青木氏氏 研究室
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  [No.388] 「青木氏の伝統 63」−「青木氏の歴史観−36」
     投稿者:副管理人   投稿日:2024/04/25(Thu) 05:36:21

「青木氏の伝統 62」−「青木氏の歴史観−35」の末尾
この遠江松井氏に付いての系譜次の通りである。
 宗能1―義行―貞宗2―信薫3―宗重4―宗恒5―宗親6―宗直7
1 御厨領家の土地を授与 1513年
2 宗能より平川郷堤城主  主要家臣 1528年
3 二俣城城主 1529 病死
4 宗信・弟 二俣城家督 1529 桶狭間戦死 1560年
5 宗恒・弟 二俣城家督 1560年 「駿河青木貞治」は桶狭間に出陣
6 宗親・一族 二俣城城主 徳川氏調略・飯尾氏謀反で今川氏謀殺する。1563年
7 松井氏衰退 武田、徳川氏、今川氏に三分裂後衰退 徳川氏旗本 1590年
そうすると、「駿河青木氏・青木貞治」は「伊勢」にて1540年〜1545年に「訓練・5年間」の後に「大船一艘」を与えられ、「駿河」で「駿河青木氏・伊勢より嫁す」を「再興・1550年頃」し、「糧」を得て「子孫」を拡大、遠江―駿河―伊勢―「渥美・三河」―伊豆―「相模」で「活躍・1550年〜1555年頃」し、「財」を成す。
「今川氏―松井氏」の「国衆」に成る。
以上の経緯を持っている事に成る。
この経緯から「松井氏」との「繋がり」は、先ず判断として「宗信〜宗恒〜宗親」に持ったという事に成る。
「早期の経緯論」としては、「活躍・1550年〜1555年頃」し、「財」を成している段階で、「国衆の段階」を経て「松井氏家臣」に成ったのは「1555年〜1560年」で、この経緯が成立するかである。
「中期の経緯論」としては、「5の宗恒」であるが、病死で直系尊属者無く「一族の者」の「6の宗親」に家督継承されている。
ここで、今川氏と決裂し、徳川氏が関わって来る。
「終期の経緯論」としては、「7の松井氏」の「衰退・分裂」が始まり、徳川氏方が勝利し、徳川氏家臣と成る。)

以上が前段末尾である。

「青木氏の伝統 63」−「青木氏の歴史観−36」

(注釈 「駿河青木氏と額田青木氏の銃隊の関係」
この一族の青木氏の関係の中に存在する疑問を詳細経緯として解いてみる。
「重要な幾つかの疑問」があり、これが判れば「青木氏族」はより理解され「青木氏の歴史観」と成り得るだろう。
そこで何故、「駿河の青木貞治一族」に「額田青木氏」と同じ様に、この「特殊銃」を与えなかったかの「疑問」が残るが、それは「実戦銃」を目的とせず「護身銃・抑止力銃」であったからだ。
「青木貞治隊」は大いに希望し「秀郷流一族一門」からも求められた事は間違いなく考えられるが、上記の「三つの要件」を備えていながら頑固に然し渡さなかったのだ。
勿論、「伊勢」から観れば、「実戦銃」を目的とせず「護身銃・抑止力銃」であった事ではあるが、もう一つは「松平氏の中での位置関係」に従を渡す事に依って起こる“「歪みが生じる事」”に強い懸念の配慮があったと観ている。
これが「額田青木氏の南下国衆」の「伊川津での例」に漏れず「旗本との軋轢」を受ける結果と成っていたのであろう。
それは「銃の威力を持つ事」に依る「権力闘争の歪み」である。
それ故に、「壊滅状態の三方ヶ原」で無理にでも近づく事の出来ない「銃弾幕」を張って「銃力」で以て「青木貞治隊」を救い出したのだし、救い出せれば「秀郷流一族一門」に対する「伊勢の立場」は保全出来る。
「2年後の長篠後」でも「貞治の子の青木長三郎隊」はこの抑止力で生き残れているのだ。
尚、「江戸期初期」に入ってでも「秀郷流青木一族」は、「伊勢」に於いても「徳川氏」と血縁し、中でも「家康の孫娘・勝姫末裔が入った事と伝えられている。
これには、そもそも「勝姫」とは「天崇院(1601年 - 1672年)」の事で、 「 徳川秀忠の娘、松平忠直の妻」の「裔」としているが、「勝殿の呼称」で記されていて特定が不明ではあるが、これには明確な不明の理由があった。
然し、「忠元家の青木氏・伊勢秀郷流青木氏」と「信定家の青木氏・伊勢青木氏」の融合族の「二つの血筋」に三つ目が加わり娶り、「青木氏の四掟の伝統」から外れた「徳川氏の血筋・立ち葵紋」が「四家」に加わったとされているのだ。
改めて「五家目の融合族」の「姓血縁の伊勢四日市殿」と成ったとされている「五家目の家」なのだ。
この様に新たに「徳川氏の姓血筋」を入れて安定化を図ったが、「平安期からの融合の青木氏族」の「四日市殿」と云う一族を「姓血縁の四日市殿」を構築しているのだ。
これが「青木氏族の以後の立場」を保全させたのだ。
「青木氏の安定化」と云うよりは「青木氏の財と格式向上」を徳川側が間違い側がなく狙ったものであろう。
「秀郷流青木氏宗家」を中心として「秀郷流一族一門」が裏で幕府と動いた事であろう。
この「勝姫時期」は「紀州藩初代頼宜との良好な関係」や「紀州藩の殖産への貢献」や「近習番頭と成り出世したと貞治の子の長三郎等」の裏の活躍があったと考えられ、そう云う風に成る条件が揃い過ぎている。
ここで参考として「不明の理由」だが、そもそも「勝の姫の呼称には、「徳川氏の姫の総称の呼称」であって同じ呼称を歴史的に観て6人も使っている史実がありこれは「伝統」であったらしい。
「伊賀越えの事件」で逃亡中に、「徳川氏との血縁族」のこの「伊勢の四日市・辰野青木氏の融合族の四日市殿」にて一時休息したのもこの事の縁から来ていると観られる。
この様に、この「青木貞治の内部の活躍具合」が無ければ、前段で論じた様な「青木氏の氏是」を護り通し、この様な「活躍・繁栄」は無かったと考えられのだ。
これが、即ち、「青木氏一族の鍵」であったとも云える。
「三河国衆に合力する事」も始めとして相当に「渥美湾の制海権の獲得の条件」の時にも「秀郷流駿河青木貞治一門」の「内部での一連の活躍」はあったと観ているのだ。
さうで無ければ、急に“これだけの事”を「好条件」に導き出すには「伊勢との直接交渉」だけでは難しかったと観ているのだ。
「情報獲得の面」でも、「籠城戦」から「野戦に変更した事」を「短時間」の間に「内部の情報」を掴んでいるのだ。
つまり、「浜松城」から「館山街道の湖東町交差点」の「短い間」で「内部事情」を掴んでいるのだ。
そして、「理由・目的」は兎も角も「東の三方ヶ原」に踵を変えたのだ。
この時、「二俣城開城」で「城の兵・1280」は「武田軍と協議」の末に「浜松城」に解放されているのだ。
「東の三方ヶ原に踵を変えた理由」には、「伊勢側の資料」では「様子見」であったとしているが、この「青木貞治」と情報提供時に「何かの交渉・接触」があったのではないか。
この後、「情報提供の後の三方ヶ原」で「南下国衆の銃隊の指揮官の一族」で「駿河青木氏伊勢との血縁もある」の「青木貞治」が「戦死している事・戦記では覚悟としている」を考えると、「松平軍の情報」を詳細に示唆し、始めから「伊川津に戻る事」を示していた事が予想できる。
「青木貞治の隊」はどの位置に配置されていたかは正確には判らないが、「駿河国衆青木氏・四騎200」であるので、記録からは右か左かは不明だが西向きに陣取った事から駆けつける方向からすると左側でありこの状況証拠から「鶴翼部の左付け根域に居た事」は充分に予想できる。
でなければ救い出せなかった筈である。
根拠は無いが「状況証拠」から「東左鶴翼」に居たと推測する。
この隊の少し「東の付け根の位置域」に影の様にして「銃隊が位置した事」から観て、目的は別として「戦況の様子見」ではあった事が先ずは判るし、これを「補完し助ける意味」でも、「軍議情報を得ていた事」からこの隊の少し「東の付け根の位置」にしたのではないかと観ているのだ。
「青木貞治隊」を“一族である”のなら放置する事は先ず100%無いだろう。
いざと云う時には、「武田軍の本隊」に対して「銃射撃の弾幕」で助け出す事を目論んでいたと観る。
現実に「山県軍の別動隊の突然の突撃」でその様に成って仕舞ったのだ。
「左翼面に居た青木貞治隊」を「東の付け根の左位置」から「左斜め」に向かって「銃の連続弾幕」を張っての煙幕の中から救い出した事に成る。
この時、同時に「前方右鶴翼側面のやや斜め方向から「山県軍の別動隊」が突然突撃して来たのだ。
左方向と右方向の左右に弾幕を張る難しい結果と成ったのだ。
現実にはこの方向の流れに動いた。
然し、「山県軍の別動隊が突撃して来たという事」で「銃隊自らも危機」と成り、応戦して撃退したが、この同じ位置関係の混乱の中で「駿河の青木貞治」も「伊勢の青木・・の指揮官」も共に「原因」は別として戦死したのだ。
可成り混乱した可能性がある。
「銃隊」はこの混乱で「次の差配頭・伊勢秀郷流青木氏の者」が「指揮を執っていたという事」に成るが、故にこれが「伊勢の資料」では「一族の二人の戦死」が重複するような「不詳の内容の原因」と成っているのだと観られる。
恐らくは、歌や俳句の様に「文面の表側より内側」を察すると云う「当時の言葉の使い分け慣習」があって、それでそれを会得していない筆者には読み切れ無かったのであろう。
「駿河の青木貞治の一門の隊」は、後に、上記した「堺からの逃亡・伊賀越え事件」で「戦功・勲功」を揚げている事から、一族全員が生き残ったと観られる。
「山県軍の別動隊」が突撃して来て「銃」で応戦したが、この時、「銃隊の一部」が「駿河の青木貞治の一門の隊」を護る為に、「武田軍の本隊」の先端に「銃弾」を浴びせて「事前の計画」としても開戦より相当に早期に「200兵の全部」を救い出したのではと考えられる。
そうでなければ戦況の結果から無理であった筈である。
突撃して開戦と成ったが、救出が全部とすると開戦と同時であった事が云える。
相当に慌てた事になったろうが、「青木貞治隊」は東に逸れて天竜川沿いに「盤田見附の西光寺・菩提寺」に目がけて走ったのだ。
そのタイミングは「山県軍の別動隊の突撃後」の直ぐ後と云う事に成る。
故に、「伊川津の西光寺・現存」より「54k・船1日」の「真東の盤田見附」に「菩提寺・西光寺」が今も遺しているのだし、ただこの時、“見捨てて逃げる”だけでは、それ以後も「一族関係」が保たれている訳はないが保たれていたのだ。
当然に、これは「副将青木貞治の子孫」に於いても云えるものである。
そして、「示唆の通り」に「予定通り」に「戦線離脱」して「伊川津に戻ったと云う事」に成る。
この時の状況には確認しておく必要がある事は、直接、「二俣城の副将・青木貞治」であって「二俣城開城後」に「浜松城に戻っている事」とすると、この「大きな犠牲の敗戦要素」と成った「山県軍の別動隊」の事は、「二俣城」で「青木貞治」は承知していた筈で、“何れの日にか「武田軍の本隊」に合流する”と見抜いていた事にも成る。
そして、直に「詳細な内部情報」を掴める「作戦会議」には「副将」であるので参加していた筈である。
問題は、“何時来るか”の「時間の問題」は判らなかったのであろう。
それは「別動隊の使命」として「補給路の確保」があったからで、「戦う」と云うよりは「二俣城」の「戦場処理・戦後処理・補給体制」に重点を置かれていた筈で、「武田軍の本隊」だけでも戦っても“松平軍は負ける”と「副将青木貞治」は観ていた可能性はある。
但し、この前提は「籠城戦である事」だった。
そこで、「別動隊の使命」として、「三方ヶ原に補給拠点を構築する事」で何時かは早い内に来るだろうと観ていたのだ。
「二俣城開城後」は開城であって落城で無い以上、周囲の勢力は未だ抑えきれていなかったのだ。
これに大分時間が掛かったのだ。
そこで、「松平氏の作戦会議」では、「青木貞治」の「山県軍の別動隊の行動」を詳細に論じた可能性がある。
それを聞いた「家康」は、この「補給拠点を破壊・確保」の為に「籠城作戦」を急遽、変える決心を密かに決めたと云う事であろう。
「一言坂」で野戦し敗戦して「家臣の犠牲」のもとでやっとの体で「浜松城」に逃げ帰ったと云う経験がありながらも、「堀江城の落城」を聞いて「冷静さ」を無くし、これの「経験」を生かさずに再び異常にも「野戦」に変えたとする定説には一類の疑問を感じるのだ。
「密かに決めたと云う事」が周囲から判らず、「冷静さを無くし」に判断されたのであろう。
この「作戦変更」で、「三河戦記」にも記されている様に「二俣城の開城の敗戦の責任」を執る為に死を覚悟したとする定説に導いたのであろう。
そもそも、「青木貞治の個人の心の中」をどうして判ったのかである。
筆者は偶然にも「貞治と銃隊の両指揮官の戦死」に「疑問イ」を持っているのだ
では、その時の「二俣城」の「譜代家臣の主将・中根正照」と「副将の松平康安」はどうしたかであるが、「三河戦記」の中に戦死者としてこの二人は含まれていないのだ。
故に“副将の青木貞治だけが死を覚悟したとする定説”は疑問で、もつとその前に「責任」を執るべき「二人」は居たのだ。
では、先ず、其れには「軍議」にあって、この「軍議の中」で“青木氏貞治に何が起こったのか”の「疑問ロ」である。
「戦記」でこれだけの事を定説として記されている以上は、何も無かったと云う事には成らない筈で、「戦記に残す右筆衆」が「戦場の全体を見下ろせる安全な所」から観ていた筈だし、且つ、戦後、生き残りに聴取して正確な資料を纏めていた筈である。
これを「当時の仕来り」では「家康」に「論功考証の為」にこの「右筆衆」は報告書を提出している事に成っている。
つまり、「疑問イとロ」の様にこの「右筆衆の原石」はこの様には書いていなかった筈である。
筆者は詳細経緯として、確かに形の上では「責任を採った事」には成っていて間違は無い様に観えているが、その「責任の取った理由」、将又、「採り方」に「疑問イとロの本当の問題」があったと観ているのだ。
上記した様に、「青木貞治」は「額田青木氏」に「内部の情報提供時」に「一族の者・200の救出」を城外に放り出された「南下国衆の銃隊」に依頼したが、この「救出の際」に弾幕を張って救い出したが、そうだとしたら「敵の目」を騎馬上から「混乱の中」で自分に“敵の目を引き付けた”と筆者は先ずは観ている事に成るのだが、この考えだとすると、「混乱の状況の時系列」が変だ。
そもそも、他に「青木貞治隊」にも犠牲は出ていた筈だし、「銃撃」をされている「騎馬隊」には相当の犠牲が「銃弾幕」で出ていた筈だ。
果たして“敵の目を引き付けられた”かの疑問が出る。
この場合では、又、騎馬隊と山県軍とが交差する事にも成る。
つまり極めて味方同士で混乱してしまうし、「本体の騎馬隊」は動けなかった筈だ。
そんな戦略は絶対に信玄は執らないであろう。
「山県軍の別動隊の突然の突撃」を観て「騎馬隊」は進軍を待った筈だし、現実には「弾幕」が救出の為に「武田軍の先頭」と「突撃の山県軍」に目がけて前が見えない程に連射されているのだ。
“観ているが精一杯の事”であった筈である。
「青木貞治は有名な将である事」は、「武田軍の本隊」は「二俣城」で承知していて、突然に敵前に向かい、この間に「武田軍の本隊」が近づけない様にした上で「南下国衆の銃隊の弾幕の誘導」で救出したのであろう。
それ以外に他の隊員の無傷で救い出す事は出来ないだろう。
何故ならば、「青木貞治」もこの弾幕の中に包み込めば救出は隊員と同然に容易であった筈である。
然し、「向後の憂い」を無くし、この事で「弾幕の中に入る事」はしなかったのかだ。
つまり、何を云わんとしているかと云うと、「松平軍の軍議」に於いて相当に「二俣城の無戦開城の責・水攻めの責任」を問われる前にその最初に責任を執るべき人間がいたと云う事だ。
然し乍ら、これを「三河旗本衆」に問われたのではないかと云う事だ。
「家臣の主将・中根」と「軍目付・軍監の松平康安」の二人も居たのである。
確かに「全員戦死の覚悟」で「二俣城」でも「時間稼ぎ」を求められていたが、「譜代家臣の主将の中根」の責を問うのでは無く、「旗本」ではない「副将の青木貞治」に非難が集中したのではないかと予想しているのだ。
要するに「軍議」での「庇い合い」であり、「副将の貞治」に押し付けたのだ。
「松平康安・18歳初陣」は、「大草松平氏の出自」で「曾祖父」は「家康」に反抗したものの裔であり、「軍目付・軍監」して「二俣城」に派遣されていたのであった。
この「二俣城」は、そもそも元は「今川氏の家臣の松井氏の居城」で、縁あって「青木貞治」は「遠州国衆・経緯下記」としてこの臣下にあった。
恐らくは、「旗本との間」でこの「関係」に「糸を引いていた事」と考えられる。
然し、この事に就いて「右筆衆等」が、「何かの形・郷土史や手紙や寺や一門記録」で残しているかと観て調べたが遺されている資料は無い。
「無いと云う事」は、これは「家康の用人」として、将又「青木貞治の子孫」が重用されている立場として、“江戸期に成って「幕府の権威」を下げる様な「史実」を世に遺すのは好ましくない”として消し去った可能性が高いのだ。
それは、実はこの事に及ばず「秀郷流青木氏の資料」が研究にも具する程のものも遺されていない「理由の一つ」としても此処にあるのだ。
一族全員がそっくりと家臣と成った「秀郷流青木氏」には遺せなかったのではないか。
その「残念な理由」とは、「秀吉天下の対応」で「徳川家康」は「武蔵転封・1590年」と成ったが、この際、武蔵の「秀郷流一族一門」を「味方」に着ける為に「一族一門の者の一切を家臣・官僚族・旗本家人衆」に抱え込んで「味方」に着け、自らも「藤原の朝臣」とし「氏名」を名乗る程に慎重に扱ったのだ。
其れも、「平安時代の習い」に従い、「徳川氏の御家人・天皇家の家人扱い」として「特別な格式」を与えて、「旗本」とは別に幕府で「事務官僚・本領安堵」の「家人衆旗本」として重用したのだ。
当然に「格式の無い旗本・近習衆」はこれに猛烈な反発をした。
それ故に、「幕府の権威を下げる資料」などの保存は悉く抹祥されたのだ。
これが所以の一つなのである。
ここに至る「詳細経緯の始点」も“「駿河青木氏の貞治」”に始まるのだ。
そこで、この行の“「一族一門の者の一切を家臣・官僚族」に抱え込んで「味方」に着けた”に付いての浚っておかなければならない「疑問」があるのだ。
それは、“「徳川氏」が何も無しで「この状況」を作り込んだか”である。
この「氏家制度」の中ではこれはあり得ない事で、個々に「家臣に成る等の事」は一切出来ず、もし、それをすれば一族一門から排他され滅ぼされる始末の世の中で、「互いの結束」に依って身を護っていたのだ。
当然に、今論じている「額田青木氏等」と「伊勢」を始めとして「全青木氏族」も同然であった。
故に、「武蔵入間の総家」との「繋」が無ければ成り立たない「時代事」であった。
筆者は、この「徳川氏の繋ぎの役目」を果たす事が出来た唯一人の人物は、「青木貞治の子の長三郎・御側衆・上級側衆・最終は上級番方に成る・3500石・1400貫・国衆から旗本に」であったと観ているのだ。
何せ役柄と云う点からもピッタリである。
「本能寺の変頃の伊賀越え」から「江戸期初期」の「長三郎の役目柄と子孫」もその様な立場にいて、「最終」は「名誉格式を持つ上級番方頭・家人旗本」に成っているのだ。
「本論の詳細経緯」の特筆するはここにあり先ず間違いは無い。
後勘から観ると、これが「伊勢青木氏等の青木氏族」に執っても「生き方」を「良い方向」に向けた「所以の起点」と成ったのである。
唯、その「起点」を作った「初代・青木貞治」には「波乱万丈の人生」であったと云える。
何事もこの世は初代は、波風の人生を送るは世の常庸であった事は理解できる。
この「波風の人生」を物語る「徳川氏の出現」は、「長篠後」に奪還したこの「二俣城」を何と「最大旗本の大久保忠世」に任しているのだ。
これを観てもこの「人物の旗本」には、「駿河青木氏」のみならず「伊川津の額田青木氏」に於いても「同じ仕打ち」を受け続けていたのだ。
それだけに「松平氏・1563年改姓の徳川家康・上野国土豪得川の先祖」から「徳川」と解明したが、これを「長篠後」に大いに使う結果と成った。
「改姓する事」に依って「今までの三方ヶ原での印象」を「これからの長篠での印象」に変えようとしたのではないか。
この「松平氏・徳川氏」に執っては、「二俣城の敗戦」は厳しく「戦略上の重要拠点」であったのだし、その「不満の矛先」を「軍議」では、「主将中根」や「軍監の松平康安」に向けられずに戦記の表現の通りに「青木貞治に向けた」と考えられるのだ。
然し、「所以の起点」を造り出した以上、つまり、その後の「江戸期」では、この「御家人と旗本と御側用人と上級番方・家人衆旗本」と合わせて「格式のある家筋の立場・秀郷流青木氏」に成った以上は、「旗本」は「怨嗟と嫉妬」から来る「不満の矛先」を簡単に向け難く成ったと考えられる。
然し、前段でも何度も論じたがからは「吉宗」を裏で将軍に「仕立て、且つ、「親代わりの役目」として、共に「江戸向行」し、「享保の経済改革」を市中で実行した「伊勢青木氏・伊勢屋」でさえ、矢張り、「大久保・本多の旗本」等の旗本から「不満の矛先」は益々向けられたのだ。
「伊勢」に限らず「信濃青木氏」にも同然に酷い仕打ちを受ける結果と成った。
流石に「信濃も受ける羽目」と成り、「晩年の吉宗」もこの「不満の矛先」に加わりこれを止める事さえも出来ず、江戸では遂には「危険が生じる事態」と成り、急いで「伊勢に戻る羽目」と成ったのだ。
其れだけではこの「不満の矛先」は依然として治まらず、「奈良期の天智天皇」より「伊勢の永代不入不倫の権」と「伊勢の事お構い無しの家康のお定め書」をも無視され、結局は「青木氏族・伊勢屋と伊勢シンジケート」と、関西を仕切る幕府の「伊勢の山田奉行所・吉宗も同調・史実記録」との間でも「戦い寸前・ゲリラ戦・関東秀郷流青木氏が動き見せる」までに及んだのだ。
「三河旗本の嫉妬怨嗟」は、此処までも続く傾向は斯くの如しであって、これが「軍議」の「青木貞治」にも向け背れていた事は後勘から観ても先ず間違いは無い。

結局は、追記するが上記の「伊勢の件」は「紀州藩・伊勢藤氏の青木氏一族が全家臣に成る」が強力に介入し、間に入り「治まり」を着けたが、今度は、その「紀州藩」に「謀反の嫌疑」が架けられたが耐え偲んだのだ。
「格の如し」で「青木貞治」だけに及ばず「青木氏族全体」に「不満の矛先」は向けられそれが先鋭化して行ったのだ。
世の中で殆ど消えて行く中で今未だ比較にならない程の「格式力と財力と抑止力」を持ち続けそれを以て正統に活き、それを背景に「政治」も裏で動かす「唯一の氏族」には「姓族の姓社会」では我慢が成らなかったのだと考えられる。
この「嫉妬怨嗟」は、「人間社会」では人間である限りに於いて変わらないし否定はしないし、無くなる事は先ず無いのだ。
然し、「青木氏族自身」もそれを特段に取り立てたものとして考えてはいなかったのだ。
「青木氏の氏是」や「戒めの家訓10訓」を観れば、それが良く判り「普通の人間が生きる範囲」であったのだ。
故に、「青木氏族以上」には「その過去と現在」に付いて周囲が必要以上に「意識を高めた行為」であったのだ。
取り分け、「一向宗を概念とするこの三河族」に執ってはその「教義」から影響してやや「三河者の意識を高めたと云う事」であろう。

さて、話を戻してそこで、更に「詳細経緯」を論じる。
この「苦しい環境の中」で、「青木貞治」は次の手を打ったという事だ。
この時に上記した様に「堀江」に向かい始めた「武田軍の本隊」を「南下国衆の銃隊」は追尾していたのだが、そこで急いで「南下国衆の銃隊」に「情報提供した」と考えられる。
然し、「詳細経緯」として「青木貞治」は、何故、“追尾していた事を知っていたか”に掛かる。
それは先ずは“「何かの連絡網・情報手段」”が「青木貞治との間」に構築されていた事に成る。
それが、「伊勢」から派遣されていた「南下国衆の銃隊」に影に成りながら帯同していた「伊賀青木氏の忍者衆・香具師・隠密商人」にあったと観ているのだ。その形跡が資料の隠れた意から伺える。
「青木貞治隊」と「連絡」を取れる様に「伊賀青木氏の忍者衆・香具師」が隊の中に入っていたのだと云う事だろう。
筆者は、寧ろ、二俣城開城後に「青木貞治隊200」に「兵」として「伊賀青木氏の忍者衆・香具師の援軍」を送っていた事が考えられる。
其れは「浜松城に呼び出された時」に「記録」では、訓練を受けたのは「額田青木氏の南下国衆の銃隊300」であったが、突然にその後の「記録」では「南下国衆銃隊350」と替わっていて行から「荷駄隊50」が加わっていて、これは前段でも「伊賀青木氏」と「伊勢秀郷一門」の「合流隊」と説いた。
然し、当然に「青木貞治隊」にも「武蔵の秀郷流一門からの援軍」と「伊勢からの援軍・伊賀青木氏の香具師」が加わったのではないかと「必然的な流れ」から「当然の事」として考えられるのだ。
その時期であるが、「伊勢からの援軍」は、時系列から可能な時期は、矢張り「吉田城」から“「浜松城に呼び出された時」”であろう。
従って、時系列から「二俣城が開城した後の事」に成る。
又、「武蔵の秀郷流一門からの援軍」の場合は、時系列から当初から「副将」として入った「二俣城の時期」と成る。
さて、そもそもその前に論じる事がある。
それは、“何故副将と成り得たか”と云う事である。
「副将」とする為には、当時の慣習から「青木貞治の兵数」を増やし「武蔵の秀郷流一門からの援軍」とした可能性がある。
何故ならば、因みにこの検証として、「駿河青木氏」の「今川氏の時代の国衆の知行」は次の様であったらしい。
「江戸期」では、上記した様に「3500石で家臣数200で1400貫」と記されている。
ところが、「室町期」の国衆時の当時の「圷の野」であった「盤田域の庄面積」は、次の様であった。
約1800反程度弱≒1800石程度≒6000平方坪程度以下と成る。
そうすると当時は、1貫≒2.5石 7貫≒1兵 1反≒1石≒300坪≒1人の原則があった。
「1家」を5人として360家、この内の「農民の家」は8割として288、残りが「武士の172家」であり、「戦いに参加出来る者」が「最低家1人」とすると、「ave(172)≒約170人程度」と成る。
この「最低の基準」の「ave(172)≒約170人程度」に達しない場合は、農民の次男三男が「農兵・荷駄兵」として事前に金を渡され駆り出されるのが当時の戦時下の仕組みであった。
そうすると「戦線に義務付けられた基準」は先ず「720貫 兵102人:1800石」と成る。
つまり、兵としての「兵数」が「約68人程度・援軍」が増えていた事に成る。
然し、これでは「副将」とは成り得ないのだ。
つまり、この差が「援軍・68+X」であった事に成るのだ。
当時は、「1将」に対して「4騎」が着き、「1騎」が「50兵」と云う基準があったので、「200の兵」でやっと「将」と扱われ、「軍議に参加できる基準」であったし、故に「副将扱い」に成ったのだ。
これで「秀郷流青木氏・第二の宗家」が中心と成って「駿河青木貞治」には「兵数」が足りないので何らかの手を打った事に成る。
そこで、「援軍を送る事」で「松平氏の中」で「副将扱い」に成る様に「秀郷流青木氏一門」は計らった事に成る。
そうするとこの「Xは28」と成り、「合計98人以上」を「援軍」として送る必要が出て来たのだ。
敢えて、少なくとも「約100兵程度を援軍」として送り副将にして「発言力を着けさせた事」が判る。
これを当に「数字」が援軍と云う策を執ったと事を物語っているのだ。
故に、本来なら「軍議」に充分に参加できる「額田青木氏の南下国衆の銃隊300+荷駄50」が「軍議の命令」を拒否し、何と「城外」に放り出された。
それは国衆の契約条件に反しても「銃」を陣形の前に出して戦う戦法を拒否したのだ。
以上は、「駿河青木貞治」は「軍議の情報」を彼等に流し、これらの「援軍」と共に「救出」を依頼したのである。
「額田青木氏・指揮官伊勢秀郷流青木氏」としては、「情報の救出依頼」があったとしても必然的にも「両者の援軍」を救出する事は、「疎遠・血縁」で無かった以上は「一族として義務」も負っていた事に成り得る。
それには絶対的に「戦術的な内部情報」が必要であって無暗には手は出せなかったのだ。
「救出が義務」であるとしても下手をすると「銃隊に大変な犠牲を負う事」にも成り得る。
これ等の「内部情報」を獲得するには元を返せばそれには少なくとも「決定権のある副将」である必要があったのだ。
「詳細経緯」としては、この「義務」を果たす為にもこの「銃隊の指揮官」も「青木貞治」と共に、これでも“相当に際どい戦いと成った事”が判る。
故に両方の指揮官が「戦死したと云う事」でもあろう。

“「堀江」に「本陣」を置いて「二極化拠点」として構築している可能性もある”と、戦略的に考えて「追尾行動」をしていた「南下国衆の銃隊」に対して、故に、「青木貞治」は、「軍議の内容」から“これは危険”と観て、得た「軍議の内部情報」を「銃隊の指揮官」に対して提供出来たのだ。
そもそも、「負けると判っていた戦い」に「一族の者を援軍として送る事」は先ず無いだろうし、この「援軍」は「戦うと云う勢力」よりも「将にする事」に依って「内部情報の獲得の手段」を主目的として有利に導こうとしていたと云えるのだ。
其れならば、「籠城戦」から「野戦」と成り前提は異って仕舞ったので、参戦し野戦と成った以上は「青木氏族」には後は「救出してもらう事」しかなかったのだ。
それには、”無事に救い出す”には「額田青木氏の南下国衆の銃隊の銃力に頼る」と云う事に成り得り得たのだ。
それが「銃力・弾幕」で「武田軍の本隊の進軍」を一時止めさせてその隙を突いて「救い出す作戦」に切り替えたのだ。そしてその「準備」を始めたのだ。
それには逃げ込む道すじ・場所・タイミング・合図や銃隊の引き上げ時期等詳細な打ち合わせが両者に執って必要であって打ち合わせたのだ。
其処に、「山県軍の別動隊」に対しては良しとしても、結局は1h〜2h経てば「武田軍の本隊」が別動隊を救出に来る事は必然で、この「愚策の鶴翼の陣形」と成れば「銃隊の指揮官」に執ってはこんな危険な事は先ず無かっただろう。

「総崩れに成る事」は戦前でも充分に予想できただろうから救い出すには「一瞬の隙」を作るしか無かったであろう。
「伊勢の勢力」も「額田青木氏の南下国衆の銃隊」も「援軍の秀郷流一族一門」も「青木貞治隊」も4者共に慌てたであろう。
そもそも、この事は「開戦」と同時に問答無用に「救出の必要性が迫っていた事」に成り、故に「南下国衆の銃隊」も救出後に即座に「戦場離脱に迫られていた事」に成るのだ。
何故ならば、「補給拠点での野戦・三方ヶ原」と成れば「武田軍の本隊」は「山県軍の別動隊」を救う為に「堀江城」を出て「三方ヶ原」に向かうと観ていたのだ。
そうなれば、「山県軍の別動隊」との「西東の挟み撃ち」に成る可能性が出て来て、「300の銃隊」と云えども、再び「一言坂の遭遇戦」を再び呼び起こす結果と成り、“「危険」”に陥っていたのであった。
この時、ここで「安全策」の一つとして「西の伊川津に戻る策」もあったが、そもそも「一族を放置する事」が出来ず、一族の「駿河国衆の青木貞治の隊」を「何とか守り救出する為」にも、且つ、充分な「様子見の為・場所取り」にも急いで「三方ヶ原」に向かったのだ。
そもそも、「急いだ事」は、「戦い」の「場所取り」では無く最も「物見」によって“救出に適した位置取り”と「離脱場所の位置取りの点」にあったと観られる。
然し、前段でも論じたが「事態」は急変していたのだ。
予想通り、「武田軍の本隊」でも充分に戦えるとして「山県軍の別動隊」が「補給拠点築造の使命」で、“北の山際に待機するかも知れない”と観られたし観ていたが、何とこの「補給拠点築造隊」で「挟み撃ちの作戦」に突如出たのだ。
それは、「青木貞治」が位置している前線と松平軍に対してであって、結果として「左鶴翼の付け根部分」に位置取りしていた「南下国衆の銃隊」にも巻き込まれる可能性が充分に出て来たのである。
そこで因みにそもそも、主に「戦い方」には中国から伝わった「八陣形」と呼ばれる陣形が平安期からあって、「魚鱗、鶴翼、雁行、彎月(偃月)、鋒矢、衡軛、長蛇、方円 他には「決死隊の長滝等」があった。
「武田軍」は「赤兜の騎馬隊・本隊用」を持っていたので、これをそれぞれの陣形に合わして配置して特徴を出して陣形を強め「無敵の騎馬隊」と呼ばれていたのだ。
「赤兜の騎馬隊」を持たない「山県軍の別動隊」は、それが逆に戦力の弱い「補給基地築造隊も含んでいた事」から、これが上手く行けば戦力の弱い「補給基地築造隊」を戦わす事なく護れるので、これを「背後」に廻して一列に並んだ「長蛇陣形」の「鶴翼突破型の全軍側面突撃」の形に似ていたのだ。
ところが作戦通りに「長蛇陣形」が良かったが前段でも論じた様に思い掛けない事がここで起こり違ったのだ。
突撃と同時に突然に何と強力な銃弾がとぎれる事無く、其れも先頭から後尾までに一斉に遠方から命中率良く一斉同時に浴びせられたのだ。
寧ろ、逆に「長蛇の陣形」が痣を成した形と成って仕舞ったのだ。
「銃隊の存在」を強く意識していれば、「鋒矢の陣形」で「補給基地築造隊」を包み込む様にして「敵中突破の突撃」を仕掛ければ犠牲は少なかった筈であった。
つまり、これでも「銃隊の存在を読み違えた事・下記」が判るのだ。
筆者は、「救出用の隠れての位置取り」であった「南下国衆の銃隊」が「見え難かった説」を採っている。
つまり、北の山際から観て左斜め鶴翼の付け根部域であった事で「松平軍の影」に成って正確に存在を見分けられ無かったのであろう。
「三方ヶ原の補給拠点」を、急遽、「野戦」に出て「松平軍に確保された事」で、この情報を得た「堀江」に居た「武田軍の本隊」が、「三方ヶ原の奪還」を目指して東に向かいこの「山県軍の別動隊」も遅れて到着した。
この事で「三方ヶ原の補給基地」を築造後、ここの「守備隊」として「山県軍の別動隊の使命」として着く予定であった事はこれで「当然の事」としてこれで判る。
戦略上では、「先に守備隊として確保したものを奪う戦い・奪還作戦」は難しいのは何時の世も先に奪取するのが「戦略の常道の知識」である。
故に、家康は、突然に「籠城」から秘密裏に「野戦」に変更し先に確保しようとしたのだ。
それには「家康の考え」は取り敢えずは成功した。
「別動隊の使命」に基づき「補給拠点構築隊」も引き連れていた「山県軍の別動隊」は、「本隊」に合流せずに、「援護守備兵であった事で遅れた事」もあって、「鶴翼の右側面の山際」に開戦ぎりぎりで陣取った。
「拠点の三方ヶ原」を「先に奪取された事」で「使命の達成」が出来なく成って仕舞ったのだ。
そこで本来であれば「武田軍の本隊と松平軍との戦い」に成ると、遅れた事の道中で「山県軍の別動隊・目的が違う」は「北の山際での駐留」まで考えていたのではないか。
ところが、ここに到着して観れば、「二つの事の異変」に気づいたのだ。
一つは、「弱小の松平軍」が何と「予想の戦術・魚鱗の陣形」では無く「鶴翼の陣形」を採っていた事である。
二つは、「西向きに陣形」を向けていた事である。
本来であるなら「浜松城を背景に陣形を北向きに採る」のが常道である。
西から来る「武田軍の本隊」と東から来る「山県軍の別動隊」が合流して北を背景に陣形を組むのが常道である。
この「南北の陣形の向き」であれば何れも両軍に執って「有利な位置取り」である。
ここで遅れて来た「山県軍の別動隊」に執ってだけに「不利な事」が起こったのだ。
それは、「西向きの鶴翼であった事」に依り“武田軍の本隊と合流出来ない”と云う事が起こったのであった。
「遅れた事」に依って「北側の山際」に“単独軍として離された形と成った事”であった。
「松平軍・家康の命令」はそれを狙っていた事にも成る。
そこで「予想していた事と違った事」が起こって、「戦況」を其の侭に観ているか、さもなくば「武田軍の本隊」より前に行動するかに迫られたのだ。
そこから「別動隊」であった以上は「状況」に応じて「独自単独」に移る事が出来る。
今度は何と「松平軍」に執っては予想外の“「援護守備兵」で「鶴翼の右側面・弱点」に本隊よりも先に突撃して行った”のだ。
「山県軍の別動隊」に執っては、その「行動の判断」は「同時」や「後」は「武田軍の本隊の行動」を遮る事に成り、且つ、「敵が鶴翼陣形」である以上は著しい混乱を招く事に成る。
これは「得策」では無いとして、先に、最早、“「使命達成」は当面は不可能”と判断した。
そして、「二俣城」からの「移動の行列」が、丁度、「長蛇の陣形」である事から「鶴翼側面」を「後尾の補給基地築造兵」を護る為にも「一点集中の突撃突破」で攻撃に入ったのだ。
これを観た「武田軍の本隊」もこれに引き続き「魚鱗の陣形」で「総崩れ」と成っている「鶴翼の松平軍」に向かって前進し完全掃討し勝利したのだ。
唯、この時、復もや「山県軍の別動隊と武田軍の本隊」とに「思い掛けない事」が「南側」で起こったのだ。
それは、「南下国衆の銃隊の存在」は「一言坂」と「追尾」で承知していたが、まさかの「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の「戦いへの参戦」であったのだ。
「武田軍の本隊」からはそう見えていた筈である。
恐らくは、「牽制程度の事」はあるとは判っていて、“本格参戦は無いであろう”と見込んでいたのだ。
それを示す「三つの証」としてある。
そもそもその「破壊的威力の持ち主の銃隊」でありながらも、“積極攻撃をして来ない事・証イであった。
「一言坂からの追尾」”までと、「堀江城への援軍攻撃」が無かった事・証ロと、「三方ヶ原」に到着して観れば“攻撃の仕難い「鶴翼の位置取り」”とにあった事・証ハなのだ。
「武田軍の本隊」は、この「三つの証」を観て少なくとも“攻撃的で積極的ではない”とその様に考えていた事に成る。
この事から考えても、「銃隊」としては「鶴翼の付け根部に位置していた事」が判っているので、射撃すれば味方も撃つ事に成る「相当難しい位置取り」にあった事である。
これが「救出目的」であるとは観ていなかった事・証ニが考えられる。
然し、「青木貞治隊の救出」と「山県軍の別動隊の思いもかけない突撃」で、止む無く「銃の攻撃」を仕掛けたのだ。
何方も、“思い掛けない予想外の一瞬の出来事が起こった”のだ。
そして、「武田軍の本隊」に向かって「弾幕」を張って先ず「進軍」を止めて、何か弾煙の中から「救出作戦を起こしている光景」が「信玄の目」に入ったし、先に突撃をした「山県軍の別動隊」の「山県の目」にも累々と「戦死者の山の光景」が目に入ったのだ。
どうしようも無い「開戦の一瞬の出来事」であったであろう。
つまり、それは「予想外の事」が「勝利の武田軍」にも、「敗戦の松平軍」の「両軍の目」に入ったのだ。
「弾幕の煙」で一時戦場が観えない程に成ったと予想できる。
開戦は午後の四時頃であったので「谷風・海風」が吹いていて、南から北に向かって谷筋に「三方ヶ原の戦場」に向かって吹いていた。
なので、「弾煙」が消えては、又弾煙が出来ると云う光景が起こっていて、その「武田軍の本隊の混乱中」の間に、この「救出劇」が起こって兎に角にも先ずは「東」に逃がしたと「詳細経緯」としては考えられるのだ。
「山県軍の別動隊」に執っては射撃音以外に何処から弾が飛んでくるかは正確には判らなかった筈だし、武士道の通じない生死の「経験のない恐怖」が先行して「逃げ隠れの出来ない処置無しの状態」であったと考えられる。
故に、比較的に「救出」は容易に犠牲も無く成功したし、「北・戦場」に向かって連射しながら「荷駄隊」と共に、無事に西に後退する「戦線離脱」も容易であったと観られるのだ。
「近づく者」は恐らくは移動しながらの「空砲の煙幕」でも充分であったろうし、「一言坂の経験」の様に100%居なかったと考えられるが、執拗に近づけば実弾連射して撃滅戦を繰り返しながら「戦線離脱」したと考えられる。
この「戦線離脱した南下国衆の銃隊」を「仮・現実には無理」に追撃したとしても「館山街道の例の交差点付近」までであろうし、此処からは「武田軍の本隊」としても戦略上踏み込めなかったと考えられる。
史実はここの状況は何れの戦記にも記されていない事から“追撃は無かった”のではあるが、ところがその前の「やるべき事」が「武田軍の本隊」にあった。
それは「戦場の掃討作戦」と「山県軍の別動隊の支援」にあった筈で、「補給基地の三方ヶ原築造を使命の別動隊である事」を前提にしながらも、「軍事行動」を起こして突撃した事、且つ、「別動隊として浜松城を陥落させる使命もあった事」も考えると、これを支援しなくてはならない「本隊としての役目」が「戦いの流れ」としてあった筈である。
現実に、史実の詳細経緯は、「脚色された三河側の多説」が多いが、「掃討作戦と別動隊支援している事」には間違いは無い。
「救出後の武田軍の掃討作戦」も、「青木貞治一族」が隠れていたこの「西光寺」では、「武田軍の本隊の2度の印象」の中には、“銃隊の一部が未だ居るのでは”と連想し近づく事は出来なかったと考えられるし、命令なしに掃討が出来ない寺であった事は間違いは無い。
何故ならば、そもそも「寝る子の東の秀郷流一門361氏」と、「第二の宗家の位置づけ」の「秀郷流青木氏116」を起こして仕舞う危険性があったのだ。
「青木貞治隊」が「逃げ込んだ盤田見附の西光寺・平城館の大寺」が不思議に戦記上では掃討された事は記されていないのはこの事に依るだろう。
そもそも逃げ込んでいるか否かは別として、「武田軍の本隊」が進軍中に「一言坂の此処」で一時停留しているので、破壊は無いし、確実に「掃討カ所としての確認をすべき拠点」である事は知っていたし、「青木貞治隊」に限らず位置的に観て「松平軍の残兵」が少なくとも一時的にもここに潜んでいる拠点である拠点には間違いは無い。
この様な「一族の菩提寺の西光寺」から「青木貞治隊」が再び“城に入った”と云う記録は無い処を考えると、「武田軍の本隊」が「浜松城」を攻めた場合とか「掃討作戦」で「西光寺の方」が「平城館」の様にして「寺の周囲」を固めれば安全であると考えたのであろう。
故に、「生き残れた一族の勢力」は、江戸期には「御側用人衆・上級番方」として出世して禄高を史実の通り1800石から3500石に倍増させて「駿河青木氏の子孫」は栄えたと成るのだ。)

(注釈 「額田青木氏と駿河青木氏の生き遺りに付いての論」
さて、上記の詳細経緯に至る内容を先に論じて置く。
「三方ヶ原の戦い」に勝利した後、ここに当初の目的通りに「補給基地」を築造せずに堀江城と二俣城などの出城に「守備隊」を残し「甲斐」に全軍を引き上げている。
2年後の「長篠の戦い」の際には、この二つの出城の「守備隊等」は松平軍に対して「善戦をした事」が何れの戦記にも記されている。
つまり、そこで「周囲」がまだ「武田軍の守備隊」に囲まれているこの2年間の「西光寺の駿河青木氏の動向」が気に成る。
この事に関する記録等を探ったが、唯一つ何かを物語る行が「伊勢」にあった。
それは「伊勢水軍」であった。
「出城の山国の武田軍・少数」には「水軍」を持っていないので、伊勢水軍と駿河水軍は「渥美湾に船を廻す事」がある程度可能に成っていた。
「駿河水軍」と連携して「伊豆」まで廻る「商い等の運搬に盛んに従事している行・商記録共に一致」である。
つまり、これは何を意味しているかである。
「三方ヶ原」から伊川津に戻り「陸運業」に逸早く転身し、「縦の陸路1と2」を構築して「信濃」に繋いだし、「三方ヶ原」より「武田軍」が予想外に「甲斐に戻った事」と、「織田氏の西三河への伸長浸食」で「武田軍の脅威」は低下して「渥美湾の制海権」は何とか獲得出来ていたのだ。
この時、この為に「松平軍」が「力・財源を持つ事」に警戒した「織田軍」は、「伊勢」で水軍を造ろうと懸命であって、遂に「熊野水軍の内の九鬼水軍」を味方に引き入れた。
そして、「伊勢青木氏」が「7割株」を持つ「伊勢水軍の伊勢衆・50衆」に対しも「楔・調略」を打ち込んできたのだ。
「伊勢衆の掟」を破り「4組」が「織田軍の調略」に落ちたがこれを「掟と財源」で食い止めた。
然し、結局は1組だけが調略に応じたのだ。
そもそも、「伊勢衆」は「伊勢青木氏の女系の重複血縁の古来からの氏人」であった。
最も尾張に近く縁の薄かった「東の知多一族」が落ちたのだ。
然しながらも、当然にこれに伴って結果として「陸運業」と「海運業」は動ける様に成った。
そうなると、「松平氏の敗戦」に依って「青木貞治の彼等の糧」は失う事は必然である。
そこで「駿河水軍の裔の駿河秀郷流青木氏の一族」は、この「陸運業」と「海運業」にも更に関わる事で、且つ、「武田軍の追及を逃れる事」も出来たのだ。
伊勢が復興させた「駿河水軍・1艘の廻船」を「伊勢・伊勢水軍と伊勢屋4艘」からの「海と陸の中継点」として「伊豆や武蔵」にも繋げる事が出来て糧を戻したのだ。
この「2年間の彼等の糧」はここにあったのだ。
これは「元駿河の国衆」の強味の所以であった。
そもそも、「敗戦し弱った松平氏の家臣」の中に「水軍」を持ち「それに依る財」を持つ「御側衆」はいなかったのだし、「東の大勢力の秀郷一門」を背景にした「家臣」もいなかったであろう。
身分以上に力を持つ「家臣・関東家人衆」に対して、「三河旗本・近国衆」には“かなわない”とする「嫉妬怨嗟の渦の波」が「額田青木氏」と同じ様に押し寄せていた筈である。
「浜松城の松平氏」は、危険な隣の織田氏に近い「西三河」を残し、「北三河と東三河と遠州での糧」を失っていた。
その「衰弱した松平氏」にも経済的に劣らない「身分以上に力を持つ家臣・関東家人衆の御側衆・青木貞治の裔」は他にいなかったであろう。
ところがこれが、「伊勢勢力」を背景とした「額田青木氏」の「三河での商い」と共に、「松平氏の強み」とも成っていたのだ
敗戦被害を受けなかった「西三河の軍勢」には「2000人」を与えられていて無傷で残った。
そこで「松平氏の力」を検証する。
そうすると、尾張に隣接する「西三河」だけが遺っていたので、「1貫≒2.5石 7貫≒1人家来」の「軍制の仕来り」から、最大で1万4千貫≒3万5千石となるが、「信長と秀吉」に依って弱みを突かれて国境の「西三河の浸食・三好域まで」が起こりこれが「2万石」にまで減石されていた常態と成っていたのだ。
これではどう考えても「旗本以外には養えなかった事」に成る。
「三方ヶ原」で全滅に近い敗戦をしているので、どの記録を観ても最大時に「国衆」を掻き集めてやっと合わせて「兵5000・脚色戦記」に成ったとしているが、実際は戦後は「敗残逃亡兵2000程度以下」には成っていた筈である。
先ずは「旗本程度」を養えると成るが、「国衆等」は「自らの糧」を「何らかの力」で得なければ生きては行けない事に成っていた筈だ。
「駿河青木氏」は未だこの時期は、上記した様に一族から援軍を得て「駿河国衆の副将レベル」であった。
上記した様に長篠後に成って「旗本・家人衆」に加えられたのだ。
故に、「駿河青木氏」は「伊勢の青木氏の経済力・商い」を背景に「元の駿河水軍の糧」に勤しんでいたのだ。
そもそも「伊勢青木氏」に依って平安時代に女系で繋がっていた事の所以で末端の裔を何とか探し出され、相当に「駿河青木氏」は「伊勢」に依って呼び興されて訓練を受けた。
そして「船一艘」を与えられて、再び、その「裔系」は「水軍・水運の商い・伊勢―伊豆に運送」で拡大して行ったのだ。
それが「裔系の長」が「青木貞治」であったのだから、「江戸期・長三郎」に成っても「旗本の上級御側衆・上級番方」を務めながらも、この「水運の商い」は辞めなかったのだ。
この様に資料では「相当に豊かな駿河青木氏の裔」を構築して繁栄していた事に成る。
そこで、この詳細経緯として、江戸にも子孫を広げているだろうが、盤田見附に「菩提寺・浄土宗西光寺・再興」の「伊勢青木氏部」に依って大寺を建立できるまでに成り、それを持てるまでに「子孫」を拡大させている以上は、青木氏等の地名や所縁のものが遺されていると考えられるのが普通で、その割には「青木氏とその類証」が「水運業」を生業としているこの地域に矢張り少ないのが気になるのだ。
何故だろうか検証して観る。
天竜川と太田川の二つの大川の間に挟まれた「圷の野」と、この「ほう僧川」の支流を合わせて、「砂丘」の中で出来た「唯一の港・西光寺より南東8k」の地域に「大船が停泊できる港」は、「天竜川」から東に離れて「圷の影響」が無くなる「福田地区」、ここから「海底深度」が良くなるその“「福田港」”がある。
ここに少なくとも先ず「仮泊」を置いて「駿河湾・34k」と「伊勢湾・白子泊」を常用していた事が資料から判っている。
つまり、「福田港の此処」からは「伊豆青木氏」と「秀郷流青木氏・本拠地」を含む「一門の領域」と成るのだ。
この地域には「青木氏に関わる地名などや春日社」も全く無く現在もである。
全て、この「福田港」から「34k離れた地域」から東に急激に「青木とそれに関連する地名」も含めて大量に何もかも出現して来る。
つまり、この差であるる
平安期と鎌倉期と室町期初期の三期までは「青木氏や永嶋氏等の勢力」が伸長していたが、ところが、室町期中期より勢力を東に押し返されて引いていたのだ。
この時の「名残の先端」が突出した「遠州西光寺域の庄」であって、厳しい乱世の中で衰退しながらもここを遺し得たのは「水軍衆の所以」であったと考えられる。
其れを逸早く裔を救って呼び寄せて訓練して戻して伊勢と繋いで生きる力を着けさせて遺し、其の後は前段の論に成るのだ。
結果として全体は「駿河の青木氏」の「名籍」が存在する所まで引いたと云う「歴史的経緯の事」に繋がるのだ。
大まかな時代性としてはその「引き際の処置」で起こった事であったと考えられる。
それだけに「源平化した事」から狂い出し、遂には「源平戦敗退」により「子孫」は元より「遺物」も遺し難かったのだ。
「近江と美濃の源氏化」に対応した様に「伊勢信濃の忠告」は女系で深く繋がる「駿河」にも当然としてあったと考えられる。
と云う事は、その証拠は「駿河青木氏の子孫」の多くは、現在名の静岡県静岡市駿河区の「青木の地名・現在も青木・盤田見附から東54k」が遺る所にあったと云う事に成る。
「伊勢」が「盤田見附」からか「駿河区青木の庄」の何れから「支流末裔」を見つけ出して「額田青木氏」と同然に世に出したと云う経緯である。
「一族の藤枝の秀郷流青木氏・集中」では無く、再び、“「母方の伊勢」”に呼び出して「商いや水軍」等の訓練をさせてから「30年後〜40年後」には、室町期初期から「消えていた盤田域」に「一人前の青木貞治が出た・100裔人」と云う事に成るのだ。
唯、ここで検証しなければならない事は、「盤田見附域の元の庄」を再び獲得するには「財力と武力」が要るし、「菩提寺」を建立し直し維持するには“「相当な財力」”が要る。
其れを如何したのかである。
この「財力と武力」を以て「庄の民・農民」は信頼して従う。
「武力」は「財力」で補完できる。
問題は失った元の庄を獲得するには、上記した「盤田域の庄面積」の「1800反程度弱≒1800石程度(≒6000平方坪程度以下)」の“「地権」”を買い取る必要が先ずあり、奪還する程の武力は未だ無いしそれ以外にも無いし、武力による獲得は「青木氏族の氏是」ではない。
それには、「駿河水軍の水運」だけでは元の庄の獲得は無理で、この時期、必然的に「今川氏の国衆と成る事」が先ずは前提と成る。
その前に、「青木氏族」とは全く縁が無いが、調べた範囲としてこの事の解決に導いてくれた者、況や、「松井氏」に付いて記して置く。
元今川氏の二俣城主であった「松井氏」は、「山城国の御家人・松井氏一族」が建武政権を離脱し「足利尊氏」に味方し、足利氏一門で宿老の今川範国に属して戦功を揚げた。
その恩賞として「建武5年駿河国葉梨荘(現在の静岡県藤枝市・青木氏定住地)」に「地頭代職」を与えられて移住したと定説ではある。
1513年には「今川氏」から「遠州鎌田の御厨領・盤田見附から真東3k・同庄内」を「領」として与えられ、1528年には「平川郷堤城主・盤田見附から真東21k」とも成ったとある。
この「近江から来た国衆の松井氏」は、最終的にこの「天竜川から菊川」の「南一帯の豪族」と成ったのであった。
そうするとこの「地頭代職時代」にこの「藤枝」に定住する「郷氏の秀郷流青木氏・賜姓族の格式」は松井氏を当然に知り得ていた筈であるし、「山城・近江南部・天領地・公領地域」の「御家人・松井冠者源維義」であるとすると、源平戦で衰退はしたが「近江青木氏二氏・賜姓族格式」を完全に知り得ていた筈である事に成る。
この「近江青木氏」と「川島皇子の裔の佐々木氏」とは奈良期末期まで「相互重婚の一族」であって「伊勢」と「近江4氏」とは血縁の縁で繋がっていた。
「松井氏の祖」が「山城の御家人」と成れば「駿河青木氏」とも少なくとも縁は深い事に成り得るがそこまでは縁を追えない。

奈良期の古来より「近江」には「伊勢青木氏一族」は「施基皇子の時代」から全く縁が無かった訳ではない。
そもそも「近江の日野等」は、奈良期から「日本書紀等」にも記されている通り「賜姓五役」の一つとして「令外官」として「鉱山探索・鉄の産地・鉄穴役」を命じられたが、その所以あって、そこを「領地」として与えられ「統治」を任されていた事が判っている。
そして周囲には「一色の地名の字名」があって現在もある。
この事に青木氏の歴史観に意味があるのだ。
後には前段で論じた通りその所縁から室町期には堺を通して「火縄銃等の生産」にも関わっていて、「近江国浅井と高島の二郡」の「鉄穴・カンナ地区・鉱山」を「字名」として所領としていたのだ。
ここが最初に発見された「鉄の地」で「滋賀国長浜浅井の土倉鉱山・琵琶湖の真北端より北東二里の地・現在の西浅井」で発見されたのだ。
この事は「伊勢の資料」や「日本書紀等」にも記されている。
更に需要に応じて「鉱山開発」が朝廷の命で「伊勢の財」を投じて「東近江」でも進み、もう一つは「平安期末期」には「滋賀国湖南の高島鉱山に広がり、「室町期の開発」では「琵琶湖の真南端の東四里の中東域の一帯・甲賀を起点に日野を含む半径15k圏内」の「白水鉱山と雲井鉱と弥栄鉱山と御池鉱山」等までに広がったと成っているのだ。
その様に添書に記されている。
丁度、それを物語るかの様に「近江青木氏」や「甲賀青木氏」や二里ほど北東に離れた「日野の庄」までもこの圏内に含まれているのだ。
これ等の経済圏でその運輸に関する淀川に出る古来からの「中継点の松井の庄」であったのだ。

要するに其の後の経緯としては、「摂津堺の商い」として「中継点」のこの「松井の庄」を経由して淀川を通して「荷駄の運搬等の中継点」として大いに利用されていて、その歴史は奈良期から始まり浅からず江戸期に至っても変わらなかった様だ。
又、「商い」だけに関わらず隣の「蒲生の庄」の「秀郷流蒲生氏郷一族との血縁関係」も持ち、この「松井の庄」は「青木氏族」に執っては欠かす事の出来ない庄であったのだ。
それだけに「駿河青木氏の貞治」は「伊勢での訓練を受けた以上は元より「青木氏一族」として知っていなければならない「松井の庄」であった筈なのだ。
それが青木氏に関わる者であるとすれば「民」であろうが「商人」であろうが「武人」であろうが「万人」が知っていたのだ。
これは当然に秀郷流一門全ても等しく知り得ていた歴史観で忘れてならないものであつたのだ。
この「近江の鉄穴・カンナ地区・鉱山・鎌倉期まで伊勢と共に本領安堵された」が深く「青木氏族」に関わっていた事を知る事は歴史観に大きく左右するのだ。
故に、百々の詰まりは「額田青木氏の銃隊の由縁」もここから来ているのだ。
念の為にこの「巨万の富・献納」は、「紙文化・紙屋院」のみならず、「銃の武器・近江の鉄穴・カンナ地区の発展・殖産業・青木氏部」の「拡大・伴造」を支配していた事もあって、影で朝廷とも繋がり「無限の富・商い」を獲得していたのだ。
その象徴の一つが「松井の庄」であったのではないかと判断する。

他に「商記録」から「商い」として殆どは「貿易で得る事」で賄っていたらしいが、かなり古くから「銃用」ではなく上記する「近江の鉄穴・カンナ」に「鉱山の爆薬」としても「国内産」にも天皇より命じられて取り組んでいた事、つまり、「山部」や「工部」等の「部人」を統率し管理する「専門の官僚族」の「伴造を統率していた事」が史記にもされいる。
その書の記述には「乳母女樫の炭紛と糞尿を乾燥させものを混ぜ合わせて利用した「近江の硝煙開発と製造・703年頃」にも秘密裏に関わっていた事があった事が記され判っている。
前段でも論じたが当初は「宋貿易」で入手していたが、その後の平安期に成って「紙屋院」のとして「墨や硯石等の開発」の殖産に取り組み、「乳母女樫とその炭紛」は「伊勢紀州の特産品」であり、その副産物としての其処から密かに「爆薬用」として近江に運ばれていた事が記されている。
つまり「紙屋院」として墨用に開発したものの「粉」を集めて「近江の鉱山」に運んで「爆薬用」にこれを利用していたとされ、後には「弾薬用」にも転用したものであるとされている。
「額田青木氏のフリントロック式改良銃の弾薬用」に、更にはこの「近江の硝煙製造」にも「伊勢青木氏・伊勢屋」は更に力を入れていた事が判っている。
後の「室町期」にはこの「鉱山の爆薬用」から一部は「火縄銃用」にも用いられていた事が資料から判っていて、「近江の硝煙の道・ゆず街道・山懐静かな里の一角」を「代名詞」の様に使って密かに呼ばれていたのだ。
「青木氏の伊勢屋の貿易」とは別に「室町期の銃用」にはここを別の勢力に抑えられると困る事から密かに床下に隠して生産していたと記録されているのだ。
恐らくはそれだけでは無く硝酸塩発生を促す為に「温度一定」を図っていたと考えられる。
因みに「硝煙の製造法」は、残された一部の資料に依れば次の主に二つの方法が発見されていたらしい。
一つ目は、中国から伝わり古代では原始的で生物の死骸等の50年以上経過した腐敗堆積古土壌から浮き出て来て来た結晶の「硝酸塩」を抽出し、それに「炭粉」を混在させる方法で生産していた要するに「古土法」である。
この中国の記録を貿易で獲得してそれを青木氏の殖産として真似たのではないかと考えられる。
二つ目は、更に上記の方法を強引に起こさせる「培養方法」である。
石灰土に干草や糞尿を交互に重ね合わせて堆積し、発酵させて硝塩土を造り浮き出て来た「硝酸塩」を抽出しそれに「炭粉」を混ぜ合わせる方法である。
三つ目は、室町期に至ると更に「二つ目の方法」を大量生産型に変更した。
「硝石土の土山」を強引に造り出し、発酵後に浮き出る「硝酸塩の結晶」を取り出して、これに「炭粉」を混ぜ合わせて生産していた。
この「根本原理」は「一つ目の方法」にあるが、日本ではこの地質学上から自然堆積層が無く上記の方法で細々と造り出す方法で古来より生産していたのだろう。
「資料」にはそれを思い出すかの様な表現での様に記されている。
参考として「チリ―一帯の石灰層や硝石層の自然堆積層」は国土全体に及んでいて有名である。
因みに記されている資料に依ると、「混ぜる炭紛の品質」にも問題があって発火能力・爆発能力」にも差があって、それは「紀州と伊勢一帯」でしか採れない「固くて炭化精度が良く微粉末」に成る「伯母樫の木」の「備長炭の炭粉」が最良であった事を知り、「令外官の伊勢青木氏の研究」で到達していたのだ。
結論は「炭の内部の結晶構造」が均一で細かい事にあった事が記され、従って、古来より「国内産の爆薬」は「紀州伊勢産」が優れていた事も上記する「近江鉱山」は発展したと成っているのだ。
さて余談と成っているが「額田青木氏」が持つ「銃の爆発力の高さ」は「輸入の弾薬」に比する事なく此処にあったと考えているのだ。
故に、「額田青木氏のフリントロック式改良銃」は銃そのものも然る事乍らこの微細炭紛にもあったらしく、故に外に真似される事が無く「青木氏族の範囲」で留まった所以もここにあったのだ。
その「原始の方法」がこの論じている「近江の鉱山」から始まったのだ。
これを「天皇の命」で手掛けたのだが上記する「令外官」として「伴造」を支配下に置いていた「伊勢青木氏」ではの事であったのだ。
前段でも論じたが、故に一族の代々の諱号は「光仁天皇」より「伴、又は大伴」に纏わるものを号とする事を天皇から許されていた事が判るのだ。
「永代の令外官の所以」であったのであろう。

注釈として、では、この「実作業」を誰が実行したのかである。
他では、多くのプロジェクトに関わった記録があるのだが、この「近江の鉱山開発」に関わったとする明確に記された資料が少ないのが不思議の一つである。
前段でも論じたが、当時の朝廷の「技術職人集団のトップ」に位置して「施基皇子」と仲の良かった「伊勢の額田部氏」、つまり、後に「桓武天皇の遷都計画」に応じ無くて「飛鳥の斑鳩」を追い出されてこれを救って「伊勢の施基皇子」が「桑名」に隠したがその「額田部氏」であったと観られる。
時代性から観ても関わったとすれば何の不思議もない。
最終は、この「額田部氏」は「施基皇子の仲介」でその数々の功績を評価されその名誉を回復し更にはあり得ない程の「特段の出世」をしている。
間違いなく「鉄穴や爆薬の開発」にも大きく関わっていた事が判るし評価されたのであろう。
「額田部神社」を独自に「守護神」として持つ事を許された「技術職人集団」なのである。
前段でも詳細に論じたが、「土木の職能集団・地形地質を観る集団」で、「干拓灌漑、墳墓等」も手掛ける「土木専門技術集団」で、当時としてその技量は「和気氏や結城氏等」よりも優れていたのだ。
「近江の東」に和紙が生産できる様にした「干拓灌漑と土壌改良」などを手掛けた史実も持っている事から、同然にも「伊勢青木氏」が命じられた「近江の鉱山開発」にもその「地形地質の知識」を以て大きく関わったと考えられる。
寧ろ、関わらないと「青木氏」のみならず他の集団も出来なかった「国家大プロジェクト」であったのだ。
少なくとも初期の「滋賀国長浜浅井の土倉鉱山開発」と、「近江の硝煙開発と製造・703年頃」は青木氏だけでは無理であった筈で、その記録は何処かにあった事が考えられるがその「額田部氏に関連する記録」はその頃の一般は未だ竹簡木簡であった事から記録は消えた事が考えられる。
遺る記録は紙に遺された記録だけに成っていて「青木氏の紙屋院」ならではの記録と成るだろう。
後発の「滋賀国湖南の高島鉱山」では本格的に「額田部氏の活躍時代」に入っているので、その記録は見つかるのではないかと期待しているが未だ確かな記録は無いし、有ってもその存在範囲は「青木氏族などの関係者範囲」に限定されるだろう。
「土木用の爆薬開発」に関しては上記した様に一部であるが遺されているので「額田部氏に関する関わり」が憤怒建設や干拓灌漑の記録はあるので何かの資料の行の中で発見される可能性もある。
当にそもそもその「土木用の爆薬などの高度な知識」は朝廷では「額田部氏」を除いて有していた集団は無かったと考えられるからだ。
それは「青木氏の貿易」との関わりから多少の記録は得られたものであろう。
この様に「伊勢青木氏」は「額田部氏の力」を借りて「鉱山開発」と「硝煙開発」にまでに及んでいたのだ。
話を元に戻して、それだけにこの後の所縁の「松井の庄」を介して「駿河の松井氏」と「駿河の青木氏」は知り得ていて“「歴史のある特別な親近感」”を持ち得ていた事に成るのだ。
そこで、だとすれば、最早、無駄な論として行うが、取り敢えずは「系論」として、仮に「御家人・松井冠者源維義」であるとすると、「近江戦」と「富士川の戦」の源平戦で共に源氏化していた一族として味方と成って戦っていた筈である。
先ずこれだけの縁があるとすれば戦っていた事には間違いは無いだろうが、敗戦後、一族が浪々の身に成り、それが共に再び“遠州で会った”と云う事に「流れ」として成り得たのであろう。
且つ、ここが「室町期末期」まで「秀郷流蒲生青木氏・伊勢秀郷流青木梵純の出自元」でもあって、恐らくは「縁の鎖」の様に何らかの関係を「松井氏」とは確実に持っていた筈である。
要するに、それ故にこの「縁」を以て「国衆」と成ってこの「松井氏の配下・家臣株獲得」に入り、そこで「元の盤田見附」を「地権で獲得した事」に成る所縁と成るのだ。
そして、その「国衆と成った証拠」として今川氏の最西端の其処に「氏としての城」の「平城館・寺閣城」と成る「菩提寺・西光寺」を「再建した事」を意味するのだ。
つまり、この所縁には「国衆に成る事」にしても、「家臣に成る事」にしても、「菩提寺の平城館・寺閣城を建造する事」にしても、「地権料を払う事」にしても、「家臣を養う事」にしても、「水軍を維持する事」にしても、「水運業で得られる糧」では到底無理で「大財源が必要であった事」に成る。
当然に、その「財源の出処」は「伊勢青木氏」か「武蔵青木氏宗家・江戸長島屋」かであるが、この所縁の流れとしては「伊勢青木氏・伊勢屋」が「額田青木氏」と同然にこれを賄ったと考えられる。
要するに戦略的には、同時期に“西に「額田青木氏」、東に「駿河青木氏」を興した”のであって、前段で論じた様に「信長」に依る「尾張域の神明社破壊」やこの事で起こる「伊豆や信濃との連携が難しく成る事」を防ぐ為にもこれは“「当初からの戦略」であった”と考えられるのだ。
その結果、「盤田見附の西光寺」だけを遺して「神明社」も「春日社」も「清光寺」も影形を全く無く成っていた「遠州」に於いて、「伊勢」にしても「武蔵」にしてもここに「青木氏の拠点の復元」を成さねば成らなく成っていた事、又は追い込まれていた事に成る。
それで「乱世の中」で「東西の青木氏の同族」が生き抜ける為には、再び途切れた「西と東」が繋がれば“「強大な抑止力」が働く”と考えていた事に成る。
その為の「財源拠出」は問題は無いと観ていたのだ。
「室町期の紙文化開花」で「巨万の富・紙屋院」や「鉱山等の多くの殖産」で獲得した「財源」を遺憾なく此処に投入したのだ。

それには、「青木氏族」に執っては「相手」は当面に「武田氏」であって「織田氏」でもあったのだ。
そこで筆者が感じる処では、「伊勢系列と信濃系列」を始めとして「青木氏族」に執つては疎遠であった「武田氏系青木氏の関与」は、もう少しの「関係性」を見つけられるのではと観ていたが、「二俣城の浄賢」だけであるのは何か間尺は合わない。
それは、「武田氏」が完全に滅んだ「長篠」より、「甲斐の五つの青木氏」が「伊勢」では無く「秀郷流青木氏を頼った事」なのだ。
確かに「甲斐青木氏・甲斐冠者系の源光系」と「嵯峨期詔勅で名乗った時光系」は「嵯峨天皇派」であって「犬猿の仲でった事」は否めないが「伊勢信濃」には彼等は頼って全く来ていないのだ。
“受け付けなかったと云う事”もあつたかも知れないが、そんな資料や記録の行は無い。
このすっきりしないのは「史実」である。
そもそも「武田氏系」には、「源光系青木氏・1氏」、「時光系青木氏・5氏」、「諏訪族系青木氏・3氏」があった。
「源光系青木氏・1氏」は不参戦で甲斐で衰退し、「時光系青木氏・5氏」は、「分家2氏」は徳川氏に味方し武蔵鉢形に移住させられ、残る「1氏」の「分家養子・安芸」は早めに戦線離脱し、後に安芸松平氏の家臣に成る経緯を辿っているのだ。そして「本家筋2氏」は完全滅亡している。
「諏訪族系青木氏・3氏」に付いては、「武田氏系の1氏」は衰退したが、「諏訪族系の2氏」は「相模の秀郷流青木氏」に救出され、其の後1氏の一部が下野に配置、残りの一部も「越後秀郷流青木氏」を頼り、4流に分流した。
「長篠後」にこれだけの「関係性」を保持しているのに何もないのは腑に落ちない。
当然に「三方ヶ原前」にもあったと観るのが普通であろう。
現実に、江戸期には「甲斐青木氏・正定系と豊定系」とはある程度の関係性は出来たと考えられるが、この敗退した「甲斐青木氏」が、「秀郷流青木氏一門を頼った事」で「血縁の繋がり性」は出来た事も「史実」である。
平安期と鎌倉期には確かに「賜姓」は「青木氏」を中止した代わりに「桓武派」と「嵯峨派」の争いで「仲介案」を採って「伊勢青木氏出自の嵯峨天皇の皇子・嫡子」が“「甲斐青木冠者蔵人・源光系・准賜姓格式」”として「甲斐」に配置されたがそれでも関係性は基本的に無かったのだ。
極めて疎遠で犬猿の仲であった事は資料からも解る。
上記した様に「青木貞治と主従関係」にあった「山城・近江南部・天領地・公領地域」の「御家人・松井冠者源維義・河内頼信系源氏」と、「賜姓扱いの格式」を与えられた「甲斐青木冠者蔵人・源氏族では無い・後に源光系と成る」として「甲斐」に配置されたが、この「源の源光系青木氏・嵯峨源氏」とは要するに「源氏族」で無関係では無かった筈であるが、「繋がりの詳細経緯」に付いてはこれ以上は今も資料は見つからない。
然し、そもそも遺すだけの力が無かった事も云えるのだ。
「賜姓伊勢青木氏と賜姓近江青木氏」とは、奈良期から平安期まで「相互血縁の同族」であった事と、「近江青木氏の定住地」とはほぼ同じの「松井氏との関係性」は完全否定できないだろう。
間違いなく「源氏・11流」とすれば「皇族としての嵯峨源氏」は「9つの縛り」を護らなかった「賜姓源氏族」と、「源氏化しなかった伊勢と信濃の青木氏・嵯峨源氏9つの縛りを護った」とは「四掟の範囲」では無い事に成り、それ故に頼る事は出来なかった事には成るし、又、決して四掟で受け付けなかったであろう。
その意味では、「円融天皇賜姓族藤原秀郷流青木氏・伊勢信濃とは女系で血縁」は「同じ青木氏」として頼り易かったとは云えるが、「血縁性の有無」は最早これ以上は辿れない。
そもそも、「正式な源氏賜姓・11家11流」は「花山天皇」で終わったが、この「花山天皇」の前の「冷泉天皇の発狂事件」が起こり、これに代わって異母弟の「円融天皇・11歳」と成り、「源氏賜姓」を止めて「伊勢信濃の母系族」であった「藤原秀郷流一門の宗家嗣子の第三子」を「永代・始祖は千國」に賜姓させる事としたのだ。
「外戚の藤原氏内紛」で16年後に「冷泉天皇の嫡子・花山天皇」に譲位した。
この「花山天皇」も「外戚の藤原氏の内紛」で2年も待たず退位した。
ここで「嵯峨詔勅に基づく皇族」の「正式な源氏」は途絶えたのだ。
つまり、其の後の「正式な賜姓」は「藤原秀郷流一門の宗家嗣子の第三子」を永代に「青木氏の賜姓をさせる形式」と変わったのだ。
これが要するに最終は「賜姓が元の母方系青木氏」に戻したとする「詳細経緯」であるのだ。
その前には「摂関家の藤原氏との戦い・藤原仲麻呂事件・恵美押勝」で翻弄され「孝謙天皇の白羽の矢の事件・伊勢青木氏の施基皇子の四男の白壁王と井上内親王」の問題が起こっていたのだ。
その「皇族との血縁の基」は、「賜姓」を権威づける為にも「混血融合」を避ける為に「四掟と云う縛り」を設けて、代々に「伊勢信濃との青木氏の母方・女系族である事」で権威格式付けしたのだ。
これが効果を発揮して「円融天皇の思惑通り」に何と「116氏に及んだのだと云う経緯」を持っているのだ。
況や、この経緯があるが故に「四掟前提としている以上」は「甲斐との血縁性は無かった事」には成るのだ。
先ず間違いなく詳細経緯を押し切るだけのものは無かったであろう。
唯、この「秀郷流青木氏族」と呼ばれる「秀郷一門内部での血縁族の主要五氏」とにはこの「縛り」は適用されなかったのだ。
依って、この「秀郷流内の青木氏族内」の「主要五氏・青木氏永嶋氏長沼氏進藤氏長谷川氏」の範囲での「甲斐青木氏との血縁・源光系と時光系」はあり得る事は否めないのだ。
然し、この血縁は、「二つの四掟で繋がる青木氏族」の中には出て来ないし、伊勢側から其処まで踏み込めず調査は難しいのだ。
従って、前段でも論じたが、厳然とした「噂」があるのにも関わらず「資料・記録」が無い為に判らないのだ。
唯、「諏訪族」とは「信濃青木氏との重婚族」であり、古来より「諏訪族青木氏・立葵紋」であって、この「裔系・抱き角紋」が「武田氏の血縁族」を構築していて、「相模に逃げ込んだ事」も史実であり、頼った事には「何の問題・疑い」も無い。
「秀郷流青木氏―伊勢と信濃青木氏―信濃青木氏と秀郷流青木氏―信濃と諏訪族青木氏―諏訪族と武田氏」であれば、直接、血縁無くしても「血縁の濃度」は別としても「間接血縁族」として頼れる事は可能であったであろう。
現在筆者はこの様に観ている。
そして、その仲介を担ったのがそれが何と本論の長篠後の「駿河青木氏の裔祖の相模青木氏」であったのだ。
これは、「三方ヶ原―長篠」の後に興したより「青木氏族」であった一族の歴史の“自然が興した再結集現象”と成り得たのだ。
この「不思議な自然の血筋の流れ」は江戸期に向けて濁流の如く留まらなかったのだ。
但し、そこでその基と成った「駿河青木氏を家臣」として抱えてくれた「松井氏」に付いては、“山城の「河内源氏」である”とする事にもう少しその根拠と成る歴史観を説いて置く。
そうすればこの「松井氏の位置づけ」がより判り、「駿河青木氏の青木貞治との関係性」も詳細経緯としてより理解が出来るだろう。
「松井氏の祖・平安期」と主張する根拠には、「山城の何処かの家人・天皇家・公家・賜姓族・皇位族」であったとしていても、その「家人」と成り得る「氏」としては「頼信系の河内源氏」であるとしているのだ。
“何処かの家人”としているが明記されていない事にも「疑問1」であり、“河内源氏”としているのも「疑問2」である。
しかも当時は、「嵯峨期の9つの縛り」を全く護らなかった事で「皇族系の氏族としての格式」を認められていなかった「河内源氏」である事に認識はなく「疑問2」は記載している。
認識なく名乗っていたのかも知れないが、間違いなく“「松井」”と「姓名」を名乗っていた事には間違いは無いのかも知れない。
だが、「疑問1」から「傍系卑属系の支流族」であった事には「格式」を前面に押し出す程の家柄では無かった筈であった事だ。
故に、「疑問1」と「疑問2」が欠落して仕舞っていた事に成る。
「一族の伝統」とは支流の一家が忘れていても本家筋の他家は覚えているものでそんな欠落する程のものではそもそも無い。
故にそれが起こるとする可能性のある「傍系卑属系の支流族」であった事に就いて詳しく検証して観る必要がある。
「疑問1」と「疑問2」はそもそも護らなくてはとする「伝統意識」が低く、且つ、「伝統」そのものは違う。
故に、「傍系卑属系の支流族」では起こるであろう。
現に伊勢や信濃では未だに意味しない伝統は浸み着いて忘れ去れずに何らかの形でほそぼそと持ち得ているものだ。
「9つの縛り・嵯峨天皇が後に纏めた新撰姓氏禄」に依って「天皇家・公家・賜姓族・皇位族」はそもそも「諡号の姓・第一の姓」を持つが「第二の姓」はそもそも持たないのが掟だ。
これも「伝統の一つ」であり、だから未だ「青木氏」は統一して「青木氏」であるのだ。
従って、「天皇家・諡号と諱号」を除き「氏名だけの範囲・青木の氏や藤原氏」で名乗ったのだ。
唯、例外として「藤原北家秀郷流一門」は361氏と成り、「氏名や諡号や諱号」では一族一門の系統を格式管理できなく成り、「仕来り」として「三つの縛り」を設けてこれを判別する様にしたのだ。
其れは、前段でも論じたが次の通りであり忘れ去られていないでいる。
第一に、「役職名」を藤原氏の氏名の藤の上に付けて名乗る。
斎藤氏・工藤氏等
又は、許可を得て「役職名」を名乗る。
結城氏
第二は、「国、又は地域名」を藤原氏の氏名の藤の上に付けて名乗る。
伊勢藤原氏の伊藤氏・加賀藤原氏の加藤氏等 
長沼藤原氏・長沼氏 永嶋藤原氏・永嶋氏等
第三に、「特徴名」を藤原氏の氏名の藤の下に付けて名乗る。
藤田氏・藤井氏等
第四に、以上の三つより更に「事情」により拡大して派生した氏は同名の「字」に替えて名乗った。
長嶋氏、長島氏等がある。
当初は先ず「兼光系」と「文行系」の二派に分かれ、其れより更に分流して「文行系利仁流」や「文行系修行流」に大分流した。
「秀郷流青木氏族」と呼ばれる「秀郷流青木氏」と「秀郷流永嶋氏」と「秀郷流長沼氏」は「兼光系」であり、「長谷川氏」と「進藤氏」は「文行系」であり、「秀郷流青木氏族主要五氏」と呼ばれ血縁性は取り分け高い。
これを以て「氏の総称」を「藤氏」と呼び、地域事に「伊勢藤氏・讃岐藤氏」等として大別した。
これで「系統や格式レベルや血縁関係」を判別するようにしたのだ。
唯、「秀郷流青木氏24地域・116氏」だけは秀郷一門に劣らず大氏一族ではあるが、「賜姓族の特別の格式を有する事」で、「嵯峨期の9つの縛り」に基づき「伝統の仕来り」として「氏名」だけとしたのだ。
要するに本論の「駿河青木氏」もその一つであるのだ。
ここで、更に「皇位族の賜姓臣下族の朝臣族」だけには、もう一つの「判別する仕来り」があったのだ。
それは上記で記した、「好名」とは別に「字名・あざな」であった。
天皇より「皇位族の者」が成した「功績」に従って「所領と民」を与えられた。
その「所領と民」は「小字と大字」に分けられそこに「民」が替わり振られ「特別の名」がつけられたのだ。
この様にその「場所」と「民」にはそれを「特定する名」とする「特定の仕来り」があったのだ。
それが、拝領時に「天皇」から「指名される賜姓」とは別に「賜名に値する字名・あざな」があったのだ。
その「字名・あざな」はその功績の都度に別の「字名・あざな」が与えられた。
この「字名・あざな」は其処の「氏人」も「民」も「名誉」とするもので扱われたのである。
何故ならば、当時は「国造」として「民」は「天皇」から与えられたもので「氏族の氏上に所属する仕来り」であって、「民の字名」は「一色の・・・」として「姓・代名詞」にも代わるものであったのだ。
故に、「青木氏の定住する所」には民の為にも必然的に「字名・あざな」を必ず持ったのだ。
その「字名・あざな」にはその「皇位族に関連する賜名」が読み込まれていたので、これで区別していたのだ。
従って、重なる事が起こるので特定する代名詞として一族以外の別人がこの「字名・あざなの慣習」を使う事は許されなかったのだ。
朝廷が認めた氏族に限り許された慣習であった。
言うなれば「賜姓」と共に「一族の賜名」であったのだ。
これを「一族の裔の者が住む土地の代名詞」として使っていたのだ。
当然に近江もである。
例えば「伊勢王の施基皇子」には、主に伊勢では「四つの大字名」が賜名されていた。
例えばよく使われた「字名」では、「一色や色や一志や一円や志基」等があるが、江戸期には「日本全国60カ所」にも及ぶ「一色関係の大字名」があるが、この殆どは「秀郷流青木氏を含む青木氏の定住地」に広がつているのである。
但し、国抜制度があった為に正式な移動定住は考え難く一部に真似たものもあるが、約8割は関係地と認められる。
これは「四掟に基づく女系の妻嫁制度」で全国に定住している「秀郷流青木氏の嫁家先」にもこの「字名」を興した所以でもある。
言い換えれば、「秀郷流青木氏の定住地」には伊勢、又は信濃から嫁いだ「女(むすめ)」がもう一つの同じ「伊勢、信濃の青木氏」を女系の優秀な嗣子に里の青木氏を興させたと云う事にも成るのだ。
つまり、況や、最早、重婚を重ねる事に依る「二つ血筋を完全融合する二つの青木氏」のこれが「60にも成っていた事」を示すものに成る。
よく似たものに「伊豆の青木氏」や「伊勢や信濃の氏人・郷士衆」がある。
筆者は、この「60の数」から観て江戸期には、最早、この「賜名の字名」は「格式名」の前に「完全な代名詞化」を興していたと考えているのだ。
つまり、「判別名に成っていた事」に成るのだ。
現実に「四掟」に基づきながらも「京の公家先」に嫁いだところでは「賜名の字名」は興っていないのだ。
所謂、これは「代名詞化する程の事」では無かった事を意味する。
唯、注釈として説明して置くのは、この「近江」にはこの「始祖の施基皇子」に基づく「賜名の字名」がそれなりの数であるのだ。
これを上記した様に如何見るかである。
この「近江」は、そもそも「施基皇子」の兄の「川島皇子・近江王の始祖地・佐々木氏」の守護地であったのであるが、ところがここに「施基皇子の賜名の字名」があるのだ。
これには「日本書紀」に基づけば次の「三つの説」が挙げられる。
一つは、平安期直前まで「川島の皇子と施基皇子」は当時の「臣下族の習慣」として「相互重婚の唯一の天智一族」であって、其の事から「施基皇子の賜名の字名」が「近江」に遺したのだ。
二つは、その結果として「二つの青木氏」が発祥した。
つまり、「近江青木氏」と「佐々木氏系近江青木氏」である。
この結果として、「施基皇子の賜名の字名」を遺したのである。
三つは、上記した鉱山開発を命じられてそこに「伊勢の青木氏の裔系子孫」を遺した事が云える。
その結果として、二つの鉱山付近に「施基皇子の賜名の字名」を遺したのだ。
ところが「近江佐々木氏の研究資料」には、この「川島皇子の賜名の字名」の事が何故か書かれていないのだ。
そうすると、「近江青木氏」は前段まで論じて来た「五家五流賜姓族の近江青木氏」では無く、一色からから来る現地の子孫、つまり「伊勢の裔系」の「近江青木氏」であった事にも成る。
つまり、「鉄穴から来る一色の大字名説」と成り得る事も考えられるのだ。
「佐々木氏系青木氏」は別としても、将又、「五家説の単独青木氏との両方での存在説であった事も考えられる。
筆者は、「近江佐々木氏の研究資料」からもこの事に就いて散見できないし、「両方での存在説」を今の処採っている。
恐らくは「伊豆」の様に「三つの混在血縁融合」が興っていたと観ているのだ。
「川島皇子の賜名の字名」は間違いなくあった筈であるが今では確認できない。
「日本書紀」に依れば「始祖の施基皇子」と同じく「合計封戸は500戸を授かっている事」から「近江」に「字名の賜名」は持っていた筈であるが、「好字令・713年・諸国郡郷名著好字令」の施行で消えた可能性がある。
それ程に「川島皇子の賜名の字名」は弱かった事にも成る。
唯、「天武天皇の崩御後」の際に「川島皇子の裔系」はその「行動・大津皇子事件」を「持統天皇」に疑われた史実があり、この事で「近江佐々木一族」は、其の後、「不遇の扱い」を受けた史実がある。
其の事から、「川島皇子の賜名の字名」は「賜姓」と共に「近江」で遺せなかった事と、源氏化に依って遺せなかった事が考えられるし、逆に「伊勢信濃」は発展し、その差から、完全な疎遠と成って仕舞った事を示すものと成る。
もともと「近江」の「真砂の不毛の地」は「伊勢」が「額田部氏に依頼しての開拓開墾」であって、その後の開拓開墾は成功し、「楮の生産」で一時「財」を成したが「源氏化」でその財源も失って「字名」も遺し得なかったのだろう。
故に、「佐々木氏の研究資料」には不思議に「字名の記載」がない所以であろう。
従って、先ず遺しえる力は無かった事が確実に云える。
と云う事は、だとすると「近江の遺る字名」は「施基皇子の賜名の字名とその裔系」であった事も云える。
つまり、一つと三つの事に依って遺した事に成る。
つまり、斯くの如しで「施基皇子の賜名の字名」は「松井氏の論説」をも裏付けるものと云えるのである。
と云う事は、これは「摂津」を「起点」として「近江」までにも「伊勢信濃の勢力」は「商い」のみならず「子孫力」でも伸びていた事を示すものだ。
筆者は、「日本書紀」にもある様に、「鉱山力」に強く注目して「銃に関わった事」の以外に「青木氏の歴史観」を広げる為にも「賜名」も研究しているのだ。

この事に就いては前段でも論じているので「本サイトの検索で・字名で検索」されたい。
「嵯峨期の詔勅禁令」でこの「賜姓」は「青木氏」か「ら賜姓族・源氏」に変更した事を論じたが、この時に「青木氏の慣習仕来り掟を真似る事」をも同時に禁じた。
この禁令は鎌倉期より室町期ではこの「禁令・朝廷の権威」が緩み「格式の搾取」が「格式の無い姓族」に依って激しく横行した。
この時にこの「賜名の字名」が「一部の者・地頭等」に依って「格式権威」に使われたのだ。
鎌倉幕府は治めるに必要としたので敢えて使う事を黙認したのだ。
それは「守護職」から変えて未だ馴染みのない「地頭職」を幕府は置いて治めようとした。
朝廷は幕府からの申し出の「地頭職」のこれを当初認めなかったからで、つまり権威の無い役職と成って仕舞ったので敢えて「権威付け」の為に「字名の使用」を強行した。
これには「嵯峨期の禁令があった事・青木氏の慣習仕来り掟の使用禁令」から逆らう事が出来ずにこれを黙認したのだ。
頼朝の地頭制度の最初は「伊勢の伊賀の地頭職」で、次は「三河の西尾の地頭職」であった。
取り分け、三河は「荘園」が多く、「七郡・碧海郡、額田郡、賀茂郡、幡豆郡、宝飫郡、八名郡、渥美郡」 から成り、「豊穣の地」として「荘園支配権の簒奪戦」が起こっていたのだ。
そこで鎌倉幕府はこれを鎮める為にも「地頭職・西尾氏」を始めて送ったのだが周囲を統治するだけの権威は無く効果は無かった。
そこで、この「西尾氏」に「施基皇子の字名」の「一色」を使わさせて権威づけさせて統治させようとしたのだ。
何故ならば、その近くにの「額田端浪の一色」には、三野王に嫁した桑名殿の「浄橋と飽波の裔系・額田青木氏」の一族が住んでいて、「始祖施基皇子の伊勢の字名・不倫の権」の「一色」を「仕来り」に従い名付けて権威化を図り周囲に「デリバリー」をこの地域に構成していたのだ。
これを利用して「西尾の圷」にも「一色の字名」で「伊勢の荘園」であるかの様に見せて従わさせる策に出たのだ。
伊勢の「伊賀地方」も同然で、「惣国地」でもあったここに「鎌倉幕府」は「足利氏・栃木県足利」を送って地頭を最初に置いたのだ。
そして「伊賀青木氏」と同化を図って一色姓を名乗ったが任期が過ぎると早々と現地孫を遺して足利に戻った。
「権威ある字名」はこの様に使われたのだ。
これがもう一つの判別する仕来りであったのだ。

(注釈 「駿河青木氏の青木貞治」の詳細経緯)
前段までに論じた詳細経緯で「青木貞治」は戦乱の中で歴史的に「青木氏族」に大きな影響を与えた人物であった事が云える。
そこで、従って、改めてその経緯を更に辿つて論じてみると、次の様に成っている。
「駿河青木氏の青木貞治」は、先ず「今川氏」の「土着国衆・土豪」と成った。
其の後に、今川氏の「渡り国衆」に成っていた「松井氏」が、そして「勲功」を挙げて遂に「今川氏家臣」と成り、「重臣」とも成った「松井氏・二俣城城主」に対し、「駿河青木氏の青木貞治」は「松井氏の国衆」と成り、「家臣」と成った。
ところが、「今川氏・桶狭間戦死」は衰退し「二俣城の松井氏」も衰退し、分裂した。
ここで「青木貞治の裔系」はその三つに分裂した松井氏の徳川氏側方に着いてこの松井氏は「今川氏から徳川氏」に「今後の命運」を架けた。
結局、優勢を保持した「徳川氏側の国衆」と成り、「松井氏の二俣城」は結局は「徳川氏の物」となった。
この「元二俣城の松井氏」と「遠江駿河土地」と「国衆の所縁」を以て「二俣城の守備隊・家臣中根氏」と成ったのだ。
そこに「駿河秀郷流青木氏」、及び、「武蔵秀郷流一門」の「後押し」で、「兵の支援・100」を受けて「二俣城の副将格・兵200」を獲得した。
「駿河国衆」より「遠江国衆」として成り得て「徳川氏の国衆―二俣城家臣」と成り得たのだ。

先ずこれを前提にすれば、「早期の経緯論」に成り得る。
4 宗信・弟 二俣城家督 1529 桶狭間戦死 1560年
結局はこの経緯から「駿河青木氏の青木貞治」が仕えたのはこの“「松井宗信」”であった事に成る。
だとすると、この直ぐ後の「桶狭間の戦い」で主君の“「松井宗信」”は戦死したが、同じ松井隊にいた「青木貞治隊・兵100」は何とか生き延びた事に成り得る。
そこで疑問・AとBが生まれる。
A 何故、生き延びたのであろうか。
其の後の「{二俣城」では徳川氏の中で子孫拡大どころかそれ以上に確実な地位を固めているのだ。
もう一点は、歴史的時系列では、丁度、この時、「額田青木氏の銃隊」は南下して「三河国衆」に成っている。
B 何故、この時期に「訓練中の額田青木氏の銃隊」が「三河国衆・1560年」と成ったのかである。
但し、この「桶狭間の戦い・1560年」には記録上では未だ「額田青木氏の銃隊」は参戦していないのだ。
国衆に成って4〜5ケ月後の事である。
「駿河青木氏の青木貞治隊」は参戦したのだ。
この「二つの何故の事・A、B」に就いて「手掛かり」と成るの詳細な記録は無い。
特異な青木氏に依る歴史観である為に独自の時系列で追うしかない。
そこでAに付いて、気に成る点がある。
「桶狭間の戦い」の中心と成った付近の「ほぼ南300mの所」に「神明社・伊勢信濃の青木氏の守護神・現存・古跡社」が在った。
そして、ここから「北東7.5k・2里」に「春日社・2社・秀郷流青木氏の守護神・古跡社」が在り、何れも現存する。
この「神明社」と「春日社」は、何れも「二つの賜姓族の青木氏社」として朝廷より「不倫不入の権・朝廷」を得ている「古来の高井神格の伝統」を保持した「最高の社格式」で、室町期はその「拘束力」は弱まったとしても未だ敬われていた。
ここで改めて、「奈良期の伊勢信濃の賜姓青木氏の神明社」と、「円融期の賜姓秀郷流青木氏の春日社」で、「古来奈良期からの伝統的神格概念・社」とは異なる「伝統的神格概念」を緩めた「神社格式」ではないのだ。
故に、一段上の神的社のものとして「神社格式」とは別により特別に敬われていたのだ。
念の為に、簡単に論ずれば「社格式」とは、「神を崇拝する原理主義概念・奈良期の古来概念」であり、「神社格式」とは、「仏教的概念」をある程度含有した「神を崇拝する進歩的概念・平安期」であつた。
「Aの推論」としては、この「神明社」か「春日社」に「青木氏」として逃げ込んだ事で掃討を免れた事が云える。
唯、「信長」はこの「特権」を否定していたが掃討していた家臣等がこの伝統を敬い黙認したとも考えられる。
何れの「社」の「神職」も「四掟の嫁家制度」の「女系で繋がる青木氏・賜姓の同族」である。
この「神職・青木氏」が「社門」で盾に成った可能性がある。
この時、元信・家康は「大樹寺(松平家菩提寺)」に逃れ住職の助けを受けて助かっているのだ。
当時は、「戦場やその近隣の民」は難を逃れる為に「神社や寺」に上記の意味で逃れるのが一般であって、そこに身を変えて逃れたと考えられる。当時はこの高い格式の国幣社格に逃げ込むと兵は一般に手を無理に出さないのが伝統であった。
因みに、何度も論じた事であるが、唯、「秀吉」は「信長」よりもっと厳しくこの習慣を否定したが、流石に攻める事まではしなかったが、然し殆ど「焼き討ち」は掛けたのだ。
「紀州根来寺」などは民や僧兵と共に6000人と云う人を焼き殺した史実はその典型である。
何故ならば、戦乱期はこの様に「逃亡兵」がこの習慣を使って寺社に逃げ込む事が多かったのだ。
他に平安期に平家に追われた日向に配流と成った「源宗綱等他2人」が「以仁王の乱」で敗退し、配流罪で隠れ住んだ「廻村の者」と「薩摩大口村の浄土寺・現存・5人」まで逃げ込んで間一髪で「伊勢青木氏」を名乗り難を逃れた。
伊賀で関係を持っていた“青木氏を攻める事は出来ない”として「九州平氏・平氏の始祖の伊賀平氏の高野新笠・青木氏出自の光仁天皇・白壁王の妃」は再び「日向」に戻った史実があるのだ。
これが「日向青木氏の大口青木氏・現存」である。
この様な史実に、「永代不入不倫の権」を持つ「官幣社の最高社格式社」は乱世とは云ど最小限の処で保護されていたのだ。
又、室町期には「足利幕府」からも改めて「青木氏族」は「律宗族」としても認められ「侵犯」に付いて「特別保護」されていたのだ。
筆者は、そこで、A 何故、生き延びたのであろうか。?では、上記の「北東7.5k・2里の春日社」では無く、「南300mの神明社」に逃げ込んだ説」を採っている。
ここであれば逃れられる。逃げるとしても「北東7.5k・2里の春日社」は遠すぎるし、そこから「遠江」に逃げ帰るには地理的に困難であろう。
「尾張」を避け「三河の国境・現名 みよし」を廻り「三河」の「青木氏の所縁の安全な地等・岡崎から豊橋等」を経由して「遠江の西光寺」まで約100k・1日以上を所要する。
然し、「突発的に起こった襲撃」を躱すには「戦場の地に在る神明社」の方が先ずは「最適な避難所」であった。
況してや、「駿河青木氏・青木貞治」と「伊勢」は母方実家・で血縁族で訓練して興して貰った「第二の里」であり、且つ、この唯一つ残る「神明社の神職」は当然に「伊勢青木氏」であり、身を挺してでも一族を護ったであろう。
其の後、「伊勢」に連絡して「伊賀者」を動かし警護に着けた事もあり得るし、小舟で導き「神明社の傍」にある戦場を流れる「鞍流瀬川と石ケ瀬川」の支流を経由して「境川」を下り「三河湾」に出れば、最短距離と且つ安全に「渥美湾」で「伊勢水軍」か「実家の駿河水軍」が待つ船で助けられ「遠江」に戻れる。
筆者はこれくらいの事は出来たと考えられる。
そのキーポイントが現在・緑区桶狭間に在る「神明社」であったと説く。
ここに逃げ込めば後は何とでも成る。
筆者はこれを突っ込んで寧ろ次の様に考えている。
「桶狭間の戦い」は、1560年6月12日である。
これに「青木貞治隊」は「今川氏の国衆」として「松井宗信隊」に所属し、参戦している。
「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、この戦いの直前の2〜5月頃に「国衆」と成って南下し、其の後、「伊川津の三河国衆・西三河」として定着した事に成る。
この後、ところが松平氏が違約して「東三河隊」に所属させられ、「吉田城守備隊・1565年・武田氏の侵攻予測」と成っている。
「武田氏との第一次吉田城の戦い」は、「守備隊7年後」の1572年の「三方ヶ原の戦い」の1年前の事である。
当然に、この時、既に「伊勢青木氏と伊勢水軍」は約束の通り「渥美湾・2h」に廻船を始めていた。
「桶狭間の前」には、既に「伊勢と伊勢水軍の廻船」は「蒲郡の石切り湾」を拠点にして動いていた。
とすると、「1560年6月の戦い」では、「伊川津の南下国衆と家族を護る事」と、参戦している「駿河青木氏・青木貞治を護る事」の為に、万が一の場合に備えて、「警戒の帯同」の為に「陸・伊賀青木氏・情報」、「三河湾の配置」の為に「海・伊勢水軍・救出」と、綿密に作戦を組んで動かしていたと観ているのだ。
当然に、「駿河水軍」も「伊勢からの指令」で「三河湾」に集合し待機していた事が充分に考えられる。
其れを行うだけの「充分な財力と抑止力」が在るのだから躊躇なく筆者なら絶対にそうしているし、何もしないという事は100%無いだろう。
それが「青木氏族の氏族」の長く生き延びる為の「戦略行動」であって、奈良期から生き抜いてきた「青木氏族」であってこそ、そんな間抜けな「伊勢・福家」では無かったと自負しているのだ。
「織田軍と今川軍」が衝突する様な場所は、凡そは予想が着くとするならば、又、其処辺りには「神明社と春日社」が在るとするならば、上記の様な戦略を事前に立てるし、事前に「駿河青木氏」や「額田青木氏」には「事前連絡・伊賀者」は着けていただろう。
何せこれを行う「情報・伝達組織」には「伊賀青木氏の香具師」が存在し全く苦労はしない。
「行軍・戦い時の兵糧の運搬・駿河青木氏」もあるとすると、「伊勢水軍・駿河水軍」と「伊賀青木氏の香具師の隠密行動」も必ず必要であった筈である。
これ等の事は「他氏には絶対に出来ない行動」であり、「氏族の強みを生かす事」でもあったのだ。
前段や上記でも論じた様に、「額田青木氏の銃隊と荷駄50」と「駿河青木氏の隊・100」には「伊賀青木氏」を組み込んでいたと論じたが、当にこれを証明するものである。
上記の論だとするとして、これに「追加する事」として、訓練中であった「額田青木氏の銃隊」は「桶狭間の前の前哨戦」の「小豆坂の戦い」の「一次戦」に「軍事演習的行動」として依頼されて参戦しているが、この事も考え合わせると、「額田青木氏の銃隊」の「一部」が「伊賀青木氏」と共に、「伊川津域」に国衆として定着する「少し前・4〜5月程度」の「桶狭間」に、“「一族の誼」”として「駿河青木氏の青木貞治隊」にも密かに合力していた事も考えられる。
だとすると、桶狭間の敗戦では“上記の筋書き通りに簡単に安全に脱出出来た”と観られるのだ。
その証拠に、故に、記録に遺る事もない程に「駿河青木氏の青木貞治隊」は犠牲無く脱出出来ているのだ。
ここに後に「完全に生き残っている事 イ」と、「二俣城の副将と成り得ている事 ロ」の「論の焦点」が来るのだ。
そして、その後に「松平氏の家臣・御側衆・旗本 ハ」と成り得ている事のイ、ロ、ハと下記のニ、ホを勘案すると、「上記の筋書きの状況証拠」は成立するだろう。
況や、「桶狭間」で二俣城城主が討ち取られる「大犠牲の大混乱の真中・逼迫戦」で奇しくも「青木貞治隊」が生き残り得たとすれば、例え、「松井氏の衰退」で「徳川氏・松平氏側」に着いたとしても「松平の国衆 ニ」にも成り得なかった筈であるし、又、其の後の「駿河・相模青木氏の支援」を得て「兵力・200」に増やし「二俣城副将 ホ」にも成り得ていなかった筈だ。
要するに、「青木氏族の生き遺りの為」に、「戦乱の中」では「唯一の抵抗手段」の「大抑止力」は働いていたと云う事になろう。)

「青木氏の伝統 64」−「青木氏の歴史観−37」に続く。



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