青木氏氏 研究室
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  [No.376] Re:「青木氏の伝統 54」−「青木氏の歴史観−27」
     投稿者:副管理人   投稿日:2019/11/09(Sat) 10:21:25

> 「青木氏の伝統 53」−「青木氏の歴史観−26」の末尾

> 現地調査には、 この「福家の構え」や「神明社の構え」の「二つの構え」が備わっている地域で確定できる。
> 時代が変化しているので「風化」していてもこの「二つの構え」は遺されているもので、それを「見抜く力(直観力)・歴史的知識」が必要である。
>
> 注釈として、 前段でも論じたが「神明造」は、「三大造」の一つで他に「大社造(出雲)」、「住吉造(住吉)」が古来からある。
> 奈良期より一切この「三大造」に真似て造る事を禁じられていて明治期まで完全に護られた。
> 中でも「神明造」は「皇祖神の子神の祖先神」である為に、「時の政権」に厳しく管理されていた。
> 故に、「神明社」を守護神として管理していた「青木氏族」に執っては上記の様にその痕跡を調査する事で「判明の構え」が執れるのである。
> 「八幡神社との区別」が完全に現在でも就くのである。
>
> 取り分け、「上記の注釈」に従って、“「社格式」”でも異なって来るので如何に搾取してても判別できる。
> 「伊豆」はその意味で「伊勢の不入不倫の権」で保護されていたものと違って、「自然の要害」と「水運路」で保護されていたのである。
>
> 従って、上記の「2〜4の四家」の「区域の判別」も「福家の判別」に従うものが大きいのである。
> そこには追加として、「福家の構え」と「神明社の構え」に「商いの構え」と「古代密教の構え」の二つを加えれば間違う事は無い。
>
> 上記の「伊豆」の「福家と四家」の「信濃や美濃との違い」の「凡その生活環境」が蘇させる事が出来るのである。


「青木氏の伝統 54」−「青木氏の歴史観−27」


そこで「伊豆」の「伊勢美濃信濃との繋がり」の問題である。

先ず「伊豆」にその「関わり」の届くまでの経緯がどうであったかである。
それには「伊勢と美濃の間の事」を明確にして置く必要がある。
大きく関わっているのだ。

前段で「伊豆」には「抑止力のシンジケート」が及ばなかったと論じたが、実は「伊勢の桑名」から「美濃の土岐」までの間には、「シンジケート」は無かったと観ていて、それを補うには「神明社の存在」であったと観られるのだ。
「伊勢桑名」に集中する「神明社」は、この間には「小牧」から「知多」に向かって当に一線上(当時の正式な神明社はたった4社)に在った。
平安期中頃にはこの両サイドの「桑名」と「土岐」との両間には“「不思議 1」”な事に全くなかったのである。
この「美濃」に「神明社経路」が無く成れば「伊勢」から「伊豆」には当然に「青木氏の情報のルート」が途切れ「情報や物」が届かない。
ところが、「尾張」に何故か不思議に存在しているのだ。
そうすると「尾張―三河」と行けば「伊豆」に届く筈である。

では、“何故に、「美濃」に無く「尾張」では一線状に遺っていたのか“と云う素朴な疑問が残る。
やるなら、平安末期では「神明社」は全部潰すのが常道であろう。
然し、戦略上それは出来なかった様である。

「神明社」は、「青木氏の守護神」で「重要な連絡網」ではあるが、平安期やせめて鎌倉期までは「美濃―尾張」の全ての「民の信仰の対象」でもあった。
本来は「全滅」は其処を「治める者の責任」であり、失う事は「自らの領地」には負わなくてもよい「政治的な傷」を負う。然し、「美濃」には無く成っていた。
そもそも「民の信仰」の「最高の信仰対象・国幣社」が無い事は「民の信用を失う事」に成る。
然し、放置する訳には行かなかった筈だ。

では、どうするかである。
要は、その目的は「美濃―尾張間」の”「情報の遮断」”であった事が遺された資料の一部に記されていて判っている。
だとすると、つまり、その推理は「勢力者」は「青木氏の力」を削ぐ為には「伊勢―信濃」の間に「神明社の空白地」を作る事であったろう。
且つ、それを観察できる様にするには、両サイドから中間地に縦に固めて一線上に監視すれば「ある目的」は叶えられる。

これは平安期末期から室町期初期までに「力のある影の神明社の存在」が「美濃―尾張間」の「統治者」に執って戦略上好ましい事では無かった事に成る。

これが「不思議 1の策」と下記の「不思議 2の策」であった事に成る。

これは、「上記の経緯」から「平安末期から室町期」の「戦乱」で「神明社」が「戦いの城郭」と成った事で故意に潰されたのである。
それ故に「青木氏」としては「神明社連携」が以降採れなくなったのである。
その証拠が青木氏の資料の一説に下記の様に記されている事であろう。
明らかに「青木氏が持つシンジケートの力と情報の遮断」が狙いだったとみられる。

それには考えられる事として「青木氏」に対して「戦いの為の金・戦費」を要求されていたと観られる。
此の拒絶した事の結果として、後に「伊勢での青木氏との激しい戦い」と成った。
これは明らかに、次の「二つの事件」が「美濃―尾張間」の「神明社の破壊」を起こしているのだ。

先ず一つは、平安期の平家に依る「富士川の戦いと石橋山の戦い」で「戦い拠点」を破壊された事。
次の二つは、「室町期の伊勢攻め」の時の「織田氏の仕業」と「神教と仏教の力の排除」をした事。
更に三つは、「平安末期の美濃の源氏化」で「美濃側の方」で「伊勢の影響の強い神明社」を取り壊した事も考えられる事。

三つ目はこれに関する行の資料記載がない事と、民の為の格式を持つ「国幣社」である「神明社」を壊す事が自ら「源氏化を否定する事」に成り、且つ、「民の信頼を失う事」に成って仕舞う。
そうすると遣すとしても「直接的な破壊」は先ず無いだろう。

従って、以上の二つと主に云える。

(注釈A 平安期末期(1178年〜1180年)にも「神明社」が“「戦い拠点」”とされた為に現実にここでも「破壊」が起こった。
「伊豆」に流されていた頼朝は「以仁王令旨」で挙兵し、「伊豆の目代」の「館」を襲撃して殺害した。
ところが「石橋山の戦い」で頼朝は「平家」に惨敗してしまい「安房国」に逃亡する。
この時に「戦いの拠点」と成って「尾張―三河―伊豆の神明社」は消滅したと記録にある。
其の後の駿河の「富士川の戦い」でも「尾張東と駿河間の神明社」は消滅したとある。)

(注釈B 「比叡山焼き討ち」や「今井のシンジケートの排除」や「蓮如への攻撃」や「根来の焼き討ち」や「雑賀族の攻撃」や「紀州門徒衆の討伐」等でも遺ったのに「美濃尾張間の神明社」は消滅した。)

結局は、「伊豆の神明社」は鎌倉期に多くが消滅するのだが、これが原因して「伊豆」には「祠の神明社」が多い所以なのであって、上記した様に「遺跡」が多い所以でもあるのだ。
その後、「伊豆」に入った「青木氏の財力」で「神明社」は再興されたが、江戸初期の「神明社の放棄」で「幕府の管轄」と成った結果、「幕府の財力不足」で再び荒廃した。
殆どは、「江戸期の荒廃原因」ではあるが、「伊豆」では密かに伊豆青木氏が独自に「祠」で祭司していた。
この事は、「桑名から美濃の西域」は「祠の神明社」で「伊勢青木氏」は祭司していた事を示すのだ。
然し、「平安期末期」からは「美濃から駿河」と「伊豆までの間」は遂に対策が出来なかったのである。
つまり、「神明社を経由する情報網」と「美濃から駿河」の「シンジケートの構築」は切れてしまったのである。
これが「伊豆」まで及んで「商い」で生きていた彼らには生きる死ぬかの大きな痛手であった。

その「美濃から駿河」の「シンジケートの構築」の断絶を物語るものとして、「織田氏の膝下の岐阜」にあったのだ。
つまり、それの答えは「信長」である。

この「信長」は「過去の歴史の履歴」から「青木氏」が「戦い」に裏から絡んでいた事を知っていた。
それが「神明社の事(今井神社も敵視された)」に成る。(前段で記述・記録有)
室町期末期には、美濃域で僅かに遺し得ていた「神明社網」が「伊豆」までのその元を断絶された事に成るのだ。
「伊豆の命の綱」である「神明社」を遮断されたのである。

それには、「神明社の存在の実情」は、更に、室町期末期の「美濃」には、「不思議 2の策」の事に成るのだ。
それは「三つの野(青野、揖斐野、各務原野)・三野」にしか「神明社(一社ずつの3社)」は無いのである。(神社含まず)
これも、「情報網の遮断」であり同様である。

本来であれば「肥沃な三野である事」からその目的から最も多く有っても良い筈である。
全国に500社弱あったとする「神明社」である。
前段でも論じた通り「伊勢の桑名寄り」に集中してでも「19社」あったとすると、少なくとも平安期中期までには、この「三野」にも「天武期の五都計画」でそれなりの数の「神明社」が充分にあったと考えられる。

そこで「尾張―駿河」の域は再興し得る能力の持つ「青木氏族の存在する地域」ではそもそも無い。
従って、「美濃の事」でこれを論じて観る。
元より平安期末期以降は、この間は「神明社」は無かった事から、連携先の関係の深かった「今井神社の情報網」を何とか使っていたのであろう事は充分に判る。

筆者が行った「シンジケート族」のプロットも「縦の線上形」であったとは云え実はこの間で全く切れているのだ。
故に、筆者はここまでをこれが「伊勢シンジケート」としたり、「伊勢信濃シンジケート」と書いたりしている所以なのである。

これは明らかに、実は「信長」に依って「伊勢―信濃間」の「シンジケート」が遮断されていて警戒されていた事に成る。

これは裏を返せば、ここに「(a−1)(a−2)の様な族」が美濃を逃れ「信濃寄りの山間部」に逃げ込んだとする根拠ではある事になるのだが、これは同時に「信濃のシンジケートの根拠」と成り得ていた事にも成る。
資料でもそうなっている。
そこでこの「シンジケート」とは、単なる「経済的な契約」のみならず「青木氏族」とは切っても切れない関係にあった事を当時は一般に常識であった事に成る。

つまり,何故ならば上記した様に元々は「神明社の繋がり」のあった「美濃と尾張」である。
そもそも、「設楽」を除いて、この地域は「7世紀の古来」は全て元は「野」であった。
「古書」によると、その「尾張」は、“尾の張りたる地”と記され、“肥沃で土地厚く天領の国”と記されている。
その「裕福な農業生産力」で「機内への地理的な背景」から「天領地」として支えていた事が記されている。

その「尾張の名」の当初の語源は「ヤマト王権」の持つ東の「権力の端(野の尾)」を意味していた。
この様に「三野と張野」の「広大な野」は「逃げ込む所」は無いし、「野の富」を求めて「武力」が働く。
今昔共に、「平和」でない限りは、「生存競争」に依って「武力」に弱い「(a−1)(a−2)の様な族」が此処では単独では生き延びられる事は不可能である。

(注釈 “尾の張りたる地”とは、”元気な動物は尾がピンと張っている”と云う事で、「肥沃な土地」の事を意味する。)

故に、上記の通り、当然に「平安期末期の戦い」では遂には「両サイドの山間部」に逃げ込む事は必定である。

では、次に逃げ込んだずっと後の「室町期」のこの「断絶遮断の問題の解決の糸口」の問題である。
つまり、言い換えれば「室町期以降」は「伊勢と信濃の青木氏族」はどの様にしたのかである。
何かをしなければ「命の綱」が遮断されたのであるから「信濃の衰退」と「伊豆の滅亡」が目に観えている。

ところがそれには「最も安全な連携手段」があったのだ。
それは「神明社の断絶」の起こった「伊豆」でもそうであった様に要は“「船」”であった。

前段でも何度も論じたが、「伊勢青木氏」は、「紙墨硯筆」等の「宋貿易」で「大船」を平安期初期(925年朝廷の許可で「商い開始」)の頃から持っていて、「1025年頃」には「総合商社」をも営むとある。
更に「伊勢水軍(七割株)」も持っていた。

これは「伊豆」に「青木氏融合族」が入るほんの少し前(1159年)の頃の事である。
従って、「信濃」から「塩尻」の「木曽路」を経て「美濃の土岐」まで出て、そこから「山伝い」に真南の「駿河の渥美湾」に出れば事は事は済む。
これでここを抑えれば「船の策」は成立する。
「伊勢水軍」も配下にあるので「伊勢」からのこの「渥美湾」までの「暫定の経路・2時間」は成立する。

そして、この「美濃の土岐」からの「暫定の経路」の「縦の線状域」には「神明社」や「特定の寺」が「戦い」から逃れて僅かに遺されていて存在分布する。

後はこの「渥美湾」を海路で獲得するにはその域までの「縦の経路」に「守備隊」として誰を引き出すかであろう。
「信濃自身」が勢力を前に出して出て来るのか、或いは、「信濃シンジケート」を引き出すかの「二者拓一」であった。
何れにしてもリスクは大きい。
「武力」を持たない「信濃」も自らの聖域が「国衆」に依って脅かされている。
その答えは「何方のリスク」がより現実性があって柔軟に対処できるかであろう。

その前に、南に出て来る以上はその「縦の環境の如何」であろう。
この域の多くは、記録で観れば当時は未だ“「三野」”の名の通りに「土岐域の周辺部」は未だ「山間部」であったと観られる。

「日本書紀の記述」等に依れば、「木曽川」を境に現在の「岐阜県南部」と「長野県木曽郡」の中間地付近に歴史的考察から「三野王の拠点(美濃青木氏)」があったと読み取れる。

この「拠点」は「木曽川」を挟んだ「各務原野の右域」、つまり、「土岐域付近(土岐氏)」との間にあった事に成る。
従って、時系列的にここの「三野」に渡り、「(a−1)(a−2)の皇子族」も初期には点在して定住していたと考えられる。
平安期末期までは「三野王」を始祖とし「氏族」を形成していた「美濃青木氏」、土地の「土豪土岐氏」との血縁族の「土岐氏系青木氏(「各務原野の左域定住)」の「三氏」が住み分けしていた地域と観られる。

そこで「神明社」に替わる「情報網の復元」の為に「渥美湾の船の対策」には次の手を打っていた。

ここでこの「重要な注釈」として述べる。

前段でも論じたが、一説では 「土岐氏系青木氏」の「傍系の流れ」を汲むと考えられていた“「伊川津七党の青木氏族」”が、室町期末期に「三河国渥美郡の土豪集団」として集団化して勃興した事が「古文書や資料」にも記されている。
この「古文書(郷土史)」の説には実は「青木氏の資料」とは異なっているのだ。
そして、「三河徳川氏の資料」の中には室町期末期の「三河の戦記等」としての内容の一部に、更に、「額田郡」にも「山間部」から出て来て「美濃の青木氏(額田青木氏・蒲郡青木氏)」を興したと記されている。
この後の説と「青木氏の資料」とほぼ一致する。

そこで内部を解明すると、「伊川津七党」の「内部の構成」は実は二つに分かれているのだ。
「伊川津の土豪の集団」には「古文書」が記する様に、干拓して入植して室町期初期の頃から定住した者等が豪族化して「4つの土豪」があった。
又、前段の経緯の通り、戦乱期の室町期末期に入った「美濃の青木氏(額田青木氏・蒲郡青木氏)」があった。
この「二つの族」が互いに護りあう集団の「党」を構築したのである。
これが「伊川津七党」と呼ばれる集団である。
この内の「三つの青木氏」に関わる族が入り「伊川津七党」を構築したのである。
前段で論じた「a−1の青木氏」と「a−2の青木氏」とこれ等と血縁した「bとc族」の「三つの青木氏」が室町期末期に入り、そもそも「合計七党」を構築したのである。

(注釈 「郷土史」には「郷土」をよく見せようとして、この様に大雑把に表現して真実かの様に見せかけれる手法は目立つ。
この{江戸期の郷土史}は、信用性を高める為に”「古書」を前提として書いた”としているが、過去の経緯をよく調べないで記述している。
そもそも、この「郷土史」は「徳川三河の戦記集」には「三つ」あって、この「三つの三河記録の史実」と異なるのだ。この事を敢えて認知しなかった事に成る。)

「渥美湾」を境に真北に「額田郡」と真南に「渥美郡」がある。
全く直線的な「真北南の対岸」の位置にある。
実はこれは偶然ではないのだ。

そこで、何故、「美濃青木氏」が源氏化して、源平戦で一度、敗退してその裔の一部が「美濃の加茂−木曽の山間部」に逃げ込み「シンジケート」として生きてきた。
その彼らが、室町期末期に「真北にある額田郡」と「真南にある渥美郡」に恣意的・故意的に出て来たのかである。

そもそも「一郷士」が出たくらいでは無理であり、当然に「戦国の世」の戦場に出る位である。
それには、相当な「次の条件」を整っていなければ成し得ない。
これは「青木氏」にしか解き明かし判らない真実の経緯なのである。



話は若干逸れるがそれをここで解く。

一つは「相当な経済力」
一つは「相当な集団力」
一つは「相当な武力」

この「三つ」を裏打ちする事が先ず必要である。
その上で次の事が叶えられていなければならない。

「相当な背景力」
「背景力の権威」

以上が叶えられれば、「戦国の世」に突如出現する事が可能と成ろう。

況してや、「尾張の隣三河」である。
世にも有名な「戦国中の戦国の地域」である。

此の突如出現する元と成つた「情報網の切断の対策」は、先ず「伊勢と美濃」、「美濃と信濃」の「経路を立て直す事」であった。
そして、先ずはその上でその経路で「尾張の隣三河」と「伊豆」に繋がる「駿河を繋ぐ戦略」であった筈である。

「駿河」に繋がれば後は「藤枝、三島、富士宮の伊豆青木氏」に繋がる。
重複して「今井神社系シンジケート」との連携も可能に成る。
そうすれば、「伊豆」の「繋がり」は護れる。
然し、これは簡単な事では無かった。

それは「最後の決定的条件」は次の事であった。
それが矢張り、記録には無いが全体の経緯から観て「決め手」は”「船」”であった様である。

当時の「廻船の裏の仕組み」があってそれには、勝手に「出入り」は出来ないのだ。
その「海域」を統括する「商人の差配頭(船主組合)」との「繋がり」を持っていなければならない。
この「繋がり」は「組合株」を入手できるかにあった。
これらを入手できる事で、「商いの裏表」の「圧倒する力」で、以上の美濃の額田の「二つの国衆」が突然に出現出来上がる仕組みである。
先ずこの条件を叶える必要があった。

(注釈 「伊勢海路」での「摂津の組合株」は持っていた。
然し、未だ突如出現の前は「三河駿河域」の「組合株」は持っていなかった。
当時は、時の政権が財源を獲得する為に「太平洋側の海域・瀬戸内まで」に「4つ奉行所」を設けこれの管理を商人に任し、そこから「莫大な利権」を獲得していたのである。
「商人等」は「組合組織」を作り固め、その「組合人」に「株券」を発行して安定を図った。
「時の政権・武力」を背景にこの組合の差配頭等は政権に勝るとも劣らずの金の力を持っていたのである。)

室町期までの「紙文化」に依って「巨万の富」を獲得していた「伊勢信濃の青木氏」は、前段でも論じた様に「二足の草鞋策」で、これを当時の大大名以上等比べる事の出来ない程のこの「総合力」を持ち得ていた。

前段でも論じたが、1545年頃に「伊勢青木氏」は、源平戦に参加し衰退した「駿河域の株券」を持っていた「海運の駿河青木氏の支流族・血縁関係」を呼び寄せ、「伊勢水軍」で再び訓練させ「船一艘」を与えて「伊勢と信濃の商い用」の「駿河水軍」を復興させた。
つまり、この「駿河青木氏の組合株券」を以てして「渥美湾の利用権」を獲得したのである。
これで「伊勢」から「伊豆」までの「商いに依る航行権」を獲得した。

そこで問題に成るのは「渥美湾の中継点」の「確実な構築」であった。
これ無くして伊勢水軍と駿河水軍を繋いだルートは中継点が弱ければ成功しない。

そこで「伊勢信濃の青木氏」は「二つの国衆」の背後にいよいよ就いて「大戦略の準備」に入った。
記録に依ればこれも「1545年頃」に「準備」に入ったとある。
然し、これは「捉え方」に依っては「武力に関わる禁手」であった筈である。

その「青木氏族」が、要である「神明社とシンジケート」を遮断された以上、この「禁手」を止む無く外してそこで「織田軍の弱点」を突く事に成ったのである。

それだけに重要であって一族生命線の「伊豆」を救う為である。
唯、それは流石に直接に「禁手」を使えなかった。
そこで「額田」の「信濃シンジケートの族」にこの役目を持たせようとしたのである。

同時に美濃に居る信濃シンジケートを務めていた「伊勢の裔系」を「300年の時」を経て引き出すチャンスでもあった。

(注釈 前段でも論じたが「伊勢青木氏}の「額田の裔系・桑名殿の浄橋飽波の裔」にである。
「彼等」を再び興し、且つ、「伊豆」が救える一挙二策であった。)

その為には、この域に勢力を持つていた「織田軍」の「彼らの弱点」を突く事にあったのである。
つまり、歴史的にも有名な「水軍(弱体)」にあった事は有名である。
以前より勢力を拡大する為には「織田軍」は中部域を抑えるには「織田水軍」が必要であって、伊勢湾の「水軍伊勢衆・9衆」の“「仲間割れ」”をさせて一つの「小水軍」を味方に引き入れた事に奔走したと「三河の記録」にも記されている。

この事を充分に事前に承知していた元締めの「伊勢水軍」はその前に「伊勢青木氏」と共にここを当に突いたのである。
ここに「楔を打ち込んだ」のである。

(注釈 「熊野水軍の九鬼氏」に繋がる「志摩水軍の嶋衆・弥富族」があったとされ、これが伊勢湾の水軍衆の一員であったが、結束を裏切って信長に着いたが然し未だその勢力は弱かった。
現在も海運業として遺る。)

筆者は、この「記録」の「行の表現」から観て、「神明社の力」と「情報の遮断」で、相当にぎりぎりに困った末に採った手であったと受け取れる。

何故かである。それは「青木氏の禁手の氏是」にあった。
普通はこの「氏是」を破らないと成し得ない事は充分に理解できる。
要は「氏是」か「伊豆」かの選択で在ったと読める。
然し、そこで「伊豆」を選んだ。
つまり、歴史上初めての「実戦」を選んだと云う事に成る。

そう決まればそこで次の手を打った。
「信濃シンジケート、つまり、額田青木氏等・伊勢の裔系」を呼び出す前に、記録では、“「1545年頃」に「準備」に入った”とする「行」が直接表現ではないが読み取れる部分がある。
然し、これには「説得」から始まり「移動」までの「準備」が必要で在ったと観られる。
「約300年間」も「シンジケート」の中で生きて来た「二つの族」を一つにして「差配頭」を定めて結束させなければならないし、「国衆」としての訓練も必要に成る。
「訓練の指導者」を「秀郷流青木氏」に協力を求めなくてはならない等多くあった。
仮に“「1545年頃」に「準備」に入った”とすると、「実行」は三河の記録から「1560年頃」と成っているのでこれまでには「準備期間は15年間」かかった事と成る。

そこで、この「国衆」にとして仕上げて「呼び出し」には次の様な経緯があった。
それを複数の資料の時系列を纏めて観ると次の様に成る。

先ず、次の様に成る。
1 「木曽と賀茂」に潜んでいた「(a−1)(a−2)の美濃の額田青木氏」、つまり、「信濃シンジケート・とそれに付き従っていた「bとc族等」に力を与えて呼び出した。
2 そこで呼び出した「美濃の(a−1)」の彼等に「渥美湾」を挟んで「真北に額田郡」に配置した。
3 「真南の渥美郡」には「美濃の(a−2)の青木氏」と「bとc族」を配置した。
4 この「海の防衛ライン(渥美湾と伊勢水軍)」を「国衆の武力」で作り上げさせた。
5 「渥美郡の青木氏」には「伊勢屋信濃の青木氏」であると云う事を前提に”「四家」”を構成させた。6 「伊川津の土豪」等と「伊川津七党」を構築させた。
7 此処には奈良期初期の古来より神明社(古跡)があり、伊勢より「神官青木氏」が配置されていた。これを基に地元と結束させた。

(注釈 そこで「国衆の武力」にはある驚くべき誰も出来ない特徴を持たしたのだ。)

この「史実」に依って、筆者は“「伊勢から信濃までの連絡網」を再構築出来た”と考えている。

後は、「駿河水軍」と「船での横のライン」を造れば「神明社網」が亡くなった「伊豆」に到達する。
「陸の神明社替わり」の「船のシンジケート」は出来上がる。

(注釈 「記録」に依れば、この事に依って「三州街道 R153」を経て、もう一つは「R19」で、凡そ「200キロ」であるが、ここを「三河蒲郡」から「信濃塩尻域」に真っすぐ縦に入った可能性がある。
「三河の国衆の合力」を得て「武力」に依ってこの「縦のライン」を構築できた。三河三記録)

そこで、「三河の国衆の合力」の事である。
「伊豆」までの「海の横のルート」と「信濃」までの「陸の縦のルート」を確立させるに「必要な事」は「三河の松平氏の勢力」に何とか関わる必要があった。

この「時期の三河」は、主に「今川氏弱体化」と「徳川氏勃興」と「織田氏伸長」の「戦乱の混乱期」にあり、「各地の豪族」が入り混じって「国盗り合戦下」にあった。

そこで、この上記の「二つの戦略」を実行するには「青木氏族」は、「(a−1)(a−2)」として潜んでいた「美濃の額田青木氏族」を一つに「集団化(国衆化)」して表に出したと云う事に成る。
記録から「美濃国衆」の45衆の中に二つの「青木氏」が見える。

(注釈 これは一つは「300年前」からの「伊勢の裔系」の「準備段階の青木氏の美濃国衆」である。
もう一つは「土豪武蔵七党の丹治氏系青木氏」で、美濃に室町期に入り、森、長井、松平、豊臣、松平の臣に成り、次々と主君を替えて「国衆」を大きくした。最後は摂津1万石の大名と成る。)

それには、次に「三河松平氏の国衆」に先ずは成る事であった。
其れも飛びつくような「相当な魅力」のある「国衆」で無ければ成らなかった筈である。
そうでなければ「松平氏」は信用しない筈である。

現実に、三河国衆に成る事は出来たが記録に遺る処では「東の三河衆」は信用したが「西の三河衆」は信用しなかったとある。
その結果として「西の国衆」で在り乍ら「東の三河衆」に組み込まれた。
「東の三河衆」に組み込まれる事は、「青木氏の描いている戦略」には「違い」が生まれた事に成る。

「重要な事」は、”美濃から彼等を出す以上は「集団化を壊されない絶対的条件」”を付加しなければならなかった。
先ず、その為に、そこは「国衆同士」で、「必要以上の戦い」を避ける為に、肥沃な「活用野」ではない“誰も目に着けない「不毛の土地”」であった「二つの域(今川の土地)」に限定してここを確保する事であった。
「二つの域」と限定して記されている。

この「二つの域」が次の地域であった。
・現在の「蒲郡町付近」(未開の沼地)
・湾対岸の「伊川津町付近」と「田原・吉田町付近」(海を干拓した土地)
以上と記されている。

その為にこの訓練された「二つの美濃集団」は以上の地域に「直下で先ず南下」したとある。
当時の「蒲郡」は、未だ「額田一色側の山間部」に向かって地形的に食い込んでいて、何れも「小さい漁村と石切り場」であったらしい。
記録に依ると、“額田郡蒲郡の「横川(西田川の事)」より「引小舟」で北に遡った“と記されている資料もあり、従って「奈良期の美濃王の本拠」は現在の「額田の一色町」にあったとあり、これが「額田の事」に成る。



さて、ここで次にその前により理解を深める為にも、先に重要なのでこの「一色」の“「成り立ち」”を説明して置くとする。


そもそも、この“「一色」”の「地名」は、「伊勢」にもあって、「施基皇子」の「しき」を“「一志」“と”「一色」”との「二つの地名」に変化した事と成っているが、別の資料では「志紀」と「色」もあるとされ、現実にこの資料の通り、現在もこの後者の「二つの地名」も伊勢にある。合わせて「四つ」である。
この「資料の分け方」に意味があると考えられるが判らない。
然し、筆者は、語源から観て「地名・大字の古さ」に依るのではと観ている。(下記)

この「地名の呼称・本貫名」を「地名」や「第二の氏名」として使う事は、直接に「施基皇子名」を使う事には憚られ、且つ、「嵯峨期の詔勅」で禁じられている。
従って、そこで「施基皇子の権威」を誇張して良く見せようとする場合は、この「一色」等を使用した。
つまり、「額田青木氏」は「施基皇子」の「子の桑名殿」の「二世族王の裔系」であるとして、「額田の端浪の定住地」にこの「一色」をある理由で使用したのである。

注釈 この「本貫名」が「足利氏の裔系」に鎌倉期から室町期には乱用されたが、本来は中国から伝わった「古来の習わし」で、その「姓の発祥地」を「本来の姓」の「戸籍名」として、この「権威名の一色等」は、「本貫名」、又は「第二の姓名」と称し、「権威や象徴性」を「搾取的」に高める為に用いた。
「足利氏の裔系」には、そもそも、この「本貫名の由来」は全く無いが、恐らくは源氏支流性を誇張する為に搾取しても用いたものである事は判る。

さて、そこで「額田郡の事」に付いては、前段でも論じたが、「青木氏の記録」では「一色殿」、又は「額田殿」の「二つの記録」が遺る。

明らかに「蒲郡」と「伊勢の地名」と、同じ“一色”の「地名」を使っている事は、彼らは「(a−1)と(a−2)」の族(「美濃の原士・信濃シンジケート」)であった事に成る。

そして、彼らは「伊勢信濃青木氏」と血縁性の強い平安期初期の「美濃の額田青木氏」か「土岐氏系美濃の青木氏」であって、平安期には「皇子皇女族」の多くが「三野王族系」に入った。
つまり、確かに過去には「嵯峨期の新撰姓氏禄」の「族区分け」の「(a−1)と(a−2)」の族(「美濃の原士」)であった事には成る。
然し、ここに「天皇としての裔系」の無かった「光仁天皇・施基皇子の四男」は、止む無く「光仁期」に出自元の「伊勢の青木氏」を「追尊」をして受けて「二世族と三世族」が王位等を意思に反して追尊された。

この時、「桑名殿の女」の「浄橋と飽波」の「二人」がこの「美濃王」に嫁いだが、この「二人」は「氏としての路線の違い」を理由に「女系の裔系」を美濃の額田に構築した。
実質は、「伊勢青木氏」と「美濃王の青木氏」の「裔系差の争い」が「三野の内部」で興ったと見られる。
所謂、「源氏化の路線争い」である。

この「現れ」の一つの証が「一色の地名」であって、その中には、「“一色”の地名」と「“額田”の地名」まで遺した事と、“「一色殿」と「額田殿」”の「二つの記録」が遺る事を勘案すると、これはより「青木氏族」に近い「追尊皇女族の子孫(a−1)」が居た事を示しているのだ。
つまり、間違いなく「伊勢青木氏の裔系」であったのだ。
そもそも「三野王族系」には決して使えない「清光寺や清光院の存在」が明らかにこの事を証明する。

(注釈 念の為に「前段の記載」を重複すると、(a)は「皇族真人族系」で、 (a−1)は「皇子皇女の朝臣族系」で、(a−2)はその「末裔の朝臣族系」で、その「区分け」は「新撰姓氏禄」に依る。
「美濃の(a−1)族」は、「光仁天皇期」の「伊勢青木氏の桑名殿」の「追尊二世族」で「浄橋王女と飽波王女」による「直系の女系子孫」であり、「伊勢青木氏の裔系」である。
「(a−2)」はその「伊勢青木氏の裔系」の子孫族である。
(bとc族)はこの地に赴任していた「官僚族」であったが、(bとc族)は二派に分かれるも後に「(a−2)族」との血縁で繋がった族系である。
「源平戦」で「三野王の美濃族」が滅亡し、これに参加しなかった「伊勢青木氏の裔系」、つまり、「浄橋と飽波の女系の裔系族・a−1、a−2、bとcの族系」が「信濃シンジケート」と成って「額田・一色・端浪の以北の山間部」に逃げ込んで、「伊勢信濃」との「繋がり」を持ち生き延びた「伊勢青木氏の裔系の族」である。
但し、「早期説」としてとして云うならば「源平戦・1178年」より少し「早期の時期」に逃げ込んでいる可能性がある。)

注釈として、 何故なら歴史的な経緯から考察すると、平安期(関東屋形)に「秀郷流一門の結城永嶋氏」の「勢力圏の最西端」にあった事を前提にすると、この域を利用してこの「額田郡」と対岸の「伊川津」の「国衆としての獲得」はこの「勢力圏」を「梃子」に周囲を牽制する為に此処を選んで張り出して来ていた事をも示す資料でもある。
つまり、この域が一つの理由として「後の国衆」として「安全な戦略的域」としては都合が良かったと観られる。

要するに「上記の早期説の前段説」である。
後記でも論じるが、三河の三史の一つ「戦記物語」の一説に本格的な「国衆」と云うよりは「家族の様な集団族」が「美濃」から降りて来たような表現が観られるが、「物語」であるので事実は判らない。
「武力の国衆」として本格的に降りて来るのではなく、「足掛かり」として先ず降りて来たか、「伊勢の裔系族」が「源平戦の影響」を避ける為に一部を「渥美半島の古跡神明社・伊勢神官族青木氏」を頼って逃がしたとも採れる。間尺が一致する。

兎も角も「伊勢と信濃青木氏」は、「伊勢藤氏」やその一族の「伊勢秀郷流青木氏」や「秀郷流伊勢長嶋氏」を始めとして、この「情報遮断の事」に付いて、彼らに「戦略的な協力」を求めたとも考えられる。
とすれば、当然にこの域に影響力を未だ持ち得ていた「青木氏族秀郷流五氏の永嶋氏」にも協力は求めたであろう。
それは、「永嶋氏の丸に片喰紋」の「家紋」を、この「額田青木氏」の中に引き継いでいる事でも判る。

つまり、彼らの中に「美濃青木氏の笹竜胆紋(美濃の原士)」と、その「血縁族」の「揖斐氏と土岐氏(土岐氏系青木氏)」の「家紋」があり、この「土岐桔梗紋」である事から考えると、この彼らの中には「別系の秀郷一門」の「丸に片喰紋の家紋」が見えるのだ。
どの程度の裔系であるかは判らないが、確かに彼等の中に小さいながらも「現地孫」を遺していた事は判る。

(注釈 「州浜紋」もあるとする「近江佐々木氏の研究記録」に散見できる。
これは「秀郷流青木氏」がここまで張り出して来ていた確実な証でもある。
これ等の「歴史的な見地」からして、「秀郷流青木氏」、又はその一門の「永嶋氏」等が「伊勢域」まで張り出した時期は次の史実からも判るのだ。)

(注釈 「鎌倉幕府の頼朝」に合力した功績により特別に「秀郷流宗家の朝光・結城の出自」が、「平家の所領」として奪われていたものを、「結城等の永嶋氏所領」として認めて貰った。
この史実からであるが、結城氏が天智期に「山陽道の建設」に関わった事が「日本書紀等」にも記されている事からも、秀郷一門の前の氏族の元は奈良期初期のこの時期からである事に成る。
それが「将門の乱」でも判る様に「平家」に奪われていたのである。)

この上記の「注釈の事・結城域の奪還」から結果として、「青木氏族」の「永嶋族」は「力」を獲得し「関東屋形」と呼ばれる様に成って、その「勢力」は中部域まで確実な形で張り出していた事に成る。
ここ事から「四国等の守護職」までも務めているのだ。
この時に、この地域に一門の片喰紋と州浜紋の家紋が広がったのである。
この時期が鎌倉期から室町期までの「1245年〜1540年頃」までである。
故に、この事から「片喰紋や州浜紋」は、この時の「永嶋氏の印」であり、「三河国衆」の中に分布する「秀郷流青木氏一門」に「早期説の前段説」の”「準備段階」”で協力(国衆としての訓練)を得ていた可能性は否定できない。
先ず間違いは無いだろう。

戦略的には、この「美濃や信濃」の「山間部」に逃げ込んでいた「元美濃の浄橋と飽波の女系族・(a−1)(a−2)の信濃シンジケート」を国衆として三河に「単独で押し出させる」には僅かに残る「秀郷一門」の「地元の協力・地域の状況把握・繋」が必要であった筈である。
その「押し出した先の地域」が「古跡の神明社」がある「蒲郡と吉田・田原」であるとすると、「家紋」の通り「三野の洲域の植物」の「片喰族と州浜族」の定住地であるので、時系列的にぎりぎり符号一致する。

丁度、張り出していた「永嶋氏の勢力」が落ちて来た時期に、この前哨戦の「情報・運搬ルート奪還作戦・シンジケート」を敷いた事に成る。
「伊勢青木氏」等は「永嶋氏の勢力」が落ちて来た時期のこの時以外に無いと観た事にも成るだろう。
この時期を逃したら“相当の犠牲を負う”と観たと考えられる。
敢えて、戦乱期を選んだ方が成功率が高いと観たのである。
従って、既に「早期説の前段説」が事実であるとすると、その年代からも矢張りその「1540年頃の直前」であった事が判る。
現実に「奪還作戦の顧問役」として「伊勢秀郷流青木氏(秀郷流近江族の左衛門太夫高郷の末子の玄蕃梵純)」が「美濃三河」を経由して軍を移動させ「結城」を護る姿勢を示しながら、「秀吉の奥羽攻略」に対して背後から「奥羽結城を護る戦略」を「事前」に採っていて、確実に「動いた史実」があり現実はそうなっている。
そうする為には、この「三河の勢力圏」をある程度一族で抑えて置かなければ「玄蕃梵純の軍」は進められない筈である。

明らかに、それまでは「平安期末期から室町期」まで「加茂―木曽」の山の中で「美濃の原士」として静かに暮らしていた事で、彼等にはこの「秀郷一門との血縁」はこの間には先ず無い筈である。
それ以前の平安期と成っても、「時系列」と「家紋と永嶋氏の経緯」から観ても無いと考えられる。

単に「家紋」から観れば「秀郷一門」(「永嶋氏か小田氏」)が、確かにこの時、一見して「張り出してきた事」の様に観えるだろうが実はそうでは無かったのだ。

(注釈 つまり、「伊勢青木氏」が直にこれに追随するのでは無く、これは「信長との摩擦」を敢えて避けていた事に成ろう。
それの方が「美濃三河の戦略・国衆作戦」に執っては事を殊更に大きくせず都合が良かった筈である。風林火山である。)

唯、先ずは、この「初期の目的」は、「信長との敵対」では無く、「神明社の排除策」に対する策ではあった。
その為のこの「情報・運搬ルート奪還作戦」は周囲に対して「牽制の戦略」であった事は充分に解る。
然し、果たしてそれだけなのか、ところが“違うとしたらどの様な働きの役目をしたか”は分かっていない。
又、この「永嶋氏」が記録からそもそも「一族の伊勢の長嶋氏」であったかも分かっていないのだ。

唯、これは記録に頼らなくても次の「状況証拠」で判る。

仮に「伊勢長嶋氏」であるとすると、少なくとも「青木氏族」の「秀郷流青木氏族との血縁」は、直接の「原士との血縁」では無かった事から、「美濃の氏族と成り得ていた原士」はその「対象」とは成り得ず無かった事に成る。

この「情報・運搬ルート奪還作戦」の策として「額田と伊川津の青木氏(a−1)(a−2)」、つまり,約300年を経過して支援は続けていたが「美濃の原士」と成り得ていたのである事に対して、何とか“「青木氏族」”に難しい事ではあるが再び組み入れる様にした事にも結果として成る。

(注釈 「三野王の裔系の美濃青木氏」が「源氏化」で敗退し衰退し滅亡して完全に「青木氏」から離れた。
「伊勢青木氏の四家の桑名殿」の「二世族の浄橋と飽波」はこの「嫁家先の源氏化路線」に反対して敢えて自らの「女系の伊勢の裔系」で一族を造り離れ山間部に逃げ込んだのである。
この逃げ込んだとする説とは別に上記の「早期説の前段説」の如く「三野王族」とは離れたとする説もあり、これには「美濃木曽の山間部と渥美」には離れたとする論説に成っている事に留意。)

この為に、そこで「早期説の前段説」の事も含めて、兎も角も「伊勢と信濃の青木氏」は、「15年間の準備段階」として彼等を積極的に同時進行の形で「前段の妻嫁制度」を用いて、先ずは「伊勢の裔系」の彼等を「組織の強化・結束力の強化」をしようとしたのだ。
この事には変わりはないだろう。

元を質せば、その出自は「(a−1)(a−2)の族関係」にあったが、そもそも「伊勢」はこの「四掟の関係」を無視して「美濃の原士(伊川津七党の青木氏に成る)」に対しては、その為(源氏化防止)に急いで改めて敢えて「妻嫁制度に依る血縁」を進めたと考えられる。
要するに「300年の溝」を埋める為にである。
つまり、より「血縁」に依る元の「伊勢族にする策」を採ったと云う事に成る。
この「血縁」の一つが、「額田」から「三河の伊勢族」に入った「丸に片喰紋の所以」(州浜紋)に成ったと考えられる。


(注釈 「美濃原士」とは「四掟範囲」では無かった為に本来は「血縁相手」とは成り得ず「300年の時」を経た。
然し、「準備段階の範囲」に於いて「国衆」として引き出すには、「絆関係」はあったとしてもこの「四掟」が「大きな隔たり」と成っていた。
そこで、「(a−1)(a−2)の族」が「伊勢の裔系」である以上、「美濃原士」を「伊勢郷士格」として見做し、「女系の嫁家先制度の血縁関係」を敷いたと考えられる。
それが上記の家紋に出ていると観ているのである。
「美濃原士」は「都の下級官僚族」であった事から「秀郷流永嶋氏の裔系」ではあり得ないからである。
唯、血縁するとして「嫁家先制度の前提」と成る妻嫁制度を敷いていたかは良く判らないが、「清光院・女墓」がある事からある程度の「妻嫁制度」を敷いて「女(むすめ)」を養育していた可能性がある。)

(注釈 「伊勢と信濃」は「賜姓五役」や「9つの縛り等」の「伝統」を護り「家紋・象徴紋」は「笹竜胆紋」以外にそもそも無く、「額田青木氏」にだけは「青木氏のこの伝統の縛り」を外して改めて「伊勢の血縁族」として「片喰紋と州浜門の青木氏」を「三河」で持った事に成る。
当然に上記した「氏是の禁手」も外したのである。
そして、一方で「古い伝統」を外しながら「矛盾」と成るが「伊勢の裔系を強める策」に出た事に成る。
「伊豆や美濃の原士」等を救う為に“柔軟に対処した事”に依る。)

そもそも、「(a−1)(a−2)の族関係」、つまり、「原士(伊川津七党の青木氏)」は「信濃シンジケートの一員」であったと云う事は、「伊勢と信濃の青木氏」は、最低限その「内部の続柄の変容」を掴んでいた事に当然に成る。
とすれば、「丸に片喰紋の所以」(州浜紋)の「美濃族」に成り得ている彼らに対して、「妻嫁制度に依る血縁」は「周囲に目立たない最低限の範囲」で進めていた事が考えられる。
「内部の続柄の変容」を掴んでいる以上は其れの方が自然であろう。
だからこそ「情報・運搬ルート奪還作戦の策」に彼等を説得して引き出せる事が出来たと観られる。

唯、それには「大きな条件」があると上記で論じた。
それは、ある意味で「300年の時の安定」から「変化」を急激に与えるのである。
故にこの「説得」には現在と将来の彼等への「完全な保障」と「今後の戦略」が必要であった。


「完全な保障」と「今後の戦略」には大きな歴史があった。
多くの資料にこの事が記録として遺されているのだ。

それが、先ず、“「青木氏の商記録」”に依れば「信長」などにも出来ない「伊勢と信濃」だけが成せる「超近代的な保障」であった事が判る。

それが「受け取り方」に依っては、「商記録むは”「別の商い」”であるかも知れないが、この時期に「大量の銃調達の計上(300丁)」がこの商記録にあるのだ。
前段でも詳細に論じた様に、それだけの「近代銃」が大名の歴史史実の中にこの時期に抑々無い。
其れだけに未だ「銃の調達」は金額的にも汎用的では無かった。
記録としてあるのは「美濃の原士の国衆」にあるし、三河戦記の三記録にこの事が記されている。
これは「青木氏の商記録」と一致する。

これだけの「銃調達」を出来る大名は「信長」でも無理で、使うとすれば「銃の傭兵」の程度で、「雑賀族の銃の傭兵」を雇った史実もある事でも証明できる。
「銃」は松阪の隣の「和歌山の雑賀族・鈴木一族」で生産されていた。
「堺の支店」の隣である。


ここで更に先にその「答え」を明かして置く。

この「計上」は上記した様に後の「松平氏の戦記録」にも類似の記録が記載されているので「商記録」はこの事であった事が判る。
つまり、「額田青木氏の二つの国衆」が「銃隊の編成」であった事が記されている。

それは「額田青木氏等」に対する「超近代的な保障」は、この「経済力」に依る“「大量の超近代式銃の供与」”であった事に成る。
彼らを「引き出す保障」として、これは成立する条件であろう。
「国衆」は未だ見た事もない銃であり、それも超近代銃であれば驚くであろう。
その当時としては“「信長」でさえ持ち得なかったもの”であった。

(注釈 この事は詳しく前段で論じた。)

さて、元に戻して「秀郷流青木氏」との血縁であれば、武蔵まで行かずとも「伊勢青木氏」と「同族並みの血縁」を進めている「伊勢秀郷流青木氏」や「伊勢伊藤氏」や「伊勢長嶋氏」が近くに現存していた。
この「家紋」は「伊勢長嶋氏の家紋」でもある事には間違いないが、同紋で血縁を進んでいる「伊勢秀郷流青木氏」でも「片喰紋の家」もある事は同じであり当然である。

「情報・運搬ルート奪還作戦」は何も武蔵までは話を持ち込む必要は無い筈であり、第一、この策の話を持ち込んだのは「伊勢と信濃」であり、リーダシップを執るのは当然である。
従って、「伊豆」を含めた「青木氏族」を固めるのであれば、「伊勢の方」が良く充分に目的は達成出来る。

これに依って、この事を知れば「周囲の武力勢力」は、この“「美濃の原士」”だけの行動とは観なくなり、青木氏の国衆に対しても有名な「背後の抑止力の形成」が出来る事に成る。
中でも「伊勢秀郷流青木氏」はこの前後に「軍」を動かして「結城」を護ろうとしていた事は有名であった。歴史の記録にもある喰らいで、「信長も其の後の秀吉」も警戒していたのである。

そうすると、「周りの勢力」が「美濃の原士」等に手を出せば「青木氏族の影の力と背後の力」で、逆に潰されるか怪我をする事は誰でも知っている。
要するに「抑止力のシンジケート」である。
その上に「超近代式銃」で武装した特異な「国衆」であった。
従って、確実に安全を確保出来る。

もう一つは、「伊川津の七党(四土豪と額田青木氏等の裔系三氏)」が結束して、「一つの武力集団」を結成したのだが、この「七つの豪の族」の中身が全て「美濃の原士」だけであったのかは記録的には良く判っていない。
然し、それは下記の通り「状況証拠」で判る。

「古書」にも“「貝塚の事」”と、「古跡の神明社の事」と江戸期に“「伊川津の田原」”に港を開いた事だけが記載されているだけで他に詳細な記載はない。

(注釈 唯、「近江佐々木氏の研究記録」には、「伊川津七党青木氏の資料」はあり、「伊勢青木氏の商記録の資料」と一致している。)

そこで、然し、前段でも論じた様に、「武蔵七党」の例がある。
これから「手繰れ」ばそれは簡単に判るのだ。
そもそも、「力の持つ惣領」が「武士」を集めて「命令の武力集団」を結成するのに対して、「党」は、「弱小武士団」を「和合の集団」により集まり、互いに「同族的結合」を成し護りあう「共和的結合」を云うと成っている。
鎌倉時代末期から、室町期にかけて勃興した「地縁的血縁的集団」を云うともある。
中国地方の亀甲集団もある。

この定義からすると、「古書」にある「伊川津七党の青木氏の三氏」とは、次の事が云える。

第一は、「七党」は「青木」の「諡号の姓」を有している事。
第二は、「氏」と明記していて「姓族」では無い事。
第三は、「七党」の相互は完全同族では無い事。
第四は、「何らかの血縁性」を有している事。
第五は、「何らかの地縁性」を有している事。
第六は、「七党の勃興期」は同一であった事。
第七は、「和合集合」であった事。
第八は、「共和的な結合」であった事。
第九は、「平安期」では「武士相当(bとc族)・武力を持つ官僚集団」であった事。

この「九つの条件」を成立するに相当する集団は、何れも「美濃の原士」と成り得る。
然し、「渥美の四土豪」はこの「渥美を護る武力を持つ官僚集団」であったかは判らない。

そもそも古くは、奈良期末期から室町期初期まで、「加茂木曽の山間部」に逃げ込んだ「(a−1)(a−2)の朝臣族」とその「官僚族の数族(一部bの族を含む)」と成り得る。
「美濃の原士」の其々は、「蕃族系」の「同宗同門の族」ではあるが、濃い血縁性を有していない限りは「同族」では決してない。
「約700年間の間」に興った「(a−1)(a−2)の101族」に従い朝廷から派遣された「下級地方官僚族」の「(bとc)の官僚族」に近い「美濃付近域」に集まった「同宗同門の族」と云う事である。

(注釈 この「下級地方官僚族」とは、況や、「(bとc)の官僚族」ではあるが、この「姓」には「2系統」があって、先ず歴史によく出て来る「地名」を「姓」とする「県主・村主」,又は、「稲置」などの土地の「領首的性格・政人と武人」を持つものと、余り知られていない「職名,部曲名」を「姓」とする「伴造的性格・職能部人」を持つものとがある。
これ等の官僚族は「首人・おびと」、又は「首」と呼ばれていた。
これ等が全国各地に「実務官僚」として配置されたが、多くは主に前者が武力で以て統治していたので取り分け「美濃域」には多く配置されていたと考えられる。
後者はその土地の産物や鉱物の発掘や家屋建設など「作業的な仕事」に従事していた要するに「部人」である。
「美濃国」は元より「天武期の五都計画」の地にあり、彼等の様な多くの「下級官僚族」は「三野王の配下」に置かれていた。
「三野王」は遙任して国司代を置かず自ら現地で統治したとある。
それだけに美濃は「現地性と内の色合い」が強いのである。
これは「平安期の末期までの前後の事」であるので、結局は「美濃側に味方する者」と袂を分かち合った「浄橋飽波に味方する者」に分かれた事に成る。
どの様に別れたかは判らない。
普通はこれ等の「官僚族の姓名」が地名に遺るのが庸であるが、「現在の地名・42」からはそれが読み取れない。
「五大都の制の地」であるので、「都の五大官僚族」の姓名が遺る筈であるが見つからない。
何故か、「戦乱の影響」から「地名に纏わる伝統」が消えたのであろう。
それだけに平安末期から室町期までの混乱と戦乱は激しかった事に成る。)


さて、そこで前段でも論じた様に、この官僚族は兎も角もこの「101族」の内、「皇族の皇子系朝臣族」は、「伊勢や信濃や近江や甲斐」に入り生き延びる事が出来た。
然し、「皇族の王系朝臣族(第五世族以降・官僚族)」は、この「美濃の地(美濃の原士)」に隠れた。
その他の王族系の多くは死滅した。

当然に、他の一説によると、上記の通り「平安末期と室町期初期」まで多くは滅亡したが、この「美濃の原士の族」が自発性であるかは別として、「300年の歴史」を経て「三河の末端近辺」に出て来て事前に「伊川津七党」と呼称して結束していたと成るとこの「事前説」が成り立つ事もある。
「七党説の根拠」からこの「事前説と云う説」も成立する事は確かである。

「美濃」は上記した様に、「地名に纏わる伝統が消えた」ほどに普通では考えられない程に「混乱と戦乱の影響」が激しかった事を考えれば、此処にも「子孫」を遺す為にも分けて逃がしていた事の「事前説」も納得出来る。
但し、問題は「出て来た後の呼称」と成るのか「事前の呼称」と成るかがこの他説で明確に成らない。

そうすると、この他説で行くとここで「額田郡の青木氏」とは「違い」がここで生まれる。

この先ず「大きな違い」は、「額田郡の青木氏」は、対岸の「伊川津」の様な「党」を結成していない。
「半島の伊川津」に対して、歴史の史実にも出るこの「額田郡の海」に面した「野」に出て来ている。
そして、この記録から考察すると、「本庄本貫の地名」を「商記録の添書」にも観られる様に、“「額田殿」”として、又は、“「一色殿」”としている。

これは明らかに「額田郡の青木氏・額田青木氏」であり「蒲郡青木氏」と呼称されている。
そうすると「蒲郡青木氏」は(a−1)族であった事に成り、「伊川津」は(a−2)族と(bとc)の血縁官僚族であって、「二つ」に分けた事に成る。
これであれば「室町期説の後期説」と「平安期説の事前説」も成り立つ。

とすると、対岸に存在する「伊川津七党・田原・吉田地区」は、「額田郡の青木氏・額田青木氏・蒲郡青木氏」の「二つの呼称」が明確であれば、必然的に「伊川津青木氏」と「田原・吉田青木氏」との「二つの青木氏」で当時は呼称されたいた事に成る。

「渥美郡の伊川津」は、古来より「田原・吉田の地」の中央の森林地帯から「真北の湾」に向かって「伊川の流」とで湾海流に依って砂地が集まり「津」が進んで拓かれた地域である。
そもそも、「貝塚」のある古来より「津の開墾」が進んだ地域である。

前段でも論じたが、幾つかの古書に依れば飛鳥期から奈良期初期に改めて此処に「六つの郷・地域」に「住む者等(飛鳥期の磯部族)」に依って互いに護りあう「磯部族」の「郷」を形成したとある。
その後、此処に「北の山間部」から降りて来た族・「(a−2)と(bとc)の原士」がこの「六つの郷」に入り、「七つの郷」を造り、結社して「伊川津七党」と成った事に成ると記されている。

その証拠としては、「奈良期の最古の神明社」がこの田原地区の中央に「遺跡」として現存しているし、「貝塚」もある。

「日本書紀や古書」に依れば、「信濃や土岐等の地域」が古来から「山間部の物」と「塩や海産物」との交換をしていたと記されている。
それを仲介していたのが「後漢の渡来系」の「磯部族」と記されている。

(注釈 この「磯部族」の「六つの郷(六つの党名)」であったかは確実には良く判らない。
然し、「流れ」からして充分に有り得る事である。
「日本書紀」に依ればこの「磯部族」は中国系の「初期の渡来人」であったと明確に記されている。
後に子孫を遺しここに住み着いた可能性がある。
この域に遺る「磯部」の名が多い所以であり、海産物を加工する「下級官僚族の職能部人」の部類であった事に成る。
最終、古書に依る通り戦いに世判つた所以で逃れて磯部をしながら土豪と成ってここに住み着いたと考えられる。)

(注釈 更に詳しく「日本書紀等」に依れば「信濃」から「美濃三河」に物資を輸送し帰りに交換物資を「大型馬で搬送した事」が記されている。
それが「馬部」であったと記されている。
この「磯部」と「馬部」は共に交易をしたとあり、この東海地方の海の物を加工する事を命じられた「磯部族」と同じの「渡来人の馬部族」は「朝廷の命」で「信濃路一帯」に「牧場の開墾」を命じられている。
この「信濃一体の馬部族」と「美濃三河駿河一帯の磯部族」とは相互に物々交換をして血縁関係を保っていたとある。
故に、これが渥美の此処には「飛鳥期末期か奈良期初期」の朝廷に依って置かれた「古くからの祠」があった所以であって、ここに古跡に類する「初期の神明社」が存在したのだ。
伊川津には奈良期初期の「磯部」の活動した「貝塚古墳」もある所以であるのだ。
其の後、奈良期後期に「伊勢青木氏」に依ってこの「古祠」を護る為に「一族の専属の柏紋の神官青木氏」を配置して新たに「神明社」として創建し祭司したのである。
これが記録の読み解く由来である。)

上記の経緯や注釈の様な「史実の背景を持つ事」から「伊川津青木氏の経緯」が判る。
何よりも「神明社の古跡」とその隣に「新たな神明社」が存在する事は、時代性は兎も角も「美濃・額田」から出て来て「所縁の地」としてここに居を構えた証でもあるのだ。
ここに「神明社」が在った事は、賜姓(647年)を授かり「神明社を守護神とする事」と成った時期より、「神官族の青木氏の存在」を古くから証明するものであり、隣の「新神明社」も「神明社」としては古く、「神官族の青木氏の所以の地」であり続けた事に成るのだ。
それが何時しか「豊橋までの域」であったと考えられる。

(注釈 「豊橋の事」を物語る青木氏の資料が一部あって、これによるとこの「神明社の神官族の生活の拠点」としていた事を示唆している。
恐らくは、「647年〜660年」の当時はこの{田原の古跡神明社付近」は相当に「生活拠点」とすることが困難であった事を物語るもので、「豊橋」に生活拠点を置いて一定期間祭司に籠もり定期的に交代しながら務めていた可能性があるのだ。)

従って、この事から上記の「事前説」では、何も急に無関係な地の「渥美郡」に美濃から飛び込んで行った訳では無いのだ。それなりの由縁が在ったのだ。
注釈の通り「豊橋」までとすると「吉田まで所縁の地」の幅であった事にそもそも成る。
故に、現実に「伊川津青木氏」と「田原・吉田青木氏」と二つで呼称されている所以なのである。

従って、この「上記の史実」から導き出した結論は、「奈良期後期」の「早い時期」の「事前説と云う説」は「美濃からの移住」は先ず論理的には無い事には成るが、問題と成るのはその後のその「二つの時期」であって、上記の「室町期説の後期説」と「平安期後期の事前説」は「注釈」から導き出せばあり得る事である。

下記の1の「奈良期後期説」は、現実には「伊勢からの神官族の活動説」と成るのである。
そもそも、奈良期の後半の桓武期直前の「浄橋飽波の子孫説」は未だそこまで「裔系」を派遣させられる程に拡大させていないであろう。

恐らくは、「事前説」が1を以てして根拠とするとすれば、奈良期に伊勢から派遣された「神明社の青木氏」の「神官族の史実」を以てして、この江戸期に記された「郷土史説」が史実を読み間違えて我説を造り生まれた可能性があるので否定出来る。

然し、「青木氏の由緒ある柏紋の神官族」は、「3年から5年」に一度、伊勢に帰り交代する掟と、青木氏の本来の掟として「現地孫を遺さない堅い掟」と成っている事と、「四掟の掟」と「神道の神官族」である事から合わせてあり得ない事である。
況してや、江戸初期の神明社の幕府に引き渡しの後に興り得る事であって、室町期には起こり得ない話である。
「青木氏」では「現地孫」は青木氏では無くなる。

この平安期初期前後までの早い時期の「事前説」は成り立たないのだ。
あり得るのは、下記の2の「平安期末期の説の事前説」と成るだろう。
この「源平戦の頃」では「浄橋飽波の伊勢の裔系」は「4Nの2乗」の論理から400年では充分に拡大している。
戦乱に巻き込まれない様に、「a−2の裔系」と関係する「bとc族等」をこの「神官族の要る所縁の地」に一部を避難させた事もあり得る。
然し、この場合、この「田原」は「圷の沼地」で大勢が住める地域では無かった。従って、移動するとすれば上記注釈の通り神官族の生活の拠点の「豊橋」と成り得るだろう。
2の事前説は、「伊豆の事」や「京綱の事」や「国友の事」から観て「2の田原」は先ずあり得ない。

次に、「国衆」と共に南下した「直前説」の更に前の「1540年の準備段階」の前の「事前説」はあり得る。

然し、「3の事前説」であるが、下克上と戦乱期初期は、寧ろ、額田から木曽路の山間部で生活していた方が安全である。
郷土史では、「田原の圷」は少し埋め立てられた記録があるので、生活はある程度可能であった。
全国の国衆が入り混じって戦っている地域である。
青木氏の記録から「南下の時期を見計らった事」が書かれているのでこの時期には必然性はない。

残るは4と5である。「事前説」は別として現実にはこの何方か、将又、両方かである。
答えから云うと、筆者ならは「移動のウエイト・主副」は別として「両方説」を採る。
それには「一色」の本貫名が左右すると観ている。

1 奈良期後期の浄橋飽波の嫁家した直ぐ後の源氏化路線での決別期
2 源平戦の頼政の事件の平安末期の混乱期
3 室町期の混乱期

4 国衆の準備段階の前期
5 国衆の南下期の直前期

唯、然し、この「5つの判断」には、そもそも“南に降りて来る拠点”と成った「一色」の「地名と族」に関してその「呼称」には二つあるが、これが大きく左右していると観られる。

そこで、これを検証しておく必要がある。

ここで、この「愛知県西尾市」の「一色」は、歴史的に1406年までは「一色氏・斯波氏系足利氏」の「本貫」とするものであった。
ところが、この「一色氏」は、本来は、「清和河内源氏」の「傍系足利義国の子」であり、「西尾の地」に「鎌倉幕府の地頭」で始めて派遣され住み着きそこで「本貫名」として「一色」を名乗ったとしている。
そもそも地容器で論じた様に「本来の格式を持つ一色」の「出自」では無い事から「時代性」が異なる。
「傍系足利義国の子」の「一色」は「9つの縛り」を護らなかった「源氏、取り分け河内源氏」には
更に、その格式と謂れは元より無く、そもそも「一色」は伊勢の「本貫名」であり、諡号ではない「姓名」である。

(注釈 守護職 1376年からの1476年間 変遷実質80年間)

上記で論じた「氏是の添書の書」に記載されている様に、本来のこの「一色」は、上記した様に「奈良期」からの「伊勢」から発祥した「一色・716年頃」である。
この「一色」が使われる理由とは「施基皇子・追尊春日宮天皇」を所以とする「伊勢の青木氏の格式」にあった。
それは何時からこの「一色」を使う事の「格式」が生まれたのかである。
そして、何処に「一色の地名」があるかである。

「一色の地名」
「三重」と「岐阜」と「愛知」と「京都」の四か所である。
つまり、ここは「五家五流青木氏の定住地」である。
ところが「信濃と甲斐」には無いのである。(それなりの理由があった。・源氏化)

「伊勢の青木氏 五地域・本貫地」
三重県伊勢市一色町。
三重県津市一色町。
三重県津市久居一色町。
三重県四日市一色町。
三重県桑名市一色町。

「美濃の青木氏 三地域・浄橋飽波の裔」
岐阜県瑞浪市一色町。
愛知県一宮市一色町。
愛知県稲沢市一色町。

「額田の青木氏 四地域」(三野の青木氏系4氏・伊勢の裔系)」
愛知県蒲郡市一色町。a−1の裔系
愛知県豊田市一色町。a−2の裔系
愛知県岡崎市一色町。a−1の裔系
愛知県豊橋市一色町。(吉田系・神官族・a−1の裔系)

「青木氏外の一色」(斯波氏系の足利氏 四地域)
・愛知県刈谷市一色町。
・愛知県西尾市一色町。 斯波氏系足利氏
・愛知県名古屋市一色町。
・京都府京都市上京区一色町。(斯波範光が京都所司代。)

以上の様に「一色の地名」は内容別に四つに分けられる。

「愛知県」は上記の通りの「北域の額田の一色」から「蒲郡の西域までの地域」に掛けての「北南の広域の地名」である。
「愛知県豊橋」は「吉田・田原の右隣」に位置し、「伊勢の神官族」と「伊川津青木氏(田原青木氏)」の領域であった。
この事で「額田の一色」が南に下がって行く過程がこの「一色の分布」でも解る。

但し、「愛知県西尾市の一色」は上記の通り鎌倉期に地頭として清和源氏傍系を名乗る「足利(斯波系)氏」が使った「一色」であり異なるし、及び「・印」は「西尾の一色の域」であり異なる。
中には彼の有名な一商人から出世した「美濃の斉藤氏」が「斉藤の姓名」がありながらも「一色氏」を名乗るなどの事が起こっている位であり、この時期から出自元を搾称誇示して「本貫名の搾取」が横行していった。

この様に、「一色の格式」を室町期に勃興した「諡号のない姓族・第二の姓族」は、この「本貫名」を利用して「権威と象徴」を搾取誇示する為に恣意的に搾取して用いて誇示しようとしたものなのである。

つまり、「嵯峨期の詔勅と禁令」で、衰退したと云えども「美濃の青木氏を名乗る事」は出来ないのだ。
然し、そこで「美濃の青木氏族の様な氏名」を直接は使えない為に、この「権威や象徴に肖る」として「伊勢」からの「志紀、色、一色、一志」の「古来の地名」を利用して「本当の姓名」を名乗らず「一色の地名」を採って、如何にも「所縁」があるかの様に見せかける様に「地名・本貫」を「第二の姓名(第三の名)」として名乗ったのである。格式の搾取誇示である。
庶民から這い上がった「斉藤の姓等」はその典型である。全く無縁である。
「清和源氏河内系の足利氏の斯波氏」も直接的な所縁は全く無い。

(注釈 無理にあるとすれば、「青木氏を出自元」とする「仁明天皇」までの源氏であろうが、「仁明天皇」は未だ「桓武論説側」にあり故に「源氏制」を執らなかった。
源氏制は「嵯峨天皇の詔勅」からである。)

「志紀、色、一色、一志」の地名を使って「権威や象徴に肖る」為に、「第二の姓族」としては「藤原氏、菅原氏」等を始めとして「3氏族、3姓族」の「六つ」が使われているのである。

三重県は全て「四家の地域」であり、「伊勢市」から始まる。
「岐阜の端浪」は前段でも論じた通り「伊勢青木氏の領域」である。
「飽浪」の王名が変化して後に「端浪」と成ったとされ、「飽浪の飽の語源」と「端の語源」は意味合いとして一致する。

そもそも、この様に「伊勢の一色」の「格式」を利用して名乗った「第二の姓族」がある事が判る。
決定的には「(a)と(a−1)(a−2)と(bとc)」では無い族であって、600年以上の時代経緯の異なる「一色氏」を名乗る「諡号を持たない姓族・第二の姓族」には因みに次の「五姓族」が名乗っている。

上杉氏、斉藤氏、土岐氏、足利氏(斯波氏)、菅原氏の以上の五氏がある。

(注釈 上記の姓は氏是の添書に関わる「本来の氏族」とは異なる。
そもそも、「氏の族」ではなく、「諡号の無い第二の姓族」である。
後に、彼らは「氏の族」に成る為に系譜を搾取編纂して名乗れるようにしたまでの事である。
何故、この「五氏」が「本貫名」の「一色氏」を名乗ったかの「所以」は、三河の「本来の一色」は上記した「施基皇子」の“「しき」”の「色」による所以から来ているが、つまり、この「五氏」は“「地名の権威と象徴・格式」”で名乗ったのである。
そもそも、「嵯峨期」で改めて定めた「正式な氏族」と云うものでは無く、要するに「第二の姓族」であり、「諡号族」ではない。
従って、本来の「本貫名」の「一色」である事は100%無い。況してや「本貫」ではないのだ。)

(注釈 前段でも何度も論じたが、“「地名の権威と象徴」“を「姓名」とは別に「公的な呼称とする慣習・本貫名」が鎌倉期から興ったのである。幕府も緩やかにこれを黙認し許した。
「氏名や姓名」では無く、当初はその住んでいる「地名」に格式を与えようとする習慣であった。
そもそも、「朝廷の許可」に依って「名」を持てる「全ゆる族・910の諡の号」には、「名字、姓名、苗字、氏名」の「四つ格式」があり、これは「時代の経緯」で生まれた。
その結果、鎌倉期には其処に「名字、姓名、苗字、氏名」の「四つの名」の全てに「統治する権威」を保持する為に「地名」に「格式」と「意味」を与える必要に迫られたのである。
これが鎌倉期の「地頭制度の所以」である。
故に「地頭としての権威」の為にこれを最初に使ったのが「斯波氏系足利氏」であった。
そして、朝廷はこの「奈良期から仕来り」として「四つの名」には「意味と格式」を持たせたのである。
この「五氏」は本来は正式には古くは豪族・土豪であった事から「朝廷許可」の無い「名字か姓字」である筈である。)

ところが、室町期初期からは「戦国時代」で、「下克上」が起こり、この「地頭の族」に預からない者が生まれた。
この者等の「本貫名の乱用」に依ってこの「意味合いや格式」が異なるものと成って行ったのである。
逆に「正式な氏族」は「伊勢信濃の青木氏等」を始めとする「数族」に限られて仕舞ったのである。
つまり、この「時代の流れ」の結果として「存在」が限定される事に成ってその「氏の姿勢教義」から「白旗派の原理主義・律宗族」と呼ばれる様に成った。

取り分け、本来の「氏名を持つ者」は、何度も論じている様に、「嵯峨期」からは「縛りに適合する族」としては「青木氏」を始めとして「正式な子孫」を遺したのは「律宗族」しか無く成ったのである。
故に、字の如く多くの意味合いを持つが「律宗族」なのである。
この「本貫名」を使える「元の族の48氏の皇族臣下族」が遂には時代の変遷に依って淘汰されて行ったのである。
要するに、この原因は元を質せば「新撰姓氏禄の制度」では「958族」もあった族に与えられたその「各種の格式」が子孫に対しても決められて仕舞ったからである。

これを「嵯峨期の朝廷」が、「特別の範囲の身分格式の制度」を堅持する為に仕掛けた“「9つの縛り」”を、それ以降の朝廷は厳しく管理する事を放棄して仕舞い、その上で、これを護れず武力化した「姓化した源氏族」等は、これをどれ一つも護れずに厳密には「氏族」とは言い難い「無秩序な族」と成って仕舞ったのである。
そこで、護れない以上は止む無く彼らは「元の名(名字か姓名)」の何れかを持つ様に成ったのである。

然しながらも、そもそも元から“姓を持たない「名字・第二の姓族」は元から違った。
「一段上の諡号の姓」を持つ「姓名・官僚族」よりも、「地名」に「権威や象徴の格式」の影響力を持つ「本貫名」と、その「本貫名」に所縁のある“「苗字・朝臣族の名・氏名」”を搾取して名乗ると云う「習慣の流れ」が(一部は鎌倉期から)室町期初期から生まれたのである。

平安期と違って「武家社会」に成ってこれを「統治する政治力」は既に無く成っていたのである。
寧ろ、同じ立場を持つ政治家に執ってはこの「積極的なムード」を煽ったのである。
然し、流石に「青木氏」等の「真人族の氏名」だけは名乗れなかったのである。
搾取が見え見えで「効果」が無かったからである。
そこで、「施基皇子の一色等」の大田に名付けた「本貫名」なら何とか所縁があるのではないかと思われるかも知れないとして使ったと云う事に成るのだ。
「嵯峨期の詔勅の禁令」ではここまで禁じて居なかったからである。
この「禁令」では“「青木氏の習慣」”として禁じてはいるが、その「大田の字・あざの名」、即ち「本貫名」までは禁じていないとしたのである。

従って、これが「格式のある地名」などから「元の名・名字、姓名」を其の侭にし乍ら「公的な場」では勝手に誰にも文句の云われない「苗字・氏名」を名乗るという事に成って仕舞ったのである。
然し、流石にこれには「場所や人」に依って「使い分け」していたとする確実な記録資料があるのだ。

注釈 「大田の字・あざの名」、即ち「本貫名」までは禁じていない。
「場所や人」に依って「使い分け」していた。
この二つから明らかに「文句の出ない線引き」を「朝廷の暗黙の了解」があったと云う事に成る。
そうで無ければ「朝廷からの文句」が出ればその者は世間に対して「朝敵行為」として立場は無くなるだろう。
然し、「一色」を公然と使えているのである。
それは「鎌倉幕府」が「朝廷の許可」を得て「守護制度」の下に最初に「地頭制度」を用いたその最初は「斯波氏系足利氏の地頭」からであり、この所謂、「西尾一色」を使ったのである。
明らかに、権威性のある「一色の使用」には政治性が観られる所以である。


つまり、ここで話は元に戻るが、上記の通りこの代表的なのは「伊勢」の「志紀と一志と一色と色」に関わる「権威の一色」であったと云う事である。

つまり、行く就くところはこの「地名・本貫」に「格式」を持たせ、それを「名乗る慣習」が広まり「苗字、氏名」は「権威の場・朝廷の場での使用」と成って行ったのである。

中には、「農民・庶民」から「武士に成る者」が全体の大半を占め、更にこれが行く就くところまで行った事に成った。
これが「江戸期」には全く朝廷が認める「9つの縛り」の中に無い「第二の姓族」でさえ「氏名」や「本貫名」を勝手に名乗る者さえも出て来たのである。
完全に”「名字、姓名、苗字、氏名」の「区分け」”には、最早、「歯止め」が効かず無くなったと云う事に成ったのである。

「朝廷・西の政権」はそれでも飽く迄も「氏名」の「構成要件が整っていない」としては推薦された殆どを認め無かった。
ところが、それでも認められなかった「有名な件」では、前段でも論じたが、遂には「幕府の威力」を背景に勝手に名乗った典型的なものが「松平氏の徳川氏」であるし、「源氏の朝臣」や「藤原氏の朝臣」や「源氏の棟梁」等の「権威名」も名乗った。
それも「場所場所」で「使い分け」していた事が最近の研究で判ったのである。

この結果、最後には「西の政権」は「激しい経済的圧力」を掛け、「宮殿の塀」が崩れるまで締め上げて、「西の政権」は根を揚げる始末と成って妥協したのである。
然し、「源氏の棟梁」だけは決して認めず、「源氏の長者」で事を治めた経緯を持つ程であった。
上記の「五氏」も同然でもあったとされる。

(注釈 「江戸期の朝廷」は「西の政権」と呼ばれ、この様な「権威名等の格式の称号」を与える範囲で存在を認められた。
江戸中期には「西の政権」は遂に「経済的締め付け」を怖がり、結局は「幕府の推薦」で幕府に金銭を積み上げて猫も杓子も認められるまでに至った。
実質は「幕府の推薦」が「決定権」を持って「西の政権の存在」は無く成って仕舞ったのである。
「無用の長物」と成っていたのである。
この時、「伊勢と信濃の青木氏」だけが「幕府の黙認の許」で「献納」と云う形で朝廷を支援していて生活が成り立つ状況であったのである。
従って、明治初期には、政権を取り返した朝廷は「江戸期の全ての決定」を”認可していない”として破棄してしまったのである。
その最たるものが「藩」である。
これを抑えれば幕府の政治機構は無かったと云う理屈に成る。
[西の政権であった維新政府]は「藩」と「それに関わる全てのもの」は認めていないとしたのである。
従って、「江戸の期の藩」は”「政治機構」”では無く、あれは単なる”「家」”であったとして決めつけたのである。
現実には、「藩主と家臣」は契約に基づく関係にあり「家の中の関係」であったので、そうであろう。
この論理で「江戸期」に与えた「江戸幕府の権威」は全て「無」と成った。
依って、”正式な形で「西の政権」は続いていた”としたのである。)

「朝廷」は、そもそも、「嵯峨期の詔勅」と「新撰姓氏禄」と「9つの縛り」の「掟」に合わない「氏族」を構成していない。
それにも関わらず、そもそも「姓名を持つと云う形態」は論理的にあり得ず、「第二の姓族」である故に、「正しい氏族」は「諡号五姓の氏」のみであるとしたのである。

この様な例にもある様に、抑々、「本貫名」の「一色」とは「最高格式の苗字」として使われたのである。

(注釈 「施基皇子」は「天皇に継ぐ浄大一位の格式」であった事から「春日宮天皇」と追尊されたが、「天皇の格式を有した者」でこの「本貫名」を使ったのは「四天皇」が居たが、結果的には最終は「施基皇子・追尊春日宮天皇」だけである。
「天皇位」は、明大一位・明広一位・明大二位・明広二位の四階級があり、この直ぐ下が「浄大一位」であり、「皇子」では「歴代最高位」であり「皇太子」より三階級も上位であり、この様な事例は歴代には無い。
それだけに「施基皇子の本貫名」は天皇に継ぎ「格式」が高いのである。)

注釈として これ等に関して伊勢に「書」がある。
この「書」の下記に論じる事は「青木氏の氏是」に添付されていた資料で、研究過程では全く難しくて歯が立たず判らなかった。放置していた。
それはそもそも筆者の苦手な「古代漢文」で記されてあって、当初は「般若経の添書」かと観ていた。
つまり、「施基皇子」が「伊勢王」と成って臣下した事に依る「賜姓青木氏の心得」を定める際の「経典」かと余りに解釈が難しい為に観ていた。
「漢文の解釈」は「漢字の語源の理解度」で大きく変わるからである。
其の後、筆者の研究が進み「青木氏の家訓十訓」の「解き明かし」とかが進む事で、この「書の意味」が違うと気づき始め、更に「漢文」を勉強し、「視点」を自由にして解こうとした。
最初に気づいたのは、「経典の解説書」では無い事は直ぐに解った。
それは、「青木氏の氏是」を定めた「施基皇子」はそもそも心根は「文化人」で政治家では無かったし、大宝律令の基本と成った「撰善言司」を務める研究者でも歌人でもあった。
これは当然にまだあまり普及していない「中国から入った経典の解読研究者」でもあった。
この事からその先入観を筆者が持っていた所以である。
然し、この「書らしきもの」がそこから芋づる的に「青木氏の氏是」を定める必然的な前提である事に気づいたのである。

その「書の成り立ち」はそもそも「理解の土台」の無い処に「青木氏の氏是」を急に定めても長い間には護られる事は補償出来ないとして、描き遺したものである事が解った。
そこで、「光仁期」か「嵯峨期」の所で、前段でも論じた様に「政争」から逃れる為にその「絶対的な必要性」を認識して、「施基皇子」の直ぐ後の祖の人物が「施基皇子の性格や生き方」から咀嚼して「青木氏の氏是」に付け加えて遺す事を考えたと観られる。
筆者は、この時期が「白羽の矢」の後の嵯峨期の政争期であったと観ている。
つまり、「桓武論説」と「嵯峨論説」の政争である。
この時から、伊勢と信濃は前段でも論じた様に「桓武論説側」に着き、「政争」から逃れる為に、二度と「白羽の矢」を受けない様に「女系の妻嫁制度」を執って「皇族」と一線を画したが、この時の戒めに在ったと観る。
そこでこの「書を書いた祖」は強く”「青木氏」は「青木氏」で行く”と云う「氏是」であると考えた。
唯、その時に、生きて行く上で「桓武論説側」である為に「伝統」として強く「氏是の前提」を遺す必要性に迫られたと云う事では無いかと考えられる。
「氏是の前提」を消えない為にである。
又、その「前提」を時代により変化しない様に子孫に「難しく書き記した」と云う事では無いか。

その「前提」で「書にある漢字の語源」を調べ一字一句を「足し算」の様に読み解いた。
これには「相当な歴史観」が必要とされた。
それが「下記の論説」の結果である。


さて、前段でも何度も各所で論じたが、「漢文」で書かれたこの「難解書」を改めて「氏是の前提」なるものを筆者なりに現代風に判り易く咀嚼して「要約する」とすれば、次の様に成る。

ただし、「漢文」とはそもそも「基本と成る解釈方如何」ではその「意味合い」が「古来の中国の漢字」の持つ「意味合い」で大きく変わる事が起こる。
そもそも漢字は時代の変遷で意味合いが異なって来る。
況して、この「書」は奈良期や平安初期のもので、「漢字」そのものが「古い語源の意味合い」を持ち、「現在の漢字の意味合い」とは一字一句相当に異なって記されている事に成る。
到底、完全解読は筆者では無理で「般若経の解読」とよく似ている。
依って、是非に「語源の習得」が必要と成ったのだ。
それでなければ「古い青木氏の書」から「青木氏の歴史観」を導き出し解明は殆ど無理である。

先ず、その歴史観の一つの「本貫名」の「一色」とは「最高格式の苗字」として存在する。
それは次の理由による。

要するに、後にこれを「苗・なえの字・あざ」、つまり、この二つの漢字の意味を以て「苗字・みようじ」と云う事に成ったのである。
この「苗・なえ」はそもそも「縄・なわ」と云う意味があり、「なえ」は「なわ」に通じ、「苗のある域」、即ち、「縄の張る域」、即ち、「田の域」を確定する時に「縄張り」をしてその範囲を決めていた。
これがその夫々の「苗のある範囲」、即ち、「縄張り範囲」、つまり、これを「字・あざ」としての「単位」で区切られて名付けられた。

そもそも「大きな字・あざを持つ事」を前提として「氏・うじ」が存在し、許可され「氏の諡号」を賜姓された。
「大きな字・大字」を持たない事は「氏」を名乗る事は許されなかったのである。その前提である。
古来ではこの「大字」は「その者の功績」の大きさを意味していたからである。
「子字」以下では「氏」を名乗る事は許されないと云う事である。
それだけの「功績が無い」と云う事に成る。

そして、これを「格式の呼称」として区別する為に、判り易くするためにこの「氏の字・あざ」に「名を着ける事」が興こったのである。
これを「縄張り」の「苗の字・なえのあざ」、即ち、「苗字」と呼んだのだ。
そして、その「縄張りの範囲・字・あざ」が、「功績」に依って更に大きく成ると、遂にはそれが「地域」と成ってこれを「本貫の地名」と成って行ったのである。
故に、「本貫名を持つ事」は「大字の氏」である事が前提と成るのだ。

そこで、例えば、「氏の前提」の「字・あざ」には次の語源と由来があった。これを理解しなければ深意が判らない。
中国の象形文字から「字・あざ」は「ウの冠」と「子の脚」に依って構成されている。
「脚の子」は「男子の子供」の事で、「冠のウ」は「家」を指し、従ってその「家」の「ウの冠」は“高貴の先祖を祀る廟”を指していた。
この「廟の家」に「男児」が居る様を表したものである。
この合成象形文字で、この合成文字は「廟の家に男子」で「一つの族」を表し、この事から先ず「諡号の姓」の外にこの「族」を表す「「諱号」を「あざな」として「高位の者の習慣」として「字・あざな」を持つ様に成ったのだ。

それが更に進み、「ウの冠」は「冠位」を持ち、「脚部の子」は冠位を持つ者の尊称として使われる様に成った。
例で観れば、荘子,孟子、孔子の様にである。
荘子の荘は諡号の姓で国から与えられたものと成る。
従って、「字・あざ」は元来、「族位」、即ち「氏」と成り、この「氏」が持つ「田の縄張り」を「字・あざ」と呼称される様に成ったのである。
「大田の縄張り」が「字」であって、この「大田」を持つ「廟の家に男子」の「字・あざ」は「氏・うじ」である前提と成りこの逆も云う事と成って行った。
「字・あざ」は古来は「格式の初期の尺度」であった。

(注釈 古来の中国では「廟の家に男子」、つまり、「字・あざ」は「最大の誉」としたのだ。
この「慣習の流れ」が「字・あざ」・「氏・うじ」と成って儒教伝来されたものである。
「廟の家」に「男子がいない事」は「氏」としては成り立たない前提と成る。
要するにこれが「男系の理」である。)

故に、上記に説明する通り、「浄大一位」の「最高功績を挙げた施基皇子」がその「功績の表れ」としてこの由縁の「大字・おおあざ」を与えられ持ち、「氏に成り得る資格」を持ち得たとするのであるとしている。
これ等の「由縁の種」を以てこの我らの「氏是の根拠」と成り得ていて護らなければならい「絶対掟」であるとしているとこの「書」は説いているのだ。

古来、日本の飛鳥奈良期での経緯は「格式」を表現する手段として、「飛鳥期から奈良期初期」に於いては、その「者の功績」に依って「朝廷」より与えられた上記で意味する「田」の「縄張りの範囲」とそれを耕す「民の数」の「二つ」で以てその「者の格式」を表していた。
ところが、この「格式表現の方法」に限界が来た。
それが、「功績の積み重ねに依る拡大」と「官僚の増加数」にあった。
そこで、この「格式表現」の「田」の「縄張りの範囲」と「民の数」の「二つ」を基本にして「十二階」に分けて「格式の名称」を着けた。
これが、「推古期」の「冠位十二階の制度」であった。
その後、「大化の改新」を経て「天智期と天武期」には「官僚族」も著しく増大し、「功績に応じた褒章」も増え、「二つを基本」の範囲が広がった。
それで、これを「二十六階」、「四十八階」と増やされたが常にトツプの位置に存在した。
更に、それでは済まず、「格式」までのみならず”「服装の色」”までも決めて階の「格式の区分け」をしたが、「祖・施基皇子」は常に「濃い赤紫の色・黒紫」であったとされる。

そして流石にこの「グループ分け」のこれでは「格式の官僚機能」に「障害」が生まれ、これを「八の服装の色」で「グループ分け」をした。
これが「八色の姓制・やくさのかばねのせい」である。
後に更に「十二の草の色」に色分けされた。

中でも「浄位族・真人族・継承皇子族」は特別として区分けしたのである。
そこから、「天皇位の特別枠」の「明大一位から四位」と「明広一位から四位」に加え、この「浄大一位から四位」とか「浄広一位から四位」とかの以上の「十二階の冠位」が生まれた。
この時も祖は「浄大一位」であったとされる。
つまり、これは「祖の冠位」のみにあらず「永代の冠位」を示す。

従って、結論として、そこでこの「祖」の「施基皇子」の「浄大一位の格式の示す処」は、「最大の縄張りの範囲の字」と「民の数」を持つ者としての況や「苗の字」であり、つまり、それが我々裔の「青木氏」なのであると説く。

(注釈 その「八の草色」は「真人」。「朝臣」。「宿禰」。「忌寸」。「道師」。「臣」。「連」。「稲置」に曰くとある。)

(注釈 この書はこの事から「施基皇子期」に書いたものでは無い事に成ると筆者は読み取る。)

我々の「青木氏が持つ地権田」の「縄張り」がこの様に「広大」とすると、当然にそこには上記の通り「田の範囲を示す苗字・みょうじ」が生まれた事に成るのだ。
そして、それが余りに大きい為にこの「苗字」を「諡号の姓名」とするのでは無く、更に大きい特別の「氏名」として権威づけたのである。
故に、依って中でも「伊勢の青木氏」だけは「諡号の姓名」を持たない「氏の形で構成された大きさの族」なのである。
況や「正統な氏族」なのである。
これにより当然に「諡号の姓」は持たない事に成るのだ。
これが「浄大一位の族」である「特定の条件」なのである。
この「当然の事」に加え、所謂、「氏名の持つ族」である為に「諡号の姓名」の「識別紋」も無い事に成るのだ。
あるのは、所謂、「浄大一位」だけの「格式紋の象徴紋」と成るのだ。

況や、「浄大一位」であるが故に「神に仕える僕族」に必要とする「神木」をも持てる「唯一の氏族」であると成ったとするのだ。
それが「神木」の「青木の木・イ」であり、「神木の柏・ロ」であり、「笹・ささ・ハ」である。
そして、この「笹」は、「万の神々」の「百々・ささ」に通じ、「竜胆・ニ」は「八色の姓制の最高色」の「黒紫・浄大一位」の「浄・きよらか」に通じ、依って、これを「神に仕える氏族」が持つ由縁から「神の具」のこの色の持つ「笹竜胆」を「神の象」としているのだ。

故に、最早、これは「格式の家紋」では無く、「神に仕える僕族・氏族」の「象徴」としているのだ。
以上と説いているのだ。

(注釈 「具・とも」とは、その古来の語源は「とも」と意味し、古書に「神、宮の御人の唯一の供」としている。
つまり、「神明社の神供」にして「笹と竜胆」は「神の唯一の具供」である事を意味する。
平安期には遂には「牛車」などに乗り「高位の者」に左右に弓矢を持ち付き従う者を「具の者・ぐのもの」と呼び、これが「さぶろう者」・「侍・サムライ」と呼ばれる様に成った由縁でもある。
要約すれば、「神木の青木」、将又「神木の柏」に相当する木では無く、「神の草」の「笹と竜胆」は「神の具供」であるとしているのだ。
依って”「神草」”と云う事なのであろう。
況や、それが転じて「八色の姓・八草の姓・や草の姓」と呼称しているのであろう。
要するに、この「八色」は「神の草の色」であるとしている由縁である。
結論は、この「色を持つ者」は「神の子」であると定義づけている事に成るのだ。

つまり、それが故に「禁令」である「諡号の姓名」が無い為に、特別に「本貫名」として「志紀、色、一色、一志」と「大田の地名」として「裔の者が持つ田」には「苗の字」が「着けられる事」に成るのだ。
そして、これが余りに広大である為にこの「地権田の域」を「志紀、色、一色、一志」と名付けた所以である。

筆者の考えであるが、余りに大きかった為にこの「四つの本貫名」は「四つの田」に「個別の呼称」として名付けられたものと理解している。
故に未だ「伊勢」には現存するのだ。
この「四つの田の本貫」を合わせる「桑名」「松阪」「伊勢)」「多気郡」と「南勢旧領地の尾鷲域」を合わせると粗に「伊勢の全域」に近いのだ。

(注釈 別の資料に依れば「地域」だけでは無く、古書の中にはこの「田」そのものにも「権威」を持たせ「一色田」と書いたものもある。
これでこの「田」がどんな「田」か判る事に成る。)

「伊勢」には時の変化と共に地名が祖名の「志紀・施基」から「志紀」の「一志」と、「施基」の「一色」と、「浄大一位の役服」の「色」の地名と変化したのだ。

結論として、それが、その「伊勢の裔・青木氏」が「五家五流に拡大する所以」を以て、先ず、「伊勢の一色」は勿論の事として、桑名殿のこの「三野」の「伊勢の裔系」の「額田の地」だけに名付けられたと考えられる。

其の後の「他の一色」は、前段で論じた「三河等の子孫拡大」で広がったが、「青木氏外の一色」は搾取に依る。
従って、「9つの縛りの条件」には適合していない「三つの裔系」が、何時しか血縁して「土岐氏の一色氏」とか「足利斯波氏の一色氏」の系譜では、それなりの「所以」を持っている事では妥当であろう。
詳しくは「厳密な一色氏の考察」は論外とするが、これらの「一色」は元は一色では無く、干拓に依る「大きい田の表現」として用いられたと観られ、その「大きさ」が「字」より遥かに大きい「最大田」の「一の単位の大きさ」を「一つの表現」としていたと考えられる。

(注釈 兎も角も、然し、何度も衰退を繰り返した「足利氏斯波氏系一色氏」は、丹後に復興したが、「細川忠興」に依って1579年に完全に滅亡させられているので、この「一色の地名」は問題外でもあるし意味合いも少し違っていると考えられる。
既に、この時は「斯波氏」は「行動」を起こしている時であるので「時代査証」は違う。
「後付け説」とも考えられる。)

(注釈 前段でも論じたが、この様に「地名の一色」と同様に「権威や象徴」を持たせようとした他に典型的なものには、例えば「天皇家の式紋」の「五三の桐紋」を変紋して「秀吉の五七の桐紋」と同じ意味合いを持つ。この様な搾取は歴史的に無秩序に多くあるのだ。
この事は歴史観として留意する必要がある。)

依って、そもそも、この「書の説く処」は、この「祖」の曰く「青木氏の氏是の前提」は「浄大一位の諸々の由縁」を以て、その「裔系」は絶対的に護らなければならない「掟・前提・根拠」であるとしている。

(注釈 ところがこの後に「裔系の嵯峨天皇」に「賜姓族と令外官」を外された。
従って、この「書の前提・根拠とする処」は弱まったが、これを以て故に敢えて先祖はこの「一枚の書」を遺したか、その直前の「桓武期」に遺したかの何れかである。
直前では「桓武論説」と「嵯峨論説」が「醜い激しい政争」と成っている時期で、臣下間もなくの時期であるので、「皇族の影響」を何とか避けて生きようとしていた時期でもある。
この事からも筆者はこの「直前説」を採っている。
それは、この解きたく無くなる様な「難しい書の前提、根拠の書」の中で物語る”「神明社」”を裔系が守護神として護る以上は、それには”「賜姓五役」”が依然として「青木氏の施基皇子族の裔系の役務」として付きまとうが、この「役務」が遺されているからで故に「直前説」をとっているのである。)


唯、追記して置くとこの「書の前提、根拠」の「一つ」としての「一行」には、重要な事が記されいる。
それは「賜姓時の象徴」として授かった「大日如来坐像の所縁」が見逃すかの様に簡単に記されている。
ところが、実はこの「行」が大きく「青木氏の歴史観」に左右する程に問題があるのでここだけは「別書き」にする。


上記の「4と5の検証」の「一色の影響」の答えの前に、これを後にして先に「書」に関連するものとして「歴史観の繋がり」として:研究した事を追論して置く。

この「大日如来坐像」は、実は「最大の伝統物」として厳格に護られて来た現存所有するが「最大の形」として遺る「書の前提、根拠」のものに成るのだ。

これは「二尺の紫檀・宝木」で造られた「木像坐像、台座付」であり、「司馬達等の裔」の「鞍作止利」の作と刻まれていて、「作製年月日」が「大化1年末」と共にある。
本来は「木像坐像の仏像」としては「一尺六寸」が基本であるとすると規格外で疑問である。
これに「敷台、台座、光背、藍、如輪・・等」が付け加えられ相当大きいものに成る。
然し、「青木氏の鞍作止利」の「大日輪の木像坐像」は二尺である。
四寸(12センチ)も大きい。
「敷台」や「座台」や「光背」や「藍」や「如輪」を加えると裕に「七尺五寸程度」と成る。
全く規格外であり変である。

そもそも、「施基皇子の裔系」の「伊勢の青木氏」は「647年」に「第二世族第六位皇子」として「賜姓臣下朝臣族」と成った。
「仏師の鞍作止利」は「623年」に「30代の若年」で「仏師」として選ばれて「法隆寺金堂の釈迦三尊像」を「天皇の命」により作ったとされ、この時の「逸話」が幾つか遺されている。
そこから、「24年後」に「祖」は「賜姓臣下」して、この「大日輪の木像坐像」が「賜姓象徴物」として授かったとある。

それが、丁度、「作製年月日・大化1年末」のこの二年後に「天智天皇の大化改新」に依って「七色十三階の冠」が定められ、「天智天皇の皇子」の「祖」は「第六位皇子」として「臣下」して「朝臣族」と「最高冠位」を賜り、「賜姓」を授かる。
時が確かに一致する。

そうすると、然し、この時は未だ「伊勢の青木氏」は「神明社の神道」であった時期である。
当然に「仏教」に帰依していない。
帰依したのは記録から「嵯峨期の後」に「清光寺の菩提寺」を持った時である。

とすると、この「大日輪の木像坐像」は「仏像としての物」では無かった事に成る。
つまり、「書の行」にある様に、これは単なる「大日輪の木像坐像」は「賜姓象徴物」であった事に成る。
故に、「仏像木造の規定尺」が合わないのであるし、上記のこれに「付属する具物」が「仏像の体」を成していないのだ。

従って、「神道」であった頃の「青木氏の氏是の前提」としのこの「書の行の一つ」として書き込んだものとして採れる。
仏像では書き込めない筈である。
とすると、「賜姓象徴物」の「大日輪の木像坐像・紫檀・宝木」は「浄大一位(赤紫の冠位色)」と”「同じ格式」”を有しているのだとして書き込んだ事に成る。

恐らくは、この「書の伝えたい処」は、この「紫檀」は「最高の貴財木・宝木」で極めて高額で相当な天皇等の「高位の者」しか使えない、所謂、「貴財木」であった。近代や現在でも不可能である。
且つ、それが「天智天皇」が「大化の改新」で定めた”「七色十三階の冠」”が定める当に”「紫」”なのであるとしたのだ。

そして、更に、この「色階」に従う「七色十三階の冠」で「臣下」し「賜姓」を授かり、その後の「天武天皇」の「八色の姓」と「冠位十二階の制」で「最高位の浄大一位」と成ったとし、そして、「大日輪の木像坐像・紫檀」が是を以て根拠づけたと「書」は云いたいのであろう。

現在では到底得られない「高級な貴財木・宝木」であるのだが、「賜姓象徴物」の「大日輪の木像坐像・紫檀」は、「神とする大日」と「最高位の色を表す紫檀」と「仏師の最高位の鞍作止利」とを誇示したものと査証される。

何しろこの「紫檀」は極めて大木には成り難く当時では中国でしか僅かに植されず「貴重木」で、況して、この「大日輪の木像坐像」は「横幅」でも「台座」を含めても二尺以上の「紫檀の大木」から出来ていて何と夫々「一帳木彫り」である。
台座の表面の全体は兵站であるが、「長方形の陵」は「葉の葉脈」を形どっている。
台座の裏は完全に「神木の青木の葉形」か「神木の柏の葉形」の形状をしていて「葉脈」がくっきりと刻まれている。
そして、この「台座の敷座」は「長方形」ではあるが「完全な長方形」では無く、「葉形」である。

実は、筆者宅には、これ以外に、この「大日輪の木像坐像」に隋する「紫檀の敷座」は他に三つもある。
この「書」には、記載がないが、これ等を「一対」として保存していたと別の資料に記している。

先ず一つは、「畳一畳分の紫檀の大敷座」の一つと、その「半分程度の敷座」が二つがある。
「大敷座」は「6寸・約20センチ厚み」で中を「3寸・10センチ程度」に刳り貫かれ形は、「長方形の何かの葉の形・青木か柏」で、この「大敷座」はこの「大日輪の木像坐像」の「元座」であったと観ている。
この「紫檀の大敷座」の上に「大日輪の木像坐像」が鎮座していたと口伝で伝えられている。
今は「大日輪の木像坐像と台座」だけが安全な場所に別に保存されている。

そして、他の「紫檀の二枚の敷き座」は、「5センチの厚み」で「青木葉か柏葉の同形の半畳程の座」である。
この同形の「紫檀の二枚の敷座」は「大日輪の木像坐像」の「紫檀の大敷座」の上の左右に納めて、この上に「飾り」と見られるものを「置く台」であったと観ている。
この二つに付いては「口伝」では残念ながら伝えられていない。
現在は「紫檀の二つの葉形の小敷座」は「二尺半程度の大花瓶の敷座」として利用されている。
非常に大花瓶とマッチングしていて違和感は無い。その為の物としか見えない。
然し、この「二つの敷座」が「大花瓶の花の飾り」に使用されていたのかは記録が無いので定かではないが、「伝統」として「大花瓶の敷き座」としては用いられて来た事は判っているし観て来た。

そこで筆者は「大日輪の木像坐像と台座」を中央に「大花瓶の左右」にも象徴する何かを据えていたと観ているが発見できない。

実は、更にこの「大花瓶」は「大小の対」で共に同色の実に「綺麗な青磁」である。
「対の花瓶」に「一尺程度の青磁の花瓶」が「対」として存在する事に成りこれも伝統として観てきている。
この大きさは最早花瓶では無いだろう。
この「大花瓶」そのものが「飾り」であった事が伺える。
この「花瓶類」が「賜姓象徴物」であるかは今は「記録」が見つからないし口伝も無かった事から判らない。
後に売買で獲得したのであれば「商記録」に載る筈である。
実は、{古来の中国の歴史}を調べると、この「青磁」には「歴史的決まり」があるのだ。

そもそも、この様な「青磁」は元来、“持っては成らないしもの”とし、且つ、超々高額な「玉器」を持ち得ている者として扱われるとされる。
要するに、「持ってはならないとする事」は「ある種の象徴物である事」を意味する。
これは規律の厳しい「儒教の決まり」であるとしている。
これを「中国の儒教」もそれに準ずる「仏教」も「所持」を禁じ、且つ、「天皇」も禁じていたとすると「象徴物」である事に成ろう。

「花瓶の形状」から「年代」ものである事は素人の筆者が観ても判る。
筆者は物理学が専門でこの種はある程度の知識を有する。

その根拠を説く。
この「青磁」は、紀元前(新石器)からのもので、中国や北アジアなどで造られたもので、4種類ある。

「緑釉(中温性銅イオン・酸化第二鉄)」
「天青釉(コバルト)」
「果緑釉(高温性銅イオン)」
「青釉(アルカリ性銅イオン)」
以上で造られる。

これ等の四つはその金属の化学反応の炎色反応での発色で起こる事である為に「青磁の色合い」で見分けが着き、従って、その青磁の貴重度も解るのだ。
金属であるが故にその土の産地も解り生産地も解る仕組みであり、その金属である為に発色に必要とする「温度」も解り、「高い温度での発色」はそれだけに難しく,高低の温度でその「青磁の貴重度」も解るし、その金属の生産時代から時代性も解る事に成り貴重度に大きく左右するのだ。
当然に温度に左右してその「青磁瓶の形状」でも難しさが変わるのだ。


それぞれ「時代性」が異なり「生産地」も異なる。
日本には「平安初期」に貿易により盛ん入る。
日本の生産はかなり遅れて「江戸中期」の「有田」で生産が始まる。
ところが、この「有田の青磁」は、日本の土壌はケイ素酸が多い為に「色合い」も異なり「音」も違うし、形も「水仙型」が主流で低温性に近く「陶磁・無釉」に近く簡単に見分けは着く。
つまり、品質は低く中国の古来の青磁には数段劣る。

そもそも、「青磁」は中国では「儒教」だけで使われ、その「儒教」では「尊厳の象徴」として扱われそれを意味し、将又、「玉器」として扱われ、玉器、即ち、「貴族のみ」に用いられるものとして扱われた。
日本には「奈良期初期」に「渡来人の阿多倍等の後漢人」より青磁物が伝わる。

即ち、従って、「奈良期の大和」では、これを「持つ事」は「高位の貴族のステイタス」とされ他の者には禁じられていたのだ。

従って、「大日輪の木像坐像と台座」と同様にこの「青磁」は「大日輪の木像坐像と台座」とセットで用いられたものである事が解る。
恐らくは、セットとすると、「賜姓時の象徴物」であった事に成る。

筆者の家の「壺口狭型の青磁」は見立てではその色合いから間違いなく上記の「青釉(アルカリ性銅イオン)の青磁」である。
依って、時代的には4つの中で最も古い「青磁」と成り貴重度も品質も良い事に成る。
取り分け、「青釉の花瓶」の「瓶」の「壺口狭型」は古く中国の製である。

故に、「賜姓象徴物」であった可能性が高いのである。
(花瓶類は後に「遺品シリーズ」で論じる。)

この「花瓶」とは別に、この全ては「紫檀の三つ」も現存するが、仮に「仏像」では、そもそもこの様な「扱い事」、つまり、「三重の形式」は採らない。
「大日輪の木像坐像」を含めて明らかに「賜姓の象徴物」として授かった事は、この同じ「三つの紫檀の敷座」と合わせると、「仏像」そのものでは無かった事が「状況判断」できる。

仮に「浄土密教」であって、「大日如来」を崇めるとすると、顕教の「釈迦如来」の「仏像形式の様式」を抑々有していない事が問題として挙げられる。
様式的には何れにも明らかに違っているのだ。

(注釈 この「紫檀の賜姓象徴物」の「一対」はどの様な所に安置されていたかを述べる。
その事でも、凡その「祭司物」として扱われていたかは判る。
先ず、「民家」でも無く「武家屋敷」でもない事が判る。
筆者は全く記憶が無く、祖父の親族とその縁者から説明を受けその状況を再現した。
明治35年に家やこの家に保管されていた遺産などのものは消失した。
幸いに「福家の家」の細部に渡りよく覚えていた。
そもそも「家」と云うよりは当にそのものの「館」である。
氏と氏人の「政治館」の様な役割を果たしていたと云う事である。
その前に、この「館類」には前段でも論じたが、先ず一つ目は「松阪城」を中心とした「中町の侍屋敷群(現在の殿町・御城番屋敷)」に「蒲生氏郷」から「九番から十一番の三区画」の邸を与えられていた。
更に、櫛田川北側(松阪・現在の中町)にも「自前の館」を持ち、松阪(現在の京町)には「菩提寺と来迎寺」に近くに「福家の館」を持っていた。
そして、「松阪(現在の本町)」には「紙屋伊勢屋の本店」を持っていた。
その他にも殖産などに関する館を持っていた。
ここに述べるのは最も「青木氏を物語る福家の館」である。
他は夫々の目的を以て「館形式」は構成されていた。
取り分け、「九番から十一番の三区画」の邸は「伊勢の政治」に関わる決められた「間取りとの様式の体」であったとされる。
これを「三区画」に分けて「城との関係事務所」を三つに分けていたらしい。
一つは「城との殖産」、「城との商い」、「地権域の政治」であったと説明を受けた。
それだけに大きかったと云う事である。
「櫛田川の北側館」は殖産関係の事務所」であったとされる。
最も上記の状況証拠と成り得るのは矢張り「福家の館」であろう。
そして、ここは他と違って説明に依れば「大きな寺の様式に似ている事」は判る。
その説明を完全に表現できないが縷々述べるとする。
そもそも、上記した遺産のこれ等は当家の「仏間」と云う処に安置されいた。
その間は、右には相当大きな「仏壇」の安置の間と、左にはこの「賜姓象徴物」の安置の間に分かれていて、此処には紫檀の敷座の上に「青磁の花瓶」が据えられていた。
夫々、東西に「一間の幅」と「南北の奥行き」が「四尺の奥行きの安置場所」を持ち、ここに納められていて、「残りの二尺・後ろの北」は関係する物の収納庫であった。
その前は「板敷の間」であった。
この「板敷の間」は二間・一間の板間を持っていた。
この「板敷の間」に連なってこの南側には「二間・二間の大広間」があって、「祭司の際」は襖を全て外して、此処に一族が参集する仕組みとなっていた。
この南側の大広間は「大客間」と呼ばれ、東には南北に二つの床の間があった。
尚、客は、先ず、四畳半の「玄関の間」に上がり、次は四畳半の「控えの間」に移り、その次は「仏間」に移り、最後にはこの「大客間」に南向きに入る仕組みであって、「控えの間」では客に抹茶を持て成すのである、
此の控えの間が「書院造り」であり、常に「四季の軸」が掛けられ「茶道用具の漆器の茶箪笥」があり花瓶の壺に一輪の「所縁の花」が飾られていた。「接待の間」と呼ばれていた。
この「玄関の間」は二つに分かれていて、先ず、南から扉を開けて入る客は「石敷の四畳半の受付の間」に入り、ここで「正式な挨拶」をして、そこから「四畳半の玄関の間」に上がる。
この「玄関の間」と「受付の間」の高さは「半間」あり「二段の階段」で上がる事になる。
この「玄関の間」には東に低い棚があり、ここには所縁の物が置かれていた。
その後の北の間は、此処は「畳敷きの控えの間」に成っているが、合わせてここを「仏間」等の呼称で幼少の頃は呼称していた。
周囲は全て襖で仕切られていた。
二つの床の間には青木氏を物語る所縁の物(遺品シリーズ)が二つに分けて祭司されて、南床の間には軸が掛けられていて、全ての周囲の欄間には「横軸と額」が掛けられていた。
この「大客間の西側」には同じ大きさの間でここは「談間」と呼ばれていて、これが左右に在って、これを半間の廊下で連なり客は最後にはここに移り、庭の「枯山水」を愛で和歌や俳句等や俳画や水墨画を書いて楽しむ間であった。
最後は、更に南の西六畳の間に移り、枯山水の青石や紫石の石畳みを渡り裏門から帰る。
生活や家人や家の者は東別棟に住し、これらの間は更に北側と西側の四つの間に連なり、客は東門から入る者は同じ様な仕組みの間に入り団欒する。
客は自ら何れの客層かを判断して正門の南紋か西か東の門から入る事に成る。
北門は無かった。
北の間の四つには「控えの間」があり、此処に数人の執事が控えていた。
西別棟には弟子等の別棟があった。ここから執事が北の間に入る仕組みであった。
この別棟で内弟子等に絵画和歌等を教えていた。
一般の教養で習う弟子等もこの西別棟に入った。
「紀州の別低」も筆者の「記憶と口伝と調査」でもよく似ている事は判る。
全体としての印象は平等院の様な感じである。)

実はこれらの内、「賜姓象徴物」だけに危険が生まれた事から平成10年10月15日にこの「賜姓象徴物」だけは「安全な場所」に保存され祭司されている。
青木氏氏研究室 NO222 青木氏のステイタスの論に写真記載) 

(注釈 相当以前に前段でも論じたが、渡来人の「司馬達等の孫の鞍作止利」の像を、其の子孫である「歴史小説家の司馬遼太郎氏」が勤め先の「産経新聞」を辞した後に、予約を取り筆者の松阪の家を訪ねて来て、この「大日輪の木像坐像」を観に来た事があって、現存する彼の先祖の作を観て感心して帰った。
其の後にこの事に就いての「歴史の単行本」を限定して関係者に発刊した。筆者の家にもある。)

(注釈 「法隆寺金堂の釈迦三尊像」を「飛鳥寺の金堂」に入れる際に「規定尺の仏像」が入らず「鞍作止利の発案」で何とか入れたとする逸話が遺る。
当初、前段で「仏像・ぶつぞう」として論じてきたが、この論を論じると、訳が分からなくなる恐れがあって、此処で、敢えて”仏像では無い”と論じている。
この上記の「氏是の書の事」も同然である。
研究している過程で各所の歴史観が替わって行き修正に苦労努力している。
勿論、「書の解明」が可成り後の歴史観を得た研究結果である事も含めて、此処に記した。
この避けていたこの「書の研究」で「青木氏の歴史観」は大いに替わり全てを見直す羽目となった次第でもある。)

(注釈 一部前段で触れた事があるが、この「氏是の書」の後にも、更に別に「青木氏の由来」を書き記した「由来書」が在って、「平安期末期までの由来に関わる事」で、当然に、室町期の中頃の先祖に依って書されたものでその期日も書き込まれている。
この「由来書」も何しろ漢文の解読困難な草書で、みみずが這った様な「超難解極まるこの書」である。
又、この「書」からその一部を抜き出して「軸」にして飾られている。
何故一部を抜き出したのかは判らない。
極めて「達筆」で近所の「書道の心得」のある人に解読を依頼したが、この「漢文」は苦手と云う事から充分な読み取りは現在も出来ていない。
恐らくは、何らかな青木氏に関わる「歴史的由来」そのものより「達筆性を競った軸書・悟り」であると考えられ、「禅宗の僧侶との競い書」であったのではないか。
「数人の禅僧の書」もある故に、「書の競い・即ち、悟りの境地」の会のものであろう。
この頃、この「書」を通じてのこの様な「慣習の禅宗書会」が室町期にはあった事は歴史観として承知していて、「永平寺の高僧」の「書」を後に額にして欄間に架けられている。現在もある。
何度かの挑戦で凡その「読み取り」は出来ているが、充分な研究には至っては居ないが、其れなりにその一部は「歴史観」として本シリーズで活用して論じている。
何れにしてもこの「二つの難解の書」の解説の一つをここに記した。)



「美濃の経緯」に付いて元に戻して。
上記の残りの「4と5の検証」である。
(重複)

1 奈良期後期の浄橋飽波の嫁家した直ぐ後の源氏化路線での決別期
2 源平戦の頼政の事件の平安末期の混乱期
3 室町期の混乱期

4 国衆の準備段階の前期
5 国衆の南下期の直前期

この「4と5」の時期の検証には「一色の本貫名」が「決め手」として関わっていると説いた。
美濃の中で、額田に伊勢の本貫名を使う事は滅亡する前では普通は当時の家族制度の中では「仕来り」として「嫁家先」では許されず難しい事である。
桑名殿の子供の「浄橋」は790年没、「飽波」は787年没である。
少なくとも「伊勢の本貫名」である以上、この間に「一色」を名乗る事には成る。
当然に奈良期の末期か平安期直前までである。
其の後に、合わせて時期は別として「清光院と清光寺」が創建されている。
「追尊二世族の別居の家」としての「清光院」を建造するとした場合はこの期間内である。
「神道」であった時期から「仏教」にも帰依した「伊勢」のこの二人の「伊勢の裔系の菩提寺」の「清光寺・密教仏教帰依・律宗族」は嵯峨期の少し後に成る。

「美濃族の拠点」であった「額田」に「本貫名の一色」を公然として着けられるには「鎌倉期の西尾の一色」より前の時期と成るが、歴史に遺るのは室町期に入ってからに成るだろう。
「墓所」」を伴う「一色の清光寺」は、美濃の「伊勢の裔系」が拡大した「後の事・10代目頃・裔係数500人前後」に成り、「青木氏の伝統の掟」から「住職」も「伊勢」から求めなくてはならない。
そうすると、3は無理と成り4の直前期に成る。

(注釈 伊勢と異なり嫁家先の美濃では「墓所持ちの菩提寺」は「伊勢の裔系」の一族で最低でも初代から10代目位・約400〜500人で当時の平均寿命50歳から500年で成り立つとされていた。
子孫拡大率の数式論からもそうなる。)

そうなると当然、4と成る。
これ以前に渥美に大勢の伊勢の裔系が降りて「神明社所縁の地」の定住する事はそもそも危険である。
取り分け、(a−1)は先祖の清光院と清光寺を護らなければならないし、「裔の本筋」は動かす事は無理であり、(a−2)族とその関連族としても「大人数の大移動集団」で無力であり目立ちすぎ危険で無理であろう。

そうすると、4と成ると何にしても「a−2の裔系の家族」が「神明社所縁の地」に先に行く事に成るだろう。
これを護るために一部の「bとcの族」等一族郎党が付き従う事に成る。
そうすると、誰が考えても何らかの策が取れれば1540年とされている「国衆」としての「最終的南下の準備段階」の前に行うべき策と成る。
それが「国衆」としての戦士ではない者等(家族とその一統一門等)を先ず“「何らかの形」”で移動させるべきである。
それでなければ後にする策は武力の無い者が間違いなく犇めく他の国衆に晒される。
つまり、これ等の事から考察すると5では無い事は直ぐに解る。
5は飽く迄も「国衆の戦士の移動」であり、これを前期と後期に分けている可能性がある。

そこで問題に成るのが、“「何らかの形」”であり、つまり「大人数の大移動集団」を移動を完全に安全に解決できる手段があるかである。
どの様に目立たずに「額田」からどの様に移動させるかである。
然し、その経緯を記したものが何故か見つからない。焼失か。

そこで、筆者は前段でも論じた来たが、一つの過程を持つていた。
これは「伊勢」が執った特別な行為がある。
それは“「御師様 A」”とそれに関連した“「伊勢信仰 B」”と“「神明社の方針転換 C」”が物語るのだ。
これに関連して「浄土衆の白旗派の律宗の幕府の決定 D」であった。

これ等は前段で論じた事であるが、当時の状況証拠をもう一度考察して観る。

当時、「熊野信仰」に押されて衰退していた“「伊勢信仰」”がある事で復興しかけて未だ何とか下火で続いていた。
それは、要するに“「御師様」”と“「神明社の方針転換」”に関わった。

結論から言うと次の様に成る。
これが筆者が考えている「過程」である。

これ等の要素を利用して、一度、「伊勢シンジケート・伊賀」の「手引き」で護られてまず「伊勢」に行きそこから「伊勢水軍」で渥美に一挙に移動させたと考えられる。

さて、丁度、この頃、伊勢湾でも“「伊勢の水軍衆の混乱」”が「信長の指金」で起こっていた。
この「二つの混乱事」を利用した可能性がある。

先ず、「伊勢信仰の考察」である。
「足利幕府」に依って推奨され、下火に成っていた「伊勢信仰」は「熊野信仰」も凌ぐ程に成り、遂には「庶民の信仰」として許されるまで成って行った時期でもある。
これを契機に同時に「伊勢青木氏」は「御師・おし」と呼ばれる「神明社の神職組織・隠密情報組織」が全国を廻って“「庶民信仰」”を呼び掛けた当にその時であった。

それまでは「青木氏」が管理する全国にある500社弱に上る「神明社」はある一定の格式を有する族の「信仰対象」であった。
この時、足利幕府は浄土宗を青木氏の白旗派と定めた。
これを契機に「伊勢」はこの「神明社」を「庶民の信仰対象」に切れ替え「青木氏の神職」を動かして「大宣伝戦」を繰り広げた。
室町幕府の許で「庶民信仰」に切り替わった「伊勢信仰」と連動させたのである。
これに伴い「神明社信仰」も動いたのである。

そもそも、この「御師・おし」は「御師様・おんしさま」と呼ばれ「守護神としている伊勢青木氏」の支配下にあり、その様に呼ばれていた。
「御師組織」とこれに相まって「伊勢シンジケート・伊賀衆」と相まって「桑名」までの「約70kの距離(32里・3〜4日・徒歩15時間)」を「大集団の彼等」を保護した可能性が極めて高い。

注釈として 集団を幾つかに分けている可能性が高い事である。

(注釈 室町期初期に幕府の「原理主義の白旗派」を「浄土宗と決めた事」に対して、同時期に「御師制度」を態々、組織した事は「何らかの政治的な関係性」が在ったと考えられる。
そして、その「伊勢と信濃の青木氏」を「律宗族とした事」には「浄土宗の権威と象徴」の頂点を決めた事に等しいし、「律宗族」として呼称して「権威性」を持たしたとも考えられる。
その代わり、同時に「伊勢神宮」も「神明社」も「信仰対象」を「幕府」も「青木氏」も同時に「民衆の信仰対象」として決めた事は偶然では無いだろう。
それには青木氏側には、「この件の思惑」が働いていて「政治的行動」を幕府に働きかけたと観ている。)

注釈 弱体化するも「足利幕府」と「浄土宗徒」を味方に着けた可能性があるという事での駆け引きであったのではと考えている。
それを証明する記録はないが、歴史が物語る。
1467応仁の乱勃発
1470年頃から1490年頃まで一揆が各地で多発する。
1490年〜1532年間では移動通路と成る美濃ー尾張間は木曽川に挟まれた地で「一種の空白地」であった。
1540年松平家康は今川氏に人質。
1542年に斉藤道三は土岐氏を倒し美濃奪う。

当初は「暗黙の禁の地」に相模の国衆が尾張に入り「五藤家の居館」を建てた地域である。
ここにこの後の1532年に丹後の国衆の山内氏が入る。
五藤氏は山内氏の家臣と成る。
その後、山内氏は勃興する織田氏の家臣として「城代」と成った地域であった。
これ等から1542年までは「一種の空白期」である。
その後に遂にこの「空白地」には「美濃と尾張」を制した斉藤氏勢力下に置かれていた。

この「美濃ー尾張間の戦況」を「御師らの情報」を基に敏感に呼んだと観られる。
この事からも「移動」はこの「空白地と空白期」を利用したと考えられる。

(注釈 この空白地と空白期は朝廷の天領地から幕府の幕領地に替わり、肥沃な土地を荒らす事を周囲の豪族は避けた。ところがこの「暗黙の禁」を五藤氏が破ったと云う事である。
雪崩の様に争奪戦が起こった。
「庶民信仰」は元より「国幣社格」であり名目であった。)


ではどういう事かと云えば次の様に成る。
況して、「AからD」を以て「名乗り」を「一色の伊勢の裔系」とすれば「御師様のお墨付き保護」と「伊勢シンジケートの影の保護」で安全に移動できたと考える。

後は海運では最大規模の安全に武力の持つ「伊勢水軍」で「渥美」に移れば良いだけに成る。
誰も襲うも者はないだろう。
伊勢がその後の糧を保証する。
全く問題はない。これらの時期を見計らったのが4の時期であったと観ているのである。
これが何らかの形の策である。

これで「4と5の問題」は検証できたと考える。
1540年から始まつた「準備段階」の前の「渥美移動の準備計画」であった。


1159年に入った「伊勢と信濃の融合族」の「伊豆」に対してその後に「脅威」が三度起こった。
一度目は入りたての時期に「源平戦の影響」での「駿河伊豆間」の「神明社シンジケート」が遮断された。
二度目は信長により「美濃三河間」の「神明社シンジケート」が遮断された。
三度目は江戸初期の「神明社引き渡し」に依る荒廃で「神明社シンジケート」が遮断された。
以上の三つであった。

その大きな元は前段と上記とで「美濃」にあったと説いた。

「源氏化した美濃」が滅亡して、結果として美濃の「神明社シンジケート」が遮断された事にあった。
この事から「伊豆を護る」にはこの「早急な修復」が「一族の喫緊の課題」であった。
取り敢えずは「伊勢水軍」と「残存の駿河水軍」の「ルートの水路」で何とか「伊豆」を補完していた。
その為にも「伊豆」は必要な「三つの湾(内浦、下田、稲取)」に「一族の四家(福家 湯ケ島)」を配置して、そこから何とか細々と「情報を含む生きる糧」を内部(梅木等)に補充していた。
そして、「伊豆の入口(イ地域 三島等)」には「陸路の拠点」を置いて、「陸路の繋」と「水路の繋(藤枝)」として充分では無かったが取り敢えず急いでの「伊豆態勢」を整えていた。

ところが、「戦国時代」は益々激化して「伊豆」も「情報網」と「生活の糧」と「商品の入手」が困難に成った。
「伊豆」には「秀郷流青木氏」が後ろに控えていたとしても喫緊性に欠けていたので危なく成った。
「室町期末期」の「秀郷流青木氏族」の「主力の永嶋氏」も背後に「三つも戦い・織田軍と秀吉軍」を抱えていた。
「水路」があったとしても緊急には間に合わないし「抑止力」は小さい。
元の様に繋がった「シンジケートの強い抑止力」が何としても必要とした。

それが、上記で論じている「美濃の修復作戦」と「神明社の修復作戦」なのである。
これを「氏是」を破ってでも「上記の作戦戦略」で一度に行おうとした。

「陸路と水路の両面」から「大作戦」が「伊勢と信濃の連携」で開始された。
室町期は「紙文化」で「巨万の富」を獲得していて「財力」には全く問題は無かった。
「美濃作戦」はこれを生かした「伊豆救出作戦の経緯」の一つであった。


さて、上記の事を再び考慮して、そこで「断絶の元」と成った「美濃の件」の経緯を進める。

その後、この地を領国として治めていた「今川氏(駿河)」が滅亡し、三河松平の家康が“「1560年」”に信長に味方して「三河・遠江」を抑え獲得した。

(注釈 「伊豆」は関東官僚の上杉の統制下にあった。)

前段と上記でも論じたが、「伊勢と信濃の戦略」で、従って、「加茂木曽の山間部」に潜んでいた「三野王の子孫」の“「美濃の青木氏(額田青木氏)」、”、つまり、”「(a−1」(a−2)」”と「bとcの族・元官僚族」が、先ずこの「額田の地」にまでに押し出せた事に成った。

それには、それなりの「重要な経緯」があり、先ずはその時期は次の様に成る。
唯、実は歴史はこの前に動いていた事が判るのだ。

先ず、一案としては「1560年の直後(本能寺1582年)」である事に成るとした。
ところが「注釈」として、実際は“「1540年代後半の早期・準備」に進出していた”とする記録があるのだ。
恐らくは、これに従えば、“「国衆」”として「家康」に認められて組した時期が「1560年の前後の頃」と判断できる。
「準備段階」からすると「約20年後」である。

そこで、資料類を繋ぎ合わせて検証して観る。
つまり、「伊勢と信濃」は、先ず「額田青木氏」として「三河一色の地(額田一色)・松平の支配地」に下ろして来て入らせた。
この事は、既に、「加茂木曽の山間部・シンジケート」に潜んでいて、「伊勢と信濃」はその「子孫の成り行きの事」、つまり、「額田青木氏、一色青木氏、美濃端浪の青木氏」」を把握していた事に成る。

もっと云えば、存在していた「土地の問題」である。
「伊勢と信濃」は、この「一色の地」にこそ、源平戦で滅亡したがここは元は「美濃青木氏の地」であった事を知っていた事に成る。
そして、源平戦後にここを「額田青木氏の拠点」として「(a−1」の「浄橋飽波の裔系」が住んで「加茂木曽の山間部」に潜んでいた「(a−2)や(bc族)」に差配していた事に成る。

そうすると、下記の検証より「美濃青木氏」の始祖の「三野王」の「戸籍上の本貫」は、「北の揖斐域」と「真南の大垣」とを「縦の直線」で結び、この「真南の大垣」と「東の土岐」を結ぶ「直角の三角州の野」の中にあった事に成る。

つまり、この「直角三角州」の「北の斜線上」には「各務原の野 1」が在って、「大垣の野 2」と「土岐の野 3」を結ぶ直線上には「小牧の野 4」が存在すると云う「四つ構造の野」に成っていた事に成る。

これを紐解けば、「奈良期の美濃」とは、「額田」を入れたこの「5点の間(額田)」に、北側には「揖斐川」、中央には「長良川」、東側には「木曽川」と「土岐川」の「四河」を挟んだ領域に囲まれた「周辺一帯の地域」であったとすると、「古書の記録」と一致する事に成る。


更に、これを検証して観る。
「大垣と真東の土岐」との間は57キロ≒60キロ
「大垣と真北の揖斐川」の間は17キロ
この大垣を起点とした「三角形の面積」は、凡そ、510Ku
以上と成る。

そうすると、「古書の記録」とには、「額田の蒲郡」と「西側の一色」との位置には南側に少し“「ずれ」”が起こる事に成る。

「蒲郡」と「土岐入口」とは真北に70キロ
「蒲郡」と「一色」とは真西で真直角に20キロ
以上の位置にある。

この「古書」に依れば、結局、次の様に成る。
「入江」は「北の山側」に凸に食い込んでいた。
「圷の野」は大きく南方に広がっていた。
以上という事に成る。

これは「三野王の時代」から既に「700年後」である。
つまり、これは次の事に成る。
70キロの「圷の野」が広がったという事
つまり、100年で10キロ進んでいる事
以上に成る。

そして、これを「地形的」に観ると次の様に成る。
「土岐―蒲郡」の間は、「丘陵・山沿い(海抜200〜300m)」である。
「土岐」から「蒲郡」まで南に70キロと云う事に成る

これで「700年前」より東には地形的には変化していない事に成る。

そこで、その「丘陵」から真西に直角に20キロの位置に、この“「額田の一色」”があったとすると次の様に成る。
20キロ/60キロ≒1/3と成る。
美濃の「1/3の圷の野」は、「三つの河の影響(土岐川は丘陵・山沿いに流れる。)」で「尾張側」に広がった事に成る。
以上に成る。

とすると、「額田の一色」は、「三野王の頃」から最低でも「150年後」の「800年の平安期初期頃」、つまり、「施基皇子没後、85年頃」には、「額田の一色の土地」は、先ず、「土岐」よりの「山沿い側」に在った事と成る。

つまり、“「100年で20キロ」”と云う「圷の経過期間」を経て居る事である。
これで「額田の一色の圷」は、既に「野」として存在した事が充分に云える。
この事から「額田の一色」は「野」であった事から存在し得ていた事に成るのだ。

故に、上記した様に「施基皇子」の「伊勢本貫の格式」の「一志」「志紀」「色」、又は、「一色」の「地名」の「格式由縁」を以て、没後80年後はそれと同時に、「三河国」にも「しき」の「一色の地名」として、額田後に“「地名」”として名づけられたと考えられる。

これは「血縁族の美濃の青木氏」の「存在の由縁」であった事に成る。
そして、それが「滅亡した美濃青木氏」では無く、「額田の青木氏」であった事に成り、「伊勢の桑田殿の裔系の浄橋飽波」の「女系子孫」であった事に成り得る。

「美濃青木氏の源氏化」に反対して「裔系の浄橋飽波」の「女系子孫」で源平戦で別行動を執り「加茂木曽の山間部」に潜んで「伊勢の支援」を受けて「信濃シンジケート」として「300年間」を生きていた事に成る。
そして、その「拠点」が「端浪一色であった事」に成るのだ。

従って、上記で多くを論じた様に、「伊勢」の「一志」「志紀」「色」、又は、それに準ずる「一色の地名」は、少なくとも「当時の慣習」で「天皇名等の皇位の名」を「地名等」に使う事を禁じられていた。
その「光仁天皇」や「追尊春日宮天皇」の裔であった事から「本貫名」を使った事に成るのだ。

故に、「施基皇子没(716年 追尊770年)」後の「三野王の裔の美濃」としては「一色の地名の命名」は原則的には無かった筈である。
可能なのは「裔系の浄橋飽波」の「女系子孫」が使える事に成り得て、この場合は「美濃裔系」では無く「伊勢の裔系」としての「独立した立場と格式」を執る必要があった事に成る。
それで無くては「地名一色」は使えない事に成る。

そう成ると、先ず、「美濃(額田)」でも「第一次源平戦終了・1180年」まではこの間は「一色の地名」の命名は避けた事と成るだろう。
「平安京の遷都期(795年)頃」には、「始祖で祖父の施基皇子没716年」で80年後である為に論理的には「一色の地名」の命名は可能と成るが、それ以前は「三野王の美濃族」には「桓武天皇」は認めなかった筈である。

つまり、凡そ「800年頃」には「一色の地名」は論理的には使えた事に成る事が、上記の様にこの検証から定められる事に成る。

要するに、「800年頃」のこの時期は、「青木氏族」に執っては取りも直さず前段でも論じたが、「賜姓族や皇親族」から外され、その結果として「四家制度、四掟制度、四六の概念、女系の妻嫁制度、嫁家制度」等が構築されて行き、「皇族との決別」して「政争」から逃れて生き残るために強力にこの制度が推し進められていた時期でもある。
この時期は「青木氏」を巡って「桓武論説と嵯峨論説の激しい政争」も起こっていた。

この時期は、言い換えれば「信濃青木氏、近江青木氏、美濃青木氏、甲斐青木氏」とは、未だ「四掟の範囲」では血縁し得たが、然し、反面これに「女系の妻嫁制度」にして、朝廷に関わらない様にする為にも切り替えようとしていた時期でもあった。
「伊勢と信濃」を除いた「三つの青木氏」はどんどん「源氏化」を進めて「路線の違い」で、実質、「四掟」は無縁のものと益々成って行ったのである。

当然にして、「美濃」に嫁いだ「二人の伊勢の裔系」は、出自元が「源氏化」に組していない以上はこの時から既に「源氏化に組する事」は出来ず、嫁ぐ間もなく子孫を遺した後に「別の行動」を執った事に成るのである。
その「表れ」は「清光院と清光寺の存在」である。
「光仁天皇」や「追尊春日宮天皇」の「直系の裔系」であるからこそ使える「格式号」である。
上記で論じた「書の所以」が物語るものである。

つまり、「伊勢族」ではない「美濃族」には絶対に使えない「格式の院号」である。
そもそも、前段や上記で詳しく論じた様に元より「美濃族の青木氏」は「朝臣族」であったとしてもその「浄位の格式」の中には無い「青木氏」である。

恐らくは、「二人の伊勢の裔系」が生きてる間に「別の行動」を執った事により「院」に入った事を示す証拠でもある。
「何かの理由」があって「浄位の者」がその「役務や立場」から離れ院生を送る事の「習わし」である事から「清光院の院号」は「門跡院」と同然にある。
つまり、「浄橋と飽波の姉妹」は生前中に「美濃族の生き方」とは「別の行動(役務や立場)」を執って院に入った証でもある。
故に「本貫名の一色の地名」の命名はこの「短い時期の間」である事に成るのだ。

前段でも詳細に論じたが、この直後から「嵯峨論説派」が主導権を握り、それに沿って「嵯峨論説派」(824年頃)の「近江、美濃、甲斐」は「源氏化」を進めた。
「795年〜824年の間」の「30年間」が「一色の地名」の命名の間と云う事に成る。

(注釈 その証拠に其の後に「嵯峨期の詔勅の禁令」を出してまでも、この「浄位の青木氏」に関する「一切の慣習仕来り掟の使用」を正式に禁じたのである。
それだけに平安期以降はこの本貫名は無視される傾向が強かった事に成り、鎌倉期頃からは止められない程に横行していた事が云える。
それが更に、「新撰姓氏禄」と云う事に成った経緯であり、その族の範囲を「4−11」に区分けしてその範囲で定められた「古来の格式」を護らせようとしたのである。
それでも、「臣下朝臣族・源氏化」には止まらなくて「九つの縛り」を掛けて止めようとした。
然し、「初代の賜姓源氏」の「肝心の嵯峨源氏」そのものがこれを護らなかった。)

要するに、「嵯峨論説と桓武論説」の「桓武論説派」に在り乍らも「二つの青木氏」はこの何れからも逃れようとしていた時期でもある。
事態が「785年〜824年の間」の「30年間」が仮に「一色の地名」の「命名期間」で在ったとすると、「額田の一色の地名」がよく遺ったと云える。
「浄橋と飽波」は光仁期の「青木氏桑名殿二世族」であるので、「美濃」に嫁した年齢は「飽波王の祭司王」を務めた後であるので、最高で18歳と成る。
「浄橋と飽波」は記録から「82歳の極めて長寿」を全うしたとしているので、「785年〜824年頃の間」は最高でも83歳程度となる。
「浄橋」は2歳年下であったので、81歳程度と成り、未だ「清光院」に入ってから41年間は生存中であった事に成り得る。
充分に裔系に差配が可能であった年齢と成る。取り分け「飽波」は色々な役務を熟し「才女」であったとしている。
故に美濃の源氏化を防ぐ者として差し向けたのであろう。
故に、その後に於いて「浄橋と飽波」の子が「女系の伊勢の裔系」として大きく拡大させたと考えられる。
これは論理的に納得できる。

滅亡せずに「美濃」に「源氏化」が更に進んでいたとすれば「額田の一色の地名」が遺す事は無かった筈である。
「785年〜824年頃の間」に“「別の行動」”を執ってたとしても当然に美濃内部で「勢力争い」が起こっていた筈で生き残れたかは判らない。

それは「賜姓青木氏の一色」と「賜姓の源氏」の存在は「嵯峨期の9つの縛り」から観て「護っている側」と「護らなかった側」では「一つの族」の中では「相反する事」であるからだ。
この「9つの縛り」を巡って「伊勢や信濃」と「近江美濃甲斐」の間で「争い」が起こっていた可能性が高い。
源氏化を積極的に進めた「近江美濃族」等が「源平戦」で早期に滅亡した事によりこの「表向きの争い」は避けられたのである。


ここで追論として「源平戦」は「青木氏の歴史観」から観て世間で論評されるものでは無かったと筆者は観ているのだ。

「別の行動」と「相反する事」に関連して、ではそれはどういう事かである。
それは当に、「嵯峨期の9つの縛り」の「護っている側」と「護ら無かった側」の「代理戦争」であったと観ているのだ。
つまり、言い換えれば「桓武論説側と嵯峨論説側との戦い」であったと云う事である。

「護るべき源氏側」がこの「立場のストレス」に耐えられ無かった発露が心の中に強くあったと云う事であろう。
勿論、「桓武平家・伊勢平家」と呼ばれるその「母方の出自元・高野新笠・伊賀」が「桓武論説側」にあった由縁である。
「9つの縛り」を持つている立場の「伊勢信濃の青木氏側」は「抑止力」は在っても「直接武力」は持ち得ていない。
そこでこの決着を身内で着ける事が出来ず戦えないので、利害や出自も何もかも一致する「桓武論説側」の「平家」が「代理戦争」をしたと考えている。
要するに当事者の立場にいた「青木氏の歴史観」から観れば「単なる勢力争い」では無かったと観ているのだ。

だからこの「戦い」は「立場のストレス」の力に耐えかねて「源氏側」から「時の政権」を握つていた「平家・桓武論説側」に「戦い」を仕掛けたのである。
其れもある「程度の縛り」を護っていた「摂津源氏頼政」であるのだ。
これは「河内源氏の頼朝」に「以仁王の令旨」を出していなかった所以でもあるのだ。
「平家」が勢力が在ったのであれば寧ろ「平家幕府」を企てても良かった筈である。
でも「平家」は「朝廷」を護り反逆をしていないのだ。
これは「完全な桓武論説側に居た事」に成るのだ。
平安初期に興った「嵯峨期で起こった政争」の行方は、平安末期には「桓武論説側と嵯峨論説側との戦い」として再び起こった事であったのだ。

故に、是の「経緯の流れ」の中にあった「伊勢」は彼等を「信濃シンジケート」して「商い」などで支援しながら「300年の時」を経ていた。
然し、「伊豆の事」もあって遂には表に「伊勢の裔系」として時期を観て引き出した由縁でもあるのだ。

「美濃」に居た「伊勢の裔系」や「伊豆」を含む「伊勢と信濃との青木氏」を固める為にも採った「ある行動」なのである。
この戦国の時期は「信濃」も国衆が暴れ苦しかったが、それ故に一族が固まればだから「信濃」も生き残る為にも敢えてそれに力を貸した形なのである。

(注釈 何度も論じている「光仁天皇の子の桓武天皇・山部王」の「母方・高野新笠」は「伊勢伊賀の曾祖父」は「阿多倍」であり、「曾祖父は所謂、平家の始祖」である。
「桓武天皇・没806年・69歳」は「曾祖父(後漢の阿多倍王)」には態々、高齢乍ら「伊賀」に出向いて「高尊王や平望王」の「追尊王」を贈っているのだ。
定かではないが「桓武天皇60歳弱の頃」とされているので、計算から「曾祖父」は100歳位の極めて長寿であったとされる。)

(注釈 前段でも詳細に論じたが、「近江」の源氏化を防ぐ為に「伊勢」は私財を注ぎ「額田部氏」を頼んで干拓灌漑をし、研究を重ねて「和紙の生産」まで漕ぎつけたが、その為に「財力」が出来、「伊勢の恩」を裏切って「源氏化むに走って、この源氏化防止策は失敗した。
それまでの「同族血縁の絆」も全く消えた。
「美濃」も「浄橋と飽波の策」で源氏化を防ごうとしたが失敗した。
後は、これではこの「源氏化」が膨れ上がり果ては「同族争い」と成るは必定であった。
そこで、これに「歯止め」を仕掛けるべく「信濃との連携」で「出自元の親族の平家」に頼ったと観ていて、「清盛」に依る「頼政の正三位の特別昇格」はこの策の「第一段の手」であったとしている。
そして「伊豆」を与え、それを「伊勢と信濃」に護らせた上で「頼政」を誘い出して潰す戦略に出た。
現実に頼政は2年も経たないうちに「以仁王の乱」を起こした。そして、これを2年後に潰した。
ここまでは良かったが、「河内源氏」が「平家(たいら族・桓武平家)」の対抗馬の「元の平家(・ひら族・坂東八平氏・第七世族)」を便り。「旗頭」と成って「本戦」に発展してしまった。
平家と青木氏側は逆に出て又しても失敗であった。
この様に成るかも知れないとして「頼政」は源氏を潰さない為にも「頼朝」に令旨の辞を発していなかったのである。
結局は誤算は「第七世族の裔系」の「坂東八平氏の参戦」であったが、然し、頼朝源氏は2年後に無くなり11家11流の全源氏は「1221年」に完全滅亡する結果と成った。
結局は「頼政の嫌な予感」が当たった事に成った。
失敗では終わつたが無傷の「伊勢」では結果として目的通りに1221年で源氏化は終了した事に成って安堵していた可能性がある。
意図せずに「伊勢と信濃」が「一人勝ちした事の形むに成ったと観ている。
そうすれば、後は「美濃に遺した伊勢の裔系」を引き出す算段であって伊豆を救う事にあった。
其処に「室町期の戦乱」で“「伊豆の事」”が更に拡大し起こったと観ているのである。
それまでには、結果として「伊勢」は紙文化で「巨万の富」を獲得した経緯と成る。
つまり、「伊豆」を助け、且つ、「美濃に遺した伊勢の裔系」を引き出すに「充分な力」を着けたと云う事に成る。
これに無駄ではない「300年の時・信濃シンジケート」を経て仕舞ったと云う事に成る。)


然し、上記の通り、これは世の中の「当時の常識」から観れば、「伊豆」を助け、且つ、「美濃に遺した伊勢の裔系」を引き出す事は、「青木氏の立場」に対して「別の行動」「相反する事」が大きく左右して彼等を遺している事に成った経緯と所以と成ったのである。

これは一体どういう事なのかである。
筆者は、「青木氏」から観れば、今まで多くの経緯を論じてきたが、これ等の経緯が間尺に合わない事が多すぎる「世間の論評」と違っていて、その動きの元と成った「平家の動き」は違っていると観ているのだ。

その前に、「源氏化」を防ぐ「最後の策」と成った前段でも論じたが「美濃の経緯」は次の注釈の通りである。

(注釈 それは「近江、美濃、甲斐の青木氏」が滅亡したとされるのは、先ず歴史的には「近江の戦い」で敗退し、その後、「石橋山の戦い」と「富士川の源平の戦い」とで滅亡したとする記録に在る。
「甲斐」はその生き方として鎌倉幕府に対して「権威」を主張し過ぎて「鎌倉との軋轢」で更に徐々に衰退する破目と成った故に別格である。
元々、「平家」は、先ず、「以仁王の令旨」が「近江、美濃、甲斐の源氏化勢力」に出されたのを受けて「母方出自元の伊勢青木氏」の「密かな期待」に沿ってこれを「源氏化の勢力を削ぐ計画」であったとみているのである。
当然に「出自元」である以上、且つ、「桓武論説」を支持している以上は、世の常で密かに「平家と伊勢」が同じ利害と同じ路線上にある事から談合していた可能性が充分にあったと観ている。
その為に、先ず「播磨」の近くの「近江勢」と、そして「美濃勢」と「駿河勢」が「石橋山の戦い」で潰された。
立ち上がり間もなく「頼政」は宇治に逃げたからであるが、「摂津域の源氏の総元」を掃討するのでは無くて、明らかにこの「源氏化の三つ」を先に潰しに掛かっている。
つまり、これが、“「1180年8月の滅亡」”と成る。
この「五家五流」の内の「伊勢」と「信濃」は完全に「桓武論説側」にあって、且つ、「氏是」もあってこれに全く参加しなかった。
そもそも、この出来事は偶然と思えない程に「伊勢の京綱」と、「信濃の国友」が「伊豆」に移った直後でもあるのだ。
「伊豆」に「伊勢」と「信濃」の「青木氏」が入った時期は「滅亡の21年前」の「1159年」である。
然し、「摂津源氏系の源頼政」は、「河内源氏系の頼朝」には、この「令旨」を出していなかった事が最近に成って判明し「公的な論評」と成っている。
この意味する処は「青木氏の歴史観」も含めて大きく歴史を大きく替える。
学者により時系列的に研究された結果、「鎌倉幕府の大儀を獲得する為の後付け」であった事が判明したので、今後の歴史観は大修正が伴うだろう。同然に青木氏もである。
然し、届いているとして頼朝は日和見的に動いたのである。
この事が「平家の計算外」と成って「富士川の戦い」と成った。)

この疑問は簡単に解ける。

(注釈 この「800年頃」から「1180年」までは「血縁続きの氏族」として、「(a−1)の美濃青木氏・末裔」と「(a−1)(a−2)の族」と「bとcの官僚族」は「美濃」に存在していた。
注釈の通り、「(a)の美濃青木氏・末裔」と「(a−1)の一部の関連族」はこの「源氏化」に賛成して完全に滅亡した。)

そうして、ところが「(a−1)(a−2)の族」と「bとcの官僚族」が「平家」に「桓武論説側」と理解が得られていないので、「美濃の血縁族」と観られて「逃げ込んだ族」は山間部で生き遺った。
然し、その「平家の疑い」は直ぐに「伊勢の努力」で解けた。
それは、「頼政の孫二人と叔父一人の助命嘆願」を「平家母方の出自元の伊賀」に頼み込んだ事があったが、この時、「(a−1)(a−2)の族」と「bとcの官僚族」の事を説明したと観られる。
それが前段と上記の経緯で理解を得たのである。
全く戦わずして早めに山間部に逃げた事が理解に幸いしたと云えよう。

そこで、では何故に表に出て来ずに、長く“山間部で生き遺った“と云う事はどういう事かと成る。
抑々、源平の「三度の戦い」でも“徹底抗戦して戦わなかった族”と成る。
つまり、{源氏化に反対していた血縁族}が他に美濃に居た事に成る。
つまり、それが残りの「血縁族の(a−1)と(a−2)の族」と「bとcの官僚族」であった事に成るのだが、ところが中でも「bとcの官僚族」は「美濃の青木氏族」で無い為に当然に「源氏化」には無関係である。
然し、「bとcの官僚族」の美濃族に関わりのある一部は参加したとする記録があり滅亡している。
これは「当然の事」であるだろうし、疑われるだろう。

とすれば、「血縁族の(a−1)」は兎も角も少なくとも「血縁族の(a−2)の族」はより近い位置にいた「bとcの官僚族」に引っ張られていた事に成ろう。
近いだけに血縁も進んでいた事は頷ける。
「伊勢の裔系である(a−1)」は兎も角としても、これ等の「二つの血縁族」が「平家」に疑われる可能性が充分にあったのだ。

「平家の動き」は「青木氏の歴史観」から観れば、「世間の論評」には間尺が合わないのである。
「頼政」が「正三位に成った時点」から始まり、「伊豆」に至るまでの期間は全ての出来事が余りにも唐突単純過ぎる。
「世の出来事」は一切唐突には起こらない。
原因があって結果があり、裏があって表があるのだ。
歴史の論評は、一つ一つを継ぎ足した様には起こらないのが人の世界の常道である以上、「平家の動き」も同じ「桓武論説側」に居た「青木氏の歴史観」には大きく影響していた筈である。
「論評の継ぎ足し」では無かった事に成る。
良く調べれは「頼朝」には出していない事の様に、「頼政の目的」が違っていた「以仁王の令旨」が大きく物語るのだ。
「後白河天皇の第三皇子」の「以仁王の令旨」は。そもそもその「令旨の資格」を持たず「権威」は低いのだ。

(注釈 筆者は「平家」は源氏の本元の摂津源氏等を先ず潰せば事は収まると観ていたと考える。
その為に急に「頼政」を潰す事は「世間の批判」を浴び得策では無く、先ず、「正三位・1178年(従三位)」に突然上げて置いて、「世間の批判・反勢力派」をかわし、その後に潰す計画であったと観ている。
そもそも綬位1年も経たない内の直後に「乱の計画」に入っている。
平家としては「源氏を潰す方向」にあるのにわざわざ昇格をさせる事はしない。
そして、これらが前段で論じた様に「伊豆」「京綱」「国友」にも影響して行くし、「美濃の裔系引き出し・別の行動」にも「室町期の事」にも繋がって行ったと観ているのだ。
重要な事はこの時、「河内源氏」は内輪もめしていたのだ。)

故に、「(a−1)族」が「額田の端浪の一色」の元の地に定住するも、それにより近い族の「血縁族の(a−2)の族」と、「三野王に縁」のある土地を管理していた朝廷の「bとcの官僚族の他の一部」が「山間府に逃げ込んだ族」であって、それ故に「山間部」で生き遺って、「信濃シンジケート」の「原士」を構築した事に成る。
そして、「(a−1)と(a−2)の族」の「主家末裔・額田一色」を中心に、「bとcの官僚族」の「原士」が「額田の青木氏」の支配下に入りこれを護ったと成る構図である。

仮に、この「三つの族」が「源氏化の末裔」だとしたら「伊勢と信濃の青木氏」は手を貸さなかったであろう。
それは又、「滅亡の憂き目」を見る同じ事が起こるからである。
全く「源氏化」の無縁の「血縁族の(a−2)の族」と「bとcの官僚族」で構築したからである。
それは、前段と上記した事が、矢張り、伊勢から「浄橋や飽波」が「源氏化の前」の「初期の美濃」に嫁いだ事に大きく関わっていた事から来ていると考えられるのだ。
要するに「別の行動」を早くから取った事を証明するものである。
遅ければ「伊勢の裔系」とは成り得ないであろうし、「伊勢も救いの手」を差し伸べなかったと観られる。
差し伸べると云う事は、嫁いで子供が出来ての直ぐの事であろう。
そして、この子孫を「女系の伊勢裔系」として育て上げて「別系」を「美濃一色に作り上げた事」に成る。
それが、「端浪一色」の「清光院」であって「本貫の一色」なのであろう。
ここを「伊勢の裔系の拠点」としたのである。
「創建の経済的支援」は当然に「伊勢」から出ていなければ無し得る事ではない。
桑名の直ぐ横にも「二つ目の清光院」を創建し、嵯峨期の後にも「清光寺の菩提寺」を桑名の隣に創建している。
蒲郡にも清光寺を創建している。
経緯に応じて物語るものが多い。

そして、その象徴として「源氏化の族」では無い「伊勢の一色の所縁」のある「伊勢の本貫名の一色」を「三野王の定住地」の「額田」に態々名付け直して「(a−1)(a−2)の族」の「主家末裔」を「差配頭」に据えてここに構築し直した事に成る。

前記したが「シンジケートとの関わり」を持っていた事はこの事を充分に「桓武論説側の平家」は後に承知していた事に成る。
彼等は「桓武論説側に居た裔系」であった事の「美濃の詳細」を光仁期より時代が過ぎていた事により何時しか何処かのタイミングで「美濃の詳細」を知っていた事に成り、それが乱後の「助命嘆願の時」かその前の「2年弱の前」の「京綱の時」であると観ている。

(注釈 「青木氏の歴史観」から「歴史」を組み立てなおして直せして観れば、「伊勢青木氏」の乱の前の「京綱の件」を以てしても、「頼政」は「源氏の天下」は期待していなかったし、「頼朝」に「令旨」も出していなかった事の由縁と成り、「乱の失敗」を予測していた事に成り、「追い込まれた末の結果」であった事を物語る事に成るのだ。)

「古書」や「伊勢青木氏」や「近江佐々木氏の記録」から経緯を読み取れば、「五家五流の美濃青木氏」と云うよりは、“その末裔族とする”と記する事から“「一色青木氏(記述は額田青木氏)」”での呼称であった事が資料から判る。
決して他の資料では「美濃青木氏」とは記していない。

要するに、故に資料は「美濃青木氏」で無く、古い歴史を持つ由縁から「一色青木氏・額田青木氏」と「その血縁族」と記した所以なのであろう。
それが「伊勢を意味する一色」に存在した「額田の地名」から遂には「額田青木氏」と呼称されて行き、結果として。最後は「蒲郡青木氏」と呼称されて行った事に成る由縁と経緯なのである。
そもそも「源氏化の美濃青木氏」であれば「上記の氏是の書」で論じた様に「伊勢を意味する一色」は使わないし使えない。


地形から検証して観る。
その頃には、「美濃の圷」と「一色の地名」とには、「500年の経過期間」があり、「土岐−蒲郡の丘陵・山沿い」は、「圷野の速度」が上記検証から、真西に「100年−20キロ」とすると、5・20=「100キロ真西」に「圷の野」は確実に広がっていた事に成る。
従って、「一色の地名」の西には、最早、10キロ西に「知多湾域」にあった事に成る。

そうすると、「土岐―蒲郡の丘陵・山沿い線」から西に20キロ、そこから「知多湾域」に直線で10キロ、合わせて30キロと成り、「圷の進行速度」の「100年―20キロの数値」から計算すると掛かる期間は「150年」と成る。

つまり、「三野王」から「150年の頃」は、つまり、これでも「800年の頃」と成り、検証結果は一致している事に成る。

この「歴史的経緯」から観ても、「地形」から観ても、「一色の地名」の着けられる事の可能性のある期間は、地形でも「770年頃」から「嵯峨期の詔勅(823年頃)」までの間に着けられたと考えられる。

それが「約30年〜50年間程度の間の地名」で、即ち、この間に、「伊勢―美濃の間」での「妻嫁制度の血縁」がまだ進んでいた事が云える。(浄橋や飽波が嫁いだ。)
従って、これは「美濃」の「圷」が「野」に変化した「初期の頃」と成り得る。

これで「美濃の元の事」は検証が済んだ。

そうすると、此処で何で「甲斐」は兎も角も、「信濃」に「一色の地名の論」として無いのかと云う疑問が湧く。
「伊勢との充分血縁に依る事」からその格式は充分にあり得る。
何故かその確たる証拠が美濃の様に出て来ない。

そこで「考えられる事」として次の事が上げられる。
ここで本貫名一色の所以である。

1 「一色」は「美濃との関係(三野王)・上記の経緯」にのみに区別する為に使われた。
2 「伊勢と信濃の関係」から、最早、「一色の格式」は必要なかった。
3 「独自の生き方」をする「甲斐」にも無いのは「一色の格式」を敢えて拒絶した。
4 「信濃」には「足利氏系斯波氏・源氏傍系族」が室町期初期(1387〜1402)に赴任した。

筆者は、この「四つの事」が総合的に重なっていたと観ている。
主は肯定的な意味として1と2である。

副は否定的な意味として3と4である。
つまり、「信濃」は「一色の格式は当然の事として補完とする必要が無かった。
そもそも「伊勢」と同様に「源氏化を進めない方」の「桓武論説側」に当初より在ったからであり、その問題を誘発する事は無かったからである。
甲斐はそのもの拒絶してしたし、「伊勢の裔系」は嫁していない。
4の「足利氏系斯波氏・源氏傍系族」とは「信濃」はそもそもその「格式差」は比較対象の中には無かった事から敢えて「一色」で誇示する必要性は全く無かった。

「美濃との関係改善」を「伊勢と信濃」は「800年前後」に「伊勢の青木氏」から“「二人の女(むすめ)(浄橋と飽浪)」”を嫁がせて「血縁」も含めて懸命に図っていた「史実の経緯」がある。
前段でも何度も論じているが、これは「天皇家・光仁天皇と追尊春日宮天皇」の「皇女を引き取る事」により起こる「縛り無視」に対する「源氏化の策」であったと予想する。
然し、彼らは「浄橋と飽浪」と対立してその生き方を変えなかった。
又、あり得る事として「信濃から策」としても「美濃」に嫁した記録は見つからない。
「伊勢」と異なり「美濃」は「信濃」との国境を持つ族であるとするとあり得る事であるが、何故かかけらもない。

次の注釈が物語る。
それは確かにその元の経緯を当初から持っていた。

(注釈 「日本書紀」等の三古書でも、その意味で美濃始祖の「三野王」は「信濃王」が在り乍らも「天武天皇」の「五大都の制度の案」で命じられて調査に入り詳細に答申している。
一時、信濃に在して「信濃王」に成ったかの様に進んだが、無役の四世族王であった事からその守護の国は持てない王位であった。
然し、その「調査の功績」で何と「最も肥沃な三つの野」の「三野王」に任じられたものである。
「信濃在住」は調査の為として「三野王」と成った。
そして、結局は、この時、「激しく有能で野心的な三野王」に対しても「争い」を起こさなかった「おとなしい信濃王」が「信濃国」に落ち着いた経緯を持つのだ。
「五大都の制度の案」は、結局は、「伊勢」は「浄位の施基皇子」に、「近江」は「浄位の川島皇子」に、「美濃」は「四世族の無役の三野王」に、「信濃」は「四世族の在住信濃王」に、「甲斐」は「四世族の無役甲斐王」に、夫々任じられて発足した。
「近江と伊勢」は元より「五大都の制度の案」では「浄位」であった為に別格であった。)

(注釈 当初、「近江」と「伊勢」は前段でも論じたが、「川島皇子」と「施基皇子」の異母兄弟の時代は女系での血縁は完全な同族血縁の一族であったほどに相互に行き来していた。
中の良い関係を続けていた。
然し、「嵯峨天皇の源氏化が起こる事」に依って「決定的な溝」がうまれ、疎遠と成ったのである。
余談であるが、「川島皇子の裔」系の「近江佐々木氏」に引きずられた縁戚の「二つの青木氏」は「真砂不毛の地」で「財力の無さ」と「天武期の「反抗行動」から「朝廷の中」で立場を失って行った。
その為に源氏化で生き残ろうとした。)


敢えて、追加して上記を論じた様に、「信濃」は「伊勢」と共に「女系」で「青木氏族の体制」を確立していた為に、これには是非に「美濃の源氏化」を進めない様にする事が戦略的に必要であった。
この為にも「信濃」には同族並みに充分であった為に「伊勢の一色での格式」は必要が無かった事に成る。

然し、「美濃」にこの「生命線を壊す事」が起こって仕舞ったのだ。
恐らくは、この時までは“「伊勢と美濃と信濃のライン(神明社で繋がる族)」”は、戦略的に「青木氏族の生命線」と判断していたと観ての事であったと考えられる。

それには二つあった。(前段でも論じている。)
第一段の「皇子」を引き入れる事に依る「源氏化」が多少起こっていたのである。
第二段がその「源氏化」が引き起こした「姓族勃興」の危険性で既にあったのである。
この二つにより「神明社の情報と物流の遮断化(本論)」が齎す危険性であった。

「青木氏の伝統 55」−「青木氏の歴史観−28」に続く。



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