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  [No.109] 青木氏の綜紋 笹竜胆紋
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/20(Tue) 18:49:25
青木氏の綜紋 笹竜胆紋 (画像サイズ: 2160×2061 37kB)

青木氏の綜紋は「笹竜胆紋」である。

(笹竜胆紋の写真添付)

この「竜胆文様」には47の文様がある。
この内、「笹竜胆紋」は、家紋200選に菊紋の次ぎにトップに上げられている文様である。

その中でも、「笹竜胆紋」は天智天皇から発祥し、光仁天皇までの5家5流の皇族賜姓青木氏と、同族の嵯峨天皇期から発祥し、花山天皇までの11家11流の源氏一族の「綜紋」でもある。
(後日の説では源氏16代と成っているが、12代から16代目では源氏としての意味は全く無く、15代と16代は南北朝の時代の者である。後日の徳川氏を始めとして大名に成った者の系譜搾取偏纂の結果であり、実質11代目までである。)

この皇族賜姓青木氏と、皇族賜姓源氏の二つは、次の経緯(概要)で発祥している。

(これ等の以下の記述内容に付いての詳細は、家紋掲示板と研究室の右メニューから適切なものを選んで参照)


[賜姓青木氏と賜姓源氏の発祥経緯]

先ず、「皇族賜姓青木氏」は、天智天皇より光仁天皇までの男性天皇(間に女性天皇あり)の5人の天皇から出ている。
各天皇の「第6位皇子」を、天皇の「親衛隊」として臣下(侍)させて、天皇より直接「青木氏」の賜姓を授けたものである。

この5人の天皇は、「天智天皇」、「天武天皇」、「聖武天皇」、「文武天皇」、「光仁天皇」(施基皇子の子)である。

「賜姓と臣下の理由と目的」は、概ね次の通りである。
「大化改新」が起こり、「蘇我氏との反省」と「財政的改革」から、「天智天皇」(中大兄皇子)は、手始めに天皇の「皇位継承制度の変更」を実施し、それまでの「第4世皇位第6世臣下」の「世」方式から、「第4位皇位継承第6位臣下方式」の「位」方式に厳しく変更した。
そして、天皇家の「財政的軽減」を図った。
この時、更に、66国に配置する「王位」に付いても、それまでの第6世(第7世は臣下 坂東に配置)までとしていたところを、第4世までとして厳しくして天皇家の負担軽減も図った。
これが第1の目的であった。

その理由として、天智、天武の両天皇の皇子は、総勢34人と、その他の皇子や上位王位を入れると、約50人以上にもなっていた。
これ等に掛かる費用は、天皇家の財政的な大負担の状況であって、これが天皇家を弱くしていた原因であった事と、施政に対する財源の捻出がままならず、「大化改新」の改革のネックと成っていた。
つまり、天皇家の「内蔵」の財政が、朝廷の「大蔵」の財政を圧迫していたのである

又、更には、天皇を護る自らの護衛隊が無く無防備であった事が、蘇我氏の助長を招き、渡来人の軍事集団の漢氏(又は東漢氏)を支配されていた事などで天皇家が圧迫を受け、思いのままにされていた事。この反省により皇子を臣下させる方策(天皇の親衛隊)に出た。
これが第2の目的であった。

当時、後漢の民である帰化人が持ち込んだ技能集団(即ち、第一次産業の「部制度」)による経済的収入源は、朝廷の財源(大蔵)を大きく占めていた。これが蘇我氏の管理下に置かれていて、経済の実権(政治、軍事含む)を完全に握られていた事。これを「公地公民の制」を敷く事で天皇家に実権を集めて解決し、これを上位の王位等の守護王に監視させた。
これが第3の目的であった。


[初代青木氏の発祥]に付いて
それまで「伊勢王」であった「孝徳天皇」の皇子(2人の兄弟皇子は同日病死)から変えて、「第6位皇子」として、「中大兄皇子(天智天皇)」の皇子の「施基皇子」を臣下させて、伊勢国の王位を与えて護らせた。
そして、この王位には賜姓として青木氏を与え、そのステイタスとして「鞍作部止利」作(日本最初の仏師)の「大日如来坐像」(大日像)の仏像を与えた。
(現在も青木氏宗家が保有 仏像は家紋掲示板に転写)

(参考 その際、特別に第7位皇子(川島皇子)にも、近江の佐々木村の地名を採り賜姓し、近江の「佐々木氏」を与えた。 後に宇多天皇の滋賀の佐々木氏も発祥)

「天智天皇」は、ここに天皇家の守護神として「伊勢神宮」を置き定めて、祭祀を行ってここを伊勢国の天領地とした。
(その後、天武天皇が正式に守護神と定めてた)
そして、「賜姓青木氏」を伊勢神宮(守護神)を護る伊勢の国の「守護王」としたのである。これが(藤原秀郷流青木氏を含む全ての青木氏)最初の伊勢の青木氏である。

(参考 藤原鎌足から北家8代目の秀郷は、「平の将門の乱」で勲功を挙げて、貴族の身分と下野武蔵の国を与えられたが、貴族となった事により、自ら武力を使えない定めから、天皇家の青木氏に習って第3子の「千国」を侍として藤原一族の専門の護衛役の任を与えた。(藤原秀郷流青木氏116氏に広がる)
賜姓青木氏も母方に藤原氏の血筋を保持する家柄である事から、この時(900年頃)に、朝廷に対して禁令(嵯峨期禁令ー明治初期)のある青木氏を使用する事を申請して同族と見なされて許可された。これが藤原秀郷流青木氏である。(藤原秀郷主要5氏の一つ)

「守護王の配置の経緯と理由」は概ね次の通りである。
当時、隋が滅亡し、唐(618)が建国して中国全土を制圧したが、この時、後漢の「光武帝」より21代の末帝の「献帝」の孫の「阿智使王」と曾孫の「阿多倍王」(「石秋王」の子供と孫)等は、後漢の17の県民(200万)を引き連れて北九州に上陸した。
この阿多倍らは、瞬く間に九州全土を制圧し、殆ど無戦の状態で支配下に治め、その後、争いを避けて朝廷に対して帰化を申請した。
この後漢の民は、あらゆる面に於いて高度で進んだ技能集団で編成され居た。このために土地の者は、その進んだ技能(部技能制度)を吸収して生活程度を向上させた事から各地で進んで支配下に入ったのである。そして、遂には、中国地方から関西の手前まで支配下になった。

当時の国は66国であり、この内の32国を支配下に治めたのである。このため、朝廷は後漢の民(渡来人)の帰化を認めて、更に、続々と入国してくる帰化難民を中部地方にも配置させたのである。

天智、天武天皇より後に、都として定めた近江国を除き、美濃と信濃と甲斐国は、未だ未開の土地であったが、この結果、進んだ技能により未開の地は、主に大きい外来馬の飼育等の目的で開墾が進み、大和国の主要国と成りつつあった。

これ等の理由により、聖武天皇以降の天皇は、上記の賜姓青木氏による守護王を配置して、北部の未征圧の国の民族から彼等を護ったのである。

又、この5つ国は、更に、「国防、交通、穀倉」の地帯の要衝地でもあり、5人の天皇は「第6位皇子」に賜姓して青木氏を与えて、これを護る「守護王」としても配置したのが「5家5流の青木氏」の経緯である。
(後に賜姓源氏もこの5つの主要地の国司となる。)

この初代伊勢の国に続き、近江国、美濃国、信濃国、甲斐国に国府を置き、上位(八色の姓制 朝臣)の「守護王」として配置し、その5つ国に国司を派遣したのである。
これ等の国の賜姓青木氏は、後に5家5流は24氏と末裔を広げた。


「笹竜胆紋を持つ2つの賜姓族(青木氏と源氏)」の経緯は次の通りである。
この「光仁天皇」の次に一人空けた「桓武天皇」は、律令国家の完成を目指して国体を作り上げた天皇であるが、この時、政治に対する影響力を持っていた賜姓青木氏との軋轢が起こり、5国の国司などを変更し派遣して、この青木氏に圧力を掛けて勢力を弱めさせた。
この結果、伊勢の青木氏をはじめとする賜姓青木氏は衰退した。
(伊勢国は、国司を2年間藤原秀郷の祖父の藤原藤成に変更し派遣して、守護王の青木氏に圧力を掛けた)

(この後、伊勢青木氏を始めとして、その守護王の力と実務の実績を利用して、土地の産物などをさばく豪商となり、「2足の草鞋策」を採った。
伊勢の青木氏は、伊勢北部伊賀地方付近から産出する和紙を扱い、和紙を中心とする問屋を営み、明治35年まで1000年も続く伊勢の豪商「紙問屋の紙屋長兵衛」として栄えた。長兵衛は信長の伊勢攻め(3乱)で伊勢シンジケートを使ってゲリラ戦を展開した。小説「名張の小太郎」など有名)

「第6位皇子」の「賜姓青木氏」を中止して、これに変えて、「桓武天皇」は、自分の母(後漢の渡来人で、名は「高野新笠」 阿多倍の曾孫 伊勢国を分轄しての伊賀地方の半国国司 800年頃)の親族一族を引き立てて、「たいら族」(京平氏)として日本の氏を与えて賜姓したのである。

(半国司とは、天領地などと成っている一国を、「守護王」を一人として、分轄して「国司」を置いて複数で管理させた方式を言う。 伊勢、薩摩などがある。この二つは何れもが、後漢の帰化人の阿多倍に与えた国である。伊勢は伊勢北部伊賀地方を分割し”伊勢衆”と呼び、薩摩は大隈を分割し”大隈の首魁”として呼んだのである。
別に後には、伊勢は永嶋地方を分轄して3分轄として村上天皇の流を組む北畠氏を半国司として任した。)


「伊勢の北部伊賀地方の住民の阿多倍一族と青木氏の関わり」に付いての経緯は次の通りである。
後漢の首魁の「阿多倍」(薩摩半国の大隈国の首魁)は、これらの勲功により、都近くの伊勢の国にも半国を与え、更に、この後、「敏達天皇」の曾孫の「芽淳王」の娘を娶り3人の男子をもうけて、准大臣に任じられた。
三人の息子の長男は、坂上氏の賜姓を受け朝廷の軍事面に任じせれ、坂上田村麻呂として征夷代将軍として北部民族を征圧する。(青木氏は天皇家の親衛隊として勤める)
次男は、朝廷の3蔵の内の大蔵を担当し、大蔵氏(後に永嶋氏を名乗る)の賜姓を受ける。
三男は、内蔵を担当し、内蔵氏の賜姓を受ける。
(斎蔵は藤原氏)
その後、政治部門でも律令制度の完成に貢献し、軍事、経済、政治の3権を実務に握る結果となり、それまで青木氏を中心とする皇親政治は彼等に取って代わられる事となった。
この帰化人の阿多倍等の台頭が、先ず最初に訪れた5家5流の青木氏の衰退の苦難でもあった。

上記の後漢の阿多倍の子孫の「国香、貞盛」の親子より始まった勢力拡大は、勲功を重ねて、5代後(惟盛、正盛、忠盛、清盛)には「平の清盛」の「太政大臣」までに上り詰める結果となるのである。
しかし、「承久、保元平、治の乱」を経て、「源頼政」(孫の京綱による伊勢青木氏の跡目を受けた)の「以仁王の乱」(1180)をきっかけに「源平合戦」が起こり、「坂東八平氏」等(ひら族)の後押しで「平清盛一族」(たいら族)を倒して、取り戻し、再び、「皇族賜姓青木氏」と同族の「賜姓源氏」の時代となり鎌倉幕府(1192)が樹立したのである。

この時、源頼朝は北条氏らの反対を押し切って「平氏没官僚策」や2度の「本領安堵策」を実施して、賜姓青木氏や賜姓源氏らの一族の復興を計ったことで、これらの皇族賜姓族は、再び、勢力を盛り返した。(これが原因で頼朝暗殺計画は進む)

以上がこの間400年に起こった青木氏との概ねの経緯である。
(京平氏のたいら族は、坂東に配置された皇族第7世族の「ひら族」(坂東八平氏)とは異なる)

話は戻して。
この後、この「桓武天皇」の施政に対する賛成派の次の「平城天皇」(桓武天皇の長男)が、病気で短期間で譲位し、次に天皇となった「桓武天皇」の子供(弟)の「嵯峨天皇」は、これを嫌って「賜姓青木氏」より「賜姓源氏」として変名して皇族賜姓に戻したのである。


「皇族賜姓の経緯と綜紋」に付いて
この時、第4位皇子の皇位継承方式では、対象者がこの時代では不足し、天皇の皇位を保てなくなる事態の問題が発生し、嵯峨天皇期に詔を発して、「第4世皇位第6世臣下方式」に改め、第4世までの間の皇子の内、臣下の賜姓は、第6位皇子としたのである。これが源氏一族である。
これが11代の天皇に続いた11家11流(嵯峨天皇から花山天皇)の源氏一族である。

そして、「青木氏」は、第4世までの皇族の者が、臣下又は下族したときに名乗る氏名とした。
11代の天皇の中で17人の対象者が居たが、青木氏として氏名を遺したのは3氏に留まった。
3氏とは、島左大臣(真人族)の青木氏と、丹治党の青木氏(朝臣族)と、橘諸兄(宿禰族)の青木氏である。

天智天皇の伊勢青木氏から賜姓源氏まで合わせて16代の天皇から出て16家16流となる。

これ等は全て同族で、その綜紋は「笹竜胆」紋である。

5家5流の皇族賜姓青木氏は、後に、清和源氏との同族の血縁を結び、より一体化した。(1170-1185)
(当時の慣習で同等身分の血縁が主流であり、純血を保つ為に同族血族結婚が主流)

その中でも、初代の伊勢青木氏は、清和源氏の「源満仲」の嫡子の宗家「源頼光」より4代目の「源三位頼政」(以仁王の乱の首謀者)の孫の「源京綱(仲綱の三男)」が、宗家「伊勢青木氏」の跡目に入る。
以後(1150年頃)、伊勢青木氏を含む賜姓青木氏は同族の源氏一族と一体化する。


「笹竜胆紋の家紋」の経緯に付いて
文様の竜胆紋の内、「笹竜胆」の文様は12文様がある。
本来、賜姓青木、賜姓源氏の笹竜胆紋は、副紋、陰影紋、丸付き紋等は皇族系として使用していない。

室町期以降の乱世からこれ等の文様が用いられて12文様までに成った。
特に、家紋200選にも入る「丸に笹竜胆紋」は、源氏一族と名乗る者等がこの文様を多く使い増えた。

笹竜胆紋を使える一門としては、5家5流の賜姓青木氏と11家11流の賜姓源氏が使用できるものと成る。
特に、賜姓源氏は清和源氏の一族の頼信系一門が栄えて子孫を多く遺したが、後に、「京平氏」に圧迫されて子孫は衰退し殆ど抹殺された。
(11家11流の内、子孫を遺し得る者としては全17人となるが。結果的に清和、宇多、村上天皇の3天皇が子孫を遺した。その他は門跡院や比叡山僧侶となって子孫を遺す事は出来なかった。)

従って、史実から残存するこの直系5氏とは、賜姓青木氏、近江佐々木氏(天智天武)、滋賀佐々木氏(宇多)、伊豆大島氏(頼信系為朝)、伊勢北畠氏(村上)、摂津太田氏(頼光系頼政?)である。
ただし、北畠氏は、伊勢を始めとして、4代で勢力を高めての織田信長に潰された一族であるが、青森、千葉の等の4箇所にあるが、丸付き紋の笹竜胆紋と表示する書籍が多い。

これ以上の11の文様の笹竜胆紋は、源氏の何らかの支流、分派、分流の血筋を受けてることを理由に源氏一族と名乗っている氏が多いが、徳川氏の様に室町以後の「系譜搾取偏纂行為」(3期)による可能性が高く検証は困難である。
その為に、竜胆の花と笹の間の軸を微妙に変化させて一見して見分けがつかない様な笹竜胆紋が多いのである。

「笹竜胆紋の由来」に付いて
そもそも、この家紋は、竜胆の花と葉で意匠したもので、葉が笹に似ている所から、笹竜胆と呼ばれている。
竜胆は、秋に咲く花で花色が藍の高位の色とされ、賜姓青木氏などの皇族氏の花とされた所から用いられたとされている。
この家紋の文様の記録は、村上天皇期ごろからの書物に出て来るようになり、その使用は、賜姓青木氏以外に、嵯峨天皇期の令により皇族系の者が、臣下する時の氏として青木氏を名乗る通例から、皇族方の公家や皇族賜姓青木氏などが用いる象徴文様とするものと成って行った。
このためにこの象徴文様が、家紋として「大要抄」等の史書に出る事となった。その後、象徴文様は、この文様を使っている賜姓青木氏や賜姓源氏が、統一の家紋としての「綜紋」として扱われるように成った。
(青木氏の元となる大化期からうまれた伊勢青木氏の総宗本家は、代々この家紋を維持して来た。)

これは、次の「青木氏」の氏名の由来にも関わっているのである。


「青木氏の氏名由来」に付いて
この青木という氏名は、”青木”と言う常緑樹から来ている。
樹の軸の色は濃青で、葉も同じく濃青であり、秋にも変色する事は無い。又、経年で著しく枝と葉は大きくなり茂り成長する。
そして、この樹には真紅の10ミリ程度の実を多く着実する。そして、この真紅の実は長期間に着実する。
この樹の特性から、榊などと同じく当時は「神木」として扱われていた。

その理由は、樹の常緑と成長は、永遠を意味し、軸と葉の濃青は、健康の体を意味し、真紅の実は命を意味し、その真紅は血を意味するとされ、このことから全ての「永遠の命」の樹木として「神木」として崇められていた。

天智天皇は、この樹の意味を採り、「第6位皇子」が臣下する際に氏名を青木氏として賜姓したのである。
そして、この”青木”樹の「神木」から民を正義の下に導く高位の者である事を示したのである。

次の嵯峨天皇は、賜姓青木氏を源氏として変名した事も、この意味合いを持たす事にあつた。
つまり、源、即ち、全ての「みなもと」を示し、上記の「神の木」は、「全ての物の源」を意味する事から、同じ意味を持たす事で、変名の賜姓を源としたのである。

今まで(八色の姓の制)第6位皇子を除く宿禰族までの皇位継承から外れた皇族の者が、全て門跡院や比叡山にて僧身したが、下族し臣下する際に使用する氏名が無かった事から、この時、「青木氏」は、これ等の者が、使用する氏名とする事を詔を発して統制した。そして、他の者が、使用する事を禁じたのである。
このことは、原則的に明治3年の苗字令まで原則維持されていたのである。
(ただし、室町末期と江戸初期の混乱期では、無視され、ルーツと家紋の持たない第3の青木氏が多く生まれた。)


以上、2つの青木氏に関わる家紋として、史実から33文様がこの氏の家紋となる。
本来は、総宗本家が維持する次の2つが綜紋と成る。
皇族賜姓青木氏は、「笹竜胆紋」を綜紋とする。
藤原秀郷流青木氏は、綜紋を「下がり藤紋」とする。

これが、次の通りに末裔を広げた。
「皇族賜姓青木氏」は24氏に血縁族を広げた。
「藤原秀郷流青木氏」は116氏に血縁族を広げた。

この二つの青木氏の氏の家紋は、33文様になるが、この内で、「桐紋」(1)と、「職業紋」(3)としての家紋を持つ第3の青木氏の4家紋も特別に意味があるとして記載して含んでいる。


  [No.222] 青木氏ステイタス お仏像様 1
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/02/11(Wed) 08:27:01
青木氏ステイタス お仏像様 1 (画像サイズ: 936×1519 470kB)

青木氏ステイタス お仏像様 1
副管理人さん 2007/06/24 (日) 09:31

青木氏ステイタスの仏像
(写真添付)
この仏像の由来は、「青木氏 綜紋 笹竜胆紋」のところでその概ねの由来を書いた。
(詳細は、「青木氏 綜紋 笹竜胆紋」を参照)

そもそも、この仏像は、大化改新の改革の一つとして、天智天皇(中大兄皇子)が、第6位皇子を臣下させる際に、皇族賜姓族の伊勢青木氏の「ステイタス」として、与えたものである。
(1200年頃の「鎌倉新仏教」としての仏教像形式とは異なる)
このステイタスの仏像は、「大日如来坐像」(大日像)で、台座を入れると背高約70センチ位で、横幅は60センチ程度の仏像で、材質は高級材の紫檀で出来ている。
台座には見事な彫刻が施されていて、全体は磨かれて茶褐色で艶のある黒光りをしている。如何にも年代ものである印象と威厳を感じる。それを言葉にするのは難しいが、敢えて何とか表現すると次の様になる。

国宝としての扱いは敢えて申請していないが、今までの見知る範囲の国宝仏像より決して見劣りはしないし、より優れている。大きさに於いても見劣りはしないし、総体的な美しさは、我が「大日如来坐像」の方が優れている感がする。
国宝級仏像を見ても、”あー古い仏像か”の印象しか残っていないが、「お仏像様」は、見た瞬間、いつも何か圧倒され萎縮するものを感じるのである。青木氏のステイタスであるからかもしれないが、自然と頭が下がる思いがしてならないのである。直感的に言葉に表現できない”何かある”と脳に直撃するショックみたいなものを感じるのである。
そのショックは、目と目の間に火の玉が直撃して頭が少し後ろに倒れる衝撃感である。

この仏像は、伊勢の総宗本家の青木氏が、大化期から代々所有して、別地で平成10年10月15日まで代理宗家(子孫は絶える)で祭祀されていたが、その後、遠路移動して、基本家での保存の安全を考えて、ある適切な所で保存し時事適切な供養をする事にしたのである。
この様に人に与える印象でも左様に、矢張りご先祖様も同じであった様である。
だから、ただ、この仏像には、色々と口伝による代々「言い伝え」がある事がそれを物語っている。

その事について、筆者なりに考えることが有るので、上記のレポート(「青木氏 綜紋 笹竜胆紋」)から進めて、この「お仏像様」に対する特別な詳細を全国の皇族賜姓青木氏の方々と、母方を藤原氏で繋がる同族とされる藤原秀郷流青木氏に、お知らせしておきたいとしてここにレポートする。

というのも、青木氏に方には、この「お仏像様」のステイタスとしての存在をご存知無かったと思われる。
この仏像は、著名(司馬遼太郎氏や黒岩重五氏等の)な歴史家でなければその存在は余り知られていないからだ。

実は、代々、我が家には、この仏像を”世に晒す事ならず”の厳しい言い伝えがあり、現在まで明らかにしていなかった。
この言い伝えの根拠は、仏像は、”お仏像様”と呼ばれていて、1360年の歴史を経て、最早、”お仏像様”では無く、大化期からの「人括りにした先祖」としての「人」を意味している。
ことの尊厳を考えての「戒め」の言い伝えがあり、”人を世に晒す事”の行為を誡めてたのである。

別の意味として、皇族賜姓の「伊勢青木氏」だけの「ステイタス」と考えるのではなく、下記に示す全体の青木氏ステイタスとしての配慮もあったのであろう。

まして、この種の大変な歴史的価値のあるステイタス等を所有する何処の宗家の氏でも、通常は、”その持ち主は世に晒す事はしない”のが慣例であると聞いている。
これは、矢張り、青木氏の「戒めの考え」と同じ考え方であると言う事であろう。

世に晒されているものは、”殆ど欺瞞で、室町期、江戸期、明治期の氏の混乱期の偽行為の発露のものである”と成っているからである。青木氏等の氏名の「搾取偏纂の行為」(第3青木氏)と同じものと見られるものを出しているだけである。

実はこの種の話には、下記に示す危険が伴っているのである。
現に、知り聞いている範囲として、祖父、父の間には、何度も各界から手を変え品を変えての話があったと聞いている。
この話の殆ど、否、全部が言葉巧みであるが、腹の奥にある種の悪意の目的があっての話である。
この様な話は”耳がたこ”になるほど聞いている。

例えば、有名な歴史家が、大化期の歴史調査の為に伊勢の青木氏を調べ上げて、我家に辿り着いた。そこで、史実よりその仏像の存在を確認して、それをある種の対談の中で、匿名で間接的にその存在を発言しされたが、その対談をある歴史写真グラビヤで一部の話が掲載された。(掲載には問題はない)
そのことを読み聞きつけた学者関係者や書籍企業関係の者と思われる者等が、調べ上げて「世に出す事」をいかにも大儀明文かの様に話を持ち込んできた事があった。当然断わった。

ある時は、同じ大化期の祖先をもつ近江佐々木氏の宗家末裔の超有名大学の名誉教授の学者の方が、皇族賜姓佐々木氏と共に、皇族賜姓青木氏とこの仏像のことの研究論文を載せた不売品の書籍を出した。
そうすると直ぐに、この種の関係者が押し寄せて来た。

又、知り合いの旧家でも、かなりの価値のある宝物があった、これを調べてきた専門家の正真正銘の女性大學教授がやって来た。そして、その言葉と身分を信用して、この者にある種の史料を借用書共に提供して貸し出した。
しかし、待ってもかえって来なかった。大學に何度も電話したが、その都度、”もう少し”の答えであった。
次の電話ではもう転勤して居なかった。追求したが行方はつかめず、結局は、数年後にある歴史写真書籍に出ていて、京都の古物商の所有に成っていた。この様な話は幾つも聞いている。

更に、この様なことが地元でもあった。
つい最近に、地元の方の伝来の宝物を調べ上げて、近くの公的博物館から研究と展示話しが持ち込まれて貸し出した。帰ってこないので役所に異議を申し立てた。個人的に館長がやった行為なので知らないと突き放された。その館長に問いただしたが”のらりくらり”で埒があかない。結局、挙句の果てには、そんなものは借用した覚えはないとの事で、ツッパリである。裁判しても費用が嵩むだけで得策ではないと諦めた。この様に、全く同じ事が起った事を聞いている。
この様なことを請け負う暴力的背景を持つ悪質シンジケートがあると聞いている。

事程左様に、根拠が長くなったが、「世に出す事」の意味と意義は、現代に於いては大したものは存在しないのである。むしろ危険が伴う事を意味しているのである。

しかし、現代のこのインターネットの時代では、写真転送という情報伝達手段がある。この手段を使って、全国の青木氏の方々にそれを伝えても、実物を晒すのではなく写真という手段で伝達する分には、厳しい言い伝えに反する事では無いと考えて、敢えて、その存在場所を伏せて公表する事に今回踏み切った。

つまり、この青木氏の歴史的史実の情報伝達をして、現在にその薄らぐ史実を遺す事が、このHPの本来の目的であるからである。最早、私はその正しい史実のその時間的余裕と、進化する社会情勢では無いと見ている。

さて、そこで、本論に入る。

この仏像は、日本最初の仏師の「鞍作部止利」の作である。
仏師の「鞍作部止利」は、渡来人の「司馬達等」の孫と言われている。

そこで、この「司馬達等」とは、どの様な人物なのかである。これには大変な意味を持っている。
後漢の「阿多倍」が引き連れてきた初期に上陸した技能集団で、且つ帰化した渡来人であり、「鞍作部の始祖」と言われている人物である。又、日本の「彫刻の祖」とも言われている。
そして、彼は、正式な仏教伝来期よりやや以前に、大和国高市郡坂田原(天智天皇の高市皇子の里)で草堂を営み、仏像等を彫っていたが、この時に既に仏教を信心していたと言われている。彼の配下の者達や周囲の者も影響を受けていたのである。つまり、日本に最初に「仏教の私伝」を成し遂げた人物なのである。このことは余り知られていない。
彼の生まれ故郷は、後漢の国の北東部(高句麗)といわれている。(現在の北朝鮮の遼東半島やや西に位置する所)

司馬氏(馬具)は、秦氏(機械染色)や漢氏(軍事)と同じく同時期の初期の渡来人である。
この渡来人であった3氏等の頃は、一箇所に集中して生活して、その技能を磨き大和の民にその技能を広めていた。

この司馬氏は、馬具の鞍等を作る職人であったが、「司馬達等」は仏教を信心していた事から、同時にその技能を生かして仏像を彫っていたと見られ、その末裔(孫)の「鞍作部止利」は祖父に鍛えられて「仏師」となったと考えられる。

ここで、お気づきと思うが、実は、上記に書いたその著名な歴史小説家の一人とは、司馬遼太郎氏の事であり、彼が伊勢の青木氏を探し尋ねて、何故その仏像の行方を調べていたかの理由がお判りと思う。

司馬遼太郎氏のご先祖の「司馬達等」や孫の「鞍作部止利」等が残した仏像を、伊勢青木氏が所有している事の史実に基づいて、伊勢を訪ねて伊勢青木氏の宗家を探し当てたと言うことであろう。
そして、その「お仏像様」を探し当てたと言うことであろう。
その時の内容を対談の中に個人情報を匿名で話されたのであり、青木氏では、それの内容が漏れて上記の結果となったと見ている。(この様な似た事が3度あり、都度断わった。)

では、”何故、長い間この仏像の存在を世間に公表しなかったか”の理由は、この様な事があったからである。

その事に付いての前置きはこの位で、この「お仏像様」の事について述べるとする。
そこで先ず、「鞍作部止利」の代表的作品として、法隆寺金堂釈迦三尊像、飛鳥寺釈迦如来像などの「北魏方式」の仏像彫刻などを多く手掛けた。

念のために、「北魏方式」とは、中国南北朝の北魏の彫刻方式の影響を受けたもので、その特長は次の通りである。
1「杏仁形の目」と、2「仰月形の唇」と、3「左右対称の幾何学的衣文」等の「3つの判別特長」を持っているのである。

大化改新のNHK新説の反論の8でレポートした様に、多分、中国後漢から馬具等を作っていた「司馬達等」氏らにより持ち込まれ伝わった技法であろう。それを受け継ぎ研究して「鞍作部止利」が完成した技法である。

青木氏のステイタスの「大日如来坐像」は、確かに上記のこの3つの技法様式を保持している事は確かである。

「鞍作部止利」が入念して彫り上げたこの仏像だけに「不思議な力を宿す懐」が備わっているのである。

「お仏像様」の神通力
この「お仏像様」には、不思議な力というか、気迫というか、魔力というか、神通力というか持っている。

この事に付いて述べる。
皇族賜姓青木氏は1360年の長い歴史を持っている。この間には、一族の危機存亡の事件が起こっている。
おおよそ、大きなものとして十数件が起こっている事が解る。
危機存亡の事件にこの「お仏像様」が大きく関わっているのである。

そこで、この「危機存亡の事件」を検証して見る。

皇族賜姓伊勢の青木氏が発祥した大化期(645-647)から光仁天皇の時期までは5家5流の甲斐青木氏までは、少なくとも大きな発展期で初期の「第1期皇親政治」の基礎を築いた。
(皇親政治は、第2期の桓武嵯峨期、第3期の醍醐期の3期ある)
ここまでは問題が無い。
しかし、その変化としては次のことが起こった。

「軍事的影響」
この時、、今までになかった制度であったので、青木氏は、その天皇家の皇子の親衛隊としての新しい軍事勢力となって行った。これが軍事的な発展であった。

「経済的影響」
今までは、天皇家の皇子として特別な役職と経済的な活動はなかった。むしろ、天皇家の経済的負担であった。
大化改新の改革の一つとして、5地方の守護王として配置され、そこで、その開発した土地から上がる租税等の経済的収益増が発生して、むしろ、今度は天皇家のプラスの経済的効果として発展した。

「政治的影響」
もとより、上記の様に、皇子が軍事、経済の2つの影響力を持ち、更に、5地方の青木氏の皇族集団が出来た。
それも主要国の国の守護王である。必然的に政治に対する発言力が増す。
「皇子と2権と集団と守護王」の4要件が揃えば、嫌でも政治に対して影響力が生まれるのは当然の事である。
周囲がそれを意識する事でもある。むしろその位置に押し上げられた。

しかし、律令国家の完成を仕上げた第2期皇親政治の「桓武天皇」の時期になると、この発展に付いて次の事が起こった。

第一番目は、先ず、政治に対しての影響力が「律令国家の完成」の障害とみなされた。
また、桓武天皇の母(高野新笠で、後漢の阿多倍の孫)の勲功一族を引き上げるに障害となった。
更に、軍事的支配を改善する目的から、阿多倍の長男の賜姓坂上氏をその中心に置く必要があった。
これらの事などで、青木氏に対しての圧力として、国司を藤原藤成に変更して実権を外された。 
親衛隊として大きな働きをしている青木氏に対して、政治の場から遠去けられた。

これらの為に、政治、経済、軍事の3面で弱体となり、第6位皇子の賜姓青木集団の第一番目の衰退期が訪れた。

第2番目には、桓武天皇の引き上げから始まったこれ等の伊勢北部伊賀地方の一族の時代が訪れた。
それは、阿多倍の末裔、たいら族の伊勢衆、国香より始まり5代後の平清盛まで32/66国を支配した「たいら族」である。
この時、衰退した青木氏に代わって、嵯峨天皇は止む無く皇族賜姓するとしても、青木氏を使えず、結局、この時から始まった同族の皇族賜姓の源氏一族と共に、次第に朝廷内を2分しての「承久平治の乱」が起こった。
一族を遺す為に源氏も内部分裂した。
その後に、青木氏と源氏にとって、再び、危機が訪れて朝廷から政治の場から外された。
分裂による軍事的弱体化が起こった。
経済的には赴任地を「たいら族」に奪われた。
以上の様に3権共に無くす完全な衰退が進んだ。

第3番目には、その後、ただ一人清和源氏宗家の頼光の末裔の源頼政が、朝廷内に三位(天皇と面会して会話が出来る身分)として生残り、力を蓄え遂には、「以仁王の乱」を起こした。
これがきっかけで源平合戦が起こり、鎌倉幕府が樹立した。
頼朝の2策(平氏没官僚と2度の本領安堵策)で源氏一族と青木氏は一時、息を吹き返した。
数年後に北条氏の反対を押し切った策の為に、北条氏により抹殺された結果、清和源氏の分家筋(頼信系)の頼朝一族が完全に滅亡して北条氏の天下と成った。
11代の源氏も完全に滅亡して再び衰退する。

しかし、この時から、政治と軍事の衰退は起こったが、今度は強力であった。

伊勢青木氏を始めとする青木氏一族は、「2足の草鞋策」を採り、その力と実績と軍事力を背景に「大商い」を営んだ。
衰退しながらも伊勢青木氏は、伊勢伊賀地方付近で取れる古代からの歴史ある「伊賀和紙」を扱う紙問屋(紙屋長兵衛)を営んで、経済的には自立し発展期を迎えた。
(参考 伊勢青木氏の系譜では明治までの血縁の相手は、小林氏、加納氏など殆ど2足の草鞋策を採っている家柄である)

この時期には、信濃と甲斐との間にも伊勢町と言う地名があるくらいに互いに青木氏の連携が起っている。信濃青木氏も同様に信濃で生産される古代からの歴史ある「信濃和紙」を扱っていた。
伊勢青木氏と信濃青木氏とは相互に商いの面でも連携を深めていた。

伊勢の豪商の紙問屋の「紙屋長兵衛」は、紙だけではなく大船3艘を保有し弾薬など武器なども扱っていた。
(この弾薬により明治35年に行灯の火が移り爆発、「伊勢松阪の大火」元となり賠償して倒産した。
玉城町の8割はこの蔵群であった。他にもセンセーションとはして有名な「忠臣蔵」の浅野家の城引渡しの際の財産処分に関わった等の10件程度の日本の歴史上の史実に記録として残されていて、伊勢青木氏と信濃青木氏の連携関係も「日本書紀の記述」を最初にして記録として出てくる )
この様に経済的な自立により、政治、軍事を動かすほどに成熟したのである。

第4番目には、源氏支流一門の足利氏の室町幕府の樹立で、伊勢北部伊賀地方を除く「本領安堵策」が再び実行されて、政治的にも軍事力的も保持して復興した。
この時は、室町文化の発展期で、紙問屋の伊勢の青木氏とそれと連携する5氏の賜姓青木氏は、以前の青木氏の力に較べて経済的には比較になら無いほどに力を付けて、政治、軍事を動かす程度の、否、それを凌ぐ力を付けていた。

しかし、ここで危機が訪れた。
室町期末期には下克上で織田信長らによる新興勢力が台頭し、信長の「三大伊勢攻め」が起こり、伊勢永嶋攻め(北畠氏)、天正の伊賀攻め(北条氏 平氏)、最後に秀吉による松阪攻め(青木氏)が起こり、伊勢青木氏は何れの戦いにも合力して軍事的、経済的に対抗したが、敗退して政治と軍事による力は完全に衰退低下した。

この3つの戦いの状況を「お仏像様」を理解する上で必要であるので詳しく記する。

「天正伊賀攻め」では、次の通りである。
軍事的には名張の青蓮寺城から伊勢青木宗家の青木民部尉信定が出て伊賀衆(北条氏 平氏)を助けた。
経済的には、一方では、伊勢青木氏の「二束の草鞋策」で別の顔を持つ紙屋長兵衛(青木長兵衛)が、材木や武器弾薬などの供給をブロックして、堺と松阪の2大店から他の豪商を指揮して長引かせる戦略を屈指して対抗した。
(名張の小太郎 伊賀の小次郎の歴史小説でも詳細な戦闘史実が明らかにされている)
戦いは長期戦になり、やっと出来た野戦城は、伊賀者と長兵衛のシンジケートに依って火薬で爆破されて火事で燃えるなどし、「二足の草鞋」の紙屋の青木長兵衛、即ち青木民部尉信定は側面から援護した。
再び、建設しようとすると、材木が不足して高騰し、城が建てられない所まで追い詰めた。
信長は激怒して息子の信雄と家来(滝川三郎兵衛一益)を無能者呼ばわりして排斥したことは有名である。

ここで、伊勢北部の分轄領の伊賀地方の事について述べて置く。
足利氏が執権北条氏を破ったときに、北条氏の執事をしていた者が足利氏の執事をしていたのである。
伊賀北部はこの者の支配下にあった。
この元北条氏執事は、北条氏に門前で拾われて育ち、その有能さから信頼されて執事となり政治の実権を握ったのである。この時、養子縁組で、北条氏から坂東八平氏の一つである「平(ひら)姓」を引き継いだ。
ひら姓は、この裏切りの執事に与えられた氏である。
しかし、日和見から足利氏に味方したのである。そして、足利氏の執事となったのである。
この為に、足利氏は、北条氏を倒して足利幕府を樹立する事が出来た。

本来では、伊勢北部伊賀地方は、本領安堵策で伊勢青木氏に安堵される筈であったが、この時、足利幕府は論功行賞でこの執事に、無理にこじつけてこの土地(阿多倍の末裔のたいら族 京平氏の土地)を与えたのである。

その理由は、この土地は、昔、伊勢の国を割譲して阿多倍に与え、その末裔の平国香と貞盛親子から5代続いた清盛の太政大臣になった伊勢衆(阿多倍の末裔 京平氏 たいら族)のものであった。それを坂東八平氏(ひら族 天皇家第7世族)の同じ姓の「平氏」を名乗ったこの北条氏執事で、後に、足利氏の執事に成った者に与えたのである。
しかし、伊勢青木氏はこれ等の元から居た伊賀衆の民を援護したのである。

「伊勢永嶋攻め」では、青蓮寺城と他2つの山城から青木氏は、客員軍司として北畠に合力した。
北畠氏と伊勢青木氏とは天皇家を通じて親交を暖めていた。
北畠氏は天皇家の官職は「学問所」であった。伊勢青木氏は親衛隊でもあり天皇家の官職は「軍略所」であった。

参考 日本書紀ではこの軍略所の伊勢青木氏の始祖(施基皇子)は、最も多く出て来る人物で、日本全国を飛び回り、紛争や施政執行のために働き18回にも登る。 天皇(天智天武)の相談役で代理執行人の役を果たしている。

この様な関係から深い親交があったので、皇族賜姓族としては、天皇家を無視する信長に対して、伊勢国を信長に侵される事には絶えられないことであった。故に合力した。
そこで、陰で紙屋長兵衛(伊勢青木氏 二束の草鞋策)は抵抗して、物資の供給などに障害を与えた。
特に、戦いには戦陣を構築する為には材木は必需品である。
当時は、材木は吉野、信濃、甲斐の産物でもある。伊勢の青木シンジケートは、これ等の土地の陰の勢力者で豪族5家青木氏と強調して、ブロックしたのである。
そこで秀吉は、止む無く吉野を押さえ、その材木を切り出した。しかし、吉野熊野付近は前期した様に「楠木政成」の時の伊勢シンジケートの南圏域範囲であった。これを指揮してゲリラ戦を実行したのである。

これを矢張りブロックした。しかし、信長の家来であった秀吉は、このことを熟知していて察知していた。
そこで秀吉は材木を自らの兵を使って山から切り出して谷川から麓に流した。
山では伊勢のシンジケートのゲリラ戦が始まった。陣形を組む事ができなければ攻め側としては裸同然で負ける。
苦労の末に、軍事と経済的な大負担を強いられた挙句の果てに、時間が掛かったが、秀吉は、それを使ってなんとか陣形を組んだ事は有名な史実である。
伊勢青木氏の合力(客員軍司)に拘らず4代続いた北畠氏は負けて、信長の徹底した戦後処理で北畠氏の子孫は滅亡する。

しかし、一方では、信長の「天下布武」の戦いで、逆に、経済的には紙屋長兵衛を始めとする青木一族による大商いは「戦時景気効果」でむしろ更に拡大し力を得たのである。

「伊勢松阪攻め」では、軍事と経済を挙げての秀吉との伊勢青木氏、即ち紙屋長兵衛との戦いであった。
この時、この戦いを任されたのは、秀吉、家康などから天下の名将と称された「蒲生氏郷」であつた。
何故に秀吉は、この蒲生氏郷を差し向けたのかは解る。
軍事的には伊賀、永嶋は最早、敗戦で力が無く青木氏に対して合力はない。
しかし、問題は2つあった。
先ず、一つ目は、天下に対して、伊勢神宮の膝元の伊勢松阪(青木氏)を攻めることは、天智天皇の古来よりこの地に「不入不倫の権」が与えられていて、未来永劫犯してはならない掟があり、これを犯す事は全国の民の賛成が得られない。

次に二つ目は、堺と松阪に大店を構え、大大名をはるかに超える1100年を越える力のある大豪商の紙屋長兵衛を相手にすることである。

秀吉は経済に聡い人物であった。経済力が軍事を越えるどれほどの力を持っているかを知っている。
この経済力の裏にはシンジケートが存在することは、過去に蜂須賀小六の子分時代に教えられて知っているので、信長に忠告したほどの秀吉であった。
現に、史実では10万の軍に3千で立ち向かって、このシンジケートで10万の軍を餓死に追い立てて勝った「楠木政成」の軍史を知っている。(伊勢シンジケートが動いた)
真に、経済的に全国を結んだその青木氏5地方の「伊勢のシンジケート」である。その大元の伊勢青木氏を相手にするのである。誰が考えても軍事的だけでは勝てる戦略ではない。
そこで、天下の歌人でもあり、天下の武将でもあり、歴戦の戦上手でもあり、同族の源氏の血筋を引く「蒲生氏郷」を当てたのである。
兎角、武力だけの戦いは小説やドラマで、軍事力でよく例えられているが、決してそうではない。
軍事力は最後の手段である。信長と違い、秀吉はこのことを身をもって知っている。

彼の歴戦の中で、武力だけで我慢できずに戦い負けた史実がある。敢えてシンジケートを理解する上で紹介する。
陸奥地方の掃討作戦に対して、地元豪族が山城に3千で籠ったが、周囲の阿倍清水一族の残党シンジケートがこれを支えた。
この時の数万の豊臣の武将は、蒲生氏郷であった。小豪族を相手に長引く事は世間に対して秀吉の権威が低下する。
秀吉はシンジケートの強さと恐ろしさを知っているだけに焦った。シンジケートの為に軍事物資や食料水は押さえられて底をつく。秀吉は、絶えられなくなり氏郷に短期決戦の武力による無理押しを命じてしまった。
氏郷は攻めたが山から丸太、岩石、糞尿、あらとあらゆる物が雨のように落ちてくる。怪我人死人は続出する。何度も繰り返すがだめであり、相手は無傷である。大軍だけに食料は直ぐに底をつく。疲れと怪我人と餓死者が出る。志気と意気は最低となる。梅雨になる。これはどこかで聞いた話である。そうである。南北朝の時代の楠木政成と執権北条の鎌倉幕府10万との戦いの戦歴である。
(これが元で執権北条氏の鎌倉幕府は権威失墜で崩壊を始め足利氏が力を着ける)
まさしく、その様相を呈してきた。秀吉は遂に無理攻めを諦めた。

秀吉はこの身をもって知った学習から以後、2度と軍事力による無理押しの戦いはしなかった。
この後の最後の「天下統一の後北条氏の小田原攻め」は、「小田原評定」と言う有名な言葉がある様に、10万の軍隊を全く使わなかった。
大軍を動かせば動かすほどにこのシンジケートとの重要さは増してくる。それは当然である。
大軍事物資や食料や水は運ぶには限界があるし、ゲリラ戦で奪われるや潰される。現地調達しかない。それにはこのシンジケートの経済力を味方に入れないと基の食料が底をつき戦わずして負ける事となる。
大軍には反面この問題が付き従うのである。
つまり、補給路の確保は最大の戦いの前哨戦なのである。現地のシンジケートを味方に入れる事は最大の条件である。大軍であれば有る程この必然性は増す。
シンジケートの「武力」は大したことは無い。しかし、裏に潜む「経済力」と「陰の組織力」の恐ろしさである。それは地元に根づいた関連一族の何かに集中し、主にその一族のステイタスでの下に働く「横の関係」の強さである。

秀吉は、このことを今更ながらに知った。そして、その後の最後の仕上げのこの伊勢の戦いである。
ここでも、解るように、蒲生氏郷を差し向けた理由とその人的な深い配慮が見える。まして伊勢の国である。
民はこの伊勢に対する思い入れは普通ではない。「伊勢詣で」の言葉でも判る。

だから戦いは、実質は殆ど起こらなかったのである。伊勢を戦乱から残すことを前提に紙屋長兵衛の賜姓伊勢青木氏は、敗戦を前提として、一時、大店をそのままに青木氏は、名張から桑原の線上にある2つの山城から出て、新宮に軍を引いたのである。
これで、蒲生氏郷は立場が立ち、源氏一族として伊勢を残す事が出来、秀吉の政治的立場が保たれたのである。
問題は、伊勢青木氏の立場である。そこで、さすが蒲生氏郷である。
伊勢青木氏を一年後に伊勢松阪に呼び戻し、紙屋長兵衛の大店を含む「本領安堵」の策を採ったのである。

この時、ただ一つ蒲生氏郷は禁令を破った事があった。
それは、松阪に有史来初めて「不入不倫の権」を破って松阪城を築いたのである。しかし、氏郷は優れている。この城は軍事中心の城ではなく、経済、政治を中心とする所謂政庁であった。
その証拠に、町を編み目状に企画し、政庁中心には周囲に西10町、東9町の屋敷町を区画して、ここに政治に関わる上位の家来と町の経済の中心と成る大店を集めて、楽市楽座の制を敷いた。(信長も岐阜で同じ事を実行した 見習ったのではないか。)
当時では、ヨーロッパの経済方式を採用した全く新しいシステムである。秀吉も信長のときにこの方式は賛成している。
後に、豪商として多くの伊勢の「松阪商人」を育て有名を馳せたのはこの原因による。
この時、伊勢青木氏の紙屋長兵衛は2区画与えられ、難波の堺には依然として大店を構えて、尚且つ、松阪の隣りの玉城町の8割を蔵群として権利を与えられた。
(この状態は明治35年まで続く。)

ここで、この3つの戦いで負けて離散した筈の伊賀衆一族や北畠氏の縁者一族や伊勢青木氏一族は結果として離散していない。江戸時代では再び末裔は忍者の伊賀者の様に同地域で活動している。
これは何なのか。当然にこれを支える大きな力が働いているのである。
青木長兵衛即ち、紙屋長兵衛の伊勢シンジケートが、一つのステイタスの下でこころの拠り所として、共感共鳴して集中して結束した結果によるのであった。
普通は戦時の常識として親族縁者は殲滅するのが掟である。

この様に、1000年もの間に多くの危機から不思議にも青木氏は生き残ったのである。

その「不思議さ」は、この青木氏のステイタスの「お仏像様」の元に一丸となって結集する一族の「心の力」なのである。

この一族は、日本でも最も古く高位の氏である。ピラミッドの系譜からしても多くの関係一族が結集する。
更に、鎌倉幕府樹立で職を失ったとは言え、各地に依然として経済と軍事力で日本最大勢力を張る藤原北家一族と藤原秀郷一門と藤原秀郷流青木氏の軍団116氏が存在し、間違いなく藤原氏の母方血縁で味方する。

現に、この時代に信長に追われた皇族賜姓青木氏5家5流は、この藤原秀郷一門と藤原秀郷流青木氏に、四国の阿波、讃岐、土佐、伊予、中国の美作、安芸国、関東の武蔵、下野、常陸、駿河、下総などで保護されている。

この当時は、未だ、母方の藤原氏の系譜が、何処の賜姓青木氏の母方と血縁しているかと言う詳しい情報があり、そのことは「氏家制度を中心とする社会」では詳しく判っていたのではないかと考える。判っていなければ氏家を維持する事は出来なかったし、戦乱の中では実力を発揮して一族を護れる事は出来なかった。

現代でも、田舎に行くと、5親等以上くらいまでは親族や縁者と判っている。一般的には次第には薄らいできているが、当時では、氏家制度の中では、宗家や本家を忘れては生きて行けない。事ある毎に宗家や本家にお伺いを立てる事や、又護ってもらうなどの事が起こる。現代では悪く見られている傾向があるが、「氏家制度」とはそう云う親族が助け合う社会である。
少なくとも、7親等くらいは充分に判っていた筈であり、そのために家紋や系譜や菩提寺や氏神が重視され、親族血縁者が一つに結集する心の拠り所として、又、それを見分ける手段として存在するのである。

(余談 現在では核家族化して、これ等全てのものが無くなっている。ここに、日本人が、我を忘れた現在の病魔が存在すると見ている。全てを戻さないにしても、{日本的な結合}を取り戻す必要があると考える。単一融合民族の日本と米国とは社会構造が異なっている。)

だから、5親等程度の藤原秀郷方の東西各地の青木氏を頼ったのではと思われる。当然にこの時も、この全国に散らばる藤原秀郷一門のシンジケート網が彼らの逃亡を助けたのである。東西の逃避経路から見ると頷けるのである。
信長の勢力権域の末端でシンジケートの境を移動している。
そして、逃避はどの地域でも完全に成功し、史実は、後に土地の名手(郷士、郷氏、豪農、庄屋、名主)となって働いているのである。
ただ、当時の社会情勢では相当な力を持った盗賊、山賊、海賊は普通の事である。むしろ職業としていた。
逃げただけではこの様な成功実績は生まれない。どこかで彼らを統制する力が働いているからこそ可能なことである。
何も持たずに走って逃げるとは異なる。女子供一族を引き連れて食料を確保しながらの大集団の逃避行である。
現実に、彼らと戦う事は、土地に不慣れであるので不可能である。
この様な逃避行を現実に東西に出来ていることは、この保護援助してくれるシンジケートが存在するからである。

ここで、研究室でレポートしている様に、賜姓青木氏の5家5流の土地と、藤原秀郷流青木氏の各地の定住地を思い起こして頂きたい。全て、「主要路」で、「穀倉地」で、「要衝地」である。
この3つの意味する所は何なのかが疑問として湧くと思う。

そもそも、シンジケートが出来る「背景」として、又、「二束の草鞋」策を実行できるには、ある条件が成立しなければ成らない。それは次の条件である。

第一に、政治、経済、軍事の実権を握るその地の守護王か国司かそれに近い身分である事。
第二に、戦乱で各地の衰退したか滅亡し離散した一族とその統率者が存在する事。
第三に、それと連携出来る一族縁者の何らかな血縁関係を持つ守護王が多くの主要地に存在する事。
第四に、連絡網を構築できる力がある事。
第五に、心の拠り所が存在する事。

この事は、守護で有れば、土地の産物を「租庸調」の税で集めて民間に売り裁き、そして、それを護送し搬送する。これを日常業務としている。これを「二束の草鞋」で行えば直ぐにでも出来る。
「産物を集める」、「売りさばく」、「搬送する」には、当然に、これを保護して行く「軍事的武力」が必要であり、各地の権力者との「政治的繋がり」を持っていることも必要であり、これらをただでは出来ないのであるから、それらを裏打ちできる大経済力が必要である。この要件をに叶う者は守護か国司かでなくては出来ない。

一概に、「商人に成る」と言ってできることではない。
例えば簡単に「米屋」を営むとする。しかし、その米を仕入れてくる事、否売ってくれる所が無い。
米は統制されている。たとえ、横流しで入手しても、大量の米を山を越え海を渡りて安全に運ぶ事は、山賊、盗賊、海賊は当時では普通の事であるから、武力が無いから出来ない。まして、米は統制であり、役所の認可が下りなければ営めない。下りることなど普通の者にはない。
この「3つの力」が完全に備わっていなければならないのである。
「二束の草鞋」とは、その様な意味を持っている。社会の縮図でもある。


「青木氏ステイタス お仏像様 2」に続く。


  [No.223] 青木氏ステイタス お仏像様 2
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/02/11(Wed) 08:34:27
青木氏ステイタス お仏像様 2 (画像サイズ: 283×213 29kB)

Re: 青木氏ステイタス お仏像様 2
副管理人さん 2007/06/24 (日) 09:45
青木氏ステイタスの仏像
(写真添付)

「青木氏ステイタス お仏像様 1」の続き。

小説やドラマのように直ぐ誰でもが商人に成って成功したではない。今の自由資本主義の社会ではないのである。異なる封建的氏家制度の仕組みの中での事である。兎角勘違いをする人が見られるが、決して誰でもが慣れる訳ではない。
この様な条件を備わっている者は1%にも満たないであろう。

そして、ここには、戦乱で衰退、離散、滅亡した一族が山や海岸渕などに逃げ込み村を形成して生活をしている。これ等の者の一族が生き延びるには裏社会の盗賊、山賊、海賊だけの潤いでは無理である。
これ等の者達を養うだけの力が必要である。それを実行出来る人物が二束の草鞋を採った豪商である。
彼らの経済的利益の幾分かは、彼らに回る仕組みが、事の善悪の問題ではなく、この当時の普通社会の仕組みなのである。
そして、この仕組みが、血縁関係で成り立った各地の豪商間の連携が成立して、益々と拡大膨張して行くのである。
これが伊勢青木氏を始めとして5家5流の青木氏とその24氏に広がり、更に藤原秀郷一門とその青木氏主要9氏と母方で連携が起こり、青木氏とその血縁族に関して、四国、中国、中部、関東、東北、北陸とその連携(シンジケート)は日本最大のものとして拡がるのである。これだけの仕組みを持つのは単独では他に無いのではないか。
だから、上記した最大「危機」にも子孫を遺せたのである。普通では滅亡である。
ここが、他の氏と異なる青木氏の古い歴史からなる所以でもある。

現に、源氏一族は11家11流ありながらも単独では本流、支流、分流、係流は完全滅亡である。この仕組み(二束の草鞋策)を作らなかったことに依る。それは、余りにも高位というものを全面に押し出した事によるものであろう。
むしろ、作ろうとしても出来なかった政治的なものがあったのであろう。
(注 江戸時代に源氏一族と名乗る氏は殆ど偽である)

その意味で、同じ同族であるが、伊勢の青木氏を棟梁として、5家5流の賜姓青木氏は、この一戦を踏み越えた決断があったからである。藤原氏も、この一線を越えて、同様である。

例えば、藤原氏として有名な豪商、即ち、「讃岐籐氏」と「讃岐青木氏」一門は、四国一帯と安芸、美作一帯の血縁一族と、出雲大社の亀甲紋で有名な氏子一族を束ねていた。
そして、その組織は、昭和20年ごろまで瀬戸内一帯の廻船問屋を束ねて続いて来たのである。
このシンジケートが、摂津より西側を陰の圏域として押さえ、四国への賜姓青木氏の逃亡を助けたのである。
むしろ、このシンジケートに組する人々が、「豪商」という大会社組織の社員として、構成していたとも言える。

そして、思い返せば、現在の我々が生存し子孫を残しているのである。もし、このこと即ち、助け合う「横の繋がり」(シンジケート)が無ければ、滅亡であった筈である。
敢えて、ここで「シンジケート」を力説したのは、余りにも現代感覚で簡単に生存を考えている人が多いかを憂いてのことであり、我々は青木氏に関しては、決してそう有ってもらっては困るのであり、敢えて史実を持ち出して力説して懇願しているのである。

これは言い換えれば、”人は何故にこのシンジケートに参集するか、そのものは何か”と云う事であり、それは青木氏で言えば、この青木氏のステイタスの”「お仏像様」の元に助けられた”と言えると考えるのである。

つまり、この「お仏像様」は、ただの木の物質では無く、古来よりの始祖、元祖、先祖の「御霊魂」そのものであり、そのステイタスの「お仏像様」は擬人化されたものなのである。
だから、「共通のシンボル」としてここに「人は参集する」のである。この「旗の下」に即ち「お仏像様の下」にである。
あくまでも、「お仏像様」は先祖人括りの「人」なのである。

ここで、場違いの感があるが、より理解を深めてもらう為に、観念論では無く、科学的な根拠を次に示す。

「人」とは遺伝子的に、脳の中で無意識の中に、その様な「深層思考」の原理が働き、その様な心根を持っているのである。
人の脳は、無意識の中で、「3つの思考原理」が先ず連続的に必ず働く様に成っている。
物事がおこった時、人の脳は、「計画」し、「判断」し、「実行」する様に必ず働くのである。
この時、この3つを思考する時のパターン(思考原理)は女性と男性では全く異なっている。
それは、夫々の「性」(さが)の目的に合ったように深層思考する。
このことは長くなるので、後日レポートするとして、この「3つの思考原理」の下で、人の脳、特に男性の脳には次のような現象が起こる。
現実に、現代医学では、上記のステイタス(お仏像様)様なものに執心する事が証明されているのである。

人の頭の左の耳の上にある「線状帯」と言う所があり、この中に「中紀帯」という15ミリ程度の部分がある。
ここで、男性だけに働く部分がある。この部分は、先の事を行動予測し、予期して、一つの心理の基に思考原理が働き、共感集中する働きを行う場所なのである。
この脳の働きは、人類化した時から、他の動物以上に進化し発達した部分で、人類は生活の糧を得るために猛爆たる自然の中に入り狩をする。これは食うか食われるかの生存競争である。現代でも形は違ってはいるが同じである。
従って、今起こす行動が、先にどの様なことをもたらすのかという事を予期する働きをして身を護るように成った。
人類は他の動物に比して攻撃的能力は弱い。
しかし、予期して、共感して、集中する事で対抗する事が出来ると無意識の内に考え、学習し、進化して本能化したのであり、線状帯(中紀帯)のここが働く様に成ったのである。あくまでも、この働きは、その様な目的行動をする男性にしか働かない。
女性は哺乳動物として、その「性」から起こる元来の目的、即ち、「子孫を産み育てる」と言う事から、この脳部分の進化は起こらなかった。余り必要性がその生理上の構造からなかった事を意味する。

ここは、情報を蓄積する左脳部分の上側面にあり、つまり、「学習の知恵」の蓄積部分である。人は弱い身を護るために、学習して知恵を出し、その働きを蓄積して進化したのがこの部分である。

そして、その為に、次第にその局部が進化して、本能として、「先を予期」し「一つに共感、集中する」能力が付いたのである。
では、この働きでは女性も多少なりともその行動をする事があるとすると、進化する筈であると考えるであろう。
ところが、この働きが起こらないように脳は出来ている。
この歯止めの働きをするのは、脳の後ろの大脳の上の左横(脳幹の左)に、丁度、餃子のような形をした脳部分がある。
ここは、「脳陵帯」という部分で、男性と女性の「思考原理の違い」と、「体の機能差違」をコントロールしている脳である。
従って、女性は男性に絶対に成れないのであり、当然に思考原理も絶対に女性は男性の思考原理を起こさないように出来ているところである。
つまり、この「脳陵帯」で歯止めが効いて、この「中紀帯」は、その「性」の目的で、男性にしか絶対に働かないのである。故に、男性には間違いなく、”先を予期、予測して、先祖の「御霊魂」に参集する”と言う「無意識の深層思考原理」が働く事が証明されるのである。
(注意 この事で、少しでも争いを避ける為に、女性と議論しても絶対に議論は、深層思考原理で管理されて、噛み合わないことを忠告する)

それでは、トレーニングで例えば、この時に、上記の信長に対してステイタスを持つ青木氏に問題が起こったとする。
その問題に付いて、3つの思考原理が無意識の内で起こる。
先ず、脳の中で、その問題の処理に付いてどうするか「計画」する様に働く。(男性では「理想」に基づく)
次に、その「計画」に基づいて、状況を見て如何に成せば良いか「判断」する。(男性では「合理」に基づく)
そして、最後に、その判断に基づいて、精神を共感共鳴して「実行」する。(男性では「現実」に基づく)
(男性は、「理想」「合理」「現実」で、3つの深層思考原理を無意識に脳は働かせる。)
この3つのことは瞬時に働く。
ここが「経験と頭のよさ」に基づくところで、それは早さ(脳の回転)に起因するのである。これが資質(個性 国民性)に拘る所となる。つまり、一番目が良く働く人、2番目が優れている人、3番目がすばやい人等が起こる。
3つを持ち備えた者が、「有能な人物」となる所である。これを経験が補うのである。

さて、「理想」には、武士として、尻尾を丸めて逃げる事はない。当然、抗戦する事が最善と決める。
次に、「判断」には、闇雲に戦うのかを状況を検証する。政治、軍事の力関係は劣る。しかし、前哨戦の経済的な力は劣らず、むしろ、優れている。経済力で対抗すると決める。
最後に、「現実」には、「経済力」の基と成っている「横の組織」(全国の血縁関係やシンジケート)がある。現実的には直ぐにでも「対抗力」として使える。しかし、「横の組織」の「共通意識」を求め無くては結集力にならない。
現実に1000年も生き残って来た血縁者共通の「青木氏の始祖、元祖、先祖」の「一括り」の「御霊魂」がある。
そこに、1000年も何よりも大事に護ってきた「お仏像様」がある。人の深層心理はこの下に結集しようと働く。
「横の組織」の心に語りかける。各人の脳では、「共感共鳴」が起こって、一致結束して抗戦開始である。
そして、この様に3つの思考原理は働き始めるのである。

「横の連携、関係、繋がり、集まり」は元より本能であり、必然的に働くものである。
現代化と多様化することで、人の脳は、この部分の動作が退化して、薄らぐのである。しかし、心根は本能として持っている。現代と異なり、氏家制度の社会の中では、この部分が敏感に働くのである。

この様にして、史実として過去の歴史の事件の検証の全ては、この条件に適合しているのである。
必然的に、これが人の「心で結ばれた勢力」であり、無意識の「心の集まり」になるのてある。この様に現代医学でもその行動思考パターンは証明されている。

故に、この皇族賜姓青木氏24氏のステイタスの「お仏像様」の元に、横の連携を取り参集すれば、必然的に起こる現象から「最高権力者」と言えどもうっかりと手が出せない。

話を戻す。
更に、徳川と豊臣との戦いでは、伊勢青木氏(250で参戦 食料と武器弾薬等の物資の供給と搬送)を始めとする5家は徳川方に味方した。

実は、家康はこの事を知っていた。
秀吉から学んでいる。また、自らも、この失敗と経験を3度していて命からがら滅亡寸前まで行って助かっている。

一つは、武田氏との三方が原の戦いである。武力による無理押しをして大軍に負けた。「楠木正成の戦略」を採らなかった。
二つ目は、信長が死んだときである。堺の町に居た。直ぐに、逃げたが追っ手に追いつかれた。
この時、堺のシンジケートと伊勢伊賀者が助けに入った。三河まで護られて何とか逃げた。この時、シンジケートの重要さ強さを知った。
三つ目は、真田幸村(昌幸)の戦略と陣形が読めなかった事である。これは次に述べる。
(幸村は信州の真田昌幸の子孫)

軍事物資の調達、伊勢道、中仙道の通過経路の安全確保、食料の調達、ゲリラ戦の排除、などが勝敗を決めると知っている。戦場は伊勢より西である。伊勢シンジケートと伊勢青木氏(青木長兵衛 紙屋長兵衛)の圏外である。
豊臣側はこの点について問題は無く成ったし、堺の豪商で大名の小西行長が居る。
軍事勢力は小早川軍を取り込むことである程度バランスが取れるが、この伊勢−信濃ラインの経済とゲリラのシンジケートを味方に引き入れる事が勝敗の分かれ目であった。
つまり、2つのキーワードがあった。
軍事的には、小早川軍の取り込み如何。経済的には、伊勢−信濃ラインの確保如何。 この二つである。

だから、家康は伊勢路の手前で名古屋で長期間留まったのである。江戸からの秀忠本軍の中仙道からの遅れを待つこともあり、この信濃路のシンジケートの安全確保の担保が遅れての所以である。
この間、家康も、同じく伊勢の青木氏に3度も合力し参戦するように説得して名古屋で待っていたのである。
というのも、伊勢青木氏の一部分家は豊臣側に参戦したのである。
結果は、250をもって合力で参戦する事に決まったのである。
(遅れながらも秀忠も成功して一つのキーワードは解決した事になる。)

ここで、余談だが、気になると思うので、小説ではないが、その状況を史実を基に描いてみる。
問題は、小早川の出方如何となった。しかし、ここで誤算が生まれた。それは真田氏の軍略であった。
陣形と戦法に読みの違いが出た。

青木氏の参戦で無事に伊勢路を青木長兵衛の伊勢シンジケートで側面保護されながら進んだ。そして、戦場に着いた陣構えをした。しかし、家康はこの二つの懸念が未解決で動けなくなったのである。
この懸念は戦いで出た。鶴翼の陣構えに中央に長く一線状に突き出た長い柵で覆われた櫓構えである。兵の影は無い。この意味が判らなかった。(六稲三略の鶴翼の陣は普通はこの頭の部分は小さい。)
徳川軍が攻めたが、崩せない。小早川軍を見方に引き入れて陣構えを崩した。一気に攻めた。
ところが、ここで誤算の結果が現れた。徳川軍は相手の陣に深く進入している。しかし、中央の丘の上まで突出したこの中央の櫓構えから、突然に数十の騎馬の一団が幸村(昌幸)を先頭に疾風の如く手薄に成った家康のいる徳川本陣に突っ込んできた。瞬く間に目の前まで来た。徳川軍は突っ込み真田兵は逆に走る。合わせるとと50キロ以上の速さになる。とても周囲の護衛は護れないで潰された。家康の周囲は数人になった。家康は一人で慌てて逃げた。草むらに隠れるが見付かる。逃げたが幸村(正幸)の馬が目の前に現れた。万事急須である。刀は振り下ろされた。しかし、突然、幸村の号令の下に騎馬団の幸村(昌幸)等は引き返した。(伊賀と甲賀のシンジケートはこの時は間に合わなかった。)
家康は、逃げた人家の納屋に潜んで隠れたが、戦いに負け勝負には徳川の戦勝となった。人が追いつき集まってきた。
武田氏との戦いの結末の命からがらと同じ事が、又、自分に起こったのである。

実は幸村は、家康を打つことが出来るのは2つの条件の時だけであると見抜いていたのである。
その一つは、戦列を作って移動する家康の居所を押さえて、一局集中の各個攻撃で数十騎馬団で直角に側面を弾丸の速さで突くことで可能に成る。
その二つは、戦場で徳川軍が総攻撃を掛けて全軍が突き出した櫓構えより手前に来たときに、敵の攻撃を防ぐ為に作られた柵道を疾風の如く走り、数十の騎馬団が櫓構えより走り出し、一局集中の各個攻撃で、手薄に成った家康本陣を着くことで家康を討ち取ること可能に成る。

一に付いて、戦列を作って移動中の側面は弱いのである。従って、この側面を地元の地理を知り抜いたシンジケートの一団が、掃討作戦を敷きながら家康の居る側面付近を陰になって移動するのが戦いの前哨戦の常道である。
この時は、伊賀、甲賀、伊勢シンジケートが司ったのである。
これを、疾風の如く騎馬で抜く事で可能に成る。しかし、失敗の危険率は全く無い事ではない。
二に付いて、戦略が見抜かれなければ、一よりは失敗危険率は少ない。周囲にはシンジケートは戦場であるので無い。
この二つ以外は兵力差で殆ど不可能である。

元々は幸村(昌行)は紀州九度山に居て、伊賀集団や甲賀集団や根来集団と雑賀集団の職業シンジケートと、楠木正成で知られる千早村などを含む青木氏等による伊勢シンジケートラインは地元であるので知っている。当然に、有名な真田十勇士を抱え、軍司でもある幸村(昌幸)は彼らの動きも逐次把握していた筈である。
先ずは戦略として、この幾つかのシンジケートを騙し交わす事が先決である。成功した。そして、戦場でこの鶴翼の「櫓構え」編み出したのである。

国元を九度山に配置換えされて冷遇された幸村の武士としての意地と目的は達成されたのである。幸村(昌幸)は、これからの時代は家康以外にないと思っていたから世の為に生かしたのである。生かさなければ更に戦乱は続くと見ていたからである。
後に、幕府を開いたときには、この真田氏の兄の本家を引き立てたのである。

家康は、反省して、後に堺や伊勢や摂津等の豪商の持つこのシンジケートを匠に使った。
しかし、上記のシンジケートの集団を積極的には使わず、陰に存在した柳生集団を用いたのである。


話を戻す。
このことから本領安堵策で復興をとげ、伊勢松阪は紀州徳川氏の飛地領として特別にさだめられて、天領地であったために大商いを営みながらもここを護る青木氏の安堵が許された。

以後、青木氏と紀州徳川氏とは初代頼宣より大正14年まで親交があった。徳川氏との関係では多くの口伝や逸話が遺されているし、多くの手紙などが遺されている。紙屋長兵衛、即ち青木長兵衛は、水墨画や漢詩を教授し、和歌や俳句や禅問答などの相手として親交を深めた。この為に長兵衛の一族に永年に12人扶持を与えられていた。(長兵衛は世襲)

第5番目には、明治に入り、政治軍事は無くなった。その後、明治35年にこの紙屋長兵衛は倉庫の火薬に火がつき伊勢松阪の大火の出火元となり全財産を賠償に当て1000年以上続いた紙問屋は遂には倒産した。
この時、紙屋は伊勢松阪の侍屋敷町90軒に大店を2店舗の権利を与えられ、隣の玉城町の80%を蔵群として保有し、別荘を新宮に置き、堺にも店を持ち、千石大船3隻を保有していたが、全部を吐き出した。
出火時、家財道具や先祖伝来の宝物史料などは外に持ち出されたが、この仏像と数点の宝物のみを残し、再び火の中に入れさしたとある。
それ程に、この「お仏像様」は青木氏にとって何に換えても最も大事なものであり、先祖を「無の一括人」として思考し、それに繋がる一族郎党を「有の一括人」として思考の原点に置いていたのである。
この「無有」の思考は、仏教の浄土宗で言う「色即是空 空即是色」の教えにあり、大きな違いはないのである。

大まかには、5つの滅亡に近い危機と遭遇しながらも復興している。普通は11家の源氏の様に完全滅亡しているはずである。しかし、生き残れたのは、この「お仏像様」の神通力にあった。
青木氏のステイタスとしてこれを崇めて、この仏像を護ろうとして一致団結して一族が頑張った力事によりその神通力となって現れるものであろう。

この「お仏像様」には言い伝えがある。
この「お仏像様」の下に青木氏が集まることから、その祭祀を司ろうとして宗家に近い者が祭祀するとその者が祭祀に値しない人格を持ちえていないときは、必ず病気や家が傾くか死亡する等災難が起こると代々口伝で言われていた。
私の知る範囲としては確かにその通りに成っている。

この「お仏像様」の「戒め」に添って、実は何時の時代からか判らないが、青木長兵衛の「青木氏家訓10訓」が口伝で伝えられている。
この「家訓10訓」も5家5流の青木氏の共通する家訓と成っていたのではと考えている。

信濃と甲斐の道筋の途中に、現代でも伊勢町という地名がある。この伊勢町付近にも青木氏が存在する。
これは、伊勢青木氏と信濃甲斐の青木氏との繋がりがあった事を意味する。
当時の時代性から、「横の繋がり」があり、当然に、全く同じと言わなくとも、この家訓も伝えられて「お仏像様」の先祖の「一括人」の「戒め」(心の拠り所)と共に、その「一括人」が発言する「先人の知恵」即ち「共通する戒め」として護られていたと考えるのが普通ではないか。
ここで、「お仏像様」と共に、「青木氏家訓10訓」を次の第2弾のレポートで紹介する。
この「二つの戒め」を合わせて、初めて「一括人」(お仏像様)を「一括戒め」として理解が出来ると考える。
「青木氏家訓10訓」(第2弾の次回のレポート参照)

この様な意味合いも持った「お仏像様」に対して、これを護り通す力が私にもこの先祖が言う範囲には明らかに無い。依って、この取り扱いには、危険でもあるので慎重を極めていた。

しかし、現代に於いて、20年昔までは考えられなかったインターネットと言う情報提供メディア−が存在する。
これであれば、この「お仏像様」(一括人 ご先祖)「戒め」は当らないと考える。
随分と躊躇したが、今、この青木氏のステイタスの「お仏像様」を過去に於いて繋がりの合った5家5流青木氏24氏と、母方で繋がる藤原秀郷流青木氏116氏に対しても、この存在の史実を知らしめると共に、インターネットを通じての過去の史実を理解し、そのつながりに近い親交を計るべきだと考えて、初めて紹介をしたものである。

恐らく、江戸初期頃までは、この青木氏ステイタスの「お仏像様」の存在は知られていて、この下に危機に於いて青木氏は共感共鳴していたたものであると考えている。そこから約く400年を経って、再び、その存在を改めて知らしめたつもりである。

実は、この「お仏像様」が江戸初期まで知られていた事が、判る証拠があるのであるのでそれを特に紹介する。

江戸幕府樹立後、家康は、息子の頼宣を紀州に配置し、天領地の伊勢松阪を飛び地領としたときに、頼宣は松阪城で紙問屋青木長兵衛と面会している。この事は伊勢松阪の有力勢力者でもあり、上記の豊臣との合戦に於いての合力の謝礼も含めてもあった事からの面会であったが、この時の「口伝」が伝えられているし、多くの手紙が存在する。

実は、この面会時に、それを示すハップニングが起こったのである。。
青木長兵衛は城に上がり、家来の余りにも丁重なる”もてなし”で大広間にて待った。
当時の作法では考えられないもてなしである。そして、一段高いところ上座の上段の間に頼宣は現れた。
ところが、突然、頼宣はその上段の上座から降りて、手招きして下座して座って待った。
驚いた青木長兵衛は、確かに家柄は数段に伊勢青木氏の方が上である事は知っているが、時の最高権力者である。
「お仏像様」をステイタスとし、紋付裃に綜紋の笹竜胆の家紋を着けた青木長兵衛は処置に困った。
その時、徳川頼宣は言った。”どうぞ上座にお座りください”と。青木長兵衛は赤面して慇懃に丁重に固持した。
再び、頼宣は言った。”伊勢青木氏は御世から伝え持つ御印のある朝臣の皇子の祖に有らせる。どうぞ上座に”と。止む無く青木長兵衛は、妥協案を申し上げた。上段に同座する事を。
そこで、頼宣も同意したが、これでも仕来りはまだあった。上段の上座をどちらにするかである。
再び、”先祖が如何にもであるが、今は徳川氏の御世である”。そして頼宣に上座を進言した。これは解決した。
しかし、未だ、変である。家来も押し黙って挨拶の礼から戻さない。頭を下にしたままである。
青木長兵衛は”あっ”と気が付いた。それは、座布団である。上段の二人が座布団を敷いていない。つまり、面会の仕来りの儀礼は出来ていないから家来は挨拶の作法を戻さないのである。
青木長兵衛はあくまでも下の者の儀礼を採っていたのである。しかし、相手は逆の儀礼を採っていたのである。ここが全て噛み合わないのである。
そこで、青木長兵衛は座布団を敷いた。とすると頼宣も敷いた。家来は頭を上げた。やっと、面会の作法は完了したのである。
この後、話好きな頼宣との話は弾み、以後、この作法に基づき親交を深めるに至るのである。この状態は大正14年までの、徳川慶喜と将軍の座を争った14代までの紀州藩主と代々親交は続いた。

この間には、8代将軍に成る吉宗に請われて、紀州藩から伊勢松阪の紙屋長兵衛の商法を見込まれて、一族の者(六左衛門?)が御家人となり江戸に同行し、「享保の改革」の中心人物として吉宗を勘定奉行として補佐した事もあったし、紀州徳川家の納戸役(経理)としても、家来としてではなく特別扱いで伊勢青木氏(紙屋長兵衛一族)は協力したのである。
江戸に同行した伊勢青木氏(紙屋長兵衛一族)は旗本として高禄を受けて代々納戸役として定住したと伝えられている。子孫は確認出来ないが、史料(青木氏の官位と職位の研究 参照)では勘定奉行、納戸役の青木氏が存在するが、この者であろうと推測する。

この様に、この「お仏像様」に関わる事は、江戸初期までは、青木氏のステイタスとして知られていた事を示すものである。
ここで、この「お仏像様」と書いたが、これは「生仏像様」であると考える。私の学力の無さで読み取れない。
確かに、”お”と”様”が二つある事はおかしい。これは、上記した口伝の総意の意味から後者で有ろう。
「一括人」の生きた先祖のステイタスを「生仏像様」と行書で記したと見ているのである。

既に、このレポートの目的は上記したが、このレポートでは書くことをためらう口伝もあり、「生仏像様」のステイタスが持つ総意を伝えられたかは疑問の域を脱していない。
次回は、この「生仏像様」に纏わる「青木家の家訓10訓」をレポートする事で、ご理解頂けるのではと推察する。

「青木氏ステイタス 生仏像様」の第2弾(家訓)のレポートにご期待ください。

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