青木氏氏 研究室
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  [No.383] Re:「青木氏の伝統 58」−「青木氏の歴史観−31
     投稿者:副管理人   投稿日:2020/06/21(Sun) 14:33:32

> 「青木氏の伝統 57」−「青木氏の歴史観−30」の末尾
>
> (注釈 「紀州藩との繋がりの効果」
>詳細の検証は更に次段に続く。

> 次は「現地検証の問題2」は、「伊川津青木氏四家・a−2」に付き従った「bとcの官僚族」の墓所が「田原市加治町」に「真宗寺・匿名」としてある。
> 此処には、「18の真宗寺」があって、その内の二つと観られる。
> この寺から真南1kの所に「真宗西光寺」があり、況や「秀郷流青木氏の所縁」の繋がりを物語っているが、恐らくは、この「二つの真宗寺」に江戸期前までは「彼等の菩提寺」として分散していたと考えられる。
> 美濃の「bとcの官僚族・諸蕃諡号雑姓・第1の姓族」に位置する族の「家紋」には、「過去のある特徴」があって「最大48種」の「草に関わる紋様と色」から出来ていて、これを基に最初は「家紋」と云うよりは「位階身分の判別紋」として扱われ次第にそれが「家紋」と成って行った。
> この判別から「諡号では無い第二の姓族」と違って、「諡号を持つbとcの官僚族・諸蕃雑姓・第1の姓族・440族」にはこの“「判別紋」”を持っていたのである。
> これを格を細かくは、「12類族」に分類でき、「大まかな格」には「8類族」に分けられ、「計20類族の格」でこの「分析」から確認できるのだ。
> 全体では「440の判別紋」がある。
> これは「血縁性」に関わらず「位階身分格式」に依って分けられている。
> 念の為に「諡号」に含まない要するに「第二の姓族」にはこれは無い。
> 「伊川津青木氏四家」の近隣にこの「美濃の官僚族」であった「彼等の新たな菩提寺」は2寺存在するのだ。
> 奈良期では「五都計画」の一つであった事から「低位の官僚族」ではあるが、判別から観れば「中位下の判別紋」に成ろう。
> 中位格式以上は都に帰る事に成っていた。
> この判別に含む家紋が刻まれているので確認できる。
> この「現地検証の問題3」では、「上記の類似紋」が実に多いのだが、先ずは「3土豪の姓族の本家筋の家紋」にあるが、「伊勢の裔系の家紋」は元より「秀郷流青木氏の家紋類」には無く、仮にあっても墓石も江戸期前後の慣習のものと違っているので、明治以降のものであって俄かに信じ難い。
> 墓所の家紋から「片喰州浜紋の秀郷流一門」とは正式に明確に混じっていない事が判る。)


「青木氏の伝統 58」−「青木氏の歴史観−31」

(注釈 「国衆の最終目的差」
さて、その「目的差」が生まれたその根拠は、「伊川津青木氏である事」は、勿論の事、「土豪3氏」も「戦乱の中」で生き遺る為には“「何らかの傘」”の中に入らなくては成り立たない。
それが、当面は互いに同地域で結束し合って護りあう「結合体・党」の「伊川津七党」と成ったのだ。
相互に全く関係性の持たない各地から集まった「国衆の集団」であった。
この時期は伊川津に限らず全国各地で「土豪」等が生き遺る為にこの「党」を結成した。
そして、その土地で「国衆」と成ったが、こんな“小さな伊川津”でも同じであった。
だが、この各地の「党の結成目的」はそれは全く千差万別であった。
この「伊川津」の「七党」の中でも、元々、「額田青木氏の南下国衆」には「伊勢の背景」や「秀郷流一門の背景」もあっが、「彼等の目的」に執ってはそれは完全なものでは無かったし、寧ろ、無かったと云える。
普通は「血縁性」などの「一族性の高い土豪等」が集まって「党」を結成する。
例えば「有名な出雲亀甲集団」の様な「党」を組んでいたが「伊川津」では違っていた。
故に「国衆」であっても、彼等には「国衆」から「家臣化する事」に「最終目的」があったのだ。
この「最終目的」の違う族が「七党」を組んだが、「額田青木氏の南下国衆」とはそもそも相当にこの「目的」が異なっていた。
然し、その途中でも彼等には未だ先の見えない「松平氏の国衆」と成っていたのだ。
その「弱い傘笠」の中に最終的に遺る「目的の道」があって、結局は、様子を見てそれを選んだ「彼等の本家筋・未だ国衆」は、未だ「旗本」では無いが「田原藩大久保氏の配下の准家臣扱い」と成っていた。
「土豪3氏」に執っては、その「東三河軍・吉田域」までの「酒井忠次/300の東三河の配下軍門」に入って先ずは「初期の目的」が達せられた。
ここで「目的の異なる七党」には「亀裂の発生」が此処から観られたのである。
ところが、この様な時に、「額田青木氏の南下国衆」にも同時に同じ「東三河の酒井氏の軍政下」の「吉田城詰め」を命じられて仕舞ったのだ。
当初は、「国衆と成る条件」としてより「伊勢」に近い「西三河の軍政下に入る予定の話」に成っていたらしい。
一方、そもそも、形上は少し後にはなるが「三河の東西」は別としても間接的ではあるが、「東三河の土豪3氏」に執っては、結局は「西三河を本貫とする松平氏」に、彼等は「松平氏の譜代と云う立場」を獲得して、先ずは「初期の目的」を獲得し生き延びられる事に成った。
然し、ところがここで彼等の中で「ある事変・本家分家の生き方」の「路線争い」が起こった。
当初から三河に「一族一門全員の参加」とは成らなかったのだ。
何時の世も牛家制度の中では「本家」が良い目をするし、「犠牲」は何時も「分家」と成る仕組みだ。
それが「三方ヶ原の戦い」後に一挙に噴き出した。
故に、この「乱世の三河」では「伊勢青木氏の抑止力」の「額田青木氏との連携の道・商い・陸運業」を選んで身を護った「分家筋も居たと云う事」に成ったのだ。
ここで「伊川津七党」の「目的の差」が吹き出し、「土豪3氏の分家筋」は、「伊勢や伊川津の青木氏・四家」に執っては「土豪3氏の生き方の違い」が、思い掛けない事にこの「額田青木氏の目的」に賛同したと云う事に成った。
「額田青木氏側と伊川津青木氏」に執っては、此処で「路線争いの事」が出て思い掛けない事に成って仕舞ったのであろう。
然し、この時、この「分家筋」に執っては「陸運業をすると云う事」は、当初、決して“「武士・国衆」を捨て「商人」に成る”と云う事だけでは無かったのだ。
資料から観て、この事で相当悩んだ様であり、当初からの「路線争いの事」がここで「分裂離脱の決断をさせた原因」では無いかと考えられる。
この時、簡単には「分家筋」は転身出来た訳では無かったのだ様だ
資料によると三方ヶ原で「彼等の戒め」か分家が前に出されたのだ。
それは更に「伊川津青木氏の四家」でも、兎も角も「伊勢青木氏」と「額田青木氏」が組入る事に付いて「反対の態度」を表明していたのだ。
要するに、今までに無かった掟でもある氏族以外の”「よそ者が青木氏に入る事」”への危惧であった。
「当初の目的」がここで完全に顕在化したのである。
この「分家筋」に執っては、この「三河国衆」の時の様に「商いの銃の護衛団」として生きる事を選択した事に成り、“より「身の安全を図る事」は出来る”と判断したとも「別の意味」としては考えられる
筆者は、「大犠牲を負っての決断」でこれは無視できない事であったと考えたと観ている。
そもそも、「彼等の分家筋」の「利害の計算」は否定はしないが、それが判り易く云えば当時としては「転身だけの意味」では無く、「国衆化」か”「青木氏化」”かであった筈である。
要するに、当初から「路線争いの元」には彼ら分家筋には「青木氏化の道」を選んでいたとも執れる。
即ち、恐らくはこの態度が「将来の陸運業の中での分裂の危機」を呑んでいて、この「態度・姿勢」が「伊勢・額田側の反対の態度」を和らげる事に成功したと云う事に成ったのであろう。
故に、その「態度」は現実に昭和期までこの「青木氏化の道の約束」を護り続けたものと成ったのだ。
つまり、其処に「本家―分家」のこの「利害の計算」が出て来ていたと考えられる。
長い間、「額田青木氏」に執っても「自由性のある青木シンジケート」として生きて来て、「土豪3氏」に執っても、その彼らがこれからの明日も知れない「自由性の無い国衆」として生きて行くかの選択であった。
取り分け、「氏家制度」の中では「分家筋」はその意向は通り難いし弱い。
もっと云えば「本家筋」は「国衆」に依って「当初の目的」の通りに「武士化」に、そして「分家筋」は元の「民・庶民の路」を拘りなく選んだ事に成る。
この点では、何時も最前戦に居て犠牲に成る「分家筋」としては「路線の考え方」として一致していた事に成る。
“本家筋に着いて行くと云う考え方”は、この時、最早、絶対に無かった事に成る。
それは、「三方ヶ原の戦い」の「惨めな様」にあったのであろう。
結局は、両者ともに今後も、「自由性のある青木連携族・陸運業」で行けば「糧と子孫繁栄」は未来に完全に保証されるのだ。
一方で「室町期末期の松平国衆」としてはどうなるかは保障は無かった。
そこで、彼らは薄々に「未来の姿」を感じ執っていたのだろう。
これも後勘から観れば、「本家の家臣化の発展」も「分家の糧と子孫の繁栄」の「両方の目的」は達成されている事に成ろう。
「信長の脅威の背景等」もあって激戦の続く「松平国衆」の中では、目的の違う「本家」と違ってこれ以上は生きられないと判断し、それに「渥美半島の糧の低さ」も働いて、寧ろ、“生き遺れない”と、「本家分家」であろうが、況してや「分家」では悲観的に感じ執っていたのである。
結局は「土豪3氏」の「本家と分家の目的の差異」が「伊川津の流れ」を造ったが、然し、「蒲郡青木氏の本家」と「伊川津青木氏四家の分家筋」の間では、この「目的差異」は頑固な程に生まれなかったのだ。
それは「伊勢からの支援」があったからであろうし、「伊川津」は「古跡神明社の定住地」でもあり、“南下国衆と云う感覚”は元々無かったと観られる。
寧ろ、「他の国衆」よりは”「原住民的感覚」”を持って観られていたと考えられる。
故に、其の後も矢張り、「伊勢の裔系青木氏」として頑なに「伊川津」から移動もせず、「豊橋、豊川、岡田、岡崎、豊田」と子孫を広げているのだ。
これが何と「昭和20年」まで結束し続けていたのだ。
そして「陸運業、開拓業、殖産業」として、“三河の各地に地名を遺す程に”根付いたのだ。)

(注釈 「南下国衆の戦歴」
念の為に「国衆戦歴」を記録から論じて置く。
これを論じれば、額田青木氏の目的が浮き上がる。
幸いにこの「時期の記録」が多く世間に遺っている。
この「多くの資料」から読み取れる事は次の通りである。
中には、この「五記録」を結構信用できるものとして基に文章が「半物語風」にして江戸期に記録したものがある。
又、これらを元に「三河の青木氏等に付いての事」も記して再現しているものもある。
それらによると、「国衆」として最初に「活躍の場」が現れたのが、「伊勢青木氏の資料」の「読み取り」からは、1545頃から「銃の訓練」を開始し準備段階に入っている。
「三河国衆」と成つたのが「南下国衆・1560年」と成っているが、この「記録」から観ると「最初の活躍」は、次の通りである。
「桶狭間の戦い・1560年・?」―「第一次吉田城の奪取・城主・1564年」―「姉川の戦い・1569年」―「第二次吉田城の戦い・1572年」―「一言坂の戦い・1573年・偵察」―「三方ヶ原の戦い・1573年」
以上の「6戦」であった。
但し、「桶狭間の戦い・1560年・?」は「南下国衆・1560年」とは“「同年のズレ」”がある。
この「物語風の記録」の中に“「銃」”と云う表現があるが、未だこの時期には、その「生産量」と「シンジケート販売」と「高価格」であった事から、“松平氏は銃を持っていない”と云う史実がある。
この検証から配慮したもので、この「銃の表現」は疑問である。
何故ならば、「桶狭間の戦い」には、そもそも広義では「1556年の説」もあり、その前の「桶狭間の戦い」に至るまでの「長い勢力争いの戦い・1542年へ1548年」があって、これには「南下国衆」は果たして正式に参戦していたかの疑問があるのだ。
「弱体化した松平氏」の「米生産の三河平野」を「織田と今川」の「争奪する戦い」では、大まかには「第一次と第二次の小豆坂の戦い」に成っている。
そもそも「桶狭間」は、この「今川氏勢力」の「三河」を超えて尾張国境が不明瞭に成っている時期があって、その「不明瞭な尾張東部」に侵攻して、「争奪戦の最終決着」を着けた戦いである。
その前には、「織田信定、織田信秀」と領土を広げて、「今川氏と三河・尾張両国の国境地帯の支配」を巡って争う小競り合いの状況に成っていたのだ。
これが要するに、「決着戦」と成った「1556年とする桶狭間」であって、「最終決着戦・1560年」に「額田青木氏の国衆」が即参戦していたかは「時間差の疑問」がある。
筆者は、要するに「南下国衆」は、そもそも「桶狭間・東尾張」は「今川と織田の戦い」であって弱体化していた「松平氏」は「今川氏側」に組み込まれて、ここには未だ関与して来ないのだ。
従って、未だ間違いなく“1560年最終決戦に参戦しなかった”と観ているが、然し、この「三河」を接収されていた為に「今川方」としての「1556年とする桶狭間」には「銃の傭兵」として「合力・傭兵」をした可能性があったと観ているのだ。
それは、「江戸期の資料」から直接は明記はしていないが、「第一次の小豆坂」で「銃使用の表現」がある。
然し、未だ「織田氏」も「今川氏」もこの時期に「銃の軍制」を敷いて居なく弱体化しているのに、「松平氏が持っている事」は100%あり得ない。
然し、戦記では「銃を使った事」が書かれている。
「南下国衆」は額田でそもそも「1540年」に編成しているが、これは編成して「2年後の事」である。
初期状態の「1556年とする桶狭間の時期・4年前」は、まだ三河は「今川方」であったと観ている。
「銃を使った事」があったとして、「訓練中の額田青木氏」の「実地訓練の形」で「傭兵的」に合力した事に成るだろう。
然し、「銃の訓練」は「青木氏の資料」では正式には「1545年」としているので、これには「3年の差」がある。
貿易で得た「銃の見本」を種子島銃より先に堺で「フリントロック式の改良銃」を密かに作り始めていた時期と成り得る。
「記録」から読み取る範囲では「種子島より10年程度前」の様にも読み取れる。
そもそも、「種子島の火縄銃」は西洋で新しく「軍用銃」が改良され古くなった「火縄銃」を売りつける為に1545年に持ち込んでいる事情である。
「伊勢青木氏の貿易」で「西洋の軍用銃」と成った「フリントロック式銃の見本」は種子島より前に入手出来ていた可能性は充分にある。
依って、「3年の差」は次のシナリオで解消できる。
「種子島・1545年」より前に既に改良作業に入り試作生産が行われ、「資料の行」から観て少なくとも「1542年頃」には、既に「額田青木氏の国衆用」に合う様にある程度の「改良銃の試作」が成され、秀郷一門などでも「試作撃ち」が成されながら進めていた事になり得る。
これを「伊勢秀郷流青木氏の指導」の下で「額田青木氏」とが「第一次小豆坂の戦い等」で数は少ないが「試し打ちの合力」をしたと考えられる。
さて、この説を「裏付ける出来事」が「伊勢と渥美」で起こっていたのだ。
それが、ところがこの時期に、「伊勢青木氏の死活問題と成る事」が「伊勢湾と渥美湾」で「非常事態」が起こっていたのだ。
つまり、それは「額田国衆の目的」も「達成不可能に成る非常事態」が起こっていた。
この「二つの湾の支配権」が「今川氏」に依って握られてしまっていたのだ。
これを至急、且つ緊急で対応しなくてはならない事に成っていたのだ。
そこで、「試作中の銃」を以て急ぐ事から「試し打ち」と「青木氏の誇示」を図ったと考えられる。
ところが、「改良」が進む中、「相当に威力」は「火縄銃以上」に増し、目的に適合したが、それに反して「訓練」を伴わなくてはならない程の「使いづらい銃」と成ったと考えられる。
これは資料の一部の行からも読み取れる。
故に、「1545年」から慌てて訓練に入ったとする経緯であったと観られる。
勿論に、「時の時代性」も然る事乍ら、「国衆としての訓練」もあって、「生産する銃の数・350〜400丁」が次第に整い次第に「秀郷流青木氏の指導・試し撃ち」の許で本格的訓練に入ったと考えられる。
その最後の仕上げが1560年と云う事に成ったのだ。
従って、「南下国衆の合力の傭兵」は「今川方の依頼」か、「松平方の依頼」かであるが、当然に、「松平方」と成ろう。
それが、「今川の圧力」かは判らない。
この時、「水軍力」の弱かった「織田方」に対して「今川方」は「海からの包囲網」として「伊勢湾海域から知多・渥美湾の制海権」を握って仕舞っていたのだ。
この為に「織田方」も懸命に「水軍力・史実記録」を着けようとした。
そこで「織田方」は「伊勢衆」に「調略」を掛けていた事が資料からも史実として判っている。
丁度、この時期には「三者三様の形」でこの“「水軍力」”を握ろうとしていた時系列と成っていたのだ。
仮に「傭兵」として活躍していたとすると、これからそもそも、「伊勢湾」と「渥美湾」の「制海権獲得」で南下して抑えようと訓練していた最中でもあり、このままでは全てを失うと考えた可能性が充分にあり、対応次第では「南下国衆の意味」も無くなる事に成っていた。
従って、そこで「伊勢側」は、先ずは「伊勢湾の制海権の保全・7割株保有の伊勢水軍の強化」を試みていたのだ。
同時期に「源平戦で敗戦し衰退していた駿河水軍」に、「伊勢」は船を一艘与えて「伊勢水軍」で実地訓練させ急いでいた事が記録からも判る。
「尾張の調略」と「今川の制海権」に対して必死であったのだ。
そこで、「弱体の松平方」からも何らかの「南下国衆を目的としている事」を聞きつけて、これに対する「伊勢側や額田側の目的」もあり、「裏の特別な依頼や配慮」があって要求に応じたとも考えられる。
「松平氏」に執っては、“三河に「銃で武装する国衆」が南下してもらえれば「弱体化の歯止め」どころか「20倍の勢力増強」に繋がり、独立性は高まると観た事もあり得る。
その「条件」として「表向き」は、「渥美湾の商用利用権」を認めるとすれば、「今川氏」も簡単には手は出せなくなる利点もあった。
「抑止力」として「裏」は銃で武装していたが「青木氏の行為」である以上は商用である。
現実に後に「渥美湾の制海権とその利用」は認められているのだ。
何にせよ無償ではあり得ないだろう。
その為には「銃の威力・示威行為」を周囲に大いに見せつけて置く必要が両者にあったと観ている。
とすれば全ての記録と一致する。
これが南下しようとしていて訓練をしている「額田青木氏の国衆の情報」を“国境の三河が掴んでの依頼”があったと観る事が出来る。
それは「1540〜1560年」までの「伊勢側・額田側の利益・目的」と「松平氏の将来の利益」が一致していたと観ているのだ。
故に、「今川氏」が「桶狭間」で幸いに負けてからの「敗戦衰退」が始まつた「1560年」を契機にして、”「南下の絶好の期日」”とする「一つの大きな要素」とした考えられるのだ。
無暗に、「南下1560年」とはしないであろう。
「人時場所と理由目的手段」を整えるのが「基本軍略」である。
つまり、「美濃・1540年」で訓練をしていた「額田国衆の銃の情報」を国境の隣の松平氏は既に掴んでいて、“「松平氏」から「傭兵的な依頼」があった”とする可能性もあり、「物語風の戦記の銃の行」以外に何処にも「銃に関する記録」はないが、この事は完全否定はできない。
そもそも、「銃の訓練」をしていれば秘匿はなかなか出来ないであろうし、隠しても漏れるは必定である。
唯、この「物語風の銃の行」は、単に“「桶狭間”の表現」であって、必ずしも「桶狭間の戦い」そのものを言っているのでは無く、広く「三河域」で起こった「織田方と今川方の決戦・争い」である事も考えられる。
「当時の慣習」としては、常時戦いの中にあって、今の様に”桶狭間”と云えば、歴史的な”桶狭間の戦い”と連想するが、当時は単なる場所に過ぎない事であった。

歴史を研究していると、どうしても今から昔を観る陥り易い癖があって間違える欠点でもある。
「江戸期の資料」の発見と研究が進んでいない時代には、これは起こり得る事も考えられ「第一次の吉田城の戦い」の「籠城戦」から根拠なく想像して、その前の「桶狭間」にも“「松平氏は銃を持っていた」”と考えた事もあろう。
とは言え、その前に起こった「美濃長良川の戦い」で「同盟国の信長・雑賀根来の傭兵」が初めて使った事も「史実」として江戸期でも知られていた事である。
だとすると、「籠城戦から想像する」と云う「筋書き・想像」は無いであろう。
「裕福な織田方」が「傭兵」でやっと持てているのに、「衰退極まりない松平氏」に持てる事等100%無い事は判るし、銃を持てば疑われるは必定で危険極まりない事なのである。
「銃の生産地」が「雑賀・根来」と限定され、そもそも「銃販売」は「シンジケート」で縛られ「市販」は全く生産量も無かったのだ。
「高額な火縄銃を買える事」もあり得ない事も「当の作者」は想像できていた筈である。
そんな事を書けば記録としての価値は否定される。
そもそも「織田方」には、歴史上では、「火縄銃の生産地」で結成された「雑賀根来の火縄銃の傭兵軍団」を大金を叩いて初めて雇い込んだ事は「史実」として知られているのだ。
従って、「織田方や今川方」には「額田青木氏の300の改良銃」が幾ら何でも合力して味方する事は無かったし、「二つの湾の事」は「青木氏の存続」の意味でも絶対に放置できなかったであろう。
従って、「銃の行」は、「三河」で全体的に起こっていた「小豆城の事等」の「小競り合い」を指していたと考えられる。
だとすると、上記した切羽詰まった「伊勢の状況」と史実が一致して来るのだ。
この時は、「三河の松平氏」は弱小で「今川方」であるが、だからと云って「松平氏」に「傭兵」で「今川方に付く事」も記録もないし無いだろう。
「今川方の戦記」の中に、「戦い」で盛んに「火縄銃」を使ったとした記録も見つからない。
あったのは「京」に出向いて、「銃の興味の調査」で鍛冶師に働きかけていた事は記録にあるが、「大量の銃が調達できた事」とそれを使う「銃の軍制」の記録はない。
そもそも、前段の検証でも論じた様に、「同盟中の武田氏」にも「戦力と成る銃数・三方ヶ原」は持っていなかったのだ。
従って、どんな大名でも、当時、未だ持ち得られていない効果で「貴重な火縄銃」、況してや「300丁の超近代銃」で構築された「国衆」であった事から、「三河」は「傭兵」として「三河国衆の額田青木氏」に、“銃を獲得する”と云うよりは「変な傭兵の国衆軍団」に興味を示していた事は確かであろう。
ある資料に「火縄銃の事」に就いての「行」があり、「強力な弓矢の感覚」程のものであって懐疑的であったらしい。
それは主に、そもそも「入手」が難しく、「価格」が高く、「天候」に大きく左右され、「移動」は出来ず、「発射」の準備時間が長くかかり、「威力」を出すには「大量の銃」が必要で、「馬防策」が必要でいざ戦いには障害と成り、「軍制下」で無くては使えないと云う否定的に認識されていた事が書かれていて、実は「銃の理解度」は極めて低かったのだ。
「弱小の松平氏」がどんなに金を積んでも到底買えないから、故に傭兵の様なつさもりで「国衆と成る条件」として「渥美湾の制海権・使用権」を認めた事に成ったのであろうし、これで「伊勢の資料・伊勢湾の侵略の件」との「間尺」はこれで合う。
この「変な傭兵の国衆軍団」とは、彼等が持っていた「火縄銃の感覚」とは違い、この「近代銃」は「フリントロック式改良銃」であり、「戦い」は「移動式銃」で、「荷駄」を引き連れて「移動を伴う方式」であり、上記の欠点を大きく替える「変な銃の国衆」と観ていたと考えられる。
要するに、寧ろ、「殺傷力」のある「強力な弓矢の感覚」にあったと観ている。
その彼等土豪3氏が、「弱小の三河の国衆」を目指しているとも成れば、不思議に成り興味を持つ事は間違いはない。
「渥美湾の制海権を狙っている事」も含めて少なくとも「家康・松平氏」は興味を持っていただろう。
寧ろ、「三河」に執っては好都合であり、織田方や今川方に抑えられるよりは歓迎する事に成ろう。
そして、彼等が奈良期からの「伊川津の神明社族・律宗族」であると云う事にも「親近感」を抱いていただろう。
仮に、「南下国衆」を「伊川津」に配置したとしても言い訳が着く。
筆者の説では、「変な銃の国衆」は、当初は都合よく「今川氏」に利用される可能性があり、隠しても隠し切れないが余り強くは出していなかったと観ている。
然し、この「変な銃の国衆」の銃は、「移動」は肩に担いでのもので、「戦い」では「防護柵越しの固定銃の火縄銃」では無いのだ。
移動で銃撃する時は、荷駄を前にして「膝座式の三段構え」で連射するのだ。
再び移動前進するし、移動しながら連射もするのだ。
現物は遺されていないが資料から読み取れる範囲では、「ショットガンの一発連射式」か軍用で使われる「ボルトライフルの類似式」の「中筒銃」であった様と観られる。
「火縄銃の様な長筒」では無く「ピストルの中筒銃」と考えれば判り易い。
特徴として「銃全体」として「少し丸み」を帯びていたらしく、何せ「射撃の反動」はすごかった様だ。
そのために、この「反動」を真上に逃がし、静かに肩口まで下ろして連射し、命中率を上げるには「練習・訓練」が相当に必要であったらしい。
表現からすると、「射撃の反動」が強すぎる為に「熟練度」に依っては「腰横に据えて構えるスタイル」もあったらしい。
この場合の構えでは「三段撃ちの場合」は「前後入れ替え」であったらしい。
当にこれは「弓矢の構え」であり、「矢」の代わりに「強力な弾」が遠くに飛ぶのであった。
そして、そもそも「撃手」は、「農民」では無く「郷士国衆」で、且つ、移動式であるので同時に「刀と銃」とかで「戦い」もするとしているのだ。
従って、「火縄銃以上」に戦術的には、移動すると云う事が枷にもなって“誰もすぐ使える銃”と云う事では無かった様だ。
恐らくは、当時は、周囲は、”あんなもの使えるか”であって、未だ“変な国衆”と観ていたのではないだろうか。
筆者は、従って、この「銃を含む国衆の威力・試射」を示す為にも「桶狭間の戦前」の「織田氏」との「8年間の小競り合い」のどれかに其れなりに「傭兵・示威行為」として参戦していたと観ているのだ。
それが「第一次小豆坂の戦い・1542年」と「第二次小豆坂の戦い・1548年」では無いかと観ているのだ。
これを表現として判り易く「地名の桶狭間」で表現したのでは無いか。
何故ならば、此処は、そもそも「岡崎古跡神明社の青木村」より「真南8kの位置・2里」にあり、そもそも「岡崎城」に近く、昔は「三河国額田郡小豆坂」で行われた合戦でもあるのだ。
先ずは「伊勢の神職族」が住んでいた地域であり、危険に晒される事を放置出来なかったのでは無いか。
又、今川氏に依り「伊勢湾の制海権と渥美湾の制海権」の二つを奪われている事への何れも「示威行為」で無かったかと推論できるのだ。
そうでなければ「今後の南下国衆」としての「本来の目的」は達成され得ないだろう。
その為にも「変な国衆としての示威行為」を「松平氏合力」で見せつけたと考えられる。
「火縄銃の知識」が有っても、「近代銃の知識」は無かったであろう。
それも当に「弓矢の様に使う短い銃」であり、その「便利さ」に驚いたであろう。
さて、然し、「第一次」は勝利し、「第二次」は松平氏側は敗退しているし、幾つかの資料の記録に依れば「銃に依る威力の表現」、又は、「銃を使ったとする表現」は何処にもない。
では、一体これはどういう事であろうか。
筆者は「二つの目的に依る事前の示威行為」と書いた。
「改良銃の試射」を請け負い、「北陸の戦い」にも使用した経験もある「伊勢秀郷流青木氏の指導」の下に「国衆」として「上記の訓練」を開始して未だ「2年目の事」である。
「実戦をする程の銃と撃手を出す事」は「示威行為の範囲」としてそれ以上の事はしなかった筈である。
“この様な物を持っているよ。!だから「二つの青木村」には手を出すなよ。!「伊勢の制海権」を犯すなよ。!と示威をしたと観る。
それは「織田氏」と「今川氏」に対しての「示威行為」であった。
だから、「織田氏」も「今川氏」も驚いた。
「織田氏も今川氏」も、「武田氏」と違って「火縄銃の威力」には興味を強く持つていた事は記録からも判っている。
「織田氏」は、「今川氏の勢力圏」に入っていた「伊勢湾の制海権」に、これを壊し「制海権」を自分の手中に納める為に、この時期に「伊勢水軍・商業水軍」に「調略」を掛けたが、「伊勢側の引き締め・伊勢衆持株増」で失敗し、必要以上に手を出すのを止めた。
史実、この「伊勢衆」から離脱し、この「織田氏」に味方して裏切った「一衆」も居たし、遠く離れた武田氏に味方した者まで現実に記録として出ていたのだ。
念の為に注釈として、因みに信長に味方した「九鬼水軍」は、「熊野水軍の裔」で「海賊軍」であって、この「海賊軍」とは一線を画していたし、「伊勢青木氏の伊勢水軍・伊勢氏」は「堺組合」に所属していた「商業水軍」でもあった。
「水軍の衆」を分けるとすると、そもそも古来より「海賊衆」、「警固衆」、「船手組」、「船党」などの「四衆」があった。
「水軍」と称するものは、「船手組」、「船党」の「二つの衆」を意味する。
「伊勢衆・伊勢氏の伊勢水軍」は、奈良期より存在し、「船手組」と「船党」の二つの役割を合わせ持つ「本来の水軍」を意味する。
「海賊衆」と「警固衆」は、平安末期から鎌倉期に発生した要するに当に「海賊」である。
その一部の「警固衆」が「海賊も傭船」の「二役」を演じたのである。
「海賊」そのものの「紀伊水軍」もあったが、然し、この「紀伊水軍」は不思議に「伊勢との繋がり」を「平安期・奈良期末」の古くから持っていた。
結局は「調略」に乗ったのは「九鬼水軍」とそれに関わった「一部・一氏・匿名現存」だけであった。
上記した「伊勢」に大きく関わった「九鬼水軍」は、元来は、づばリ「熊野海賊」そのものであり、「室町期末期」には記録にもある様に「信長」に味方して「傭兵」もしたのだ。
然し、「伊勢地域」は古来より温暖であり「気候や風土や物産」にその豊かさがあり、「伊勢衆」を「温厚な性格」にした。
従って、「伊勢氏等の伊勢衆」はこの「環境の恩恵」を壊す事無く護って来たのだ。
「伊勢屋の青木氏」が「織田氏や武田氏や今川氏」の「外からの調略の手」が伸びた時、真っ先に「伊勢水軍の内部の結束」を固めたが、この効果は高く乱れる事は無かったのだ。
結果として、動いたのは「海賊衆」だけで、その「九鬼水軍」はこの環境に馴染まず結果として“「伊勢衆」”から強く排斥されたのだ。
「伊勢湾の北勢」に近づけなかった事が記録されている。
従って、「尾張」などに入る際は、一度、太平洋に出て、再び尾張の知多湾に入る必要があった事に成る。
この“「海賊衆」”と「警固衆」に属する「二衆」は、その後も「尾張国」と「甲斐国」との関係を持ったのだ。
後に「織田軍」に入った衆は、その後も昭和期まで「水運業」を営んでいるし、現在も「水運業」と「陸運業」として遺っていて有名である事を追記する。)

(注釈 「「銃の威力を誇示する狙いの目的」
独自に入手した「西洋の新式銃のフリントロック式」に「日本人体格・青木氏族」に合う様に改良を加えた事に依って、「相当な訓練」を施さなくては使えない様な「独特な個性」の持った「改良銃」が出来た。
然し、その為に逆に「弓矢の様に使える移動式」のものとし「銃の威力」も増したのだ。
そして、試作の生産量を次第に増やし、これを事情の持った「額田青木氏用・南下国衆」にして引き渡したのだ。
結果として「威力誇示」の為に「第一次の小豆坂の戦い」で合力して「多少の銃の威力」でも「非弱な松平氏」は「銃の威力」と云うよりは「恐怖」にあって勝利したのだと考えられる。
この時は未だ初期の「訓練中」であった事から、全面的に「300の銃」を持った使ったとは考え難い。
仮に「脅かしの範囲」であるとするならば、「数丁」で良い筈であるし、又、訓練中とするならば「犠牲」を負わない範囲としてそうしなければならないであろう。
「伊勢」や「額田青木氏」に執っても「威力誇示の目的」は過剰で在っては成らず「適度に知られる範囲」で良かった筈である。
この時期には、「額田の北の背後」の“「縁戚の信濃」でも「5度の戦い・武田氏・1555年まで」”が起こっていて、又、“「尾張では1558年までは5度の戦い」”が起こり、「第二次」までには合わせてこの周辺で“「10度の戦い」”が起こっていたのだ。
依って、暫くは「国衆」として訓練している「額田青木氏」は合力しなかったし、出来なかったのだ。
「縁戚の信濃での5度の戦い」に「威力誇示」として使用していたかは判らないが、「第一次の小豆坂の戦い程度」には加勢していたと筆者は経緯から考えたい。
「考え方」に依っては「信濃青木氏」にも「試作銃」として渡していた筈であろうし、充分に有り得ることである。
「伊勢秀郷流青木氏」と「伊勢藤氏一門」には「試作撃ち」を頼んでいた事は判るが、其処までの詳細は記されていないが「行」から何となく読み取れる。
だとすると、僅かながらも「武田氏の一部」ではこの時に「実戦的な感覚」ではないが、初めてその存在を知っていた事も考えられる。
「5年から10年前の事」として「小豆坂と信濃の戦い」で、まだ出始めた「火縄銃の存在意識」の方が強く、「額田青木氏の改良銃」は、”忍者が使う「単なる火薬弾」”の様に観られていたかも知れない。
因みに、「火薬」は「黒色火薬」で古来では「焔硝」と呼ばれていて、歴史は古く618年〜907年に観られ、日本人はその存在を実際に経験して知ったのは「元寇の役・1281年」の時とされている。
参考として、筆者の子供の頃に、「木の又の形状」に成った物にゴムパチンコを張り、これにこの「5ミリ程度の市販の焔硝玉」を挟んで飛ばして、物に打ち付け爆発音で鳥など脅かして落下させ、網で捕らえると云う楽しむ悪戯をした事がある。
この様に弾力性のある物で跳飛ばす「単なる火薬弾」の「知識と道具」は鎌倉期後半には実際に「戦い」に使われた記録が遺す様に既にあったのだ。
要するに、敵を「火傷」させるか「脅かし」としての道具が使われていた。
ところが、”丸い堅い「弾」が飛んで来て死なせる”と云う「弓矢」に勝る「殺傷力の道具」が「火縄銃」であったが、「火縄では無い道具」で何処からともハッキリと観えない遠くから「弾の様なもの」が飛んで来て、不思議に突然に死ぬと云うものとして受け取っていたのだ。
資料に依れば、「火縄銃」は飛距離は500m程度で命中率は50mとされ、「改良銃」は1500mで命中率は500mであったとされる。
だから観えない処からの「流れ弾の被弾」とすれば“判らない”と記される事と成ったのであろう。
そもそも「人の感覚」とは、「焔硝→火薬弾道具→改良銃→火縄銃の過程」で先ず直ぐに「過去の感覚」に捉われ、この時は「火縄銃」までには至っていなかったと観られる。
要は、「焔硝」から「弾」に、「脅し火傷」から「死」に替わった事にあって、「第一次小豆坂」から“何か変だな”と成って行ったのである。
だから、「青木氏族」に執っては「威力誇示、示威行為」の目的は達していたのであった。
ところが、その「地元の美濃」では、「1556年」で「長良川の戦い」で歴史的に「実際の火・火縄銃」が用いて河中で使用されたのだ。
従って、「南下国衆」が合力していないこの「第一次の小豆坂」より「6年後の第二次の小豆坂・1448年」では「松平氏」は敗戦して極度に衰退している。
そして、この「第一次小豆坂の戦い・額田青木氏の国衆の銃の実地訓練」で、それを観て「織田氏の経験」が学んだ事は、「銃を使う戦闘に発想」は切り替わったのだ。
そして、「織田氏の経験」が行動に移したのだ。
これを証明するのは、その事が起こった戦いがあった。
その記録では、「長良川の戦い・1556年・斎藤家の内紛」に「援軍」として合力し対戦したが、この時,「道三側・父」が「敗戦」と決まった時、最早、これまでとして「信長」は対岸で特異な行動を採ったと記されている。
それは「信長自身」が「最後の切り札」として、「雑賀根来の火縄銃傭兵軍団」を破格な金銭で雇っていた。
この「切り札の火縄銃」の一部を川の真ん中に「数隻の船」を繋いで浮かべて「川岸に迫る敵」に向かって「数丁で射撃」を繰り返したとある。
「敵」は矢張りこの「行動」に驚き、「向川岸の背後」にこの「雑賀根来の火縄銃の軍団」が構えている事を想定し、恐れてこの侭に進軍すれば全滅すると考え対岸の川岸で進まなかったとされる。
結果として「信長」は、無事に対岸から「殿軍」を逃がす事に成功し、又、自らも引き上げる事に成功したとする史実がある。
この時の「火縄銃」が、「雑賀根来の火縄銃の傭兵」で事前に雇っていた事は「道三家・1553年・正徳寺の面接」には既に知られていたとされる。
故に、この「火縄銃での威力の知識」が既に「美濃」でも何とか感覚的に持ち始めていたからこそであって「川岸」で留まったのだ。
これを暗に「甲斐や信濃や三河や美濃や尾張や駿河」の周辺国に知らしめる必要があっての行為であって、「額田青木氏側」には其の後にも世間に「青木氏の存在」の為に「銃の威力を誇示する狙い・抑止力」があったと観られる。
“こちらからは決して手は出さないが出すと怖いよ”とする「威力行為・メッセージ」を発していたのだ。
この事を事前に合理的思考で感じ執っていた「信長」は、これを利用してこの「網」にかけて「最後の仕掛け」の「全滅誘い込み戦略」を採用したのだ。
そうでなければ、「額田青木氏の実戦的史実」を世間に知らしめていなければ、この「信長」も然る事乍ら、“「斎藤義龍側」も引き上げる事”は無かっただろう。
故に、この様な経緯に成るのには、「江戸期の三河の事」を書いた「戦記の火縄銃の表現の行」から検証した事として、“「銃の実戦的威力」”を最初は「第一次小豆坂の戦い」で誇示していたと考えられるのだ。
他にこれ以前に「銃の実戦」は歴史上では無かったのだ。
その「長良川の戦い」で“デモンストレーション”として見せた時期は、「第一次小豆坂の戦い」から「11年後の事」であったのだ。
つまり、「額田青木氏側」に執っては世間に「銃の威力を誇示する狙い」は成功していたのだ。
当然に、この事に依って「伊勢湾の制海権」と「渥美湾の制海権」に「微妙な影響」を与えていた事に成るのだ。
さて、この“疑問”に付いては、ところが“風吹く川の中”で果たして「火縄銃の欠点」として“火縄銃が使えたか”であり、「無条件に使える」のは「青木氏が持つフリントロック式改良型」だけであって、然し、「第一次の敗退時・対岸に撤退時」に「使われた可能性」もあるが、少なくとも「火縄」に限らず「銃の威力」として「感覚的」に感じ執っていた事は充分に考えられる。
筆者は、この「長良川の信長の銃」の使用は、概ね史実として受け取っているのだ。
又、故に、「威力の印象」を目的とすれば「川の中」で、「信長一人と家来複数」で夕刻の凪時に何とか「火種」を保護して撃った可能性も充分に考えられると観ているのだ。
そもそも「信長」が「長良川」で最初に「威力行為」として使った理由にはもう一つある。
それは「銃」でも同じ「堺・伊勢青木氏の銃製作」との「付き合い」のあった「銃の傭兵軍団の雑賀根来族」にある。
この「雑賀根来族」は摂津堺の組合員であり、地元に店を構える事や銃を試作している事や資金先として堺から拠出している事や傭兵軍団を編成しているやシンジケートを組んでいる事等から「伊勢青木氏の行為」を充分に知っていた筈である。
それは何よりもそもそもこの「雑賀地域」に「伊勢屋の店」を構えていた事が判っているのだ。
恐らくは、「鉄製鉄の取引の為の店」であったと考えられ、明治初期まで続いていた。
この時期に「銃の生産」のみならず「傭兵軍団」でもあったとすると、“「金のある雇先」を探していた”と云う事に成る。
「重要な事」は他に「雑賀根来を使った雇先」は資料から無い処を観ると、それが最初に「雇先」と成ったのは先ず「信長」であったと云う事だ。
つまり、未だ「傭兵の金額」が手の届くところには無かったと云う事だ。
「市販の銃の生産」をしない「雑賀根来衆」に執っては「雇先」が無ければ其れで無くては「雑賀根来」は成り立たない。
「伊勢屋」は「雑賀」に「小店」を出していた事は記録としてあり判っているし、江戸期には「鉄の販売」に関わっていた巨額の儲けを得ていた事も判っている。
つまり、この時、「雑賀根来衆」は「信長」に「伊勢と額田の情報」を流していた可能性は高い。
だから、未だ「南下国衆」と成っていない時期には、「伊勢や三河や額田」には「銃の存在」を警戒して「信長」は「長良川の後」までは「斎藤家」が潰れるのを待って手を出さなかったのだ。
兎も角も、決定的なのは「歴史的な本格的実戦」として「第一次吉田城」と「三方ヶ原の戦い」と「第一次小豆坂から其の後22年後」の「雑賀根来の傭兵軍団」に依る「長篠の戦い・1575年」であった。
「三河側」の「今川氏・松平氏連合」と、「尾張」から侵攻してきた「織田氏との間」で、「第一次と第二次」の「2度」に繰り広げられた小競り合いを除く「戦い」では、要するに「三河の弱体化」に両氏に組み込まれた「三河平野」を獲得しようとする「典型的な争奪戦」であった。
未だ、「額田での銃兵の国衆」として編成されて訓練に入って間の無い頃であった。
要するに、この様な「周囲の環境」の中で、改良に依って相当に訓練を要する銃であっただけに、“訓練だけの何にも無し”では現実に戦乱下では済まないであろう。
仮に、「物語風の記録史」の「この実戦説」は、「銃を使った行」が「史実」として確定されれば、「訓練中の実戦・示威行為・伊勢湾と渥美湾制海権脅威」とも考えられる。
同時に、前段でも論じた様に、この事から「額田の家族の3度移動」は、「資料の状況判断の行」から観て、「第一次と第二次の期間・1442〜1448年」の後に「美濃と三河の空白期間」が起こったが、これが「額田の伊勢の裔系の青木氏」に執っては「移動に伴う絶好の時期」と成っていたと考えられる。
この為にも「威力行為の示威行為」を強く示す必要もあったのだ。
これらに付いて、「幾つかの郷土史」も含めて総合すると、「松平氏の火縄銃保持」と書かれている「行」には、この「第一次の合力」を捉えて「後勘・江戸期」で「印象付けられた事」である事が判る。
「銃の経緯」は上記の通りであって、後勘から観て「矛盾」だらけの「江戸期の脚色の歴史書」がそれが引き継がれ「長篠の戦いまでの行」と成って仕舞ったのであろう。
「正しい歴史書」と云うよりは、“興味を引き付ける物”でなくては江戸期では売れない。
従って、江戸期では現在と違い「適度の脚色も妥当な範囲」として常識としていたと考えられる。
「酒井氏の東三河の兵力・二連木城・吉田城の戦い」からは、現実に「国衆としての合力」ではあるが「松平の銃隊」と成っているのは現実である。
要は、「持ち主の問題」であろう。
当初は、「南下国衆の銃隊300と荷駄50人・伊川津土豪衆」と「牧野氏等の国衆の兵300」と「酒井氏の手勢200」であった事が解る。
形勢不利で援護に駆け付けた「家康の三河本隊」と共に、「支城・二連木城の全兵力」は「吉田城」に敗走し逃げ込んだが、現実にはここで「実戦」として「吉田城」で「銃」で押し返したのが最初であった。
其の後は、「350人の300銃隊と荷駄隊」は、合力ながらも「一言坂の戦い・偵察隊」と「三方ヶ原の戦い」では、「銃隊としての単独行動」ではあったのだから、そもそも「江戸期の記録通り」の「松平軍の銃隊」そのものとは言い難い。
ところが「江戸期」では、其処まで「検証能力」があったかは甚だ疑問で、この事がこの「物語風記録」を元にこれまでを「松平氏の銃隊」と都合よく脚色されて仕舞ったのだ。
本当に江戸期では、“其の後も三河の伊川津に定住し続けたのである”からその様に解釈していた可能性も充分にあり、仕方のない事かも知れないのだ。
これが「一般の歴史観」と成ろうが、関わった「青木氏の歴史観」からするとこの様に違うのだ。)

(注釈 「南下国衆の立場」と「牧野氏等の国衆の兵300」
この戦記の記載には、疑問があり、検証を要する。
当時の標準は、「1年=1反=1石=1両=1人」とし、それに基づいて「子孫拡大式の4nの2乗」が働いたとしていた。
更に「1騎=50人」と「1頭=1200」等の「当時の軍規基準」とその他全ゆる「社会の一般原則」から照らしても、「渥美・伊川津・田原・吉田」の前期した様に「石高5000石」は妥当と見做される。
ところが、記録に遺る戦国中の「松平氏の標準軍規」から考察すると、「土豪3氏で300兵」と云う事は、この原理からすると「土豪3氏の手勢」には、少なくとも「6人の騎馬」が居た事に成り、且つ、「夫々の土豪3氏」から「各2人の准指揮官・差配頭」が居て、合わせて「6人の戦場准指揮官・現場」の「軍編成」と成っていた事を示すのだ。
其の上に「1人の戦場指揮官・現場」で構成されて動いていた事に成る。
同然に前段でも論じた様に、「額田青木氏と伊川津四家の銃隊」は「350の銃隊・荷駄含み」で「300丁の射撃兵」と「50人の補足兵・射撃の補足」が着いていた事に成る。
当然に、この「6人の戦場准指揮官」で「敵の動向」に依って「6つの配置編成」で動いていて、「1人の全体指揮官」で指揮統制されていた事に成る。
それに対して「吉田城の酒井氏の作戦本部」からの「情報や命令の伝達伝令係」が置かれて動いていた事に成る。
この「額田青木氏の射撃銃隊」の戦闘方式は、資料に依れば「隊の前面」に出て「城壁・廓櫓」から「武田軍の動向」を観て射撃した事に成っている。
この「吉田城」で観れば後ろは直ぐの川である。
「三つの郷土史や絵図」から総合すると、「城」は後ろに川をして、そこに「本丸」を中心に「二の丸、三の丸」の二つを配置していたとある。
それを「堀」が「城」を囲む様に不思議な”「円形」”に取り囲様な”「円城構え」”であったとされる。
ところが「平城の館城」の様に「吉田城」には珍しく「天守閣」はなかったとされ、「櫓」は後ろが川であった為に、前面に「当初は2基」であったとされる。
ところが「酒井忠次」が「城主・1564年」と成ってからは、「三層櫓の5基」に改造されて護られていた事に成っている。
そして、この「三層櫓の5基」は、当時の「城構え」としては珍しく「弱さ・武田軍を予想」を必要以上に補強していたのだ。
実は、この「特別な改造」が、当時としては「兵と2基の櫓の弓矢で護る構え」で充分であって、“いざ”と云う時には寧ろこの「櫓廓の存在」が邪魔をする。
然し、この事から敢えて「弱点」とも成り得る「特別の改造」をした事を考えると、最後まで“「籠城スタイル」の「弓矢で護る城に替えた事」”に成るのだ。
つまり、それを「額田の南下国衆」の「弓矢に替わる銃隊」を配置したと云う意味合いに成る。
「松平氏」に執っては「南下国衆」が「ある条件下」で「合力した事」で、この時は未だ「強力な弓矢に替わる銃」と感覚的には捉えられていた事に成る。
「額田青木氏の銃隊」は「移動式銃隊」として「最大の効果」を発揮するが「強力な弓矢程度」と捉えていた事が判る。
そこで、仮に「前面6カ所」で応戦すると成れば、その「構え」はこの「櫓5基」に夫々上記の通りに「銃隊」が配置され、後ろの川側に予備として「1騎の銃隊」が配備されていた事に成る。
普通は、「城櫓」は、その目的から「2〜3基」で普通で「5基」と云うのは大変に珍しく先ず無い。
つまり、殺傷力の小さい「弓矢の意味」はここにあるのでだあって、「弓矢」で敵を死滅させるものでは無く、城に寄せ付けない様にする「牽制策」にあったのだ。
「平城」で「弱い勢力」のこの城を護ろうとしてこの力をより強めようとして「5櫓」としたのだ。
要するに、この「城白構え」は”時間稼ぎ策”に過ぎないのだ。
其処に「忠次」は「弓矢」の代わりに「南下国衆の銃隊」を偶然に置いたと云う事で、結果として遂には「時間稼ぎ策」から「死滅力があり撃退策」に替わり得たのだ。
当初の国衆条件は「東の軍政下」では無く西軍制下であった。
この約束を破って、吉田城に詰める事を命じたのは、時間的に観て呼んでから「城改造」をしたのではない事は判っているので、この「酒井氏の作戦」であった事に成る。
恐らく、この時に初めて「彼等の感覚」は、「弓矢の代替」から「死滅力があり撃退策」の感覚へと大きく変わった事を物語っている。
この作戦で、一番小さい城が何と”「武田軍」を何と追い返した”と云う大事件を起こしたのだ。
唯、ところがこの事が「額田青木氏の南下国衆」に「ある被害」をもたらしたのだ。
それは、この勲功は「旗本の立場」を脅かす程の事であって、「彼等の大嫉妬」を招いてしまったのだ。
その「旗本の嫉妬」は「西三河軍」では無く、案定の「東三河軍の中」にあって「酒井氏と大久保氏の中」に起こったのだ。
この「二つの旗本」は何と定住地の「伊川津の田原城」の者等であった。
中には、当然に「旗本」では無い「国衆の土豪3氏・譜代」も含んでいただろう事は判る。
恐らくは、そもそも「吉田城」は、「二連木城の土豪」と対抗する為に建てられた普通の「土豪同士の対抗城」であった事から、「2基」であった事に成り元来「特別な城」ではなかった。
とすると、これを「忠次」が「東三河の土豪等」を「1564年」に攻め落として、その功績から「家康」からこの「東三河軍の防御城」としてを与えられたものである。
この為に、恐らくは、この事を筆者は次の様に考えている。
この時の「1560年頃」に「額田青木氏の銃隊」が「国衆」と成って、「伊川津」で約束違反で「東三河軍」に組み込まれていた。
「青木氏の資料」には「西三河軍編成」に入ると考えていた「行」が記されている。
これは「伊勢との繋がり」からより近い「西三河軍制」に入る方が得策だと観ていたのである。
恐らくは、これは「当初の国衆条件」では無かったかと判断され、だから青木氏に遺されている資料には「不満」を抱いた手紙の「行」が記されているのだ。
これを無視され「松平側の理由・状況」を前面に押し出された。
この事から、「額田青木氏の銃隊」の様に「櫓廓」を上記の検証より弓矢より強力な感覚を持たれた事で「5基」に変更したとも考えられるのだ。
「青木氏の歴史観」からすると、これが“改造の根拠であった”と考えているのだ。
その「証拠」は、当初は「戦記」に依れば「家康と忠次」が、“城から出ての「戦い」”と成っていた事が記されているが、現実に隣の「二連木城」で本隊が救援に駆け付けて「野戦」をして敗退した。
結局は敗退して、この「吉田城」に「二連木城兵」と共に「籠城の戦い」と成ったとある。
これには「誘い込みの戦略」と記したものもあるし、筆者も伊川津から移動した銃隊が既に入場している処からそう見ている。
これが「額田青木氏の銃隊」の「国衆」が、「東三河の軍制」に約束を違えて組み込まれた理由であろう。
始めから、武田軍の攻め込みを考えて「約定を護る心算」は三河軍に無かったと観ている。
恐らくは、ところがこの時に「土豪3氏の手勢・300」と「忠次の手勢の200」と「家康の本隊3000」で、実際に史実ではその「前の戦い」と成った「野戦・二連木城等」に出て配置され応戦した事に成っている。
ところが、この「戦い」には「額田青木氏の銃隊」の「国衆」は参戦していないのだ。
然し、当然に「二連木城」では多勢に無勢で敗戦して「吉田城」に籠もる結果と成り、「城」から「5基の櫓廓」から「300丁の弾幕の銃撃戦」で応戦した事に成っている。
この時に、「第一次の吉田城の史実」に基づけば「銃の持たない武田軍」は、犠牲が多く直ちに“勝ち目がない”として「戦う事」を諦めて引き上げたと成っている。
ところが少しこの「史実の戦術」には一概に信じられない事があり変である。
筆者は、これは「吉田城と二連木城」から出た「勝ち目のない野戦」と云う事は、「櫓廓」からの「銃弾」が効率よく「弾幕を敷ける距離」まで「武田軍」を“城に引き寄せる「忠次の作戦・事前の廓櫓改造」”であったとも考えられる。
「郷土史」でも「有利な銃撃戦」に持ち込む為の「戦略」であったと記されている資料もある。
つまり、その目的は犠牲無く「東三河の全ての兵」が「逃げ込んだ事」から考えると、「額田青木氏の銃隊」が「国衆」の「後方支援」として「吉田城」に入った事から来ているのであろう事で理解できる。
故に、ここでも「銃の存在」ははっきりと明記されているのだ。
この事は合わせて「6の郷土史類」にも記載がある。
「二連木城」と合わせて最高で「吉田城」では「3850の兵力・兵の集結作戦」と成ったのだ。
此処からである。
然し、ここで疑問は、“これだけ「小さい城」に「3850の兵」を詰め込んで集めて何をするのか”であろう。
戦略的に「銃隊説」があったとしても可笑しい。
寧ろ、後ろが川であるので「飲料水不足の危険」は兎も角も「兵糧不足の危険」があった筈である。
故に、この疑問からすると相当に「銃隊の効果」を理解していてこれによる「短期の攻撃」を狙っていた事にも成る。
突如、その「約定」は見つからないが「額田青木氏の南下国衆」に執っては、「伊勢と繋がり」を採る事に有利な「西三河軍制」を望み、この「当初の約束」を破ってでも「東三河軍制」に組み直して「短期決戦を狙ったと云う事」になろう。
つまり、この推理では少なくともこの時は「南下国衆の銃の威力」を最低でも「強力な弓矢」として高度に評価していた事を意味する。
その評価はなんと「武田軍の撤退」で更に変わり、「強い羨望を生み出す程」のものと成ったのだ。
それは、「マッチロック式の火縄銃」では無く、「フリントロック式改良型」であった事に依るだろう。
誰が考えても、「全方位の周囲の5基の櫓廓」から間断なく撃ち掛けられれば「全員死滅の事態」と成り、早期に勝負は着くと見做されて、「全兵力温存の意味」からも採った「止む無き作戦」であって、松平氏側としては思い掛けない程にこれが成功した事に成る。
ところがこれらの記録に依ると、これが「1556年〜1572年までの戦い」に依る「兵力変化」では、最終は、然し、結果としては「羨望」からか「奇襲隊として任務」を与えられた事に成ったのだ。
然し、「青木氏」に執つてはその目的から良い事であった事に成る。
「南下国衆時の約定の違反」に意識した事も充分に考えられる。
最終目的の「渥美湾の制海権の獲得」を意識していたと云う事だ。
「青木氏の氏是」に伊勢から指令が届き、それに基づきだから我慢したのだ。
本来であれば「吉田城の戦功」からもっと積極的に使われる事で弱体化した態勢を替える事もあったであろうし、「今川氏も見直した事」もあっただろう。
寧ろ、「伊勢の指令」は、この「今川氏に使われる事」を警戒した事も考えられる。
この時の「東三河軍の兵力」はある戦記では「500」と成っている。
少なくとも、この計算では、「350の銃隊」が存在するも「東三河の兵力・酒井忠次軍」は実質は減少している事に成るのだ。
本来は、「酒井の手勢200」+「土豪勢の300」+「350の銃隊」=850と成っている筈である。
ところが、記録では「500」と成っている。
要するに、この江戸期の戦記の記録では「350の銃隊」が計算されていない事に成る。
「吉田城の戦いの扱い」では、「東三河軍制」に組み込まれていながら、「吉田城の戦い後」は組み込まれていない事に成る。
つまり、これは「吉田城の戦い」の後、直ちに「東三河軍制下」に無く「伊川津に戻つていた事」に成る。
筆者は、「羨望説」や「約定説」では無く「今川氏に使われる事」を気にして「伊川津に戻した事」の説を採っている。
“「弱く見せる事」”に依って「身の安全・松平氏」を保ち必要以上に「織田氏や今川氏」に対して“「戦力の威力」”を隠したのであろう。
そもそもこの時、「西三河の軍・1200」は「石川家成」を「頭」としている。
この時までの兵力は、「松平軍の本隊・3000」と合わせて、「合計5000の兵」としている。
この兵力の数字は正しい。
「南下国衆の銃力・20倍」を以てすれば「5万以上の戦力」と成り得て、その「戦い方」では「織田氏や今川氏」を凌ぐ兵力と成る。
「銃力」に対する「松平軍の認識」は高くは無かったが、「吉田城」で観ていたのであるから少なくとも「弓矢以上の威力の認識」は「酒井氏や家康」には有ったのではないか。
上記の記録に依ると「吉田城の戦い」での「吉田城の兵力・酒井忠次軍800/500」は「額田の南下国衆の銃隊の数」を合算すると検証と一致する。
そうすると結論は、東三河の独自の「酒井軍の兵力・300」の「吉田城の戦い・1571年」の後に、そもそも「土豪3氏」と共に“「伊川津に戻っている事」”で一致するのである。
取り分け、「額田の南下国衆」は戦い後直ぐに戻っている事に成る。
これは「土豪3氏と南下国衆」とには「家臣化を望む者」と「渥美湾の使用権を望む者」とのその「目的の違い」があったからであろう。
資料から「三方ヶ原・1572年」で、急遽、「伊川津から呼び出しを受けた事」の行でも一致する。
この時、記録に依れば「土豪3士等の国衆」は「数からする事」と「その事を匂わす行」から既に参戦している。
この事の物語る事は、軍制下にあったとしても更には“「東三河軍制」に正式には組み込まれていなかった事”を証明する。
これは「第一次の吉田城の戦い」の後に、“「350の銃隊」に何かがあった事”に成る。
それが、「額田青木氏側」の「350の銃隊」に何かあったのか、「松平氏側」に何かあったのかである。
「伊川津」は、「大久保・本多氏の田原藩・1560年」であるが、「酒井軍制下・吉田城・1565年」には既にあった。
それを共に、この「6年間の戦いの任務」は、“「350の銃隊」では「先鋒隊、偵察隊、奇襲隊の任務」であって、「大久保・本多氏の軍政下の3土豪等」では「3つの城を護る役目」にあった事が判っている。
この「東三河の田原城」と「二連木城」と「吉田城」の3城である。
「武田軍の本隊」との最後の一戦の「青木氏の一言坂の戦い・1572年偵察隊」までは、この「三つの役目」、つまり“「先鋒隊と偵察隊と奇襲隊」”の位置に据えられていた事に成る。
「土豪3氏」とは違い固定された「城の防護役」では無かった事に成る。
要するに、記録から総合して考えると、その様な「あやふやな意味」の「最前戦の決死隊の事」の様で、強いて云うならば「危険な位置に据え置かれていた事」に成るのである。
これは「松平軍を救う位置」にある事を認識しながらも、実態は「計算にも入れない」、且つ、「兵力数にも入れない」の立場に置かれていた事に成る。
逆に云えば、確かに良い方に考えれば、これは明らかに「銃隊を認識し生かした事の証」でもあるのだが、それが「固定式の火縄銃」では無く、それは唯単なる「強力な弓矢」に替わる「フリントロック式の改良銃が魅力」であった事にも成る。
これは「概念」としては“「兵力」では無く、未だ「銃力」に対する「排他的概念」”があった事に成る。
これが拗れて「記録」にも遺される程の「東三河の旗本・大久保氏との軋轢」の原因と成っていたと読み取れる。
寧ろ、「銃先」を「旗本」に向けていた事位の軋轢であった事を意味する。
「三方ヶ原の戦い」の「引き上げ方」はそれを物語るだろう。
それを知った上での事で、其れで無くては「先鋒隊と偵察隊と奇襲隊」は心理的に危険に任務を務まらないだろう。
それだからこそ、早々と「三河国衆を辞した理由」と成った一つなのである。
前段でも論じたが、「激しい戦歴」では、結局は主に「伊川津の手勢」には全体として「350の兵の減少・記録犠牲者」があった事にも成っている。
記録では「土豪3氏の手勢」は「300」と成っていたので「全滅に近かった事」に成る。
「吉田城の忠次の手勢・300」には、其の後の「戦歴の経緯の変化」は依然として元の「200」と成っている事から考慮すると、東三河域の「豊橋・豊川の今川国境の国衆・周囲の国衆の100人以上」の減少と成り、「大被害」であった事に成る。
これは「三河戦記の三記」にも「今川国境域・元今川国衆」の「国衆の戦死」が多かった事が書かれていて、その「戦いの激しさの事」として「記録」として遺されていて「有名な記載部位」がある。
江戸期の身内の記録であるので悪くは書かなかった筈である。
とすれば、“「第一次吉田城の戦いの功績後」に「伊川津」に戻った”と云う記録の疑問は、「第一次吉田城の戦い」の後に“「先鋒隊と偵察隊と奇襲隊としての役目」”は既に終わっていた事に成るだろう。
故に、「吉田城の兵糧等の問題」もあり、「必要性の低下」で「伊川津に戻つた事」にも成る。
そして、ところが、その経緯としては、「浜松城の野戦」で「城自体の存続」が危ぶまれ「形勢不利」と成り、「伊川津」に戻って「三河国衆を抜ける準備」をしていた処に、突然、呼び出され止む無く合力し、この「流れ」に従いそれが「三方ヶ原の戦い」までに繋がって行った事に成るだろう。
故に、無理に「鶴翼の陣形」の「左側面」に付き参戦し、「三方ヶ原の敗戦」が決まった処で躊躇なく「戦線離脱」して、急いで「伊川津」に戻って、再び「三河国衆の離脱の準備に入ったと云う事」に成るだろう。
この「記録」に依れば、“「額田青木氏の差配頭等」も戦死している”と書かれているのだ。
とすると、「三つの戦記の記録」から「額田青木氏の国衆差配頭」の「三方ヶ原での戦死」からも「犠牲」はあった事が記載されているし、「額田青木氏の差配頭・名も記載」からも「二人戦死している事」に成る。
合わせて、この記録から読み取る処では、「土豪3氏の手勢・300」等も「桶狭間の戦い・1556年」と「吉田城の戦い・1564年」と「東三河一揆・1563年」と「姉川の戦い・1569年」と「三方ヶ原の戦い・1573等」の「以上5戦」で、全体として「17年間」で「土豪3氏約300の兵」の「全滅に近い戦死の事」と成っていたと記録している事に成る。
恐らくは、その中でもこれは無理に執った「鶴翼の陣形」の敷いた「松平軍の翼面」に他の土豪3氏の国衆も共に着けさせられていた事に依って「犠牲」を多くしたのであろう事が判る。
注釈として、本来は「銃隊」には「無理な陣形」であって」旗本の居る中央の最前線」に配置されて「銃隊の弾幕効果」が出るのだ。
然し、「本来の形」にしていれば勝敗は変わっていたかも知れないがそうでは無かった。
恐らくは、この「300の兵の伊川津国衆の戦死の事」を「土豪3氏の分家筋」は、“先ずこの事を念頭に置いた”と考えられる。
“このままで「土豪3氏」の中でも前戦の最前面に出される「分家」では何時か全滅する”と考えて深慮したと観ているのだ。
そもそも、鎌倉期末期から室町期中期に架けて関東や四国から流れて来て「三河」に住み着き、「三河国衆」として「伊川津の土豪と成った3氏の分家筋」は、遂に決断し「陸運業に成る事」に傾いていたのであろう。
この「伊川津の分家筋」が、「陸運業に加わった事」は「田原の古跡神明社族青木氏」と、その背後に「伊勢の存在」を強く認知し、安定性が担保されていた事を知っていた事に成る。
つまり、後から「伊川津に来た勢力」と云うよりは「伊川津の原住民性の族」を認知していたのである。
この上で「陸運業と成る事」に決断した時の約定とか、反対していた「蒲郡青木氏・桑名」と共に「伊勢との契約書」なるものがあった筈であるが、発見できず未だ見つからず遺されていない。
それは“遺されていない”と云うよりは“遺らなかった”と云うのが正しい。
それは「伊勢」で起こした「3度の失火も含めての消失」で“遺らなかった”である事は間違いはない。
「3度中の消失」のどれかも解らないが、最後の「明治35年の消失」では「曾祖父と祖父の忘備録」には、“全ゆる物改めて火中に放り込んだ”と書かれているので、「執事役」を務めていた「菩提寺清光寺」も消失した時で、遺されていたものが消失したとすればこの時であろう。
然し、例え、これ等の事を「より詳細に描いた記録」が遺されていたとしても、又、「土豪3氏」の国衆の“「300の兵の戦死の事」”は知り得ていたとしても、「渥美伊川津の土豪3氏の本家筋」は、「一族の筋目を遺すと云う宿命」と「松平氏への恩義」と「初期の目的の立身出世」の「三つの狭間」でそういう訳には行か無かったのであろう。
「生き遺りと自由」を求めた「分家筋」が、「伊勢側の了解」を得たので「陸運業」に参加した事に成ったのだ。
確かに「伊勢側の主張」も納得できるが、損得で云えば必ずしも損を危惧する事だけでは無かった筈である。
“船頭多くして船山に登る”の諺の通り「利」はあったのだ。
「額田青木氏の三方ヶ原の戦線離脱」は「罰則中の罰則」であるが、この罰則は受けずに「伊川津と蒲郡」に定住しているし、「豊橋、豊川、岡崎等」に定住もしているし、「陸運業と開発業と殖産業」もしている。
これは要するに「上記の位置にあった事」を証明している。
「松平氏」に執っては事情により違約はしたが、「神明族」と共に「最初の約定」の通り居ついてほしかった事に成るだろう。
故に、江戸初期の”{伊勢の事お構いなしのお定め書」と「頼信との良好な関係」がこれを証明する。)

「青木氏の伝統 59」−「青木氏の歴史観−32」に続く。



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