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  [No.145] 皇族賜姓青木氏の背景 1
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/22(Thu) 08:41:30
皇族賜姓青木氏の背景 1 (画像サイズ: 350×247 28kB)

皇族賜姓青木氏の背景 1

青木研究員 さん 2005/06/25 (土) 11:48

写真は青木氏の発祥木
(木名 あおき 古代の神木 三象徴物の一つ)

前背景では青木氏は順調に150年も伸びてきたが、桓武天皇期にはそのいくつかの政治的施策(前記)により急に衰退へと追い込まれることになり、反面、藤原氏は勢いを伸ばしてきた。
生きる為、子孫を残すための戦略のズレがこの場面を引き起こしたのである。
少なくとも、桓武期には皇族賜姓青木氏は約35年程度の間には子孫を多く増やす程に力は無くなり、否、減らす方向へと進んだと見られる。
特に、藤原藤成氏に守護を奪われるなどして、伊勢青木氏は直接の影響を受けたと見られる。藤原秀郷流青木氏と違い、その子孫が少ないのはこの時の影響も働いている。
(5地に少なく関東伊豆付近に移動している傾向がある)
後には、次々と難題が降りかかる。検証では10の難題が降りかかっている。繰り返し来るこの難題は皇族賜姓族と言う宿命と地理的要因によると考える。
しかし、950年には又立ち上がれるほどの力を保持して来ていた事が清和源氏と藤原氏との3者連携のその動きで判断出きる。
多分、この時の影響で、近江の青木氏の末裔が極端に少ない原因に成ったと見られる。近江から離れたのは桓武天皇の青木氏への圧政であったと推測する。近江青木氏は再び戻るが佐々木流青木氏が存在するのはこの戻った時の生き残る妥協策であろう。
何故なら、近江佐々木氏は生き残っている。そして、丹波や大江にも佐々木氏の子孫が繁栄している事が証拠である。
ここで、近江佐々木氏のことに付いて多少述べる事とする。
近江佐々木氏には二つの流れがある。
1 天智天武期伊勢青木氏と同じくして第7位の川島の皇子が天武天皇により、地名の近江の佐々木村の名を採って、特別に賜姓を受けたとされている。本来は第7位からは賜姓をださない慣例になっていたので、伊勢王と兄弟の川島の皇子を天武期の朝廷に対する貢献を鑑み丁重に扱ったことが伺える。(日本書紀にも伊勢王に近いその貢献が多く出て来る)
(参考 文武天皇以降と桓武期の賜姓青木氏以外の皇子はこの当時、神社仏閣門跡院などに入山した。還俗時は青木姓を名乗った。これが第三の青木氏で室町から江戸の初期までと明治初期の2回にわたり青木氏の名が利用された原因です。皇子にとっては厳しい定めであったことを追記する。当時は皇子はだれでも栄華を受けない事が子孫を少なくした原因の一つです)
他の文献では明確に佐々木氏を書いているものは少ない。
2 宇多天皇の時(867−931 位887−897)の末裔の者で臣下した佐々木盛綱を祖とする佐々木氏で、この佐々木氏は全国10国に及び守護を務め、この江州佐々木氏が全国に広がった。
(参考 盛綱は以仁王の乱で伊勢青木氏の跡目を継いだ「京綱」源の頼政一族に加担している)
この佐々木氏から、上記の丹波佐々木流青木氏(元の姓は上山氏でこの系譜をなんらかの方法で引き継いだ)が誕生した。
1は 桓武期前の佐々木氏(近江)、
2は 後の佐々木氏(丹波) 後に戻った近江青木氏と佐々木流青  木氏系を造る。これを上山氏が城持ちになった時、この系譜を  買い取り引き継いだと思われる。
この様に近江丹波には桓武天皇期前には佐々木氏と青木氏とが住み着いていた。しかし、後に第2の佐々木氏が元祖佐々木氏の跡目を引き継いで、全国(北陸、越後、近江、山城、大和、淡路、阿波、土佐、伊予、石見)に佐々木氏の子孫を広めた。
もう一つの広めた理由はこの各地の佐々木氏の菩提寺の住職を務めたこともその一つである。
藤原秀郷流青木氏もこの菩提寺住職を務めたことに子孫を多く遺した理由でもある。
しかし、子孫の少ない理由のもう一つは賜姓青木氏にはこの努力が足りない事が伺える。(調査中)
賜姓族5家の青木氏は桓武天皇期頃(790−850)を境にして大きく変化している。そして、975年頃を境に再び、息を吹き返している。
次のレポートは嵯峨天皇期からの青木氏の行方源氏と平氏と藤原氏の絡み合いの中での事を記する事にします。

(参考 三つ象徴:笹竜胆の綜紋 生仏像様 青木の神木)


  [No.146] Re: 皇族賜姓青木氏の背景 2
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/22(Thu) 08:43:16

Re: 皇族賜姓青木氏の背景 1の追記
青木研究員 さん 2005/06/27 (月) 09:50
2の佐々木氏の元祖の盛綱について、疑問の点があるので追記します。
宇多天皇の末裔としている事の説に付いて、
宇多天皇は15源氏を賜姓した天皇の一人です。したがって、盛綱は賜姓外の第7位以降の皇子となり、佐々木氏の跡目に入ったとなります。ここから佐々木氏は始まっていなく天智天武期からですから、必然的に跡目となります。しかし、元祖と記しています。
もう一つの疑問は盛綱は清和天皇の源氏で、父は源の頼憲としている説もあります。摂津多田源氏となります。
清和源氏盛綱は1の天智天武期の元祖の衰退した佐々木氏の跡目に入ったとする説です。そして各地に佐々木氏子孫を遺したとすると理屈はあいます。
同時期に源隆綱という者がいました。この隆綱も佐々木隆綱として記しているものもあります。しかし、隆綱は清和源氏源の頼政の子孫となつています。そして、太田氏の元祖となつています。
隆綱は頼政の子の広綱の子供です。つまり孫。しかし、佐々木氏です。頼政の子の仲綱の子の宗綱が佐々木宗綱と記しているものもあります。
清和源氏の同時期の者で盛綱と隆綱と宗綱の3人は佐々木氏の者としているのです。同時期に同姓同名の者が源氏方に居たとなりますが、明らかに疑問です。この3人は明らかに清和源氏源の頼光系の子孫です。源平の乱の始まりの以仁王の乱で没しています。
これらの3人の子孫は別の氏に引き継がれています。佐々木氏ではないと言う事です。
このように、どちらが正しいのか判らないほどに系譜には矛盾点を精査してよく検証する必要があります。
多分後刻に氏の欠落を没した者を使って都合良く埋め合わせたものと考えます。
結論は、多分、当時の15源氏の中では最大勢力の清和源氏一族が源盛綱をして1の佐々木氏の跡目に入り盛り返したと見ました。
賜姓青木氏と同様に跡目に入り、一族を盛り返しの策に出たとする説です。理由は32/66国の渡来系平氏の勢いに対する対抗策です。
背景 1の前段として。


  [No.147] Re: 皇族賜姓青木氏の背景 3
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/22(Thu) 08:44:50

皇族賜姓青木氏の背景2
副管理人さん 2008/05/06 (火) 21:10

(皇族賜姓青木氏の背景1に続き、背景2の記述)

背景2−1
5家の青木氏特に伊勢青木氏は桓武天皇期に前述した5つの牽制策で衰退の一途を辿ったが、桓武天皇の子の嵯峨天皇(786−842 位809−823)は渡来系一族の平氏の賜姓を実行した事に同じ方法を採らなかった。
超貢献度のこの一族に対して普通であれば賜姓し続ける筈であるが、実行しなかつたのは一体どの様な背景があったのだろうか。

検証項目
1 皇族として賜姓したが事実は渡来系であり異なる事
2 天智から光仁天皇までの皇族賜姓青木氏の身内の伝統を護る事
3 今度は渡来系一族への牽制をする必要がある事
4 再び増え続けた皇族一族の維持費の軽減を図る必要がある事
5 律令制度が整った現状の今政治への見直しが出た事
以上が考えられる。

この事に付いて詳しく検証する。
1 に付いて
前記したように高尊王や高望王、同一住居の伊勢北部伊賀地方等、明らかに皇族と見せかけた賜姓であった事から、衰退して行く伊勢青木氏などを見て、矢張り一族賜姓の族を護ろうとしたのではないか。そうでなければ結局、身内を無くすことは天皇家を弱くする事と父のやり方を見て認識したのではないか。その証拠として、嵯峨天皇に即位する前は平城天皇(現状維持をしていた)が即位していた。この天皇は兄弟であるが3年で病気で嵯峨天皇に譲位した。そして、その後、再び、810年「薬子の変」が起こるが、天皇としての考えを持っていたと見てこの変を察知しつぶした。この変を企てた藤原式家は衰退した。そして、嵯峨天皇の考えを後押ししていた秀郷の北家が台頭した。
桓武天皇が採った伊勢青木氏の牽制策で伊勢国司に成った藤原藤成の子供(豊沢:藤原秀郷の祖父)の時の出来事である。
この藤成は5−6年程度の任期であり、その後、810伊勢青木氏は守護に戻っている。秀郷の祖父が初めてこの功績で下野国と備前の守護に成っている。(下野の豪族の娘を母) 
ここで伊勢青木氏と藤原秀郷とはここで初めて繋がっているのです。

青木氏牽制策で祖祖父の藤原藤成(秀郷の祖祖父)が伊勢の半国国司に。
伊勢青木氏を伊勢に戻した天皇を補佐した藤原豊沢(秀郷の祖父)。
下野の守護になり坂東に根着いた藤原豊沢。
豊沢の影響を受けた孫の押領使の秀郷が藤原秀郷流青木氏(始祖の第3子千国)を出した。
この経緯から伊勢青木氏にしてみれば、この北家藤原氏は恩人である。

2 に付いて
嵯峨天皇はこの考えのために、賜姓を青木氏から変更して、同じ方式で第6位皇子を源氏とした
父の手前上、青木氏の姓に戻す事は角が立つので避けたのではないか。そして、この時、弘仁5年に詔書を発して、天智天皇の時に定められた「皇位4位6位臣下方式」から正式に「皇位4世6位臣下方式」に変更し定めた。この時8人の皇子皇女は臣下した。そして、このうちの6位の皇子を源信として初代の源氏が誕生した。この時、同時期に伊勢青木氏も伊勢神宮の護り守の守護として戻っている。つまり、朝廷の守護神の伊勢神宮の守りは、藤原氏ではなく、皇族一族の者に戻す事が本来とした証拠であり、渡来系一族(たいら族:平氏)では「皇親政治」を築こうとするには困るのである。
渡来系平氏族を賜姓し続けることは天皇家として得策ではなく出来ないのである。桓武天皇の施策(母:高野新笠:阿多倍一族の引き上げ策)は間違いとして嵯峨天皇が改めたことになる。
そして、嵯峨天皇は伝統ある伊勢青木氏の衰退はこのためには困るとした。
伊勢青木氏に付いてのこの考え方の伝統は、織田信長の伊勢永嶋攻めの1576年まで続いた。(後述する)
この伝統を守るために、この時から詔で皇族以外の一般の者が青木姓を名乗ることを禁止した。そして、源氏はこの後の天皇の第6位皇子の賜姓で16代続いた。(実質11代:花山天皇期)
17人の皇子と15人の皇女の臣籍が行われた。15家15流(実質11家11流)ある。
(16家16流とする説もある)
賜姓を外れた者は比叡山か門跡寺院への入山が主となり、学僧となった。この者たちが還俗したときは青木姓を名乗ることを許した。皇女は斉王か他家に嫁いだ。
嫁いだ先は家紋の違う未勘の源氏一族としてその男子の子供は名乗りをあげた。本来の皇族賜姓の家紋は笹竜胆である。しかし、家紋の違う源氏一族は源氏宗家の許可を得ていない事を主に意味する。(又上記の皇子皇女の数からして青木氏と源氏の名乗る数は多すぎる。前記した戦国時代の家系偏纂である。)皇族賜姓族は青木氏5家を含むと24氏となる。
賜姓青木氏から還俗青木氏までの賜姓源氏からは家紋違いの源氏がでた。
正規には、家紋笹竜胆は賜姓青木氏5流と佐々木氏2流と大島氏1流の3氏が使用する。
(大島氏は源為朝の逃亡先伊豆大島での子孫)

背景2−2
(背景2-1の続き)
皇族賜姓青木氏と還俗青木姓と皇族賜姓源氏からは家紋違いの源氏一族がうまれた。
桓武天皇の施策によって政治構成が大きく変化したが、この変化に対して、嵯峨天皇は反対派を押し切って修正を実行した。
律令国家の形態が完成したが、この行き過ぎを嵯峨天皇は修正したのである。
兄の平城天皇が病気理由で譲位したが、譲位後、戻ろうとして、薬子の変が起こる。つまり、変が起こるという事は現状派と修正派の戦いであろう。そして、これに藤原氏が両者に絡み戦った。そして、式家が落ちて修正派の北家が上がった。桓武天皇に命じられ青木氏に代わり、伊勢の国司に成った北家の藤原藤成であったが、修正派の勝利で伊勢の守を退き、伊勢青木氏に戻した。
そして、藤原秀郷の祖父藤原豊沢が修正派として藤成と行動した。この結果、北家が力を持ち孫の秀郷の代へと繋がるのである。

3について
嵯峨天皇は渡来系への牽制策の必要性があった。余りにも大勢力の超一族が朝廷内に存在して来た。修正派として勝利した古来から朝廷内に血縁を広げて確固たる勢力を敷いて来た藤原氏にとって、この渡来系一族の存在は放置することは出来ない。しかし、余りにも大きく貢献度もある。建前上も到底武力では排除できない。
桓武天皇を背景とした渡来系一族は、勢力の出した青木氏を牽制し、今度は藤原氏が渡来系一族を牽制しょうと画策する。多分、薬子の変はこの策の延長線にあったのであろう。しかし、嵯峨天皇(809)から1185年までこの戦いが続くのです。この間にこの戦いが朝廷内にくすぶるのです。そして、数多くの乱(保元平治 1159)などに結びついてゆくのである。
戦う北家は摂政関白にありながらも殆ど権力を失った状況の中(1150頃)で、渡来系一族を横目に見ながら、その後の11代の天皇(1070頃まで)は源氏を賜姓し北家の協力を得ながら着実に親衛隊の育成に勤めるのである。特に、清和源氏が勢力を挙げて積極的であった。
この証拠に清和源氏の妻は殆どが藤原氏北家の娘である事。特に清和源氏の源氏の勤め先は藤原北家の侍所で、頼光や頼信などは長く摂関家に勤めたのである。(1148頃)このパイプを利用して約10年程度で、5家青木氏の守護地は全て頼光の守護地に変わり青木氏との血縁を進めた。(990頃)
ここで源氏と摂関家との結びつきが生まれ、清和源氏と皇族賜姓青木氏が古来からの守護職を清和に代譲し、且つ、5家青木氏の跡目に入るなどの同化策に出た。
つまり、(1150年頃まで)渡来系一族追い出しの長期共同作戦である。

背景2−3
(背景2-2の続き)
青木氏への牽制策が、今度は藤原氏が子孫を守るために余りに大きい渡来系一族に対して天皇譲位と言う変化を捉えて牽制を始めた。渡来系一族にとっては「青木氏との摩擦」から今度は「藤原氏との摩擦」になりつつあった。そのなかで、皇族一族の維持経費が増大した。

4に付いて、
天智天武期の改革で皇族の維持費が財政上の問題として大化の改革は行われたが、それから160年経った嵯峨天皇期には再び膨大していた。嵯峨天皇には多くの皇子皇女がいた。そして、8人の皇子を臣籍した。そして、皇族を賜姓しなかった桓武天皇にも皇子が居たので、天武からの第4世以降の王が嵯峨天皇の時には膨大に成っていた。それまでは第6世以上の者は坂東に移して土地の者(坂東八平氏)とした。
これが、「坂東八平氏」で”ひら族”と呼ばれていた。しかし、この「ひら族」以外に天皇が代わるたびに増える6世王がたまって来ていた。王には高位王と低位の王とが居た。この低位の王の存在が朝廷と天皇家の財政上の問題と成っていた。よって天智天武期と同様に嵯峨天皇は弘仁5年8月に詔書を出した。そして、それまで、大化改新時に実施した皇位継承の制度を正式に制度として発した。天武期のそれと一部改善して皇位4世第6位臣下方式を発した。
代々出る低位王の数を減らした。
この事も桓武天皇との考えの違いがあったのではないか。譲位すると直ぐに実行したのはその証拠である。桓武天皇はこの臣下の策を皇子の中では採らなかった。律令制度を構築した天皇でありながら
も財政上の改革を身内の中で実行しなかった唯一の天皇であった。
それどころか、渡来系一族の引き上げを一族と見せかけて賜姓したのである。(これが将来、朝廷内のもめごとの一つになるのだが)
重複するが、嵯峨天皇以降の15天皇(11天皇)はこの方式を踏襲して第6位王を臣籍して、それ以外の王は比叡山か門跡寺院の僧として入った。皇女は伊勢神宮の斉王や門跡寺院の尼僧として入ったのである。一部には豪族の他家に嫁ぐなどした。この皇女を受け入れた豪族は源氏一族として生まれた嫡子に名乗らせたのである。これが家紋違いの源氏一族の支流族である。(豪族の跡目方式として出来る源氏一族もある)これらは全て、家紋違いの源氏である。
入山した学僧や尼僧が還俗する時は[青木姓}を名乗る事もこの嵯峨天皇から後15代の天皇に引き継がれた。(多くはない)

歌舞伎などで演じらる5家の賜姓青木氏に対して、徳川家の殿様が上座を外す、外さないともめる場面がある。慣例では賜姓青木氏は上位であるので結局外して上座を譲るという場面である。
たとえ嵯峨天皇から臣籍してきた源氏であっても、古代の賜姓青木氏に対しては下座した。特に、伊勢王を先祖として持つ伊勢の賜姓青木氏に対しては、江戸時代になっても行われたと伝えられている。
天武天智から引き継いだ賜姓族の制度で朝廷の財政は改善されたのである。
(実際の効果は花山天皇期までで後二条天皇まで行われた)

背景2−4
(背景2-3の続き)
嵯峨天皇が譲位したこの頃、阿多倍一族の勢いに対して賜姓青木氏も北家藤原氏も何とか対抗しようとしてあがいていた。
しかし、余りにも大きい相手である。この渡来系の一族は益々実績を挙げて、更に力を付けて拡大した。過去誰もなし得なかったが長男の息子坂上田村麻呂は征夷征伐の大成果を成し、征夷大将軍となり、次男と三男は大蔵氏と内蔵氏として、朝廷の律令の国体を完成するなど3蔵の官職のうちの2つまで握り、又一族は九州全土を統治する大宰府の大監になり、「遠の朝廷」(とうのちようてい)と呼ばれ3権を委ねられた。室町時代までこのように呼称されて3権を与えられた者はいない。この様な一族の働く中で、嵯峨天皇は源氏を賜姓し、上記の1から4までの改革を進めた。歴史では簡単に云う大変な軋轢と争いがあり、例えこの「勢力争い」の中で、天皇でも身の危険もあり言語に絶する大変なことであったと思う。
嵯峨天皇と藤原氏はこれだけでは納まらなかった。
絶大な反対勢力の中で桓武天皇の「政治」を改めたのである。また、北家藤原氏も着実に勢力をた高めた。それは次のことである。

5に付いて
律令体制が完成したが、一つの問題が出てきた。
それは、官職と官職の間の不備である。この問題に藤原氏は大いに関わったのである。
それは「令外官制度」である。(令の規定にない官職)
戦略1
嵯峨天皇は渡来系一族の対策として次の政治見直しにかこつけて、対抗する勢力を藤原氏北家に次の役職を与えて政治力を強めさせたと考える。

戦略2
それと「侍所」や「右大臣」などの政治の場での役職を与えて、身内の源氏一族の引き上げをした。

令外官は次の通り。
内大臣、中納言、参議、勘解由使、検非違使、按察使、蔵人、摂政、関白、近衛府 以上を出来上がったばかりの律令制度外に設置した。(財政、司法、行政、立法の官)
この「政治と行政」の「見直し機関」を設置し、これに全て藤原北家氏が関わったのである。これにより、力の出てきた藤原氏の秀郷も祖父の豊沢と共に70年後位に押領使として下野に赴くのである。
そして、この「令外官制度」は次第に常駐となった。この常駐となる事で藤原北家は朝廷政治の中では、渡来系一族に負けない絶大な力をもったのである。阿多倍の末裔一族に対しては軍事や経済力は依然として劣っているが朝廷政治では同等とまで成ったのである。(880−920)
しかし、矢張り渡来系一族は巻き返し強かった。1120年頃には再び藤原北家族と源氏は権勢は無くなるのである。

戦略3
しかし、藤原氏北家は朝廷内では衰退したが、坂東では930−940年頃には、豊沢や村雄や秀郷らに役職を与えて勢力を高めさせていた。
そして、この時、遂に、朝廷内でも940年頃に、更に台頭のきっかけとなる事件が起こったのである。「平の将門の乱」である。
「平の将門の乱」では、秀郷は掛けに出た。将門の独立国家樹立の動きに対して、朝廷内には、2分する勢力の為に、この勢力を征圧する事が出来なかった。
阿多倍一族の平貞盛もこの掛けに出た。そこを見越した秀郷は、混乱する朝廷に2つ条件を朝廷に出した。平貞盛もこれに載った。この二人は決死で戦った。5年後に征圧した。条件の貴族に成る事と武蔵、下野国の領国化を2つを獲得した。この二つを基盤に低迷する藤原氏の勢力を付けて行ったのである。当然共に、たいら族の貞盛を始めとする阿多倍一族も勢力を高めて行ったのである。

また、一方近畿では、源氏が誕生して村上源氏(9代目)まで一族が拡大していた。そして「清和源氏」や「村上源氏」や「醍醐源氏」が3源氏は、軍事と政治に力を持ち始めていた。清和源氏の3代目の頼光、頼信の兄弟は、摂関家の侍所、村上源氏では、具平親王が右大臣になり、遂には朝廷内にこの3源氏は藤原北家氏と勢力を二分するまでに成長した。しかし、まだ一氏だけでは渡来系族には劣っていた。
(15源氏中この3源氏が子孫を遺し勢力を拡大した。)
令外官で政治の場に台頭した藤原北家氏、関東では北家秀郷氏らが勢力拡大、近畿では軍事力を保持した親衛隊の源氏3家が台頭、力の盛り返した賜姓青木氏の4勢力がスクラムを組んで対抗した。
この4つの勢力が一体となって渡来系一族に1160年を境に立ち向かうのである。
1−5の政治、軍事の改革変化の中で、戦略1−3を実行して、2分した天皇家をも巻き込んだ双方一進一退の状況であった。





背景2の最終。



>


  [No.203] Re: 皇族賜姓青木氏の背景 4
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/24(Sat) 07:11:51

皇族賜姓青木氏の背景 3
青木研究員 さん 2005/06/30 (木) 11:22

嵯峨天皇と藤原北家一族の助けによって、伊勢青木氏をはじめとする5家の賜姓青木氏は再び息を吹き返した。
嵯峨天皇は桓武天皇の渡来系一族を引き上げてその持つ力の絶大さを政治の場に多いに利用した。又その効果は抜群で律令国家の国体を完成させのである。それは、それなりの方法で3相を得ていたものであるので否定するものではない。時代は3相(人、時、場所の構成体)にて構成されなければ本当の目的効果は達成されない。
この意味では、この800年頃は桓武天皇方式が正しいのであった。だから、効果があがった。しかし、何時の時代にも完全というものはない。嵯峨天皇はこの隙間に発生する問題を指摘し、これを修正しなければ天皇家はもとより朝廷も瓦解すると考えたのであろう。
なぜならば、この事例が目の前に歴史的にあった。そして、天智天皇や天武天皇はこの問題に取り組んだ。蘇我氏の台頭による天皇家の危機であった。これも3相を得て乗り越えて守りきれた。そして、その効果は桓武天皇期前まで引き継がれた。桓武天皇は果敢に課題と取り組んだ。そして、嵯峨天皇も背景2で述べたように1から5までの対策を実行して効果を挙げつつあった。
1−5の政策実行と次の二つの変更を試みたのである。
引き上げた藤原北家は貴族である。従って、武力による行動はない。しかし、北家には関東の役武を与えた。必然的に武装する必要は生まれる。祖父や秀郷親子のように当初は自ら武器で統治した。
もう一つは賜姓の源氏である。源氏は賜姓青木氏以来の天皇の親衛隊であり、侍を本文とし、政治に関与しない。
しかし、この本来の役務に対して、政治に関与させた。それを主務とする源氏まで生まれた。(村上源氏や醍醐源氏であり、右大臣までなった。)参考に、伊勢青木氏は軍略所であつた。つまり天皇の軍事的な相談役で勅命の代理実行者である。村上源氏(北畠氏)は学問所である。事務、政治の相談役である。
藤原氏には主務外に武を求め、源氏は主務外に文を求めた。
これは何故であろう。結論はあくまで渡来系一族にたいするけん制のための一策で、彼等と同じ能力をつけることに先ず主眼を置きそして、勢力を付けさせたのである。そうでなければ、到底、超大勢力で万能の一族である彼等と同等の力を持ち得ない。
策は成功した。しかし、依然として、彼等は益々大きくなる。
それは何故なのか。そこには二つのことが欠けていたのである。
嵯峨天皇はこのことに気がついた。
それは、部制度(前記)による経済的な基盤である。もとより、彼等が引き連れてきた技能集団の力でそこから上がる経済的利益の基盤が彼等にあつた。朝廷の軍事力は渡来系一族の武装集団に頼っていた。(蘇我氏の二の舞である)
「一紀一班の制」を施行し調査して、余剰の税の徴収をした。
「健児の制」を敷き一般の有位者の子弟から徴兵し軍団を創った。(前記した渡来系統治の九州は除く)
この政策を実行したことで、弱点は消えるとした。元に次第に藤原氏と源氏は勢力を付けて台頭し朝廷内では対等になった。背景2と背景3の政策が、1160年頃から渡来系一族と4者の団結で対等となった。1180年伊勢青木氏の跡目祖の源の頼政から乱が始まるのです。


  [No.204] Re: 皇族賜姓青木氏の背景 5
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/24(Sat) 08:49:44

皇族賜姓青木氏の背景 投稿者:福管理人 投稿日:2009/01/18(Sun) 15:46:15


皇族賜姓青木氏の背景 5
青木研究員 さん 2005/06/22 (水) 22:41
皇族賜姓族の青木氏は5家5流ある事は前レポートで述べましたが、この背景についてもう少し詳しく検証してみます。
大化改新によって青木氏は誕生したその背景のことは以前のレポートで書きましたが、その後の背景について述べたいと思います。
天智天皇の最終の皇子は2人で、施基皇子と川島皇子ですが、弟の天武天皇はこの2人を皇子として扱い、12人中第6位と7位の皇子としました。この二人の母は施基皇子は越の道君伊羅都女、川島皇子は忍海造小篭色夫古娘です。母の身分は采女(うねめ)か宮人で地方の小豪族の娘で、人質として扱われていた身分は低かつた。この理由は天智天皇は后、妃、夫人、みめ、の妻(妻は20人)の4階級の子供は避けて、一般の女官(采女、宮人)を妻として扱い、その子供を皇子とした。この理由は上位3階級の妻は全て血縁関係にありこれを特に避けたのである。天智天皇の12人の皇女の内の4人は天武天皇の上位2までの妻である。
この状況の中、第6位の施基皇子を伊勢の守護として配置した。伊勢は天皇家の天領地で伊勢神宮は守護神で、交通の要衝地で、主要穀倉地でもある。伊勢王として配置についたが、日本書紀に出て来る事14回で、天武天皇は自分の皇子たち全ての者より身分を高位にして頼った。
施基皇子は浄大一位。草壁皇太子は浄広位一位で1ランク差になる。

(参考として、伊勢には現在の松阪市京町(しき)、桑名市京町(しき)、四日市市京町(しき)、伊勢市一色町(しき)、津市一色町(しき)、四日市市一色町(しき)、河芸町一色(しき)、久古一色(しき)桑名市京(しき)、などの字は異なるが、名残として施基皇子(しき)の”しき”と読む地名が現在も数多く遺されている。)

そして、伊勢王の身分のままに伊勢には代理として三宅連石床を国司として送った。日本書紀では伊勢王は天武天皇の代理として行動して、大和の国に起こる領地争いや、政治施策の実行等の状況やもめごとを解決するために全国を回っている。
この伊勢王の青木氏は賜姓を受けるときにステイタスとして、当時、日本初の仏師 鞍作止利の作った65センチ大の仏像を与えられた。この後、子孫は桓武天皇まで伊勢の守護として勤めた。しかし、ここで青木氏の衰退となる大問題が起こった。(後述)
この間には、近江滋賀、美濃、信濃、甲斐に天智天皇より後の4人の天皇(天武]、文武、聖武、光仁)もこの規則に則り、配置した。どの国も伊勢と同様の重要な領地である。そして、伊勢青木氏を中心に5家がまとまり、大化の目的を果たした。(前記)
朝廷内で侍所として、その天皇を守護する宮廷守護の親衛隊としての役割を果たしていた。この時、伊勢青木氏は天武期の伊勢王の役所の「軍略所」(天皇の相談役)として勤めていた。

参考 
そもそも「侍」とは古代語の「さぶらう」の”常に側に居て付き従う”の意から「さむらい」と成ったもので天智天皇の「大化改新」による行政改革の一つで、第6位皇子が賜姓を受けて臣下して「侍」と成った。
その役目から「さむらい:侍」と呼ばれる様に成った。
それまでは、「武人」(たけるびと)として「物部氏」「漢氏」「東漢氏」などの渡来人による「部」としての職業軍人であった。しかし、これ以後、「公家」(政治家 斎蔵)に対して「武家」としての「氏」を構成する「侍」としたもので、「部」から「氏」に成り正規に伊勢青木氏を始めとして5家5流の皇族賜姓青木氏はその初代の「侍」に当る。
「武家」は室町期末期から後に「一般武士」までを含むものとして呼ばれる様に成ったが、初期の初代は「侍」としての「氏」を構成したのは初代は「皇族伊勢青木氏」である。続けて平安時代は賜姓源氏がこの役目を担い名乗った。
平安時代には宮廷の3門を護る「北面武士」と呼ばれて「官位官職」が付けられた。
「民部」等の役職と、宮廷の守衛する門の「右衛門」や「左衛門」で呼ばれ、これに上下の「尉」と「佐」の階級が付けられて3つで呼ばれた。例えば、「青木民部上尉左衛門信忠」の様に。
江戸時代には中級武士以上がそのステイタスとして朝廷に金品を渡し申請して「一代限り」のこの武家の「官位官職」を獲得して名乗った。

嵯峨天皇は皇位継承制度は第4位まで継承権を保持、第6位を賜姓し臣下した。第7位は地名を採って臣下した。
大化期の目的から財政上の改善目的のために第6世方式に準じず第6、7の皇子は王となって臣籍とした。
((第7位の川島皇子は近江滋賀青木氏を名乗ったとされる)

嵯峨天皇は財政上の理由で弘仁5年の詔で正式に第6位方式に変更した。
天武期の王は山部、高坂、石川、若狭、栗隈、三野、武富、広瀬、竹田、桑田、伊勢である。
但し、王には高位王と低位王(5世)がある。

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  [No.205] Re: 皇族賜姓青木氏の背景 6
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/24(Sat) 08:51:07

Re: 皇族賜姓青木氏の背景 投稿者:福管理人 投稿日:2009/01/18(Sun) 15:47:12


Re: 皇族賜姓青木氏の背景
青木研究員 さん 2005/06/23 (木) 10:06
追記と訂正
天武期の王には春日王と信濃の三野王と美濃王と近江王と追加します。
訂正は武富王と記していますが武家王です。
天武期の皇子は継ぎの通りです。先頭数字は誕生順 末尾は皇位順
1高市8、2大津2、3草壁1、4忍壁9、5長4、6弓削5、
7舎人3、8新田部6、9穂積7、10磯城10、11施基6、12川島7
建皇子と大友皇子は死亡
11と12は天智天皇の皇子で、5と6は天智天皇の娘(大江皇女)の子供、7は天智天皇の娘(新田部皇女)の子供で、日本書紀の編者です。
伊勢王と美濃王と信濃の三野王と竹田王と近江王の5家青木氏の守護先の王、
初代の青木氏の元祖の伊勢王は天武期朝廷の仕事が忙しく国司を置く。国司(くにつかさ)は朝廷より派遣された守護代理の役人
本来は天武天皇の葬儀は皇太子が行う慣例でありながら、絶大なる信頼があり、天智天皇の子供でありながら伊勢の王施基皇子が行うほどであた。
王には皇位の高い皇子の王(6,7位)と5世以下の王とがあつた。
当時は令で4世まで皇位継承権ありとして、6世は臣下し、5世は王にあれど王にあらずとされた。天智天武期は改革のために2世6位以下を臣籍にした。嵯峨天皇は弘仁5年に正式に4世6位以下を臣籍に改めた。このことにより、青木氏より変名して源氏が誕生した。途中の桓武天皇だけはある4つの理由でこの2つの氏の賜姓の臣籍をしなかつた。これが後に特に青木氏を含む源氏と藤原氏に大きな難題が降りかかるのです。そして。保元平治の乱などの多くの乱に繋がるのです。次の背景2のレポートに続く。


  [No.206] Re: 皇族賜姓青木氏の背景 7
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/24(Sat) 08:52:26

Re: 皇族賜姓青木氏の背景 投稿者:福管理人 投稿日:2009/01/18(Sun) 15:48:10


Re: 皇族賜姓青木氏の背景
青木研究員 さん 2005/06/23 (木) 12:39
上記のように青木氏には基本的な事柄の背景を持つていることを前提に次に記述を進めます。
645年の大化の改新で誕生した青木氏であるが、正式には668年に伊勢王となり、臣下して賜姓を受け、次第に勢力をつけて天智天皇や天武天皇の所期の目的を達成しながら、他の4地方までに4代の天皇に引き継がれて青木氏を広げていきました。
朝廷の軍事舞台の渡来系の坂上氏には達しないまでも、天皇家の親衛隊としての力をつけてきました。しかし、阿多倍一族との武装集団としての対抗が芽生えた。これがまた、青木氏の発展の障害となつたのです。世の常といえばそのとおりで、出る釘は打たれるのたとえ通りで、780年頃桓武天皇期にはこの荒波が押し寄せることとなりました。806
桓武天皇はそれまで続けていた第6位の皇子の臣籍と賜姓青木氏を変更し、突然、次の様な4つの理由で賜姓を渡来系一族におこないました。では、その理由ですが、
1 大化から引き継がれて拡大した4家青木氏の朝廷に対する勢力を律令体制を完成させた天皇としてはそぐ必要に迫られた。
2 渡来系阿多倍王の一族の九州から始まり、関西まで及んだその
32/66国の勢力。
3 阿田倍王一族が持ち込んだ国内へ部制度による産業基盤の技能と彼等による国内の軍事平定と律令体制への完成作業など、過去にだれにも成しえなかったその超貢献度。それによる朝廷の経済的財政力と政治的安定性の獲得。平安遷都はこれにより成し得たのである事。
4 慣例外の渡来人の豪族からの世間の風当たりなどの中で、桓武天皇の渡来系の母(高野新仁)とその義祖父への思い。

桓武天皇前の各天皇はこの超大勢力の阿多倍王一族との融和策だけではすまない政治的な決断に迫られていた。
皇族との結婚、子孫の朝廷内への主要役務の取立て、賜姓、特別地の支給と不輪と不入の権での保護を最大限に行ってきた。
桓武期にはそれまでの伊勢王などの貢献に比して、更には引き立てを実行せざるを得ない政治状況に落ち至る。
桓武天皇は次の施策を実行した。
1 伊勢北部伊賀国の容認と国司の任命扱い800頃
2 伝統ある伊勢の守護の青木氏からの剥奪と藤原藤成の任命820
3 青木氏に対抗する阿多倍一族の賜姓(後の平氏)797
4 藤原一族氏の重用(鎌足から4代目783頃から北家の台頭引上)
5 青木氏を政治から遠去ける。806
 (天皇の相談相手としての軍略所の軽視)
特に、青木氏の中心としての伊勢青木氏に対する締め付けは大で
4家の青木氏は衰退の一途を辿る。
伊勢松阪付近に集中して生き残る。そして、源氏との連携が始まる
この桓武天皇の賜姓と渡来族の台頭に警戒感を持った次の子供の嵯峨天皇はこの動きを止めようとした。そして、詔を出した。
次レポートへ


  [No.207] Re: 皇族賜姓青木氏の背景 8
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/24(Sat) 08:54:32

Re: 皇族賜姓青木氏の背景 投稿者:福管理人 投稿日:2009/01/18(Sun) 15:49:08


Re: 皇族賜姓青木氏の背景
青木研究員 さん 2005/06/24 (金) 12:05
青木氏は誕生以来、150年程度政治の荒波にもまれることも無く成長を遂げ、青木氏の親衛体として軍略所としての役目を果たしてきた。そして、子孫を増やし、大化期から律令国家が成立する800年ころまでは太平の世であった。しかし、この影で、大きな時代の変化の「うねり」が気がつかぬままに押し寄せていたのである。その「うねり」は時代に伴う必然的なものであった。
一つは渡来系一族がもたらしたの余りにも大きい津波の様な「うね  り」で、軍事、経済、政治の3面の「うねり」があった。
二つは本来あるべき国家の姿が次第に出来つつあった。
三つにはこの状況に上手く対応出来た二つの氏がいた。
一つは云うまでも無く阿多倍一族のもたらしたもので、軍事の近代化や経済の部制度と生産技能の発達、政治では、財政や政治手法の知識の普及である。200万と言われる人民が進んだ後漢のノウハウを一度に持ち込んだのである。近代に於いても例を見ない速さと質と量であった。明治のそれに比較にならないものであったのである。そして、それが近代日本のまだ基幹産業になり、政治体制の基礎に成っていることは不思議である。それが明治以降の植民地時代をくりぬけられた一因ではないか。
このようなものを持ち込んだ一族が動けば5家青木氏などひとたまりもありません。多分青木氏に於いてもこのことには気付いていた筈です。しかし、余りの力の差に手も足も出ない有り様であった事は間違いなく、それが桓武期まで引きずったと見る事ができます。
当然、桓武天皇はこの神にも近い万能超勢力を国体に利用しない手はなく、当然の流れとして。自分もさることながらその勢いを天皇の立場からも利用した。利用せざるを得ずしていた。なぜなら、歴史が物語るように蘇我氏のそれと同じくなり大化期前に戻ることを意味するからである。
当然にして、弱いながらも、天智天武から平安初期の未完の時期の働きから比較して、天皇の相談役の軍略所の役目は時代遅れの感あり、消え行く定めであろう。
二つは聖徳太子の冠位十二階制度など国家の基盤を作ろうとしていた頃から次第に整いつつある律令制度への国体が見えてきた時期でもあり、周囲から青木氏に対する目も異なりつつあったのではないか。それでなければ、阿多倍一族を倒すまでも、何時の世も同じで不満を表す程度の反乱が起きるはずである。
しかし、歴史を調べてもすくない。多分青木氏は政治と言う場面から孤立に近い立場に置かれつつあつたのではと推測する。
そして、5家間も次第に隙間風が吹いていた。結束することで生き延びることも容易であった筈なのに、次第に弱体化していった。
三つは先ず、藤原氏一族である。青木氏と同じくして誕生した藤原一族(4家)である。本来なら、朝廷の役職も阿多倍の子孫に軍事、政治、経済の3面を握られたのである。ただ一つ三蔵の一つは藤原氏が鎌足の頃からの役職であつた「斉蔵」を守った事。それに、2代目の不比等の活躍とその洞察力が生き延びるに一役をなした。
それは天皇家との血縁を結んだことによる。これによる力が藤原氏を支えた。5代目位までは血縁を盛んに結んでいる。そして冠位を獲得し、不動の体制を作っていた。
次レポートのテーマとなるのだが天皇家から外れはじめると15源氏中の10源氏位まで、今度は源氏との盛んな血縁関係を結び、天皇家と源氏と両極から固めている。
それだけではなく、地方の押領使等の役職で一族を配置して地固めを進めているのである。
現に、藤原氏の姓に付いて見ても判る。各地に配置した一族は姓を変えて、藤原の文字の前に土地の名を採って、例えば、伊藤、近藤、尾藤、武藤、加藤、遠藤等はそうである。殆ど全国に配置した。又、朝廷ないでも、役職の文字を付けて、斎藤、工藤、佐藤、左藤、進藤、内藤など小さい役職でも受けて子孫を守っている。
そこで、地方武蔵の押領使であった鎌足から8代目の藤原秀郷である。この一族の青木氏はこのような政治的な行動でその一とその二の荒波から逃げることが出来たのである。むしろ逆手にとって子孫は成長した。賜姓の青木氏とは大違いである。次レポートで記することにするテーマであるが、しかし、810年頃を境として嵯峨天皇期からは逆転していくのである。それは、この頃は藤原氏も例外ではなく、賜姓青木氏との苦肉の策の政治的戦略であり、これが大成功に導き、1185年についに最大の超ライバルの渡来系一族を抹殺するのである。もう一つの氏は言うまでも無く、渡来系一族から名を変えて成長してきた平氏である。 4つ巴の子孫を残す戦いの次レポートに期待ください。