青木氏氏 研究室
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  [No.343] Re:「青木氏の伝統 25」−「「伊勢殖産と古式伝統」 
     投稿者:福管理人   投稿日:2016/08/05(Fri) 07:44:33

>>伝統シリーズ23の末尾

> > 「殖産」を興してそれを「システム化」して「経済」に結び付けて「藩政」が潤っていたのに、これを抑え込んで仕舞った事から、この影響を受けた「下級武士」は、「飢え」に喘いで仕舞った。
> > その事から、田畑を耕し農業で産物を密かに売ると云う事で生き延びた。
> >
> > 「郷士の武士」も「仕官の武士」も「郷士」に真似て生きる事しか無く成り同じに成って仕舞った。
> > むしろ、「殖産」を興した「郷士の方」が遥かに潤っていた事が記録されている。
> >
> > そして、今度は、享保期の「質流地禁止令」では、対象者が「仕官している下級武士」であった事から、幕府としては充分な対応は出来なくなっていたのである。
> >
> > ところが、「武士の農産物等の販売」には、各職能の「組合の壁」と云うものがあって、「自由」が利かず、結局、「農民の寄合」に入れて貰う等の事や、「農民の名義」を借りる等の事で対応した。
> >
> > 「幕府」のこの逆に跳ね返って来た思いも依らぬ「失政」に付いて、「藩」もただ観て見ぬ振りして黙認するのみであった。
> > しかし、「紀州藩」の様に密かに裏で奨励した藩もあった位であった。
> >
> > この事から、「職能から販売までの商業組合」も「寄合組織」に変更して、自らも救い、地域の「下級武士や農民」らも救う事で「絆を基本とする寄合組織」に変更して生き延びた。
> >
> > 唯、この「寄合組織」では「発展」は望めないが「維持」は可能であった。
> > それには、上記の「新−1から9までの副効果」までは幕府は潰しに掛かれなかった。
> > 「新−2、3、5、7、9」は流石に「株権」を保障の前提としていた事もあって低迷した。
> >
> > 所謂、「新−1から9」の基本に成った幾つかの制度と組み合わせた「親商法」が、享保―宝暦―明和時代に掛けて「伊勢の紙屋」と「江戸の伊勢屋」の「青木氏」が興した「商業組合」の「新しい改革商法」(1716年から1788年まで)へと繋がったのである。
> >
> > この経緯は、「伊勢の紙屋」が「伊勢の商業組合」を興してからは明和期(1788年頃)までの「185年間の悪戦苦闘の歴史」に成る。
> >
> > これ等の事は、「青木氏」だけの「重要な知っておくべき青木氏の歴史観」である。
>


>伝統シリーズ24の末尾

> 実に“可憐でシンプルな花”と云うイメージを持つ。
> 「花と樹」で例えれば、云うまでも無く「象徴紋」にも成っている“「竜胆の花」”と「青木の樹」である。
>
> 前段でも論じたが、この“「竜胆の花」の様であれ、「青木の樹」の様であれ“として「賜語」を遺し「賜姓」したのは「天智天皇」である。
> その「竜胆の花の印象」と「咲く環境の持つ印象」と「青木の樹の様な力強さ」が、「青木氏の氏是」とも成っているのである。
> 「二つの青木氏」はこれを護り続けて来たのである。
>
> 因みに、参考として、大化期から江戸期までの間には、次ぎの様な「改革」を成し遂げている。
> 全てではないが、思いつくままに拾い出してみる。
>
> 「自然神の継承」、「祖先神の創設と継承」、「神明社の創設と継承」、「浄土宗密教の創設と開始」、「侍の創設と開始」、「武家の創設と開始」、「国策氏の創設と開始」、「賜姓族の開始」、「氏族の開始」、「皇親族の開始」、「貿易の開始」、「総合商の開始」、「和紙、硯墨の開発」、「商業の開始」、「殖産・興業の開始」、「米・早場米の開発」、「養蚕の普及」、「紙加工の開発」、「商業組合の開始」、「徒弟制度の開始」、「暖簾分け制度の開始」、「質屋の創設と開始」、「職能部の開始」、「海陸の運輸業と護衛業の創設」等の全て「創始者」であった。
>
> (文化面で「青木氏の慣習や仕来りや掟」が世に出て催事に成った事等は、「伝統シリーズ」でその都度、機会に触れて記述しているがその数知れない。)
>
> この様に“「歴史に遺せる多くの大改革」”を成した。
>
> これら一々に独特の「青木氏の文化」が生まれ、それを「伊勢青木氏」等や「郷士の職能部」が其の文化を「庶民用」に改良して、「殖産」にして、「仏施の質」として世の中に出す。
> この行為を江戸で一機に咲かせたのである。
> その複合の「仏施の質」が「享保雛」であったと説いている。
>
> 上記の様に、日本で最初に起こった「大火改新」で産まれた「青木氏」は、「二つの青木氏」の「命運」を掛けて「社会」の為に「江戸期の経済改革」の最後の「享保改革」(「リフレーション政策の創設」)に取り組んだのである。
> これは、何をか況や、「青木氏の氏是」と「家訓10訓」のベースにも成っている「青木氏の浄土宗密教」の「般若心経の教え」を護っていた事からの発起である。



「伝統シリーズ−25」に続く。

「伊勢殖産と古式伝統」

「伊勢殖産と古式伝統」が連動して出来たこの「伊勢文化」を「享保の改革」の為に持ち込んだ「江戸の伊勢屋」に話しを戻す。
この為にも、その前に「青木氏の歴史観」としての「伊勢殖産と古式伝統」を詳しく考察して置く必要がある。

この「伊勢の殖産事業の背景」には、次ぎの様な経緯があった。
そもそも、「青木氏の伝統」と云うものを理解するには、その前後に起こった「背景や経緯」を理解した上での事であって、「正しい伝統」はその時に獲得できる。
「伝統」に限らず「物事」とは、その「前後の背景と経緯」を理解しなければ「正しい結果」を獲得できない。

「歴史」と云うキーワードで云えば、それは「三相の人時場」(青木氏密教の説)に左右される“「歴史観」”と云うものである。
そこで、此処ではその「人」に関わる歴史観である。

「人」、即ち、“「伊勢出身の他の豪商」との関係に付いても論じて置く必要がある。
実は、この関係が複雑で難しいのである。

伊勢の中での「柵」(しがらみ)が見えて来て、それが「江戸の伊勢屋」の事に左右して来ているのである。
従って、前段で論じて来た様に、そこで「江戸の伊勢屋」と共に、他の“「伊勢出身の他の豪商」等の事をも“組み込んで論じる必要があると考えられる。
ところがその場合は、「伊勢の青木氏」から観ると、この“「青木氏の歴史観」との一致が起こらない「典型的な事象」であった“と云う事である。
その意味で,不思議に思うかも知れないが、この新しい「青木氏の歴史観」(「背景と経緯」−「伝統」)を獲得する為にも、次の事を敢えて重複して詳しく列記する。

それには享保期の「江戸」では無く「伊勢」に問題があった。
「江戸の初期」の「伊勢の背景と経緯」のそれには「大きな政治的な意味合い」が関わっていた。
そこで、政治の中心人物と成った“「伊勢の吉宗」”は、謂わば、その「功績」(紀州藩を藩制改革を断行して救った。)を買われて、番外から将軍に成り得たと云っても過言では無い。
其れは、そもそも、この“「伊勢の吉宗」”は、「二代目の藩主」の「湯殿女」(巨勢氏)から生まれた「番外の子 嗣子外」であった。

(注釈 前段で論じた様に、奈良期は「応神大王」を中心としての「ヤマト政権」は、「五つの豪族の連合政権」であったが、その中の一つが「巨勢氏」(巨勢族)で在った。
現在でも、紀州紀ノ川沿いの北紀州東部に定住している。)

そこで、二代目の「紀州藩主」は、これに「養育係の加納氏」を付けてその養育係の郷の伊勢に隠して預けた。

(注釈 「公家族出身の二人の兄弟」が居たが、それぞれの「お付きの家臣争い」が当時は強く命の危険性があった。)

其れが「養育係の下級武士」の「100石の加納氏(4000石の御側用人と成る)」であった。

(注釈 頼宣入城時(1619年頃)に家臣と成った「加納氏」は、前段で論じた様に「伊勢藤氏の末裔の支流傍系族」の「大量の仕官事件」が起こり、この事が原因で頼宣に「謀反嫌疑」が掛かった。
然し、その時に「伊勢藤氏」(青木氏含む)は「紀州徳川氏の家臣」と成った。)

注釈として、そこでこの紀州藩家臣と成った「加納氏の身分」がどの様な位置にあったかを先ず知っておくことが必要である。
事に大きく左右するのでこれから論じる。

其れには先ず、そもそも、“「一石一年一人食の原則」”と云うものが昔からあって、その原則から、「最低五間間口の武家屋敷の家持ち」が「下級武士の上位」の身分とされていた。
その原則では、当時は、最低で「150石」が必要であった。

(注釈 但し、諸々の家臣に課せられた義務を果たすには、150石では済まず200石から250石は総合で必要とされた。これが下級家臣の俸禄の規準であった。)

この原則から観て、「若い加納氏 100石」には預けられても「吉宗 (源六)」を「育てる能力」は当初から全く無かった。
災害と飢饉で藩財政も逼迫し、幕府から2万両の借財で食いつないでいた状況であって、到底、養育費は出せない状況であった。
結果として、「家康−頼宣」と伊勢で関係を保っていた「郷氏の伊勢青木氏」が、「養育」のこれら全てを支えたのであるが、当初からその心算では無く、且つ、「家臣」でも無い「伊勢郷氏の青木氏」が養育係を務める事は本来は出来ず、「伊勢藤氏の末裔」の「100石の加納氏」に形式上は預けた形を執っていた。
そもそも、慣例から云えば、「伊勢」に持ち込まれた問題の解決は「伊勢郷氏の役目」でもあり、「伊勢藤氏との絆」からも、江戸初期の「家康との付き合い」もあって、この件は青木氏に執っては放置できる事では無かった。

その「歴史観」の一つを述べる。

因みに、「伊勢の郷士」で「紀州藩の家臣」に成った家に遺された資料をまとめると、当時の「下級武士の家計」は次ぎの様であった。

「最低収入」では、家臣の「俸禄の高」は、「70俵−28石−21両」+「5人扶持−9石−7両」 計 「28両(札差変換)−37石」が「年収(標準と観られる)」であったと記されている。
各藩の勢力に依っても異なるが、これが「紀州藩の規準」であったらしい。

「最低支出 (武士長屋住 家族3人 家人1人)」では、その内訳は次の通りであった。
生活費 3000文〜4000文=1両〜1.5両
諸経費 2000文=0.5両〜1両   
家人給金等 4両(最低 男仕一人、女仕一人雇用)
衣服費 2両
交際費 4両
その他 2両
合計 14〜15両

(注釈 江戸社会は武士の「身分と格式」に応じて「慣習仕来り掟」が定められていて、「家人等の雇人」も「国内の経済対策」の為に「御定書」で決められていた。)

実際は、これが役人等を務める「下級武士の生きる為の最低額」であった様で、「武士」ともなれば後継の為に男子が必要と成り、男子の子供を産む事に成り、産めなければ親族から養子を取る事にもなるので、それには「金子」が必要であって、これには「貯蓄」等もあってこれでは済まない事に成る。
当時は、このほぼこの2倍が必要であって、28両≒29両と成り、これが「ぎりぎりの生活」であった。
前段でも論じたが、この不足分は家族に依る「借田畑の工作と内職」(「農民の寄合形式」に参加)で凌いだ。
従って、これらの「慣習仕来り掟」に関わる余計な事が町方の「町人」には無かった事から、生活は「町方の普通の者」より悪かった事が書かれている。

従って、この一段上の「家持身分」では、当時の「普通の標準」は、「家族6人 家人5人」/(家族3人 家人1人)=4倍と成り、最低で37石・4=148石が必要と成った家計であった。

この事から「伊勢の加納氏」(100石)は、この様に「吉宗 (源六)」を「隠し子」の様に「嫡外子」として預けられたが,養育して行く能力は当初から全く無かった。
二代藩主もこの事は充分に承知であった筈で極秘に預けたと云う事に成るから、当然に、当初から「援護者」を当初から期待していた事を示す。
従って、「伊勢域」の一切の差配は、“「郷氏の役務」”であった事から「伊勢青木氏」が支援し養育したとある。

(注釈 平安期の「南勢の旧領地」の一部が、江戸初期に幕府から本領安堵されたのはこの「郷氏の役務の所以」の一つとも観られる。
況や、この「南勢の旧領地」には「和紙に関わる楮生産」と「和紙生産と紙の殖産」を進めていた。
上記手紙の主の「母方縁者の郷士頭」と、その「一族郎党」の定住地でもあって「不入不倫の権の影響」でも護られていた。
それ故に「青木氏」に執っては重要な資料が遺されていた。)

(注釈 紀州藩からは「隠子」で「嫡外子」であった事から援助は無かった。
この時期、紀州藩は財政難から幕府から「10万両の借財」に取り分け喘いでいた時期でもあって、借財は藩財政の半分に達していた。
その事から援助は元々全く出せる状況では無かったし、隠していた事から出せなかった所以でもある。)

そもそも、「伊勢の青木氏」は、「奈良期からの郷氏」である事には間違いは無く、その役務の所以と云えばそうでもあるが、「隠子の嫡外子」であるとするならば「郷氏の役務」かとも成る。
果たして、“何の義理も無いのに何故に養育したのか“と云う疑問が湧く。
「資料」は明確に書いていないが、先ず「青木氏の口伝」に依ると、前段で論じた様に、その背景と成った「江戸初期の家康との二度の談合」と、その後の「頼宣までの諸々の付き合い」で、「政治的な厚遇」と「商いを続けるための経済的厚遇」を受けたが、何よりも“「本領安堵された事への義理返し」(伊勢での「氏存続と現状維持」)”であったと口伝で強くその恩義に付いて伝えられていた。
その口伝の中での“「源六殿養育」の一節”であったが、「源六殿と六左衛門の稚児逸話」も遺されていたらしい。

(注釈 「伊勢藤氏の末裔の加納氏と伊勢青木氏」は「伊勢藤氏や伊勢秀郷流青木氏等」により「数度の母方縁籍関係」にあり、筆者の父方曾祖母は加納氏の娘である。
「加納氏」は、その後、生計を立てる為に、「青木氏の指導」の下で「二足の草鞋策」の「商家の加納屋」(青木氏の殖産事業)を立てて「養育能力」を高めた。)

その後は、その「意味合い」が、上記した様に、「吉宗将軍擁立」と「享保の改革」までへと変化して行った事に成る。
その経緯が下記に記した通りであるが、この経緯に青木氏が関係する問題(事件)があった。

前段で論じたが、「伊勢青木氏」が「家康―頼宣との親交」があった事から、頼まれて伊勢で「養育掛かり」を務め、経済的支援をし、「藩主として持つべき能力」、取り分け「経済的な知識」等を「青木氏の商いの仕事」を通じて実地に教え込んだ。
ところが、二代目後の「紀州藩の跡目」で揉める中、三代目と四代目(公家出自)の二人が僅か半年間を経て没し、この間、「吉宗 源六」の生誕から僅か21年であった。

(注釈 青木氏の資料では、父病死後、三ケ月で兄の一人は病死、見舞いの弟は江戸からの旅の疲れで、父病死後半年後(兄病死後3ケ月)に没したとする理由に成っている。
これは「藩内の廃嫡騒動」の所以と観られる。)

其の結果として、例外的に、上記した様に、その「資質と能力」を買われて22歳で、「越前葛野藩の三万石割譲の扶持藩主」 「紀州藩の支藩」から「紀州藩の五代目」に、この時、「松平氏から養子の話」が出ていたが、「葛野藩の経緯」からも「綱吉の意向」も陰にあって偶然に話しは着いた。
実は「綱吉の意向」が問題なのである。
実質の処は、3ケ月ごとに藩主三人が没した事は、「吉宗」は「光貞の跡目」の「三代目」である事に成る。

(注釈 「越前葛野藩」の件は、松阪定住で、「准支藩扱い」で、一万石以上は「大名扱い」ではあるが「吉宗資格無し」で、元は「嗣子外扱い」であったが、「部屋住み」から「世継権」を持つ立場にしても貰った事を意味する。
「大名城」を構える事を許されない「陣屋館」の「越前葛野藩」の影響が「紀州藩」に大きい影響を与えていた。)

そこで、この様な経緯の中で藩主と成ったか「上記の改革」を推進し成果が上がった。
ところが、ここで徳川氏の「将軍家の世継ぎの問題」が浮かび上がった。
ところが「将軍家の世継ぎ」もなかなか決まらず、突如、「紀州藩の吉宗・頼方」の名が挙がった。
折しも、「経済政策の失政」と「大きな飢饉」が続き社会は酷く疲弊していた。
其れを救えるのは、「紀州藩財政を立て直した功績 10万両返済」を買われて「将軍」に成った。
「青木氏等」はその財力で「吉宗・頼方・源六」を将軍に押し上げたのである。
ここで、「享保の改革」の「質素倹約」と「殖産興業」と「組織改革」を実行する「リフレーション政策」を提唱した。
しかし、「御三家」等から大反対が出た。
周囲は「インフレーション政策案」が主流であった。
そこで、これらを説得するには、「紀州藩」を「モデル」にして、先ずは「紀州藩財政」をこの「リフレーション政策」で立て直す事であった。

(注釈 紀州藩は、1707年と1708年の二度に渡り「M7クラスの南海地震」の大地震に見舞われて、その対応費用に「藩財政の半分の拠出」を余儀なくされ財政は破綻で困窮していた。)

これには、注釈の様な「不慮な災難」があって、「育て親の伊勢の紙問屋青木長兵衛」に依頼して、「紀州藩勘定方」の「指導役」を依頼し「藩財政の立て直し」を実施した。
その後、1716年頃までに「借財等の返済」は完了し何とか持ち直した。
それまでの前藩主の「幕府借用の計10万両の返済」を成し、「家中差上金の賦課」、「藩札の停止」、藩内各地で甚大な被害を発生させていた「1707,8年の災害の復旧費」などで悪化していた「藩財政の完全な再建」を果たした。

何とこの間、1707−1710年からの8年間で「藩財政の立て直し」を成し遂げたのである。
これを観た「幕府」を始めとして各藩は、「驚きと羨望の目」で「青木氏が行う商業組合に依る対策」を見たのである。
この時、「紀州藩の結果」だけでは無く、「15地域にも改革」は進んでいたのであった。
然し、「享保の改革」の実行の為に、「青木氏」は紀州藩から一部が江戸向行の為に1716年に引き上げたが、「伊勢青木氏」が「紀州藩勘定方指導」から手を引いた少し後の1730年頃前を境に、「血縁の無い支藩」からの「養子の藩主」が行った「三貨制度の普及」等により、藩の信用が無い中で「藩札再発行」や「銅銭鋳造」等の「経済対策」を採ったものだから、あまり効果は無くて逆に悪影響を及ぼし藩財政は再び酷く下降した。

それは、「青木氏の勘定方指導」の「リフレーション政策」を継承せずに、積極的な「インフレ政策」を採った事から起こった事である。
そして、遂には1740年頃から再び「藩財政55万石」は1/2程度(32万石)に極端に悪化したのである。

(注釈 「災害と震災と飢饉」の時には、「25/55万石の財政状況」であったが、災害や飢饉でもないのにそれに近い財政状況と成って仕舞っていた。
これは完全な「藩主の失政」である。
そこで、結局は、この「失政」を回復させられない侭に、窮地に陥り「幕末」に「青木氏」が請われて再び伊勢より出向して「紀州藩の勘定方指導」をして立て直した。
この時の「藩主とのやり取り」を書いた手紙等が遺されている。
つまり、紀州藩は初代頼宣期と吉宗期と幕末期以外は藩財政は全て失政であって借財に喘いだ。)

1716年に成って、一方、幕府方では伊勢で兄弟の様に共に育った「青木六兵衛左衛門」を下向させて「布衣着用」(将軍に直接面談できる大名格)を許し、「享保の改革」(商業組合での改革)を主導させたのである。

(注釈 家臣が周りにいない時は、兄弟の様に呼び合っていたと口伝で伝えられている。)

そして、上記で論じた様に、この「伊勢の改革」を「江戸の改革」へと移す事に成ったのである。
結果は、上記に論じた様に成功し、その「リフレーション政策」の効果を証明した。
これを観て「反対派」は沈黙して、大反対をしていた「尾張藩藩主」(旗頭は継友)などは立場が無く成り、恥じて酒に酔いつぶれて家臣団からも信頼を失い、遂には暗殺直前に自ら蟄居して仕舞ったのである。
これを「勢い」にして「反対派」を抑え込み「享保の改革」は、「上記の様な経緯」を経て更に進んだのである。

ここで注釈として、更に「青木氏の歴史観」として、次ぎの事を知っておく必要があり、余り知られていない「重要な事」がある。

そもそも、“「紀州藩支藩の越前葛野藩」(幕府からの扶持 吉宗の知行地)”は、「青木氏」とは全く無関係では無かったのである。

実は、この「越前の葛野」は、前段でも論じた様に、奈良期から「皇族賜姓族臣下族の青木氏等の逃避地」で、「現在の越前市地域」」にあって、ここに「神明社」を他国に比べてより多く創建し,ここに青木氏一門を匿い保護していた地域であった。

(注釈 「五家五流賜姓青木氏」内に起こる「一切の混乱」に際する「避難・逃避の地」として定められていた場所で、ここにその救済の手配を担う「神明社」を多く配置して体制を整えて「仏施の質」として構築された制度の地である。)

(注釈 「仏施の質」とは、本来は「青木氏の菩提寺」が行う「質」ではあるが、守護神の神明社がこれに代わって行っていた。
菩提寺は古来より密教であった事から、本寺と分寺が原則であって定住地には数が少ない事から神明社が前段で論じた様な制度で行っていた。
然し、「青木氏の資料」の行では「仏施の質」と表現されている。「社施の質」とは成っていない。)

主にこの「逃避地」(越前国丹生郡等 3万石 実質4万石に 葛野域館)で生き残る為に、問題を起こした「五家五流の皇親族の青木氏一族」を「仏施の質」により葛野域のここに導き保護し、「青木氏の商い」を通じて「商人」と成って、多くの「青木氏」は長く生き延びさせた当に当該地域であった。
その末裔が「越前商人」の一部を形成していたのである。

紀州藩跡目の「二人の兄弟」からの身の危険を感じる程に「吉宗 頼方・源六」には「激しい軋轢」があって、この時は「吉宗 頼方・源六」」は、紀州藩の「伊勢松阪」に匿われていた。
(「嫡外子」に扱われた。)
「伊勢松阪」は生まれた幼少の頃から滞在していたので、この「逃避地」(葛野域)との関係は「親代わりの青木氏」から聞いて充分に承知していた。

敢えて、「幕府」は、所縁ある「越前の国」は幕府に執っては「重要な政治経済軍事の要衝地」でもあり米所でもある。
此処を敢えて割譲してまで、“「嫡外子」に扱われている「吉宗・頼方・源六」”までに新たに「葛野藩三万石」(「支藩扱い」の「陣屋館造り」)を、態々、作り、「知行地」として授与したのだが、これも「吉宗・頼方・源六」が望んだ理由は、「青木氏の所縁」からものとして考えての事であり、その「証拠」である。

(注釈 実は、これには「歴史的に記録」があって、「先代頼宣」が「謀反の嫌疑」を「三代目将軍の家光」に掛けられてからは、二代目までは幕府とは「疎遠の状態」であった。
そこで、これを修復する為に紀州藩の「二代目光貞と世継ぎ二人」が「五代目綱吉」に江戸に招かれたが、その時,“「吉宗・頼方・源六」”は「付き添い」として同行し、「会見の間」では無く「控えの間」で「跡目外嗣子」(「部屋住み))の扱いで控えていた。
ところが「将軍綱吉」は、「吉宗」が「経済学」等の「博学の徒」である事を知っていたので、その「吉宗・頼方・源六の人物」に興味を持ち密かに「面会」を特別に許した。

(注釈 周囲が驚くほどに特段に「経済学」に優れていた事が公的資料から判っていて評判に成っていた。
これを将軍「綱吉」は事前に老中や側用人から聞いていたとある。
将軍に成っても周囲にこれを超える家臣はいなかったとされている。)

「他の兄弟二人」では無く、「綱吉」はこの「吉宗・頼方・源六の人物」を認めた結果、「知行」を与える事を特別に決めた。
これは「二人の兄弟」を差し置いてであり、「嫡子外扱い」と成っているにも拘らず兄弟には立場は無かった。
(次兄にも直ぐ後に同地に与えた。)
「紀州藩」を通じて藩外の「遠国特別支藩」として「要望通り」の「葛野の所領」(知行地)の「越前割譲」が認められた経緯を持っているのである。

そして、此処を「紀州藩の支藩扱い(「陣屋館造り」」」としたのも、この“「古来の逃避地」”を持っていた“「青木氏との関係」”からではないかと考えられる。
そこで、「吉宗 頼方・源六」は、「知行」を幕府から特別に与えられるとして、敢えてこの「越前の所縁地」の「葛野」を指定要望したのではないかと推測される。

つまり、「伊勢」に居て培った知識から、「知行地」の「安定した土地柄」は、“「商い」にある”と考えていたからであって、その「知行地」を思う様に管理するには、「育て親の青木氏」の一門が「商い」で栄えている事は何かと行政上都合が良いと観ていたのである。
そうで無ければ、態々、幕府は新しく「知行地」(扶持)を造る事も無い筈で、遠国の「葛野」でも無かった筈である。
この「葛野」には、この様な「所縁」があったのである。

(注釈 この葛野は将軍に成った後に越前に返却した。)

つまり、この「伊勢」には、江戸期に「紀州藩の吉宗同意」の下で、この育った「松阪商人」を「青木氏」と共に、「松坂組」と「射和組(後期の殖産)」とに分離させ、編成させて、「職能分業の組合組織」(商業組合)を造り「経済の活性化」に成功させたのである。
(近江組は不参加)
この通称、「松阪商人(「松坂組」と「射和組」と「近江組)には、実は、これには数人のもう一つの「葛野商人(越前商人)」が組み込まれていたのである。

「陣屋館造り」の「葛野支藩」から「吉宗と青木氏」に“「招かれた商人」”として加わっていた。
前段で論じた様に、越前の「青木氏の商人」は、中でも「越前商人」と呼ばれる者の仲間入りをしていたのが、「酒造業」(越前酒)を営んで大成功していた。
それは「近江青木氏」で、秀吉の家臣であった越前八万石「青木一矩と久矩」の子孫も「天下分け目の戦い」で「福井葛野」に逃げ込んだ事は判っている。
「葛野商人」はこの末裔と観られる。

江戸初期の当時は、“「四大杜氏」”と云われた「丹後杜氏」、「丹波杜氏」、「但馬杜氏」に並んで「越前杜氏」が在った。
そこで、この「越前杜氏」を雇って「青木一矩(逃亡二か月後没)」の子の「俊矩」は「酒造業」等を手広く商って成功した。
そして、「越前の酒問屋の豪商」と成り、”「越前商人」”と呼ばれる様に成った。

この「越前青木氏の酒造業」の「二人の商人達」(越前杜氏含む越前商人)を招き、この「酒造り」を「伊勢米の殖産」として「伊勢」で持ち込んだ張本人達であった。

(注釈 この「伊勢の酒造りの殖産」を新しく起こすには、この「越前の職人」を「伊勢」に招く必要がある。
それには、ここを「支藩」として「吉宗の知行地」にする必要があって、それを思惑に幕府に掛け合ったのであろう。
取り分け、「杜氏等の職人」等は、「他国の移動」は当時は厳禁されていた。
何故かと云うと、それは元より「領民」は、「藩主の支配下」にあり勝手な移動は「国抜け」と云う斬罪になり、且つ、「杜氏等の高い能力」の技能者は、取り分け、国のその権益を護る為に「国の殖産」が他国に流れる事を禁止していた。
中でも、「関西の四大杜氏」の「杜氏」は厳禁であって、「国で開発した殖産」は「国の宝」と観られていた。)

「青木氏」は、前段で論じた様に,「信濃青木氏」から学び「米の新種と早場米の開発」(江戸初期)に成功したが、「余剰米と成った米」を「酒造に生かす事」を考えての処置であった。

この「葛野」を「吉宗知行地の所領」と要望したのには、上記した様に、この「越前の酒造業」を「所縁のある葛野」から「伊勢」に持ち込む「吉宗と青木氏の戦略」で在ったと観られる。

と云う事は、「吉宗と青木氏」は、伊勢に「酒造業の殖産」(伊勢酒米の大和)を興そうとしたとすると、「伊勢の殖産」のみならず、ここの「伊勢の経済力」を背景に「将軍」に成れるかは「時の運」が左右する事は必定ではある。
然し、これは少なくとも、「疲弊する全国の経済」と「幕府の経済知識の治政」に大いに疑問を持っていた証拠である。
「御三家」として何とかしたいと云う「気概」は、「嫡子外」でありながらも持っていた可能性が有る。
むしろ、「嫡外子扱い」で育ったからこそ持ち得た「気概」であっただろう。
少なくとも、幕府に「紀州藩の影響力」を誇示して幕府を動かしたかったと云う「気概」は持っていた事は、この「葛野の一件」でも伺える事である。
(その様に「資質と知識」の持った「養育」を「青木氏」はした事は確実である。)

「吉宗」が「堅実な性格」であったと云う事は、そもそも「青木氏の家訓」と「氏是」に通じているからであり、上記した様に、「伊勢商人の気質」に通じている事でもあった。

上記のaとcの「江戸出店と商業組合の不参加の商人」が、後の1760年代に「江戸出店」を果たすが、この「江戸出店」を果たすには「新たな売り」にする「伊勢の殖産品」が必要で、ただ単に江戸に出れば成功すると云う甘いものでは無かった。
この時の「商い」には、上記した「新たな殖産」を興した「伊勢の酒」と、伊勢伝統品の「伊勢の白子木綿」と、紀州伊勢でも起こった害虫全国被害にミカン畑に「搾りかす油」をまいたところ大効果があり、これを逆手に「殖産商品」とした「南勢の菜種油」”が主であった事が判っている。

(注釈 この事は「墫廻船」と「菱垣廻船」の「積荷資料」にも記載有る。)

取り分け、上記した様に、1745年以降の「樽廻船」の「酒」には、この“「伊勢の酒」”があった事が判って居る。

(注釈 「灘の酒」等は特に厳格に管理されていて「廻船の搬送」は「樽廻船」として限定されていた。)

この事は、「吉宗知行地の葛野」から招いた「葛野商人」に依って興った「伊勢の酒造業」は、1697年から凡そ50年で江戸に販売できるまでに育った事に成る。
「酒に適合する米の生産」から始まり、「酒造販売」に至るまでの工程としては、納得出来る期間である。
前段で論じた「信濃から学んだ米の生産」は、「伊勢に合した米種」も然ること乍ら、「酒に合う米種」に改造する事にそもそも「所期の目的」があったのではないかと考えられる。
故に、確かに「伊勢の難しい気候」に合わした「米の増産」もあるが、「日本初の早場米」(青木氏が開発した「早稲光」、或は、「光稲」)には、「良酒に合った伊勢米」にするには「季節的な理由」が在って「早場米」にしたのではないかとも考えられる。

注釈として、「伊勢」は地形的に「中部山脈」と「中国山脈」の中央構造線の「中間の切れ目」から吹き降ろす山瀬(やませ)に依って「伊勢平野」は常に荒れる。
平均気温は15度前後と「低温域」と成り、又、「堆積平野」であるが為に「砂泥岩質の土壌」で出来ているし、この事に依る「海水堆積」が起こり、従って「米の生産」は古来より全く難しかった。
これを「寒冷地の盆地の信濃」から「米の生産」を学び、上記の土壌に適した「米種の開発」に「青木氏の資産」(殖産)を投入して取り組んだ。
更には、「やませの低温域」の季節を避けた「全国初の早場米」まで開発した。

そこで「酒米種」にするには、「低温米」は甘みが在ってまろやかであるが、「海水の浸み込み」を起こす「砂泥岩質の土壌」が問題であったらしく、これに「合わせた米種」にするのには大変に苦労した事が「青木氏の資料」の一部に書かれている。

この資料から読み取ると、概して云うと、「砂泥岩質の土壌」は低温に成ると、「土壌の水分量」が低下して、「米質」が脆く、「粘り性」が低下するとの事で、結局は、激しく成る「やませの時期」を後ろにずらして、海水の浸透期をずらし、早めに「種植え」をし、「米質が出来る時期」に、要するに地形から来る「山瀬 やませ」に合せる事で収穫すると云う試みを重ねた。
この結果、前段で論じた適合した「早場米」が出来上がったと云う事である。
これが「酒米種」にも一致させたと云う事であった様である。
この「早場米」が同じ気候と土壌を持つ信濃より西域の「大阪平野」や「灘平野」や「美濃平野」までに広まった原因である事が書かれている。(事実と一致している。)

そこで、更に調べた結果、「幕末の前頃」の1780年末から1800年前半代に開発された“「伊勢錦」”、と、その後の“「山田錦」”は「伊勢の酒米」として開発された。
然し、、その「伊勢の酒米」の全ての元と成ったのは「多気郡」で開発された幻となっていた“「大和」”であった。

1700年代後半期に開発されたとするこの“「酒米の大和」”は、1700年代初期に多気郡で開発された「日本初の殖産による早場米」(「早稲光」、或は、「光稲」)より改良された上記の“「酒米」”と書かれている。
そして、この「早季種米」に観られる「米の味」から、“「芳醇な味」の「早稲光の米質」”に一致している事が判る。

この越前から呼び寄せて造った「伊勢酒」(伊勢錦と山田錦)の元と成った「伊勢の酒米」の“「大和」”も、「芳醇な味」を醸す「酒米」として生産されていたものである。
その後、近畿圏に多く生産される様に成った事でも一致しているのである。

この”「早稲光」”から開発された”「酒米の大和」”は、昭和初期には完全に消えた“「幻の米」”として最近、「伊勢」で復元したと伝わっている。
「50年の経過」を経て「酒造販売」に至る開発された時期から考察しても、この「早場米」の「早稲光」を先祖に持つ“「大和」”の「酒米」を使って造った「伊勢酒」(青木氏の殖産事業)である事には先ず間違いは無いだろう。(明治35年の資料の焼失 口伝)

そこで「陣屋の葛野藩(1705年)」は、「吉宗将軍(1716年)」と成った後の1725年頃に最終「廃藩−越前藩返却」の経緯と成るが、この「20年間の短期間の知行地藩主」であった事から、「葛野藩割譲」と「酒造業の伊勢移入」は、明らかに「吉宗−青木」側の「当初からの戦略的な計画」であった事に成る。

当時は「酒造技術」は「藩財政」の安定した「財源の要」とも成るもので、その為に酒造元を持つ藩は技能と技術は厳しい管理の下で「門外不出」であった。
当時は上記した様に「四大杜氏の関係」から、各藩は何とかしてこの「四大杜氏」から人を招いて「藩財政の安定化」の為に「酒造業」を興そうと懸命に成っていた。
「四大杜氏」は徒弟制度で組織されていて、簡単に「難しい酒造技術」が流出する事は出来なく独自の努力にも財源と技術に限界があって、喉から手が出る程であった。

この「越前杜氏」の持つ「酒造技術」を伊勢に持ち込み「殖産」として「伊勢酒」を造るには、この酒造地域元の「葛野」を支配下に治める必要がある。それ以外には無い。
とすると、松阪で育った「吉宗・頼方」は「伊勢殖産で酒造業」をより図る必要があると認識する。
そうするには、この「葛野」は、「青木氏の所縁の土地」でもあり、且つ、「酒造業で成功した近江青木氏の青木俊矩の葛野」でもある。

ここをどんな形でも良いから、「吉宗の扶持の知行地」に最低で作り上げれば出来る事に成る。
後は、「早場米」の「早稲光」の経験を活かして「酒米」に改良する事が出来れば、同族の「青木俊矩の葛野」の「越前杜氏」の出番で酒造は直ぐに「青木氏の殖産」に移せる。

注釈として、「綱吉」も当初からの「吉宗頼方の戦略的な計画」であるこの事を「側近の大久保氏」から知らされていて大方は察知していたのではないか。
「記録」には「側近大久保」は「高い経済学知識」のある「嫡外子の吉宗・頼方」に興味を持った所以を「綱吉」に取り次いだとする記録が遺されている。
この“「高い経済学知識」“とするのはこれらの事に在ったのではないかと観られる。
葛野の「頼方知行地付与の件」での「申し出」では、「御三家」の紀州藩安定の為には必要と認めていたと考えられる。
幕府としては、「紀州藩の安定」は戦略上欠かせない条件でもあると考えた事からの配慮と考えられる。
そもそも、「紀州藩」は元は「浅野藩の不毛の領地」であり、「越前国の様に経済的な戦略的地域」ではなく軍事的地域と見做されていた事も事実である。

そもそも、この「殖産」を営む「伊勢商人」とは、「松阪組」と「射和組」と「葛野組」と「日野組(松阪組と会津組)」と成るのだが、その組は次ぎの様に成っている。

「松阪組」には、氏姓名としては、「青木氏の商業組合」や「殖産で拡がった組」や「縁故関係組(「加納氏」等)」がある。
「葛野組」には、数は少ないが「葛野青木氏」等の「酒米の殖産組」と「杜氏等の酒造組」がある。
「日野組」には、元の「近江組」が一度日野に戻るが、その後、「松阪戻組」と「会津組」の二流に成る。

前段でも論じた様に、秀吉に依る「氏郷の移封」で二分流し、「松阪戻組」が「射和組」と合流する事に成る。

これらを主導する「射和組」の「伊勢郷士衆11氏」(筆者説18氏)に付いて論じて置く。

この「射和組」には、氏姓名としては、「・玉置氏、富山氏、国分氏、森田氏、河村氏、山下氏、新川氏、三井氏、下村氏、竹川氏」、所謂、射和組の「伊勢郷士衆11氏」(筆者説18氏)が確認できる。
これに前段でも論じたが「門徒衆」が加わる。

(注釈 但し、「日野組」の「松阪戻組」と「射和組の門徒衆」の二派は「青木氏」と行動を共にしなかった。)

以上等の「伊勢郷士衆11氏」(筆者説18氏)が中心と成って繁栄させたのである。
この「射和組」には、伊勢紀州の「門徒衆」が入る。

注釈として、この「射和組」に加え、全体の「伊勢郷士衆」は次ぎの通りである。

清水、山尾、辻、・佐々木、・加納、・小林、 満田、中村、福岡、西田、島、松山、家喜、喜早、本城、福西、谷村、徳山、金子、友田、藤村、滝野、千賀地、吉住、村田、新川、
(紀州は除く 最大時の計26氏)

「親交・縁籍先」の五氏
清水「松阪組」 山尾「松阪組」 辻「松阪組」 三井氏「射和組」 下村氏「射和組」

「娘嫁先」と「家人跡目先」の確認できる五氏
・佐々木「松阪組」 ・加納「松阪組」 ・小林「松阪組」 ・玉置氏「射和組」 ・小野田氏「射和組」

注釈として、この「伊勢郷士衆」との血縁では、現在の研究では、「青木氏」からの「娘嫁ぎ先」と「家人跡目先」としては「五氏」(・印)が確認できる。

「青木氏へ嫁入り先」は、確実には全て確認が取れないが、ほぼ同じ程度の「六氏」で,大正末期までの「長い付き合い」(親交)のあった「伊勢郷士」は血縁の有無は別として「五氏」が確認できている。
(恐らくは血縁はしている。江戸期中期で計11氏)
然し、更に資料が見つかれば、少なくとも「伊賀郷士衆等11氏(18氏)」とは、清蓮寺などの資料からと、その前後の経緯から観て何らかの関係があった事が頷ける。
(室町期からでは計29氏)

(注釈 平安期と鎌倉期の状態は度重なる消失で資料が見つからないので状況証拠以外には掴み切れない。)

伊勢の「櫛田川」を挟んで、「射和」の南側の玉城村(現在の玉城市)の全域は、「伊勢青木氏」が大地主(地権者)で、「伊勢紙屋の蔵群」と「松坂組の職人の職場と長屋群」と「射和組の職人の職場と長屋群」として成り立っていた。
この状態は、「農地」では無かったことから、上記で論じた様に、「資産・地権」として筆者祖父の代の明治35年(38年頃)まで続いた。

実は、「伊勢松阪」は、江戸期から明治期まで、「数十件以上の大火」として扱われる「火災」は何と「6度の大火」に見舞われた。
従って、縁籍関係のこの種の資料は特段に遺らないし何らかの方法で追跡が困難に成っているのである。

(注釈 これは上記した中央構造線の「地形上の吹き降ろしの影響」で大火が起こり易い。
この内の1件は「青木氏の伊勢紙屋」からの松阪の出火元に成る。)

(注釈 この為に「古来の資料」が残念ながら多く消失しているが、「商記録」は別であった事と「菩提寺」や関係する「郷士衆の家」には「末梢の記録」が細かく遺されている事から、「充分な読み込み」をすれば「青木氏の歴史観」と繋ぎ合わせての経緯が生まれる。)

江戸末期にも2度の「大火」に見舞われ、「室町期末期の戦乱」に依る「焼き討ち」からも「大火」に依る「伊勢庶民の感覚」は、大火には特別なものがあり大変なものであった。
それだけに、商家界隈の何度も繰り返される「災難」には、そこから何とか立ち直ろうとする気概が強く、「伊勢四衆」の「生き残りの二氏」(二つの血縁青木氏)が立ち上がったのである。
(伊藤氏一族と伊賀氏一族は衰退)

江戸期までに生き残った「氏族」の「伊勢秀郷流青木氏」は、「紀州藩の官僚」として、「伊勢青木氏」は「郷氏の地主」として、「豪商」として、「殖産」を新たに興し立て直らせようとした。
其れには、上記した「室町期末期の殺戮」と「度重なる大火」で「伊勢衆」は、上記の様に激減して仕舞ったのである。

“「紀州藩の記録」”に依れば、この「伊勢衆」が他国に比べて特に少ない事を理由に、「伊勢の二つの青木氏」との「談合」を再三にしていた事があり、“「青木氏の年譜」”にもこの事が一部記載されている。

注釈として、「伊勢」の生き残りの「郷士衆」は、同じ時期の「土佐郷士数」の「全階級500」に比べて、50程度である。
何と1/50に過ぎない。

「伊勢三乱」に参加した「郷士数」は、記録から凡そ「35程度」で、それが、最終は20以下に成っている。
「伊賀の乱」に参加した「郷士衆35」が、前段でも論じた様に、清蓮寺城からの「青木氏に依る救出劇」で生き残ったのは何と最終11氏(18説)と記録されている。
(殆どは何らかの縁者関係にあった。)

(注釈 普通は、その地域の「歴史的な経緯」も左右するが、原則の平安期からの「四六の原則」により「一国五郡制」であるので、一郡に興せる「郷士数」はせいぜい「25から30程度」が生存競争により限界と成る。
そうすると、藩主と成った者は、これでは元より「規定の家臣数」では賄えない事から、一国に「郷士数」は150程度に拡がりこれが限界数と成る。
これでは、藩主に課せられた「責任兵数」では足りない事に成る。
そこで、既定の格式を下げた“「準下士」”として「農民から傭兵方式」を採用する事に成るのである。
これでこの約3倍が用意される事に成る。
ただ、これには、「人様」を用意するに当たり “「ある仕来り」”が有って、「傭兵と成る者」(“「準下士」”)、つまり、主に「農民」には、“「元郷士」”であったとする証明が必要であった。
これを扱う「専門の仲介人」の「斡旋職業」が存在した。
これらが、この“「証明」”を作り上げて藩主に届けられたが、殆どは搾取であった。
藩主もこの事は充分に承知していて「暗黙の了解」であった。
そこで始めから、紀州伊勢地域にはこの様な「傭兵軍団」が各地に編成していたのであった。

有名なのは「関西域」では、大きい「傭兵軍団」を職としているものとしては、次ぎの通りである。
伊賀軍団、甲賀軍団、雑賀軍団、根来軍団、柳生軍団、河内軍団、十津川軍団、龍神軍団、橋本軍団、日高軍団、北山軍団と、「熊野六軍団」等
以上の各地の“「郷士衆」”から成る「17軍団」があった。
紀州伊勢はこの様な背景から実に傭兵軍団の多い地域である事が判る。
(臨時的に農民を集めた炊事などの雑務を担当する農兵の「農兵軍団」は除く。)

他に、「伊勢紀州域」では、重要な水軍による「傭兵の軍団」が次ぎの様にあった。
熊野水軍、伊勢水軍、紀伊水軍、摂津水軍、堺水軍、と別格で駿河水軍
以上の「水軍の傭兵軍団」の「五軍団」が在った。

(注釈 「鎌倉期、室町期の戦い」までは、戦略上、「水軍の軍団」が無ければ、“戦いは負ける”と云われていた程に「重要な戦力」であった。
「駿河水軍」は、関東域の水軍と成るが、資料から「平安期からの戦歴」を観ると、「関西域の戦い」に参加している傾向にあり、これはこの「駿河水軍」は「源氏方水軍」と云われ、「青木氏」(伊勢水軍と摂津水軍)とは、「青木氏の平安末期の跡目」に入った「摂津源氏の源京綱」との繋がりから大いに関係のあった水軍である。
伊勢青木氏の同族一門の伊豆青木氏との血縁関係もあって、その勢力は「青木氏」を平安期から伝統的に補完していたのである。)

そもそも、「水軍」とは、港域の海域を封鎖し、「食料の搬送」に敵味方に大きく影響し、「港からの攻込み」で側面を突かれる事があって、圧力を掛ける戦術にも成る事で水軍を確保する事は必須に重要視されていた。
更には、その意味でこの「水軍を持てる軍力」は、当然に「姓族」では先ず無く、「氏族」を構成する集団で無くては持てない状況であった。
この様な「水軍」を持てるには結局はどうするかであって、「絆柵」の中で持てる「軍事力」であった。
其れには況や“「歴史」”が左右するものと成る。
「青木氏」はその意味で関西では、「郷氏」乍ら、この「五軍団」との強い絆柵を持っていた。其れに「陸の水軍」とも云える「シンジケート」を持っていたと成ると、例え、「不入不倫の権」で護られていたとしても、その「影の脅威」は「姓族」の大豪族の比では無かった。)

「青木氏」では,九州の黒田藩に傭兵していた「日向青木軍団」、自由軍団の中部域の「伊川津七党の青木軍団」や関東域の「武蔵七党の丹治氏系青木氏の軍団」がある。
中国域の地方では、「讃岐青木氏系」の「出雲亀甲軍団」、関東では「武蔵丹生党軍団」がある。
これらは全て組織化された「郷士身分」の「表の組織」である。

「伊勢」は、この事から観ると、この「軍団の影の脅威」があって、明らかに矢張り全国の平均より1/3と少ない事が判る。むしろ少なくても良かったのである。
丁度、「青木氏の同族」で親交を最大にしていた水軍の無い「信濃」では、この「平均の郷士数500」であった。
重要な事としては、「伊勢」は1/3であった事から、この様に少ないだけに「強い絆柵」で繋がった「伊勢水軍」「摂津水軍」や「伊勢シンジケート」と云う「影の組織」で固まっていたのである。
前段でも論じたが、「シンジケート」とは、平安期から室町期に戦乱で敗退して山岳地に逃亡した「武士衆」で、中には勢力を持ちなおして「郷士」と成った者もあって、それらが「生活の糧」として「青木氏等の豪商」と繋がり、契約をして経済的に生き残った。

(注釈 完全な経済的支援をする。常時は「荷駄の護衛」や「地域住民の護衛や警備」を担当し、「戦い」と成ると戦闘員として働く「影の軍団」である。
資料を観ると、この水陸の「軍団の活動」は目が廻る位に煩忙であったらしい。)

それが各地に存在する「少数の集団」であった事から、上記の「傭兵軍団」には参加せずに、「伊勢シンジケート」に組み込まれて「青木氏から経済的な裏付け」を取って、“「戦いそのものの傭兵の仕事」”では無く、“「経済的な傭兵の仕事」”を選び、それを「生きる糧・仕事」として働いたのである。

時には、元は名だたる「氏族の郷士」もいて、「武家」であった事からも「護衛や威圧」等の「武力的な仕事」も伴わせて働いた。紀州藩などの家臣の道を態々選ばなかった。
「郷氏の各地に持つ地権」を「護る役目」を負って、そこで土地活用して生きる道を選んだのである。
主には、上記の藩主では無く、「青木氏」等の「大郷氏の護衛役の軍団」が中心であった。
「郷氏」は「地権」を大きく持つ「古来の地主の格式のある武家」で、また勃興してきた「姓族の藩主」とは違った経済的背景を持った、況や“「地域力」”を持っていた「影の大勢力」であった。そこに水軍等を持っていたのであるから、「姓族の藩主」は下手をすると潰されると云う脅威が在った。

(注釈 前段で論じたが、勃興してきた「姓族の藩主」の「山内氏」はこれに悩まされた典型的な事例である。)

(注釈 江戸期は、「藩主の石高」に応じて参戦する兵数が決められているが、これを全て家臣(上士)では賄えきれない。
そこで、「下士」として「土豪の郷士」を「二つの身分」に分けて抱えた。
この事を実行したのが彼の有名な処世実に長けた藩、江戸期に出世した「土佐藩」である。
この新興の土佐藩は、標準的な「495の郷士数」であった。
この事から「伊勢」は如何に少なかったかは判る。)

同じく元農民から出世した「自由郷士」の「伊勢の藤堂氏(55万石)」も、「土佐藩」と同じ環境に置かれていた事から、「伊勢の郷士衆」が少ない故に、農民からも「下級の郷士」として扱い、“元郷士であった事を証明できるもの“があれば、「郷士の下士身分」として臨時採用した。
恐らくは、土佐藩(49万石)と石高は同じ程度であった事が伺えるが、そもそも戦乱で滅亡したと云う事よりも、元よりそれに見合う「伊勢郷士」は、室町期中期から興った「姓族の郷士」としては「伊勢」には極めて少なかったのである。
これは「姓族」が少ない事も含めて「奈良期からの不入不倫の権」で護られた「遷宮地伊勢の歴史的な環境」から生まれた現象である事に成る。

(注釈 筆者説では、戦乱に関わらず伊勢は最大70程度以下で、 矢張り、元々、歴史的に「聖地」とされていた事もあって生きる糧と成る「殖産」も少なかった事に依ると観られる。
それは「不入不倫の権」で護られていて、ここで「武力」を発揮して周囲を押え「土豪」と成り、遂には「郷士」と成るには出来なかった環境にあった事が云える。
何故ならば,「聖地」で有るが故に、成ろうとすれば、それは「逆賊の罪」に曝されるからである。
依って「伊勢衆」と呼ばれる「郷士衆」と違い、「天正期末の伊勢郷士」と呼ばれる多くは、上記した「伊勢御所時代」を強引に築いた「公家武家の北畠時代」からの「各地から集めた郷士」であり歴史は浅い。)

「公家大名」と成った北畠氏は、上記の通り「武力を持たない事が原則の公家」で在るが故に、従って、各地から家臣を急ごしらえで募った事は有名で、関東の秀郷一門の名門の「工藤氏」等も家臣に成っている位である。
その「工藤氏」等も「北畠氏」がその勢力を関東中部地域に伸ばした時に滅ぼした「氏族」であり、それだけにこの「伊勢」には「歴史の長い郷士衆」は少ないのである。
それだけに室町期中期頃からの「伊勢郷士」と呼ばれる「土地の土豪」から育った同じ「郷士」で有っても「青木氏との付き合い関係」も少ない「伊勢の郷士」もあるのである。

「紀州藩の記録」には、その「意味合い」としては、伊勢では、“「郷士」が少ない故に反対運動や騒動が無く、やり易いと云う事もあって、「彼等の糧」を確保する為にも「伊勢の郷士」等に影響する”「土地」“とか、”「水」“を利用した”「殖産」“を進めるべき”との意味合いの文略がよく観える。
「土地」が、「勢力拡大の道具」として使わず、事を構える事無く「本領安堵」されている「青木氏」に執っても同じ考えであった事が、これはこの時期に何度も繰り返されている「談合」の意味からでも判る。

そもそも、上記した「郷氏の地域力」を有史来を持っている事から「伊勢の事」を考えている「青木氏」を「本領安堵」する以外には無かったとは思われる。
然し、それにしても「伊勢の国力」を高めるには、「伊勢衆」と「伊勢郷士」の「二つの郷士の力」を結集した「殖産と興業」が必要であった。
従って、その「力の源」に成るには、「新しい藩主」にしても「地域力」を持つ「郷氏の青木氏」にしても、矢張り、「少ない郷士の力」を使う以外には方法は無かった。
その「二つの郷士」が室町期末期の戦乱で激減し、その僅かに遺された「伊勢郷士」も、「伊勢シンジケート」の中に存在したと云う“ジレンマ”にあった。

元々、上記した「紀州藩との関係」から観ても、結局は「郷氏の青木氏」が前面に出る事しかなく、「伊勢シンジケートの郷士」から観ても、頼れるには「藩主」では無く、矢張り、“「実質的な地域力」”を持った「郷氏の伊勢青木氏」であった。
然し、その期待を背に、この「郷氏の伊勢青木氏」も「自らの力」だけでは“不安”であったと観られ、当然の事ではあると思われるが、「古来の親族」の“「信濃青木氏」”に「助け」を更に求めた事にも成る。

と云う事は、「伊勢」は、「室町末期の伊勢三乱」の「戦乱の影響」を強く受けていた事だが、「親族の信濃」はその意味では中部地域であった事から、「信濃青木氏」は「郷氏」であって「国衆」では無かった事から伊勢程ではなかった事に成る。

そこで、紀州藩から「5万石相当の支藩的扱い」を受けていた“「地域力」”を持つ「郷氏の伊勢青木氏」は、「前段や上段や上記の背景」であったが、ところが、この当時、「伊勢の殖産」を紀州藩自らが進めるには下記の「諸範の事情」から無理であった。

何故ならば、上記した様に「財政的な問題」を大きく抱えていた。
(「10万両の借財 55万石の1/2の財政」=廃藩寸前の財政)

その中での「青木氏の商年譜」のこの時期(二代目後半と三代目初期)の記録(1705年6月)には、“「紀州殿談合」”と記されている部分が在る。

(注釈 この「談合」の「殿」とは、書き方から「藩主」とは限らない模様で、 藩主就任1年後 喪中開け後の事である事から活発に動く事は無理であった筈である。
これは「19歳の源六殿」の意味合いが強い。)

この記録にある様に、“「殖産」”で“「紀州藩立直し」”を「青木氏」が主張する様に、「伊勢青木氏」の「経済力」と「地域力」と「二つの郷士の土豪を動かす能力」を期待しての”「伊勢殖産」に対する談合“では無かったかと考えられる。
揉め事を避ける意味でも「伊勢と紀州の民」を動かしての「殖産」に対する「紀州藩の同意」を事前に獲得する戦略の「談合」であったと考えられる。

前段で論じた様に、これは「初代頼宣と五代目吉宗の持論」でもあったが、「二代目光貞」も、この”「殖産」“を、「吉宗」を「伊勢青木氏」に預ける位である事から、主張していた事にも成る。

注釈として、確定する資料が無く、筆者の「青木氏の歴史観」と「状況証拠に依る推測」の範囲を超えないが、場合に依っては、密かに「幼児の吉宗・頼方(源六」」を隠す様に「伊勢」に預けた時から、「二代目の光貞」はこの「腹つもり」であった事が考えられる。

“「殖産」”に依って「紀州伊勢を立て直すしか方法」は無く、それを「青木氏の財力」と「藩主に相当する地域力」を使っての「殖産」を考えていたとも取れる。
何故ならば、この「考えて実行に移した時期」が、伊勢(1684年)に預けられてから22年後に「“偶然?」が重なり「藩主」に成る”のだが、この「吉宗19歳の後頃」では無かったかと考えられる。

実は、「藩財政の悪化」以外に「外部要因」として、この時に、“「元禄大地震」(1703年)”が起こっていて幕府は火の車に成った。火の車以上であろう。
これで「紀州藩」も幕府から「毎年2万両の借財」をしていたが、この借財が出来なく成って仕舞った。
ところが、紀州藩に「殖産」を興して立て直す必要に迫られたが、その「殖産を興す財力」は、最早、元より無かった。
そこで、「青木氏の財力と地域力」に目を付け、そこに「吉宗 頼方 源六殿」が居る事で19歳に成った「吉宗 源六殿」により経済的な知識を付けさせて、より「青木氏」との「育ての親の関係」を深くさせて、何時しか「殖産」を興しての「藩政」を任せようと考えたと観られる。
ところが、「藩政」は公家系の知識力の無い「二人の兄弟」が継承する事に成っていた。
これでは「改革」は出来ないで藩は潰れる当に瀬戸際に至っていた。

そこで、「二代目の光貞」は、「嫡子外扱い」としていた「吉宗の源六殿を藩政に据える密かな遺言」を遺していたのではないかと「状況証拠の積み立て」から考えられる。
それを「御育用人の加納氏」と1697年に葛野藩主に成った「吉宗(頼方 源六)14歳」に伝えていたのではないかと考えられる。

この時1697年、光貞と兄弟二人は、綱吉に拝謁を受けた。
そして、嫡子外と云う事で、「吉宗(頼方)」が控えの間に、ところが老中の「大久保忠朝」に特別に便宜が働いた。
この事で「父親の光貞」は、「吉宗(頼方)」が幕府に認められたと解釈し、更に「先の事」に暗示が掛けられたと解釈したと観られる。
そして、特別拝謁から8年後、「元禄大地震」の2年後に光貞(1705年5月)は没したのだが、
そもそも、紀州藩の支藩は6藩あり,その内、「越前国の葛野藩」1697年は吉宗に、「越前国高森藩」1697年は、次男の頼職に割譲、後は時代は異なっていて家臣や家老が納めている。
つまり、「葛野」は「吉宗(頼方)」に、「高森」は「頼職」に、ところがこの「高森域」は「頼職」が短期間の紀州藩主と成った時に返却し、一部は「吉宗(頼方)14歳」が受け取っている。
(短期間の知行地 高森支藩)

「嫡子外扱い」でありながらも、「頼職の兄」と知行が同高で、予想外にも、破格の扱いで“兄より厚遇を受けた“と「光貞」は受け取り、「吉宗(頼方)14歳」を”「紀州藩の跡目」にと暗に「綱吉」に諭された“と受け取ったと観られる。
故に、注釈として、紀州藩では次ぎの様な「不思議な事」が起こったのである。

「二代目光貞」は1705年5月没と、「三代目頼教」は1705年8月没と、「四代目頼職」は1705年9月没と成っている。
二代目と三代目は「病気説」、四代目は1月後に江戸から駆けつけて「疲労説」、 三代目はそれまでは元気で、病名不明の突然死は疑問である。
四代目は江戸から船で最速で3日の船便を使えば着く。
三日で着いたとしているので船便である。従って、死亡する程疲労はないし若い。

(注釈 陸旅では15日所要する。「見舞い」には間に合わない。)

況して、「江戸」から「伊勢」に旅して疲労で死んだとは前代未聞で、そもそも「伊勢参りの慣習」もある位なのに、事も不思議である。「付焼刃理由説」に外ならない

何度も記するが、其処に、「追い打ち」をかける様に、1707年と1708年の紀州沖の「宝永大地震」が起こって仕舞った。
何と「25万石/55万石の災禍」と成ったとされている。

最早、これで紀州藩は「財政破綻」で間違いなく「廃藩」に成る。
これでは「幕府」は困った。従って、拝謁時の「幕府の意向」を強力に推し進めて来た。
そこで「郷氏の青木氏」は、藩主に代わって独自に「伊勢紀州の郷士衆」等を集めて談合している(1705年)。
その前に前段でも論じたが、中でも「紀州藩」は立藩時にそもそも「伊勢藤氏の青木氏族」等を「家臣の大半」にしている。
この事から、そこで焦った縁籍関係にある「伊勢紀州の郷士衆家臣団」と「青木氏族の紀州家臣団」は、上記の件(幕府の意向)もある事から“「ある決断」”をしたと考えられる。

これらを受けて、次ぎの様な事が課題と成った。
問題は、次ぎの事で談合が進められた。

「10万両の借財」と「未曽有の災禍」で、藩は崩壊寸前、現藩主の能力で切り抜けるられるか。
拝謁時の「幕府の意向」を推し進めるにはどうするか、
推し進めた場合のリスクをどう処置するか、
誰がどの様に「ある決断」を実行するか、
決行した場合の援助体制をどうするか、

以上を課題として「縁故の家臣団」は「青木氏」を巻き込んで「松阪」で検討されたと考えられる。
「二つの青木氏」が、この“「談合」”を実行したと云う事は、ある程度の“「ある決断」”の実行を容認し、その後の「支援援護」も覚悟しての事であろう。
「ある決断」を実行するかどうかと云う事は、最早、そのレベルでは無かった筈である。
“「ある決断」”を1705年に実行されたと云う事であろう。
“「ある決断」”を実行するについては、目だった事は逆効果で幕府が観ている中では、政治である以上はその建前を作り上げなくてはならない。
しかし、「事を荒立てる事」は、幕府に執っては「お家騒動の形」で逆に処分をしなくてはならない口実に成る。
最悪でも「世間の見本藩」にも置かれている「幕府の御三家」としては絶対に避けなければならない事である。
暗に示した「幕府の意向」である限りは、無難な形で、且つ、円滑に措置する事が課せられている。
ともなれば、その措置は決まって来る。
「嫡外子」であって「知行地」を受けたとしても、「吉宗・頼方・源六」を他の兄弟二人を飛び越えて、行き成り「紀州藩主」に仕立てる訳には行かない。
仮に”「ある決断」”が、「廃嫡」しかないとしても、先ず、「跡目の形」を二人の兄弟に取らせた上での事に成る。
二代目光貞没後、三代目、四代目を跡目継承させた上で五代目の跡目として「吉宗・頼方・源六」が継承すると云う形に導かねばならない。
これで世間と幕府を納得させられる事に成るし、御三家としての立場を保てるし、「幕府の意向」を実現できる。

では、その”「ある決断」”の「理由づけ」と「時期」が問題と成る。
この「時期」は、上記の通り切羽詰まって猶予は全く無い。
恐らくは、密かに幕府老中からの「秘かな催促」が在ったであろう。
「理由」は、世間の藩の廃嫡で使われるのは「病死届」「隠居届」が主流であった。
そこで「紀州藩」は二人を廃嫡しなければならない事から、「尾張藩の家臣団」が行った「隠居届」は出来ない。
遺されるは「病死届」、然し、三人目は「理由づけ」として幕府は無難で円滑である事を見込んでる以上は、「幕府届出」には三人ともに“「病死」”と云う事には成らない。
故に、「苦肉の策」で聞いた事のない様な記録にも無い「理由づけ」の“「疲労死」”で済ましたのであろう。

この「ある決断」は、1705年の5月8月9月と成ったと考えられる。

(注釈 今でも和歌山城の城下には、「伊勢藤氏の青木氏族」の家臣であった青木家が多いし、藩に馬等で通える範囲の近隣の市町村にも多く、如何にも定住地であったかの様に拡大している。
彼等の家筋の家紋分析では全て「伊勢藤氏」の「秀郷流青木氏の末裔」である。)

そこで注釈として、この“「談合」”に付いて参考と成るものがあった。
この「談合」に参加した「郷士頭の家の遺資料」には、この「談合」の直後に「御城役の縁籍の者(本家)」で催事が在って、その催事に対する返礼の手紙の中に“「城の行く末を案じている内容」”が書かれているものがあった。
この事に依ると、この家臣もこの「談合」に参加していたらしいのだが、詳細は書かれていないが、“城では可成り緊迫した状況”の中にあった事が判る。
この「青木氏の商年譜」に書かれている“「紀州殿談合」”には「吉宗・頼方・源六」が参加していたかは充分な確認が取れないが「非公式の参加」は先ず間違いは無いだろう。

そこで注釈として、 この「紀州殿」とは、果たして“どの様な意味なのか”と云う事に成る。
当時、伊勢と紀州の郷士間の呼称には、「伊勢衆の郷士」には「伊勢殿」と、「紀州の郷士」には「紀州殿」と云う一般呼称の方法が在った。
「紀州殿」とは、伊勢から観れば、紀州に居る紀州藩の家臣と成っている「郷士」、即ち、「紀州の郷士」と、紀州に居て家臣と成った「伊勢の郷士」の事を表現した呼称である。
従って、「吉宗 頼方・源六」がこの「談合」に直接に参加していたかは疑問である。

然し、次ぎの記録から江戸に居たとも取れるが、「伊勢」に居たとも成っている。
藩主に就任する際(1705年10月)に、幕府から呼び出しがあり、「藩主の黒印状授与」と合わせて「仕来り」に依り、「綱吉」より“「偏諱(へんき)」”として「綱吉の吉の通名」(1705年12月)を与えて「吉宗」とする様に「改名」を命じられた事が記録として在り、この時は「江戸」に居たと考えられる。
これからすると、未だ藩主にも成っていない部屋住みが次兄の要る江戸にいる事は無い。
従って「伊勢」に居た事に成る。
「紀州」には藩主と成った4年後に入国しているので「伊勢」に居た事に成る。

そこで、此処で、重要な事が起こっているのである。
それは、「青木氏の歴史観」と紀州藩に執って見逃せない事柄である。
先ずは、それを先に論じて置く。

重要な注釈 (偏諱 へんき)
この「偏諱 へんき」と云う言葉には、「青木氏の歴史観」に執って前段で論じた「青木氏」しか引き継がれていない「達親」と同様に、実は、この“「偏諱(へんき)」”も元は「青木氏だけの慣習」であったのである。

江戸期では武士の家柄では、これに代わるものとして“「通名」”と呼ばれるものがあるが、中には「武士出の豪商」なども「世襲名」の「襲名」という言葉でこの「通名的」に使う様に成った。
ただ「通名」や「世襲名」のこれらには、これを実行するに儀式的で一つの伝統的な慣例なものでは無い処が異なる。

然し、この“「偏諱(へんき)」”の根源は、「青木氏等の皇族賜姓族臣下族」が、「通称の通名」に一定のシステムを加えて奈良期から引き継がれて来た実に古式豊かな「古い仕来り」なのである。

「天智天皇」が「大化の改新」で定めた「第四世族の第六位皇子」が臣下する際に、天皇から「皇族賜姓族臣下族」に対して、「氏名」、「象徴紋」、「守護神」、「神木の氏木」、「官位官職」等の「象徴」を与えたが、この一つとして、「氏名」に続く、「権威の仕来り名」も与えた。
これが“「偏諱(へんき)」”と呼ばれた儀式だが、「皇族賜姓族臣下族」だけの「儀式・仕来り」で在った。
そして、この“「偏諱(へんき)」”も含めて、「嵯峨期の詔勅」に伴う「禁令」に従って「青木氏」が行う「慣習仕来り掟」を真似てはならないとする事が発せられた。
「青木氏の氏名の使用とその慣習仕来り掟」と同様にこの“「偏諱(へんき)」”もその一つであった。
況や、それは、「賜姓」に伴う「一つの仕来り」であった。

「賜姓」は「氏名」(姓)であり、それに続く“「偏諱(へんき)」”は「名」であり、古来ではこの「名」を「二つの使い分け」をした。
それには、「字名(あざな)」も一つであって、「賜姓」を権威付ける為に設けられた「仕来り」であった。
「賜姓」と共に使われる“「偏諱(へんき)」”のこの“「字名(あざな)」”は、室町期末期頃からはその「人の愛称」として“「あだな」”として用いられる様に成った。
例えば、「正規の偏諱名」で呼称する事を憚れる時は、「院殿などの屋敷名」や「町名」や「通路名」や「門跡名」等が使われた。
「嵯峨期の禁令」などでは一般にはこの「字名」も使われる事無く、「公家」等がこの「字名」を使ってよく呼称された。

この“「偏諱(へんき)」(「名」と「字名」)”が、その「賜姓」と共に護られて来た「青木氏の古式伝統」なのである。
「天皇等の上位の者」、即ち、「権威者」が、自らの「名」、或は“「字名(あざな)」”の一字を「世襲名」の一字に加えて名乗らせると云う方法の儀式である。
この「賜姓」に続く「催事」のものである限り「正式な催事・儀式」として、「賜姓」に関連する“「偏諱(へんき)」”と呼ばれる「仕来り」を敷いていたのである。
平安期末期までに天皇より「賜姓」を受けた「高位の者」は、この“「偏諱(へんき)」(「名」と「字名」)”の「仕来り」に従う義務があった。

20程度から始まったものが最大時は200もあった「正式認証の氏族の賜姓族」は、室町期末期には壊滅状態で、この“「偏諱(へんき)」(「名」と「字名」)”の「仕来り」に従う義務に従って催事を執り行うだけの「氏力」を持っていたのは、筆者の研究では「青木氏と藤原氏と佐々木氏」等を除くと、たった「4氏の氏族の賜姓族」に留まっている。

この様な「皇族賜姓臣下族」等の用いる「慣習」や「仕来りや掟」を「嵯峨期の詔勅」と当時に出された禁令で、この「皇族賜姓族臣下族」の“「偏諱(へんき)」(「名」と「字名」)”も含めて「氏名、象徴紋、守護神、神木の氏木、氏名の村名、氏名の地名」等を使う事を一般に禁止していた。
この禁令の原則は明治3年に解除されるまで護られていた。

ところが、室町期中期頃から将軍や大豪族等の家で「嵯峨期の禁令」が、中でもこの“「偏諱(へんき)」(「名」と「字名」)”が護られなくなった。
むしろ、末期にはこの“「偏諱(へんき)」(「名」と「字名」)”を利用して衰退した室町幕府の権威の継続に利用されたのである。
これが変化して一般の武士社会に広まったと考えられる。

さて、そこでこの“「偏諱(へんき)」(「名」と「字名」)”に付いてどの様に利用したのかと云う点である。

そこで、「青木氏」を「育ての親」としている「頼方」を江戸に呼び寄せて、「綱吉の吉の字」を与えて「吉宗」とする催事を態々儀式として興したのである。
この「偏諱(へんき)の儀式」と云うものがどの様なものであるかが判れば、「偏諱」そのものが行われた事が、「幕府の意向」を「紀州藩に対しての態度」を如実に物語るものであるかが解る事なのである。
普通は、「偏諱(へんき)の儀式」が「嵯峨期の禁令」が掛かっている以上は、無視してまで矢鱈と「将軍」が周りに頻繁に行われない催事なのである。

実は、注釈として、この「綱吉」の行った「偏諱の儀式」には、ある「思惑」があった事が判るのである。
それは「幕府」のみならず「紀州藩」の社会への「権威」と云うものを見せつける目的があったと観られ、禁令と成っている「賜姓臣下族」の行う「古式豊かな偏諱儀式」を行える格式を「幕府と紀州藩」は持ったのだと云うデモンストレーション(示威誇示意識)を天下に指示すと云う思惑があったのである。
また「紀州藩」で起こった上記する「廃嫡」に観られた「ある決断」の事件(急逝事件)を穏便に納めると云う思惑もあったのである。

然し、現実に「幕府」は他の二人の兄弟に「母方公家」にあったにも関わらず行わず、公然と「頼方」に対してだけ「偏諱 へんき」は行ったのである。
然し、他の親兄弟に対してたとえ「藩主」に成ったとしてもこの「偏諱 へんき」は行っていないのである。
だとすると行う以上は、何がしかの「大義名分」が整っていなければ、「将軍家」と云えども「禁令無視」は社会に対して出来ない催事の「偏諱(へんき)の儀式行事」である。
「令」を護らせる立場の者が自ら「令」を破る事は出来ない。

そこで先ず次ぎの条件を整えたと思われる。
(A)「催事主」は、「武士の長者」で筆頭の将軍の「徳川氏宗家」
(B)「吉宗育親」は、「皇族賜姓族臣下族」の「青木氏」
(C)「授与者」は、嫡外子であったが「紀州藩の藩主」に成った「徳川頼方」

つまり、「征夷大将軍」「皇族賜姓族臣下族」「賜姓族育親の子頼方」で「偏諱の仕来り」の「三つの条件」は整っている事に成る。
これで「嵯峨期禁令」を破る事には成らない条件が整うのみならず「権威を指し示す格式」を幕府が持った事をも意味する。

そこで、そもそも、「吉宗」の「宗の字」の「偏諱」は、「育ての親の伊勢青木氏」の祖で「摂津源氏源頼光四家」の「宗家頼政」の「子仲綱の子の三男京綱」が「青木氏の跡目」に1180年に跡目に入っている。
この「頼光四家」の「偏諱」(通名)が「宗」である。
この「育親の筋目」を使って「宗」を以って「吉宗」と特別に偏諱したと観られる。
ところが、これには、故意的に一つ「偏諱の仕来り」に従っていない事が在った。
これは「高級武士」で行う”「通名」”の「仕来り」にも従っていないのである。
これにはある意味を持っているのだ。故意に従っていないのである。
それは「親役の名」の「下字(後字)」を「前字」にしないと云う奈良期からの「鉄則の仕来り」である。
この「鉄則の仕来り」を護らなかった事は、“一体何を示すか”と云うと、“お前は俺の下に在る者だ“と「見下している態度」と成る。
そもそも、この「偏諱 へんき」と云う「名誉な儀式」が「見下しの儀式」と成っているのである。

何故なのかである。
それは「綱吉」の「吉」が「吉宗」の前に来ている。
”「偏諱 へんき」”や”「通名」”の「仕来り」から、本来であれば、格式から“「宗綱」”が筋であって、譲っても「綱宗」となる筈である。
これでは「偏諱 へんき」では無くて、普通の武士慣習の親子の命名時に行う作法に過ぎない事に成り、態々、「偏諱として儀式」を行う事では無い。
然し、現実は「偏諱 へんき」として行われたと記録されているのだ
つまりは、表には「偏諱の仕来りの儀式」を見せて、世間には”「権威」”を誇示し、裏では“将軍家が上なんだ”と誇示したかったと云う事と一説では取れるであろう。
良く云えば、これは“「綱吉の子供」の様にして「破格の扱い」にした“と示すものでもあって、「紀州藩」では「嫡子外の扱い」を受けていたにも関わらず、「葛野藩割譲」と同様に極めて名誉と周囲から観られていた筈である。
「嫡子外の呼び出し」や「控えの間からの拝謁」や「葛野藩の割譲」やこの「偏諱 へんき」の好意や配慮から考えると、「綱吉の子供説」も充分に考えられる事であろう。
何れかと問われれば、簡単に云えば「両方の意味合い」を以って、“政治的に利用した”と云う事であろう。

この「偏諱(へんき)」とは、云い換えれば上記した様に、そもそも、元は「賜姓族」等の「皇位族」の中で行われる「跡目継承の慣習」の催事で、上位の者が「氏の一族」である事を証明する為に跡目時に「一族の通名」の一時を与えて「跡目名」とすると決められた「慣習と仕来り」でもある。
それで以って世の中に宣言する一つの手段でもあった。
この「偏諱(へんき)」は、「青木氏」も「官位官職を表す世襲名」と共に「朝廷の奈良期」から続くもので、前段で論じた様に“「達親」”に続く極めて“「古い伝統」”である。
そもそも、この「偏諱(へんき)」は、「青木氏」等の「氏族の臣下族」の中で「仕来り」として「特定の高位格式」の範囲で「古式伝統」として密かに引き継がれて来たものであった。

然し、何処で漏れたかは判らないが、恐らくは足利幕府と考えられるが、この慣習に似た「通名」と云う呼称で、この慣習が室町期の中頃から大名と成った「姓族の武士」等にも用いられる様に成った。
室町期中期から発祥しした「権威や伝統」を持たない「姓族」であった事もあって、「室町幕府」の採った「偏諱」に似せたこの「通名」は効果が大きかった。
恐らくは、上記の通りこの慣習が世間に知られて一部変更が加えられて伝わったのには、室町幕府の「賜姓源氏」であった「足利氏の勢力」が低下した事から、採った苦肉の策に外ならない。
「足利氏」が、この「偏諱(へんき)」を使って臣下に名を与えて「将軍の権威」を保った事から来ていると観られている。

丁度、幕府が「官位官職」を朝廷に推薦申請して授与して「臣下族」を引き付ける目的として用いられる様に成ったと同じである。

(注釈として、「偏諱(へんき)」が「足利氏」に用いられていた事は「清和河内源氏の氏族」であった事から来ている。
ただ「清和源氏」には、「本流四家の摂津源氏」と「支流頼宣系の河内源氏」に分けられるが、本来は「本流の宗家筋 (摂津源氏頼光系四家」」で維持されて行くものであるが、「頼宣の支流系」にもこの「偏諱(へんき)」が敷かれていた事に成る。
それも、「本流の信濃足利氏」では無く、「関東の足利氏」に引き継がれていた事に成る。
つまり、「宗家筋」と云う枠を超えて「分家筋」にまでも、この「偏諱(へんき)」だけでは無くそれに伴うこの「古式の仕来りや慣習」が正確に引き継がれて来た事を示している。
従って、この「仕来り」そのものの原点は、“「賜姓」”から来ている「一連の仕来り」であった事から、唯、「賜姓族」ではない「足利氏」が「賜姓源氏の河内末裔」であるので、況して、本来であれば「宗家四家」の「摂津源氏」が「賜姓の仕来り」を引き継いで入る事には成るが、この室町期には、最早、「臣下族」だけである事の理由で、この「偏諱(へんき)」を使う事に成って居た事を示す。
「偏諱(へんき)」を使う事には問題は別にない。
この「偏諱(へんき)」の「仕来り慣習」を「源氏」であり「嵯峨期の禁令」には触れない事から引き継いではいけないと云う事は無いので、それは「清和源氏」の中での伝統の問題である。)

(注釈 執権北条氏の鎌倉幕府は、「賜姓族」では無く、「皇族第七位族の坂東八平氏族」の支流族である事から、この慣習と仕来りは「嵯峨期の禁令」で使えない。)

(注釈 「嵯峨期の詔勅」での「青木氏」の後の「臣下族の源氏」には、正式には「賜姓」を受けた「11家11流」あり、「賜姓」を受けないで「源氏」を名乗った皇位族も多く在る。)

そこで、この様に「偏諱(へんき)の儀式性」がどの様なものであったかを理解する事で、「綱吉」が「頼方」に行った「偏諱の目的」が良く観えて来る。
その前に、この「偏諱(へんき)」に付いて「青木氏」に伝わる「偏諱の儀式性」では、次ぎの様に成る。

先ず、「偏諱の儀式性」としては次ぎの「三つの基本条件」が成立している事である。

即ち、「第一の基本条件」である。
次ぎの「三つの役務環境」がある権威を以って整っている事である。
「権威役をする者」と、「親役をする者」と、「子役に成る者」とを先ず決める事を定める。

更に、「第二の基本条件」である。
次ぎの「三つの基本環境」が成立している事である。
基本環境の1
「15歳以上に成った事」に合せる事(一種の成人式)」とで「四家の一員」として認められる事に成れる時に行う。
基本環境の2
「大きい実績を氏にもたらした事(功績式)」で「四家」に成れて、「四家制度の16家」の一家を構えられる時に行う。
基本環境の3
「四家」の中から「福家」に選ばれて「氏族」を率いる時に行う。

最後に、「第三の基本条件」である。
更に、次ぎの「三つの基本儀式」が成立している事である。
基本儀式の1
「偏諱」の「授与の記念物」には「短刀一式」を授与する事
基本儀式の2
「烏帽子とその蔡装服(礼服・儀式)一式」を授与する事
基本儀式の3
下記の「五つの名」を授与する事
以上の基本儀式が先ず決められている。

この基本儀式のが成立した上で、次ぎの「名(字名)の作法」が行われる。
名の「前字」は、「氏の福家」に伝わる「権威の名」、
名の「後字」は、「四家の長」に伝わる「伝統の名」
以上を与える。

念の為に前段で論じたが、「青木氏」には次ぎの「名(字名)の呼称の変化」をさせる習慣を持っていた。
「幼名」 15歳以下の呼び名
「俗名」 15歳以上未婚時の呼び名
「通名」 四家の一員と成った時の呼び名(既婚)
「跡名」 四家と成った時の「跡目名」で「偏諱」で与えられた呼び名(字名)
「格名」 氏族が持つ朝廷より与えられた永代の「格式名」があり「福家」が引き継ぐ公の呼び名。

以上が資料から取りまとめた「三つの基本条件」である。

付帯する条件として次ぎの事が書かれている。
・「行われる時期」
これらの「偏諱の儀式」は、口伝に依れば、平安期から鎌倉期末頃まではその都度行われていた様である。
然し、室町期に入ると戦乱期でもあった事からか、上記の「弥生祭り 五月祭り」の「一つの祭祀二つの催事」で合わせて行われていた様である。
この時、祭りの後期の「五月祭り」に合わせて、上記の条件下で「偏諱式」が行われたと伝えられている。
・「行われる場所」
これらの「偏諱式」は「一族の長」である「福家」が行い、一族の郎党が一堂に集まり、「偏諱の条件」がすべて整う「始祖祭り」でもある「弥生祭り 五月祭り」に合わせて「偏諱式」を執り行う様に成った。
・「行われる具」
上記の「偏諱の儀式」が、後期の「五月祭り」に行われる事に成った事から、「短刀一式(格式)」や「烏帽子(役務)」と「蔡服一式(制服)」を与える等の「三つの儀式性」が併用して行われていた。

これは「四家制度」の中で「家人や縁籍や周囲の伊勢衆」に対して、その「存在の確認と権威とその責務の有無を明示する手段」でもあった。

・「飾短刀一式(格式)」とは、現在で云えば、「職位」を示す「制具」の様なもので、「短刀」に個別に装飾が施されて、その「格式や身分」を表す「色文様を用いた装飾」でこの「職位」を明確に表した。(八色姓の制)
・「烏帽子(役務)」とは、現在で云えば、「職務」を示す「制帽」の様なもので、どの部署に所属するかを明示する手段で、「烏帽子」の右に色識別して表示した。
・「蔡服一式(制服)」とは、現在で云えば、「職場」に合した統一した「制服」の様なもので、冠婚葬祭の様な「一切の催事」の際に服し表した。

以上の「偏諱の儀式」にこれら「三つの儀式制」が加えられた。
これらの「偏諱に伴う儀式性」は、「朝廷で行われている儀式性」を全面的ではないが、「青木氏」の「賜姓五役」をより確実に履行推進する為の「四家制度」の中で、これに合う様に編集してある程度踏襲していたものである事が判る。

この「偏諱の儀式」として用いられた「三つの儀式性の伝統」の事から観て、後に、世間には簡略化されて「男の節句」と受け取られ何らかの形で世間に広まったと考えられる。


さて、「室町幕府と江戸幕府」は、この上記の「偏諱の仕来りの儀式性」を「武士様」に編集してそれを以ってして行う事にしたのである。

(注釈 室町幕府と江戸幕府の「偏諱の使い方」、況や「偏諱の儀式性」が異なっている。
これは上記した様に「清和源氏の支流族」と「徳川氏の姓族」との差の違いからであろう。)

その為には、“「朝廷(権役)」”を利用して「偏諱」を使い「儀式的」として「権威を示す慣習」として「将軍(親益)」に引き継がれ、その“「授者(子益)」”にして、「朝廷の賜姓儀式」に代わる「幕府の偏諱儀式」を形式的に政治的に用いる様にして与える様に恐らくは成ったものであろう。


ここで「重要な注釈」として、次ぎの事柄がある。
この「偏諱の青木氏の資料」には、「親役・子役」とあるもの、別に「親益・子益」と書かれたものも有って、「元の本来」の目的は、この書かれた内容の古さから“「役」”では無く、“「益」”と云う「語源」に在ったと思われる。

つまり、そもそも、後に使われた「役の意味」の“「役割」”と云う意味では無く、“「益」”の元の語源は「中国の八卦(論理的な占い)」から来ていて、“「ふえる」「めぐみ」「ために」”から来ていて、“「めぐみをもたらす」”や“「ためになる」”の意味に使われていた。

この「偏諱の親や子」に成る事が、“自らの恵みに成る事”であり、“自らの為に成る事である“の意味が儀式的に強く、「親に成る者」も「子に成る者」も周囲に対して「親・子」に成れる事が「権威や名誉」を獲得する儀式でもあった事を示していたのである。
この「偏諱の儀式性」の意味する事から、「単なる役目」とする意味では無かった事が判る。

「権役(ごんえき)」は、既に、その「権威や名誉」を何度も獲得している者が司る「仕来り」であった。
普通は、一族一門の「長の福家」が司るが、中には、縁籍関係の「公家」に依頼して司っている記録もあり、その上記の「偏諱の条件」にも依るのではないかと考えられる。

上記にある様に、この「偏諱(へんき)」には、上記の「偏諱の儀式性」の一つでその「15歳の成人」に成った事を祝う「烏帽子式」と、「四家の一員」に成った事で「蔡服一式」(衣冠の儀/青木氏では「蔡装の儀」)を着せられる儀式も兼ねていて、この時も「烏帽子親」、「烏帽子子」と云う“「益」”があって、世間でこの「烏帽子親」、「烏帽子子」と後に呼ばれた事も、この「偏諱の中の儀式」から来たものであると考えられる。

「短刀一式」(束帯の儀/青木氏では「帯刀の儀」)は、15歳に成った事で、一人前の「賜姓臣下族」の「賜姓五役」を務める「武家侍」に成った事を証明する儀式で、その「侍の心魂」として「短刀(飾太刀)」を「烏帽子と蔡装」と共に帯刀する事が出来る様に成った事も祭祀する儀式であった。
そもそも、この“「飾太刀」”と呼ばれる「短刀」は、朝廷では皇族や高位の者が「儀式様」に携える刀であって、「飾太刀の帯刀」のこれを認められる事は、「氏の象徴紋」と共にその者の「権威と格式身分」の「証明の象徴物」としてあるとしたもので、「帯刀の儀式」には用いられた。

ところが、平安末期に至ると「皇族下俗者」や「臣下族等の高位の者」が多く成り、その結果、その貧富とその財力に差が出ると、「儀仗用太刀」として極めて限られた「賜姓族」などにのみ用いられる様に成った。

(注釈 この「飾太刀の短刀」とは武士の脇差の事では無い。刀の形も帯刀の仕方も異なる。
朝廷では「飾太刀」は「長刀」であり武士の様に腰に差すものでは無く、「飾紐で携え形式」のものである。
この「飾太刀」では無く同じく紐で携える「飾短刀」としている。これは朝廷に儀式の模倣に対して「賜姓臣下族」としての分を弁えた形を採ったものである。
他の資料にも「皇族武官」がこの「飾短刀」を儀式の際に携えて用いている事が書かれている。恐らくは、これは「八色姓の制」に沿った「朝臣族」(皇族賜姓臣下族)の「当時の仕来り」であったと観られる。)

(注釈 前段でも論じたが、この「儀式性の観点」から検証すると、平安末期では、「賜姓源氏」では11流11家、「賜姓族」で40氏、「賜姓族」では無い「貴族源氏族」は18家、「皇族下俗者と還俗者」は男系族25家で女系族8家、「門跡族」は不詳数であった。
但し、男系族と女系族の内18家が「青木氏」を名乗り、「五家五流青木氏の跡目」に入った。
鎌倉期には、幕府のある程度の財政的な保護が成され多少の増加傾向にはあったが、室町期には激減し、江戸期に至っては、政策として「西の朝廷」への弱体化を謀って「経済的締め付け」もあって合計で数える程に満たない数と成った。
その数は筆者の調べた範囲では、江戸期初期には「青木氏」を含めて5氏以内に留まっている。
この時の「古式の伝統」も、この「激しい変異」に伴って変化し、僅かに遺されたこの「氏族」の中では殆ど消滅した傾向にある。
消滅したのには、主に「子孫の減少、伝統の伝承力、経済力」にある。
但し、これには「姓族」の「偽類の儀式性」は含まず。)

(注釈 江戸期の近江の人剣豪の佐々木小次郎は、お家再興を願って仕官先を求めて全国行脚の旅に出た事が佐々木氏の資料等で判っている。
これは当に「僅かに遺された氏族」のこの「近江佐々木氏」の「激しい変異」に見舞われていた典型的な事象である。
この同じ「近江佐々木氏系の黒田氏」の始祖も室町期末期に神明社と関わりを持ちながら「薬売り」として行脚の旅に出ている事象も同じで、「黒田藩」として再興を遂げた伝統継承の成功例である。
近江佐々木氏の多くは黒田藩家臣団として加わって再興したが、佐々木小次郎の佐々木氏の宗家筋は江戸期に成っても再興は成らなかった事に成る。)

注釈にある様に、「佐々木氏の生き残りの足掻き」とは別に、これらが「青木氏の氏の存続」が成されて、何とか「古式の伝統」として維持され、「青木氏の偏諱の儀式性」に伝わっていたのである。

「衣冠束帯」は「朝廷儀式」だが、「青木氏」は「三つの発祥源」であった事から「蔡装の儀」と上記の「帯刀の儀」として二つに分離されて呼称されていて「武家様の儀式」に成っていた。
尚、注釈として、朝廷が行う「朝廷の衣冠束帯」も「文官様と武官様」に分かれていた。
この「青木氏の儀式性」は、勿論、「文官様」ではないが、かと言って「武官様」でも無く、「四家制度」に依る「賜姓五役」としての役目を果たす目的から「武家様」に編集されている様である。

(注釈 「武家様」とは「公家」に対する「武家格式」で呼称される「氏族」で、室町中期後の姓族の武士では無い。)

さて、室町期と江戸期の「二つの幕府」は、この「偏諱の名授与」を採用した事から、「朝廷の衣冠束帯」の「武官様」を選ばずに「青木氏」の「蔡装の儀」と「帯刀の儀」として「武家様の儀式」の本体を採用した事に成るが、江戸幕府はより「武士様」であろう。
「武官様」では無く「武家様」でもない“「武士様」”とも云える事と成った事で、よりこの「儀式性」が庶民に近づいた事から、それが基と成って世間に世襲名や通名としての慣習が広まったと考えられる。

注釈として、「衣冠の儀」とは、本来、“「宮中の装束(ぎぬ)」”で「勤務服」として用いられたもので「青木氏」ではこの「装束(ぎぬ)」を用いたものを「蔡装の儀」と呼んでいた。

(注釈 江戸幕府では、将軍に面接出来る身分を「布衣着用(きぬい着用)」が条件と成っていて、この武士の「布衣(きぬい)」は、この朝廷の「装束(ぎぬ)」から来ている。
「青木氏」は「三つの発祥源」と「賜姓五役」の身分格式を持ち、「永代浄大一位の格式家」である事で「天皇との拝謁」が叶うが、幕府でも「享保の改革」の時は、この「布衣着用(きぬい着用)」の資格を持ち将軍と面談していた。
この「布衣着用(きぬい着用)」は、限られた「上位の姓族の大名格」に許されていた「特別の権限」である。)

「帯刀の儀」とは、種々の儀式に用いる「装束(ぎぬ)の礼服」で「武家様」があった。
この「武家様」を用いて一人前に成ったとする象徴として合わせて上記の「飾短刀(飾太刀)」の「帯刀」を許されるが、この儀式を「青木氏」ではこれを「帯刀の儀」と呼んでいた。

この事から、「偏諱の儀式」の呼称は、「呼称名・字名」を与える事のみならず「烏帽子式」、「帯装式」(「蔡装」)、「帯刀式」を兼ねていた事が判る総称であった。

何をか況や、前段で論じた「五月祭りの人形」は、「三つの発祥源」のこの「侍の象徴の姿」を現していたものである事が判る。
故に、江戸初期に福家は、「毘沙門天像」から「武者人形偶像」に変えたのも、上記する様に「偏諱の儀式性」でも解る様に、「本来の目的」に帰する事の「青木氏としての所以」でもあった。

そもそも、この「偏諱(へんき)」から来た「姓族」の「武士衆の慣習」が本格的になったのには、この室町期末期に使っていた「青木氏等の四家制度の慣習」の中での「偏諱とその儀式」だけを真似たものである事から来ていると当初は思われていた。
ところが、この「姓族」の「武士衆の慣習」を良く調べて観ると、足利幕府が用いた「偏諱(へんき)の儀式性」に良く類似する事が判った。
それは上記した一連性を持つ「青木氏の儀式性」が無く、「名の偏諱」だけのものに成っている事である。
これが江戸期の中頃には、室町期中期頃から発祥した「武士階級の姓族」(海部姓が始め)には、既に「三世代以上の歴史性」が生まれ、子孫末裔の“「跡目の問題」”も出て来ていたのである。
そこで、新たに上記の「儀式的な習慣」を削ぎ落し無くして、簡素に「高級武士の通名制度」として「跡目の世襲の仕来り」として用いられる様に成って行ったのが経緯である。

この時に、幕府はこの「偏諱(へんき)」を次ぎの事に結び付けて利用したのである。
それは姓族が勃興して大名と成り、その「大名」の「跡目承認」を示す“「黒印状の授与」”と、これと連動して、この「偏諱(へんき)」と呼ばれる“「通名の授与」”の「二つ催事」を「仕来り」とする事に成って行ったのである。

幕府は、大名に発行する“「黒印状」”のみならず、“「偏諱(へんき)」”で「名」を与えられる事で名誉として、「幕府との繋がり」の強さを誇示する「一種のお墨付き」の様なものを与えて「幕府の権威性」を謀った。
それが御三家の「紀州藩」の「吉宗の偏諱」が最初としたのである。

この時の室町期末期から江戸期にかけて、「青木氏の偏諱」をする「四家の者」に対しては、同時に「朝廷」から永代に授与された「官位官職の世襲名」も与えていた事が起こっている。
唯、この記録で観ると、「青木氏」は、「八色姓の制」では「氏の格式」では「浄大一位」で、官位官職は「左衛門上佐 正二位」であるが、中には記録によると「福家」以外の16家の中の四人に対して「右衛門上尉 従四位」と「民部正」(民部上尉)とする者もあって、特別に朝廷に申請して「一代限りの官位官職」が与えられたものが有った様である。

当時の幕府の朝廷への軋轢状況から観て、朝廷は経済的に困窮していたので、永代の最高位の官位官職を以っていながら、この「一代限りの官位官職」を受けているのは、密かに「賜姓臣下族青木氏」として「朝廷の経済的援助」をしていた事からの授与であろう事が容易に解る。これを「偏諱の儀式」に乗じて便宜をはかっていたのでは無かったかと考えられる。

(注釈 「青木氏」以外に持ち得ていない「伊勢王」の「始祖の施基皇子」が持っていた「浄大一位の永代格式」(青木氏の四家制度の「福家」が持つ)として持っている。
従って、この「偏諱の儀式」に於いても“「権益(ごんえき)」”として、「四家制度の福家」に成る者が25−30年程度に一度は起こり得る訳である事から、「福家に成る者」の“「権益(ごんえき)」”を務められる者としては、永代格式以上の「朝廷」で無ければこの儀式は成り立たない事に成る。
そこで、「青木氏」に執っては「偏諱の仕来りの儀式」を続ける以上は、密かに「朝廷」に対して支援を続けておく必要があり、「賜姓臣下族」であると云う事も含めて「絶対的な避けられない支援の義務」があった筈である。
其れには、「浄大一位」の「青木氏の永代格式」が無ければ、幾ら「義務」だからと云っても「格式」を重んじる朝廷としては、「青木氏の要請」(”「権益(ごんえき)」”)に応じる事は先ず無かったと観られる。
「福家」以外に歴代で四人もの「右衛門上尉 従四位」や「民部正」(民部上尉)等の「官位官職」を受けている事がそれを物語っている。
恐らくは、天皇自ら出向いて来る事は無かったと観られるが、代行の「縁籍筋の公家族」がこの“「権益」”を演じたと観られる。

(注釈 "朝廷の「権益(ごんえき)」"の「代行役」は、何度も縁籍筋と成っている京の「叶氏筋」では無かったかと考えられる。
その証拠に筆者の祖母は、「京の公家族」の末裔の「叶氏の出自」である。)

恐らくは、江戸幕府は「嵯峨期の詔勅と禁令」を破って、“「家康」”が「青木氏等の賜姓臣下族の慣習や仕来り」を“「権威造り」”の為に利用して「幕府権威造り」の為に真似たとも考えられる。

(注釈 徳川幕府は開幕依頼一貫して権威造りの政策を実行した経緯がある。
例えば、「三河の勃興姓族」でありながら強引に「藤原姓を名乗る」、「源氏姓を名乗る」、「征夷大将軍の頭領の称号事件」など数多くある。)

”「姓族の武士家」が行う「偏諱の催事」“としても「権威造りの制度」としたのである。
この事(「姓族の通名」)が、結果として、広く他の大名などにも受け入れられて引き継がれる様に成ったものである。

江戸幕府は、「朝廷との関係」が上手く行っていなかった事から、この「偏諱 (へんき)」を「吉宗の偏諱」を通じて利用して、「幕府自らの権威」を造り上げ高め、「朝廷の権威」に頼る事の無い様にした政策の一つである。
「大名の跡目」などの時にも、この「武士様の偏諱」の「偏諱 (へんき)」に近い事をして「権威付け」をしたと観られる。

これには、江戸幕府には、“「ある目的」”があって、無暗に与えるのでは無く、「幕府の意向」に沿って実現した者に、この「武士様の偏諱の儀式」を行って、その「見返り」に「幕府の権威名」を貰ったと云う事にして、従わせて行く政策を展開したのである。
実に安価安易で行えて貰った大名側は、一種の「幕府のお墨付き」を貰ったとして「勢いづく事」に成る政策と成ったのである。

筆者は、この“「ある目的」“のこの「表の目的」は、上記した様に、「幕府の権威造り」に利用された事もあるが、「裏の目的」は、「紀州藩」への「幕府の意向」を”「ある決断」“で実行させた事への「信任状の意味」もあったと観ている。
幕府主導でこれを表裏一体として連動させたと云う事であろう。

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