青木氏氏 研究室
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  [No.394] Re:「青木氏の伝統 69」−「青木氏の歴史観−42」
     投稿者:副管理人   投稿日:2022/02/23(Wed) 10:08:32

「青木氏の伝統 68」−「青木氏の歴史観−41」の末尾

> 前段でも論じた事だが、「額田青木氏の一族」が戦乱の世であっても「額田を抜け出す口実」として「伊勢詣を理由」に「簡単・船でも2時間・船を桑名西尾渥美の泊に出していた」に比較的に議論になせない程に簡単に「伊勢に立ち寄っている事」を考えれば、「同時、同時期、同場所、同目的」は充分に有り得て、故にその絆を史実の通りに「三方ヶ原では三者共同作戦が採り得ていた事」に成るのだ。
> 但し、「額田青木氏」は「桑名の浄橋飽波の裔系」であるので「上記した伝統の掟」により「貞」はあり得るかは疑問の遺る処であったが上記の推論が成立する事で問題は無くなるだろう。
> 唯、これも「非常時の直近での事」で成り立つ「一つの説論」であるのだが、「伊勢の総合差配が在った」とすれば、この「非常時の説論」は無くなるし、「伊勢訓練」から「三方ヶ原」とその後の「三河と駿河の殖産業」までの「約80年から100年間の良好な経緯期間」を考えれば先ず間違いは無いだろう。
> 「上記の推論」も含めてそうでなければ「前段の論」も含めて「約80年から100年」は保てない筈である。
> これは「伊勢秀郷流青木氏」の「始祖青木梵純のパターン説から興る」ものであるので、先ず間違いは無いと思うが、更に「研究中・資料発掘と読み込み中」なので深く確実に解明できれば更に「追記」で投稿する。


「青木氏の伝統 69」−「青木氏の歴史観−42」

(注釈 「二つの青木氏に影響した武田軍の時系列の詳細経緯」)
この検証の為に前段より少し話を戻す。
先ず、もう少し「武田軍の詳細経緯」を「青木貞治の行動と額田青木氏の行動」に影響している事があるのでそれに関する重要な歴史観を論じて置く。
実は、ここで「青木氏の歴史観・額田青木氏の貞秀の目と駿河青木氏の目」として注目して置かなければならない事があるのだ。
それは、「堀江城落城後」に、必ずしもこの時点で、「戦後の戦略」として「宿営地・二極化拠点」とするだけで、時系列から調べると、「堀江城の武田軍の本隊」が「三方ヶ原に来る」とはかなずしも決まって居なかったと読み解けれるのである。
先ず、例えば、何故ならば「三方ヶ原の2年後」の「長篠の戦い」でも「織田軍」は“「本陣」”を「長篠の戦場」より「別の所・4k真西・茶臼山」に置き、そこから指揮し、この「野営上の戦場」は別にした経緯の史実があるのだ。
それを研究として見ると次の様に不思議な構えに成るのだ。
そして、先ず「信長の本陣」からここより「南1k横に家康本陣」があった。
「信長の本陣・豪族館」を除いて全て本陣は「寺」であった事が解つている。
そうすると「秀吉の陣」は「信長本陣」より真北に「500mの上の所」に置いて安全を期した事に成る。
つまり、「信長本陣」を中心にして「南北に家康秀吉の二人の本陣」を構えて万が一の安全を期している。
この時、「敵方の勝頼本陣」はこの北部の「長篠の戦場」より「真北1k」に「本陣・寺」と「軍」と共に配置して「秀吉の陣」と何と「500m離れた所」に並行して置いていたのだ。
つまり、この位置より「真西4kの位置」に対峙して「信長本陣」があった事に成るのだ。
この配置は「長篠」を中心に、丁度、「辺1kの三角形の位置形状」で配置されていた事に成る。
これは「いざ徒士での開戦と成った事」を配慮しての事であるだろう。
そして、「信長」はこの「長篠の戦場」には「周囲・北と東」にかけて事前に「固定の馬廻り柵」を「くの字」にして張り巡らして、その後ろに「信長本陣」を背後にして「傭兵の雑賀の火縄銃隊」を配置して「敵の攻撃」を直接に受けない様に保護していたのだ。
つまり、敵方が「三つのどの位置」から崩しに掛かるかを観て、どの位置からでも応戦が叶う様に構えていたと云う事に成り、中央と北か東かどちらの三方からでも「銃撃戦を繰り返す事」が出来る様にしていたのだ。
ところが「勝頼の本軍の陣形」は、この「くの字」の「右上の先端部分の500m右側」に配置したのだ。
不思議な何か意味のある配置で在る。
普通なら左右、つまり「右の秀吉軍」、「左の徳川軍」を睨みながら「くの字」の「弾丸」が届かないぎりぎりの位置の「中央の1km程度離れた位置」に対峙して配置する筈である。
ところがそうでは無く北の「秀吉軍の右500m真横」に位置したのだ。
これから観ると、先ず「一つ目」は明らかに「武田勝頼方の総合軍勢・2万5千説」が少なかった事を意味する。
無勢であるが故に何か戦略的な位置とした事に成る。
「二つ目」は「信長軍の傭兵火縄銃隊3000」を恐れて逸らす位置に配置した事をも意味する.
そして、「織田軍の傭兵銃隊」に届く前に、「三つ目」は「左右の秀吉軍と徳川軍」に挟撃される可能性があった事を意味する。
この「三つのリスクの事」の事だけを考えた場合でも、この「リスクを出来るだけ下げる配置」とする必要があったと考えられた筈だ。
だとすると、「勝頼軍」は必然的に「くの字」の右上の先端に位置した「秀吉軍の真横の右上」に配置する以外には無かった筈だ。
そして実際にその様に配置したのだ。
だとすると、これでは「戦術」としては普通は「信長本陣を直接に攻撃する戦術」は採れなかった筈だ。
この配置の通り、先ず、戦略的には「直ぐ左に位置する秀吉軍」を崩して様子を見る必要があった事に成る筈である。
なぜならは、「信長軍」の前には「銃の傭兵軍団用の馬周り柵」を前に採っている。
況して「信長軍」は「くの字」に囲んで「本陣」を護っているし、そうすると「徳川軍」はその「織田軍の銃隊の前」を横切って前に出て戦う事は出来ないし,そうすると本来の「徳川軍の戦略の目的」は「織田軍の本陣を護る位置」に在った筈で、この目的は崩す事は出来ないので、先ずこの「二つの軍の配置」は崩さず「秀吉軍」を援護の為の配置するものでは無かった筈だ。
そうすると、この配置から「秀吉軍と徳川軍」が崩されても「織田信長軍」は動かなかった筈だし、「くの字の馬周り柵」が邪魔して自由に動けない位置にいた事にも成る。
それは、「雑賀族を主体としての銃隊の傭兵軍団3000の戦力」は、当時の常識では銃を兵力に換算すると10倍以上に相当すると云われ「恐ろしい戦力」と読まれていて、そう云う常識にあったので、これでも「最低3万の兵力」と成り兵力的にも「勝頼軍2万5千より未だ上」であったと計算していただろう。
「銃隊の傭兵軍団3000の戦力」が仮に破られたとしても、未だ「織田軍独自の軍」が「本陣の周り」を固めていて、これで「無傷の勝頼軍」としても勝負は決まらないだろうし、現実にはその前に「銃隊」に叩かれていて戦える状況では無かった事に成り得る。
仮に「秀吉軍」が真横から攻められて敗退としても「徳川軍」が「1k左」から前面に出て来て既に「傷ついた勝頼軍」と対峙する事に成る。
故に、飽く迄も「信長軍全体の配置を崩す事」は始めからしなかった筈であるは出来なかった事に成る。
要するに、「勝頼軍の戦術」は「織田側の三軍」に対して「確個不抜の攻撃」を仕掛けるべきであったし、其れしかなかった筈だ。
当に上記の「長篠の戦い」では「織田方の三軍」はこの「三方ヶ原の武田軍略」を先取りして「二つの拠点造りの戦略」を採ったと云う事に成るのだ。
要するに、「信長」はこの陣形配置を考えた場合に「信玄の三方ヶ原の戦い」を参考にしたと観ているのだ。
それに「傭兵軍団の雑賀族根来族を主体としての銃隊の傭兵軍団3000の戦力」を本陣が攻撃されない為にもその直前で「圧倒的な戦力向上を目的」として利用して「殲滅作戦を採ったと云う事」に成るのだ。
これは「直前の父の戦略」を事前に理解せずに無視して戦ってしまったと云う事に成る。
あまり「将としての器では先ず無かった事」に成り、要するに戦う前に負けていたのである。
だから余談だが、史実に遺されている様に、“武田方の指揮官達は戦いの前に分かれの宴を躱した”とする史実が遺されているのだ。
唯、何故に「くの字の先端に位置した秀吉軍」の直ぐ「横500mの位置」に位置したかと云う疑問が残る。
此れには上記の位置にいた「苦しい勝頼軍の唯一の勝つ為の唯一つの秘策・信長軍の配置の欠点」が観える。

前段でも論じたが、二つの郷土に遺る逸話を元にした「郷土史の記録」には次の二つの資料が遺されている。
一つは、「信長本陣の館壁」に銃弾痕が無数あったとする事と、「雑賀族の銃隊」の後にも“酷く潰れた弾丸”が"多く畑に遺っていたとしている事である。
そこの処を掘ると、集中して一か所周囲に多数に遺されて出て来た事の記録である。
これは「史実である事」が後の研究で証明されている。
この事は見逃す事の出来ない重要な事である。
これは「通説」と成っている「騎馬隊が先頭切って突っ込んだとする説」を覆す事であり、この事が興るという事は、先ず先頭切ったのは「勝頼軍の数少ない銃隊・200の守備隊説」が「3列」に整列して突っ込んで来た証拠であり、それが「信長本陣の館300m程度・弾丸の飛距離」まで「馬周り柵の北側の右柵・秀吉の陣の際」を破って接近していた証拠と成り、且つ、その後、「信長の傭兵軍団の銃隊」の中の「くの字の右側」から侵入して来た事に成る。
つまり一時的に、この「くの字」の「北外側の右柵が破られていた事」。つまりこれは{秀吉軍と北側柵の間」に成り、それが当に「真西」にある「信長本陣の置いていて館」の近くまで侵入していた事を「壁の弾丸跡」が物語っているのだ。
つまり、「勝頼軍の銃隊による守備隊の決死隊が編成された事」を意味し、これが全滅した事に成り、「戦い」の後を農民などが戦場を整理して兵を軍別に分けて葬った事の記録が遺されているのでこれはそれを纏めたもので史実である。
この時の「記録・1万2千・銃による戦死」から「勝頼の武田全軍の7割近く・2万5千比」が戦死していた事に成り一致する。
但し、「双方の祐筆が遺した公表している戦記」からの数字とは合わないが、当然に何れも極端に少な目であるが、「長篠の戦い後の勝頼逃避行の記録の数」は脱落者や死人や掃討作戦での犠牲者から最後の村に到達したのは「当初200人で最終は100・数人の説もある」にもなら成らない数に成っていたとされている。
その戦場の総合墓地と逃避中の墓所も発見されている。
この時の「農民の口伝」を下に江戸期に入り「数人の郷土史研究家」が取り纏めた資料の書籍が遺されている。
その解説に依れば、その遺された「多くの弾丸の潰れ方・平坦に潰れていた」から「流れ弾」では無く何か固いものに当たっていた事に成る。
「郷土史の説」に依れば暫くは畑から弾丸以外にも「戦歴を物語る物」が出土していたらしい。
つまり、それらの事を読み込むと、一時には「右側の柵に完全に柵の中に入り込んでいた事」に成り、「数は少ないがその弾丸」の「潰れ方」から「銃などの鉄製」に当たっていた事に成るとしているのだ。
「戦場での潰れ方}ではそういう事に成る。
この考察から、上記の陣形から「戦法」に行き詰まり「決死隊」を「勝頼の守備隊の銃隊」で編成した事を意味する。
そしてこの「銃隊」のちょっとしたチャンスを生かそうとして全軍を突破作戦に無理に切り替えた事に成るだろう。
恐らくは、勝頼軍は「信長軍の馬周り柵の中の様子・銃隊の実際の数や三段構えの戦法態勢」が実際に掴めていなかったのだと考えられる。
通常は「武田軍の隠密等」も探っていた筈で「通説」とは違って「信長」はこれらを当初から敢えて「何らかの方法・戦記には車に蓑の表現が出て来る」ので隠していた可能性がある。
「勝頼の陣」からはこの「信長本陣」は、丁度小高い丘を影にしていた事から詳細が観えず、この「勝頼の決死隊の功績」で銃隊の勢力を低く見たのでは無いかと予想できる。
つまり、これはこの「隠していた状態」の時に「決死隊」が比較的に簡単に「右の柵・秀吉軍の左際」に沿って突っ込んで来たと云う経緯と成ろう。
そこで「信長のくの字の馬周り柵を伴った陣形」の「最大の弱点」は「右側のくの字の縁」に沿って「直線的に走れば「信長本陣館」に到達する。
これが「弱点」であるからこそ「くの字」の真ん中では無く、この「右にある秀吉軍」に対して「勝頼本陣」を極めて接近させて「即応態勢」で防ごうとしていた事に成る。
その「弱点」を「勝頼本陣に直接所属していた守備隊」を「決死隊の銃隊」に仕立てて先ず先陣を切らせて攻めさせたと云う事であろう。
これが「信長本陣」の近くまで到達した事を観て、この「くの字の弱点」を確信して「赤兜6000騎馬隊」を次に突破させようと突進させたのであろう事が「郷土史の後の経緯研究史」でも判る。
ところが、そうするとこれに「本来の配置の役目」を持つ「秀吉軍」は阻止する為の即応が出来なかった事の史実と成り得る。
これは何故かである。
それは「勝頼軍の本陣」そのものが「くの字の右際に沿って直線的に移動するとこの「くの字の戦棚」に沿って陣を敷いていた“「秀吉軍」にはどの様な事が興るか”である。
「勝頼軍の本陣」が「秀吉軍の正面に向かって攻めて来る」と開戦前の当初は観ていたが、それが「くの字の隙間」に沿って「200の突撃隊の銃隊」が先ず突っ込み、次に「赤兜6000騎馬隊」が「猛スピードで走った事」で「秀吉軍は軍の向きを柵側の南に変えられず、且つ、仮に攻めたとすると、この行動は「くの字」の「馬周り柵内の傭兵軍団の銃隊の陣形」を壊す結果と成り、右横から向きを変えて秀吉軍に攻められた「赤兜の騎馬隊」が左横に逸れる事で「戦域幅」が広く開き、その事で「くの字の馬周り柵」は壊れ、この結果として「信長本陣の館」は危なく成り、却って「勝頼の赤兜6000騎馬隊の目的に利する事」と成る筈であった。
そして、下手をすると「勝頼軍の4軍の徒士軍」が正面から「秀吉軍」に向かって決戦を仕掛けて来る事と成ると、「秀吉軍」は南側と東の正面側から攻められて壊滅する事に成る。
だから「秀吉軍」は敢えて「史実」は動かなかったのだ。
ところが、ここで「幾つかの史実」を組み合わせると、このタイミングでここで「思わぬ事態が興った事」に成るのだ。
それは「くの字の内側右側」にいた「馬周り柵の傭兵軍団の銃隊」は「赤兜の騎馬隊」の余りの早さの攻撃に態勢が崩れそうに成った。
然り乍らも、これを盛り返し再び「銃弾幕の激しい銃撃」を開始し始めた事に成る。
問題はここに在るのだ。
そこで、「200の銃の突撃隊」で「くの字の北側」を崩して進入路を造った後に、「山型陣形の赤兜の騎馬隊」は、「郷土史の研究記録」などの記録・弾丸と死傷者の集中位置等」から観て、「くの字の馬周り柵」の真ん中より内側の中心よりに押し出して進軍していた事に成りる。
それが、つまり、一時、「くの字の北側」が崩れてその「傭兵軍団の銃隊の立て直し」がその後何とか出来て、その間に「傭兵軍団の北側の銃隊」に犠牲を負っていたのだ。
つまり、この事はその北側に犠牲を負っている「傭兵軍団の味方の銃隊」が未だ居る中に向かって何と「くの字の中心と南」に位置していた「傭兵軍団の射撃」が止む無く突然に開始したのだ。
つまり、「味方の銃隊」が「味方のいる北側}を射撃した事に成るのだ。
当然に「味方の犠牲者」は出るがそうでなければ「くの字の中は総崩れ」になるところであった。
これは同時に「信長本陣」も危なかった事を意味する。
この結果として、これで「山型陣形の赤兜の騎馬隊の先頭」が「くの字の内側横・中心側に広がる結果」と成って仕舞ったのだ。
つまり、この時、敵味方の双方に多数の犠牲を負う事と成ったのだ。
然し、この時、傭兵軍団の銃隊に異変が起こったのだ。
それは織田軍側は「傭兵軍団」だという事だ。
そして織田軍と秀吉軍はこれを救わなかったという事だ。
この二つを合わせれば何が起こったかは判る筈である。
然し、傭兵軍団はこの戦場ではg:yを伴う為に織田軍に対して態度を露わにしなかったのだ。
その頃より、結果として今度は中心より「左のくの字」の「傭兵軍団の銃隊の弾幕の範疇」に入り一時途絶えた弾幕は再び開始された結果、「山型陣形の赤兜の騎馬隊の陣形」が史実の通りに「総崩れ」と成ったのだ。

これを救おうとして「山県軍の徒士軍団4軍」が「くの字の右内側横」に押し出した結果と成って仕舞ったのだ。
「郷土史の研究記録」の「弾丸や死傷者の位置等」から余り犠牲者が出る筈のない「傭兵軍団の右横の銃隊」にも多く犠牲者が出た戦歴と成っていて多く弾丸が残るのは、この経過を物語っているのだ。
結局は、「傭兵軍団のくの字の左横の銃隊」の横からの態勢を整え直した「三段攻撃の総攻撃」を受けて「赤兜の騎馬隊」のみならず「4軍の徒士軍団」も「全滅・1万2千」した事の史実の経緯が「郷土史の研究記録」からも裏付けられて判るのだ。

この様に「勝頼の本陣の位置・秀吉軍の左500mの配置」は「織田軍とその三つの軍」と「馬周りの柵」とその兵力から、その弱点と成るこの位置を採った事が判り、当初よりその「弱点」を突く戦略で在った事に成る。
そして、それを証明する為の「200の銃隊による決死隊・本来の勝頼の守備隊」を敢えて前面に出して崩す配置をした事が判る。
そして、「4軍の家臣団」の全てから「反対・記録」を受けながらも強引に「勝頼の独断」でこの「少数の銃隊・勝頼の守備隊」で「突撃させてしまった事・それなりの戦功はあった」に成る。
要するに、この勝頼は「三方ヶ原の二極拠点化」の「六稲三略から来る常套戦術」を参考にせず「弱点攻撃」に切り替えた事にし、護らなかったのだ。
然し、現実はこれしかなかったのでは無いかと考えられる。
要はその成否の境は、「くの字の馬周り柵」に沿って配置された「傭兵軍団のくの字の北側の味方」を「自らの銃で撃ってしまう」と云う耐え難き悲惨な事の「判断の差」で事は決まったと云う事に成る。
史実はこの悲惨な代償に信長は全く応えなかったのだ。それどころか戦い後直ちに「傭兵軍だの攻撃」を開始したのだ。
故に筆者は勝頼の戦略にはこの「非」は通説と違い無かったと観ている。
然し、これに従えばより良くするには「勝頼」は先ず「秀吉軍の拠点」を打破して「くの字の弱点」を先ず抑えて「二拠点化」にして有利にし、其の上で「くの字が崩れた信長軍」の「次の出方」を先ず観るべきであったのだ。
「信長軍の全軍」はそもそも「傭兵軍の銃隊」が「命綱」である以上は「くの字の陣形」を崩せなかった筈であり、この「信長の採った二拠点化」は痛手で在った筈である。

ここで、注釈として後に事件が興ったのだ。
この「見方が味方を撃つと云う事・助けを出さなかった事」が原因で長篠後に紀州征伐が起こり「信長と犬猿の仲」に成る。
この機微を勝頼は戦場で見抜けなかったという事に成る。
この「銃隊による決死隊・勝頼の守備隊の突撃」で「くの字の外側の右側」が現実に崩されたが、この時、「秀吉軍と織田本軍と徳川軍」はこれを救わずに記録では黙って観ていたのだ。
この時、「主に雑賀傭兵軍団の銃隊」は崩れながらも「自らの力」で「態勢」を立て直し、味方のいる右に銃口を向け直して何とか「応戦態勢」を採り始め、結果として“「味方1200の犠牲・傭兵軍団の半分の犠牲の史実」”を出しながらも盛り返した。
そして、この状況を観て「くの字の南側・左側の銃隊」は弾幕を張って柵から出て自らの力で犠牲を出しながらも味方を救助し開始した。
最早、「長篠の郷土史の伝説」では、この時は「軍団の銃隊の指揮官」は「織田氏の指揮官」に従わず自らの身内を護る為に「雑賀族が指揮を執った」とある。
そして「長篠の戦い後」に、「この事」が元で「雑賀族と信長―秀吉」とは逆に「犬猿の仲」に成って、「銃隊の傭兵軍団」は「信長」に一切味方する事は無かった。
前段でも論じたが、「長篠の戦いの戦後始末後」に、[信長―秀吉軍団」は史実として「大紀州征伐」を長期間で実行し「雑賀・根来傭兵軍団」は「分断」される始末と成り瓦解に到るのだ。
前段で論じたが、改めて「信長の軍」は、この時、「雑賀族三軍団の征伐・鈴木氏族・根来族・土橋族」に矢張り「銃の軍団」に大失敗し、大阪に一時逃げ帰ると云う経緯と成っていて、そこで「信長」はこの「雑賀族三軍団」に対して「調略作戦」を開始したのだ。
「紀州の紀の川」の川を挟んで「北側の土橋氏族」に「調略」を仕掛けて成功するが、「鈴木氏族」は譲らず続けられていた戦いに応戦した。
そして「根来氏族」に対しては、「秀吉に歴史」に大きく残る「焼き払い殲滅作戦」で一族を焼死で殲滅させたのだ。そして「伊勢青木氏」に逃げ込んできて匿う事が興ったのだ。
「孤立した雑賀氏族」は、飽く迄「戦い」ながら子孫を遺す為に「三つの裔系・鈴木氏本家と分家の鈴木氏の雑賀氏と土橋氏との血縁族」に分けて戦う事に成った。
「現海南藤白地域・鈴木氏発祥の地」に在した「鈴木氏本家族」はその支流末裔が存在していた「紀伊山脈の山の中」に「山族」として逃げ込み、「平家の生き残りの龍神族と十津川族」と組んで「織田軍」に「銃のゲリラ戦」で対抗したのだ。
「分家鈴木氏の雑賀族・現雑賀地域」は、「紀の川の南側」の平地でゲリラ戦で死守して譲らなかったのだ。
後に少数でも強い敵に立ち向かう者を「紀州惣国者」と呼ばれた。
信長調略に応じた「土橋の血縁族」は、「一族内・川南との」に内乱が興り、最終は「川北の土橋族」が信長に着いたのだ。
この状況の中で「土橋族の持つ銃を獲得した事」を下にして「秀吉の第二次紀州征伐」が興り、「ゲリラ戦・紀伊山脈の山と紀の川南側の聖地のゲリラ戦の二つ」が続いて起こったが、他の「南紀の紀州土豪達・青木氏の旧領地の家人や氏人」に対して、「子孫存続の為に伊勢青木氏説得」もあって仕方なく「秀吉側」に靡いて一応は平定された。
この後にこの状態で「秀吉の刀狩り」が興り、「彼等が保有していた多数の銃」は。「三つの生産地」も含めて「秀吉の手中・支配下」に入って「秀吉軍」はこれが下で銃を獲得し急速に強く成ったのだ。
この時、合わせてこの「秀吉の奪い取った銃」での「兵力」を高めない様に「伊勢青木氏」は「摂津で管理していた近江の生産地」を即座に廃止し、この「銃工人等」を「伊勢」に呼び寄せて「青木氏部」に入れて保護したのだ。
一部に従わなかった者等がいて「薩摩と秀吉」に密かに吸収されたとある。
この時、これを「薄々見破った秀吉」に「伊勢の蔵を焼かれる事」が興ったが「伊賀」がこれを「ゲリラ戦」で撃退し阻止したが、この様に「雑賀事件の影響を受けた経緯」を持っているのだ。
この時、この「雑賀域・鉄の生産地・現住友金属」に「伊勢の出店・伊勢屋を持った事・現地との調整する連絡事務所」が史実として判っている。
そして江戸期に入ったが、「本家の鈴木族と分家の鈴木族」は「紀州藩の銃を持つ雑賀忍者集団として組する事・歴史的に有名な史実が多く遺る」と成ったのだ。
この事件発生から歴史観を観ると、結局は「くの字の南側に位置した徳川軍・紀州藩」が恨まれずに得をし、「大量の銃と雑賀忍者・元平家族と融合」を得た事に成る。
後々、「伊賀忍者の紀州藩、甲賀忍者の徳川氏等」とその路で競り合うのだ。
「長篠の戦い」には、「三方ヶ原の戦術」により関連する掘り起こせる史実があったのだ。

この様に「今川義元・武田信玄以降の戦術」に習って「歴史上の本陣」を決して「実際上の戦場」には置かつたのであり、「1里・4kから4里・16k」の「位置・当時の活動圏」に配置するのが「当時の歴史的な常道戦術」であったのだ。
つまり、要するに「秀吉の本陣の配置」がいざという時のキーに成っていた事に成る。
「敵方の勝頼本陣」が動けば「秀吉の本陣の配置」で側面を突いて牽制する戦術で在った事に成る。
「固定の馬廻り柵」を攻撃してくる前に「秀吉の本陣軍で攻撃して崩すと考えていた事に成る。
「南1k横に在った家康本陣」は、「信長本陣」とそれを背後にした「傭兵の雑賀の火縄銃隊」が崩されそうに成った時に「勝頼の武田軍本隊の左側面」を突いて攻撃して救うと云う配置形態に在っていた事が判る。
現実には上記の通り「勝頼」は「弱点を見つけた事・銃による守備隊による決死隊で実証」で上記した様にこの様に成らなかったのだし、これが下で「銃の傭兵軍団の雑賀族との事件」に発展して行ったのだし、「伊勢にも影響が出て来る事」に成ったのだ。
「額田青木氏等が関わった三方ヶ原」はその「直前の出来事・2年」であった。

さて、「二拠点化の論の検証」に戻して、其れもが何とか「額田青木氏の新型銃の長距離銃」と違って「火縄銃の銃弾」が本陣から届くと云う「命中率低い・流れ弾程度の距離の500m」の位置に「敵方の勝頼本陣」が存在すると云う事は動けば撃つと云う態勢にあった。
況して「くの字の陣形」を採る織田全軍の配置形態に対して、然し、この常套手段を無視したのだ。
況してや、「馬回り柵の3000の銃隊」に対峙するには無視も良い処で子供でも判る攻撃でもあるのにだ。
ところが、「長篠の戦いの場合」もほぼ同じ配置形態に在り乍らも、「勝頼の銃隊200の守備隊」と共に「武田本軍の赤兜騎馬隊6000」で、先ず「秀吉軍」と「馬周り柵」の間を「側面突破」して直線的に「信長本陣を目指す」と云う「戦術上・六稲三略」ではそんな状況では無かった筈であったが、処がその是非は別として「考えられない行動」を執ったのだ。
「戦う」とすれば「基本の戦術」は先ず「秀吉軍と戦うと云う事」に成るだろう。
何故ならば、誰でも判る事だが「信長の本軍」は自分から先に仕掛ける構えではなく待つ構えであった。
そもそも「銃隊」を前に置いて、且つ、「馬回り柵」で前を「くの字」で囲んでいる以上はそもそも「徒士の本隊」を戦う為には前に出す事は出来ない。
例え「秀吉軍」が突かれ敗退したとしてもこの戦形は物理的に崩せない。
否、崩してまで出る事は100%出来なかった事は自明の理であったしその意思は信長には無かったと云える。
だとすると、この「陣形」から観ると「上記の突破作戦しかない事」に成る。
現実に「くの字の北側・右側・秀吉軍の南側面と馬周り柵の間」は崩されているのだ。
ここで様子を見る事が信長がどの様に出るか待つ必要であったと後勘では観える。
それは、「雑賀根来の銃の傭兵軍団」に異変か起こっていたのだ。
勝頼もその「異変」を感じていた筈である。
「勝頼軍の突撃」で現実に「北側馬周り柵」が崩れた。
この「総崩れ」になりかけている「くの字の態勢」を護ろうとして、「雑賀根来の銃の傭兵軍団」は「味方のいる混乱した柵側」に向かって何とか救い出そうとして射撃を開始し始めたのだ。
この為に「味方1200の/3000の味方」を犠牲にしたのだ。
そして「秀吉軍」は救出しなかったのだ。
これが現実に起こったのシナリオだ。
この時、「郷土に残り続けた逸話」では、「雑賀根来の銃の傭兵軍団」は「信長と秀吉に対しての怒り」を示したのだ。
現実に紀州では伝説としても「信長と秀吉に対しての怒り」の通りに人気は良くないのだ。

この「長篠の戦い」は結果として半日で決着が着いたが、「雑賀根来の銃の傭兵軍団」は「信長に対しての怒り」を表す為に“「紀州」に向かって直ぐに引き上げて仕舞った”と伝わっているのだ。
この「逸話」が真実だとすると、「勝頼軍の徒士隊4軍」は“一時様子を見る事が必要では無かったか”と云う考えが生まれる。
つまり、「雑賀根来の銃の傭兵軍団」は「銃先」を信長又は秀吉軍に向けた可能性があったし、「戦線離脱」していた可能性もあり得た。
筆者は、見方が味方を撃つと云う異変のこれだけの事が興れば戦場と云えど普通では無く何かこの時に「異変」が戦場に起こっていたのでは無いかと観ていてこれを敢えて捉えなかったのではないかと観ている。
そしてそれが家臣団の信頼を失うきっかけと成ったのであろう。
これを利用すれば「万が一の勝ち目」が武田側に傾くのだし、それだけの意味のある事件であったのだ。
何故ならは、彼等は「武田軍に対して敵への怒り」は元より無かった筈で、要は「傭兵軍団」であったのだ。
この様に、世情はこの様に「見殺しされるという事」は傭兵軍団に執っては今後も信長の元では次も同じ破目に成り得る。
現実に、その証拠にこれが下で間一髪を置かずして「長篠後」に「歴史に遺る残虐極めた紀州攻め」が実行されているのだ。
「郷土の逸話」の通りに、史実の「間一髪」を考えれば、何もなくしてはいきなりに「紀州攻め」は無いだろう。
確かに、信長の「銃への恐怖」と「自らも銃を持ちたい」とすれど、「史実の間一髪」は無いだろうし、そもそも世間に対して「戦う大儀」が成り立たない。
そもそも「銃」は「市場制」の中に無く飽く迄も「傭兵制」の中にあって銃のシンジケートを形成していたのだ。
後は密かに影ルートで入手する以外には無く必然的に数は護身用程度で数丁単位で在って戦用と云う事には成らず、飽く迄も銃組織のシンジケートを形成していたのだ。
この中の中心に青木氏族は摂津を介して存在していたのだ・
これは「銃」に限らず「砂鉄の玉鋼」そのものがこの範疇にあって、そもそも「商用」と成ったのは「江戸初期の摂津と大阪」であってそれでも寡占であったのだ。
それ故に、この「雑賀根来族のシンジケート」は独立性が強く、そもそも「紀州人」は穏やかな処に根に元来「古来より惣国者」としての気質を持っていたのだ。
故に、この「異変」にはこれには「味方1200の/3000の味方を犠牲」に対して戦場で「銃先を変える可能性」だけの「相当な怒り」が在った事が云えるのだ。
観ていれば戦い中のこれだけの状況では「異変」を読み取れていた筈だ。
筆者は、異変の間隔を待つべきであったとし、利用するべきで在ったし、然し、現実は待つ事は無かったのだが、これが「勝頼軍の徒士隊4軍」の歴史に遺る「家臣の信頼を失った・死の宴とする原因」に成ったのであろうと考察する。
「勝頼軍の徒士隊4軍」の突撃は待つべきで在ったと観ている。
通説の“勝頼は冷静さを失っていたの説”にこの意味では合意する。


「長篠の戦い・陣形論の経緯」と、その「青木氏・伊勢と駿河」までに及んだ「結末論」を例えとして論じたが、そこで再び「拠点化の論」に戻す。
その意味で「三方ヶ原の信玄軍本隊」は「戦術の基本に沿っていたと云う事」に成るのであって「三方ヶ原で決戦すると云う考え」を持っていた訳では無く、そもそも「戦い」は元々自在変化するがそれにしても「三方ヶ原」を「軍の拠点とする事」は無かった事が判るのだ。
飽く迄も、「三方ヶ原を起点・補給拠点」にして、「堀江城、二俣城の二拠点化」とし、その「敵方の浜松城」はこの「戦略の範囲内」にあったのだ。
もっと云えば、「家臣の犠牲」の下で早々の体で逃げ帰った「一言坂の野戦の敗戦・本陣は戦場」としたのも、考えれば、元からこの「範囲内・浜松城より真東11k・二俣城から南16k3里から4里内・浜松城は南向きの三角形の頂点」に置かれていた事からなのだ。
依って「一言坂や三方ヶ原」にしても、この辺では戦略上の位置に置かれてるにも拘わらず「戦い」を無駄に仕掛けた「元々の松平軍の戦略の低さ・家康」が見えていたのだ。
況して勝てる見込みのない「狭い一言坂の野戦・時間稼ぎ家康説もある・江戸期の後付け」の「戦い」を仕掛けた理由も凡はその処は判る。
更に、「三方ヶ原」に於いても「額田青木氏と駿河青木氏」が合力と参戦しているこの「松平側」に「戦略の低さ」が目立ったのだ。
上記した様に「雑賀根来の傭兵軍団の憂き目」と同じ憂き目を「額田青木氏」にも「指揮官の戦略の低さ」から巻き込まれる可能性があったのだが何れにしてもその心もとなさが目立つものであった事に成る。
それが「浜松城軍議の命令拒絶」で「牛族を左右する憂き目」を免れたのだ。
後勘から観れば「長篠の傭兵軍団と同じ流れ」を踏んでいた事に成る。
この「活動圏の範囲」と「陣形の向き・北向き」に依って「陣形」を選ぶのが「戦いの常道」なのであったが、其れを「松平軍」は、何と「南向きの三角形の頂点・自分の城に対しての左向き」で“「西向き」”に執ったのだ。
本来では「浜松城」を背景に「北向きに採るのが常道」であった。
然し、これであれば松平側に執って「長期戦と成った時の補給路を断たれる事」は始めから判っていたのだ。
これを「武田軍側」から観れば、その「補給路」は「二俣城と堀江城」にあって困らないが、速くに「浜松城を攻め落とすと云う点」からは「今後の戦略上」では「最終補給拠点」の「三方ヶ原」は早期に是非に必要であった事に成るが、然し、その意味ではこの「陣形」では都合が良かった事に成る。
「浜松城落城後の西三河攻め」にしても、この「三方ヶ原」はその「補給中継点」としては絶好にいい位置にあったのだし、その為には「補給拠点・三方ヶ原」の近い「堀江城」は「西三河攻めの指揮の拠点の本陣」とする戦略でもあったのだ。
其れは、同時に既に、「3っの別動隊」に依って「背後の北三河」もほぼ手中に収めていたが、それは「足利将軍の信長征伐命」で「西」で引き付けられて苦戦している「織田軍の動向」にもあった。
つまり、この「織田氏の西の戦い」が解決する前に「本陣と補給点」を前提にして先に「東に拠点を構えて置く必要」が「武田軍側の戦略」にはあったのだ。

では、この「不思議な陣形を採った松平軍」は、これに対して薄々の「武田軍のこの行動」を読めていた「家康」は、これをさせまいとして「一言坂の野戦を仕掛ける事」で「武田軍の進軍」を留めて「軍監の織田軍の意思」を入れた“「時間稼ぎの行動」を示す事”で、つまり、「時間稼ぎ」を主張する「軍目付・軍監の圧力」の「賛同」が得られる様に敢えてしてしまった為に、その様に「陣構え」を「山県軍の別動隊の動向」も在りながらも、敢えて北向きでは無く、“「西向き」”にしたと読み取れる事にも成るのだ。
この「西向き」は、「山県軍の別動隊・二俣城の行動の情報から」を「補給実戦隊」と家康等は軽く見ていて計算に入れていなかった事にも成る。
これを計算に入れていれば、この「陣形」は「浜松城を背にして北向き」にする筈であった。
これであれば「武田軍の本隊」のみならず「山県軍の別動隊の動向」も「空の浜松城」をも「戦いの中」に組み込める事と成る。
そもそも、「織田軍」が「援軍」を廻そうとすれば、「都田川の姫街道・8k−2h」を通過しなければならない訳であるから、その「三方ヶ原」の前に織田軍は「堀江城の武田軍の本隊」と「側面」を突かれて決戦をしなければ成らないし、又、下手をすれば「山県軍の別動隊の動向」に「正面を突かれる事」もあり得て、更には「山県軍の別動隊の動向」で「松平軍」は浜松城から出て「織田軍に合力すれる事」にも成れば、「山県軍の別動隊」に「浜松城を取られる事」もあり、「浜松城を出る事」は絶対に戦略上は出来なかった筈である。
従って、史実の通りに「織田軍の援軍」はあり得ないのであるし、無理に「浜松城の援軍」に向かえば「北三河」が落とされている現状では、北から「織田軍の左横腹」を突かれて進む事に成る等で現実は出来ないのだ。
つまり、この「自明の理の戦略状況」から元より「織田軍の援軍説は無かった事」に成り、当初より「信長」は「軍目付・軍監」だけで「南三河と西駿河の事」は治めて「時間稼ぎ」をする「目論み」であった事に成る。
其れも「織田軍」の「浜松城援軍の時間稼ぎ説」では無く、「織田軍」の為の「西三河攻めの時間稼ぎ説・昔からの領地続き争いの西三河」であった筈である。
つまり、これは「家康の思考」の中には「織田氏の援軍は無いもの」として、然る事乍ら、最早、余りにも「西三河」に「視点が行っていたと云う事」であるのだ。
その結果として「額田青木氏」が無理に呼び寄せられた「浜松城軍議で妥協案が出た事」から、これを読み切る事が出来なかった「美濃守備軍の平手軍・汎秀戦死」は、「信長の命に反して合力する事」と成って「平手一族」に対して「信長から強い叱責を受ける事の始末」と成ったのだ。
この「筆者」、即ち「額田青木氏の指揮官の考え」の「経緯の分析説・陣形の分析説」から観ると、故に「武田軍本隊と別動隊の大軍」も「北の三方ヶ原・補給拠点」にして、上記の「二拠点化戦術の常道手段」の通り「浜松城を陣取る事」にして構える事に成っていた筈であると説いている。
唯、確かにここを「本陣とする説」も考えられるが、地理的や地形的に「遠江の入り口の堀江城」を超えて「中に入らせる戦略」は常道ではないし、そもそもそうであった場合は「堀江城攻めは無駄に成る事」に成り、その意味が無くなるだろう。
そもそも既に、「浜松城の周囲全域の出城」を落とされていていれば、自然と「補給路を断たれ事で「浜松城は落ちる事」は「時間の問題」であって、「攻め落とした西駿河の安定の補給路」と「北三河攻めの補給路」を「三方ヶ原」に「大規模な補給拠点を造る事」さえ出来れば「総西攻めの為」にも「無駄な戦い」はしないであろう。
後は、「孤立した松平軍」に執っては密かに「海からの補給支援・南」に頼るしか無くなるのだ。
当然に「信長」も同然にこれを救う「強い水軍も持っていなかった事」の為に「充分な補給路の無い所」に「援軍を出す事は自らの首を絞めるだけ」で当初よりその「心算」は無かったのだ。

注釈として、前段でも論じたが、故に記録にある様に、この時、「伊勢水軍・伊勢衆は調略を受けなかった」が一部の小さい「尾張衆の知多衆」だけは受けたのであり、それと「熊野水軍・調略を受けた」に「調略」を掛けて来たのだ。そして最終は「熊野水軍」は調略に乗ったのだ。
此れには一つ問題があって、当時の水軍にはその「厳しい縄張りの掟」があって果たしてこれを破ってまでも浜松沖まで行くかは不可能な問題であった。
それは他の水軍から掟を破った事で「総攻め」を受ける事に成る。
背後から「伊勢水軍など軍団」から突かれればそれこそ戦わずして壊滅で憂き目を受ける。
何故ならば出過ぎた「熊野水軍の補給路」を接水運組合ので前段で断てばよいだけである。
通説が解いている「熊野水軍説」は100%あり得ず、又その勢力からも「紀伊水軍」や最大勢力を誇っていた「摂津水軍」の「組合連合軍を敵に廻す事」は不可能であった筈である。
当時は「堺に事務所を置いていた水軍組合」は一熊野地方の熊野水軍が幅を利かせる程では無く「絶大な権力とその勢力」を持っていた史実があるのだ。
従って、「熊野水軍の利用」は「信長のデスチャー」で現実的では無かったのだ。
さて、だからところが、「武田軍」には山国であった為に「陸揚げ」を遮るだけで「海での水軍・最大の欠点」は無かったのだが、そもそも“海で戦うその必要性は無かった”のだ。
結局はこの「水軍説」を根拠としている「熊野水軍説の通説」は合わないのだ。

さて、ここで「伊勢水軍の保護」の下で「摂津の水軍組合の一員」と成ったとする「本論」の「駿河水軍の青木貞治」の「キーポイント論」が出て来るのだ。
「駿河水軍の主」として育った「二俣城の副将の青木貞治の存在」は松平軍が求める「海からの支援・南」に執って“最大の重要ポイントの役目”であったのだ。
だとすると、「松平軍」には「駿河水軍の青木貞治の存在」は、「戦略上」では極め大きかった筈であるが、ところが「旗本の羨望」で実際上は「二俣城の副将の扱い」まででそれ以上の「その正統な扱い」を受けていなかった事なのだ。
「副将の青木貞治の存在」のそのものでは無く、その「異様な影の背景・旗本」はこれを敢えて認めようとしなかった事」にあったのだ。
そもそ、海から最も遠い「二俣城」に追い込めていたのだし作戦上からどう考えても変である。
史実の判っている後勘から考えても「軍としての指揮官の能力」を疑っていただろうし、駿河青木氏の貞治は当然の事として、「額田青木氏の指揮官の貞秀」から観ても大きな疑問を持っていただろう。

当然に、この「三河旗本羨望」とも成っていた「背景の一つ目」には、「青木貞治」に繋がる「額田青木氏の南下国衆の銃隊・伊勢の裔系」にもあった。
更に「背景の二つ目」には、「伊勢青木氏の財力」とその「伊勢シンジケート」と「伊勢水軍」は「海からの支援・南」を可能に成ら占めるにもあったし、その「実質の武力行使」では「秀郷流一門の抑止力の存在」が厳然とあった。
次の「背景の三つ目」には、「海」では「青木氏族」として「東は伊豆相模」まで「西は摂津瀬戸」に繋がっているのだ。
この総合力があったとして、この「三つの背景を実現させしめる手段・イ」は次の様に成っていただろう。

その「手段・イ」が果たして可能ならしめるのか検証して観る。
先ず、地形的には「馬込川・最狭川幅60m」より入り北に船で8k遡上し、そこで、陸路の真西に「六間通り」を1.5k経て真っすぐに「浜松城」に入れる。
故に地形的には「補給路」として充分に可能であった。
然し、ところがこの「三方を囲まれている場合」のこれを「可能ならしめる警備・武力」に付いての事も「松平側」には全くなかったのだ。
「武田氏」はこれを抑えれば「補給路の断絶」は可能となるし、奪取する事も容易に可能であった。
ところが、こんなに「重要な事」なのに「商記録」や「資料」や「手紙の行」や脚色編集されていると云えども「三河記録」にも、全くこの事に付いての影も形もが触れている処が全く無く、且つ、そもそも資料記録が遺されていないのだ。
間違いなく、「青木貞治の手」で駿河水軍・伊勢水軍の支援」を使ってこの「補給路作戦、又は計画」を実行していた筈である。
それは「東からの秀郷流一門からの補給路の作戦」も考えられただろうが、それに関わる様な記録や資料とそれを物語るような語句や行等は不思議に全く何もないのだ。
この「松平氏の恥辱と成るような資料一切」が後で消された可能性がある。
つまり、筆者が論じたい事は次の事である。
「額田青木氏の南下国衆の銃隊・300銃隊+50荷駄隊」を「吉田城の守備隊」から、突然、「当初の国衆約定」と異なり「浜松城」に呼び出した。
そして「軍議」に於いて「二つの事」を命じられそうに成った。
その目的の「一つ目」は、「籠城戦」を止めて野戦と成った場合に、その「陣形・鶴翼」の中心に「南下国衆の銃隊・300+50荷駄隊」を「実戦隊の中心」に据えて「不利な形勢」を変えて勝利出来る様にする事であった。
確かに、これでは「鶴翼の陣形で効果を発揮し勝つ見込み」はあったが、「額田青木氏の南下国衆の銃隊・300+50荷駄隊」にも、「雑賀根来傭兵軍団」と同じくそれなりに無傷では行かずに「大きな犠牲を伴う事」は必然の理であった。
然し、これはそもそも「国衆と成った時の約定」とは違う。
結果は、前段でも論じた通り、これを断り、「城」より放り出され、意味の無い「一言坂偵察」として派遣された経緯と成ったのだ。
目的の「二つ目」は、「籠城戦と成った場合」に本論上記した「伊勢と武蔵の協力」、つまり、「水軍に依る補給路の確保」と「補給の態勢造り」にあった様でこれも断ったのだ。
確かに「水軍を持ち得ない敵である事」から「戦場域」では襲われる危険性は少ない。
然し、既に「武田氏の手中」にあった「同族の信濃と諏訪の安全」と、片脚を掛けていながら「中立」を見せている「伊勢の安全・掟に依り直接侵攻は無い」は保障できない。
取り分け、「信濃と諏訪の安全」は、そもそも既に「武田軍中」にあって侵されている事から、これを盾に脅して来る事は充分にあった。
既に「筆者・額田青木氏の指揮官の考えとしてみる」は「脅しや牽制」に付いては「信濃」を介して事前に有ったと観ている。
筆者は、「松平氏の戦い」に必要以上に肩入れする必要も無い故に即座に断ったと観ているのだ。
目的の「一つ目」を遣らないのであれば、目的の「二つ目」も遣らないのが「理」であって、この逆の事も云える。
ところが次の目的の「三つ目」があった。
それは、「額田青木氏」の「基」に成っている「西」の「伊勢の影の勢力・伊勢シンジケート・伊勢屋を含む」と、「駿河青木氏」の「基」に成っている「東の武蔵の秀郷一門の勢力・地場産を扱う商い・長嶋屋等含む」とを、「背景」にする為には、この「二つの抑止力」を「松平軍が獲得・合力」が成立出来得れば、「浜松城の籠城戦」は充分に勝てると確かに見込める。
そもそも、「軍議の為」に態々三河の「吉田城の任」を解き呼び寄せたのであるのだから、「松平軍の基本戦略」は、その“「二つの象徴を味方にし呼び寄せたいと云う事」”では無かったかと観ているのだ。
そして、そこに「額田青木氏・伊勢青木氏裔系」と同縁族の「駿河青木氏・秀郷流青木氏裔系」を「背景に着ける戦略」であったのではないか。
然し、この「三つの何れ」も断ったのだ。
「結果の答え」は「旗本との軋轢・前段論じた」が在った以上は論じなくても解る。
この「軍議の末」の「籠城戦」は、これで論理的に崩れ、「野戦を選ばなくてはならない事」と成ったのだと考えられる。
その表れが、「補給基地の三方ヶ原」にあって、前段で論じた通り「密かに助け合う額田青木氏と駿河青木氏の行動」と成って現れたのだ。
これ等の「統一した行動」は、「伊勢青木氏裔系」と「秀郷流青木氏裔系」の「女系族の裔系の青木氏存続の氏是の所以」から成したものであったのだ。

ここで余談だが「浜松城の軍議」では、「青木貞秀・指揮官」も「青木貞重・額田青木氏の差配頭」も「青木貞治・額田青木氏」も「青木・・のこの三人の指揮官」も「嫉妬羨望の旗本」からの「相当な身の危険」もあったのではないかとまで観ている。
その最悪の場合には、「額田青木氏の銃弾」は「城」に向かって一斉に炸裂していたであろうし、其の「後の事」として「松平軍」は最早無く成っていた事にも成っていただろう。
そして「額田青木氏」も「駿河青木氏」も「安全な伊勢」に近い「三河伊川津」と「秀郷流一門」に近い「遠江・駿河」に直ちに戻ったであろう。
「三方ヶ原」での「上記の経緯の結果論」は、上記の「三つの何れの結果と同じであった事」を考え合わせると、この「歴史観」は先ず間違いでは無かった事に成るだろう。
そもそも、「武田軍」も「織田軍」もこの場合の方が傷を得ずして何事も無く都合は良かった筈と成る。
ところが結果として、「額田青木氏の銃隊」を呼び寄せたが「思惑」が外れて「額田青木氏」だけは“「城外に出された事に成った・史実」”のだ。
この直前までは「武田軍・早期奪取」にしても「松平軍・時間稼ぎ」にしても両者ともに戦略的に「同じ考え・籠城」であった事に成る。
然し、「額田青木氏」を訓練させて「近代銃」を持たせ「信長の戦略」で消失した「伊勢と伊豆間の中継点」の「再構築」を目論み「伊川津・渥美湾の制海権獲得」で行おうとして、その「権利」を獲得した「伊川津国衆としての約定」にも反して「呼び寄せられた軍議」で決然として断ったのだ。
ところが、当初は「通常の考え方」からすれば「野戦」では無く「籠城」と観ての「時間稼ぎ・松平軍」であったと観ていた。
この為に「紛糾した軍議」から外された「額田青木氏の銃隊」も、最初は「情報」の無い中で作戦的には予想通りに“「浜松城での籠城」”と考えていて、外された「軍議の結果の命令」を受けて、事を荒立てて行き成りに「伊川津・吉田城」に帰る事もせずに駿河青木氏の事もあって「様子見をする事」と成ったのだ。
そこで何れにしても、兎も角も「武田軍の動向を探る・意味無」の為にも「偵察隊としての名目の任」を受けて仕方なく「一言坂・前段の遭遇戦」に向かったのだ。
其の後、その「堀江城の途中」まで後尾に着いてそれを「追尾する形での過程」で、そのつもりで「様子見の追尾」では居たが、その途中で、“其の後の浜松城で軍議に異変が起こっている”のを、「余りの速さ」で「内部機密情報・駿河青木貞治から忍者を通じて」で情報を逸早く獲得し「異変」に気付くのである。
この「意外な展開の経緯」から、一応は「偵察隊としての名目命令」を受けた段階で、それを“断った以上は「籠城戦に成る」と把握していたので、武田軍本隊の追尾途中では、「駿河青木氏の青木貞治隊」を護る為に未だ「浜松城周辺に戻る予定・額田青木氏」ではあった。
然し、そこでこの「情報」を得て「駿河青木氏を救う」のは「三方ヶ原」しかないとしてそれに向けて踵を返したのだ。
この「青木貞治の情報」の中には、「三方ヶ原と指定していた可能性」があるからだ。
何故ならば、「青木氏族の将来の事・子孫存続」を考え合わせれば、“「浜松城・激戦」”よりも、“「三方ヶ原決戦」”を選んでいた可能性があるからだ。
結果として、その様に上手く運んだのは、「この駿河青木氏との情報の打合わせ」に依るだろう。
そうでなければ「戦場で無傷で救い出す事」は出来なかった筈だ。
結果として、「軍議の拒絶反発」での「偵察隊として命令・表向き」を受けていながらも、寧ろ、この「表向き命令」で「自由行動を採れた事」が幸いしたのだ。
そうでなければ、「伊川津国衆」と云えども「軍議の命令」に縛られていた筈である。
だから「三方ヶ原から伊川津」に直接戻った「額田青木氏」は「国衆」を直ちに辞し「開発業と陸運業と殖産業」に勤しんだのだ。

(参考として「上記の経緯」から観て、「絆の貞秀・貞治・貞重の呼称の経緯」は起こらなかった筈だし、「前段の額田青木氏の銃隊の差配頭の貞重の呼称の推論」に付いては、“「貞重の呼称」”がこの「状況証拠の経緯」の中で出て来る事は無く間違いは無いと考えられる。
故に此処では貞重を使う事にする。)

唯、未だ、「陸運業等の形」は整えたとすれど「松平氏の行く末」に依っては「渥美湾の制海権の獲得の行方」は「2年後の長篠結末」までには「既成の事実」としながらも夢中の中にあったのだ。
「名目」は「籠城戦の為の情報収集の偵察隊であった事」に成るが、そもそも「一言坂の武田軍の本隊の動向・城から見えていた」が、その「目的」と成るが、前段の検証でも「海抜300m城の天守閣」からは充分にその行動は観えていたのだ。
だからこの「名目偵察」は「完全な名目で在った事」が解る。
そもそも、この「目的」はそれが「本来の偵察隊」であり、一度、「松平軍」は「野戦・一言坂」に出て戦って敗戦しているので、「本隊を動かす事」は出来ず「吉田城守備隊」にいた「伊川津国衆と成った銃を持つ額田青木氏」を呼び出して、それも「銃力のある南下国衆」にこの「命令」を出したという事に概要の経緯は成る。
其処にこの「重点」があって、そもそも、検証ではその「一言坂・17m上」は「10k先」の「浜松城・天守37.5m」からは「20m下」に障害物無くはっきりと見えていた筈なのだ。
間違いなく「偵察の意味」が違っていたのだ。
「偵察隊を名目」に「城」から放り出されて、その「松平軍」が既に「野戦」で負けていた「武田軍の本隊の存在する一言坂」に先ず向かったと云う事であるのだ。
この「呼び出した後の軍議」では、「三つの命令」に従わなかった「南下国衆の銃隊」に向かって“「意味の無い偵察隊」”としたのは、そもそも“「意味の無い」”に意味があって、「武田軍に殲滅される命令」を「罰として下した事」なのではないかと観ているのだが結果は逆に何とその銃力で勝利するのだ。
一度、家康は「野戦」をしてその実情は命の危険から脱して敗戦し、故にその力は充分に知っているし、「城」からも観えている各所で戦った「武田軍」でもある。
「今更の偵察」では無いだろう。
ところが、その「結果」は逆であって「勝利」してゆっくりと警戒をしながら坂を下りて「浜松城の斜め横の丘」に陣取った「史実」と成るのだがこれも城から観えていたであろう。
「額田青木氏の銃隊の今までに経験してこなかった威力」を知って「武田軍」は追尾して来なかったのだ。
当然に松平軍も「城」からこの「銃撃の状況」も充分に見えていた筈である。
「城から追い出した張本人の旗本ら」は、内心、「南下国衆の銃隊」に対して「初経験の恐怖」を抱いていたのではないか。
「筆者・額田青木氏の指揮官の目」は、これを観て「城の東の丘」に隠れた「南下国衆の銃隊」を、再び「野戦の三方ヶ原の陣形」に加えた時に、旗本達は「やり返し」を受けて“自分たちの命が危ない”としたのではないか。
当然にそうなるだろうしならない方が可笑しい。
これが「軍議の事の出来事・命令拒絶」もあったが、この「恐怖」から初めから「三方ヶ原の不思議な陣形」などに一切に加えなかった理由もここにあったと観ているのだ。
故に、その「陣形」の中で「額田青木氏の銃隊」が「青木貞治隊だけを救い出した事」にも口を出せなかったのだ。
普通なら他も救い出すだろうし、其れもせずに直ちに「戦線離脱」してそれも「吉田城・国衆の本来の役目」では無く「伊川津」に引き上げて仕舞ったのだ。
この意味は大きい。
これは、今後、「松平軍」に「伊川津国衆として関わらない」とする姿勢を示した事と成るだろう。
そうなれば、今度は「伊川津」で「弱った松平軍との戦い」と成るが、それは起絶対に起こらない理屈に成る。
それは次の四つの事だ。
一つ目は「三方ヶ原の敗戦」の後に余力は無い事。
二つ目は「銃隊の威力」に対する恐れがある事。
三つ目は「家康の配慮」でこれを止めた事。
特に、この三つ目が重要で、寧ろ、「国衆としての名目だけの武力」ではなく「周囲」に対して“「敗戦後の三河」には未だ「銃の威力」があるぞ”とするもので、「織田軍と武田軍」に対しても「その誇示をして利用しよう」とし牽制したのでは無いか。
四つ目は「額田青木氏の背後」にある「秀郷流青木氏の武力」と「伊勢青木氏の財力」の「誇示と今後の利用に在った」と観える。
その為にも、「敗戦後」の直ぐにも如何にも「三方ヶ原の功労者」の様に見せつけて「伊川津の国衆・額田青木氏で伊勢をも誇示」をも目的として、そして「渥美湾の制海権の利用」と「三河の開発業と陸運業と殖産業」を許可して、この関係性を松平氏は世間に対して強く見せつけたのだ。

その後の現実には、検証すると「三方ヶ原の敗戦後」にこの様に「四つの経緯」は動いて行くのだ。
「三方ヶ原の戦い前と戦い後」に「三河旗本」などは、“自分たちにも銃口を向けられるのではないか”と、「南下国衆の銃隊」に対して「武田軍以上」に「恐怖」を抱いていたのではないか。
この事は、兎も角も「伊川津」に戻ったが、何と「羨望の先頭を走っていた伊川津国衆」から伸し上がった「下級旗本」が、なんと「田原と豊橋間に住み着いた事」から、尚更の事と成った。
そこで「古神明社」を境にして東西を東に向けて「壁」を造りここ「銃を構えた防衛線」を敷く事に成ったのだ。
これ以上に「無駄な摩擦を避ける意味」でも「額田青木氏の思惑」にもこの感覚は強くあったと観ている。
現実に、その後の「旗本の羨望」は下火と成り、その後の「額田青木氏」の三河に貢献する等でも、この「旗本等」は物が言えなく成り、この「思惑」は非常に効いたのだ。
唯、この「羨望」は「享保期・享保の改革先導」に成って再び噴出する事と成ったのだ。
物を云えば、「主君行動に異議を唱える事」に成るなどの風潮が享保の幕府内に興ったのだ。
その「不満の捌け口」と成ったと云う事だ。
唯、一人だけ恣意的なのか本気なのか「織田領地との係争地の西三河で反発・宗教一揆など興す・額田青木氏が伊川津国衆に成っている時から」をした「旗本」がいた。
この時、一時、家康の不満から「三河から引き下がる事をした者」が居て、其の後にこの「者・本多・蜂屋等」は、「旗本重臣の大久保氏・伊川津元田原」の「計らい・参謀に」で「三方ヶ原後」に「影の活動家の参謀・意味あり」と成って、こっそりと「旗本」に戻った者が居た事が判っている。
筆者は、江戸期に成って再燃するも一時的に通説と違い恣意的に動いたと観ているのだ。
「額田青木氏が伊川津の国衆」に成った事を観て、“これは拙い”としてこれに「圧力」を加える為に「織田領地との係争地の西三河」に、「織田氏」は「宗教戦争・口実は別」に見せかけて「圧力」を掛けて来たと考えられる。
それ程に「伊勢青木氏の財力と水軍力」と「額田青木氏とその銃力」と「秀郷流青木氏の武力勢力」は、無視できない「絶対的な勢力」として「織田氏と松平氏」には浸みこみ、更に「伊川津の国衆と成った事」で無視できない「脅威」と観て一目を置いて数年燻っていたのだ。
それ故に興った「旗本を巻き込んだ関連の一揆」であって、この時の感情が「浜松城の軍議・軍監の意中」の中に在ったと観ていて、始めから「織田氏は援助や大きな犠牲を払らう事」のつもりは無かった筈であったのだ。
その為にも「織田軍」に執っては、先ずは「武田軍の二拠点化」を防ぐ為にも、又「補給の陣形・織田軍」を充分とさせる為にも、「最低限に西三河・最大は南三河」を制しておく必要があったのだ。
だから「松平軍」には、これをさせない為にも「三方ヶ原後」に上記のこの「青木氏の三つの勢力」を「南三河の伊川津に留め置く戦略」が必要であったのだと考察する。

さて話は戻って、だとすると、「額田青木氏の銃隊」は「武田軍」をそもそもの「敵」と観ず、「山県軍の別動隊」は直ぐ横の「鶴翼の側面」から突破して来た事から止む無く、「自らの身を護る為」と「青木貞治隊を救い出す為」にも「額田の近代銃の銃口」を彼等に向けた所以と成り得る。
結果は、再び「一言坂で経験している武田軍」に向かって「弾幕」を張って「無事に救い出す事」は出来たが、「山県軍の別動隊」に仕方なく「大犠牲を負わした事」には成ったと云う詳細結末と成るであろう。
だから、「救い出した後」に「武田軍の本隊」に向けて、更に「銃口を向ける事」も充分にあり得たが、それもせずにすぐさま「戦線離脱」をした所以なのだ。
更には、故に「三方ヶ原後の掃討作戦」でも、逃げ込んだ「駿河青木氏の盤田見附の西光寺の検索」も、又、経験した「銃の危険」を避ける意味でも無事に避けられたのだ。
「銃に対する危険」を考えて深く捜索を敢えて避けたと観ているのだ。

次に更に、ここでも「詳細経緯」として「南下国衆の青木氏からの疑問」があるのだ。
それは「天竜川の圷」に出来た「浜松城」から同じ圷内の「真東11k先の坂下・一言坂―盤田」にいた「武田軍の本隊」を「浜松城」からはハッキリと「敗戦後の動向」は目で観えていた筈である。
この「敗戦した一言坂」から「盤田の西光寺・青木貞治菩提寺」までたった真東1kにあるのだ。
要するに「一言坂の戦場内」である。
其れなのに、経験し観えていたのに、且つ、敗戦しているのに、今更“「偵察隊」とは何なのか”である。
そもそもこれでは「偵察のそもそもの意味」は無い。
つまり、詳細経緯としてこれが疑問を解く最大の解明点なのである。
結局は、結論として、「松平軍」では「兵に依る時間稼ぎは無理」と観て、当初は“「銃隊」で「時間稼ぎ」をする予定”であったとも考えられるが、然しこれも断ったのだ。
上記が「四つ目の軍議の命・時間稼ぎ」である。
果たしてこれもそうであろうか、これも検証する。
確かにこれであれば間尺は合うが、「青木氏側の断片資料」から観た処では、これは「後付けで脚色した事」に成り、この説はあり得ない。
そこで、この時の「詳細の状況」を戻って検証して観た。
つまり、「軍目付・軍監の意見」の通りの「籠城戦」に近い「時間稼ぎ」をして「同意」を得ようとしたとするのは経緯からしても充分に考えられる。
それにしても「家康命拾いの野戦・1度目の一言坂」も、且つ、二度目の“「銃力で押し返した銃隊」”も史実であって、それは当初より危険な事ではあった。
其れなのに、直ぐその後には、「武田軍の本隊」が「山県軍の別動隊」より、先に「松平氏側の補給拠点確保と云う野戦を選んで仕舞った事・上記の三つの行詰」であって、今度は流石に「同意・織田軍軍監の同意・上記の意思無し」は「史実の通り」に得られなかったのだ。
この様に「松平軍」は三度も失敗しているのに「軍目付」としてはそもそもOKは出せないだろう。
要するに「無理な一言坂の時間稼ぎの実行」で、これを主張していた「軍目付・軍監・3氏の援軍・1.5〜0.3万説は無理・後付け説」の「安易な興味本位の援軍説」もあるが、そもそも、「軍監」とは「援軍」を以て参加するのではなく「意見の具申」と「謀叛の見張り役」として参加するものである。
この点から考えて、これは「織田軍の軍監の守備隊」としては納得できる充分な程の多すぎる軍勢説であったが、これがそもそも「尾張国元・お膝下」の「尾張と美濃」に遺した「二つの守備隊・記録に記載・この説では国元が空に成る」であった。
然し、ここから果たして「三河・駿河」に「援軍」を割いて「戦記通りの兵数を送る事・1.5〜0.3万」は120%無いだろう。
精々、この「100から200程度の守備兵」で当時の世間の原則通りの「1騎2将の兵数」にした筈である。
現実には「三軍監」にもされていない「平手汎秀・意見が違った」だけを残して戦い3日前に去ったのは事前の建前を実行したに過ぎずこの限りにある事に在る。
そもそも、この「援軍」も「美濃・尾張の留守中にする始末」では無く、それこそ名目上とすればこの「通説の数」は勿論の事で、その「援軍」そのものが「本末転倒の援軍」であった筈であり、この通説論は間違いなく「後の脚色論」であるだろう。
筆者が「武田氏」であるのなら、つまり、「浜松城」を牽制しながらも外に誘い出して、其れなら空と成った同然の「背後の尾張と美濃を攻め落とす方」を先にして、戦略上ではその後に「浜松城を攻める方が有利」と考える。
要するに「誘出作戦」である。
「史実」はそれをしなかったのは「軍目付の守備隊を一兵も動かしていなかった事」にも成るのだ。
同盟を結んでいる以上は、「三軍目付・軍監・林秀貞・佐久間信盛・水野信元」として「代理の者」を差し向けた程度であろう。
それが重要な事は「戦死したのは平手汎秀であったと云う事・病弱でこの後父は早々と汎秀を残し撤退し後に信長に追放されるも、本人もその能力で家康から侮辱を受けたが、この後に“汎秀を見殺しにした”とするは「信長の大義の名目理由」に間違いなく成る。
然し、「松平軍」に「本末転倒の援軍を送る事」は出来る事は先ず無く、実際は「軍監」を護る為の「100にも観たない数・一騎の50との説も」だったと考えられるのだ。
現実に多くなれば成る程に、それだけ「援軍」を「浜松城の中に居れる事」は「面積と補給などの点」から考えても無理であって、そう成っていれば「武田軍一言坂母待つの通過時」には「外の野営」では潰されていた筈だが、どの戦記にもこの事は一切触れられていない。
筆者は、故に殆ど「代理の軍目付・軍監」だけの100より少ない「数十名・50」に過ぎなかったと考えている。
殆どはこれは当に江戸期の「軍記戦記・脚色漬け・面白おかしくする為・流行した」の「後付け説」である。
筆者は、「吉田城の守備隊」としていた処を呼び出され、「軍議」で「初期の契約目的」を考え「国衆契約の条件の違約」から、間違いなく「軍勢の中心に据えらる事等の三つの命令」を拒絶したと考えられるのだ。
故に、この事で外に放り出され「半殺し目的の疑問の偵察隊」と成ったのだ。
然し、「額田青木氏の近代銃」で「武田軍の本隊」に完璧に勝ったのだ。
その様を城から観えていたのだし、「旗本」はこれでも「恐怖」を抱いたと考えられる。
上記の「四つ目の軍議の命・時間稼ぎ」は、自分たちが何度も負けている「武田軍の本隊」に対して、この「額田青木氏の南下国衆」の「一言坂の完全勝利」で、「松平軍の時間稼ぎの思惑」は完全に無く成ったのだ。
要するに、「南下国衆の犠牲」で“銃撃戦で時間が稼げる”と観ていた事も潰えたのだ。
これは「命令拒絶」では無く、「独自行動」で解決したのだ。
其の後に「旗本」は、「銃口」を自分たちに向けられた場合の“身の危険と恐怖そのものを間違いなく抱いた”であったろう。
「其の後の行動」も、“記録通りに自由に行動している”のはこの所以であろうし、「戦線離脱」も、そして「伊川津」に戻ったのも、「陸運業・殖産業・開発業」にすぐさま転身したのも、この事による“「自由行動」”に基づいているのだ。
故に、「絆での結ばれた青木貞治」も情報提供し続けたのだ。
そして「誰の命令」でも無く“「命の危険を冒しての自由行動」”として「貞の絆の救出」をしたのだ。
それも、普通なら、戦線からの救出後、盤田見附まで届けて引き下がるが、「三方ヶ原救出」だけで留まり、「盤田の西光寺までの救出」では無かったのだし、更には普通なら、“「青木貞治隊以外」にも救出したらどうか”と云う考えも起こるが、「壊滅混乱の中」でも旗本を救出せずに引き上げたのだ。
「自由行動」であったとすれば、当然に、「三方ヶ原の停戦後の2年間」の間に「青木氏族」は、罰せられるか、「旗本」から「口述攻撃」をされていた筈である。
でも、全くその逆であった。
そもそも、「罰する事」は、「国衆」で無くても「三河」に居る限りに於いては出来た筈だ。
実際には松平軍にはその力は無かったし、筆者は家康の計算が合ったと考えている。
然し、「額田青木氏」に執っては国衆から抜けて「伊川津」に居続ける事は彼等に執つては“「恐怖」”でそもそも出来なかったのであろう。
それは「彼等の脳裏」には、「拭う事の出来ない銃の脅威」と、「弁解の着かない青木氏族の格式」があったからなのだ。
「国衆」から辞しても「護身用として持ち続けた銃」は、この“いざと云う時の「抑止力」”を働かせたのだ。
だから、この「背景」があるからこそ手放さなかったのだし、その後の事にもこの「銃の抑止力」を持たせたのだ。
「三河旗本」に執っては「歯ぎしりの限り」であったろう。
此れらの根底には、「約定」を破り「呼びつけて置いて外に放り出した事」があった事も否めない。
但し、寧ろ、後勘から観れば「青木氏族」に執つてはこれの方が良かったのだ。
先ず、それには「伊川津国衆」を辞めて「陸運業等の商族・企業家」に転身していた事にある。
つまり、「抑止力の強い民間の商人と成った事」で、「表向き」に罰し攻め立てる事は出来なくなった事である。
寧ろ、それには、戦後、「敗戦で弱った松平氏」を「強める効能の方」に「家康自身」は舵を切ったのだ。
寧ろ、「秀郷流一門・青木氏の抑止力」と「伊勢青木氏の財力と抑止力」を味方に着けたかった事であった。
それには、“「青木氏族」にそれ相当の実利を与える必要があった”のだ。
「伊勢青木氏」には、要求通りに「渥美湾の制海権」を認め、「伊勢秀郷流青木氏」には、「三河の開発業の権利」を認め、「東の秀郷流青木氏・駿河青木氏」には、「青木貞治の裔系」を「家臣」にして引き上げると云う「策・御側衆旗本」に出たのだ。
その事で、「三河の民」は富み、「松平氏」には当然の事として「莫大な税と献納金」が入り、「急速に松平氏の復興を遂げさせる事」が出来、結果として他国から「商いの流れを呼び込む事」が出来ると踏んだのだ。
当然に、「青木氏族」にも「同じ事・相互利益」が云えたのだ。
「駿河青木氏」のみならず「一族の相模青木氏等」は「水運と陸運の復元」で「商いの還流・長嶋屋が窓口」を「武蔵・越後まで波及」に呼び込み栄えて富むのだし、現実に富ましたのだ。

「三方ヶ原の軍議の命拒絶」をし「額田青木氏を救った後」に「伊川津に独断で戻った事」が、この時に、弱っていた「三河軍の旗本等が攻めて来ると云うシナリオ」が考えられたが、上記の通りに無かったのだし、寧ろ、「逆のシナリオ」と成ったが。
では何故なかったのかである。
記録が見つからないが、恐らくは、普通のシナリオからは伊川津国衆として命令拒絶の形が出来ている以上はあるが、筆者は次の事で「三河軍の旗本等が攻めて来ると云うシナリオ」は最早無かったのだと考えているのだ。
当然に「事前の銃の恐ろしさ」を経験していて無理だと云う事は判ってし、「家康の命」は違っていて、それ以上は出来なかったと云う事は判るが、その経緯の中には次の事があったと観ているのだ。
それは、一つは[渥美湾に伊勢水軍を配置した事」と、二つは「藤沢まで秀郷流青木氏を主軍として秀郷流一門の軍を廻した事で牽制したと観ている。
これは「伊勢青木氏の資料」の何処かにその中にしか遺されない記録である故に解明は難しい。
其の上で、明治35年まで3度の大火を被っているし、「室町期の2度の紀州攻め」と「江戸期の神明社・春日社と清光寺・西光寺の幕府没収」で記録資料は飛散している現実もある。
これには「伝統の大事な記録」を隠す為に南紀と南勢の「旧領地の家人や氏人の家」に移されていた現実があって、故にこれ等に関する資料と記録は未だ見つけられていないのだ。
然し、筆者はこの時の「青木氏一族」が「非常事態の経緯」として普通に考えれば「上記の二つの事」を採ったと観ているのだ。
「額田青木氏」と「駿河青木氏」を再興して力を持たせ「三方ヶ原と云う災難」に巻き込まれた事態に何もしない訳では無い筈だ。

この詳細は前段を参考にして頂くとして、そもそも「伊川津と云う土地」は「有名な不毛の地」であり、「奈良期からの神明社の関係」で維持していた「伊豆まで補給路」を信長に寄って寸断されたとしても、依然として松平氏との間で「渥美湾の利用権」を獲得し「渥美への糧の補給路・片道2時間」を構築していた。
この事を以てすれば、「非常事態には対処しない事」は100%あり得ないだろう。
急遽、「伊勢水軍」を渥美湾内海田原に廻して補給も含めて態勢を構えたと考えられ、「額田青木氏」は「渥美半島の細長い半島」の「田原と豊橋の境界」にこの「銃隊」を東向き構えて防御策を執った事も判る。
この「田原の古神明社」の内海側には三方ヶ原の前には「3人の土豪・後に旗本・大久保氏等・羨望の主導者」が田原城を築いて入植していたのだ。
従って、この僅か西側に「銃隊の防御策」を東に向けて半島を南北に横切る様に構築し、背後に「東三河の駿河青木氏」と「藤枝の秀郷流青木氏」を「牽制策]として構えたと考えられる。
この「三方ヶ原後の牽制策」は、それもわざとらしく無く、それでいて「見せつけ効果を狙ったもの」であったと考えられる。
これでは「羨望の塊の旗本」は元より「松平軍」もその気であって何も出来なかった筈であり弱体と成っている「三方ヶ原後事」とすれば到底出来る事では無かった筈で、家康は「浮薄な旗本の力」を抑えて、「額田青木氏のこの力・銃力とその背後の財力と東の秀郷流青木氏に繋がる一族一門の勢力」を利用する方向に現実的に舵を切ったと考えられる。
「三方ヶ原の後頃」に「額田青木氏の四家・四神明社」の「渥美半島の西側域」に「居住していた地域」と「古神明社付近」の「御屋敷と云う役所・現地役所・地名」には「これらに関する関係する逸話」が遺されていて、その“「家康」がよく訪ねて来ていた”とあり、これは「奈良期からの青木氏の守護神の古神明社を名目上で訪ねた事・裏意は額田青木氏を訪ねた事に成る」を意味する。
前段でも詳細を論じたがこの様な事もあり、「長篠までの2年間」の経緯ては「驚くほどの復興・信長警戒」を遂げたのだ。
何時の世も「莫大な経済的背景」が無ければこの様な事が興らない事は「自明の理」である。
「三方ヶ原の直後」から「三河」で「開発業と殖産業・前段で詳細」に携わり、この為に「伊川津」とは別に「古神明社が存在する3カ所」を「専属の居住地・前段」として「北側の青木村」を始めとして「11カ所・地権を認められた定住地」までも認められているのだ。
これも「伊勢の事お構いなしのお定め書」に繋がった所以の一つでもあるのだ。

要するに短期間で“この得た「財力」で「膨大な戦費」を松平氏は賄い”、「長篠」へと向かったのだ。
「信長」はその後の経緯の戦歴を観れば、東には手を出していないし、故にこの「三河国の背後の経済力・伊勢青木氏・伊勢屋と東の秀郷一門の勢力」を恐れていたと考えられる。
それは「間接効果」を狙っていたと考えられ、「三河の松平氏」を通じて「最低の犠牲」で抑えたと観られ、それ故に「徳川氏の伸長・難癖程度」を“我慢ぎりぎりで見守った”と云う事では無いか。
それ故に、「三河国の背後の経済力・伊勢青木氏・伊勢屋と東の秀郷一門の勢力」が存在する限りに「本能寺の変まで長期間」の“我慢ぎりぎりで見守った”と成るだろう。

この「大きい流れ」は「江戸期」まで続き、「江戸幕府」を「秀郷流一族一門とその青木氏族とその関係一族」は、「幕府官僚族・御家人旗本・家人旗本衆」として支えるまでに至るのだ。
当然に、「伊勢の二つの青木氏」も「紀州藩・全伊勢藤氏が家臣」とは「殖産業」で栄えさせ、「伊勢の事お構いなしのお定め書・天智天皇の不入不倫の権の追認」と「浄土宗の律宗族の追認」を得て、且つ、「紀州藩勘定奉行の指導の役目」までも担い、挙句は「吉宗育て親」まで熟し、「将軍」に「裏・朝廷への働き掛け等」で押し立てるに至る「親密な関係・幕府との関係」は、その皮肉にもその「吉宗で終わる」を維持したのだ。
筆者が論じているのは、この“「基点」”は、「三方ヶ原の戦後の伊川津の行動」にあったと云う事なのだ。
「筆者の見立て」は、それ故に「家康」は、「戦闘戦略家」では無く、「経済戦略家」であったと観ているのだ。
だから、「伊勢青木氏・伊勢屋」と「秀郷流青木氏・長嶋屋」は、上記が物語る様に存命中に於いて、“家康と馬が合った”のだ。
家康の「伊勢の事お構いなしのお定め書の効力」も同時期に低下した事に観られるように、これが「最高潮は吉宗・前段」までであって「最悪期も吉宗・前段」で終わったのだ。
筆者は「三河旗本の執拗に続く羨望」に将又押され、且つ、「吉宗自身」も「奈良期の皇親族・青木貞治に観られるような幕府官僚族」の様な「二つの一族」に警戒したと考えられる。
それ故に、一方で「四掟で女系族で繋がる伊勢藤氏」をそっくりと家臣とした「紀州藩との関係性・紀州殖産業の確立で」を更に「強化・大正14年まで継続・幕末には藩の財政難から旧領地の返還を求められるも・2万両以上債権保有」したものだ。
「額田青木氏と駿河青木氏の前段論」に「三方ヶ原と長篠の二つの戦い」の「環境問題」を中心にどの様な位置に置かれていたかを論じて観た。
この以上の「四つの詳細経緯・前段の追記論」のどの一つを以てしてもでも、流石に「女系で繋がる青木氏族」は、「1千年の歴史」を持つ「女性の持つ鋭い先を観る遺伝子的洞察眼を持って立ち回った氏族であった事」が良く判る。
上記の様に何時巻き込まれていてもおかしくない厳しい環境の中で、取り分け、この室町期末期に於いて生き遺った事が判る。
それは「青木氏族の商い」と「青木氏族の氏力」を最大限に出してそれを利用した「自己開発の銃の保持」とそれを上手く利用しての所以であろう。
この事は「奈良期の親族の佐々木氏族」が「単独で青木氏の一族論」を論じている所以と成っているのであろう。
「お返し」として何時か「佐々木一族論」を論じたいとも思うが。

「青木氏の伝統 70」−「青木氏の歴史観−43」に続く。(118P)



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