青木氏氏 研究室
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  [No.347] Re:「青木氏の伝統 28」−「青木氏の歴史観−1」 
     投稿者:福管理人   投稿日:2016/11/18(Fri) 13:58:30

> 「伝統シリーズ−27」の末尾。

(注釈 それには、この「和紙に合う墨」とそれに「耐え得る硯石」と「良質の筆」の開発にあった。
取り敢えず、「925年頃」に「和紙」から本格生産に入り、「紙屋院の役職所」を務めこれを通じて「余剰品」を「賜姓族」としての「資金力の捻出」の為に、「二足の草鞋策」で「市場販売の許可」も出て、販売を手掛け、遂には「1025年」には「総合商社」としてこれらを中国に輸出するまでに成った。
次ぎの段階として「墨と硯と筆の開発」に入ったとされている。
此処までに約100年程度かかっている。
更に「良質な理想的な墨硯」は、何と「後醍醐天皇」自らが「熊野詣」の途中で「紀州の藤白地区と日高地区」で発見したと書かれている。
「青木氏」は「朝廷専売」でこれらの「殖産」に取り組んだ。)


それが、前段で論じて来たこれらが“「連動する伝統」”であって、「春日真人族」から引き継いだ「志紀真人族の氏」として生き残った所以でもある。
この「二流から成る氏の伝統」は青木氏には連動しているのである。
然し、「皇親政治」は廃止され生き残りが難しく成った平安末期からは、前段でも論じている様に、“「二つの青木氏」の「補完関係」”が成立しそれが大きく働いたのである。
そして、「円融天皇」により「賜姓族」「臣下族」「朝臣族」と成った「藤原秀郷流青木氏(始祖 千国)」より「賜姓五役の補完」を受けた事から「二足の草鞋策」は、本格稼働して「氏の生き残り」は果たせる事の基が築かれた。

(注釈 多くの「偽称の氏」には、この上記の様な「氏の担保するべき連動性」、即ち、「連動する伝統」が無く欠ける。判明は簡単である。)

(注釈 「嵯峨期の詔勅の禁令」で「二つの青木氏」だけが「氏名」を「村名」と出来る。
つまり、これは「春日真人族と志紀真人族」だけが「氏名」を「村名」と出来る由来であり、追尊の「春日宮天皇」の後裔とする事を根拠としている。
後は、”全て地名に由来するべし”とする事を「嵯峨天皇」が「天智天皇の禁令」に対応して更に追禁した事に由来する。)



伝統シリーズ28に続く。


ここで重要な注釈があり、「青木氏の歴史観」として論じて置く。
それは、「准」と云う用語である。
そもそも、上記した様に、「連動する氏の役」から「青木氏」での「氏上」は、前段でも論じている様に、そもそも「朝廷の格式」を用いる事からも「氏上」として成り得ているのだが、ところが資料によると、古来より「氏人の差配者」の中には、「氏上」、即ち、「朝廷に仕える官人」に准ずるものとして「氏上」と「氏人」の間には「准氏上の人」と呼称するものが居た様である。

この使用の傾向は「皇族賜姓族」だけには観られるが、それは「朝廷認可」の下にでは無く「青木氏の慣習仕来り掟」の中で以後用いられていた事が考えられる。

つまり、「皇族賜姓臣下族」には、この“「准の使用」”を慣例として朝廷が永代認可していたと考えられる。
それは「皇族賜姓臣下族」に限られて、「特別な格式を与える事」を目的としての一代的な個人の呼称手段として“「准」”が用いられていた様なのである。
これは、「氏上」と云う「格式扱い」よりは、「青木氏」は「賜姓五役」として「朝廷の重要な役目」の「紙屋院」(国産の紙等の関係品を開発する役目)を担っていた事から、この「青木氏部」の「職能の長」に対して「格式」を与える為に「准の使用」を朝廷は敢えて「氏人」に認めたと考えられる。
本来は無い事である。

(注釈 この“「准」”は、「嵯峨期の詔勅」に伴う「青木氏の慣習に関する禁令」の一つであったが、例えば、「坂上氏」の父の「阿多倍王」は、「准の使用」を特別に許された。
その事から「桓武天皇・山部王」に依って「後付」で「高尊王・平望王」にして「准大臣」と呼称する事を許された経緯が遺されている。)

注釈として、前段でも論じたが、そもそも、「阿多倍王」は「後漢の国」の時の呼称であり、「大和王朝の格式」を得るには上記した様に「第四世王の王名」を持つ事が必要に成る。
「後付」で「高尊王・平望王」と授与して、「大臣」に成り得る格式を「高尊王・平望王」に与えたものである。
つまり、それが「青木氏」に使用する事を認めていたものをこの「准大臣」として与えたのである。
そもそも、「山部王・桓武天皇」は、「伊勢王 施基皇子」の「四男白壁王・光仁天皇」と、「高野新笠」の子供である。
「高野新笠」は「高尊王・平望王」の「阿多倍王の孫娘」である。
従って、この”「准」”を使う事には「阿多倍王」には何の問題も無かった。


(注釈 これは「敏達天皇の孫芽純王の娘」との血縁に伴って、この“「准」”を使う事を正式に許されたものである。
「八色姓制度」に依って「皇族の娘との婚姻」には格式が必要で、この為にこの「准」を用いて「大臣の格式」を与えたと考えられる。
唯、「桓武天皇」による「後付」かは判らない。
「高尊王・平望王」は「後付」である事は判っているので、これに合わせて「准」も「王」と「准大臣」の「格式」で、「桓武天皇の母方の出自」の為の「仕来り」を整えたと考えられる。
「阿多倍の長男」の「征夷大将軍 坂上田村麿」とは、従って、「桓武天皇]は兄弟の様に付き合っていた事が判っている。)

他に「藤原道長との政争」を繰り返した「藤原伊周事件」では、「伊周の復権」にはこの「准」を使う事で利用され、後に「朝廷内の人事の便宜上格式」として用いられる「正式制度」の様に成った。

(注釈 「皇族賜姓臣下族」では、「氏内の権威付」に「人事手段」として“「准」”を用いていた。
この“「准の慣習」”が室町期に一般社会に伝わったと考えられる。)

この“「准」”を付けて“「三司」”の間の「格式」を表現する方法として、元は「中国の官僚制度」で用いられたがそれから来ている。
そもそも、この“「三司」”とは、「太政大臣」と「左大臣」と「右大臣」の事である。
正式には「三司」等ではないが、“「准」“は「三司並の格式」を有するとする便宜上の位等の時に使う否正式手段の事である。
各種の格式や位階の「三司」に関わる立場として使用する事が出来る様に成った。
従って、「三司」等に成り得る「真人族」や「朝臣族」や「臣連族」等が、この便利な「准の仕来り」を盛んに使ったのである。

つまり、前段で論じた「春日真人族から志紀真人族」の「志貴皇子とその後裔」は「賜姓五役」を賜り、天智期や天武期には「皇親族」として「皇太子」に代わって実務を執った「氏」である事から、所謂、その三司の“「准」に相当する役務から、「中国の官僚制度の慣例」に従って、この“「准」”を使う事を特例として氏の中で許された。
これを許された「青木氏」では、従四位に相当する「公家族」「官人族」「臣下族」の「三司に准ずる立場」として当に「准」を使った。
況や、一般の「真人氏族」には認められていなかった。

「青木氏の資料」に観られるこの“「准の人」”に任じられたこの「氏人の差配人」とは、次の様な人であった。
「四家制度」に依って何らかの理由で「郷士の縁籍筋」と成った者が、「郷士衆頭」を長年務め功績のあった者であって、縁籍筋では「青木氏」を興している者ではあるが、四家の氏上の一員に服する事が叶わず、「准氏上の人」としてその功績を称えたと考えられる。
(唯、この「青木氏」を興したこの末裔は後にこの「四家」に組み込まれている。
「青木氏」の「氏上と氏人」の中で使われた。


その「一つの集団の統率者・差配者」は、「氏上の宗家」が司ったとする地域社会の構成員であった事に成る。(「家人」・「青木氏部」)
ところが、平安期中期に成ってからは、荘園制が拡大し開発した荘園を維持する事が「二つの理由」で困難と成った。
それは、荘園経営の「税の負担」と「荘園の防御」では問題が出た。
「高位な氏」で「軍事力と政治力」のある「大きな氏」に頼って名義を借り、いざという時には助けて貰うと云う行動に出て、この「二つの課題」を解決して荘園を維持したのである。
以後、この「名義貸し荘園制」が起こり続けそれが主体と成った。
荘園主等に執っては「自らの氏」を護ってくれるのは、直接、氏と関係の無い「高位の名義名の氏」であった事から、そこには「氏」に「上」が着くと、「単なる身分の上下を示す主従関係」の用語と社会の中で変わって仕舞った。

(注釈 この問題の荘園制が起こると、「氏の上」と「氏の人」との間には「絆」に基づく関係は無く成り希薄に成り、主に「上」と「人」との間は「利害に基づく関係」へと変わったのである。
従って、「青木氏」=「神明社・守護神」=「氏人」=「500社の神明社」の構成の様に、問題の荘園には、上記する「青木氏の様な関係」が基より無かった関係であった。
この“「名義貸し」”が主体と成って、「上と人との絆の関係」は高位の社会には最早消えた。

(注釈 前段で論じた様に「三人の天皇」はこの事に憂いていた。)

然し、「伊勢」は聖域であった事から、「奈良期の伝統」を「春日真人族と志紀真人族の青木氏」等は「他の真人族」が行う「名義貸しの荘園制」から頑なに護った事で「荘園制の影響」は少なかったのである。)

然し、「青木氏」は、自らの氏の中で「殖産」「商い」を進めた。
この事から、「絆の無い荘園制」を敢えて持たなかった事から、平安期初期までの「氏上と氏人の関係」を「伝統」として持ち続けた。
従って、「青木氏」では、この大化期からの存在(647年発祥)を示す事から、「氏上」は社会が荘園制が進んでも、“「元来の意味」“を持ち続けていたのである。

さて、仮に上下関係にあるとしたならば、「氏の上」であれば、用語上は決して「氏の人」を「氏の下」として定め“「氏人」の呼称”とは成っていない筈である。
従って、「青木の氏」の中では、「氏の村人(人)」は、語源の通り「氏の人」は「氏の子」の意味をし、平安期以降の「身分上下」を意味するものでは元より無かったのである。
これは青木氏の「三分の利の概念」にも一致する。

(注釈として、上記した「朝廷の中の事」は判るとして、そもそも「青木氏」とはどういうものかである。 
前段で論じたが、そもそも、「人」は湖などの「水に関わる場所」に集まり、その周囲で集団で生活する様に成った時、その集団の中に“「屯倉(みやけ)」”と云う営倉を造り、そこに「人」は集まって来て、その様な集団が幾つも出来た。
その“「血縁の個体集団」”が何時しか「氏」と成り、そこに「住む者」を「氏人(うじと)」と云い、その「氏人(うじと)」の中から「秀でた者」を「先導者」として選び、その「先導者」を「氏上(うじのかみ)」と呼称する様に成った。
この「集団の人」は相互に血縁し、幾つかの「血縁集団」が集まって、また一つの大集団が出来た。
この「一つの血縁集団」の集まりが「五つの集団」にと集約して行った。
この集団が枝葉化して「個々の呼称の単位」を「姓」と云う「小集団」へと再び変化していった。
これを奈良期では、この関西地域に於いて「五つの集団」の「連合政権」を構成して、この「連合政権」が「初期の氏」として認め呼称する様に成ったのである。)

(注釈 日本は「七つの民族」に依って構成している以上、各地に「連合政権」が確立した。
これが遂には「融合単一民族」と成った。
“「渡来人」”の言葉が書物から消えたのは平安初期からである。)

この「連合政権の指導者(大王家−天皇家)」と「五つの集団の先導者」との「血縁族の末孫」が独立して、初めて「氏姓制度の法」の下で「氏姓」が構成された。
これが「青木氏の原点」でもある。

況や、「氏の上」として初めて朝廷より法の下で認められた上記の「構成の氏」、況や「春日真人―族志紀真人族」と成り、その後の「八色の姓制度」(684年)で「朝臣族」として「臣下族」と成り、その「氏族」の「伊勢の氏人」として認められた。)

この「青木氏」の「氏上さま」の呼称に関わらず、同じ関係を示す呼称が奈良期にはもう一つあって、「青木氏の立位置」が良く判る呼称である。
前段でも何度も論じたが、当初、奈良期より、それは“「御師様」(おしさま)”と云う呼称でも呼ばれていたのである。
これは「氏上」(うじかみ)と同じ語源を意味するものであった。
この「氏上」は、「氏」に関わる全ての「氏人(青木村)」を含む一族一門郎党の中での呼称であり、「御師(おし)」は、本来、この“「氏人を指導する人」の呼称”であった。
取り分け、「氏人」の「青木氏部」からの呼称として多く使われたのであった。

前段でも何度も色々な角度から論じているが、この「指導」をより効果的にする為に、「氏上」に代わって、その「指導の範囲」を区分して担当する制度に変えたのである。
その「指導者」は、「青木氏部」に大きく絡む事から「神明社の神職」が担当したが、そもそも「祖先神の神明社の神職」は、「笹竜胆紋」を「象徴紋」とし、朝廷が認める「神木の柏紋」を特別に持つ「青木氏」で、「四家制度から特に選ばれた者」であった。

この「青木氏部」の必要とする処には「柏紋の神職の青木氏」が必ず存在し、「柏紋の神職の青木氏」の必要とする処には必ず「青木氏部」が存在すると云う実に親密な関係にあった。
それだけに、氏の人々からも信頼され尊敬されている立場であった。
この様に「青木氏」を代表する「柏紋」であった。

(注釈 「青木氏部の人」と「柏紋の神職の人」との血縁関係が特に成立していた。
「隅立て目結文様類」や「釘抜き紋様類」等の「職能紋の青木氏」は、主にこの「血縁関係の青木氏」である。)

これらの「職能の文様(柏文様 目結文様)」は、「正倉院」にも記録されている「由緒ある職能の文様」であり、これをこの「職能紋の青木氏」(青木氏部)が専門に使う事を許されて、「継承」を義務付けられていたのである。

賜紋で神木の「柏文様」の使用は、「神明社の神職」の「御師(おし)」の称号と共にこの時に与えられたものである。

「神紋の柏紋様」と共に、「皇族賜姓臣下族の青木氏」に執っては、本来、笹竜胆紋の「象徴紋」以外には、上記の「志紀真人族の氏」を構成する以上は、他の文様を持たず、故に「姓族と姓名」を持たない。

従って、当然に「家紋」と云うものを持たないのだが、この「職能の紋様」の「氏人」も「笹竜胆紋」を「氏」の「象徴紋(総紋)」として、数少ない由緒ある「副紋扱いの氏紋」として継承しているのである。

(注釈 「皇族賜姓臣下族の青木氏」を補完すると云う立場から一切の格式などが同じとする以上は、「藤原秀郷流青木氏」も、本来は正式には「家紋」とは云わず「副紋」と呼称する。
「姓名」もなく一切「氏名」に本来は従い「姓名」は持たない。)

(注釈 「秀郷流青木氏の116氏」は、「総紋」として「下がり藤紋」(総宗家系族紋)があり、その「総紋の中央」に「副紋」を書き込んだ「主紋(宗家系族紋)」を持津。
更に、支流族は「副紋」を個別に持ち、傍系族も「支流紋」を持って表す。
「総紋−副紋−支流紋」に従うが、但し、「支流紋」は「副紋の格式」を下げない範囲とする。
一般に「総宗本家筋」の「総紋」以外は、「宗家筋」は「総紋」の「下がり藤紋」の中央に「副紋」を入れて使う事を主流とした。
然し、更に、本来は無いとする「枝葉族の支流筋」と成ると、「副紋部位の紋」以下の格式の紋は使えない慣習と成っている。
「24地域―116氏」とも成ると、血縁関係上、「枝葉族の支流族」は止む無く出てしまうので、この条件が付帯された。
この慣習は「賜姓補完族の格式の立場」を保つ事から来ている。) 

         
(注釈 前段でも論じたが、「柏紋」の「神木の柏」を表す万葉歌があるので紹介する。
  “家に居れば筍(け)に盛る飯(いい)の草枕 旅にしあれば柏(椎)の葉に盛る” 
と詠まれている。
そもそも、 「筍(け)」は「筍の皮葉」の事で、本当は木茶碗の食器だが、馬鹿を装う事を「筍の皮」でその苦しさを現し、「椎」は“しい“と詠み食器であるが、「椎の葉」は細く小さくて食器としては使えない。
「飯」の“いい”と「椎」の“しい”でかけ読みし、「椎」では無く「柏」を用いて“しい”と仮詠みした。
そこで、実は「椎の実」は「当時の食糧」で、この「椎の実」は食料でもあって、実を蒸して「神に捧げる仕来り」が有った。
細くて小さい葉で以て心寂しさを詠んだものである。
そして、今度はこの“しい”を「柏」として、「柏の大葉」の上に「干した米飯」の“いい(蒸した乾燥米の呼び名」“を載せて旅先では食べた。
「柏の大葉」で以て「朝廷の優雅な生活」を思い出させ、朝廷で使われる「神木の柏」で以て自らの正当性を主張し、信頼する「人を疑う儚さ」と何時か命を絶たなければならない我が身の「旅の苦しさ」を表現した。
この様に「筍、椎、柏,飯」等に意味を載せて詠んだ見事な名歌である。
「有間皇子」の殿上人がその身上を憂いて呼んだ名歌である。)

この様に「神木」である「柏」(柏紋の神紋で朝廷が容認する文様)の大葉の上に神に捧げる食べ物(乾燥米)を載せて祀る「神明社」の「神への仕来り」にかけた歌が出て来る。 
見事に当時の「柏の意味」の事が書かれている。

ここでは「柏」は朝廷の祭祀で使われる「神木」である。
この様に「柏」には当時は「格式」を持ち「神木」として扱われていた。
これを「青木氏の神職の禰宜の特別文様」と指定したのである。
当時は、「笹竜胆紋」に「柏紋」の「青木氏」は、「最大の格式」を持つ「文様の族」と見られていた。

参考として、この最高の文様を持つ「神明社の指導者(神職の禰宜)」の「御師(おし)」に付いては、江戸の「享保の改革」以降は、「吉宗」が「幕府の職能部」を組織化する為に、この「御師制度」(おしせいど)と云うものを敷いた。(ここでも青木氏だけの制度が用いられた。)

ところが、この時から、本来の「御師制度」は「別の意味」に変化した。
そして、これが更には、「神明社の神職に関わる者」が「情報収集者の役目」も演じた事から、この者を「御師(おし」」と呼ばれる様に成った。

遂には、江戸期1800年代以降には「伊勢の松阪の射和の商人等」に依って、この「制度」が導入され「商人の指導役」として、「御師(おんし)」と呼ばれて、更に「別の意味」に執り変えられる事が起こった。
この「商業組合」の「商人の指導役」の「御師(おんし)」は「組合札」(金券 現在の紙幣)を発効するまでに成った。(現在でも一部伊勢では独特の金券制度として残っている。

そこで、これらの予備知識で以て「青木氏の歴史観」としてそもそも重要な事は、次の事にあった。
最初は平安期の「皇祖神の子神」の「神明社の神職」に「御師制度」は使われたのだが、“「青木氏の神職(柏紋)」“は、その手段の一つとして、前段より論じている“「仏施の質」”(奈良期)を「福家」に代わって執り行っていた。
そして、「青木氏の村人・氏人」を「神職としての役目」から全国にある「500社の神明社」で「食糧」を与え「職業」に就かせ「人生の生き方」まで導いた。

この事(“「青木氏の仏施の質」”)から、「仏道を説き人々を正道に導く人」の仏教用語を「導人=導師」と記し、 “どうし“から陰陽の呼称で”おうし“」と呼称され、それから「御師」(おし)と呼ばれる様に成ったとしている。

そこで、この“「青木氏の仏施の質」”は、「春日王」を基に「志紀真人族と後裔」と成った事から、その「賜姓族の役務」として取り入れられ、「五家五流の後裔」(神明社)と「補完族の裔」(春日社)が行ったとされる。
それを催した“「青木氏の仏施の質」”が行われた「神明社の広場」や「菩提寺の清光寺と西光寺の広場」で行われる様に成ったが、この「仏施の質」の「名残」として「各地の祭り」が遺されている。
その一つが、「神明社系」で行われる「施」としての「餅撒き講」等であり、「説」としての「法話講」等であったり、「導き」としての「仕事の斡旋」等があった。
「法話講」では、景品を与えた「氏人」による今でいう親睦を深める運動会や相撲大会などが行われていた。
それらが時代を経て形を変えて祭りの行事として遺されている。

(注釈 余り知られていないが、「戦い等の賄人」や「大きな催しなどの手小」や「河川改修工事」や「殖産地造成」や「新田の開墾」など「手小」、挙句は「大工の手伝い」をまとめて積極的に斡旋していたのは人と地理に詳しい「神職や住職」等であった。
「神職や住職」は、上記した様に「氏人の人別帳」も作成していた為に「氏人の生活」までを隅々まで掌握していた。)

(注釈 江戸期では、「手配師」は非合法な仕事斡旋人や、「請負師」は大工などの職人を斡旋人、「口入れ屋」は庶民の仕事の斡旋人、閑散期の農民等の一時的な仕事を仲介するのが神職や住職であった。)

唯、この時に「御師」(おし)は、“「仏施の質」”を行って導いたが、「仏施の質」とは元はと云えば「仏教の施」であった。
注釈として、前段で論じたが、「中国の金山寺」などの「古寺」で行われていた「施」が日本にも「仏教伝来」と共に伝わった。
「古代密教の浄土宗の青木氏」が、”「賜姓五役」”の一つとして”「仏施の質」”を採用したもので、その「伝統」は明治初期まで伝統として維持され、「享保の改革」などにも用いられた。
上記する様に、「青木氏の憲法」と云われる「概念」にも通じ、”「三分の利」の「概念」”にも通ずるものである。

然し乍ら、「青木氏」は、これを主に「神明社の神職」の「御師(おし) 柏紋」が行った。
どちらかと云えば、”「仏施の質」”では無く”「神施の質」”とも云える。
”「仏施の質」”ともなれば、各地の定住地にある「氏の菩提寺」(密教)と成る。
これでは、その寺数から「氏人」に充分に”「仏施の質」”が広まらない。
況や、奈良期からの「氏の構成員」である「氏人」を護れない。
そこで、「氏」は「神明社」と云う下で、「青木氏=神明社・守護神=氏人」である限りは、「仏の導き」よりは「500社の神明社の構成」に依って導かれていた。

そこで、本来からの「神仏習合を旨とする概念」から拘る事無く、主に「神明社の神職」の「御師(おし)」が、朝廷より「神木の柏紋」を賜って「神施の質」を「皇祖神の子神」としてその責を負ったのである。
元々、「青木氏」には、「神道と仏道」の「区分けの感覚」が少なかった様に考えられる。
それは、上記した様に、「青木氏の出自」に大きく影響していると考えられる。
「自然神」を基とする「皇祖神の子神の祖先神」は「神道」であり、一方で「密教の古代浄土宗」で「仏道」を保って来た。
そして、この何れもを差配するのは、「福家」であった。

取り分け、「仏道」は「青木氏だけの教え」に基づく「密教」で、その出自から独特の「達親制度」と云うものを敷いていた。
前段でも論じた様に、上記した様に「神道」でも「御師制度」と云うものを敷いていた。
従って、「神職」の柏紋の「青木氏」であって、「住職」も笹竜胆紋の「青木氏」から出たものであって、「他の宗教」に全く左右されないものであった。
これ等は、「志紀真人族」で「賜姓臣下族」と云う「出自の格式」が、その様な形に導いたものと考えられる。

そもそも、「神仏習合」と云うよりは、必然的に「神道」は「仏道」に左右され、「仏道」は「神道」に左右された考え方の概念を確立したと考えられる。
何れにも偏らないと云うよりは、やや「神道」>「仏道」にあった事は否めないだろう。
その一つの形が、格式ある「柏紋の神職」があるかと思うと、格式のある「柏紋の住職」もあると云う不思議な事が起こっているのである。
関東にこの「柏紋の住職」が多いのはこの事によるだろう。

依って、”「仏施の質」”は、”「賜姓五役」”と云う役からも”「神職の役」”と成っていたのである。
「仏道」の「柏紋の住職」のあるところは「仏施の質」は「住職の役」が多い。
「関東と北陸域」は「春日社」が多く、「西光寺」が多い所以でもある。
それは、「500社と云う神明社の分布」に左右されている。


次ぎに、この全国の「青木氏に関わる定住地」にある「神明社の500社(466社)」には、その数だけの意味だけでは無く、この「500社にある地域」に”「御師」”が居た事を示す数値であって、その数値はそれだけにきめ細やかに「氏の人」に親身に成って「導人=導師」から「御師(おし)」を敷いていた事を物語るものである。
これは明らかに「氏上と氏人」の間には、「上下の関係」では無く、「親子孫の関係」にあった事を示す所以でもある。

前段でも論じたことであるが、時には、「戦乱」等に掻き廻されたり、行き詰った「人生」に「越前の逃避地の神明社」に「青木氏」が多く逃げ込んだが、当に、この時に「神明社の御師(おし)」は「仏施の質」(上記の青木氏の掟にも関係する)として戸惑う「氏の全者」を救う為に大いに働いて食と職を与え世を説き再人生の道に導いた。

上記で論じた「越前商人の酒造家」等はこの典型的な事例である。
「神明社500社」の「数」も然ること乍ら「分布」から観ても、「五家五流賜姓青木氏」のみならず同格式を持つ補完役の「賜姓秀郷流青木氏」を含む全国の「二つの青木氏」には、この「奈良期からの古式の御師制度」が敷かれていた事を示している。
この事は「青木氏の守護神」の「祖先神の神明社」に関わる事から、「氏上と氏人の関係」も「古式の慣習仕来りと掟」として伝統的に敷かれていた事を物語るものである。

(注釈 「藤原秀郷流青木氏」も「春日神社」が守護神であり乍ら、その出自から「神明社」も「副神」の「守護神」として崇めていた。
取り分け、「伊勢秀郷流青木氏」に関わった一門の地域には、「春日神社」があるにも関わらず「神明社」も存在する。
「伊勢秀郷流青木氏」は、長い歴史の中で「春日神社<神明社の感覚」、或は、「主神<副神の感覚」にあって、その「末裔の血縁先」もその傾向にあったと考えられる。
従って、よりその「古式に基づく慣習仕来り掟」が尊重されていたと観られる証拠でもある。)

元来の大化期からの「氏上の役目」として「村人を導く人の御師」であるとしてこの様に呼ばれていたものである。
従って、「氏上」であって、その「御師の元締め」から「御師様」と呼ばれていたのである。
この様に呼ばれるには100年程度の「絆」では無理であろう。
所謂、互いに仙人を超えた「1200歳の人間同士の絆」が構築していたからである。
「1200歳の人間」は、腰の曲がった白髪頭では無く、常に進化した直立の黒髪の「1200歳の人間」として生きて来た者の“同志“なのである。
「信頼と尊敬」の「1200歳の人間の同志」なのである。

これが、“「青木氏の心魂」の所以”なのである。
故に、明治の伊勢や信濃美濃などで起こった一揆にも「青木氏の心魂」は我が身の事として支えたのである。
この関係を観ても、「氏上側の災難の連続」に依って祖父の代から途切れた「1200歳の人間」の関係は、「40代目の筆者」には、「青木氏心魂」は最早、無い所以でもある。

(注釈 本論で論じている「弥生祭りや五月祭り」や「祭祀偶像」、「氏上」、「御師」、「偏諱」、「達親」、「組合」等に至るまでの「青木氏の古来の慣習仕来り掟の意味合い」が、世間に伝わる事に依って、その「意味合い」のみならず「呼称」までもそっくり換わっている。

これを物語るものは何と云っても、「伊勢」で「青木氏の心魂」としての「氏上と氏人の関係」であった。
それを物語るものが「仏施の質」であって、この「氏上と氏人の関係」を証明する行為であって「青木氏以外」には行っていなかったものであった。
これが「伊勢」から「江戸」に持ち込まれて「伊勢屋の質」と呼ばれる様には成ったが、「質に対する語源の変化」で、「伊勢の行為」は理解できていたが「江戸の質」には一時、「青木氏の歴史観」の知恵は及ばなかった。
然し、「江戸の質」に至るまでの意味としては、普通の「品質を意味する質」や「質屋の質」としてしか、当初、“まさか江戸までは“の先入観から理解ができていなかった。

果たして、“「改革と質屋」にはどの様な関係があるのかな“と疑問であったが、「享保雛の研究」からの事で、「雛の語源の意味」が「青木氏の古式慣習」の一つであるので、調べた処、中国の書にもこの「基の意味合い」があって、「青木氏」だけが伊勢で行って来た奈良期からの「氏上と氏人」の関係には、「仏施の質」が介在していた事を資料の一つの行にある事を知った事に依る。
だとすると、“「江戸の質」にもあり得る“と発想の転換で、これで「江戸の疑問」が解けた所以でもあるが、時代に依って語源がそもそも変わるのは、「青木氏の歴史観」を論じる上では実に「苦労の種」でもある。

この事で、うっかり其の侭で論じると「矛盾する様な論調」と成る事が多いのには苦労している。
これが「古式性の伝統」を論じる難しさにあり、「モニター」を受けて頂いている方からも指摘の多い処でもある。
筆者本人はつい判った感覚で書いて仕舞っている処に問題がある。
この”「青木氏の心魂」”等は典型的なテーマでもある。



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