、記録に遺らない”何かが起こった事”が云える。

「伊賀」の一部の小地域で「事件らしきもの」が起こったと云える。
そもそも、伊勢の「1と2の二つの青木氏」は、「青木氏の氏是」により、「破格の武力」を持ち得ていても侵入者に対して「直接武力」では排除出来ない。
入国しても、平穏に暮らす事には問題はない。
しかし、「武力」を使って周囲を圧迫し「勢力圏」を拡大すれば「支配権」を持つ者としては放置は出来ない。
「武力」を使ったと成れば、「青木氏の抑止力」を使って「圧迫を加えて抑え込む手段」に出る事に成る。
それでも納まらなければ、「抑止力の実力行使」で「最少限にして最高効果策」で解決する事に成る。
要は、「抑止力」で「仁木氏の主格筋」を潰す事に成る。
これが、「第二説の戦死」とした事にあると観られる。

この「仁木氏の主格」を処罰する代わりに、「子孫の定住と保護」を認めるとして解決したと観られる。
これには、資料の「10年程度とする表現」が、この処置に至るまでに所要した年数であると観られる。
一族郎党を潰そうとすれば1日で済む。
平穏に暮らす分には定住させ保護が「氏是の前提]である。

恐らく、「額田郡の仁木氏」と名乗る者が、態々「三河国」から一族郎党を連れて入国したが、この「青木氏の保護」の中に入ろうとしたと観られる。
然し、その”「対応上に過激さがあった事 (「伊賀守の利権」を主張した)”から伊賀の周囲から不満が出たと観られる。

そもそも、この「三河国額田郡」のこの「関東足利氏系の実国の末裔」を名乗る「仁木氏」成る者は、何故、実国が築いた三河額田郡の仁木の土地を離れて「伊賀の小地域」に新たに来たのかが疑問である。
”「青木氏」とどの様関係があったのか”を検証する。

そうすると、この説から観ると、普通は、例え、「第一説の伊賀の関係」があったとしても、「過去の伊賀」である。
その過去も、実質支配はしていない。
その証拠に、「1355年から1400年」の間、つまり、「第一説から第二説」の間には、「伊勢や伊賀」周辺には「仁木氏の郷氏」はいなかった。
その事から考えると、「殴り込み説」に成る。
果たして、「殴り込み説」が可能かどうかは,既に判っていた筈である。
「伊勢」には、有史来、「実質支配力」の持った「強力な国人集団」が居たのである。
況して、足利氏である。普通の氏族では無い。
「仁木氏」が主張する事が正しいとすれば、由緒ある下野の「足利源氏の末裔」である。
「第一説の滅亡」を打ち消して、「末裔」とするならば、そんな強引な事はしないだろう。
そもそも、過去に於いて、「官位」と共に「実質支配」した「伊賀守」はいない。
それを知った上での「殴り込む」のか疑問である。
況してや、「長年の実国からの所縁の故郷」を放り出して、”態々、何故、「伊賀」に来るか”の疑問がある。


ところが、更に検証すると、そもそも、実は、この”「額田郡の美濃源氏」”と云うのは、奈良期の古来から「1の天智期の青木氏」の縁者(嫁ぎ先)でもあった。
「額田郡の仁木氏」が「下野足利氏末裔(足利源氏)」であるとするならば、無縁では無かった筈である。

この三河地域には、次ぎの青木村があった。

「額田郡の青木村」(伊勢の皇族賜姓族青木氏  摂津源氏)
「渥美郡の青木村」(美濃の藤原秀郷流青木氏  美濃源氏)

以上の二つの青木村が住み分けてあった。
何れも、「源氏の血筋」を受けている。

同じ「額田郡の住人」であるとするならば、知ら無い訳は無いだろう。


この様な経緯から、この様な何らかの「絆や繋りや紹介」があって「伊賀」に入った事も充分に考えられる。
とすると、”戦国で追いやられて伊賀に入った”と云う事が濃厚である。
この事から、「第二説の仁木氏」は大して大きい集団では無かった事が云える。
入国後に事件を起こして、主格は潰された。

その後に、この末裔子孫か家臣が、「仁木氏」を旗印に名乗り再び「伊賀守」を名乗ろうとしたが、今度は主格では済まず滅ぼされた事に成ろう。
これが「第四説」と云う事に成ろう。
その前に、「第三説」の「山名氏」が「伊賀守」として振舞ったが、”「伊賀不穏」”の理由の通り、「強い国人」が居て「実質支配の無い」ところでの「君臨の難しさ」を物語る理由と成っている。


それは、そもそも、「伊勢全域」が「2郡制」であった事による。
この”「2郡制」”に意味があった。何故、敢えて「2郡制」にしていたのかである。
普通は一国は「4乃至5郡制」である。
この「伊勢4郡」は、上記で論じている様に、「国人の勢力」の強い地域で、「実質支配」は到底無理であった。
ここはつまり、奈良期からの歴史の持つ一種の”「聖域」”と見做されていたのである。

上記の序盤で論じた様に、「伊勢域」が「伊勢郷士数」が他の国に比べて1/20と歴史的に少ないのもこの事はから来ているのである。

そもそも、「伊勢」は”「不入不倫の権」”で「伊勢神宮の聖域」として、元々長い間の「安定」を期す事を旨として「2郡制」を採っていたのである。
そして、より「支配権」を安定させる為に、「伊勢国」の「土地の使役権」(地役権 地主権)を「伊勢国人郷氏」に与える”「不入権」”を設定していたのである。
その為に、この「不入権」を以って「支配権安定策」として「北部南部の2郡」にしていたのである。

例え、「守護職」が伊勢域に入ったとしても、「国人」の「土地の使役権」(地役権 地主権)がある為に、全域に対して実質に税を採りたてる事は出来ないのである。
従って、伊賀守の「管理権」や「支配権(命令権)」も全域には及ばない事に成る。
この「管理権と支配権」を確保しようとすると、「国人」を攻め落とす事に成る。
これは”「不倫の権」”に触れて「朝敵」と成る為に出来ないのである。
そして、この「国人」の下に「朝廷」より「氏族」として認められた「伊勢郷士集団20氏」が組織されていたのである。
結局、強引に「支配権」を獲得しようとすれば、「伊勢全域」を相手にする事に成り、謀略さえも仕えず出来ないのである。

「伊賀守」は、「伊勢のシステム」上では、”「名誉官位」”と好むと好まざると必然的に成り得るのである。

これが、所謂、”「2郡制」”なのであった。
この事から観ても、例え、「4郡制」にして「南北域」を分けた処で、「人の絆やつながり」(実質支配権)等は変わらない。
「郡域」を増やせば、その「支配の圏域」は散在する為に、圏域集中を目的として「郡数」を二つにしたのである。


これを覆そうとして、伊勢に入ったのが、「仁木氏」であり、「北畠氏」であり、「六角氏」であった。
つまり、「室町期初期の足利勢力」である。

当然に、「名誉官位」に留まらずに、この「支配力」を強めようとすれば、「国人との戦い」、つまり、「伊勢勢力との戦い」と成るのである。
上記した「第二説」の”「仁木氏の戦死」”の記録は、恐らくはこの事から起こったと観られる。
何れ三氏ともこの「影の勢力」で短期間で滅亡したと云う事である。
(ゲリラ戦に近い形で掃討した。)

室町期は、「伊勢国人青木氏」は、「二足の草鞋策」で「巨万の富」と「影の勢力」を持っていた。
この事を配慮すれば、「武力だけを頼りにする三氏」が挑戦しても「青木氏の総合戦力」と「戦いの大義」の「極端の差」がある。
故に短期間で排除できた所以でもある。

(注釈 彼の信長も秀吉も知略を使って実質的に排除したのである。)

室町期から脱した江戸期の「伊勢の伊賀官位」は全て”「名誉官位」”と成り得た所以である。
「家康」や「頼宣」等との「青木氏との連携」があって、元から「官位のみの任官」と成ったのである。

況してや、下記の通り、(あ)から(お)の勢力があった処に「三河の額田郡」から入ったとしても、恐らく、この「5つの勢力」を排除出来ない筈である。
これは「伊勢の国人勢力」が「有史来の絆」により「一致団結」して強い事から来ているのである。
「入国後戦死」の記録は当然である。

何かが起こったとする事は次ぎの事が云える。
「国人の長」としての「青木氏」等の「二足の草鞋策」や「シンジケートの抑止力」や「古来からの朝廷との繋がり」があれば、「仁木氏」であろうが誰であろうが、「500万石以上の影陰の力」を持っていれば「蠅の範囲の事」であった。
故に、この組織で固められた地域である限りは、絶対に「実質支配」は起こらないのである。
依って、「仁木氏入国後戦死」の記録が正しいと観られる。

この「記録の有り様」では、「五つの勢力」の「国人とする在伊勢勢力」で潰されたとしても、「不入不倫の権」で保護されている。
「仁木氏」が攻め入ったとすると、「大権」を犯したのである事から、「攻め入った」と形作るとすると、足利氏と仁木氏は「朝敵」と見做される。
記録上は「別の理由」とする必要がある。
そもそも、彼の狂暴と見做されていた「信長」の「伊勢三乱」でも、この「大権」は犯さなかったのである。
間違いなく、「伊勢シンジケート」で影で潰されたと観られる。
後の「北二郡の奪還」とする記録は、この「下剋上家臣の残存の掃討」であったと観られる。


依って、「仁木氏の事」も含めて各の如しで、「弱体化した幕府や朝廷」の「官位」を得たとしても、「実質支配」は「地元の勢力」にあった。
「伊勢4郡」の「国人の地元勢力の支配無し」では、”「伊賀守」”とは成り得ず「守護」とは云えない。
「形式」であろうが、「形式」で無かろうが、「金品」であろうが、「名誉」であろうが、「どんな形」であろうが、遣ろうとすれば「官位だけの形」に成って仕舞うのである。

歴史上の「正式の任官者」の「六人」の内の「五人」は全て「官位」だけで「伊賀」は扱われたのである。
その様に「名誉の官職」としてに長い間を扱われ”「生きた聖域」”であった。

故に、実質の支配は、上記の(い)でなのである。


果たして、「2の円融期の青木氏」の「伊賀の青木氏(嶋崎殿青木氏)」が、上記の様に、「(う)の絆」はあるとしても、(い)の「伊賀守」に繋がる論処が見つからない。

(あ)は確かに「伊賀氏」を名乗ったが、必ずしも「青木氏」を名乗ってはいない。
秀郷一門の宗家の結城の「朝光の末裔」と成れば「青木氏」であった可能性は否定できない。
伊勢の「1と2の二つの青木氏」との「歴史的な親密な関係」があった事は否定できない。

つまり、(い)が(あ)に繋がっているのか、(う)に繋がっているのかによって決まる。

この確定するものが出て来ない。
然し、筆者は、(い)は、「2の円融期の青木氏」の中の(お)の「本流の本家秀郷流青木氏」であって、(え)の「伊賀の青木氏(嶋崎殿青木氏)」では無いと観ている。
但し、(え)の「伊賀の青木氏(嶋崎殿青木氏)」は、既に、室町期中期以降の事であるので、最早、その秀郷一族一門の中での「位置づけ」は、無く成っていたと観ている。

「本流の秀郷流青木氏」と「伊賀の青木氏(嶋崎殿青木氏)」は、伊勢に於いては「本家分家の差」があるにしても、「流の筋差」は無く成って居た事を示している。
依って、「青木伊賀守」は、本家分家の「宗家の跡目者の官位]と成っていたと見做される。

「実質支配」は、以後、「(い)の忠元(1577年任官)の末裔の支配下」にあった。
その中でも、、(え)の「伊賀の青木氏(嶋崎殿青木氏)」が取り仕切っていたと観られる。

(注釈 「皇族賜姓族青木氏」も伊勢伊賀国の一部の地権を保持して、「和紙殖産の土地」としていた。)

この結果、1440年頃から、1577年までの間(137年間)は、この「伊賀」には「伊賀守」は存在しなかった事に成る。
(い)の実質支配の下に(え)が仕切っていた事に成る。

上記する「官位」だけで扱われた「伊賀守」には、室町期から江戸期全期に掛けて重複する事もあって「歴史上の意味合い」が無く青木氏に執っては論外である。

伊賀に関わる者としては、次ぎの様に成る。

(う)の「残存者」
(あ)の「移住者」
(え)の「伊賀の青木氏(嶋崎殿青木氏)」
(お)の「本流の本家秀郷流青木氏」

依って、「伊賀守の疑問」は、この様に成る。
この疑問を解いた歴史観を以て下記を論じる。

重要
”「伊賀者」と「伊賀の青木氏」”が、この「役柄」を仕事とした根拠は、ここから来ている。
つまり、「2の円融期の青木氏」の「秀郷流青木氏」が「1の天智期の青木氏」の補完役として役務が与えられた。
この役務には、「1の天智期の青木氏」と同じく「賜姓五役と護衛役」が与えられた。
しかし、この「2の円融期の青木氏」のもう一つの「嶋崎殿の青木氏」(「伊賀の青木氏」)には役務が無ければこの「氏存続」は成り立たない。
その「役務」を、”「公澄の左衛門尉」”を踏襲させて「護衛役の実務」を担う事に成ったのである。
その「実務]とは、上記した様に、この”「大番役」”であった。

初期の「伊賀の青木氏」(嶋崎殿の青木氏 三代目以降)の役務として「円融天皇の目論見策」で与えられた。
唯、「特別賜姓族」として「千国の妃の実家先」に、態々「青木氏」を名乗らせる目的には、上記した様に、確かに「目論見策の意」はあった。
上記で検証した様に、これらの事から、疑う余地は無い。

然し、かと言って、「伊勢神宮の大番役の実務」を、”本流の「秀郷流青木氏」に務めさせるのか”と云う疑問がある。
確かに、「(1)の天智期の青木氏の職務」は過多であって、「秀郷流青木氏」を「特別賜姓」して”「補完させる」”と云う「本来の策の目的」があった事は否めない。
だからと云って、この「役目の大番実務」も、「(2)の円融期の青木氏」に負担させるのかと云う率直な疑問も起こる。

「指揮官としての実務」も、「伊勢神宮」も然ること乍ら、「都の宮廷」などの警護などもあり明らかに繁多である。

「五家五流の地の天領地の警備」
「祖先神の神明社の建立とその500社に及ぶ管理保全」
「天皇警護を含む賜姓五役の務め」
「伊勢域と神宮警護」

以上の様に、指揮はするも、到底、「大番実務」(上記)までは無理である事が判る。
「家人」等が負担するのも「大番実務」までは無理である。
つまり、「手足で働く家人」では無く、「指揮の専門青木氏」と「大番の専門青木氏」が必要なのである。
そうすると、「青木氏」に執っては、「伊勢神宮」だけでも「大番実務」をさせる族も決めなくては「絵に描いた餅」である。
その意味でも、「伊賀の青木氏」(「嶋崎殿の青木氏」)の「諜報役の大番役」が「神宮の傍」に置く必要があったのであった。
そして、偶然に伊賀に「伊賀の青木氏」(「嶋崎殿の青木氏」)が生まれた訳では無いのである。

これを「2の円融期の青木氏」の中にして「嶋崎殿の青木氏」(「伊賀の青木氏」)に負わせる事で解決する。
然し、「繁盛」と「維茂」には、「たいら族」としての体面があり直接に負わせる事は出来ない。
上記した様に、「仕来り」から、一度は「藤原族の秀郷流青木氏」を継承するも「元のたいら族」に戻る慣習と成る。
だとして、「三代目」にこれを負わせる事で、「たいら族側」には異論は無く成り、血筋はあるとしても、最早、「氏族」が異なる事から口は出せなくなる。
従って、「伊勢神宮の大番役」は、三代目から負わせた筈である事は判る。
それは、三代目(四代目)が「伊勢秀郷流青木氏の支配下」に入って生きている事からも理解できる。


これが、(1)の天智期と(2)の円融期の「青木氏の主務」として、A系列(BとCの系列)に最初に勧めた事から「伊賀忍者」が「生まれた所以」である。
そもそも、主家の「猿楽師」は、その後の「嗜み」から「役柄」としたもので、「本来の仕事」は、この「大番役」から「小十人役」へと繋ぎ「伊賀の青木氏の役柄」に成ったのであった。

(注釈 平安期から江戸期に掛けて「高位の家柄筋の嗜み」として求められた。江戸期には茶道に変化した。)

所謂、この”「大番役」”は、大化期からの「賜姓五役」から発展した全ての「本来の青木氏の役柄」であって、その「実務」であったのである。

(注釈 この事を敢えて、”「青木氏の伝統」”として、その「大きな経緯」もあった事から、「円融天皇の目論見策」の一つとして論じる必要があった。

この「大番役と小十人役」の”「青木氏の伝統」”には、その元は”「青木氏の伝統」”から来ているのである。

そもそも、上記の「三系列の系譜」の列記は、これを良く表しているので記載である。

平たく云えば、「伊賀忍者の発祥元」は、「青木氏の大番役の実務」から来ているのである。


この事を念頭にして、次ぎの事をお読み願いたい。

以上で、この「貞盛の養子」と成った「繁盛の子」の”「平維茂」”を二代目の始祖とした「嶋崎氏の青木氏」は、秀郷一門の「秀郷流青木氏」の中でも異流ではあった。
しかし、この様に、平安末期から室町期末期頃までには、「賜姓五役」の一つとして、「大番役」として「秀郷一門の青木氏」に確実に組み込まれた事が判る。

これほどに検証は複雑であったが、完全に紐解けたと観られる。
この「嶋崎殿の青木氏の検証」は矛盾なく成り立つ事が判る。
これは「青木氏」ならではの検証で有って、他氏には100年経っても決して論じる事さえも、無し得ない「検証結果」なのである。
況や、これは「青木氏の伝統」なのである。
依って、「青木氏」が知っておかなければならない「伝統」であるのだ。


さて、更に次ぎの「テーマの検証」に入るとして、次ぎの事からも充分に考えられる”「献策による青木氏差配」”であった事が判る。

「伊勢青木氏」も「信濃青木氏」も、「隣の伊賀」に対して、”「知古の範囲」”での”「青木氏の献策差配」”をした事に成る。
如何に、「伊賀」とは親交を図っていたかは上記の事でも充分に理解できる。


(注釈 筆者は、上記した「繁盛等の処遇」も含めて、「伊賀のたいら族」も「伊勢秀郷流青木氏」も「献策の青木氏差配」の事は,この時の関係者は,この時、充分に承知していたと考えている。
当時の政治状況の解決の為の「総合的解決策」としての「円融天皇の目論見策」として進めたと観られる。
「青木氏からの献策」に付いて、”この事を必要だ”と適格に判断した若い「円融天皇」は、周囲が四面楚歌の中で、且つ、天皇と云えども命さえも危ぶまれる中で、良く出来たと観られる。
「普通の能力」では、「青木氏の献策」が必要だと思う事が、「天皇と云う環境」から充分な社会情報が与えられていず、且つ、得られていなかった事が普通である。
そんな中で、普通ならばこの様な「目論見策」は無理であろう事が明確に判る。)

(注釈 況してや、外戚が40もいれば,「自分たちの利益」の為に思う様に操ろうとして、「不都合な社会情報」等は遮断される筈である。
然し、現実に、”判断で出来た”と云う事は、矢張り、”「裏ルートからの情報」を得ていた”としか考えられない。
その「裏ルート源」とは、それを成し得るには、上記で論じた「献策」と同様に、「献策者青木氏」しか無かったと観られる。
後に、「後三条天皇期」には、”北面武士”と呼ばれた「賜姓五役」の一つであった「天皇護衛の役目」(「身辺警護の役目」)の時を利用したものであったと考えられる。)

表向きは、「円融天皇]は”愚者常人を装った事”もあって、「歴史上の評価」は低くかったが、実際は事の次第を判断してこの事態を改善したのである。
故に、青木氏では”優れていた”と判断している。

その優れていたとする証拠に、「円融天皇」系列の遺伝を引き継ぐ「一条天皇」と「三条天皇」と「後三条天皇」の末裔三天皇は、自己の意志で「歴史上の実績」を遺した”「優秀な天皇」”として評価されている。
そうであるとするならば、「先祖の円融天皇」も評価されるべきである。
この「三天皇」は、「円融天皇の目論見策」の意志を継ぎ次ぎの様な「役務」を天皇として担った。

最初の「一条天皇」から「下準備]を進めた。
中間の「三条天皇」では「外戚の反対勢力」を弱めた。
最後に、「後三条天皇」は、何と「40もの煩い外戚」を完全に外して、「藤原氏に外戚」を持たない「外籍天皇」として「荘園制を廃止」を敢行した。

以上の「政治的な課題」を果たしたのである。
最終的には、誰しも怖くて成し得なかった「荘園制」をタッグを組んで廃止した天皇達である。

(注釈 これには、筆者は、「円融天皇の後継者」の「花山天皇」をも評価している。
実は、「花山天皇」は、この「荘園制」に、”病魔の様に巣喰う虫”の「賜姓源氏制度」を最終として廃止した天皇である。。
この事に依って、「他の虫の外戚勢力」も「花山天皇」が「廃止の勅命」を下した以上、その意志を無視して続ける事は「不敬不遜の至り」と成り「朝敵」と見做される。
次第にその「収入」が無く成り、「財力」が低下して「発言力」が無く成り、衰退して子孫を遺せない様な「外戚」が出た。
これで「公家の藤原氏」や「11家の源氏]や「橘氏」等は結局は衰退したのであるが、中には、形振り構わず「公家武家」が現れる始末であった。
後の「一条天皇の為の環境整備」をした事に成った。

(注釈 「源氏16代とする説」は、「正式な賜姓の源氏(11流)」では無く、徳川氏等の家柄搾取(4家)の所以である。
この「源氏」には、「賜姓」で無い「源氏」は、実は多いのである。
判る範囲でも「公家源氏4家」もある。
この他に、数えきれない程の「源氏」では無い荘園制から来た荘園制源氏とも云うべき”「未勘氏源氏」”がある。)


平安末期のこの時には、”「北面武士」”と呼ばれた「宮廷警護制度」と「身辺警護」を正式に採用したのである。
(上記の「実務の大番役」)
「宮廷の三門」を警護すると共に、天皇の寝食の隣室に「警護室」を設け、天下に武勇に優れた「豪傑を常設待機」、交代で「24時間警護」、外出時は「即座警護」に当たったほどの態勢を執った。
天智期に新設した「天皇家を護る青木氏の親衛隊」は,平安期末期には、更に細かく成り、大番役等の上記のシステムが追加されたのである。
この時、平安期では、「1の天智期の青木氏」は「左衛門上佐・右衛門上佐」を始め、「源氏」や「藤原氏」(左衛門尉)がこれを務めた。

後に「平家(清盛時代)」も務める事に成ったが、この時は、出自が異なる事から、後に改めて”「西面武士」”と呼称された。

「円融期の平安期」の頃には、「賜姓五役としての青木氏」が務めていた事から、この「献策」と「情報提供」が「裏ルート」として可能と成っていたのである。

(注釈 「青木氏」は、「賜姓族」「臣下族」としての顔もあって、「表向き」は”「抑止力」”を前提としていたが、「臣下族」としては「軍事力」を保持出来た。
その軍の一部は、伊豆の国に配置されていた。
「清和源氏」「四家の宗家頼政」の「孫京綱」が、「伊勢青木氏跡目」に入った事から、この軍を伊豆領国に配置していたのである。
「青木氏の跡目と成った京綱」は「源氏との同族の融合」である。)

この「円融天皇の目論見策」に付いては、「貞盛、繁盛、秀郷」等の関係者等は、暗に周知の「献策の青木氏差配」と承知していた事であったと観られる。
これを周知だとすると、平安期末期の「源平の雌雄」を決した後に、この「伊賀地域」と「一部紀州南部域」は、「鎌倉幕府の頼朝」より北条氏等の反対を押し切って「奈良期からの青木氏遠祖地」として本領安堵されたのである。
この事後の事から鑑みても、この”「嶋崎殿の子孫末裔」”を「伊賀地域」で護る事が出来た。
且つ、「不入不倫の大権」で護られていた事もあって、少しでも浸食すれば「朝敵]と見做されてしまう結果と成った。
故に、「嶋崎殿の子孫末裔」を護る事が出来たのである。
依って、「他の勢力」が浸食出来ない事に成るし、「伊勢シンジケート」に組み込まれる為に、浸食すれば、「伊勢シンジケート」に逆襲される事と成って生き延びられたのである。

幾ら「円融天皇の目論見策」の「嶋崎殿の子孫末裔」だとしても、上記の様に、”「背後の抑止力」”が無ければ簡単には生き延びられる時代では決して無かった。
それこそ「絵に描いた餅」で「無駄骨」である。
そんな事は、「献策者の責任」に於いても、「青木氏の氏是」に沿っても絶対に「青木氏」はしない。
「知略」を「氏是」としている位である。

(注釈 前段の「伊勢商人の射和商人」や「天正三乱」の事でも、”「共に生きた事」”からも判る。)

この「青木氏の庇護」だけでは無く、「伊勢青木氏末裔」にも「嶋崎殿の末裔」にも、この事の「口伝」があったからこそ、明治期までその関係は続いたと観ている。
「一時期の歴史」は「一時期の歴史」で終わるかは、その中に「感謝と尊厳が存在するか」に関わる。
この様な「青木氏の献策差配」等の経緯が、平安期からあって、「周知の口伝」があったからこそ、江戸期までも互いに護り合った事に成る。

江戸期に限らず,明治期に成っても「商い」でも「伊勢商人」と「射和商人」と云う関係を互いに築き、共に「20郷士集団」で結束したのである。


話しを戻してより詳細に別の面から検証する。
そうする事で、「青木氏の伝統」と云うものがより浮かび上がらせる事が出来るだろう。

上記の論に続き、依って、そもそも、この伊賀の”「たいら族」”としては、この時期には、上記の様に「主紋と副紋」を持ち得ていた事は理解できる。
然し、普通であれば、「総紋」をも持ち得ていたとすると、「桓武平氏」の侭であっても良い筈である。
況して、「娘嫁ぎ先」の事である事も含めて、何も「実家先」が「藤原氏」を名乗り、更には、況して、「円融天皇」の肝いりの「特別賜姓族の青木氏」を名乗る事などあり得ない事である。
明らかに、この時の現状では、未だ他氏を抑え込めるだけのものは充分に無かった事が云える。
所謂、未だ、「官僚族の範囲の事」であった「桓武平氏」である事を歴史的(記録)にも認められている。
然しながらも、態々、先ず、その「慣習」を改めさ、覚悟をきめさせた上で、矢継ぎ早に、「氏名」を「藤原氏」にする事で、「吊り合い」を取らせた。
そして、巨大な「藤原一門」に組み込ませたのである。

つまり、より一段と勢力を持つ為には、現状の「官僚族の範囲から脱皮する機会」であったのだ。
その上で、直後に「円融天皇の差配」と成る「特別賜姓族の青木氏」を何と名乗らせた事に同意した事に成る。
何はともあれ、これは「娘の実家先」に対しての出来事である事なのだ。

これだけの事は、相当な覚悟が無ければ成らない。簡単にあっそうですかと云う事では済まない。
況してや、「氏家制度」の真ん中である。
下手をすると、「官僚族の範囲」も神威失墜で落とし兼ねない「賭け」とも成り得るのだ。
先ずは、「当時の慣習」としては、この「賭け」は考え難いが、然し、現実には興っている。

これは、「円融天皇の差配」であった事からこそ興った事であれ、これは「思い付きの事」では無い。
事前に相当周囲で調整した事で無ければ成し得ない。
つまり、「円融天皇の特別賜姓族」と云う「格式」を護るための「掟」を確実に踏んだ事を示す事に成る。
明らかに、この「血縁差配」は、「背後での献策の差配」であった事を示している。
「天皇」自らが、一氏族の中に入って、「仲人の様な血縁」を勅命する事は、到底に適わない事は明明白白である。
依って、「前代未聞の事」と成り得る為に、この「陰影の血縁差配」を以って、「円融天皇」は「特別の計らい」をした事が判る。

(注釈 「特別賜姓族」と呼ばれていた所以であろう。)

然し、そもそも、この「歴史的な事」として観られる「陰影の血縁差配」は、”誰が献策したか”が「青木氏」に執っては最も重要である。
従って、それは、上記した様に言わずもがなこれを解明するのは「青木氏」以外には無いのである。

「青木氏」が、この「円融天皇の一連の差配事」を、「歴史的事実」として解き明かさねば誰も解き明かしてはくれない。
恐らくは、当たり前の様に自然に起こったかの様な形で済まされて、関連する歴史的史実(伝統)は消滅していた筈である。
「青木氏」が、真面な形で生き残らせてもらった代わりに、これは、「献策期」から「射和商人」迄の明治期まで続いた「深い関係」である以上、「将来の子孫」に「青木氏全体の伝統」と云う形で遺しておかねばならないで事であろう。

「青木氏」には、「伊勢領国」を奈良期に半国割譲した地域の同じ「伊勢伊賀北部」に住んでいる「京平氏の実家先」とは、極めて深い親交のある”「隣人」”であった。
「隣人以上」に、「伊勢和紙(伊賀和紙)殖産」の「企業相手」でもあった。
後に、この「殖産」を通じてそれに関係する「物品の生産」の「興業」(1025年頃 二次産業 紙箱など 大正期まで続いた。)を共に興した相手でもある。

この事から、恐らくは、逆に歴史を遡ったとしても、「伊勢と信濃の青木氏」が調整して根回しをして献策した事は先ず間違いは無い事に成るだろう。
これで、「伊賀殿と伊勢殿の付き合い関係」がどの様なものであったかは想像しなくても判る。

「実家先の宗家貞盛」に「繁盛から養子維茂」を出したが、「嫡子」とはせずに「四男の維盛」が、結局、「伊賀」を継承して「五代後の清盛」に繋がった。
従って、当初よりこの「養子維茂」が直接に「跡目」として入った訳ではない。
つまり、「養子の目的」が別にあった事を物語る事である。
本来であれば、「養子の目的」は「跡目」を前提とする。
後の「貞盛の実子(4人)」には「跡目」に相応しくない何かの理由があった時に行われる「跡目の仕来り」である。
然し、この「4人の実子」にはその様な事は特段に無かった。
むしろ、「実子の維盛」は歴史上に名を遺す程に優れていた。
従って、「円融天皇の目論見策」に対する「形式上の仕来り」を採ったに過ぎない事に成る。
「長男とされる維叙」も「藤原氏の済時」からの養子である。
「養子」を採って跡目を良くした訳でも何でもない。

明らかに、「繁盛に対する差配」としての「伊勢信濃青木氏の調整と根回し」に依る「円融天皇への献策」であった事が読み取れる。
この事からも、「献策者は伊勢信濃の青木氏」であった事が判る。
又、後の「清盛の生誕の経緯」(下記)や「有綱宗綱助命嘆願」からも、”「献策者は伊勢信濃青木氏であった事」”が裏付けられる。


(注釈 「伊賀検証」  この後に、「京平家」は「清盛」に依って「巨大な勢力」を張り、終局、1185年(以仁王の乱1180年)に「摂津源氏の源頼政」が、この「京平氏」と雌雄を決する事に成った。
然し、この時、敗退した「頼政の孫」の「宗綱と有綱」と「弟の高綱」の「助命嘆願」を、この「京平家」の「伊賀の実家先」に頼み込みこんだ。
「清盛」は一変してこの三名に限り「日向廻村」に配流処置で済ませた。
これは、「頼政の孫」の三兄弟の「三男京綱」は事前に「伊勢青木氏の跡目」に入って居た事から、「兄の助命嘆願」を実家先の”「清盛の実母」”(下記検証)に願い出た事から特別に許された事であるとされている。)

(注釈 ”「清盛の実母」”には多説あり、「祇園女御」(又は妹説で養子説)、実父は白河院、「育て親」は忠盛の妻「池禅尼」である。
「清盛」は「伊勢の津」に生まれた。
「祇園女御」は立場上、祇園に住んでいたので「伊賀の里」には住んでいない。
従って、「白河院」から寵愛を受けた「舞子」の「女御」である立場から、「津」に宿下がりしてでの出産と成った。
然し、それが「津」とするとあり得ず、結局は”「女御妹説」”にと成る。)

(注釈 何れも育てる事は、侭ならない事から,「忠盛」に預け、この「伊賀の里」で(「池禅尼」は池と云う地名に住居)が育てた事に成る。
この時の「青木氏の記録」では「清盛の実母」と成っている。
然し、果たして、「育親」のこの「池禅尼」であった事に成るのか。
「池禅尼」は、「忠盛没後の1153年」に尼僧となるが、「頼朝の助命嘆願」に奔走した事は有名である。
「池禅尼」は、正妻で、「忠盛の妻」は多くいたが、1164年没前頃の時に、この伊賀に「池禅尼」が住する事があったのかである。
「1153年忠盛死後」に尼僧に成り、「六波羅の池の地」に住した事から「池禅尼」と呼称された事を是とすると、可能性としては低い。
結局は、ここで実はこの「忠盛の妻」には上記の「祇園女御の妹」が居た事は事実である。
とすると、つまり、「祇園女御」そのものが「一切不詳」である事から、「妹」は尚不詳と成っている。
従って、「忠盛の妾妃」の「妹の実母説」(つまり、「祇園女御の猶子の記録説」)が残る。
とすると、「清盛実母」、「津」、「忠盛妻説」、「伊賀居説」、「1180年宗綱助命嘆願説」、「青木氏記録の実母説」などでは符合一致する。
又、「伊勢津」には、「二つの青木氏の勢力域」で、「青木氏の菩提寺の分寺」(本寺は松坂)があった。
この事からも、「清盛津誕生説」は、この「分寺」(本寺共に現存)にて生誕した可能性が高い。)

(注釈 何故ならば、当時、「伊勢の津域」を「差配統治」して居た事から、「氏家制度の慣習」から観て、商いの関係から「相談」を受け、ここに「産屋」を提供し手配したのではないかと想像できる。
「伊賀での生誕」は、多くの忠盛妻が居た事から産屋は難しい。
この時は、既に、「青木氏」は「紙屋院」として「和紙の殖産」と「二足の草鞋策」の「商い」していた年代である事から、[伊賀殿」との「隣人親交」は「和紙企業の関係」からも深かった事に成る。
宗綱等の「助命嘆願」を受けて貰える関係は、充分に有った。
その関係にあった”「青木氏が云う実母」”とは、「池禅尼の没年の晩年説」か「祇園女御妹説」かのどちらかであった事に成る。
然し、上記の「注釈の検証」から、「祇園女御妹説」の可能性が極めて高い。)

(注釈 「1180年の助命嘆願」を受けた「人」は、「祇園女御と妹」の生没不詳から「女御妹の晩年の事」と成る。
「1181年清盛没の直前の嘆願」の直前と成り、「妹説74歳」は妥当と成り、何とか成り立つ。)

(注釈 更には、「桓武天皇の京平氏」の母は、「光仁天皇(伊勢青木氏始祖 施基皇子の子供白壁王)の妃の「高野新笠」である事、
つまり、「伊勢青木氏」とは「女系の縁者関係」にもあった事からも、この「献策の血縁差配」の検証は納得出来る。)

この注釈の検証等の様に、それが、「嵯峨期の詔勅禁令」の例外を次から次へと実施し、「天智期からの青木氏の賜姓」を上手く適用したのである。
では、「円融天皇」に献策が出来て、40もの外戚から成る煩い「摂関家を抑え込める勢力」は、果たして「何処の氏族」かと云う事に成る。
最早、一目瞭然で、導き出せる事は疑う余地は無く成る。

それには、「天皇に朝見」が出来て、且つ、「献策出来る格式を持つ氏族」は、数える程も無い。
先ず、「朝見]できるのは、「正三位」以上の永代格式を持つ事が必要で、「献策」か出来得るのは「浄高二位以上」である事が必要である。
この「浄高二位」は皇太子格に相当する。
「源氏族11家」は、「朝見の永代権」は持ち得ず、「嵯峨期詔勅」で「大権と土地を持たない朝臣族授与」を前提とした為に「従四位下」を限度としたので、朝見できない事に成る。

そこで、「皇太子以上の家筋」は、永代に持ち得ているのはたった二家しかない。
それは、「伊勢青木氏(浄大一位)」と「近江佐々木氏(浄大二位 後に一位に成る)」の二氏である。
つまり、”永代に天皇にこっそりと検索できる権利”を天智期から与えられている「二つの氏族」なのである。
例え、「斎蔵の藤原氏摂関家」に於いてでさえも、「摂関家の宗家」を引き継いだ「太政大臣と左大臣」成る者しかいない。
他の摂関家の者は「朝見」は出来ても「献策」は出来ないのである。
とすると、上記から記述して来た通りである。

「状況を変え得る能力」としては次ぎの条件が成り立たねばならない。

「献策」を裏付けられる「権利」としての事、
それを「実行し得る財力」としての事、
「40もの外戚」を問答無用で押えられる「勢力」の事、

以上の事からも、「五家五流賜姓族青木氏」しか無い事に成る。

中でも、「賜姓五役」を主導し実行している「伊勢と信濃の青木氏」と成る。

但し、政治に関する「実質の斎蔵権」を持っていない事から、あくまでも「陰からの献策権」と云う事に成る。
それは「賜姓五役」の「国策氏」とされている「青木氏」であれば、それは成り立つ。
つまり、この「陰からの献策権を公に認められている立場」(国策氏)であればこそ周囲から文句は出ることはない。
「斎蔵権を持つ藤原氏」(摂関家)に執って、「煩い存在」であったと観られる。
「立場」があるからと云って、そう頻繁にこの手は使えないだろう。
使いすぎれば、「影」では無く「表」の論理と成る。
それは、「争いの下」に成る。
「青木氏の氏是」が、”必要以上に表に出る事”をこれを固く禁じている。

そもそも、「1の天智期の青木氏」は、「親衛隊」の最高位の「左衛門上佐」でもあり、摂関家の「左衛門尉」とは、「摂関家」は「天皇の傍に常時居ると云う立場」に於いては、「四段階下の格式」とは違う。
故に、「青木氏」は格段にして、常に「天皇の傍」に居て身を護っている「青木氏」にしかできない「献策」と成る。


ここで、次ぎの内容を論じる前に、この「青木氏」は次ぎの様に成る事を改めて述べて置く。

この「青木氏」が、次ぎに「究極の策」に出たのである。
それは、今度は上記する「円融天皇の目論見策」から、これを確定させる為の「青木氏の策」である。
この下記に示す(1)と(2)の「青木氏」を最終的に「一つにする事(融合策)」で、その「円融天皇の目論見策」の「威力」は未来永劫に確定させ得る事が出来る。その手段に出たのである。


つまり、ここに、所謂、基本的には、本来の「賜姓族」としては、次ぎの様に成る。
(1) 「天智期の青木氏」
(2) 「円融期の青木氏」
(3) 「嵯峨期の青木氏」

以上の「三つの青木氏」が生まれる結果と成ったのである。

然し、(3)の「第三番目の青木氏」には、現実に「賜姓」は伴わなかったのであり、「賜姓族」である事、つまりは、その「皇族系」であるとする「出自の証明」があれば、「賜姓」を受ける事無く、「賜姓」を受けたと同じくして「青木氏」を名乗る事を許されたのである。

これが(3)では、「源氏系出自の青木氏」(3氏 「日向青木氏」等)と、「第四世王族系出自の青木氏」(丹治彦王:丹治氏系青木氏 1氏)の発祥と成ったのである。
然し、(3)の子孫を現実に遺し得たのはこの4氏の二氏に限られる。

最も、「子孫拡大」として果たしたのは、(2)の24地域の116氏に成った「円融期の青木氏」である。
次ぎに、(1)の10地域の10氏に成った「天智期の青木氏」と成る。
厳密には、両方に跨がっている所謂、この「融合族青木氏」を「天智期の青木氏」に加えるとすると、次ぎの地域と成る。

伊勢、信濃、甲斐、近江、越後、伊豆、相模、下野、因幡、土佐

以上で、20氏と成る。

(但し、近江の「佐々木氏系青木氏」は「天智期の青木氏」に加える。)

ここで、重要なのは、この”「融合青木氏」”である。

上記した様に、「円融天皇に依る一発逆転策」で、以上の「三つの青木氏」が発祥する事と成った。
夫々が独立して働けば、「嵯峨天皇」や「円融天皇」が目論んでいた「賜姓五役等の役務柄の仕事」は確実なものに成る事は間違いは無い。
ただ、より「大蔵氏」や[藤原摂関家」に匹敵して、”「青木氏としての役目柄」”を確実に未来永劫に果たすには、もう「一つの段階」を踏む必要があると考えられた。
当然に、「大蔵氏]や「摂関家」とは、「賜姓族」で「臣下族」であり「朝臣族」であると云う事は同じでも、「青木氏としての役目柄」、即ち、「賜姓五役」の果たし方だけは異なる。
「青木氏の生き方」も、その「賜姓五役」や「三つの発祥源」としての「役務」に必要とする護らねばならない「立場」、「生き方」ある。
そして、他の「青木氏の二つ氏族」に求められていない厳しい「慣習仕来り掟」に厳しく縛られている。
従って、「活躍の仕方」は決して「表立てる事」は出来ない。(これも「果たし方」の違いである。)
取り分け、”「氏族の純血性」”だけは「他氏の二つの氏族」とは決定的に異なる。
況や、”「氏族の純血性」”を護り通す徹底した”「四家制度」”である。(四家制度の「徹底の仕方」が異なる。)

この為には、(1)の「天智期の青木氏」と、(2)の「円融期の青木氏」の「母方」は同じにしても、「未来永劫の存続」はこれだけでは充分では無い。
この基本的に出自の異なる二つが、別々の路を歩む事は、「亀裂の基」にも成り得るし、「氏族の弱点」にも成り得て、そこを突かれる事は充分に考えられる。

では、どうするかである。人が考える事は同じである。難しい判断では無い。
「自然の流れ」の中で起こる事をすれば良いだけの事で有って、それは”一つにすれば良い事”である。
「円融天皇」は、格式、家柄、官位、官職、等の「氏家制度」の中で「生きて行くための条件」は同じにした。
そうすると、後は、(1)と(2)の「血縁融合」のみである。

その目的を果たしたのは、先ずは、「五家五流の地」で興った。
然し、その結果は、「近江と美濃」は、「青木氏の氏是の禁令」を破って、「源平合戦」に参加して近江で敗れ、美濃で敗れ、終局は「富士川の合戦」で「源氏」と共に滅亡した。
この時に、「近江と美濃」の「融合氏族」も滅亡した。
「氏是の禁令」を破る事さえしなければ存続は保障されていた筈である。

「伊勢」は、伊勢には、2の「円融期の秀郷流青木氏」が、発祥の初期の段階から定住していた事から「四日市」地域にて「融合族」は定住して子孫を拡げた。
そして、江戸期には「歴史的働き」をするに至る。

「信濃」は、元より2の「円融期の秀郷流青木氏」は定住していなかった。

しかし、秀郷一門は「足利氏の本家争い事件」などに関与して「主導権」を握ろうとしていて、初期より護衛団として「秀郷流青木氏」をここに派遣していた。
この駐屯していた2の「円融期の秀郷流青木氏」との間に「融合氏族」を発祥させた。
この「融合氏族」は、定住していない為に、その末裔は「信濃、三河、美濃の国境」に退いて「融合子孫」を拡大させている。

「甲斐」は、秀郷一門が定住していない。従って2の「円融期の秀郷流青木氏」も定住はしていない。
しかし、一門の本領の武蔵、上野との国境を広く持つ事から、武蔵と上野の国境に「融合氏族」は発祥させた。
ところが、この甲斐も室町末期の武田氏との戦いで敗退し、衰退した。
そして、結局、「甲斐青木氏」と共に「徳川氏の支配下」に入り、「武蔵鉢形」に移植させられて後に、武蔵下野の国境に定住した。
この国境には、2の「円融期の秀郷流青木氏」は、元よりの領国と、武田氏滅亡により逃避して来た「諏訪族青木氏」も定住したこともあって、この「三者の融合族」がこの地域に発祥した。
現在では「自然融合」が進み、判別が困難な状況と成っている。

「近江」には、僅かに生き延びた「抹消子孫」が戻り何とか「摂津域」に定住した。
1の「天智期の伊勢青木氏」が、摂津に大店を構えていた事もあって、この抹消子孫は保護され、ここに「融合族」も存在して居る。
しかし、現在では判別はつかない。

又、「美濃」には、生き残りと観られる「伊川津七党」と云う「郷士集団」があるが、ここに「美濃の伊川津青木氏」の「融合族」が存在する。
恐らくは、三河尾張の「州浜族」か「片喰族」の2の「円融期の秀郷流青木氏」との「融合族」と観られる。

ただ、「甲斐と近江と美濃の三融合族」は、室町期中期以降の戦乱の結果と成る。
この「三つの地域の融合族」は「恣意的融合」か「自然融合」かは判らない。
時期的には室町期末期から江戸期に掛けての事であるので、社会体制から、特別な「子孫安寧の融合目的」では無い。
互いに同族で理解し合え、「習慣仕来り掟」等の事が同じであると云う意味合いからの「多少の恣意的性」が合った事は認められる。
従って、室町中期までの「本来の目論見策」の結果に依る「融合血縁」では無い。

ところが、”1の「天智期の伊豆青木氏」”には、1の「皇族賜姓族」の「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」が、「清和源氏四家摂津源頼光」から「源三位源頼政」まで「源氏の領国」であった。
この事から、ここに「青木氏大護衛団」として赴任していた。
この当然の結果として、この「伊勢−信濃青木氏の融合族」が同族で先ずは発祥し、更に、隣の相模には大きく2の「円融期「秀郷流青木氏」が定住して居た事から、伊豆相模国境には2の「円融期の秀郷流青木氏」との「総合融合血縁族」が平安期から極めて大きく発祥した。
従って、現在には「青木氏分布」としての「最大地域」に至っている。
その証拠に村全体が洩れなく「総紋の笹竜胆紋」である。

(注釈 1の「天智期の青木氏」は、「四家制度」に依って本家分家は無い事から奈良期から「象徴紋」であって家紋は無い。
これは前段で論じた様に「四家制度」に依って起こる。
当然にこの地域の「融合族」も2の「円融期の秀郷流青木氏」の「下り藤紋」の「総紋」をも合わせて持つ。
但し、2の「円融期の秀郷流青木氏」が持つ家紋は、「融合族」と成った時点で消える。
従って、「融合青木氏」は、何れの「総紋」も「総紋」とする事に成り、「使い分けの仕来り」が生まれる。
「ルーツ掲示板お便り」にこの「お便り」があったが、今でもこの使い分けは続いている模様である。)


この1と2の「青木氏」のみに関わる「究極の融合策」は、「平安期の本来」の「最高の目論見策の結果」であった。
そして、江戸期までその「目論見策」は大きく続いた。
関西で興った「伊勢信濃の融合青木氏」も、然ること乍ら、この関東の伊豆相模域で興った「総合融合青木氏」がある。

「中部以西」では、「伊勢−信濃域」の伊勢の「秀郷一門の定住地」の「四日市−松阪」に存在した。
「中部以東」では、「秀郷一門の定住地」でもある「伊豆−相模」に存在した。

以上の古来からの2の「円融期の秀郷流青木氏の定住地」の二地域に興った事に成る。

むしろ、「青木氏」に執っては、関西に拠点を大きく置く(1)の「天智期の青木氏」だけでの「一極集中型」に依らず、(1)と(2)の「二極分散型」で、”「総合融合族青木氏」”が関東に存在した事に成る。

これは「恣意的」であるのか、「自然の成り行き」なのは別として、この方が却って「江戸期までの目論見策」は、確実に伸ばし得たと観られる。
これは「恣意的な行為」であったかは、残念ながら資料が見つからないので確定し判別し得ないが、「自然の成り行き」も考えられるが、この「二地域」には、”「伊勢と信濃」”が何れにも関わっている事から「恣意的な差配」の方が強かったと観られる。

「1の天智期の伊勢青木氏」の「商業記録」には、この「中部以東の青木氏」とのやり取りが遺されている。
この事から完全な証明とは成らないが、「恣意的な融合」のその結果であると観られる。

何れも、この「二つの地域の拠点化した融合族」は、歴史的には江戸幕府に対して「青木氏」に執って「大きな役割」を果たしたのである。
(この事は前段でも各所で論じている。)
「関西での四日市]の「立葵紋の融合族青木氏」は、室町期末期1605年前後頃に「徳川氏との橋渡し」をした。
この時、「伊豆−相模の笹竜胆紋の融合族青木氏」は、「徳川幕府の主要官僚族の御家人」と成って、一族全てが「丸抱えの策」(御家人)で江戸幕府を支え動かした。

この「歴史的な事象」から鑑みても、「自然の融合」とは考え難い。
何はともあれ、この拠点と成った「二つの融合地域」には、何れも”「伊勢−信濃」”が関わっている。
この事からも”「自然の融合」”とは言い難い。

前段でも論じたが、室町期末期前後の「家康との話し合い」には、この「二つの融合拠点」が互いに連絡を取り合って、話し合いに臨んだ事が関東の個人の所有書面が遺っている。
この事から、この「融合策」は、「円融天皇の目論見策」を有効的に活かす為に採った、「青木氏生き残り策」の為の「恣意的な結果」と観ている。

この「円融天皇の目論見策」は、「伊勢信濃青木氏の献策」で、「秀郷流青木氏」が発祥したのであるから、両者に執っては、自然放置する事無くより確実にするための方策を講じる事は必然であったであろう。

上記した様に、人の採るべき本能的行為であり、「青木氏」を一つにする動きそもものは、「自然な行為」である。
唯、「一極集中型」にするか、「二極型」にするかは、本能では無く、判断の分かれるところであった筈である。

其れには、例え「融合」で有っても、「一極型」か「二極型」にしても、「極点」は一つにしておかねば繋がりは無く成る。
それが、1の「天智期の伊勢信濃青木氏」が「極点の元」にして、この「融合」が成されている事にあって、これには意味を持っていると観られる。

「極点は1の「天智期の伊勢信濃青木氏」と云う事は、都合よく図って遣ろうとしてもやれるものでは無い。
歴史的に、「両極」にその「子孫力」と云える「勢力」を「(1)の天智期の青木氏」が保持していた事が重要である。
そこに、(2)の「円融期の青木氏」が生まれたとすると、この「目論見策の主導」は、「献策者」でもある事も含めて、(1)側にあった事に成る。

とすると、この検証の論調からすると、この”「融合時期が問題」”に成る。

次ぎの融合の時期が考えられる。
イ 平安期の(2)の「発祥期」の「直前期」なのか。
ロ 鎌倉期の(2)の「子孫力」の「拡大期」なのか。
ハ 室町期の(1)と(2)の「成熟期」なのか。
ニ 江戸期の(1)と(2)の「安定期」なのか。

そうすると、「円融天皇の目論見策」をより効果的に働かせると云う前提では、「ハとニ」は意味を成さない。
そうすると、「イとロ」と成るが、果たして、「室町期の戦乱期」の入る前でなくては「目論見策の効果」は低減する。

唯、ロの「子孫力の拡大」が無ければ、成し得る事が出来るかの疑問もある。
(1)は兎も角として、(2)の「子孫力」は、概して「980年」を境にして増えて行くことに成る。

平安末期は1185年とすると、凡そ、「200年間」ある。
この間に(2)の「子孫力」は、”どの程度増やしたか”の問題に移る事に成る。

当時は,「人生50年」として、子孫を15歳−20歳で「世継ぎ」したとして、200年は、「10倍の枝葉」で「最低2の倍数」で拡大する事を前提とする。
そうすると、最低で「子孫力」は「1000人」と成る。
当時の婚姻制度は、「四妻制」であるので、最低である事は無く,最高でこの4倍と成る。
つまり、「4000人の子孫力]を作り上げている事に成る。
これを各地に配置するとすれば、充分に成し得る。

当時の「平安末期の戦いの記録」で観てみると、「秀郷一門の動員力」で観ると、「戦力」を「一族からの人集め」をしたとして、「最小1000人 最大5000人が限度」と成っている。
現実に「将門の乱」では、この5000人であった。
この事から、妥当と観て、「子孫力」から「融合族」を発祥させ得る事が出来得る。
現実に「秀郷一門」と「秀郷流青木氏」は、平安末期には「24地域」に赴任して「現地末孫」までを遺し得ている。
「現地末孫」までを加えると、「四妻制」以上と成るので、「4000人の子孫力」は充分にあった事を示す。

依って、答えは、”「イの時期」の「少し後」”と成る。

「源頼光」が「伊豆の領国」に1の「天智期の伊勢信濃青木氏」を配置した。
そして、平安末期の「四代目の源頼政」が1180年頃にこの護衛軍を動かした。
既に、この時には、伊豆には「青木村」が幾つも存在して居た。
領国であった「伊豆の国」は、「5郡制」であった事から、この全域に「五郡の指揮統制」を採る為に「村」を置いていた。
当時、この伊豆は「本領村」であったので、最大500人とすると、仮に1郡5村とすると、この内、200人を青木氏で、後は家人と村人として計算すると、5000人の「青木氏の子孫力」はあった事に成る。
この「伊豆の子孫力」と「相模の子孫力」のバランスは取れる。
充分な「融合族を興し得る土壌」があった事に成る。

依って、平安末期前に、1の「天智期の伊勢信濃青木氏」が主導して、既に「二極に融合族」を発祥させていた事が判る。


さて、領国から離れた「越後」には、2の「円融期の郷流青木氏」を頼って、1の「天智期の信濃の諏訪族青木氏」と1の「天智期の甲斐の諏訪族系青木氏」が逃避して「融合族」を形成した。
ここは「二つの相互の関係」に依る「自然の成り行きの融合」である。
先ず、「逃避保護と云う立場」から、両者に執っては「融合族」を必然的に興さなければ生きて行くことは不可能であった筈である。
その「融合族の分布」がその事を物語っている。
これらを判別する最も良い手段の「家紋分析」から観ると、2の「円融期の秀郷流青木氏」が定住する方向に沿って、「旧北陸山道沿い(商道)」に各一定間隔で「融合族」が均等に分布している。
この「越後」の2の「円融期の秀郷流青木氏」は、その地理的要素と近隣に進藤氏等の一門が分布する処から安定した「子孫力」を勝ち得ていた。
この地域の「経済的な勢力」もあって、2の「円融期の秀郷流青木氏一門の勢力」は、武蔵−相模−讃岐に継ぐ勢力を持っていた。
その事も有って、逃亡を受け入れたのである。
従って、多くの一族郎党を受け入れて貰って生活の庇護を受けているとすれば、”「族は族」”として突っ張ると云う事は許されない。
最も好い方法は、男系女系の如何を問わず血縁をする事と成ろう。
労働や戦い等の労力や戦力の応援等はあるにしても、血縁する事が「確実な絆」を醸成する。
従って、この地域は、「生きて行くための必然の融合」であった。

但し、ここで、別格とした事が在る。
そもそも、「越前」には、「皇族賜姓族の逃避地」として、朝廷が認めた奈良期から活躍した地域であった。
ここには、奈良期より「五家五流青木氏」と、平安末期の近江滋賀に定住した秀郷一門と共に、「秀郷流青木氏」も定住した。
しかし、ここは「何れの青木氏」の「歴史的な混在地域」であった。
依って、この「混在の青木融合族」がここにも発祥している。
然し、ここは「本来の目論見策」とは、別に起こった(1)と(2)の奈良期からの「全ての青木氏融合族」の発祥が興った地域であった。
「青木氏」に執っては、「地域的な目的」からの融合結果である。

これには、特徴的には”「祖先神の神明社」”が大きく関わっていた。
恐らくは、その様に、この「地域の目的」から「青木氏の神明社住職」が、全てを「商人」にして「融合」を恣意的に取り計らったと観られる。
後に、この事からこの「混在の青木融合族」は「越前商人」と呼ばれた。
この「神明社」を全総括していた「伊勢青木氏」は、「逃避地」と云う「苦しい状況」の中で、武力的庇護も無い中で、「互いに助け合う血縁族」としたと観られる。
ただ、全くの無防備と云う事には成らず、500社にも上る「神明社」を通じて「神明社シンジケート」が彼等を庇護していた。
「商い」も、この「神明社シンジケート」を通じて行っていた模様で、「神明社の記録」の中に、「彼らの商い」の為に社を定宿として宿泊をしていた事が読み取れる。
筆者は、「定宿」そのものだけでは無く、「商い」そのものに[神明社の社務」は関わっていたと観ている。
取り分け、この「越前の神明社」は、最も「全国分布の比率」の高い地域であった。
(1)の皇族賜姓族の「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」の「二足の草鞋策」で、安定した「経済的支援」を背景に、網の目の様に配置された「多い神明社」は「社務」として安心して総合的な庇護に関われたと観られる。
端的に云うと、「青木氏」の”「村役場的寄合場所」”として活躍していたのである。

この様に、「青木氏」と云うよりは、「武士」から「商い」に変えて細く長く変えて生きて行かねばならない。
その為の”「人本来の融合」を求めた地域”でもあったと観られる。

上記する各地域での違う形の融合を成し遂げた氏家制度の中で、「商い人」と云う形でこの”「特色ある伝統」”の中で生き延びた「融合族の越前青木氏」である。


「因幡と土佐」の融合は、他の地域と比べ、又、共に違っていた。
共に、「因幡」は「信濃の足利氏」と「秀郷一門宗家」の「主導権争い」で逃亡した花房氏系の足利氏本家に一部同行した青木氏である。
この「信濃足利氏系青木氏」が米子と八頭に定住した地域である。
これに西域の宍道湖地域で、「秀郷流讃岐青木氏との血縁族」が発祥した地域である。
この「因幡の地域」には、ある「特異性」が有った。
それは、東西域に分けられていた。越前と違う生き方をした事が判る。

「西域」は、「商人域」、東域は「武士域」として「棲み分け]をしていた地域である。

これは、この「商人地域の商人」は、「二足の草鞋策」を採る武士で、「西域は商い地」、「東域は居住地」として「棲み分け」をしていた事から起こっている。
これには、「足利氏系青木氏」と「瀬戸内の讃岐秀郷流青木氏」との関係から生まれた模様である。
「讃岐秀郷流青木氏」は宍道湖より西域に進出した。
この因幡の足利系青木氏は宍道湖より東域に進出した。
この事から、互いに争いを避ける事を前提に、境界と成る因幡西域(宍道湖東域)はに線引きをした。
この東よりを「商人域」として定めた事から来ていると観られている。
つまり、「因幡」の「足利氏系青木氏」の古来からの「名誉ある武士」としての家柄を頑なに護った事から考え出されたものと観られている。
通常、多くは、商人化して仕舞うが、ここは所謂、”「米子商人」”として「厳格な商人」で有名である。
その「武士としての心」は捨てなかった事から来ている。

「土佐」は、「甲斐武田氏の滅亡」により、「甲斐青木氏」の末裔の「武田氏系青木氏」が「讃岐秀郷流青木氏」を頼って定住した地域である。
ここには「讃岐秀郷流青木氏」との「融合血縁族]が先ずは発祥している。
これらは、「生きる為の結果としての融合族」であり、「本来の目論見策」からのものでは無かった。
ただ、この「二つの地域」は、「青木氏」として、結果として融合する事で生き延びられた所以でもある。
ルーツ掲示板にも多くお便りが寄せられているが、恐らくは、この「融合」が無ければ生き延びられてはいないであろう。
戦国時代はそれほどに甘い時代ではなかった。
個々の伊予、讃岐、土佐、阿波の四地域には、「秀郷流青木氏116氏」にも成る中で、「秀郷流青木氏だけ」とこの[融合族」も含めると7氏に上る。
「目論見策の効果」は別として、「生き延びる」と云う基本の処は成し得ていた事に成ろう。
確かに、武田氏系青木氏と讃岐秀郷流青木氏との融合族が土佐では発祥したが、「秀郷流青木氏」でも「流れの異なる青木氏」が在った。

(1) 讃岐藤氏系の京公家族と讃岐秀郷流青木氏との「同族融合青木氏」
(2) 土佐に定着した花菱紋の「武田氏系青木氏」との「秀郷流融合族青木氏」
(3) 紀州から逃避し伊予土佐に分布した州浜紋の「近江脩行系青木氏」
(4) 阿波に赴任分布した下り藤紋の「利仁流青木氏」
(5) 讃岐に一期間(50年程度)定住した関東屋形系の「結城氏系秀郷流青木氏」
(6) 讃岐に一期間(50年程度)定住した関東屋形系の「宇都宮氏系秀郷流青木氏」
(7) 阿波南域に分布した「片喰紋の秀郷流青木氏」
(8) 阿波北域に小分布した「摂津近江青木氏融合族」
(9) 伊予に一期間定住し小分布した現地末孫の「豊臣氏族系青木氏」
(10) 伊予に一期間定住し小分布した現地末孫の「丹治氏系青木氏」

四国には、「讃岐秀郷流青木氏」をベースに、以上の青木氏が一時期を含めて定住した。
ここに、基本的には、「藤原氏」、又は、「秀郷流青木氏」との「同族青木氏融合族」が発祥している。
この「発祥の仕方」が特に「地域性」が強く、”どの青木氏と血縁”と云う事では無く、「棲み分けの境界での小融合」である。
従って、「家紋分析」でもなかなか判別が付かない。
全て「讃岐秀郷流青木氏の庇護」の下に生き延び、その結果の地理的な融合である。
唯、(4)は基本的には「本領」や「先祖の定住地」や「新たな赴任地」に戻ると云う現象を起こしていて、この「融合族」は、何らかの形で遺された土地の者の[現地の末孫」との血縁である。
あらゆる「融合の形の坩堝」と云える。

結局、土佐には(2)と(3)と「讃岐秀郷流青木の融合族」が観られる。
(4)と(7)は、現地末孫を遺す事は「一門の掟」ではあるが「現地定住」を原則とせず、「一門の掟」として交代制の「本領に帰省する形」を採っていた。
(5)からは勢力関係(移封と滅亡)から消滅した地域である。
(8)は「商業関係」と「摂津水運」による「支店の定住地」である。


これ等は「青木氏」に執っては、”「賜姓族」「臣下族」「朝臣族」「氏族」”であると云う事からの結果である。
そもそも、”「融合」”と云うキーワードは、他氏には決して生まれるものでは無く、無いものである。
つまり、”「青木氏の伝統」”の一つとして扱われるものであろう。
これは決して見逃してはならない事で、「円融天皇の青木氏目論見策」の「歴史的な所以」が誘引して興った事である。
決して、歴史的に見ても無関係では無く、故に、「青木氏」は生き延びられたと云える。

この様に、正しく言えているかは別として、「円融天皇の一発逆転の政策」で起こった事件は、当時の「氏家制度」の社会の中では、「融合」と云う事は、”「究極の象徴的な青木氏」”なのである。

そもそも、「天皇が行う政治」とは、一義的には ”「事の流れ」”を創り出す事にある。
「事の流れ」とは、「事象」の一つ一つを敢えて解決するものでは無く、この「事象」が起こす「事柄の結果」を、「目的の方向」に導く事にある。
”「目的」そのものを解決する事」”ではなく、”「解決出来得る方向性を決める事」にある。
「事象」の一つが良くても「事柄の結果」が良くないと云う事は、この「世の条理」である。
この世に、「善き流れ」を作り出すと云う事は、なかなか難しい事である。

だとすると、「円融天皇の目論見策」は、各の如しで、当に、江戸期にまでも、その「目論見の影響」を「好ましい方向」に及ぼした。
「青木氏」に執ってみれば、”「円融天皇」が優秀であった”とするは、この点にある。


ここで再び、検証を続ける。
「五家五流の賜姓青木氏」と「同位の叙位任官」を与え、「青木氏と同じ役目と立場」を与えて、「特別賜姓青木氏」を実施する事に成功したのである。
これは、「天智天皇と嵯峨天皇の意」を汲んだ「円融天皇」の「臨機応変、適時適切」の処置であった。
「秀郷」にしてみれば、母方で繋がる「青木氏」である事から、これを断る事は出来ない環境下でもあった。
然し、究極は「秀郷」にとってみれば,「貴族の立場」を獲得するのみならず、「青木氏と同格」の官位官職の「最高の格式]のある貴族に永代で成り得るのである。
且つ、「名誉ある役目」を与えられる事に成る訳である事から、「付加された役目」に対しては異論は無かった筈である。
この事で、結局は、「藤原氏の北家筋」の中でも、むしろ「摂関家」を遥かに凌ぐ「格式と勢力」を勝ち得て行くことに成った。
この事で領国も[武蔵」のみならず「下野」も「上野」も[下総]も[上総」も「陸奥」も獲得する事に成った。

この「円融天皇の目論見策」は、この「武力と権力と格式」を持たせた「秀郷」を利用する事で「摂関家の権勢」を牽制させる事が出来た。
且つ、「賜姓五役の国策」を実行する「国策氏」を拡大させて政治を安定させられる事が出来た。
そして、奈良期の蘇我氏の様にこれに勝る勢力を永代に排除できる事になった。

其れが「将門の乱」を利用して、「一局好転(一発逆転)策」で「当面の最大の政治課題」、のみならず、「先々の政治問題」もを解決して仕舞ったのである。

歴史的には、この時の「円融天皇」の採った「政治的戦略」は、余りこの時の事が評価されていない。
残念ながら、「歴史上の事」としては、しっかりと研究しないと出て来ない事に成っている。
それは、その「判断力」を評価される事よりは、”若い”と云う事や周囲の”「外戚の勢力争い」”が余りにも大きく多かった事が原因している。
故に、その事から、「低い評価」を受けたと観られる。
その為に、更には、結果として「天皇家の権威」は低下した事もあった事から、更に低く評価され、観る処を観られず仕舞に成った経緯であろう。
又、現在でも歴史家の間では、理解され得なかったのである。

(注釈 「青木氏」を研究した「歴史研究家、歴史小説家、歴史脚本家、歴史評論家」の筆者が知る範囲の8人は評価している。)

然し、「青木氏」が調べて観ると、「円融天皇本人の責任」では無く、その前の「冷泉天皇の政治」が、取り分け、「皇位継承の問題」で「藤原氏の外戚の勢力争い」が起こって居た事に依るものである事がよく判る。
因みに、その証拠として、在任期間15年の間に、その「外戚の入れ替え」は、何と40回に上り、その「外戚の人員」は何と41人にも上るのである。
この数字は、急に起こったものでは無く、前からの煩い「外戚の勢力争い」が持ち込まれた事に依る。
これでは真面な「継続性のある政治」等は出来ない。
この様な「人の入れ替え」と「外戚の人員」では、”共通ある政治”は保てない事は直ぐに判る。

現実に、結局は、この「政治腐敗の状況」から,意味の無い「荘園制から来る弊害」を生み出す原因を作り出した”「源氏の賜姓」”を終わらせ、「藤原氏の外戚力」を排除し始めた「花山天皇の政治結果」と成った。
その後の「三条天皇」からは徐々に「藤原氏摂関家の政治」は少なく成り変化して行った。
遂には、四代目後の「後三条天皇」からは、藤原摂関家を外戚に持つ天皇では無く成るのである。
遂に、「藤原氏の外戚争い」は「政治の場」では終わり、ここから、「天皇の身の安全」も侭ならない程に「藤原氏の強烈な抵抗」を受けた。
然し、「荘園制の禁令」を発する事が出来て、「政治腐敗」や「社会腐敗」の原因と成っていた「荘園制の弊害」も取り除く事ができたのである。

この時に、「天皇の身」と宮廷を直接に護ったのが、「賜姓五役」から「二つの青木氏」であって、これが”「北面武士」”と呼ばれた所以である。
それが、「左衛門上佐」、「右衛門上佐」の最高の位階を以って呼ばれた所以なのである。
(後に、室町期中期から一般化した「左衛門・・」、「右衛門・・」の「呼称の所以」なのである。)

この事は、明らかに「円融天皇」に「一発逆転の献策」を奏上した事を証明するものであって、これは、この「円融天皇」の「一発逆転の策」が働いて起こった結果である。
当に、これが「政治の所以たる所以」なのである。
「円融天皇」の「在位期間」の[権威衰退の原因」と成ったこの事をこれを取り除けば、”「適格に状況を正しく判断して答を出す素晴らしい能力」”を持っていた事が認められる。
「青木氏の献策」の必要性を適格に判断して、「身の危険」も顧みずに、「煩い外戚」の多い中で実行に移した事に依るものである。

そもそも、「摂関家外戚」はこの「青木氏の献策」を実行されれば、「摂関家の存続」は明らかに危惧される。
その結果、恐らくは激しい武力で抵抗した筈である。現実にはあった。
当然に、「青木氏」にも攻撃はあった事が容易に理解できる。
この証拠と成る資料と記録がないかを調べたが、確実な表現でのものは見つからない。
むしろ遺さないだろう。但し、「青木氏の菩提寺」には「小災禍の記録」がある。
恐らくは、「直接的な攻撃」は、「摂関家」も出来ずにいて、明らかに「伊勢松阪の青木氏」に対しては、「不倫の権」で護られていた事が判る。
況してや、「隠密裏に献策されていた事」に依る事からも、「表だっての攻撃」は採り得なかった筈である。
「表だっての攻撃」は、「青木氏のシンジケートの逆襲」を受ける事にも成り、むしろ危険であった筈であり躊躇した事が判る。
然し、あくまでも、「臣下族]である。「賜姓族」として表だって[武力」を使う事は「青木氏の氏是」で出来ないが、「五家五流の地域」の「天領地警護」以外にも、「宮廷警護」「伊勢警護」「伊豆警護」としての大軍事力を持っている。
それに、「500社もの神明社」を通じての「大伊勢信濃シンジケート」を影で持っている。
それを裏打ちする「二足の草鞋策の経済力」を持っている。
これを知っていれば、誰も手出しは出来なかった筈である。
この段階で「手出しする愚者」は現実にいないであろう。
其処に、「不入不倫の大権」で護られているともなれば、黙るしか無い筈である。
況して、そこに「円融天皇の目論見策の「(2)の円融期の青木氏」の発祥である。

(注釈 故に、青木氏はこの背景を敢えて誇示しなかった処に生き延びられた所以がある。
「青木氏の氏是」と成っている、”必要以上に「誇示」しなくても周囲は黙るだけでそれで良い。”
敢えて「恐怖」を与える事には意味が無い。” ”知略を使え”である。故に「円融天皇の目論見策」である。
「源氏」は、悉くにこの「概念の事」を間違えたから亡びたのである。 「花山天皇の意」である。
要するに、「嵯峨期の詔勅の意」の解釈を違えたのである。)

恐らくは、この程度の「事件性」しか無かったのではないかと考えられる。
恐らくは、何処にでも何時でもある「嫌がらせの範囲」に終わった筈である。

これが、「青木氏の氏是」の影響もあるが、「歴史性」に上って来ない事の理由にも成る。
何故ならば、「多くの外戚」が居ると云う事は、各外戚が、「政治勢力」や発言力」を高めようとして、色々な圧力を掛けて来た筈である。
しかし、「青木氏」は「政治の場」には、奈良期からの「賜姓族の氏是」(「臣下族」は政治には口は出せない掟)に依って「直接政界に出ない氏族」でもあったからである。
本来なら「皇親族」であり、「朝臣族]であり、「国策氏」である事から、”政治に発言力は持つ”と理解される。
然し、ここに”「臣下族」”と云う縛りがあったのである。

この「臣下族」とは、そもそも,「皇位の者」が「天皇の族の者」では無く成り、「臣」に成ったものなのである。
だから、「天皇が行う政治」の下の事を行う「臣族」であって、故に「朝臣族」と呼称される所以である。
その「朝臣族」とは、「皇位継承族の真人族」の次ぎに準じ位置する立場の者である。
故に、決して完全に「政治の場」から完全に排除された立場では無かった。
要するに”準ずる者”である。

(注釈 重複して論じているが、「聖武天皇」の後の「孝謙天皇期」では、女系天皇が続き「男系皇位継承者」は無かった。この時、この”準ずる者の仕来り”の考えが適用された。
「伊勢の施基皇子」の「子の白壁王」(光仁天皇)が継承し、その「孫の山部王」(桓武天皇)−「曾孫の嵯峨天皇」と続いた謂れの「準ずる者」である。)

「朝臣族」を獲得し「征夷大将軍」に成り得れば、「政治の場」、或は、「政治権力」は用いる事が出来る事に成るのはここから来ている。
これが鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府の所以でもある。
「朝臣族」でも、「藤原氏」(摂関家)の様に「実質武力 (軍)」を持たない族もあり、更に「臣下族」となって「武力の持つ族」もある事にも成る。

「青木氏」は、次ぎの立場を得ていた。
(い)「皇親族」
(ろ)「朝臣族」

(は)「皇族賜姓族」
(に)「国策族」

(ほ)「臣下族」

(い)(ろ)の前者二つは「政治に準ずる立場」
(は)(に)の後者二つは「政治を補佐する立場」
(ほ)の「政治を護る立場」

以上、「三つの発祥源」と「賜姓五役」の内訳は、「五族」と「三立場」を保有している事に成る。

つまり、国家の政治体制の「四権の内」、「斎蔵権」を持ち得ない事から、(い)の「皇親族」と云えど「政治」を直接実行できない。
しかし、「他の三権を持つ族」である事に成る。
従って、「斎蔵権」を持つ「摂関家」からしてみれば、、「五族」と「三立場」であるので、時には自分の上にくる事もあり得る「煩い相手」と観えていた筈である。
「政治」に対して、陰影で、口を出しても誰も文句は言えない事に成るし、むしろ,陰影で積極的に口を出す義務のある立場でもあった。
それに上乗せて、「臣下族」として武力を持って好い事にも成っている。
これほど「煩くて厄介な氏族」は無いだろう。

唯、、「五族」と「三立場」の大権を、”どう云う使い方をするか”に関わる事に成る。
積極的に使うのか、消極的に使うのか、これが、大権であるが故に,「青木氏の氏是」でこの使い方を規制したのである。

逆に云えば、「天智天皇」は、「斎蔵権の藤原氏」を牽制する目的で、この任務を青木氏にして背負わしたと観られる。
「藤原氏の摂関家」が、政治で具申する事の善悪や正当性を見極める為に、「別ルートの情報」を獲得しようとしての思惑であった事に成る。

この為にも、この「要と成る氏族」を護る為にも、「賜姓族」を理由に最高の「権威と格式と官位と官職」を、時には「軍事力]も与えたのである。
それだけでは無かった。暗黙の内で禁じ手の「経済力」も与えた事に成る。
「周囲の氏族」から観れば、「半政治力、経済力、軍事力」の「基本的三権」を保有する「煩い氏族」である。
これに「(2)の円融期の青木氏」が加わったのである。
そして、「融合」したのである。
其れも「藤原氏北家族」である。

これで、無手勝流的に「最大の抵抗勢力の摂関家」も抑え込めて、「献策]は充分に出来る背景はあった事に成る。

(然し、「氏」を誇張する様な、「威圧的で積極的な使い方」はしなかった。かと言って、消極的であったかは疑問であって、「二足の草鞋策」に観る様に、「考え方」に依ってはこれほどの積極策は無い。
要は、「氏是」に基づく「家訓」にもある様に「知略」にあった。”挟みと刀は使い方如何”である。)

従って、「円融天皇の目論見策の結果]は、これは、「二つの青木氏」から観れば、「大きな論評」に値する「歴史的な転換期」であった筈である。

そもそも、この「円融天皇」は、10歳で即位(969年)し、譲位(984年)までの在任期間15年の間に、何と凡そ「40件の政変劇」が起こっている。
つまり、「藤原摂関家の中での勢力争い」が起こっていたのであり、歴代では政変劇は最多である。
この為に、「天皇家」は衰退していて、「外戚の争い」であった為に政治的には「権威失墜の状況下」にあった。

その結果から、「将門の乱」や「純友の乱」や「経基王の讒言」や「大蔵氏の九州独立騒ぎ」等乱れに乱れていた。

この時、本論序盤に論じた様に、「青木氏」は、925年頃から「和紙に依る二足の和草鞋策」が軌道に載った。
そして、遂には「最上格の格式」に加えて「巨万の富」と「影の抑止力」を獲得していた。
そして、1025年には「総合商社」を構えるまでに成っていた。
「氏族」では、「総合商社」として「宋貿易」まで発展させたのは「平氏」と「青木氏」だけである。
「桓武平氏」は1133年に貿易を本格化させていて、1158年には清盛は「博多」と「摂津」に港を整備し「宋貿易」を正式に開始している。
「将門の乱」を鎮めた一人「平貞盛」は、これを契機に勢いを増し、渡来人である事を強みに、密かに博多で中国との交易を始めていた形跡(記録)があって、この頃には既に「商い」はあった。

(注釈 繁盛りの様に不満を露骨にしなかったのは、「隣人」を見習ってこの「商い」に重点を置いていた可能性がある。)

その980年代前後では、丁度、その中間期であった。
「青木氏」は他氏には観られない「商いの富」を築いていた。
それだけに「円融天皇」には陰で充分な働きかけが出来た事は間違いない。
むしろ、それは「賜姓族の役目」であって、「表立っての事」は、”「青木氏の氏是の禁令」”でもあり、無かったと観られる。
然し、「賜姓五役」としての「国策氏」としての役柄から、裏から「藤原氏の外戚の勢力争い」を横目に見乍ら、「円融天皇」に”「献策」”を講じて居た事は間違いは無い。

そこで、そもそも筆者は、大化期か嵯峨期かに匹敵する「歴史的転換期」であり乍ら、”これだけの事が評価されていないのは何か変である”と観ている。
ここに”何か評価され得ないもの”があって、それが理由で、この「歴史的な転換期」を敢えて抑え込んだ節が観られると読んだ。

”それが何なのか”である。
この”何なのか”は上記する「青木氏」で無ければ解明は永久にされ得ないであろう。
この事に付いて下記で論じる。

”歴史上に遺されない事”、或は、”他氏に興味が注がれない事”があった事であろう。
そう云う、”何かが、この「将門の乱」の前後に働いていた”と観られる。
それは、ほぼ同時に起こった瀬戸内で起こった「純友の乱」も「一つの環境」として関わっていたと観られる。
この時の”「環境下」”を出来る限り掘り下げれば、”何か”が一つの「青木氏に関わる出来事」が出て来る筈である。
それは、「純友の乱」で観れば、「氏名]では、それは「大蔵氏」と成るであろう。
この大氏族には、「遠の朝廷」と呼ばれ、「錦の御旗」を与えられた。
そして、遂には”「九州自治」の「独立国騒ぎ」”等が、大きく関わっていた「氏族」である。

他には、この「二つの乱」に関わっていた人物には、後に、「清和天皇の孫」でありながら「賜姓」を無理やり受けた「経基王の讒言事件」があった。

この「環境下」の中で、「賜姓五役」を必死に務める上記する「青木氏」に執っては、何か試みようとする場合は、この時期やチャンスを利用する筈である。
それは「氏是の知略」である。
この「知略」は「人時場」に長じる事が「基本の領」(六稲三略の基)とされている。
「氏是」としている以上は、この「基本」に沿った筈である。
そして、”「ある戦略」”を献策したと観られる。
この頃の「青木氏」は、「青木氏始祖」の「施基皇子の曾孫」の「嵯峨天皇」の「第二期皇親政治」に引き上げられていた。
そして、「賜姓五役」は勿論の事、「朝廷の役職」の「紙屋院」等を務めると共に、それを「商い」にした「二足の草鞋策」も軌道に乗り始めた時期でもあった。

この事から、それは、”ある目的を以って「円融天皇」に「母方の藤原氏」の引き上げを献策していた”のではないかと観ている。
そして、この「献策」が、”上記する大蔵氏や九州の事の難題も解決し得る”と奏上していたと観ている。

つまり、「大蔵氏」や「内蔵氏」や[坂上氏」や「安倍氏」等の「六割を占める帰化人の官僚族」に仕切られる「朝廷」では無く、「天皇」と云うものを「身内で擁護する勢力」を絶大に大きくする事で解決すると云う事を裏で奏上したのである。
そうしなければ、結局は大化期の「蘇我氏の二の舞」に成ると観ていたのである。
そもそも、「青木氏」はこの「大化期の政変劇」によって発祥した氏族である。
この「氏族」として「大化期の根源の基」に戻る様な事は絶対に認められなかった筈である。
同じ「渡来系の豪族」の「蘇我氏」が「大蔵氏」に執って代った事だけに過ぎない事が起こってしまう。
「賜姓五役」の務めがあるとしても,これでは堪えられないであろうことが判る。

と観れば、では、それを解決する「献策」を奏上し、献策した以上はそれを実行に移すに値するか天皇が考えた場合、”それに対抗し得る万来の信頼を於ける勢力”と成り得るのは、矢張り上記した様に、その条件が整っているのは「青木氏」しか無い事に成る。
何故ならば、それは上記の事のみならず、「1の天智期の青木氏の末裔」の「嵯峨天皇」の子孫「円融天皇」であるからだ。

(注釈 筆者は、「円融天皇」は、「上記の立場」のみならず、若干、「ルーツ的感覚]を青木氏に抱いていたのではないかと観ている。)

改めて、何度も重複させるが、そもそも、「嵯峨天皇」は、「青木氏の始祖」の「施基皇子」(白壁王・光仁天皇ー山部王・桓武天皇)の曾孫である。
「円融天皇」が最も信頼のおける身内は「青木氏」だけと云う事に成る。
この「青木氏」が、序盤で論じた様に、「紙屋院」から発展した「二足の草鞋策」で蘇り「巨万の財力」を蓄えているし、「格式」は天皇家以外にはどんなにひっくり返っても何れの他氏も「浄大一位」の家筋には絶対に及ばない。
況してや、一臣下族に「不入不倫の権」の大権を与えた事は歴史上は無い。
「朝廷の組織」の「三蔵」の内の「斎蔵」で「摂関家」の「藤原北家」をも遥かに凌ぎ、「大蔵」と「内蔵」の「二役」を受け持つ「最大の勢力」を誇り、「錦の御旗」を賜り、「遠の朝廷」と呼ばれた「大蔵氏」でさえも、この「大権」は授けられていない。

この「三蔵」は、あくまでも「政治上の範囲」の事であって、「青木氏」が持つ「総合的な格式の範囲」では無い。

そうすると、「円融天皇」が「天皇の権威」を取り戻し、一発逆転で「天皇家」を安泰に先ずするには、後は、「軍事力と政治力」の持った別に「青木氏」を作り出せばよい事に成る。
この「献策」を、政治的に権威が失墜し苦しんでいる「身内系の円融天皇」に「一発逆転の策」を疑う事無く奏上した筈である。
献策奏上しなければならなかったし、献策したいと念じていた筈である。
この「献策」が、「上記の策」であり、これを「青木氏」により近い母方の秀郷一門に負わせる事で、「賜姓族の立場上」では、「格式と財力」による「影の抑止力」しか使えない「1の天智期の青木氏」が永代に持ち得ない「政治力」と、「より絶大な武力」を大見栄きって獲得できる事に成り得る。

(注釈 使うか使わないかは又別である。要は「氏是]の云う「知略」である。何れの「反抗勢力」に対して動きの採れない様な[抑止力」に成り得れば良いだけで充分である。)

そうなると、現実に、この時期では、「献策」を密かに奏上できる「氏族」は、上記(い)から(ほ)のあらゆる面から観ても「浄大一位の青木氏」しかなかった筈である。

そもそも、それでなければ、「秀郷宗家一門」と、その「青木氏護衛団」には、「全国66地域」の内で「24の地域」(36%)に赴任させる程の事はさせなかったと観ている。
「秀郷一門」に「青木氏」を作り出し、「大蔵氏」に匹敵する勢力を「血筋の分けた朝臣族」に仕上げる事で成り立つと成れば、「大蔵氏」とほぼ同じ赴任地数を与える事で簡単に解決する事が可能である。
故に、「24地域の赴任地」に上乗せて、「子孫力」をより拡大させ得る「現地末孫の定住策」をこの「青木氏」に義務付けたのである。

この時、「大蔵氏」は、「九州全域」を基盤として「中国域以西」と「奥域の一部」の「32国の勢力」にほぼ匹敵する事に成っていた。
其の「大蔵氏の聖域」に”「楔」”を打ち込む様に、「長崎域」と「陸奥域」(青森)を秀郷一門に任す事で、「円融天皇の目論見策」は成功する筈である。
そこで、「楔」に依ってこの「大蔵氏」に騒がれては元も子もない。
そこで、「大蔵氏」が騒がない様に、「秀郷一門の讃岐藤氏」が支配していた「瀬戸内域」を与える事で、収まりが着く。(純友の乱)
そして、その上で強化させる「秀郷一門」には、関東以北を聖域とさせ、そこをこの「献策」の「秀郷流青木氏」に護らせる事で、これまた「円融天皇の目論見策」、所謂、「青木氏の献策」は成立する。

(案の定、この直ぐ後に「大蔵氏」は、九州全土を支配下にして「独立」を目論んだ動きを示した。)

現実に、「内蔵氏系」の「北陸域の内蔵氏・阿倍一族」と「安倍氏の支配地域」の「広域陸奥」は、「征夷大将軍」として秀郷一門にその役柄を与えて「秀郷流青木氏」に護らせた。
一時、「安倍氏と阿倍氏の抵抗」はあったものの結果として問題は排除したのである。
そして、この代わりに、「独立騒ぎ」も含めて、収まりを漬ける為に「一族の大蔵氏」には、九州域の「鎮西大将軍」の称号(形式的な「自治権」 「遠の朝廷」と「錦の御旗」の権威授与)を与えて収めたのである。
(兄の「坂上氏」は平安初期には「征夷大将軍」であった。)

この結果として、これらの「一連の差配」は、この「献策の結果」を証明している。

然し、「大蔵氏系側」は32域国から28域と瀬戸内域(あらぬ嫌疑を掛けられた「純友の乱」の発端)を与える事で収めたのである。

「将門の乱」「純友の乱」の結果からの”前後の通常はあり得ない急激な差配”を検証すると、この”「青木氏の献策」”が裏で働いていた事が充分に考えられる。

(「瀬戸内」を制する者は国を制すると云われた経済地域、一方、同じ経済地域の佐渡金山を秀郷一門が支配させた。)

更には、その「赴任地の国」には、必ず、「秀郷宗家一門」と「護衛団青木氏」には「現地末孫」を置く事を義務付ける事をしなかった。
この他氏に認めていない事を朝廷は認める事は無かった筈であると観られる。

その証拠には、「他氏の赴任先」には、朝廷から認められた「正式な現地末孫」は見られない。
全て、「42地域」に赴任したの他氏の場合は、家紋分析から観ても”「遺したとされる族」”は殆ど例外ない。
有るとすると全て例外なく、所謂、”「未勘氏族」”である。

依って、「秀郷一門」の「特別賜姓族の青木氏」のこの”「正式な現地末孫」”は、一体、何を意味するかである。

それは、先ずは”「領国化した事」”を意味していて、ただ「単なる土豪」では無かった事を意味する。
つまり、「特別賜姓族青木氏」としては、「土地の利権」を持つ「郷氏」と成り得た事を意味する。
普通の赴任は、「土地の利権」では無く、「土地の管理権]である。
赴任が終わればこの管理権は無く成る。

平安期から「土地の利権を持つ氏族」の”「郷氏」”は、この「二つの青木氏」を除いて「佐々木氏」や「藤原氏」以外には遺っていない。
「橘氏族系氏族」にしても、「平氏族系氏族」にしても、この”遺されたとする氏族”は、「支流傍系族」であって、武力に依って勝ち得た土地であって、「平安期の正規の利権」を持ち得ていたものでは無い。

後に、”「郷氏」”と呼ばれた多くの所謂、「室町期の姓族」には元よりこの歴史性は無い。
つまり、何れの政権下にしても「本領安堵される立場」には無かった。
更には、「円融期の青木氏」である「秀郷流青木氏」は、秀郷一門より「青木氏」として独立した「臣下族」であり、「特別賜姓族」であるとして、朝廷からその様に扱われていた。
然しながら、室町期まで秀郷一門の”「第二の宗家」”とも呼ばれていた。

([藤原秀郷流青木氏」には、この[郷氏」が多いのはこの事から来ている。)

この事は、当に、”「何らかの力」”が”「側面から働いていた事」”を示すものと考えられる。
この「何らかの力」が、”「皇族賜姓族青木氏」では無かったか”と観ているのである。


その証拠として、ここで上記した様に、この”「青木氏融合族の発祥」”が挙げられるのである。

「五家五流皇族賜姓族青木氏」と「特別賜姓族116氏の定住地」の関係した地域には、この「融合青木氏」が存在するのである。
この「二つの血縁青木氏」から発祥した「同族系」で有って、且つ、この「融合青木氏」が発祥している事は、上記の説を証明している。

何故ならば、当時の血縁は、「単なる結婚」では無く、「吊り合い」の取れた「氏家制度」の上での「氏族の存続の象徴の慣習」であったからである。
”「同族系」”と云う範囲に留まらず、「氏族」が一つに成る事の ”「究極の象徴的な出来事」” であったのである。

取り分け、その”「融合青木氏」”がはっきりと遺っているのは、伊勢の”「四日市の青木氏」”である。

そもそも、伊勢は、「五家五流賜姓族の伊勢青木氏」と、「秀郷」の「曾祖父の藤成」の赴任地でもあり、、後には、「秀郷一門宗家」の[基景の赴任地」であって、「伊勢の藤原氏」、つまり、「伊藤氏の発祥地」でもある。
室町期には、近江系の秀郷一門の「蒲生氏」(玄蕃允梵純)が「現地末孫」として定住していた母方の「秀郷流青木氏」の「伊勢青木氏跡目」を引き継いだ。

その「特別賜姓族」の「秀郷流伊勢青木氏」と「皇族賜姓族伊勢青木氏」とが血縁して発祥した「四日市融合青木氏」が現存している地域でもある。
この「伊勢四日市青木氏」には、後に「大きな歴史的役割」を「徳川氏」と結ぶが、「二つの血縁青木氏」に執っては、「融合族の発祥」は、”「究極の象徴的な青木氏」”であるのである。

この「大きな歴史的な役割」とは、「家康の徳川氏」が、この「融合青木氏」との血縁族(「立葵紋の青木氏」 「伝統シリーズ」等の研究室論文を参照)を発祥させたのは、この「象徴的青木氏」であった事に依るだろう。
そうする事で、(1)と(2)の全ての「血縁族」を血縁を結ぶ事無く、「伊勢の融合族青木氏」と血縁する事で、「青木氏の格式と権威」を獲得できる事に成るからである。

この事は、「融合族」の持つ意味は、単なる融合では無かった事を証明している。

これに依って、「五家五流青木氏」の能力は、「特別賜姓族」の強力な勢力も合わせて倍加して、「賜姓五役の役」は進んだのである。
この力を活かして、1025年には「総合商社」化して、「伊勢の秀郷流青木氏の特別賜姓族」と共に「宋貿易」にまで広げた事が書かれている。
「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」の建設が、「二つの青木氏」に依って進められ、500社に上る「神明社」を建立した。

この事で、下記にも論じる「伊勢シンジケート」も確立して、「影の力の抑止力」は絶大のものと成った。
この事に依って、「神明社と青木氏」が、「御師様、氏上様」と民から慕われ信心されて、「朝廷の権威」も高まり、「三人の天皇の意」は果たされた。
「伊勢神宮」の「子神の神明社」、つまり、「神宮支社」が各地に建立されたのである。

(注釈 「青木氏の氏是」により、「武力」に偏ることなく、民に接した事が、慕われて「生き残り」に繋がったのである。)

室町期には、「戦乱」が続く中でも、「室町文化の紙文化」が起こり、「紙問屋と殖産」と共に「250万石以上の巨万の富」を築いたと記録されている。
ここに「貿易分」が加えられれば、500万石以上はあったと観られる。
この力は民と共に「殖産」をしていた事から「土地に資力」を全て注いだと観られる。

注釈 伊勢の資力域 

松坂域、
津域
玉城域 四日市域、
名張清蓮寺城域、
脇田域 上田域、
員弁域、
桑名域、
南紀州域、
南伊勢域、
伊賀一部域、
摂津域
堺域、
難波生駒域、
伊豆域

以上の地域が、「殖産」を基にした超大地主であった事が商業記録に記されている。

江戸初期に「徳川氏」に譲渡した「全国500社の神明社」も入れるとした場合の「室町期の財力」は想像は就かないレベルであった。
遂に、室町期末期では、「嵯峨天皇の目論見策」は、成功し安定化したのである。
下記にも続けて論じるが、「徳川氏との関係」からこれより以上のものと成った。

明治初期まで、この「血縁の仕来り」は、筆者祖母が「京公家の支流叶氏」である事から、続いたことが記録に書かれている事から判る。

この「四家の状態」は、江戸期からでも285年間続いたことに成る。
これが、況や、「四家の発祥源」である。

この様に、「円融天皇の目論見策」から、「嶋崎殿の青木氏の経緯」も含めて、江戸期まで遺った「融合族の経緯」まで、途切れることなく、縁は繋がっているのである。

これは「青木氏」で無ければ、「先祖の生き様」を強く感じ取る事が出来ない経緯である。
そして、所謂、これも極めて重要な”「伝統」”なのである。


さて、ここで注釈として下記の事に付いて追記して置く。

「貞盛と秀郷の経歴」には、そもそも信頼に値するかは別として、他説が実に多い。

先ず、「貞盛]から論じると、父は「国香」 母は「藤原村雄の娘」とある。
この「村雄」は「秀郷の父」であるが、そうすると「娘」は「秀郷の姉妹」と成る。
「村雄」の年齢は不詳であるが、記録から915年の「受領闘争の事件」を起こしている。
そうすると、当時の生活の慣習から、差配に立ち入れるのは15歳以上と成るので、「村雄」の生誕は最低でも895年と成る。
そこで、この娘を産むには、920年頃 娘を嫁すには935年頃と成る。

「貞盛」の父「国香」が「将門の事件」で没したのは935年である。
この時、既に「貞盛」は京で「左馬允の役職]に就いていた。
役職は15歳以上に成らないと任官できない。
この説で云えば、この「役職」どころか「貞盛」を産む事さえも論理的に無理である事に成る。
最低でも、「約20年程度以上の矛盾差」がある。

この論調では、「秀郷」は「貞盛」の母方の叔父に成る。
「将門の乱(独立国宣言の事件)」の終焉は940年である。
とすると、「秀郷」は、この時、「貞盛」の母方の叔父に年数的には成り得ない。
然し、現実には「秀郷と貞盛」が上記の経緯でこの乱を鎮めた。
つまり、そもそも「村雄説」には無理がある事に成る。
最低でも、この「娘嫁説」か「時期説」に問題を持っている事に成る。
この時期、925年頃から「秀郷」は、数々の記録から、この乱の直前まで「盗賊」と書かれ記録される位の「秀郷乱行期」に入っている。
「秀郷」は、960年代頃にやっと落ち着いている事が記録から読み取れる。
故に、「秀郷落着期」に入った事で、「円融天皇の目論見策」が滞りなく演じられたのであろう。
この事からも「村雄説」は「搾取説」か「後付説」に成る。

この「円融天皇の目論見策」により、整える為にも、「秀郷の実家」は”「下野受領家扱い」”であった事から、慌てて、後に「年代合わせの後付説」を採ったのであろう事は間違いは無い。
「年数的」にも無理である事のみならず、「慣習的」にも「当時の仕来り」を完全無視した形であり、且つ、この様な「時期的」にもあり得ない「血縁行為」である。
「後付説」である事は否めない。
(主に「後付説」は「江戸初期頃」の「後付」が多いのである。)

そもそも、「歴史記録の検証」では、「高位の氏族」では、「家柄」をよく見せる為に、当時は半ば周囲がそうであった様に、”正当化して行われた慣習事”で、歴史的にはよく見られた行為である。
取り分け、氏家制度の中の「常識的な慣習」では、むしろ、”「悪弊」”とは必ずしも考えられてはいなかった傾向があり、その様な記録が実に多いのである。殆どと云って良い程でもある。
故に、「周囲の出来事」との間に、この様に「年数の矛盾」等が生まれるのである。
当時は、年数の多少の矛盾が在っても「是」とした事が、一種の常識とも成り得ていた。
左程の厳格性が無かったのである。

恐らくは、乱後に、次々と打ち出される「円融天皇の目論見策」の影響を受け、「嶋崎殿の青木氏」の様な血縁策に習って、後刻の落ち着いた時期に両氏は「血筋を纏める策」に出た事が考えられる。
そこに、思いも寄らず「伝統ある青木氏」が発祥すると云う事が起こった事から、「藤原氏一門」と「たいら族」の「二つの勢力」の間でも、これを何とか整える為にも、「何らかの形で血縁を結んだ事」が云える。

仮にあったとして、「円融天皇期」には、「目論見策の実行中」である事から、この期間は「天皇に対して不敬不遜の不作法な行為」と成り、あり得ない行為である。
依って、984年以後の事に成る。そうすると、両者の関係からあり得る合致点は、「貞盛と嫡子四男維衡の前半期」(998年前頃)までの事に成る。
ただ、これ以後の「貞盛−維衡」とその族は、「同族争い」と「配流」を何度も繰り返し血縁は不可能である。

(注釈 以後の末裔にも年数的、経歴的にも無い。この14年の間の前半行為であり、上記の矛盾を打消し、且つ、「受領家側の経緯の関係」と考え合わせると、その前半期984年から988年に絞られて来る。)


「たいら族」と「ひら族」の「混同説の策」も含めて、「歴史的な矛盾」が多い説(後付説:1180年代頃)が生まれる事と同様である。
この事の結果を「後付説(氏姓の隆盛期に家系を作り上げる作業を行う)」で補おうとしたのである。

(注釈 当時は、この様な「後付説」は、通常化していて、特に江戸期には武家の命に値する”「黒印状」”を獲得する為に公然と行われ、幕府もこれを黙認した。
この事を放念してこれらの資料を「是」とした説が多い為に起こる「矛盾」なのである。
返して云えば、この「後付説」を「是]として「青木氏]を論ずると,「青木氏」は存在し得ない事に成り得る。)

故に、この説の様に「年数の矛盾」等の多説が生まれる所以なのである。
本論の様に、事実に即して「青木氏」では、これを無くすべく日々研鑚し「歴史観」を高めて検証している。

> :「青木氏の伝統ー16」の「四家の背景と経緯」に続く 



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