青木氏氏 研究室
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  [No.375] Re:「青木氏の伝統 53」−「青木氏の歴史観−26」
     投稿者:副管理人   投稿日:2019/10/16(Wed) 14:45:41

> 「青木氏の伝統 52」−「青木氏の歴史観−25」の末尾
>
> (注釈 興味深いのは、中に“「今井影」”とあるが、これは「美濃」で活躍し信長を「影の組織」で苦しめた有名な「今井神社の影の組織」との「やり取り」を匂わせている。
> これら「青木氏」が持つ「資料の全て」、「地名や代名詞」等をプロットとすると、「南勢」から「美濃加茂郡」を経由して「信濃」に「縦の線」(美濃ではR41、R62、R19の山間域)で繋がるのだ。
> 取り分け、平安期末期の当時としては、「美濃」の「土岐氏系青木氏・滅亡衰退」の存在が大きく左右して、「土岐」から当時の路の「R19線」を経由して「信濃」に繋がっていて、逃亡時は、ここを通じて「信濃」に逃げ延びたし、この「山間部」に逃げ込んだと考えられる。)
>
> (注釈 又、「三野王の末裔」の「美濃青木氏」に嫁いだ「伊勢の浄橋と飽波」で生まれた゜伊勢の裔系」は、平安末期の平家との戦闘でこの「シンジケート」を頼りに「R41−R62の線上」を「信濃」に向かって逃げたと考えられ、この山間部に逃げ込んだと考えられる。
> 結局は、「伊勢桑名の出自の浄橋と飽波の裔系」がこの「信濃シンジケートの一員」と成ったのである。
> 「伊勢桑名の出自の浄橋と飽波の裔系」の彼らは「額田一色」にその拠点を置いて伊勢と信濃の支援を得ていた。
> 「伊勢桑名の出自の浄橋と飽波の裔系」に従ったこの「二つのルート」(「(a−1)(a−2)の原士」)には「氏族の氏人」と成った「元高位の官僚族bとc」は、「神明社」を介して「信濃シンジケート」と成って生き延びたと観ている。
> 故に彼等も「神明社」を守護神とする族に成ったのである。
> そもそも考え方として、“「伊勢」に向かって逃げ込む理屈”もあるが、これは“火に入る夏の虫”と成り得る。
> 目立ちすぎて無理であろう事は明白でこのルートに入って支援を待つ事を選んだのである。)


「青木氏の伝統 53」−「青木氏の歴史観−26」

さて、そこで「伊豆の国友の件」に戻す。
丁度、この上記の時期の直前に、即ち「以仁王の乱」の前に「頼政の件」が起こった。
上記の「前知識の説明」で、「国友」は先ず「信濃」に入り、そこで「信濃の青木国友」と成ったとある。

この「青木国友」は「国衆」の多い「信濃」では危険であった。
そこで、「融合族の伊豆」に入り、「伊豆の青木国友」と成った。
これで「信濃青木氏と頼政の策」は「平家の追及」から逃れられ「危機」は無く成り成功する事に成る。

「皇族臣下族」としての護るべき「9つの縛り」を護らず、且つ、「四掟の範囲」を逸脱した源氏族に対して「信濃」はこの「迷惑な話」に対して上記の様に目論んで臨んだが、幸い現実にそう成った。

そもそも、そこで「頼政の所領」の「平安末期の伊豆」はどの様に成っていたかである。

この”「所領」”であるとされる「伊豆の青木氏」は現在では次の「通りである。

「所領」と成ったとして「頼政」に頼まれて「伊勢と信濃の青木氏」が「伊豆」に入った。
当初の大義は「所領の守護」であって入ったが、現実には少し「本来の所領」では無かった。

「頼政の所領」の「名目」の前は「藤原一族の守護代」が4〜5年毎に入れ替わって務めていた国であった。
「清盛」に「正三位」に推薦された事から、その位に相応しく「名目上の所領」を、急遽、「藤原氏の守護代」で治めていた国を与えられたものである。

そこに「伊勢と信濃」は「守備を名目として入った事」に成る。
ところが「名目守護であった事」から「伊勢と信濃の青木氏」は「商い」で”「融合して住み着いた」”と云う経緯であった。

(注釈 この時代は伊勢と信濃の連携で「宋貿易」も営んでいた。この「商いの拠点」の一つとして生きた。伊豆の地形上、湾が良く商いに向いていた。)

その結果として、「伊豆」には次の様な「青木氏の分布」が出来た。
この定住地は「商い」を前提とした定住地と成った。


イ地域
静岡県三島市青木 
静岡県富士宮市青木

以上の「二つの青木村落地」から「南部域(下記)」までに架けて存在したのであった。

そして、そこには記録から観てみると上記の「青木氏の条件」が存在する。
第二の「菩提寺の来迎寺館」は「沼津市」に存在していた。(現存する)

ロ地域
静岡県沼津市内浦青木 (来迎寺・分寺存在)

第一の「菩提寺の本寺A(清光寺から後に清光院)」は「賀茂郡の湾際」に存在していた。
(一度消失し室町期中期に清光院として再建した。)

ハ地域
静岡県賀茂郡東伊豆青木

その後、この「伊豆青木氏」は子孫を拡大し、次の通り駿河湾沿いに「東海道の西域」に定住地を広げている。

ニ地域
静岡県藤枝市青木
静岡県静岡市駿河区青木
静岡県藤枝市東町青木

以上の「三つの青木の村落地」は何れも「陸路の東海道の要衝地」である。

ホ地域
静岡県三島市青木 
静岡県富士宮市青木

以上の「二つの青木の村落地」は何れも北部域の「陸路の東海道の要衝地」である。

ヘ地域
静岡県伊豆市土肥
静岡県伊豆市八木沢

以上の「二つの青木の村落地」は何れも東部域の「水路の湾岸要衝地」である。

ト地域
静岡県賀茂郡河津
静岡県賀茂郡東伊豆(菩提寺・本寺・稲取湾)

以上の「二つの青木の村落地」は何れも「伊豆中央部域東の地」である。

チ地域
静岡県下田市青木
静岡県下田市吉佐美青木
静岡県南伊豆町青木

以上の「三つの青木の村落地」は何れも南部域の「湾岸水路の中継要衝地」である。

唯、「古書」では「南部域の三村落・下記 リ地域」にも「青木村」があった事が記されていて、その痕跡は確認できている。

(注釈 そもそも、何故この様な分布域に成ったかと云えばそれには次の様な理由があった。
そもそも「伊豆」は山間部を殆どを占める為に過疎化か最近の市町村合併で消えているのでは無いかと思われる。
筆者の若い時の訪問調査では、この「南部域の二村落」に限らず「北部域の六村域」や「中部域の四村域」や「東部域の二村落」の全てに「墓所や祠」や「館痕跡」等が「聞き取り」でも確認出来ていて、取り分け、判るのは全てに共通して「墓所の笹竜胆の家紋」で、「墓所全体」が「笹竜胆紋の青木氏」の墓所であった。
この「集落の大きさ」とその「村落の在り様・一族性」が「伊勢と信濃」を遥かに超えていて、「伊豆の国全体」が「青木氏の分布域」に成っている。
筆者の印象では、“笹竜胆紋の青木氏”が伊豆全体に存在したと云う印象であった。
「土地名」は勿論の事、「店名、宿名、会社名・・・」等、当たりを見渡せば「…青木」であった。
「伊勢」ではここまではないし、徹底していた。
守護神の「神明社」までもが、“「伊勢神明社の名」”が着けられている。
如何に結合性の高い伊勢と信濃の融合族であった事がこの事で判る。)

さて、そこで「伊豆」の「菩提寺の本寺A・清光院」も含めて何れも「商い」が出来る「沿岸の港町」に集中している。
此の湾港は「相模の秀郷流青木氏の拠点」と、三河の「額田青木氏の蒲郡青木氏」と「伊川津青木氏の吉田青木氏」のほぼ中間点に位置している。(両者の血縁族も存在か、商いで定着か)
「墓所」や「家」や「祭」や「祠」等には何れも「神明社と笹竜胆と白旗」を象徴としているのが確認できる。

然し、「伊豆」の「上記の地域・イ〜リ」には「頼政の象徴」を示す「八幡神社(神道)」と「八幡菩薩(仏道)」と「官位と位階(三位)」を示すものは何もない。
「伊豆」の全ての「八幡」は、鎌倉期以降のもので、且つ、殆どは「村社格」で格式低いのである。つまり「神明社」の様な「官弊社」は全くない。

要するに、「青木氏」が運営する「官弊社」の「神明社(賜姓五役)」では無く、況してや、「頼政」が経営する「源氏運営の八幡社」でもないのである。
青木氏以外に存在を示す最大の要素は無いと云う事である。

(注釈 そもそも「神社」には前段でも論じたが「社格」と云うものがあって、これは「延喜式目」で決められていて「三社格」に分けられている。この事を知って置くと研究は進む。
この「社格式」を分ければ、「官弊社・国」は次の三社類と成る。
官幣大社>国幣大社>官幣中社」
以上と成る。
一段下の「社格式」の「国幣社・地方」は更に観つつに分けられ次の様に成る。
国幣中社>官幣小社>国幣小社に成る。
最後は「無資格幣社」と成る。
そこで、「村格社」は「鎮守杜社(民間社)」等であり、殆どは「無資格幣社」に近く、その運営の「神幣料」は「民間の供進」に基づくものである。)

これで「伊豆」が「頼政の所領地」とされているが、現実には矢張り「守護代での遙任」であった事が判る。
つまり、当時よく使われた「名目守護」であった事が判る。

そこで、この「伊豆」に「国友」が「信濃青木氏」としても1178年頃に「潜り込んだと云う事」である。
この「所領地」であって「所領地」では無い「伊豆」に“「青木国友を入れる事」”は大いに「頼政の望む所」で「隠す事が出来る場所」であったと考えられる。

さて、一方そうすると伊勢の「幼い京綱」を「青木京綱」として「伊勢福家」に入れたが、問題はこの「母親の後家」の始末と成ろう。
「伊勢」にその「存在の形跡」が何処にも無いという事は、残る「最高の策」は「国友」の様に「伊豆に隠す事」であろう。
上記の通り「伊豆全体」が最早、「青木氏の村」である。

「経済的な問題」や「護衛の問題」も「住み方」も何の問題もない。
そうなると「後家」である以上は「菩提寺の二社に入る事」か「神明社に入る事」であろう。

そうすると、「隠す」と成ると伊豆の何処かの「神明社か清光院」と云う事に成る。
「神明社」は「伊豆」には現在は「四社」あるが、「伊豆の青木氏」の分布状況から次の様に成る。

1 静岡県伊豆市梅木   神明社 総社格
2 静岡県静岡市駿河区  伊勢神明社 分社格
3 静岡県静岡市清水区  神明社    分社格
4 静岡県富士市       神明社    分社格

「伊豆青木氏」が「イ地域」から「リ地域」の「9地域」に分布し住み分けていたとすると、「官弊社」の「神明社」、「賜姓五役・実質は「青木氏の財源で運営」は、この「四つ」に限らず少なくとも「9地域毎」に存在していた可能性があったと考えられる。

「伊豆」には「伊勢信濃」と共に「陸路と水路」で連携して「商い」を大々的に行い続けた事から江戸期直前まで荒廃する様な事は無かった筈である。
但し、調査しても「融合族」であるので「伊勢信濃の区分け」は出来ない状態であった。
筆者は「来迎寺等の分寺」と「本寺の菩提寺」もこれに沿っていたと考えていのである。
「祠の痕跡」等が確認できるが何故に亡くなったかは良く判らない。
恐らくは、主に江戸期の「顕教令」と「神明社の引き渡し」で荒廃したと考えられる。

そうすると、「引き渡し」と「顕教」で「伊勢以上の事(表と裏の事)」が伊豆にもあった筈である。
答えは何れも減少しているので資料の公開は無い。
「神明社や来迎寺(菩提寺)との資料」は室町期後期以降しか遺されていない。

この様な良好な環境を見逃す事は無い。
寧ろ、「伊勢以上」であったであろう。
「後家」を周囲の目に付かずに、且つ、早く運ぶには「水路」で運びここに匿ったと成る。
そうすると、「静岡県伊豆市梅木・中央部域」の「神明社」か、遺された「稲取湾」の近くの「賀茂郡東伊豆の本寺」という事に成る。
安全を期するとすれば「稲取湾」から「賀茂郡東伊豆の本寺」から「静岡県伊豆市梅木・中央部域」の「神明社」に運ぶとする手がある。

資料が無いので判らないが、この「本寺」が室町期中期に「寺」から「院」に変更している。
この「意味」は前段でも説明したが、その「格式」は同じとしてもその寺の持つ「特徴範囲を限定した事」を意味する。
取り分け、「院」は「天皇家の様な高位格」に繋がる「ある種の特徴」を前面に押し出す時に使う「号」である。
「天皇」が譲位して門跡僧に成るとその「寺格式」は「門跡の院」と成る。
この「院の格式」は「特別の者」に与えられる格式の呼称である。通常は「院格」と云う。
この「元寺」であった「清光寺」が室町期に「清光院」と成る事はある意味で限定して「寺の格式」が挙げられた事を意味する。

そうすると、この「伊豆」のこの「本寺・清光院」では室町期にこの「伊勢の総宗家」の「京綱の母」の「後家の比丘尼僧」が住んでいた事を以て「院」に変更したとも執れる。
院に変更する事は単に変更したのでは何かがあっての事と成り得る。

「イ地域」から「リ地域」の「9カ所」に「神明社が四社」で、且つ、「東部の本寺と北部の分寺」が二つとすると、「融合族」である以上は尚更に「伊豆族全体」が、元来の「神明社の神道」を貫いていた事も充分に考えられる。

この説を証明するには「墓所」には「寺か院」が在る筈である。
筆者の「イ地域からリ地域」の当地の調査から「笹竜胆紋の青木氏の墓所群」は多く確認できるが、
「寺院」は確認できなかった。
つまり、その意味する処は伊豆全体の青木氏族は「原理主義」の「神明社神道」であった事に成り得る。

そこでこの「神明社の神道」に付いて「神道の墓所」には仏教より前に「ある習慣」が古来よりあった。
それを観る事で「神道」であった事が判るのだ。

それを先ず解説して置くとこの「神道の事」が解明できる。

仏教の「墓所」に対しては「奥津城(おくつき)」
仏教の「戒名」に対しては「諡号(おくりな)」
仏教の「位牌」に対しては「霊璽(れいじ)」

以上と成る。

「神明社の神道」は「仏教の前」からの「習慣仕来り」であった。

この刻まれる「諡号(おくりな)」は次の通りである。

大人の場合は、「・・・・大人・おきな」(男性)、「・・・・刀自・とじ」(女性)
子供の場合は、「‥‥彦命」(男)」、「・・・・比売命」(女)

この「諡号」では年齢に依って異なる。

男で幼児では「稚郎子(いらつこ)」 女では「稚郎女(いらつめ)」
男で少年では「郎子(いらつこ)」 女では「郎女(いらつめ)」
男で青年では「彦(ひこ)」 女では「比売(ひい)」
男で大人では「大人(うし)」 女では「刀自(とじ)」
男で老人では「翁(おきな)」 女では「媼(おうな)」

これ等は伝統の前段でも論じたが場合にはよく使っていた。
この事を知っていなければ現地調査では役に立たない。

「二つの青木氏族(五家五流青木氏と秀郷流青木氏)」にはそもそも「神明社と春日社」を「守護神」としているので「神道」が多く「青木氏の歴史観」にはこの知識が是非必要である。

前段でも論じたが、「皇祖神の神木の神紋」である「柏紋の使用」を許されたと云う「最高格式の神明社」の「神職青木氏・神道」の「氏族」である。

「神明社」だけではなく「浄土密教」の「清光寺(五家五流青木氏)と西光寺(秀郷流青木氏)と来迎寺」の「柏紋の使用」も許された最高格式の「二つの氏族」である。

結論は、現地調査では、紛れもなく「神道」であった。
故に、「伊豆」では「密教系の菩提寺」はこの「二社・清光院と来迎寺」しかないのである。

「神明社」は「伊豆」では、1の「一社」しかないのである。(江戸期には荒廃している)
子孫拡大に依って東海道沿の「2、3、4の神明社」がこれを物語っている。
「2の伊勢神明社」はそれの証拠である。

さて、「伊豆に入った時期」である。
「伊豆」に「融合族」を形成したのは「頼政(1180年没)の所以である事」からすると、「従三位昇進期(正三位)」に成った事(1174年頃)で上記で論じた所領(形式上)を持てた事からである。
それまでの「遙任の守護代」の“「伊豆」を所領とした”(1159年)とあるので、この時の直前に「伊勢と信濃」は「伊豆」に入ったと考えられる。

そうすると、「守護代」とはそもそも3年から5年程度を「一期」として、一期ごとに一族の者に代わって9〜15年の「三期」務めるものと成っている。
そして「5年毎」に一度都に戻る制度である。
「頼政」の「伊豆国」の「摂津源氏族の初代の守護代」は「1159年」からで、その後に一時「仲綱」に引き継がれた。

少なくとも、その少し前は頼政は「従五位」であって、「1158年頃・平家守護」のこの時には未だ入っていない。
「1159年」に「従三位・正三位」の「伊豆の守護代」に成った事に成っているので、「伊勢と信濃」の「青木氏族」はその時に「伊豆」に入った事に成る。
そこから、そうすると「京綱の母の後家」は「1178年頃・仲綱遙任守護期」には、既に「伊豆稲取の清光院」に入っていた事に成る。

伊豆の青木氏が「神明社の神道」であるとすると、「東伊豆の稲取」の「清光寺(清光寺−清光院)」に一度は入り、其の後に「神明社の神道」の上記の「静岡県伊豆市(梅木)」にある「神明社 総社」の「1の神明社」に入った事に成ろう。(境内と跡地ありね現在は「廃社跡」である)

ここが「現地調査」で分かった事として、この付近が過去は「伊豆の青木氏の勢力中心地」であったからだ。

(注釈 「神明社の設置条件」は「皇祖神の子神」の「神の社」なので「杜」として中心の南の山間部際に存在する事に成る。)

「伊豆の青木論」を更に展開する。

室町期に「伊豆」の「菩提寺清光寺」から「清光院」に変更した理由は、周囲が「八幡菩薩」と「八幡神社」を兼ねる「低格の村格社(14)」が多く「伊豆」に創建されて、「青木氏の菩提寺の清光寺」の権威が低下した事に依ると考えられる。
その「根拠」は「伊勢(賜姓五役の青木氏の権威・格式・象徴)」から「京綱の母の後家」が平安期末期に「比丘尼」として入った事を以て「権威・格式・象徴の差の特徴」を前面に押し出したと考えられる。
前段でも論じたが「美濃や信濃」でも全く同じ事が起こっている。
例えば、それは「光仁期」に「伊勢」から「追尊王の飽浪王女」が「美濃清光寺」に入り、その後に「清光院」に変更している。

この例に持つ意味が「伊豆」にもあった。
それは、危険な「下剋上と戦乱」の「室町期中期」に成ってもまだ依然として「伊勢の青木氏」が「仁明天皇期までの出自元」であり、「新撰姓氏禄で示す志紀真人族」で、「賜姓五役の数少ない氏族」であったと云う「認識」が未だ「民衆の記憶」の中に漠然として僅かに遺っていた事を物語るものである。
然し、これが後に「白旗派の原理主義」に対して「世情から攻撃」を受ける結果と成っていた。

これは「村格供進の源氏社」で創建して居た伊豆の中でも、未だ「清光院」にする事でその「権威と格式」を保たれた云う事に成る。
都に近い伊勢や信濃に比べて「伊豆」には最低限タイムラグがあった事に成る。
これは何を意味する事なのであろう。

これは“「伊豆」にも「権威・格式・象徴の青木氏」が存在しているのだ”と「危険な誇示」をしたと云うことであろう。
それは「伊勢や信濃」の様に元からいた族では無く、1159年に突然に入って来た族で、それも「高位族」と云う立場の族である。
その様に受け取った「伊豆」であったからだ。それまでは鎌倉期の源氏族に関わった伊豆であったのに源氏が滅亡すると、其れより「院の号」を誇示できる「格式高い族」が来た事に驚いたのではないか。

その庶民のこの「驚き」が「排斥の様な形」へと向いたと考えられる。
その証拠に「村各社の八幡神社」が「室町期」に成っても実に多いと云う事で証明できる。
判り易く云えば、周囲は「源氏贔屓」で一辺倒であった事に依る。
「村格社」と云う事は、それには大きく「利害関係が働いていた事」を示すものであるからだ。
平安末期1159年に入り、応仁の乱で頼政は平等院の別院で死亡し、この事で1178年には定住根拠が無くなり戸惑った。
然し、鎌倉期の「頼朝保護」を受けて安泰であったが、それも「室町期の1340年頃」までには要所要所に「官幣社の神明社」が建立され、「清光寺・清光院」が建立されて来てた。
「幡万社」と「神明社」、「八幡宮と清光寺」の「攻めぎ合い」が激しく起こったと観られる。

然し、「神明社と清光寺」は勝利を得た。
それは格式が「八幡社と八幡宮」の上に居たからであった。
その証拠に、「八幡社関係」は全て「伊豆の最東部域」に移動集中し、又は、東部域を除いて「神明社域」と成っている。

この様に、「室町期」には「周囲との絆」は「190年後」であっても充分に形成されていたとは思えないのである。

そもそも、古来から”「伊豆族」”と云われる族は「海洋族」で占めていた地域であった。
「伊豆」は古来より「山岳部」が中央部に多く、「平地定住族」では少な無い。
「紀州熊野地区」と同様に地形も類似し、その「先住族」は長い間「海洋族」であった。
その意味で、此処に入った平安中期・800年代からの「国司・守護」は、その時の「都の勢力図」に従っていて,「統治」は難しく独立性の強い海洋族であったと云われている。
その為に守護代は「頼政」まで「約30の低位の官僚族」から成り立っている。

歴史の変異を観ると、「初代期の国司・800年」から「頼政」までの「約350年間」は、平均11年間/国司が務めていた事に成り、この「約30の低位の官僚族」の子孫・現地孫は「頼政」と同様にこの「伊豆」には大きくは遺し得ていない事に成るのだ。

丁度、「伊豆」は「紀州熊野神社の海洋族」と土地の支配年代も全く同じである。
「熊野一帯」は「神官族・海洋族の六氏」から成り立っている。
これから観ると「伊豆」も「現地族」は「六氏程度」と成っている。
都に近い「紀伊半島」と都から遠い「伊豆半島」の差を考えれば現地族が少ない事は当然に考えられる。

「他の伊豆研究」を観ると、「現地族」は「太平洋族」で、その基は「台湾族」であるとしていて、台湾語の古い言語が遺されている地域である。
つまり「伊豆」にはこれと云った土豪が勢力を張っていなかった事が云える。
これは「権威・格式・象徴の青木氏」が存在しているのだ”と「危険な誇示」は周囲に対して可能であった事に成る。
熊野では成り立たなかった。隣の尾鷲で留まつた。
この事は寧ろ、「伊豆」の「伊勢信濃融合族」が「190年間の子孫拡大」で「一大勢力」と成り得ていたのでは無いかと考えられる。

但し、「伊豆」では「源氏の利害」と「海洋族の絆勢力」であった事から、「武力」では無く、「権威と商い」であったと考えられる。
それが「商いと云う手段」と「元皇親族と云う名声」の様なものがあって、「世情から攻撃」は相当遅れていた可能性が高い。

現実に、「イからリ地域」に観られるように「伊豆の上下、左右、中央域」とその前線域を「青木氏の定住地」としているのは何よりの証拠では無いか。
「武力」を持っていないにも拘わらずである。

従って、この様に「危険な誇示」を敢えてすると云う事は、「武力」に依る「危険に冒されない力」が地元にも背後にもあった事に成る。
その一つが「相模の秀郷流青木氏の抑止力」と「伊勢信濃との連携の商い力」が彼等を「後押し」していたという事であろう。
こけが大きい要素であった事は理解できる。

然し、この中でも室町期に建立された「源氏の八幡社寺」は上記した通り「村格式・民間」ではあるが全て東域に入り込んでいる。
それだけにこの時期はまだ「世情」は、源氏が1221年に滅亡したのに”「源氏」と云うもの”に人気があった事を意味している。

そこでこの難しい族の「伊豆海洋族」はこの「頼朝の源氏」に対して鎌倉期前期は従順に従っていたのかである。
この「東部域の村格式の八幡社」はこの「海洋族の末裔・六氏」が寄進供進元とするものでは無いのであり、「一財を持つ者」の営に基づく「村格社」である。
要するに、「利を観た個人経営」である。
それだけに、”八幡は利になるものであった事”を意味し、滅亡後でも世情には「人気があった事」が云えるのだ。

逆に、矢張り、「伊豆」でも「原理主義の青木氏・神明社」は人気が無かった事を意味する。
「世情の人気」は無かったが、「象徴権威の尊敬」は未だ潜んでいた事に成る。

それは源氏族等に無い上記で論じた関係式の「商いの力」に他ならないであろう。
「象徴権威の尊敬」よりは「商いの力の恩恵」が伊豆には及んでいた事に成る。
前段でも何度も論じている様に「紙文化」で室町中期は「巨万の富」を「青木氏族」は獲得しているのである。

(注釈 これで以て「伊豆との連携」を維持していたのである。
ところが実は後にこれを壊されそうになるが。)

これは「伊勢青木氏」が「天皇家」への「影の賜姓五役の献納」が「莫大であった事」の「裏返し」である。
幾ら1221年に完全滅亡した「縛り」も護らなかった「源氏力・八幡社寺」を「伊豆」に誇示建立した処で、最早、何物でも無かった。
「源氏族」では無い民間が「儲け主義」から世情に滅亡したとは云え人気のある「八幡社寺」を建立したのである。
「嵯峨期からの源氏」に「庶民の人気」があったからとしても“「天皇家・朝廷」から「高い格式」が得られるものは何もない。”
だから「認可」も何も得られない「民間の無資格社に近い村格社」なのである。

多少は伊豆でも「商いの青木氏」>「賜姓五役の青木氏」=「権威・格式・象徴の青木氏」の数式論が庶民の中に働いていた可能性は否定できない。
だから思い起こさせるように“「院に変更したという事」”にも成る。


そうすると、この「伊豆の背景」の中で、次に「伊豆の入り口・沼津市内浦」にある「北部域」の“「来迎寺の分寺の館」は何であったのか”という事に結び付く。

その「答え」は、その「氏の館」としての目的から「伊勢氏族の信濃融合族」の「家人館」であった事に成る。

(注釈 来迎寺論は依然少し論じたが、後段でも論じる。)

現地調査では、その証拠と成る「笹竜胆紋を主とする墓所・家人墓」が上記の各地にあった。

「伊豆」も「福家」を始めとして「四家」で構成していた事から、「福家(主家)」は「神道」、「家人」は「来迎寺館」としていた可能性があったが、現地調査でも矢張りこれを現実にしていた。

前段でも論じたが、そもそも、「福家」とは元は「古来密教系浄土宗の氏墓」の「差配頭の名称」であった。
それが後に四家の主家と成って行った。
その主家が「守護神の神明社」と「氏寺」を差配する事から必然的に「氏族全体の差配頭」と成って行ったのである。

それだけに共通する「神仏の概念」で結び付いていた事に成る。
「福家を務める者」は四家の中から選ばれる為に相当に「氏族全体を統制する能力」に長けていた者が成った事が判る。
青木氏の守護神の「神明社」は「社形式」の「神仏同源とする古来の信仰体」であったが故に、私的仏教伝来後もこれを融合させる氏族としての組織形態を執っていた。
これが「福家形式」である。
つまり「福家形式」を中間にして「神仏の同源」を維持した形式である。
これが後に「氏の組織形態」と成ったのである。

この形態は「藤原秀郷流青木氏」を含む「青木氏族」だけである。
もっと云うと、前段で論じた「来迎寺館の形式」」もそれを明確にした「神仏同源の会所」としていた“「組織館」”であったのだ。

つまり、これは「青木氏族」に執ってはその立場から「氏の寺・分寺」であって、「氏の館(平城・家)」であって、「氏の社」であって、「氏の会所」の「四つの意味合い」を持たせた「建築物・城」とした云う事である。
これは周囲から観れば「古来の歴史」を持つ「特異・特殊な形態」であった筈である。
従って、「青木氏の存在する所」には「来迎寺」と云うこれらの「連携した形態」が必ず存在するのである。
伊豆の「来迎寺」もその証である。

そこで、「伊豆の現地調査」ではこの「福家の存在した位置関係」を調査した。
これで「伊豆の青木氏」の「存在の環境」を芋づる的に網羅できる事に成る。

これを検証して観た。
その結果、次の様に成った。
「福家」は北部域の「静岡県沼津市内浦青木(来迎寺館・分寺・内浦湾近郊)」から「静岡県伊豆市(梅木)」にある「神明社 総社」の「西よりの位置」にあった事が確認できた。

「沼津市内浦の来迎寺」より東南の「梅木の神明社」までは「約11k・2里の位置」にある。
此処から「稲取の清光院」までは「約20k・5里の位置」にある。
この位置から「福家の位置・湯ケ島」までは北西に「約20k・5里の位置」にあった。
この「福家の位置・湯ケ島」より「沼津市内浦の来迎寺」までは「約11k・2里の位置」にある。

丁度、この4点を線で結ぶと、「西北−東南」に長く「菱形の形」をしていて「便利な位置」にある。
約2里半から5里である。充分な「1日の生活圏」の中にあった事が判るし、計算されている。
「道路」は「静岡県沼津市内浦青木(来迎寺館・分寺・内浦湾近郊・170m)」まで通っていて地理的には「最高の位置」にあった。
伊豆観光名所の「浄蓮の滝の近く」であった。

「福家の館・湯ケ島」は、平安期には「約1万坪以上の土地」でこの隣に「元神明社(鳥居の形式)」と観られる「杜と祠社と鳥居と石垣」の「址」がある。

この東の後ろの「杜(約2万7千坪程度」(聖域)も含めて「域全体(約4万坪)」が「福家の館・湯ヶ島」であったと考えられる。
「聖域」がある事が神明社が在って、且つ、「福家存在地」の“「構え」”の一つである。

この「福家の館の湯ヶ島周辺」には「八幡社(半径10k圏内)」は全く無く、逆に「元神明社」と観られる「無名の神社(山を祭祀する神社)」が何と「六つ」も周囲を円状で「半径5k圏」で囲んでいる。

「山を祭祀する社」は、古来より“「山神」”と称して「神明社の存在」を証するものであり、且つ、この「六つの山神」が囲む範囲を「聖域とする証」でもあるのだ。
その様に陰陽で六つの方向の位置に存在させるものと決められていた。
従って、「神明社の聖域」が在る所には「山神社」は必ず存在する。
ところが源氏族の拡大で平安末期からは「伊勢と信濃」に「山神社の存在むが減少しているのだ。

(注釈 然し、「美濃」にもその「形式の址」が確認できるが現在は聖域の痕跡は無い。
「近江」にも「青木氏」の存在した「二つの地域」には夫々に「二つの神明社・祠社」が存在する。
山は約750k平方メートルの面積を有していて、「山神社」は一つである。
現在では「聖域の形跡」は見られないが六方向にあった事は「神明社」とその「面積」とその「位置」から確かであろう。
「甲斐」は信濃国境の北部域・北杜市に「五つの神明社」が集中して存在し、「一社の山神社」の社のみである。
これは実は「甲斐の聖域」は「信濃論の処」でも詳細に論じるが「信濃の大聖域の末端」でもあるのだ。
この「北部域の北杜市域」は古来、元々「甲斐青木氏の定住地」では無かったので判らない。
ここは信濃域の南部末端域であった。)

そこでこの事等を念頭に「伊豆」の「村格社、或いは無資格社」の「八幡神社」は上記した様に「北東部」に集中している。
この事は「室町期中期の混乱期」に成っても依然として「伊豆」には「伊豆青木氏」が「商業的な勢力」を保持していて、前段でも論じたが、どんな勢力も入り込めなかった事を示している。

この伊豆の「無名の神社(山を祭祀する神社)」の示す処はここは“「聖域」”であった事を示しているのだが。
更に、「福家の館の位置」を「拠点(0番地)」に「現在の番地」が周りに広がつているのだ。
明らかにここが「伊豆青木族の統治」の中心地の「福家の館跡」であった事を証明している。

(注釈 当然に伊豆は上記で論じた様に「武力的では無かった事」である。
「武力」で抑えるのでは無くて、その出来る方法は「伊勢」で証明している。
つまり、「商いの自由概念」+「氏の原理主義の概念」=「共生共存共栄の概念」 である。
この「青木氏族」に執って「重要な関係式」が「伊勢と信濃」のこの「矛盾を解ける鍵」であったのだから当然に、「融合一族末裔」の「伊豆」もこの関係式を維持していた事に成る。
「武力」で「伊豆の9カ所の土地」を獲得したのでは無く、「経済力」、即ち、「地権」で時の幕府から獲得した事に成る。)

要するに「商いの地・地権」であり、「家人の館(青木氏の情報館)」である「来迎寺館・分寺・内浦湾近郊・170m」の境内は、南東に54mで、北東に41mの「長方形の敷地」にあり、後ろを「広大な社領の杜」が控えている。

さて、そこで問題に成るのは次の「二つの所在地」である。

「内浦湾 170m東の来迎寺館の所在地」
「稲取湾 166mの西の清光寺院の所在地」

この「二つの湾」に近い「二つの最高の位置」から観ても、“船で伊勢と繋がる「商い」”が成されていた事に成り、「福家の差配」は「伊豆の湯ケ島」から行われていた事に成る。

(注釈 参考 「修禅寺(頼朝の子の二代将軍が北条氏に依って幽閉誅殺された寺)」は、「静岡県伊豆市(梅木)」にある「神明社 総社」よりの「南西の位置」にあり、「R12に沿い7k」で、「R18 南西方向の1.5kの位置」にあり近隣である。
「神明社」からも近いし「福家の館」からも北西に直線で11k 路で17kであり「1日の範囲」にあり近い。
無視できる範囲では無いので「青木氏との関係」が無かったのか気に成る所である。
記録は無いが、「国友の存在した位置」が判らないので議論が発展しない。
唯、筆者は「国友」は「来迎寺館付近」に住んでいたと想像している。
何時でも船で移動させて隠す事が出来るし、「商い」をさせて移動させて晒さない様に出来る。
その意味でも「頼朝の子頼家」とは関係を持たない方が「摂津源氏であった事」から「鎌倉幕府との関係・北条氏」も含めて都合は良い筈であった。

「京綱」の様に「福家に入る事や四家」に入れる事は、最早、年齢的にも無理であり、「青木氏族」はそんな簡単な組織体では無く、簡単に「人」を「福家に入る事や四家」に「引気入れる事」は出来ない筈であった。
恐らくは「商い」を学び「船や陸路」で頻繁に移動する身元を隠した「営業マン(家人)」と成ったと考えられる。
「伊豆」に入ったとする「二つの記録」があるが、“その後の事が判らないという事“は「信濃青木氏・伊豆青木氏」に成りきっていたと云う事では無いか。)

伊豆の「福家の館」は「浄蓮の滝の東側」の「約390mの位置域」にある。
この「福家の館」から「修禅寺」まで通路を経由して「16.5k・4里の南西の位置」にある。

「清和源氏の分家」の「河内源氏の鎌倉幕府」と「伊豆青木氏」との関係である。
「本家の摂津源氏」の「妾子の国友」が「信濃青木氏」と成って上記の経緯で「伊豆」に入った。
これが「1178年頃」の事であった。
「頼朝の子頼家の没」は1204年であるとすると、「26年後の事」に成る。
「国友」が「伊豆福家」に成ったかは記録が無いので判らない。
唯、「青木氏の仕来り掟」からは「女系制度と四家制度等」を敷いていた事から無かったと考えられる。
「頼朝の子頼家」の幽閉没は1年間である。
「1203年修禅寺入り」であるので、「坂東八平氏との関係」は「福家の館」からの極力接触は避けたと考えられる。

(注釈 そこで「各地の青木氏」が存在する「現地調査」では、「事前調査」に伴って知っていなければ成らない「青木氏の歴史観」がある。
これで調べて行けば紐解けて行くのであり、また「資料や記録」では判り得ない「本当の意味の調査」は出来ないのである。
それは「時代の変異」が大きく変えてしまっているからだ。
それを基に歴史観を戻す事に意味がある。
上記の様な確率の高いと考えられる推理も成り立つ。
そもそも、この「頼政」の後に「仲綱(長男)」が「伊豆守護代」を引き継ぎ、「1180年」の直前まで「摂津源氏族(「頼兼(次男)」までが「遙任」で務めている。
従って、「信濃青木国友」も入り易く成り、「同時期(「1179年頃前」)」には既に入っていなければならない事に成る。この前後は無理であろう。
この様に現地を観て確率の高い推論が出て来て資料が無いか調べる。)

(注釈 実質、記録では「伊豆の守護」は「鎌倉の河内源氏(頼朝系)」がその後の「1185年直前」まで勤めている。その後は一般の守護に成っている。)

唯、これには一つ疑問があった。
確かに、「伊豆」は観ても明らかに「地域全体が地形防御の要衝地」である。
「相模の秀郷流青木氏の背景」はあったがそれが他家で済んだのかである。
「伊勢信濃の様な抑止力」の「シンジケート」が必要では無かったかと云う疑問である。
「商い」をする場合はこれは取り分け必要である。
此処を解決しなければならない「現地調査の疑問点」であった。
これには何かあった筈である。

それは何かである。
それが平安末期から室町期末期までの長期間必要なものであった筈である。
これは行く前からの疑問でもあった。
答えは現地調査の一寸とした事から見つかった。
それは「水軍」である。
その「水軍」は「伊勢水軍(7割株)」を持っているが「伊豆」には常駐は当然に無い。
然し、前段でも論じたが縁戚関係にあった「駿河水軍」が「駿河湾」を拠点としている。
上記している様に、陸は「天然の要害」であるとすると、少なくとも「伊豆半島の入り口を護る事」が戦略上で肝心な事に成る。それは湾湊である。

上記の「9つの地域」に「伊豆青木氏」は分布している。
これは仮に攻められたとしても一族は滅亡しない。
「イ地域の青木氏」が攻められても「内部の青木氏」が攻められていなければ時間稼ぎが出来、「秀郷流青木氏の援護」が背後から来る。
「背後」を攻められれば敵は殆どは全滅するは「戦略の常道」である。
「イ地域からリ地域」まで「要害の地」でありながらそれでも一族を「要所に分布させている事」が「答えの元」であった。
一か所に集中させても良い筈である。

一族を分布させている以上は、それは“「四家」が何処なのか”と云う疑問の調査が必要であった。
それは次の通りであった。

「福家」は「伊豆市湯ヶ島の聖地」
「四家1」は「内浦湾 170m東の来迎寺館の所在地」
「四家2」は「稲取湾 166mの西の清光寺院の所在地」
「四家3」は「静岡県伊豆市(梅木)」にある「神明社 総社」
「四家4」は「静岡県下田市青木の港湾地」

以上であった。

これ等の「発見のポイント」は要するに「青木氏の伝統」で生まれた“「伝統の構え」”である。

「青木氏族」と「神明社」は守護神とは前段でも論じてきたが切っても切れない関係があって、これから生み出される「特徴」、所謂、何事にも他氏と異なる“「構え」”と云うものがあった。
「青木氏の歴史観」から滲み出る「特異な形や現象の事」である。
この“「構え」”で見極める事に在る。

例えば、上記の「福家の所在の確定」である。

「福家の構え」

「所在地」にはある「面積(2万坪程度以上・長方形)」がある事
それが何らかの「囲い(石垣や土塁)」で回りを保護していて「館様式(痕跡の有無)」である事
「場所的」に「移動の良い処」にある事
周囲が「歴史的な風格」がある過去からの「土地柄(奈良期からの歴史性がある)」である事
必ず「背後」に必ず「神明社の聖域」が在る事

「神明社の構え」

その「神明社」には独特の“「神明造り」”の「鳥居や祠、社殿」等のものが存在する事
必ず「古びた石段・砂岩造り」があり、「平地」には「神明造」から無い事
この特徴ある「神明鳥居」は「社領の入り口(仮鳥居)」と「本殿の入り口(本鳥居)」の二つある事。
「祠、或いは本殿(神明造り)」の「南側」には「広大な杜(聖地・神が坐杜)」が位置する事。
この「聖地」を護るために「杜の六方向所」に「山」を護る通称、「山神の社」を配置している事。

現地調査には

この「福家の構え」や「神明社の構え」の「二つの構え」が備わっている地域で確定できる。
時代が変化しているので「風化」していてもこの「二つの構え」は遺されているもので、それを「見抜く力(直観力)・歴史的知識」が必要である。

注釈として、 前段でも論じたが「神明造」は、「三大造」の一つで他に「大社造(出雲)」、「住吉造(住吉)」が古来からある。
奈良期より一切この「三大造」に真似て造る事を禁じられていて明治期まで完全に護られた。
中でも「神明造」は「皇祖神の子神の祖先神」である為に、「時の政権」に厳しく管理されていた。
故に、「神明社」を守護神として管理していた「青木氏族」に執っては上記の様にその痕跡を調査する事で「判明の構え」が執れるのである。
「八幡神社との区別」が完全に現在でも就くのである。

取り分け、「上記の注釈」に従って、“「社格式」”でも異なって来るので如何に搾取してても判別できる。
「伊豆」はその意味で「伊勢の不入不倫の権」で保護されていたものと違って、「自然の要害」と「水運路」で保護されていたのである。

従って、上記の「2〜4の四家」の「区域の判別」も「福家の判別」に従うものが大きいのである。
そこには追加として、「福家の構え」と「神明社の構え」に「商いの構え」と「古代密教の構え」の二つを加えれば間違う事は無い。

上記の「伊豆」の「福家と四家」の「信濃や美濃との違い」の「凡その生活環境」が蘇させる事が出来るのである。


> 「青木氏の伝統 54」−「青木氏の歴史観−27」に続く



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