青木氏氏 研究室
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  [No.399] Re:「青木氏の伝統 74」−「青木氏の歴史観−47」
     投稿者:青木   投稿日:2022/12/04(Sun) 10:50:04

「青木氏の伝統 73」−「青木氏の歴史観−46」の末尾

> 然し、“「伊勢青木氏」が何かしているだろう”程度の事は判っていただろうが「秀吉」は手を出さなかった。
> 手を出す事が其れこそ、“火に油の様な事に成る”と観た事に成るだろうし、筆者は""出したくても手も出せなかった“と観ている。
> 一方で偶然に、その「“「因事管隷”の院屋号の立場と専有資格」を持っていたとする以上は、それは最早、この“「因事管隷”の院屋号の立場と専有資格」の「流れ」は、「青木氏族の氏の義務」であって、これがある以上はそれに縛られそれ以外には方法は無かったであろう。
> 「言い訳」は、「“「因事管隷”の院屋号の立場と専有資格」で成り立つが、「秀吉」がこれを聞き入れるかどうかは判らなかった様だが何も無かった。
> 筆者は「因事菅隷説効果」より、事と次第に依っては“火に油の様な事に成る”の説を採っている。
> 「家康」は、「秀吉」と違ってこの「“「因事管隷”の院屋号の立場と専有資格」の「立場格式」を尊重して、“「伊勢の事お構いなしのお定め書」”を出しているのだ。
> そもそも元より「伊勢」には、「天智天皇」に依り「不入不倫の権・平安期のものと違う・伊勢を犯したり侵入したりする事を禁止した」が、この「特権」を「伊勢王」に与えられているのだが、これを追認しながらも「室町期末期の松平氏への貢献」にも感謝しててた。
>「全段の額田青木氏論」でこの「詳細」を論じたが、故に“「伊勢の事お構いなしのお定め書」”の送り「感謝状」を与えたのだ。
> ところがこれが何と「吉宗」を仕立て上げたその「伊勢青木氏」に対して、その「吉宗の売裏切り」でこの「お構い無し」は終わった。
>以後は幕府と「犬猿の仲」と成った。
> 逆に、「紀州藩・大正14年まで続く」とは、それまでもそうであったが、「青木氏に上位の立場」を与えながらも、“管鮑・かんぽうの交わり”、又は、 “刎頸・ふんけいの交わり」”と云う「不思議な関係」に成って行ったのだ


「青木氏の伝統 74」−「青木氏の歴史観−47」に続く。

その頭角は、“「貿易に依り高い技術を求める事・中国貿易は超えていた」”には成っていたが、「鉱石と製鋼の技術」のみならず、「鉱山の火薬・爆破の技術・砂鉄には無い」にも繋がる事で秀でて、其の事に依ってその「技術の完成」が、「因事菅隷に依る近江の鉱山開発」に生かされた。
前段で記した紆余曲折の末にこの技術を習得した「額田部氏」は「臣の官位」を獲得するまでに至ったのだ。
別出自とされる「出雲国の額田部氏・臣」を遥かに凌ぐ立場を獲得する結果と成ったのだ。
結局は「彼等の協力」を得て「鉱山開発の総合技術」は進み、結果として“「2鉱山から4鉱山」に増やした。
この”事の意味は大きく成り、それが無ければ、“鉱山開発を増やしたの経緯”は無く成っていたのだ。
其のままでの技術では「無理に繋がる事」に成り、その為にも先ずは「院の屋の商業化」であったのだろう。
故に、「鉱山開発の院」のみならず「院の屋の号」をも獲得する事と成っているのだ。

然し、考えて観るにこれには「二つの疑問」が湧く。
その「疑問の一つ目」は、この時期に敢えて、天皇から密かに密書としての“「因事管隷”の院屋号」”を持っているにも拘わらず、「伊勢の別枠925年頃の商業化策」は「朝廷」に於いても「危険であった事」なのでは無いか。
この「時期の事」では、慣例上では未だ、“これは朝廷が商いをしている事”と成り得得たのではないか。
然し、寧ろ、「朝廷」はそれを敢えて“「院屋号を思うように許した」”のだか、「その時代が求める必然性」があったと云う事に成る。
そもそもこ「因事菅隷」はその「扱い」は「青木氏だけの密書」であったので、周囲は知る術も無いだろうが。
この凡そ、その“100年後に進めて更に「総合商社化」して「貿易」を本格化さしている。”のだ。
「部経済」によって「朝廷に集まる全ての物」を管理し、それの「余った物」を「市場」に放出して裁き利益を獲得しそれを「朝廷の財源とする役目」を担っていたとすれば、寧ろ、“天皇家が密かに影で商いをしている考え”にあったのではないか。それを当然の事としていた事に成り得てこの一つ目の疑問は解ける。
次は「二つ目の疑問」は、この時、“「女系で繋がる伊勢郷士50衆」はどうしていたのか”である。
資料の一部から読み取るに、この「女系で繋がる伊勢郷士50衆」の「氏族集団」を下に幾つか組を組んでその役割を果たしていた“「特別な下部組織の伊勢衆」”がいたとされるのだ。
それが、歴史上に残る有名な“「200人伊勢村主衆組」が南北に「二つの組」に分けられて「伊勢の民」を長く整えていたとしていて、この「因事菅隷」に基づくものは密かにこの「二つの処理集団」に依って処理され、これが「其れの始り」であったとされているのだ。
この組が南北に二つに分けていたとされ、この組と「伊賀青木氏の情報集団」と連携していたとされているのだ。

丁度、この時期に「嵯峨天皇に圧力をかけられた青木氏」を救ったのが「仁明天皇」であり、更に出自元ではない「円融天皇」から「北家藤原秀郷流青木氏・母方」を永代で、再び「青木氏を賜姓する事」に改めてこれを定めているのだ。
この「円融天皇」はこの「因事菅隷に基くシステム」を知り得ていて、弱っていた天皇家そのものを基礎的に支える集団をより強くしようと試みたと考える。
それが賜姓族を外された後の「因事菅隷の伊勢青木氏」が当に「商社化した時期の50年後」の時期にほぼ一致する。
「鎌倉期の歴史書」にもこの事が書かれている。
この事からも「全青木氏一族」には、“その時代が求める必然性があったと云う事”は否めない。

それが故に、この「上記する経緯」を以てしても、偶然にも期せずして後に上記の様な「銃の鉄」に「良い結果を生み出したと云う事」に繋がったのであろう。
又、それが「額田青木氏の銃の歴史」と成って現れたものであろう。
上記の様に、この「摂津の範囲・秘密裏」で行っていた余りにも「銃に対する高度な技術」は、「上記の事」を充分に理解すれば、「他が真似する事等」は「財と技術と因事菅隷等を含む環境があっての事」で成し得たものであり、他がこの「銃の真似た生産」が「絶対に不可能で在った筈」であり、故に、「三方ヶ原とその後」にも世間には「存在し得ていない銃」と成り得たのである。
「近江鉄の鉱山開発」に、“「因事管隷・賜姓五役」”があった事から「他が真似する事等」は薄々知ったとしても絶対に出来なかったと考えられる。
将又、故に、この「戦後」にこの「殺戮性の高い銃」のそのものも「世間に出す事」は、「密かな護身用」で在る限りに於いては、「青木氏の氏是」に基づき永遠に憚られたものと成り得たのである。

注釈 其の内でこの“「因事菅隷・密書」”を発している相手は、可能性として他に「川島皇子」の「後裔の近江佐々木氏」と「後裔の近江佐々木氏とその系列3氏」と、上記の「青木氏族2流の範囲」に限られるであろう。
筆者はこれらの「献納を成し得ない財の能力」と、及び「因事菅隷財の成し果たし得る組織」の無い氏に対し“「因事菅隷・密書」”を発してはいないと考えている。
これ等は「密書の類」であり処分される常として故にその記録が無いので限定できない。
要するに、少なくとも「皇親族出身の令外官の立場」にあった者への、所謂、「密書の類」であるので「因事菅隷」を出している可能性はそもそも多くはない筈であり、又、遺している可能性も低いし、それを果し得る組織として「伊賀者の様な香具師・情報を担当していた忍者等を有する氏族」で無ければ、この「秘密裏の伝達と保持」は根本的に無理であろう。
と云う事は何度も記する事になるが、「他の高位の氏族」では無理であり、且つ、「内密な密書」と成れば「全く信用の置ける賜姓臣下族」で、それも「血縁性の高い身内」としなければならない事に成り得て、「伊勢の青木氏」で無ければならない事に成っていたと予想できる。
そもそも根本的に「財と秘密裏の情報伝達手段」が無ければ成り立たないのだ。
その意味で、根本的に、所謂、「献納と情報集団」を持つ「二つの青木氏を含む青木氏族」で無ければ成立しなかったのではないか。
取り分け、「経済力を有する事」が先ず前段で論じた様にその「前提の条件」にあり、「献納」に基づく為のそれが大前提条件であったろうし、この二つは「一対」であったろう。
その意味で、毎年、季節的被害に見舞われていた「近江東域」は、その影響を受けて「どの近江族」も「経済力が極めて低かった事」により、「朝廷」もその「負担」で手の出しようが無く、「伊勢」からこの「近江東岸」に対して、「二つの干拓大工事」を「20年と云う歳月」を賭けて援助している所以を持っていたのだし依って無理であったろう。
結局は、密かにこの「因事菅隷」で「伊勢青木氏」を動かし「額田部氏」を以てこの「干拓灌漑工事の完成」を成したのだ。
然し、これは一見して、周囲から観れば“「朝廷」が計画実行している様に観えたかも知れない”が、“「ほぼ青木氏にだけの因事菅隷の狙い」”のひとつにはここにも有ったのかも知れない。
然し、この「因事菅隷]とは別に、数々の「院屋号の特権」を認められていて、それも「永代賜姓五役の令外官」であった以上は、“これも止む無しとしていた事”があっただろう。
そもそもその事に依って「巨万の富」を獲得していたと思えば不満は無かったとも思える。
然し乍ら、これが当時としても片方で「皇位族であったその伝統とその格式」を保ち乍らも地方では「因事菅隷」に基く行動をすると云う不思議な氏族であった事に成る。

注釈 何度も論じた事ではあるが、江戸期に於いては世間が安定し危険性が無く成り、「殖産と商い」にも「存続の危険性が無く成った頃・上記の享保期の事件もあった」を見計らって「闕所」を仕掛けられるような関係性を証明する全てを焼却したと「総合的経緯の分析」から考えられるのだ。
その「銃の存在の発覚」が、世間に広く出して仕舞った以上は、その目的が達成した今に於いて場合に依っては「氏族をとんでも無い危機に陥れる事」にも成ると観て一斉に無くしたのではないか。
つまり、「捨てる事」より「持つ事」のリスクの方が「社会の変化」で変わったと云う事だろう。
恐らくは、その“「兆しが強く現れた」”のが、「青木氏族の事」を一番よく知っている「吉宗の享保期の事件」であったのでは無いかと観ているのだ。
完全に「証拠を掴まれている人物」が居たと云う事だが然し信用していた人物でもあった。
その様に途中で「吉宗は受け取った」のであろうし、そもそも「伊勢攻め」が無地に済んだと思う頃には、今度は「秀吉の刀狩り・1588年」が始まり、それに代わって今度は「吉宗」も「青木氏族の絶大な協力」を受けていたが、その「内心」は“その潰す機会を伺っていた”とも観られるのだ。
「将軍に成る為の裏工作」、「江戸向行」、「江戸の経済政策の立直し」、「紀州藩への財政的救出」や「家康鈴鹿峠の救出事件」や「伊勢津泊の秘密渡し舟事件」で数々貢献したにも関わらず、その反面で「大岡忠相の伊勢の事お構いなしのお定め書無視事件」、「同山田奉行所の海域嫌がらせ事件」、「信濃青木氏の聖域剥奪と殖産没収事件」等の「・吉宗許可が要る裏切り行為」が続いた。
丁度、「嵯峨天皇」が「皇親族の出自元の青木氏の行動」を妨害したのと同じである様に、これに依り遂に「人の内心」が露見したのだ。
“秀でる者は潰される”の例え通りで何れも「最も青木氏と深く関わった者」からの「裏切り行為」であった。
「青木氏の氏是」を遺した「始祖の施基皇子」もこの事を経験していた事であって、それ故の「氏是」であってこれを護っていれば知らねばならない事でもあった。
此れを最後に、前段でも論じた様に「江戸資産・江戸伊勢屋200店舗」を其の侭にして「伊勢水軍の3日船」で「伊勢松阪」に急いで逃げ帰り「紀州藩の後ろ盾・歴史観」を求め「危機」を脱出したのだ。
そもそも「伊勢水軍が湊先に控えていたと云う事」は、丁度、輸送の為にか、将又予想していた事なのか確認はできないが、記録に“「3日船」”と記されている以上は事前に何かある事を予測出来ていたのではないかとかんがえられ、それもそもそも“「信濃」に手を出した時に合わしての「タイミング」”とするとが良すぎる。
筆者は「氏是」がある以上は、「荷物搬送を装って薄々用意していたもの」ではないかと観ているのだ。
恐らくは、この時を「潮時」として、「伊勢」は「難癖を着けられるような物とその行動」を自らを以てそれを「証拠と成り得る因事菅隷・密書等」は特に疑われると共に一斉に青木氏一族全体で消しさったと考えられる。

「伊川津青木氏・当時は未だ国衆」や「駿河青木氏」や「秀郷流一族一門」や「伊勢水軍」や「伊豆青木氏」や「日向青木氏」等には「試作品」も含めた「防護用銃・抑止力として配布していた事」が確かに渡ってはいるが、そのもの一切の時期は同じくして「享保期直後」に於いて忽然とその姿を青木氏族の中から消している。
これは上記した「注釈」が原因と考えられるが、“何かがあって消した”と受け取れるし、消す以外に無くなったとも考えられる。
それは他に参考として語れば、「江戸期」には「一揆などの騒動」が社会に多発して「銃が使われた事」にも成って、従って「幕府」に依って「二度の刀狩り令・銃などの武器保有の禁止」が成された。
恐らくは、「紀州藩と幕府官僚族」であった「青木氏を含む秀郷流一族一門」は、これに伴い密かに「秀郷流の氏族全体」に影響する為に、「申し合わせて一斉一切」に廃棄して焼却させたとも考えられる。
これに伴い、「各地の保有していた青木氏族」も同然に追随したと考えられる。
この時に「秀郷流一族一門・府と藩の官僚族であった事も「影響・政治の中心にいた事」には、今だ「歴史的な関係する研究資料」も散見できないのは、確かにその後の「火災震災戦災」も考えられるが、この時の「令」にも関連して「他の疑われる物までも焼却」したのは前段で論じた通りであり、この様に「一切の焼却時期のタイミング」としては「享保期」で一致するのである。

然し、「銃のみならずこれに関連する一切の書籍」までもが確かに焼却されたものの、僅かに、完全解明には足りないが、「伊勢のテリトリーの中・鎮守社の拝殿後ろ」に密かに「祠」を隠し、その隠した「祠の神明社」と共にその「床下」にも密かにその一部資料が遺されていたのだ。(史実)
その所以もあって、それが本論のこの「芋蔓の様に解明の一口筋」と成っているのだ。
「額田青木氏の銃」とは、全くその「経緯と学説」は異なる事と成るが、敢えて比較して前段で論じた「種子島火縄銃の学説論」での「時代の銃形式」を研究すると、「学問的な知識の到達」と「製造技術の到達」では、「額田青木氏の銃の経緯論」としては、ここまでで“「無理」”と成っていたのだ。

さて、判り易くする為に再び「比較論」をする。
そこでそれとしては“銃での戦闘論」”が最も判り易いので、再び「種子島火縄銃の戦闘論」に立ちいる。
すると、この「射撃」に依って起こる「銃身通過時」の「摩擦高熱の欠点・三つの鉄の欠点」が表にに出て来るのだ。
そもそも其の侭では“銃を銃として使えない”のだ。
これを補う為には、この「摩擦熱」を持つと「銃」は“亀裂破壊”し必然的に最後は使え無く成る事から逃れられないのだ。
その手前で仮に終わったとしても、結局は「冷えて使えるまでの一定時間」は、「徒士の兵」が柵から出て戦闘して、そして再び引き上げて、次の冷えた頃の「銃撃開始期まで待つ事」が必要に成っていたのだ。
「信長」は、この「銃の決定的な欠点」が“不認識に依って計算外で兵力”を計算されていたのだ。
現実に、「信長の雑賀根来の射撃団」でもこれを「計算外の出来事」として捉えていた節があって、これが現実に起こっていて「史実」としてこの事が詳細に記録として語られている。
これには、“「3000丁の火縄銃」が思う程には効果は低かった”としているのだ。
その後に結成された研究団の「実践的に研究した結果」では、使えたのは、その“「1/3程度」であった”としているし、更に、“「大きく銃撃団の犠牲が出た」”とする原因"は、この事にあった”と「雑賀の記録」には記されている。
但し、ところが此れを“側面から「信長の武士団」はこれを補完せずに雑賀根来の傭兵軍団は自ら銃を置いて「刀で戦った事」”が記されているのだ。
この事が元で、“信長と雑賀根来族と犬猿の仲と成った”と結論付けていて、この記録は筆者の検証結果と同じである。

さて、次にでは“この「状況」はどの様なものであったのか”をこの「研究記録」から読み込んで観る。
面白い事が判って来る。
この“「銃撃の間隔」”は、「最低で1h/3000丁の3段階撃ち・記録史実」とすると、「銃の冷却期間・比熱」が「2〜3回程度/h発生」と成るが、その間は「弾幕は無しの状態」で「武田軍突撃隊」は前に進む事が出来る事に成る。
この「間隔」を置きながらも、この「進撃」を受けながらで「引き付けて撃つと云う事」を「繰り返した事の戦い方」に成る。
然し、それ故に「雑賀根来の銃の傭兵軍団の3000丁の銃」の内の「約半数・1500丁」は、銃身の「加熱オバー」で「銃」は最終的に使えなく成っていたと「専門的な検証・三つの鉄の欠点」として観られる。
この「戦闘時間」が「記録」では、「最大で8h、最小で4hの説」があるが、この「銃撃戦闘時間の8h説」では、「三っの事、即ち、「疲労と未明と熱の三つ事」で、この説は物理的に「現実的では無い事」が判る。
そうすると、この中を採って、「戦闘時間」が「4hから6h」とすると、「12〜18回の射撃回数があった事」に成るが、然し、この「銃身」には「冷やし乍らも熱以外」にも、実は次第にこの「鉄製品に起こる専門的な欠点」、即ち、「300度脆性の欠点」と「鉄疲労破壊の欠点」の先ず「不可避の二つ」が起こるのだ。この論点の間隔時間が研究されていないのだ。
それと、もう一つ検証に於いて考えなくてはない事があって、この“「熱以外」”そのものの「鉄の熱の疲労限界・鉱物には必ず存在する」に近づく事に成るのだ。
この上記した「三つの不可避の鉄欠点」が起これば「銃」は「冷却」どころか「破壊」で永久的に使えなくなるのだ。

この懸賞点t゛欠けているのだ。
これが、この時には、既に一方の「武田軍も戦力」も落ちてきている事に成るだろうが、この“「鉄の欠点の三つの事」”が「傭兵軍団の銃の限界」にも近づいて来ている事に成るのだ。
結果としては、この為に“「アイドリング」”として、「銃撃停止の間」の「徒士の戦闘兵」を再び「棚枠内」に「引き上げる行為等」に、「手間取る事」もあり、又、「弾煙等のロス」が生まれて計算通りには行かないのである。
故に、よく見ても「種子島火縄銃・特に雑賀銃に限定」では、「戦術」とは別に「物理的・当時は学問的な欠点は理解されていない」に観て、抑々、よく見ても「銃撃回数・6から10回程度以下」には確実に成っていただろう事は判る。
これに依って、「武田軍の疲労した突撃」では、最終は記録の通りに「全滅の憂き目」を受けたと成るのだ。
それの「是否」を幾つかの資料の説で観れば、「凡そ1万5千の兵」の内、この最後には「戦い中」でありながらも「勝頼の引き上げ命令」に付き従った「本隊守備兵250人」は、「敗残兵・負傷兵を戦場に残したままで逃げ延びたとする説」が史実として成り立つ。
上記の「銃の鉄の三つの欠点の事」で、この説は史実と診られる。

その「戦い方まで詳細である説」と、「郷土史・戦場の整理を担った地元の住人らが言い書き遺した逸話説」とを総合して観ると、これを“「妥当な説」”とすると、「1万2千の兵の屍」が「長篠原の戦場の北側半分」に在ったとしていて、これには「約2千5百の兵の合わない数」があって、これは「兵数の誇張」か、又は「逃亡者数」に数えられていた事になるだろう。
記録に依れば「戦線離脱の逃亡者」があったとは確かで、その逃亡者は右側側面の隅から西に逃れて行ったとある。この数が合わない数であろう。
然し、「これらの上記の数の違い」は、どの戦いや戦記でもあり得る事であって、合わせての数てあって、要するに「完全な全滅であった事」に成る。
つまり、依って「銃撃回数・6から10回程度以下/3000丁」の論は、「1回2000兵の戦死」と成り、その「射撃法」が「3000丁の三段内」の「冷却済1500丁の三段内」と成ると、「1500弾の3倍」は「4500弾」が飛弾し、その内の実際に、「1/3の兵に被弾する事」に成るとすると、「1万2千の兵の屍」はこの「銃撃回数・6から10回程度以下」からあり得る数に成り、この説は「あり得た説」と成り得る。
上記した「銃の鉄の三つの欠点の事」での「熱等による銃撃間」の間の「兵同士の戦いの数」が、「合わない数・致命傷では無く戦闘能力を無くした兵数、つまり「戦線離脱兵」に成っているのでは無いかとすれば一致する。
要するに、これに依って「熱等による欠陥の銃撃間説論」が大きく左右した事の説は成立する。
現実に、この「銃撃間説論」に依って攻め込まれて「銃兵」は死傷したが、「信長」がこれを「見捨てた事」で、後に「銃の傭兵軍団」から観て感情的に成って、「騙した」「見放した」「契約違反」として「雑賀根来の傭兵軍団」と「信長」とは「犬猿の中」に成ったとし、口伝ではの鮒が狙撃兵が編成された事が云い伝えとして紀州に残っていたとされる。
挙句は戦後すぐに「紀州攻めを受ける事」に成った「史実の事」を考え合わせれば、「銃撃間説論」は充分に納得できる。
要するに、「砂鉄からの来る火縄銃の必然的熱欠陥」が顕著に存在していた事を、この「長篠原の戦い・武田軍との戦い」に付いての検証した“「銃撃間説論」”では証明している事に成る。

そてそこで、これに対して「銃の鉄の三つ欠点の事」を克服したこの「額田青木氏の超近代銃」は、この「火縄銃の欠点」を補いした事で、「一言坂の武田軍との遭遇戦」で、「武田軍本隊を釘付けにした史実」は、それまでの「武田軍が持ち得た銃撃間説論」の「火縄銃に対する発想・情報」を根底から覆した事を実戦で証明した事を意味するのだ。
その意味で、「一言坂」の坂での「遭遇戦の武田軍の新たな印象」は大きかったと考えられるのだ。
それには次の「二つの事」にあったとされている。
「一つ」には「銃」には上記の「熱の銃撃間説論が起こる事・三つの欠点」、
「二つ」には「飛距離と命中率」が3倍に在った事、
この「二つの発想」が、「信玄」に衝撃を与えて何もする事なく、“本隊が「前」を向きながらも徐々に後退する”と云う「戦歴上に於いて前代未聞の事」が起こったのだ。
「信玄」に執っては過去に経験した事の無い衝撃的な事であったろう。
それが「三方ヶ原]にも影響していたと観ているのだ。
「超近代銃を持つ300の銃隊」に対して「武田軍本隊の8倍の軍」が成す術無く、「“弓矢も火縄銃も届かない1K
も離れた東坂下位置まで引くと云う事」”が興ったのは、このそれまでの「銃撃間説論」が「成り立たない事を知った事の所以の最初の事」であって、要するに、「額田青木氏の超近代銃」は、この「銃の欠点」を補いした事の所以の証明でもあるのだ。
「吉田城の第一次の籠城戦」にも「額田青木氏の城内部からの銃撃」を受けているが、その時も「距離の疑問」は持ったかも知れないが、それが「城廓櫓からの銃撃で在った事」から「銃撃間説論」は感じていなかった事もあり得るのだ。
だから比較的この“「銃撃間説論」を使えば崩せる”と云う発想をまだ持っていたと観られる。
だから、前段でも詳しく論じた様に「坂の上」で遭遇し、「坂下」には「100の銃と3000の兵」を事前に廻して「待ち受策」を執り、それに加えて不足と観たか途中で坂途中にも「3000の徒士兵」を伏せて、この“「銃撃間説論」を生かそうとしたと考えれば、“「銃撃間説論」”で観れば情況は読み取れる。
この事は、この時までは、「後」と「前」と「横」から「閉じ込め策」で、“「銃撃間説論」”を以て攻め込めば勝てると見込んていたのであろう事が説明できる。
ところが、この「一言坂遭遇戦」では、この“「銃撃間説論」”は起こらなかった”という事に成る。
「慌てた武田軍本隊」は、早めに「一切の閉じ込め策」を開放し、何と動きづらい後ろ向きの本隊も「坂下1Kまで下げた事・史実」に成った読み取れる。
これは資料からも明かな史実である。
其の後の「浜松城通過時」、又、「堀江城への追尾時」、「三方ヶ原の決戦時」も、この“「額田青木氏の銃隊」に対して一切対抗しなかった事と成った”と読めるのだ。
然し、これが“「銃の鉄の三つの欠陥・上記の学説論/銃身の鉄組織の強化」で補った事”の所以であって、その為に「長篠」の“「銃撃間説論」は「三方ヶ原」では起こらなかった事”を証明しているのだ。
そして、この“「銃撃間説論」は起こらなかった事”は、同時に“「銃の欠陥を上記の学説論」で補った事”の「逆説論」にも成り立つであろう。
仮に、密かに「摂津を中心として技術開発して製作した銃」であったが、これだけの「戦歴の史実」を見せつけていたのであるから、「武田氏や織田氏」は前後の時期に於いて必ず「これを武力で奪う事」に走る筈であるが、ところがこの事が「読み取りの中の資料」では一切発見できないのだ。
では、“これはこれは何故か”であるが、「額田青木氏に完成の近代銃を引き渡した時点」では、上記した様に、「匠、工人の伊勢への一切引き上げた事」と、「一切の資料を隠匿して世間に漏れる事」の無い様に「生産」のみならず「保持」さえも限定した故の結果である。
「摂津商人、伊勢屋商人」をも「特定できない組織・摂津商人と伊勢商人・殆どは大阪商人として記録に遺る」として「明治期」までに至っているのは、この事に対する“「特定できない策」"であったと考えられる。
この事の「史実」は、「室町期から明治初期」まで「大豪商・店名も主人も」は、“この「危険・全ゆる危険」が在った事”から、この“「特定できない影の策・奈良期からの伝統」”を講じたからであるのだ。
追記して置くが、念の為に「青木氏の正しい歴史観」として、「伊勢の氏族」を除く民間の前では、“「テレビドラマ」などの様に、「超豪商は平気で世間の顔表に出て来る事」は実際は殆ど無かったのである。
これは「重要な青木氏だけの歴史観」であって、この歴史観を忘却して歴史を観れば大間違いをする。
そもそも、この「顔隠策」は、少なくとも「奈良期の賜姓五役」や「因事菅隷の天皇の内示・密書」を直接に受ける事に成った時点では、元々、この「顔隠策の路」を「必然策」として「伝統的行為」として実行していたのだ。
何も「院の屋・商いを営むだけの事」では無く、「院に於ける事」に於いても「顔隠策の路」を必然的にも伝統的にも求められたものであって、これは「青木氏氏是」に全てが基づくものであったのだ。
「賜姓五役の青木氏」に限らず、献納時に於いて「天皇に朝見する時も誰が何時あったかなどは秘密裏にしていた配慮の事」が「青木氏の資料の読み取り」の中から読み取れる。
青木氏だけの「顔隠策」のみならず朝廷に於いても同然な伝統であった様で、賜姓臣下族に成った時点から天皇家から引き継がれた伝統であったと観られる。
奈良期から「青木氏氏是の伝統」を少なくともミスなく守るにはこれが一番であったろう事が理解できる。
この「氏是」がある限りは昔で無くても現代でも求められる事でもある。
要するに、これは「古くからの離れられ得ない伝統であった事」に成る。
要するに、「四家・福家」はこの為にあった事をも示すものであり、「四家」が交互に動けば成し得る組織であったし、これに追随して「伊賀青木氏等」もこれを補完していた事に成る。
筆者は、「献納時の朝見」は、「四掟制度」も「四家制度」も「福家制度」も「元々の基本の考え方」はここに在った事では無いかと考えている。
其の為の制度でもあったであろう。
寧ろ、「青木氏族」は、これさえ守れば他から攻撃される事も少なく成り、此れで護られていた事では無かったかである。
中にはこれを窮屈とも思われる「伝統の破目」を外そうとする者も現実には居た事も判っているが、「氏族の掟」と成れば当に、“出る杭は打たれる”の例えの通りであり、これを無視して生きて行く事は難しかったのだ。
それが、それが長い間に、“「青木氏の絶対の伝統」”と成り得たと考えられるし、これが「幕府と正親町天皇」から再び、元の「皇親族」から“「賜姓臣下族」、「賜姓五役」、「令外官族」、「因事菅隷族」から、更には“「律宗族」”と認められる結果と成ったのだ。

「*」印の 「青木貞治救出の検証論」

さて、上記の「三方ヶ原と長篠の火縄銃の経緯」の鉄の特異性を持っているのだ。
これを理解した上で、ここには「青木氏の歴史観」に執って重要な事が在る。
その為に少し話を元に戻す。
「青木氏の氏是」の前に「南下国衆の駿河青木氏の指揮官」は、“それ”を予測して見抜いていたのだ。
この“それ”とは、何かであって後で起こった「銃の結末」である事なのだ。
即ち、「長篠の上記の結末」を事前に“「予測・想像していたと云う事」に成り得る”と観たのだ。
要するに、上記の様に「雑賀根来の銃の雇用集団・1000丁又は3000丁の結末」の事である。
“「極度に殺戮性の高い銃を持つ事」”に依って、その保持者の「額田青木氏が合力する」として「兵力的・松平軍」には「6000+5000=11000+a」に成るが、その「フリントロック式改良銃/超近代銃の威力」は「間隔の無い4連発銃」であって、結果としてこれは「45000+aの兵力・銃数*4*10000」に匹敵値し、これに依って合力下場合は「左右の鶴翼」は必要無くなるので、「兵の温存」が働き、この「他の兵」は「本陣守備」か、又は「銃隊の後ろ」に控えて「銃隊への補足が効く事」に成るのだ。
これは要するに、当に「陣形」からすると「魚鱗の陣形」になるのであり、「馬や弓矢の代わり」に「銃弾」が「遠くの相手」の前面に殺戮性良く次々と飛び交う事に成るのだ。
故に、上記の事を配慮すると、「浜松城」では「額田青木氏の指揮官」は、咄嗟に“虫の云い馬鹿馬鹿しい話を持ち込んだものだ”と思ったのであろう。
それは、況してや「本隊」が戦わすに“額田青木氏に戦わせて自分らは楽をする”と云う構図であった。
要するにその結末は歴史的に“「後の長篠」”がこれを示しているのだ。
そしてその「最後の行き着く所」は、「旗本の事」を考えれば、“「雑賀根来の信長の始末」”と同じ破目に成るのだ。
其れならば、「武田軍」では無く「銃の実質兵力」では負けていない「松平軍」と此処で「城の外」で“一戦を交えるのも良し”とする構えを示した事の筈だし、現実にそれ程の「激論」に成ったであろう。
然し、「武田軍との戦い」の前に、“額田青木氏と戦う事は100%ない”事”は判っている事である。
筆者なら、「判断力を無くして激高する相手」に対しては、この「脅し」を先ず架けて先手を打つ、そして「全国の青木氏族」に対して「攻守の態勢」を執る様に「伊賀」を通じて通達を出すの段取りに入る。そうするだろう。
然し、そもそも、その足元を見ても「松平氏」にはそんな事が出来る余裕等は最早元より無かったのだ。
要するに、激高させて於いて「城の外」に出されるが、それがこの場合は「松平軍と関係性を断つと云う点」では「最善の策」だったからである。
後は、「伊勢青木氏の財と抑止力」を背景としていた以上は「伊川津の国衆」と成っていた事から「主従関係」は元よりなく「自力で生きて行ける能力」を持っているからこそ問題は無かったのだ。
元々は、「吉田城」から呼び出されて「約定」を無視破棄して騙されているのだ。
然すれば、「浜松」から海に出て「伊勢水軍」で「伊川津」に簡単に戻れる。
陸であっても恐らくは常に陰に成り側帯していただろう「伊賀青木氏」を呼び寄せれば「伊川津」に戻れる。
「松平氏」には今この時に「兵力・財力」共に「青木氏とそのシンジケートを攻める余裕と力等」はそもそも無かった。
それは、当に武田軍>「松平氏の直接兵力」<「青木氏の影の力・抑止力」=数段の差の数式の関係であったのだ。
だからこそ、断固断ったのだ。
結果として、「目論み通り」に外に出され「自由」に成った「額田青木氏の銃隊」は、「軍議からの情報」から「駿河青木氏の青木貞治隊」を救うべく、場合に依っては危険を伴う事に巻き込まれる事もあり得るが、「三方ヶ原に走る事」が自由に決定して出来たのだ。
これは何故なのかであるが、それは前段の「軍議の四つの命」に従わなかったからだ。
この「結果の決断」としては、「額田青木氏の指揮官を負傷させた事」に成っている「疑問の遺る三河戦記」には成っているが、「額田青木氏側の記録」では良い方向に向いたのだ。
そこで、大きな「一つ疑問」がある。
この証拠は何も無いが、「松平軍記の負傷者死者の記」とされるこの「資料」には、確かに「山県軍の別動隊の突撃」で左鶴翼の突破時に、「額田青木氏の指揮官」が負傷したと成っている。
然し、これには筆者には「疑問」があるのだ。
つまり、「軍議」で、“一戦交えるかのところまで行った混乱”の中で、これで“果たして無事に済んだのか”の疑問である。
筆者はこの「要素」を重く見ているのだ。
それは、“「負傷者」”に付いては、その「三河記録」にも記載されている所以の、“「指揮官ただ一人」”の記載であるからだ。
突破時であれば、先ず“「指揮官一人」”と云うのはどうも釈然としない。
その負傷後の事を確かにこの「記録」では、指揮は理由が判らないが“「額田青木氏の差配頭」に引き継いでいる事に成っている”が「伊勢」では「無傷の事」である。
これを偶然とみれば偶然と観れるが、この事には資料には全く触れていない。
これが、「流れ」から「軍議の恨み」に報いんが為に、東側から“「旗本の決死の弓矢で狙撃された可能性”があるからだと、それを思わせぶりの形で記録しているのだ。
恐らくは、その「軍議」に出ていたこの「旗本」に依って、その時は「山県軍兵かの判別」が付かず「無差別に弓矢で狙撃された可能性」を思わせるかの様に記された事が確かにはある。
然し、何で、「軍議で争うまでに激論」に成った「指揮官」で、且つ、直ぐに「伊川津」に引き上げている「指揮官」なのに、且つ、「伊川津国衆」であって「三河国衆」では無く、「戦線離脱している者の名」がこの「三河戦記の戦死者・負傷者の記載」の中にあるのかであるし、駿河青木氏を吸湿している弾幕間の中で松平の兵が入ってこられるかの疑問がある。
これは何か間尺に合わない。
普通は外すであろうし記載もしないであろう。
確かに後で知って追記したと云う事でもあるが、時系列的に観ればその時は既に戻っていて「伊川津国衆」を即座に辞しているのに、書く必要はそもそも無い筈であり、これは“戦死か負傷かしたのを如何にも観ていたかの様に、又は如何にも知っていたかの様に書く事は甚だ疑問で”ある。
そもそも国衆を辞している以上は、そもそも「三河戦記」には書かないであろうし、未だ「国衆」であったかの様に書き込んでいるのもおかしい。
この事が釈然としないし、だから、「出身元の伊勢・伊勢秀郷流青木氏」では「指揮官の負傷記録の詳細」は無いのであろう。
筆者には、仮に「伊川津国衆」であっても如何にも「三河国衆」であったかの様にして、“「三河戦記の辻褄の時系列の不都合・後付け」を合わした”としか思えないのだ。
もっと云えば、そうと成ると同時のこの時間に起こった「二人の戦死者の戦記」にも記載がある“「有名な駿河青木氏の青木貞治の死・二俣城の敗北を恥じた死と記載?」”は、“違うかも知れない”とする疑問が生まれるのだ。
“猛烈な銃撃で弾幕と煙幕”を張って「青木貞治隊」を「武田軍の本隊」から救出したその中の目の前で、今度は同時期に、“その「銃隊の指揮官」が負傷している”のは不自然極まりなく「大きな疑問」を持つのだ。
“戦場だから何が起こるかは判らない”と云われればそれまでだが、幾ら何でもそんな事は無いだろうと観ていて、筆者には、“猛烈な銃撃で弾幕と煙幕”の中で、果たして、“偶然にも青木氏の指揮官二人の死”と云うのはあり得るのかは納得できない。
何れにしても、「この状況」を確実に「駿河青木氏の貞治隊員」と「額田青木氏の銃隊員」の「1000人の目」が観ていた筈だ。
故に要するにこれは「典型的な後付け説」と観ている。
「江戸中期・1738年享保期」に成っても、「三河旗本」からの「150年以上の嫉妬と怨嗟の拘り」を超えた様な「嫌がらせ」が続いていたのだ。
「伊川津や伊勢」も然る事乍ら、「江戸・1603年〜1868年」に於いてでさえも「三河旗本との執拗な軋轢」が続いたのは、この「事・軍議」に依る「口伝による恨みの伝統・4代続き」ではないかと観ている。
“本来なら4代も続けば忘れている筈であろう”が、これは“「軍議の逆恨みの揉め事」”は「伝統化していた事」に成るだろう。
前段で主眼を置いて論じた様に、「青木氏族の古来からの伝統」にある「特異性・律宗性」や「特別性・格式性・賜姓五役の郷氏」に対する「拭い切れないもの・劣等感」が先ず潜在的にあって、且つ、その上に、更にそれを“自らも決して獲得出来得ない物”に対する「執拗な伝統的な嫉妬と怨嗟と苦悩」のものであったと観ている。
仮にもしそれだけであるとするならば、「青木氏族と紀州藩との大正までの親密な付き合い」も無かった筈である。
ところが、「紀州藩との青木氏の付き合い」は、「三河旗本の嫉妬と怨嗟と苦悩」にも関わらず、記録にも遺る「初代・頼宜」から引き続いて何と「大正14年」まであったのだ。
「彼等・旗本の嫉妬と怨嗟と苦悩」が厳然とあるとするならば、「青木氏族と紀州藩との大正までの親密な付き合い」は果たして可能で在っただろうか。
それを踏み切るには、「紀州藩」に執っては簡単では無かった筈であろうが、然し、踏み切っているのだ。
其れも「勘定方指導の立場」であって、且つ、「俳句・歌・南画・茶道・庭造り」の指導もし、「親友の関係・この関係を“管鮑・かんぽうの交わり”、又は、 “刎頸・ふんけいの交わり」と「資料の二か所にある」”と云う関係にあって極めて「親密」であったのだ。
故に、「彼等・旗本」に「嫉妬と怨嗟と苦悩」の以外のものとして、“「軍議の逆恨みの揉め事」”が、何時しかそれが「歪んだ伝統」として、“「三河者の旗本」にだけに限定されて遺ったと云う事であろう”と思う。
それが「三河」だけと成れば、「伝統的な嫉妬怨嗟」を買うのは、この「額田青木氏」には「軍議以外」には無い。
これが遂には、後で前段で詳細に論じた様に“「闕所」”までに発展するのだ。
それ、つまり、「大商い」をすると疎ましい付きまとう「闕所」であるが、それが何と「信濃」までに及んだのだ。
然し、この元と成った「三河旗本の怨嗟と嫉妬」が治まったのは、「江戸中期・享保期頃」であった。
そして、「伊勢の山田奉行の嫌がらせ」も治まったのも同期であるとし、「伊勢・伊勢屋」が江戸から引き上げたのも同期であって、更には「信濃青木氏の聖域と殖産の奪い取りの事件」も同期であって、挙句は、それを「ぶつける相手」が無く成ったという事と成ったと思われる。
それで、“「平穏」”を保てたとするならば、それは当に「軍議の逆恨みの揉め事の所以」でもあったと充分に見込まれるのだ。
故に、「三河の伊川津」で「陸運業と殖産業」を営む以上は、その「防御論」は、勿論の事、初期の頃の「青木氏の銃」は「軍議の逆恨みの揉め事」から逃れる為の「相手を威圧する抑止力」として保持し持ち続けたのだ。
故に嫉妬怨嗟の彼らに執っては、“恐ろしい陸運業と殖産業”であった筈である。手を出せば潰れるの恐怖があったのだ
そして、それが「主君の松平氏」をも左右する程の「債権漬け」で政治的な勝負は着いたのだし、その叶う事の無い「各種の武力的な抑止力」と「商い・財力と云う力」を持っていたのだ。
筆者は、上記した様に、「額田青木氏」と「駿河青木氏」、強いては「伊勢青木氏」の事を検証する際には、この“軍議と云う要素”が大きく働いていたと観ているのだ。

「*」印の再び「救出の検証」に戻して。
そもそも、この「救出」は「武田軍の本隊」の「魚鱗の陣形の先頭」が「騎馬隊」であったからだ。
横に広く展開すると、その「騎馬の効果」は低下し集中して来るし、自由の効かない騎馬を狙い打ちに掛けれられるし、誘い込まなくても早く命中率の高い範囲に次から次へと勢いよく近づいて来るからだ。
「騎馬」が前に進まなければ「徒士」は前に進めないとすれば「敵の威力」は「騎馬」に集中する。
「騎馬」が全滅すれば、次は「徒士」を「狙い撃ち」にする事に成るし、「魚鱗」は「左右の鶴翼」に分散して「騎馬突撃の威力」は低下する。
これが「長篠・12000戦死」は主に「火縄銃」ではあったが、その2年前の「三方ヶ原」では、当に現実にこの絵に描いた様な同じ経緯と成ったのだ。
「織田方」には「3000の銃隊」の前には「防護柵の馬防柵」で表向きは護られていたとし、この時の犠牲は「雑賀根来傭兵軍団の約半数弱の多少」であって、「信長本隊」にはそもそも何も無かったのだ。
「武田軍12000の全滅の犠牲」を出し、「逃げ出した残りの武田軍」に対して更に「追撃戦」で「武田軍5000の兵の犠牲」を出したが、兎も角もこの時、「長篠の信長」は、何と前段の通りで、この「戦場」では無く、この戦場から西に1km離れた「土豪の館・新庄市富永氏の館」を本陣としていたのだ。
これは始めからこの「三方ヶ原の結果を描いていた事・研究」を示し、「銃の威力に対して自信があった証拠・現実は弱点を突かれて犠牲」でもある。

ここで、さてこれを念頭にして「額田青木氏の南下国衆の銃隊」と「青木貞治との情報交換」に付いてどの様な事が起っていたのか深く踏み込んで観る。
前段でも論じた通り、“「南下国衆の銃隊」を「鶴翼の頭の部分」に何故据えなかったか”と云う「疑問・軍議で拒絶」である。
前段でも論じた様に、次の事が考えられる。
そもそも、「伊川津の国衆に成った時の目的が先ず違うと云う事・イ」、
到着時に「タイムラグの問題があった事・ロ」、
且つ、「青木貞治隊を護り救い出すと云う目的の事・ハ」、
額田青木氏に対して「元よりの旗本の嫉妬が強かった事・ニ」
以上の「イからニの事」が「全体的な四つの事」として「理由」が潜在的に確かにあったろう。
然し、この「全段も含めて詳細論の段」に於いて果たしてそれだけかである。
これが疑問なのだ。
筆者には何となく間尺が取れないのだ。
それは、“一言坂の直ぐ横東1kに「駿河青木氏の菩提寺の西光寺」があると云う事”だ。
この「検証」にはこれは「重要な要素」であって見逃せないがこの事が考慮されていないと云う事なのだ。
どんな戦いに於いてでもこの「菩提寺の存在」は戦略上で重要なのだ。

況してや戦場の近くにある彼等の「氏寺の菩提寺」である。
要するにこの「菩提寺」にはそもそも「仏教徒の掟」があって、「寺内に武力を持って侵入する事」は古来より「厳しい掟」があった。
その為には逃げ込んだ戦士を討ち取るには「寺の焼き討ち」して外に誘い出して、そこで討ち取ると云う事にどんな場合でも「戦術」として成るのだ。
況してや「駿河青木氏の氏寺」とすれば「周囲の民衆・氏人」もこれを断固として護るのが古来から伝統である。
「武田氏」はそれを攻めれば「秀郷流一門の東の361氏の勢力を西に呼び込む事に成り、それがどういう事に成るかは知っていた筈で出来なかった筈である。
恐らくは、故に「三方ヶ原」で救い出して、ここに逃げ込み潜んだ事は間違いはないのだ。
どの「資料の行」から観ても、ここで、“「隠した事の説」”は読み取れる。
其れがここであったと観ているのだ。
だとすると、「隊長の青木貞治」は戦死はしたかは、「戦記に滲ませている表現」の通りに少なくとも「全滅覚悟の死隊」では無かった事に成る。
「貞治隊長」は其の気であっても「家康・軍議」から「二俣城の叱責」を受けても「決死隊」を命じられてはいなかったという事である。他に直接に家臣としての副将が居たのに何で駿河国衆の貞治が責任を取らなくてはならないかの矛盾が生まれるのだ。
これは見逃す事の出来ない重要な事だし、そもそも「二俣城の叱責」を万に感じる立場に果たして居たかである。
先ず、その「二人の副将」の内の一人であって、未だこの時は「貞治」は「松平氏の家臣では無く「松井氏配下の駿河国衆の立場」であったし、そもそも「もう一人の副将の者」は[松平氏の縁者の若者]であって、叱責も戦死も無いのだ。
況して、そもそも「主将」は罰せられてはいないし、「戦死」もしていないのだ。
故に、この「後付けの説」は大いに疑問なのである。
だから、その経緯から「南下国衆の銃隊」に対して「情報」を提供し、且つ、「他の者を救い出して欲しいとの願望」を伝えたと考えられるのだ。
その時、この「菩提寺に逃がす事」を頼んだだろう。
そもそも、そこで「菩提寺があるという事」は、その「盤田見附地域」は「青木貞治の一族の父祖の先祖代々の駿河の知行地」であったと云う事に成る。
つまり、距離にして「40k=10里」で、「徒士の道則」にして「50k・10hの東」の「神奈川の秀郷流青木氏とその一門」が護ってくれるだろうと云う範囲のぎりぎりの範囲の所にあって、その安全の期待があっただろうし、現実に遅れて入っているのだ。
それには、「後付けの三河戦記」の通りでは無く、「青木貞治隊」は「自由な行動下」にあり「主戦の中央に位置する事」は絶対避けなければならない「自由な立場にあった事」が云えるのだ。
「筆者の考え」は、この「条件を叶える」には「軍議の末端」に「参加できる立場」にあった「国衆の青木貞治隊200」のみならず「南下国衆の銃隊の指揮官・300」も、「軍議」では明確に「命令を拒否した」であろうと云う事である。
と云うのは、“「軍議に参加していた」”とする「直接的な表現の記録」はないが、「三河四天王」と云われた「本多軍も大久保軍も酒井軍等」も夫々「200〜500兵」でこの「軍議」に参加しているのだ。
「兵の勢力」では同じ立場に居たと云う事だ。
従って、「青木貞治隊200・初期から」のみならず「南下国衆の銃隊の指揮官・300・呼出後」が「軍議」に参加させられなかったと云う「特段の理由」は無いだろう。
間違いなく「参加していた事」に成ろうし、「吉田城・守備隊」から呼び出されたのもその証拠と成り得る。
その「軍議の直後」に、「時間稼ぎの目的」の為の「籠城戦」を前提に「不合理な偵察隊」を命じられたりもするも、これもこの「軍議の参加」による影響のものだろう。
そもそも何度も論じている様に、「浜松城・27m高」から充分に観えている「一言坂の武田軍本隊の陣営の様子」に対してである。
「そもそもの狙い」は、「時間稼ぎである事・織田氏の思惑と額田青木氏の銃の印象付けもあったか」は、「戦略」としては判るが、これも「武田軍の本隊の充分な補給体制」も整えない侭で、且つ、「野営」で「長期間の籠城戦」はあり得るのかと云うここにも何か釈然としないものがある。
確かに、「武田軍の本隊」が「周囲の出城を攻め落とし」をしながら「二俣城からの供給」で「一言坂東」で「大軍の約1月間の停留」をしているのだ。
それは前段に論じた通り、「三方ヶ原」では無く、「野営の此処・一言坂東」を「拠点」として「堀江城」より先に、「西域の脅威」を片付けて「織田勢の本隊」が「決戦」を求めて来ない内に、東から「浜松城」を先に攻め落とすつもりであった陣形である。
「西の織田勢」と共に「三河勢・松平軍」もこの「東の背後の脅威」があった筈で、この「説・浜松城先攻め」は無いだろう事は判る。
「今川氏の様」にそんな「危険な位置」に「準備周到の信玄」は「野営・一言坂」は絶対しないが、ところが何故かしたのだ。
それには、「二俣城の陥落に時間が掛かった事」と、「二俣城で補給体制の構築に時間が掛かった事」での二つが在った事が記録として残っている。
この間に史実として時系列では、「二俣城」からこの「野営場の一言坂」まで「山県軍の別動隊の連絡」が届いている事から。この理由はこの「二つ事」であった事に成る。
それが「整った段階」で「目的の堀江城」に向かった事に成る。
故に仮にこの「戦略」を採用したとすれば、間違いなく「堀江城の二極化論説」であった事になろう。
この事は相当に余裕があった事に成り、「織田氏も松平氏」もこの「堀江の前」の「一言坂の野営」が最も攻める時期であつた事に成るが、そうせずに「無駄な弱腰の時間」を過ごした事に成る。
故に、「籠城戦の戦略自体」がそもそも「空虚で在った事」に成る。
其れならば、“「偵察隊」を命じられた事”は可笑しく成り、当に実に無駄であった事に成る。
「額田青木氏の指揮官の貞秀」はこの間の「経緯」を情報から知り、この様に分析をしていたと思えるのだ。
「織田氏」は「浜松城籠城戦説」を採っていたとしていて「時間稼ぎの理由」の外には、過去にも「第一次吉田城・籠城戦の戦績」の様に、その「経験」を通じて「南下国衆の銃隊を浜松城に留めて置く事」も、「最大の防御・時間稼ぎ策」とも考えていた筈である。
故に、なのにこんな「三方ヶ原の愚策」と「一言坂偵察の愚策」の「二つの愚策」を考えた「その背景」には、“「ある問題」”が「軍議の中」にあったのではないかと観ているのだ。
前記したがこれらの「上記の経緯の事」は、本来は「松平氏右筆衆・青木氏では祐筆」で詳しく調査されて遺されて「原石の侭」で遺されるものであるが、然し、それは消されいて無いのだ。
要するに簡単に云えば、これ等を纏めたとする「三河戦記」は、開幕に必要とした権威を「後付け策」で「権威を必要とする徳川幕府戦記」を塗り替えた事に成り得たのだ。
つまり、「後付けと成っている事・脚色」は、言い換えれば“「軍議の過程」に於いて「上記する事」の物議が交わされた可能性がある”と云う事だ。
確かに、「額田青木氏」に依らずとも「銃隊」とは、「弓矢」に代わって「籠城戦」には絶対に必要であって、且つ、「野戦」に於いても「鶴翼の頭部」に据えて「弾幕」を浴びせると云う何れも「最大の戦術・弓矢に変わるもの」でもあった。
当時は「資料」より「急激に短期間」で、急に“「欠かす事は絶対に出来ない戦術」に成った”と認識に至っていたのだ。
然し、「浜松城の籠城戦論」ではそういう「重要な時代認識」はな未だ遅れてなかった様であり、それは「武田軍の第一次吉田城攻め」がその最初と云われているが、それが偶然にも「額田青木氏」が「伊川津国衆」としての最初の役目として詰めていた為に「銃による籠城戦」と成ったのであったのだ。
その為に「武田軍」は「額田青木氏」に「思わぬ抵抗を受ける事」に成って一時は軍を引き上げると云う結末と成ったのだ。
故に、「一言坂の偵察」は、勿論、論外の事ではあるが“「二度目の銃の威力」を示すと云う戦術”はあり得たが、寧ろ、「籠城戦」と成れば戦いの前は、寧ろ、“「銃の存在」を知らさない方がより効果的”であり、そうと成ればそもそもこの場合の「一言坂の偵察隊の銃威力誇示」も要するに「愚策である事」に成る。
要するに、本格的に「松平軍の主軸と成って戦う事の拒絶」の前に、軍議の「諸々の物議の激論」とは、この是非の「此の処・偵察隊の銃威力誇示」にあったのだ。
兎も角、故に「籠城戦である事」では止む無きとするも、「一言坂の遭遇戦」のみならず「三方ヶ原の野戦の直接本格戦・鶴翼陣形」では、“断固として国衆の立場として断る”としたのだ。
これに付いて「額田青木氏の南下国衆指揮官」と「旗本衆」の間で“激論が交わされた”と観ているのだ。
故に、「軍議の中」では「指揮官<旗本の関係」から“「愚策と実行」”と成ったのだ。
この「旗本」とは、何と伊川津に関係する「東三河の大久保氏や本多氏等」等が主力であったのだ。
それだけに云う事を聞くとしていた「東三河の旗本等」は、「約定のある事」も知らずに独りよがりで、“立場が無く成った”としたのだ。
故に、そして、「偵察隊と云う形」で体よく“城から追い出された経緯”と成ったのであろう。
当然に「城からの情報」が入らない侭で追尾する事には成ったが、最終的に危険が伴うとして、「青木貞治」は周囲に危険を冒してでもこれを補完して「軍議情報」を流し、「額田青木氏の一族を救う事」としたのだ。
そして、「情報の途絶えた額田青木氏の南下国衆」に対して、「青木貞治」は「最後の軍議情報」を「秘密裏」に「額田青木氏」に提供して、且つ、万が一場合には「遠州秀郷流一族一門の救出援助・駿河相模の青木氏・史実」をも頼んだと成ったのだ。
現実に時系列の記録から動き始めていたのだ。
其れで無くしては、「伊賀者・伊賀青木氏の香具師等」で援護しながら「伊賀越え」で「家康」を救った若い「遠州青木氏の貞治の子孫・青木長三郎・貞治の長男・三方ヶ原より9年後」は遺らなかった筈であった。
故に、「偵察としての城への情報」としては記録されていないのだし、「伊勢の資料」にはその経緯を辿れる程度に功績を遺しながらも、「三河」には適正な記録が無いのは「右筆の原石」が後に成って都合の悪い事は一切消し、そして「後付け」で都合よくこの「歴史」を塗り替えた事でもあるのだ。
従って、「一言坂の偵察隊後の追尾」では、「最終軍議の参加・情報入手」には無理であったろう。
そこで、「今後の事」も含めて密かに、“青木貞治から「軍議の情報」を獲得した可能性がある”のだし、故に、本来戦術の「鶴翼の頭部の位置に陣取る」と云う「命令」も無かった事に成る。
これ等の事は、今まで「論調」が余りに複雑に成る為に論じて来なかったが、その「詳細部分」であって、然し、その「一族の青木貞治と云う重要要素」を勘案した場合に、この“「拒否説」”は放置できずにこの「追論」が出る事に成ったのだ。
この“間尺に合わない問題”は、この“「拒否説」”にあって、「上記のイから二」に付いてもこの「拒否説論に始まる・物議に依る激論」と観ているのだ。
これが、後の「戦線離脱」や「陸運業」を容易に成し、早期に得た「決断の基経緯」と成っているのだ。

さて、続けて追論として、次に論じるのは“「鶴翼の銃の威力の理窟」”であるが、唯、これも、又、何とこの「通説」は異なっていたのである。
然し、他方、「武田軍本隊」も「堀江城」で、“「一日」で墜せる見込みであった“が、実はこの「時系列」で観ると「二日の籠城の激戦と延4日所要」と成っていた事が判るのだ。
それは二俣城から山県軍の別動隊の補給基地地築造隊か三方ヶ原に三日後に到着する予定であったとして、この侭では本隊が別動隊を三方ヶ原で補完できない事が起り、1日遅れる事は「松平軍5000」に山県軍の別動隊の実戦の2000の兵が潰される事に成るとしていたのだ。
この「計算」が狂った「武田軍の本隊」は、其の後、「松平軍の二つの情報・野戦情報と鶴翼戦情報」を獲得して、そこで「武田軍の本隊」も慌てて「三方ヶ原への手立て」として「補強路確保と山県具への援軍」をする必要に迫られていた時系列と成っていたのだ。
その為に「武田軍の本隊の大軍」も遅れて「堀江城開城の条件」を“城兵全て助ける事”で「1日分の短縮」を図ったのだ。
この“堀江城の200の城兵は空の浜松城に入った”とされているのだ。
そして、当初は“「三方ヶ原の北側」”に陣取る為に先にも慌てて「三方ヶ原の補給構築拠点」に向かったとする時系列であるのだ。
ところが、そこで「三方ヶ原」での「松平氏の先取りの陣取り方・西向きの鶴翼の陣形」を知って、元はそこで「武田軍」は、当初からの作戦として「北から南に向かって陣取りをする作戦」であったが、西から東に向かっての「応変の結果」と成って仕舞っていたのであった。
この事で、別動隊の合流が出来ず、これで「山県軍の別動隊の計画・北から南」は狂ったのだし、本体も鶴翼の陣形から相手が「予想外の鶴翼陣形・多勢の陣形」であった事から受けて立つ為には不利な「魚鱗の陣形・無勢の陣形」に行進中に変更せざるを得なく成ったのだ。
武田軍に不利な条件が重なってしまったのだ。
そこで止む無く、進軍中の「山県軍の別動隊・補給拠点構築隊」は、「北の山際に停留する事・当初の計画の位置」を強いられたのだ。武田軍本隊と山県軍別動隊とが結局分離された結果と成って仕舞ったのだ。
松平軍に執っては「山県軍2000の兵」を本隊から切り離しした有利な結果と成ったのだ。
この「松平軍の有利な点」を「山県軍の別動隊」は本隊を救う為に有利にする様に知恵を働かせたと云う事に成ったのだ。
そこで先ず「山県軍の別動隊」は、向後の憂いを無くす為に遅れて「二俣城の周囲・国衆軍団が反乱して騒ぐ」を改めて掃討し、「二俣城処理中の別動隊」が「補給路」を造り上げる為に急いで三方原北側に向かっていた。
元よりこの「計画の打ち合わせ・三方ヶ原」であった事から、「武田軍の本隊」も、“これは危険”と観て、急いで「作戦」を変更して「山県軍の別動隊の救出」に急いだ。
そこで「三方ヶ原の北側・山際沿い」に先ず向かい、そして「山県軍の別動隊」が着くのを待つ予定であった。
ところが、結果として間に合わず東西に構える不利な形と成って仕舞ったのだ。
戦術としては鶴翼の陣形>魚鱗の陣形であった事から本隊としては全て大軍でありながらも持久戦に持ち来れれば不利な条件に置かれていたのだ。
そこで、「山県軍の別動隊」は合流する事は出来ず、後は元の計画通りに「北側に陣取る形を執る事」に成って仕舞ったのだ。
この珍しい陣形となって「山県軍の別動隊の執るべき作戦」は唯一つと追い込まれたのだ。
それが、「武田軍本隊」が魚鱗で対抗する前に、「山県軍の別動隊」が「松平軍の鶴翼の先端の頭の部分」に突撃する以外には本隊をより有利にするには戦いの始まる前にする事しては通常戦法では無く成ってしまったのだ。
結果として、後は鶴翼の陣形を決死の覚悟でこれが「鶴翼の頭の側面」を突く事に成り、「戦略的な鶴翼の陣形の意味」が無く成って仕舞って総崩れと成ると考えたと云う事だ。
経緯論として観てきた結果から其処に「思わぬ落とし穴」が有ったのだ。

さて、この検証としてこの経緯の結果から、ここで「一つ目の疑問1」が出る。
それは、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」が、「武田軍本隊」を追尾していた事を知りながら、“何故、「三方ヶ原」に向かったか”である。
普通なら後ろを着いてくる筈と思う筈である。現実に隠れながら追尾していた。
更に、「二つ目の疑問2」は、「松平軍=山県軍の兵力」として「兵数としては同じ勢力・築造兵含む」でありながら、何故、「武田軍の本隊」は「山県軍の別動隊の支援」に向かったのかである。
勿論、築造兵3000が実戦兵で無い事は知っていた筈である。
普通は行く行くは「本隊」が行く以上は向かわないだろうし、「松平軍」もその事は充分に認識できていた筈だ。
「山県軍の別動隊」が、三方ヶ原に“早く着くと云う事”に成り「西側に位置する事」とすれば、却ってこの事で「二つの武田軍の陣形」が西側で整う事に成る。
これは速く「三方ヶ原の戦場」に着いた「松平軍」には不利と成り得る。
それと、「三つ目の疑問3」は、「松平軍の鶴翼陣形の向き・西向き」である事である。
この「三方ヶ原の地形」は南の浜に向かって「下り坂の地形」にある。
そこを西向けに陣形を採る事は活動としては斜めの地形であって好ましくない。
本来であれば北の浜松城を背にして北向けて陣形を採るのが普通である。
「一つ目の疑問1」は、勿論、直前でも経験した「南下国衆の銃力の威力」に「脅威」を抱いていた事である。
「二つ目の疑問2」は、「別動隊」であるが、基本は「補給基地築造隊」が主目的であった事である。
この「二つの事・疑問」と連動して、これが「一つ目の疑問の答え」でもある事だ。
「三つ目の疑問3」は、西から来る誘い出した「大軍の武田軍の本隊と対峙する事」と、「松平軍の陣形」が西に向く事で遅れて来そうな「別動隊」に二俣の方から「背後を突かれる危険性」があった事だ。
何れの「三つの疑問の1、2、3」には「松平軍」に執っては「三方ヶ原」と云う「無理な野戦を選んだ事」が左右しているのだ。
そこで、これ等を補完する意味で、「額田青木氏の指揮官」の「自らの判断」で止む無く「南下国衆の銃隊」が、“「南左の鶴翼の付け根部」に「青木貞治隊の救出の為」に位置した”と云う事が先ず考えられる事だ。
筆者は、寧ろ、“位置した”と云うよりは、「上記の物議の軍議の結果」から、“そこに居た”と云う事ではないか、又は、“居る事に成った”として、故に、“「家康の独自の判断」”で「陣形」を、急遽、「軍議」に基づくものでは無く、“戦場で西向きの鶴翼にした”と考えているのだ。
そう成る事で、「額田青木氏の南下国衆の銃力」が“武田本隊と山県軍別動隊の左右の軍に対して「総合的な破壊力を示す事」が出来る”として、“「武田軍の本隊」に対して斜め西に向けた”と考えられるのだ。
然し、「軍議」で「当初の思惑」は大きく崩れたが、最早遅いので当初の通り計画を実行せざるを得なく成ったのだと観ている。
何故ならば、「家康側からの考察」から観ても、そうする事でもこの「上記の疑問の123」の「三つの問題」も解決出来る。
つまり、突き詰めると結果として「山県軍の別動隊は遅れている事」もあるので、“絶対に戦闘に参加せずに、「様子見」してその「時期」を観て貞治隊を救い出すと観ていた”とする「遅れ説」の説に成るのだ。
ところが、ここで更に「思わぬ事」が起ったのだ。
それは、この「山県軍の別動隊」は、予想を超えて突然に“「補給拠点築造兵が突撃隊に凶変したとの云う事”であるのだ。
つまり、「家康の咄嗟の決断」は、“両軍の全ての思惑は狂ったと云う事”の説に成る。
もっと云えば、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」に依って、先ず結果として「山県軍別動隊2000以上の犠牲」を負ったが、「残る兵」は最後尾に着いていた「補給拠点築造兵の非戦闘員」が全てであり、「銃の難を逃れる為」に留まらずそのままの「勢い」で生死を掛けて「浜松城」まで走り抜けたのである。
従って、これが下で「浜松城を攻める事は出来なく成っていたと云う説」に成るのだ。
「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、この“2000の戦闘兵を狙撃した”が、「残りの非戦闘員」を銃撃せずに、先ずは「青木貞治の隊員」を先に救い出し、直ちに自らも「戦線離脱した事の説」に成るのだ。
武田軍本隊は、「青木貞治の隊員の救出」の為に補完銃撃して「救出の手助け」をしているのを観た。
そこで、又、「武田軍の本隊」も「一言坂銃撃の様な尋常じゃない威力の額田青木氏の銃隊」が救出後にも続けて「武田軍の残りの非戦闘員」を銃撃しなかった事」をも観た。
続けて「武田軍本隊」は、「攻め込む事」もをせずに、且つ、「掃討作戦の為の武田軍の掃討本隊」と同じ方向に向かう「救出後の青木貞治の隊員の戦線離脱の黙認放置・盤田見附の西光寺に向かう」をも“無条件で許した”と成る説である。
だから、幸いにも思わぬ事が乗した様に「両軍・武田と松平軍」に起こりながらも「青木貞治との約束」も「自らの行動の事」も円滑に成せたのである。
これが両方の時系列から追った史実である。
この中に挟まれて額田青木氏と駿河青木氏の生き残りの経緯が起こったのだ。

ここで注釈として、故に、「家康」から、後の「伊賀越えの協力の事・1」も、「伊勢の事お構いなしのお定め書も獲得出来た事・2」も、更には、「紀州藩の初代」には「家康」が最も信頼していた「水戸藩主だった「優秀な頼宜・遙任」を、態々、「初代紀州藩主・大正14年まで親交」に挿げ替えた事・3」も、その後の「勘定方指導」などの「絶対的な協力体制」を築いた事・4」も、上記したこの「4つの行政事」の、これ等全てはこれ等の“「詳細経緯」”から始まっていたのだ。
この“「1から4までの詳細経緯」”が無ければ、「青木氏の歴史観」としての「額田青木氏と駿河青木氏の正しい戦記」は成り立たないのだ。


さて、もう少し論を戻して
ところが、「上記の詳細経緯」では、「武田軍の本隊」が「三方ヶ原」に到着すると、既に「東側」に「松平軍」が何と“「鶴翼陣形・多勢系」”で陣取っていたのだ。
「松平軍の軍勢・織田軍は軍監目付の形式合力たけ」の「戦力」は、「武田軍の幌者の情報」で知り得ているし、要は「織田軍の援軍の数・実際には軍目付け・軍監だけ」に依るが、“「織田軍」も西で戦っていたので多くを出す事は出来ないだろう”と「武田軍の本隊」は読んでいたし、又、「弱体の足利幕府」と敵対して「織田軍の利害」や「西に引き付けられている現状」の「二つの現状」を考えた場合は、“"松平軍は間違いなく少ない”と「武田軍本隊側」では確率よく観ていた筈である。(資料により史実)
この事に就いては歴史観として配慮の一つとすると「史実」であって、「織田軍の軍目付・軍監の軍勢の偽情報」のこれは「三河東域と駿河西域を制圧しようとしている武田軍」を、これに対して「何とか策謀で動かそうとしていた織田軍側の裏策略」であった事が、全ゆる資料から判明している。
依って、「この事を前提にした戦略の読み込み」では、“「野戦では無い・籠城戦・長期戦」”と観ていた「武田軍の本隊」は、“この「陣形の急変」に驚いた事になった”と「時系列」はで成り立つのだ。
それは、そもそも「多勢が採る鶴翼の陣形」では無くて、「三方ヶ原」で「待ち受けている松平軍」は間違いなく「無勢が採る魚鱗の陣形」と観て“と執った行動であるからだ。
「堀江の解放・敗戦」を見定めた「松平軍」は、上記の「時系列の経緯」では、この時に“「三方ヶ原の野戦」を選んでいた、そして12/22日、早朝に「浜松城」を出た”と事に成る。
これは「武田軍の本隊」が、元より「別動隊を待つ計画」で、到着後に一斉に「浜松城攻め」で「北の三方ヶ原」に補給基地と本陣を構える予定であった事」が判るが、ところがそれが「齎された偵察の情報」では違っていたのだ。
更に、以下の時系列について詳細な経緯の検証を進めると、「額田青木氏」に付いてもある事がこの時系列で観えて来るものがある。
この「重要な時系列」は次の通りである。
「堀江城 12/21〜12/22」 朝に落城 
「浜松城 12/22」 朝出陣・三方ヶ原・2時間で到着
「松平軍・鶴翼の陣形」 12/22・10時・昼前に構え終了
「堀江城の結果・開城」 「12/22・早朝」に三方ヶ原で確認 
「武田軍本隊」 「三方ヶ原 12/22」 昼過・2時間で到着 
「武田軍別動隊」 「三方ヶ原 12/22」 15時に到着
「武田軍全軍」 「魚鱗の陣形 12/22」 16時前・「陣形」を整え完了
「武田全軍」と「松平軍」 12/22 16時 開戦・2時間・18時に完了

さて、そこでこの「時系列」から観えて来るものとして、「一言坂の本隊との遭遇戦」には「額田青木氏・国衆・銃隊」に執って興味深いものが、この「時系列の中に一つある」のでそれをここで論じて置く。
そこで、先ず、「武田軍の本隊」は南下して4隊に分けたとある。
「守備隊の信玄本隊」は、「諏訪」から「東三河」の「武節−長篠−遠江−岩村」と全ての支城を落として後に、“「東の二俣」に向かった”とある。
「他の3隊」の「秋山、馬場、山県隊」の夫々の隊は、「北三河」に続き「東三河」と「遠江の境」までの「出城の全て」を瞬く間に事如く落としたとある。
そこで、これで「右側の勢力の憂い」を排除したので、そうすると残るは「掛川や高天神等の駿河との境城」は
「戦略的に東西の秀郷流一族一門361氏と戦う事」に成るとして、これを時系列では後にした事に成っていて、先ず「浜松城に狙いを定めた事」に成る。
その為にだから「武田軍の4隊」が、別々に「北の二俣城」に向かおうとしていたのだ。
この時、この「4つの動き」に対する為に、「家康」は「不得意な一言坂の無理な野戦」に出て防ごうとした。
然し、その結果は完璧に悲惨な敗退を期し「浜松城」に「家臣の身代わり」もあって命からがら逃げ帰ったとある。
この時に、「劣勢の状況」を脱する為に「東三河の吉田城」から「家臣の守備兵」では無く、「国衆」の「額田青木氏・国衆の銃隊」を呼び寄せたとし、「41k東の浜松城」に向けて先ず「昼夜の徒士10時間半の道則」で到着させた事に成っている。
ここで、では、“何で、呼び出しに応じたのか”の疑問が残る。
そもそも“「軍議で命令を拒否する」”のであれば、その前の“「吉田城呼び出しの時」”に拒否しても同じである筈だ。
然し、この「呼び出し」に応じたのだ。
これには何かの配慮が「額田青木氏側」にあったとしか思えないのだ。
それが、“「額田青木氏の救出」”に有ったと観ているのだ。
この時、「三方ヶ原の戦況不利」は「青木氏の情報管理をしている伊賀青木氏」から「秀郷流一族一門、又は貞治本人」を通じて伝えられていた」と観ていて、「国衆の立場・契約条件があった」である限りはこの「救出の大義の機会」を伺っていたのだ。
それは何かであるが゛、これは「軍議の内容の歴史観」でハッキリとしているのだ。
丁度、この時、「武田軍の本隊」が「北の二俣城」から南に向かって「海寄り」の「東の一言坂入り口」に到着した処であった事に「時系列」では成る。
この時、「額田青木氏の銃隊」は、「上段と上記の軍議」で「命令」を拒否した為に「城外」に放り出されていた。
そして、その後に、「武田軍の動向」が城から見えているにも関わらず「意味の無い作戦」として何と「一言坂偵察」を命じられたのだ。
“「軍議拒否」”で、“全滅するだろうと見込まれる命令”を敢えて出したのだ。
ところが、ここで、当然に「額田青木氏・国衆の銃隊」と「武田軍の本隊との遭遇戦」が「史実の通り」に起こった。
初めて「額田青木氏の戦闘」としての「近代銃の火蓋を切った事」に成ったのだ。
この「遭遇戦」は、前段で論じた通りで「武田軍」とは「2度目」である。
一度目の「第一次吉田城の銃撃の脅威」を知っていた「武田軍の本隊・銃に圧倒されて持久戦と成る」はその後引き上げる結果と成ったが、この「額田青木氏の350の銃隊」に対して、「坂途中3000」と「背後に廻った西坂下3000」に追随した形で「坂下に100銃隊」を配置して迎え撃とうとした。
然し、何と「武田軍の本隊」は、「額田青木氏の一度目の銃撃の凄さの撃音」を聞いてだけで、あり得ない事に戦わずしてこの「射程距離外・約1k」にまで後ろ向きでずるずると逃れ後退したのだ。
“余りの凄さに「坂の武田軍本隊」は、「完全無抵抗」で「坂道」を譲った”と云う「戦記の戦歴」であったとある。
そして、そこで「額田青木氏の銃隊」は、敢えて「威力の銃撃」を停止して、「西の坂下」を牽制しながらも、先に通り越して降りて、“「浜松城の北東の小山裾の位置」で先に待った”とある。
この“「待ったと云う事」”に意味がある。
一言坂で銃撃戦を続けなかった事なのに、何で“「待ったと云う事」”に成ったと云う事なのかである。
それは、“「武田軍の本隊の通過」”か、“「浜松城攻め」かの見極めをする事”のこの「二つ」にあって、これを“待った”として、「読み込み」では、“「見極めるとする事」”で観えて来る事なのだ。
要するに目的以外の事はしないとしていたのだ。その「目的」とは世事情を出るとはの初期の目的達成であった「駿河青木氏の救出」に有ったのだから余計な戦いはしなかったと云う事であって、従って、敵は武田軍では無かったと云う事なのだ。だとすれば時系列は全て符号一致するのだ。
取り敢えず、「意味の無い偵察命令」は、兎も角も終わらせ、「額田青木氏の銃隊のする事」はこの段階では最早後唯一つであった。
「軍議命令を拒否」の為に「城外」に放り出された以上は、その後の「行動の決定」は「額田青木氏の銃隊」にあって、そこで「採るべき行動」は、それはこの時は未だ唯二つ遺されていたのであった。
「武田軍の本隊」に対しても、「松平軍」に対しても、先ず一つは、“安全にしてどの様にして「伊川津」に戻るか”であった。
然し、もう一つはその前に先ずは「駿河青木貞治隊の救出」があったのだ。
この段階では敵・松平軍」と見做されていただろう「武田軍本隊」の前を、急いで逃げる事は背後を襲われ危険が未だあったのである。
だから、そこで「武田軍の背後を追尾する事」にしたのだ。
それは、“いざ襲われる”と成ると、「銃弾」を浴びせられる「北東の位置」とすれば、精々100m〜300mの小高い丘の上と成る。
これが「史実記載の通り」であり符号一致する。
これは「武田軍の浜松城の武田軍本隊の通過路」に関わる事だ。
これが検証できれば、「潜んでいた位置」が確定でき、「その後の動き」も確定できる。
「戦記」では、「小沢の位置」とされているが、この「小沢の位置」とは何処かであり、史実と一致させられるかである。
先ず、「大軍」である限り「細い道」は周囲から狙撃されて通れない。
当然に「大軍」である限りは「近道と云う考え方」は間違いで「大道路」と成る。
「二俣城」より真直ぐに南下して「一言坂」を東から西に向けて通過したと成ると、「大道路」としては、「現在のR45号」と成るが、これでは「一言坂」は通らない。
そうすると、「天竜川の東横」の「現R44号・真南・18k」を通り南下して、「一言坂」に東から到達し、これより「真東1.5kの位置」から西に直角に「旧道・県道現413号」に入り、そこから「天竜川」を渡り、その「5.5kの位置」から、その後、「旧道・現312号」を更に「西に向かう事」で旧道を通過する事が出来る事に成る。
「武田軍の本隊」は、この「一言坂・坂下・12分・1kの位置」から「旧道・312号」を通り「旧道・152号・2時間半・12k」に繋ぎ、西の「浜松城」の「真南400mの所」を「城」を基点に円を描く様に半円で廻り、そこから「旧道・257号・1時間・5k」を北進した事と物理的に成る。
又は、「城の北に廻る道路」の“「六間道路・1.5k」”を大通りを通り、“「館山街道」”に出る事もあり得るが、元はこの「道幅」が記録に依れば「4間程度・6m」で狭かったとあるので先ずあり得ない。
「戦記通り」に「城の南に廻る道路」を通ったとすると、「城より北進約5.0k・1時間」を進んだところで、今度は「堀江」に向かう為に「直角」に「西」に「館山街道」を「旧道・320号・2時間半・11k」で「真西」に向かい最終は「堀江城」に到着したと考えられる。間違いはなないだろう。
「戦略上の観点」から、これが「武田軍本隊」が「通過できた唯一の経路」であろ事である。
従って、この「武田軍の本隊」が、この「ルート」で“堀江城に向かっている事”を知った「額田青木氏の300の銃隊と荷駄50」は、此処の事からこの「堀江城」は作戦上は直ぐに落ちる事を間違いなく充分に察知していた筈だ。
そこで、「額田青木氏の銃隊」は、「武田軍の本隊」が「松城城通過」を知って確認した上で、「館山街道の交差点」を西に向かった事に成ったが、ここが「伊川津に戻る選択点」でもあったのだ。
然し、ところがここで「情報」が救出しなければならない「駿河青木氏の青木貞治」から「重大な情報」がこの分岐点の処で入ったのだ。
この時系列で「吉田城」から「浜松城」に向かった理由が、「駿河青木貞治隊の救出であった事」がこの「時系列の検証」で証明しているのだ。
この時、初めて「決戦の戦場」が、「武田軍の補給基地として観られていた三方ヶ原」と知って、「駿河青木氏を救い出す為」に「時系列」として「堀江に向かう武田軍の交尾」を背後に観て走った事に成るのだ。
然し、「4時間半」で「三方ヶ原」に到着した時には、既に「連合軍と観られる家康・実際に連合軍に見せかけていた」は、「三方ヶ原」に既に到着し、「上記の鶴翼の陣形」を何と西に向かって敷いていた時であったのだ。
ここで「重要な問題」があって「救出目的」の「額田青木氏の銃隊」に発生したのだ。
それは通常であれば、遅れて後から入れば、この「陣形」からすると「定着位置」として「着く所」は、「鶴翼の頭部分に位置する事」にしか無く成るが、既に陣形が出来ていた事から、この事では此れはそもそも「作戦に参加する事」に成り好ましく成る。
それは「救出の作戦」は不可能と成り得てそもそも採れないのだ。
そこで、これは「軍議でそもそも断った命令」でもあった。
それは、「鶴翼左の最西端に位置する事/武田軍の最先端に近づく位置」の以外には「松平軍の無い所」は無いのだ。
゜時系列の検証」から、元より「三方ヶ原に戻った理由」は、「駿河青木氏の青木貞治隊を救う事」にあったのであるから、「駿河青木氏の青木貞治隊」の「執るべき救出の位置」は、何と最も危険な「伊川津国衆連}が配置されている「左鶴翼の先端の先」に位置するしか無く成っていたのだ。
要するに、「額田青木氏が戦場に着いた時の位置」から、「救出の為に銃撃補完する」としても何と「最も難しい位置」の「斜め左最端西」にいた事に成るのだ。
何故ならば、前進を阻む為に「武田軍本隊の先頭」に向けて銃撃するとしても、その「銃口」は「駿河青木氏の青木貞治隊」の「前進している左端」を掠めなくてはならない事に成る。
且つ、その「弾丸」が「味方の額田青木氏の銃隊の斜め横」を斜め西に家て通過する事に成るのだ。
この事は、「弾の補給」や「補助隊員・50人」の「補完行動の効率」の悪い「制限された身動きが取れない構えの陣形」に成る事は必定であった。
そこで、「額田青木氏の銃隊の指揮官と副官の貞重と貞秀」は、戦後に「伊勢に遺された記録」では、この時に「その一案を案じた」とされているのだ。
それが、“一斉に「武田軍本隊」に目がけて前進を阻む為に、先ずは「弾幕」を張る。
そして、その「爆煙」に依って「前方」を隠す。
次にその「隙間」に応じて、ここで「救助に当たる者・補助隊員・50人」が繰り出される。
そこで「駿河青木氏の青木貞治隊」を「銃隊の方に導く」と云う事をする。
この「作戦」を建てたとされている
そして、それを「伊賀青木氏」が、“「館山街道の見附」”から走って伝えたとしている。
これ等の事を「駿河青木氏の青木貞治隊」に事前に最終伝えたとされるのだ。
さて、ここで「休憩」を執っていた“「館山街道の見附”の横」から「この情報を持った伊賀青木氏の忍者」を「三方ヶ原」に着いた頃の「駿河青木氏の青木貞治隊」に走らせたとある。
その後は、「盤田見附の菩提寺の西光寺」に向けて走り逃げ込む事にした。とある。
一方では、「額田青木氏の銃隊」だけは、「武田軍の本隊の直ぐ側面」」を「銃を構えて走り抜け」て、上記の通りに「西の二俣路に成る“「六間道路・1.5k」”を通り、その“「館山街道の見附”の交差点」を「伊川津」に向けて「怪我人を乗せた荷駄車」と共に懸命に走ったと概ねで記載されている。
ここで、「特記する事」は、特別な事がおこっているのだ。
「武田軍勝利後」に編成された「武田軍本隊の追討軍」は、予想外に何故か次の“「二つの事」”をしなかった事が記載されているのである。
それは先ず「一つ」は、追討していながらも「盤田見附の菩提寺の西光寺」に逃げ込んだ「駿河青木氏の青木貞治隊」を寺から追討せずに黙認して本隊に戻って行った事である。
「二つ」は、本隊の横を悠然と通過して行く「額田青木氏の銃隊」を攻めず追討もしなかった事である。
結論から筆者は、「額田青木氏の銃隊の指揮官・貞重と貞秀」が「武田軍本隊」に対して「感情的」には、“全く敵意が無いと観て執っていた事”と、「戦術的」には、“「経験した銃隊の脅威を避けた事」の、この「二つ」が共通して「指揮官の青木貞重と貞秀」や「指揮官の青木貞治」には「敵意」を全く感じ無かったと観ていたのではないか。
だからこの「救出作戦」は計画通りに成功したのだと考える。
それは「額田青木氏の銃隊」にしても、「駿河青木氏の青木貞治隊」にしても、要するに「三河国衆で無かったと云う事」に尽きる。
「額田青木氏の銃隊」は「伊川津・渥美湾」を下に「伊勢との繋がり」の中で「殖産を築こうとしていた事」と、「駿河青木氏の青木貞治隊」にしては、「国衆の立場」から「伊勢」と共に「殖産」を商い、それを元にして「松平氏の近習・家人近習衆」に食い込んで「駿河水軍の殖産を高める事」にあったのだ。
共にこれは「大成功」を治め、「殖産をする企業家の青木氏」と成り得たのだ。
この結果として、「伊勢水軍と駿河水軍」とを通じて、「三つ目の目的」の「伊豆の安定化とパイプラインの再構築」が成されたのである。


さて、「三河戦記」での「時系列」をもう一度追って観ると、他に「青木氏の歴史観」に執って観えてくるものが有るので「読み込みの検証」をした。

これが12/22日 「三方ヶ原」に向けて「早朝」に出発したとある。
さて、ここで、まず「問題 1」に成るのが、「松平軍」が「夜明け」と共に発進し「三方ヶ原」に向かって「到着した時刻・12/22日 朝10時半頃」と時系列では成って来る。
そして「武田軍の本隊」が、「浜松城」を通過した時刻・12/21日 17時半頃」である。
ここにはある「疑問を持つ時間差」であるが、それは、何と“「17時間半差」”である。
とすると、「額田青木氏・国衆・銃隊」が、この間、“「三方ヶ原」には未だ走っていない事”に成る。
つまり、「12/21日 17時半頃〜12/22 10時半頃」は、「松平軍」は、この問題の“「17時間半差」を何を三方ヶ原でしていたのか”である。
そもそも、“「三方ヶ原まで徒士で2時間半」で到着する”のである。
従って、計算では、“「朝8時頃初期の発進」”であるが、ところがこれを「戦記」では、“「夜明け」”としているので変である。
この「冬の1月25日」の“「夜明け」”では、速くても日本列島の「東の三河」では、“「朝6時頃発進」”と成るだろう。
とすると、“「戦記の夜明け」の「朝6時頃」”と、“「計算」での「朝8時発進」”との間には“「約2時間差」”がある。
つまり、「朝6時頃発進」〜「朝8時発進」に、随時、「松平軍」は「浜松城」を発進して行った事に成る。
この「2時間のギャップ」は当然の事として起こるので、ここの部分の「戦記の記載」は正しいだろう。
要するに、「松平軍」は、この「発進」の「朝6時頃発進の頃」の直前まで先ず延々として“「夜明けの朝まで城で軍議であった事」”に成る。
然し、この「記録」では、この時、既にその「3日前」に「軍目付・軍監の3人」は、“「美濃尾張に向かって帰参中」”と成る。
この間に、「武田軍の本隊」は、「堀江城」に到着次第、直ぐに急ぎ攻め掛かった頃に成る。
「松平軍」の方は、「三方ヶ原」に最短で到着次第にして、「時間の掛かる鶴翼の陣形」と決めていたので「組み終わる頃」であった事に成る。
つまり、「当時の陣形が組み終えるまで・戦記の記録を参考」にすると、“「最長では12/22 13時〜14時頃」”には、既に、“「戦う態勢を整え終わっている事」”に成る。
つまり、だとすると、「開戦・16時としている」までの「約2時間程度の相当長い時間」をそもそも“何をしていたのか”と云う「基本的な疑問」が湧く。
つまり、そうするとこの「寒い冬の三方ヶ原」で「武田軍本隊の到着」するまでの間」は、「松平軍」は「真冬の原で何もせずに“2時間程度”も待っていた事」に成るのだ。

つまりは、最短で「12/22 “10時半頃”」には、到着し、何と夕方の「12/22 “16時頃”」には「三方ヶ原」で開戦しているのだ。
一方、「武田軍の本隊の先頭」は、この“「12時頃」”に「落とした堀江城」を発進し、“「約4時間半」”を架けて走って、「魚鱗の陣形・赤兜の騎馬隊6000」を前に整えながら、「三方ヶ原」に到着している事に成る。
何せ何れも“4時間走ると云う疲労は大きかった”と考えられる。
「松平軍は冬の三方ヶ原で待つ疲労感・2時間」と、「武田軍は三方ヶ原まで走る疲労感・4時間」である。
「堀江の落城」は「囲み三攻め」であるので余り労苦は使っていないとしているので計算外と観る。
「三方ヶ原」に着いてから、“少ししてから開戦”と成ったとしているが、この時、上記した「駿河青木氏の青木貞治隊」を救出する為の「額田青木氏の銃隊の煙幕」で、「武団本隊の進軍阻止のタイムラグ」が発生している。
然し、この“「進軍阻止のタイムラグ」をどの程度と観るか”である。
つまり、これは要するに「救出時間」であり、この間に「武田軍本隊と山県軍の別動隊」は進軍を「待つ事」に成り、時間的には「疲労解除の有利な時間差」と成る。
これをどの程度と観るかであって、それには「弾幕」は固定できるが、その「弾煙の消えるまでの時間」には幅が生まれる。
それの「消えるまでの時間幅が働いていた事」に成るので、少なくとも実質は連続射撃であったとしても“1時間以上とはならない”であろう。
「1時間以上」では、「日暮の時間や寒さの疲労等」が生まれて両者に執って好ましくない筈で、この“「無理攻め」が起こる事”に成り兼ねないが、それを匂わす記載は無い。
従って、実質は、“精々0.5hで救出しなければならなかった事”に成る。
“両者に0.5h相当のアイドリングが生まれていた”が、これは当に“疲労の大きい武田軍本隊に有利に働いた”と観られるのだ。
故に、敢えて「勝負に関係のない救出劇」は“都合が良かった”し、「山県軍の別動隊の行動・判断力」に余裕が出来ていた事に成る。
「不利な状態の武田軍本隊」」を「救うタイミング」が執れ、且つ、だからその「判断の結果」は「少ない兵力・2000」で「松平軍の側面・5000」を突撃で突くと云う事が出来たのだ。
この計算からすると、「武田軍本隊の疲労感」は実に大きかった事に成る。
とすると、“「山県軍の別動隊」は、この本隊の疲労感を気にしていた事に成る。
この間どうしていたのか”と云う疑問の検証が全段でも論じた通りで、もう一度ここで必要だ。
それは、「北東の二俣城・13.5h〜14.5h」から発進し、やや遅れて「武田軍の本隊の到着・16時頃」より「約0.5〜1.0h程・16.5時〜17時頃遅れ」の所で、「約3h〜3.5h」を駆けて「三方ヶ原の真北の山際」に到着している事に成る。
この「山県軍の別動隊・5000/2000兵」も行軍に依っても疲労している。
そこで「武田軍の本隊の開戦準備体制」に入ってている事を観て、「最大1h遅れの山県軍の別動隊・補給拠点構築隊」は、この「本隊の危険」を察知した事に成る。
そこで、突然に「北の山際道」から「隊が整うか整わないか間隔」で、“「命令外・使命外の行動」に出て突撃した事」”に成る。
故に、この「時系列の読み込み」では、「本隊を助けた事・本隊が整うまでの時間稼ぎの行動」と読み取れるのだ。
そして、更にこの「戦況」は、「山県軍の別動隊」が「鶴翼の横腹を突く事・弱点」で偶然にも圧倒的な勝利に終わり前段で論じた通りと成ったのだ。
その意味で、その後の「浜松城の攻め落としを成さ無かった使命ミス」は、兎も角も「主戦闘隊」ではない「山県軍の別動隊」は、額田青木氏の銃撃で約半数を無くす程の大きな犠牲」を払ってでも「本隊」を辛うじて助けた事と成るだろう。
「武田軍本隊の戦場での陣形」を「充分に整える時間稼ぎ」が「駿河青木氏救出の弾幕・煙幕のタイムラグ」と共に、ここに「本格開戦までの1h弱程度のタイムラグ」が「流れの中」で有利に自然発生的に生まれたのだ。
「以上の説の通り」のこの「武田軍の行動」を察知して、「松平軍が積極的に行動を執ったとするの説・後付け策」では無く、「上記の時系列の詳細経緯」では、「松平軍が先に2時間前に三方ヶ原に向かった事の説」に成るのだ。
そうでないと「時系列」は符号一致しないのだ。
ある意味で、今後の「重要と成った戦記」にある様に、「浜松城の攻め落としのミス」をした「山県軍の行動」に対してさえも、「これらの事/符号一の時系列論」を以て「武田氏の戦後の軍議で許された経緯・正しい臨機応変策」が記されているのだ。
要するに、「事の戦略論」としては“何れの戦いにもこの「重要な基本と成る流れ」を見誤らない行動策”の事となろう。
これはこの現代に於いてでも成り立つ策謀である。
「今後の武田軍の見本と成る戦い」として扱われた可能性があるのだ。
然し、前段でも論じた様に「信玄死亡後の長篠の戦い」では全く行かされなかったのだし、寧ろその逆であったのだ。
「浜松城の攻め落としのミス」の「甲斐のセンセーション」から観ても、「三つの三河戦記の後付け説・好感引導説」であると観ている。
然し、それが「後の長篠での武田軍を滅ぼすミス」と成って仕舞ったのだ。
この時に、「勝頼」が反省していれば「長篠戦いの戦略的ミス」、つまり、「二拠点化で採った山県軍の別動隊の行動」、即ち、「本陣を崩されない為にも二極点化策の無視」は無かっただろう。
然し、この「山県軍の別動隊の半数を無くす程の大きな犠牲」は、「額田青木氏の銃隊」の「駿河青木氏の青木貞治隊救出」の為に採った仕方の無い影響だけであったのだ。
これ等は「現在の現実処理」に於いても学ぶべき「青木氏の歴史観」として、これらの関係する事柄を後の為にも正しく刻んで置かなければならないこれは「大事な史実」であるのだ。
此の世の事は、直前の「事の勝敗、事の成否、事のリード」の「直前の状況」に拘わらず、“「事の流れを如何に早く正しく見抜いた者”が時間が経った「最後の真の勝利」を獲得するのだ。
それには「人間」である限りは、その基点は「冷静に成る事を鍛える事」にあるのだ。
それを獲得した者が「上記した流れを掴む事」が出来るのだ。
これは「青木氏が求める古代密教浄土宗白旗派」の「仏教の密教経典般若心教の教える処」でもあろう。
それが「青木氏の氏是」を正しく理解する処にあるとしている。
そうでなければ幾ら「青木氏の氏是」を護れとしても決して護れるものでは無い。

「青木氏の歴史観論」より



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