青木氏氏 研究室
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  [No.333] Re:「青木氏の伝統 16」−「「四家の背景と経緯」 
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/07/15(Wed) 10:20:03

>「青木氏の伝統ー15」の末尾

>仮にあったとして、「円融天皇期」には、「目論見策の実行中」である事から、この期間は「天皇に対して不敬不遜の不作法な行為」と成り、あり得ない行為である。
>依って、984年以後の事に成る。そうすると、両者の関係からあり得る合致点は、「貞盛と嫡子四男維衡の前半期」(998年前頃)までの事に成る。
>ただ、これ以後の「貞盛−維衡」とその族は、「同族争い」と「配流」を何度も繰り返し血縁は不可能である。

>(注釈 以後の末裔にも年数的、経歴的にも無い。この14年の間の前半行為であり、上記の矛盾を打消し、且つ、「受領家側の経緯の関係」と考え合わせると、その前半期984年から988年に絞られて来る。)


>「たいら族」と「ひら族」の「混同説の策」も含めて、「歴史的な矛盾」が多い説(後付説:1180年代頃)が生まれる事と同様である。
>この事の結果を「後付説(氏姓の隆盛期に家系を作り上げる作業を行う)」で補おうとしたのである。

>(注釈 当時は、この様な「後付説」は、通常化していて、特に江戸期には武家の命に値する”「黒印状」”を獲得する為に公然と行われ、幕府もこれを黙認した。
>この事を放念してこれらの資料を「是」とした説が多い為に起こる「矛盾」なのである。
>返して云えば、この「後付説」を「是]として「青木氏]を論ずると,「青木氏」は存在し得ない事に成り得る。)

>故に、この説の様に「年数の矛盾」等の多説が生まれる所以なのである。
>本論の様に、事実に即して「青木氏」では、これを無くすべく日々研鑚し「歴史観」を高めて検証している。

> 「青木氏の伝統ー16」の「四家の背景と経緯」に続く 




「四家の背景と経緯」

前段で、「1の天智期の青木氏」との絡みを観乍ら、「2の円融期の青木氏」の「青木氏の発祥」の経緯を室町期末期まで論じた。
(1と2の青木氏を、以後、「二つの青木氏」又は「二つの血縁青木氏」と表現する。)

この室町期の時期は、「二つの青木氏」は「商い」のみならず、「賜姓族としての役目」、取り分け「神明社建立」も活動期でもあった。
しかし、反面では、この社会は、同時に、「下剋上」と、生存競争の激しい「戦乱」の時代でもあった。
必然的にも、この「激動期」に対応するには、上記した様に、「青木氏」の「四家制度」による「5つの面 20の顔」には「人材」が不足してくる。
しかし、かと云って、「同族による血縁性の概念」は崩す訳には行かない。
そうなれば、終局は“「婿養子」”の手立てしか「青木氏」には無く成る。
ここに所謂、前段で述べた「四家制度」の“「弱みの隙」“が生まれたのである。

「二つの青木氏」に執っては、実に悩ましい時期であった。
「二つの青木氏」では、「本所」(伊勢松阪)では、「自由な商いの商業組合」を結成して「巨万の富」を築いていた時期でもあった。
「相互の血縁」を積極的に進めるにも、そこに「隙間」なるものがが起こり、そこから「四家制度の崩壊」に関わる「菌」が蔓延して仕舞う危険があり、其れには限度があった。
その対策として採った「四日市の融合青木氏」が発祥している。
その中でも、未どうしても「四家制度」の「5つの面と20の顔」を護りながらも、何とか「子孫力」を増大し確保しなければならないジレンマに陥っていた。
「本所の伊勢秀郷流青木氏」は,「四家制度」を「伊勢の秀郷流青木氏の氏内」に採用して側面から「本所役」として支える様にした。
それにしても、「武蔵の本家」との兼ね合いもあって、「難しい立場」に置かれていた。

(注釈 「本所」(伊勢 松阪)、「本家」(武蔵 入間)は,その「賜姓五役の役務」の「分けあい」をして、平安期からこの様に呼ばれていた。)

(注釈 平安時代の同時期から開かれ始めていた「公家や寺や神社や荘園等」で開かれた市の「特権の座」も後には「本所」(ほんじょ)と呼ばれた。
「青木氏」は自ら殖産と興業を興して、この「座」には組しなかった。)

(注釈 恐らくは、「伊勢青木氏の本所(ほんどころ)」の呼称は、「秀郷一門の青木氏」が、「武蔵」にでは無く「賜姓五役の役務柄」だけを「伊勢」に「根拠地」を置いた事から呼ばれる様に成った。
室町期には、この事からこれを真似て、この「特権の座」を”「本所」”と呼ぶように成ったと観られる。)

(注釈 当初の頃は、「・・・座」と単に呼ばれていたが、後に、室町期には「職能集団の組合」も「座」と呼ばれるものを創った事から「座の数」と「座の種」が拡がった。
その為に、その事務所等を置く「根拠地」を”「本所」”と呼ばれる様に成ったと観られる。)

(注釈 ”「本所」”と呼ばせる事やその印象を持たす事に依って「他の勢力」を旧来からの「本所の持つ権威」で排除しようとした。)

(注釈 「伊勢青木氏の本所」は、「伊勢不入不倫の権」で保護されていた特権を持ち、「国の為に働く五役」を果たす名誉の地域を”「本所」”と呼ばれていた事を物語る。
各地に「本所」の地名が大変多いが、元来、この「意味合い」を持っていたが、この「本所」も「青木氏の伝統」の形である。)

(注釈 本来は、「嵯峨期詔勅」に伴う禁令の中に「青木氏の慣習仕来り掟」を真似てはならないとする禁令があり、この禁令に反する事ではあったが、「呼称方法」を変えて護られなかった事に成る。)

(注釈 「公家や寺や神社や荘園」=「青木氏」と置き、 「楽市の特権の座」=「賜姓五役の役務」と位置付けて、”「本所」”と云う呼称を使った事に成る。
つまり、「座」は、「本所の呼称」を使う以上は、「公家や寺や神社や荘園」の”「本来の役務」”であると云う事を主張していた事に成る。)

(注釈 信長の自由な経済活動を奨励する「楽市楽座の令」やそれを推し進めた「秀吉の楽市令」により、旧来の「座の禁令」は実行されたが、「下記に論じる信長が嫌った社会風土」これに対する反発であったと観られる。
所謂、「座の勢力」は、”「権威の惹けらかし」”と”「その利得を食む勢力」”と映ったのである。
況や、”「平安時代の荘園制の再来」”と見做されて「禁令」が出たのである。)


ところが、同じ「自由な商業組合」を追い求めていた「青木氏」のこの“「隙」”に上手く就き行ったのが、“「権威への挑戦」”を標榜するもの「信長」であった。
これは、そもそも、「武」には「武」を以って応じ、「智」には「知略」を以って抗らう室町期の「信長の謀略」であった。

古来より伊勢の「二つの青木氏」は、「青木氏の氏是」に依って、“「武」には応じない姿勢”を採ってはいた。
そこで、「青木氏」は「知略のある武」や「絶大な抑止力」を持ちながらも、絶対に「武」に応じない姿勢を採っていた。
この応じて来ない相手(青木氏)に対して、「信長」側には「武」で応じる事は、「戦いの大義」が立たない事から、出来ない。
然し、、そこで、恐らくは、「信長」としては、「知略」を使ったのである。

この初期の段階(1550年頃)では、「伊勢」を「武」と「知」に依って支配下に入れようとし、未だ「北畠氏側」にあると疑われていたと考えられる。

先ず、“「婿養子」“で「間接的な撹乱戦法」の「初期戦」を「伊勢域の土豪」を使って味方に引き入れて仕掛けたと観られる。
その初戦として、「南伊賀」に入り込んだ「武」を用いた「貴族武家の北畠氏」を潰す事から始めた。

(注釈 青木氏には、周囲の土豪を取り込んで、前段で論じた”「婿養子の策謀」”で仕掛けて来た。
結果は「青木氏」が直前で見抜き事無きを得た。)

(注釈 「貴族武家」と成って室町期初期から京から伊勢に浸食して来た「北畠氏」がこの謀略に載せられた。)

本来、”「武」を禁令とする「貴族・公家」”が、その格式の立場で「武家」と成った[北畠氏」でありながらも、「武を標榜した氏族の弱点」を逆に突いたと云う事であろう。
その「伸長族の領域」と成って仕舞った「聖なる伊勢域」に対して、「信長」には、「伊勢の二つの青木氏」までもを果たして「潰す気持ち」があっての戦略であったのか興味の湧くところである。

この「信長の戦略上の深意」に付いて、そこで、それにいち早く、“「青木氏側」は気が付いた”と云う事であろう。

「青木氏側」にとっては、「子孫存続」の為にも、この「隙に付きいる障害」を早期にこの芽を摘んで置くことが必要であった筈である。

筆者は、「信長」は、「武には武、知には知の基本戦略」を採っている事から、「伊勢の二つの青木氏」を「潰す事」は考えていなかったと観ている。
それは、次ぎの事で証明できる。

「本所の青木氏」には、上記した様に、「信長」は「伊賀守」を「忠元」に任官して家臣にして取り込みを図ったのである。
「武より知を用いる青木氏」であれば「信長の天下布武の戦略」に害は無い。
むしろ、「楽市楽座」を敷く「信長」であるとすると、むしろ、既に、組織的に「殖産と興業」を以って「巨万の富」を持つ「二つの青木氏」には、生きて貰わねばならない「政治戦略」があった事に成る。
それでこそ、「天下布武の戦略」が生きて来る。
つまり、「信長」にとっては、そもそも、「楽市楽座」は、「天下布武」の”「車の両輪」”の様に”「相対の位置」”にあったのである。

「信長]の考えの中には、”「天下布武」(武)>=「楽市楽座」(知)の数式論”が成り立っていたと観られる。

この「忠元」は、「青木氏の氏是」を破ってでも、「二つの青木氏」を体して、この「信長の深意」に逸早く応じたと云う事であった。
そもそも、”「臣官に就く」”は、「三つの発祥源」と「国策氏」と「賜姓五役」の「役務柄」から護らねばならない宿命の「青木氏の氏是の禁令」である。
奈良期より「伊勢の郷氏 国人 地主」で有り続ける事が「賜姓五役の遂行の根幹」であった。
然し、「忠元」は、この”「信長の臣官」”に応じた。それは「禁令」を破ってでも応じなければ成らない「子孫存続の最大の危機」であったからだ。
「忠元」には、この”「危機感」”は完全に「信長の場合」(天下布武)にはあった。
然し、忠元は、”「危機感」”と云うよりは、「天下布武」と相対の位置にあった”「楽市楽座」の方に掛けた”のではないかと観ている。
それが、「二つの青木氏」のむしろ「氏是」であるからだ。況や、「生き残れる道」であったからだ。
何故ならば、「家訓」にも成っている”「知略」”に関わる事だからである。

「戦い」に依って起こる「氏のリスク」>「臣官」に成って起こる「氏のリスク」

以上の数式論をここでは考えた事に成る。

それは「信長」の上を行く「青木氏の知略」であったと観られる。
「信長」の”「相対の知略」”に載ったと云う事である。

何故、上記の数式論の思考をここで敢えて用いたかと云う事は、”「武」と「知」の両方の思考を持つ「信長」”を見抜いていたのである。

それは、どう云う事かと云えば、そもそも、「青木氏家訓10訓」が教える様に、次ぎの様に成る。

「武」は”「敵対」”に通じ、「知」は”「共合」”に通ずる。

以上と悠久の歴史を持つ「青木氏の家訓10の意」は教えている。

「武」は「武の差」によって相互に「敵対の心」を必然的に産む。
この「敵対」は、「命の危機」に繋がり、「不幸」に結びつく。

「知」は「利の差」によって相互に「利対の心」を必然的に産む。
この「利対」は、「生活の利得」に繋がり、「幸せ」に結びつく。

依って、「人」はこの「利]を求めようとしては”共に合する事”へと集約に至る。

然し、「知」は追い求める過ぎると、「武」を使って「大利」を得ようとして「武」に帰する。

「武と地」は、況や、「善悪」に依らず、「相対の位置」にある。

所謂、「人の世」は、「知」は「武」の上に立つ。

以上の事を「青木氏の家訓」は教えている。

これは、古来からの「青木氏の密教浄土宗の教義」に基づいているのである。

(注釈 「三つの発祥源」「賜姓五役」「国策氏」に対して、”「二足の草鞋策」の「商いを営む根拠」”に成っている。)

「二つの青木氏」は、この「青木氏の密教教義」に従って思考し、「信長」を考察したと観られる。

そこで、「信長の深意、或は翻意」は、「武家社会」であることから「基本戦略」は、「天下布武」としているが、むしろ、この”「知の共合」の考え方に重きを置いている”と見抜いたのである。

(注釈 通説の「信長評価」は、この「青木氏の様な密教教義」を持ち得ていない事から起こったものと観られる。)

そもそも、何れの時代にも、”「民族」”と云う単位で「国家や社会」を維持するには、”「武」の「敵対」に通じる社会”を先ず創る。
その上で、”「知の共合」の社会をより豊かに作り上げるか”に関わる。
これは”「民族」で構成される社会”である限りは、「人の性」から来る「生存への敵対本能」からは逃れる事は出来ないからである。
あくまでも、「理想社会」は、所詮、「りそう」なのである。
”「理想」”と云う「言葉」があるからこそ、その元には「敵対」があって生まれる言葉である。
この逆の事も云える。

つまり、「人の社会」に於いては、より良い、”「知の共合」の社会”を大きくするかに関わっているのであって、「理想の社会」では構成出来得無い。
”「理想」”は、あくまでも「良し悪しの判断の基準」とするに留まり、「良し悪しだけで決まる人の社会」では決して無い。
あくまでも「理想の範囲」で終わる。
より「「理想に近い社会」と感じるのは、「知の共合の社会」をより豊かに作り上げるかに関わり「理想の程度」では決して無い。

”「人の生きる社会」の「組織の主たる者」に成る者には、この「概念」を持ち得ている事が必要である”と説いている。


つまりは、「忠元」を含む「二つの青木氏」の「長」は、”「信長」も「長」としてのこの「基本的な概念」を持ち得ている”と観て採ったと云う事である。

(注釈 記録に遺されている「信長の発言」の中に、要約すると、”国が収まれば、世界に旅する”と発言している。
これは、「世界」の進んだ国には、”「武」<「知」の社会”がある事を知って居た事を意味していると観ている。)

注釈 
1576年 北畠氏は滅亡
1576年 伊勢国を信長支配
1577年 忠元伊賀守任官
1577年 伊賀一揆

前段で論じた様に、「伊賀」に侵入した「足利系の外部勢力」の三氏は、1576年を境に「信長」に依って放逐され滅亡した。
その後に「伊勢」を支配した時に、「信長」は「実質支配」していた上記の「伊勢秀郷流青木氏の忠元」に「伊賀守」を任官させて家臣として取り込んだ。

然し、その後に、「伊賀衆」は「伊賀の郷士11衆」と「伊賀住人衆」を巻き込んだ一揆で「ゲリラ戦」(第一次と二次)で反旗を翻した。
この時、「伊勢」の中では、特に「伊賀の国人衆」が「連合体」を結成して「伊賀域」を治めていた。
民や僧侶を巻き込んだ「伊賀一揆」が「第一次」で収まったとして「忠元」を任官させたが、「信長」が「燻り抵抗を見せる伊賀者」に見せしめとして激しい「第二次掃討作戦」を展開した。
この時は「忠元」は苦しい立場に陥った。

上記する、「武」より「知」に掛けた「忠元」を始めとした「伊勢衆」は、思いもよらぬ方向に流れが進展した”「伊賀」”では窮地に陥っていた。
「伊勢衆」は「伊賀衆」を説得に掛かったと観られる。
然し、「事の次第」は、感情的に進み収まりが着かなく成って仕舞った。
それは、この「伊賀衆」が起こした「感情論の原因」は、地獄の修羅戦と成った「石山本願寺の門徒衆」が、何とこの”「伊賀域」”には多かった事が云える。
紀伊半島と紀州全体も殆どこの”「門徒衆」”であって、現在でも「門徒衆が多くその慣習の強い地域」でもある。

この時、「伊勢皇族賜姓青木氏」が「伊勢の抑止力」を使って「援護」に入ったのである。
これが「丸山城の攪乱作戦」や「比自山城」や「上野城」の「伊勢衆が行った救出作戦」であった。

恐らくは、「信長」は「伊賀」に「支配権」を持っている「忠元」を「伊賀守」にして収めようとしたが、ところが、[忠元の翻意」に反して、”「忠元」が「織田方」に付いた”と受け取られて、逆に”「裏切り」”と捉えられたと観られる。
そこで、「門徒の事」もあり、それに煽られて”「伊賀者」”が収まりが着かなく成り、「燻り抵抗」を尚示す様に成ったと観られる。

(注釈 ”「門徒の事」”とは、「石山本願寺の事変」の3年程度前から起こっていた紀伊半島全域で「門徒衆の信長への抵抗」があった。)

その為に、其の侭に放置すると、全国で「門徒衆」が尚騒ぐ事と成ると観た「信長」は、見せしめの為に「第二次の殲滅作戦」に「信長」は出たと考えられる。
実際は、第一次、第二次共に、「伊賀衆」から「裏切者」が出て「織田軍道案内」等を申し出ている。

(注釈 当時、”「道案内」”とは、「裏切り」の「武士」が使う「換え言葉」であった。
ある意味で、当時の室町期は戦乱期であって、「裏切りと云う行為」は必ずしも「悪徳の見本」では無く、「生き残り」の為には「最低限の必要不可欠な手段」と認められていた。
然し、この「裏切りの悪の概念」は、主に「江戸期の安定期」に入ってからは、「武士魂」の「発露の規準」となったものである。)

これは、「伊勢衆」と「伊賀守」と成った”「忠元の説得」”から動いた事ではないかと観られる。
この事で場合に依っては、”「伊賀者滅亡」”と云うシナリオも描いていたとも考えられる。
現実には、第二次は其れに近い「修羅の状態」と成った。
あらゆる「門徒衆」の「抗した村民」やこれらを「庇護した僧侶」をも殲滅し、「伊賀」だけには収まらず「紀州全域」に及び、更には「堺」から「伊勢松阪」の「伊勢神宮手前」までにその「火の粉」は飛んで来た。
(寺等の記録あり)
その「殲滅の被害範囲」と「門徒の勢力域」とがラップする事から、矢張り、”「門徒勢力」”と観ての行為に及んだ事に成っている。

この事に付いて検証して置く。
通称、”「門徒勢力」”と現在まで云うが、この「宗教武装勢力」との争いは、1567年頃から1582年頃まで続いたのである。
もっと云えば、「秀吉の紀州攻め」の「掃討作戦」までの事と成る。

(参考 「伊賀の戦い」は、第一次は1578年−1579年 第二次は1580年−1581年)

「石山本願寺の戦い」は、あくまでもその「一本戦」であって、その期間は1570年から1580年と成ってはいるが、そうでは無い。
然し、比叡山を含む「宗教武装勢力」との戦いの一端であった。
多説の様には、「一戦い」では無かったのである。
つまり、上記した様に、「信長」が目指す「天下布武」にせよ、「天下布知」にせよ、この「宗教武装勢力」が二つを実行するには「大障害」と成っていたのである。
その戦いの中での「伊賀の戦い」と成った。
疑う事無く、「伊賀者」は、全て「下級武士の宗教」の「門徒信者」である。
これは、「民の門徒の宗徒」では無く、「忍者と云う武力の専門の勢力の宗徒」である。
「石山本願寺」の”「宗教武装勢力」”と云うよりは、「伊賀衆」は、一種の「宗教の武装の専門勢力」であった。

現実に紀州半島の「雑賀傭兵軍団」「根来傭兵軍団」「十津川傭兵軍団」「柳生傭兵軍団」と同じく、伊勢の「伊賀傭兵軍団」と呼称されたものであった。
「比叡山の僧兵」などと違い、プロ中のプロである。

「信長の目線」はここにあった。
依って、このプロ中のプロの「伊賀門徒勢力」への「象徴的戦い」なのである。
ここを叩いておかないと、「石山本願寺の比」では無いと観たのである。
「紀州の傭兵軍団」が「伊賀」と結びつけば、不得意な『ゲリラ戦の長期戦」は覚悟しなければなら無く成る。
「長期戦」は、「宗教との戦い」と成っている以上は、”評判の悪い信長”に執っては極めて不利である。

唯、「信長」は、この「プロ中プロの伊賀衆軍団」を「感情的敵視」をしていなかったのである。
「門徒勢力の撲滅」の「象徴的集団」と戦略的立場から観ていただけの事であった。
その証拠には、その「特殊技能の軍団」の「存在価値」を認めていた。
何故ならは、「第二次の殲滅作戦」後に、この「伊賀の特殊技能」を「織田軍団」に取り入れる為に、多くを「家臣」として仕官させているのである。
普通なら、徹底した「掃討作戦」で殲滅させている筈である。
況して、全国に散った「伊賀者の掃討作戦」もしていないのである。
1年後に徐々に「伊賀者」が戻ってきたが、これも掃討していない。
むしろ、戦後に「諜報役の家臣」として重用している。

何と、「信長」が直接家臣としたのは数名で、この一名が「伊賀の青木氏の五代目」が入っているのである。
家臣と成った者の殆どは、秀吉などの重臣に家臣として仕官させている。
中でも「秀吉」や「蒲生氏」とその配下の家臣に特に目立つ。

普通は「人」であれば、「修羅の戦い」と成って「恨みも憎みも骨髄に達する」に成った筈である。
にも関わらず、「信長側」は元より、「伊賀者」側も家臣に成ったとする現象には、”戦国時代の何かが働いていた”事を物語る。

(注釈 明らかに、上記の事は、”信長の伊賀に対する考え方”が現れている現象である。
以下に論ずる事もこの「歴史観」を以って「青木氏」の方だけはお読み頂きたい。)

ところが、この「注釈の歴史観」を「伊勢衆と忠元」は読み取っていたかは別として、この「事の流れ」に依っては、異なる方向に走ると観ていたと観られる。
これは「密教浄土宗」の「伊勢衆」のみならず、「伊賀」を治める「忠元」に執っては、単なる「伊賀の戦い」とは捉えていなかったのである。
場合に依っては、”「伊賀滅亡」”と云うシナリオも考えたのも当然であった。

(注釈 後の「青木氏の記録」から「信長の評価」が世間と違っていた事からすると、この段階では,注釈の事は考えていなかった事に成る。
後刻、戦後に「信長の態度」を観て、この事を理解したと観られる。)

筆者は、もっと「厳しい心構え」をしていたと考えている。
そうなった場合、「事の流れ」に抗して「青木氏の氏是の範囲」では収まらない事に成ると観ていたのである。
「二つの青木氏」と「伊勢衆全体」が、奈良期からの「青木氏の氏是の禁令」を破って、「500万石の勢力」と「伊勢の抑止力」のみならず、「関東の秀郷一門」と「秀郷流青木氏116氏」を巻き込んだ戦いをも覚悟していたと観ている。
上記した「忠元の伊賀守任官」も{伊賀の戦い」の際中の事である。
この「氏是」を破ってでも「伊賀守任官」を受けて、「最悪の流れ」(伊勢の伝統の崩壊と伊勢者の滅亡)に成る事を止めようとしたと考えられる。
逆に、「信長」も同じ事で起こる「最悪事態」を避けようとして、「忠元」を「臣官」させたと云う事も云える。
この事を考えると、少なくとも、「事の流れ」は[伊賀守任官」だけでは止められず、むしろ、逆に「第二次戦」に成った時に、「信長出方と解決具合」では、「本戦」も覚悟していたと観られる。

現実に、戦えば全国的な勢力の結集では上回る。
戦略上では確実に劣るところは無い。むしろ有利であった。
要は、「戦い方の如何」に関わる事に成る。
「ゲリラ戦」を駆使する事に成ろう。
当時の「信長の勢力範囲」は関西に限定され、その拠点は美濃に集中している。
周囲から「物資の供給」を止め、拠点に「ゲリラ戦」を掛ければ落ちる。
「信長の弱点」は水軍にある。「海と陸の供給」を止めれば攻略できる。
「水軍」は「伊勢衆の古来から所縁」から「三つの水軍」(伊勢水軍 駿河水軍 摂津水軍)を擁している。
従って、「水陸」の補給路をこれで押えれば、物資は「伊勢衆の商いの強み」でもある。

現に、「丸山の戦い」では、「信長六万の軍事力」では無く、この「物資」を止めて「物資高騰」を高め軍資金を枯渇させ上で、拠点を「ゲリラ戦」で抑えて勝った。

(注釈 「足利氏との戦い」も「伊勢シンジケート」が「ゲリラ戦」を展開して、10万の軍を枯渇させ2万と云う餓死者を出した。
この有名な戦史を信長は知っていた筈である。)

全国的に、これをすれば「信長の軍」は「内部崩壊」を起こす。
元より「信長軍」は「内部分裂の要因」を潜んだ「軍事力」であった。
現に、依って、「信長」は、「長期戦」と成り、「物資供給路」は絶たれる事に成る。
「伊勢シンジケート」は[美濃信濃の範囲」までを「連携の勢力圏」としていた。
依って、未だ弱かった関西以西から背後を突かれる恐れがある。
この事があって、「戦域」を関東に拡げる事は出来無い。
これは「信長」が、「秀郷一門の勢力」の強い関東以東には、実戦に依る手を出さなかった所以でもある。

恐らくは、「信長」もこの事を考えての範囲の「ギリギリの線」を選んだと観られる。
最後には、調停工作に応じて停戦したし、各地に散った「伊賀者の掃討作戦」もしなかった。
終戦後、これらの「伊賀者」は帰ったが、掃討はしなかった。
手っ取り早く言えば、その火元に成る「伊勢」には手を”出さなかった” 出したくなかったのである。
伊勢には、煩わしい「不入不倫の権」もあり、「戦いの大義」が採れず手を”出せなかった”のである。
故に、「伊賀と云う特異な門徒拠点」とも云うべきところだけを突いたのである。
然し、「伊勢」では、青木氏等が「影」で色々としていた事は其れなりに充分に情報活動で知っていた筈である。
況して「伊勢衆」は、「北畠氏」(1576年)の時には、明確に「合力」を表明している。
明らかに「準に抗する勢力」と観えていた筈である。

従って、「ギリギリの線」の「忠元」も含む「伊勢衆」(青木氏等)には決して手を出していない。
依って、「ギリギリの線」を護る「信長」に対して、「忠元」も「伊勢衆]も、「ギリギリの線」で直接交戦する姿勢は採らなかったのである。
明らかに、「信長」は、「忠元と伊勢衆」を除いた全て「抗する者の範囲」に留めたのは、「門徒衆の撲滅」と「伊勢衆の影の抑止力勢力」のこの二つの事から来ていると観られる。

そこで、それを証明する「伊賀の内情」は次ぎの通りであった。

第一次は、20郷士の内、18氏参戦 2氏が道案内 下山氏、他1氏
第二次は、18郷士の内、11氏参戦 4氏が道案内 福地氏、耳須氏、他1氏、滝野氏
調停役は、「猿楽師」(嶋崎殿の青木氏との関係)の仲介、大倉氏 他介添え役2氏

(1氏が不明 「調停役」に参加と観られる。)

この記録から観ると、少なくとも「忠元の言い分」を理解した者は、少なくとも当初9氏はあった事に成る。
自発的にこの9氏が戦いの裏付けと成る軍資金や物資の補償が無いのに動いたとは到底思えない。
全体の半分は「忠元の説得」に応じた事に成る。
結局は、記録にある様に、感情的に成って走り「籠城餓死寸前」と成って、「忠元」と「伊勢衆」が救いに入ったのである。
その後、「伊勢衆の援護」に伴って「忠元」に味方する者が殆どと成った事で「仲介の段階」に至った事が良く判る。

ところで、前段で論じた様に、矢張り、ここで「伊賀の青木氏」の”「猿楽師」”がこの記録に出て来るのである。
これは「青木氏」に執っては極めて重要な事である。
歴史上の有名な事(「猿楽師の調整役])として、記載されている史実に繋がっているのである。

実は、この「猿楽」に付いて調べると、そもそも,中国から入り遂には大和で広がり、「大和猿楽」と「近江猿楽」と成った。
この「大和猿楽」から有名な「観阿弥 世阿弥の時代」と成るが、「大和猿楽」には四座があった。
ここで、「嶋崎殿の青木氏 伊賀の青木氏」の「五代目」が最初に学んだ事が添書に書かれている。
「七代目」がこれを高めて「猿楽師範」と成って、「徳川氏の諜報役」として働いた。
しかし、この「五代目」が同座で「猿楽師の某氏(大倉氏)女系の血縁先」と学んでいた事が添書に記載が在って、後にこの者は「織田氏」に仕官している。
時を同じくする事から、この「某氏」が「この時の状況」に関わったと観られる。

前段でも記述したが、この「五代目」もこの少し後の1581年に「織田氏」に仕官している。

この「五代目」が「信長」に仕官した事にも大きな意味を持っている。
明らかに上記の事を物語っている。

「信長」に抗した「伊賀者」を家臣にしているのである。

この様に、これで明らかに、「伊勢衆」と「忠元」が動いた事が証明できる。


「嶋崎殿の青木氏」の「猿楽師の調停役」は、この様に「猿楽師の面識」を利用して「信長」に近づいたと観られる。

(注釈 その後は仕官したが、直接に「信長」に調停を申し出る事は無理であろう。
この間に「所縁の者」が関わっていたのである。)

以上の事から、この経緯の事に成っている処を観ると、「忠元」が「仕掛けた戦略」であった事は間違いはないと考えられる。

実は、この「調停役」と成った背景を更に調べると次ぎの様に成っている。

この「伊賀」の「嶋崎殿の青木氏(猿楽師範)」を通じて、直接に「信長」に面接してはいない。
確かに、奈良に住していた「猿楽師(大倉氏)の面識」で「信長への仲介役」を演じた。
然し、ここで、次ぎの人物が「大倉氏の仲介の意」を受けて「信長」に直接仲介した人物が何とあったのである。

前々段で論じた「秀吉と信長」に信任の厚かった二人の内の一人である。

その「仲介者」は、「青木紀伊守一矩」(従五位左衛門佐 越前北庄八万石 1598年)に列せられた者と成っている。

秀郷一門の伊勢の「青木忠元」は、全く同時期に「伊賀守」(1577年)に任じられていて、「越前坂井郡丸岡四万六千石」に列せられている。

「青木伊賀守忠元」と「青木紀伊守一矩」は共に「信長」に仕えた。

重要
実は、この後、「伊賀の青木氏」の主家の「五代目」の子供の娘(次女)が、この「紀伊守の嗣子の政寿の妻」と成っている。
更に、この100年後位宝暦九年にも両家は「伊賀青木氏」から「娘女の縁組」をしている。
然し、この時期は「紀伊守の一族」が、既に,福井に逃避し、「伊賀の青木氏」は江戸に移動していている事に成っている。

これはどの様な意味を成すのであろうか。

つまり、「前の血縁」で観ると、添書内容から考察するに、1581年に「伊賀青木氏の五代目」が「織田家」に仕官した後の事である様である。
この事から、「織田家仕官執り成し」は、この「紀伊守一矩」であった事が判る。
「信長の仲介役」もこの事で裏付けと成る。

然し、「後の血縁」で観ると、「伊賀の青木氏」の「主家の系譜枝葉」では、再び江戸(御家人)と越前(商人)との間の取り持ちとも考えられる。
唯、「奈良の六郷」に[青木一矩の一族子孫」が残留していて、その一族と、故郷の「伊賀の跡目」を再興した「戻り組」とが血縁したのかは詳細は判らない。

現実に、「主家」であるし、「伊賀の青木氏」は江戸期にも伊賀に定住している事、「大番役」でもある事からも江戸だけでは留まらない。
恐らくは、添書には”六郷に嫁す”あるところから、江戸からの支持の下で「大和と伊賀の地での縁組」が交わされたと観られる。

とすると、「伊賀」は,前段で論じた様に、「三氏」と成っていて江戸に移動している事に成っている。
然し、「伊賀本領」にも留守居役として一家を設けていた事を示す事に成る。
これで、現実には、現在も「伊賀の青木氏」が現存する事から、この事で証明できる。

唯、家紋が、前段で論じた様に、「伊賀の青木氏」の主紋の”「一文字紋」である。
果たして、「伊賀の青木氏の枝葉」の「伊賀」に定住した”「青木氏の立場」”はどの様に成っていたのかは不明である。
現実的には、”全て「三氏」を江戸に移してしまう”と云う「戦略」は採れないであろう。
況してや、「大番役」と云う役務から観ても、「本領の役務」も「伊賀」にもそのままに成っている事から、一族を遺すのが筋である。

とすると、この「系譜」は、「三氏の主家の系譜」から観ているのであるから、確かに「主家の一人」を遺したと考えられる。
唯、この「伊賀の主家枝葉の格式」には、「伊賀青木氏の格式」は江戸に集中していた事から、再度、格式を高める手段に出たと考えられる。
恐らくは、この「格式を高めた手段」として、この「主家の系譜」には分析未了であるが、この一つが「女系の嫁」で再び繋いだと観られる。

そうすると、越前に移動したと観られる「一矩系統(久矩)の一族」のこの”「六郷」”は、普通は「現地残留孫」と考えられる。
「大和と伊賀の地での縁組」との縁組と成るが、確定はし切れていない。

と云うのも、そもそも、この”「六郷」”とは、元々、”「一矩一族の呼称」であった”のではないかとも考えられる。
実際に、この「系譜」には、この”「六郷」”の使用が「三か所」に出て来る。
何れも、「六郷の十左衛門・・矩」と云う様に代名詞が付いている。
この事から、「一矩一族(久矩)」が「越前」に移動その後も残留して居た事も考えられる。

現在、この名張域の「大和 六郷」には、「一矩一族の青木氏の痕跡」は、その後に絶えたと観られて確認できない。

(注釈 「奈良の六郷地区」は、R25沿いの「名張」の直ぐ左横の地区である。
「名張」は「皇族賜姓族伊勢青木氏の拠点」であった。
ここに「清連寺城」の館城があった。「伊賀衆救出作戦の拠点」であった。
この一帯は「青木氏所縁地域」である。)

ただ、「大和の六郷」には”絶えた”としても、「六郷」に「一矩の子孫」が居た事は「青木氏の記録」の”「近江青木氏」を庇護した”と云う事が、「青木氏の記録」に明確に有る。
”絶えた”の説では無く、”庇護”の説であると考えている。
つまり、この二つの意味の選択は、「青木氏の商記録」と、「佐々木氏の研究記録」に”「庇護」”と記した意味にあると考えられる。

元々、この「大和 六郷」の地の持つ意味が大きく左右している筈である。

そうすると、この「庇護の経路」を検証して観ると次ぎの様な事が云える。

「庇護の経緯」は、先ず、「本流」は越前に庇護した。
そして、「残留組」は、「三河 額田」より集め、「大和 六郷」より集めて、最後に「摂津」に庇護した事に成る。

この「摂津庇護」は次ぎの様に成る。
先ず、「源平合戦時」に「美濃の富士川の戦い」で、「近江の戦い」で敗れて「美濃の地」に決戦を求めて移動した。
この「近江青木氏」は、結局、「美濃青木氏 土岐青木氏」と共に滅亡したが、この「生き残り」は「三河 額田」に逃避した。
この「子孫の家族」等は、「伊勢青木氏」は近江より摂津に庇護した。
その後、「三河 額田」に逃避した「一矩」が信長に仕官し、出世し「大和 六郷」に子孫を定住させた。
その後、「北の庄」の「八万石の大名」に成り移動した。
「関ヶ原の戦い」から続く「冬夏の大阪の陣の敗退」で、「一矩の孫の久矩」等は越前に逃避した。
その一部末裔を「大和 六郷」に遺した。
これらの「大和 六郷」に遺された子孫を「摂津」にそっくり「庇護」した事に成る。

そこで、「近江青木氏」は「源平近江の戦い」の時に敗退したが、一時、「伊勢青木氏」が、ここ「名張の勢力域」の「大和六郷」にその家族を匿った事も考えられる。
従って、「一矩」は、後に「三河 額田」より仕官後に「大和 六郷」に「三河 額田」で出来た子孫をここに移したと観られる。

その根拠として、「青木氏の記録」(商記録)では、”「近江青木氏庇護」”と簡単に記載されているだけである。
「伊勢の商記録」である事から、何も地名も書かずに”「庇護」”とだけ記する以上は「伊勢青木氏の勢力域」に「庇護した事」に成ろう。

尚、「近江佐々木氏の研究記録」に依れば、「同族縁者の近江青木氏」に付いては、共に戦った。
この近江での「源平合戦敗退時の庇護」には、”伊勢並びに越前に庇護した”と記されている。
恐らくは、この「二つの記録」の”「伊勢」”は「名張域」の「大和 六郷」であった事に成ろう。
故に、その関連から越前までの一連の”「一矩の行動」”に繋がったのである。

元々、この「大和 六郷」は「近江青木氏」に執っては、あくまでも”「逃避地」”であった事に成る。
「近江青木氏の定住地」では無かったのである。
「伊勢青木氏」が採り計らった「逃避地」であった。
近江は最早、他の勢力圏と成り、無理で「摂津の勢力圏内」に庇護した事に成る。
従って、”絶えた”のでは無く、全て”そっくり移して庇護”した事に成る。

「大和 六郷」に”痕跡”が無いのは、「伊勢青木氏」が、江戸期に成って「時勢」が落ち着いたところで、”一族郎党を摂津に移した”と云う事に成る。

そもそも、「青木氏商記録」や「佐々木氏の研究記録」にこの事が記されている。

では、この”「摂津」”とは、”どう云う処なのか”と云うと、改めて述べて置く。
元々、この”「摂津」”とは、「伊勢青木氏」の「大店の二店舗と屋敷」と「伊勢青木氏所有の三隻の千石船」の「堺港」と共に「主係留地」である。
且つ、「平安期からの遠祖地」で「大地主」である。
この”「摂津」”には、当然の事として「伊勢青木氏」が平安期から駐留していた。

「越前の逃避地」と同じく、この”「摂津」”は古来より水軍(伊勢水軍の第二係留地)も備えた”「青木氏の防御の拠点」”でもあった。

この意味からも「近江」に近い旧来の”「摂津」”に庇護したのである。

(注釈 歴史的に参考に成る記録によると、この「摂津(伊勢)の青木氏(駿河水軍と伊勢水軍)」と、近江北部から降りて来た「残存の佐々木氏」等が、摂津西の「渡辺水軍」と共に「摂津水軍」を形成して、「義経の壇ノ浦戦い」の時に側面から平家水軍を突いて「戦況」を変えたと記されている。
味方の「北条軍(梶原氏)の恣意的な邪魔(妬み 嫉み)」を受けて「不利な戦況」と成り得ていた矢先に、この「摂津水軍の側面攻撃」で義経側に形勢が傾いたとする有名な戦史である。
戦い前の「軍略会議」で義経と梶原氏等が切り合い寸前の激論を交わした。
この事から、事前に梶原氏等の邪魔が入る事で戦況が悪化する事を予想した義経は、戦略を変えて、「身内の摂津水軍」にこの作戦を命じていたのである。
これを契機に、義経専属自前の「熊野水軍 紀伊水軍 伊勢水軍 駿河水軍」が「ゲリラ戦の攻撃」に転じて勝利した。
その後、この「摂津水軍」はこの役目を終了後に戦場から直ちに引いたとされている。

その様な重要な「青木氏の商業拠点」であって「陸海の防御の拠点」でもあったのである。
常時は、貿易の「商船団の護衛船」として伊勢と摂津を拠点に働いていた専属の水軍である。

(注釈 この「ゲリラ戦」とは,「軍船と軍船の弓火矢の戦い」では無く、直接に「軍船」に横付けして「船上」で戦う当に虚を突いた「海賊戦の戦法」の事を云う。
この「海賊戦」を提案したのが、当時、蛮勇で有名な「紀伊灘の海賊」の「紀伊水軍」であった。
「義経」は「圧倒的な平家水軍の優勢]から観て、この「紀伊水軍」を味方にするかは「勝敗の決めて」と考えていて何度も説得を試みた事が記されている。
この「ゲリラ戦」が「紀伊水軍の条件」として味方する事に同意した経緯が記録されている。)

(注釈 「水軍船団の弱点」の”「側面攻撃」”が「予想外の戦略的な目的」であったと観られる。
そもそも、逆に船は後退できない為に一度側面攻撃で攻めた後は、自らが的中に突っ込む為に逆に「側面攻撃」を受ける事に成る為に危険度も大きい。)

(注釈 清和源氏の全青木氏と繋がりを持つ「頼光系四家」もこの「摂津」を拠点としていた。)

(注釈 「近江佐々木氏」も「源平近江の戦いの敗戦」で、「伊勢青木氏」は家族を近江から救い出して「摂津」に保護している。近江佐々木氏の軍は美濃に移動転戦し滅亡した。
この経緯が「佐々木氏の研究記録の資料」では詳しく研究されている。)

(注釈 一矩の長男の「俊矩」は東軍に味方した「前田氏の人質」になった。 越前に逃避した「一矩」は2月後に没する。)


恐らくは、「近江青木氏の出自」である事から、この”「摂津」”は元より「額田」にても、その後に、添書から読み取るところでは、未だ僅かに「一族残留組」が居て定住していたのではないかと観られる。

「氏家制度」の中で、「五家五流の宗家の役目」としては、「青木氏の記録 近江氏の庇護(近江,越前、摂津、額田)」の記録にある様に、これには明らかに「伊勢青木氏の仲介」があった。

(注釈 「大和 六郷」の事に付いては、「豊臣家の淀君に関する資料」の中に、”大和(六郷)よりいずる青木氏なる者(一矩−俊矩−久矩)・・”として面会して、大坂方に味方する事を約している。)

この事から、「一矩一族」は、この「大和 六郷」にも子孫を遺していた事が判る。

(注釈 この「大和」は、「家康」が「淀君」に対して「片桐案三案」の,「大阪城退去」を条件に「大和国55万石」を与えるので、そこで「豊臣家」を改に興す様に説得した経緯がある。)


ここで、この「系譜」に記されているこの事に関する「決定的な事」を記すると、次ぎの様に成る。

この「一矩一族」に嫁した「伊賀の青木氏」の「主家の子女(娘B)」の母は、「六郷 十左衛門正明の女」と成っている。
「主家の系譜」では、その夫は「政長」と成っている。つまり、五代目である。


その夫(政長)は、 十三歳で跡目に成っている。
その後、江戸初期に、前段で論じた通り、「小姓組」 「西ノ丸勤仕」等と大出世している。
この「系列の以後」には、他氏からの養子縁組で何代か跡目が継承されている。

その最初の「婿養子の政行」(六代目か)は、特記すべきは、この者は最高官位は「従五位下 豊前守」叙任と記されている。

つまり、上記の通り、「伊賀の青木氏」の「主家の子女」(娘B 伊賀の戦い後)が「一矩の一族の嗣子(久矩の子)」に嫁している。

ところが、その前に、この「娘Bの母親」は、何と「一矩の一族」(久矩かは判らない)から「伊賀の青木氏の主家」に入っているのである。

「一矩の嗣子」の「娘A」(伊賀の戦い前)が、「伊賀の青木氏の主家」に嫁し、その「娘A」の子の「娘B 次女」を「一矩の嗣子一族の妻」に嫁している事に成る。
要するに、「相互間に同族血縁」をしていた事に成る。

次ぎの驚きは、この「娘A」の子供と成った「婿養子の政行」は、「一矩の出自」の「近江青木氏」の「永代官位」を引き継ぎ、「従五位下 豊前守」の「叙任の栄」を受けている。
これは、”一体、どう云う事なのか”である。


そこで、この「近江青木氏の永代官位」を「伊賀の青木氏」は、「一矩一族」から、”何故、受け継いだのか”である。
普通は受け継げない家柄である。
この者は「六代目」と成るので、当に、江戸初期と成る。

「一矩一族」は、次ぎの様に判断したのではないかと考えられる。

越前に逃避した事
除封を受けた事
商人に成った事
五代目で「深い縁続き」に成った事

以上の事が起こり、”最早、奈良期からの「永代官位」を引き継ぐ格式の意味が消滅した”と考えたのではないかと観られる。

そこで、「五代目の努力」で「縁続き」と成った事から、この名誉ある「徳川氏の御家人」と成った「伊賀の青木氏」の将来の発展を期して永代官位を移したと考えられる。

何れも、「近江青木氏」も「四家制度」を敷く家柄、「伊賀青木氏」も秀郷一門下に成り「四家制度」を敷く家柄に成った事から、「青木氏跡目方式」は、男女孫域までの嗣子は差別無く「跡目」と成り得る仕来りである。
従って、「親子の女系」で「相互血縁」をした事で、「伊賀の青木氏」が「近江青木氏」に成り得る。

(注釈 婿養子の「政行」は「山角藤兵衛親詮の六男 義父政長の「娘C 長女」を妻としている。
「娘B]と[娘C」は姉妹である。)

この「四家制度」で、「娘C」の子は、「近江の青木氏」のみならず「伊賀の青木氏」の正当な「主家の跡目」と成り得る。

依って、この「青木氏の四家制度の仕来り」から「伊賀の青木氏」は「永代官位」を引き継ぐ事に成った事を意味する。

(注釈 「豊前守」は名誉官位であった。「永代官位」であるが、その後には「二代」で終わっていて、その後の系譜には官位は不思議に書かれていない。
恐らく、「大番役」で通した事から、”役柄にその官位そのものの必要性が無い”と末裔は判断して返還したと観られる。むしろ「大番役旗本」には邪魔と考えたのではないかと観られる。)

この「永代官位移行」で「近江の青木氏」=「伊賀の青木氏」の深い関係が生まれたのである。
その血縁の「象徴的な手段」としたと考えられる。

(注釈 「伊賀の青木氏」は、前段で論じた様に、「たいら族」の「貞盛の宗家の跡目」から出自した形を採っているが、[天皇への不敬不遜の至り」から作法的に採った繁盛ルーツである。
依って、その官位は正式には無い。)

この二人は「伝統シリーズ]等の論文で何度も論じている「青木氏の話題の人物」である。
この「青木紀伊守一矩」(従五位左衛門佐 越前北庄八万石)の「青木氏の出自」は確定していないが、近江青木氏である事は上記した様に「青木氏の資料」からは明らかである。

(注釈 この一族には他説が多く、上手く歴史の事柄を繋ぎ合わせた搾取説が殆どで矛盾だらけであり信用できない。
「青木氏の資料」から論じている。)

然し、「官位」や「官職」や「家紋」などから総合的に考察する処では、「1の天智期の近江青木氏」であると観られる。

この「青木氏」は、「源平合戦」の「美濃の富士川の戦い」の際に滅亡した「近江の皇族賜姓族青木氏」ではないかと考えられている。
この「青木氏」は、滅亡後、[伊勢の皇族賜姓族青木氏」の末裔とその血縁族が住む「三河国額田郡青木村」に逃避した。
現地近江に遺された一族の末裔の一部は、一度、近江で過ごし、その後に、摂津に移動して「伊勢青木氏の庇護」の下に入って生き延びた。

「源平合戦」で各地の「青木氏の庇護」の下に散った残党を「額田の青木氏」が呼び集めて、「信長」に若い頃に仕官(1559年頃)した事に成る。
その後、上記した様に、「奈良の六郷」と云う処に住まいを構えていたと観られる。

その時、「1598年前頃の青木氏の中での呼称」は「六郷の紀伊守殿」と上記した様に呼ばれていた模様である。(伊賀の青木氏の系譜)

(注釈 額田での「若い頃]の信長の「遊び友達」では無かったかと観られる。)

史実としても、確かに「信長」や「秀吉」にもに重用されて勲功を挙げている。

この「青木紀伊守一矩」と「青木伊賀守忠元」の二人は、その後、信長死後、「秀吉」にも仕えた。

ただ、この「青木紀伊守一矩とその子孫(俊矩−久矩)」は、「秀吉の家柄作り」に利用されて、「秀吉の青木氏」の発祥の元に使われた。
「秀吉」に「我が従兄弟」とも発言される等して、取り込まれ、その「母方末裔」と称して二代目(実質四代目)を秀吉の母方親族と観られる者に継承させて「秀吉の青木氏」を作った。
この「秀吉の青木氏」のその所領は、豊臣政権中は「伊予」や「土佐」の二郡を所領した。

然し、「豊臣政権滅亡」にて、この「青木紀伊守一矩」は、徳川氏に依り除封(「徳川除封禄」)され、「青木忠元」と異なり、その結果、その一族(久矩)は福井越前の「青木氏の庇護地」に逃げ込んで商いをして生き延びた事が「青木氏の資料」で判っている。
(現存している。)
「忠元」の様に「遠祖地の持ち主」であったならば、除封されたとしても、何らかの「遠祖地の支配権(地権持ち)」に戻されている筈である。
然し、福井越前に主流が逃避しているところから、「近江青木氏系」の「額田郡」に住していた「遠祖地」を失した「青木氏」である事が判る。

(注釈 他説は矛盾が多い。「従五位左衛門佐」のこの官位は、「賜姓五役」に役する「皇族賜姓族青木氏」にしか与えられない最高官位で永代官位である。
そもそも、一地方の土豪の「丹治氏系」には与えられる資格は無いし、「丹治氏系青木氏の説」ならば、越前に逃避する必要が無く、徳川方に味方した勲功で「摂津麻田藩」を家康から与えられている事から逃げる必要も無い。
そもそも、豊臣方に味方している。
他の説は,何れにせよ「宗派,家紋、官位、官職」の全てに完全矛盾する。
そもそも、この「永代官位」は勿論の事、丹治氏はその家柄では無い。)

(注釈 況して、「丹治氏」ならば麻田藩に加わる事が出来、「除封」は受けず、追われる事は無い。
他説は後付説で論外)

この青木氏に執っては忌まわしい「伊賀の戦い」は、結局は、「約3年の戦い」と成るが、「忠元」はこの様に懸命に説得工作に出たと考えられる。


「本所役の忠元」は、「皇族賜姓族の伊勢青木氏・信濃青木氏」に沿う以上は、「伊勢国人」として、「伊勢郷氏」として生きねばならない宿命に縛られている。
従って、この「仕来り」から、何れの家臣にも成れない柵があった。
しかし、「信長」に「抗う事」は「青木の氏是」に反して、”「戦い」”を仕掛けなければならない填めに成る。

第一次の「丸山の戦い」(1578年−1579年)では、「皇族賜姓族の伊勢青木氏」の「青木氏の顔」を隠しての「ゲリラ戦」で応じて勝利した。
然し、何時までもこの姿勢を保つ事は出来ない。
「伊勢三乱」に発展する事の前に、そこで、「本所の宗家忠元」は、「皇族賜姓族の伊勢青木氏・信濃青木氏」に代わって止む無くこれを受けた。

つまり、出来る限り「伊勢の青木氏への衝撃」を押えたのである。

「名張戦、伊賀戦」では、「青木氏の記録」では、「皇族賜姓族の伊勢青木氏」側は、名張城から「窮地に陥って伊賀者18郷士」を救い出す事に限定して「救出戦」(1581年)で応戦して救出した。
(この伊賀衆を青木氏の定住する地域の「神明社組織」で保護した事が判っている。)

「本所役の忠元」は、上記した様に”「紀伊守の仲介」”で何とか難を逃れた経緯があった。

この様な事もあって、江戸期に成って「家康」から「忠元」は”「除封」”は受けたが、「遠祖地の支配権」は安堵された。
この時、「伊勢の紙屋の青木氏」の「家康への執り成し」であったと観られ、共に「伊賀と伊勢と紀州と堺と摂津」の一部を「本領安堵」されたのである。
(前段等で論じた 参照)

(注釈 「紀伊守」は、平安期に「遠祖地」を失っている事と、”「秀吉との関り具合」”から”敵対した”と観られて許されなかった。
この「紀伊守の動向」を考察すると、特段に「徳川氏に対しての功罪」は無い。
「除封の憂き目」を受けるものとして唯一つあった。
それは、上記の”「秀吉の関り具合」”とは、”「秀吉の青木氏」の事”だが、それが”「豊臣家一族」”と見做されて許されなかったのである。)

そこで、この様な「秀吉の青木氏」に観られる様な典型的な「家柄格式の引き上げ」の為に利用された”「婿養子」”に類する縁組が「二つの青木氏」にあった。
これは、「姓族」をはじめとして、他氏の場合は、”「権力」”に裏付けされた”「家柄の吊り合い」”の「引き上げの為の縁組」は、常である。
然し、「二つの青木氏」の場合は違った。
それは、”「権威」”に基づく悠久の「歴史と伝統」を持つ”「格式の獲得」”にあった。

そこで、従って、「伊勢青木氏」を始めとして、他の「二つの青木氏」の調べられる範囲での「系譜添書の内容」から、果たして、どの様に成っていたのかを調べた。


ここで、その一つの例として、先に一つ疑問があるので、検証して観る。
それは、上記の様に「近江青木氏と伊賀の青木氏」との血縁は進んだ。
然し、”「近江青木氏」と「忠元一族」との血縁が何故起こらなかったのか”である。
実際は、「血縁」が起こっていない。
普通なら、上記の様に成っているのであれば、「忠元一族との関係」もあったと考えるのが普通であろう。
確かに、「織田側の重臣」に対し、一方は敵対する「伊賀側の支配者で指揮官」である。
大見栄きって出来ない事は判る。然し、「伊賀青木氏」とは出来ている。

何か出来ない理由があって出来なかったのか。「100年後の末裔」にも起こっていない。
その理由が調べるが記録に出て来ない。

唯一つ考えられる経緯の事が次ぎの経緯に在る。
「青木氏の柵具合」が判る出来事であると観られる。

上記に経緯として、「近江青木氏」の一部を論じたが、「近江の源平合戦」「美濃の源平合戦」の何れにも敗退して滅亡した。
辛うじて、「一矩の先祖の一族」は「伊勢青木氏」等に依って「額田の青木村」に救出された。
この時、「近江青木氏」の「滅亡の憂き目」の原因は、「秀郷流青木氏」が、”「近江や美濃」で助けに入らなかった事”が敗退したと受け取っていたと考えられる。
何れの地にも「秀郷流一族」は存在した。
況して、「賜姓五役補完」としての役目もある。

つまり、”「近江青木氏」が「存亡の危機」の時に、その役目を、何故、果たさなかったのか”と云う不満である。

確かに、その事は云える。
平家もこの事(出て来ないと云う事)を知った上での「戦い」であった筈である。
何故ならば、「二つの青木氏」には、「青木氏の氏是」がある事を知っていたからである。
主導役の「伊勢の皇族賜姓青木氏」が動かなければ、「特別賜姓族の青木氏」も動かないであろう事は誰が考えても判る。
況して、「近江青木氏系一族」と「美濃青木氏系一族」は「青木氏の氏是」の「奈良期からの禁令」を破った事でもある。
同族と云いながらも、「氏族」の生きる前提は、「嵯峨期の詔勅」に依って決まっている。
「賜姓五役」や「三つの発祥源」や「国策氏」等の「生きる目的の為の役務」は与えられていない「氏族」である。
この「異なる生き方をする源氏」に対して、「同族の賜姓源氏」に引きずられて禁令を破っている。
後勘の者として観ると、「近江青木氏等」は「氏の歴史的な事柄」を鑑みても、「思考原理」が短慮であり、根本的に間違っている。
「先祖の伊勢側」もこの様に受け取っていたと観られる。

これだけでも、当然に同じ考えに立つ「特別賜姓族秀郷流青木氏」も参戦する事は先ず無い事は判る。

然し、「近江青木氏側」は、”「五家五流]の内の「三家」(甲斐も行動を途中まで行動した)が動いたのだから助けるのは当然であろう”と考えた事に成る。
つまり、この事は、「近江青木氏」が、「二つの伊勢青木氏」に対して、奈良期から務めて来た”「主導役」”を素直に認めていなかった事に成る。
そもそも、「四家制度」に依っては、確かに「五家五流」は「平等の格式家柄」にある事は史実である。
何か特別に「二つの伊勢青木氏側」に「朝廷の賜姓のお墨付き」が在った訳では無い。
それは「647年の発祥時の経緯」の差だけであり、伊勢の「皇祖神の地の守護の経緯」の違いだけである。
後は同じである事も事実である。

「近江」にして見れば、”朝廷との直接の繋がりの場にいた自負”もあった事も事実であろう。
「青木氏の氏是」にしても、”「危機存亡」の折に「氏是」に拘るのか”と云う考え方もあった様でもある。
況してや、この”「青木氏の氏是」は、「施基皇子(伊勢青木氏)の遺言」でもあるだけではないか”と考えた事も事実である。
そもそも、「川島皇子の血筋(近江佐々木氏始祖)」も持つ「近江青木氏」に執っては、「青木氏の氏是」がある事は認めるも、「伊勢青木氏」が思うほどの「絶対性]は無かった事も否めない。
(資料にもそれと読み取れる一文もある。)
この点から考察した場合は、末裔としての「後勘の判断」としては、納得はしないにしても「近江青木氏の言い分」は排除でき得ない。
「二つの伊勢青木氏」もその分での配慮もあったと考えられる。

然し、雌雄を決して、最悪全ての「青木氏」が「滅亡の憂き目」を受ける事は避けなければならない。
役務である以上は、「近江青木氏」等の様に、”一か八か”は成り立たないと考えた筈である。
これは、”「青木氏の問題だけでは無い。事は朝廷まで及ぶ」”と租借していたと考えられる。
従って、「伊勢側」は、”「知略」を使って遣るだけの事はしよう”と考えた筈である。
現実に、上記した様に「知略」の限りの「援護と庇護」を行った。


現実に、記録にある様に、「平家軍」も「信濃域」に転戦していた「軍勢」をこの「美濃の戦い」に呼び寄せての戦いであった。
これで、場合に依っては「秀郷一門」が出て来る事も予測して「平家軍」も準備はしていた事が判る。
近江には、「近江の蒲生氏」(後の「伊賀の戦い」の指揮官 西の公家政権の監視役)、「美濃」には、「州浜紋類]と「片喰紋類」の「秀郷流青木氏」が定住地である。
この「秀郷軍(主軍は青木氏)」が動けば、「平家軍」は明らかに「挟み撃ち」に合う。
「持久戦」に持ち込まれれば、「平家軍の全軍餓死全滅」である事は間違いは無い。
故に、そこに至る前に慌てて「富士川合戦」に持ち込んだのである。
そして、形勢が決まると直ぐに軍を引いたのである。
当時の「三大組織的軍事力」は、「源氏力、平家力、秀郷流青木氏力」であった。

「近江青木氏」が考える事とすれば、”何故、「合力」は別としても、「滅亡」までに至らなくても手前での「援護なり救援」が無かったのかである。
”あれば、「滅亡」までには至らなかった”と考えていたのではないか。

況してや、歴史を通してみれば、「伊賀の件」でも、又しても、同僚の秀郷流「蒲生氏郷」が指揮官であった。
この釈然としないものが代々あったのではないかと考えられる。
然し、「伊勢側」から観れば、”何を勝手な事を”と成る。

「関ヶ原戦い」、「大阪の陣」共に助けは無かった事から、又しても「裏切られた感」を持っていたと観られる。
[富士川の戦い」の時にせよ、「伊賀の戦い]の時にせよ、「大阪三戦」の時にせよ、「徳川除封」の時にせよ、”「賜姓五役」で繋がる青木氏同族”でありながらも、何れも「秀郷一門の合力」は一切無かった。
「同族青木氏」と観れば、普通は合力程度はある。
現に、「伊勢の皇族賜姓族の青木氏」の賢明な側面からの「救援と庇護」はあった。
「人心」としては比較されるは常道である筈である。

(注釈 「青木氏の氏是」は、「賜姓五役と三つの発祥源と国策氏」の「役務」から、”「他氏への仕官」”は「最も厳しい禁じ手」である。
あくまでも、”朝廷が認める「永代地権」を持つ「郷士、国人の範囲]で留めなくてはならない。”
故に、「五家五流青木氏」は、永代の「不入不倫の権」に護られていたのである。 
この「掟」も「近江青木氏」は「信長秀吉の家臣」と成って破っている。
「伊勢青木側」から観れば、”何をか況や”である。
実際も、矢張り、「援護 支援 庇護」はするも、その範囲では一応の「付き合い」はするも、「血縁の範囲」では、出所進退ははっきりしている。
然し、室町期から江戸期には至っても何も無い事もあり、付き合い難ったのではないだろうか。)

「史実」として、この様に成るが、調査研究を進めているが、的確な資料は「青木氏」の中では「直接の血縁」と成るものは出て来ない。
恐らくは、筆者の観方は、「伊勢側」が後に末裔がこれらの歴史を恣意的に”隠した”のではないかと観ている。
当時の慣習としては、何らかのものがあるのが普通なのであるが無い。

唯、「忠元側」にして見れば、「賜姓五役の補完」としての「青木氏の氏是」に縛られていた事が在る。
非常に難しい立場であった事も判る。
然し、”「伊勢の皇族賜姓族の青木氏」の賢明な側面からの「救援と庇護」(知略)はあった” 程度の事は出来た筈と観られた事も考えられる。
逆に、この「救援と庇護」が目立った事も考えられる。


そこで、別の方向で次ぎの研究をした。
「皇族賜姓族」では、「伊勢青木氏」、「信濃青木氏」、「近江・摂津青木氏」の三氏と、「特別賜姓族」では、「伊勢秀郷流青木氏」、「関東秀郷流入間青木氏」、「讃岐秀郷流青木氏」の三氏に付いて調べた。
その結果、その「家柄格式」からして、一寸、”「不思議な血縁」”と観られるものがあった。

それは「本家、分家、支流」の如何に関わらず各所に存在していた。
特に、その傾向として、秀郷一門一族の中でも、「関東の秀郷流青木氏」に多く存在していたのである。

むしろ、「秀郷一門宗家」よりも「第二の宗家」と呼ばれていた「青木氏」に起こっている。
これは、「秀郷一門宗家の血流」を護る為に、防護していたと観られる。

唯、その中でも”「青木氏の分家筋」”が「青木氏宗家」に代って「他氏との血縁関係」を結び、その「政略的な働き」をしていたと云う事に成っている。
つまり、「他氏の血流」を入れていると云う事である。
その「血流の入れ方」には色々な方法があるが、特徴的な方法は、”「婿養子」”が断然に多い。
この”婿養子”は、「秀郷一門の主要八氏」までが採用している「類似の四家制度」を超えている。
「四家制度の範囲」に無いところからの”「婿養子」”に成っている。
添書に書かれている内容からではあるが、ただ、「氏名」からの判断で観ると、「藤原氏北家筋9氏」からは超えていない。


唯、「類似の四家制度」を厳格に採用している「秀郷一門主要五氏」も、”ある面”で「他氏との血縁関係」の血流を護りながらも適度に行っていた模様である。
しかし、それには、無規則に行われているのでは無く、ある歯止めの様なものがあった。
その中でも、その”「婿養子の血縁」”には、”「主要五氏の調整役の進藤氏」”が頻繁に関わっている事が判る。

この「秀郷一門の主要五氏」の「文行系の進藤氏」は、“他氏との血流を広く入れる役割”を果たしていたと考えられる。

ところが、その割には、「文行系の進藤氏の本家筋」が、目立って「跡目」に苦労している系譜に成っている。
矛盾している。これが「不思議の一つ」であるのだ。
ここには、”何か婿養子の血縁に隠された何があった事””が云える。

その”隠された何かあった”と云う事が判れば、重要な青木氏の生き様の判断要素に成り、当時の「青木氏が持つ歴史観」と成り得る。

”何か不思議”で、先天的に”「女系族」”なのかもしれないが、そもそも、この”「婿養子の跡目」”が頻発している。

するとこの結果、他氏から入る事に依って”「一族の血流性」”(純血性)が低下して、結果、「子孫力と組織力」が低下していたのであろう事が判る。

「女系性」が進藤氏の一族枝葉全般に起こる現象でも無い筈である。
依って、問題は「女系性」では無く、「一族枝葉全般に起こる確定的な現象」と成る。

それは、そもそも、「四家制度」の様には行かずに、「嗣子のやり繰り」が一族内で効かなくなる傾向があった事に成る。
その結果、挙句の果てには、「血流性」が三代内で低下する事に成って、「他人性」が増して、”「一族争い」”が起こる事に成った。
そして、益々、”「跡目継承者が少なく成る現象」“を起こす傾向が頻発して、それが常態化して仕舞った。

恐らくは、この現象が起こっていた事が判る。

この傾向は、「文行系の一族」にも観られる現象ではないかと判断できる。
添書には、娘の嫁子、他氏養子、婿養子、跡目養子、養女、養子等の形であるが、婿養子の血縁が多い事が云える。
「一族存続の在り方」に付いて一つの「文行系の考え方」が在ったと観られる。
それが、「文行系進藤氏」の様に、はっきりとして「秀郷一族一門の中での役目」であったかは判らない。

重要 これが”「婿養子の最大の欠点」”とされていた。

「調整役」を務めいた「進藤氏一族」が典型的な見本である。「青木氏」はこの「進藤氏」を観てこの事を
充分に承知していたと観られる。
その為にも、「主要八氏」内で採用した「伊勢の四家制度」に類似した「秀郷流青木氏の四家制度」の理由の一つと成ったと観られる。

(注釈 この「進藤氏」に付いては、前段でも「円融期の青木氏発祥」に大きく貢献を受けた事を書いた。)

そこで、この「秀郷一門」の「調整役の進藤氏」が、この「近江の青木氏」の事に関わっていないか調査した。

そうすると、この「近江青木氏の血筋」を受けた”「脩行系青木氏」の存在”が出て来たのである。

実は、この「脩行系青木氏」は、「秀郷一門の4代目文行の流れ」の「文行系の青木氏」である。
「伊賀の青木氏」と同じく「特別の青木氏」である。
「秀郷流青木氏」は「4代目兼行系の青木氏」である。
前段で論じた様に、本来は「青木氏」が出ない仕来りに成っている。
然し、出ている。
実は、この「脩行系青木氏」は、ある背景があった。
京に在し”「公家青木氏」”と云われ「公家の血筋」を引く「青木氏」である。
この「脩行系青木氏」は、「文行系の進藤氏」の系列に入る系である。
この「脩行系青木氏」は、「近江青木氏との血筋」を持つ事から、特別に「青木氏」を名乗ったとされる。

この「公家青木氏の脩行系青木氏」は、南北朝末期まで「紀州北部の大掾位」を務め、「若山3000町歩」を所有していた。
ところが、南朝に加担した事から「紀州掾の除役」と成った。

一部は「讃岐秀郷流青木氏」を頼り「伊予土佐域」に逃避、主流は本領の美濃に戻った。
美濃と三河域を勢域とする主要の「秀郷一門の州浜紋族」である。
現在も、「和歌山県有田市」にこの「青木村」の地名は残っている。
ここには「脩行系青木氏」の末裔子孫はある僧侶の一族末裔を除いて定住していない。
唯、紀州には女系で繋がる傍系土豪の玉置氏等が現存する。
室町期に在住した「藤原族青木明恵僧侶」が開いた「明恵温泉」で有名な地域である。
この「青木明恵上人」は、紀州の「藤原族の頭目」として地元の民から慕われ、後に剃髪して上人と成った紀州、伊勢、奈良域では有名な人物である。

これが、「調整役の進藤氏」の採った「仲介」ではないかと考えている。

唯、この「近江青木氏の血筋」の受けた「紀州の脩行系青木氏」の「明恵青木氏の発祥期」が「室町期の何時」であるかは確定する資料が無いので現在は判らない。
「脩行系青木氏」は平安末期である。
若干、時代性にズレの疑問もあるが、然し、「明恵上人」として存在し、その末裔は有田近隣に遺しているので、この時期の事である事には間違いは無い。

考えられる事は、この「明恵上人一族」と「忠元の一族」が女系で繋がったかは不明なのである。
この事が確定されれば、「近江青木氏」と「忠元の青木氏」との関係があった事が証明できる。
然し、、現在は判らない。

(注釈 近江青木氏の一矩」が「紀伊守」に任じられたのも、この上記する紀州との所縁から来ている。)

筆者は、資料有無は別としても,或は消去にしても、「両氏の何らかの血縁」は無かったと観ている。
上記した様な意識の違いの事も長い歴史の中ではあり得る。
「進藤氏の仲介」があったとしても近江側が「拘り続けた事」もあり得る。
何せ「商記録」に出て来ないと云う事は、「伊賀の事件」以後にしても、「一矩末裔一族」は「伊勢青木氏の庇護」の下に「商い」をしているのである。
共に「商い」をしている立場でもあり、何かがあって当然である。
ここまでの”「消去」”は無いであろうから、”無い”と云う事は無いのであろう。

それは、「伊勢青木氏と信濃青木氏」は血縁を繰り返し、「和紙や商い」は元より明治35年まで深い親族付き合いをしていた。
この事を鑑みると、「近江青木氏」とも”ある”のが当たり前であるが、これは無いのである。

不思議に、「青木氏の商記録」には「近江青木氏」の事は出て来ない。

上記に記した様に、「越前」で「商い」を紹介し庇護しているし、直ぐ近くの「商いと防御の拠点の摂津域」にも庇護している。
何も出て来ないのは「不思議な事」なのである。普通は何かしら出て来る。

(注釈 史実としては、平安期末期には、滋賀で伊勢の上田郷から出て来た「荒くれ者」が滋賀に残留した「近江青木氏の跡目」の途絶えた「老婆とその娘」の家を襲い、その家を奪い滋賀青木氏を名乗った。
この近江に帰った本筋の「近江青木氏」が、この搾取の「滋賀青木氏」と「[青木氏奪還戦」を繰り広げ敗退した。
更に、秀吉の時代に再び、秀吉立ち合いの下で、この「滋賀青木氏」と青木氏奪還戦」を展開し勝利した。
この時の「近江青木氏」とは、「近江の青木一矩」であった可能性がある。この二件がある。)

解き明かせない疑問なのである。何か変である。
越前で「神明社」を通じて「商い」を指導し、紹介して江戸期中期には「大店」を営むまでに成った事も判って居る。
「近江の青木氏の血筋」を受けている「仲介役の進藤氏系」の「脩行系青木氏」が伊勢近くに居たにも関わらず無いのは不思議なのである。


上記の様に、「一族一門の血縁」に関しては、その「氏の存続」に大きく関わっている事は判る。
然し、血縁で解決できない何かも働いている事も「青木氏」の中で起こっていたのである。
これらの事は、「自然の成り行き」で起こる事は先ず無い。

一族一門の誰かが、一族一門を繁栄させる為に、仲よく護り合う体制を作り上げる為にも、その役目を演じているのである。

それが、下記に論じる「秀郷流文行系進藤氏」がこの役目を演じていたのである。

依って、この「進藤氏の動き」を調べれば、何かが判って来るのである。
現に、「九州の永嶋氏等」この事から判った事でもある。
従って、ルーツを調べる時には「進藤氏の動きや系譜」などを調べるのが通例である。

現に、上記の「脩行系青木氏」はこの「進藤氏系の一族」である。
このことから多くの事が判るのである。
「青木氏のルーツ」を調べる時には、この「進藤氏の検証」は欠かせない。
それにこの「進藤氏の系譜」には,特徴があって、「系譜」よりも「添書」の方が大きいのである。
従って、一見「系譜」では無く「歴史本」と観える。
読み込むには漢文の技量も必要として大変である。
読むだけでも大変なのに、その上にその文章に持つ意味合いなども読み取らねばならないのである。
「秀郷一門の歴史」を知るには、「古い時代の歴史観」なども会得するには、「佐々木氏の研究資料」と共に「青木氏の参考書」なのである。
避けて通れない「進藤氏」なのである。


この「進藤氏の系譜」は、この典型的なパターンを起こしていて、結局、「進藤氏の本家」が二つもある様な現象が起こっている。
そもそも、血縁を進めるこの”「婿養子」や「嫁子女」“には、この問題が「潜在的」にあり、「四家制度」では、「婿養子」を他氏から積極的には採らない仕来りに成っていた。
この理由には、更に、”「本家割れ」”のこの事も懸念していたのである。

「信濃足利氏系青木氏」でも、「信濃足利氏」でも、「甲斐青木氏」でも、「甲斐武田氏系青木氏」でも、「美濃土岐系青木氏」でも起こっている。
「青木氏族の関係族」にはこの様に起こっているのであるから、一族を上手く取りまとめる役割の族が必要に成っていたのである。
これが進藤氏と云う事である。

この「調整役の進藤氏」が強い影響の受けたこの“「婿養子の弱点」”とも云うべき現象を無くす目的から、次ぎの様な手立てを講じていた。

前段で論じた「円融天皇の目論見策」から、「秀郷一門」の「青木氏宗家」には、“「秀郷一門宗家」の「第三子」を優先的に跡目に入れる事” を、朝廷から「賜姓時」に命じられていた。
その「跡目」は、“宗家並に守られる仕組み”の中にあったのである。
この「仕組み」が、「第二の宗家」と呼ばれる所以でもある。
これで、「婿養子の弱点」を防ぐ事をしていたのである。
と云う事は、当時の時代の皇位族でも起こっていた事を物語るものであり、「天皇」も知って居た事に成る。

この様に「氏家が割れる現象」が出れば、「宗家」から強引に跡目廃嫡をしても「跡目」を入れる事で、「氏族の筋目」は又基に戻る事に成る訳である。

(注釈 「秀郷宗家の出自」と成っている「佐野氏」から跡目を受けていた。佐野氏は秀郷出自氏であり、一門の中でも主要五氏の中でも最高位の位置にいた。)

「秀郷流青木氏」の「始祖の千国」は、「千常」を嫡子として「秀郷の嗣子の第三子」である。
この系譜で、四代目の「兼行系の青木氏」に限って、殆ど、「婿養子の跡目」は無い。
その為に、「116氏」からの「嗣子の跡目」で繋いできている。
その中に、「秀郷一門宗家筋」から平安期から江戸初期までに「4回程度の跡目」が入っている。

これは、恐らくは、次ぎの様に成る。

「母方」で繋がる「賜姓族の補完と云う立場」を護ろうとする意志が働いていた事。
「第三子の掟」もあり、“「四家」“と同じ様な”「何らかの仕組み」“を採って居た事。

以上で判る。

「家紋分析]で観ると、「116氏」と云っても「本家筋」を中心に「跡目」に据えている。
中には、一度、「本家筋の嗣子」にした上で「青木氏の跡目」に成っている。
この場合は、「跡目」は「青木氏の本家筋の跡目」に成っている。

この様に、「秀郷流青木氏の四家方式」は、次ぎの様に成っている。
「秀郷流青木氏の宗家(本家)」は、「伊勢」の「四家方式の二段方式」に類似していた。
「伊勢秀郷流青木氏(本所)」は、「本所役」として、「賜姓五役の補完遂行の役目」がある事から、「五家子流の皇族賜姓族青木氏」と同じ「四家方式」に従っていた。


先ず、「主役の四家」(宗家 主要五氏)がある事。
その下に繋がる「副役の四家」(本家 主要八氏)がある事。
以上の「13氏の役柄」は「主役と副役」から構成されている事
「副役」は「16家」(本来32家 本家筋)から構成される事。
「主役の四家」と合わせると「計20家」(45家)の範囲で構成される事。

以上として「四家制度」に「類似する方式」であった事が判る。
唯、五番目の「計20家」(45家)は実際は厳密に護られていない。

「秀郷流青木氏」は、この「類似の四家制度」に伊勢以外は一般の氏族と同じく「本家分家制度」を採用していた。
これが全体で116氏に成る。
秀郷一門宗家の赴任地に護衛団として同行する事から、赴任地の24地域には現地孫などの枝葉末裔が発祥する。
この事から、「末裔の枝葉」は拡大するので、「本家−分家−支流−傍系」が必然的に生まれる。
「45家」が厳密に護られていなかった理由は、「現地孫の枝葉末孫」が原因していた。
要するに、「現地孫」は「現地の土豪勢力」が主体であった。
この「現地孫」は、前段で論じた様に、朝廷の「青木氏賜姓の暗黙の条件」であった事から、避けて通れない仕来りであった。
その為には、必然的に護れないシステムであった事に成る。
「赴任地」の「土豪の影響」を強く受ける「現地孫」である事から、論理的にも現実に護る事が無理であった事が判る。

この、現地の役務上から発祥する「末裔枝葉」には「四家制度」は一切採用されていない。

類似制の「四家制度」は、武蔵入間の「総宗本家−宗家−本家」の範囲までで引き継がれていた。


この部分を綿密に調べると、類似制の「四家制度」が護れる範囲に於いては、明らかに“不釣り合いな「政略上の血縁」だな“と云う縁組が出て来る。

「総宗本家−宗家−本家」までは入間に定住する事に成るので、長い期間の「慣習仕来り掟」は護れる。
然し、これ「以下の枝葉」は現実には上記した様に難しく、この様な、「不釣り合い」の婚姻が生まれたと観られる。
既に、調べた範囲では、「45家の範囲の末端位」までは影響を受けていた事が判る。
家紋分析と主要八氏の系譜の添書からはっきりと分析できる。
恐らくは、時代が進めば、更に「45家」を超えて、「32家」、更には「13家」と進む可能性が有ったと観られる。
現実に「家紋や系譜」では、最早、辿れない処の江戸末期では、起こっていたのではないかと考えられる。

故に、116氏もありながら「あらゆる伝統」が不思議に遺されていないのはこの事から来ていると考えられる。
「ルーツ掲示板のお便り」にもよくこの事が現れている。
最早、殆どである。

比較対象として、「四家制度の伝統」を頑なに遺した「伊勢青木氏」と「信濃青木氏(諏訪族含)」と「近江佐々木」には、その”「伝統」”は比較的遺されているのはこの事から来ていると観ている。

(注釈 「甲斐青木氏」は僅かに子孫を遺したが、「甲斐賜姓族青木氏」は僅かに遺しているが、兎も角も、「武田氏系青木氏」は、「武蔵の鉢形」に家康に集団移住させられた事もあって遺されていない。)
この「四家制度」が「伝統のパラメータ」と成り得ている。
依って、この「上記三氏」も恐らくは同じと観られるが、伊勢は、最早、筆者の代で間違いなく「終わり」である。
「四家の背景」と成る「慣習仕来り掟」と相対の位置にある。
「伝統の価値観」が全く異なる。個人では支えきれない「事の流れ」の中では仕儀無き事と考える。

「秀郷流青木氏の系譜の状況」に話しを戻す。

例えば、この中には、「時の政権」の「京平家」との「直接血縁」に関わる「縁組」らしきものが、五代の内に四代も続けて起こっている事が読み取れる。

「平家一門からの婿養子の縁組」
一つは、「関東の京平家筋」(平氏の岡田氏 武蔵青木氏に)
二つは、「関西の伊勢域筋」(平氏の嶋崎氏 武蔵青木氏に)
三つは、「京平家の近江域筋」(平氏の本家 蒲生氏経由、伊勢青木氏に)
四つは、「武蔵の京平家筋」(平氏の本家 千常の宗家経由、武蔵青木氏に)


以上の四ルーツである。

ここで、興味深いのは、「三つ目の京平家」から秀郷一門の「近江蒲生氏」に入り、その末裔の一人が「秀郷流伊勢青木氏」に入ったとしている事である。
そうすると、この人物は下記する「青木玄審梵純」である事に成る。

先ず、その第一点が、その子孫が前段と上記で論じ、下記でも論じる”「青木忠元」”である事に成る。

次に、その第二点は、下記するが、「京平氏の支流末裔」の「信長」は、この「京平氏の血筋」を引く「蒲生氏郷」を特段に可愛がった理由がここで一つ観えた事に成る。
「京平家」の中の「同じ家筋の血筋」を引いていた事である。
信長の家紋は、総紋を「揚羽蝶紋」にして、美濃の地域に分布する「たいら族」の「織田木瓜紋」である事からも判る。
この二点が大きく働いていた事に成るのではないかと観られる。


とすると、この「忠元」は、次ぎの様な関係に成る。
「京平家A(女系)」−「青木玄審梵純」−「青木忠元」
「青木玄審梵純」−「蒲生氏郷」
「京平家A」−「織田信長」

この三つの式から、次ぎの関係式が生まれる。

「青木忠元」=「蒲生氏郷」=「織田信長」

以上の関係式が生まれる。

以上の系譜から観ると、「伊賀の戦い」の根底が読み取れる。

前段で論じた「信長」の「青木忠元の扱い方」と「伊賀の戦い方」が明確に読み取れる。

合わせてこの事で、上記で”「疑問」”と成った「近江青木一矩一族と青木忠元の一族との血縁」が難しかった事がこれで判る。

(注釈 これは、「調査資料の有無如何」にも左右されているので、四件に関わらず、他にも多く観られる筈である。)

この「血縁の現象」は、矢張り、主には、「鎌倉期末期から室町期初期」と、「室町期末期から江戸初期」の二期に集中している。

何れ二期ともに、例外なく”「勃興氏の発祥期」”である。
「青木氏側」では、「24地域」に定住した「青木氏の跡目」を護る必要から、より“隙間の出る時期”でもあった。
この事からも符合一致している。

実は、「青木氏の歴史観」から観て、この4つの”「不思議な血縁」”と観られるものは、次ぎの様に成る。

鎌倉期末期の「太平記」(1318−1368年)には三か所
平安末期の「東鑑」(1180−1266年)には二か所
平安期中期の「承久記」(1221年)には二か所

以上の事が、「青木氏の事」(生き様)に付いて書かれていて「何かの縁組」があった事が読み取れる。

他に、「地方の古書」(東作志 因幡志 伊川津志 額田志など)にも”何等かな形”での「青木氏の生き様」が描かれている。

特に、「伊川津志」や「額田志」は「青木氏の定住地」でもあり、且つ、歴史的にも「額田」は、「青木氏の生き様」の大きく有った処で、「有名な史実」が遺された地域でもある。

この事が「古書」に態々書かれていると云う事は、それだけに、“青木氏の血縁に掛かる関心”が、「氏家制度」であった為に一般社会にも強かった事を意味している。
つまり、周囲からは「青木氏」と血縁する事が、“将来を約束された様な「羨望の目」”で見られていた事に成る。

これらの読み取れる「生き様」から観ても、他氏は、“「青木氏」に何らかの形で取り入った血縁関係に関わるもの”である事が記録されている。

その多くは、「遠縁」と目される立場の要するに“「縁籍筋」”からである。
要するに「四家方式」、又は、「本家方式」の”「縁籍筋婿養子」”で入ったと観られる縁組で興った「青木氏」である。

つまり、「純血性の血縁」と「吊り合いの取れた血縁」を基本にして「縁籍筋の血縁筋」で子孫を繋いでいた事が判る。
そして、時々、「政略上の婿養子」を“他氏から入れる”と云う「仕来り」で運営されていた事に成る。

そもそも、「四家制度」とは、ただ恣意的に“「政略的な婿養子」‘を排除したところが異なるだけある。
そこで、「秀郷流青木氏」の本家筋までは、ほぼ同じ「子孫存続の方式」、況や、「慣習仕来り掟」で「氏」を運営していた事に成る。

実は、この「四家制度」を敷く「伊勢青木氏」でも、上記した様に、当に、この“サンプル”とも云うべき出来事が現実には系譜を調べると起こっているのである。

伊勢が混乱に巻き込まれた天正期に、「青木氏の遠縁」が持つ縁籍筋から、この“「政略的な婿養子」”が入っている。
つまり、「家紋分析」でも判るのだが、完全に「血縁性の無い他氏」で「東隣国の豪族」からである。
普通、本来は、「四家方式」では、明らかに「縁外」である。対象外の血縁と成り得る。

ただ、上記の様な「20の顔の問題」があって、この「縁籍外」の形で入ったこの“「婿養子」”は、「放蕩三昧」にて問題を起こした。
そして、「四家の福家」からの注意も聞かずに、遂には、「四家主役の福家」から「養子縁組」を早期に外されて「追放の処置」を受けている。
この者は、「青木氏部」を統括する「四家の5の面 20の顔」の一つに組み込まれていた。
どの「部の者」かは不明であるが、「青木氏部」は、そもそも「技能技術の必要性」から「長年の経験」を必要とし、「欠員」が起こる可能性が高かった事がある。
そこで、「遠縁」を通してここに付けいられた事に成る。

恐らくは、調べた範囲では、”「神明社建築」に関わる「絵画の部」”に問題が起こったものと考えられる。
この者は「職人」で「高い仕事知識を持つ者」が、「他氏]に居て、それが「遠縁筋の配下」に潜入した。
そして、主家に取り入り、その後に優秀であった事から「四家」に最初は「弟子入りの形」で入った。
後に“「婿養子の形」“で廻された事に成るらしい。
この者が放蕩三昧で外された後も、この「養子縁組の青木氏」は、「明治3年の苗字令」で、その末裔は引き続き「青木氏」を名乗っていて「子孫」を拡げている。
現在も、関西の和歌山南部と大阪のある地域で「伊勢青木氏の末裔」と名乗っている。(元は藤田姓)

矢張り、これは「自らの家の名声」を高めようとする行為であって、“除名追放された汚名”が在るにも関わらず、「姓名」を基に戻さなかった事が証明されていて、現在でも“末裔だ”とも吹聴している位である。
「当時の内容」から観て、「福家」も驚くほどの非常に才覚の訊く有能な人物であったらしく、“撹乱して跡目を乗っ取る手順”であったが、上記する“「四家制度」”の「チェック機能」が「四家の青木氏」に働いた。
そして、この時期に伊勢周囲の他氏の乗っ取り成功例の様には行かなかったと云う事であろう。

(注釈 9件も伊勢域で興っている。 主に「信長」が郷士や土豪に仕掛けた「伊勢謀略」の「北畠氏関係」で、 歴史上で有名な事件になったのが2件も起こっている。
この内の1件であった。)

これは、恐らくは、失敗に終わったのは、“「四家制度の中味」”が充分に理解されていなかった事に成る。
これは、史実でも明確に成っているが、“「信長の伊勢策謀」”の一つであった事ではあった。
しかし、失敗したにも関わらず、この除名追放の後、「青木氏」を「姓名」として名乗り続けたのは、その者が「信長の威光」を恐れて、その後も「最低限の策謀」を続けていたと観られる。
この「四家」に対して、この「策謀」を潰し続けていた事が、「南伊勢」」と、「桑名」と「脇坂」と「上田」の「青木氏」の「三つの出城のある地域等」で、「青木氏の土地の混乱」が同時期に起こされている。

「南伊勢地域」を含む土地(地主)には、「青木氏の和紙の楮の殖産地」が在った地域である。
この記録から観ると、「出城・寺城への直接攻撃」が記録の中には無い事から、「伊勢シンジケートの反撃」を恐れての事であった。
その「攻撃対象」は、「殖産地の畑地の破壊工作」などに向けられての「撹乱」が連発して起こされている。
「信長」からその様な指示を受けていたと観られる。

この様に、“「四家方式」”では成り立たない縁籍が、「東隣国」(家紋から信長の影響を受けた土豪)から組まれていてた。
この排除後も「小さい混乱」が続いているところから、明らかに何らかの「政略的な謀略」が働いていたと観られる。

「青木氏の四家制度」の中では、「婿養子の策謀失敗」でも判る様に、「乗っ取りに依る内部撹乱戦法」は通用しない事が判って、「乗っ取り」を止め、「家臣を含む北畠氏関係族」に仕向けた様に、「周囲の攪乱戦法」に出て来たと観られる。

(注釈 実は、先祖は、「信長」には理解を示しながらも、取り分け「秀吉」に対して余り良くない人物評価をしていた様である。
これが口伝にて良く伝わっている。)

(注釈 役無き事とは思うが、末裔の筆者の「織田信長」評は、「青木氏由来書」の再現を担った事から「様々な歴史観」が生まれてか、先祖とは異なっている。)

そもそも、「猪突猛進 直実激情型 無悲無情」と評価され通説化されているが、決してそうでは無意。
筆者は、元より口伝に依る先祖も、これほどでは無く、“極めて戦略家”であったと観ている。
その「信長が描く戦略」が、「人の数倍」もの領域までの“「読み計算」”が、頭の中に“絵に観る様”にまとめ描かれていて、これを「凡人」から観れば、それが「異常の領域」と映っていた事であろう。
「偉人賢人の信長」からすると、 “何でこんな程度の事が判らないか”と観ていた事の、その”「落差の行動」“が通説化したものと観ている。
「秀吉」はそれを理解していたのであろう。

通説化した「猪突猛進 直実激情型 無悲無情」の程度の人格を持つ人物が、室町期の戦国の中で、人を動かす事が出来なければ、一土豪の支流から天下を取るまでの者に成る事は不可能である。
これは現世においても同じである。“「社会の通説化」に論理矛盾”が生まれている。
その論理から観ると、「明智光秀の堅物」は、通説では逆に「賢者」の様に云われているが、「伊勢青木氏の論理」では”「愚者」“と成る。

(注釈 関西の言葉で、一々の事は”賢い”のだが、常に結果として良い結果が生み出されない人物の事を、”かしこあっぽ”と云う言葉で呼ばれる。)
 
故に、「信長」を理解していた”秀吉は天下が採れた“とする論調である。
確かに、「伊勢の信長仕儀」を具に観れば、通説では成し得ない事が良く判る。
「信長」に最も信頼された“「蒲生氏郷の治世」”からでも「信長」の考えていた事が良く判る。(下記)
依って、「二つの伊勢青木氏」は、この“「信長の仕掛け」”に早めに気が付いて手を打った事で難なく終わった。

この事は、先祖が「信長評」に対して、「稀にみる戦略家」と観ていた事を物語る。
それだけに「婿養子」を含め「伊勢衆の周囲に起こる事」に付いては、“警戒をしていた”と云う事であろう。
其れが「早目」と云う処置に出られたと観ている。
そもそも、「四家制度」から選ばれて、「伊勢シンジケート」から「信頼された福家」である。
それほどの「愚人」では無かった筈である。
「通説化の様な人物」ではなかった事を意味するし、もし「通説化の様な人物」であれば、“婿養子”は採らない程度の才覚は充分に持ち得ていた筈である。

然し、その後は、この「乗っ取り」に依る「撹乱戦法」の「初期戦」から、「名張の清蓮寺城」の「中期戦」に持ち込まれて、最早、手を引く事は出来ずにいた。
そして、この“「流れ」”に委ねる事以外には無く、「悠久の禁」を破ったのである。

(注釈 「伊勢シンジケート」を使った「ゲリラ撹乱戦法」を採った。)

この“「ゲリラ戦法」を採った“と云う事に大きな意味を持つ。
「通説化の様な人物」であるとすれば、「ゲリラ戦法」は、最早、適応する事は出来ないし通用しない。
もし、「通説化の様な人物」とすれば、「子孫存続」を前提とすれば、「商いの部」や「青木氏部」を遺したままで、一時、新宮に早急に、”「青木氏」“だけは引く以外には適用する方法は無かった。

そもそも、「二つの青木氏」は「賜姓族」として、「子孫存続」が「絶対命題での氏是」でもある。
確かに「三つの発祥源」ではあるが、「武士」の様な「武の仕儀」は採れない立場にある。
「ゲリラ戦」を採らずに必ず引いた筈である。
然し、「ゲリラ戦」を採った事は、「通説化の様な人物」ではないと観ていて、先祖は“「戦略家の評価」“を持っていた事に成る。

「戦略」、即ち、「知略」である。
「知略」には「知略」を以って応じるが「戦いの常道」である。
この「ゲリラ戦」には、この様な意味が含まれているのだ。

実は、この全く同時期に、「村上源氏」(「具平親王」の「公家源氏流」の支流末裔)の「伊勢北畠氏」に「織田信長」の次男の「信雄」が「跡目養子」(1569年)に入った。
然し、「北畠氏」の内部(1575年)を撹乱して、北畠氏(1576年)を潰している。
当に「武」では無く「知略」を以ってして応じている。
この事で、「通説化の人物」では無く、「戦略家」である事に間違いはない。
つまり、「先祖の判断」は正しかったと観ている。

そもそも、この「北畠氏の村上源氏」には、他に「致平親王」の正規の「賜姓村上源氏」がある。
つまり、「嵯峨期詔勅」による「第六位皇子による賜姓族」ではない「公家源氏」で「武家源氏」では無い。
「公家源氏」である。
この”「公家源氏」”には、そもそも大きな性質上の意味を持っているのだ。

この事の意味が、後に「大きな意味」を持つ事に成る。

「青木氏」はこの事を読み込んでいたと観られる。(下記)

その後、この「信雄」は「織田氏」に戻している「撹乱の戦法」の有名な事件である。
室町期末期には、「信長」の“「京の権威」に対する挑戦”、即ち、「比叡山焼き討ち」「石山本願寺攻め」等があった。
しかし、その前に、この「公家の北畠氏」は、「建武中興」にて伊勢が「不倫の権」で護られている「伊勢」に恣意的に移動した経緯があった。
そして、「他の土豪勢力」を排除して、遂には「南伊勢国司」(1555年以降 具房)として勢力を張っていた。

(注釈 当時、鎌倉期から室町期中期までは、西東に「政権」があり、西には「公家政権」、東には「武家政権」と云うものがあった。
夫々役割を決めて政権を維持していた。然し、実質は「東の武家政権」から人を廻し、監視していた。
江戸期まで現実にはあったが、「有名無実の状態」であって、上記した「名誉官位の授与」だけのもので、「武家諸法度」で縛られて無力と成った。)

この「西の公家政権」から「国司」に任じられた「北畠氏」は、この「政権力回復」を狙う「裏工作」と観られていた。

(注釈 他にも四国なども「武装勢力化した公家」が50年程度の間支配した期間があった。)

(注釈 鎌倉期から戦国に成って、益々、「天領地」が奪われ減少して行く中で、「聖地の伊勢」は唯一の「天領地」であった。

そこで、何とかこの「天領地」を護る事の為に、「朝廷の意向」を受けての伊勢移動であった可能性が高い。

この時期、全国各地で、「公家勢力」に依るこの様な「領地略奪の行動」が起こっていた。
殆どは、室町期に成って、平安末期に禁止された「荘園制度の名義貸し制度」を利用した「公家側」の無茶な「背任行為」であった。
室町期の末期に成って、「名義を貸した地方の荘園」であった土地は、「名義貸人」のものだとする一種の「略奪横領」であった。
この現象が「有力な公家族」によって「朝廷の権威と威光の力」を背景に全国各地で起こった。
多くは、平安期には天皇や公家等の「名義貸しの土地」も含む、所謂、“「天領地」”が殆どであった。

本来、「公家」は「武力を持つ事」は「天智期からの禁令」であるが、“室町幕府の統治力の低下“でこの様な現象が起こった。

そこで、「伊勢神宮の遷宮地」の「伊勢の聖地」は、「伊勢四衆」に依って護られていたが、朝廷は「最後の砦」の伊勢を護る為に、早々と鎌倉期末期に「公家源氏」(北畠氏と呼称)を差し向けた。

この様に「伊勢」に限らず、「武家社会」に成り、全国各地で「天領地」や「公家地」が益々奪われて行く中で、「天皇の権威」だけでも護れなく成った事から「天皇の意向」を受けた公家自らが武力化して「実質支配」を図ったのである。

(注釈 この時の潰された伊勢の土豪や郷士等の多くが、「青木氏」の「伊勢シンジケート」に入った。下記)

ところが、この「伊勢」には、この「北畠氏」とは「生き様」が異なり、且つ、「信長」が嫌うこの“「権威の象徴」”とされる数少ない「氏族」があった。
即ち、“「伊勢四衆」”が、古来より定住して「聖地」を護る為に集中して居た。
従って、「後口の衆」と成った「公家で武家を演じる北畠氏」が居る事で、伊勢域は、「紫の色」から「紅の色」に成った。
この現象を「信長」にも周囲の社会からも観られる事に成って仕舞った可能性が有る。

「紫の色」は、そもそも「最高権威を指し示す色」で、伊勢は奈良期より”「紫の聖地」”と定められていた。
その「紫の聖地」が「紅」に変化したと万葉歌にも詠まれ云われていた。
当時の様子を端的に物語る「色言葉」である。

其処に、室町末期には、この「特定の権威社会」を潰しに掛かった「信長」が、「伊勢の勢力」北畠氏や六角氏等の排除に掛かったのである。
その「標的」と見做されたのは、上記の背景で伊勢に入った「北畠氏」であった。

(注釈 「特定の権威社会」に付いて、“「布武」”を唱える「信長」は、そもそも、“「権威」”そのものを全面否定するのでは無かった。

それは「権威の支配」の中の“「絶対制」”だけを除き、“「武」を背景とする「共和制に近い支配体制」”を確立させたかったと観ている。

「朝廷」や「天皇」や「宗教階層」の“「権威」”そのものは認めるも、その「権威」が持つ“「絶対制」”の「排除」を狙ったものである。

況や、如何なる「共和制」も、結局は、“「上に立つ者の力の権威」”を少なくとも前提としているからで、“全く「権威」の無い処には「国家」は生まれない”が、「現世の条理」であるからだ。
「人の性:さが」はその様に出来ている。
この時代までの「社会の権威」は、「人の社会」、況してや「氏家制度」の中では、そもそも必要であっても良い。
しかし、その「権威」を以ってして “惹けらかし”、“「自らの利得の対象」“とする処に問題があった。

天正期までは、これを「当たり前の事としての概念」が社会にあった。
その「当たり前の概念」を良い事の様に利用する階層があった。
それが、“社会の発展に害を及ぼしている”と「信長」は受け取っていたのであろう。
(現在社会にも形は変わってはいるが未だ存在する。)

「信長」は、この事を嫌って、その対象を排除して、その代わりを以って“「布武の権威」”で統制して正しい社会構造を確立しようとしたのである。

結局は、「明治維新」には、この“「絶対制の権威」”を排除して、“天皇制に観る「形式上の権威」”は妥協として認めるも、上記する“「権威の弊害」”を排除した“「民主の共和制」”が敷かれた。
後勘からの事として、「信長の目指す社会体制」は正しかったと考えられる。

「信長」は、更に、これに「楽市楽座」の様に、“「交易社会」”を築こうとしたことが資料からも判る。
これは、まさしく「天正の300年後」に、“「信長の考え」”に近いもの“が出来上がったとは云える。
それだけに「300年前」の「凡人愚者」には、当に、“変人奇人の云う事“と受け取られものであって、”「理解の外」“であった事から起こった事であった。
その現象を短絡的に捉えて”間違った通説化“が起こったものであると考えられる。

そもそも、「伊勢」は、主に「奈良期からの氏族」である「伊勢青木氏」、「伊勢伊藤氏」、「伊勢秀郷流青木氏」の「伊勢三衆」にて収められていた。
そして、そこに平安期の「伊勢北畠氏」(天皇家の学問処の家柄)と、鎌倉期の「伊勢伊賀氏」(北条執権と血縁)と、新参の「伊勢長嶋氏」(室町期の「関東屋形」)が参入した構図であった。

そして、この「六つの氏」から「北畠氏」を除き、「五氏」は江戸期には“「伊勢藤氏」”と呼ばれた。
しかし、「伊賀氏」の前身を加えて、“「伊勢四衆」”とも云われた時期があった。
この「伊勢勢力」は、“「伊勢藤氏」”と“「伊勢四衆」”、そして、その配下に生きる「郷士や土豪」の“「伊勢衆」”が存在して居た。
しかし、この「北畠氏」は,そもそも「朝廷の学問処」でありながら、“「村上源氏の末裔」(実際の「源氏族」では無い)である事”を理由に、“「公家」”が事もあろうに「公家大名」を標榜した。
そして、あろうことか、「武」を以って伊勢の周囲の他の勢力(伊勢衆)を次々に排除して行ったのである。

ところが、その「勢いを背景」に、室町期末期には、この「村上源氏の傍系末裔」のこの「公家源氏」は、「伊勢」では「信長の伸長」に対し「武力」を更に伸ばし、それを背景に益々身を護ったのであった。
そこで、上記する考え方を持つ「武」には「武」で応じる「信長」は、これらの「伊勢藤氏」「伊勢四衆」と「伊勢衆」の「氏姓族」を潰しに掛かった。
これが有名な「天正の伊勢三乱 五戦」である。

「信長」の「所期の目的」は、この「武」に方より、「権威の悪弊」を生み出している「象徴たる北畠氏」を排除する事にあった。
ところが、この「権威の悪弊の北畠氏」に「伊勢四衆」の内の「伊賀氏と伊藤氏」が合力し「信長」に抗したのである。
そこで、「信長」はこの「伊勢四衆」に初期戦として、「撹乱戦法」で「圧力」を掛けたが、思いも寄らず「伊賀氏と伊藤氏」は引き下がらず「武力戦の激しい戦い」と成ったのである。
他の「伊勢四衆」の「二つの青木氏」と「新参長嶋氏」は、上記した「青木氏の基本戦略」に基づき徹して“表に顔を出さなかった”のである。

当に、奈良期からの「悠久の歴史」を持ち、「権威の象徴」の「氏族」であった「二つの青木氏」や、「伊勢藤氏」の過激に成った「伊藤氏」や「伊賀氏」等があった。
この事で、鎌倉期から伊勢は、「不倫の聖地」で有るにもかかわらず、下記する「招かざる者」の「武の北畠氏参入」に依って、“「策謀の渦」”の中に巻き込まれて行ったのである。

そもそも、「呼称北畠氏」は、京から移動して“伊勢の北畠に隠居所を設ける”と云う大義で、「不倫の伊勢」に移動して来た事から、「村上源氏の公家支流族」は、「公家」を標榜するも「武家の北畠氏」を名乗った。

「不倫の伊勢」にあって、乱世にあっても“「太平の地」”を築いて来た。
この「太平の地 伊勢」を「武」で以って「武家の勢力」を拡大させる事は、赤子の手を捩じるが如しで、極めて容易であると観た。
そして、ここに“「権威の公家」”から転身して“「富の武家」”の「氏」を興そうとした事が本音なのである。
そして、南北朝期に乗じて「伊勢全域」、特に、「青木氏」等の「伊勢四衆」か定住する「北伊勢」を極力避け、「南伊勢域」と「大和東域」に渡り「無戦」に近い形で平定して仕舞ったのである。


 「青木氏の本音」
この時に、多くの「土豪」と「郷士」等は排除された。
この時に「僧侶」や「修験道師」や「忍者」に身を変えて「伊勢シンジケート」に入り、「経済的背景」を確保して「生活の糧」を得て生き延びた。
後の「信長の伊勢三乱 五戦」でも生き残った「土豪」や「郷士」までも、又、土地を奪われた「農民や庶民」等までも、二度も「憂き目」を受けて「伊勢−紀州−奈良域」では「壊滅」に近い状態と成った。
「二つの青木氏」は、その立場から「元伊勢衆」と「悠久の長い付き合い」の「絆関係」にあったことから、「裏ルート」で「経済的支援」を行った。
そして“「伊勢シンジケート」”で“「元伊勢衆」“を保護した。
元々、「和紙や殖産」などでも繋がっていて、最早、「青木氏家人と青木氏部」との「血縁関係」でも繋がる”「徒ならぬ絆」“の関係にあった。
更に、「青木氏」に執っても、これらの「元伊勢衆」が消滅させられる事は「青木氏の衰退」を意味する事に成り、耐えられる事では決して無かった。

「信長と北畠氏」は、「聖地に住む伊勢衆」全てに執っては絶対に“「招かざる者」”と見做されていた。
「伊勢シンジケート」の「ゲリラ戦」で応じた「大きな背景」はここにもあった。(下記)
そして、室町期に成ると、事もあろうか、「招かざる者 北畠氏」は、「不入不倫の権」に守られた「伊勢の聖地」に、何と、ここに「京」に似せて、“「北畠三御所」”と呼称させて「館城」を建築した。
その結果、「南部の権勢」を誇っていて、遂には、その「財」を朝廷に注ぎ、その朝廷から「南伊勢の郡と大和二郡の五郡の半国司」に任じられる等したのである。
当に「公家族」が野心の侭に「戦国大名」化したのである。

ところが、全く「同じ時期」に、全く「同じ方法」で、「同じ理由」で、「同じ事」が、「讃岐秀郷流青木氏」が定住する「伊予、讃岐、土佐地域」にも起こっていた。
そこで、「京藤原氏」の「公家西園寺氏」が、平安末期から鎌倉期までの間、「伊予の名義荘園主」であったが、それを理由に伊予に乗り込み、強引に「讃岐藤氏」や「郷士」等の土地を押領し、挙句は「武力」を以って「土地」を奪い取って、遂には「伊予の戦国大名」と成った。
「北畠氏」と寸分違わずそっくりである。

(注釈 この時代の「京の公家族の背景」であった。西園寺氏、一条氏、二条氏等の「公家族」が各地でこのあらゆる形のこの行動を採った。
「朝廷」やこの「公家族」から云えば、「天領地とその関連地の奪還」と主張する筈で、室町幕府弱体の「武による権威の低下」で、この主張が表に行動として吹き出して来た現象と捉える事が出来る。
平安期の状況から観てみれば、その「主張と行動」にはある範囲では理解できる。
本論は“青木氏から観たもの”として論じている。)

(注釈 上記した様に、鎌倉時代の中頃から東に「武家政権」、西は「公家政権」が所轄する政治体制が採られた。
しかし、実際は、「武家」に、「公家族が支配する土地」が奪われる事が多発していた。
室町期に成っては、京都に置いた「幕府の守護職」や「土地の土豪」等によって、最早、「西域の公家政権」は「有名無実」の事と成った
それらに依って、公然と「荘園や天領地」とその「管理権」は次々と奪われて行った。)

室町期末期には、この事を理由にして「公家の力を持つ者」等は各地で「奪還作戦」が展開された。
「北畠氏」は、この鎌倉末期の変化に対して敏感に反応して、「伊勢地には持つ荘園を護る為に移動した。
そこに館城を建てて護ろうとし、それが結局は、管理地以外の伊勢域に勢力拡大としたものであった。
そこに「朝廷の意向:西域の公家政権」を反映する“「御所」”と呼称する「館城:政庁」を三か所も建設したのである。

この「西域の公家政権」は、江戸期には「幕府の公家諸法度」を作られて、無力化した。
その上で、形式上だけは江戸時代まで続けられた。
室町期には、この「有名無実」と成っていた「西域の公家政権」(京)を、「北畠氏の勢力拡大による武力」に依って、“「伊勢」にもう一度、再現復興しようと企てたものである。
そして、そこに”御所“なるものを造り、ここから”西域に勢力を伸ばそうとした“のである。
この為に、「北畠氏」は朝廷と連携を図った。
確定するに必要とする資料が見つからない為に出来ないが、鎌倉期にこの「西域の公家政権」の「監視役」として派遣されたのが秀郷一門の蒲生氏の祖であったことは間違いは無いと観られる。
「秀郷一門宗家」の「朝光]は、「頼朝」に合力して本領安堵(1192年)され、奈良期からの「遠祖地の結城」の地も戻る等し、自らも前段で『論じた様に「伊賀守」としても務めた。
この時に一門の者が「京の公家政権の監視役」(初代は脩行 近江掾)としてに配置されたのである。
(注釈 これが期に後に「秀郷流近江蒲生氏」の祖と成り、その役務柄から更に室町期に足利氏に仕え勢力を伸ばし蒲生[貞秀]氏を名乗る。)

しかし、そもそも、この「伊勢域」は、ここは奈良期から「皇祖神の聖地」であって、「政治や権力の場」には出来ない。
この事は、「伊勢の聖地」を護ろうとする「二つの青木氏」に執っては、到底、容認する事は出来なかった。
当然に、「布武」を標榜する「信長」も、上記する様に、“「権威を惹けら課す者」で「権威の利得を食む者」”としても認めなかった。

そして、この傾向は、四国にも起こったと云う事なのである。
この「西域の公家政権」の管轄域の特に四国には、「公家族」のこの「荘園や公領、天領地」が大変多くあった。
殆どは「土地の武家勢力」によって奪われていた。
そこで、公家の「一条氏」や「西園寺氏」等が奪還を図ったのである。
更には、これに便乗した「秀郷一門」の分家筋の“「関東屋形」”と呼ばれた「宇都宮氏」も、同族一門の「讃岐藤氏の讃岐青木氏」が支配する「讃岐」に入った。
「西園寺氏」と「宇都宮氏」は結託したが、その後に地元の豪族の「長曾我部氏」と「讃岐秀郷流青木氏」の抵抗にあい、攻められて排除され衰退した。
1584年には、「秀吉の四国攻め」で、何れも最後は掃討され潰される事が起こって50年程度で失敗した。

尚更、伊勢の「二つの青木氏」は、「信長の深意」がどうあろうと『布武』を唱える限りは警戒をしなくてはならないし、素直に容認する事は出来なかった。
「北畠氏の目的」は容易に判って居たが、この「聖地」を「政権の場」に引き込まれる事には容認できなかった。
では何れに味方するかにある。「青木氏]は悩んだ。
既に、「北畠氏」に関わらず伊勢は「新勢力の三氏」で浸食されている現実がある。
そもそも、「青木氏の役務と氏是」がある中でどうするかに関わる。

結局は、追い込まれて表向きは”「北畠氏に合力」(1569年)”と云う形を採ったのである。
かと云って、この「合力の形」に問題があった。
本来であれば、「軍」を所定の部署に廻し、「指揮官」が本陣に控える事に成る。
然し、記録では何れも処置していない。
然し、「商記録」には「合力した内容」となる事が書かれている。
「商記録」なので、「戦い準備」に関する「商いの内容」から記述されているとも考えられる。
この時の商記録の別の記録には、「福家」(指揮官)が新宮(1574年)に移動している事に成っている。
とすると、「指揮官」が本陣に詰めて控えていない事に成る。
つまり、「合力」が成り立っていない。

直前に「信雄の北畠氏の跡目入りの策謀」(1575年)が起こり敢えて控えた事も考えられるが、それにしてもおかしい。

「北畠氏」と「信長」との「戦いの初期」は、「具房との小競り合い」から観ると、1567年頃から始まっているので、福家が新宮に引く事は「信雄策謀」で引いた事には成らない。

そもそも、青木氏に執ってみれば、”「合力」”として仕舞えば、「近江青木氏」と同じに成る。
従って、「青木氏の氏是」に反する。
そこで、「反しない合力」の姿形を模索する必要があった。

然し、「抗する者」が、”如何なる者も容赦しない”とする「信長」に対し、どの様に対処するかに「氏是の知略」が当に必要とした。
”攻め滅ぼされる”と云う恐怖では無く、「整域」をどの様に護るかに心はあった。
戦えば、長期戦に持ち込めば先ず負ける事は無いし、この事は過去に「織田軍」に痛いほど示している。
後は「抑止力」を前面に見せつけた上で、幸いに「信長」が差し向けた「指揮官」が幸いに「青木氏」で繋がる「蒲生氏」であった事から、戦略は決まった。
「蒲生氏」を差し向けた「信長の翻意」を察した「二つの伊勢青木氏」は、「反しない合力」の姿の「戦略」は決まった。

それは、「合力」としながらも、一時、「遠祖地の紀伊」の「新宮の地」に「宗家の福家」だけ引く事にして、後は全てを残し、「敗退の体」を作り上げて時期を待つ事にした戦略であった。
この時に、戦いが本格化したした時(1576年頃)を見計らって「蒲生氏」との間で「裏話」が出来ていた。
そして、”数年後(1年後)に戻して、本領を安堵する”と云う「取り決め」であった事に成る。

(注釈 この経緯で考察すると、「商記録」は商上からのものである為に、年数に付いては公表されている「史実の年数」と比べると「緩やか」で記載されている傾向があるが、ほぼ一致して来る。)

指揮官の「蒲生氏」に執っても事が大事に成らなくて済み「伊勢での役務」は円満に片づけられる。

(注釈 「信長の思惑」以外に「蒲生氏郷の個人的な思惑」も働いていた。)

結局、その約束はそっくり護られ、且つ、それ以上に、松阪に城郭を築いた後には、「侍屋敷町(9町12町)」の上位武士が住む一画(9から11区画)を与えられた。

(注釈 可成り広大な土地に成る。「侍屋敷町(殿町)」である事から、ここには「店」は構えられないことから「屋敷」である。「屋敷」にしては大き過ぎる。)

「松阪城郭」は、「楽市楽座」に似せて「商業区画」も設けて、ここ松阪に巨万の富を持つ「青木氏の商い場」をも設けて、周囲の「青木氏の配下」の「旧来の商人の拠点 (伊勢商人と射和商人と伊勢伊賀の郷士衆」)とさせたのである。
ここに、後の「青木氏の動き」(射和商人などの事)を観ていると、「伊勢の商業組合」(「伊勢会合衆」)の様なものを最初に造ったのではないかと観ている。
これで、「青木氏と蒲生氏」は、経済で「伊勢の復興」を狙ったのである。

(注釈 「伊勢の商業組合」(「伊勢会合衆」)の歴史的な「創始者説」を証明する資料の発掘に取り組んでいるが、「状況証拠」だけの範囲に留まっている。
時代背景から考えても、「確定するキーワード」は「大豪商」に成る。
そうすると、これ以前にこの様な「商業組合的な組織」を「創設し得る古豪商」は数える程も無い。
この事から、歴史的に「会合衆」は伊勢から始まった事は確定している事も踏まえて、先ず間違いは無いと考えられる。
その前身と成る”「商業組合の組織作り」”は「蒲生氏郷の手配」で「侍屋敷町」を与えられ事務所を開設した事も青木氏の資料では証明出来ている事も合わせて、「青木氏」と成り得る。)
上記した様に「伊勢三乱の氏郷との裏工作」でも、松阪発展の為ににて「本領安堵」が約されていた事も証明されている事からも、間違いは無いと考えられる。)

平安期からの「摂津、堺」に大店を構えていた事から、安土桃山期からの「摂津堺の会合衆」にも参加している事から考えると、ここ「伊勢」に「青木氏」が最初に「伊勢会合衆」を創ったと観られる。

この「初期の商業組合の組織」は、前段でも論じたが、「伊勢の御師制度」から発想されたものである。

(注釈 平安期から起こった荘園内の商いの「座」があったが、寺や神社等で営業権を認めてもらって「本所」と云う場所を構築しそこで営む「限定された商い」があった。
然し、室町期にはこの「座」はあったが、「本所内での統制」を取る為の「組合」であった。
”「自由な商業組合 会合衆」”の記録は他に発見されない事から、「伊勢」が最初であると観られる。)

(註釈 実は、この時、秀吉に依って、実質の廃止令に成る「楽座令 1685年」が出された。
つまり、寺や神社や荘園を太らすだけの、即ち、「本所」による特権を持った「座」は禁止された。
この為に「自由な商業組合 会合衆」が見直され発展した。
この時に秀吉−氏郷の下に松阪でこの「新しい組合」を「青木氏」に依って始めさせたと観られる。)

その後に、桃山期には、「伊勢会合衆」は、地域を、「商人の出身地別」に二つに分けて、「山田会合衆」と「大湊会合衆(近江商人)」に分離したと観られる。
つまり、「松坂侍屋敷の三区画を与えられた史実」は、この「伊勢会合衆」を最初に創ったのは「青木氏」であった事を証明する。
「氏郷」は積極的に「楽市楽座」を築く為に、出身地の近江からも商人を大湊にも集めた。

その後、この「伊勢の商業組合」は次ぎの様に変化発展した。

イ 室町期末期(1578年頃)には、「松阪」に「青木氏」を中心とした地元の大小の「松阪商人」を集めて「松阪地区」には、初期に「松坂商人組合」を構築した。
ロ その後(1582年頃)には、松坂に「商人」に依る自治組織の「会合衆」を最初に構築した。
ハ 室町期末期(1583年頃)には、玉城の東横の内陸部の「山田地区」には、「青木氏部」から成る地元の「職人等の年寄り」による「自治組織」の「山田会合衆」が構築した。
ニ その後(1613年頃)には、「松坂会合衆」は、「玉城域」と「射和域」にも「射和商人」を養成して「商人」に依るによる「射和会合衆」を構築した。
ホ 安土桃山期には、玉城の東横の沿岸部の「大湊地区」には、この「元近江商人」に依る「自治組織」の「大湊会合衆」を構築した。
ヘ 安土桃山期には、「摂津堺域」にも「商人」による二つの「堺会合衆」を発展させた。

これらが発展して「伊勢商人」を始めとして、鎌倉期から興した「近江商人」「博多商人」「酒田商人」「伊予商人」「讃岐商人」「越前商人」「阿波商人」「米子商人」「松江商人」「摂津堺商人」等に依る多くの「会合衆」等が出来た。
これらは、江戸初期には、歴史的に「・・・商人」と呼称される地域には、全て「青木氏の定住地」と成っているのである。

この特徴には、戦略上の重要な意味があった。
「秀郷流青木氏の定住地24地域」には、例外なく「・・・商人」(豪商)と呼称されていた事実がある。
これは「赴任地の定住地」は、「重要域」でもあり、そこから「豪商」が出ていると云う事もあるが、そうでもないのである。
何故ならば、この「豪商」は全て出自が「武士」である事、多くは「二足の草鞋策」で「商い」を営んでいた。
室町期から、「豪商」に成るには、その背景を絶対的に必要とする。

一発勝負で「豪商」とも成り得るが、これは江戸期の安定期の話であり例外として、「商人」は別として[豪商」と成り得るには、この「室町期の戦乱期」では、殆どはその「資本力」や「商品力」や「調達力」や「運送力」や「安全力」等を必要とした。
これらを担保し得る「バック・背景力」を持っている事が「絶対条件」である。
それを獲得している事が必要があって、これ無しには「豪商」とは決して成り得なかった。
取り分け、「戦乱期」では、「運送の安全確保」が必須で、これなしには手広く「商い]は無し得ない社会状況であった。
「青木氏」は、その「安全確保手段」として、”「伊勢シンジケート」と「神明社組織」”の二つの手段を持ち得ていた。
これを有機的に使って「輸送の安全確保」を図っていた。

そもそも、「広域範囲」で「商品」を調達してそれを輸送しなければ「商い」は拡大しない。
即ち、「商人」には成り得ても”「豪商」”とは成り得ない。
故に、「安全確保手段」を広域に持ち得ているのは、特に室町期の「商人」の殆どは、「武家の氏族」の「二足の草鞋策」であった。
但し、「武家」であって、「武士」では無い。

「シンジケート」では、各地域にある”「シンジケートとの相互連携」”で「安全確保」をして行き、500社に上る「神明社」では、その「安全確保の情報確保」や「神明社間やシンジケート間の調整役」を演じた。
当然に、この「組織」を使って「商品の情報」も確保していたのである。

これは「陸送手段」であるが、「海上輸送」の場合の「安全輸送の手段」は、「伊勢水軍」が配下にあり、「青木氏」自らも「千石船の大船三艘」を以って海運し、この「護衛船役」として働いていた事が判っている。
記録には、”「駿河水軍」”の名が出て来るが、互いに連携して、「伊勢水軍の護衛船」で間に合わない場合は、「駿河水軍」が「護衛船」に入った事が書かれている。
時には、「荷駄運送」も務めていた模様である。
江戸期の初期の商記録の中に、「讃岐青木氏が営む廻船業との連携」もあった模様である。
この事から考えると、独自の「伊勢水軍の護衛船兼輸送船の必要性」が良く判る。

「青木氏の資料」には、この「輸送中の安全確保の手段(要領)」が実例として詳細に書かれた記録が遺されていて、この組織が有機的に活躍して居た事が判る。

「護衛役の人数」やその「役目柄の種目と配置」、「金銭のやり取り」の「取り決めや場所柄」まで実に詳細に書かれている。
「二つの青木氏の二つの組織」を有機的に動かせば「豪商」等何でも出来ると読み取れる。
本論で論じて来た事が、明らかに、大名ごときでは無いことが良く判る。
論を待たずとも遥かに超えている。
況や、「青木氏の実力の如何」が良く判る。
極論すれば、「佐々木氏」や「青木氏」や「秀郷一門」以外には無いのではないかとも思われる程である。
「豪商の出自」を調べれば、これを確定できるが、現在ある程度までは調査は進んでいるが論文には仕切れない。

(注釈 例えば、この輸送の大変さを物語る資料が「伊勢の青木氏の家人」であった家に遺されいる。
資料には、関東(江戸)に向けて荷駄搬送中、この荷駄には11人の警護の者が付き、6人が「警護頭役」を先頭に「荷駄警護」、5人が各役目を持ち「周辺警護」に関わっていた。
ところが、駿河山中で盗賊集団に襲われた。10人が戦闘に入り、1人が連携する警戒中のシンジケートに連絡、戦闘の結果、3人が負傷したが殲滅した。
その後このシンジケートは、この盗賊団根拠地を掃討したのだが、丁度、「シンジケート」と「シンジケート」の境目の地域で襲われたと成っている。
旅館一室で支払を済ました。とある。
この荷駄の「警護頭の家人」が「献務禄(報告書)」として書き記したものが遺されている。
良く、この状況を物語っている。
この「荷駄頭の名前」が普通では無く、”「俗称」(特別呼称名)”で書かれている。
この資料を遺した「伊賀武士」の家人は「伊賀青木氏」の配下の「伊賀者」ではないかと予想され、「青木氏家人」であった。
つまり、これは「伊賀青木氏」が「警護役」を一族として担っていた事を意味する。
この”「献務禄」”には、当時の事を物語る興味深い事が多く書かれている。
これ等を使って「室町期の伊勢商人の青木氏」の「豪商の程度」が読み取れる。)

(参考 豪商程度の概算
伊勢青木氏とそれに関わった関係族に遺された資料より算出
(  )内は各資料からの最大値を表す。
「商い」の関係部門を「四部門」にして限定して算出。

四家   20部門(青木氏の役数)
家人   数百人(最大 250人 直接の家人)
配下   数十名(最大 22人 支配の家人)
      小計a  最大 5500人

護衛役  数十組(最大 23組)
一組人  数十名(最大 20人)
      小計b  最大 4300人

他の役  19役(護衛役×19)
      小計A  最大 81700人

青木氏部 数十部(最大 12部)
一部人数 数百人(最大 250人)
      小計B  最大 3000人

水軍    3+数十隻(最大 24艘)  
      小計C  最大 1500人

神明社  488社(最大 500社)
      小計D  最大 2500人

「伊勢青木氏の豪商」=小計A+小計B+小計C+小計D=88700人

室町期の「青木氏の紙屋長兵衛」の「豪商」と云われる所以は、次ぎの「通りと成る。

「直接人容」から観ると、結局、最大で「88700人態勢」であった事に成る。

但し、これ以外に次ぎの部門も加算されるが、算出は出来ない。
イ 「伊勢シンジケートとの契約」
ロ 「秀郷流青木氏116氏」からの「本所の役柄の補完援護」
ハ 「菩提寺関係の人容」
ニ 「遠祖地の人容」
ホ 「殖産と興業の人容」

取り分け、イとロは計り知れない「人容と人様」と成り得る。

(注釈 何とか論じる事が出来ないかイからホに付いて研究したが、論じるだけの資料が出ない。)

唯、中でも最高と観られるロの「讃岐青木氏」の「瀬戸内の経済力」(主は廻船業)は比較的に資料が遺されている。
恐らくは概算では、1/5程度はあったと観られる。

ロの「関わり具合」を資料から物語るものとして、次ぎの様に成る。
「商い警護」と「商い情報」に「役目」として関わっていた事が記録されている。
つまり、「本所補完の範囲」を超えず、「商いの範囲」にも「補完」を上手く適用して運用していた事を示している。
「ロの青木氏の商人」の場合でも、この範囲を超えていない模様であった。
恐らくは、この事は資料から読み取るに、各地の「赴任地の護衛役」と云う”「威力」”を周囲に誇示させ、”「危険集団」”に対して「強い抑止力」を働かせていたと観られる。
その手段として、伊勢との「関連シンジケートの勢力」が届かない範囲では、敢えて何らかの形の「軍事行為」の”「デモンストレーション」”をしていたのであろう。
これが「資料の書かれていた内容」ではないかと考えると、文章表現と符号一致する。

(註釈 現在と違い「古文系の文章」は、「直接表現」は良しとせず「間接表現」によってその「文章の持つ意」を知らしめる文章方式であるだけに慣れないと難しい。)

故に、これが「豪商が生まれる地域=二つの青木氏定住地」と云う数式論が生まれた所以であろう。

”「豪商」 「500万石超」”と記されている事から、強ち、誇張では無い事が云える。

「88700人態勢」と「イからロ」を維持管理するには、逆に「500万石」は必要であろう。

「88700人態勢」=「500万石」と基準に観て、「研究室の論文」の「青木氏」を論じている。
(研究室論文の各所に記述 参照)


因みに、同時期の比較対象として、次ぎの事を参照。

全国の石高 「3000万石」
徳川氏の石高 「幕府直轄領 400万石]+「旗本領 400万石」=「800万石」

最裕福な「加賀藩」の石高 「102万石」(届出高)
「伊勢国」の石高 「55万石」

(米石高と産物を加算した石高)


(注釈 例えば、調査中の中で、「佐々木氏」の出自を持つ「豪商」には、全国的に不思議に「酒造業」が多い。
何故なのかは確定は出来ないが、恐らくは、”「灘酒」「近江酒」”の歴史(日本書紀等)を辿れば判る。
これは奈良期から「定住地の米」に関わる「租役と庸役と調役」の賦役を、「佐々木氏」が「守護」としてこれを「活用する役目」から生まれた「酒造」であったと考えられる。
それが末には「摂津商人」「近江商人」と成って行った。
これが「青木氏の和紙の経緯」のその「二足の草鞋策」から来ていて、古くから「佐々木氏の氏の組織力」を使って全国展開していたのではと観られる。

(注釈 そもそも「佐々木氏の研究」に「青木氏の部分」が、多く研究されているのは「同族である事」は元より、古来よりこの様な”「繋がり関係」”を深く持っていた証拠である。)

この様に、一発勝負や一朝一夜では無し得ない「これらを持ち動かし得る商人」を”「豪商」”と云う。

(注釈 前段の「伝統シリーズ]と「青木氏の分布と子孫力」の論文にも一端を論じた。)

これが、更には「赴任地の定住地」に”「豪商」”が生まれる所以なのであった。
つまり、其れ等は後に組織化されて連携して、「伊勢商人の青木氏」が「担保し得るバック・背景力」と成って行ったのである。

前段でも何度も論じている「博多商人」「越前商人」等を始として、上記に記述した「地域の商人」は、この「担保し得るバック・背景力」を持った「典型的な豪商」で当に「青木氏」である。
「商記録」に記載されている地域である。

つまり、伊勢の「二つの青木氏」が互いに連携しながら、「伊勢の本所」を中心にして、各地の「青木氏定住地の安定化」を謀る事を目的として、戦略的に「二足の草鞋策」を採用して安定化させたのである。
そして、この「24の商い組織」を使って、「相互間の商い」を発展させ、「青木氏の経済面」での「底上げ」と「氏力強化」を図った事に成る。

然し、かと云ってすべてが”「豪商」”とは成り得ていず、夫々、記録を観るに各地赴任地の「商人規模」には、大小がある。
この「商人規模の大小の原因」は、「特段の要因」は確認できない事から、矢張り、この様に「豪商に成り得る条件」が備わっていたとしても「商い力の如何」が影響してい事が観られる。

この「商い力の如何」とは、「商いに必要とする確固たる考え方」とか「横との繋がり」(立地条件)が必要とする。
所謂、「伊勢青木氏の和紙に関する殖産と興業」がそれを大きく物語っている。
これには,「讃岐青木氏」も”「瀬戸内”と云う海産物に関する同じ条件」を確立していた事が云える。
これらの「商い大小」には、上記する様に、「近江や越前や越後等の豪商」と成り得た「青木氏の共通する条件」であった。

前段でも論じたが、代表して特筆するは、当時の最大の経済拠点であった「瀬戸内」を中心とした「讃岐青木氏の松山・松江商人」は、「廻船業」等の総合商社を営んでいた。
それは「蝦夷地域の貿易」や「日本海の内回り船」に加え「太平洋の外回り船」をも始めて許可された江戸期最大の「総合商社」であった。

上記で論じた「近江青木氏」の「青木一矩と久矩」の子孫も「酒造業」等を手広く商ったこの「豪商」であり、”「越前商人」”と呼ばれる「豪商」と成った一人でもある。
恐らくは、上記した「近江佐々木氏の酒造業」に観られる様に、この同族の「近江佐々木氏ルーツの背景」を通じて営んだと観られる。

「青木氏の博多商人」も「ルーツ掲示板」にも論じている「大豪商」である。
「越後商人」でも歴史的に「秀郷流青木氏の豪商」が有名である。
中には、港では無い「内陸部の商人」として異色の「諏訪商人の青木氏」がある。
例を挙げれば、限が無いが、「長崎商人」として「長崎青木氏」からも「豪商」が出ている。
これ等は、決して自然の形で「豪商」に成ったのではない。
上記の「室町期からの豪商」等の研究でも判る事ではあるが、明らかに「室町期から江戸期の青木氏の戦略」として敷かれたものである。

そもそも、歴史を遡れば、「日本書紀」と「二つの歴史書」に次ぎの様な事が記載されている。
それは、奈良期に「信濃青木氏と諏訪族」は「租」を兌換する為に、「信濃の産物」を駿河の海側に運び、「海側の海産物」と物々交換して、「信濃に持ち帰る商い」をしていた事が書かれている。
この時に、「信濃側(諏訪)」は「馬部の職能集団」と、海側(駿河)の「磯部等の職能集団」がこれに関わったと記されている。(諏訪商人)
この奈良期から交易を始めていた事が「日本書紀」等の「歴史書」に書かれている。


今後、詳細に研究を進めて歴史的に観た「商人シリーズ」で論じられる位の興味深い充分なテーマでもある。

(注釈 そもそも、この様な「青木氏に関わる史実事」は、「史実」として「歴史上の表」には出て来ない。
依って、これらの情報を全ての「青木氏に知らしめる術」は生まれない。
「商業組合や会合衆」の「創始者としての青木氏の貢献」等の重要な事も、「青木氏」自らが研究して子孫に云い伝えなければならない。
「近江佐々木氏」も「膨大な氏の研究」を成しているが、「歴史上の表」(ネット)には出ていない。
ただ、「伊勢青木氏や紙屋院」の事で、研究されて脚本家で歴史研究家の某氏等が、「NHK大河ドラマ」の三つのドラマに「青木氏の商人の事」を表している。
「歴史研究の専門者向け単行本」でも5刊発表されてはいる。
又、「青木氏」とはルーツでは無縁の「5人の歴史研究家小説家」も「青木氏の研究論文」で公的にしている。

(注釈 全てこの5刊は、別の研究の過程で、この「青木氏に関わる事」が在って、その時の「青木氏に関わる研究」を別刊で「非買限定版」として「関係者」に有償で発刊したもの。
「佐々木氏の研究論文」の本体も同様の発刊である。「佐々木氏の青木氏に関する本」も別刊扱い。)

但し、「ネットに出る事」が「公的」とは決して思わない。
それは「ネットの根拠」の多くは、「江戸初期頃の搾取偏纂の資料」をベースにして「断定」している為に、「青木氏側」から観れば立ち位置が異なる為に信じ難い。
その意味で、「歴史研究家の単行本や発刊本」は、その説の論処を明確にした上で論じていて信じられる。
結局は、「単行本と発刊本」(非売品)は、「青木氏」に執っては極めて貴重である。
「ネット社会」とも成れば、真の「青木氏の伝統」に関して、そんなに簡単に発表される事はこれからは無いと考えられる。
依って、”「青木氏の伝統」”が霧消し資料が消失する中で、「青木氏」自らが研究して「青木氏用」に論じること以外には無く、これは宿命である。)


これ等の「経緯と背景」に依って、そして、この室町期からの「商業」が発展するに従って、江戸期に成って”「信長の楽市楽座」”が組織化され著しく変化したのである。
そして、「伊勢」を始めとして、全国各地に”「青木氏]が始めた「商業組合」”から発展して、遂には、「職人」や「商人」や「郷士」等のあらゆる階層から成る「自治組織の会合衆」が出来上がった。
この「自治組織」は、前段でも論じたが、「武家社会」にも発展した。

この「武家社会の組合的要素」は、「職能別」にその組織の中で発生する問題は組織内で解決させる”と云う制度が徳川幕府に創設された。
これが”「御師制度」”と云われるものであり、「武士階級」から成る「自治組織」が出来上がったのである。
これは「伊勢」から持ち込んだ「吉宗」によって「享保の改革」で制度化されたものである。

(注釈 筆者は、むしろ、この奈良期からある「青木氏の御師制度」が、「伊勢」に関わりの深い「徳川吉宗」によって「幕府の武家」に採用された。
この事がきっかけで、「武家出自の商人域」に浸透して行ったと観ている。)

(注釈 「伊勢青木氏」は、「幼少期の伊勢での吉宗の育ての親」で、「家臣」では無いが「享保改革や紀州藩の財政改革」に「布衣着用の身分」(主大名格)で大きく関わった。)

これ等が、当に「信長」の「天下布武」<「楽市楽座」、所謂、「布武」<「布知」で目指した「理想に近い社会」であった。
その「信長の思い」を最初に実現させ発展させたのは、何と「蒲生氏郷と二つの青木氏」であった事に成る。
これを更に発展させたのは「安土桃山期の秀吉−江戸期の家康」と云う事に成る。

「信長の理想」は、初期の構築段階は、皮肉にも、伊勢混乱の苦労の末に「二つの青木氏」に依って進められた事に成る。
これは、「信長の理想」を理解し、「青木氏の本音」がこれに一致していた事を物語るものである。

「会合衆までの経緯」ここに至るこの「生き残り戦略」が、当に”「青木氏の本音」”であった。

歴史は幸いにも当にその様に成った。

上記する”「室町期の苦しいトンネル」”を突き出て、「江戸期の青木氏の将来」をここで構築したのである。
これが、「苦境」を「青木氏の知略」で乗り越える事、況や、これが「二つの青木氏の本音」であった。

筆者が考察する”「青木氏の本音」”はなかなか言い尽くせないが、上の経緯も含めての事と成る。

纏めれば、”「武]では無く、 ”「知略」”を使った”「戦略」”に云い尽くせる。
「武」はあくまでも「抑止力」に留め、「知略」を「補完するツール」とした事にある。
これが、無傷で「生き残り」を果たした「本音」であったと考えている。

そもそも、「人時場所」が変われば「本音」も異なるが、変化する何時の世もこの一点だけは「普遍」であり変わらない事を示している。

然し乍ら、唯、別次元で「或る条件」が働けば、この「戦略の本音」も永代では無い。
その「或る条件」とは、”「伝統」”が消えると無く成る。
つまり、”「伝統」と云う土台の上に成り立っている事”に成る。
そして、この「伝統の内容」も時代毎に代わる。
従って、「青木氏の本音」を維持するには、”時代毎に代わる事”に対応しなければならない事に成る。
この「対応」とは、時代に対応した”「体質改善」”である。
この”「体質改善」”が、”「青木氏の本音」”に従う事に成る。
これが、上記した様に、「室町期の混乱期」に対応した「二つの青木氏の行動」であった。

然し、この「対応の変化」も「仕儀無きこと」であって、「変化する」としても少なくともその「伝統の基本」は変えてはならず是が非でも護らなければ、「生き残りの本音」は霧消し得る。

(注釈 現在の「青木氏の基本伝統」は、最早、護り切れていない。依って、明治期まで先祖が護って来た「青木氏の本音の概念」は霧消している。「伝統シリーズの記録」に遺すのみと成っている。)

上記で論じた「青木氏に関わった氏族」の「生き様」も、それは其れなりの「生き様」で「良し悪しの前提」とは成り得ない。
然し、”子孫を如何に遺せたか”は論じられても良い筈である。
「伊勢の二つの青木氏族」(伊賀の青木氏を含む)は「青木氏の氏是」を頑なに護った「生き様」を示した事は云える。
これに依って、与えられた「氏の役柄」を果たした事は、”「青木氏の誇り」”であり、”「誇れる伝統」”である。

そこで、この「時期の伝統」はどんなものであったろうかと云う事に成る。
それが、「上記の論」である。

そこで論じたのが「青木氏の経緯と背景」と成るが、続けて、「伝統−17」でも論じる事に成る。


次ぎに続ける事としても、「伝統−17」を論じる前に、先に述べておかねばならない事が在る。
そもそも、この時期は、「南北朝の影響」を受けて、「京公家族」の間に、次ぎの様な事が起こっていた。
この問題を解決しなければ「武」で抑えて掃討をしても何れにも解決には成らない。

「武による富の獲得の機運」
「朝廷の天領地の奪還と確保」
「西域公家政権の復興」

この時期には以上の反動が起こっていた事を物語るものである。

上記した様に、況や、「聖地伊勢」も「北畠氏」に依って “撹乱されていた”と観る事が出来るのである。
「信長」は、この「悪い機運」が広がると社会は、更に乱れるとして潰しに掛かり、その代表者を手厳しく潰す事で、社会に“見せしめ”として抑え込もうとしたとも判断できる。
況して、「信長」は「天下布武」を標榜していたが、「公家勢力の復興」は「信長」の目指すところと「真逆の行為」であった。

この“「権威を惹けら課す者」で、「権威の利得を食む者」”とは、「無力化した京の公家政権」と「結託した勢力」の事だと名指していた。
それだけに「信長の事の次第」は、“厳しく当たった”と云う事に成るたろう。


「信長の心の中」には、「青木氏の心の中」には、資料を通して具に鑑みるには、次ぎの様な「信念」があったと考えられる。
これは、何時の世も「天下を治める者」、或は「大きい組織を動かす者」、「指導者たる者」、「上に立つ者」の「孤独の苦しみ」であろう。

つまり、伊勢の「北畠氏等の横暴」を「信長」が観ていて、これは、当に”「権威の惹けらかし」”と”「その利得の食む勢力」”の何物でもないとした。
その「北畠氏等の伊勢三氏」(北畠氏と伊賀氏、伊藤氏)が「象徴族」として苦々しく観られていた事を物語るものであった。

(注釈 但し、「伊勢者C」は、他地域から伸長して来た勢力で”「伊勢者」”では正式には無い。資料には使い分けされず「伊勢者」として扱うものもある。)

但し、”「伊勢者」”と呼ばれた氏は、時代別に三つに分けられる。
「伊勢者A」の「青木氏」から観れば、資料から読み取ると「伊勢者BとC」は「別者の意識」があった。

「伊勢者A」は、「伊賀青木氏を含む二つの青木氏」     江戸初期まで 950年−650年間程度 
「伊勢者B」は、「北畠氏」「伊藤氏」「伊賀氏」「長嶋氏」   江戸初期まで 150年−100年間程度
「伊勢者C」は、「仁木氏」「六角氏」「山名氏」         江戸初期まで 100年−50年間程度 

(注釈 「伊勢者」 「伊勢衆」 「伊勢国人」 「伊勢郷氏」は「歴史的な呼称」(者、衆、人、氏)としてその「範囲差と格式差」により使い分けがされている。)
 

況して、その勢力が”「聖地の伊勢」”にいると成れば,「信長」は放置する訳には行かないとなった。

(注釈 筆者の考察では、 ”「信長」は「伊勢者BとC」を”「伊勢者」”としては観ていなかった” と考えている。
自分と同じ「室町期の伸長勢力」だが、「信長」には「たいら族」の「末裔の自負」があった。
故に、「名籍の桔梗紋の明智光秀」に対して「織田家の格式」は「上位」と観ていた事から起こる「家柄の確執葛藤」があったと観られる。)
況してや、この「伊賀域」は、元は祖先の「たいら族の故郷」であったし、「伊勢和紙の殖産」に従事する「残留族]もいる地域でもあった。
ここを、”「伸長族」に犯されたくなかった”と云う意識も内心あったと観られる。

「信長」は、上記の鎌倉期からの経緯を観て、当に、この「北畠氏」が、”「権威を惹けらかし利得を食む勢力」”(西域公家政権の復活)と映っていて、“その勢力を先ず潰しに掛かった“と云う所であった。

しかし、これに対して、”「権威を惹けらかし利得を食む勢力」”(西域公家政権の復活)であるにも関わらず、この事を理解せずに、これに対して、意外にも無暗に「武」で合力し、敵対して来た北伊勢の「伊賀氏」「伊藤氏」等があった。
「信長」に執っては、これは驚きであって、”間尺が合わない”と感じとったのである。
況して、世間では、「賢者 智者」としての”「伊勢者」”と云われながらも、何でこの事が判らないのかと悔しがっただろう。
結局は、恐らくは、”縁無き衆生動し難し”として、討伐に踏み切った。

結局は、「信長」は、彼等を”「抗する者」”として扱い、討伐する事に成り、拡大して”「伊勢四衆」“を纏めて排除するに掛かったのである。

然し、同じ”「伊勢者」”でありながらも、「伊勢の二つの青木氏」だけは動かなかったのである。
”それは何故なのか”である。
それは、後から侵入してきた彼等は、”「権威を惹けらかし利得を食む勢力」”(西域公家政権の復活)である事を承知して居た事を意味するものである。
それは古くから”「伊勢者」”として生きて来た「二つの青木氏」は、「青木氏の氏是」に基づきこの態度を取る事は無かったからである。

唯、「信長」が行う「抗する者への挑戦」には、一定の限度があった。
それは、”「無暗に挑戦」”では無く、その「前提」は次ぎの事にあったのだ。
それは「限度=前提」である。
「信長」の目指す「天下布武」には、この「前提」(限度)があったのだ。

 ”「権威の惹けらかし」”と”「その利得を食む勢力」”

唯、「単に抗する者としての討伐」をし続ければ、この世の人間は半減する。

何故ならば、「善悪の理」に関わらず、「賛同の結果」はこの理に従っていないのも又この世の条理である。
「善」であるからと云って、「万民全人」が「賛同すると云う条理」には、「仏教の説法」に云う様に、従ってはいない。
「人」には、仏説「四つのみ」が「人の性」としてあり、そして、この「人の性」はこの仏説「四つのみ」に惑わされる。
依って、「善」は必ずしも「賛」を得られる前提では無い。
それが、「人の世」では「仏説 四の理」に従うと成っている。
つまり、四割程度は何がしかの形で「善」は、「悪」としては兎も角も、「善」として扱わない条理の中にあるとしている。

それでは、「善」は「善」としてより多く扱われる世の中にするには、それは「人の悟り」にある。
それを得られるのは「仏教」だとしている。

その得られる「手段とされる仏教界」が、何のこの世の因果か、”「権威の惹けらかし」”と”「その利得を食む勢力」”の世界と成り果てている。
況してや、「宗教武装勢力」と成り果てている。

そもそも、「抗する者は全て討伐」とそんな事を考える人間はこの世にいない。
そもそも、不可能であろう事は誰でも判る。
然し、遣らねばならないと成れば、何処かに「規準」なり、「限界」なりを設けての事に成る。

従って、その「討伐」をしなければ成らない「細目の規準」は、「信長」に執っては、、”「権威を惹けらかし利得を食む勢力」”に規準を置いていたと云う事であろう。
それは、「人時場所」の「三相の理」によって異なるは、必然の事だが、この「必然と成る規準」は、「何時の世」もこれが「最低限の条理」であると考えられる。
この「三相」は、”「戦国」”と云うキーで括れる。
「人」は「過激]に成り、「時」は「短絡」に走り、「場」は「戦場」に成る。
其処から導き出される「規準」或は「限度」は、”「権威の惹けらかし」”と”「その利得を食む勢力」”と成り、「其れを阻む者」と成る。

それに、この「勢力」が”「事の解決に”武力”を以って立ち向かう」”と成ると、尋常では無い。
「国を治める志を持つ者」としては「信長」でなくても放置は出来ない。
この「勢力」が社会に蔓延れば当に「修羅」であろう。
何の信念も持たない「愚能な将軍」が頂点に立ちながらも「治世」するこの「修羅社会」を放置したのが「足利幕府の四代目以後の有様」であったのだ。

(注釈 幕府とは、本来は「将軍−御家人−守護」から成り立つが、鎌倉幕府は将軍と御家人の主従関係組織で難く維持されたが、ところが、室町幕府は当初この組織を敷いた。
然し次第に統制が効かなくなり、この「将軍−守護−御家人の関係式」が出来上がって仕舞った。
この為に内覧が多発して統制が効かなくなり「治政」は乱れ始めた。
この時期が4代目から顕著に成る。
鎌倉期の組織では、本来であれば、「御家人−家臣−守護−豪族」と成っていた。
然し、室町期は4代目五代目以降から乱れ、「直臣の御家人」を飛ばして「将軍と守護が主従関係」を結んでしまった。)

その「修羅」を救う「宗教]が、況してや「武家」にも勝るとも劣らない「絶大な宗教勢力」と成れば、最早、論外である。
云えばきりがない。その「宗教」が「城郭]を持つと云うのである。

「戦乱の社会」の中で、「盗賊や山族等の脅威」が散在する中では、”「宗教]が非暴力であれ”と云う事までは云わないにしても、「最低限の自己防衛の範囲」に留めるべきであろうことは疑う余地は無い。
超えれば、出る釘も打たれるは必定である。
況してや、その「信徒」を先導してその道具に使うは論外中の論外である。

(注釈 「青木氏]はそもそも戦乱で「糧を失った者」を「経済的範囲」に於いて救い、その「自発的行為」に依る歯止めの効いた「伊勢シンジケートの抑止力」に留めた「最低限の自己防衛の範囲」を越えなかった。)

「信長」は、他の国の討伐の如何は別として、”「伊勢」”に対しては、この「規準の考え方」を前提とした。

つまり、”「伊勢」”に対してである。この”「伊勢」”に意味があった。
況や、”「伊勢」”には、”「信長成りの思い入れ」”があった事を物語る。
その「信長の思い入れ」とは、どんなものかと云えば、次ぎの規準に持つ意味であろう。

(伊勢の事を含む「信長に付いて」を書いた信頼できる資料から物語るものは次ぎの事と観た。)

纏めると次ぎの様に成るだろう。

限度=前提

”「権威の惹けらかし」”と”「その利得を食む勢力」”

「伊勢」は、「万民の聖なる場所」である。その「聖なる場所」には”「権威」”が求められる。
その「権威の地に住する者」は、「権威」に溺れず、「謙虚」でなくてはならない。
その「権威]に託けて「利」を食んではならない。
「権威の利に縋る者」には「万民の信頼の範」と成れない。

「信長」に関する資料から読み取るに、”「信長思い入れ」”はこの様なものであった。

「比叡山焼き討ち」等に観る様に、「信長」は「武家勢力」を始として、「各地の戦い」には、各地ならではの「条件」を入れ替えて、この[四つの思入れ」に適合するかを確認したのではないかと観られる。
各地の戦いの「信長の発言」を考察すると、この傾向が読み取れる。

これは、まさしく、「青木氏の氏是」の意味する処でもある。

”何時の世も、「青木氏」を世に晒す事無かれ、何れにも一利無し、然しども「青木氏」を世に憚る事無かれ、何れにも一利無し。”

「信長」は、”「伊勢者」”の当初から出方を警戒(婿養子の策謀失敗)しながらも、元より”「悠久の歴史」を持つ「伊勢者」”の「伊勢の青木氏を攻める意志」は無かった事を意味する。

「この世」の「何事」も、排除されるのは突き詰めれば、「信長」も、「青木氏」もここに来る事を教えている。


これ等が、「伝統」を語る上で、「青木氏」に執って忘れてはならない「四家の背景と経緯」である。
何れにせよ「我々の先祖の青木氏」は、この中で生きて来たのである。
その「生き様」そのものが”「青木氏の伝統」”であった。

「近江佐々木氏」がした様に、「青木氏」も子孫にこの「伝統の如何」(先祖の生き様)を遺しておきたい。

> 「青木氏の伝統ー17」の「」に続く 



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