青木氏氏 研究室
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  [No.355] Re:「青木氏の伝統 36」−「青木氏の歴史観−9」 
     投稿者:福管理人   投稿日:2017/07/22(Sat) 16:17:28

> 「伝統シリーズ−35」の末尾

>さて、そこで、「同宗・同族・同門・同紋」の文言とは、要約すると次の様に定義されている。

>「同宗」とは、「大日如来」を神とする「密教浄土宗」であり、「祖先神」を「守護神」とする事。
>「同祖祭祀」(「神仏同源」)の補完策が取られた。

>「同族」とは、「皇族賜姓臣下族」の「志紀真人族」で「朝臣族」である事。
>「同世男系」の補完策が取られた。

>「同門」とは、敏達天皇の「春日真人族」の「第四世族」であり「同祖同縁」として「志紀真人族」を「青木氏とする族」である事。
>「女系策」の補完策が取られた。

>「同紋」とは、「氏族」の「象徴紋」を「笹竜胆紋」とし、「神木の青木」を「氏の象徴木」である事。

>「鞍作部止利作の賜物」の「大日如来坐像」をステイタスとする事。
>「嵯峨期の象徴と禁令策」の補完策が取られた。

>この様に「四掟」を補完して定義されている。
>これが「青木氏」を理解する上での重要な「青木氏の歴史観」なのである。
>この「歴史観」が無くして「世間に出ている歴史」を読むと大変な間違いを起こす。




「伝統シリーズ36」に続く

さて、「伊勢の青木氏」(信濃にも入る)に執っては跡目として「頼政の子(仲綱)」の子の「京綱」が平安末期に入るが、
この「頼政」に関しては「青木氏の歴史観」として多くの事が遺されている。
これを掘り起こして置く。

「頼政」は「摂津源氏の四家」の四代目である。
「平家台頭」に依って発祥から200年程度で「源氏族」は衰退した。
その中で何とか仲間を騙し、「平家」の中で生き残りをかけた。
この時、「青木氏」と関わったが、その関りが「跡目」であった。
原則として、前段でも論じた様に「四家制度の掟」に依って、跡目の「嗣子」は「四掟」で、他氏からの「跡目嗣子」は長い間禁じられていた。
「嗣子」と云うその「固い掟」が、その壁と成っていた。
然し、「四掟」からはその「固い掟」そのものを否定する事は「源氏族」には無かった。
ここが「青木氏」と違うところで緩やかであった。
唯、「慣習仕来り掟」の長い間の流れの中では、これが「難壁」と成っていた事であったが、「嵯峨期の詔勅」でこの流れが一変したのである。


当然に、「同祖同門の源氏族」から始めて、「跡目」を入れる事に成った「青木氏」としては「青天の霹靂の歴史的な事」ではあった。
然し、「新撰姓氏禄」に依って明確に定義された事で、「同祖同門」と成るのであるが、それ故に青木氏側には「四掟」に依る論理的には無理は無かった。
唯、「11家11流」あるどの「賜姓源氏族」でも良いという事では無かった。

(注釈 「源氏」と言いながらも「賜姓」を受けられなかった「真人族の源氏」が多く、各賜姓を出した天皇には必ず単なる源氏も居た。
殆どは、結局は、生活に困窮し比叡山か善光寺や地方の土豪の家に入った。
「11家11流」とは言えど、その資格を何とか持ち得ているのは実質は武力集団を構成した「清和源氏系」である。
「宇多源氏」でも搾取偏纂が多いし、源氏の中でも「嵯峨源氏」は「清和源氏」に融合された。)

そこで「四家」を構成する「摂津源氏四家の始祖」の三代に付いて関連事項を述べて置く。
先ずは、「三人の遙任」の受領、或は、守護地は次の通りである。

・「満仲の受領・守護地」
 摂津、越後、越前、伊予、陸奥、武蔵、下野、信濃

(二度の役の摂津を領国とする。「武家貴族」として「嵯峨源氏」(母系)を郎党とし「武士団」を形成する。全国域) 

・「頼光の受領・守護地」
 美濃、尾張、但馬、伊予、摂津、信濃、甲斐

(満仲の摂津国を護り引き継ぐ。但馬を受領する。「摂津四家」を形成する。中部域と関西域)

・「頼政の受領・守護地」
 摂津、美濃、伊豆、相模、下野、上総、下総

(摂津を引き継ぎ伊豆と相模国を受領する。関東域)

さて、そこで果たして、これを観て、同祖同門であるのなら「清和源氏の宗家の摂津源氏」には「神社仏閣の修理」は何所までを命じられたのかと云う疑問がある。

それは、出来たとしても上記の17国の「神社仏閣の修理」である。
この「関西域から中部域」にかけての「天領地」が存在する地域とされていて、それは「六国」であろう。

つまり、これに依って、「嵯峨期の詔勅」に依って、以後は、「青木氏」は、「皇親族」として、或いは「賜姓族」として賜姓を受ける事はなくなった事で、「青木氏の祖先神の神明社」の「神社仏閣の修理」を含む「新規建設」が一時的に留まったのかと云う事が判る。
又、その「内容」と「期間」に依っては「青木氏の歴史観」が判る。

その「期間」としては、「神明社の荒廃」が進んだ時期は、「嵯峨期」では未だ続けていた事が判っている事から、源氏の清和源氏が政治に関わって来て、上記の「青木氏の定住地」に入って来た920年−930年代頃から「青木氏」は「賜姓五役」として摩擦を避ける為に手を一時引いた事に成る。
当然に、「青木氏の祖先神の神明社」の「神社仏閣の修理」からは手を引いた事にも成る。

現実には、「守護」が「賜姓青木氏」に代わって「賜姓源氏」と成った以上は、「賜姓青木氏」は「旧守護の郷氏」である事に成り流れとしては手を引く事に成るだろう。
両者が共に片方(源氏)が守護をし、もう片方(青木氏)は「神社仏閣の修理」をすると云う事はあり得ないであろう。

そもそも、源氏立役者の「三人の受領・守護地」は「青木氏の定住地」でもあり、「天領地」のある処でもある。
「賜姓青木氏」から「賜姓源氏」に変わった事で、故に、「源氏」に対して正式に「朝命」としてこの「赴任地の受領・守護地」の「神社仏閣の修理」を命じられた事と同じ事に成ると考えられる。

然し、未だ、この時期には、領国として受領した「摂津の国」を除いて、この地域には「賜姓源氏族」は「守護神の八幡社」と「密教の菩提寺」を各地に作れるほどの「財政と技量の状況」にはなかった。

(注釈 但し、「武家貴族」から離れた「武勇の頼信」の「河内源氏」にも「八幡社」が存在していたとしているが、他の源氏族地域と同様に「鎌倉期の後付」ではないかとの見方が強い。)

故に、荒廃した自らの守護神の八幡社だけの修理に留めたと観られる。

結局は、「祖先神の神明社の修理」は、「頼政」が「志紀真人族の青木氏」に「京綱の跡目」を入れた時期までと云う事に成る。
少なくとも、この時期からは、”「青木氏の力」を借りる”と云う「手立て」が成り立ち、この事で「祖先神の神明社の修理」の大義は成立する事になり、再び、「青木氏の守護神」である限りは修理は始めたと考えられる。

従って、「祖先神の神明社の修理」は、「青木氏」に依って“「1150年頃以降」”に再び始まった事に成るだろう。
然し、「治承期」には、最早、平家が66国中32国を支配するに至り、その「平家台頭期」からその支配地域に関して以上には、「守護神」であるとは言え「賜姓青木氏」に依る「祖先神の神明社の建設と修理維持」等の事は到底勝手には出来なく成るは必定であるだろう。

従って、続く乱世が保元(1158)−平治(1159)−治承(1180)−寿永(1185)の乱とすると、詳しくは、上記の通り「1150年頃以降」に再び始まった事に成るだろうが、“1165年代頃”からは再び無理にでも出来なく成った事に成る。
つまり、再開後、15年間程度で、又、中断した事に成る。

結局は、時系列的に観ると、次ぎの様に成る。
「頼政(1104年生誕−1135年家督を引き継ぎ)」は、「1140年頃」に官位叙任して出世した。
そして、「賜姓平家の台頭」の中で「賜姓源氏族」として上手く泳ぎ、「1178年頃」までに最高位の「正三位」と成り、「受領・守護地」(「伊豆の受領」を特別に希望した記録)に「京の遙任」を敢えて止めて赴任した。

そして、この間に、「孫の京綱」の「青木氏跡目」も「青木氏の資料」から「1167年−1170年頃」(頼政53歳頃)に行われた事が「公的記録」や「青木氏の記録」でも判っている。
つまり、「平家の権勢」の中で「伊豆の守護地」を特別に臨んだ事に「頼政の戦略的意味」があり、「先々の事」(源氏四家再興)を考えて準備していた事に成る。

と云う事は、「青木氏」が“「皇親族」”から外れ、大きく変化した時期の「嵯峨期(在位824年−没年842年)」では、この「嵯峨期の20年間」は「同祖同縁」である事から何とか「賜姓五役」を務めた時期と成る。
然し、その後、「約108年間(950年頃 「秀郷流青木氏の補完策」まで)」は中止した事に成る。
ところがその後、再び一時は始まるが「220年間(1170年頃 )」で再び中止に成った。
この間の清和期の「1135年頃から1178年頃」まではより「安泰期」であった事には成るが、これも「13年間(頼政以仁王の乱 1180年)」で中止した。

「青木氏」に依る「祖先神の神明社の建設と修理維持」等の事は、結局、再び始まったのは「源氏の政権」が樹立した「鎌倉期」である。

そこで、「青木氏の歴史観」として問題がもう一つある。
それはこの鎌倉期の何時頃から始まったかは、「青木氏」の中に判断資料と成る欠片も何も見つからない。
何故なのかは解らない。この時期には資料消失の事故は無い。

「賜姓五役としての務め」として「青木氏」に依る「祖先神の神明社の建設と修理維持」等の事が出来る様に成ったのであるから、「幸い」である事に成る。
然し、どこかに何か「関連した内容の事」でもが書かれている筈なのに無いのである。

(注釈 この「青木氏に関わる歴史的な記録の務め」は、本来は「神明社の守護神」か「氏寺の密教菩提寺」が執事として勤める役目の「慣習仕来り掟」にあった。)

この「不思議な事」は、「青木氏の中」で“「書けなかった混乱」”が発生していた事以外には考え難い。
これは大きく「青木氏の歴史観」に関わる事ではあるが、“何なのか”である。

先にこの事に付いて是非検証してみる。

この「執事の記録」は先ず考えられる事は、「氏寺」よりも「神明社」であろう。

それは全国の「神社仏閣の建設と維持管理」は「氏寺」よりも「神明社」の方が格段に多い。
「神明社」は“「神明造り」”と云う奈良期からの「古式造り」である。
従って、この「各種技能」の「青木氏」に関わる多くの「技能種」は「青木氏部」の中で培われている。
他では、「皇祖神の伊勢神宮」に関わるもので、その「子神」としての「古式造り」を造り維持する事は他に出来ない“「特段の技能」”である。

そうすると、全国500社以上に上る「神明社」と「氏寺の菩提寺」と、その「分社」「分寺」を維持するには、夫々の「国の社寺」と、「伊勢か信濃」の本部にこの「特段の技能を持つ者」を抱えておかなければならない。
しかし、そんな「不合理な事」は幾ら「青木氏」でも無理であろう。

当然に、一か所に統括して、夫々の社寺から連絡を受けて「人物金を手配する事」に成る筈であろう。
つまりは、それが「青木氏部」と云われる「古来からの技能集団」である。つまり「青木氏部」である。

少なくとも歴史上の存在する記録として、「伊勢」に「青木氏部」が奈良期から歴史的に常駐されていた事は明白である事から、ここから「人物金の統括」をしていた事に成る。
当然に、これ等の「建設修理に伴う資材の調達と運送と警護」も担わなくてはならない事に成り、これ等の全体を効率よく手配する部署が必要に成る。
これらの「責任」を「青木氏の四家」が持ち、各四家が担当し手配していた筈であり、当然に「商い」の「伊勢屋の紙問屋」も関係する事にも成る。
又、直接に「青木氏部」が任されて責任を持っていたかの問題とも成る。

この問題は、この三者の一か所だけで全てを賄える能力を持ち得るのかと云う判断が出て来るが、到底、無理であろう。
総括責任の「指揮支配」は「青木氏」、「物品の手配」は「伊勢屋の紙問屋の総合商社」、「技能者の手配」などは「青木氏部」と云う事に成るのではないか。
当然に伊勢だけでは無理と成り、「信濃の力」、時には「甲斐の力」も求めたであろう。
これを「信濃」を含む「四家の者」が主と成って一体で担当していたのであろう。

(注釈 記録にもある様に「補完役の伊勢の秀郷流青木氏」も平安中期から合力をしたが、どのような「補完役」を演じていたかは、近江の秀郷流一門の記録の流れから考えると「運輸面の実質の警護」にあったとある。)

さて、次の問題は、この「記録」を誰が担っていたかに移る。

筆者は、当にこれには”「御師制度」”が絡んでいたと考えている。
「神明社の御師」には多くの「仕事種」があった。

中でも、記録で明らかに成っている様に、全国の「神明社」を経由して全国の「全ゆる情報」を集め、「福家」に提供する役目もあった。
これには、「諜報活動」もあり、「商いの情報」から「神明社の荒廃状況」等までも報告していた。
この事からすると、「青木氏の福家」には、「伊勢屋の紙問屋の長兵衛」と「青木氏部の差配頭」に対して「指揮支配」をしていた事に成る。
これを受けて「青木氏部の差配頭」(「隅切り目結紋の青木氏」)に「指揮支配」をし、それに必要とする「物と金」を「伊勢屋の紙問屋の長兵衛」に「手配依頼」していた事に成る。
後は、「差配頭」が「運搬と警護」を「伊勢シンジケート」等に手配する事に成るだろう。

恐らくは、これらは「享保の改革」に執った「江戸の伊勢屋」と「伊勢」との「連絡体制」(記録)からも解る様に、“「会議」”を開いたと観られる。
とすると、「疑問の記録」は、「青木氏部の差配頭」が執っていた事に成る。
従って、「伊勢」の「青木氏部の差配頭」に「記録消失」の何かがあった事に成る。

ところで、「松阪」は、「不入不倫の権」で護られていながらも「四度の災禍」に見舞われた。
「松阪火災が二度」、「信長災禍が一度」、「平安期末期と室町期初期の乱の災禍の二度」と成る。
後は、江戸初期に神明社は徳川幕府に引き渡すが財政難から全国的に荒廃する。

「伊勢」の「青木氏部の差配頭」には、少なくとも五度以上のこの「全ての大災禍」に直接的に影響を受けている。

そこで「伊勢」には、「青木氏」が関係した「神明社系の社」は「30社」あり、この内、「1社」は当に「青木社」、残りの「2社」は「青木氏」に関わる「同祖祭祀神」、残りの「27社」は「祖先神の神明社」である。
この「青木社」が「守護神の神明社」の中でも、「氏族全体」をより「神仏同源」として祭祀していた「社」であり、「伊勢松阪」は、「皇祖神」の「伊勢神宮のお膝元」として、「青木氏の色合いの強い神明社」を祭祀する事は困難であった。

そこで、「青木氏の記録」によれば、「四家の桑名殿」の地域に「神明社系の青木社」を設けたのである。

(注釈 「施基皇子の子」には、「春日王」「壱先濃王」「桑原王」「白壁王」「湯原王」「榎井王」が居て、桑原域は、「桑原王」の住地であった。)
 
「松阪の西」の「名張地域」にも、「松阪の北」の「員弁地域」と「四日市地域」にも、もう一つあった様で、この「四つの神明社」には同時に、「神道祭祀」でもあり、「菩提寺の氏寺」も備え、且つ、この「氏社と氏寺」は「護りの城郭」としての目的も持つ「平館」としての役目も果たしていた。
歴史上で本格的に「青木氏」に降りかかった「桑名と名張と上田」の「三つ戦い」の際には、「護りの館」としても働いた有名な「氏社」と「氏寺」でもある。

この様な「役目」としてもあった事からも「神明社」ではあったが、これを須らく「青木社」と呼ばれていた。
現在では、「桑名の青木社」と「名張の神明社」と「四日市の神明社」が寺社共に遺っている。

筆者は、従って、「青木氏の歴史」として遺すとすれば、この「桑名の青木社」に遺されていたと観ている。
然し、唯、「桑名」と共に「北の備え」として役目を果たしていたが、「桑名の左横」の「員弁の神明社」が「上田の戦い」で消えている事から考えると、此処に遺されていた事も考えられる。

つまりは、「青木氏部の差配頭」(隅切り目結紋)は此処に住んでいたとも考えられる。
従って、「記録」が消えたと考えている。

唯一つ、この事で考えておく必要があるのは、この「青木氏部の差配頭」の家紋から観ると、つまり、「隅切り目結紋」が関東域にも存在する事である。
と同時に、「神明社」の「柏紋の神職」の末裔も、「越前」を除くと「関東域(埼玉)」にも多く分布する事である。

本来は、「伊勢」に5年毎に帰る「仕来り」に成っていたのである。
全国に移動しながら「社の修復」に関わっていたので「青木氏部の差配頭の子孫」は、この「桑名市多度町付近域には絶えなかったのである。
鎌倉期から室町期を経ての「戦乱」を経て「目結紋の青木氏」が関東域に残るはただ事ではない。
「柏紋の青木氏」と共に残しえるだけの事があったという事であろう。

(注釈 故に「神仏同源」であったこの”「青木社」”としてはここに残せたのであり、、これが「桑名市多度町小山」にあり、現在は本体は平地小山の上に「祠の様な構え」で祀られていて、過去は大きな鳥居(現存)を持つ社であったが、現在はこの「大鳥居」は周囲に威容を放つ様に目立って遺跡を遺している。
この「多くの神明社」は中部域から北勢域に存在する中の功績なのである。)

「伊勢」には、この様な「祠」の様なものも含めて「970の神社」があると云われているが、これでも最も「社関係」が少ない地域でもある。
全国は元より「伊勢の神明社系の30社」は、多くはこの様な「祠の状況」に成っている。
その原因は、江戸初期に「青木氏」から徳川幕府に移管した事で財政難から著しく荒廃した事とし、又、合わせて「密教」を廃止し「顕教令」を発して急激に移した事で「支える信徒」が少なくなった事と、「他宗の勢い」にも影響している事にも依る。

全国の神明社の多くは、この様に成っているが、この「伊勢桑名市多度」の「青木社」に関してだけは、「青木氏の口伝」で、この「桑名一社」だけは江戸期以降も”「青木社」”としての呼称で維持したとある。
その後、第二次大戦にて大鳥居だけを残し消失し、昭和21年5月に「多度の小山に屋根付きの祠」を再び建設し登録した事が判っている。
”「青木社」”のここを何としても残そうとしたのは「目結紋の青木氏」と共に「柏紋の青木氏」と「「桑名殿」が地域に居た事の所以でもある。

(注釈 唯、「頼朝」は「1197年」頃から特に「地方政治」に「力」を入れ、「武家体制」と「幕府体制」(格式と権威の確立)を強化した。
この時、長い間の乱に依って「神社仏閣」が「戦いの根拠地」と成っていた事から荒廃し、これを立て直す政策と、全国に「平家の残党」が多く残る治安状況の中で実施する為に、ここを、つまり、「神社仏閣」を拠点として「守護や地頭」等の配置を実施した。
この為には、「拠点」は元より,乱に依って疲弊していた「人々の安寧の場」としても重要な「神社仏閣の社会整備」が急務と成っていた。

(注釈 取り分け「頼朝」は、この初期は「北条氏等の反対」を押し切って「頼朝が思う政治体制」を強引に敷いた。
公的に成っている記録として、「格式と権威」を樹立する為に、「神社仏閣」などに深く帰依し保護して推進した。
取り分け「皇祖神の「伊勢神宮の保護」と、その子神の「祖先神の神明社の保護」には目立つほどに「政治力」を注いだ事が判っている。)

その為にも、「志紀真人族」で「武家貴族」の「青木氏の賜姓五役の力」を利用して、「伊勢」は元より「天領地」と成っている「五地域の整備」(「青木氏の定住地と組織力」、「青木氏の権威」、「青木氏の財力」、「青木氏部」を利用)に力を注いだ。
その事に依って、「朝廷の力」(権威)をも利用した。
つまり、「皇祖神の伊勢神宮」に代わって各地に多くの信徒を抱える「祖先神の神明社の力」を利用した事に依る。

それ故に、「祖先神の青木社」を含む「神明社」を守る「目結紋の差配頭一党」は、正倉院にも残されている程に「関東」に於いても鎌倉期から室町期まではその子孫は関東に於いて絶える事無く保護された所以でもある。

これには、鎌倉幕府と室町幕府はどうしても「賜姓臣下族の青木氏の五家五流」と、それを補完する「秀郷流青木氏116氏」の「力」を利用する必要があった。
それには、彼らを「引き付ける権利」を与える事であった。
これが、「北条氏等の反対」を押し切って実行した頼朝の“「本領安堵策」”であった。
過去には「青木氏」と敵対した「足利氏」も「本領安堵策」を採った。

(注釈 「伊勢の天領地保護」には力を注いだ。)

(注釈 「坂東八平氏の傍系」の「北条氏」等に執っては、この「格式と権威」は「利害の反する事」であり、記録に遺る程に「強い反発」を受けた。
取り分け、「義経」は「清盛の影響」を強く受けていて「頼朝」以上にこの「官僚的な考え方」が強かった。
「二つの青木氏」は、「二つの青木氏の氏是」に依って関わらなかったが、これが生き残りの要因の一つに成った。
仮に、「同祖同門の第七世族の末裔」の「坂東八平氏」に関わっていれば「同門の戦い」に成りどうなっていたかは判らない。
身の危険を感じながらも反対を押し切ってでも行った「頼朝の本領安堵策」が「同祖同門」を引き付けたのである。)

恐らくは、「南北朝の足利氏」や「室町末期の織田信雄」や「長嶋や根来や松阪の秀吉」との「闘い」の様な「シンジケート」を使った「影の戦い」と同じ戦いに成っていた事が充分に予想できるが、大きくは手を出さなかった。

取り分け、「伊勢の天領地保護」には力を注いだが、「以仁王の乱」で「鎌倉幕府樹立」のきっかけを作った「頼政の孫」の「京綱の青木氏」が「政治的中立」を保った事から、「北条氏の反対」を押し切ってでも「本領安堵策」を実施し、その為か「青木氏」の奈良期からの旧来の「平家に奪われた土地」までも本領安堵(中勢域から南勢域)された。

(注釈 平末期から「紙を使用する文化」が徐々に進み、鎌倉期には、最早、「紙」は通常の物と成り、室町期には世の中が乱で荒廃する中でも、「紙」は専用の用語として“「紙文化」”とも呼ばれる程に逆に花開いた。 
「二つの青木氏」は、この「紙の文化」の進歩と並行して「氏族」を拡大させ強化させ、「巨万の富」を獲得した。
これには{南勢や南紀(秀郷流24地域と信濃域も含む)}までの「旧来の本領安堵」が大きく効果を発揮させ、進む「紙文化」の「紙生産の殖産地」に成った
この様に”「青木社」”が物語る様に、「鎌倉期と室町期」は「本領安堵策」で力を蓄え、そして「江戸期」にはこの「抜群の力」で生き抜いたと云える。

この「青木氏の歴史観」を物語るには、「柏紋の青木氏」と共に「目結紋の青木氏の存在」が欠かせないのである。

(注釈 「皇族賜姓臣下族の青木氏」は「五家五流」の「五地域」、「賜姓臣下族の秀郷流青木氏」は「116氏」の「24地域」、合わせて「121氏−29地域」である。
この内、強大な勢力を拡大させたのは、合わせて「15地域」で、この内、「秀郷流青木氏」は「10地域」と、「五家五流」の内の「三地域」が「政治、経済、軍事」の「青木氏の基本勢力」を拡大させた。
この「15地域」は、「二足の草鞋策」で「巨万の財力」を共に協調して獲得した。
これには、「秀郷一門361氏」の「主要16氏」の内、「青木氏族」と呼ばれる「主要8氏」が勢力を拡大させた。秀郷流青木氏は116氏−に支流分布)

この事から、再び、「青木氏」に依る「祖先神の神明社の修理」は始まったと観られる。

然し、上記の事や注釈にある様に、「歴史の政治的経緯」の中には確定的な物が観られない。
何故、この事に関わる記録資料が見つからないのかは、この「歴史的変化」からは判らない。
だとすると、「青木氏の中」にある事に成るのだが、無いのである。

全国の「祖先神の神明社の修理」は「皇祖神の子神」として認められて進んだ。
ところが、この頃(1000年頃)からの「青木氏に関わる資料関係」は多く成っていて、「室町期初期」(1334年)に成って「下剋上と戦乱」の影響を受けて、この資料からも「神明社」は一時荒廃が始まった事が書かれている。
ところが、「「鎌倉文化」とそれに続く「室町文化」の“「紙文化」“と云われる文化が興り、「青木氏」は本領安堵された事も伴って「巨万の富」を獲得するが、何故か不思議に「祖先神の神明社の修理」に関する「歴史的な経緯」を示す記録資料は見つからない。
「巨万の富」を獲得し、「青木氏に関する記録資料」が多く成ったのであれば、「祖先神の神明社の修理」に関する「歴史的な経緯」を示す記録資料が出て来てもおかしくはない。

つまりは、「修理するに必要とする財力」は充分に獲得している筈なのに、無いのである。

これは次の事が考えられる。
先ず、「三つの事」が考えられる。
「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」には「修理」は及ばなかった事を意味するか(1)
「青木氏」が「修理」はしたが何かの「記録を遺すシステム」に障害が起こったか(2)
遺したが一度に消える何かが起こったかであろう(3)

「前者二つの原因」(1)(2)は戦乱であった事もあり、全て考えられる状況であった事は頷けるが、(2)は少しは遺るであろうし、一度に全てが消えるのか(3)では疑問である。

上記した様に、記録に関しては一度に全てが消える事からすると、(3)だけが原因していたのだが、「青木氏部の差配頭」の「隅切り目結紋」の一門が預かる「神明社」の「主社の青木社の焼失」が原因である事が頷ける。

注釈として、さてこれを裏付けるかの様に、この「桑名地域一帯」には「桑名殿の青木氏」と共に、この「職能家紋の青木氏」が符号一致した様に実に多いのである。
「松阪」には、後で建設された「伊勢神宮」に関する「新しい社」が多く、この「古い祖先神の神明社」は無かった事が伝えられていて、現在も60社ほどの社が祭祀されている。
然し、「神明社の祭神」としては無く、且つ、「皇祖神の子神」であるにも関わらず無い。

これには原因があって、これは次の”「古来の慣習」”に依るもので、「神宮遷宮」に於いて中国地方から各地を遷宮して、最後は、紀州で「遷宮」は落ち着きを示しすが、最終は「伊勢松阪」に落ち着いた。
然し、そもそも、各地の「遷宮地」には、この「遷宮の仕来り」に依り「子神の神明社」は祭祀されていない事に成っている。

そこで因みに、「伊勢の神明社の分布」を見本にすると次ぎの様に成っている。
先ず「青木氏の定住地」に多く分布する。

「青木氏の口伝」によると、「南勢の旧領地」には、平安期より「1社」あったが、歴史の中で「南勢」は「熊野神社の聖域」であった事から消失して無く成ったとの事である。
一時、この「南勢の遠祖地」は平家と熊野の圏域に置かれ、その事で削除されたらしいとの事であった。
これは現実に云える事で恐らくは”「事実」”ではあるだろう。

そこで「正式な神明社」としての分布は次の通りである。

桑名 13(15) 員弁 3 四日市 4

三重郡 3 鈴鹿市 2 亀山 1

名張 1 志摩 1

津 0 松阪 0 名張伊賀 0

他の8地域 0

これを観ると、「青木氏の聖域」、或は、「神明社の聖域」の範囲が良く判る。

明らかに”「北域」”に集中しているし、当時の聖域図が読み取れる。
併せて、この分布でも、「南勢の旧領地」の事は「平家熊野の説」は納得できる。

「伊勢」を除く「他の四家四流の聖域」も、この「神明社の分布」で観る事が出来る。
この事はある程度の研究資料があるので何時か論じてみたい。

この分布をみると、”「北域」”に「勢力圏」を持ち、その「勢力圏」は「西と東」に分割している。

上記した神明社の中でのこの“「青木社の存在」”はこれを物語るもので、此処に記録資料が保管されていた事の証拠にも成る。

記録に依れば、「松阪」の西域の「名張」にも、江戸期以降にも「青木氏」が管理維持する「独自の神明社」が秘密裏にあった事が記されている。

これは「江戸期」という環境の中では重要な事である。
神明社返還後、勝手に「独自の氏社」を持つことを禁じられている中での「青木社」である。

この「青木社」は「完全な神仏同源」であった事が書かれていて、恐らくは、その事は「室町期末期の青木氏」が実戦した2つの内の一つの”「伊賀の戦い」”(他は北部の「上田の戦い」)で活躍した「清蓮寺城と清蓮寺」がそれに当たる事が判る。
これが「青木社の条件」を備えていたのである。

つまり、「松阪の代わり」にして、「城郭的意味合い」を持たせ「福家」がここを「全体の指揮の拠点」にしていた事が考えられる。

念のために注釈として、「家紋分析」でも「青木社の存在」と、その「目結紋の青木氏」には、要するに「青木氏」には「家紋」と云うものはそもそも無く、「志紀真人族」であった為に「賜紋」としての「笹竜胆紋」を「象徴紋」としている。
但し、朝廷の「賜姓五役」を務める事から、その朝廷が定めた職能に関する文様が次の三つあった。

一つは、「神木の柏」の「三つ柏文様」
二つは、「職能の印」の「目結文様」
三つは、「賜姓源氏」から「青木氏」を名乗った時に使用する「丸付き紋様」(限定)

以上が「青木氏」に認められている。

「神職の青木氏」の「三つ柏紋」、「青木氏部の青木氏」の「隅切り目結紋」、「摂津源氏」が九州大口村で「青木氏」を名乗った「丸付き笹竜胆紋」

以上の「三つの文様」がある。

「佐々木氏の研究資料」にもこのことが書かれている。

後に、室町期頃からこれ等は家紋的に用いられ現存する。

「柏紋」と「目結紋」(桑名多度域)は、朝廷記録や正倉院などの記録にも遺る由緒ある「古来の文様」である。

そもそも、「賜姓五役」を務める為に「部組織」を持つ「青木氏」にだけ使用を認められた格式のある文様である。

これ等の分布は、「柏紋」は伊勢では「名張地域」を中心として「北東の紀州域」までと、桑名、員弁域に多く分布する。

この事から、「桑名の多度小山の目結紋」の平館があって、「名張の清蓮寺城」では「柏紋の神職の本拠地」としていた事に成る。

故に、「神明社」が「神仏同源」とする事からも、「柏紋の青木氏の住職」が多く存在する所以とも成る。

つまり、此処を拠点として、「神職と住職」を養成していたと観られる。

故に、「神明社」が存在する全国の地域には、「目結紋の青木氏」と共に、この「柏紋の青木氏」の末裔が存在する所以と成る。

次に、「目結紋の青木氏」は、「桑名地域」と「員弁地域」を拠点としていた事から集中的に分布する所以でもある。

この文様も「全国神明社の分布」に従っている。

これで上記の「記録の保存の疑問」これでは解ける。


さて、「疑問の記録保存」から話しを戻す。

「青木氏の歴史観」をより深めると、平安期のこれは(1)、つまり、「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」には「修理」は及ばなかった事を意味するか(1)
で、「皇親族」を外し、その「賜姓五役の役務」を外し、それに代わる「源氏族」に任せようとした。
然し、結局はこの策は出来なかった事に成り、あらゆる「社殿修理」は“「放置状態」と成った事”を意味する。

取り分け、「皇祖神の子神」である事から「建設、修理、維持、布教」は「朝廷の勢力」を補完する事にも成り、牽制されて「神明社」は荒廃した。
結局は、平安期から江戸期末期までの期間で上記と多様な経緯から「青木氏」が「修理保全に携われなかった期間」は、この意味でも「神明社」は荒廃したのである。

更に取り分けで、「江戸期全期」は「青木氏」より幕府管理下に引き引き渡した事から「神明社荒廃」は「密教の事」もあって「荒廃」は酷かった。

”「桑名の青木社」”や”「名張の清蓮寺城」(青木社格)”はその意味で「青木氏の歴史観」を大きく物語っているのである。

(注釈 上記の務めである(1)である以上は、「神明社の荒廃」は「青木氏」は意地でも見逃すことは出来なかった。
何らかの形で残す工夫が必要であった。
それが「青木社」か「青木社的神明社」であった。
「青木氏の定住地」の「主要地15地域」には、この「青木社格の神明社」が観られる。
この内の「四地域」、つまり、 「伊勢」、「信濃」、「伊豆」、「越前」は、「青木社」である。)

さて、そこで「桑名や清蓮寺」のみならず、これは、言わずもがな他の「青木氏の定住地」でも全く同じ事が起こっていた。

「秀郷流青木氏の主要地」でも、この事は例外では無く、有名な例として、古来から存在する”「武蔵の四つの神明社」”はその意味で「柏紋の神職の定住」と、「柏紋の住職の定住」と、「目結紋の青木氏の定住」はその歴史を具に物語っている。
つまり、江戸期の中で表向きは「神明社」であっても、「神明社」と云うよりは関りは明らかに「青木社」である。
それは「甲斐青木氏」を出自に持つ「柳沢吉保」がこれに積極的に関わったからでもある。
当然に、「柏紋の青木氏」と「目結紋の青木氏」の二つも「現地孫」を残しながらも関わっているのである。

明らかに「江戸期の青木社」である。

見本として論じた「伊勢域」から遠く管理の行き届かなかった「関東域」には、「青木氏部」をこの「武蔵の地」に定住させて、ここから奈良期からの悠久の歴史を持つ「古来の神明社」(江戸期の青木社)を何とか遺そうとしたのである。
流石、お膝元の「武蔵の神明社」を態勢は整えたとしても「青木社」とは出来なかった。

これを始めたのは、「神明社」は当然として「主要な神明社」に対しては「青木社的な条件」を整え始めたのは、急の事ではなく、そもそも、「1000年前後頃」であった事が判っている。

丁度、「秀郷流青木氏」が「補完役」として働き始め力を保有した時期に相当する。
つまり、「補完力、財力」は「基本力」として勿論の事として、「過去の荒廃」に対する備えとして以後この様な事が無い様に既に「青木社的要素」を高めたのではないかと考えられる。
その対応が、大半は荒廃するが、全てを失う事なく「江戸期」で生きたという事ではないかと考えられる。
その意味で「甲斐青木氏の出自」を持つ「柳沢吉保の先見と行動」を高く買うところでもある。

(注釈 現実に「源氏のエピソード」のこの事の「摂津源氏の史実」がある。
そもそも、「賜姓源氏」は「八幡社」、「藤原秀郷一門」は「春日社」である。
それには、「皇親族の青木氏の商の財力」と奈良期の古来から保有する「青木氏部の技術力」には「源氏力」は到底及ぶ能力が元から無かった事を意味した。)

(注釈 確かに「賜姓源氏族」は、”「武家貴族」”ではあるが、”「家を構成する氏族」”としても矛盾する持ってはならない「武力集団」でもあった。
ところが「賜姓五役の氏」としての「務めの手段」は、現実に「氏族」として元から無かったし、待たなかった。
これは当時の「朝臣族の慣習仕来り掟」としては明らかに矛盾であり、故に「源氏部」も無い。
従って、「氏の守護神」とする「八幡社」を建設する場合は、「青木氏部」などの「技能集団の部」を持つ氏に発注し、故に「莫大な財源」が必要であった。)

(注釈 結局、この様な「賜姓清和源氏」は、その存続のためには、「嵯峨期の詔勅」の事もあり、先ず摂津に居た「清和源氏宗家」が、生き延びる為に近江で土豪化した「嵯峨族の末裔」や「山賊などの不祥の武力団」を集め、「武家貴族の名誉」をかなぐり捨てて、「武力集団」を形成して生き延びようとした。
この事に、朝廷内から顰蹙(ひんしゅく)をかって蟄居してしまう羽目に陥る。)

(注釈 従って、「朝臣族の慣習仕来り掟」の中では「平安期」の”「家」の持つ意味”が異なっていった。
現在の「家」と異なる所以でもある。
「朝臣族の慣習仕来り掟」を頑なに守っている「天皇」に仕える「斎蔵を司る公の家」に対して、「侍を司る武の家」の”「家」”の事である。
これは「朝臣族の慣習仕来り掟」を順守しての”「家」”なのである。)

取り分け、つまり、「源氏全体」にも朝廷の勤めに応じるこの事に関わる「青木氏部の能力」と「同じ組織力」として持ち得ていなかったのである。
依って、余計に朝廷内の公家からは顰蹙は増幅した。
と云う事は、嵯峨期の詔勅に依って「青木氏」に代わって「源氏族」が行うべき「賜姓五役」であると朝廷の中で「公家族」から見られていた。
この史実から、この間の「青木氏」は、政治的情勢に合わせて「都の関西域」の「祖先神の神明社の修理業務」を一時止めていた事に当然に成る。

これは、「11家の賜姓の源氏族」の「主家」は、その「格式」を何とか護る為にせめて「朝臣族」として”「遙任」”を選び「都」に留まる事を選んだからでもあろう。
責めて”「遥任」”でなければ、持ってはならない「武力集団」を持っている中で、到底に当時は「武家貴族」とは完全に認められていなかった筈である。
世間の目は揶揄的であって、そこで、この「源氏族」では何とか「武家貴族」であろうとはしたが、「源氏族内」には「武力集団」を主張する派(A)と、「四家制度」を採用して「武家貴族」を守ろうとした派(B)とに分かれた。

取り分け、(B)の摂津源氏の四家の中でも、「頼政派」はより「武家貴族」を守ろうとして「公家の味方」を取り込んだ。
それだけに「信頼」は厚く後の「平家」の中で生き延びられたのである。
ただ頼信系の「河内源氏」は、徹底して(A)派であった。

そこで、「頼政」は、領国を護る為にも「武力集団」の代わりに、「伊勢と信濃の同祖同門の一族」を味方に付け、その彼らが持つ「影の力とその財力と権威」で護衛団に仕立て上げた。
それが「伊豆領国」の「伊勢信濃の完全融合青木氏」である。
「頼政」は後にこの為に「遥任」を拒否し伊豆に入った。
(これは戦略上に大きな意味を持つ。)
従って、(B)派の「源氏頼政」を長く述べたが、「伊豆」のここの「祖先神の神明社」は、「笹竜胆紋」の「完全な青木社」なのである。
「従三位の頼政」は「伊勢と信濃」と、そして「伊豆」に「青木氏と源氏族」の同宗同門の(B)派を構築したのである。

(注釈 「越前」は別の意味で(B)派の影響を持ち、後に、つまり、「青木社」が構築された。後勘からすると「1000年頃から始まって1150年の頼政の影響」を受けて「青木社の条件」の一つに成り得た。戦略上平家台頭と専横の中である。)


「頼政」から話を戻して、少し前の時代に、最早、この中では「賜姓五役」は無いと観て、“この侭では政治的に拙い“とした「円融天皇」が、「将門の乱の功績」から「俵玄太の藤原秀郷」に直接に特例を以て「嵯峨期の詔勅」を使って「青木氏」を名乗る事を許した。
そして、永続的に「秀郷一族宗家の第三子」に「青木氏の補完役」を命じたと云う事に成ったのである。
「摂関家の藤原氏」は、この事について「猛反発」をしたとある。

当然に、これは「青木氏」に換えた「賜姓源氏族」に委ねようとしたが、矢張り、上記の通りの矛盾を抱えたままでは無理であったからである。
そこで、この事に依って「賜姓臣下族」の「青木氏の賜姓五役の役務」(970年頃)も元に戻したと云う事に成る。

従って、「頼政の事」も含めて「青木社的要素」を拡大させながら、少なくともこの間から鎌倉期までは「神明社の役務」を抱えた侭で続けていた筈であった。


そこで、この(1)を更に掘り下げるとして、この様に、何百社(約500社)と云う「神明社」を全て建立から修理、維持、管理、神職、配置等の一切を「取り仕切る」と云う様な事を「身内の青木氏」から外せばどのような事に成るかは馬鹿でも判っていた。
そもそも、「皇親政治」が廃止されたにも関わらず、「賜姓五役」は廃止されたのではなく、その侭の「継続の義務」(嵯峨期)が暫くは課せられていた事に成る。
これは「政治の矛盾」であろう。
「政治の矛盾」と云うよりは、”「出自元」”であるという事を考えすぎた「嵯峨天皇の計算間違い」であろう。

確かに、「施基皇子」が行った様な「政務までの義務」(「紙屋院」と「絵処院預」以外の政務は継続)は消えた事ではあった。

その証拠の一つに、「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」の「建立と維持と管理」は、混乱期の室町期の「下剋上期」からを除き「江戸初期」まで断続的ではあるが継続されていた。

「平安期の混乱期」でありながらもそれを支えたのが、所謂、円融期以降は、「補完役の秀郷流青木氏の役処」もあったが、再び以前と同じくして「朝廷の紙屋院」と「絵処院の政務」を担当した。
且つ、これに合わせて日本初の「和紙の開発」から始まった「殖産と興業」を兼ねた「二足の草鞋策の採用」(財政的な安定)があったからだ。

つまり、恐らくは、「嵯峨天皇」は、「監察使の制度」と「皇親制度」を廃止はしたが、「参議の制度」を一部に遺した。
この事から、政務上は急速に換える事はしなかった事に成る。

(注釈 だからと云って「賜姓源氏族」にこの「参議の役務」を与えたかと云うと詔勅でも与えていない。)

もし、本当にするとすれば、出自元の「真人族」からの「青木氏」への「皇子の移籍の制度」も無くしていた筈であり、「国政」で最も大事な「国民の安寧」を願い救う的とも成る「神明社の建立」等は「青木氏」に任せなかった筈であり止めていた筈である。

「天皇」としては、「神明社」に関しては、「天皇本来の務め」として疎かには出来ない事であり、自らの「天皇としての立場」を否定する事にも成り、「出自元の青木氏」に顔向けはできず疎まれる筈である。
いくら「天皇」としてもこれは「出自」が同じである以上は辛く出来ない事であろう。
書物を見ると性格的にはそんな事をする「嵯峨天皇」では無かった。

(注釈 ところが「出自元の青木氏」は、財政上は問題ないのに「賜姓五役」の内の「神明社関係」を恣意的に緩めたのである。
矢張り、これは戦略上は牽制した事に成るが、これが単なる「賜姓五役」のみならず「青木社的要素」を強め始める「一つの要因」とも成ったと考えられる。)

当然に、そもそも「賜姓五役と神明社」は、「一対の務め」である以上は、「出自元の事」である以上は「神明社の体制」を保全する立場であれば、「監察使の役務」として重要な「賜姓五役」も解消しなかった事に成る。

従って、「志紀真人族の青木氏」を外し全てを「政治的矛盾」のある「賜姓源氏」とするは、政策上、これと共にこれは一種大きな矛盾する政策の処でもある。

恐らくは、この時、「嵯峨天皇」は、「賜姓源氏」が「青木氏の務め」の少なくとも身内であるのだから”「社の保全」くらいはするであろう”と安易に考えていた事にも成る。

(注釈 未だ、この時は「八幡社」はなかった。)

(注釈 「青木氏」は、平たく言えば「源氏族への当て付け」、つまり 「牽制策」、”やれるものならやってみろ”ではなかったかと考えられる。)

これを”「嵯峨期の詔勅」”の文章から読み取ると、「天皇」は、“朝廷の現在の「財政状況」からお前たちを賄いきれないから、はっきり言えば賜姓する代わりに自分で何とかせよ”と云っている事に成る。
この「文章の裏」には、この「賜姓と云う意味」には、今まで”「青木氏が遣っていた事位の事」”が読み込まれていた事に成る。
現実にその様な意味合いを含む「文章」に成っている。

又、そもそも当時は、“「皇族の者」(第四世内二世族の第六位皇子の真人族)が「賜姓を受けるという名誉」”とはそのような意味を持っていた事にも成る。
唯、「単純な名誉」の為のものでは無かった事に成る。

ところが、注釈として、「監察議」や「参議」とは、そもそも「令外官」であり、「勅旨」などの「正式な任命書」などは無く、「従四位下」以上の「永代位階」を持つ「臣」の中から、「才ある者」を「天皇」が選び、「執政の太政官」と会して全ゆる面で「朝政の意に導く役務」(皇親族)であった。

然し、この事に付いてどこまでとする等の「令」に基づく「正式な定書」は組織の慣例上は無かった。

そもそも、判り易く云うと、“「天皇の意志」”を反映させる今でいう“「実行型秘書」”である。

「政治と軍事と経済」の「三権」を以って「天皇の意向」を「反映させる制度」(当に「天皇の近衛」である以上は)である。

そもそも、上記の意味では、「臨時的に認証される参議の臣」では無く、「青木氏」は、元々が「天皇を護衛する直接役務」(監察役)を負った「浄大一位の格式」を持つ要するに「永代参議」であった。

(注釈 賜姓する源氏には、この務は詔勅に書かれていない。”自分で生きよ”で何もないのある。)

つまり、「天智天武の天皇」が云う“「護衛の臣・近衛の臣」”とは、何も“「侍て天皇の身を護る」“だけではなく、「侍(候)」は“「天皇の意向」を「反映させる」”の事の意味と成り得る。
これが“、後に「北面武士」と呼ばれた制度と成ったが、「隣の部屋」に昼夜居て「天皇」に「侍う」の意味”であって、いつ、何時、「天皇の命」が下るか分らず待ち受ける事を以て「さぶろう」なのである。
ただ単に、「北面武士」の様に”身辺を警護するだけの意味”では無かった。

(注釈 「北面武士の制度」が、藤原氏が排斥されてその反発する「藤原氏の危険」から逃れるために採った「上皇を護る制度」だけに成って短命に終わる。)

現実には、記録で見ると「政治的な動き」に対して即応して「勅命」は就眠中の時にも下る事もあった。
平安後期(1100年頃)にはその目的が相当変わり、「一部の行為」として上記の“「北面武士」”と呼称された所以とも成ったものである。

(注釈 初期の”「侍」”は、平安後期の後には「歴史書物」では”「候」”と記する様に成っている。
つまり、この頃には、この”「侍」”と”「候」”は「同じ意味」成していた事に成る。
「門跡院」に居る「上皇を護る臣」から「侍の語源」とする説もあるが、この説の根拠ではないかと考えられる。)

そもそも、大化期に始まった「宮廷の警護・近衛」などを行う「近衛の役」が平安中期頃からその「役処」が形骸化し変化して行って、遂には「上皇の院政」が始まり、「反対派の勢力」が「上皇」に及ぶ事と成り、実質、身辺の「門跡院を警護する役目」を果たす様に成った。

従って、この頃には、当初の「参議等の役目」は、最早、既に消えていた。
つまり、「青木氏」だけが永代に持ち得ている弱くなった「役務処」と成っていた。

前段の初期で論じた「天智天武期の施基皇子」に観られる様に、「追尊の天皇」とされる程の「永代参議役」でもある。
従って、上記の注釈の様に、「周囲の環境習慣」が変化しても「青木氏」の「監察議」や「参議」の「役務の変更」は無かったのであり、「矛盾のない所以」と成る。
これは一時の「時代の変化」で「役務処の変化」が起こったが、「青木氏」に執ってはこの「一時の中味」が「重要な歴史観」である。

それが、「賜姓五役の神明社」等を通じて起こり、「青木氏」は「青木社的要素」を次第に強めた。

そもそも、”強めた”と云うよりは、「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」であって、且つ、「青木氏の自身の守護神」でもあるが、その「守護神性を強めた」という事になるだろう。

「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」<「青木氏の自身の守護神」=「青木氏の事情」(青木社的要素)

この「青木氏の事情」には、上記の事もあったが、ここを「拠点」として「二足の草鞋策」が進んだ事にも依る要因でもある。

例えば、そもそも、「守護神」とは、「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」の「神職の青木氏」、「密教浄土宗の独自の菩提寺」を持ち、「柏族の青木氏の神職と住職(達親)」と、それに伴う「永代身分格式」を持つと云う風に変わる事のない「氏の仕来り」は定まっていなければならない。

そこで、「皇族賜姓族」は、「臣下族」として「最上位の氏」として認められていたのであって、奈良期から最初に出来た“「朝廷の斎蔵」”に仕える“「公家」”に対して、「天智天皇」は「大化改新」の「政治改革」に依って、新たに“「天皇の警護役(親衛隊の臣下族)」”として仕えさせる“「武家」(氏の家)”としてこれを公認したのである。

それが「青木氏」や「佐々木氏」の「武家」(臣下族・朝臣族・参議役)であって、「天皇家」と強く結ばれた「公家族の藤原氏」(斎蔵・公家)等であった。
本来の「武家」は、要するに「臣下族と朝臣族」は当然の事として、「参議役」が備わっていなければならないのである。

これが、念のために「家人の定義」としては、「天皇の警護役(親衛隊の臣下族)」として仕える“「武家」(「氏の家・賜姓五役の格式」)”としての「公認族」の「下支族」を、”「武家」の「人」”である事からこれを“「家人」”と呼んだ所以なのである
江戸期に呼ばれた「家人」と異なり、平安期の「家人」の語源は根本的な違いはここにある。
この「家人」については、「青木氏の歴史観」として是非に知っておく必要がある。

この「武家族」は、「天皇の警護役(親衛隊の臣下族=賜姓五役)」である事から、「侍(さぶろう=さむらい)」と呼んだが、「武家の家人」はこの当に「侍(さぶろう)」であって、その「武人(たける)」として扱われ、あくまでも「人」であって「臣」とは扱われていなかった。

「天皇を警護」の意味は、当時は「広義」に捉えられていて、「政治を行う天皇」に対してそれを「手足と成って補佐するという意味合い」を持っていた。
この事から「神明社の建立・維持修理」などの「賜姓五役」が定められていた。

(注釈 そもそも歴史観を生かす「基本知識」として次の事を認識する必要がある。
当初の「侍の語源」は、「人」と「寺」から成り、この「寺」は「真人族」を意味し、この「真人族」は「宮廷」を「象徴」として「寺を特別に固有出来る身分」を指した。
その「真人族=寺」の意味から、この「寺に寄りそう人」で、「侍(さぶらう)」の用語が使われる様に成った。
然し、その後、平安期後期に使われた「侍(さぶらう)」の用語」とは「門跡」に入った上皇を護った者を「侍」とする説が出来たが、この場合は、“「武勇を以って主君に仕える」”の事から“「認証の武士」”の呼称に区分けされる。
平安期前は「もののふ」の語源とも成った“「朝廷に仕えた文武の官人」”の事で“「認証の物部」”と呼称した。)

(注釈 当時の文章の中から読み取ると、次の様な「定義」が成される。
そもそも、「侍=候」の「侍(さぶらう)」の用語には、“「朝廷に仕えた文武の官人」”の意味があり、 “「武勇を以って主君に仕える」”にはそもそもその「意」は無った。
そもそも、「官人」ではないし、「官人」は「位階六位以上の者」が成り得る。
つまり、これに依って、「侍」は、「位階を持つ者の官人」の定義が成立する。
更には、当時の「学識」をも持ち得る”「文武」”と、持ち得ない”「武勇」”の差にも定義は由来する。
この「侍の構成族」が、「貴族」が構成する「位階四位以上」の「公家」に対して、「位階六位以上」の”「公認の武家」”を成し得る。
現実に、この様に「言葉選び」が成されている。)

(注釈 この文章の”「武勇の者」”では、室町期中期までは”「家」”を成し得ない「定義」と成り、この「仕来り(定義)」は護られていた。
従って、平安期後期の「門跡の侍の説」は間違いである。
この「定義」からすると、「平安期後期の説」は、平安期にあった呼称の面から”「文人(官人)」”の“「文士」”に対しての“「武士」”の呼称と成り得る。
つまり、”「公家」”に対して”「武家」”とは、「家・格式」の呼称であった様に、「文人」に対しての「役目」の呼称の「武士」(「文士」に成る)には成らないのである。
存在しなかった呼称の”「文士」”と成って仕舞うのである。)

(注釈 「臣下族の武家」には、「もう一つの役目」があった。
前段でも論じたが敢えてここで註釈する。
それは、「皇族賜姓族の役目」として、つまり、「天皇家への準継承族」として常に”「純血性」”を保持する事であった。
その為には、「福家」や「四家制度」と云う「特別の形態」を作り上げて、「三つの発祥源」と「国策氏の役目」(賜姓五役)を担っていた「氏族」である。
この“「家人」”は、この「賜姓氏族の役目(「賜姓五役)」を「調整実務として果たす役目」を担っていたのである。
従って、「氏族の家人」は「同じ氏人」でもあって「家主」と共に「朝廷の同役目」を果たす人であった。
然し、そうでない「姓族」の場合は、「同じ姓人」でない事から”「家人」”とは成らず、「家の来」(「家来」)なのである。
「不特定多数の武者を集めた集合体」が「姓族」であるからだ。)

一 「武家(氏族)の発祥源」  「象徴賜物」は「伝家の宝刀」
二 「侍の発祥源」   「象徴賜物」は「将騎」としての「伝家の黒檀の軍杯」
三 「朝臣子の発祥源」  「象徴賜物」は「伝家の馬杯」
四 「国策氏」 「象徴賜姓物」は「永代正二位青木朝臣左衛門上佐」として「伝家の家紋刀掛」
五 「融合氏」   「象徴賜物」は 「陣笠」と「黒瓢箪」(江戸期は鎧兜着用)

以上は「賜姓五役」と呼ばれ、天智期に「準継承族」として「象徴賜物」を授かっている。
(これは現在も保存伝承されている。)

そもそも、本来は“「臣」”とは、「天皇に仕える直接の役務」であって、故に、「皇族者」が下族した「臣下族」に用いられた「専用の言葉」であった。
本来、”「臣」”とは「従四位下」の以上の位階を持つ者を呼んだ。

上記の様に元の意味は、「姓族」の「江戸期の武士」に使われた「家臣」の「臣の意味」に使われるそもそもの用語では無かった。

上記した「賜姓臣下族の氏族」の”「家人」”に対して、江戸幕府の「権威付け政策」から「姓族の将軍」に仕える者を敢えて「家」と「臣」とを結び着けて”「家臣」”と云う造語を作り出したのである。
従って、仮に使うとするならば、「氏の臣」として「氏臣」と呼ばれる筈であるが、「姓族」そのものは、「氏」を構成する朝廷が認可した「氏族」では無い事から、つまり、「異なる家」の範囲で構成する「姓族」である事からそのものは”「家臣」”と呼称する様に成ったのである。

これは、江戸期の衰退した”「形式上の西の政権」”を構成する「朝廷」に圧力を掛け続け、結局は「幕府に仕える姓族」を”「家臣」”にする事で「権威ある役務」と認めさせた経緯を持っているのである。

本来は、幕府を開いた「将軍」は、「征夷大将軍」の称号を持つが、これは「朝廷の軍」の「最高位の称号」であって、「政治」を司る「政権」を持つ立場の位では無かった。
”「軍位の臣」”であって、最初にその「軍の位」の「臣の意味合い」を強くしたのが、日本を制圧統一した「桓武天皇」の臣の「坂上田村麿」である。

(注釈 その「桓武天皇(山部王)の母」が「光仁天皇の妻」で「後漢の阿多倍王の孫娘」に当たるが、この後漢から帰化した「阿多倍王(高尊王・平望王)」と「敏達天皇の芽純王の孫娘」との間に生まれた長男が「坂上氏」の賜姓を受けたのである。 
「光仁天皇」は「施基皇子の四男」で、「准皇位継承者の施基皇子」は「伊勢青木氏の始祖」である。
つまりは、「坂上田村麿」の「臣」は「青木氏の母方の縁籍族」に当たる事に成る。
依って、本来は「臣」であるが、「准皇位継承者」の立場にもあり、これにて“「臣」が政権を担う事が出来る”と云う理屈が成立して、「次男の頼信系清和源氏の頼朝」が「臣」としてこの「准皇位継承者」の立場を根拠に「鎌倉幕府」が成立した。
依って、そもそも「真人族」か「朝臣族」の「臣下族の臣」が「政権」を持つ事が出来るとする根拠は「光仁天皇」に由来するのである。)

(注釈 前段でも論じたが、日本を「東の政権」(幕府)と「西の政権」(朝廷)とに分離し政治を行う形式を江戸期でも形式的に、且つ、形骸化していたが継続して採用された。
この「西の政権」には、幕府から人を送りこんでの「監視下」にあり、殆どは「官位官職位の授与」と殆ど無く成った「天領地の財産管理」と「伝統祭祀」だけであった。
然し、「形式的な政権」としては存在して居たので、「西の政権」の「明治期の政権取り戻し」の「大義」が円滑に成立したのである。)

それが室町期の中期頃から「姓族」(瀬戸内域から出た「海部氏」が記録上では最初)が出自する様に成って、「武士」の上では「家来」と呼んでいた。
江戸期に成って、その身分に合わせて「武家諸法度」などで“「武士」”には「一定の義務」が与えられ、その「義務」として「雇用促進策」として農民等の庶民から「奴 やっこ」と呼ばれる者等を雇う義務が付加された。

それを「賜姓族の臣下族の習慣」に真似て、江戸期に成って「男子 おとごし(男中)」や「女子 おなごし(女中)」も含めて「家人」(けにん)と呼ぶようになった。
要するに、「武士」を「武家」に構成する為に採った徳川幕府の「苦肉の策」であった。

これで、本来は「平安期の用語」からすると、「武士諸法度」だが、この「苦肉の策」で「武家諸法度」としたのである。
其れに合わせて、「公家諸法度」として「一対の組み合わせ」で「辻褄」を合わせてたのである。
「徳川幕府の権威の擁立」の一つの策としたのである。

つまり、「青木氏の歴史観」から観ると、室町期からの「高級武士」に仕える「家臣や家来」と、「賜姓族の臣下族」に仕える「家人」とには“「仕え方」”に違いが在った。
確かに、「家臣や家来」の意味も持つが、”「家人」”には字のごとく「人の意味」を強く持つものであった。

ここが「青木社の持つ意味」の根幹部である。
「青木社」を支えるすべての者は、「繋がる人」で支えられていたという事であって、江戸期にあっても秘密裏に守り通した所以でもある。

ところが、江戸期に使われたこの「家人」の言葉の意味とは、「人の意味」と「身分格式」も異なっているのだが、上記した通り根本的に「氏の構成」の前提に無く「姓族の構成」の前提にある。
つまり、この「青木氏の家人の仕来り」を、「姓族」の中に無理にそっくりと取り入れて、これを江戸期に真似たものである事に成る。
従って、「家臣や家来」の中には、この「武家の意味合い」、又は「家人の意味合い」を出す為に、「徳川氏」の中には、「家臣や家来」とは別に、態々、この「家人制度」を採用して務める者もいた。

要するに、「吉宗」の享保期には、「伊勢加納氏」の様な“「側用人」”にこの「武家の意味合い」、又は「家人の意味合い」を持たして「家臣や家来」とは別に「特別視」させていたのである。

「藤氏と源氏の二つの流れ」を強く持つ「武家の氏族」の「足利氏の室町幕府(武家貴族)」と違い、「幕府制」を引き続いた「姓族の徳川氏(松平の姓族)」の“「幕府」”と云うものに対して、上記の“「武家」“の「慣習仕来り掟」を持ち込み”「権威付け」“を図ろうとしたのである。

(注釈 徳川氏は「姓族」であった事から「幕府制」を採る為に必要とした「征夷大将軍の称号」の「武家の頭領」の称号を申請した朝廷はこれを与えず、妥協して”「長者」”としたのである。
そこで、搾取偏纂で徳川氏は、「家臣」と成っている「藤氏」と「源氏」の「末裔の親族」であるとして、別々に主張していたが、「朝廷」は頑なにこれを認めなかった。
現実には、室町期中期までの系譜は搾取であるが、幕府樹立後、女系として「貴族」や「氏族」や「武家」の血縁を万遍無く取り込み「権威確立」に成功した。
「青木氏」では「四日市殿」(立葵紋に変紋)が、頼宣期に「勝姫末裔」で血縁して縁籍関係に成っている。)

「家康」は初めは「源氏の朝臣」として名乗っていたが、幕府樹立した時からは今度は関東の秀郷一門を家来にし、その末裔として「藤原の朝臣」として名乗り替えて、その「秀郷一門」を「御の家人」(御家人)として呼称させ「朝廷の臣の理屈付け」をしたのである。

「吉宗育ての親」の「氏族」(武家、貴族、賜姓族、臣下族)の「青木氏の家人」(家人の位階は六位)により近づける為に、「公家下の位階の最高位」の「従五位下の官位」を与えて敢えて「氏族扱い(氏族の伊勢藤氏の支流末裔)」とした。
これに依って、「養育役の加納氏」には「養父の久政」から引き継いだ「久通」に、この特別の「家人の権威」を与えて「吉宗の取次役・調整役」の重職を命じた。
同じく「綱吉」の時には、「甲斐の時光系青木氏」の「柳沢吉保」にも「家人の側用人」を務めさせた。
「伊勢加納氏」と「甲斐柳沢氏」の二人は、「守護神や菩提寺」等の「氏族」が持つ上記の「家人要件」を全て備えている。
この類似二例が有り、何れも「青木氏」と所縁のある「由緒ある氏族の末裔」である。
他の「側用人」は「政治的な用人」でこの「氏族の家人要件」とは明らかに異なっている。



そもそも、この“「人の意味」“とは、「賜姓族の臣下族」の「慣習仕来り掟」から観て、「家臣や家来」よりも「主人との家族的な絆の主従関係」が強い関係にあった事の意味であった。
「嵯峨期の詔勅」と「その禁令」に依って、「賜姓臣下族」の「慣習仕来り掟」の「使用の禁令」は、取り分け、「主従関係の慣習仕来り掟」に於いては「姓族の武士」が生まれるまでの室町期中期まで護られていた。

然し、室町期の「下剋上と戦乱」で“「氏族」”を始めとして、「賜姓族の臣下族」も衰退し激減した事で護られなくなった。
その中での「青木社」である。

そこで、逆に勢力を拡大した「大姓族」(大豪族・大名)の中には、長い間に「賜姓臣下族の一族」に何らかの血縁関係を有する者らを呼び集めて、「主従関係」を作り上げた結果、「家人」とも取れ「家臣」とも取れる中間の“「家人的な家臣」”が生まれたのである。

そして、江戸期に入り、「武家諸法度等の法令」等が定められた事に依って、取り分け、安定期に入った「享保期」頃からは「雇用制度の促進策」とも相まって、一挙にこの“「武士様の仕来り」”が「一つの形」を生み出して大きく進んだのである。(「享保の改革」の一環策)

況や、「伊勢・信濃」では、既に、平安期の頃の早くからこの「仕来り」の中にあって混乱なく維持されていたのである。

この“「武家様」(格式)”から“「武士様」(役柄)”に変化した「享保期の進歩」は、この「青木氏」と関わった「吉宗の所以」に帰来する。
この時、「武家の意味合い」も、「武家の変化」も“「江戸様」(享保様)”に「姓族の武士」までを呼称する様に成ったのである。


この様な本来の“「家人」”と云う「仕来り」は、「京」、「近江」、「信濃」、「甲斐」、「伊勢」、「武蔵」、「美濃一部」と、その「関連地域」で頑なに引き継がれて来た事に成る。
推測の域を超えないが、これらの「家人制度の慣習」を良く見聞きして知る「頼宣と吉宗」は、「伊勢」のこれらを見聞きして“「紀州藩の中」“に「権威造り」の為に先ず真似たのではないかと考えている。
そして、それを「政策的な権威付け」の為に“「武士様」”に変化させたのであろう。
その意味で限定した範囲で「青木社」と「青木社格」の存在を黙認したと考えられる。


さて、話を戻して、「伊勢加納氏」と同様に、この“「青木氏の家人」”の一族に多く含む”「射和郷士達」”は、「青木社」と共にこの「土地と水」を生かした「射和殖産」を又始めた。

「室町期末期の混乱」で土地を荒らされ失ったが、これを「遺された伊勢衆」で復興させ拡大させて行い、最終は、「紀州藩の勧め」ではあるが、その数は少ないが一部で江戸に“「射和商店」”を出すまでに至った事が資料には記されている。
然し、基本的には“「伊勢留まりの態度」を採った”とある。
取り分け、「名張と桑名の青木社」に与していた彼らはその「氏是、或いは社是」を強く守ったのである。
むしろ、「青木社」は護られていたのである。
だから、この「青木社の社是」が「御師制度(おんしせいど)」として引き継がれていったと考えられる。
現実に、「桑名の青木社」を再び起こしたのは「御師制度による伊勢商人」である。

この「手紙の資料」から観ても、「青木氏」は「商業組合」を通じて、“積極的に「江戸の店」を誘致させ様とした事”は、確かに「青木氏と家人等を育てる手段」でもあった。
それだけに「押し付けた政策」ではなかった事を物語るが、これは「家臣」では無い「家の中の人(同じ氏族の人」)を意味する「家人の育成」に取り組んだ事に成るのである。
「家臣」では「氏を構成しない姓族」である以上はここまではしないであろう。

この資料から観て、「筆者の印象の域」を超えないが、「古来の家人」には「遠縁と絆」で結ばれての関係であった事から、どうしてもこの「殖産の射和組」に対しては、「青木氏」は「家人」の“「郷人」”と云う感覚を持っていて、その「親近感の感覚」で行動していたと考えている。

その意味で、ここで「青木氏」の“「家人の由来」”を「青木氏の歴史観」として「家人の概要」を強調して是非に論じて置く必要があった。

そもそも、上記した様に「青木氏」には旧来より“「家臣」“と云う概念が無かった。
其れは「賜姓五役」と云う役を基準に「四家制度」と云う組織形態を敷いていたが、この制度からこの「家臣の概念」が生まれなかったのである。
依って、“「家臣」”と云う「封建的な主従関係」の契約での「接し方」では、「射和組」に対してはここまでは「青木氏」は取り組まなかったと考えている。

「射和」の「郷土史研究家(末裔)の論文」にも、「射和組」と「青木氏」は共に「和紙加工品の開発」や「早場米の研究」に共に取り組んだ事が論じられていて、「射和組の人」から「青木氏」は“「徳崇家」“と呼称されていたと記されている。
この“「徳崇家」“の言葉から、その持つ「意味合い」は「氏族」の「地域の尊敬される指導者」であったと観られる。

(注釈 前段でも論じたが、「伊勢の人」からは、職能人や商人から「御師様」や、「青木氏」に関わった地域住民からは「氏上様」と呼ばれていた。)

「吉宗の補佐」として、「伊勢青木氏」から「吉宗」に従って下向した「青木六兵衛定信」が「享保の改革」を江戸で主導していたのであるから、これも放って置いてもこの様に成る環境ではあったであろう。
然し、注釈としても、筆者の考えでは、「江戸幕府の体制」にこの様に大きく影響を与えたのは、「紀州藩―伊勢青木氏―加納氏―伊勢秀郷流青木氏の紀州藩官僚―伊勢衆―幕府の秀郷流青木氏の官僚―側用人加納久通―吉宗」の連携による「一連の連携結果」であったと観ている。

「殖産興業の元」と成った「松坂商人」と、「小売店」を興した「射和商人」とに区別して、この地に「射和の商いの組合組織」(御師制度 おんし)を作ったのである。
「殖産」を進めるには、「殖産には広大な土地」が必要で、この土地の多くは「青木氏」が「地主」として持っていた「地権の土地」を使った
そして、上記とした様に「伊勢から南紀」にこの「殖産」は及んだのである。

何よりも、「青木氏」の悠久の制度の「御師制度」を模倣して利用して、それを呼称にまでした事は「青木氏と関わり」を強く記すものである。

(注釈 江戸期の射和の「伊勢紙型」で「江戸小紋」が全国的に流行り、伊勢の「奈良期の紙生産」から始まった殖産はこの様に充分に大花を開いた。
でも、これだけの「射和」が江戸に決して出なかった。何故かである。

「青木氏」と女系でつながる射和の「伊勢郷士」は「青木氏の氏是」(社是 伊勢講)を頑なに守ったものだと考えている。
その証拠に、「青木氏族」の「職能の御師制度」を射和の「商いの中」にも取り入れているのである。
そして、明治期までこの「歴史観としての意思」は貫かれた。

それは「伊勢屋」を「二足の草鞋」で続ける「青木氏」が、「自らの殖産」で生きる「商人の証」であって紀州藩などの御用商人では決してなかった事に所以している。
故に、「射和の商人」からも信頼を得たのであって、「氏是」(社是)を守ったのである。
そして、その”「絆の証の拠点」”と成っていたのが”「青木社」”であったのだ。)

(注釈 「青木氏側」から観れば、「紀州藩」に云われなくしても、“「伊勢の殖産興業」”に無償で邁進したのは、考察結果からも判る様に、上記の血縁で繋がる「同族を互いに救いあう目的」があったからこそ、「明治期の末期」まで続いたのである。
その意味で、前段の「射和商人の論議」は、「青木氏の中の論議」と捉えられるのである。
「青木社」と共に必ず論じなくてはならない「青木氏のテーマ」であった。)

(注釈 「主要15地域」には、最低限、この様な「青木氏の歴史観」が働いていた事が判っていて、一部であるが、合わせて「近江佐々木氏の研究資料」にも「青木氏」のこの事に付いての記載がある。
「川島皇子」を始祖とする「同宗同門の近江佐々木氏」も「宗家の衰退」もあって苦労した事がよく判る事である。
(注釈 江戸期には江戸屋敷が近隣にあった様である。)
少なくとも「神明社」の体裁を整え表向きにも「武蔵の四社」の様に「青木社格的要素」を働かせながら維持していた事は確実で、「個人情報の限界」で詳らかには出来ないが明治期まで維持されたことが判っている。

注釈として 前段でも論じたが、その意味では「伊勢、信濃、伊豆」の「三つの社」は、それぞれ「特徴ある青木社」を構成していたが、「越前の青木社」だけは当に当初から「神明社の目的」は,真の守護神であるが如く「逃げ込んだ氏人」を匿い精神的導きをして立ち直らせ「職」を与えて世に送り出していた役目を果たし主目的としていた。
これは既に”「青木社」”であった。
つまりは、「青木社」は前段で論じた所謂、「仏施・社施」であった。
その意味で「仏施・社施」は、「青木社的要素」に成り易い役務であった。
つまり江戸期に恣意的に反発して一度に「青木社的要素」を露出させた訳けではなかった。
それだけに幕府は黙認せざるを得なかった事の一つであろう。

その意味で「伊勢や信濃」にこの「青木社」を通じて「杜氏」を送り込み「米造り」と「酒造り」を指導して殖産に加勢した。
「賜姓五役の祖先神の神明社」は、1000年前後からは「賜姓五役」の「皇祖神の子神」である事を表向きにしながらも明らかに外れ「青木社的要素」を強めていた事が判る。
「四地域」とは言わずとも「15地域の神明社」はその傾向にあった事が判る。


「伝統シリーズ 37」に続く



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