青木氏氏 研究室
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  [No.357] Re:「青木氏の伝統 38」−「青木氏の歴史観−11」 
     投稿者:福管理人   投稿日:2017/10/13(Fri) 12:10:57

> 「伝統シリーズ−37」の末尾



>さて、この「青木氏の概念」で以って、「殖産の射和」を観た場合、どのような役割を果たしていたのが疑問に成る。
>そして、この「殖産」で、上記の「生産力」は兎も角も、”その「松阪の販売力」(経営力)は足りていたのか”と云う疑問が沸くが、これが射和と青木氏の経済的な関係で大きく影響していたので「射和と殖産の関係」で次ぎに先に論じる。
>実は大いに影響していたのである。


> 「伝統シリーズ 38」に続く

そもそも、「射和」と云う松阪の一部の地域には、商いを前提とする地域では無かった。
前段でも論じたが「伊勢郷士」、取り分け、「松阪郷士」(A)が住む普通の土地柄であった。
ところが、この「射和郷士」は、「青木氏の女系」の「縁者関係の郷士」であった為に無力であった。
そこで室町末期に織田氏の支配下に入り、次ぎに秀吉の豊臣氏の支配下に入った。
この時、織田氏から伊勢制圧に功績のあった事から、ここを「近江の秀郷流藤原氏」の「蒲生氏郷」に任せ、彼らは「信長の楽市楽座の思想」を受け継ぎ「ヨーロッパ風の商業都市」を構築した。
この「商業都市の構築」に倣って「近江武士」から転身した「近江商人」(B)を呼び寄せて「伊勢商人」と共に発展させようとした
然し、織田氏が倒れ秀吉の代に成ると「浄土真宗の顕如一派」が秀吉に反抗し、「紀州征伐」として、この「門徒宗」を徹底掃討した。
追われた紀州の「門徒衆の下級武士」の一部が「不入の権」に守られた「伊勢」に逃げ込んできた。
見かねた「青木氏と松阪郷士(A)」は紀州の「異教の彼ら門徒衆(C)」を密かに「射和地域」に匿った。
そして、彼らに生きて行く為に“「商い」”を教え「青木氏の仏施」で導いた。

然し、ここには「青木氏の苦労」があった。
ところが、その最中、「日野城主」から「松阪城」を築城しその藩主に成った「蒲生氏郷」は、再び秀郷一族一門の多い事を背景に「陸奥黒川藩藩主」として秀吉に依って「北の固め」を強化する為に移封された。
この事で「蒲生氏郷の故郷」の「近江」から呼び寄せた「伊勢の近江商人(B)」は「強い背景」を失い困窮を極めた。
そこで、困窮の中で無謀にも江戸期に入り「江戸」に出て一旗を挙げようとした。
ところが、享保期前は相続く飢饉や震災などで経済は著しく疲弊し最悪と成り、彼ら「伊勢の近江商人(B)」は、再び故郷の援護の得られる「近江」には戻らずに不思議(1 下記)に「松阪」に戻った。
この間の約60年後には、その結果、彼らは多くは衰退したが、その一部は「名と意地」を捨て「青木氏X)」と「射和郷士(A)」等の庇護の下で何とか息を繋ぎ、「射和地域」の中で「住み分け」(2)をして「商い」(近江商人(B))に関わった。

享保期に入り「享保の改革」に依って「江戸の景気」は回復したところで、「青木氏の庇護(江戸の伊勢屋)」の中で、貧困に喘いでいた「資本力(財力)」の無い彼ら「近江商人(B)」は、「江戸の伊勢屋」を辿って再挑戦のために「射和」から「江戸」に出た。

(注釈 その「松阪」での「貧困の状況」が資料として遺されていて、代表する資料として最初に江戸に出て失敗した親は老いて病気と成り、「その日暮らしの事」が書かれている。
多くはこの様であった様である。)

又、「射和」で保護された「紀州門徒衆(C)」は江戸期には解放され、「商い」を覚えた彼らも同じく一部は「伊勢」の「近江商人(B)」の「商人」と共に江戸に出た。
(注釈 結果は成功しなかった。「射和」に戻ったかは判らない。)

これら(A)と(B)と(C)の「射和郷士(A」)の「商人」は、室町期に築いた巨万のその財力で伊勢全体を「殖産と商業組合」で固めた「青木氏(X)」の庇護の下にあった。
そして、二度目には江戸での「近江商人(B)」の「子供等の成功」で“「松阪商人」”と享保期以降に呼ばれる様に成った。

(注釈 吉宗の「享保の改革」に完全補完した「青木氏(X) (伊勢屋)」が下地と成り「松阪商人」(AとBとC)がこの様な経緯で生まれた。
「江戸での仏施」の「質の江戸伊勢屋(青木氏の商業組合組織)」が低利で「彼らの出店」を促した。)

つまり、「伊勢商人」の中の一つの“「松阪商人」”とは、「松阪商人(青木氏)」と「射和商人」と更に区分けされているが、そのルーツは、享保期末期以降に「江戸」で「商い」に成功したその他の商人も含めて「伊勢商人(享保期の後半期)」と「松阪商人(享保期の前半期)」と区分けして呼ばれる様に成った。

ところが、この状況の中で「青木氏」に執って「近江商人(B)の反目(意地と誇り)」と共に、更に次の様な困った事があった。

そもそも、「紀州門徒衆の(C)」は、その元は「紀州の郷士武士」でもあり、「商人」として必要な「柔軟性」に欠け、「肩肘」を張った者等であった。
又、その「心情の元」と成る「彼らの宗派」の影響もあって、考え方にも異なる事もあったが、実に反目に近い形で閉鎖的で「松阪郷士・射和郷士の(A)」と「近江商人の(B)」とも融合しようとしなかった。
勿論、「松阪」を仕切っている「青木氏(X)」とも大きく距離を置いた。
又、「近江商人(B)」も「紀州門徒衆(C)(異教と異郷)」程ではないが閉鎖的で、取り分け、「青木氏(X)」とは「彼らの家柄の誇り」もあるのか、「紀州門徒宗(C)(異教と異郷)」との距離感と違って、殆ど、「親しみの無い冷めた距離観」を取っていた。

注釈として そもそも、「松阪」に来た「近江商人」のそのルーツは、「近江佐々木氏(始祖 川島皇子)」や「近江の藤原氏北家秀郷一門」の傍系ではあるが、その“「末裔」”とも云われ、かなりの高い「誇り」は持っていた。
この「北伊勢」には、「北家近江藤原秀郷一門」の血筋と、「藤原氏北家宗家の血筋」もを引く「伊勢秀郷流青木氏」が存在していた。
この近江の「出自の氏郷」の「蒲生氏の血筋」が、「伊勢秀郷流青木氏の跡目」に入る等の事もあって、「青木氏(X)」は勿論の事、同じ家柄家筋を持つ「射和郷士(A)」、つまり、「青木氏の女系族」にも肩を活からせた「誇り」を持っていたのではないかと考えられる。
今は「商人」と成り得ていたとしても、“武士は食わねど爪楊枝”であったのであろう。

(注釈 「紀州門徒衆(C)」も紀州郷士として貧困の中で生きて行く為に、紀州城下門前町の装飾や漆職人としても働いていた。)

「青木氏(X)」として援護するにしても何れも「難しい相手」であった筈である。
何か「適格な対応」が必要であった。
現実に、彼ら「近江商人(B)」は、「江戸」で成功後は、「青木氏(X)」の「殖産の商い」を物語る資料関係には「近江の一字」も全く出て来ない。

この事から検証すると、最初の「江戸での失敗」で「近江に帰らなかった理由」(不思議 1)は読み取れる。
それは、次ぎの心理(計算された維持)が働いたのではないか。

近江に帰れば、「氏家制度」の中で家柄家筋の良い「二足の草鞋策」を敷く「本家筋の庇護」を受けて生活を余儀なくされる。
恐らくは、彼らの下である程度の生活は維持されたとしも次ぎのチャンスは最早ない。
彼らの天下に誇る「宗家筋」、或いは、「本家筋」は、世間に対して「その立場」を失うとして絶対認めないであろう。
それよりは「貧困」を得ても「青木氏(X)の庇護下」の中でも「自由の利く松阪」で生き残りを選んだ事に成るだろ。
だから、より「青木氏(X)」に対して「意地を張った誇り」の為にも縛られることのない範囲の「距離感」を置くことで「自由度」を高めようとしたのではないか。
況や、故に、「二度目の成功裏」には、「武士」でありながらも「商人」であるとし、「道理や仁義」の欠くこの「不思議な距離感」を「最大限」にしたと考えられ、この「諸行無常の道」を選んだのであろう。


さて、「近江商人」は兎も角も、「松阪商人の本題」に戻るが、この「松阪商人」の(AとBとC)に前段の「殖産に依って増えて行く販売(営業力)」を担わしたのである。
そして、この「難しい環境」の中で「青木氏(X)」は、それぞれに適した「殖産の販売力の役割」を与えようとした。(適格な対応)

当然に「近江商人(B)」の「意地と誇り」と「紀州門徒宗(C)の「異教と異郷」にあった「営業の役割」を考えて割り振らねばならない事に成った。

その役割は、次ぎの通りであった。

「伊勢和紙(松阪紙型含む)」
「松阪木綿(綿油含む)」
「松阪絹布(松阪紬)」

以上の三つであった。

ところが、更には彼らはこの時期は未だ「商い」に充分に馴染んでいなかった。
貧困に喘いでいた近江から来た「近江商人(B)」を除いては、「青木氏」と繋がりのある「(A)の射和郷士衆」も、又、救った「門徒衆の郷士(C)」の「紀州の下級武士」にも「商い」のそのものには無縁であった。

唯、「(A)の射和郷士衆」には、江戸期前からの「青木氏部の関係」もあって生産する事に対する経験は深く持っていた。
唯、生産は作業場などを作り「人」を雇いする事で可能であったが「販売」はどうかとするとそこまではそもそも「身分家柄上」は無理であった。
取り分け、奈良期より伊勢の「楮和紙の生産」には開発段階から「青木氏(X)」と共に関わっていた何事にも変え難い経緯を持っている。
どちらかと云うと、今で云う「生産技術者」であった。

当然に、彼らに、「殖産」の「伊勢和紙(松阪紙型含む)」、「松阪木綿(綿油含む)」、「松阪絹布(松阪紬)」の販売に携わらせたという事に成るが、必然的に「伊勢和紙」の主は「(A)の射和郷士衆」と成る。
でも、“それで済むか”と云う話には成る。
「(A)の射和郷士衆」は、「青木氏(X)」が「近江商人(B)」の「意地と誇り」と「紀州門徒宗(C)の「異教と異郷」を支援をする以上は、「青木氏(X)」に代わってかなり「難しい事」ではあるが、「近江商人(B)」と「紀州門徒衆(C)」の面倒も看る事にも成る。

従って、後勘からの観ても、他の二つの「松阪木綿(綿油含む)」、「松阪絹布(松阪紬)」も観ていただろう事は当然に解る。

取り分け、「紀州門徒衆(C)」には、その「難しい性格や信条」から「商い」は疎か、将又、「生産のイロハ」から教える必要に迫られた筈で、説得から始まり教える事は「苦難の技」であったろう事は判る。
助けられたとは云え「松阪郷士(A)」や「近江商人(B)」とは、当時の封建社会の社会慣習からして三者ともに同じ「郷士の身分」(「松阪郷士、近江郷士、紀州郷士」)であったとしても、そのルーツの「家柄家筋」には違いがあり過ぎる。
「彼らの立場」からすると、これは全て「負い目」であり、委縮して僻んでも至し方は無いであろう。
この事は逃れ得ない事であり間違いは無いであろう。

そこで、兎も角も(A)と(B)と(C)の「商人」と成った彼らには「商記録等の内容」や「松阪に遺された資料」からも「状況証拠」として判る。

では、問題はこの「三つの役割」をどの様に彼らに割り振ったに掛かってくる。
無茶に割り振る事は出来なかった筈で、その「性格や信条」と「射和地域」の「住み分けの地域」や「地理条件」や「水利条件」などが働いた筈である。
余り資料には成っていないのだが、大方は判る。

そもそも、「松阪の射和地域」は次の様に極めて良好な位置にあった。
当然にそれは「殖産と云う点」でも云える事でもある。

先ず、資料関係から読み取ると、次ぎの様に成っていた。

そもそも、「射和地域」は東の海側より「12Kmの位置(3里)」に存在する。
「射和地区の範囲」は南北左右の「2Kmの範囲」である。
「櫛田川」の川沿いの北側に位置し、櫛田川の入口よりも「12Kmの位置」にある。
東側の港の荷上場や漁村から「西の位置」に存在する。
南側に位置し、「宮川」とに接する「青木氏の生産の殖産地」の「玉城地域」とは、丁度、櫛田川と宮川を挟んで隣接する「南北の位置」に存在する。
西隣には「名張地区」、その上の北側には「伊賀地区」の「生産線状」にあり、当然に、この「射和」の北隣は「司令塔」の「松阪地区」である。
つまり、地形上は「鶴翼の陣形」で、鶴の翼に囲まれた中央には「射和」の「販売地区」が「三つの範囲」で存在する。
これは「青木氏の殖産」の「コンビナート」であったと云える。

既に、江戸初期には、「殖産の商いの戦略」として「近代的な体系」が「青木氏」等に依って確立していた事を示す。

その「射和地域」は、「櫛田川の川洲」より「北側の平地」のほぼ中央(イとハの左右に村)には低い山があり、東西に伸びていて、そこから盆地の様に東西に横切る様に「平地の畑地」がある。
そこから、北に山が東西に続く。
この「山地の谷部」の「左右2か所」に明らかに「開発されたと観られる平地」が山際に存在し、そこに「村(ニ)」がある。
そして、欠かせない「交通運輸の道」として南北のほぼ中央右寄りを縦に「熊野古道」が横切る。
「住み分け」のみならず「交通の便」も含み「販売拠点」としては申し分ない位置にある。

明らかに「鶴翼の陣形」にして「地形と水利」を利用して「殖産の販売拠点」として開発されたものである事が容易に判る。

そこで、「鶴翼の販売拠点」の「射和地域」の「住み分け」は次の様に成っていた。

(イ) 「松阪郷士(A)」は、左右、つまり、「東西2Kmの東側」に定住していた。
(ハ) 「近江商人(B)」は、「東西2Kmの西側」に定住していた。
(ニ) 「紀州門徒衆(C)」は、「西側の上の地域(山間地)」を東に向きに配置されていた。

“「住み分け」”には、その地区には「菩提寺」、或いは「檀家寺」が伴う。

この点で観てみると次の様に成る。

(イ)の「松阪郷士(C)」は、古来より「松阪出自」であり「浄土宗」で密教の「菩提寺」
(ロ)の「近江商人(B)」は、「近江出自の郷士」であり「天台宗」で密教の「菩提寺」
(ハ)の「紀州門徒衆(C)」は、「紀州出自の郷士」で「浄土真宗」で顕教の「檀家寺」

(イ)には、江戸期には「射和」の直ぐ東側に「青木氏の分寺」と「浄土宗寺」が存在している。

恐らくは、ここが「青木氏系に近い縁戚関係」の「氏人」の「松阪郷士」がこの「分寺」に、その「他の郷士衆」は「浄土宗(A)」に帰依したと考えられる。

(ロ)には、「松阪の南 射和寄り」には珍しく「天台宗の寺」が数寺存在していた。

「明治期の寺分布」で観てみると、「天台宗」は松阪地区南には「数寺(四寺か)」が存在している。
そもそも、江戸期以前の「松阪」は、古来より「密教浄土宗の聖域」で「不入の権」と共に「不可侵の地域」とされた。
「伊勢神宮」が存在する為に混乱を避けるためにも「宗教的」にも保護され「浄土宗密教」のみが許されていた地域であった。

(注釈 ここで「歴史観イ」として重要なのは、「浄土宗密教」とは、「古来の浄土観念」を「密教」として引き継いだ「古来宗教」であり、「神仏融合」の「宗教的概念」を指す。
これを「法然」が「神仏」を分離し仏教の「浄土宗」として概念を「密教」としながらも一般化した。
その前身とも云える。
「五家五流の青木氏」や「近江系佐々木氏」がこれを引き継いだ。
故に、両氏には「氏内の者」で「神職と住職」が共に多い所以でもある。
従って、この「概念」で「伊勢神宮域」は少なくとも護られていた為に「伊勢松坂」には他宗派は原則は存在し得えない事に成る。)

(注釈 「歴史観ロ」として重要なのは、唯、「朝廷の学問処」を務めていた武家貴族の「北畠氏」が室町期の世の乱れに乗じて「不入不倫の権」の禁令を破り、無防備な「伊勢」に侵入した。
「北畠氏」にしてみれば、「侵入の大義」は表向きにはあった。
それは、「戦国の世」に成り、流石に「伊勢」も「不入と不可侵の権」だけの名目では弱体化した「朝廷の威信」では守り切れなくなった。
流石、「伊勢」を護る「青木氏」は「シンジケート」を「抑止力」として待ちながらも、この衰退の“勢いに勝ち得るのか”と云う事を心配に成った「北畠氏」は「伊勢(四日市の左域に御所設置)」に入ったと主張した。
そして、建前上、伊勢に“「御所」”と銘打って支配して伊勢以外にも勢力を拡大した。)

(注釈 「歴史観ハ」として重要なのは、この「北畠氏」は、戦国で敗れた武田氏の浪人等や秀郷一門の傍系の溢れた武士等を雇い家臣として「強固な武力集団」を構築した。
その財源を平安末期からの各地の「名義貸しの荘園」に置き、その「名義荘園」を武力で奪い取った。
全国各地で主な「武家貴族」のこの現象が起こった。
この時、存立をかけて止む無く「青木氏」は「北畠氏」に合力したが本意ではなかった。
ところが、流石、「信長」はこの現象を見逃さなかった。
武力を背景に「信雄」を養子にして「北畠氏」を奪い、挙句は「北畠氏」を乗っ取った上で武力で伊勢等を攻め取った。
建前上、「青木氏」は「北畠氏」に合力したと見せかけ、裏で「伊勢信濃シンジケート」と近隣の「今井氏の支配下」にある「神社系シンジケート」を使って「織田信雄」を敗戦に追い込んだ。
「織田氏」は、この後に「信雄」に代わって「青木氏」と関わりのある「蒲生氏郷」が入り「伊勢」は「酷い戦乱」とはならず穏便に収まりを見せた。
そして「青木氏」は「シンジケート」を引いた。)


所謂、この「歴史観イ、歴史観ロ、歴史観ハ」があってこそ、ここに他の「密教の天台宗寺」が少なくとも「松阪」に存在する事は本来は難しい事と成ったのである。
然し、「織田信長」はこの禁を無視した事になるのだが、その倣いに従い「蒲生氏郷」が上記した様に“「近江商人」”を呼び寄せた。
この結果、彼らの「天台宗の菩提寺」を「松阪の南」、つまり、「射和の北」に建立したが、「蒲生氏郷」が「陸奥」に移封と成った事で、最早、余りにも遠い「陸奥」までに同行せずにいた事でその「勢い」は落ち「松阪」に残った事に成った。

ところが、結果として当然に「勢い」を失い「射和の北」(松阪の南)で定住していた地域は、その「地権」を放棄して、この地域の「本来の地権者」の「青木氏(X)」に譲り、その後の「住み分け」が進み、上記した「射和の西側」に「近江商人(B)」は移った。

この為に、本来は「射和地域」にも後に幾つも建立した筈の「天台宗の寺」が「一寺」しかなく無いのである。
逆に「元の定住地」には、「菩提寺」は維持が出来なく成り、海側より西の山手に向かって「顕教の檀家寺」と成った「天台宗の寺」が数寺が存在する所以でもある。

(注釈 彼らの「天台宗寺」は「松阪の南」、つまり、「射和の北側」には天台種の寺は三寺「一寺は派が異なる」があったが、江戸期初期には、その派流から「菩提寺」はこの海側にある一つであると観られ、その他は明治期に建立されたものと考えられる。(寺名は秘匿)
「天台宗」は、本来は「密教」であるが、{平安期の宗教論争}で「顕教」も並立させて「武家貴族の信者」を獲得させた。これが派流の生まれた原因である。)

注釈として、「歴史観ニ」として重要な事は、彼らの「地権の放棄」には、次ぎの経緯があった事が伺える。

上記の「殖産の販売力」を拡大させるには、絶対に彼らの持つ高い優れた近江からの伝統に基づく「商い術」は見逃せない。
又、「青木氏(X)」に執っては、上記の「維持と誇り」を適え、且つ、進んで積極的に取り組んで貰うためには、彼らにもう一度の「再起力」を与える必要があった。
それは「再起の資金力」であった。
それが、上記の「地権の買戻し」であり、その条件として「青木氏(X)の地権」の多く持つ「射和郷士(A)」の定住地であった「射和の西」に土地を与えた。
当然、「地権売却の資金 近江商人(B)」だけではジリ貧で、「殖産の販売の仕事」を与える事で生き続ける事が可能と成る。

況や、「青木氏の逃避地」の「越前の神明社」にて大いに行っていた「仏施」を、当に伊勢松坂でも行った「歴史的な青木氏の大仏施」であった。

(注釈 この「仏施」は彼らの享保後の江戸出店までに続いた。)

さて、これで「近江商人(B)」の関りは述べたが、次は「紀州門徒衆(C)」の事に成る。

上記した様に、次ぎの問題があった。

何はともあれ政権や仲間の門徒衆から暫くは匿う必要があった事
当時、世間を騒がして警戒されていた「門徒宗」である事
彼らの「異教と異郷」、更には彼らの持つ「頑な性質」がある事

いくら何でも、これだけの事があれば、「射和郷士(A)」「近江商人(B)」と同調させて生活させる事は至難の業である。
何か「緩衝材の策」が必要であろう。

「縁戚の氏人衆」の「射和郷士(A)」にそれを任すとしても「何らかの手」を打たねば、それこそ縁者関係の「射和郷士(A)」からは「青木氏(X)」は完全に信頼を失うは必至である。

当然に、事前に充分に打ち合わせはした。
一つは、それを証明するのが彼らが定住していた「地域の地形」(a)から判る。
もう一つは、「彼等の衆徒」には「寺」を建立するに必要な「財力」は未だ当然に全く無かった。

そこで、「青木氏(X)」と「射和郷士(A)」は、落ち着いて定住させる為にも”「信心する寺の建立」”を一寺(浄土真宗 東本願寺)を匿っている居住区に敢えて建てて「手(b)」を打っている。

これは、「地権」を持ち、「縁戚の松阪郷士」の「伝統ある定住地」に勝手に他宗の寺を建立する事は許す事は無い。(あ)
又、「氏人」を含む「青木氏等の浄土宗密教の地」に「常識や慣習仕来り掟」から観ても100%あり得ない事であったし、これは世間からも蔑視される危険性もあった。(い)
況してや、当時の閉鎖的で不審者を排除する「村体制」の中の世間から危険性を以って視られていた「門徒衆」でもある。(う)
紀州や関西域で大騒動を起こした「門徒衆」が「村」に入り、又、同じ事を起こされるのではないかと云う恐怖心もあった。(え)

この(あ)から(え)までの事があっても「異教の寺」を射和に建てるという事は相当な決断が居る。

建てれば匿った紀州郷士衆の存在が公に成る。
密かに匿ったとした「青木氏(X)」と「松阪郷士(A)」は、紀州藩は敢えて殖産の為に黙認していても事も水の泡と成り公に匿ったと成って仕舞う。
その事を覚悟で建てるのである。

そこまでして「青木氏(X)」と「松阪郷士(A)」には、「販売力の強化」以外に他に得るべきメリットがあったのであろうか疑問である。
後から紀州で肩身の狭い思いをして生きていた門徒衆と彼らの家族は押し寄せてくる事も予想出来た。
匿うだけでその侭にしていても好かった筈である。
唯、困る事があった。それは「紀州門徒衆(C)」が、「紀州の門徒衆」が押し寄せてくる事は販売力強化の点でも好い事ではある。
然し、彼らが「射和」に居つくにしても恥を我慢しなければならない。
その結果、紀州にじわじわと逃げ帰る事だけは、紀州藩が期待する「丸投げの殖産」の意味からも、避けねばならない事であった。
それには、“「彼らの心の拠り所」”を作り上げる事であった。
そうすれば、「紀州門徒衆」が押し寄せる事も更に起こり、当然に逃げ帰る事も防げる。

後は、結局は、前段でも論じた様に最も「伝統」を重んじて来た、むしろ、「伝統の氏族」の様な「青木氏(X)と松阪郷士(A)の伝統」がこれをどの様に扱うかに係る重要な事に成る。
当然に「紀州藩」は「殖産に依る税の利益」を先んじて、それは「青木氏族」に任せば良いとして完全に黙認している。

結局は、奈良期からの一度も破らなかった「禁断の伝統」の一部を「浄土真宗寺」を建てる事に踏み切り破る事にしたのである。
同時に「伊賀郷士の全国から呼び寄せ」も行っている時期でもあり、「議論百質」であった事は充分に判る。

(注釈 伊賀には縁戚筋関係のつながりはあったとしても「青木氏の地権」は多く及んで居ないことから「内部の治世」には深く組み込めなかった。)

注釈として、「浄土真宗寺の建立時期」は異宗である事と、「伝統を破った事」からも資料的なものは見つからず「寺の由来」も記録には無い。恣意的に不記載とした可能性もある。
「彼らの財力」では、「江戸期後半の成功期」にしても遺されたあらゆる資料からはそれほどの財力は無かった事が伺い知れる。
彼らの財力有り無しに関わらず、結局は「青木氏(X)と松阪郷士(A)」の「地権のある射和」では、況して「他宗禁令の松阪」では無理な事であり、「定住地の開拓開墾」を含めて「青木氏(X)と松阪郷士(A)」の「財力に頼る事」以外には無かった事に成る。
状況証拠から割と早期の1630年から1650年頃に「浄土真宗寺の建立」に踏み切ったと考えられる。



例えば、上記した様に先ず「地形」であるが、櫛田川の中州の後ろの小高い山続きの中ほどに山に囲まれて「開拓された畑地」が現在もあり、その後ろ側の山の角の様に山に囲まれた谷部に開発された狭い居住用の様な「窪地」が二つ存在する。
明らかに、これは“「作られた地形」”であって恣意的には周囲からは判らない様にしての開拓と成っている。
そして、その「居住用の窪地」の前に開拓されたと観られる「生活用の畑地」が存在する。
明らかに「造られた秘境」である。
中州からは全く見えない小山の中に存在する造られた「天然の隠家」の様である。
近くを「熊野古道」が縦断するが、ここからも見えない山手の奥方の隠れた地形にある。
然し、「熊野古道」には山伝に1Km強程度で簡単に出られる。
この「居住地の窪み」の「西寄り」にこの「問題の寺」が存在する。
「戦略的な位置関係」にあり、且つ、「恣意的な位置関係」にあり、“いざ”と云う時には「防御の拠点」とも成り得る。
山を越えれば櫛田川であり「生活用品の調達」は容易である。

ここに「門徒衆(C)」を匿って、「殖産の仕事」を与えた。

では、問題は上記した「三つの営業力(販売力)」をどの様に配分したかに関わってくる。

その「配分の内容」は、次ぎの通りである。

「伊勢和紙(松阪紙型含む)」
「松阪木綿(綿油含む)」
「松阪絹布(松阪紬)」

以上の三つであった。

「松阪郷士(A)」は、「和紙の開発から生産」まで朝廷の命で「紙屋院」として日本最初に手掛けた「青木氏の氏人」である事は云うまでも無い。
そして、それを「近江と信濃と甲斐の青木氏」に広め、「志紀真人族」の彼らの「生きて行く基盤」を作り上げた。
「松阪郷士」、取り分け、「射和郷士」はこの「第一の貢献者」でもあった。
従って、「射和郷士(A)」は、当然に「伊勢和紙(松阪紙型含む)」を担当した。
然し、他の「近江商人(B)」と「紀州門徒衆(C)」の「殖産に関わる事」に「青木氏(X)」に代わって面倒を見なければならない。
他の二つの「松阪木綿(綿油含む)」と「松阪絹布(松阪紬)」の面倒は知らないという行為はあり得え無い。
「商記録」に依れば、どのような形かは明確ではないが、全体の状況証拠から観て、「監視や管理」も含めて「販売状況の把握」と「工程管理の進捗」を観ていた事が判る。
何故ならば、「工程管理」では、所詮、彼らは「外者」であり、「生産工程」まで「督促などの発言力」を持ち得ていなかった。
故に、「発言力」のある誰かがこの「パイプ役の実務」を演じなければならない。
必然的にそうなれば、「松阪郷士」の「射和郷士(A)」と成る。

商記録には、「・・射和・・・・入り」とあり、「玉城」から「松阪木綿の製品」が入った事を記したと考えられる。

注釈として、 ・・・は虫食いで充分に読み取れず、・・・は、“射和・・木綿入り”と記されていた事が判る。
ここで云う「射和」と「木綿」との間の「・・の欠損部」には、「・反」とし「数字」が、「射和の地名」の前の「・・の欠損部」には販売全体を取り仕切る「射和郷士(A)」の総称を“射和”としていた事が判る。

これで、「綿布」は「射和郷士(A)」の「差配頭」に届けられ、それが「青木氏(X)の商記録」に「情報」として伝えられていた事に成る。

この事から「差配頭」から「松阪木綿」は「近江商人(B)」の各店に分配されていた事に成る。
上記した様に、「監視や管理」も含めて「販売状況の把握」と「工程管理の進捗」を観ていた事に成る。
「商記録全体」を通して観るとこの事がよく判る。

これでも「射和郷士(A)」が関わっていたと成ると、「松阪木綿」が「販売営業力」に経験のある「近江商人(B)」の「専属の販売担当」であった事が判る。
「江戸出店」して成功した「近江商人(B)の事」に付いて書かれた内容を読むとこの事は明らかで“「木綿商人」”と表現するまでにあり、これを扱っていた事は明白なのだ。
唯、彼らが江戸にて成功を遂げたのは「享保期の後半以降」であり、この時は既に“「伊勢木綿」”も津域で生産されていて、これも“「木綿商人の表現」“の中に入っていたと考えられる。
故に、最終は、「近江商人(B)」は、温情を受けた「青木氏(X)」と「射和郷士(A)」とを裏切り「反目する態度」を取ったと考えられる。

彼らから観れば、「温情」という考え方より「根っからの近江商人」である事から、「運用資金」を「借金」で調達し返したとし、「原資」は「地権売却」であったとすれば、「青木氏(X)」等には“恩義はさらさらない”とする考え方が成立する。
「射和郷士の差配頭」の手紙の中を観ると、更には、江戸で成功を納めた「近江商人(B)」は、中には「吉宗の享保の改革」に貢献した「青木氏(X)」の「江戸の伊勢屋」の名を使って喧伝し「商い」を有利に導いた事があったと記されている。
合わせて、「青木氏の名」を上手く使った事も併記されている。
この手紙は「射和」がこの情報を掴み「福家」に報告した事への返信であろう。
然し、「青木氏の氏是」から“取り立てて騒がない事”が書かれている。

「歴史の後勘」から観ると、「彼らの立場」からすると、そうなるのかも知れない。
「射和」で「殖産の販売力」として「青木氏(X):青木氏と伊勢屋」の中で「松阪木綿」を扱い働いた。
そして「松阪木綿」で独立したとすると、それを紀州藩を背後に「殖産」として一手に扱った事は、まさしく「伊勢屋」であり「青木氏」である事を広義的に意味する。
“我々は、「江戸の伊勢屋」の出店だ”と主張しても「著作権」など無い時代におかしくは無いであろう。

この享保期後半の時期は、吉宗との路線の行き違いから「青木氏(X):青木氏と伊勢屋」は松阪に引き上げている。
故に、この事件は、尚更らの事であって、「氏是の事」もあり騒ぐことは得策ではないとして「射和郷士(A)」を宥めたと考えられる。

従って、彼らの精神は、彼らに執ってみれば「射和」は、“その一時の話”と成ろう。
故に、「射和」には一寺の「檀家寺」(顕教寺)があったとしても「菩提寺」がない事に成る。
つまり、“敢えて作る必要はなかった事”等が読み解ける事に成るし、更には「射和郷士(A)」も「寺」は許さなかったであろうことが判る。
この両方が一致すれば、「寺」を潰す事も充分にあったと考えられ、事を納めるには潰すしかなかったとし、「青木氏(X)」も「射和郷士(A)」の意見を入れて許して丸く納めたと観る。
筆者はこの「潰した説」を採っている。

これで、「射和郷士(A)」と「近江商人(B)」の担当領域は読み解けたが、難しいのは「紀州門徒衆(C)」の事であり、且つ、「松阪絹布・松阪紬」の事である。
何せ参考と成る資料が殆ど残っていないのである。
これには次の理由があった。

「絹」は古来からの物で、朝廷に部制度に依って納められる「朝廷の専売品」で、「余剰品」を除いて「絹物」は一般市場に出回らない。
これが高貴族に“「松阪紬」”と呼ばれた所以である。
当時は、「伊勢和紙」も「信濃和紙」も「甲斐和紙」も「近江和紙」も同じく「部制度」による「専売品」で、これを「四家四流の青木氏」が「青木氏部」を持ち「朝廷」に収めていた。
しかし、「青木氏部の努力」により「余剰品」が出て925年頃に市場に卸す事を許され、直ぐ後に「商い」をする事で朝廷の大きい財源と成る事から、特別に「四家四流の青木氏」に対して「朝廷」より「賜姓五役」以外に「氏族の商い」を「二足の草鞋策」を前提に特別に慣例を破って許された。

(注釈 この時から「武家貴族の青木氏」と「商人の青木氏」の「二面性を持つ青木氏」が生まれた。)

ところが、細々と「絹物」を「朝廷用」として生産していたが、江戸期に入り「徳川氏の後押し」もあり「殖産品」として「松阪紬」を生産し始めた。

これには注釈として、 「5千石以上の幕臣武士」を対象として許可を得て「絹衣着用」を許された為にその需要が増したが、貴重な「絹紬」は幕府が身分に応じてその着用を禁じた。
そして、「商人」などの「裕福な庶民」が使う「絹物」と、「高級武士」など身分の高い身分の者が着用する「絹物」との「品質」に差をつけた。
更に、「質素倹約令」に基づき「城」で着用する「紋付羽織や袴や裃」の絹物の使用は将軍からの特別な許可が必要と成っていた。
これを「絹衣着用のお定め」としていた。

(注釈 「青木氏(X)」は、この姿で享保期に将軍御座の前面で意見を述べる権利を所有していた。本来は格式か上座にある。)

厳しい「身分仕様の絹物」には、更に厳しい「括り」があり、取り分け、その中でも“「松阪紬」”は「古来からの超高級品」である事から「徳川氏の専売品」として納める事に成っていた。

(注釈 「秀郷一門の結城地区」で生産される「結城紬」も「松阪紬」と同じ立場に置かれ同じ事であった。)

(注釈 「青木氏(X)」が手掛けていた「古来からの藤白墨」も「朝廷の専売品」から時の「政権の専売品」と成り、一部は「朝廷」に流され、取り分け、明治期まで「徳川氏の専売品」(紀州藩総括)で市場には出回らなかった。)

注釈のこれと同じく「松阪紬」は殖産する事で何とか市場に出回るほどの「生産力」を保持し高めたが、「超高級品」として「紀州藩の専売品」と成っていた。
つまり、「青木氏(X)の殖産」により労せずして入る「紀州藩の超財源」と成った事に成る。
故に、前期した様に「本領安堵並みの地権」を「青木氏(X)」に惜しみなく与えたのである。

注釈として、徳川氏の幕府は、「紀州藩の成功」に真似て、「青木氏の定住地」にも「幕府領(「信濃 36村・甲斐 315村」)を確保して一部に「地権」を与え「二家二流青木氏」にも「和紙の殖産」と「養蚕の殖産」を命じた。

この様な背景があって、「絹の扱い」には「木綿」などとは雲泥の差にあった。

この差の面倒な「仕分け作業」を「紀州門徒衆(C)」に担当させたのである。

では、問題は、“どのような作業であったのか”である。この時代では不思議な作業であった。

それは、「検品、仕分け、仕立て、荷造り、搬送」とあり、これを“「五仕業」”と記されている。

つまり、上記の通り、「販売拡充の努力」は不必要で、「五つの定められた仕事」をすればよい事に成っていたのであり、むしろ、してはならない「仕業」であった。
「伝統ある松阪紬の殖産」には、「特別な伝統」と云う事に縛られて目的は「販売」には無く、主に「増産」そのものにあったのである。
当然に必然的に、「伝統に基づく増産」には、完全に近い「五仕業」が要求された。
粗製乱造では済まされない宿命が「松阪紬」にはあった。

つまり、これが”「五仕業」”と書かれている所以であっては、現在で云う「トレサビリティー」の事を表現しているのである。

「検品、仕分け、仕立て、荷造り、搬送」とは、「殖産の製造」を除いて、この「絹物の松阪紬」の「五つの工程」の間に起こるあらゆる問題を治めながら最終の「松阪紬」まで持ち込む作業なのである。
そして、「紀州門徒衆(C)」はこの「松阪紬を保証する役務」を負っていたという事に成る。
唯、最早、これは単に「松阪紬」を作れば良いと云う事では無く成っていた。
つまり、「権威」の“「保証と云う事の責任」”が伴っていたのである。

この時代の事であるので、この「トレサビリティー」には、首がかかる事もあった。
これを「青木氏(X)」と「射和郷士(A)」に代わって「紀州門徒衆(C)」が務めるのである。
つまりは、「和紙」や「木綿」などと違い「絹衣を着用する相手」が先ずは違っていた。

彼等には、上記する様に「生産量」は兎も角も、主に“「禁令」”と云うものが大きく左右し、その結果、何せこの「絹衣」には「武士や貴族」の「名誉や地位や格式や家柄」と云うものが絡んでいたのである。
「青木氏も同じ立場」にありながらも、これは「絹衣殖産」に依って生まれた「厄介な事」ではあった。
記録を観ると、「五仕業」の文字が出てくるのは、この「殖産」が始まって暫く経った頃(1635年前半の頃)の事である。

この事から、当初、室町期では、この仕業は「荷造り」、「搬送」程度であった様で、「直接販売」は無いので「納所」に届ける程度の事であったらしい。
ところが、「殖産「を始めた事が、「江戸期の禁令」に合った様に「検品の品質」に強い要求が高まりる様に成った。
暫くして「仕分け」の「絵柄や色合いや染め具合の要望」が増え、遂には、事前に「金糸銀糸」等の柄入れ、挙句は「絵柄」や「紋入れ」の特注等を含めた「着衣の仕立てまでの要望」が出されて来た様である。

これは、「絹衣着用」が「名誉な許可制」に成った事で、「許可」を獲得した「高位の武士間」の「ファション競争」に火が付いたと考えられ、金に糸目も付けずに高額なものと成って行った事を示す。
これは、古来から朝廷に納めていた”「松阪紬」”と云う「超高級品」を着ける事で「ステイタス」を示したかったのであろう。

(注釈 この意味で細かく規制した「節約禁止令」は「絹物」では逆に成って行った。)

この「厄介な作業」の「検品、仕分け、仕立て、荷造り、搬送」を、反元として「紀州門徒衆(C)」は熟さねばならない事に成った。
元々、「紀州武士」であるし、今も武士は捨てていない。
相当な抵抗があったと思われるが、「紀州郷士」と云えど「武士のステイタス」は理解されている範疇であったであろう。
彼らは懸命に取り組んだ事が手紙資料の中で報告としての形で書かれている。

そこで、先ずこの「五仕業」はどの様なものであったのかを書くと、次のようなもので簡単な「要領書」の様な形で書かれている。

そもそも、「検品」とは、名張や伊賀から届けられた「素地の反物」を先ず「禁令」に合わせて「上中下」の「品格」に目視で検品して分ける。

その「検品項目」は、「傷、巻込、不揃、色別」で判定した。

「傷」は、「傷・噛込み」が入っている事
「巻込」は、「塵・誇り・汚れ」が巻き込んでいる事
「不揃」は、紡ぎ悪い事
「色別」は、「光沢や色合]が悪い事

以上の「四項目」であった。

この「四項目」に全て合格した反物を「上格」であった。
「上格」の中で「色別と不揃い」が格落ちした反物が「中格」であった。
「傷」「巻込」が強く、「四項目」に格落ちした反物が「下格」として分けられていた。

(注釈 但し、「検品制度」を高めればより収入が得られるし、「検品情報」を提供して「伊賀や名張」の「紡ぎの段階の品質」を上げられれば、「紀州藩」、「青木氏(X)」を始めとして「松阪紬全体の工程」は潤う。)

こころから「仕分け」に廻される
「仕分け」とは、「上格」は禁令に基づき先ず「朝廷」や「絹衣着用」を認められた「1万石以上の大名格」の上級武士用に振り向けられる反物である。
「下格」とは、「老舗の絹物大問屋」に、「豪商などの商人用」、或いは、禁令に従い5千石以下の「中級の武士用」としても卸されるのが基本である。
最後に、「中格」とは、「5千石程度の中級武士」の「旗本や御家人」で、何らかのお墨付き(黒印状)のある「格式の家」に充てられる。
この「品格」にして「紀州藩納所」に納められる。(朝廷用は「上格」)

原則は媒臣等は禁止である。唯、原則として、「松阪紬」はその「朝廷品の伝統」であった事から「下格」の品は「商人用」には実質は廻らない事に成るが、密かに「納所」より高額を得る為に廻されていた様である。
これは、「高額な賂を獲得できる手段」として、「納所の紀州藩」は知るか知らぬか「市場」に流されていた事が追筆されている。

(注釈 長い間の話であり、「家臣の私的賄賂」であれば「青木氏との帳簿突合せ」から見つかる事は必定なので知っていたと考えられる。
そうでなければ「青木氏(X)」は「名誉回復の名目」にから指摘していた筈でその記録は無い。)

従って、「青木氏(X)」と「紀州門徒衆(C)」の「元締め」は次の様な事が起こらない様に差配した。

この「仕分け 1」として、次ぎの「仕業」をした。
上記の様な事が起こらない様に「仕分役」は帳簿を確認しながら慎重に行う。

次に「仕分け 2」として、次ぎの「仕業」をした。
「松阪紬」が「殖産」で増産され特定の市場に出ると成ると、より要望が必然的に出てステイタスを高めようと買い手側から「松阪紬」を扱う「役所の納所(なんしょ)」に「家紋」に合わせた「柄、色合」などの要望が「上格」の「買手」から事前に出されてくる様に成った。
又、「青木氏(X)」と「付き合い関係」のある「朝廷や大大名」からは、「ステイタス」の一つであった事から「贈り物」としてのこの様な特別注文が出るし、この為の「特別の仕分け」が必要と成る。

「仕分けの要望内容」に依って、「振り分け」の「仕業」をした。

「仕分け 3」としては、次ぎの「仕業」をした。
何処の「染物屋」に回すかの難しい「仕分け」もあり、その「要望の如何」に依って「仕分けの技量」と合わせて「染め物師の技量」をにらんで振り向けなければならない。
大変な作業で「検品」などの合わせた「総合的な目の技量の経験」が伴う。

これらの「仕分け」(1から3)は、「検品の影響」を大きく受け、相互の工程の「連携」が必要で、これらの「要望(情報)」を前工程に伝えておくなどの手配も必要と成る。
この連携無くして「仕分け」は成り立たない。

この中間工程、つまり、「仕分け」は「五仕業」の中核(主)を占めていた。

次は、「仕立て」は「上格の反物」に対して行ったものである。
「朝廷」が「幕府」を始め大大名の「引出物」、「冠婚祭の祝品」等として、「最高権威」としての名の下に「超最高品」の「絹物」を送るが、多くは古来からの「部制度」による「朝廷専売品」のこの「松阪紬」が用いられた。
これを「受ける者」は「最高の誉れ」(ステイタス)として受け取った事に成る。
取り分け、「婚姻や世継ぎ誕生」などには「仕立て」をして送る事が、「受ける側」には「朝廷の祭事の供納品」でもある「松阪紬」を送られる事は、これ以外に最高の比べ物の無い未来永劫に伝わる栄誉として捉えられていた。

この「伝統のある仕立て」を「青木氏(X)」外の氏素性の判らない「仕立屋」に出すのではなく、全て「青木氏(X)」の中で「完全ステイタス」を作り上げて“「賜物の松阪紬」”として贈られるものであった。
これらの「限られた依頼者」は、「賜姓五役」で勤めていた「朝廷」、「殖産籍」の中にある「紀州藩」、公家と繋がりのある「縁戚の伊勢秀郷流青木氏」、「青木氏同族の信濃青木氏」に限られている。

(注釈 「信濃青木氏」(小県郡)と「甲斐青木氏」(巨摩郡)は、後に強引に「幕府領」とされ「幕府の殖産地の地」とした。
この「江戸期初期前の養蚕地」は、関西中部域では、「伊勢」を始めとして、「信濃、甲斐、美濃、越前、越後、丹後」が記録としてある。
但し、これらは全て「青木氏の居住地」であり、その「青木氏財力」で進められていたが青木氏の滅亡した「美濃」は衰退した。)

この「松阪紬の配分」は、次ぎの通りであった事が書かれている。

「古来からの朝廷分(1割) イ」
「殖産主の紀州藩分(8割) ロ」
「青木氏の割当分(1割程度) ハ」

以上の割り当てに指定されていたらしい。

そもそも、「朝廷の分(1割)」には、江戸期に於いても「青木氏(X)」は、「朝廷の役職」の「紙屋院」と共に、「絵画院の絵処預」を務めていた事もあって、「幕府の目」があっても「手」を抜くことは出来なかった。
この「絵画の絹物分」もあって、「朝廷」は「伊勢和紙」も含めこれを「絵処預の絵師」の「土佐光信派等の絵塾」に「絹絵」を書かせ、これを“「最高賜物品」”として「絹衣や反物」と共に高位族に送っていたのである。

この様な傾向から、「青木氏(X)」は、その「元からの務め」であった立場から「朝廷への納品 イ」は、実際にはこの「1割」とは行かず、「出る限りの割合」を当てたいところであったらしい。
これは資料からも読み取れる。
然し、「青木氏(X)の殖産」であったとしても、今は「紀州藩の専売品 ロ」と成った現状では相当無理であったらしい。
「青木氏(X)」の「自らへの割り当て分(1割程度) ハ」と、少ないが「伊勢秀郷流青木氏等」への「割り当て分 ニ」、つまり、「青木氏(X)」の「割り当て分 イ」からの充当をして「裏の割り当て分 ニ」として調整していた。

その内から秘密裏に殆ど儲けの無い「朝廷分 イ」として工面して廻す事があったらしい。

(注釈 「朝廷分 イ」には朝廷の勢力の拡大を恐れて「幕府の目」が厳しい。)

恐らくは、「古来からの伝統品」という事もあり、且つ、薄利ではあったが、「権威の供納品」とする事で「衰退する朝廷への密かな肩入れ」であった事が容易に判る。
これで「朝廷」への「供納品のお返し」として高位族からの密かな「朝廷への見返り分」が大きく成り、強いては内々に「朝廷援助」が出来たからであろう。
「青木氏(X)」は江戸期に成っても「その務め」は続け、「賜姓五役」としてこれを期待して支えていた。
「紀州藩」はこれを黙認していた模様ではあるが、「朝廷の財力」が高まる事も含めて「幕府の目」もあり気にしていた様である。

この手紙の資料には、事の次第が「幕府の目」もあり明確に書けない様であって、この「松阪紬の状況」を報告した文章がある。
それには急に文章の中に意味不明な、「四家の長」の“「福家様の御仕儀」“の文字が出て来て、”何か“を匂わせている文面であり読んでいても判らない。
これは“何か”を知っていなければ解らないのであろう事が判る。

注釈として、筆者は、「朝廷分 イ」の「割り当て分」に対する「福家の指示」を「射和郷士(A)」の「差配頭」に密かに伝えていたと観ている。
この「福家の指示」とは次の経緯にあった。

そもそも、「殖産前」は、「朝廷と青木氏(伊勢神宮の供物」を含む)」の中で割り当てられていた。
これは、「朝廷と伊勢神宮の財源」に成っていた。
つまり、判り易く言えば、当初は「紀州藩(「伊勢籐氏の家臣団」)」との「打ち合わせ」では、「藩の借財」を返す「最高の手段」として、そもそも「青木氏(X)」と共に、「松阪紬」の「朝廷への献納の利」のここに目を付けていたものであった。

つまり、「松阪紬」を「権威の象徴の産物」として「政策的」に仕立てれば、“これ程の「見返り」は先ず無い”と読んでいたのである。
後は、これに「政策的な禁令」や「質素倹約令」等を添えれば成立する。
その為の「殖産」を「青木氏(X)」に任すとすれば、「紀州藩」は濡れ手で粟である。

これは、注釈として云うならば、今で云う「地域興し」の「松阪紬ブームのプロジェクト」である。

「権威の氏の青木氏(X)」の下で作られる奈良期よりの「伝統の朝廷専売品」を増産して「権威」で固められる「松阪紬」を先ずは世に出す事である。
それも、人が羨む「限定の範囲」での販売とすれば、権威に憧れていた江戸初期に「高級武士」には火が付く事は必定で、金目に糸目を付けない事と成ると観たのである。
「節約の禁令」の「裏の目的」はこれに火をつける「点火材」であったと観られる。
大名格は「黒印状」を授けられたとする「伝統の氏姓の素性の裏打ち」にも成る。
(殆どは詐称であった。)

然し、ここで疑問が残る。
「松阪紬の殖産」を続ける以上は、例え「伝統の物」であったとしても「殖産」である以上は、「利益」を上げる必要がある。
これ無くしては続けられない。
「朝廷の割り当て分(1割) イ」は、もとより続けていた関係上は伝統の「薄利」である。

そもそも、「朝廷」に執っては「殖産」は何の意味も持たないし、「殖産」だからと云って衰退する中で「値上げ」はあり得ない。
そうすると、「殖産の利益」を何処で取って「帳尻を合わすかの戦略」が「青木氏(X)」に必要になる。
当然に、に求める事は「畑方免令による殖産税」である以上は無理である。

恐らくは、この事で「紀州家臣団の伊勢籐氏」との間で、上記の資料の通り“「福家様の御仕儀」“の文字の意味する事から「検討」を繰り返したと読み取れる。
これが、この時の「会議の決定事項」を“「福家様の御仕儀」“と表現したと考えられる。

つまり、「秀郷流青木氏」等に廻す「青木氏(X)の(1割程度)の分 ロ」の「内訳とその内容」であった事が判る。
何故ならば、「秀郷流青木氏」は、この「殖産」に於いて“何の必然性もない”のに文中に書かれているのはこの「戦略の内容」であったと読み取れる。

“どう云う「戦略の戦術」か”と云うと恐らくは次の様に成る。
「秀郷流青木氏(伊勢籐氏含む)」の「広い付き合い関係」(幕府の家臣団も含む)から「高位族の者」が、“密かに「権威と伝統の松阪紬」を何とか獲得しよう“とすると、この「ルーツ」を通じて「依頼」があった筈と観る。
これを相手の「要求や身分」を観て、先ずは「下格」(中格を含む)を密かに振り当てる。
この「名目」を「伊勢神宮(遷宮地の関係諸社含む)」の「献納品」に置く。
「名目」としている「伊勢神宮」は、もとより「春日神社(藤原氏の守護神)」と「古来より関係性」を強く持っている。
つまり、「北家の最大勢力の藤原秀郷一門」とは、「守護神」である以上は疑う余地は完全に無くなり、「紀州藩」や「幕府」に対し「言い訳」(神宮献納品)に成る。

(注釈 「紀州藩」は当然に黙認する。紀州藩の「幕府目付家老」も仮にも知り得ても「幕府官僚集団」も同族の「武蔵藤氏」である。
「幕府目付家老」も紀州に赴任される以上は、恐らくは「藤氏の末裔」である。
そうすれば黙認はするし、「紀州藩の借財」が解消すれば「目付」としての「自らの立場」も成り立つ。
要は“「名目」”さえ成り立っていれば先ず文句をつける事はない。)

この“「名目」”を生かしながら、この「ルーツ」から「莫大な利益」を獲得すれば成り立つ事に成る。
この事前に承知していた「戦略戦術」を「名目」として“「福家様の御仕儀」”として表現したと云う事が判る。

注釈 その後の事として、上記した「信濃と甲斐と近江と越後と越前の幕府領」は、「米の生産石高」が安定して増えた「享保期」(12−16年頃)に「養蚕の殖殖産」が起こっている。
これは、「吉宗」が厳しく採った政策の恐れられた彼の有名な“「無継嗣断絶策」”に依る「公収化策」で、上記の「青木氏の定住地」が何と「幕府領」と成った。
“成った”と云うよりは、“した”である。
ここは「伊勢」と同じく「古来からの養蚕地」で、「青木氏の定住地」で、「青木氏の商業組合の組織」で、「資力」を蓄えたところを「幕府領」として、「地権」を安堵し与え、「養蚕の増産」を命じている事に成る。
これも見事に濡れ手で粟である。

この条件は、「吉宗」が「親代わりの膝元(青木氏)」で直に経験して観て来た権威性を持った「殖産の絹紬」がどれだけの「莫利」を得られるかを詳細に知っていたからの事であろう。
そして、この紀州の「権威と伝統」の「戦略と戦術」を使えば、「300両」しかなくなった当時の「幕府の御蔵埋金」を一挙に埋める事が出来る。
それには、何はともあれ「賜姓臣下族」で「志紀真人族の末裔族の青木氏一族」を利用する事に成る。
実績は紀州で作っていると成れば事は早い。

「信濃紬」、「甲斐紬」、「近江紬」、「越前紬」と「越後紬(「秀郷流青木氏と信濃青木氏))」等の「絹物」の「権威名」を着ければそれで済む。

(注釈 ここは「青木氏」が始めた「15商業組合」の「主要5地域」でもある。
この「無継嗣断絶策」は所領を持つ旗本・御家人までも含む「大小の武士階級」にまで適用され、「無継嗣」と見做された場合は問答無用で没収され「幕府領」とした。
「青木氏の定住地」には、恐らくは難曲を着ける、挙句は「土地の振り替え」で領主を追い出し、そこを「幕府領」とし、本領並みの「青木氏に地権」(元の天領地)を与えた。
然し、上記した様にその「領域の村域」が大きいのはこの理由による。
この為にも「青木氏の権威と資力」を見逃さずこの元の「天領地」を「幕府領」とした上で保護した。)

何せ「幕府領の養蚕の仕掛け人」は、当然に「吉宗と江戸の伊勢屋(青木氏)」とすれば何の問題もない。
つまり、「松阪」から人を送りこめば済む事であるし、呼び寄せればよい事に成る。
「権威と価格」に問題が出れば、「松阪紬」とすれば済む事である。
ある研究の資料には、”「御領紬」の呼称”が出てくるが、これがその事ではないかと考えている。
つまり、どう云う事かと云えば、上記の「幕府領」(徳川氏)は、「伊勢松坂」を含めて、元は天皇家の「天領地」(天皇家)と呼ばれた地域である。

(注釈 「幕府領」は別に「幕領」とも呼ばれ、これを間違えた明治期の研究資料が「幕府領」を「天領地」と呼んだ事から誤解が生まれた。
現在は、過去の資料より学問的にこれを正式に訂正されていて、「幕府領」と「天領地」とは区別されている。
「青木氏」に於いても「近江、松阪、信濃、甲斐」については「天領地」とした資料に成っている。
唯、「近江と甲斐」はその「天領地の範囲」が狭い事から「天領地」と「幕領地」の重複部がある事が観られる。
例えば、「源頼光」が派遣された「信濃国」は「天領地の守護」としてであったとする明確な学問的な資料もある。
当然に、「青木氏の始祖の施基皇子」が「伊勢天領地守護」として「三宅連岩床」を国司代として派遣した事も正式に資料として遺されている。)

この意味でも、”「御領地」”は本来の「天領地の総称」であって、その呼称を使って、江戸期中期には「「松阪紬」も含む「御領紬」として「権威」を持たせる為に意図的に呼称させたと観ている。
この呼称は、一般に出回る事も無く、且つ、「禁令の事」もあって憚って「高級武士の間での呼称」であったとされている。
況や、この呼称は、”「松阪紬」”の「伝統」に基づく「名誉と権威」として利用したと観ている。

これが、「青木氏の松阪紬」が基盤と成った大切な「青木氏」しか知り得ない「歴史観」である。

さて、この歴史観を前提に、この話は「五仕業」に続く。
ここで次ぎの事で、何故、この殖産工程が「仕事」では無く“「仕業」”としたのかが判る。

そして、その「仕業の呼称」から「松阪紬」を”どの様に仕向けるのか”、将又、位置づけるのかの判断をしたのかも判る。


そこで次は、「検品、仕分け、仕立て、荷造り、搬送」の“「荷造り」”の工程である。

普通なら、この「荷造り」は「技職の業」では無いであろう。
ところが資料を読むと単なる工程では無かった。
相当に、「前行程の仕立て」までの「権威性」を計算した恣意的に利用した「技職の業」である。

上記の朝廷の「供納品」や「賜物品」に、「より権威性を持たす方法」が下記の通り二つあった。

一つは、「反物」、或いは「仕立物」の「宝飾荷造り」である。
二つは、「宝飾荷造り」に「権威の影」を染み込ます事である。
この(一)と(二)で一対として、「伊勢神宮」に「神の御霊入れ」を祈願して「御朱印」を授かる事にある。

この作業を一手に引き受ける事に成り、この為に「装飾技能」や「反物、仕立物の漆箱等の技能」が要求された。

そもそも、この「装飾技能」と「漆箱の技能」は、「紀州郷士」の彼らの「元からの特技」であり全く心配はいらない「彼らの本職」(「技職の業))であった。
「装飾技能」と「漆箱の技能」を「技職の業」でないという人はまさか居ないであろう。

それは何故かと云うと、次ぎの様な経緯があった。

注釈 そもそも「紀州」は「南紀」には「熊野神社」と、「北紀」には「伊勢神宮の最後の遷宮地」で多くの「伊勢神宮系の遷宮神社」(4社)が存在する。
この「熊野神社」や「遷宮地」の門前町には「祭祀に関係する技能」が古くから多く広まって集まっていた。

その一つが「装飾技能と漆技能」であり、現在もその伝統は継承されている。

(注釈 「紀州漆器」は、「三大漆器」の「輪島塗」と共に有名で「紀州漆塗」は「古来からの伝統芸能」であった。
現在はこの「漆器伝統」が、江戸中期に分流し二流、つまり、「黒江塗」と「根来塗」に分かれて遺されている。
分流した原因はよくは判らないが、そのきっかけは平安期末期と室町期末期の混乱で「近江の木地師」”が紀州に移り住んで「木地物」を広めた事から、これを「椀物」と「塗」とを組み合わせた事に成っている。
時期的に観ると、「紀州郷士」の「紀州の北紀殖産」を導いた「名手氏や玉置氏の保護」を受けていて、何か「射和との関係性」を持っているかも知れない。)

(注釈 そもそも、「近江木地師」は、「近江関係氏の資料」の「近江の佐々木氏系青木氏」の項の論文によれば、「近江木地師」は「近江佐々木氏系の青木氏部」に所属していた筈である。
ここには、平安末期の「近江の源平戦」で敗退し、更に「美濃の源平戦」でも敗退し、「佐々木氏系青木氏の滅亡」にて分散したとある。
そして、「近江佐々木氏」が一部を囲い、一部は伊勢等に移動したとある。
この時の「木地部」が、「近江佐々木氏」が室町期末期に衰退して「木地師」は「紀州」に移動し、平安末期には「伊勢」に飛散したと読み取れる。
そもそも、「木地師」とは、「仏像」を始めとして「木地に関わる生活用品」を幅広く作る「職人」であり、平安期には「賜姓族」であった「青木氏」には無くてはならない「青木氏部の職人」であった。)

(注釈 論外ではあるが、ここで「二つの疑問」が残る。先ず一つは、「近江木地師」は何故、、紀州紀北に移動したのか。二つは、何故、「紀州漆器」が二つに分流したのか。この「二つに疑問」が残る。
そして、この「二つの疑問」が「射和との関り」にあるのではと考えた。
一つ目は、現在の地元の定説は単に移り住んだとある。当時の掟では許可なく理由なき移動は認められていない。確かに「近江佐々木」は衰退を続けたが、それでは「移動できる条件」にはならない。
ただ「紀州」は、「木の国」であり、「漆の最大産地」でもある。「木地師」に執っては「絶好の定住地」と成るだろう。しかし、それだけで「移動できる事」にはならない。
これには「伊勢の青木氏部」に組み込まれた同族の「一団の木地師」との関係が出ていたのではないかと考えていて、それが「射和」と結びついてると考えている。
これには何か「歴史的キーワード」がある筈である。その「歴史的キーワード」が「分流した原因」でもあると観ている。)

(注釈 この「歴史的キーワード」を解く鍵は、「江戸中期前後」と「秀吉による根来寺荒廃」にあったと観ていて、「秀吉」に依って徹底的に潰された「根来寺」を江戸中期前後に「吉宗」と「紀州藩」が庇護して伽藍を修復したとある。
つまり、「紀州」と「江戸中期前後」とは、”「吉宗に関わる事」”に成る。
「青木氏部」に組み込まれた「近江木地師」を、「漆器職人」を生業としていた「紀州門徒衆(C)」を「射和」に呼び寄せて「養蚕の殖産」を成功させた。
ところが、「吉宗」が引いた後の紀州藩は放漫な藩政に依って再び「借財態勢」に成った。
そこで、「射和の成功体験」をもとに「吉宗」は、「射和の経緯」もあり「青木氏(X)」と相談の上で、「伊勢の青木氏部の近江木地師」を「紀州藩の財政立て直し」と「根来寺の再建」を図る為には逆に「伊勢」より「根来」に差し向けたと考えられる。)

(注釈 「青木氏(X)」は、江戸中期前後、つまり「享保期末期(1751年没)」の直前に表向き理由として「吉宗との意見の違い」にて江戸を引き上げているので、その直前にこの「木地師の配置」を決めたと観られる。
これで、現実に奈良の国境の「根来」は息を吹き返した。
そもそも、「吉宗後の紀州藩」は「借財体質」に再び戻った事からも莫大な金額を要する「根来寺伽藍修復」は「吉宗と青木氏の援護」なくして出来る事で無かった。
この仮説が「上記の疑問条件」を解決する。)

(注釈 「根来寺」は高野山の麓の真言宗寺であり、忍者の里でもある。「雑賀集団」と共に反抗集団として恐れられ五月蠅がられた。
「吉宗」はこの「根来衆」を鎮める為にも「伽藍修復」と根来発展」と云う上記の手を打った。
この「二つの地域」には「木地と云う姓」が多い所以でもある。
これが江戸期に二度行っている「青木氏」の「紀州藩勘定方指導」と云う事に発展していったのではと考えられる。)

その「古来からの伝統ある技能」を家内工業的に彼らの「唯一の収入源」として「紀州郷士」等が継承していたのである。

この「荷造り工程」の前の「三つの工程(検品、仕分け、仕立て)」は、何とこの「荷造り工程」に付き物の工程なのであった。

彼等には身寄りもないこの「伊勢松坂射和」であったが、この難しい「五仕業」は当に“水を得た鯉“であった。
だから、「門徒狩り」のほとぼりが冷めた後も彼らは「射和」を飛び出さなかったのである。
これは「青木氏(X)」と「松阪郷士(B)」の判断であったが、より「松阪紬の権威性」を高められる手段を模索する中で、確かに「扱いに問題」はあったが「天の巡り合わせの様な出来事」であった事が判る。


さて、その「彼らの行動」は、それどころでは終わらなかった様だ。
「天の巡り合わせ」と云っても、そもそも、この「五仕業」には「人手」が多くかかる。
この事は、「青木氏(X)」から高度な仕事(仕業)を与えられた瞬間から判る事であった。
合わせてこの事は、この「五仕業」が「高度な職能」である限りは「射和郷士(A)の手」を、借りられない事は直ぐに判る。
当然に、「青木氏(X)」と「射和郷士(A)」との間で相談に入った筈(手紙の一説)で、「解決策」は当然に直ぐに提案された事に成る。

それは、「唯一の策」として、“紀州から彼らの縁者一族を呼び寄せる事”にあった。
これには、「国抜けの禁令」が障害に成る。一族郎党の斬首の重刑である。
彼等自身(紀州門徒衆)にはこの事は何とも仕難い事である。

そこで、「青木氏(X)」は動いた。
「紀州藩(伊勢籐氏家臣団)」に隠密裏に掛け合う事であった。
「紀州藩」はこの事を許可しなければ「借財」は疎か「税の収入」も激減する。
それどころかこれらを解消させる「殖産」が成功しない。
況してや、「絹衣」は「他の殖産品の木綿等」と比べても比べ物にならない「高額収入源」であり、「紀州藩」としても「権威の象徴」として広範に利用できる。
更には、藩としての「借財」は返せて、且つ、「権威と名誉」は保て幕府に大きい顔が出来る。
この最大の問題の鍵はこの「国抜け罪」である。

然し、「見事な殖産」を「青木氏(X)」と共に仕立てた「賢明な藩主」は、要は、「国抜け罪」<「殖産」=「借財」と間違いなく考える筈である。
後は、「伊勢」には「南勢と北勢」に幕府の「四つの代官所」を置いているが、この「幕府の目」をどの様に反らし「国抜け罪」をどう繰りぬけるかにあった。

然し、積極的で賢明な「藩主」は、「遷宮神社」の「門前町の職能者」の「彼らの一族一門の郎党」を「射和」に送りこむ事を決定した。
それには、「門前町職能の現能力」を下げずに「門前町職能者」の郷士の「次男三男の部屋住み」を密かに「射和」に送りこむ事にして、そして、彼らに秘密裏に「通過鑑札」を与えた。

(注釈 この「遷宮地門前町」は、城下の直ぐ東側に繋がる様な位置にある。
そして、この紀州藩城下にある「遷宮地」は、真東の奈良五条を経由して、そして、「名張」−「射和」に通ずる「一本道の位置上」にある。
つまり、距離は「射和」まで約130Kmであり、容易にこの計画は、無理なく、即座に、且つ、円滑に、極めて早く実行できる可能性がある。
急がねばならない。人の歩く速度約10Km、一日12時間として昼夜のほぼ一日で着く。
関所は五条の一か所、地形は殆ど平坦で名張まで来れば迎えが入る事で、荷駄と人は早くなり最早安全である。
戦略は当然に「風林火山」である。
「紀州藩の家臣団」は目立たぬ様にそれとなく護衛している事と、一団を「カモフラージュ」する役を演じる事にも成る。

(注釈 実は、呼び寄せの「別の証拠」として、「紀州北紀の郷士」で「射和」に来ている一門の「玉置氏」がある。
この「玉置氏」は、「筆者の母方」の「江戸期の出自先」で、「醤油と酒」を製造し、「搬送業」も兼ねていた。
この「搬送業」での口伝では、「松阪射和」まで運んでいた事が伝わっている。
何を運んでいたかは明らかではないが、恐らくは、当然に「射和の一族」に「醤油と酒」を運んでいた事は判る。)

実は、この彼らの一族郎党を呼び寄せた証拠が記録として二つ残っている。

先ず一つは、「射和地区の北側」は開発をして定住した地域なので「紀州郷士の姓」は多いが、ところが、「西側の近江商人(B)」の定住地域には「紀州郷士の姓」(前段でも論じた)が「住み分け」をしている筈の中でこれまた多いのである。
これは何故かである。
この時代は「争い」を避ける為に「住み分け」を原則としている以上は、西側には無い筈で、「松阪郷士(A)の土地」でもあり、「自由な住み分け」は殖産工程上も当時としては先ず起こらない。

ところが「時系列的」に観ると、「近江商人(B)」が江戸に出始めた享保期後半に集中している。
これは、この時期に「紀州門徒衆(C)の開発定住地」の「射和北側」から「櫛田川の川洲域」の「西側」に向けて降りて来たという事に成る。

これには、記録上で二つ理由がある。(呼び寄せた「二つ目の証拠」)
一つが、「射和北側」では「五仕業」の工程が山間部である為に手狭になった事。
これを解消する為に、その「工程の流れ」を「射和北側」の定住地の中での「横の流れ」から、「射和川洲向き」の「縦の流れ」に変えれば「最終の搬送工程」は直ちに「舟」に乗せての「便利な工程」の流れに成る。
幸い「近江商人(B)」は江戸に出て空き地と成りは始めた。
工程を熟す「住まい」をその方向に建て替えてゆけば成立する。

(注釈 彼等にも「五仕業」の御蔭で「資力」は出来た。「青木氏(X))も援助する。)

二つは、「近江商人(B)」が担っていた「松阪木綿」を扱う者が居なくなった事。
「近江商人(B)」は、結局は、「青木氏(X)」と「射和郷士(A)」等と反目して一族を「射和」に遺す事は到底出来なく成った。
この結果、「松阪木綿」の「販売」を誰かに委ねなければならない。
そこで、「射和郷士(A)」は、「青木氏(X)」の了解を得て、子孫拡大する「紀州門徒衆(C)」に依頼し、その条件として「西側の使用権利」(地権も含む)を援助の形としても譲った事に成った。

紀州から逃避して来て、「青木氏(X)」に保護された「紀州門徒衆C)」と、その呼び寄せられた一族は、「五仕業」に依って生活は一度に裕福になった。
「子孫」も養えるし、彼らの名誉を回復して郷里にも顔が立った。
この経緯が「紀州郷士の姓」が多くなった理由である。

さて、次は、「搬送」である。
この「搬送」は、”単なる前工程の絹物を特定先(上記)に運べばよい”という事では無かった。

先ず、「一つ目の搬送先」は、松阪にある「紀州藩納所」である。
搬送には領内であるので問題はない。

次ぎの「二つ目の搬送先」は、「朝廷」で京まである。
「高額品」であるのでこれは慎重にしなければならない。
「護衛」を着ける必要があり、「伊勢シンジケート」に「射和郷士(A)差配頭」を通じて手配が必要である。

最後は、「三つ目の搬送先」は、「青木氏の割り当て分(1割相当)」からの「伊勢神宮献納品」である。
これも問題はない。

先ず「搬送品」を筵で包むような事は出来ない。それなりに装飾を加えての「御届け物」に成る。
「朝廷」には、「天皇家」に納めるのではなく、「朝廷の式典」の「供納品」として納める事に成る。
従って、「荷駄」には「式紋の五三の桐紋」の敷物が古来から使用された。
荷駄には旗が立られて運ばれるが、周囲は荷駄に対して最敬礼であった事が書かれている。

「紀州藩」の納所には、徳川氏の「式紋の立葵紋」の敷物が使用されたと書かれているが、これも朝廷荷駄ほどではないが、邪魔や追い越すなどの無礼は無かったらしい。
何れもそれだけに、「搬送」は「権威」を落とさない様に周囲を固めて運んでいたらしい。

後は、「青木氏分の割り当て分(1割相当)」より充当した「秀郷一門への搬送先」は松阪北側の湾寄りの四日市と津の中間位置にあった事から、直納した事が書かれている。
これには余り荷駄を公には出来ず、速やか密かに屋敷に届けた事が判っている。
その内容を書いた「要領書」の様なものがあってそこに書かれていたらしい。

(注釈 「青木氏分の割り当て分(1割相当)」とは、一定の生産計画分より「増えた分」を「青木氏の割り当て分」としてプールし、それを「秀郷流青木氏」を通じて密かに廻していた事に成る。
紀州藩には表向きは「秘密の分」であったらしい。黙認されていたと観られる。
「増えた分の差配」は「青木氏(X)」と「射和郷士(A)」と「紀州門徒衆(C)」の三者で密かに決めていたと観られる。
この三者に対してその増分から得られる「利の配分(利得分・割り増し分)」もあったからだと観られる。)

何れも、四者に届ける「搬送役の要領書」が独自にあったらしいが見つからない。(消失か)

そして、この「要領書」の様な中に、彼らの「搬送の本領」が書かれていた様で、それは、つまり、「実質の営業」であった事らしい。

つまり、「状況証拠」から、先ずは、次ぎの手順を踏んだらしい。

「届け先」に着くと「届けの確認」と、「次ぎの要望」等を取りまとめて聞いてくる事。
場合によって「発注量(納品量)」と詳細な「要望の把握」と「納品期の要望」にあった事。
時には、「厳しい交渉」(苦情含む)が丁々発止で行われていた事

以上の様な事であったらしい。

「松阪紬の殖産」の南勢から始まる桑から始まり「玉城−名張−伊賀−射和」の「すべての状況」を把握していなければ務まる役目ではない事が判るし、相当に「知恵と経験のある者」の「重要な役目」であった事が判る。

筆者は、この「重要な役目」は、「紀州門徒衆(C)」の「総元締め」が務めていたと考えている。

これで、「松阪紬の殖産化」での「五仕業」の事は論じたが、上記した様に、後発の天領地の「青木氏定住地の養蚕(御領紬)」もほぼ同じ経緯の歴史観を保有していた事は間違いはない。
元々、何れも「朝廷の天領地」であった処を、豪族に剥奪され、それを「吉宗」がここを「幕府領」として強引に取り戻し、「地権」を与えて取り組ませた。
全く「伊勢青木氏の経緯」(「青木氏X」)とは変わらない「共有する歴史観」が起こっていたのである。

本段は、著作権と個人情報の縛りの中で「伊勢の事」を少ない資料の分析を以ってそのつもりで論じた。



> 「伝統シリーズ 39」に続く



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