青木氏氏 研究室
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  [No.384] Re:「青木氏の伝統 59」−「青木氏の歴史観−32
     投稿者:青木   投稿日:2020/08/05(Wed) 15:02:35

> 「青木氏の伝統 58」−「青木氏の歴史観−31」の末尾。

> 「生き遺りと自由」を求めた「分家筋」が、「伊勢側の了解」を得たので「陸運業」に参加した事に成ったのだ。
> 確かに「伊勢側の主張」も納得できるが、損得で云えば必ずしも損を危惧する事だけでは無かった筈である。
> “船頭多くして船山に登る”の諺の通り「利」はあったのだ。
> 「額田青木氏の三方ヶ原の戦線離脱」は「罰則中の罰則」であるが、この罰則は受けずに「伊川津と蒲郡」に定住しているし、「豊橋、豊川、岡崎等」に定住もしているし、「陸運業と開発業と殖産業」もしている。
> これは要するに「上記の位置にあった事」を証明している。
> 「松平氏」に執っては事情により違約はしたが、「神明族」と共に「最初の約定」の通り居ついてほしかった事に成るだろう。
> 故に、江戸初期の”「伊勢の事お構いなしのお定め書」と「頼信との良好な関係」がこれを証明する。)
>

「青木氏の伝統 59」−「青木氏の歴史観−32」

(注釈 「土豪3氏の中の激論で落着」。
更に掘り下げて観る。
その証拠が「陸運業」に従事した「渥美から豊川までの5地域」に遺る「土豪3氏の裔」は全て「分家筋一統・後段で証明」として生き延びているのだ。
上記の通りその典型が「牧野氏の分家」であった。
そもそも、「全国五地域・21地域」に分布存在している「牧野氏・江戸期」は、何処が本家筋かは判らない位なのだ。
室町期からの「国衆」として「阿波牧野村」から出て来た処迄では系譜は一致するが、三河の「系譜の5地域」の内容、更には「渥美から豊川までの牧野氏の系譜も家紋」も全く違っているので、「本貫」を辿れない有様なのだ。
恐らくは、これは何処の国衆の事でも同じであって、「牧野氏に限らずの事」であるのだが、これは“各地の本家筋の分家筋が戦乱で何とか生き延びた差の”証拠であろう事が解る。
又、戦乱で生き残る為の考え方、取り分け、「本家筋と分家筋の分裂の結果・後段」もあったのだ。
要するに、江戸期に向けて「激しさを増す戦国時代」には、その「激しさ」を増し、まだまだ続いていたので栄枯盛衰で変化して判らなくなったのである。
従って、「伊川津」も同じでより安全な策を執った「分家筋」が<繁栄し子孫拡大が起こり子孫的には本家筋を遥かに超える「勢いとなった事」で起こった現象である。
つまり、それは「青木氏」と伴って「陸運業で生き延びた事」を意味していて、その事で江戸期に「分家の5地域の系譜」を大きく遺したと観る事が出来き、これが各地に広がったと云う事と成る。
この現象は、「本家筋の子孫・大久保氏・本多氏の田原藩の准家臣」から「松平氏の譜代家臣」に成った事も然る事乍ら、この僅かな享受を嫌い「分家筋」の中でも「土豪3氏の中」では、記録には無いがその経緯から“それぞれの「家」で激論に及ぶまでの「激しい議論」があった事”が予想できる。
然し、この「陸運業」に「分家筋」が「三河5地域」で参加し、「別行動」を執ったにも関わらず、同じ「藩域の地域」で「子孫を遺せた状況」には「青木氏外」であるが関わった族としては改めて検証を要する。
それは「当時の氏家制度の慣習」としては、「本家分家の関係・氏家制度」は「主従関係」に近く「本家の路線」に従わなかった場合は、普通ならその地域から出て行くのが普通であったし、少なくとも罰は受ける。
江戸期には幸いにも「土豪3氏の本家筋」は「徳川幕府」と成ってからは、「牧野氏や戸田氏」に関わらず「各地の藩」に仕官していて、「5地域」に定住していなく縛られていなかった。
従って,この為に「分家」に執っては却って「5地域に住める事の意味合い」は増したのである。
その為の「糧」と云う意味では、細々と本家からの「分部・わけぶ」で生きるよりは「陸運業」での「商いの糧」で生きる方が「子孫」を大きく遺せる所以と成ったという事である。
「本家の譜代の田原の糧」ではその「絶対量」から観てここまでは「子孫」を広げられなかったと考えられる。
それが「陸運業に従事した事」に依って「分家の子孫」が「全国の5地域に広がった」と云う事であろう。
これらは前段でも論じた様に“「5地域の家紋分析」”で判るのである。
この様に「履歴」を詳細に各処で掘り下げて行くと、その「一役」を“「伊勢の額田の裔系青木氏」と「伊勢青木氏」が担っていた”と云う事が判り、ここに幅広く「青木氏の歴史観」と云うものが観えて来るのだ。)

(注釈 「「銃隊の青木氏の戦線の行動と離脱」
そこで、少し遡ってみて観るとする。
それは実は「三方ヶ原の戦線離脱」から観えて来るものが他にもあるのだ。
その間に「松平軍本隊・3000兵と西三河軍・1200兵」は「三方ヶ原」に先に到着して陣形を組むと云う戦略であった事が判っている。
「戦い」と云うのは、そもそも「第一の戦略」は、多勢の「大軍(25000兵・騎馬兵・6000)」に向かうには、先ずは「無勢」であっても“「有利な陣地取り合戦に勝つ事」”であった。
その「第一の手順の事」は先ずは成功している。
然し、ところがその“「陣形」”が「多勢無勢の場合の構え」としては逆と成るのに間違えてしまったのであった。
要するに、「地形取り」も含めて元から負ける「陣形」を採った。
つまり、その「武田軍本隊・魚鱗の陣形」を引きつける「時間稼ぎ」にさせられたのである。
此処で「第二の手順」が間違えたのである。
「松平軍5000」は、本来は「無勢」であったので「魚鱗の陣形」を執るべきなのに逆の「多勢の陣形」の「鶴翼の陣形」を執った。
これを「三方ヶ原」に向かう準備の途中で報告を受け観た「武田軍本隊」は、その途中で「鶴翼の陣形」から直ちに「魚鱗の陣形」に直して「赤兜の騎馬兵」を前面に押し出した配置にしたとされている。
“何故、松平軍が間違えたか”は判っていないが、“「武田軍が魚鱗の陣形を採る事」は無い”と見込んでいた事もあり得る。
それは「堀江城の落城」に手間取り、そこから「三方ヶ原着陣」に更に手間取り、その過程で“魚鱗の陣形にする時間的余裕は無い”と観ていた可能性は否定できない。
「三方ヶ原」で陣形を組み直して混乱している間に「鶴翼」であっても左右の鶴翼が中央に前に集まり、前進突撃すれば完全に攻められると云う事もあり、先ず無いと考えていた事もあり得る。
実際に歴史上の記録には「鶴翼」と見せかけてこの戦法を採って勝利した記録も他にある。
然し、「三方ヶ原」に向かう途中で陣形を魚鱗に組み直したとあるのだ。
それには、「武田軍本隊の赤兜の騎馬隊」が有名で、これがあると云う事は「鶴翼」でも「魚鱗」でも何れでも出来る事に成り得ると云う事だ。これを失念していた事になるのか未だ判らない。
何方かと云うと、「大軍」で在り乍らも「鶴翼の陣形」より「魚鱗の陣形」に合っている事に成るのだ。
だから「赤兜の騎馬軍団」が強いだけでは無くて恐れられたのだ。
もう一つあって、「山県軍の5000」の「大軍の別動隊」が、東の端の「二俣城」から「三方ヶ原」に来ると云う事であるし、「松平軍の鶴翼の背後」を突かれる恐れも充分にあったのだ。
現実にそうなった。
一瞬にして「総崩れに成った原因」は「大軍の別動隊」に鶴翼の側面を北側から突かれて付き抜かれた事にあった。
そもそも、現実に背後で無かったがこの「山県軍の別動隊」の「鶴翼の右側面」を突かれた事に依る「総崩れ」の敗因であった。
更には、「武田軍」はこの北の平地の「三方ヶ原」を「宿営本陣」としてここを「拠点」として「南の籠城の浜松城を攻める作戦」であった事が判っている。
何れにして戦略では“信玄の方が一枚上と云う事”であった事に成る。
「物語風の戦記」では、無謀にも“家康が頑な主張した”と成っている。
恐らくは、筆者は前段で論じた事とは別に、この詳しい経緯は、「好感を以て見る」とすると次の様に観ている。
これは後勘から観ても当時から観ても誰が考えても「無謀である事」は間違いは無い。
とすると、其処まで間違えるかであり、何かの考えがあったのでは無いかと観る事も出来る。
それは、次の通りとして「青木氏の歴史観」を読む。
当初は「家康」は「家臣の反対」を押し切つて、「額田青木氏の偵察隊の300丁の銃の威力」を想定して、「鶴翼の中央に据える計画」では無かったかと観ているのだ。
そうであれば、「武田軍・25000」に対しても“「火力を前提とした軍力」では「銃20倍=10万」で勝てる事”と成って、「鶴翼の陣形」で行けると踏んだと考えているのだ。
ところが、「浜松城の松平本隊」は、「野戦」を2度も試みて「武田本隊」と遭遇して「一言坂の戦い・元亀3年10/14」で一度、敗走しているのだ。
なので、この「陣形」で行けるかを確認する為に、「武田軍の本隊の様子」を「三方ヶ原の決戦・元亀3年12/22」のその前に、更にもう一度、「一言坂・元亀3年12/22」の2時間前頃に、「伊川津」から突然呼び寄せた「額田青木氏の銃隊」に「偵察隊」として出して見に行かした「戦歴」に成っている。
ところが、「350の銃隊・額田青木氏の南下国衆」の「偵察隊」は、記録では「一言坂の坂上」で深入りして見つかり武田軍本隊と「遭遇戦」と成って仕舞ったのだ。
此処からは、記録に詳細にある通り、兎も角も「前段の史実」の通りの「銃撃戦」が発生し、その「銃の威力」で圧倒して勝って「西の坂下」に無事降りて、「浜松城の北側」に一度隠れ、其の後に浜松城の城の周りを通過した「武田軍本隊」の最後尾を追尾したとある。
「堀江城の陥落」の前に、「三方ヶ原」に向かって走って何とか「開戦ぎりぎり」に本隊の鶴翼の左側面に辿り着いた事と成っている。
この「松平本隊」は「三方ヶ原」には既に到着をし、「松平本隊」は史実の通り早く着き過ぎて「鶴翼の陣形」を敷いてしまっていたのだ。
従って、時間的経緯より「額田青木氏の銃隊」が中央に配置する時間にまでは間に合わなかった事に成り、結果として「左側鶴翼に着いた結果」と成ったのである。
そして、「松平軍右鶴翼を貫いた山県軍の別動隊」と左側鶴翼にまで到達し決戦と成って仕舞ったのだ。
然し、それにしてもここで何故、「松平軍」は「三方ヶ原」に「野戦」を選んで出たのかである。
「籠城戦の方」が「350の銃隊・額田青木氏」で護れば、「第一次の吉田城の戦績」の通りに有利で時間が稼げるし、背後を「織田の援軍」が突く事は充分に可能と成るのである。
「武田軍」は戦略上は最もこれを恐れていたと考えられる。
普通、「浜松城の籠城戦」は1ケ月は掛かるので、「織田勢のより大きい支援」を受けられる。
「攻める側」は兵力が大きければ大きい程、時間が掛かると「兵糧や兵の疲れ」で不利と成る。
この時、史実は確かに「織田氏本隊は北の脅威」で戦っていた。
「1ケ月程の時間」を稼げば「支援」は受けられる筈であるが、ここでは受けられないと観ての事であろう。
「戦記」では、理由は書かれていないが、「家臣の反対を押し切って野戦」に出たとだけある。
その「理由付け」に「松平軍を大きく見せる事」を理由に「野戦の鶴翼の陣形」を敷いたと江戸期の「後付けの理由付け」をして脚色されているのだ。
さてところが、「武田軍本隊」もこの事の堀江城で計画より遅れていた。
「三方ヶ原」に着いた時には、相手が「鶴翼の陣形」であった事から事前の情報にて「三方ヶ原」に向かう途中で「応戦の陣形配置」を正確に執り直し、「赤兜の騎馬軍団」を前に出して「魚鱗の陣形」にまず似せたのだ。
そもそも「赤兜の騎馬軍団」は「籠城戦の堀江城攻め」には役に立っていないのだ。
従って、無役の「赤兜の騎馬軍団」は邪魔に成らない様に「本隊の東先端」に位置していた筈である。
だから、「魚鱗の陣形」が簡単に採れた事が云えるし、その侭に鶴翼でも「赤兜の騎馬軍団」を使える。
これに遅れていたので「山県軍の別動隊」が先に着陣していれば、この「別動隊」と同勢力の「松平軍の鶴翼」との戦いに成る事もあった。
勝敗は判らなかった筈で何方かと云えば「別動隊の疲れ」から松平軍に成った事にも成る。
「武田軍本隊側」は何れにしても遅れて着いたが、陣形変形中に攻めせれれば指揮系統が乱れ「総崩れ」に成るが全てが良い方に向いたのだ。
逆に松平軍側にはこの逆であった。
その為、そこで、この「遅れのリスク」を少なくする為に「赤兜の騎馬軍団・6000」をより先ず前に出して相手を牽制したのだ。
この時、「武田軍本隊側」にも「二つの計画」が狂っていた。
それは記録では一つは「山県軍の別動隊」が北の「二俣城」から駆けつけて合流して「松平軍」を牽制する予定であったがこれが遅れた。
もう一つは「堀江城の落城」が遅れた事だ。
結局、このままで「開戦」と成り、記録では本隊に合流できず暫くして「北側山際の松平軍本隊」の「鶴翼陣形の中央」の右側上の少し離れた道路脇に到着した状況であった。
これでも「松平軍本隊」より「以北の位置」にあったので、この間隙を突けなかったのだ。
然し、これが結果として幸いしたのだ。
松平軍は驚いた筈で「鶴翼の陣形」は正面には強いが側面には弱い。
この「右側面中央」を突かれる結果と成って仕舞ったのである。
「開戦開始」は左正面から「赤兜の騎馬軍団」の騎馬隊の突撃、右側面から別動隊が突進してきたのだ。
そもそも、戦記通りに全く「戦い」には成らなかった筈である。
「右側面の別動隊」は其のままに左側面を直線的に貫通する形に成った。
ところが此処で「武田軍側」に予期しない事が起こったのだ。
それは「左側面」に就いていた「額田青木氏の300の銃隊の存在」であった。
「記録」では「別動隊の突撃」は「額田青木氏の300の銃隊」の「やや後方側」を突き抜ける形であった事が判る。
空かさず「銃隊の筒先」を右側に向け直して一勢に「弾幕の切れない連発射撃」を三段で繰り返したとある。
「別動隊」はバタバタと倒れ、それでも突っ込んで「銃隊の右側」を突き抜けて行ったとあり、更に「銃隊」は向きを変えて「別動隊」に向けて移動せずに「銃撃」を繰り返したとある。
この時、「別動隊」は、踝を返して「波状攻撃」を繰り返さずにその侭に直線的に「浜松城」に向かったとある。
然し、「銃隊」はこれを追わなかったとあり、直ちに「戦線離脱」して「伊川津」に向かって走ったと成っている。
この「別動隊の戦死者」は「武田氏側の戦記」では「武田軍の別動隊」の殆どを占める「2000/5000}と成っているが正しくは「5000弱」である。
ところが、この「別動隊の兵力5000」とするものもあり、少なくとも脚色されて「約半数以上」は戦死した事に成る。
この事から「別動隊の波状攻撃」や「移動式の銃隊の追尾」があれば、「別動隊」は完全に全員戦死と成っていたであろう。
ここで「青木氏の関わった歴史観」は大きく変わっていたであろう。
そうした場合、「額田青木氏の銃隊」は大きく「歴史の戦歴に名を遺す事」に成ったであろうが、その様には敢えてしなかったと云う事に成る。
これは青木氏側では”何故か”であり答えは簡単である。
それは奈良期からの「青木氏の氏是」にあったのだ。
それは、次の氏是にあった。
”世に晒す事無かれ、何れにも一利無し、然れども、世に憚る事無かれ、何れにも一利無し。”
以上である。
つまり、不必要に「歴史の戦歴に名を遺す事」を禁じていたからである。
要するに”無駄な事はするな”であろう。
話を戻して、「山県軍の別動隊」は本来は包む様に「本隊」に合流して「二番手」に控える「総崩しの突撃軍の役目」の役にあったとある。
「一番手」であると「騎馬隊」との「速度の差」で「本隊との距離差」が出て脆く成るのだ。
「総崩しの突撃軍」で「松平軍の鶴翼の中央」が脆く成る欠点があり、「武田軍」の「魚鱗の中央」にも「騎馬隊」が前に出た事に依り前が脆く成る欠点もを持っていた。
「魚鱗の陣形」は全軍を一斉に前に動かせるのが特徴で、速い「騎馬軍団」が勝利しながら前に出れば時間稼ぎに成り「本隊」も前に出られる。
これで何れが勝つかは必然的に成る。
この「欠点」を補う役目が別動隊にあったのだ。
欠点の持った「無勢の5000の鶴翼」と、同じ欠点の持った「多勢の魚鱗の20000の鶴翼似」の衝突と成ったのである。
これに「山県軍の別動隊」が北の右側面に結果として着いた事に成る。
「欠点」を持ちながら「武田軍本隊」は前進したが、この「別動隊の右側面の攻撃」が大犠牲を負いながらも攻を奏したのだ。
結果としては、「多勢>無勢の差」が出て遂には無勢が疲れて一挙に負けたのだ。
「動くと陣形が乱れる鶴翼」は、何度も「鶴翼」を開閉をする「固定型の行動性のある戦い」をする事から、この方が疲れて不利と成るのだ。
“騎馬兵が効果的に戦えば、「鶴翼似の魚鱗の陣形」が「突破力」は勝る”と「信玄」は咄嗟に考えた事に成る。
「現実の史実」は“突破された”とその様相を両者の戦記で記録している。
「額田青木氏の銃隊」が踵を返して「南・浜松城」に向かって別動隊を銃撃で追えば別働隊は完全に戦死と成っていたが、既に「大きく傷を負いながらも別動隊」に依って崩された「松平軍」は勝敗は決していたので歴史は変えられなかった筈である。
「額田青木氏の国衆」としての大きく犠牲を負う義理は、最早元より無く、この「勝敗の決定」で戦線離脱したと考えられるのだ。
もう一点は、「松平軍のミス」にあった。
「鶴翼の陣形」を敷く場合は、「背後」が無くなるので“川を超える事は厳禁である”のに対して越えて陣形を敷いた“とする資料がある。
「吉田城」に居た「額田青木氏の銃隊」に対して急遽呼び寄せて「偵察隊」を命じて「一言坂」で「武田軍本隊」と遭遇している史実で判断すると、「浜松城」を素通りした「武田軍本隊」がその時には攻略した「二俣城」から先ず南下して、「西の堀江城の攻略」の為に向かって西に移動中で、「一言坂の丁度東の坂下」の域に隊を整える為に留まっていた事に成る。
「額田青木氏等の銃隊」が「呼び出し」に応じて「吉田城」からは「東海道」を通って「約11時間弱は掛かる事」から「命令通り」に先に出発して「浜松城」に入り、「偵察の命令」が出て慌てて「一言坂上に向かう事」と成った経緯である。
この時、時系列では「動き出した武田軍」と「同時刻頃に偶然に一言坂に到着した事」に成る。
「西の堀江城」に向けて「浜松城の南横」を素通りする「武田本隊」を観た「浜松城の家康」が次の様に思ったとする筋書きを描いている。
「流れ」から観れば、全ての「東の支城」を潰され、「東三河の護り」の西側の護りの「堀江」が攻められれば、“全て終わり”と観た家康は、感情的に成り、“最早、これまで”として「野戦」を選んで仕舞ったとしているのだ。
そして、「二度の野戦」を選んで「三方ヶ原」に向かって出発し到着したのは時系列では「4時間半後の事」であった。
この説に対してだとすると、そこで「地形の位置関係」に「野戦の有利性」があるのかを先ず観てみる。
「三方ヶ原」は「一言坂」からも「4時間半程度の位置」の「三角洲の洲原」にある。
「北の三方ヶ原」と「南西の浜松城・徒士3時間半」と「東の一言坂・徒士4時間半」は丁度、「底辺・三時間半」の「南向きの逆二等辺三角形」の位置関係にある。
「西の堀江城」から「三方ヶ原」までは、「徒士2時間」の東の「山間部の位置」にある。
そうすると「三方ヶ原」は、「松平軍本隊」に執って特段に「野戦を選ぶ程の地形・位置の有利な戦場」では無い事が判る。
やや、「堀江城」から「三方ヶ原」に向かうには「武田軍本隊」の「大きい軍と山間部」は地形上から西側から向かうには可成り「不利な状況」ではある。
又、これが「堀江城攻略」も遅れた事も不利に成っていたし、「陣形」も「魚鱗」に変更しなければ成らなく成っている。
但し、「武田軍本隊」が早く「戦場」に着けば、「松平軍」は「鶴翼の陣形」を敷くのには時間は掛かるので「不利」に成る。
「武田軍の陣形を組む事」に付いては「魚鱗」である為に、到着次第に段階的に積み重ねて行けば「陣形」は出来る事から「有利」である。
この「不利と有利の狭間」にあって苦労して遅れて「戦場」に着いてみれば、情報の通り確かに東側に「松平軍」は「鶴翼の陣形」で構えていたのである。
一説では軍を大きく見せたとする説があるが、偵察情報や土地の事等を考えればそんな騙しは直ぐ判る愚論である。
既に、戦場に着く前には、敵状偵察に依って「情報」はもたらされていた筈で、「魚鱗の陣形の準備・騎馬隊を前に」を「戦場」に着く前に始めて向かったと考えられる。
これが「不利」を無くす「手立て」と成り、結果として全て「有利」に働いた事に成ろう。
そこに「山県軍の別動隊」が遅れて北の中間に到着した。
当然に、「松平軍」にも「敵状偵察」に依って「情報」は入っていた筈で、“疲れている”と観て、又、遅れると観て「鶴翼の陣形」で整えられれば「戦いの定法通り」で“包み込む様にすれば勝てる”と観たと戦略的に唯一として考えられる。
要するに「浜松城」からは「三方ヶ原」はやや平地を通れる「真北の位置」にある。
「堀江城」に向かった「武田軍本隊」が「最後の砦の堀江城」を落すのは、“時間の問題として間違いは無い”と観た「家康」は、”最早、これまで“として、この「多少の有利性」に期待して早めに出て間違った「野戦と鶴翼」を選んで仕舞ったと観る事も出来る。
問題は「偵察隊」の為に「一言坂」に向かっていた「額田青木氏の銃隊の威力」をこれを観ると「銃隊の威力」を多少考慮していたかに成る。
「額田青木氏の銃隊の威力の配置の位置関係」がこれが「武田軍側」と「松平軍側」の何れにも云える事であった。
その意味では、「二度の実戦的な経験」をしていた「武田軍本隊」には「有利に働く事」に成っていたであろう。
「松平軍」がこれを考慮していたとすれば、“「野戦と鶴翼」を選んで仕舞った事”には、「銃隊の威力を中央に据える事」では一部に合理性があったが、そうさせなかった原因は“「旗本」”はそうさせなかったのだと青木氏の報告の手紙にはある。
「決め手」は別の意味で「旗本の理解」にあった事に敗因があったと観える。
然し、結果として“現実には中央に据える時間に間に合っていない事”から、考えていなかった事と命令が無かった事の方が確かであろう。
何故ならば、「武田軍」が「堀江城攻め」に手間取つていた事から、途中まで追尾していた「銃隊」が「松平軍に戻る事」には、元々、その可能性は低く「武田軍」と共に同時程度に成る事の方が公算が大きい。
更に、ぎりぎり間にあっていたとしても、「鶴翼の陣形」に着いた時に“「旗本」が中央を護るのだ”と云う「古い考え」が先行して、「銃隊の威力」を排除して「中央に入れなかった事」の方が確率は大きい。
ところが「武田軍」は「吉田城籠城戦と一言坂遭遇戦」で、その「銃隊の威力」を経験で認識を新たにし充分に知っていた事に成る。
ここに「武田軍勝利」は先ずこの「有利の差」に出たのだ。
場合に依っては、「武田軍本隊」は「堀江城陥落時」には「浜松城籠城戦・三方ヶ原野営」を考えていたとする可能性の方が強かったのだ。
ところが、「齎された情報」ではそうでは無かったのだ。
そして、「浜松城の背後」の「北から南へ攻める作戦・浜松城の弱点」であった事に成る。
それが「三方ヶ原」に向かう途中で「情報」に依って突如「作戦を替えた事」に成ろう。
それは、「武田軍本隊」としては「額田青木氏の銃隊」が三方ヶ原に間に合わないか、「松平軍」が「鶴翼の中央」に受け入れなければ、「銃隊の威力」を“それ程に受けなくても良い”と云う判断に至っていた事も充分に考えられる。
それは、追尾して来ていたからだ。
つまり、「旗本との軋轢」は知らないとしても遅れて「鶴翼の中央」に配置できないと考えたのだ。
その証拠が「二俣城」からの「別動隊・山県軍」にこの情報が無かったと観られ、「武田軍本隊」に加わらず、遅れた事もあったが、到着次第、配置されている側の反対側の「北の山際」からいきなり「鶴翼の陣形の腹」を突いたのだ。
これは「銃隊」が遅れるとすれば左側面に着いていた事に成り、“これを知らず”に故に突撃したのだ。
何故ならば、「山県軍の別動隊」は「額田青木氏の銃隊の威力」の過去に経験をしていないのだ。
初めてここに知った事に成ったのだ。
これは矢張り、弓矢の延長程度で「認識の甘さ」にあった事に成る。
「長良川の信長の火縄銃の情報」や「三方ヶ原の2000人の戦死と云う結果・経験」から、故に「長篠の戦い」では出陣の軍議の最後に「別れの盃」を躱したと記録されているのだ。
唯、「山県軍の別動隊」は、“「鶴翼の腹」を突くだけでも陣形は崩れる”と観ての事でもあっただろう事も判る。
「2000の犠牲を覚悟しての事」でもあったかも知れないが、「弱小の松平軍」を攻めるにはここまで覚悟する事は無かった筈である。
矢張り兎も角も、“経験のない「山県軍の認識の低さ」にあった”のであろう。
山際に到着した時点で、その後に「武田軍本隊と合流する事」も戦術的には問題は無く可能であった筈である。
そうする事で、「銃隊の威力」を「武田軍本隊」に受けずに済み、西に向いていた「銃隊の右側面を突く事」が出来、「銃隊」は直ちに慌てて「攻撃の向き」を「北の山際の方向」に向ける必要が出た筈だ。
然し、突撃を続けて歴史に遺る大きな犠牲を負ってしまったのだ。
然し、結果は此処に「タイムラグ」が起こり、この「タイムラグ」を使って「別動隊・山県軍」は南に向かって「突撃の態勢」を執り続け、「鶴翼の混乱する腹幅」を突き抜け「銃隊の威力」を全面的に受けて大犠牲を負って仕舞う失敗をしたのだ。
そして、「余りの大犠牲」の為にその侭に直進し「浜松城」に向かった史実と成ったのだ。
故に、「銃隊の青木氏」は前面で指揮していた「差配頭の犠牲」を負ったのだ。
然しながら、必要以上に犠牲を出さない様に判断して、「追い打ち・別動隊の波動攻撃」を受けない内に直ちに、其の侭に「伊川津」に向かって敗走して逃げ帰ったのだ。
ところが、南に抜けた「別動隊・山県軍」は態勢を立て直して再び北に向かって「波動攻撃」をせずに「浜松城」に向かった。
この時の資料には、この一度の「腹幅を突き抜け作戦」で「別動隊・山県軍」は銃撃に依って「2000人/5000の負傷者」を出していた事が判る。
吉田城や一言坂で経験して認識度を高めた「武田軍本隊」は知っていても「山県軍の別動隊」は知らず突き抜けたのだ。
認識の甘さにあった事は間違いは無い。
これだけの犠牲を負えば普通はしないとは考えられるが、ところが「青木氏の銃隊」を引き付けて「武田軍本隊」を護る為にも「別動隊・山県軍」は「犠牲」になって何度も「波動攻撃」を掛けて来ると「銃隊の青木氏」は判断したのである。
資料に依れば、「銃隊の青木氏」が構えていた処は、北の山際に向かって兵站に上昇している丁度、「陵の際の位置・現R261と「R251の交差点付近・山際から南2k」の位置であったと記されている。
影に成って見えていなかったのであろう。
つまり、「額田青木氏の銃隊」は「別動隊・山県軍」が全滅覚悟で態勢を立て直して何度も「波動攻撃」を受けやすい位置にあったのである。
要するに、「額田青木氏の銃隊」に執っては「不利」と見たのであろうし、「初期の目的」から全滅に至らしめられる程の「松平氏に対する犠牲」を負う必要性は無いと判断したのだ。
「差配頭の犠牲」は極めて大きかった事を認識して「指揮官」は、「地形」と「別動隊・山県軍」の戦略的目的からこんな無謀な攻撃を仕掛けて来る事は「波動攻撃」は充分に有り得るとして警戒したのだ。
だとすると、これは極めて「短時間の時間差の判断」と成ろうし、これが「タイムラグ」である。
寧ろ、筆者は、逆に「銃隊の青木氏の行動」を観て「別動隊・山県軍」は「波動攻撃」を中止して「浜松城」に向かって南下したと考えているのだ。
何故ならば、「移動が出来る連発式の銃隊の青木氏」が向きを替えて「別動隊・山県軍」を銃撃しながら追随し南下してくる可能性もあったからだ。
西に向いていた「額田青木氏の銃隊の威力」の東北側から攻撃を掛けられていて、これを直ぐに向きを変えて「射撃を開始した事」は「火縄銃の認識」だけしかないので驚いたのではないだろうか。
「別動隊・山県軍」に執ってはこれは「最悪のシナリオ」であろう。
「移動式の銃隊の威力」は、「武田軍本隊との遭遇戦の一言坂」で聞いた居た事も考えられるが其処まで情報が二俣に届いていなかった事の方が大きい。
「固定戦術」ならば「別動隊」を周囲に分散さして周囲から突撃すれば「波動攻撃」では多少の犠牲が出るが、これは「戦術」としては可能であろう。
然し、「別動隊の先頭」を常に「集中攻撃」をしながらも、「額田青木氏の銃隊」でじわじわと「連発銃」で攻撃される事は避けねばならない態勢であり、そもそも、「武田軍本隊の一言坂の遭遇戦」がそうであった。
「移動式・フリントロック式改良銃」と「固定式・マッチロック式の火縄銃」との差が夫々の行動に出たという事に成るだろう。
そもそも、そんな「詳しい銃知識」は100%無かったであろう。
要するに、「銃隊の青木氏の戦線離脱」は「別動隊・山県軍の犠牲」に執っても「利」が一致した事に成ったのだ。
結局、「三方ヶ原」に到着するに必要とした時間は、「青木氏の銃隊の偵察隊と追尾」が「所要4時間」であり、「松平軍の浜松城から出陣」が「所要2時間」であり、その「2時間差」が結果に出た事に成った。
「武田軍本隊」は「前日」から手こずり「一夜後の朝」に落城した「堀江城」から、そこから「軍態勢」を整えて「昼前」に出発したとあり、「三方ヶ原」に向かって到着したのは、“「夕方の時間・昼4時頃」とあり、遅れた”と記されている事から、計画と違って合計「5時間位所要していた事」に成ったが「陣形と山県軍の遅れ」から勝利を得たのだ。
そして、「三方ヶ原の戦い」の「戦闘時間」が「2時間・昼6時頃」で終わったとある。
「別動隊・山県軍」が「浜松城・夜8時前頃」に到着した時は、「浜松城」には“「篝火」”が焚かれていたとある。
この「篝火」に意味があった。
そうすると、以下の検証は次ぎの様に成る。)

「青木氏の伝統 60」−「青木氏の歴史観−33」に続く。



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