青木氏氏 研究室
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  [No.350] Re:「青木氏の伝統 31」−「青木氏の歴史観−4」 
     投稿者:福管理人   投稿日:2017/02/18(Sat) 14:44:16

> 「伝統シリーズー30」の末尾


> (注釈 本論で論じている「弥生祭りや五月祭り」や「祭祀偶像」、「氏上」、「御師」、「偏諱」、「達親」、「組合」等に至るまでの「青木氏の古来の慣習仕来り掟の意味合い」が、世間に伝わる事に依って、その「意味合い」のみならず「呼称」までもそっくり換わっている。
>
> これを物語るものは何と云っても、「伊勢」で「青木氏心魂」としての”「准の立場」”であった。
>これに基づく「氏上と氏人の関係」が維持されたものあった。
> それの代表、つまり”「准の立場」”を物語るものが”「仏施の質」”であった。
>これは同時に「氏上と氏人の関係」を「証明する行為」であって、「青木氏以外」には行っていなかったものであった。

> この「青木氏の習慣」が、「伊勢」から「江戸」に持ち込まれて”「伊勢屋の質」”と呼ばれる様には成ったが、「質に対する語源の変化」で、「伊勢の行為」は理解できてはいたか、然し、「江戸の質」には、一時、”「准の立場」”と同様に”「青木氏の歴史観の知恵」”にまでは及ばなかった。
> 然し、「江戸の質」に至るまでの意味としては、普通の「品質を意味する質」や「質屋の質」としてしか考えず、当初、“まさか江戸までは“の「先入観」が強く理解ができていなかった。
> この「准の立場」も「単なる准の意味」(次の格)としてか理解が無かったし同様であった。
>
> 果たして、“「改革と質屋」にはどの様な関係があるのかな“と疑問であったが、「享保雛の研究」からの事で、「雛の語源の意味」が「青木氏の古式慣習」の一つであるので、調べた処、中国の書にも「質」と「准」のこの「基の意味合い」があった。
> この事から「青木氏」だけが伊勢で行って来た奈良期からの「准の立場」の「氏上と氏人」の関係には、「仏施の質」が介在していた事を資料の一つの行にある事を知った事に依る。
> だとすると、“「江戸の質」にもあり得る“と「発想の転換」で、これで「奈良期の疑問」と「江戸の疑問」が同時に解けた所以でもあるが、時代に依って「語源」がそもそも変わるのは、「青木氏の歴史観」を論じる上では実に「苦労の種」でもある。
>
> この事で、うっかり其の侭で論じると「矛盾する様な論調」と成る事が多いのには苦労している。
> これが「古式性の伝統」を論じる難しさにあり、「モニター」を受けて頂いている方からも指摘の多い処でもある。
> 筆者本人はつい判った感覚で書いて仕舞っている処に問題がある。
> この「准の立場」や「質」や「青木氏心魂」等は典型的なテーマでもある。
>

「伝統シリーズ31」に続く


さて、前段に続けて、「青木氏に関わた伊勢衆」の「商業組合」の「商人等の指導役」(伊勢)の「御師(おんし)」(”おし”では無い)は、「組合札」(金券 現在の紙幣)を発効するまでに成長するして事に成った。
(現在でも一部伊勢では、「独特の金券制度」として残っている。そこで、これらの「予備知識」として明治初期までの「青木氏の独特の伝統」で以て「青木氏の歴史観」としてそもそも重要な事を述べて来た。

これが「青木氏の古式慣習」の”「仏施の質」”に現れているので「青木氏の心魂」に付いて更に論じる。

この「青木氏の心魂」がよく表れている最後のものは、明治初期におこった「伊勢暴動」であった。
この「伊勢暴動」は、急に起こった訳では無く、当然に、政治的な変化も然る事乍ら、上記で論じた江戸期の「政治矛盾」に耐えきれなくなっての「最後の破裂」であった。
「青木氏と吉宗」が何とか少しでもこの「四つの政治矛盾」を正そうとして頑張って来た。
然し、その後の為政者には、この「四つの政治矛盾」に付いての認識が全く無かった。

「維新政府」のその後もその「矛盾の認識」はあって正そうとして動き始めたが、ところが終局は「貴族院と云う勢力組織」がこれを阻んだ。
そして、「維新政府」もこの「貴族院」に諂うという「矛盾」を見せた。
結局は、「江戸幕府」も「維新政府」も、この「四つの矛盾」と云う点では変わりはなかった。

そこで起こしたのが、矢張り、「伊勢松阪」からでの「伊勢暴動」であった。

この「伊勢暴動」は、「青木氏の奮闘」の努力で、歴史上で政府が「一揆の主張」を認めたのは初めてである。
この変革には終局は成功したが、この「伊勢暴動」で疲弊した農民を救う為に、「青木氏」は、率先して「農地権」(北勢)の多くを手放した。

それにも拘らず、更には、農地外の「地権、株権の放出」をも放出したにも関わらず、それでは再興せずに、限界に踏ん張って「伊勢」を救おうとした。

それが成し得たのは、前段に論じた様に、「明治三大殖産事業」(A)(B)(C)を「全財産」を投げ打って「興業化」した事なのであった。

これを後勘から観ると、この時の「北勢」の農地外の「他の株権や地権の放出」は、この時期としては必要性が無かったと理解できる。
然し、現実には積極的に放出している。
確かに、「北勢の米農地の地権の放出」は、「明治政府の強い方針」でもあったし、当時の「政治話題」にも成っていた事でもあり、時代性も変わった事でもあったから理解できる。
そもそも、奈良期からの「氏上と氏人の関係」から土地は、「氏人に戻すと云う理念」は理解できるし、「正しかった措置」だったと理解できる。

然し、「株権と他の地権」(水軍等)では、上記する様な「氏上と氏人の関係」は無かった事が「資料の存在」からも伺える。
確かに、「1025年の総合商社」への「商い転換」から室町期頃までの「社会の混乱」から「氏上と氏人の関係」の関係性はより強化された事は否めない。
然し、“「信頼と尊敬」の「1200歳の人間の同志の関係性」”までは「僅かな資料の行」からも判断して無かったと考えられる。

故に、「他の株権や他の地権」の「放出」には、“放出に至る何かがあった”としか筆者には思えないのである。
それを次ぎに検証して観る。

その前に、1800年頃から幕末までの間で、「伊勢水軍の海運業」や「シンジケートの陸運業」等の「7割利権株」を放出して「海陸の運輸業」として独立させていた事は認める。
それ以上の「地権と利権の放出」(主に南勢と東勢)は理解できない。
この「放出」は、「青木氏の心魂」での発露では無かった事は確実である。
何故なら、戦略上、時期的にも好ましくない。

この「原因の研究」には、そもそもその元に成る資料の発見に苦労した。
「南勢域」からは資料は、「旧領地」であった事もあって「本領安堵」の地域とされていた事からも資料は遺されているのだが、「東勢域」には資料は殆どないのである。
取り分け、この明治初期の「伊勢暴動」では、主に「北勢の事」であり、それが「員弁、桑田」と広がり、遂には「美濃」に移り「信濃」に拡がったものである。
全て「青木氏の古来の定住地」の「所縁の地」であった。

そこで「筆者の論」では、次ぎの二つの事が考えられる。

先ずは、「5年間の伊勢暴動」には「農民の糧」と成る「経済的裏付け」が無ければ成り立つ話では決して無い。
当然に不満があれば“何でも騒げばよい“と云う事では無い。
騒ぐ以上はその「経済的な裏付け」が無くてはならない。
その「糧の裏付け」を頼むには「氏上」以上には無い筈である。
「青木氏」が否とすれば出来る話では決して無い。

さて、「青木氏」としては「北勢の農地権」を無償放出して、「氏人の物」としたところには「氏人」に当然に「直接の租税」が掛かる事に成る。
然し、それが「地租改正」で、今までの「米の収穫量」に対する「租税」では無く、「農地権」を無償放出した地価(3%)に掛かる税と成った。
つまり、氏人の農民には何より、「地権放出」と「租税の変更」が重なった事にある。
そして、それが悪しくも「一種の増税」であった。

今までは「青木氏」が、「地権者」として納税して対応していたが、「地権者」を変えた事で農民、つまり、「氏人の直接の難題」と成って仕舞ったのである。
「伊勢と信濃の青木氏」としては放置できない仕儀と成った。
そして不幸か「騒ぎ」が大きく成って仕舞った。長く続く事に成った。
「地権」を放出する事で、“自分たちの事は自分達で”の「自作農」と成って、「氏上と氏人の関係」も薄らぐ事にも必然的に成る。
「氏上と氏人の関係」で護られて来た“「伝統」”は薄らぐ事も間違いは無いだろう。

然し、今までは「氏上さま」であった「青木氏」が壁に成っていたが、「氏人の農民」が「地権者」に成った以上は、「氏人」であった農民は、「暴動」「騒ぎ」を興す事で、主張し「先行きの糧の補償」を何処かに求めねばならない事に成る。

では、「青木氏側」には、この「暴動」が長引けば、果たして、この「北勢の氏人」の「全員の生活の補償」を出来るのかと云う疑問があった。
江戸末期の「商業組合の解散」と「7割利権放出」(水軍)等をしたばかりの状況の中では、果たして、「適切な手立て」はあるかである。

「北勢の氏人(うじと)」の「全員の生活の補償」から「信濃域までの補償」は到底に無理である事は顕である。
だとすると、どうするかであろう。
出来る事は只一つ、「青木氏」としては「地権と利権の放出(売却)」をして「資金源の確保」に走る以外にはない。
そうすると「売却」と成れば、主に「南勢と東勢」の「地権と利権の放出」と成る。
「西勢域」と「中央域」は奔域であり「殖産上」から放出は出来ない。

丁度、「南紀の郷士頭の家の記録」には、この時期に「青木氏」が江戸期末期まで持っていた「殖産の利権」の行の事が特段に書かれている。
其れに依れば、恐らくは、「伊勢暴動の事態」の為に「南勢の郷士頭」に「説明」か「同意」を求めたのではないかと考えられる。
この後に「売却された」と観られる。

(注釈 祖父が興した仮名の「忘備録」に口伝方式で詳細に記述がある。
その時の「経緯の立場」を後世に明記したものと考えられる。)

この時のものは、前段の「商業組合」で論じた「江戸期の殖産の利権」が対象であったと観られる。
「地権と利権の放出」(主に南勢と東勢)で、「氏人(うじと)」であった「彼等の経済的な裏付け」(上記疑問の「全員の生活の補償」)をこれで採ったと考えられる。

然し、時期的に「地権と利権の放出」(主に南勢と東勢)が同じであると云う事と、「南勢の郷士頭」の資料の土地に関する行からその状況証拠と、祖父が書き記した忘備録だけであるが、確定するその証拠は何も見つからない。

この明治初期から明治15年頃までの代は、「曾祖父と祖父の代」であって「青木氏の由来書の復元」に取り組み始めた「忘備録(未完成:由来書の復元)」は信用出来る。

この時期の少し前に、実は曾祖父の長兄と次兄との間で「青木氏で路線争い」(四家の中で)が起こり、「意見の違い」から長兄が「福家の跡目」は自分であるとして、「大日如来坐像」を「鎌倉の菩提寺」より「伊勢の菩提寺」に戻した。
(これは「青木氏の禁じ手」であった。)

(注釈 「大日如来坐像」は「伊勢」が「幕末の戦乱と混乱」に巻き込まれる事が予測され、一時、同族の「伊豆の青木氏の菩提寺」に預けた。
当時、「維新軍」と「幕府軍」は伊勢か名古屋付近で衝突すると予測されていたし、「維新軍」は丁度、伊勢付近で偽の「錦の御旗」を作成して「討幕の形」をやっと出来上がったと云う経緯もあった。
それには「維新軍」として、「紀州藩と尾張藩の壁」を突破しなければならない「戦略上の宿命」があった。)

(注釈 「鳥羽伏見の戦い」の三日目に「幕府軍」は「伊勢」に駐留していたが「維新軍」との衝突は何とか西に向けて動いて難を逃れた。尾張藩は7日目に恭順)

何れにしても、この戦略に打ち勝つには、「錦の御旗」を掲げる事で、「維新政府」>「幕府」の勢力図を決定着ける伊勢域は重要な地域でもあった。
「伊勢」は、この様に「不入不倫の権の聖域」が危ぶまれていたのである。

更には、「伊勢暴動」も「不満」が溜まりに溜まっていて爆発は予測されていた事でもあって、大事を取って「青木氏の象徴」の「大日如来坐像」等は、「青木氏の禁じ手」を破って、“鎌倉に移す”と云う事に決定したと云う事である。
それと、「打つ手」は打っていたが、下記に論じるが、「討幕派」の中で、“「献納金者」”+“「協力推進者」”>=“「伊勢暴動の立役者」”の関係で、逆転してどの様に転ぶかは「青木氏側」では不透明であった。
その時の「万全の手立て」ではあったらしい。
それは、「維新政府の出方」のみならず、「青木氏側の路線争いの成行き」も懸念されていたのである。
然し、この様な状況の中で、結局、長兄は病死した後、次兄が「福家の跡目者」である事の証として、「伊豆菩提寺」より「大日如来坐像」を基の伊勢の「福家の母屋」に移した。
(現在は依ってある所に祭祀して厳重に保管している。)

ところが、この次兄も病死し、結局、三男であった筆者の曾祖父が幕末に「福家の跡目」に納まってこれを若い祖父が補佐して「青木氏で路線争い」は収拾した事が祖父の筆字で明確に書かれている。

矢張り、「青木氏の心魂」の「氏人への最後の絆」に付いて、「地権と利権の放出」(主に南勢と東勢)を成すべきかの「意見の違い」が興った事を如実に示す証拠でもある。
これは、「伊勢の郷士衆」以上の一族郎党で議論と成った証拠であり、「南勢の郷士頭」の家に遺された「手紙資料」がその時の「福家の路線争いの結末」が書かれたものであった。
「伊勢郷士衆」には「伊勢暴動」に加担する事に対して、矢張り、反対が多かった事が記されている。

(注釈 この資料の書主は「福家」では無い。「祖父の忘備録」に依れば反対したのは次兄であったが、曾祖父の三男は、「青木氏」として長兄が押し進めた以上、最早、この段階で中止できないとして腹を決め路線を継承したのである。
父は大きく成って祖父からこの時の経緯を聞いたとの事で、そこの詳細は口伝で筆者に伝わっている。)

「祖父の口伝」の趣旨は、“「青木氏の象徴」の「大日如来坐像」に対して必要以上に関わるな“と云う「戒め」だけであった。
“納める処に収めて置くことが必要で動かしてはならぬ。”、“動かすと「氏」には災いが及ぶ”とする「固い戒め」であり、これは当に「青木氏の氏是」である。

そもそも、前段で論じた様に、「春日真人族―志紀真人族」の「青木氏の象徴物」を「動かす」と云う事は、「何かの事」で「世に憚る事」から「動かす事」に成っている。
「何も無い所」に「青木氏の象徴物」の「大日如来坐像」を態々、「動かす根拠」は生まれ得ない。
恐らくは、この「戒め」は「青木氏の象徴物」に限って「戒め」ているのではなく、「世に憚る事」つまりは、“「維新軍」と「幕府軍」との何れにも加担してはならない“と云う事であったと筈である。

ところが、決着の着いた維新には、“「献納金者」”+“「協力推進者」”>=“「伊勢暴動の立役者」”の関係で関わっている。
これが果たして、「青木氏の氏是」を破った事に成るのであろうか。

この時の幕末から明治初期の最後の経緯が克明に判る事件で、これが「青木氏の心魂」の「氏人への最後の絆」であった。

結局は、「北勢と南勢と東勢」の「青木氏の地権」はこれで消え、残すは「西勢と中央域の地権」だけと成った。

(注釈 「四家の摂津堺店」の堺域でも「摂津青木村」があり、「可成りの農地権」も持っていた事で「暴動」が飛び火した。)

(注釈 「北勢と南勢と東勢」の関係が変えた事で、それまで「氏人や郷士」が南勢や北勢から荷車を引き山を越え谷を越えて来た「運動会」とか、一か月に及ぶ「始祖祭り」とかに松阪を訪れた事は次第に消えたと記されていて、「青木氏の古式伝統」は「四家の範囲」で護られる様に成った。)

もう一つの事は、上記した“「献納金者」”+“「協力推進者」”>=“「伊勢暴動の立役者」”の関係で関わっているとして、これが果たして、「青木氏の氏是」を破った事に成るのであろうか。
この事を後勘の為に検証しておく必要がある。

それは何に於いても”「維新政府への献納金」”である。
これが「青木氏」に執ってどの様なものであったかと云う事に成る。

「維新政府への献納金」は、この時期、多くの「豪商」に求めていた有名な「維新政府の施政」であった。
前段の様な立場を持つ「青木氏」もいの一番に例外なく求められた筈である。
この苦しい時期の「献納金の工面」であろう。

幕末には、紀州藩の二度目の「勘定方指導」を務めたが、この時に「藩財政の立て直し」の為に“「前貸金」(引当金)”として拠出していた。
これが上記の様に「幕府」が無く成り、「紀州藩」も無く成り、「伊勢支藩」も無く成り、「不当金」と成って仕舞った事が「商記録」と「忘備録」にある。
実にダメージが大きかった事が克明に描かれている。

其処に“「維新政府の献納金」”である。
「青木氏」としては、立場上、「賜姓族」であると云う事から「献納金」は是非の事無く納める事しか無く成る。
況して、「伊勢暴動の裏の影役者」である事は、周知の事で「矛盾の行為」であった。
何とかこれをうまく納めないと、それこそ「青木氏の氏是」を出自以来で始めて破り、且つ、「暴動の裏の煽動指導者」の「汚名」を残す事に成り得る。
お恐らくは、「氏」を遺す事も儘ならなかった筈である。(結果として見事に納める。下記)

「地租改正」と連動して「維新政府」が断行しようとした“「農地解放の協力推進者」”であって、それを進めた事に依って、その結果として、「自作農」にした「農民」が、不得意な「金納の納税者」と成って仕舞って、「状況の理解」が浅い事から「租税の不満」が表に出る事に成って仕舞った問題でもあった。
前段でも論じたが、「米納」から「金納」に切り換える事は、前段で論じた様に、「政治体制の四つの矛盾」の「幕府解決策」の一つであった。
享保期から積極的に「青木氏」が取り組んで来た「政治課題」と「経済課題」であった。
しかし、明治期初期にこの時期を得て「自作農」を率先して進めてきたが、「氏人の農民」には「充分な説得」が成されていなかった事が露出したと云う事であった。

ここでは、“「献納金者」”であって“「協力推進者」”であって“「暴動の立役者」”でもあると云う「二律背反」の隠す事の出来ない事実が起こって仕舞っていたのでもある。
難しい「綱渡り」である。
「綱渡り」と云うよりは当に「手品」であろう。
然し、かっと云って「青木氏」としては、何れ上記の「三つの者」は、“「避ける事の出来ない役」”であった。
「避けられない宿命」、或は、「時代のうねりの流れ」に引っ張られていたと云う事であった。
最早、「青木氏の意志」に依るものでは無かった筈で「逃れる事の出来ない宿命」であった。

この「宿命」は、次ぎの様な数式論の様に「金子に代わる不思議な流れ」であった。
今までは無かった「時代の流れ」であった。

「紀州藩前貸金」+「維新政府献納金」+「暴動支援金」>=「青木氏の宿命金」

以上の様に、何れもが「宿命金の返納」とはならない「金子」(帰ってこない金)が、一度に用立てる必要性に迫られていて、これは「青木氏の浮沈」を左右する事でもあった。
これの「意見の違い」で、「信濃の青木氏」も巻き込んで豪商と成っていた「六つ青木氏全体」での議論の渦中にあった。

「維新政府」としては「青木氏」のこの動きを次ぎの様な数式論として観ていたと考えられる。

“「献納金者」”+“「協力推進者」”>=“「暴動の立役者」”

この「二つの数式論」が「二足の草鞋策」を敷く「豪商の六つの青木氏」を苦しめていたのである。

確かに、この数式論から“「暴動の立役者」”は、「地租改正の障害」と成る事であって、「維新政府」にとっては、本来であれば、間違いなく「青木氏の捕縛」であろう。
然し、「青木氏の捕縛」は記録では無かった。
其れは、上記の数式の中にあったからである。

「紀州藩前貸金」+「維新政府献納金」+「暴動支援金」>=「青木氏の宿命金」

この数式論が「青木氏の捕縛」を救った。
これだけの「宿命の負荷」が掛かれば、「地権と利権の放出」(主に南勢と東勢)は逃れられない。
然し、この「三つの金」は「商い」で取り戻せる事が出来ない金でもある。
この時、「伊勢の福家」では「倒産」を覚悟した事らしい。
或は、「汚名」を被り「氏の滅亡」を覚悟したらしい。

注釈として、この時、現実に「氏人であった捕縛者」がどうなったか気に成るが、「青木氏の記録」に依れば、次ぎの様であった。

「伊勢北部」での全体は8000人程度以下で、その内、直接の「氏人であった捕縛者」は150人、関係者では400人程度で、「南勢の氏人の捕縛者」を入れると合計600人程度と記されている。
そして、「重要な事」は、この「600人弱の捕縛者」は、「青木氏」が保証人と成って直ぐに解放されている。
(公的な記録にもある。)
「伊勢」での全関係者は800人程度と記載されている。
祖父の文章の「行」から、「600人の氏人の解放交渉」を裏で行った様子である。
全体の暴動の捕縛者は5万人であった。

「青木氏」としては、“今のやるだけの事はやった”と云う表現である。

そこで、重要な「青木氏の歴史観」は、注釈の「600人の氏人の解放交渉」の「行の意味」である。
ところが、「北勢と南勢の氏人の数」からすると、少ない。
別の記録から正式な「氏人」は全戸主1000人強居たと記されている。
当時の「青木村」にして見ると、「5村から6村」に相当するが少ない。

参加した「北勢域の員弁と桑名」の「氏人の村の数」と、後追いで参加した「南勢の尾鷲域」の「氏人の村の数」からすると何故か少ない。

そうとすると、「人数」から考察すると、「捕縛されなかった氏人」と「暴動に参加しなかった氏人」が400人−35%もいた事に成る。
参加したが「捕縛されなかった氏人」は、「村集団」で行動していたので居なかった事に成る。
記録から、“状況が新たに変化して、50人が再び新たに参加した”とあるので、「解放された人」は「保証人の立場」を崩す事に成るから先ず「再参加」は無いだろう。

これが「暴動に参加しなかった氏人」の内の50/400人と成ると、合わせて「250人の参加」と云う事に成る。
(「捕縛されなかった氏人」は150人)
丁度、「全氏人数(戸主)」の「40%−250人」が参加した事に成る。

全て農地解放前は、地権の持たない「小作農」で有ったので、これは「参加しなかった人」、つまり、「意見の違う人がいた事」に成る。
然し、況や、“新たに”「地権者」に成る事を拒んだ人”が居た事に成る。”
即ち、“「氏人」で居たいとする人”が、「6割」も居た事に成る。
この事が重要である。
これが、「氏人の村数」の少なさに繋がっている事に成り数理的に納得出来る。

唯、「行」では「村単位での行動」と成っているので、「村全体」が参加しなかったのか、又は、「村の氏人の一部」が参加しなかったのかは判らない。

要は「維新の地権」を新たに持った「氏人の数」が、「地権」を持った事は良かったが、突然に「米価」から「税」が慣れない「地価」に変換されて、「貨幣」に疎かった事で「金納」に成った事の「戸惑い」が「不満」を持った事である。
その為で、依って「維新の新たな地権」を持った「氏人」が全て参加している事に成る。

然し、そもそも、「郷士衆」を除き、「青木氏の村」には元より「地権」の持った「青木氏の氏人(地主・地権者)」は居なかったので、結論は「村全体の行動」では無かった事が判る。
それぞれの「村の一部の参加」は、つまりは、「維新の地権」を持った全ての「氏人」」であった事に成る。
云い換えれば、「維新の地権を持つ事を拒んだ氏人」が多く居た事に成る。
(つまり、これを”「6割組」”と書かれている。)

従って、「北勢と南勢の一部の青木村」には、維新に依って、有史来、初めて「地権者の氏人」(「4割組 a」)と「地権者では無い氏人」(「6割組 b」)が混在した事を意味する。
これでは全ての「青木村」には、ややこしい関係が新たに生まれていた事に成る。
「地権者に成った氏人」は、最早、基本的には「氏人」では無く成る。

つまり、「青木村」には「氏人を続ける者」と「氏人を続けない者」の「混在状況」が発生した事に成り、「複雑な人間関係」が生まれていた事を意味する。

「青木村」でありながら、「維新の地権者」に成った者は、果たして「青木村」に居られるかの疑問が残る。

然し、「村の土地の地権者」と成った以上は、「青木村」に住む事に成る矛盾が生まれる。
「4割組のa」と「6割組のb」が上手くやれるのかの問題である。
これは「氏人との意志の選択」から生まれた「村の難題」であった。

然し、「6割組のb」が存在しながら「青木氏」は、「4割組のa」の暴動の「経済的背景」と成っている。
そして、彼等を救出している。

道義上(「人」の行うべき「正道」)は、「維新の地権者」にしたが、「悠久の氏人」であったとする事から「青木氏」には「4割組のa」に対する責任もある。
然し、信義上(「真心」で「約束」を守り、「相手」に「役」を果たす事)では、最早、「氏人」で無く成った者等であって、「悠久の静かな村」に問題を持ち込んだのである事からも、“自分の事は自分でせよ”として、「6割組のb」は釈然としないであろう。

「6割組のb」と「4割組のa」は全くの他人では無く何らかの縁者関係にあった。
この様な時には、“「4割組のa」を見放すのか、支援するのか“は、最終的には、「氏上の青木氏」の「福家の判断」に任される事には成るだろう。
「救出している」のであるから、「青木氏の心魂」が働いた事に成る。

「祖父の筆」では、「救出と云う事」と「暴動の円満解決」を自慢話に成らない様に、この事を暗示していたのである。

結局は、上記の「金の数式論」と「者の数式論」が効を奏して、先ず「参加者の600人」を救い出したのである。
然し、次ぎは「汚名の払拭」と「暴動の円満解決」の為の「手立て」であった。
この「二つの手立て」は関連していた。

それには「汚名の払拭」は、「暴動の名目」を変えて行く事でもある。
この為に「参加者400人」(「4割組のa」)を「ある方向 下記」に説得する事にあった。

ここで、「青木氏の歴史観」として「汚名の払拭」と「暴動の名目」のこれを理解する為に「青木氏」の独特な「事務的な伝統」を記して置く。

(注釈 「汚名の払拭」と「暴動の名目」の策は、「参加者400人」(「4割組のa」)の「説得策」を始めとして「名目策」等は、「時代の先取り」としても「政府の面目」も建てた見事なものであった。
それは下記に論じる。)

その前に、この“祖父の暗示”に関して、“何故に暗示したのか“と云うと云う事であるが、それは「青木氏の古式伝統」にあった。
普通なら、“記録に遺すのだからはっきりと書けばよい”と成る。
ところが、此処に「青木氏の慣習仕来り掟」の「古式豊かな配慮の伝統」があった。
祖父もこの「古式慣習」で育った事もあって、「忘備録」などにはこの「暗示」が好く使われている。

そもそも、この「古式伝統」には、先ず、手紙等の文章は、“「祐筆」”が居て、素案・原案を作成し、それを「認める作法」である。

(注釈 “文章を認める“と云う言葉が有るが、この”認める(したためる)”は下記の「仕来り」から「語源」が来ている。)

一つ目は、「青木氏」には、「神明社の柏紋の禰宜」と、「氏の菩提寺の達親」の「二つの役職」があった。
この“「祐筆の役目」”を古来より“「青木氏の仕来りの伝統」”として務めていた。

二つ目は、上記の様な詳細な機微に関する内容は、直接的に書き込むと云う事は行わず、機微を匂わせるものと成る。
これを「美徳とする慣習」が古来より在った。

この慣習は、「志紀真人族」としての「賜姓五役の格式」を汚さない為にこの「祐筆の制」を執ったと観られる。
“「春日真人族の後裔」で「志紀真人族」とはあの程度か“と云われない為の「氏の防備」であって、それが「慣習仕来り掟の伝統」と成ったものであろう。
むしろ、「氏族の範」としての「朝廷」が求めるものであったとも考えられる。

書き記す証拠はないが、他の古式伝統から租借して「格式と範とする概念」が強かった事は否めない。

この「格式と範」としては、直接的に書き込む事は「無粋」として、その「人間力」や「人格」を疑われ軽蔑されたのである。
少なくとも、「四家制度」の「福家を務める者」は、この概念を強く持ち得ていなければならない事を求められた。

さて、この「祐筆」を務めた原案に対して、「福家」はそれ以上に「チェック能力」を要求され、「原案訂正の能力」を要求された。
その為に、「朝廷や上位」に出すものは、「禰宜」が、「四家や郷士衆や縁籍」に出すには、「達親」が務めた。

中でも、朝廷から「神紋の柏紋」を特別に有する「青木氏」の「身内の禰宜」は、「青木氏の顔」として観られ、「禰宜」が作成する文面は、「青木氏の品格」を評価されるものとして扱われた。
この為に「四家制度」の中で育てられた中から“「優等生」”が成ると云う「仕来り」であった。
従って、「柏紋の禰宜」に成れるには「極めて名誉な事」であって、「青木氏」の中だけでは無く世間に対しても名誉であった。

朝廷などに出向く際には、この「笹竜胆紋」を「総紋」として「柏紋の禰宜の青木氏」は、「福家」に同行して朝廷などでもトップクラスの扱い(従三位)を受けた。

(注釈 朝廷で天皇に控えて拝謁できるが発言は出来ない格式で、発言が叶うのは正三位からである。)

従って、この「祐筆を務める禰宜」は、「青木氏」は元より「故事伝来の知識」に長じていなければならないし、「書体の良悪」も重要であった。

「四家制度」の「祐筆を務める達親」は、「氏人の事の詳細」や「氏全体の古式の慣習仕来り掟」に長じ、一種の「歴史官僚の様な役目」でもあった。
従って、「祐筆を務める禰宜」と共に、「青木氏の祭祀等の準備」も進める役目を負っていたのである。

(注釈 古い資料を読み取ると云う事は、この“文面から租借する能力”を要求される事で、当然に「青木氏の古式歴史観」も把握していなければ、なかなか理解が難しいのである。
筆者が本論中でよく「・・・の行・・」と表現するはこの事にある。
「禰宜」と「達親」の仕事は目が廻る程に忙しかったと記されている。)

歴史的には、「祐筆」は、朝廷や公家や武家などが使う呼称であった。
一方、同じ「右筆」は、室町幕府から使われた呼称で、後の大大名はこの「右筆」を使った。
ただ、小公家は自筆を専らとしたが、「祐筆」と「右筆」とには時代性もあるが、前者は「歴史・慣例・慣習・仕来り等の知識能力」、後者は主に「識字能力」に重点が置かれていた。

これは「発行する相手」に左右されていた事から、「祐筆(書籍官)」と「右筆」(代筆者)」との呼称の呼び方と意味が多少異なっていた。

これは奈良期から「識字能力と歴史や慣例の知識の能力」の程度に左右した為に起こったが、取り分け、「皇族賜姓臣下族」であった事に依り「青木氏」に執っては「歴史・慣例・慣習・仕来りの知識能力」に重点が置かれていて、自筆もするが、その意味で明治期まで“「祐筆」・(「執筆務」)”の呼称が使われていた。

これ等の祐筆に付いての歴史は重要な「青木氏の歴史観」である。

前段で論じた様に、これは「志紀真人族」の「賜姓臣下族」を構成する数少なく生き残った「氏族」であった事もあって、「青木氏」の「郷士から氏人」までの長い歴史の持つ「氏」を構成するには、「歴史・慣例・慣習・仕来りの知識能力」が重要であって、「賜姓五役」に大きく左右していた事を物語っている。

従って、この上記した「見放しか支援か」の差配と、「汚名の払拭」と「暴動の名目」の差配を間違うと大変な事に成っていた事を物語っている。
この「歴史・慣例・慣習・仕来りの知識能力」を間違いなく持ち続けるには、「祐筆」を「禰宜と達親」に分けて、この時には「執筆務」を採って居た事が判る。

「歴史・慣例・慣習・仕来りの知識能力」、即ち、「書籍役」(1)のみならず、「催事役」(2)の祭祀祝事の「催事全般」も担っていた事が書かれている。
時には、「郷士から氏人」までの「調整役」(3)も担っていた事が判る。

前段で論じた神明社の「御師役」(4)や、シンジケートとの「連絡役」(5)や各地との「情報伝達役」(6)中には、「神明社」を通じて「氏人」の「薬師役(医務役)」(7)も演じた事が書かれている。
上記した様に「仏施の質役」(8)も務めていたのである。

「書籍役」(1)
「催事役」(2)
「調整役」(3)
「御師役」(4)
「連絡役」(5)
「情報伝達役」(6)
「薬師役(医務役)」(7)
「仏施の質役」(8)


(注釈 これでは確かに飛びぬけて優秀で無くては「役」は成し得ないだろう。
各地の「笹竜胆紋と柏紋の青木氏末裔」は伝統的にこの知識を持つ末裔であった。
従って、4年か5年に一度赴任地から帰勢する仕組みで、その後また別の赴任地の神明社に出向く制度を執っていて、「豊かな情報と高い経験」とを収得して全役目を全うさせる仕組みであった。)

(注釈 黒田藩の始祖父は、近江佐々木の支流末裔にして、「近江系の摂津青木氏」との血縁を持ちその所縁あって「神明社の7」を務め、5と6も務めていた。
その事が出世の糸口と成った。)

注釈として、一時、この“「執筆務・(秘書役)」(4)”の呼称を使っていた事があるらしい。
正しい呼称かは判らないが、「執筆務・(秘書役)」を「しっぴつむ」とし乍らも、「祐筆」にかけて「しゅうひつ」(衆筆)と呼んでいたとする記録もある。

「氏人側」からの呼び名であった可能性が有るので、“「衆筆」”の意味は大変その「役目柄」が良く判る。

さて、この「6割の氏人」は、昭和20年の「進駐軍の命令」で「農地解放」が日本全国一斉に行われたが、この時にこの「6割の氏人」が「地権者」に成ったとすれば、父の口伝に一致する。
記録と口伝が一致する事に成る。

故に、前記した「曾祖父の長兄と次兄の意見の違い」が、「伊勢郷士衆」までを巻き込んで起こったが、その「原因の背景」は、これで完全に理解が着く。
「全国の青木氏」、取り分け、「六地域の青木氏」ではこの様な事が起こっていた。
前段で論じた様に、その例として、瀬戸内で全国的に「廻船業」を営んでいた「青木氏の記録」を見ると、分家筋の「安芸の青木氏」との間で「路線騒動」が起こっていたが書かれている。

「伊勢の暴動」は、「信濃青木氏」が「伊勢青木氏」と同じ行動を採った事で「信濃」まで広まったが、「信濃青木氏」も同じ苦労をした事が良く判る。

(注釈 記録を見ると、飛び火的に貰い火の様に「青木氏の六地域」にも広がったが、伊勢信濃程には大きくはならなかった。)

尚、この「地租改正の暴動」は、「秀郷流青木氏の定住地」である「茨城や千葉」まで飛火した。
然し、「鎌倉伊豆域」や「神奈川横浜域」では不思議に起こっていない。
この地域は、「二つの青木氏」が存在する地域でもある。

この事は、明治期には、「秀郷流青木氏」も「氏子への地権の移動」を「青木氏の定住地」の「茨城や千葉」では行っていた事が判る。

ところが、「本家本元の武蔵」や「鎌倉伊豆域」や「神奈川横浜域」のこの地域の「青木氏」は積極的では無く、「貴族院の方針」に従った事に成るのだろう。
「享保の改革」の時も積極的では無く、一時反目し合った事もあった。
不思議な原因はまたもや判らない。

「武蔵藤氏」が一族こぞって「幕府の官僚族」に成った事が原因しているのかもしれない。

故に、この事も在って、安定した「伊豆(鎌倉)」に伊勢から「大日如来坐像」を移した事も一つの要素と成る事が判る。

前段でも論じたが、「享保の改革」で「犬猿の仲」と成っていたが、「伊豆青木氏の宗家」は「鎌倉」に別荘を持っていた事から、密かに「伊豆青木氏宗家の判断」ではその後に「鎌倉」に安置したと記されている。

この事では、次ぎの事が読み取れる。
先ず、一つ目には、「維新の時期」には、既に、「伊勢との関係」が修復されていた事を示す事に成る。
更に二つ目には、「秀郷流青木氏116氏」の殆どは、「維新の地権の放出」に応じずに「氏人を地権者」にはしなかった事に成る。
又、三つ目には、事前に「鎌倉伊豆域」や「神奈川横浜域」の態度も把握できていた事に成る。

「幕府軍」と「維新軍」の「衝突の可能性」から、「神奈川横浜域」との中間地でもあって「鎌倉の方」が“いざ”という時には守備の点で両方から護れると観て安全と考えたとしている。

(注釈 現在も鎌倉には「伊豆宗家」が「大きな屋敷」を構えて定住している。)


そこで、何故、「秀郷流青木氏116氏」の殆どは、「維新の地権の放出」をしなかったのかの疑問である。
それは、「武蔵藤氏の官僚族」の事もあるが、更にこれを突き詰めると、「青木氏の心魂」の所以に依るものとも考えられる。
何れも、「氏人との関係」は平安期から長い。
唯、異なる事は「伊勢と信濃域」は「朝廷との歴史性」に依る所が大きい。
云い換えれば、良し悪しは別として「賜姓臣下族としての感覚」の差にあった事に成る。
矢張り、「朝廷との繋がり」の強い「伊勢域信濃域と云う地理性」に依る事がこの感覚から逃れ得なかった事に成る。
つまりは、この「地理性」から来る自然に構築される“「氏人との絆の差」“であろう。
それが、上記した「6割の氏人」と「4割の地権者」との“「選択差」”に表れたと考えられる。
この「選択差」=「絆の差」と成ったと考えられる。

それは、“氏人が地権者に成る事を好まなかったのか、”将又、“地権者にする事を好まなかったのか”は判らない。
「絆の差」を強く持つ「伊勢域や信濃域」では、「6割の氏人」:「4割の地権者」を「6:4」であったとすると、「6割の氏人」:「4割の地権者」は「8:2」位以上の関係性を維持していたと考えられる。
とすると、“「氏人」を「地権者」にする事を好まなかった” と“「氏人」が地権者に成る事を好まなかった”の「両方の決断」であった事が考えられる。

これは「地価制」や「金納制」に成る事に依る「リスク」を「先読み」しての事であったかも知れない。

そうすると、「武蔵」はさて置き、「茨城と千葉」は、「秀郷流一族一門」や「青木氏族」の中でも「結城氏の永嶋氏の地域」である。
この本家本元の秀郷流一門の最大名門の「結城永嶋氏」は、「伊勢藤氏の伊勢長嶋氏」を含む「伊勢秀郷流青木氏」との血縁性も高い処であり、「秀吉の時」の「陸奥攻め」と「結城攻め」に救ってくれた恩を認識して「伊勢の影響」を強く受けていたとも考えられる。

その根拠は次の事にある。
注釈として、前段でも論じたが、「秀吉の陸奥攻め」の時に、「伊勢秀郷流青木氏」は伊勢から出て「秀吉の背後」を襲った事で「陸奥結城氏系永嶋氏」を救い、その後、「結城氏一族」を護る為に軍を結城に廻し救った経緯がある。

又、朝廷「京近江の公家」との血縁性を強く持つ「伊勢秀郷流青木氏」でもあって、「青木氏族の永嶋氏」も同様であった。
秀郷一門の中でも同族意識が高かった。
恐らくは、これらの所以が強く働いたものと考えられる。

結局は、「氏上と氏人の関係」も、この「選択差」=「絆の差」と成ったと考えられる。


さて況や、この事柄(歴史的情報)を「祐筆・御師」等の働きから適格に読み切った事から、「鎌倉伊豆域」や「神奈川横浜域」の態度も判った事に成る。
「読み切る事の情報」は、上記で論じた「1から8の役」を果たす「祐筆・御師」(神明社)が集めた事に成る。
当然に享保期に起こった「伊豆との蟠りの解決」もこの「神明社の役目」であった事に成る。

さて、これで「伊勢暴動」は、この様に何とか乗り切った。
然し、注釈として、「紀州藩前貸金」+「維新政府献納金」+「暴動支援金」>=「青木氏の宿命金」の環境の中で、この状況でも「四家」は、「パッキン」と呼ばれる「紙箱等の殖産」や「酒造米改良の殖産」は続けている。

この「殖産」を「6割の氏人の副業」として彼等を護ったのであるが、「4割の地権者」の中には、上記の数式論で「氏上の行く末」を見限った「氏人」も多かったとする資料の行もある。

その意味でも頑張った甲斐があって、通称、「パッキン」(紙箱)は、その後、時代と共に爆発的な発展を遂げた。
段ボール等を含む各種の「家内業の紙箱業」ではあったが、「6割の氏人」を何とか護ろうとしたのである。

「青木氏の歴史観」として「各種の紙箱」の発祥は「青木氏の殖産」からである。
これで明治に成っても「氏上と氏人の関係」を何とか保ち、再び力を取り戻したが、「江戸期の力 500万石」は最早無かった。

確かに、この状態は明治35年まで続いたが、ところが「松阪の火事出火元の賠償程度」で「福家」は倒産した。

(注釈 賠償程度で倒産するとは考え難い。財力以外の何かが働いたと観ている。
然し、祖父は「福家」だけの倒産を実行した。
筆者は「祖父の忘備録の行」から下記の事から「責任説」を採っている。)

「紀州藩前貸金」+「維新政府献納金」+「暴動支援金」>=「青木氏の宿命金」

以上の数式論で、結果として兄弟が「路線争い」したが、「火災による災禍」を興した事から充分な継承が出来なかった事に対する「福家の責任」を執ったと観ている。
従って、「福家の資産」のみを処分したと考えられる。

そこで、「郷土史研究家」で元郷士の話では、その後、祖父の弟に当たる分家・即ち、四家は、「松阪、玉城、射和地域」では、“「徳宗家」”として地域の人からも信頼されていた事が伝わっている。
これは明治期に成っても「伊勢の殖産」で多くの人を救ったとしての事であった。

そもそも、“「徳宗家」”とは、専ら平安期以降に良く使われた用語で、「宗家」に代わって人々にその「徳」を果たしたとする浄土宗系宗派に用いられ、取り分け、「徳」を重視する「禅宗」等に使われた「仏教用語」である。

古くから「浄土宗の密教の宗教概念」が浸透している伊勢では、「古式慣習の概念」として未だ明治期までも用いられていた事を物語るものである。
ところが、鎌倉期後半の頃から、この慣習を利用して良く似た意味で、これを用いてその後に、鎌倉幕府の「源氏の権威」を継承しようとして、“「得宗家」”として「総家の執権北条一族の呼称」に使って「一族の権威」を表した。

一般には、この事からこの「得宗家」が使われるが、元来、「古式概念」からすると京、近江、伊勢等で使われていた「浄土宗系の仏教用語」の“「徳宗家」”が語源と成る。
これも「古式慣習の伝統」である。

その“「徳宗家」”と呼ばれていたが、この呼称が「氏上さま」「御師様」等と呼ばれていた中で、何時頃から「伊勢の民」に呼ばれていたか資料が見つからない。
然し、「浄土宗系の仏教用語」である事と、「平安期からの古式慣習」であったとする事は確かである事から、「和紙を始めとする殖産」を通じて「全ての郷士衆」から呼ばれていた事に成る。
故に、「郷土史研究家」の郷士であった家の資料に出ていた事に成る。

一時は、「500万石以上の財力」を誇ったが、「享保期の事」(伊勢屋の質等の出財)も含めて上記の事等で「体力」が極めて弱っていた証拠でもあるが、然し乍ら、「覚悟」は正夢と成ったのである。

(注釈 享保前と幕末期の二度の「紀州藩指導方」の事もあってか、大正14年15代の紀州徳川家の没日まで極めて親密な関係が続いた。
「祖父の忘備録」でも解るが、最後の二代に渡る徳川氏との親交を表す数通の手紙が現在も遺されている。)

この事に付いての「青木氏の歴史観」を遺す経緯が実はあるのだ。
それを下記に論じる。

そもそも、紀州藩は「維新政府の方針」に従わず「廃藩置県」をより先行して、「県郡制の実施」と、「無益高制(藩主や藩士に払う家禄を10分の1に削減)を実施」等を行った。
紀州藩は、これに加えて、更に、「藩政改革」として「藩治制度の三政策」を強引に実行した。
これに驚いた「維新政府」は大反対した。

つまり、この「県郡制と無益高制の二つの政策」と「藩治三政策」を“何故、実行したのか”と云う事が「青木氏の歴史観」に大きく関わってくるのである。

これでは判り難いが、前段でも論じたが、この幕末から「多くの高額借財」を抱えていた「藩主」の経理一切が藩政に大きく影響していた。

そこで「藩主」を含む一切の俸禄を1/10にした上で、更に「藩主」の「徳川氏の経理」を新たにして「藩」とは切り離した。
そして、完全に「藩政」からも分離した。
そして、それを実行した上で、最後に「藩」そのものを廃したのである。
これが「県郡制」なのである。
「藩」は突如無く成ったと云う事である。
そして、「無益高制」で「藩士」であった者の「給与」を殆ど無くして辞めさせる様にした。
続けてこれらの手続きは「2年間」の間に行われたのである。
その上で、「経理問題の処置」を実行した。

この為に、「藩主の借財」は、「個人の新別経理」に成って仕舞った。
「藩主としての責任」を問える「経理の相手」が「新しく別の無関係の経理相手」に成った為に無く成ったのである。
つまり、「藩の借財」は、「藩」が無く成る事」と、「藩主としての借財責任」も無く成る事で、「不当りの棒引き状態」として無く成る仕組みであった。
これで、「貸し手側」は何処にも返済を求める相手が無く成った。
恥も外聞もない明らかに「道義に反する騙し討ち」である。
この事で「江戸期からの一切の借財」等は、「騙し討ち」で「棒引き状態」と成った。
当然に、「青木氏等の商人の前貸金の返済」は霧消に至った。

(注釈 ある「紀州藩に大きく関係した豪商」(伊勢小津)からの借財も同じ事に成った事が、江戸期に豪商と成った紀州藩所縁の「豪商の自家伝」に、この時の心情と経営の苦しさが綴られている。
それには、“元々紀州藩の御蔭を以って「商財」を成したが、「商い」が出来なく成るも「元の無一文の状態」に成るだけで何の変化はない”とした負け惜しみの文面である。
「青木氏」とは少し違うが、「伊勢青木氏」と同じ様に呆れてこの時の「覚悟」を示している。)

「維新政府の処置」では、「棒引き不当りの不満」が、「伊勢暴動の不満」と連動して「全国的な暴動」に発展しないかとの懸念が強く持っていて、取り敢えず「紀州藩の藩治制度の三政策」に反対をして2年間様子を観たのである。
然し、「二人の伊勢商人」等は上記の覚悟を示した事で「伊勢暴動」だけで終わった。
ところが、この「伊勢暴動」には「青木氏の歴史観」を遺すだけの大きな「意味」があった。

当に、何度も重複させるが、次ぎの二つの数式論の状態が「青木氏の破綻」を導いた。

「紀州藩前貸金」+「維新政府献納金」+「暴動支援金」>=「青木氏の宿命金」
“「献納金者」”+“「協力推進者」”>=“「暴動の立役者」”

この状況の中で、同時に、「紀州藩の藩治改革」が進められて、この「数式の状況」が示す様に「青木氏」には「金と者の強力な流れ」が起こっていたのである。
「伊勢青木氏(伊勢の紙問屋)」としては、紀州藩所縁の「豪商の自家伝」の行の「心情」に成り得ていたかは疑問である。
(理由があって口伝と資料では成っていない。)
「享保の改革」後の1780年以降の幕府の「商業組合の締め出し策」と、幕末の「第二次勘定方指導の貸付金不当」が在り、この“「心情」“とは違ったのである。

其れは、上記した「紀州藩所縁の豪商」の抱える「土台」が、「氏上と氏人の関係」などでは無く、単なる「商い上の貸付借財問題」だった。
然し、「青木氏」では比較に成らない程に「人、時、場所」の「三相の意味合い」の「享保の改革」も然り、「勘定方指導」も然り、「吉宗育ての親」も然り、これ等の「関り具合」が「ケタ違い」であった。
そうした中で、「青木氏の心魂」で対応した事は、“「心魂」”と云う意味では「伊勢暴動」も同じではあった。

所謂、最早、ギリギリの処の「心情」<「心魂」で乗り越えたと云う処であろう。

注釈として、何故ならば、「棒引き不当りの不満」は、「心情」<「心魂」と「上記の数式論」から観ても、その思いや不満は「伊勢暴動の経済的支援」にも繋がっていたのではないかと観ているが、「証拠書き」は見つからない。
何かの理由で消されている様である。
唯、「青木氏」としては「妥協の心魂」から、上記する「強かな紀州藩の行動」には止む無く容認して応じたものの、一方の「青木氏の心魂」では、騙された以上は「怒り心頭」で、これでは済まされなかった。

つまり、「伊勢暴動の経済的支援」は、「心情」だけでは済まされず「青木氏」も「強かな心魂」で応じた事を意味する。

重要な注釈
“「強かな心魂」で応じた事“の理由は次ぎの事にあって、「青木氏」は「妥協の心魂」では事を流石に穏便に済ます事が出来なかった。
それは紀州藩が採った次ぎの三策に在った。

そもそも、江戸時代の「独立性の藩政」は、「朝廷」から政権を奪い、朝廷の生活を、土塀が崩れても修復できないまでの困窮に追い込んだ事で、「西の政権の朝廷」と江戸幕府の関係は「犬猿の仲」であった。
従って、幕府がこの藩の「独立性の藩政」を「西の政権」が持つ「国体の認証業務」から意地でも認めなかった。
従って、本来は、250年野間に於いても「正規の制度上」のものでは無かったものである。

(「西の政権」と「江戸幕府」との「犬猿の仲」は、徳川氏が江戸に幕府を開くに当たって、幕府を開く条件の「征夷大将軍」と「武家の棟梁」の「格式授与」を要求した。
室町幕府は、「足利源氏」である事からこの「二つの格式授与」はすんなりと与えた。然し、徳川氏は姓族である事から、慣例上、征夷大将軍は何とか与えたが、「武家の棟梁」は頑として与えなかった。これでは徳川氏の政権は幕府としての格式権威が失墜する。そこで、何とか認めさせるために「天皇家の経済封鎖」をした。然し、認めなかった。そこで底をついた朝廷は「武家の長者」と云う典範には無い「新しい格式権威」を持ち出して授与した。
何とか幕府は開けたが、これ以後、「国家の認証業務」を行う「西の政権」として遺して「犬猿の仲」と成った。
この時、「青木氏」は裏で経済的に「献納金」で支えていたのである。)

従って、驚くべきか250年続いた「独立性の藩政」は、明治期に成って初めて「追認の形」で正式に認めたものである。
ところが、現実には、この江戸期250年間は「独立性した藩政」で行われたが、何とその政治元の御三家であった「紀州藩」だけは「非正規の政治自治体」を理由にした。
従って、江戸期250年間は、この「訳有の独立性藩政」であった事を理由に持ちだして、これを理由にして、「紀州藩」は、「維新政府の反対」を押し切ってでも、“制度上に無い藩”とする事を理由にしてた。

今に成って「追認」を受ける直前(1871年)に「藩政制」を先行して勝手に廃止した。
結局は、「追認」を受けてしまうと「大義」と成る「大きな理由づけ」にはならなくなる。
「紀州藩の独断」の「驚きの手品」であった。

どう云う事かと云うと、これは「ある目的」、つまり、「商人」から借りていた「上記の借財の解消」(藩の借財 徳川氏の借財から逃れる手段)の為に「借財を持つ藩」を廃止する“「口実」”に過ぎなかった。

“「本来は制度上は無かった」”と云う事を理由づけとして、“「追認の形で正式に認めた」”と云う理由づけとするのは、明らかに“「朝廷」が認めていなかった”として、だから“廃止するのだ”として「理由づけにした事」に過ぎない。
何をともあれ、これを「紀州藩」が唱えて実行したところに意味がある。
これで「廃止」できれば、天下に対して“「棒引き不当り」の「正統な理屈」”は生まれるからである。

この“「棒引き不当りの理屈」”が出来れば、先行して「廃藩置県」で済ませれば、紀州では「暴動無し」で済む戦略であったし、「維新後の徳川氏」は「氏の破綻」から逃れられて「借財」からも逃れられ安定する。

つまり、これで上記の通り「四つの奇策」と成った。

先ずは「藩主」を含む一切の俸禄を1/10にした。
その上で、更に「藩主」の「徳川氏の経理」を新たにして「藩」とは切り離した。
そして、完全に「藩政の経理」も新たにして分離した。

「二つの経理」を別にしたのには理由があった。
「幕府」は「藩」に対して「命令」を伝える時、「藩」に対してではなく、「藩主個人宛て」に出していた。

これは、「幕府」が「独立性の藩政」を朝廷から認められていなかった事を意識しての事であって、「領地」を統治する「藩」は、組織上は正式に存在しない事を意味していた。
これを開幕以来、「幕府の徳川氏」はこの事を知っていた事にも成る。

況して、上記する様に「開幕の条件」の一つが欠けていた事もあって、各藩には、“「何々藩の藩士・・・」である。“と云う呼称はしてはならないとする通達を発し慣習にさせた。
つまり、「何々氏・・之守の家来・・である」とさせている。

これも、本来は朝廷の国家体制の認証を得ていない事を知っての事であって「藩」そのものは無い事を意識しての事であった。
先ずこの上で、この上記の「三つの奇策」を実行した。
その上で、最後に「四つ目の奇策」の「不正規な藩」そのものを廃した。
以上の「四つの奇策」を講じたのである。

旧政のものは、最早、無い事に成る事から、「莫大な貸付(最低でも6万両)」は「理窟の通った理由の奇策」が成立して「不当り」に成った。

この事に付いて「紀州藩と紀州徳川氏」には最早、「誠意」は無かった。

(注釈 故に、本来であれば、「藩」の「臣」で”「藩臣」”と成る筈だが、藩主個人の「家」の「家来」であった事から「家臣」とは云う事に成っていた。
つまり、武士たちは皆、この「独立性の藩政」が「朝廷(「西の政権)」が認めた「正式な政治体制」では無い事のこの事をよく知っていた事に成る。)

(注釈 もう一つその理屈があった。
「青木氏の三つ発祥源」を継承した「武家貴族」の「賜姓源氏や桓武平氏」に与えた。
「徳川氏」は「姓族」である為にこの「資格継承」を有していない。
それは「開幕の資格」の「武家の棟梁」を、「征夷大将軍」だけは渋々認めたが、「朝廷」は頑として絶対に認めなかった。
朝廷は、徳川氏が「姓族」であり、且つ「武家の資格」も持たない事も含めて、伝統を護った。
然し、「朝廷の生活源」を押えられた事からその圧力に屈して、「武家の棟梁」では無く、「武家の長者」として代替した。
「征夷大将軍」は平安期には既に全国統一を果たしているので、既に「有名無実」であり「飾り」にしか過ぎない。
要は「武家の棟梁」である事が「開幕の根拠」である事に成る。
重要な事は、上記の様にこれを朝廷は認めなかったので、徳川幕府は「西の政権の認証」が無い事から、「正規の藩政制度」が取れなかったのである。
従って、そこで「朝廷の官位」で呼ぶ「何々氏・・之守の家来・・である」とさせていれば、例えば「松平伊豆守の家臣」であれば”「伊豆守」”とする「国の守護」の「家臣」で理屈は通る。
「66国の肩書」を朝廷より金品を渡して貰って正当な家臣と成れるようにした。
従って、江戸期には権威の無い金品で決まる為に何重にも重複する「・・守」が沢山出た。
中には、江戸中期以降は、「国主並み」でもないのに金品で「・・守」が生まれ乱立した。  
これが、 「金品有無のステイタス」にも成った。)


>以下 「伝統シリーズ 32」に続く



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