青木氏氏 研究室
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  [No.374] Re:「青木氏の伝統 52」−「青木氏の歴史観−25」
     投稿者:副管理人   投稿日:2019/09/20(Fri) 10:14:07

> 「青木氏の伝統 51−2」−「青木氏の歴史観−24−2」の末尾
>
> さて、これで「同位」の「四掟」がある程度が叶ったとして、これを結果としては押し切った事に成るだろう。
> 「伊勢と信濃の青木氏側」は“「源氏化では無い」”として妥協したと云う事に成る。
> 1178年頃から「以仁王の策 (1178年) 乱(1180年〜1182年)」は進んでいたとされているので、少なくとも直前に「頼政の説得」を受けて「1176年〜1178年頃」に「頼政子孫残存策」として「青木氏側」から嫁した事に伊勢では成る。但し、誰に嫁したかは解っていない。
> 「信濃」は女を嫁家せずに「国友」を入れた事に成る。
> 従って、伊勢の場合は「妾子の京綱」は最低でも「1歳か3歳」に成っていた事に成る。
>
> そもそも「妾子」は「青木氏」の方が「官位格式位階」で何れもにも上位であっておかしい事から「当初からの策」としては「裏向きな嫁ぎ」であったと観られる。
>
> つまりは「四掟を護る原理主義」の「伊勢青木氏側」では「影の策」で逃げたと考えられる。
> 「信濃」は「伊豆」をつかった別の策を講じた。
> この「低年齢」での「頼政側」から観れば「青木氏への子孫残存策」と成るが、「伊勢青木氏側」から観れば、これで“「桓武平家」を納得させられる”と考えた事に成る。
> つまり、“「源氏化・姓化」では無い”とする姿勢で表向きには見せた事に成る。
> 上記の「桓武平氏と青木氏との血縁の関わり」は、検証の通りで明らかに“「桓武平氏側」にあった”のであるから、「京綱の年齢」からも納得は得られた事に成るだろう。
> 現実に、この「2年後」には「以仁王の乱の敗戦」に依って「頼政の孫」の「宗綱・有綱等」の「助命嘆願」(廻村配流)を聞き入れられているでは無いか。




「青木氏の伝統 52」−「青木氏の歴史観−25」

さて、次は「信濃」が関わった「伊豆の問題」である。

「1159年」に「伊勢と信濃」が「伊豆」を管理する事を目的として「頼政」に頼まれて入り、その後、20年の間に「融合族」と成った。
そして、「商い」で「伊豆」を治めようとしていた。

「信濃の国友策」
そうすると、殆ど同時期に行われている「信濃の国友策」も「経緯と事情」は同然であったであろう。

この「国友」の事では判る範囲としては、一部の記録では、「若狭」の生まれで「妾子」で表には出て来ていない人物であるとしている。
そのルーツは「摂津源氏四家」に在るとしている。
但し、別の「国友」に関する資料では時代性が大きく一致しない。
然し、「青木氏の資料」では「信濃は国友」と成っている。
恐らくは、実態は殆どは同然であったと考えられる。
唯、この別の「国友の資料の真偽性(時系列が余りにも違い過ぎる・300年程度)」が疑われるので参考にならない。

「信濃」のこの事に関する研究が難しい為に「経緯」が読み込めない。
然し、実は前段でも何度も論じているが、これには「頼政と仲綱の所領」の「伊豆」にあると観られる。

それはこの「伊豆」は、前段でも何度も論じた様に、「伊勢と信濃の融合族」で守護し固守したとする「青木氏の記録」がある。
筆者は、結論から先に云えば、此処の「信濃の跡目」に入ったのは「頼政の一族」で「若狭」から廻された「国友・妾子」が、ここから更に「伊豆」に入ったと観ている。

「京綱」の様に若くは無かった事も解っているので、先ず間違いは無いだろう。
「伊勢の京綱」と「信濃の国友」とには「措置」が少し違った事に成る。

(注釈 この時期の「伊豆」には「仲綱の子有綱」がいたとする説もある。
この説は「以仁王の乱」に参加せずに生き残ったとする説である。
この説では「義経」に従い北条氏に大和国で打ち取られたとしている。
これは間違いなく江戸初期の「搾取偏纂説」である。)

筆者は、記録のある様に「廻村配流説・日向青木氏説」を採っていて、「以仁王の乱」に参加して「平等院」に追い込まれ「伊勢の嘆願」で「配流」と成った説である。
現実に「廻青木氏・日向青木氏」を遺している。現存しているのである。

「伊豆守護の有綱説」の搾取は、「2年程度の相当準備した乱」を起こそうとしているのに、そんな時に「実子の次男有綱」の「伊豆偶然説」はおかしい。
そもそも、「摂津源氏」が「自分の勢力」で護れるのであれば、1159年に何も「伊豆」に「伊勢信濃融合族」が配置される事が無い筈である。
抑々、「頼政」は京に遙任しているのであるし、且つ、そこに「祖父の所領地」に「孫」が赴任する事がおかしい。
もし、「有綱」が奈良に居たとするならば平家は決して放置しない。

実は記録では「頼政」は「乱の2年前」に一度伊豆に出向いている。
そもそも、「父の頼光」でさえ「三天領地の守護代」で済んでいて「所領地」は持っていなかったのである。
確かに「頼政」は「正三位に成った事」から「清盛」に推薦されて「伊豆所領地」を与えられている。
これは「珍しい事」なのである。
つまり、「所領地」であっても記録からは「完全な所領地」ではなかった。

(注釈 「伊豆の守護代」は「1159年から数年間・遙任」で「藤原氏系の守護代」と「平家一門の守護代」で何度も変わっている。
「頼政より摂津一族の二人」で続けて務めていたが、乱後は頼朝幕府の家臣で務めている。
これは「所領地」としては完全に認めていなかった事に成る。)

そもそも、この事で、故に、「自らの軍」を置く事を禁じられていたのであって、「清盛」は「伊豆」を拠点に関東で反乱を恐れて、その「所領地」を「軍」では無い「伊勢信濃族」に護らせたのである。
この事に就いての記録が遺されている。
明らかに史実は完全な所領地では無かったのである。
其処に有綱説は可笑しい。

この「軍」では無い「伊勢信濃族」に護らせた理由は「伊豆を拠点に貿易」をさせて治めようとしていたのである。
つまり、平族は「伊賀」で伊勢青木氏と関係があり、青木氏出自の「光仁天皇」の妃の「高野新笠」が「伊賀出自」であり、平家の祖でもある。
その青木氏が摂津港で「宋貿易」をし、「殖産」をしている「伊勢信濃青木氏」に管理させようとしたのである。
「清盛」も同じ事で同時期に「湾湊」を造る等をして「商い」を以て「大宰府域・九州北部域」を現実に治めている。

(注釈 1025年頃には「伊勢と信濃」は「殖産」を通じて「宋貿易の大商い」をしている。
前段でも論じたが、「清盛」に「殖産」から「貿易」を教えたのは伊勢資料では「伊勢と信濃」であると語っている。
この「伊勢と信濃」はそもそも軍は待たない「抑止力」であった。
又、「960年頃」から始まった「補完役の秀郷流青木氏」との「繋がり」も「220年後」のこの時点には「大富豪の商い」で氏族は出来ている。
これの意味するところは、当然に「賜姓五役の莫大な献納金」が「天皇家」に入って来る事に成るのだ。
これを態々小さい事で目くじら立てて見逃す手は朝廷には100%無いだろう。
故に「記録通り」の“「伊勢信濃青木氏」に管理させた”とするのが正しい。
「武蔵」を拠点に全国的に子孫を広げていた「補完役の秀郷流青木氏」の意味を理解すれば充分にこの説は証明し理解が出来る。
“「伊勢信濃青木氏」に管理させた”とするは同時にこの「補完役の秀郷流青木氏」の力が背後にあると云う事でもある。
「伊豆」の隣は当に相模・神奈川であり、「補完役の秀郷流青木氏」の勢力圏である。)

この様に注釈での時系列が一致する。
上記の注釈の故に、「以仁王の乱」が起こっても「摂津軍」で無かったから攻められなかったのである。
仮に、「摂津軍」であれば「関東に常駐していた関東守護の平家軍・桓武平氏・たいら族」に今一番に攻められていた筈である。
「乱」を起こそうとしている時に「伊豆」に「主力軍の伊豆守護軍」を置く事の事態がおかしいし、「神明社一社も直せない摂津源氏」がどうして「摂津外の伊豆に軍を置けるのか甚だ疑問で、「有綱説の稚拙さ」の搾取が見える。

「青木氏の資料」と「近江佐々木氏の資料」でも、その証拠に「融合族」を送ったとしている事と、現在も「伊豆」には現実に「信濃」の様に「村全体」に「青木氏・青木村」を形成しているのである。
「村」が遺されているこの事を理解すれば「伊豆の位置付け」は判り、これを明確に論じている。
この「伊豆の青木村」などの事は詳細に論じれば証明できる。

注釈の結論は、要するに「系譜」に出て来ない「妾子国友」にあるとしている。

恐らくは「有綱説」はこの「国友説」を混同したか利用して搾取したと考えられる。
利用して国印状取得の搾取説に間違いはない。
だから「論理の矛盾」が生まれているのである。

多分、「源氏傍系ルーツ説」を名乗る為の「江戸初期の国印状取得の後付け説」であろう。
これを使う事で得をした豪族が居た事に成る。
想像は着くがそれは議論が広がる為にここでは誰かは判らない事とする。

さて、「伊豆の事と国友」の検証から、更にこの「国友の出自と信濃」について検証を進める。
実はこの「国友の母(妾)」は「若狭(国友の出生地・妾の里)」である。
つまり、「近江の最北端・京の右横・福井の最西端」には「清和源氏系の源氏の勢力」がこの時代に一部存在したとする「記録説」があり、その「土豪の領域」があったとしている。

(注釈 史実はここには「嵯峨源氏の末裔」が土豪化して細々と住んでいた。この史実を利用したと観られる。
この土豪化した「嵯峨源氏の末裔」を摂津に呼び寄せて「清和源氏の満仲」は武力集団化を始めてしたのである。この「妾」もその流れから来ている可能性がある。)

ところがこの説に従えば、その「領域の若狭」には「幼少期の国友」は長くは居なかった筈で、恐らくは「妾の里」であろう。
従って、下記の検証でもこの「若狭」は直接の関係性は無いと観られる。

この「国友の母」の「妾」の事を考察すると、「摂津清和源氏の四家」の一つである「頼綱系」の「三男国房」の「妾」であった事が史実として判っている。
その「妾子」で、この「妾子」が「頼政」の「養子」か「義詞」としたとする説がある。
「頼政一族」には「実子の三人」の他に、「養子の三人」と、「義詞の数人」が居た事が判っている。
「国友」はこの「義詞」に成ったと考えられる。
「養子の三氏」は「四家の子供」が「頼政」に入ったと成っている。

筆者は、間違いなく「妾子」である事から、記録には大きく載らない所以はこの「義詞説」であると観ている。
「近江佐々木氏の資料」にも簡単であるが、「青木氏の資料」と共に「信濃青木氏」の段で、“「若狭国友の跡目記載」”がある。
間違いは無い。

さて、ここで「若狭」に遺された「郷土史」の「寺請文記録」の中に“「国友」”の名が出て来るので取り敢えずこの真偽を査定して置く。

これは、これには「河内源氏」とあって「源氏説」であるが、ところが此処はそもそも住み分けから「摂津源氏域」であって「河内源氏」では無いので先ず全く違っている。
昔は続柄や路線が異なると「争い」を避ける為に「住み分け」と云う手段で知恵を出していた。
これはこの答えから「郷土史の江戸期初期」の「後付け」の「間違い」であろう。
更に、又、一部の資料には「国友」は「群馬にいたとする説」もあり、何れも利用された「後付け説」であろう。

そこで、先にこの二つの事を始末検証する。
兎も角も、「群馬の事」は笑止で別として、もう一つの上記の「源氏説」の「国友の存在」を示すとする「寺請文」とするものがあって、これを証拠にしている。
これにはその證文は「大疑問」がある。

この「寺請文」とするものには、先ず、その「寺請文」をよく観察すると、これには“墨が掠れていて中央に縦に消した跡”がある。
これを「崩書」で「正安の四年」と「郷土史」では読み込んでいる。
そして、これを「1302年4月」と「別段後書き」で追記している。
そもそも「正安」は、実体は「1299年」までである事で何と“「4年」”も「後書き」の100%の間違いを起こしているのだ。
そもそも、西暦を「別段後書き」の「添書」で入れるという事は「明治後の事」である。
そして、ところがその「ずれ」は1年は未だしも「3年」も「ずれ」ているのである。
この「ずれと間違い」でも充分に「ある目的」の為に先ず「後付け」と「添書」の二つの方法で「郷土史に手を加えた事」が判る。

この時、時代は「改元」が時代的に珍しく少しずれて1302年12月に行われている。
それは「4月後の事」である。
この事を知らずに書き込んで仕舞ったと云う事だろう。
「郷土史」が相当後に成ってこれを説明するに及んで「西暦」に表示するのは「後付け説の証拠」でその思惑が判る。

次に、更に「決定的な間違い」を起こしている。
「源氏族」、「国友」は上記した様に「清和源氏」で「摂津源氏」である事は確実に判っている。
としているので、「源氏族」は、抑々どんなに生きていたとしても歴史的に、一切、“「1221年」”に完全滅亡している。
そうすると「1221/1299年」では「78年」、仮に「1221/1302年」にしても「81年の前」に「国友」も含めて滅亡しているのである。
「国友」の判る範囲の年齢から観れば、「120年のずれ」が起こる。
明らかに「後付け説」である。

更に、未だある。
この「寺請文」には「恣意的説」とも執れる「かすれ気味」にして、その中央を二本の太線で消している。
この様に成っている「崩書」を「正安」と読める様にした事が間違いである。

これは明らかに“「治承」”の記載である。
「治承」とすると、その四年は「1180年(頼政没)」であり、「治承寿永の乱」の通りに「1180〜1185年」である。
「治承」は「1177年〜1181年」である。
「治を正 承を安」と恣意的に、且つ偏纂して読んでしまった事の大間違いである。

「国友」に依らず、”「河内源氏族」”そのものが完全滅亡しているのに、搾取にしてもよくも「偽の寺請文」を造り上げたなと思う。

検証は未だある。
「国友」の“「寺請文記録(年貢と村統治に関する報告書)」”は間違いだらけのものである。
そもそも、“「寺請文」”とは「村寺の寺領」の「委託管理状態」に対する「寺への報告書」である。
「寺領」を管理してもらっていた「農民か村の代表の組頭か庄屋」が行う仕事である。

前の検証の通りの間違いだらけではあるが、これは「上塗りの間違い」で「源氏の国友」がそもそも行う事は100%無い。
「読む」と云う前の何かに利用された「後付けの搾取書(大変多い)」である事が判る。
「江戸期初期の系物」はこの様に「矛盾だらけの後付け」であるのだ。

これは、各地の「神職や住職」がプロとして裏業で行った江戸期初期に横行した「家柄証明の国印状取得」の搾取であろう。
「第二の姓」から身を興した者の「家柄証明の国印状取得」の為の搾取で、この「若狭の妾子」の伝記を利用したものである。
「河内源氏説」も都合よく合わしたのであろうが記録と違っている。

これ等の「搾取」は、“周囲が歴史的な事を知らないだろう”として「弱み」に付け込んでの行為であった。
「上野」のものは読むにも値しない「矛盾」があり「若狭」も斯くの如し同然である。


そこで、これらを前提にして、「信濃の国友の正しい経緯」は次の通りである。
「若狭」の「妾子の国友」を一度「信濃の跡目」として入れて、それを今度は「伊豆」に「頼政指示(義詞の理由)」で廻して「信濃青木国友」で護ったと考えられる。
これで「信濃」は「源氏化の影響」から「平家」からも「疑い」を持たれずに逃れられ、「伊豆」も「伊勢信濃と観られる事」で逃れられるとした。

現実に「伊豆」は「頼政守領地(遙任地)」でありながらも、この伊豆先の直近まで2度に渡り「平家軍」が来ているのに「全く攻める事」は無かった史実があるのである。
そもそも「伊豆」は平家軍に執っては「戦略的位置」としては先ず攻めて「関東の足掛かり」を着ける位置域にあった筈である。
上記した様に「国友」が居るとしても、「子孫存続策の者」で「防御の国友」では無かったので充分に協力は得られた筈である。
この時は「信濃青木国友」であった無関係であった筈である。

上記した様に形式的には「信濃青木氏の者」として扱われて「伊豆の信濃者」に成っていた事に成る。
「戦略的位置・拠点」とそうすれば「弱点」を突かれて「鎌倉軍」は手も足も出ない筈であった。
「平家軍」はでもそうしなかった。
「史実」はこの直接に、「鎌倉の浜」に目がけて直進した。(史実)
ここに三日後に「大島水軍・源氏方」が迫っても「伊豆の足掛かり」が有れば「大島水軍」も手も出せなかった筈である。
ところが逆に、戦後に「伊豆」はその後「大島水軍」に乗っ取られたのである。

(注釈 その後、「大島水軍」は「頼朝」と「そり」が合わず一週間で「大島」に引き返した。)

其の後の「国友の足取り」は判らないが「伊豆外」には出て行っていないので、遂には「伊豆青木氏」に溶け込んだと観られる。
この「信濃」に一度は入り、その後に「伊豆」に移った「妾子国友」を「実氏有綱」として「後付けの搾取」で「家柄搾取」で利用したと観られる説を造り上げた者がいた事に成る。

「頼政」の「義詞」で「妾子国友」で「信濃跡目の伊豆青木国友」では、「後付けの搾取」としての信憑性は、その「搾取の根拠」が低いし「現実」があり搾取は出来なかった所以であろう。
つまり、「伊豆国友」では「頼政と青木氏の範疇の事」で、これを搾取しても「国印状の認可」には直接繋がらなかったと考えられる。

(注釈 「伊豆」には「大島族の姓」が多く、「富岡・富田等」の「富」の付く姓名が多い。
 「伊豆青木氏」は「神奈川の秀郷流青木氏の庇護」を受けている。
尚、「国友に関わる情報」を獲得出来得るには、“「神明社か青木氏菩提寺」からの情報”検証すれば、“「信濃に関わる範疇」”と考えられる。
且つ、それが“「有綱」が奈良に入った”とするこの「有綱説の資料」を造り上げるのに都合の良かった江戸初期の者と成る。
「搾取の者の答え」は直ぐに出る。

それは「信濃の四藩」、つまり、「真田藩 上田藩 小諸藩 岩村田蕃」で奈良に関わった藩の者という事に成る。
この者が搾取して造った「有綱説の資料」と成ると「S藩」であって、且つ、多くの「国衆」で構成されて、且つ各地を廻った藩と成る。
更に、江戸期初期に大大名に成って数多くの藩士を抱えた藩で、自らも「国衆」であった「S藩」で、最も自らも「搾取の系譜」を持つ藩と成れば、矢張り「S藩」である。
系譜上でもあり得ない「搾取摂津源氏説」が公的に定説に成っていて、「搾取の藩」として「有名な藩」ともなれば矢張り「S藩」である。
つまり、「S氏」そのものである。

更に、江戸期初期に「信濃青木氏」は「地権地の大半」を幕府に「殖産地没収」と「新規四藩」に与える為の土地として没収されたが、この時、没収された地に定住していた「殖産能力の持った信濃青木氏」が「真田藩の家臣」に成った。
「青木氏の氏是」を破って「契約家臣」に成った事が記されている。
恐らくは、この「有綱説の資料」は「S氏」が搾取編纂した事に間違いは無いだろう。
これを以て定説と成っている「搾取の摂津源氏説」を唱えたとされる。
以上の経緯の条件に完全に100%符号一致する。)

恐らくは「平家」がこの「伊豆」を攻めなかった理由は、上記の「伊豆青木氏の事」、つまり「桓武天皇の論説側(平家側)」」もあるが、それを補完する「武蔵秀郷一門」を敵にしたくなかったのであろう。
又、「桓武天皇の論説側(平家側)」にあった事から「平家」は信用して「信義」を貫いた事に成るし、潰せば「献納金」は入らなくなり、「青木氏の影の抑止力」を敵に廻す事にも成る。
そもそも「最大の勢力」を張っていた全国の24地域に分散する「補完役の秀郷流青木氏や永嶋氏等の青木氏族」を始めとして、「背後」を突かれる恐れが充分にあった事で「戦線が拡大し過ぎる事の懸念」が強かった筈である。

この様に「伊勢と信濃と伊豆」は「上記の検証」で論じた様に「同族」の「同然の立場(血縁と絆から平家側)」であったからだ。
「伊勢と信濃と伊豆」は「難しい舵取り」を迫られていたのである。
これを失敗していたら現在は源氏族と同じに成っていただろう。
ところが、この後、伊豆は何度も危機を迎え、伊勢と信濃は「青木氏の氏是」を破ってまでも救出に懸命に成った。後段で説く。)

(注釈 上記の注釈の藩も真田藩だけでは無く搾取の源氏説を唱えているのだが、全て流れと時代と祖が異なるのだ。
然し、源氏化していない「信濃」には念の為に他説には「河内源氏」を祖とするとしている「源氏説」が「6流」あるとしている。
この説の地域は、「問題の搾取偏纂の真田藩」の「北部の青木村」とは反対の「南部信濃」である。
この全域かどうかは明記が無い。
この「狭い山間部の南部信濃」 (約190k平方)」に「6流(1流 35k平方≒1万坪)」の「祖が異なる河内源氏」が存在した事の説が異様である。
先ずこんな事は無い。
中には、「時系列」が異なるし、「6流の各始祖」とする「源流の始祖」は1221年に既に完全滅亡しているのに何故に存在し得るのかという事に成る。
中には「1600年代(江戸初期)の資料」とするものもあるし、「6流」とすると「河内源氏の傍系流れ」の丁度全てである。
一か所に「傍系の流れが違う族」が「住み分け制度」の中で存在する事は100%無い。)

注釈として、検証する。
「源氏」が生まれたのは824年で、全て滅亡したのは1221年である。
この間約400年と成る。
当時の寿命は50歳であるとすると子孫を興せる年代を25歳とする。
400/25=16代 仮に平常時で最大「4のn乗」の前提とする。
然し、これには時代性が共なうので、乱世としてこの1/2〜1/4成ろう。
現実に「河内源氏」は武力化したので、歴史的に観ても子孫の多くを無くしている。
前提の「4のn乗」は最低の1/4として「1のn乗」、最大の1/2として「2のn乗」と成る。
論理的にはこの子孫拡大式は「1のn乗」は成り立たないので、1/3とすると「3のn乗」とする。
次は、400/25=16代も「乱世の影響」を受けるので、最大の1/2で8代、最低で1/3で5代と成ろう。

先ず「2のn乗」では、最大の8代では516 最低の5代では64
次に「3のn乗」では、最大の8代では19613 最低のでは5代では729
従って、結論からすると「64と19613」は無いだろう。
抑々、歴史的史実からそれだけの子孫を養う力は無かった。



この代表するパラメータの一つとして「源氏の守護神」とする「八幡神社と八幡仏社」は格式は「村格」であるし、「独自の軍事力、」は「5000程度」で後は殆ど「合力」であった。
「壇ノ浦の源平戦」の「義経の一族の自軍」は2000とする資料もある。
仮に、「直系尊属と卑属」と「支流の尊属と卑属」と「傍系尊属と卑属」の「三つの族」を集めたとしても、「516〜719」が妥当と考えられる。
64は兎も角も、「2万の軍」を集めたとする資料から最大で「19613の計算」に付いては次の様に成る。
最大の「19613」はこの「三つの族外」の「源氏ではない縁者族」とする勝手に縁者を理由にして名乗ったとすれば成り立つ話であろう。現実には名乗っている。
「歴史上の軍力」とは殆どは「日和見の合力軍」である。

現実に「頼朝」が「以仁王の乱後」に「自軍」として集めたのは「500程度」と成っていた。
全て「日和見の合力軍」であった事が歴史が物語る。

「日和見の合力軍」の殆どは「源氏族」として名乗る事を許されての「日和見の合力軍」で歴史上の戦いの通例である。
負けると決まった時には、”蜘蛛の巣を散らす様に去る”が常道で、「平の将門の乱」もそうであった。
この事から「第二の姓族」の「源氏系と名乗る数」が殆どでそんな数は論理的にあり得ない数なのである。
「源氏でない族」を調べるのが難しい位である。

(重要な注釈 筆者工、そもそも江戸期初期の「徳川幕府の国印状の政策・権威醸成策」は歴史を歪めたと考えている。
「諡号族」では無い「第二の姓」の「徳川姓」は「上野の得川の土豪名」から来ている。
「得の川」を「三河」で勢力を獲得した時に変じて「徳川」としたのである。
この「得川」は、通常時は「農民」で働き「戦い」と成ると「傭兵業者」が村にやってきて来て「農民」から兵を集めた。
この時に「傭兵」に応じる「農兵の土豪集団」であった。
上記の「源氏の軍」もこの形式で拡大する軍力であった。
最後には、完全に「傭兵」を職業とする事にした「農民」が出て、これが「第二の姓族」であるのだ。
代表的なのは「黒田藩の全て」がこの形式から成り立っている。
江戸期に成っても同然で、「日向廻と薩摩大口の青木氏」は江戸期末期まで「黒田藩の専属の傭兵軍団」であった。
これは「家臣」を最小限にして「出費」を抑えて「財力」を蓄えた「黒田藩の戦略」であった。
この様に「源氏族」と誇示するのはこの「日和見の合力軍」の「戦いの原理」から来ているのだ。
例外は無い。)


その「始祖とする南部信濃への経路」を「証明する資料」は何処にあるのか、あるのであれば「源氏族の経緯」をもっと判る筈であるし、中には考えられないのもある。
「源氏」が完全滅亡した「1221年代滅亡」から何と「400年後」に信濃に「1600年代の資料」として見つけ出してそれを表に出して来たのかを明確にしていない。
その「6つの源氏説」は全く別系としている。
そもそも、この「系譜の途中」に突然に見慣れない人物を引き出して、それを「系譜繋ぎ」のその人物に上手く系譜を繋げている「プロ」が使った「江戸初期の最大の手」である。
「ある系譜」と「別の系譜」を接着剤的につなぎ合わせる架空の人物を入れて繋ぎ合わせるのである。これが常套手段であった。

更にもっと云えば“何で南部なのか”でもある。
「伊勢の源氏説」も同様であり流石に実によく似ている。
何故、源氏種が「6流」かと云うと、重なると偽である事が暴露するので「六流」に広げてごまかしたのである。

(注釈 そもそも、「滅亡」とは山岳を逃げ延びて「追討軍」の「掃討軍」に掃討されて「出自元の子孫」を含めて“「全ての物」”も事石滅しされる事である。
一切の寺などの資料も含めての事である。遺る事はないのである。
その掲げるその系譜をどの様にして「正当な経緯での系譜」に造り上げられているのかその真偽は疑われる。
こんな「信濃青木氏」には関係は全く無いが念の為に「矛盾を持っている信濃源氏」があるとして主張しているので説明して置いた。
この「6流」の「信濃源氏と呼称する系譜」は「江戸初期の国印状交付の系譜搾取の偏纂」である事は先ず間違いはないし、流石に「尊属」とはしていないで「傍系族と支流族」としている。)

(注釈 歴史を好む人間としては、この様な「江戸初期の搾取偏纂」は大変に時間を要するものでこれは愚痴であるが。
載せる事、信じる事は自由であるので“載せるな”とは言い難いが、何時も正しい歴史観で論じる為にはほとほとこれで苦労させられるのだ。
せめて “仮に・・・としたら”と書いてほしいものだ。
調べる時間がもったいないし、間違えば本元に辿り着けないのだ。)

「青木氏の氏是」として「摂津源氏」でさえも、「上記の論説」の通りであり、「四掟の範囲外」として「血縁族」の中に「源氏系」は入れない事に成っていた。
それ程に「原理主義」を貫く為にも“「源氏化を嫌っていた事」”を意味する。
それにも関わらず、「京綱と国友」の「搾取偏纂説」を取り除き論じているが、“「伊勢と信濃に入った事”として、検証した。

この“1の頼政の「圧力・説得」に屈した“の論説に対して、更に他にどの様な経緯が考えられるかである。
これを次に検証する。

2 「政争」から子孫を逃す事が出来る。注釈の通り「子孫遺策」である。

そもそも、「女系の妻嫁制度」を敷いている理由には、前段でも全ゆる面から論じているが、この「女系の妻嫁制度」のもう一つの「大きな理由」があった。
それが「天皇家」が「男系の定め」である。
「白壁王」に向けられた「孝謙天皇の白羽の矢」が二度と起こらない様にするには、「青木氏」の中を「女系の妻嫁制度」にすれば、「男系の定め」に適合しない事に成り、二度と「白羽の矢」は飛んで来ない事に成る。
要するに、“「桓武天皇説と嵯峨天皇説」の違い”である。

「桓武天皇説と嵯峨天皇説」のこの「二つの説」には「男系が前提」と成っている。
何方かと云えば「伊勢と信濃の青木氏」は上記している様に「桓武天皇説>嵯峨天皇説」に成ろう。
そこで、この「男系の前提」を崩し「女系の妻嫁制度」にすればこの「二つの争い」から逃れられる。
つまり、“「政争」から逃れられる”と云う事に成るのだ。
故に「子孫」は長く存続できる。

従って、「伊豆」に関する1178年頃は既には「女系の妻嫁制度」は完成している。
目的の通り完全に外れているし、「天皇家」は仁明期後は「男系」が続けられている。
最早、心配はいらない。

「経済的」にも「商い」は「日宋貿易」でも勝れ、「抑止力」でも「平家や源氏」に比べても「抑止武力」を裏付ける「経済力」でも勝れていた。
何れの世も「武力=経済力の関係」で成り立っている。
「経済力」の上に「武力」が成り立ちこの逆はない。
つまり、「商いの経済力」は「抑止力の裏の力」を物語るものであり、依って「青木氏」には「充分な力」は出来ている。
況や、「商いの自由概念」+「氏の原理主義の概念」=「共生共存共栄の概念」で出来ている「氏族」でありながらも、「世情」は“表裏のある恐れる氏族”と厳しい目でその様に観ていただろう。

「天皇家の血縁」でも「仁明天皇期」で「青木氏族系」は既に完全に終わっているのだ。
「伊豆の事」で、仮に「源氏力との繋がり」を持つとしても「血縁的」にも寧ろ「平家側>源氏側」と成っている。
「経済的」にも殖産で「平家側>源氏側」と成っている。

当初は「青木氏=源氏」であっても上記の通りこれは飽く迄も「仁明期までの事」である。
「1178年頃」では「平家側>=青木氏>源氏側」が既に完全に確立していた。
この「青木氏の扱い」に関する「政争」の「桓武天皇説>嵯峨天皇説」の傾向が大きく「1178年頃」では答えが出ていた。

つまり、「扱い」をうまく遣れば「京綱と国友の件」は大きな事は起こらないとする「青木氏側の読み」であった。
つまり、「政争」から逃れられると云う事に成る。
「頼政」からすれば「商いの自由概念」+「氏の原理主義の概念」=「共生共存共栄の概念」での立場からそれを利用すれば、“隠す事が出来る”と観ていた事に成ろう。
仮に“隠す事が出来た”としても「源氏再興」には決して成り得ない。

つまり、「原理主義の概念」が大きく氏を左右させていた事に成る。

「平家側>=青木氏>源氏側」と「桓武天皇説>嵯峨天皇説」の関係式から観たら「再興」は100%無い事は判る。
再興しなければならない「理由」は「青木氏側」には100%無い。
寧ろ、厄介な「潰すべき族」であった事に成る。

そもそも「原理主義」が元々そんな事は考えないから「原理主義」なのである。
とすると、「頼政」は“単なる子孫を遺す”と云う事に目的は在った事に成る。

これで「三つの血縁源」に迷惑はかける事は無いし、筆者は「平家」にしても「源氏」にしても、仮に「無縁の河内源氏」に敵対されても「三つの血縁源」で対処すれば勝てると観ていたと考える。
「武力」にしても「経済力」にしても「政治力」にしても「血絵で結ばれた補完役」が背後に入れば“「大義」”は獲得できると観ていたと考える。

現実に、それを証明する様に「信濃」でも「伊豆」ではそうなったではないか。

「平家」は、飽く迄も戦略上は「敵対する相手」は「源氏」に絞るだろうし、「源氏」も「女系の妻嫁制度」を執る「青木氏との関係性」は無かった事から敵対しなければ、「平家」は「戦線拡大」は敢えてしないだろう。
従って、「頼政の策の程度(妾子での子孫存続)の容認」と成ったのであろう。

「女系の妻嫁制度」を敷く以上は、「平家(4流or7流)」も「源氏(11流)」もありながらも、現実に平安期の「9つの縛り」から「四掟の血縁相手」には決してしなかった。

そもそも、「神明社」であって「古代密教」であったとすれば、この「原理主義」を敷く以上は「野心的」では徹底して無かったと云える。
「青木氏の氏是」(古書に遺る「施基皇子の生き様」)を考えればこれは当然である。

地理的な歴史観
そこで、「頼政の件」で、例えば、「伊勢と信濃」が「この状況」を乗り越えられるのには大きく「地理的要素」も絡んでいた。

そこで重要と成るこの「地理的な歴史観」を詳細に説明して観る。

先ず「伊勢」から先に論じる。(信濃は後段で詳細に論じる。)

伊勢の松阪地区以外の「北域」(員弁域、桑名域、四日市域、名張域を除く)には、上記した様に、「松阪」に隣接する「明和町」、「玉城町」、「多気町」、「大台町」、「渡会町」の東西に帯状に「青木氏」が定住していて現在も多く分布している。

これが「四家の松阪殿」の「福家の一族」が「北域のよりやや南側域」に分布する定住地であった。
この「松阪域の北側域」に隣接位置する「四日市殿」との「棲み分け」が成されていた。
従って、主に「松阪郡域」と「多気郡域」のこの二つの全域は「松坂殿と絆青木氏」が定住していた。

そして、その為に起こる事は「寺の在り様」であった。
この「寺の在り様」が系譜上から縁者関係にある「平家から疑われる要素」と成るのだ。

「平家側>=青木氏>源氏側」が既に完全に確立していて、「桓武天皇説>嵯峨天皇説」の立場にあったにも関わらず、「平家から疑われる要素」は納得できなかった筈ある。

そこで、「松坂の本寺(総寺・清光寺)」(松阪市中町)と合わせて、この“「松阪市多気郡明和町佐田」(「斎王の里の館域」)”にも「分寺A」の「青木氏菩提寺」を建立したのである。

(注釈 「二つの寺名」は「来迎寺」と「清光院・寺」と記されている。
古くから存在する「清蓮寺」は「寺」を兼ねた「平館・集会所」で在ったと記されている。)

この事は、“「周囲の郷士」との「血縁族の青木氏族(家人)」”があった事からであり、「青木氏族一族一門の寺」として「分寺(B)」を建立し、“「松阪市中町の本寺(A)」”とは別に建立した事が伝えられている。
ところが、この「分寺(B)の存在」が疑われる事に左右したのである。


(注釈・「分寺の二つの寺名」は「分寺A」は「清光院」、「分寺(B)」は「来迎寺」で在ったと経緯から考えられる。)

(注釈 現在の「本寺(A)・清光寺」は、「青木氏の菩提寺」の元合った位置よりやや少し東寄り(2m)にずれている。
然し、「江戸初期の顕教令」に依って「密教」が「禁令」と成った事から、「本寺の菩提寺」の維持は難しく成った。
その後、この「本寺(A)・清光寺」は、三度目の「松阪大火」で焼失した。
更に、この「本寺(A)・清光寺」は、「顕教令」で江戸初期に「紀州徳川氏の支藩の伊勢菩提寺」として接収された。
この事から「現在の寺」は建て替えられたものである。
ところが「寺名」は紀州藩の配慮で同じと成ったものである。)

(注釈 特別に紀州藩が同じ寺名としたとする明らかな「紀州藩の記録」がある。
更に「青木氏族の墓所」もこの寺に特例として同じとして使用を許されたとある。
現実に一族の墓所は元のままで、相当な「墓構え」である。
「紀州支藩の墓所」より比較にならない程に大きい。
紀州支藩の菩提寺と成ってはいるが、関係者の墓所で主だった墓所は和歌山にある。
長方寺と報恩寺と東照宮の三寺に分かれている。
これは「顕教の檀家寺」では無く「菩提寺扱い」としても特別に許された事に成る。
実質は江戸期でも青木氏の菩提寺で現在も同じで「青木氏の歴史的宝物」を納められている。)

(注釈、但し、明治後「第14代の紀州徳川氏」が、「紀州」から「東京」へ、そして「伊豆」に移動後は現在も「徳川氏」から外れ「一般の顕教寺」として存在している。
賜仏像の根拠寺として存在する所以から「特別扱い」の「菩提寺扱い」と成ったと記されている。)

(注釈 ところが、この注釈の“「伊豆」”に好んで紀州徳川氏が移動した理由があった。
それは「上記の論」にあった。)

(注釈 家康の“伊勢の事お構いなし”の「お定め書」に従い、故に、この「松阪本寺」は江戸期でも“状況を変えなかった”とされている。)

(注釈 ところが其の後も「松阪の別家筋の青木氏:四家」と「絆青木氏の寺」としても扱われていた。
この事は「本寺の経緯」から「勿論の事」として、「伊勢衆との血縁族 青木氏族」の「菩提寺の分寺(B)」もその後に「顕教」に成った。
然し、それでもこの「分寺(B)・来迎寺館」を上記の多気郡等にも建立出来たのである。
この「特例の事」は、「伊勢」に如何に強く結ばれ「青木氏血縁族(氏族の氏人)」が多かったかを物語っているのだ。
だが、「本寺の寺名(A)・清光寺」は前段では敢えて匿名としていたが、ところが「古代密教の青木氏族」だけの「密教菩提寺」は、江戸初期の「顕教令」に依って尚更に「表向き」には維持が出難く成っていた。)

(注釈 実は、これには鎌倉期から始まった「浄土宗派争い」で「密教浄土宗」は殆ど無く成って居た。
その処に、更に「顕教宗教派」が増加して「派争い」と「教派争い」が加わり、益々「青木氏の密教」は難しく成って行った事に成る。
西山派系 東山派、嵯峨派、西谷派、本山派、深草派、時宗派
鎮西派系 白旗派、石城派、藤田派、一条派、三条派、本幡派、一向派
長楽寺派系 
九品寺派系
「14派中」の「鎮西派」の中の「最小派の白旗派」の「原理主義」を概念とする皇位族が入信した「古代密教派」である。
尚更にその為に周囲からは完全に無視され「排除の圧力」を受けていた。
その後に、ところが「室町期初期」に「足利幕府」に依って「原理主義の白旗派(14派の中の最小派)」だけが強引に「浄土宗本貫」と決められたのである。)

「氏族の概念」を表す「宗教・宗派」にはこの様な大経緯があったのだ。
唯、結果としては「原理主義の白旗派の概念」が認められたが、それだけにすべての「派争い」と「教派争い」の「羨望を向けられる事」に成って仕舞ったのである。
遺されている「青木氏の資料」の一部にこの「行」がある。
それに依れば、此処から「原理主義の白旗派の密教」である事に対して、“「世間の羨望」”は「暴力的要素」を含んだ攻撃を示す様に成って行ったとある。

これは宗教でも「氏への尊敬」から「攻撃的羨望」へと変わって行った事になるのであろう。
取り分け、「信濃と伊豆」では大変であったらしく、「攻撃を受ける恐れ」がある様に「密教である事」をも極力隠す様に成ったと記されている。
信濃では昭和の初期まであったと聞き及ぶ。

「伊勢」も「多少の変化」は認められていたらしく、唯、「伊勢神宮」と云う「原理主義的な思想概念」と「神明社族の印象」が古来より根強くあった事からも、「菩提寺」が直接的に攻撃されると云う事は無かったらしい。
これが江戸期まで持ち込まれた。

ところが明治期にはこの「攻撃」は再燃したとある。
今度は「密教の原理主義的な思想概念」だけでは無く、奈良期から平安期初期までの「青木氏と云う象徴的な立場格式」と「巨万の富を獲得した氏への羨望」の「三つが絡んだ羨望攻撃」と成った。
恐らくは、これには「裏での政治的思惑」が働いていたと考えられる。

前段でも論じたが、そもそも「明治の民主化」により「天皇家」に継ぐ程度の「格式族の存在」は否定しなければ成らなくなった。
況して、「献納」を明治9年に中止した事で益々、険悪と成って行ったと観られる。

(注釈 この時、「紀州徳川氏の仲介」で華族制度に推薦されたが、「伊勢と信濃の青木氏」は断った。
この「断りの根拠」は徹底して「青木氏の氏是」であってそれを護ったと記されている。
その時の「天皇の側近右大臣からの手紙」と「徳川氏の手紙」が遺されている。
この事で、東京に出て直接に謝罪をし「紀州の景色」を書いた「南画」を献納している。
この時の「天皇家からの返納品」は「所縁の藤白墨」であった。現存している。
「臣籍降下の元皇親族」の“「皇親華族」”に列せられる推薦であった。)

(注釈 そもそも「華族」には「皇親華族」の他に「公家華族」と「大名華族」と「勲功家族」があった。
その「皇親華族」の格式は最高位であった。)

この「歴史的経緯の事」で「伊勢」では、「分寺 Bの来迎寺館の存在」は、この「使い分け策」として逃げた事も合わせて考えられる。
つまり、どう云う事かと云えば、「本寺(A)・清光寺」が「青木氏族の定住地」には先ず必ず“「菩提寺」”として在って、更に、夫々に“「ある目的」”を以って「分寺(A)・清光院」と「分寺(B)・来迎寺」が存在させたと云う事である。

実は「顕教化する宗教界」に対応する事のみならず、もう一つここに「注釈の答え」があったのだ。
この「分寺(B)」、即ち、「来迎寺城館(分寺Bの寺名)」には、「青木氏族」に執って「多くの意味」を持っていたのだ。
唯の寺ではなかった。

これから先ず論ずる事に成るのだが、「信濃」や「伊豆」でも伊勢と寺に関する防備として「同然のシステム」を執っているのだ。
つまり、防備のこれは「青木氏と云う限定した族」に対する「攻撃」であった事に成る。
その原因が「密教と顕教の差」がその「引き金」と成っていた事に成る。

「室町期中期」から発祥した「第二の姓族」が「全体を占める社会」と成れば当然に「顕教の力」が強く成る事は否めない。
逆に云えば密教は認められないと云う事に成る。

それは後の「江戸初期の顕教令」が物語っている。
みんな同じにしようとする「社会の流れ」である。
それは「密教的要素の伝統」を発祥時から持たない「第二の姓族」社会であるらこそ起こる事である。
必然的に「密教」は浮き出る事は必定であって、その現象を社会が心豊かに容認しなかったのであろう。
これは「日本人の特性」と云っても過言ではないだろうか。

そこでこの事は、青木氏に執ってはその特別性の期が無くても社会は無意識に攻撃する。
その為に、「青木氏」は「菩提寺」にその防御の目的を持たせたのだ。
其の事が最も明確に出て来る「菩提寺」にである。
そこで夫々に“「ある目的」”を以って、「分寺(A)・清光院」と「分寺(B)・来迎寺館」を存在させたと云う事に成る。
「平安期末期」にも「限定した地域」にもこの社会の「攻撃」が起こっていた事に成る。
そしてそれが宗教の「密教論争」と云う事まで興した。

上記した「白旗派の古代密教」の「浄土概念に基づく原理主義」を巻き込んだ「争い」が平安末期から鎌倉期を経過して室町期初期まで、遂には「他の宗派」も加わって醜い”「160年論争」と云う宗教争い」”が続いた。
勿論、室町中期以降も続いた。
これが上記した「浄土宗の分派」と云う形で手出来たのである。
何とかこの社会の攻撃に少しでも教義の中で修正して対応しようとした。
その最たるものが浄土宗から飛び出した「親鸞の浄土真宗」で完全に密教性を排除した。

「青木氏の伊勢と信濃と伊豆」にはこの影響は大きく働いた。
「密教から顕教」への変化が「氏存続」の「大きな脅威」と成っていた事に成る。
「密教」が「顕教」に替えられるかと云えばそれは無理であろう。
これには「青木氏の伝統の基礎」と成っているからだ。

そうとなれば、それを示すのが上記の伊勢青木氏が執った「分寺策」で在ったと考えられる。
同然に、「信濃」にも「伊豆」にも、将又、「美濃(後段で詳細を論じる)」にもこの「分寺策の形跡」がはっきりと遺されて観られる。

「分寺(A)・清光院」と「分寺(B)・来迎寺館」では、従って、後者の「分寺(B)・来迎寺館」は「武力的攻撃への対処策」であった。
要するに「直接的攻撃防御策」であった。
前者の「分寺(A)・清光院」は、“「院」”に示す通り「天皇家への権威の象徴」であったので「権威に依る牽制策」であった。唯一、「院」を行使出来るのは伊勢青木氏である。
つまり「、間接的権威牽制策」であった。
この“「二つの策」”で対処し護った事に成るのである。
これで、“ある目的”の意味合いが判る。

上記している様に、世情の「青木氏への尊敬」から遂には社会の流れの変化で「攻撃的羨望」への変化に対して、「分寺B」を攻撃から逃れさせる為に“「来迎寺城館」”としたのである。

つまり、世情には“「密教寺」”ではあるが「寺」では無く“「館」”なのだ”としたのである。
「館」なのだが「寺」だとする苦肉の策である。
この「館」は「住まい」では無く、要するに「城壁を持つ平城」なのである。
これは平安期初期からあって「伊勢青木氏の清蓮寺城館」と同じである。

上記でも何時の世もこの密教の「原理主義・白旗派」を貫く以上は「世情」は厳しく成ると説いた。
世情の「顕教化する宗教界の社会変化」と、「攻撃的羨望への社会変化」に対応したのである。

「名張」の「清蓮寺城館」も「平安期初期の古来」に於いてこの「二つの事」に近いものがあったのでは無いかと考えられる。
つまり、それは「平安期初期」には上記で論じている「桓武論説と嵯峨論説の影響」があったという事に成る。
この「政争」からの「防御」と観える。
その証拠に、これに合わせて、平安末期の「薩摩域・大口青木氏・日向青木氏」までの「伊勢」を含む「青木氏族系の定住地」には、必ず、「同宗同派同名」の「ある寺(館)」(「来迎寺城館」)が少ないが定住地の近隣に必ず一つ存在しているのだ。
現在も存在する。
取り分け、南の端の「薩摩大口村」と「日向廻村」にも存在するのは典型的な例である。
この「薩摩の分寺(B)」も、本来は「青木氏の家城」で「城郭・館」と「寺」とを兼ねたものであった。

(注釈 「寺」では無く「館」として建立した。これが「表向きの策」であった。
後は「館」での「寺的な行事」の「集会所」とするだけで事は済んだとしている。)

この他にも存在は別として次の域にも現在でも存在する。
「美作国吉野郡」
「越後国古志郡」
「佐渡国賀茂郡」
「三河国渥美郡伊川津」
「三河国額田郡」
「因幡国八東郡」
「豊前国下毛郡」
「越前北ノ庄と坂井郡」
「加賀国」
「岩代国安達郡」
「磐城国袋内」
「伊豆国沼津郡内浦」

以上の地域、即ち、「青木氏の定住地」であるこれらの地域には、この「ある寺(B寺)(館)」(来迎寺城館など)が必ず存在した。(現存)

これは、「伊勢名張」の“「清蓮寺城館」”と同じ様に、この“「来迎寺城館」”にも“「ある意味」”を持って共通して存在させたのである。

研究中により{青木氏の所在地詳細}などは秘匿するが、「青木氏」と大きく関わっている事は間違いの無い事実である。
江戸期以前の「密教の浄土宗」の置かれていた環境から勘案して明確に判る。

この様に「ある寺(B寺)(館)」(来迎寺城館など)が「存在する共通環境」は、「浄土真宗の環境」の中に於いても「知恩院派の浄土宗寺(鎮西派系の白旗派原理主義派)」がぽつんとある事なのだ。

上記した様に、この「鎮西派系の白旗派原理主義派」は「青木氏の所以」そのものである。
「古代浄土密教の系列」であり、平安期初期以降では「青木氏」以外にはこれを引き継いでいない。
「信濃と伊豆」にもこの怪しき伝統は引き継いでいる。

更にそれは何故かである。
これが判れば先ず上記の「伊豆の事(「伊豆国沼津郡内浦」)」も解って来る。
伊豆の国友の件も読み込める

それから先に論じる。それは次の注釈で判る。

注釈として、先ず「伊勢」には「ある寺(分寺B)(館)」(来迎寺城館など)の「来迎寺」は、二つある。

一つは、「天台宗寺」で「伊勢」を侵食した「下級公家官僚」の「北畠氏の菩提寺」である。
他方は、「(a−1)(a−2)の郷士」と成った「菩提寺」である。

つまり、ここが過去には「浄土宗寺の城館形式」に成っていたのである。

従って、「来迎寺」のある所には、この「(a−1)(a−2)の郷士」があったと云う事に成る。
依って、「伊勢」からこの「来迎寺城館等」の「来迎寺の形跡」を追い求めて行けば、「(a−1)(a−2)の郷士」の「移動定住の跡」が判ると云う事にも成る。

これに依って何と「伊勢−信濃間の縦の線」、つまり「移動定住の跡」と云うものが生まれているのだ。

(注釈 美濃を経由して 且つ、伊豆の平安末期の生活も環境も判るのである。)

この事は「平安初期」には「氏族の存在」と「宗教の概念」が伊勢と信濃と伊豆はすくなくと一致していたと云う事に成る。
だから、「氏族」と云うのではあるが。

(注釈 美濃の詳細は別段で論じ、此処では論外とする。)

そこでそもそも、この「移動定住の跡」の“「来迎寺館」”とは、元々は、「上記(bとc)」の地方に赴任した「高級官僚族が入信する寺」でもあった。
依って、この結果、「高級官僚族」は次の様に分かれていた。

「天台宗(公家等の官僚族)」の派
「浄土宗(武家貴族の官僚族)」の派

以上の二つの「両方の寺」と成っていたのであった。

ところが、「天台宗(公家等の官僚族・平安期)」の「移動経路」は「線状」として全く成立せず少なく無いに等しい。
又、天台宗(公家等の官僚族)」の派はそもそも最澄概念から「館」では無かった。
つまり、天台密教を唱えながらも顕教として信者を多く獲得する戦略に出た。

(注釈 「最澄」は当初は「緩い密教」を唱えていた。その後、「顕教的密教の概念」に替えた。
この「概念の変遷」から「原理主義」では無いので「館の考え」は生まれない。)

つまり、これには「宗教概念の違い」があった事から起こっていたと観られる。
故に「浄土宗(武家貴族の官僚族)」は「白旗派の原理主義の概念・律宗族」の経路と云えるのだ。
殆どは「(bとc)」と同様に、前段でも論じている様に、「天台宗(公家等の官僚族・平安期)」は平安末期の「戦乱の世」に出て滅亡したのである。(近江美濃甲斐の様に)

「浄土宗(武家貴族の官僚族)」は下記の様に「館策を執った事」で生き残ったのである。

然し、「(a)族」と一部の「(bとc)」の「浄土宗派(武家貴族の官僚族)」は、「武力」を持って「赴任地」を統治し、「土地」に根付いていた彼らは「下剋上の戦乱」でもある程度生き延びられたのである。
ここに「違い」があった。
これが「館の所以差」であるのだ。
当に、「上記の薩摩」がその典型例であるのだ。

この事は「天台宗(公家等の官僚族・平安期)」を帰依する故に「氏族の存在」と「宗教の概念」が一致していなかったと云う事に成る。
だから、彼らには「氏族」と云う「存在性」が薄いのではあるが。

つまり、宗教的には「(a−1)と(a−2)の郷士」と、「(b)と(c)」の「浄土宗帰依族」の「武家貴族の官僚族)」とが、この“「来迎寺」”の「寺」を「菩提寺」にし「館形式」にしたと云う事に成る。
この「菩提寺の在り様」が違ったのだ。

前者は「来迎寺城館等」の「館」で、他方は単に「来迎寺の寺」であったと云う事に成る。

そして、何方もその元を質せば、「朝臣族」の族の「身分秩序の諡号の姓」であった。
確かに「位階と諡号の姓の差」はあるが、“「高位の族」”に類するのである。

(a)族と一部の「(b)(c)族」の「浄土宗帰依派の武家貴族の官僚族」が平安期末期までは全国各地に分布し、赴任して現地に根付いた。

「鎌倉期」にはこの任が無くなり、この「元官僚族」が「時代の変化」に敏感に即応して館を基に「武力」を前提に「豪族・土豪」と成って生き延びた。
その彼らが現地に建てた、つまり「菩提寺」が、「武力集団」を収容する「来迎寺の城館」であったのだ。

唯、彼らの「来迎寺」は、「本寺A」が在る事が故に「分寺AB」で執った「来迎寺城館等」の“「館の形式」”では無かった。
然し、彼ら「(a)族と一部の(b)(c)族」は「高位族」である以上は、多くは「都の近隣の天領地等」に配置されていた。

ところが一方、平安期初期から室町期に架けての長い間に「生き延びるに必要とする力」を持ち得なかった「皇親族系(皇別)」の「(a−1)(a−2)の官僚族」は、生き延びる為に必要とする武力と財力が非弱であった。
この為に衰退滅亡し山岳地等に潜んで生き延びた。(美濃は別段で詳細に論じるので注目)

彼等には当然に「菩提寺(来迎寺等)」を建立する事は必要で、潜んでいる以上はそれは不可能であるし、その力は元より無かった。
然し、「古い所縁」を得て幾つかの種類の「シンジケート」に入って「経済的な裏付け」とその「抑止力」の傘下に入り「糧」を得て、「他に侵される危険性」が無く成った時、これらは始めて「シンジケートを支配していた青木氏族の協力」を得たのだ。

そして、元の帰依する「浄土宗密教の菩提寺(「来迎寺城館)」を建立し得るに至るのである。

唯、ここで注目すべきは、「(a−1)(a−2)の官僚族」の由縁で、彼等には「持ち得る伝統」があって、その「習慣仕来り掟の最低限」のものを持ち得ていた事であった。
中には、「官僚族の所以」を以て「学問処(事務方)の郷士」も居て、それが「シンジケートの力」に大きく幅広く反映した。
彼らの「学識の高さ」のそれが、「青木氏の神明社組織」をより高いレベルで生かす結果と成ったのだ。

この「(a−1)(a−2)の官僚族」の由縁の中には、一部「神明社」を「守護神として崇めた族」もあって、「シンジケート」と云うよりは、寧ろ、彼等を“「神明社族」「来迎寺城館族」”とも云っても過言ではない族と成っていたのである。

(注釈 唯、他氏と違って「青木氏族」「神明社族」「来迎寺城館族」に執っては“「影の組織である」”に意味があって、その「意味」を強調して筆者は“「神明社族」”と云うよりは敢えて筆者は「シンジケート」と呼称しているのだ。
この「シンジケート」とはそもそも「やくざや暴力や武力の集団」では決してなかった。)

(注釈 例えば、消失から遺された一例として、「青木氏に関係する資料」の中には、この「シンジケート」に付いては秘密にするものである為に明確には触れていないが、唯、「宗家の商記録」の方には、一定額が「神明社」に定期的に振り込まれている。
この事に合わせて、「護衛荷駄搬送等の勘定」で記載され、「送り先」が地名で「‥殿」とした記録が数多くある。
「尾鷲の差配頭の家人の資料」には、「・・・原士の事・・御任せ頂き候故・・」とある。
この時は、室町期末期の「秀吉の長島攻め」で、この「シンジケート」を動かして、「伊勢紀州の材木の買い占め」と「工人の雇攻め」と「山岳地のゲリラ活動」で対抗した史実がある。
この時の「伊勢の家人」と「尾鷲の家人」との「やり取り」が「影や原士・・」と云う隠語で遺されている。
この「影の作戦・伊勢長島の戦い」を知った「秀吉」は、やむなく「家来」を使って谷川から材木を自ら流した記録と成っている。
この記録は、「軍略組織」であって、“唯単なる「シンジケート」では無かった事”を意味する。)


(注釈 「伊勢攻め」の足掛かりと成った「松ヶ島城」の時も、「伊勢の家人」と「摂津の支店」との「やり取り」で、「・・の影」の隠語で「伊勢信濃の影組織の連絡」の一部が遺されているし、どこから漏れたか外記録にも成っている。
これが後に、この「時の事」が江戸期に物語化されている。
この種の“「その時々の秘密裏の云い廻し」゛での手紙が多く「伊勢の家人」の家にもある。
「九度」等の「地名」とを組み合わせた“「九度の影」”とか「影九鬼」「影員弁渡り」の隠語を使っている。)

(注釈 興味深いのは、中に“「今井影」”とあるが、「美濃」で活躍し信長を「影の組織」で苦しめた有名な「今井神社の影の組織」との「やり取り」を匂わせている。
これら「青木氏」が持つ「資料の全て」、「地名や代名詞」等をプロットとすると、「南勢」から「美濃加茂郡」を経由して「信濃」に「縦の線」(美濃ではR41、R62、R19の山間域)で繋がるのだ。
取り分け、平安期末期の当時としては、「美濃」の「土岐氏系青木氏・滅亡衰退」の存在が大きく左右して、「土岐」から当時の路の「R19線」を経由して「信濃」に繋がっていて、逃亡時は、ここを通じて「信濃」に逃げ延びたし、この「山間部」に逃げ込んだと考えられる。)

(注釈 又、「三野王の末裔」の「美濃青木氏の浄橋と飽波の裔系」は、平安末期の平家との戦闘でこの「シンジケート」を頼りに「R41−R62の線上」を「信濃」に向かって逃げたと考えられ、この山間部に逃げ込んだと考えられる。
結局は、「伊勢桑名の出自の浄橋と飽波の裔系」がこの「信濃シンジケートの一員」と成ったのである。
彼らは「額田一色」にその拠点を置いていた。
この「二つのルート」の「(a−1)(a−2)の原士」と成った「元高位の官僚族bとc」は、「神明社」を介して「信濃シンジケート」と成ったと観ている。
故に神明社を守護神とする族に成ったのである。
そもそも考え方として“「伊勢」に向かって逃げ込む理屈”もあるが、これは“火に入る夏の虫”と成り得る。
目立ちすぎて無理であろう事は明白でこのルートに入ったのである。)


> 「青木氏の伝統 53」−「青木氏の歴史観−26」に続く。



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