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  [No.148] 伊勢青木家 家訓1
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/22(Thu) 09:15:45
伊勢青木家 家訓1 (画像サイズ: 2160×2061 37kB)

伊勢青木家 家訓1
副管理人さん 2007/07/21 (土) 09:39
伊勢青木氏の家訓 
「家訓10訓」

この「家訓10訓」を全国の青木さんに紹介し、「生仏像様」の存在と合わせて、人生の子孫繁栄の一助に成ればと思い、ここに投稿する。

前回のレポートで「生仏像様」が青木氏のステイタスとして、共鳴して一致結束の象徴として、人括りの先祖として、戒めの象徴として、擬人化された「生仏像様」として崇められてきた。
そして、この擬人化された「生仏像様」が発する「戒めの言」が、家訓として位置付けられていたのである。

しかし、本家訓の経緯を推察すると、いつの時代に纏められたかは定かではないが、大化期から1360年間の伊勢青木氏の宗家としての歴史の苦難の中で、自然に培われて、言伝えられたものであろう事がその内容からして判る。
それは、主にその皇族賜姓族としての立場にあった。
当時の氏家制度の習慣から、血縁関係も同等の範囲での狭い血縁を余儀なくされていた環境であった。
その環境の中で「家」を維持するという最大のテーマと5家5流の一族を取りまとめるべく目的から、この「生仏像様」と「家訓」という手段を利用せざるを得なかったのである。
現在の核家族した社会での常識では考えられないものであろう。確かに家訓の内容もその様なものが含まれている。
究極、突き詰めると、筆者はこれが真実ではないかと心得ている。それは現代社会が「消失した思考」であって、欠陥点では無いかと見ているのである。
そこで、このことに付いて、その論所を次に論じる事とする。

家訓は、それは次の二つに分類できる。
その中には、「忘備禄」の中に記述されているものと、「口伝」にて代々親から伝えられてきたものとある。

本来は守護や豪商であったことから、上に立つ者の心得として習得しなければならないし、長い期間その立場を保ってきた氏としての実績からは「家訓」は当然のことであった筈である。
そして、親族縁者や店の者を導く為に統一して誡めるためには、一つのものに書き記されていた可能性が高い。
しかし、それが無く成ったその原因は、明治35年に950年以上続いた伊勢松阪の紙問屋「紙屋長兵衛」が、出火倒産した際に全て記録が消失した。書籍的な記録が無く成ったことによる。

これ等の復元が、父の時代の大正と昭和の戦前戦後の混乱期の時代には無理であった。この事から、父から筆者に「青木氏の由来書」を復元し纏めるように頼まれていた。
以後40年間に渡り、「青木氏の由来」と「生仏像様」存在とあわせて調査した結果、この「家訓10訓」はその一つとして、次のものから出てきたものである。

祖父や両親から既に厳しく誡められていた「先祖口伝」による内容がある事から、別に何らかの形で何処かに遺されていると見て調査していた結果、紙屋の倒産後に、祖父が書き残した「忘備禄」(別名)等の中にその文面を発見し、そこに書かれていたものとを咀嚼して纏めた。父から聞いていた事とほぼ一致するので「10訓」として纏めたものである。

伊勢青木氏の「由来書」を復元する調査の際に、前期した「生仏像様」と関連して整理されたものであり、その基となったこの二つから来る「戒め」は、元は一つとして、何らかの形で纏められていたものである。

祖父に於いては、この「忘備禄」に書かれていた内容から判断して、日頃、伝えられている「口伝」以外に、是非に代々子孫に伝えられて来ていて、必ず伝えなくては成らないものを、明治35年以後の早い時期に、ここに書き記したものであろうと考える。それは祖父の代に倒産し消失した焦りから家を再興するに必要とする大事な事柄を書き残そうとしていたと文面内容から見られる。

以下の内容から見てみると、敢えて分類すると「家」を保つに必要とする「人生訓」と、「商」を維持するに必要とする「商訓」とに分けられる。
それが、「忘備禄」(別名)と「口伝」の差に依っているのではないかと考える。

「口伝」は家訓に関する言葉としても数多くある。
それらはこの家訓を裏打ちする平易で生活に密着した言葉で伝えられている。これに付いては関連するものを次の家訓の説明時に添えて説明する。

そして、これ等は、全て「生仏像様」(一括りの先祖)の「教え」として位置付けられていたものとされる。

家訓は禅問答的な表現方法で、漢文的にて表現されていて判り難いので、敢えて、現代用語として、書き改めて紹介をする。

伊勢青木氏の家訓10訓

以下に夫々にその持つ「戒め」の意味するところを説明する。

家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
家訓3 主は正しき行為を導きく為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず。


解説
家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)

”青木の家は「女」が家を潰す。”(口伝1)
”自尊心の必要以上に強い女は不幸”(口伝2)
”妻はお釈迦様の掌で遊ばせる心を持て”(口伝3)
”夫は第一番目の子供である”(口伝4)
”大事な決め事は夫が決めよ”(口伝5)

簡単に意味する所は、次のとおりである。

「夫婦」として、夫が夫らしくなくて、又、その能力が無くても、妻は夫のそれを責めるのではなく、妻は本来あるべき妻の立場としての責務を全うするべきである。これは、「親子」にも言えることである。この考え方が「家」をまとめ、発展させる秘訣である。

このために、口伝では、この関係する「戒め」がある。
「関係口伝」として、”青木の家は「女」が家を潰す。”(口伝1) この言葉が代々言い伝えられていた。

”妻は妻にして足れ”が守られなければ、仮に、”夫は夫として足りていた”としても、「家」は「女」が「しっかり」していなければ”「家」は潰れる”と説いているのである。
つまり、「女」=「家」としているのである。

では、ここで言う「しっかりした女」とはどう云う意味であろうか。
現実には、「家」は男の夫が差配する社会であり仕来りである。なのに「しっかりした女」とはどう云うことなのか疑問が残る。
更に、別の口伝の中で、”自尊心の必要以上に強い女は不幸”(口伝2)はその「自尊心」が災いして「家」を乱す事から、結果として家を潰す”とある。
つまり、「しっかりした女」とは「自尊心」の強弱にある事になる。
このことから、普通は、「しっかりした女」とは、現代では「自尊心の強い女」を言う事になるであろう。しかし、違うと説いているのである。

これには、「伊勢青木氏の立場」と「250人を抱える商家」と「青木氏宗家」と言う3つの条件が働いているものと考える。
核家族時代の現代では、、「しっかりした女」=「自尊心の強い女」が普通は正しいのであろう。
しかし、筆者は、矢張り究極は、「夫婦」という単位集団からしても、「口伝」の説が正しいと考えている。
その根拠は、「家訓4」でも証明できている。

何はともあれ、検証して見る。
妻或いは女は、自尊心が強ければ、その自負心から夫の足りない所を攻めるであろう。さすれば夫婦間は乱れる。乱れれば、結果として子や周囲にその欠陥が現れて「家」は正しい方向に向かないで自然衰退の方向に向かう。
この家訓は言い換えれば、「夫は夫足れども」の場合は、「かかあ天下」の有るべき本質を言い表しているものであろう。
長い歴史のある「家」の中では、「夫は夫足れども」の場合は必ずある。この時の「妻の有るべき姿」を言い表しているのである。否、「夫は夫足れども」で無くても、この「家訓」は、これを主張しているのである。
現に、筆者の知る範囲では、この家訓通りの通称「かかあ天下」であり、伊勢松阪の紙屋長兵衛の時代の繁栄には到底は到達は出来ないが、総称の「家」を苦難を乗り越えて子孫を多く遺し「家」は旧家を並以上に維持してきている。

これでなくては、現代まで直系で宗家としての「家」は長く保ち得なかつたであろう。
昨今は、女性は自らのこの素晴らしい立場を自ら否定し、間違った女性の権利を固持し、必要以上の「自尊心」をさらけ出している。
筆者は、むしろ、女性がこの世を維持していると見ている。
長い歴史の中で「ひがみ」の心が脳の一部に学習記憶として残り、これが表に出て来るのであろう。
何故に、上記のこの家訓の本質を見ないのであろうか。これが疑問の一つである。
現代の最大の病巣であろう。

ともあれ、このことに付いては次からの家訓にても証明している。

又、青木氏の他の「口伝」にもある。 
”妻はお釈迦様の掌で遊ばせる心を持て”(口伝3)とある。

又、次の口伝の言葉もある。 
”夫は第一番目の子供である”(口伝4)とある。つまり、親から引き継いだ子育てを、妻が再び次の目的で引き継ぐ事を意味するのである。
つまり、”子供から成人するまでは親の務め”で、”成人から一人前の夫にするは妻の務め”であると説いているのである。
筆者はこの口伝の言葉に大賛成である。真に、男の共通心理の深層を言い当てている。

共通心理では、男は「母親への慕情」が大変強いのもこの深層心理があるからである。

変な話であるが、医学的には、子孫を遺す行為、又はその発露として女性の体を求める行為は、この「母親への慕情」の「深層心理」が変位しての本能であるといわれいるからである。
「母親への慕情」=妻の第2の「母親役への慕情」となるのである。
子孫を遺す本能として働くのである。

現に、遺伝子的には、面白い証拠がある。
女性の卵子には「人間種の遺伝子」が組み込まれているのである。男性の精子の尾の付け根にある遺伝子情報は人の個人遺伝子情報のみである。
遺伝子操作でそのルーツを探るのは卵子からである。その人の種を求めるには精子ではなく卵子、又は女性の遺伝子からである。この様に女性の本質は男性より基となる優位の物(母)を神が与えたのである。

事ほど左様に、遺伝子的に見ても神はこのことを定めているのであるから、明らかに「人の生」は、女性から発祥しているのである。この説は納得できる本質である。

別に生物的にも説明できる。
生物がこの世に現れたとき、単細胞(ミトコンドリア)であつた。然し、これでは、動物性プランクトンの様に、他の強い生物との生存競争に飲み込まれて子孫を遺せない。食われる事により単細胞の雌雄のバランスが狂い子孫を遺す事の確率が低下してしまう。
そこで、この人の単細胞は、互いの同じ種の単細胞の雄雌を合体させる事でより子孫を遺す確率の高い方を選んだ。それが雄雌が合体した方法であった。しかし、弱い生存競争力ではこれでは子孫の維持は出来ても「拡大」は望めない。
再び、分離して双方に共通の能力を保持させ、その子孫を引き継ぐ遺伝子を分離し、合体の部位を変異させて雌雄の目的にあわせて造り上げた。そのことで、弱い生存競争にても、子孫を増やして行くことが確実に可能に成った。

その例えの見本として、単細胞的なミミズは現在もこの原始的合体方式を保持している。太く大きいミミズの真ん中付近に繁殖期には白い部分が出来る。左右は雌雄である。ここからある時期に雌雄が分裂するのである。

他にも、樹木でもこの逆の方式が見られる。現代では多くは雌雄合体であるが、逆に、果物のキュウイ等のように雄雌の別樹があり、この二つの樹で受粉する事が可能にして子孫を遺すのである。

この様に、元は別々であったオスメスの単細胞の生き物が合体してミミズのような物体となり、再び共通式分離したのである。この時、主な重要な遺伝情報を雌に与えたのである。雄の遺伝情報は単に子孫拡大の繁殖情報のみとしたのである。

つまり、昨今、問題に成った”女性は産む機械発言”の逆である。雄はその本質は「繁殖機械」程度のものなのである。あの問題の間違いは、むしろ、雄が「繁殖機械」であって、雌は上記の優位性を持っているのである。だから、謝罪でなのである。

それは、別には、「繁殖機械」=「働く機械」でもある為にも、種の保全の危険性が高いことから、男性には、遺伝子的に負担を少なくしたのである。
従って、女性は多くの重要な遺伝子情報の負担が大きく、そのエネルギー負担が大きいので体格的には小さい事になり、又、生理的にも難しいのである。
この様に神は家訓どおりに本質を創り上げているのである。

時代が変化しても、この本質は神が決めた事なのであるから、故に、「家訓1」は現代にしても正しいのである。
男女の本質が「家訓1」であるとすると、当然に、この本質(理屈)は他の同等の関係にも適用される事は出来るはずである。
そうでなければ、”夫婦間だけに本質だ”とする事の説明はつかない。
親子の説にしても、この家訓1は同様であると説いている。

”親は親足れども、子は子足れ。”である。家族や家や氏の関係に於いてもこの様な関係はある。
この本質を、この関係に於いて心より務めれば、夫婦、家族、家、氏は正常な関係を保ち子孫繁栄は維持されると説いているのである。
少なくとも、上に立つ者はこの「本質の心」を養えとしているのである。
そして、これを悟らせる為に、仔細にした心得の口伝が存在するのである。

ここで、お読みに成った人は、疑問を持たれた筈である。
「口伝4」で「夫は第一番目の子供である」としている。そして、”夫を掌の中で育てよ”とある。、”成人から一人前の夫にするは妻の務め”ともある。
つまり、「家訓1」と矛盾するのではないかと言うことである。
この3つの言葉からすると”妻は夫を指図して思いのままにせよ”とも受け取れる。悪しき意味の「かかあ天下」である。
ここがこの家訓の意味のあるところである。「先祖」は、「生仏像様」は、”これを悟れ、成長せよ”としているのであろう。
”足りずとも、妻の務めとして、足りる夫に子供の感覚で掌の中で育てよ。育つ時間の余裕を与えて”。この「掌の中で育てよ」に大きな隠し意味を持たしているのであろう。

但し、それを裏付けるこの家訓には次の口伝5がある。
”「かかあ天下」で全てあれ”と言う事を言っていない。”大事な決め事は夫が決めよ”(口伝5)とあり、決事の事の良し悪しの如何に拘らず、夫が決めることだと言っている。
つまり、”事の良し悪しの是非は後の時代に判る事”であり、今に判っていたとしても、それは上辺のことで、”真の良し悪し”ではないと説いているのである。
だから、これは「性の定」により、男が決めるべきであるとしている。
これは「性の定」としてこの注釈が附帯されている。(この事は「家訓4」で詳しく述べる。)

この家訓の裏を返せば、次の事を言っている。
”この難しい立場の役目を、女の「母性本能」で遂行し、妻が成長する事が秘訣である。と説いている。
”妻は妻にして足れ”は、”大事な決め事は夫が決めよ”(口伝5)を「妻の心得」として、このことを意味するのであろう。

この意味からすると、上記したように、「家」は「妻」如何による事になる。

上記した「妻」=「家」の数式はここに起因するのである。
これが結果として、先ずは、長く「家」を維持する(子々孫々)秘訣と説いているのである。

この家訓1は、他の家訓でも立証できる本質であり、この「訓言」は他の家訓の基本に共通している。
この事は、随時、説明をして行く。

次には「家訓2」である。

家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。


  [No.149] Re: 伊勢青木家 家訓2
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/22(Thu) 09:20:01

Re: 伊勢青木家 家訓2
副管理人さん 2007/07/29 (日) 22:02
伊勢青木氏の家訓10訓

前回の「家訓1」に続き、今回は「家訓2」に付いて述べる。

この「家訓2」に付いては、「家訓1」の意味する所に付随しての内容となる。

「家訓1」の意味する所は、纏めると次の事となる。
「家訓1」 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)

「家訓1」の関係口伝
”青木の家は「女」が家を潰す。”(口伝1)
”自尊心の必要以上に強い女は不幸”(口伝2)
”妻はお釈迦様の掌で遊ばせる心を持て”(口伝3)
”夫は第一番目の子供である”(口伝4)
”大事な決め事は夫が決めよ”(口伝5)

”「口伝」の下に、神が与えた「女の本質」を理解して、「母性本能」で妻は成長して、「妻は妻にして足れ」で「家=妻」で務めよ”としているのであった。

以下に夫々にその持つ「戒め」の意味するところを説明する。

「家訓2」 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。

「家訓2」の関係口伝
”教育とは学問にあり、教養とは経験にある”(口伝6)
”教育は個人の物(知識)”「素質と素養」(口伝7)
”父親は、「背中で育てよ」、母親は、「胸(肌)で育てよ」”(口伝8)

家訓3 主は正しき行為を導き成す為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず。

(家訓は禅問答的な表現方法で漢文的にて表現されていて判り難い、敢えて、現代用語として、書き改めて紹介をする)

解説
父のその能力で、その家の先頭にたって「家の事」を「仔細」に渡りすべて差配し考えを強要する家は、その子供は良い子供が育たず、又賢くならず、母が賢(家訓1)なれば家は纏まり、子供は良い子に育ち賢に育つ。
家訓1で言う「家」は妻が仕切る事の結果で、家は栄え、子供は賢い子供に育つとする。

それでは、ここで言う「賢い」とは、一体どう云う事か。
「賢」とは、「頭が良い」と言う事でなく、「総体的に優れた素質と素養」を身に付けた子供という事に成る。
その「素質と素養」は家訓1で言う「母の如何」に関わる事である。

それでは、父親が「賢」であっては成らないとするはどう云う事か。
父親という者は、その「賢」を家族の中では、決して曝け出しては成らないとしている。
子供は、曝け出したその父親の「賢」を見て、自らもその「賢」と成ろうとして無理をし、周囲との関係を無視し、偏りのある人物に成り、総体的な「素質と素養」が得られない。又、父親の「賢」を見て萎縮し、適性に成長せず、「素質と素養」を持つ事は出来ない。
この何れかの子供が育つとしている。
この結果、「家訓1」で言う「家」を継ぐ事と成った暁には、「家」は衰退させると説いているのである。

つまり、「賢」であっても良いが、曝け出しては決して成らないとしているのである。

では、家庭には、それを維持する芯なるものが必要である。では、どうして父親の存在や威厳を示せばよいかと云う事になる。
つまり、父親の「賢」は、直接見せるものではなく、[父の背中」で見せる事が肝要であるとしているのである。
父親が、(賢であろうが)、「愚」であろうが、子供はその「愚」を見て自らを律する子供になる事の方が、”総体的な「素質と素養」の持った子供に育つ”としているのである。


では、”父親が「愚」で有ればよいか””「愚」であっても良いのか”と云う事になる。
そう云う事だけを言っていない。あくまでも、「家訓1」の中にある「環境」の父親である事としているのである。
当然に、この「環境」とは、”大事な決め事は夫が決めよ”(口伝5)の範囲にある事である。

「賢愚」に於いて、曝け出しては成らないとしている。あくまでも、間接的な「背中で見せる行為」と「環境」の”大事な決め事は夫が決めよ”(口伝5)で家庭の「芯」なるものは維持出来るとしている。

父親の「賢」とは、同じく「頭が良い」と言うことを言っているのではない。「父親の賢」とは、「家訓6」で詳しく説明をする。
「家訓1」での補足では、男女の異なる「性(さが)の定」とする「家訓4」であるとしている。
「家訓2」での補足は、「家訓6」であるとしている。
(故に家訓4及び家訓6は相関するが、シリーズ中で解説する)

では次は、「父親の賢」とは、本質は何なのかと云う事になる。
つまり、家訓6に起因するので概容を述べる。
「父親の賢」とは、「教育」で得られた事ではなくて、「教養」を身に付けた事にあるとしているのである。
言い換えれば、(詳しくは「家訓6」で解説し説明する)”「教育」と「教養」は違う”と説いている。
「教養」は、「教育」を受けなくても自身の努力と経験にて得られるものとして「本質」は違うのである。

では、どう「本質」が違うのかと云う事になる。その差違は次の通りである。
この関係口伝では、主に、その主意は ”教育とは学問にあり、教養とは経験にある”(口伝6)としている。
つまり、”「教育」とは「育む」(はぐくむ)ものであり、「教養」とは「養う」(やしなう)ものである。”としている。

では、この事に付いて少し検証してみる。
必然的には、その論理的な差違は、人の社会では、次の様に定義付けられるのではないか。
定義
「育む」とは、学問的に得た「知識」で、更に「知識」を生伸し、「直線的拡大」を果たす事であり、大意は「枝葉」を伸ばす成長事を意味する。
「養う」とは、人生的に得た「経験」で、更に「徳識」を着実し、「増幅的拡大」を成す事にあり、大意は「果実」を着ける成長事を意味する。

故に、数式にすれば、教育=「育む」=学問=知識  教養=「養う」=経験=徳識  式−1 が成立する。


「家訓6」はこの「経験」(徳識)を重視しているのである。

父親の子供への影響は、関係口伝の”教育は個人の物(知識)”(口伝7)として、物(知識)は周囲(子供)には影響を与えないとしているのである。
父親の「知識」は、子供には、何らかの手段を用いなければ伝授できない。その手段とは「教育」でしか得られない。
何もしななければ、その「知識」は、子供には移らず「養う」事にもならず、その「着実」も成せない。

確かに個人のものである事が頷ける。だから、親は、この手段として、「教育機関」にて子供にも再び同じ「知識」を「個人の知識」として得させようとしてするのである。
しかし、その複雑な「経験」(教養 徳識)は、「父親の背中」で伝えることは可能である。
真にそれ以外に無いであろう。
人に依って異なる「経験」は、「教育」としてはこれは「教育機関」では得られない。あくまでも、「父親の背中」でしか伝えることは出来ないのである。
「言葉」で伝えてたとしても、しかし、「知識」は同じ量を記憶すれば、個人差が無くなる事から「即効果」であるが、「個人差のある経験」は、子供に取って「参考」にしかならないのである。

あくまでも、「経験」の滲み出る「父親の背中」で感じ取った「徳識」(教養)は、口伝の「環境」の中で、重厚な感覚として、無言で子供に充分な影響を与えるとしているのである。

故に、、「父親の賢」=「教育」+「教養」=「父親の背中」 式−2 が成立する。

依って、(式−1)+(式−2)+「母親の賢」=「子供の賢」=「素質と素養」 式−3 が成立する。

附帯して、「母親の賢」=「家訓1」=「母性本能」 式−4 が成立する

三段論法ではあるが、「家訓2」の連立方程式の上式が成立するのである。

昨今は、この説に対して、昨今の唯物史観が余りにも横行し、その視野が「父親の背中」と云うものの観念史観を許容できないで、このために「教育は教養」として定義付けられている様な風潮がある。

しかし、これは間違っている。「家訓6」で詳しく述べるが、”教育に依って教養が身に着く”かの事としているが、これはおかしい。
「教育」は「知識」であり、「知識」が身に着いたからと言って、教養が身に付くとはならない。
例えば、受験勉強中の様に、「知識」は覚え詰め込めば出来る。受験勉強した者が、「教養」が身に着いたとはまさか誰も思わないであろう。又、大學の教授が全て「教養者」であるとは限らない。

しかし、現代はここが社会の間違いの点で有ろう。
例えば、世間では俗説として次の事が言われている。
特に、テレビなどでは、論説を証明するために、”...大學の教授が言っている”などと巧みな手を使って持論誘導をしいている場面がある。
つまり、”学者の言うとおりにしていて、上手く事が運んだ試しは無い”
 即ち”学者の説は、学者バカ”との説があるが、この様にそれを非難される点は、この「知識」での結論だけで、社会の「諸事」を論じるから言われる言葉であって、これは「教養」の不足に関わることから来ているのである。

つまり、総体的に優れた「素質と素養」の中から発する言ではない事に起因しているからである。

又、社会では、”父が家の先頭にたって「家の事」を仔細に渡りすべて差配し考えを強要する家”は、正論であるが如く言われる傾向がある。”これが何が悪い”と言う言葉が耳に入るが、全ては悪いと言う事ではないと考える。

しかし、この場合、ここに二つの問題があり、この点に関わると好ましくない。

一つ目は、”仔細に渡り”である。
「仔細」に事細かく口うるさく言うは、家訓1で言う「妻の立場」が無くなり、妻に依って育てられる「養育部分」が欠落し、偏った子供が育つ事になる。子供の育つ「養育部位」は殆どが母(妻)に依るところが大きいからである。
ゆわんや、”「母性本能」から来る愛情の部分が多い”とするのである。
この「養育部位」は「子供の基本部分」になると言うのである。 

つまりは、愛情の部分=子供の基本部分=「母性本能」 式−5 が成立する。

故に、関係口伝では、母の愛情の発露である ”胸(肌)で育てよ”とされるのである。

”仔細に口うるさく言う”は、この式を欠落させた子供が育つとしているのであるから、子供は「賢」ではなくなるのである。

では、父親はどうすればよいかと言う事になる。
それは、家訓1の口伝5でも述べたが、「大事な決め事は夫(父親)が決めよ」と「背中で見せよ」の二つである。

関係口伝との結論は、父親は、「背中で育てよ」、母親は、「胸(肌)で育てよ」”(口伝8)と言う事に成る。

二つ目は、特に、男子を育てる場合にある。
昔では元服期(15歳頃)より18歳頃までの4年間の思春期は、父親の「指導」を必要とする。
これは、脳の中での「性(さが)の芽生え(目覚め)」により、「男子の自我」が生まれる。

これは女性としての母親の経験する思考範囲を越えているからである。
つまり、「母性本能」では処理しきれない「行動や思考」を示す事から来ている。(家訓4で詳しく解説し説明する。)

但し、この場合も、父親の”仔細口うるさく”では無く、あくまでも「背中で見せよ」であり、その「背中」が示す「人生経験」で、「強要」ではなく、「指導」する事にあるとする。

男子の子供には、父親で無くてはならない「特定の養育期間」があるとしているのである。
「世の中の成り立ち」や「男の性(さが)」に付いて経験を通して、「人生の先達、友人」として「指導」する事であるとしている。

参考 家訓4で説明するが、概略注釈する。
「男の性」には、意識でコントロールできない脳の中で起こる「深層思考の原理」の事であり、「理想、合理、現実」の三連鎖の思考原理が脳の中で無意識の内で起こる。
これを余りに追求する結果、「人間関係」の中で、「争いや問題」を誘発させる辛い性質を潜在させる。
因みに、「女の性」の「深層思考の原理」は、「感情、勘定、妥協」の三連鎖の思考原理が起こる。
これ等は、何れも良し悪しの問題ではない。各々の「性の仕組み」に合った思考原理に出来ているのである。

(参考 三連鎖の思考原理とは、物事に対して、脳は連鎖的に次の三つの反応で思考を纏める。
物事の処理に付いて、基本となる考え方[理想]を引き出し、それを基[合理的]に判断し、[現実思考]で実行しょうとして、瞬時に無意識の内で、綜合思考する脳の働きを云う。)

(但し、驚く事は、伊勢青木氏の「生仏像様」のご先祖が、現代の脳医学で解明されている事柄に近い人の仕組みを理解していた事である。この事柄に付いて調査した所、大概に合っているので、現代の解明されている仕組みで解説した。)

神が定めるこの世の全諸事に対応する6つの思考であり、この男女合わせて6つの思考で初めてこの世の1つの諸事が解決できるとしている。
故に夫婦は互いに持ち得ていない2種の思考を補い組み合わせて始めて1つと成る。
夫婦は、1種の思考の足りない所を補わせるのでは決してないのである。
(現代の世情はこの考えである所に問題の病巣がある。)
これは、「家訓1」のミトコンドリアのところで述べた神の成せる技である。
ゆわんや、「家訓1」にはこの点を補足しているのである。

だから、「家訓2」の特定期の男子にはこの「思考原理」が芽生える故に、父親の「背中と指導」が必要とされるのである。

この二つの問題事を、父親が上手く処理できれば、”何も言わない「愚」であると見えている父の姿が、それは「賢」と子供の心に残るのである”としている。

故に、必要以上に ”父親は「賢」を曝け出すな”としているのである。”「背中で見せる」だけでよい”としているのである。
つまり、”魑魅魍魎の世間で揉まれた後姿”で充分であるとしている。これは言い換えれば男の人生の「経験」である。

上記の(後姿=経験)であるならば、「教養」=「経験」であるとしていると、故に、「後姿」=「教養」 式−6 である事になる。

何も、俳句や活花やお茶等のソフトな事だけが「教養」だけではない。ハードな「男の後姿」も立派な「教養」であるとしている。

ここでも、次の事が言える。
家訓1では、女性(妻)が優位の立場を認識していない現状を訴えた。現代の病巣であると。
家訓2でも、男性(父親)の「後姿」が「教養」であり、父親の本来のあるべき姿である事が、認識されていない事に痛感している。

父親が、この”認識の無さから口うるさく言うこと”が「子供を教育」していると勘違いしていることから、「賢」なる子供が育たない病巣であると考えている。
又、母親も、この4年間の間の養育期間は、「父親の指導」を強く求められる期間である事を知るべきである。

青木氏の家訓にある事から、何時の時代にも、この「勘違い」が、強い母性本能からこの勤を見誤り起こっていると言う事であろう。

家訓1でも、記述したように、成人になれば、今度は、子供の妻(嫁)が育ててくれる事になる。それまでの家訓2である。
(注意 家訓1の別意である永遠のテーマ「嫁姑の関係」は、この戒めを守っていないことから始まる)

ここで、丁度、「家訓2」を説明出来る様な自然界の法則が起こっている「木の事」に付いてその成長過程を述べてみる。
面白いことが、起こっているので最後に参考に注釈する。

但し、判りやすくするために下記の用語は次の意味を持たす。
「果実」:賢なる子供  「3又枝葉」:夫婦  「中枝葉」:父  「着実枝」:母  「成長枝葉」:「育む」  「成養期」:「養う」

「変態期」:子供成長期(15-18)  「深切り」:背中  「雑木態」:曝出環境  「剪定」:大事な決め事  「選定の習慣」:経験  

「着実」:素質ある子  「着果」:素養ある子  「葉色」:育と養  「記憶的学習」:知識  「木勢」:家庭  「木の経験則」:徳識

それは、この上記で説明した事柄の「家訓2」の「育む」「養う」等の過程が起こっているのである。

説明する。
木は、季節の春を得て芽を出す。この時、多くの木の木芽は「3又枝葉」を出す。つまり、5本の指の親指と小指を折った3本の形で枝葉を出す。この枝の真中の「中枝葉」は「成長枝葉」である。木を大きく伸ばしたい時は、この「成長枝葉」を残し、左右を剪定する。伸ばさずに将来に着実させたいときは、「成長枝葉」を切り落とす。そうすると着実のために「成養期」に入る。

この時期の「成長枝葉」を残すと勢力が「成長枝葉」に採られて、直線的に伸びる。余り着実せず収穫量が低くなる。これを続けると何時か、着実の悪い「木態」となる。
そして、この成長過程は7月/20日前後(「変態期」)を境にして、「生育」に突然に変化する。その変化は「3又枝葉」の何れもが「生育期」に入るのである。
そして、「中枝葉」を切り落とした場合は、残りの2本の「着実枝」は実を着ける為に枝を強くして準備する。

この時の「3又枝葉」の「葉色」は、左右の「着実枝」が次の年に実をつけるために出す「葉色」とは異なるのである。
この様に、木の「育と養の差違」は、「葉色で見分け」が外見でも出来る様にする。
木全体が来年、将来に向けて自らの木を大きくする。勢力は全てこの成長に向けられてしまって、枝葉の多過ぎる木態となり、次の年以降の着果は全体的に低下する。何時しか着実は殆ど無くなる。梅や柿はこの現象が顕著に表れる。

一度、この様な「雑木態」と成ると、「深切り」をして元の状態にしなければ成らないのである。この様に成ると、木は長い間の「記憶的学習」(年輪の記憶)を消されて、数年は元に戻るまで「着実」「着果」はしない。(最低は2年程度)
だから、この「変態期」までには必ず、「母性的な愛情」を掛け過ぎずに思い切って、「着実」の目的のために「父性愛的」な「剪定」をする事が必ず必要である。

そうすることで、「3又枝葉」の「着実枝」(左右枝葉)だけを養えば、次年度からは「熟実」が倍増的に拡大して行く。この枝に定量的に確実に着実する。

この二種の枝葉の「選定の習慣」で、「木の経験則」が起こり、そうすると見事な果実(賢なる子供)が出来る様に成る。
しかし、放置しては「木勢」は維持できず、着実しても着果せず自らの木態を守る為に実や葉を落とす。
但し、木には、成長過程の7/20(春)タイプと、逆の2/20(秋)タイプとがあり、木に応じて選択する必要がある。

真に、この「木の生態」は、「人の生態」(子供が賢に養育する様)と一致する。
この様に、自然界の神の成せる業であり、この「家訓2」は事の本質を意味する事になる。

この法則は木だけでは無い。筆者の専門域の自然界の鉄などを顕著として金属類にもこの法則の現象は起こっているのであるが、又、時間が有れば放談として何時か投稿したい。


兎も角も、「3つの口伝」を心得て、家訓2 ”父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。”を理解してもらい子孫繁栄の一助に成ればと考える次第である。

次は、「家訓3」である。

主は正しき行為を導き成す為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)


賢なり。


  [No.150] Re: 伊勢青木家 家訓3
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/22(Thu) 09:27:05

Re: 伊勢青木家 家訓3
副管理人さん 2008/02/27 (水) 16:26
家訓1と2に続いて家訓3に入る。

青木氏の家訓10訓
家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
家訓3 主は正しき行為を導く為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず。

家訓3 主は正しき行為を導く為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)

関連訓
「三相の論」
「衆生の論」
「万物の輪廻」
「女子と小人養い難し」
摂理「5つの変化」(上限変化 微分変化 変曲点 積分変化 上限変化)
摂理[S字パターン」「N字パターン」(回帰法)

この家訓を理解する上で、伊勢青木氏の歴史的な経緯が大きく左右しているので、先ずそれを先に述べる。

歴史経緯
伊勢青木氏は大化改新で発祥し、1315ー20年頃から「2足の草鞋」で商いを営み明治35年まで「紙屋」として続き、男系継承は耐える事なく現在に至っている。
ステイタスも笹竜胆紋と生仏像様を維持している。又、後150年は孫の時代であるので確実に継承する事が約束されている。
この間には多くの波乱万丈の歴史を保持しているが、この過程では、伊勢青木氏の子孫繁栄の秘訣を家訓10訓として何時しか遺されている。此処まで来られたのはこの家訓のお陰げであり、これを先祖は人生の最大目的軌範として護り続けたものであろう。現代も護る軌範としている。

この歴史事から、侍として、商家としての長い歴史の経験から「戒め」としてのものが出来上がっているが、特に、この家訓3となった経緯が大きく左右している。

従って、最大の理解を得る為にその経緯を先ず優先して次に示す。

歴史的事件に直接関与
その由来を調べると、日本の歴史上の大きな出来事に直接的に殆ど大きく関わっていることが判る。

例えば、1 647ー780年頃の大化期の大化改新で発祥(647)し、勢力拡大して皇親政治の主役となった

2 その後、150年後の桓武天皇の母方の阿多倍一族の引き上げ事件とその一族との軋轢(781ー806頃)

3 その阿多倍一族の末裔の京平氏と嵯峨期から発祥した同族の源氏の勢力争いの戦い「保元平治の乱」(1153--59頃)

4 青木氏と源氏が衰退する中での青木氏の遠祖の源頼政の「以仁王の乱」で合力(1178-80頃)

5 それ4を引き継いだ「治承寿永の乱」での一族一門の同族としての戦い(1180-85頃)

6 頼朝の旗揚げと「伊勢青木氏の本領安堵」、鎌倉幕府樹立後の北条氏との軋轢と「2足の草鞋策」の自立(1195-1235頃)

7 室町幕府の伊勢の国の半国割譲(伊勢北部伊賀と伊勢南部長島)での衰退(1465-73頃)

8 紙屋長兵衛が後ろで糸を引く伊勢の一向一揆から始まった信長の「伊勢長島攻め」(伊勢大河内城)での北畠氏への合力(1569-75頃)

9 台頭著しい信長の伊勢攻め「伊賀天正の乱」で名張城、度会の山城青木城での敵対(1573-77年頃)

10 蒲生氏郷(秀吉命)の伊勢青木氏(本拠地五日森の松阪城:平城松ヶ島城)の「松阪攻め」(1578ー82頃)

11 戦いでは最後となった家康の「大阪の役」の参戦(1614-15年頃)

12 明治の初期に「地租改正」が起こり三重から各地に伝播した「三重大一揆」(1870-72頃)

13 明治35年の(出火元)松阪の大火と600年以上続いた紙屋の倒産と賠償(この時期数年立て続けに悲劇が起こる)

これ等の主だった歴史上の大きな事件と戦いに直接的に巻き込まれた。

647年から1620年までの他の政治軍事の権力闘争の戦いではいくらかの関与はあったと見られるが、上記のこれ等が史実として明確に成っている青木氏の存亡としての大きな分かれ目の戦いであった。
この様な戦いの中でありながらも無事生き残れた。
(参考 1185-1300は安定期:1315-1325は「2足の草鞋策」期:1330-1573は下克上戦国で苦難期)

「2足の草鞋策」と「不入不倫の権」での生き残り
それは、商家として手広くしていた「2足の草鞋」と、古来奈良期よりお墨付き「不入不倫の権」で護られていて救われた青木氏始祖の「伊勢青木氏」があったからこそ、この二つ事で生き延びる事が出来たのである。
当然に、この様な経緯からその家訓は必然的にその影響を色濃く繁栄する事となろう。
この全家訓は、この事の背景を理解した上で、とりわけ家訓3にはその深意を汲み取る事が出来る。

「商家と武家」
家訓が出来る経緯の中で、ここには、”何故に商家なのか、何故に「2足の草鞋策」なのか”という疑問が残る。これを示す事件があるので特筆して紹介する。

天正の直接事件
この事件は信長と直接伊勢青木氏とが戦った有名な事件である。
900年間も護られてきた天皇家の本宮の伊勢には、天武期と嵯峨期に定められた「不入不倫の権」があった。
しかし、室町期の混乱期でありながらも護られてきた。然し、信長の「天下布武」の方針の下で、これ等の神社仏閣の既存権威は破壊された。
その護られてきた「比叡山焼き討ち」を始めとする一連の信長の禁断を押し切った「伊勢攻め」で、信長の一の家来の滝川三郎一益と信長の息子信雄を特別にこの伊勢攻めに差し向けた。
この時代では、周囲では信長の一斉討伐が行われていた。都に向かう掃討作戦の一環としてである。
先ず、この伊勢に於いては、それは信長が安心して京に進むには、最大の戦略課題であるこの伊勢路を確保する必要があったからである。
ここは青木氏の勢力圏と紙屋青木長兵衛の伊勢シンジケートのテリトリーである。
南北朝時代の楠木正成の10万の兵を打破した歴史的善戦でも知られるように、この域は伊勢シンジケートの膝元である。
この為に、伊賀に差し向けられたこの二人はこの為の拠点として伊賀の入り口の丘の上に山城(丸山城)を築こうとした。
しかし、材木が極端に不自然に高騰し入手できない。築城は全く進まない。
当然である。この域は伊勢青木氏で伊勢の豪商のテリトリーである。
紙屋長兵衛は、伊勢一帯を海の伊勢水軍と共に、戦乱で敗退した豪族を集め組織化し養いしたシンジケートで押さえている。それでなくては大きい商売は不可能である。
政治的、軍事的、経済的には、主に3つの護り城郭等を持ち、名張から桑田、員弁まで押さえている。
名張の青蓮寺城と度会の山城青木城と松阪郭館(五日の森の松阪城平城)で伊勢青木氏が押さえている。まして、大船を数隻を擁して海外を相手とする堺町にでも大店を出している。材木どころか搬送の船、人夫さえも確保できる筈は無い。
1年2年と全くと云って進まない。滝川氏は痺れを切らして紙屋長兵衛が密かに差し向けた人を頼りに、長兵衛と材木と人夫調達を頼む為に会う事となった。
商人としての顔も持つ長兵衛は誘いに入ったと見て、了解した。密かに、シンジケートに指令を出す。
材木は調達できた。城は長兵衛の意を汲んだ人夫達はゆっくりと建て始めたが、長期間の末に、やっと出来て天守閣がもう少しで建つというところで、念願の滝川氏と信雄はその城を見にきた。ところが、その時、爆発と共に城から火の手が上がったのである。長兵衛の伊勢ルートのシンジケートが仕組んだ作戦であった。
苦労の末に経済的に底をつく様なところで出来たが、水の泡と化した。一方、長兵衛とそのシンジケートは大もうけであり無傷の戦勝である。
再び元の状態に戻り、伊勢攻めは始まらない。この間、もう一方の武家の顔を持つ青木民部尉長兵衛信定と伊賀氏側では、名張(青蓮寺)城と青木本山城と伊賀城(柏原城)とで、次ぎの本戦に向けての作戦が着々と進められていたのである。この猶予期間を作りだす戦略であった。この二つの顔を持つ長兵衛であった。

これが滝川氏と織田信雄が「蟄居謹慎」に会った彼の有名な「信長烈怒」の史実である。
信長唯一の完敗である。それも影の商人に負けたものである。この後、信長は方針を変えて確固攻撃で無理押しの「伊賀攻め」に入った。
矢張り、本戦が出来ない伊賀特異のゲリラ作戦に入った。青木氏は、その信長の陣地を側面から崩す作戦に出た。つまり、2面の陽動作戦である。信長側は夜昼は無い。シンジケートの邪魔で食料は届かない。皆疲れ果てる。戦意は落ちる。
真に南北朝のこの地域で起こった「楠木正成の戦い」に類似する。
同じ紙屋長兵衛が指揮する伊勢のシンジケートが動いているのである。当然である。またもや長期戦である。
しかし、伊賀側でも消耗戦でありジリ貧である。最後は、青木氏の名張城から青木氏の本軍が伊賀城(柏原城)に入って共同決戦となった。
多勢に無勢である。結果は長期戦で伊賀城は落ちた。しかし、城は落ちたが伊勢青木氏は無傷である。
ところが信長は此処までが精一杯の戦いであった。伊勢青木氏の本拠地の伊勢松阪までは入る事は出来なかった。
その後、この前も秀吉をも同じ手で矢張り「伊勢長島攻め」で苦労するのである。そして、最後には秀吉の命を受けた蒲生氏郷の「松阪攻め」の青木氏の敗戦で終わる。

その後では、新宮に避けていた青木長兵衛は1年後に同族(清和)の血を引く氏郷の招きで紙屋長兵衛として再び松阪に戻る。
その後、秀忠を待つ為に名古屋に留まった「大阪夏冬の陣」の家康の要求に合力して、紙屋を中心とする全伊勢シンジケートを結集して伊勢路沿道警備として250人で参戦した。
徳川時代に入り、紀州徳川の松阪飛地領として青木氏と親交を続け、紙屋長兵衛では吉宗の「享保の改革」に依頼されて一族の者を同行させ勘定方として貢献する。親交は大正14年まで続いた。

(歌人でもある猛将の蒲生氏郷は、近江源氏で近江日野12万石から伊勢松ヶ島城(1584:元北畠氏の城で養子織田信雄の居城)に入り、松阪の四五百の森に石築の平城松阪城(1588:6万石)を築き近代的な商業都市を最初に築いた人物:伊勢青木氏と親交)

「伊勢で起こった2つの大一揆」
他に、伊勢国に長く関わり確固たる経済的基盤と権威を築いてきた1365年の歴史をこの地で持つ伊勢青木氏は、確たる証拠は失い無いが、1570の長島一向一揆に続き、1876年の2度目に起こった明治の「地租改正」に反対する住民の有名な大暴動の「三重大一揆」にも、立場上(伊勢国玉城町の面積の8割が長兵衛の蔵群であった事と松阪屋敷町2区画とその経済力)から考えると充分に裏で関与していたのではないかとも思われる。
実は、10年前の徳川時代に、この三重の豪族で紀州徳川氏の重臣で、伊勢を治めていた加納一族(吉宗の育親)との血縁がこの時期に伊勢の青木長兵衛の家とあった。
この加納家も青木氏と同じく「2足の草鞋策」で加納屋として大商いも営み地元の地主として君臨していたのである。
伊勢でこの二つの両氏が「地租改正」で土地を奪われるという事は氏の存亡に関わる一大事であり、伊勢で一ニを争う両者の経済力で、「伊賀天正の乱」の様に、この騒ぎの紐を操るとしても不思議は無い。又、一揆としても人間の成す事に変わりは無い。一時的な感情で動いたとしても続かないのが常である。経済的な裏づけがなければ長続きできない。当然、全国的な一揆としは繋がらない筈である。だとすると、証拠は遺さないであろうがこの推論は考えられるのではないか。

以上の1635年間で数多くの事件の三重付近で起こったこれらの史実事は、我が家の「口伝」内容を考察すると、上記の史実とがほぼ一致して伝わっている。

これは真に、「2足の草鞋」でなくては成し得ない生き残り策であり、この方策を先祖が時代の「三相」を見据えた深い判断で採った策であった事が判る。まぐれの1度や2度での事件の繰り抜けではない。「政治、経済、軍事」の3権を保持する事の明断であった事は疑う余地は無い。
それには欠けていたものとして、何度も繰り返される事件に対して、「武家としての権威による経済」では無く、実効の行動基盤の整った「商家としての実質の経済の力」の保持であった。その必要性を痛感し、自前であった「武家としての権威による経済」を活かし発展させて1315ー25年頃にこの策を判断したものであろう。

そこで、この事例でも見られる様に、この家訓3は「商家」と「武家」との両方での時の「生き抜く術」(人、時、場処に適時適切に動いた術)の結論であったものと見なされる。
故に、時の武力と政治の権威の信長を打ち負かす程の「力」を持ち得ていたのである。

そこで、これらの事を背景に生まれたこの家訓3を紐解いてみる。
簡単な文章の単語の全てに大きな意味を持っている事が判る。

「主の思考」
例えば、先ず、主語の「主」(あるじ)である。
「主」(あるじ)商家であろうと、武家であろうと、上に立つ者としての裁量の如何に依って氏や家の浮沈は決まる。
だから、「主」がしっかりとしていれば、1365年の間の上記の様な歴史を生き抜いてくる事が出来た。そして、何事もそのキーワードは”「主」に成る者の如何である”と結論付けたのは頷ける。
その重厚な経験から「主如何」と言えるからではないか。

私は、昨今では、それが全ての事件に欠けている様に思う。
もう少し、上に立つ者の「主」が、しっかりと「自覚」し、事細かに「目配」りをし、「厳しさ」を示し、「事の理」をわきまえて居れば防げた事件が多い。
確かに、世の中は一昔と較べて物事全てが「煩雑化」し「緊迫化」し「科学化」し「スピード化」している。
故に「主」の負担が大きい事が頷けるが、それで、適格者ではないと思えることが多いことも言える。

そこで、例えば、10の力で経済成長が進み、更に経済成長させようとすると10以上の力でなくては進まないのが道理である。
車に例えると判りやすい。車が40キロで走るとする。更に速度を上げようとすると、40キロ出力のパワーでは40キロ以上のスピードは出ない。当然に、出力をそれ以上に上げる必要がある。80キロで走るとすると一見倍の力だと思うだろう。
現代の日本はその域にあるから、我々の時代と異なり、その負担はより大きい。従って、組織を動かす者にとっては動力と思考の負担は格段に違っているだろう。だから指揮不足、不適格者とも思える事象が多く成っているのかも知れない。

と考えるのが普通であろうが、そうではない。私は少し違っているのではと思っている。
何故ならば、この思考には上限の「絶対値」というこの世の中に存在する生物、或いは動体には存在する思考が欠けているからだと考えているのである。
つまり、当然に、その社会になれば、指揮する者に課せられるそれなりの思考が存在するという事である。
それがこの家訓3にこめられた訓であると言うのである。

上記した先祖が遭遇した事件の「時代性」は、丁度、現代の社会の「時代性」と共通するものがあるからである。
その「時代性」とは、下記に述べる「5つの変化」のうちの「積分社会」の「上限域の変化」に遭遇していた事による。
当時の時代の基盤では成長の上限に到達していて、それに対する改革が成されなかった結果、上限に持つ特性の破壊、即ち、「下克上や戦国時代」と言う谷底に陥った「時代性」であったという事である。
故に、それを解決すべく長い期間の人間の葛藤が起こってしまったと云う事である。

現代もその谷底に落ちる手前に来て居ると観ている。化石燃料の枯渇や温暖化や世界の国格差などで、騒乱が起こる手前の時代性と一致する。(破壊に繋がるのは、私は論理的に矛盾を多く持った中国の結果次第が引き金と観ている)

この手前の社会の思考には、”無限に高一定率(「微分変化」)で伸び続ける動体は無い”と言う肝心な「自然摂理」の思考に欠けている事である。
現に、一般界、マスコミなどで、比較的、或いは殆どの「衆生」の判断には、この思考(微分変化だけではなく「5つの変化」域に限界値がある事)に欠けたのものが多い。
まだその認識に意識が至っていないことを意味する。安易な「衆生の論」に終始している。

此処で、時事放談をする。
先刻の選挙で民主党が大勝ちした。民主党は当初”「永田町 民意民意と せみが無く」”であった。
果たして、この「民意」は”「せみの声 正しい民意 民民ぜみ」(正しいせみの声)だろうか。
”「寒空に 民意ねじれて せみが死ぬ」”である。
”「せみの声 民(ミン)が悪くて 自民負け」”(ジーミン)でないのか。
”「せみ騒ぐ 感にさわるは 民(ミ-ン)の声」”
”「民意鳴く 好きと嫌いと せみの声」”(ミーンィ)
”「一つ鳴く 孤独の民意 せみの主」 
「民意」と言うが、国政が滞り適時適切に施策が実効されなくては本来の国会の目的はない。
この「民意」は「衆生の論」でなかったか。果たして「民意」を何でもかんでも政治には「民意」では無い。
もし、「民意」が何時も「真の民意」であれば政治家は要らない。アンケートすればよい。それを官僚が実行すればよい。
「民意」はとかく「衆生の論」である事が多い。「三相の論」と「5つの変化」(下記)から導かれた論でなくては世界を相手に打ち勝てない。そのために、「主」としての「政治家」を送っているのではないのか。
ただ、この「主」の政治家が「衆生の論」の見本の様な「おてて繋いで」「仲良しクラブ」に「主」に値しない資質の者を用いてしまったトップの「主」が居た事に寄るのではないか。
この様な人事をするトップの「主」の思考(資質)の低さ(三相の論)があったのではないか。
又、何も、「民主」が良くて「民意」が民主に傾いたという事ではあるまい。(どの世界にもこの様な人物が居る)
時に、「民意」に反して、「三相の論」と「5つの変化」から「主」の者は、一人孤独で思考を巡らして、国を導かなくては成らないのではないか。だから、国を委ねる大事な立場なのだ。「民意」(衆生の論)で出来れば苦労はしない。
真に西郷隆盛の「女子と小人養い難し」ではないか。「感情」で政治が出来れば政治家が要らない。
「民意」は兎角「感情」が主体と成っている事に、「主」たる者が知る事の「主の資質」なのだ。
政治は「歴史と現実」を背景とした読み取り論理である。これは、況や、「5つの変化」から「三相」を読み取る資質なのである。
即ち、下記の「色の理論」「波の原理」とする世情の「流」を読み取る資質である。
この見識なくして「正しい民意」を「衆生」が出来るというのか。

では、その「正しい」ものを導く思考(主の思考)とは、一体何なのかを次ぎに示す。

万事万物万象には摂理「5つの変化」なるものがある。


自然摂理「5つの変化」[万物の輪廻(りんね)]

「上限の限界値」
ものには、先ずその一つその主力の絶対値、つまり、「能力の限界」(出力限界:上限の限界値)があるからだ。その出力限界に近くなれば、エンジン過熱や、燃料の燃焼、各部品の耐力、環境条件、空気水分、等の条件が限界値に到達して比例的に出力は上がらないのである。

S字の上の曲線部の末端部である。(末端の短い部位は若干下向き線が多い)
この時の直前の変化は、「積分的変化」を起すのである。
この世の全てのものはこの変化を保持している。例外は無い。
従って、その出来事の評価、判断はこの摂理に従って行わなくてはならないのであるが、ところが、マスコミなどで示される評価、判断は殆ど「微分変化」だけの思考で、無限の「微分変化」は無い事を知らず、「積分変化」の有無も知るか知らずか、殊更に自慢げに自身を持って述べている。特に解説者やコメンテーターなどは100%である。
この上限の末端の特性はその物質を構成する分子の「破壊」の現象が起こる。

「積分変化」
つまり、上限の手前のその変化を曲線で現せば「積分曲線」(双曲線)と成る。
1のものに対して2乗分の1とか3乗分の1とかの変化しか起さない事を意味し、急激に出力は低下する。最後には、殆ど確認出来ない程度のものとなる。これが「積分変化」と言う。(1/Kの乗数:積分率)

S字の上の曲線部である。(この曲線部の末端前は上向き線が多い)
この域では変化率が低いので一定域が広い。その為その万物万象の特長を時系列的に明確に良く示す。
変化率が低い、その「時系列」が判り易い、下限から観て位置は高い、比較的に「微分変化」より「積分変化」の域が長いことも特長である、変曲点の右だから変曲点の特長に類似する等、特長を万物万象に適用して当て填めて思考する事で対処法が見出せる。

「微分変化」
比例的に変化する領域を「微分曲線」(直線)と云う。
僅かな曲線(変化)を示すが殆ど直線で出力した分だけ期待通りの比例的にほぼ変化する。人間であれば青年期の若い時の勢いである。自動車であれば80キロ程度以下のパワーとなる。この様なときに示す変化率が「微分変化」と言う。
この「微分変化」域(変曲点まで)では1に対して増加率が一定(K)で変化する。(1/K:微分係数)
S字の斜めの直線部である。(この斜めは実際は右上の逆斜めになる)
この域は比例的である、比例値が明確である、比較的この域は小さい、変曲点の左であるので特長を造り出す域である等で、特長の構成質が観える等万物万象に適用して当て填めて思考する事で対処法が見出せる。

「変曲点変化」(上)
ところが、この二つの変化の間には、必ず全てのこの世の物体には、このどちらとも云えない変化を示すところが生まれる。
S字の上の繋ぎ目(角部)のR部である。(このR部は笹波の短波線が多い 下側のR部は基本的に少ない)
これを「変曲点変化」と呼び、その曲線の変わり目の変化点を「変曲点」と呼ぶ。
この変曲点には、万事万物より、その呼び方は変わるが一般的にはこの呼び方となる。
この変曲点を確認出来ると、その万物万象の特長が大まかに把握できるポイントであり、その特質を調べるデーター採りをする際はこのポイントを見つけ出す事に重点を置く。ところがこの「変曲点」を見つけ出すのが難しいのである。
この点は全体の65ー70%に相当する所にある。
この世の万物万象のこの点を感覚的に把握するのが難しいのと同じである。
それは何故かと言うと、この点を以ってその以下の所(微分変化)で「行為と行動」をすれば、その全ての面で問題が起こらず都合が良い域事になる。
材力設計をする等場合にはこの以下の所で行うのもこの理由からである。
殆どデータを拡大しないと瞬間的でこの点が無いと言うものもある。
この点には、一定の短期間横ばいの波線を示すのが普通である。
(万事万物には本来、主に「5つの変化」を示すが、後一つは下記に述べる。)

この様に、夫々「5のつの変化」の曲線の特長を見つけ出し、それを万物万象に適用する事で思考する。

そこで、元に戻して、10の力で進めれば、現状維持となるだろう。この繰り返しが続けば続く程に、その10の努力は積分的に増加する事になる筈である。同様にその指揮者の能力も積分的に伸びなければ成長と指揮力とに差が出て来る。
同然、積分的に伸びるだけの力を、猿から進化した者にそんな力を神仏は与えず備わってはいない。
故に、その差のはけ口が事件となる事は必定である。

事程左様に、この世の成長では、例えを戻して、現在の経済成長も、中国の成長率と、日本の進んだ経済の成長率とを同じに比較することがよく発表されるが、あれは比例、即ち積分ではなく「微分比較」となる。
これは技術系の者としてはおかしいと何時も思う。文科系の数理論であろう。もし、技術屋がデーター採りでこの様なことを言うと相手にされないおかしな事である。

上記した様に、この世の中には「絶対値:臨界値:限界値」なるものがあり、これを考慮に不思議に入れていない。
考慮に入れると判らない人が殆どだからか、説明している人が苦手だからかであろうか。否。
本当は、この世の万事万物の変化の「摂理」で、「微分的」から「積分的」に事態は変化する。(間に変曲点が入る)

例えば、現在、日本と中国は経済的に約8-10倍の力の差がある。1の中国の経済成長18%と10の日本の経済成長3.8%は、同じではない。
普通の人の評価は、これでは日本は中国並に頑張っていない事を言うだろう。日本の経済力は落ちたと言うだろう。
普通は中国の経済成長の方が5倍で伸びたと判断するだろう。
これは「間違いの判断」である。況やこれが「衆生の論」の判断である。「三相の論」に準じていない。

日本は高度な経済成長を遂げ、高度な社会を維持している事に成るから、これは「積分社会」に到達していることを意味する。しかし、此処にこの「積分」の摂理を用いて正しく判断すると、多分、中国を日本のレベルで評価すると、概して4-5%程度に過ぎないのではないか。
つまり、日本が4%で中国は5%になる筈である。つまり、ほぼ同じ程度で伸びたとなる筈だ。
逆に、中国に合わせれば日本は17%程度と言う事に成る。(%計算には比と率がある)

判りやすく簡単に例をあげると、若い普通の野球選手の打率(比)が、若い経験の少ない普通投手から警戒されていないので、4割を維持した。卓越したイチローの様な選手が一流投手をあてがわれ警戒されて4割を維持したとする。
この二人の同じ4割は同じではない。
普通選手はイチローの環境で対したとすると1割、イチローが無警戒で普通選手の環境では10割と成るだろう。
イチローはその優れた資質を持ち「積分域」か「上限域」の人物(秀才)で、普通選手は「微分域」の初期であるからだ。
これが、先ずは普通は正しい判断となる。より「正しい判断」となる。「三相の論」は「人」と「時」と「場」を論じている。「衆生の論」では無く成っている。

ところが、又、違うのである。

というのは、これでは、厳しい社会を切り抜けていく事には、途中で問題が出て、「主」としての充分な指揮力ではないのである。

「下限の限界値の存在」
此処で、更に、上記した「上限の限界値」に対して、上記の5つ目の変化の「下限の限界値」なるものがある。

殆ど「外資」に頼る中国経済が、特に中国の日本からの「外資」に頼る経済は、その国(日本)以上の能力を示す事は物理的に、数理的にある事は無い。「下駄」を履いているのである。
つまり、判りやすく云うと「底力」と言うべきものが無いのである。(ファンダメンタルパワー)
「微分曲線」は、上の「変曲点」に入る手前までは、この「下限の限界値」が大きく左右し、次に、上「変曲点」を過ぎた時には、「積分曲線」に大きく左右する特長を持つのである。基になる影響点となる。

例を挙げて、判りやすく云うと、自動車でもエンジン出力の大きい方が小さいものより100キロ以上の能力は明らかに違ってくるだろう。この「下限」の品質程度が「積分変化」の時にも左右するという事なのである。

S字の左の末端部位で極めて緩い右上の短曲線を示す。
(微分変化の始まり点と下限線との接合部の変曲点(下)を示すものは少ない)
この「下限」で示される変化は、殆どのものをデーター化すると、直線に近い極めて小さい変化率の「積分変化」を示す。上向き曲線は小さい(ー)の放物線で、上限は下向き曲線で(+)の双曲線である。
この下限域の末端はその物体を構成している分子の停止現象が起こる。(上限の末端は破壊)

説明を戻す。
判り難いと思うので、例にあげると、次の様な事である。
自然界のものとして観ると、太陽から来る光(YMC)は可視光線としての波長のこの「下限変化」の色は、最初は太陽光に近い目にまぶしい白色域の色を呈する。
次に、次第に「ハーフトーン」と云い、人間の肌なのに現されるピンク色等の淡い「中間色」の域の色と成って行くのである。
そして、次に「微分変化」を起して、混合色はうす黒いグレー色に近づき、「変曲点変化」付近では短い平行線を示し標準グレー(18%K)となる。全色の中間の色である。この時点で全ての原色(BGR)は一点に集中する。
次に、「変曲点」(18%K)グレーから離れる頃には、紫色のグレー色に変化する(原色が影響してくる域)。
原色(BGR)は次第に夫々離れて行き、この離れ巾で原色の個性が出て来る。グレーからくっきりはっきりの原色の混合色と成り始める。
この付近から、次第に「積分変化」を起して、ゆっくり(双曲線)と成り、3原色のRGBはより離れ、1に対して複数分の一の影響で、3つのけばけばしい混合色に変化して行く。
そして、最後付近(上限の限界値)では、3色大きく分離した混合色は、ほぼ平行線に近い変化を占めし黒色と成って行くのである。(中には色以外には下向きのものもある)
これを「CCカーブ」という。

参考に、カラーフェリャー論の一例
ところがこの「5つの変化」にはカラーフェリャ−現象と言うものが起こる。
それが次ぎの通りである。

光の3原色=Y:イエロウ M:マゼンタ C:シアン  
色の3原色=B:ブルー G:グリーン R:レッド 
光と色は補色関係にある。
つまり、Yの補色(反色):B Mの補色(反色):G Cの補色(反色):R の関係にある。
Yの光は人間の可視光線の見える眼にはBの色に変化して観える。M、Cも同じ理屈である。
これでどう言うことが起こるかと言うと、黄色(Y)の光を放つ服を着ているとする。そうするとその光(Y)でその周りの色は、その元の色にBが引き込まれて、B傾向の色が出る。例えば顔にはBが入り顔らしい中間色の色と成らないのである。他のM、Cも同様である。
この様な理屈が摂理として起こる。
この原理の下限域末端の白は全てのYMC、BGRを含有しているので、この原理で「微分域」から「上限域」まで影響する理屈事に成るのである。

事程左様に、下限域から微分域までの間には、”Yと見えていたもの実はBであった”(逆も言える)と成る事が起こる。
これを万事万物万象に当てはめると、この下限域から微分域の変化を起す域では、よく洞察しないと実は全く違ったとする現象がよく起こると言う事である。
これが一つの「5つの変化」の特質を踏まえた応用思考である。

この下限の白色には沢山の白(ミルキーホワイト等)がある。この白に依って「微分域」から「上限域」までの混合色は変わるだろう。これが、全てに影響すると言う下限特有の資質なのである。
これが、自然界で起す「5つの変化」の典型的な現象である。
この「5つの変化」の夫々の変化には、万物万象に示すものと同じそれぞれの特徴を持っている。
(これを「カラーフェリャ−論」と言う。時間があれば詳しく別にレポートする)

これが理解できれば、4子(孔子孟子荘子老子)の論の書物の様に、この世の万物万象の出来事に少なくとも正しく対応する事が出来る。
仏法の「般若経」は「色即是空 空即是色」と「色」で人生訓を説いているが、真にこれである。何千年も前にこの理論の概容を感覚的に把握していたとは驚きの限りである。

この世の中の万事万物万象はこの摂理に従っていて例外はない。もし、例外があると思う事はその万事万物万象の洞察が甘い事を裏付けている。つまり、この思考は積分域に達していないと言うことである。まだ更に、悟らねば成らないと言う事である。
仏法の「般若経」の概意はこの事を説いているのではないか。
私は、特に、「見えない」は、その事を観る「方向性」にあると考えている。
事例のように人生は真にこの「5つの変化」を起す。

更に、例を上げると幾らでもあるが、鉄の強度も、この摂理に従う。
最初の「下限域」は短平行線で、直ぐに高い変化率で「微分変化」を直線的に示し、「変曲点」で「降伏点」(YP)という短小波の変化を示し、ここを過ぎると「積分変化」を起して、最後に「下限域」の平行線域を呈して、「上限域」で短い下向きのラインで急速破断(BP)する。

この「5つの変化」は夫々次ぎの変化に影響を与え特長を以って与えるのである。
これが、万事万物万象の摂理(自然法則)であり、これに従う。
これも、夫々の域でその域の特徴を持ち、その特徴は万物万象の事例と一致する。
(その特長を現す此処にも理論があり「FC状態図」と言う)

話を元に戻すと、経済科学の面に於いて、若い中国のファンダメンタルと、老練な日本のファンダメンタルとは明らかに違う。
中国のファンダメンタルには、「2律背反」の政治経済、他民族、自己資本力の不足、五行思想、多発暴動、低い民度等の危険性を多く孕んだ下限域のファンダメンタルを持っている。
この下限域の環境条件を考えずしての思考はきわめて危険で、将来の正しい判断と結果を導くには余りにも危険である。つまり、「白の色合い」如何である。

若い普通の選手とイチローとはファンダメンタルは異なる。
このファンダメンタルを考慮に入れての結果は、日本4%は12ー14%で、イチローの10は15と成る。

全ての万事万物万象には、この下限の「下限値」が「5つの変化」のどの域にも大きく影響する要素を保持しているのである。
「下限域の変化」はこの様な特質を持っている。

これ(「三相の論」)は、基となる「下限値」を考慮に入れた事になり、正しい判断と成る
これで、「衆生の論」から脱皮した「主」としての思考であり判断となる。この判断を以って指揮する事になる。これを「速やか」に判断出来る「思考訓練」が必要に成る。「主」としての孤独な厳しい務めである。


「摂理のS:N字パターン」(回帰法)
もし、これ等の変化が、繰り返したとした場合、S字は「上限域」での限界に達して破壊が起こり、急激に元の「下限域」に到達し繋がり、周期性を示し、N字パターンと成る。
この原理を法則にまとめて数式化したのが、統計や科学分析に用いる「回帰分析法」である。
つまり、全ての万事万物万象はS字パターンを起し、元に戻り、このサイクルを繰り返すと言う摂理を統計的に積分法により理論化したものである。「カラーフェリァ−論」や「FC状態図」と同じである。

このS字パターン(5つの変化)は歴史的に見れば大きい期間でも観られるが、決してそれだけでは無くスポット的に観てもこのS字パターン(5つの変化)は起こっているのである。
(下記の波理論)
上記の例を判りやすくする為に、複数の変化の比較による思考であったが、一つの変化の中でも、この摂理は適用する事も可能である。
この現象は摂理である。

「波」の原理と「5つの変化」の摂理
SとNのパターンに付いての大事な特質がある。
それは、例えば「波」に例えられる。
「波」は動いているとお考えであると思うが、実は「波」は動いていないのである。
「波」は3つの波で構成されている。
先ず、最初は外力で「波」が上側に凸に成る。そうするとこの凸の重みが引力で下に押しやられる。押しやられると隣りには凹になる。次ぎにその凹に成ったその勢いで上に押し上げられ、隣りに又凸が出来る。この繰り返しが「波」になる。
本来、一つの凸は重力で隣りに伝播するだけで、移動してはいないのが原理である。
海の波が移動しているのは潮の流れと月の引力に依って移動している。所謂、外力で移動しているのである。
宇宙から来る波は障害が少ないのでこの本来の原理で遠い地球まで届いている。

もし、エネルギーであるとすると、波の何処に地球まで届く莫大なエネルギーを潜ませているかと疑問が出るだろう。エネルギーであればこの遠い地球まで届かない。並みの線状の何処にエネルギーを潜ませるスペースがあるかと言う事に成る。
太陽光も同様である。光子と言う束の波の原理で届いている。

これはこの世の摂理にも働いている。
万物万事万象はこの波の原理で動いているのである。
一見エネルギーかの様に見えるが、決してそうではない。エネルギーと見えていると思考するは「衆生の論」であり、主たる者は波の摂理の原理で思考すべきのなのである。
つまり、事件、物事が起こる。その次に起こる物事は前の物事のエネルギーで次に出て来ると考えるのではなく、「波の原理」で押し出される様に移動して出て来ると思考する事が必要であり、それが正しい間違いの起さない指揮能力になるのである。
もし、エネルギーと思考すると、そのエネルギーの如何に捉われて、油断や判断ミスが生まれるのである。
歴史上の事件をこの思考基準で観察すると、間違いを起こし滅亡しているのは、エネルギー、例えば、判りやすく「相手の戦力」を見限って失敗したと云う事が起っているのである。
成功例のこれは、「主たる者」が「波の原理」として捉えて対処しなかった結果による。
例えば、その最たる主者の家康の判断は、この「波の原理」(流にも通ずる)の思考にあったからである。

次に、ところが、この線状「単波」だけではこの原理は起こらないのである。
この「波」の中を分析すると、この「波」の中にもう一つの「小波」がある。
つまり「波」の曲線の線上の中に同じ原理で「波」が起こっている。だから伝播が起こる。
巾の持たない線のそのままであれば、宇宙の磁場磁力や宇宙風や宇宙塵で歪み、伝播は引っ張られて壊されてしまう。この子の小波がある事で波の曲線が、太く成るだけではなく、生きた波巾を持つことに成る。
だから障害に左右されずに地球まで届くのである。
中にはこの子の小波が2つある事もある。そして、これ等の「波」は幾つか続くと周期的に「大波」が発生する。この原因は周期の微妙なズレが集積されて一つになり「大波」が生まれる。
この「大波」が又、波の伝播の動力源となるのである。
この周期のズレは障害に対する影響度で「大波」には差異が発生する。宇宙からの波はこの大波は殆ど無い。
これが「波の原理」である。

この世の万事万物万象も波に表される事が出来、この原理(摂理)に例外なく従っている。
S字からN字にパターンが移動していく過程はこの「波の原理」に従う。

この様に、ミクロ的に、局部的(スポット)にも、この5つの変化(S字パターン)は起こっているのである。
長い歴史の複数の「5つの変化」の繰り返しはこのN字パターンの摂理に依って起こっている。
つまり、俗に言う「歴史は繰り返す」と云う言葉がある。
この「繰り返す」はこの波のN字パターンであり、色の「波の原理」で起こっているのである。
ある大きな歴史事件の「積分域」の変化が起こり、遂にはその果ての「上限域」では戦いなどの破壊が起こる。そうするとその破壊のエネルギーで再び元の下限域の変化が起こり、その持ち得ていた力で「微分域」「変曲点域」「積分域」の変化へと進んで行く。
これは「波の原理」又は「色の原理」と同じである。
大宇宙のビックバーン(上限域末端)とブラックボックス(下限域末端)はこの現象(5つの変化)である。

ある出来事の短い期間の出来事に対しても、”今はどの域にあるのか”よく洞察して、その域の特質を駆使して対処する必要があるが、そこでこの「5つの変化」での「三相の論」は適用できるのである。

「流」と「5つの変化」(S字パターン)
更に、俗に言う「ものの流れ」とは、このS字パターン(5つの変化)であると考えている。
この「5つの変化」(下限変化ー微分変化−変曲点変化ー積分変化ー上限変化)として世の万事万物万象は動いている。この「流」を分析すると「5つの変化」が起こっているのである。
しかし、残念ながら、その「流の力」に打ち勝つだけの力を人間には神は与えていない。
だから、”「流」に逆らうと良くない”と言うのは、”逆らわず「流」を理解し適応せよ”との「戒め」である。
その「理解」とは、”「5つの変化」のどの位置にあるかを見据えて、その域にあった動きをせよ”と言う事である。
そして、その変化の特徴の把握にはより確率を高くする「訓練」が必要であるとしている。

このS字パターン(流)は真実摂理であるが故に、消滅する事無く、今まで言伝えられているのである。

「仏法 万物の輪廻」
余り一般の人には知られては居ないが、自然界に存在する「万事万物」はこの法則に従っているのである。
人間の指紋と同じく、その万事万物の特徴や個性を現す手段として、Sパターン(Nパターン)のデーターを採れば現されるのである。特に、この中間点の変曲点を見つける事が、大変難しいのだが、そのものの特長を掴む事が出来るのである。
仏教では、これ程には詳しくは論理的ではないが、この摂理を説いている。これが「万物の輪廻」であろう。
または、統計学で言う回帰法であろう。

「先祖の力:評価の応用例」
余談だが、イチローなどの野球選手などのトップクラスの談話を聞くと、この「匠」と言うか「真のプロ」と言うか、その域(積分変化域)に達した者の発言は、この摂理に従った思考をしている事に驚く。これが簡単に言えば、「プロの思考」条件と言うものであろう。
「5つの変化」の特質を把握すれば、選手が「微分変化」域の者か「積分変化」域の者か「変曲点」域かは判別できる。
素人域の者は「下限の変化」域で見極めることが出来る。「上限の変化」域は破壊であるので、無いか異質者(天才)であると観える。
何でもそうだと思う。テレビの解説者やコメンテーターや政治家や企業家や小説家の言を聞けば、その人物の到達域がどの程度のものかは判断が着くし、信用に値するかは判断が出来る。
私は常にこの「5つの変化」の思考で聞いて判断している。この者がどの域の者であるのかが見極める事が出来ると思っている。
この家訓3に従い余り間違っていない。

「経験則と自然の摂理」
先祖は、「経験則」でこの思考を獲得していた事が頷ける。
昔の先祖は此処までの科学根拠は知り得ていなかったであろうが、イチローと同じく「経験則」から習得した心得であったのであろう。
実は、私はこの家訓3は、現在では科学が進み知識として習得が容易に出来て、自分が納得できれば、自らのもの「思考原理」として用いて訓練(技術屋として)し、人生の生きる術として使う事が出来たが、別の意味で、先祖がこの「自然の法則」を知り得ていたことに驚いている。
家訓として遺している以上、この思考を駆使していたのであろう。
だから、一族家臣を統一させ、事に遭った結果、此処まで青木氏を生き遺させる事が出来たと見ている。この家訓3の理解が無ければ1365年も子孫繁栄は成されず、先ず他の氏のように消滅したのではと考える。
そして、その理解は「経験側」と「仏法の輪廻」の知恵から成したものであろう。上記する自然の摂理に叶っていたのである。つまり、我等青木氏の先祖はこの積分域に到達していたからこそ「主」としての孤独な思考が出来て、「衆生」を導いてき来たのであろう。

「思考評価例」
話を戻すが、この知識を下にせずに、中国の経済成長と単純比較して、”中国は将来日本を追い越すだろう”とする経済学者や政治家がいるが、この摂理の理論で見れば間違いとなる。
その者等の思考域は積分域ではないと言える。
中国のファンダメンタルは外資を頼りに伸びた故に日本より低い。又科学的にもない。
下限の限界能力での評価は、充分な分析史料はないが先ずは3-4%程度であろう。

中国はこの「変曲点」を越え、「積分社会」に入った時点で、その能力は明確になると観られる。それは4ー5年先の範囲であろう。現在は「微分変化」の社会である事には間違いはないだろう。

比例、即ち、「微分社会」が未来永劫続く事は物理的にあり得ない。必ず、歪み(オーバーヒート)が起こり破壊(バブル)する。
その内に、上手く行けば、必ず「変曲点社会」と「積分社会」が起こるが、まして、外資と共産国と他民族国家である。この2つの社会に移れるだろうかハンディはあり過ぎる。
このハンディを乗り越えられるかは、その「微分社会」の比例値の如何に関わる。
現在の「微分社会」は低い値の下限値に影響を受けている事からすると、何か大きな外部からの変革(産業革命のような)を受けないと可能性は低いと観ている。
もし、その影響を起す国があるとすると、多分、日米の何れかであろう。私は、日本であると考えている。
然し、日本も「積分社会」に突入している。苦しいが大きな鍵を日本が握っている事になる。
薬物やガス田などで逆らう中国はこのことを理解しているだろうか。

「積分社会の脱皮改革」

「下限の限界値ー微分曲線ー変曲点ー積分曲線ー上限の限界値」
この世の全てのもののパラメーターを曲線に現すと、「下限の限界値ー微分曲線ー変曲点ー積分曲線ー上限の限界値」に現す事が出来る。(応用物理学ではこれを「Sカーブ」と云う)
否、これ以外のものはこの世にはない。
あるとすると、大変な「世紀の大発見」である。ノーベル賞ものである。現在の物理理論ではエントロピー、エンタルピーの摂理理論に従っているが書き変えなければならなくなる。
つまり、言い換えると、この世の全てのものは、万事万物万象の何事に於いても、「下限の限界値」と「上限の限界値」とを持っていると言う事である。
従って、本来は正しく処理するには、本命である「微分思考」、「積分思考」が要求されるのである。特に、現代のこの様に社会の成長が進めば、むしろこの思考が必要である事になる。
しかし、その思考は遅れているか、時代性で欠けてしまったか、忘れられてしまったかのどちらかであろうが、私は歴史史実から遅れていると考えている。
何故ならば変化率の低い積分域の変化に入っているからである。
それは大きな歴史的事件(戦争の歪み)と、余りにも人間の進歩に対して、万事万物の摂理の変化よりも、相対的に科学的付加価値だけが増大した事に依ると見ている。
思考の意識がそこまで到達しないのであろう。つまり、余裕が無く成っていることを示すのであろう。
これは悪い事ではないと見ている。何故ならば、2000年代の産業革命的な変化の兆しを意味しているからである。
200年前の1800年代の産業革命時代も科学の進歩(科学的付加価値)だけが、同様に増大してたからである。

この様に、もし、人間の能力をこの理屈に当てはめると、成長が進み、変曲点以降、後になる程に「主」は負担が大きい理屈になる。指揮する者だけではない。される者も同じ理屈が適合される。
昔のサラリーマンより今のサラリーマンの方がこの摂理、理屈からしてハードであろう。
更に将来のサラリーマンはもっとハードと成る。例外ではない。
ただ指揮する者とされる者との負担の違いの差がある。イーブンでは無い筈で、だから指揮する者と呼ぶのだろう。同じであれば指揮する者と呼ぶことは同じだからない筈である。

「積分延命策の産業革命」
つまり、此処に来てその指揮能力が行き届かない事件が多発しているとすると、この辺が成長に対して、人間としての能力即ち、「上限の限界値」の限界に来ているのではないだろうか。
「人間社会の発展」に対して人間としての限界に来ている。自然環境も「温暖化」という事から見て地球が駄目になる所まで来ているとする例に示される。
そこで、何かこの「積分曲線」を「比例曲線」(微分曲線)に変える変化が故意的に起こさない限りに、この摂理は変わらない。それは温暖化の行く末に似て暗示している。

例えば、人間の知恵を最大限に伸ばして生き延びた「産業革命」のような出来事が、この世に再び起こらない限りに於いて「積分変化」に入り、延長は無くなる事を意味する。
一部に、医学界のES細胞や量子集積回路(CP)や宇宙産業の分野にその片鱗が見えてはいるが。さて、これが彼の産業革命のようなものに繋がるものか疑問点もある。
というのも、温暖化の「地球の存続」の問題や、上記の「科学進歩の片鱗」の偏り(日本アメリカに限定されている)はそのけん引役の「日本の積分変化」の社会に打ち勝つ事が出来るかに掛かっている。
そして、それは、この家訓3の意味するところの思考に、昔にあった思考の社会(微分社会)の蘇りが起こり、日本社会が入れるかにあると観ている。
しかし、兎も角は、時代は続く限りに、組織の「主」は依然として務めなくては成らない。
限界の「主」として務めなくては成らないのだから、この家訓3の昔の「主」と違い、更に上記する思考の革命に戻れるかにあり、その多くは「主」としての適格性を問われる事になると観ている。
この「限界社会」での指揮する「主」に課せられる思考(微分積分思考)はこの家訓3の意味する所となる。

「衆生の論」と「三相の論」(積分思考)
昔であれば、「微分社会」の緩やかに「人、時、場処」を思考していた指揮する姿は、「積分社会」の限界の時には、「人、時、場処」を思考し綿密に指揮しなければならなく成る事を、この家訓3は示すものである。
それだけにこの「三相」の重要性が増す事を意味する。
そうすると、当然に、この「三相」の理解の仕方如何に関わる事になる。
昔であれば、一次一局の単純明快な勧善懲悪で考える「三相」が、複雑極まる善悪で「三相」を考えなくては成らない。
況や、「微分思考」と「積分思考」(下限の限界値と上限の限界値)、更に「変曲点思考」の考察が要求される。

この様に、今はマスコミなどでは、単純思考(微分思考:二次元思考)即ち、「衆生の論」でものを評価思考しているが、今の社会では、正しく、且つ、間違いなく処理するには、「変曲点思考」や「積分思考」でものを判断する力が必要になると、平易な表現ではあるが、口伝や遺蹟文面から解釈すると説いている。

西郷隆盛は「女子と小人は養い難し」(衆生の論)と同じ事を言い遺している。
明治初期から観ると、江戸期3百年の安定期は積分変化の社会であったと観られ、その後に上限域末端期に入って日進日露から始まり第2次大戦等の戦争状態となったと見られる。
その直前の西郷隆盛は、この明治初期の時代(積分社会の特徴)の「衆生の論」に遭遇したと観られ、時代の「主」として苦しい孤独の立場に追い込まれてこの発言となったと見られる。
この言葉で通ずる様に、この時の西郷隆盛は「三相」(三相の論)をベースとする「5つの変化」の変化毎の「三相の思考」で判断していたのである。

この事は此処で言う家訓3が今にも通ずるものであると考える。

「正しさ」の理解
そこで、この上記の思考原理で行くと、問題に成るのは「正しき行為」とは何ぞやとなる。この理解に関わる。
普通の家庭として観た場合に、「衆生の論」である一次一局の感情的「勧善懲悪」だけを意味する「正しさ」では無く、子孫を遺し、滅亡を避け、「生き抜く」という目的に向かって、それが達成されたとき、その行為は「正しい」とする事を意味しているのではないか。

現代社会に於いて、「社会の付加価値」が進み、人の成す「行為と行動」は変化して、一次一局の「正しさ」は必ずしも、誰でも、何時でも、何処でも「正しい」と言うことでは無く成っている。
その事が社会の物事に増えているのではないか。

”「悪さ」がむしろ「正しい」という事の方が結果として良い。”と云う事象が多く成っている気がする。
「衆生の論」の一次一局の「正しさ」は「間違い」とは云わないが、「悪い」と云うことが多く成っていると考える。
この判断力は「積分社会」に入れば、その変化率の低さ(一つの事に敏感)から益々増大する筈である。
(微分社会では変化率が大きいので、少々のことも吸収して増大する勢いがある)
簡単に云えば、「積分社会」においては、その吸収力のキャパシティー(上限の限界値がある為)が小さいので、”「主」が思考する「正しさ」とは、「一次一局の感情的正しさ」であっては成らなず、摂理「5つの変化」の見極めの思考と「三相の論」であるべきだと”という事であろう。

(仏法「三相の論」は、「衆生の論」を対比させてのものであるので、この摂理「5つの変化」見極めの思考を含んでいる事にも成る)

これは、情報メディア−が取るどんなアンケートにも現れている。”どちらともいえない”と云う回答が30%以上を常に占めていることである。これは”「一次一局の正しさ」では判断できない”と応えているパラメーター(証拠)であろう。
この様に、「衆生の心理思考」が知らずがともに、「積分変化」の社会にある事を無意識の中で変化して来ている事であろう。
この傾向の増える事が、”衆生の多くは積分思考に入った”と認識するパラメータと観るべきであろう。
私は、誰でもが同じ方向を向いている「微分社会」よりは、「摂理理論」でみれば、この方が良い傾向に日本の衆生意識は傾いていると見ている。

上記のような列記した歴史的死闘事件や戦乱や、はたまた「伊勢一向一揆」や「三重大一揆」の紙屋青木長兵衛の背後での関わりを、勧善懲悪論で「悪行」とするのか「正行」とするのかは、その思考の如何であり、「衆生の論」の一次一局の思考の表面的な評価より、「三相の論」(摂理5つの変化含む)の人の営みから観た綜合的(多次多極)な評価が要求される事を意味しているのである。

その時が良くても、結果として、弊害になるという事はそれは正しくなかった事を意味する。「三相の論」を元にした「判断力」とは、この事が大事であるとしている。
これが直接的に戦い生き抜いてきた者が成し得る思考であろう。

究極の全ての「良悪の評価」は「子孫を遺す」と云う人間の目的を成し得て初めて意味を成すものである。
子孫が滅亡しては良し悪しどころの話ではない。人が居てこその「良悪」である。
それでなくてはこの長い年月を子孫を遺して生き抜いてくる事は不可能である。
判りやすく云えば、若干の誤幣があるが、「机上の論」や「学者論」、砕いて云えば「お手繋いで幼稚園の論」や「ホームルーム論」や「耳ざわりの良い論」であっては成し得ない事を意味しているだろう。
(現在のマスコミはこの傾向が強い:「衆生の論」)
従って、この「主」の意味する所の指揮能力、即ち、換言すれば重厚な判断力を保持する者でなくては成らないのである。
しかし、この場合はこの思考が下の者にも共通する思考ではないことを心得るべきとしている。

つまり、当然に「主」として此処に含まれるものは、「孤独な思考」であり、それに耐えられる「精神力」が要求される。
そして、衆生は安易なその場だけの「勧善懲悪論」である。最終的で複合的な目的の「良悪」論では決して無いことを知るべきであるとしている。
決して、「衆生の論」ではないことを意味している。そして、これを成しうる事が出来る者が「主」であるとしている。

「主」の質は「三相」の訓練
そこで、何故に、「衆生の論」では「主」ではないのかと言う疑問が出る。
それは、思考の中に「三相」の有無が左右していると云うのである。
つまり、「衆生」は兎角、「人間の性」、即ちその場の「感情的思考」に左右されての論であるからだ。感情論では瞬時的なもので、上記の混乱の中から生き延びてくる事は不可能である。
「感情的思考」はその感情を越えることが起こると人間の脳の思考は止まる。況やパニックである。これでは子孫を遺す事は出来ない。
そこで、”「主」とする者は、「人、時、場処」を総合的分析して、その事に対して瞬時に思考できる能力を着けよ”としている。しかし、”その「主」の質は直ちには得られず、「主」としての「訓練」に委ねよ”としている。

例えば、上記の様な「5つの変化」の中の戦乱の中で、”「人」は適切なのか、「時」は適切なのか、「場処」は適切なのかの3つの要素を考え合わせて、結論を出せ”としている。そして、”その思考を常とせよ”としていて”訓練せよ”としているのである。
これが「主」としての資格であり、この訓練のできる資質の有無があるので、出来ない者は「主」と成ってはならないとしている。つまり、資質のない者が「衆生」であるとしている。

そして、「三相思考」を、それは「衆生の思考」(感情的思考)ではなく、上記の「孤独な思考」を導き出す”「正しき行為」の基準とせよ”としているのである。
これを獲得できる「主」は「人としての目的」を達成し続ける事の出来る者であるとしているのである。

「積分変化の現代」
現在の世の中は、上記した「積分社会」の中で、この「主」としての資格を保持していない者が組織の上に立っている事から、物事に行き届かない社会現象が生まれているのであると観ている。
これが、「微分社会」であれば、その「成長出力」が強いことから、これでも「主」の資質の無い者でも何とか成る程度の社会である。
私は、現代は、「積分社会」と観ていて、人としての「資質の限界」に来ていると観ている。
それは「積分」に「相当する進歩」と「科学的付加価値の急速な増大」で起こっていると観ている。それを越える者が少ない事を露見している。
故に、この様な環境の中では、無意識的に起す人間の性(さが)で、無難にこなそうとして、人は、組織の「主」として選ぶ方法を自らの仲間うちの「仲良しクラブ」的選択から選ぼうと走る傾向が強くなるのが自然である。それが現代社会の歪みでもある。
「主」としての資質のある者を選ぼうとしていない社会となっていて、頻繁に倫理に欠ける事件を起しているのであろう。
「微分社会」では、社会の中に主としての「潜在的資質」を保有する者の量で、充分にこれに対応できていたが、しかしながら、「積分社会」では、、「主」条件の”その思考を常とせよ”としていて”訓練せよ”の事のより強い「訓練」をより要求される社会と成っていると見ている。
現在の日本は、その「微分社会」と「積分社会」と混在し、「積分社会」にやや入って変化して行く基点域(変曲点域)かやや入ったところに来ていると観ている。

故に、この家訓3の意味する所が大事となる社会と成っていると考えられる。
これは、企業の中や社会の中での指揮する立場の者に要求される資質であるとしている。

家訓3は青木氏の家訓として遺されているので、その生活環境と子孫の存続の範囲としての維持訓に過ぎなくなっているが、現在社会にも適応される大切な思考ではないかと考えている。

「結論」
纏めると、何はともあれ、家訓3は、”「主」としての「資質の確保と訓練」を怠らず、その基点となる「正しさ」は「衆生の論」に左右されず、多次多極での実質的正しさを極め、その思考は「5つの変化」の夫々の特質に対応して「人、時、場処」を以って事に当り処理せよ。”と説いている。
さすれば、”本来のあるべき適時適切の正しさが求められて、人本来の人生の目的の幸せは確保できる”としている。
そこで、”その思考の原点を「自然摂理」に基づき、「下限限界ー微分思考ー編曲思考ー積分思考ー上限限界」(5つの変化)に求めよ。”としている。
”衆生の所以でないが為に、「主」は孤独である。故に、この思考と共に「訓練せよ」”としている。
”その質に在らず場合は、「主」に留まらず速やかに辞せよ”としている。

家訓3に付いては、「結論」に示す通り、「事の処理」に対する思考原理で、重心を下げた「自己形成」の基盤となると考える。

注釈
伊勢青木氏家訓10訓は、祖先の時代に交流があり、同じ境遇にあった観られるところから、共通する5家5流の家訓とも考えられる。
この家訓は伊勢青木家の口伝と先祖の忘備禄なるものに伝え書かれた説明をもとに解釈し、筆者が現代の自然物理学の摂理とその経験で習得した同様の論理を加えてより判りやすく説明したものである。

この「思考を獲得」して「自己形成」により「時局」を違えず、「人の幸せは一定で絶対値があるの論」(青木氏の幸せの論)から「幸せ」を減少させる事は少なくなる。即ち、「幸せ」多く確保する=「子孫繁栄」の理屈が生まれる。
この「幸せ論」は別の家訓10で説明する。


参考
青木城は江戸初期まで伊勢には次の所に戦いの拠点となる館や山城や平城を含めて城があった。
戦国時代や信長の三大伊勢攻めで多くは消失した。
柏野、柏原、名張、伊賀、脇出、松阪、滝川、青蓮寺、中将、羽津、浜田、蒔田、福地
但し、藤原秀郷流青木氏の須賀川城(青木玄蕃)、信長の丸山城(信雄)などもある。

以上 次は家訓4である。


  [No.151] Re: 伊勢青木家 家訓4
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/22(Thu) 09:31:47

Re: 伊勢青木家 家訓4
副管理人さん 2008/06/29 (日) 14:18
伊勢青木氏の家訓10訓

以下に夫々にその持つ「戒め」の意味するところを説明する。

家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
家訓3 主は正しき行為を導きく為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず。

今回は、続きにより家訓4とする。

家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。[性(さが)の定]

(性[さが]とは、”男女の神から与えられた逃れ得ない異なる思考の差異の様な宿命”と定義する)

[序]
最近、社会では男女間の思考の違いが発展して争いが起こり、「不幸な出来事に」繋がっている事が多いと考えられる。多くはこの思考差の違いの無理解が起因していると見られるが、この家訓4は理解を得て、この解決の一助となればと敢えて多面的に検証して長文とした。
この家訓4の内容の事は、現代に於いては科学的に証明されているが、明治以前に於いては未だ解明されていなかった事である。(家訓2で概略を記述した)悩める若者に対して先人の教えとして漠然と言伝えられていた程度の訓であっただろう。
しかし、この青木氏の家訓4は「先人の教え」程度のものをもう少し掘り下げて仏教的意味合いも含めて「人生訓」として遺されて来たものと観られる。
そこで、この「家訓4」が摂理であるのかどうか若い頃に研究に取り掛かった。
動物進化論、脳医学、精神医学等の雑学の関連書を長い時間を掛けて読み漁った結果と、自分の体験則と合わせて未来の子孫に判りやすく家訓論に添え書きとしてまとめて観た。そうすると家訓4の理屈の内容がほぼ一致して納得出来たのである。
その結果の概容を取りまとめたのが、次に記述する検証結果となる。
先ずは雑学論で有る事をご理解頂き、それを、早速、次に論じる事とする。

「性」の検証
人は、進化して知恵を持った事により問題が起こると、人の脳は、「計画し、目標決め(取りまとめ処理)し、実行する」という「3つの働き」を瞬時に、「無意識」の中で行う仕組みと進化した。この脳の働きにて、より「性」(さが:以下”さが”とする)の進化は進んだ。
その進化の結果は上記の「性(さが)の思考」へと成った。
この男女個別の「性」の進化が起こり、「体の仕組み」、「心の仕組み」とその二つに付随する「仕種の仕組み」に決定的な変化が起こり、個別の働きをする様に進化したのである。そして、その結果、脳の一部にこの個別の「性の働き」を管理する「脳」が発達し出来た。それが「脳幹」の後ろ左にある餃子のような形をした「脳陵帯」であり、「管理脳」として独立したのである。
この「脳陵帯」が存在する限りに於いて、男女の上記する「3つの性」(体の仕組み、心の仕組み、仕種の仕組み)は管理される。その事で、「性」は絶対に逆転する事は無く成ったのであり、恒常的に多数子孫を遺す事が出来たのである。(他に、男性のみに左脳の一部が「中紀帯」と言うものに進化し独立脳が出来た)
この「体と心と仕種」を支配する脳に依って、男女の「深層思考の原理」では、夫々の「生きる目的」は同じでは無くなり、別目的を果たす「性」として決定付けられたのである。
そして、その思考(脳)の基本的経緯は次の様に変わったのである。

[基本経緯]
生物は神から「二つの性」に対して「子孫を遺す事」を主目的としてこの世に「生」を受けている。その子孫を遺す「目的要素」を二つに分離してその役目(男と女の性)を夫々に担わせたのである。そして「体、心と仕種」(3つの性)を管理する「脳の働き」(無意識の思考)にもその目的に合わせて変化を与えたのである。それが「深層思考の原理」である。
基本経緯の一つとして、この原理を理解するには先ず「進化の過程」を紐解くと事が必要であるとする。

「性」の「進化の過程」
ではその「進化の過程」を概略に辿って観る。
進化の過程として、この世にミネラルを持つ海に生物が生まれ、特に、動物の単細胞として生まれた「ミトコンドリア」は、動物性プランクトンの様に、他の動物の格好の餌食と成り、子孫を多く遺せない定めを負っていた。現代も昆虫類に見られる仕組みの様に、それは一つの体の中である環境において突然に「性の転換」を起し繁殖して子孫を遺す仕組みであったからで、生きることでの利点はあるが、他の生物の餌食に成る事は両性を無くす事に成り子孫を遺す事に不利であった。
そこで、「ミトコンドリア」はその「生存競争」に対してより確実に子孫を遺す為に進化を起し、次にはミミズに観られる様に、繁殖期に於いて一体の半分を「他の性」として「性の合体」をして一体と成り強くした。しかし、結局、これも競争に負けると「2つの性」を同時に無くす事となり、返って単細胞以上には子孫を遺す事が出来なかった。
そこで、「性の転換」「性の合体」の進化過程の極めて長い期間を経て、再び、どの生物にもある「生存本能」により、今度は夫々の子孫を遺す「目的」に合わせて分離して、それを「2つの性」にして「性の分離」方式とし「2体化」させた形で再び分離したのである。その事で、片方の「性」のバランスが生存競争に負けて大きく崩れても、全滅を防げれば、この中からも片方の「性」の一部が遺せる限りに於いて、交配にて他方との性のバランスを保つ事が出来る様に成り、絶滅を避けて生き遺す事が出来た。この仕組みが爆発的に子孫を拡大する事が出来る事と成り、終局、多くの動物、生物に観られる様に、これが最も「生存に適した進化」へと繋がりより「2つの性」はより発達した。
「2体化」とする「2つの性」である「性の分離」方式のその証拠には、動物の身体下部の「生殖機能」の「形状」では、その部位は全く同じである。その形状の機能もほぼ同じである。
男性(凸)が持っているものは女性(凹)にも持っていて、それが、凸に突き出るか凹に下がるかの差だけなのである。人の種は、女性(凹)の生殖機能部位より入口より9C程度の内部のところには親指1.0C弱程度の凸器官(医学名も同じ)を保持し、その周りに保護皮膚が覆っている形である。この凸器官が突き出れば同じと成る。同様に内外部の違いで卵巣精巣も同じである。異なる所は子宮の袋の存在だけである。
これが「性の合体」方式から「性の分離2体化」方式への進化の証拠(なごり)である。
又、これは「性の転換」方式でも、猿系には「なごり」の機能として存在する。その「なごり」は精子が卵子に進入後、細胞分裂が起こり、その40日後に突然、莫大なエネルギーを発しアルカリ性反応(海)を呈し男女の「性の決定」が起こる。
これは「ミトコンドリア」の2つの「性の進化の過程」即ち、「性の転換」と「性の分離」の「なごり」が遺されているものである。
その「性の転換」「性の合体」「性の分離」と過程を経て発達した「2つの性」はその知恵を以ってより安全な場所へと移動する事が出来、遂には、海と陸との間で生きられるように成り、これが「環境と適応機能」を発達させて順応して両生動物として進化と発達を遂げた事に成り、この域での天敵の減少も伴い大爆発的に繁殖が起こった。
進化した「ミトコンドリア」の原始動物は、この時、海に生存している時にはその必要性は無かったが、生存し続ける為には陸付近では海に居た最低条件(ミネラルの補充)を維持する事が必要に成ったのである。
ところが、この段階では未だ、「脳」と云う独立した機能帯は無く、「脳」で管理する部位の進化は大きくは起こっていなかった。この時点では現代呼称の「腸」が管理源として働いていたのである。つまり、現在に於いてでも、その「なごり」が厳然として遺されている。
人間に於いては「脳」は「腸」を管理していないのある。今だ「腸」は独自の「脳」に匹敵する管理力を保持している。つまり、余りにも大きい進化と発達の為に「腸」の一部が管理力を独立させ新たに進化発達させたのであり、「体の機能の部位」を管理する「独立帯」を創造したのである。
これが「脳」なのである。但し、この「腸」より独立した「脳」で管理する「体の部位」には「海の条件」を保持させる3つの要素の必要性が起こった。
それは、先ず自らの独立した「脳」の機能を働かせる為にNaイオン(キャリパー)の補充を必要とした。次には、その「独立脳」で管理される「体の部位」への「栄養の搬送」とその「体の部位」を保持する「骨格」を維持する為にCaイオンを必要とした。
更には「独立脳」を働かせる為の栄養源(Naイオンとエネルギー)を含んだ搬送液(血液)が必要と成り、その為に「脳」はポンプ役としての「心臓筋」を働かせる為の刺激の電気信号を送り、刺激反応を受けるMgイオンを確保する「3つの進化」が必要と成った。
この「3つの進化」の「3要素」を陸で補充し確保する事で、大きく進化を起し長期に陸に上がる事が出来たのである。これらは所謂、海に居た「なごりの機能」である。この脳の発達に伴ない「3つの栄養源(NaCaMg)」を分解する酸素を供給する「肺機能」も発達進化したのである。この両生期の名残として肺機能を持った海洋動物は現在でも沢山存在する。
この様に、「腸」から「独立脳」へと進化し「ミネラル」の3要素の大進化が起こったのである。
更に、この結果で、「酸素吸入力」が増し「肺」「心臓」などの臓器がより拡大し進化したのである。そして、未だより安全であった陸にあがり、子孫を大きく伸ばした。
そして、「進化と良環境」による臓器拡大は、この時点で、陸では超小型「原始ネズミ」の様な小動物から進化分離して徐々に大型化し、その「拡大体力」と「陸環境」の適合に依って進化し得るエネルギーを確保出来て、超小型「原始ネズミ」からその2つに適した異なる分離が起こり多くの「種」が誕生したのである。
機能としては充分ではないが、「生存に適した肺臓等」と「2つに分離した生殖機能」を夫々の種は独特な発達と進化をさせた。より豊かな陸上には、今度はその「環境に合せた進化」が起こり多くの種の動物が生まれたのである。これ等の原始性機能を保持した超小型「原始ネズミ」から性機能を進化させ「原始猿」そして「猿系類人猿」へと進化したここが人間の単純な性機能の原点(基点)である。

「性の基点」
この時、「腸」から「独立脳」と進化した単純な管理をする「脳」は、更に、この家訓のテーマである「性の進化」へと発展して行った事に成る。「腸」を進化させ「独立脳」を保持して発達させ陸に上がった両生動物は、超小型「原始ネズミ」へと進化したのである。
その「原始ネズミ」の「なごり」として特有のものを保持している。それは、現代でも「三角耳」が原始猿等に観られる様に、人間にもその丸い耳の頂上部位の最上部に耳が尖っていた跡形が1箇所5ミリ程度のものとして小さく存在する。これがその名残の証拠なのである。
又、馬などはこの「原始ネズミ」が環境に適した形で大型化の「突然変異」が起こって生まれたもので、これが種として拡大したものである。所謂、「突然変異による進化」した「原始ネズミ」の直系子孫である。つまり、平易に云うと、「馬」と「人」は猿以前のルーツは親類であった事に成る。
これより、爆発的に増殖した種の動物は、陸に於いても夫々の生存競争が激しく成り、ここでも弱い小型猿類と成った種は、食の豊富な森から、食の欠乏と危険が多くある見晴らしの良い平原へと追い遣られた。ここで止む無く危険を察知し易い様に、より高い視界を得る為に「2足歩行」が始まり、目の位置は物体を立体的に捉えられる様に平行の位置に移る様に進化した。その結果、この二つの事で「脳の集約性」が高まり、他の動物に較べて急激な「猿類の進化」が始まった。
特に、他の動物に較べてその「脳の進化」、即ち上記の「性の分離と進化」の継続が続き、それに伴なう「2つの性」の完全分離の進化が起こった。
結局、「増大化し繊細化する性」の傾向に対して、「脳」はそれを「管理する独立した脳陵帯」というものを拡大創造したのである。そして、より確実に子孫を遺す仕組みへと進化した。
この「増大化し繊細化する性」から来る情報量と合わせて、リンクして「感情」と「理性」を司る「前頭葉」「側頭葉」が発達拡大し進化したのである。
当然、そこで起こる記憶を収納する部位の左脳には、この著しい「増大化繊細化」の「情報の収納化」が起こり、その記憶量に基づく「脳」はより「性の進化」と「性の分離」と「性の整理」をして進めたのである。
必然的に、その情報の種類は、「脳陵帯」に管理されて、夫々の「性」に由来する物が多くなり、結果として「脳」の整理方法は「3分轄の方法」と進化して、「体系化」が起こった。
その「体系化」、それは「計画的」な「基本思考」と、「処理的」な「標準思考」と、「実効的」な「現実思考」とに、3分離されて記憶保存する形(3段階の体系化)へと進化したのである。
当然に、女性はその「性の目的」から「感情的な情報量」が多くなり、必然的に「感情主観」を中心として「3段階の体系化」が成され、男性は「性の目的」から「理想的」なもの即ち「合理主観」を中心とする様に「3段階の体系化」が起こった。
ここで、この「脳陵帯」に管理された情報の「3段階の体系化」で、男女の思考原理が完全分離したのである。
生物に於いて、特に動物に於いて、この体系化の緩やかな種では思考原理の分離も緩やかになり違いが少ないと成ったのである。「脳」の変化要素(増大、拡大、発達、進化、変異)の差異、即ち「知恵」の差異で、この「思考原理」にも差異が生まれた。脳の変化要素の最も多くなった「猿系の人」はその最たるものと成ったのである。

更に、人間には、他にその最たるものとして、より優れた「独立脳」を創造させた。
陸に於いても海と同じく危険性は極めて増し、今度は「体の機能」からそれを「脳の進化」で対応したのである。「脳の進化」の最もその増大し拡大した左脳の「線状帯」の中間部に、「未来予測」する機能を持つ「中紀帯」という部位が、進化分離し「独立脳」を造り、それを進化させて「男の性」を守る為にだけに独立して出来上がり発達したのである。
当然、頭部も、目と耳と鼻と口と皮膚から入る情報源を管理し記憶する為に、「連鎖反応」が起こりその「五感の機能」は進化発達した。その結果、運動量も増大し、頭部は「大脳」を含めた「脳の拡大」が起こり、左右前後に拡大し大きくなった。
ところが、この時、「進化」に伴ない「退化」が起こった。
上記の「情報量と左脳の進化」がある一つの「原始機能」を低下させてしまったのである。
それまでは、額の中央部の「前頭葉」と連動する予知機能としての「第3の目」」(原始動物に存在する「複眼機能」:「テレパシー機能」)を発達させていたが、「前頭葉」と「側頭葉」が拡大するに従い、「前頭葉」の真後ろに追い遣られて「脳幹」の前の下側に小さく存在する事に成ってしまった。そして、必然的に奥域に移動したその「第3の目」の必要性が低下して、何時しか機能は低下したのである。それまでは、特に、女性はこの機能を「2つの目」と連動して「感情と理性」を司る「前頭葉」と「第3の目」」(複眼機能)を使って、その「性」(子孫を育てる)を護っていたのである。この時までは右脳もこの情報を取り扱う機能として大いに働いていたと観られ、退化に伴い右脳の働きは限定されて行ってある特別な脳の働き(ベータ波による連動)に限定される結果と成った。
しかし、ある時期から、上記の進化と人間社会に起こる知恵により、科学による付加価値の増大が起こり、その奥に追い遣られた「第3の目」(複眼機能)は必然的に機能低下が起こった。
現在に於いても、この「複眼機能」を連動させられる「深層思考(感情)」を持つ女性に限り訓練すると、その能力をある程度まで復元出来る能力を未だ持っているのである。(広域ない実の子孫を産み育てる母性本能により連動)
女性にはその差はあるが、「テレパシー性」が強いのは、この「第3の目」の「複眼機能」から来る「なごり」ここから来たものである。
ところが、「感情」の精神を一点(元複眼のあった額の中央上)に集中させて「2つ目」と「前頭葉」と、この「脳」の奥の未だ死んでいる訳ではない「第3の目」との間にシナプスを通じてアルカリ性のNaイオンの「キャリパー」を飛ばし、「神経細胞」を繋ぐ訓練をする事で、神経回路(ニューロン)が復元できて退化したこの「複眼機能」を復元出来る事が判っているのである。
古来から、邪馬台国の卑弥呼やこの占い師の巫女などの役目は女性が行っていたのはここから来るのである。迷信的なことではなく根拠あるもので、このトンボや蝶(鯨、象)や原始的な猿類の動物に未だ存在する「第3の目」」(複眼機能)を使った能力なのである。
そして、機能低下したのはそんなに古い時代では無いのである。紀元前後はまだこの能力を保持していた女性は多く居たのである。(卑弥呼の所以の源である)
”原始的な方法として「占い」で全てを見極めていた”として、現代に於いて、その行為を現代的な視点から観て軽視する傾向があるが、実はこの様に「複眼機能」が未だあった事での自然な社会行為であった。
この様に化学的根拠はあるのであるし、今だ、女性が占いを信じやすい事や、この詐欺まがいなものに騙されやすいのは、まだこの「なごり」が「性の遺伝子」の中に、左脳の記憶の中にあるからに過ぎない。
男性はその「深層思考」が「合理主観」に左右されているので、この様なものには納得しない傾向があり、従って、この「第3の目」」(複眼機能)は著しく低下、又は消滅に近い事に成っている。
その機能を「左脳データ」を使っての別の「中紀帯」の進化過程を採り、発達させた事による低下(退化)なのである。

追記
更に、附帯的に追記すると、これ等の女性の直観力即ち予知能力は鯨、象の特定な予知の脳機能にある様に、類似する機能が哺乳動物の人間にも存在する事が云えるのである。
つまり、それは上記する複眼より発した振動は脳機能レベルを一時的に高めてベータ波を発しその返波を得て直観力を働かせる機能や、掌から発する微細波(遠赤外線波)や触手により得た情報で複眼機能と右脳を連動させた「予知、直感力」を働かせるこの2つの機能は、大きく退化したとは云え存在する。
それは「性の特質」から女性には現在でもその保有は、退化して千差万別と成っているが、訓練することにより復元する。これは女性専有の職業などの領域に観られる現象と成ろう。況や、つまり、「母性本能」は本来持ち得ている能力であるが退化の例外ではない事を意味する。
結果的に、女性はこの様にその子孫を産み育てると言う「性の特質の保持」から2つ脳(複眼-前頭葉-右脳)を同時に使うことが出来る得意技を持っているが、男性は合理主義の「深層思考原理」の結果で「単脳反応」の仕組みと成ってしまった。
つまり、女性は{感情主観}であるので古来から発達させた「右脳」を依然として使っている事に成るのである。「複眼」と「前頭葉」と「右脳」を使って「予知、直観力」を高めてその「性の特質」を現在も発達させているのである。
故に女性は脳波のアルファ波(8-13Hz)から直ぐに切り替えて脳レベルを上げてベータ波(14-30Hz)を発し、子供の脳との連動を起こし複眼を働かせて「予知、直感力」の能力を発揮し保持しているのである。
又、同様に退化しているが本来は女性は、精神集中する事により無駄な血液を脳に送り脳レベルを上げてこのベータ波を高めて、手先から遠赤外線(300−250ナノ)を発し情報を得て複眼に戻し、右脳を働かせて「予知、直感力」を連動させる能力を元々は保持していた。
アルファ波の巾5Hzに対してベータ波は15Hzと3倍もありその脳レベルの巾は広いが、これはその集中力を高めてベータ波に切り替えられるレベルの多さを示すもので、15レベル範囲で「予知、直観力」を果たすものと、30Hzレベルの高度な「予知、直観力」を果たせるものとがある事を意味する。
つまり、脳はその状況により脳レベルをコントロールしているのである。
だとすると、掌から発する遠赤外線のレベルもこれに比例する事ともなる。
ところで、古来よりこの様な能力の持つ女性の掌を「福手」又は「福の手」と呼ばれていた。
古来からの言伝えの言葉の”掌(たなごころ)は母心”という言葉はここから来ている。
女性の右脳を使うこの「2つの能力」は近代化で著しく退化し、保有する者は少なくなったとされている。
その能力の有無の見分けの方は、「掌(たなごころ)」が「温かさ」と「柔らかさ」と「ふくよかさ」のある女性によく観られるとされていて、現在は化学の進歩により「死語」とは成っているがその確率が古より高いと云われていた。
確かに、母親のその掌で子供の顔や頬をはさみ撫ぜると子供は癒され落ち着き、頭を母親の掌で撫ぜられれば癒されるのは、この脳のベータ波と掌の遠赤外線の上記した効能から来ている。
この母親の仕種がその「なごり」として今も遺されているのである。この2つの仕種は決して指先ではなく
これが”掌(たなごころ)は母心”の所以なのである。
鯨や象は規模は違うがこの類似する能力を現在も大きく保持しているのであり、3キロ先まで「低周波」を飛ばして「予知、直観力」を働かして生きている。つまり、複眼を振動させて目の上額に溜めた油に伝えて飛ばし返波で脳と連動させて「予知、直観力」を発揮しているのである。
(人間は複眼などから発した信号をNaイオンアルカリ液体をシナプス[神経の繋目]に飛ばしこの中をこの電気信号を伝導させてニュ-ロンの右脳に伝達させベータ波を発する仕組み)
人に於いては集中して考える時に額の眉間にシワを寄せる今もある仕種は複眼機能を働かせる仕種の「なごり」である。
因みにキリストが各地に布教している時、このキリストの掌を額に当てられた者は病気が治癒したとされ、この史実がキリスト教の布教に最大の効果を発したと言われている。
つまり、キリストはこの潜在的にその能力を大きく持っていたことを示すものである。
日本に於いては、天理教の教祖(おみきばあさん)もこの「複眼」と「ベータ波」と「遠赤外線」の「3つ能力」が超人的なレベル力を保持していた事がある超有名大学の化学実験の史料に遺されている。
アスリートなどが集中力を高め「予知、直感力」を高めて右脳を働かせてより高いレベルの能力を発揮させられるのは、このベータ波を発する能力をより高める訓練をしているからなのである。
故に大なり小なりに女性はこの本来の野生本能(母性本能)を「性の保持」(母性本能)の為に未だ保持しているのである。つまり、「性」を管理する「脳陵帯」がこの管理能力を未だ女性に与えている事を示すものである。「脳陵帯」が女性の性として記憶している限りこの能力は存在し続ける。
問題はその「能力の低下」に関わる事に成る。従って、訓練すれば、シナプスの回路は開かれて再びその能力は高まる事を意味する。

戻して、ところが最近は、一方科学の付加価値の増大による障害(ストレス)に依ってか、男性の複眼に変わるこの「中紀帯」の活用の低下が起こっていると云われていて、この機能を活用している個人差が大きいとされている。男性の特有の未来を見据えた機能、即ち「性」が低下して、場当たり的な行動(フリーター、女性化)の様相を呈しているのはこの為であろうと考えられている。
男女に於いて同様の事(退化)が起こっている事に成る。
男性にはこの「中紀帯」によるデータを元とする未来を予測する直観力、女性には「第3の目」(複眼)の機能よる本来の野性的本能による直観力、即ち予知能力が存在し、その「訓練と活用」が必要となる。
況や、「訓練と活用」の如何ではより「退化」へと進む事になる。
その事からすると、女性はその「性」の目的の「子孫を育て護る」という機能手段を一つ失いつつある事を意味する。科学進歩により護られて「第3の目」の必要性が低下して、機能低下が起った事であり、これも明らかに「科学の付加価値の増加」による弊害(ストレス)とも云うべきものであろう。
「性」と云う観点から見れば、「母性本能」の低下で、これも場当たり的な行動が目立ち、結婚願望の欠如、離婚、男性化などの様相を呈しているのもこのためであろうと思われる。
所謂「科学に適応した進化(退化)」であり、現代は未だその途中であろう。

「性」の「進化と退化」
事程左様に、上記した過程に示すように「生存に適した進化」と「環境に適した進化」と「科学に適した進化」による3つの「性の進化」は何れに於いても現代2000年代には例外では無い。
「家訓3」でも記述したが、直近の1800年代の「産業革命」をきっかけに、再び下限域から「Nパターン」のサイクルは繰り返されて、約200年毎に起こると云われている「Nパターの摂理」は、200年後のこの2000年代には積分域と上限域に既に到達しているだろうと考えられる。
その現代に於いては、そして、更なる「科学の付加価値の増加」は起こるだろう事が予測出来る。
それは集積回路(コンピータ)の論理的な進歩が起こり、特に更なる「時間の進歩」が起こるだろう。当然、それにより歴史に観る「進化と退化」は起こると観られる。
依って、女性の「性」の目的「子供を育て護る」と云う事で「育てる進歩」と、周囲の「時間の進歩」の差異が生まれ、上記の「テレパシー機能」とは別に、更に「性」の手段機能の一つの機能の低下を起すだろう事が予測されている。
その一つとして、「時間の進歩」の一つの現われであるファーストフードの様に、作る事無く何でも既に揃っている「食の進歩と進化」の時代により、女性だけが特別に保有する「育てる機能:乳房」の一つが低下するだろうと言われている。現在もそれが進んでいて、その「対の目的」は低下して傾向として対の片方が縮小していると云われている。これは体の一部の変化であるが、これに伴なって「心の性:本能」、つまり、その「母性本能」の低下と欠如が連動しているのである。その為に、最近、この「母性本能」低下欠如の事件が多発している。
女性は、その「感情主観」の「性」を持つ為に、「科学の付加価値の増加」のストレスに敏感に反応する。この事と合わせて、「退化」はこの原因である「性」の働き(3つの性の一つの「体」部の低下)からではと見られている。 
それに較べて、「中紀帯」があるからとしても、男性には、複雑でスピード化してより尖鋭な「合理思考」が要求され、且つ、その左脳の情報量より「時間の進化」が早く成り過ぎて、その経験側のデータが間に合わないと云う事が起こる。結果はその思考機能の限界に来ているとも云われているが、より「左脳」を大きくし、「中紀帯」を進化させ無い限りは同じくストレスで潰れることが予測できる。
現代ストレスにて女性と同様に、過労死の社会問題化しているのもこの現象から来ているのであろう。又、男性の寿命の延長も進まないのである。これは、現代の社会現象である自然を求め、自然に帰ろうとする傾向は、「脳」(前頭葉と左脳連動)の中に「性の限界」の「拒否反応」が無意識の内で起こっているのであろう。

「性」の機能の検証
そこで、では、その「性」がどの様に反応しているのか、更に、より詳しく「性」(さが)の機能に付いて検証して見る。
人間は先ず問題が起こった場合には、無意識の内に「脳」は次の3基本動作をする。
その先ず最初に動作する脳の「計画」思考とは、
男性では「理想的」に計画する。
女性では「感情的」に計画する。
この動作は「無意識」の中で行われる。それが出来ると、瞬時に「有意識」となる。
そして、それがまとまれば、再び「無意識」と成り、
次ぎは取りまとめの動作、即ち「処理」(目標)思考と移る。
男性では「理想」を「合理的」に取りまとめて考え動作する。
女性では「感情」を「勘定的」(数理的)に取りまとめて考え動作して「有意識」と成る。
この取りまとめられ動作した思考は、再び「無意識」と成る。
脳の動作は最終の思考として「実行」へと移る。
男性では合理的に「現実的環境」を洞察した上で、思考の行動は「実行」へと移り、「有意識」の中に入る。
同様に、女性では勘定的に「周囲環境」を洞察した上で、思考の行動は「妥協的」な実行へと移し、この段階で「有意識」の中に入るのである。
これが、「脳」が行う「深層思考」の「無意識」の「原則パターン」である。
そこで例を挙げてみると次の様に成る。

 「性」の思考の例
例1の場合
例えば、ある問題が目前で起こったとする。
男性は、その状況を観て、先ず「理想的な形」で解決すべきとして「無意識」に脳の中に描く。
そして、それをその「理想」から導き出される方法として、「無意識」に「合理的」な「解決目標」を引き出す。
その「目標」を達成する為に、周囲の実情を検証し考察して、「無意識」に「現実」の中であり得る手法を採用する。この段階で「有意識」の行動として働く。

文明の付加価値を除いた人間の一場面の問題として観てみると、次の様に成る。
ある男Aが居た。そこに他の部族の男Bが生存競争で直前に襲撃したとする。
男Aは、先ず、脳は「無意識」に働く。そして、先ず、男性は「理想的な形」での最も「戦いに叶う」とする解決方法を思考する。先ず絶対に避けられない生存競争であると認識する。敵の弱点を志向する、そして、衆敵を圧して自らの安全を確保する姿を描く。
次に、そのための具体的で合理的(目標:手段)な危険の少ない「捕縛」作戦を考えるように働く。そこで、それを実行する。行動は「状況判断」(過去と現実を対比洞察)をして、先ず身を隠す、引き込む。捕らえる等の戦術を実行する。そして、自らを「戦い」から護る。
女性は、何とか戦わず仲良くする「感情的な形」を思考する。戦わずして仲良くし犠牲(勘定)を少なくするには、先ず引いて可能の可否は別として、「相手との話」等と考える。そのまとめ方は「損得(勘定)」で計算する。そして、「道義、正義、勧善、懲悪」に拘らず「妥協」してまとめ様とする。
例2の場合
この思考原理の差異で起こる最たる例は「夫婦喧嘩」であろうが、これで観てみると判りやすい。
「計画段階」では、男性は「理想」を描くが、女性は「感情」で事を描こうとする。「理想と感情」では「次元」が異なる。これでは、性格が合うかどちらかが引くかしない限り、余程の事でなくては話は絶対に合わない。そこはどちらかが何とか逃げてたとする。
次ぎは「目標(処理)」の議論の段階と成る。
男性は「論理の合理」で思考する。女性は「数理(損得)の勘定」で思考する。
「合理」と「勘定」とは一見同じであるかに見えるが異なる。
男性の場合は、「理想」に基づく「論理性の合理」である。
女性の場合は、「感情」に基づく「数理性の勘定」である。
「論理」と「数理」との違いである。つまり、論理は縦と横と巾の立体(過去、現在、未来)で思考する3次元性、数理は+(縦)と−(横)の面(過去、現在)であり、+と−には巾に相当する要素が無い為に思考するものは2次元性である。

男性の場合の論理性は1次元多い思考範囲で処理するという事である。
この世の現実の出来事は「3次元要素」に依って起こっている。故に男性の「性」は「現実的な実行」となる。この世の現実の最良の状態を「理想」と描く事であるので、「理想」には中間の思考も最良のものであれば存在する。従って、「理想」のメカニズムは「思考の和」に依って生まれるのであるから、中間は含まれる。故に、思考の「理想」は現実の世の出来事(3次元)から生まれたものである事になる。
この事は、「現世の3次元」と「理想思考の3次元」の次元が一致して「理」が合う事になり、つまり「合理」で決める事となる。
(この事は上記した様に左脳の理想の経験則の記憶収納方式から起こる。)
因みに、この思考の「理想」には考えの個人差が生まれる為、この「理想」とは、「三相」(人、時、場所)の「3つの要素」が、同時に、合わせて、「最良の状態」を意味すると定義されるだろう。

そうすると、「3次元」の3つの要素と「三相」の3つの要素が絡まって思考される事に成る。
つまり、「脳」の中ではどの様に働いているのか、この事を解析してみると、次の様に複雑に働いている事に成るだろう。
「未来」の事に付いて決める議論が及ぶ場合、人間の脳の中では、「過去、現在」の2つの要素に合わせて、「三相」の3つの要素を絡めて思考している事に成る。

方程式であらわすと次の様に成るだろう。
「未来」の決定(C)=(「過去+現在」)*「三相」=「過去の三相(A)+「現在の三相」(B)
解説
「過去の三相」の理想(A)はこの様であった。「現在の三相」の理想(B)はこの様である。
故に(A)の理想と(B)の理想の2つの理想形から、未来の理想(C)は”この様にあるべきだ”と論理的に思考する。
「過去」と「現在」の決定の関係式も代替して同様に式が出来る。

男性の場合は式にすると次の様に成る。
思考関係式 「理想」=3つの対比する「思考の和」 故に「3思考和」=「論理」の構成=「合理」
(「3つの対比」とは「過去の三相」、「現在の三相」、「未来の三相」を言う)

この関係式からも「理想」を論理で描いたものである為に「目標(処理)」はその延長上の「合理」で決める事になるのは当然であり、これが「感情」や「勘定」で処理する訳は無い。もし、そうだとしたら、「精神分裂」とも成る。思考の面では「精神分裂」とはこの様な現象を示す事ではないだろうか。従って、「実行」の段階では「過去、現在」までのこの「世の現実」から来る「理想形」を描いた訳であるから、「現実的」に実行する事に以外には無いだろう。
只、男性の場合には、「理想」の中には「中間的思考」もあり得ると考える思考形態である筈で、故に、「戦略的」に「理想」を叶える為には「妥協」と云う一時的な「戦術」を採る事もあり得る。それも最良の三相「人、時、場所」の条件を整える為には、男性の思考には「現実的」と捉える思考形態を持っている。それは過去の歴史的史実を見てみると判りやすい。
この多くの史実の中で、古来より、この「世の処理」は「6つの戦術」と「3つの戦略」に依って分類されると考えられている。
「世の処理」=「3つの戦略」+「6つの戦術」と成る、その事を多くの人が知っている例として次の事が良く判る例ではと思う。
彼の有名な「諸葛孔明」は敵を「欺く手段」として良くこの手(妥協)を使ったと言われている。だから、敵は”何をするか判らないので、警戒して動かない”と言う行動を採り、良く勝利に導いた。
例えば、「諸葛孔明」が死んだ時、云い遺して、”全ての城壁の城門を開け放ちかがり火を焚けと。”
つまり、「戦い」の 理想の両極の「戦う事」、「退く事」のどちらとも取れないこの策は、軍師の居ない時の「妥協」の戦術である。敵は、結局”、何かの仕掛けであり、何が起こるか判らない”として警戒して引いてしまったのである。これこそ”戦わずして勝つ”の「理想」の戦いの達成である。
「理想、合理、現実」からでは、次にうつ手の戦略戦術は、”将棋の様に次にはこの様に来るだろう”と完全に読める。しかし、これでは軍師ではない。それを「妥協」と云う一時的手段で欺いて、「戦う事」と「退く事」の両極を、より効果的に「理想」(勝利)を導けるのである。
故に、この女性の思考の「妥協」は、男性にとっては「実行の補助手段」と認められるのである。
つまり、男性の「妥協」は「実行の補助手段」であるので、「諸葛孔明」の様に、有意識の中で「戦術の訓練」で補える。

逆に、男性の「現実」を女性が用いるとすると、元が「感情主観」であるが故に、「実行の補助手段」の思考としては「脳」の中で、無意識で拒絶して用い難いものであろう。
あくまでも、この「実行の補助手段」は論理性から来るものであるからだ。
例外的に、女性がこれを思考として用いるとすると「脳」の訓練で左脳に「合理と現実」で創り上げた経験則のデータを蓄積して引き出し、有意識の中で故意的に使う以外に無かろう。
同様に、男性が女性の「感情主観」を利用するとすると、かなり難しいものがあろうが、感情主観の経験則のデータを蓄積して引き出し、有意識の中で故意的に使う以外に無かろう。
あらゆる男性芸術家はこの域の例であろう。只、男性には3次元思考の形体であるが故に、描かれる芸術はより「豊」「深」をもつ事であろうから、芸術家は男性に多い事となるのであろう。

従って”誰でもが”と言う事ではなく例外的ではあろう。ここで云う論処は例外を含めてのものではない。例えば、女性では「6つの戦術」と「3つの戦略」を駆使する女性政治家の様な例外的なものであろう。
同様に、女性は好き嫌い良い悪いの「感情主観」であるので、「感情」には中間の思考は無い。”どちらでもない”と云うものは「感情」では基本的にないので、中間の思考には「感情」は生まれない事に成る。つまり、「感情」のメカニズムは2つの対比する「思考の差」に依って生まれるのであるから、中間との差は少ない。故に、「小さい感情」と成り、左脳の思考の保存には留めないものと成る。
故に、中間を含まない両極差の感情と成り、女性は「2次元要素」と成るのであり、現実の世の出来事(3次元)から一次元を差し引いた思考で主張する事と成る。
つまり、結局は「目標段階」では、結果としては、「思考差」の多い少ないの量的な「勘定」で決める以外に無くなる訳である。
(これは上記した様に左脳の感情の経験則の記憶収納方式から起こる。)

方程式で表すと次の様に成るだろう。
「未来」の決定(C)=「過去+現在」*「感情」=「過去の感情(A)」+「現在の感情(B)」
解説
「過去」の感情(A)はこの様であった。「現在」の感情(B)はこの様であった。
故に(A)の感情と(B)の感情の2つの感情形から、未来の感情(C)はこの様にある筈だと思考する。
「過去」と「現在」の決定の関係式も代替して同様に式が出来る。
ここで、女性の「三相」の取り扱いであるが、基本的には、「一相」(人)と成るであろう。
男性の場合は「理想」であるが故に「三相」の重要度は同等と考えられるが、女性の場合は「時、場所」の「二相」は「感情主観」であるが故に、「時、場所」の二相にはその主観は生まれ難いであろう。その重要度では「人」に較べて低いと考えられる。

思考関係式 「感情」=2つの対比する「思考の差」 故に「2思考差」=「数理」=「勘定」
(2つの対比とは過去の感情、現在の感情、を言う。未来への感情は論理性で無いことから低いと考えられる)
女性には、「左脳域」の未来を予測する「中紀帯」が存在しないのはこのことを証明している。

 性の相違の考え方(三相)
これは良し悪しの問題ではない。この世は3次元で思考しなければならない時、2次元で思考としなくては成らない場合もある。事は「人、時、場所」の「三相」に依ってその最適な処理方法は異なるであろう。だから夫婦の主張はここでも平行線と先ず間違いなく成る。
この「三相」を排除した思考ではどちらも正しいと思い込んでいる。「計画」「処理目標」の2段階の議論も平行であれば、両者の感情はどちらも高ぶるであろう。普通は殆どここで喧嘩となるであろうから話は次へは進まない。
しかし、そこで、無駄であるが、止む無く無理に「実行」の段階に話は移るとする。
男性は現実の環境から洞察して「左脳」から過去の「論理的経験則データ」を引き出し、類似的な「現実的データ」で実行しようとする。
女性は感情に基づく蓄積データの「数理的経験側データ」を引き出し、損得の「勘定思考」に基づき「妥協的」な計算方法を見出す。
「良い悪い」と「多い少ない」では中間の思考差は無い為に、2次元の「妥協」での実行以外に無くなる。例えば、この場合は本来は5:5であるが、感情論を持ち込んで6:4でまとめようとする。
ここでも平行線となる。
男女間の議論は適時適切に正しい判断を導くとすると、「三相」[人、時、場所]によりまとめる以外にはないが、しかし、この仏教説話でもある「三相」の考えは、男性の「論理思考」に基ずくものであって、女性には「感情主観」であるので、「不得手」とするものであろう。
多分、この段階で「感情主観」を超える思考と成り、パニックに近い状態(脳の思考停止状態)となるのが普通であるだろう。
この思考原理から考えれば、女性は「議論」そのものを受け付けなくなるだろう。

「家訓4」は、上記の関係式から、このポイントを深意として誡めている一つのものと考えられる。

[思考の傾向]
この様な男女の思考原理をある一つのものに当てはめて考えてみると次の様になるだろう。
例えば、この「思考原理」で「義」と云うものに対する思考採用度に付いて考えて観る。
この「義」は女性には理解され難い難物である。
男性では、「理想」を描き「合理的」に思考し「現実問題」として処理しようするため「義」が無くなることは論理的に考えれば人間としての「根幹」を失うと考えを重んじる。
人間は、他の動物と異なり、その「差」を「軌範」と云うものを以って「人」としている。
然し、女性では、「感情主観」を求め「勘定的」に思考し「丁度良い具合」で処理しようとするため「義」が人の根幹を占めているとは考えない。多少、「軌範」が崩れても、仲良く傷つかないように成るのであれば、譲り解決しようとし、「義」は思考の「根幹」としては女性は重んじない。
同様に「戦う」「争う」とか云う事に対しては、よりその思考原理の違いは顕著に現れる。
男性は解決する為には「戦う」[争う」も一つの解決手段としては決着がはっきりとする事から必要と考えるが、女性は、女性本能(母性)が働き醜い犠牲のある事を避けて「皆仲良く」とする「感情論」を引き出し、双方が傷がつかない手段として「妥協的」に納めようとするだろう。
結果的には抜本的な問題は解決していない訳だから、「一時的な手段」に過ぎないとして、合理的、論理的に考える為に男性は納得しないだろう。
(注 母性本能は子供が産む前に於いても、「思春期」という急激な経緯(体と心と仕種の変化)を経て以降は、母性本能は基本的に育つ事に成る。同時に女性のこの思考パターンも育つ。産む事に於いて「体の変化」で全て整う仕組みと成っているのである。)

男女の性を決める脳の「継電機能」
女性の性の代表的なものとして、「母性本能」がある。この医学的メカニズムは、次の様に成る。
「前頭葉」や「側頭葉」に対して、マイナス電位0の地球とその人の身長差分だけの電位が「脳幹」に働き、その結果「電源」と成った「脳幹」から発した電気信号は、回路となる「脳神経」(ニューロン)を通じて流れ、「前頭葉」や「側頭葉」の直前で、この部位との神経の繋ぎ目(シナプス)にNaイオンから成るアルカリ性のキャリパーという呼称の液体が飛ぶ。この液体の+Naイオンに電気信号が載り、「前頭葉」や「側頭葉」に繋がる。通常は通電0.2秒間程度である。しかし、女性は一般的にこの通電時間が長く約2-3倍程度であり、この通電時間が長く繋がった状態に成るのが、「感情」の最たるものの「母性本能」である。「母性本能」は産む事だけで起こるとは限らず、それに近い状態の刺激が起これば通電状態と成り、「母性本能」は発生する事と成る。だから女性は、幼子でも、男性より「可愛い」と云う感情をより示すのはこの通電時間の長さに起因する。
他に、「うつ病」はこの繋がった状態である。次第にリード(通電)する神経が疲労し、「脳」も通電状態と成っているので、エネルギーが莫大に必要とし、それを補う為に、栄養素や、Naイオン等のミネラル分を多く必要となる。これは無意識の中で起こる現象なので、自己の意識能力では直せない事に成る。外部から電気信号を切る手立てを考えなくては成らない。最も良い方法は「環境」を変化させてこの信号を切るのが効果的である。
電気回路学では「自己保持回路」と云う方法である。別の神経回路から信号が入り、回路は目的とする負荷の脳の感情部を繋ぐ。するとこの刺激でこれと同時に感情部から自分で神経回路を作り、元入って来たの所に繋いで感情を維持させる方式である。元来た回路信号のON−OFFに関係なしに保持されてしまう方式である。
女性は男性に較べて脳医学的ではなく電気回路学的にも、この回路方式を強く持っている。だから「感情主観」が主体と成るのである。
女性は「感情主観」を原理としている以上、この現象になる可能性が高いのである。逆に言えば、この機能があるから、「感情主観」の証拠と成るとも云える。
男性では、これではその男性の「性」を達成できない為に、「側頭葉」で感情を抑える機能が働き、この自己保持回路の現象を出来る限り防いでいる。
男性が「戦いの殺戮」を平然としてできるのは、この「抑制機能」が働くので、出来るのである。女性はこの「抑制機能」が無い為に「戦いの殺戮」等の行為は出来ないのであり、必然的にも、「体」も必要が無い為にそれに順応して筋肉質ではない。脂肪質である。男性はこの逆である。
ところが”男性のうつ病は何故起こるのか”と言う疑問がある。
回路としては同じ自己保持回路である。
しかし、ここで違う点がある。それは、男性の場合は同じ事を何度も繰り返すとその回路の保持状態が容易に成る。つまり、同じ事を悩んだりすると、何回もこの回路が入る。癖に成る。最後は自分の脳で事故保持が切れなく成る。これが男性の「うつ病」である。女性は「感情」の思考原理から、この回路が入る事を「性の機能」(産み育てる)として「心と体」の機能を維持するために本来出来ている。
もし、女性がこの自己保持回路の状態が「性」以外の所で起こったとすると、「妥協」と云う手段でこの回路を外す思考原理を持っているのである。その問題が合理的に完全解決にならずとも「妥協」という手段で逃げられるように脳の機能は出来ているのである。
男性から観ると、女性のこの意味の無い日常の「しゃべくり」がこの最たる行為であろう。この「シャベクリ」が「うつ」を抑える役目をしている。
男性のこの「うつ病」は厄介である。
「妥協」は解決もしていないのに、”中途半端で済ますのは卑怯だ”と男性は考えるだろう。それは男性の考え方であり、男女の共通の思考ではないのであり、「正悪」(性悪)の問題ではない。
それは、その様に「神」が創造したのである。文句をつけるのは「神」に文句をつけるが如くであり、人間として不尊そのものである。
男性の場合のように「論理、合理」とすれば、その問題の合理的に解決しない限り、回路は外れない。

「戦いの例」
男性にとっては、次ぎの様に考えるだろう。
この2000年の有史来、感情的にはそうあって欲しいが、「仲良く」で解決したものは無いし、「戦い」は常に起こっている。人間の生存競争はそもそも「戦い」である。種の「民族」がある限り民族間利害が起こる。「利害」は争いを起す根源である。この根源がなくならない限りは「戦い」の「仲良し」の解決方法では絶対に納まらないとして、以上の「経験則データ」を割り出して、論理的に納得しない様に脳が働くのである。
脳の働きは、兎も角としても、先ず、未来に於いても「戦い」はなくならないだろう。進化がどんなに進もうと、この「世の摂理」である「種」の存在は無くなる事は無い。依って、男性の論理的結論はこの摂理がある限りに於いて正しい事に成り、「現実的対応」が必要となる。故に、男性の「現実的対応」の思考原理は正しいことを意味する。
女性はこの「戦い」を最悪として考える。多くの感情が渦巻く最たるものであるからだ。
男性に於いても、「戦い」が好きな者はいないであろう。居るとすれはそれは思考錯乱者であろう。
男性の「戦い」は事の終局的解決の最終手段として「論理的な合理思考」の中に置いているに過ぎない。「戦争反対」と叫ぶ女性の多くは、自分を「正の位置」に置き、他を「悪の位置」に置いて他の責任を叫んでいる感情傾向がある。「思考原理」から止むを得ないのであるが、「戦争」に成る原因の一端も民族社会の中で同等に担っていることを忘れて叫んでいる。「叫ぶ」と云う事は、他の者が恣意的に「戦い」を選んで好んでしているとして、その「責任の所在」を叫んでいる事になる。
そんな人間は居るのか、自分の責任は何処にあるのかとなる。これが女性の感情主観の男性側から観た理解に苦しむ言い分となろう。
この様に「戦い」と云うキーでは「性による思考」の差は異なるのである。

思考データの体系化
つまり、男性は、今まで長い間の「遺伝と体験」で「会得し学習」した「知識:データー」を左脳に一つの形で「体系化:理想」して主体的に記憶して置くのである。
目標として、この記憶の「体系化(理想)」に沿って、一つの「構成要素(系列:ツリー)」の最も良いもの(合理)を導き出す事を行うのである。
得られた「合理の目標」を実現するために、「学習経験則:ウェーブ」に従って、その過去の類似する経験則を選択して、意識の中で事に当り行動するのである。
この思考パターンを採る事から”「皆仲良く」「傷がつかない手段」”と云う形では、過去の「遺伝子的データ」にも、「個人の経験則」からも系統化されていないので、割り出されたデーターで解決しない事と成る。多少の犠牲はあるとしても、男性思考は本来の抜本的な理想的な解決を求めようとする。
女性の場合は、この「理想」(計画)の記憶領域は、主体は「感情主観」として分類化、系統化されて「勘定理」(目標)に基づき収納されている。従って、論理的な思考は原則的には採らない。
採らなければならない時は、「訓練」してその経験側を左脳に記憶量を多くする以外にない事に成る。感情的で勘定的に処理しなければならない時は男性も同様である。
従って、女性はその感情思考のデータ以外の出来事(感情主観を超えて理解できない出来事:災害や悲惨事)が起こるとパニックになり易いのはこの事に成る。
この様に「深層思考の原理」が、元より下記の様に、元来、「脳の収納方式」そのものが異なるのであるから、「男女の思考」は完全一致は難しい。無理にまとめ様とすれば対立し、何とかまとめ様とすれば何れかが譲歩する以外にない。
何はともあれ、この世の神が創った摂理は、男女「6つの思考」があってこそ、この世の出来事に対応出来る様になっているのである。
神の成させる仕組みである。

「性」の差異の解決策
神仏が創ったこの解決策は「三相」(時、人、場所)を「適時適切」に採用する事以外に無いのである。
男女は「三相」を「理解、認識、訓練」し「性」の弊害を超える事が必要と成る。これに尽きる。
しかし、実生活ではこの事「三相の認識」が核家族で忘れ去られている。
昔は、三世帯家族が主体で有った事から、自然に「三相の認識」が教えられていたのである。
祖父母の年寄りは、口癖の様に日常生活の中で、「時が悪い」「相手が悪い」「場所が悪い」等を云ったものである。時には好んで、占い、八卦、方位、祈祷等を駆使して決めたものであった。
今でも遺されていて、結婚、建前、慶事、祝事にはこの「三相」を選んでいる筈である。
これは過去の「仕来り」の中に「性の弊害」を取り除く為に、「先人の知恵」として戦前まではこの「三相による解決策」が自然に生活の中に組み込まれていたのである。
不幸にしてかこの「先人の知恵」はアメリカナイズされて消えうせて行ったのである。
「家訓4」に遺されているのは、この「先人の知恵」として、上記の論理的根拠を得ずしても、それを忘れさせない為に、先祖は書き記していたのである。「自然の摂理」の弊害を克服する術として、人間の「性の弊害」を克服する術として、「深層思考と三相」を併用して教えているのである。
裏を返せば、今ほどではないが、先人達の時代にも徐々にではあるが、「性の弊害」が起こっていた事を意味している。
先人達の長い歴史の中にも有ったとすると、男女はこの上記する「性の深層思考」が有る事を認識し自覚する事、即ち、家訓4を知ること以外に無い事になる。
知らなければ、自然に男女の「対の相性」が合わない限り、又どちらかが引き下がる事をしない限り、「歪みの無い解決策」は有り得ない事に成る。

古来に於いての「日本的解決策」は、この”どちらかが引き下がる策(特に女性)”を「社会の掟」(謙譲の美徳)として採用されてきたが、現代に於いては、アメリカナイズされた社会でありながら、又、科学による付加価値も急激増大している社会でありながらも、未だ「男性の思考」に於いては、この「掟、慣習」が強く遺されている。地方によりその慣習、掟が遺されている気がする。否、全ての男性の心の奥底に持っているものであろう。表に出すか出さないかの違いであろう。
従って、この過渡期の社会では、男女はこの「家訓4」を知ること以外に無い。
そして、その「三相」を「採用する訓練」、男女の「人間性を磨く」必要がある事に成る。
先祖は、問題の発生原因は別として矢張り多くあったのであろう。
多分、先人は平安初期から江戸初期までの長い期間の「戦い」から来る問題、現在人は1800年代からの「付加価値の増大」から来る問題と成ろう。

どちらにしても。この思考形態を理解する事を根拠として、この家訓4はこれを説いているのである。

「脳の収納方式」
そこで、この事に付いてより理解を深める為に、「脳の収納方式」を解いて見るとよく判る。
人間の脳は進化して、脳の中は、判りやすく云うと、「幹、枝、葉」の形の3分類の形でデータ−化されて収納する仕組みと成っている。
(コンピータもトラック、クラスター、セクター、として最低8進法でこの仕組みを使っている。)
「幹」の収納庫は、論理的に組み立てられた形(理想:感情)で収納され、「枝」は幹を構成するものとしての要素群(合理:勘定)がまとめられて収納さる。幹枝を生かす「葉」に相当する収納庫(経験:個別データー)には内容別が収納される仕組みに成っている。
男性の場合は、この男性の「感情」(計画)の記憶領域は、経験側の領域、即ち、葉の部分に別々の収納庫に保存されていて幹枝として体系化されていない。

この様に、脳の動作原理は、先ずは無意識の中で起こり、次に意識へと戻る仕組みと成っている。
それは、「無意識の中」即ち、”人は自分の意識で「管理出来ない意識」がある”という事である。
そして、この「管理出来ない意識」は男女共に異なる意識を持っていると言う事である。
この意識の「有無」を認識しないで行動する事は、人生にとって「本道」を歩めないと言う事なのである。
つまり、究極、人間は他の動物と寸分違わずして、この世に生まれて来た目的は「子孫を遺す」事に有る。その過程での「喜怒哀楽」は目的ではない。
従って、この「管理出来ない意識」の存在有無を認識しない事は、人本来のこの世の目的の[子孫を遺す」と云う事に障害を生む結果と成るのである。その障害の過程は「喜怒哀楽」の「怒哀」の割合が人生の中で大きく占める事となり、結局、最終、「子孫を遺す」と事への確率は低下する事に成る。又、人生上の問題を起す事に成る。

最近、世情が近代化と科学化に依って付加価値が急激に増大して、人生を全とうする事に難しさが生じて来ている。そして、結果として人心に余裕が無くなり、且つ、人間性が低下する現象が生まれて来ている。
この様に成れば、思考に余裕が無くなり必然的に人の思考は仏教で云う「刹那思考」と成って来る。
この「刹那思考」から、人間本来の生の目的「子孫を遺す」と云う事よりは、「目先の喜楽」にその目的を見出そうとして来る。「刹那思考」つまり、「子孫を遺す」と云う長い目的ではなく、死を直前にして起こる「追い込まれた心情」と成り、人は「目先の享楽」とその継続を追い求める心情事に成る。
この様に成れば、必然的に人本来の目的から離れ、「歪みの人生」が生まれる。
特に、この様になれば、家訓4の云うその「深層思考」からすると、女性の思考が大きく左右される。
恐らく、未来はより近代化(付加価値の増大)が起こり、「人、時、場所」の「三相」の内、「時」が大きく変化するだろう。その「時」はより「加速度的な速度の進化」で起こるだろう。
必然的に、「科学」による「速度の進化」で有る事から、「合理の進化」と成るだろう。
そうすると、女性の「深層思考原理」の「感情主観」からすると、大きな「ストレス」が生まれるだろう。当然、女性に起こる以上、この影響が男性にも影響が出て来る事は必定だろう。
この事は、これからでなくても、家訓が遺された頃からも同じ事が云えたのではと思える。
つまり、「原始の生活環境」から男女の役割は、次第に「進化と付加価値の増大」が進み、より変化して女性側にストレスが掛かるものと成ったと見られる。故に、日本社会は女性側に対して女性の弱点を補う為に、且つ、本来の女性の幸が存在する場所を求める為に、「女性の慎み」を求めたのであろう。決して、女性蔑視から来るものでは無かったと「家訓4」の意味として理解している。

青木氏の「家訓10訓」の深意は概してはこの一点に通ずると理解している。
多分、主にこの「家訓4」は鎌倉末期頃の下克上と戦国時代の激しい「戦い」の中で生まれ追記されたと観ている。全体の家訓群は平安末期から鎌倉末期頃までの乱世の「訓や戒め」が追記されてきたものであろう。

その影響の典型的なパターンは、人間本来の目的とする子孫を遺すと云う行為「子育て」であろう。
「子を産み育てる」という事からすると、女性の思考原理ではなくては「産み育てる」は無理であろう。世の常として、災難や災害が起こると、先ず、女性と子供を助けると言う行為はこの事から来ている。男性が多くあっても子孫は遺せないが、女性が多く遺せれば子孫は再び蘇る摂理はここにある。昭和の大戦を始めとして、有史来2000の戦いの結末は男性が多く死するが、子孫は再び蘇っている。この摂理からすると、神は女性に「人間の本質」を与えたものであろう事が判る。遺伝子的にも卵子の中に人間の種の遺伝子を保持しているのはこの証明であろう。
決して蔑視差別から来る「慎み」では無い事が判る。神もこの「慎み」を以ってより安全に長く生き延びさせる「性」を与えたのであろう。

その証拠に、医学的にも女性には「女性ホルモン」で45歳程度まで病原体から体を保護する仕組みにも成っているし、「脂肪」で外的環境からその体を護っている。男性にはこの仕組みはまったく無い。神は”勝手にしろ”である。
それどころか、現代脳医学では、「側頭葉」には、「戦い」などの「人間の殺戮」の際には、この「感情」を司る部分の感情を停止する機能もある位である。つまり、「戦い−死」のシステムは本能的に出来ているのである。そのために神は更に重ねて、都合良く左脳の記憶集積回路と連動する「中紀帯」という小指の先ほどの「独立脳」を創り上げているのである。「戦い−死」と言う行為をより効率よくするために「未来を予測する脳」である。「原始社会」(食うか食われるか)の環境を「2足歩行」に成った事からより確実に生き抜く為に、この二つの脳は備えられた機能である。

男性が、養育期の子供を「育てる」と言う事に成ると、男性的な思考で「良悪、優厳、仲良く」の人間的な基本感情を教えると成ると無理が生まれる。逆に、成長期、思春期の子供に対する子育てとなると、女性には「良悪、優厳、仲良く」では厳しい世間を渡れる力を付けてやる事は無理であろう。
雑である男性ものと違い、女性の「心」細やかで伝えるものの養育でもこの様に成るだろうが、「体」の面でも「筋肉質」の男性では養育期の子供に伝わるものも本来のものとはならないだろう。同様にして「仕種」の「滑らかな仕種」でない男性のものは養育としては難しいものが一般的にある。
思春期(13歳頃)までの養育としては女性の「性(心、体、仕種)」でなくては成らないだろうし、15歳以上は男性の性が必要に成る。
昔の成人は寿命の関係もあるが、15歳と成っていたのは社会に出て鍛えられる「現実感覚」をこの時期から必要とされていたものであろう。
つまり、「養育」という言葉を分析すると2つに成るだろう。1つは「育てる」、2つは「鍛える」と成るであろう。そこで、女性は「性の思考」は「育てる」に有って、男性の「性の思考」は「鍛える」にあるとなる。本来2つの「性の思考」はもともとこれで「一対」なのである。
子孫を遺すと云う本来の「性」の目的はこの様に異なるのであり、神はそのように創造したのである。

家訓の活用具合例
事程左様に、あくまでも思考原理の「善悪の問題」ではなくて、「人、時、場処」の「三相」に対して、「適時(適切)」に、その「思考原理を保有する事の特長」で対処する事が必要である事に成ろう。
上記したが、現代に於いては、この「適時」(「適切」)が狂って来たと観られる。
言い換えれば、人間本来の目的「子孫を遺す」という前提に於いて、この世の「万事万象」に対して、この「二つの深層思考原理」が必要で、初めて「万事万象」に対応できる事に成り、”「合わせて一つの思考」”となる。
つまり、「男女の深層思考原理」は夫々が一つではないのである。その役割を分担しているのである。神はそのように定めたのである。
「家訓2」にも記述しているが、例えば、男性は成人まで母親に育てられ、父親に鍛えられて養育されるが、その後、嫁に引き渡されて婚姻後の養育を任す事に成る。
筆者は家訓の意を重んじて、かねがね嫁娘に3人の孫を含む「4人の子供」を育ててくれるように頼んでいる。そして、息子の結婚時には、”これからの社会に通じる養育は我々から、貴方が息子を自分の子供として孫と共に任せて育てるのであり、バトンタッチしたのだ”と、そして、”その心は「お釈迦様の掌の中で」としてお願いする”と、”決して一人の男性のみに偏らないでと、親としてお願いする”と懇願した。そうすれば、”貴方は貴方の育ての素晴らしい母親以上の「天下の母親」になる”と、”天下の本当のあるべき姿の女性になる”と付け足したのである。”何時しか貴方が我々の役目を果たす時がくるまで”と。いつも理解してくれて嫁はこの事(4人の子供)を云い笑い話に成っている。何よりも有り難きかな、そのように嫁は息子と孫の養育には社会に通じる様に育ててくれている。
我が家では、「家訓10訓」の前提として、”孫は息子夫婦だけのものではなく、先祖を含む家族のものである。息子夫婦はその養育に主責任を担っている。それに必要とする「経済的負担と精神的負担の軽減」は家族全体が担う。と云う考えにしている。
その考え方から、全ての思考が出ている。端的に云えば、孫が素直に元気に育ってるとすると、「ありがとう」と嫁に云う。
現在は、夫を只の男性と見なしている事に問題があり、女性のその人生での働きの重大さを認識していない所から来ていると思っている。
しかしながら、むしろ、本来は、男性よりは女性の方が難しい「人生負担」を担っていると考える。男性の難しさは本質は「単純無比」で、女性の方が「複雑繊細」であろう。
その思考原理から見ても、「産み育てる」と云う機能原理に思考形態が出来ているが故に。現在の社会では苦労が多いであろう。
先人も時代は異なれど、家訓10訓から観ても同じ考えに至っていたと思っている。

この言い分は「家訓1−4」を一まとめにした筆者の結論であった。

[結論]
ところが、この家訓4には、次ぎの事が簡単に書かれている。
”この家訓4に拘ってはならない”としている。
これを理解するには大変な時間を要した。
「性」に違いがあることは医学的にも調べても理解できたし、その解決策も理解できる。
知っておいて対処すれば、男女共に問題は無い筈だ。別に蔑視している訳ではない。
後で気がついた事であるが、大きな落とし穴があった。
先祖は科学的根拠は何も無いのにここまで摂理を的確に見抜いてまとめられたものであると驚いているのに、しかし、確かに拘っては成らない事である事が判った。
これは難しい。仏教禅宗の禅問答である。”家訓4は摂理である。しかし、摂理に在らず。これ如何に”である。昔は先祖は邸に禅僧が常に長投宿させていたし、代々漢詩や漢文による禅問答をしていたので”禅ボケか”とも感じたが違った。筆者は根からの理屈の技術屋だから、”それを理解しそれを「三相」を以って適応すれば、それはそれで良いのではないかとも思ったが。後は、個人の資質の問題であろう。”と考えていた。
”むしろ人を理解すると言う点では良い事で一歩も二歩も前進では。”とも考えた。
では”何故拘っていけないのか”を検証して見る。

1 仏教の説法の「色即是空、空即是色」から如何なるものに対しても「拘り」を誡めているのか。
2 「性」の摂理と解決策では何か問題が出るのか。
3 男女の何れかから不必要な反発を受けるのか。

究極は、1の答えとしては”「拘り」を誡めている”事に到達する訓であろうが、この2つの「深層思考」はともに脳に依る無意識の中での事であるのだから、例えば、男側が女性側に争いを避ける為に、この摂理の「理解」を受ける様に説得しても、男女にはそれぞれの思考を持ちえていないのだから、「理解」を得られる事は出来ない理屈となる。つまり、「永遠のテーマ」となる。
なにせ、「論理的思考」をベースにしている男の「性」と、「感情的思考」をベースにしている女の「性」では”根本的に相反する位置に”あるのだから、”「理解」を求めて一致させ様とする事態”が間違っている事になる。融通利かせる別脳があるのであればいざ知らず、無いのであるから、止む終えず少なくとも間違いであるだろう。
むしろ、この家訓4では、”一致させない事”が本来あるべき姿であり、”相反している事”で”物事が6つの思考から正しく導かれるのである”としているのだろう。
それを”如何にも正しい行為かの如く無理に「理解」という形の解決策に持ち込もうとする事”が”その行為に歪みを生む事になるのだ”としているのだろう。これが2の答えであろう。
この「行為」そのものが、過去の社会では「慎みの美徳」として女性側に求めていたが、何れかの「性」の方に「我慢、妥協、諦め」を生む事になり、それが何時しか「ストレスと成って爆発する事」(不必要な反発)の結果を生み、「営みに失敗を被る事」になるのだろう。これが3の答えであろう。

伊勢青木氏に於いては、この「慎みの美徳」を「社会の掟」の様に、当然の如くに求め理解を強いた結果、「900年も続いた紙問屋」や「伊勢青木氏の家柄」の大母体を維持する事に目が向き、”女が青木を潰す”という「一方的な戒め」として伝えられ来たのであろう。
明治35年に「慎みの美徳」の歪みが出たのか、”女が青木を潰す”(松阪大火の火元)の結果がまたもや出てしまったのであろうか。先祖伝来のステイタスの生仏像さまの戒めであろうか。
伊勢青木氏の失態は、家訓4がありながらも、この事に拘った為に、この訓の本質を見失っていたのかも知れない。
では、この「拘っては成らない」の本質とは、どの様に解せば良いのかということである。
幸い筆者の時代では、先人の失敗を繰り返したくない事から、この「性の摂理」の科学的根拠を探求して得ることが出来た事から、先人と違う「慎みの美徳」とは違う本質なるものを得たと見ている。
幸い時代と環境が違った事から得られたものであるが、未来に於いては、再びそのような環境が生まれて、「慎みの美徳」の方式に戻る事もあり得るだろうが。
何れが真実かは知り得ないが、兎も角も、”「拘り」の戒めの解釈”の答えは、現代では少し違うと考えている。

本「家訓4」の「拘りの誡め」の結論は、次の様に成るだろう。
そこで、つまり、”何れか一方が永遠に「理解」の得られない「性の摂理」がある事を知り、その「性の知識」を以ってして上手く処理せよ”という事であろう。

そして、現代に於いては、”過去の「慎みの美徳」環境から脱却して、その事により、「我慢、妥協、諦め」の環境をより少なくする様に努めよ”としているのであろう。

”世の「理解」というお題目は、「性の摂理」にだけは通用せず”と認識し、”「性の摂理」があるからと言って拘らず、””「性の摂理」を決して相手に求める事は相成らず。としている事になる。
兎角の「理解」の「衆生の論」は金科玉条の様にもてはやされるが、決して「家訓3」でも誡めている様に「性の摂理」に関しては惑わされては成らないものであろう。

「性の摂理」は上記した通りであるが、少なくとも、この「家訓4」の「性の知識」を知る事で、より相互に「求める理解」ではなく、「自然の理解」(「自然に生まれる理解」)が生まれるであろう事を期待する事であろう。

しかし、不幸にして、この「自然の理解」が得られにくい社会環境に成っている事は否めない。
まず、「性の摂理」の知識が、現代社会の相互間のコミニティーが低下して、伝わらなくなっている事で、この「自然の理解」が得られず、男女間のトラブルが多発しているのもこの原因であろう。
そして、再び、日本的という言葉を使い、「慎みの美徳」が短絡的に叫ばれる様に成っている事も事実であろうし、両極の「求める理解」もマスコミでは誠しやかに論じられているのには疑問を感じる。
そこで、少なくとも、「家訓1」から「家訓4」では、この知識の提供の一助になればとして家訓だけを期する事だけではなく、その理を論じている事に理解を得たい。

[重要ポイント]
「性」による深層思考
脳の無意識の3基本動作 「計画 処理(目標) 実行」

「性」の無意識の思考原理
女性の無意識思考 「感情 勘定 妥協」
男性の無意識思考 「理想 合理 現実」

「性」の働き
「3つの性」(体の仕組み、心の仕組み、仕種の仕組み)

「性」を管理する脳
「脳陵体」「中紀帯」

「合理」と「勘定」との差異
男性の場合は、「理想」に基づく「論理性の合理」である。
女性の場合は、「感情」に基づく「数理性の勘定」である。

「性」の目的
男性の目的は、子孫を「鍛える」にある。
女性の目的は、子孫を「育てる」にある。

「性」の進化
「生存に適した進化」
「環境に適した進化」
「科学に適した進化」
「突然変異による進化}

「性」の過程
「性の転換」
「性の合体」
「性の分離」

「性」の管理源
「腸の管理」
「脳の管理」

「性」(脳)の管理)
「性の進化」
「性の分離」
「性の整理」

「性」(脳)の3つの進化(栄養素)
「Naイオン」
「Caイオン」
「Mgイオン」

「脳」の性情報の体系化
「3段階の収納体系化」
「幹、枝、葉」の形の3分類

「性」の変化要素
「増大化」
「拡大化」
「発達化」
「変異化」
「進化」


次ぎは「家訓5」に続く。


  [No.246] Re: 伊勢青木家 家訓5
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/04/18(Sat) 09:11:45

伊勢青木氏の家訓10訓

以下に夫々にその持つ「戒め」の意味するところを説明する。

家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
家訓3 主は正しき行為を導きく為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず。


家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)

この家訓は大変に難しい誡めである。
人間には主観を持っている。そして、その主観は人により強さと方向が違うことになる。
この人の世に人と拘らなくては生きて行けない現実の中で必修の条件である。
その基本とも云える要件にこの戒めが存在する。
では、”その「実相」とは一体何であろうか”と先ず考えてしまう。
「実」の「相」ですが、語源的に考えると「実」とは本来の持ち得ているもので、花木の「果実」に当るのではないだろうか。
では、「果実」とは邪念の無い植物が最終に成し得る行為或いは目的である。
そうするとその目的の「果実」には「果実」そのものが目的では無く、本来は「種」を保存する手段と成るだろう。とすると、「果実」そのものはその「種」を保存する「相」即ち、「様」と成るだろう。
「果実」=「相」(様)となる。では、ここで、その「相」(様)とは何であろうか。
仏教ではその「相」(様)は3つあるとしている。
それは、この世にて万物が生きていく時に必要とする対応しなければならない条件のことであるが、それを「三相」(「人、時、場」)と定義している。
この「実」と「相」を組み合わせると、「種」を保存する「人、時、場」と成り得る。

この組み合わせの「実 相」=「人、時、場」(三相)と成る。

人間本来のこの世に生まれて来た目的は万物は全て「種」を遺す事にあるだろう。人間も例外ではない。つまり、「子孫」を遺す事に他成りません。つまり、「種」=「子孫」と成る。
そして、「三相」とは、その「子孫」(種)を遺す過程での「人、時、場」での現象であるとされる。
更に、この「人、時、場」とは日々の生活に働く現象である。
依って「子孫」(種)を遺す日々の本来の「生活」と成る。

「子孫」(種)=「三相」(人、時、場)=日々本来の生活

日々の「生活」の中には、「三相」の組み合わせで色々な事が起こるだろう。雑事が起こる。
その中でも「子孫」を定義しているのであるから、雑事の中でもそれを実行して行くべき「基本の姿勢」と云う事になる。

「子孫」=「基本の姿勢」と成る。

即ち、雑事の中でのさまざまな姿勢そのものではなく、それに捉われなく、「子孫」に限定した「根本的な姿勢」を意味する事に成る。

結論は、故に「実 相」とは、人間本来の目的である「子孫」に限定した根本的な「姿勢」を意味する事に成る。
「三相」(人、時、場)の中、この家訓5は「三相」の「人」に対しての事を意味している事から、”「時、場」に依って起こる雑事を排除して、その人の「根本的な姿勢」の如何だけを観なさい”としている。
「人」が生きて行く過程で”人の事に付いての「根本的な姿勢」だけを観て評価しなさい”としている筈である。
又、”「時、場」を取り除いたその「人の姿勢」という事に成りその努力をしなさい”と訓している。
”なかなか、この努力が一朝一夕では出来ない故に、その日々の努力を積み重ねなさい。”
そして、”その暁にはその「根本の姿勢」を見抜く力、人の巾を持ちなさい。”としているのであろう。
そして、”その「人の巾」が大事にせよ”と云う事であろう。

「人」は日々の雑事に追われてその雑事の中で兎角全てを見てしまい、雑事の中で生きている傾向が出来てしまう。そうして、その中でそれを基に「評価の基準」として人を見てしまうジレンマに陥る。
「根本的な姿勢」を見るどころか見えな事に成る事さえもある。
雑事の中では「拘り」が生まれるに他ならないものであろう。
殆どは、実際はこの傾向が強いのではないか。だから、この家訓があるのであり、家訓5を知りより正しくより正確に見抜く力を付ける事が、より確かに子孫を遺せる事に成るし、又は、より人生を確かに豊かに過ごせる事としているのであろう。

伊勢青木氏はその立場に於いて、他のレポートでも記述してきたが多くの立場を有していた。
商家、武家、賜姓族、組織や集団の長などの立場にあったが故に、其処からこの家訓5のその必要性を求められ、又「人の巾」、「根本の姿勢」を持ち得ていなくては成り立たなかったと云う環境にあった。
故に、この家訓5の意味がどれほどに必要視されていたかを物語り、又、子孫にそれを伝える重要性があった事から代々家訓として遺されてきたと考えられる。
この立場の多さが先ずこの家訓を生み出したのであろう。
普通なら雑事の中でも充分に生きられるが、青木氏にはそうでは無かった事を物語る。
さて、これで、この家訓の意味が終わった訳ではないのである。

この家訓には、進めて後文に次ぎの事が書かれている。
それは、「人を見て法を説け」と記されている。

つまり、「人の実相を見よ」とする家訓5の前文の「根本の姿勢」を見抜く力、「人の巾」だけではないのであり、更に進めて、「人を見て法を説け」とある。

この二つの家訓が相まって効果が生み出されるとしているのである。
この2つの意味する所の家訓を理解しようとした時、若い頃には正直に理解が出来なかった。
当然である。「人の巾」をも充分でない者がこの後文を理解できる訳は無かった。
人生の雑事での中で思考も一通り出来る様になり、”甘い酸い”の事が判る様に成って来て、ある時、”待てよ。「人の巾」だけではこの人の世の中上手く行かない”と疑問が湧いた。
”其処には何かある。”とその答えを仏典など読み漁った。
その結論が次ぎのこの答えであった。

確かに、仏典にこの答えが書かれていたし、自分の感覚もこの事に近いものを持っていた。
しかし、ここで疑問が更に湧いた。
”何故、仏教が、「人を見て法を説け」と成るのか、全ての人を幸せに導くのが仏教の道ではないか。”おかしい。”人を見比べて法を説くのは違う。「人の道義」に離反する”と考えたのである。
しかし、よくよく考えた。仏説には、上記した様に「三相」として定義し「人、時、場」を明らかにしている。
普通の場合、雑事の中での思考世界では「人を見て法を説くのは違う」で正しいのである。
しかし、この家訓前文は、”「雑事の思考」から超越して「根本の姿勢」を評価をせよ”としているのであるから、雑事の中での思考の「人を見比べて法を説くのは違う」と考える事とはこの家訓後文の意味するところは「別の思考の世界」と言う事になる事に気づいたのである。
この様に、人間には、より巾を求めるには雑事の思考世界から逸脱する必要があり、常思考は深くこの雑事の思考世界にどっぷりと浸っている事を思い知らされたのである。
つまり、”自己よがりで、低次元で拘っている”と。そして、”「別の思考世界」でなくては成らない筈”とそれは大変な難行苦行の末の事であった。
考えて見ればれば、仏教を先導する僧でさえ難行苦行のこの「逸脱の修行」を行って体得しようとしている訳であるのにも拘らず、その事に気づかず、多少なりとも教典を浚っていながらあさはかにも「別の思考世界」と思い着かなかった。
雑事の中での「低次元の拘りを捨てる事」そうする事であれば、家訓であり仏説である「人を見て法を説け」の縛りは解ける。

後はこの、「人を見て法を説け」の意味する所を理解する事にあった。
では、この意味する所とは「見て」と「説け」に解決キーがあると考えたのである。
そこで、まず、「見て」はその人の「人間的レベル」、その人の「生活環境」の二つに分けられるであろう。「その人の人間的レベルを見て法を説け」なのか、「その人の生活環境を見て法を説け」なのかである。
その「人間的レベル」とはその人の「仏教的悟り」のレベルを意味するだろう。
その「生活環境」とはその人の置かれている「諸々の立場」の如何を意味するだろう。
さて、この内の何れなのか、はたまた両方なのかである。
この事に付いては仏教ではどのように成っているかであろう。調べるとそれを決定付ける仏教の教えが出て来る。つまり、「縁無き衆生動し難し」とあった。
これで大まかには前者の「人間的レベル」である事が判る。
”どのように衆生に説法を説いても説法の効き目が無い人にはその程度の理解力しか無いのだから意味が無い”。諦めなさい”としている。
仏教では”最後までその様な人には説法を説き続けなさい”とは言っていないのである。
”見捨てなさい”とまでは云っていないが、ここで矛盾を感じる。
家訓の前文の”実相を見よ”とある。仏教でも「実相」と云う言葉が使われている。
”雑事から逸脱した「根本の姿勢」を見よ”としているのであれば、どんなに説法の効き目の無い理解力の元々持ちえていない人でも「根本の姿勢」はある筈である。
そう考えると、言っているこの二つには矛盾がある。
ところがこれは矛盾ではないとしているのである。

その事に付いて、更に仏教では”それは拘りだ”としているのである。
仏教では最大の教えは「色即是空 空即是色」又は「色異不空 空異不色」としている。
つまり、この二つの般若経の行では”必要以上に拘るな”としているのである。
”どんなに説法の効き目の無い理解力の元々持ちえていない人でも「根本の姿勢」はある筈である”と考えるのは”必要以上に拘り過ぎる”と云っているのである。
何故ならば、上記の般若経の一説は”この人の世の社会はそんなに「理詰め」では出来ていない”だから、それは”「必要以上」”であり即ち、「拘り」であるとしている。
仮に理詰めで出来ているのであればそれは”必要以上ではない”と成るだろうが。

これでは納得できる。”この人の世の社会はそんなに「理詰め」では出来ていない。” この事を「三相」で考えると、人の世は「人」と成り、社会は「時」と「場」と成る。”だから、三相(人、時、場)で考えよ”と説いているのである。
”どのような事象でも普遍ではなく三相にて異なる”と説いているのである。
もっと進めれば、「三相」に依っては”正しい事は必ずしも正しくもなく、間違いでもあり、間違いは必ずしも間違いではなく正しい事でもある。”と成り、普遍では無く成ると説いている。
つまり、これが「拘り」を排除した考え方であると云う事になる。
確かにあり得る。むしろ科学文明の付加価値が進む現代社会では自然性が無くなり、科学的付加価値の要素が大きく働き、むしろ上記した事の方が多いとも思える。否多いであろう。どちらかというと、「正しい」と「間違い」だとする間のどちらにも含まない事の方が多いと考える。
ところが、我々凡人には普遍だと思い拘ってしまう所に、「悟り」(人間力)の有無如何が問われるのであろう。この家訓の意味する所だろう。
この様に”「三相」に依って変化する時の実相を見る力を付けよ”と家訓は誡めているのであった。
「三相」を思考する事に依って「普遍」と見る「拘り」を捨てれば、「雑事の中の思考」を取り除く事が出来て、「根本的な姿勢」を見抜くことが出来る事を諭しているのである。そして、その姿勢で法を説けとする誡めである。
雑事の中の「思考の拘り」を取り除く方法とは次ぎの事と成る。
”三相で以って行い、そして、考える力の訓練をせよ”と云う事であった。

「人を見て法を説け」の意味する所の「見て」の結論は「人間的レベル」即ち「仏教的悟り」である事である。

次ぎは、”法で「説け」”での疑問である。
先ず、解決キーは「導け」と「教えよ」の二つであると考えられるだろう。
つまり、「説け」とは、仏教では「導け」までを行うのか、「教えよ」までを行うのかという事を判別する事に成る。
これも仏教の教典に随処に明確に書かれている。答えは「教えよ」である。「導け」とまでは書かれていない。”先ず教えよ”である。
例えば「般若心経」である。このお経の「経」の意味は「路」であり、更にこの「路」は「ある過程を持つ路」であり、「人生という過程の心の路」を説いている事に成る。
つまり、般若経は、この世の「心」の段階の「迷い」「拘り」を捨てさせる「術」に付いて教えている事に成る。
上記した、「縁無き衆生動し難し」でも”説法を説いても縁の無い者は動かせない”となり、「導く」と云う所までに至っていない。
本来、「導く」の語意は「教えて」の後に「導く」を意味する。教える事せずに導けることはない。
人の世のことは先ずは教える事無くして導く事は不可である。だから経文があるのである。
仏教は”この教える事に主眼を置いて教えても理解が出来ない者には導くはありえず動かし難い事である。故に「必要以上に導くのだとする拘りを捨てよ」”と禅問答などで説いているのである。

既に「法」とは「則」(のり)であり「決まり」であるのだから、”人の世の生きる為の「決まり事」を教える事”を意味する。

参考
奈良時代に我等の青木氏の始祖の「施基皇子」が、全国を天皇に代わって飛び廻った際に、地方の豪族達からの話や土地の逸話などで得た全国の「善事話」を集め整理する事と、この「まとめ」をし、民の「行動指針」とし発行するように天皇に命じられたが、更に天皇はこの「善事話」を進めたのが日本最初に作られた「律令」であり、この様な「善事話」の「まとめ」を法文化したものであったと日本書紀に書かれている。
事と場合に依っては、これ等の家訓10訓は、証明は困難だが、この時の事柄を施基皇子は自らの氏に抜粋したものを遺したのではとも考えられる。
もし、仮にそうだとした場合は、5家5流を含む29氏の一族一党の青木氏はこの家訓に近いものを保持していた可能性がある。
当時、天皇家は男子に恵まれず女性天皇が何代も続いた時期であり、第6位皇子(第4位までで対象者なし場合は第5位とする継承権)の施基皇子の子供光仁天皇に皇位継承権が廻ったという経緯がある事と、鎌倉時代から江戸時代までに交流があった事から察するに、特にその系列の伊勢、信濃、甲斐の皇族賜姓族一党の青木氏はこの家訓に近いものを持っていた可能性も考えられる。
家訓なるものが偏纂される状況を考えると、700年前から800年前の100年間の期間ではないかと推測する。青木氏が発祥して2ー4世代の間と成るだろう。
その状況の一つとして例えば、又、光仁天皇の子供の桓武天皇(伊勢青木氏の叔父)は、第6位皇子を賜姓せず、後漢の阿多倍の孫娘(高野新笠)を母に持ち、この一族(たいら族:平氏)を賜姓して引き上げ、発言力を強めていた青木氏特に伊勢青木氏に圧力(伊勢国の分轄や国司を送るなど政治から遠ざけた)を加えて歴史上最も衰退に追い込んだ。しかし、この後、桓武天皇の子の嵯峨天皇はこのやり方に反発し賜姓を戻し、青木氏は皇族(真人朝臣族)の者が俗化する時に名乗る氏として一般禁止し、賜姓は源氏と改めた経緯がある。この時代付近までに初期の家訓なるものが偏纂された可能性がある。

当然に長い間に修正編纂された事は考えられるが、多くは仏説の解釈内容を引用している事から見ると、当時の仏教の置かれている立場は絶大であった事から考えても、現在にも通ずるこの家訓10訓は可能性があり否定は出来ないだろう。
この研究を進めた。しかし、この時代の確かな文献が遺されていないために進まなかったが、状況証拠はあるとしても、日本書紀に始祖が「まとめ」に当った史実事だけである。
伊勢では、口伝で伝えられ「家訓書」なるものがあったと見られ、何度かの戦火と松阪の大火で消失し、その後「忘備禄」(別名)なるものに諸事が書かれているが、10訓はあるにしても解説は他書に漢詩文でのこしてあり、「忘備禄」の方は完成に至っていない。
恐らく復元しようとしてまとめながら口伝として「忘備禄」の中に「家訓書」にする為に書き遺し始めたのではと考えられる。続けて筆者が公表できないものを除外しながらこれ等の漢詩文と口伝と忘備禄と史料を基に何とか平成に於いて完成した。


後文の結論は即ち「法を説け」は先ず上記した解説の事柄を「教えよ」の意味する所と成る。

よって「人を見て法を説け」の解釈は次ぎの様に成る。
人の「見て」は「人間的レベル」即ち「仏教的悟り」であり、「説け」は「教えよ」である。
”人の「人間的レベル」或いは「悟り具合」を良く洞察した上でそれに合わせて必要な事を教えよ。”と成る。
しかし、と云う事は、自らがその「人間的レベル」(悟り)を上げなくては人を洞察する事は不可能であり、「教える」に値する度量とその知識と話術を習得せねばならない事に成る。
つまり、言い換えれば、この家訓は逆説の訓でもある。

”自らは「人」を見て「実相」を知るべし”の前文には、確かに「自ら」と定義している。
当初、この家訓には他の家訓と較べて一足踏み込んだ個性的な家訓であるとも考えていたが、どうもそうではない事が後で判る事となった。
特にこの前文の”自ら”と”「人を」見て”の二つの言葉に違和感を持った。
”自ら”は逆説的な事である事を意味させる為に挿入したことは判ったが、”「人」を見て”とするところに”二つの解釈が出来るのでは”と考えた。
つまり、”他人の行動を起している様を良く観察して他人のその実相(根本的な姿勢)を読み取れ、そして自分のものともせよ”と解釈するのか、はたまた、”自分以外の人を評価する時「根本的な姿勢」だけを以ってせよ。そして他人の雑事の姿勢の評価は捨てよ”と単純明快にしているかの考え方もある。
始めは後者の考え方を採っていた。しかし、後文の逆説的内容である事と判った時、前文の「自ら」の記述で、前文も前者であると解釈を仕直したのである。
そすれば、何れも前文、後文共に、”他人に対処する時の姿勢を意味しながらも、そうする為にも”先ず自らも磨け”と成り一致する。

この家訓5の解釈は「人事」を戒めとしているだけに表現も意味も難解であった。
多分、先祖は”単純明快であれば大事で肝心な事が伝わらず間違いを起す恐れがある”として何時しか書き換えて行ったのではと推測する。
恐らく長い歴史の中に間違いを起した事件の様な事があって氏の存続も危ぶまれた時があったのであろう。それだけに、この家訓は人を束ねる立場にあった青木氏の「自らの人」「人の集合体の組織」に関する最も重要な家訓である事が言える。

この様に、青木家の家訓5は人の上に立つ者のあるべき姿を説いている事になる。
これは、子孫を遺す為に難行苦行の末にして、数百年に及ぶ商家の主としての姿を誡めていると同時に、千年の武家としてのあるべき姿に共通する戒めを遺すに至ったのであろう。
正しい事だけを家訓にする必要は無い。何故ならばそんな事は書物でも読み取れる。しかし、書物に書き得ない青木家独自の上記の意味する所一見矛盾と見られるような事に関しては青木家としての家訓として遺す必要があったのであろう。
もとより伊勢青木氏のみならず、「生仏像様」を奉る全国青木氏の家訓であっただろうと同時に、これらの家訓があっての1465年続いた青木氏の所以であると見られる。

次ぎは家訓6に続く。


  [No.263] Re: 伊勢青木家 家訓6
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/12/29(Tue) 06:48:39

伊勢青木氏家訓10訓

家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
家訓3 主は正しき行為を導きく為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず


家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)

家訓6までの戒めは次ぎの通りである。
家訓1は「夫婦の戒め」
家訓2は「親子の戒め」
家訓3は「行動の戒め」
家訓4は「性(さが)の戒め」
家訓5は「対人の戒め」
以上であった。

家訓6は「人間形成の戒め」(長の戒め)である。
この教訓6はそもそも「教育」と「教養」とは違うという事を意味し、その区別を受けて培えと云う事として伝えられている。
この事が両親から子供の頃から最も頻繁に教えられた事である。
それは何故なのかと云う事である。この事は人を無意味な差別化を無意識にさせてしまう思考を培ってしまう事を誡めているのである。
この家訓の持つ意味に付いて、成人して結婚に至った時に初めてこの家訓の意味を知ったのだが、家族を持った事で”子孫存続に大きく関わる事だからである”と判ったのである。

それに付いてこの家訓6には添書で細かく解説されている。
それには、まとめるとまず最初に次ぎの様な事柄が書いている。
「教養」「教育」は社会を維持する時に必要とする「上下関係の差違」を意味するものではない事は明らかである。「社会」は「組織に類するもの」と「家庭に類するもの」とに分類出来る。
そこで、その「社会」の中での「組織」や「家庭」で必要とする差違、例えば、上下の関係は「契約」であり、元より「差別」では無く「差違」であり、「組織」又は「家庭」を円満で効果的に維持する上で必要とする「相互の了解」の上での「契約」である。
組織は「命令する者」と「命令される者」の契約を伴なう事であるが、この「命令」が上下の感覚を生み出してしまうのである。
家庭はもとより親と子の関係はあるが上下ではなく、家訓1又は家訓2にある様に「導く者」と「導びかれる者」の差異が主流となり契約が成立する。
「組織」=「命令する者」、「命令される者」=「契約」
「家庭」=「導く者」、「導かれる者」=「契約」

更に、進めて、そもそも、人は「人間的な程度」(人間力)を上げることを目的として「教育」を受けさせる。しかし、この「教育」は「知識」の習得を前提として「人間的な程度」(人間力)を上げる事に第一義があり、決して「心の持ち様」を上げての「人間的な程度」(人間力)の向上を成し得るものではない。
その「人間的な程度」(人間力)とは2つの要素に依って構成される。
それは、ここで云う「教養」であり、「教育}である。

この世に於いて「諸事」を解決するに必要とする「人間力」は様々なところで発揮される。それに依ってその「人の力量」が試される。この「力量」を「人間力」と言うが、「解決成し得る力」のその程度に依ってその「人間力」は測られる。
それは、「心の豊かさ」を培った「教養」だけでは成し得ない。人間は他の動物と違う所は「知恵」に依って得た「知識」で「人間」としての存在がある。
従って、その本来の「知恵」の根拠とする処の「知識」を得て初めてこの世の諸事に対することが出来る。その「諸事の解決」の「成果」を高めるのはこの「心の豊かさ」を培う「教養」である。
この「諸事の解決」には仏教で云う「三相」(人、時、場所)を必要としている。
この「三相」のこの「3つの相」に卓越する事が「人間力」を高める事に成るのである。
その「卓越」は、例えば、「人」を捉えた場合「人」を動するには「知識」と「心の豊かさ」の量が試される。決して、「知識」だけでは成し得ない。
人は「心の動物」と云われる様に、其処には「心の豊かさ」の「教養」が無ければ人を動する事は出来ない。
況や、”人とは何ぞや”と成った場合には、「人の如何」を知る必要がある。これは「先人の知恵」に学ぶ以外には無い。それは「知恵」即ち「知識」である。
つまり、この「2つの知識」と「心の豊かさ」の量の大小の如何に関わることを意味する。
当然に、「知識」を会得する場合にそれに伴ない幾らかの「心の豊かさ」も会得できるであろうし、「心の豊かさ」を会得するにも幾らかの「知識」も会得する事に成るだろう。
しかし、その比は同率では無い。故に、2つの「低い所」を補ってこそ「諸事を成し得る力量」が会得できるのである。
この家訓6では「人の力量」をより他に比して高めるにはこの低い部分を補うことであり、且つ”「教養」と「教育」とは異なる”としているのであり、故に本家訓6ではこの”二つの事を培え”としているのである。
「力量」=「教養」+「教育」=「人間力」=「三相の獲得(人、時、場所)」
「教養」=「心」=「心の豊かさ」
「教育」=「知識」=「知恵」=「先人の知恵」

ところで、この家訓が生まれた頃は氏家制度の盛重期であり、家柄身分が社会を構成する基準と成っていた。その中で、青木氏の家訓では上下の身分は「社会を構成する為の契約」であるとしている。決して本来存在する階級では無いとしているのである。当時としては、口外できる考え方ではなかったのであろうが、それを家訓6としてその意味合い(社会を構成する契約)を遺したものと考えられる。それが、青木氏一族一門の「長」としての「秘たる心根」「人間的な戒め」としていたのであろう。これらは添書から覗える事である。
家柄身分が低いから高いからとして「長」として、差配すれば恐らくは「人」は充分に動かず子孫を遺し得なかったのではないだろか。その良い例がある。

そもそも伊勢青木氏はそれまで日本書紀にも記述されている様に伊勢王施基皇子から発祥し、その活動では皇親政治の中心に居た青木氏は、桓武天皇の律令国家の完成期から始まり、1125年頃から[律令による国家運営」と「皇親政治による国家運営」とに矛盾を生じた為に皇親政治側に居た青木氏は阻害された。
この桓武天皇は母方(高野新笠 阿多倍の孫娘)子孫の賜姓族の「たいら族」(「京平氏」「桓武平氏」「伊勢平氏」)と呼ばれる一族をして青木氏を阻害させたものである。況や、彼の有名な後漢の阿多倍王の末裔帰化人、5代目末裔「平清盛」の全盛時代の始まりの中である。
桓武天皇は、第5位までに皇位継承者が無く次ぎの第6位皇子の身分(浄大1位)の伊勢王施基皇子の一族の長男が天皇と成ったが、その光仁天皇のその子供である。
要するに伊勢青木氏とは親族同族であると云う事だが、その親族同族の伊勢青木氏を圧迫し、300年程度後にはその引き上げた「平族」(たいら族)の台頭に依って、賜姓青木氏は一族の源氏と同様に一族存亡に関わる事態にまで落ち至ったのである。
その衰退の立場に於いて、同じ第6位皇子の末裔子孫の賜姓源氏も11家11流存在していたが衰退滅亡して3家3流に成り清和源氏主流と成った。
賜姓源氏は賜姓青木氏と同様に身の振り方を変えればそれなりの存亡もあったであろうが、この時、伊勢青木氏がわざわざ「2足の草鞋策」を採った。そして生残れた。
賜姓清和源氏の頼信(分家)子孫の頼朝は義経の提言にも関わらず無視弾圧して、皇族としての立場を依然として維持し、「坂東八平氏」の北条氏を「武力的背景」として「政治的存立」に掛けたが、結局70年後には滅ぶ結果と成った。
この事を考えると、賜姓5家5流の青木氏も源氏の滅亡を考えると如何にその立場が窮していたかがよく判る。
70年後の1195年頃には同族5家5流の賜姓青木氏だけが生き残り、賜姓源氏11家11流が全て滅亡したのはこの「2足の草鞋策」から生まれた家訓6を守った事によるものと評価するべき点である。それはどう云う事かと云うと次ぎの様に成るだろう。

つまり、桓武天皇は先ず800年頃にこの青木氏の勢力を殺ぐことを目的として伊勢の国守護等の実権を藤原氏北家筋(藤成 秀郷の曾祖父、平安末期には基景)の国司に委ねた。
それにより賜姓青木氏は次第に衰退し、続いて平氏の台頭が起きた事から生きる為に過去の実力を使い、「経済的安定」を一族一門の目標として、1125年頃(この時は基景が国司)に「2足の草鞋策」を展開したのである。
この時から、一面では摂津港にも店を持つ豪商の松阪商人として、一面では土地の松阪、名張、員弁、桑名、四日市一帯の3つの城を持つ豪族として一族の生き残りを図ったのである。
(美濃、信濃の青木氏と連携をしていた事が口伝や信濃伊勢町などの地名などから判断出来る)
恐らくは、この時から伊勢青木氏は一族一門を束ねて行かねば成らない苦しい試練と経験が起こり、それを通して生まれたのがこの家訓6では無いかと考えられる。
それまでは、皇族賜姓族として、「皇親政治」の主流一族としての立場からそれはそれなりに維持出来ていたのであろう。しかし、この立場を失した状況下では止む無き事となり、一族一門一統を束ねるべき「資質」が大いに求められたのではないかと想像出来る。
何処でも起こる事だが、当然の様に「路線争い」で内部でも内紛の様な事が起こったであろう事からこの家訓が生まれたのであろう。
その時の苦悩の結論からその一族の「長」としての「資質」がこの家訓6と成って代々遺されたものであろう。

この家訓6は賜姓族の侍の家の家訓と言うよりは、むしろ「商家的な色合い」が強く感じる。
「賜姓侍」としては「氏家制度」の中では生まれながらにして「家柄身分」が決められていればこの様な家訓は必要がない筈である。むしろ「武運長久」の家訓らしきものが主と成り得る筈であろう。
しかし、標記の家訓10訓は全て「人」の本質を求めている。
これは伊勢松阪青木氏は伊勢神宮の膝元で「不入不倫の権」で守られていた事から、外から侵害し攻められる脅威が低かった事にもよる。だから「武運長久」の家訓らしきものが無かったからにも依るだろう。
しかし、1130年代頃からその脅威は次第に増したのである。それは「武力的の脅威」と云うよりは衰退に依る「経済的な脅威」が増していたのであろう。
しかし、鎌倉時代に同じ立場に居た全ての同族賜姓源氏が滅んだことから「武力的な脅威」が増し始めたと考えられる。続いて、室町時代には「下克上、戦国時代」が起こり「不入不倫の権」で守られる保証は無く成ったのであろう。そして、遂には、「武力的な脅威」は”「天下布武」を標榜し比叡山等の古代社会権威を破壊すべし”とする信長の登場で現実の問題と成り、遂にはこの伊勢にも「天正の乱」の「3つ戦い」が起こった。
この様に歴史の経緯を観ると、賜姓源氏はこの「経済的な脅威」に対処していなかった為に滅んだと云える。
この時、この「2つの脅威」に対処していた青木氏はこの家訓を遺したのであろう。
しかし、それだけに一層に難しい存続の運営を任された一族一門一統の「長」としての「資質」、「力量」のあるべき姿の根本を問われていた事に成る。

関西以西32/66国を従え、技能集団を抱えての「宋貿易」を自ら行うなど「武力と経済力」を持っていたこの大勢力を誇る「平氏の脅威」に対しては、たった5国だけの5家5流の青木氏は一致団結と成って対処しなければ少なくとも存続が危ぶまれる状況下であった筈である。
5家5流は「経済力での繋がり」と「5つの小さい武力」の一族同盟の終結で対処した事に成る。
そこで、「小さい武力」しか持たない青木氏にとっては、平氏と同様に「経済的な力」を持つ事を考えたのは当然であろう。
むしろ、平氏の”「一門の経営を真似た」”のではないだろうか。それがこの「2足の草鞋策」であったと考えている。
平氏はもとより後漢の技能集団を率いていて「経済的な力」は帰化当時の始めから持っていたものである。恐らくは氏家制度の中で、阿多倍よりその5−7代で政権に上り詰めた「その実力」を観ていたのではないか。
その真因が「武力」では無く「経済力」に真因があると理解していたのであろう。
その証拠に、朝廷は奈良期末にはその始祖の大隈の首魁の阿多倍に、伊勢青木氏の守護地であった伊勢北部伊賀地方を割譲したのである。(薩摩の国の大隈も割譲した)
そして、伊勢青木氏は「経済力」を高める為に、その隣の阿多倍一門(京平氏、伊勢平氏)の和紙を作る技能に目を付けていたのであろう。これを販売する職業を最初に営んだ点である。
”商をする”をすると云っても並大抵の事ではない。まして、天領地の皇族である。
”血を吐く”思いで営んだと観られる。部門であれば組織であるから上記した様に「命令」で動くが「商」と成れば「命令」では動かない。それだけにこの「家訓6の重み」が血の滲む思いにあったのであろう。その「商」を保証する武力は他の四家の青木氏を束ねて一つの力として発揮するのであるから、その「束ねる力」も「命令」では動かないであろう。
当時の「商」は治安が悪く「武力」を背景としなくては販売と運搬は侭成らなかったのである。
当然、台頭する勢力の種を潰すのが上に立つ平家の戦略でありその妨害や脅威もあった筈であろう。
故に「商」にしても「武力」にしてもこの家訓6が大きく左右する事になった筈である。
同じく、信濃青木氏も日本書紀にも出て来る程に、阿多倍らが引き連れて来た「馬部」が信濃のこの地を開墾して信濃王の賜姓青木氏と血縁関係(諏訪族系青木氏)が起こっている。
美濃には小さい氏の「伊川津青木氏」があるが、未確認で証拠は無いが、この氏が細々と生き残った美濃賜姓青木氏の末裔(土岐氏系青木氏がある)ではと見ていて、それもこの「商」の経済的な裏打ちがあったからであろう。その先祖はこの付近の海幸を扱う技能集団の末裔の磯部氏等の血縁の末裔ではと考える。この様に何れもが阿多倍の技能集団との関係が其れなりに出来ている。
これ等の事が存続に大きく作用したと観ているが、反面では「平氏の圧迫や妨害や脅威」もあった不思議な関係にあった筈である。
歴史上は伊勢と信濃での繋がりは明確であるのだが、伊勢青木氏や信濃青木氏もこの阿多倍一門との関わりを持っていたのである。
この様に「経済的な形」ではシンジケートを形成して繋がっていた事に成るが、その阿多倍末裔の一門に「政治的な圧力」を加えられたのであるから不思議な因果関係である。

しかし、次ぎの様な助けられた経緯の事もあるのだ。
衰退した賜姓源氏の中で清和源氏の宗家頼光の末裔の頼政がただ一人平家の中で生き残り朝廷の中で苦労して三位まで上り詰めたのは、私はこの同族賜姓伊勢青木氏と隣の阿多倍一門との付き合いがあった事から生残れたと観ている。
この頼政が遺した「辞世の句」があるので紹介する。

うもれ木の 花は咲く事も 無かりしに 身のなる果てど かなしかりける

源氏を潰さない為にも何とかして平家に迎合して歯を食いしばって生き残りを図り、なかなか源氏を蘇がえさせられなく、出世の出来ない平家の中で生きる辛さを辞世の句として遺したのである。
その心情が良く判る。源氏の衰退に対してそのキツカケを作ろうとした「真情」が良く出ている。

実は確証は無いが、この家訓6を遺したのは頼政の孫の伊勢青木氏の跡目京綱では無いかと考えている。当然、父の仲綱と共に果てた祖父の頼政のこの句は「子孫存続」と云う意味合いを強く表していることから、京綱はこの句を理解して1125年頃から1180年の「以仁王の乱」までの60年程の青木氏の苦しみを承知している筈である。それ以後、身を以って乱を起した事で、伊勢青木氏には更に圧迫が加えられ苦しみ抜いたと考えられる事から、子孫を遺す戒めとして、考えた末にこの家訓6の意味合いを遺したのでは無いかと観ている。

兎も角も、1180年にこの頼政は源氏再興を狙って立ち上がったのであるが、敗戦後頼政の孫の3人の内、清盛の母や一族の執り成しで惨罪にならず、許されてこの2人だけは生残れて日向廻村に配流(日向青木氏)と成った。恐らくは、伊勢北部伊賀地方に定住する彼等の子孫との繋がりや伊賀和紙の商いでの深い付き合いから、京綱の伊勢青木氏は「除名嘆願の運動」を伊賀を通して起したのではないだろうか。幾ら一族の執り成しでもこの様な特別な理由が無い限り謀反の張本人の孫の依頼でも無理であっただろう。
(後にこの2人は平氏に対して廻氏と共に再び反乱を起し失敗する 子孫は逃亡し薩摩大口で青木氏を名乗り子孫を遺す 廻氏系青木氏は現存する)
また、上記したように末の孫京綱が伊勢青木氏の跡目に入っている事から許されて難を逃れたのである。
これは伊勢青木氏と伊賀の伊勢平氏(阿多倍子孫)との和紙の商いによる付き合い関係からであろう。

更に、例を付け加えると、後の「天正の乱」3乱の内の「伊賀の乱」の時、伊勢青木氏の紙屋青木長兵衛が伊勢シンジケートを使って食料や物資運搬などの妨害活動などをして時間を稼ぎ、伊賀氏はゲリラ作戦に出た。しかし、落城寸前で青木氏の軍は突然に名張城から織田軍の側面を突き出て後退させ伊賀一族を救い守った。これ等は、過去の恩義によるものであろう。それでなくては時の織田氏に敵対する事はないであろう。
これ等の「人間的心情」に悖る「歴史的経緯」は、この「2足の草鞋策」を基にした家訓6からの所以で、この様な「生き残りの経緯」を辿れたのではと観ている。
それは一族の「家訓6による人間形成」が平氏らの信頼を得た事からの結果であろう。本来なら完全に滅亡の憂き目を受けている筈である。

これらの家訓6が「賜姓源氏の滅亡」との「分れ目」であったと観ている。
現に、清和源氏主家の源三位頼政が「以仁王の乱」(1187年)を起こす時、頼政の嫡男仲綱の子供で三男の京綱を、子孫を遺す為に同族の伊勢青木氏に跡目として入れた後に、源氏再興の平氏討伐に立ち上がったのであるが、この伊勢青木氏に跡目を入れると云う事は、恐らくはまだ源氏は”平氏に勝てない”と判断したことを意味するが、源氏立ち上がりの「契機」に成ると信じての行動であった。この時、この「不入不倫の権」に護られた伊勢松阪に向けての逃亡を起し再起を待つ事を目論だが、遂には「宇治の平等院」で自害したのであろう。
この時、伊勢青木氏は「2足の草鞋策」を採って60年くらいは経っていた筈で経済的なその裏打ちも有って、源の頼政は源氏宗家の生き残りが果たせると考えて伊勢青木氏の跡目に入れたと想像出来る。源氏の中でもただ一人平氏に妥協して朝廷に残った遠謀術策の人物でもある。
この様に、「2足の草鞋策」が家訓を遺し、それが子孫を遺せたのである。

この後にも、この家訓で生残れた同じ事が起こっているが、この「2足の草鞋策」の家訓6で培われた末裔は、判断を間違えずに子孫を遺した。
それは、信長の「天正の乱」の伊勢3乱の伊勢丸山城の戦いである。(3戦に全て合力)
名張に城を構える青木民部尉信定、即ち、伊勢松阪の豪商紙屋青木長兵衛がこの信長の次男信雄に丸山城構築で攻められた。伊勢青木氏は商人として伊勢シンジケートを使い、築城の木材の買占めとシンジケートの築城大工の派遣とシンジケートの妨害策で食料などの調達不能を裏工作で実行した。
名張城からの牽制で時間を稼ぎ、長い年月の末に出来た丸山城が、大工が”火をつける”という作戦で消失し打ち勝った有名な乱である。信長のただ一つの敗戦である。
そして、後に伊賀一族等も助けたのである。
後に、この時の将の織田信雄と滝川一益は家臣面前で罵倒叱責され遂には蟄居を命じられて疎まれた事件は歴史上有名である。

これも、その差配する青木長兵衛の家訓6の得た「力量、資質」が、恐ろしい信長に反発してでも、配下とシンジケートを動かしたのであり、この家訓6が左右して生残れたのである。
この家訓6の「教養」とそれを裏付ける「知識」の如何が、人を動かし大群を相手に戦いの戦略の成功に結び付けたのである。
この知識は天正の乱では物価高騰の「経済学」の原理知識と諸葛孔明如きの「権謀術策」の知識と築城学の知識が事を運ばせ、それの手足と成る人を「教養」で信望を集めた結果の所以である。

では、この家訓6を深く考察すると、この「教養」とは”一体何を以って得たのであろうか”という疑問が湧く。
そこで、調べたところ、代々主に共通するものは「絵」と「漢詩」であった。
「絵」は「南画」である。所謂「墨絵」である。「漢詩」は「書道」に通ずるものである。
二つを通して考察するに、「紙屋長兵衛」即ち「伊賀和紙」を扱う問屋である。つまり、「紙」である。「南画」、「漢詩」は紙が必需品であるから大いに納得できるもので、ではそのレベルはどの程度のものなのかを更に調べた所、プロでは無いが、江戸時代の歴史を観ると、紀州徳川氏の代々藩主にこの「南画」と「漢詩」を指導していたと言う記録が残っている。これ以外にも短歌や和歌等でも相手をしたと記録されている。
これは、初代紀州藩主で家康の子供の徳川頼宣が伊勢松阪の「飛び地領」の視察での面会の時からの経緯であり、大正14年まで続いたと記録されている。私の祖父の代までである。
これ以外には、「知識」として「経済学」を指導していたとある。
特筆するには「松阪商人」としての知識を藩主と家臣に経理指導していたと記録されていて、その証拠に8代将軍吉宗は若き頃に家老職の伊勢加納氏に長く預けられていたが、この時、伊勢青木氏と加納氏とは代々深い血縁関係にあり、吉宗にも指導していたとされる。このことが縁で、請われて江戸に付き従い、伊勢の松阪商人の知識を「享保改革」で実行し推し進めたと記録されている。
将軍に直接発言できる「布衣着用を許される権限:大名格」を与えられていたとある。初代は江戸に付き従ったのは伊勢の分家の青木六左衛門とある。その後、紀州徳川家にも代々「納戸役」(経理)として奉仕したと記録されている。
この記録の様に、「時の指導者」徳川氏を「教養」で指導し、「教育」の「知識」で導いたのである。
本来であれば、家康に潰されていてもおかしくない。秀吉に潰されかけ新宮に逃げ延びたが、伊勢を任された武勇と学問で有名な蒲生氏郷との「教養」での付き合いが働いて、1年後に伊勢松阪に戻されて侍屋敷(9、19番地)の2区画も与えられる立場を得たのである。つまり、生残れたのである。
これ等は青木氏一族一門の存続に「青木氏の長」としての「教養と教育」の形を変えた貢献でもある。平安の時代より家訓として護られてきた家訓6(教養)の所以であろう。

この家訓6には特に添書に長く解説なるものがありそれを解釈すると次ぎの様になるであろう。
家訓6ではこの事が理解されていないとその「教養」と「教育」の諸事への効果なるものは出ない、又は意味しないとまで断じている。
当時の背景から考えると次ぎの様に成るであろう。
学校と言う形式のものは無かった。従って、「知識」は自らの範囲で書物に依ってのみ得られる事が通常で、学校らしきものは江戸の中期頃からの事であろう。それも「基本的な知識」であり、その専門的な事は「個人の努力」の如何に関わっていたと成る。
まして、其処では、「教養」となると尚更であっただろう。
古来の「教養」を会得する場合はその師匠となる人に付き学び、多くは「盗観」によるものであった事から、その「盗観の会得」する能力が無ければ成し得ないだろう。又、その「極意の会得」は尚更個人の能力の如何に関わるものである。
従って、この「2つの能力」(盗観 極意の会得の能力)を獲得出来るとするには誰でもと云う事では無くなる。能力の無い者は挑戦しないであろうし、してもその会得する極意のレベルは低く「人力」を高めるに足りないであろう。丁度、伝えられる茶道の秀吉如きのものであったであろう。
対比して古来の「教育」を会得する場合はその師匠とする人が少なく「知識」を前提としている為に「盗観」の会得は出来ないし、「極意」の会得は「盗観」が出来ない事から成し得ない。
これは「書籍」による「個人の理解能力」による何物でもない。当然に「教養」以上の会得の困難さを物語るであろう。まして、その書籍からより進めて「知識」を会得出来る事は少ないし困難である。
この様な事から「教養、教育」の会得はある「経済的な力」を獲得している人が得られるチャンスとなる。

と成ると、添書の書いている意味合いは次ぎの様に成る。
「教養」の本質を分析すると、「質的な探求」であり、数を多くした「量的な探求」ではその「極意」は得られないであろう。しかし、「教育」の本質は「量的な探求」であり、「知識」の会得である事からその「会得の数」を繋ぎ合わせての応用であり、「質的な探求」はその研究的なものと成るのでその研究的な知識を以って諸事を成し得るものではないであろう。
「教育」に依って得られる多くの「知識」はそれを繋ぎ活用する事で一つの「知恵」が生まれる。
これは「人間本来の姿」であり、それを多く探求し極める事がより高い「人間形成」の一端と成り得るのである。その「人間形成」の成し得た「知識」から得られたものが「教育」から得られる「教養」と成ると説いている。そして、教養も同じだと説いている。
「教養」もその高い「質的探求」に依って「心の豊かさ」が生まれ其処に「人間形成の姿」が出来てそれを極める事でも「教養」から得られる「知識」が会得出来るのだと諭している。
「教養」で得られる「心の豊かさ」は「心」で、「教育」の「知識と知恵」は「頭」で会得する。
そして、この二つは「心」と「頭」で安定に連動してこそ「効果」を発揮するものだと諭している。
これを現代風に云えば、俗ではあるが、「教養」は「前頭葉」で、「教育」は「左脳」で、そしてそれを連動させるのは「右脳」だと成る。
真に、古代に書かれたこの「説諭論」は論理的にも科学的にも間違ってはいない。驚きである。

「教養」=「質的な探求」=「心」
「教育」=「量的な探求」=「頭」
「教養」=「心の豊かさ」=「人間形成」
「教育」=「知識の応用」=「知恵」=「人間形成」
 故に「教養」(心の知識)+「教育」(頭の知識)=「人間形成」
「心の豊かさ」=「心の知識」

更に、次ぎの様にも書かれている。
「教養」は「人」を成し得るものであり、「教育」は「時」を成し得るものであると断じている。
つまり、「教養」の「質的な探求」に依って獲得した「極意」はこの世の「時」の関わる諸事には作用せず、「人」の心を通じ「質的に動じさせるもの」であるとしている。
反面、「教育」即ち「知識」は「時」の関わる諸事に作用しより効果的に動くものであるとしている。それはより多くの「知識量」がもたらす効果であるとするのある。
「教養」=「人に動じる」 「教育」=「時に作用する」

そして、「教養」の「質=人」と「教育」の「量=時」を会得した時に一族一門の長と成り得るものであるとしているのである。
ただ、ここで特筆する事は「教養」は「心」で会得するもので、その「質」が問われる以上その「質」を上げた事で「人」である限り「慢心」が起こるだろう。この「慢心」はその「教養」の効能を無くす事に成ると警告している。
対比して「教育」は「記憶」で会得するもので、その「量」が問われるが「人」にあらず「時」にあるので「慢心」はあったとしてもそれは「得意」とするものであり、むしろ「量を高める源」であるとして、その「知識」の効能は無く成るとはならないとしている。
では、誰しもその人の「性」(さが)として起こる「慢心」をどの様にするべきなのかに付いての方法は「自覚」以外に無いとしている。しかし、常にその「慢心」を抑えようとする努力が「質を高める源」であると説いていて「一体」であると説いている。
そして、その基となるその「自覚」は「仏教の教えの悟り」で成し得ると銘記している。
「仏教の教えの悟り」とは特記されていないが、筆者独自の考えだが「色即是空 空即是色」「色不異空」「空不異色」の解釈では無いかと思う。

「教養」=「心」=「極意」=「質」=「人」=「慢心の抑制」(−の方向)=「質を高める源」
「教育」=「知識」=「記憶」=「量」=「時」=「慢心ー得意」(+の方向)=「量を高める源」

以上が添え書きの解釈とするべきでは無いかと考えている。
この家訓は時代が異なり「教養」も「教育」も講座や学校とする学ぶ機関が存在する故に、若干「教養」は「教育」と等しいと判断されるが、そこで得られる領域では上記した様に、それは「教育」の「知識」の末端のところで得られる「教養」の範囲であろう。つまり、「知識的教養」と定義づける。
ここで云う「教養」とは「個人の努力」による「高い修練」の「結果」を意味していると考える。
当然に、現在では、「知識的な教養」の上に「個人の努力=高い修練」が成されれば、「心的な教養」は会得出来るだろう。
依って「教養」には「個人の努力」による「心的な教養」と「講座」による「知識的な教養」があることを意味する。
この家訓は”「個人の努力」が「心を鍛え質を高める」”としているのである。

筆者はこの家訓6の「教養」には届かないが、この教えを守り物理系技術者として「教育」の知識の方からの貢献を社会にして来たものであり、それを補う形で「知識的な教養」として「写真」や「竹細工」や「庭造り」なるものに傾注している。

幸い家訓6をそれなりに守りしている為か何かしら「心爽やか」である。
意外に、家訓6の先祖の言い分は、「教養」の極意はこの「心爽やか」の辺に合ったのではと勝手に思うのである。
近代科学的に分析すると、”「心爽やか」が事に処する時、脳を開放し、「拘泥」や「拘り」から開放されて、豊かな判断力が高まり、諸事を正しい方向に向ける力と成り得る”としているのかも知れないと、最近は思えている。
この「教養」は、上記した様に、仏教の般若経の一節「色即是空 空即是色」「空不異色 色不異空」を理解し会得する「糸口」になる事を先祖は暗示しているのではないだろうか。
この事に付いては大事と見て次ぎの家訓7で更に追求している。

兎も角も、この家訓6を筆者は次ぎの様に解している。
「教養」=「心爽やか」=「仏教の極意」>「入り口、糸口」<「長の心得」=「諸事万端良」=「資質、力量」=「教育(知識)」

なかなか難解な家訓6ではあるが、「人間形成」の基となる家訓であると考える。
家訓6=「人間形成の戒め」
次ぎの家訓7はこの家訓6を更に強調したものであるので”続く”としたい。

次ぎは家訓7に続く。


  [No.264] Re: 伊勢青木家 家訓7
     投稿者:福管理人   投稿日:2010/05/01(Sat) 16:58:55

家訓7
伊勢青木氏の家訓10訓

以下に夫々にその持つ「戒め」の意味するところを説明する。

家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
家訓3 主は正しき行為を導きく為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず。

家訓1は「夫婦の戒め」
家訓2は「親子の戒め」
家訓3は「行動の戒め」
家訓4は「性(さが)の戒め」
家訓5は「対人の戒め」
家訓6は「人間形成の戒め」(長の戒め)


家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
「品格の戒め」である。
この家訓7は「執着」つまり「こだわり」であると考えている。
「執着」は兎角悪く考えられがちであろうが、そうでも無い事もある。
人生に於いて苦難が多く立ち向かう。この様な時に「執着」無しでは生きていられない事もあり、それに依って苦難から幸せの扉を開く事も出来る場合もある。むしろこの場合の方が多いのかもしれない。だから、最近では、世間ではこれをむしろ煽っている向きもある。その例えの言葉として「拘りの一品」とか「拘りの・・」とかの流行言葉も出ている。
しかし、ここで云う家訓7は「こだわり」は「拘り」ではない。敢えてその違いが有るから分けて論じることとする。
人間は物事を考える場合、脳は「拘り」を持つと幅広く思考範囲を広げてその上で適切な判断を下せ無くなる「性」を持っている。狭い範囲で思考する事で正しい対処が出来なくなり人生の難業苦難に引き込まれる場合が多い。そして、狭い範囲の思考から抜け出す事が出来ず、そのような「悪のスパイラル」に陥るのである。
まして、昨今の様な科学文明が起こり「合理的な判断」無しでは正しくものが成せ得ない事に成る時代である。
科学は「合理」で成りたっているからだ。この様な時代に「主観的な拘り」を持つ事はそれだけに逆行に成り思考範囲が針の様に狭くなるだろう。
特に「感情主観」の強い傾向の持つ範囲ではこれが起こりやすい。
特に、前の家訓のところで述べた脳の一部の「性」(さが)を司る「脳陵帯」で管理されている「女性の深層思考の原理」(感情主観:感情-勘定-妥協)から観るとこの傾向が強く成るだろう。
男性に於いても「論理思考の原理」では論理的に間違うとそれを正しいとして過剰な「拘り」を強く持ちすぎる傾向があり、むしろ「女性の拘り」よりも厄介であり危険である。
女性の場合は元々揺れ動く「感情主観」であるので「環境」が変わると「他の感情」に移る事も起こり得て「拘り」は消えうせるであろうし「性(さが)」の定めに依ってその様に神は仕組んでいる。
しかし、男性は「論理の錯誤」を起している事から「環境」が変化してもその「錯誤」に気が付かない限りは「拘り」から抜け出させない「質癖」を持っている。
勿論、男性も「性(さが)」の定めに依ってその様に神は仕組んでいる。厄介な宿命の「性(さが)」の定めであろう。
むしろ女性の「拘り」に比べて個人の範囲に留まらず周囲にその「悪の影響」を及ぼしてしまう危険性を持っている。あらゆる「争い」の主因とも成っている。
この「男性の拘り」にはここが問題なのである。この家訓7はこの点を指摘しているのである。

この家訓7が説く意味は次ぎのことによるだろう。
一つは「こだわり」と「目標(目的、狙い)」とは違う事。
二つは「こだわり」は「頭の使い方」如何である事。
三つは「こだわり」と「拘り」を区別している事。
四つは「こだわり」は「長」としての「戒め」である事。

先ず、一つ目の”「拘り」(こだわり)と目標(目的、狙い)とは違う事”付いて考えてみる。
心に固く決めた揺るぎ難い「目標」はその進める過程には長期的で「論理的な戦略と仔細な戦術」を保持しているものである。
一見すると、「こだわり」と「目標」は何れもこの”心に決めた揺るぎ難いもの”を持っている様に観える。しかし、良く観察して見ると何か違う。
それは「戦略と戦術の有無の差」(1)が起こる。しかし「こだわり」はこれが「殆どゼロ」であり特に戦略は観られない。
そして、それは達成されるとその目標は「解消」はされる(2)。しかし「こだわり」は解消する事はすくない。
更には、過程では揺るぎ難い「目標」は「臨機応変」に変化させる事がある(3)。しかし「こだわり」は周辺と進行過程の変化に対して頑なに盲目である。
目標は衆議に対して「賛同」が得られる(4)。しかし、「こだわり」は個人性が強く衆議に弱い。
揺るぎ難い「目標」は周囲に「弊害」を生まない(5)。しかし「こだわり」は兎角に「弊害」を生む。
この「5つの違い」がある。
この家訓7は揺るぎ難い「目標」を持つ事を否定していない。むしろ、「こだわり」を否定する事で人生に於いて揺るぎ難い「目標」を持つ事を求めているのである。

「戦略と戦術の有無の差」(1)「解消」(2)「臨機応変」(3)「賛同」(4)「弊害」(5)

この「5つの違い」が「目標」と「こだわり」と区別されている。
これは「青木氏」の歴史的な背景から観ると、「賜姓族侍」の一面と「商人」の面も持ち得ている内容である。どちらかと云うと「商家」に成るのではないだろうか。
伊勢青木氏は「不入不倫の権」で護られながらも、室町末期からは少なくともこの「権」が弱く成っていた事は明らかであり、同じ東伊勢の村上源氏の末裔の北畠氏が信長に騙まし討ちされ織田信雄が城に養子婿として入る等の「乗っ取り事件」も起こっている。
「武力による戦い」とは別に北畠氏のような事が起こる可能性が”伊勢松阪青木氏にとっても無い”とは云えず、この時を含めて「極めて冷静な判断力」を求められていた筈である。
伊勢に限らず賜姓族の青木氏は上記の「5つの違い」の柔軟な「こだわりの無い判断力」が求められていた事が、隣で起こった深い付き合いのあったこの北畠氏で充分に認識していた筈である。
現に、大きく時間を置かずして「丸山城の戦い」が伊勢青木氏との間で起こったのである。
この時の戦いは信長の只一つの「負戦で有名な戦い」で、信長が家臣の面前で指揮官の次男の信雄を罵倒し蟄居されると言う事が起こった。この勝利したのは真にこの家訓7の「こだわり」を捨てた戦略戦術であった。
商人の顔の紙屋長兵衛が全面に出て城構築の材料の買占めから初めて経済的に締め付けて弱らせ、最後は出来上がったばかりの城を伊勢シンジケートを使って城を爆破させてしまうという実に見事で冷静巧妙沈着な戦略戦術を長兵衛は使ったのである。目に見えない相手と戦って信雄は負けたのである。商人として城構築の莫大な材料利益を生み出し、賜姓族としては邪魔な城を潰しその上青木氏は安泰と成っている。
賜姓族とか青木氏とか武士とかの必要以上の「こだわり」だけで有ればこれ程の戦略戦術は浮かばないし成功も無かっただろう。
他にもこの後の同じ「伊賀攻め」でも今度は武士の顔の長兵衛は名張の青蓮寺城と3つの城から中立を装い、商人の顔の長兵衛が伊勢シンジケートを使ってゲリラ作戦で食料調達を困難とさせた上で疲れさせて置き、この伊賀氏の伊賀城が陥落寸前に信雄の軍を側面から突き敗走させると云う戦いを実行した。これでは信長は立場は無いし怒るのも無理が無い。
この後の秀吉はこの事を学習して最後の松阪青木氏等の「伊勢松阪攻め」ではこの「こだわりの無い戦略戦術」を防ぐそれに勝るとも劣らない戦い方をした。そして、戦略家で学者であり青木氏とは繋がりの有った蒲生氏郷を派遣して青木氏を温存したのである。その経済力を潰さずに信長が好んだ西洋風の楽市楽座の出来る日本初の「伊勢松阪の街づくり」を実行したのである。この時青木氏は西洋風の街づくりの「侍屋敷町」の2区画(9番と19番)を与えられて生残ったのである。
普通に「武士のこだわり 執着」で戦っていた場合は今の青木氏は無く、これ程の扱いは氏郷も採れなかった筈であり、救済する大義名分の根拠も言い出せなかった筈である。
この「こだわり 執着」が、戦いながらも勝利し秀吉を学習させて、無傷で生残る事を成し遂げたのである。もとよりこれは「武士商人」の「こだわり」も無かった事を意味するだろう。

「組織の長」の採るべき「精神的な格」(こだわり)を心得ていた結果の勝利なのである。

この戦い方を分析すると「5つの違い」が浮き彫りになる。
兎も角も賜姓族でありながらも、「5つの違い」は左様に「商家」に課せられた立場にあると考えられる。どちらかと云うと「紙屋長兵衛の顔」の方の家訓であろう。
侍的な「難くなさ」が無く添書にも然程に詳しくはない所を観るとこれも(1)から(5)は「商家の家訓」である傾向が強いだろう。
昔、筆者は「こだわり」に対する判断力が無い若い時に、”お前は間違っている”と親父と話す時によく誡められたが、これは「青木氏の伝統」(こだわり 執着)とも云うべき家訓7であった。
何故、間違っているかは大分長い間判らなかった。”間違っている”とはっきり云うのだから”親父には何か明確な根拠が有るのだろう”。それは何か何時も意識していた。
その理解できたきっかけは結婚して「男女の性(さが)」に”「根本的に違う思考原理」が働いている”と云う事が経験を通しても判り、書物による脳科学的にも納得し判った時である。
つまり、そうすると男女の「こだわり」と「拘り」にも”論理的に違いがある事”と云う理解であった。「男の論理主観」と「女の感情主観」から考察すれば「男のこだわり」と「女のこだわり」は本質的に違う事に成る。
そこである時に「家訓添書」に書いていた「仏教の教え」と云う字句に気が留まった。
日々の務めとして「般若心経」を何時も仏壇で何気なしに唱えているが、”どんな内容で唱えているのだろう。”心の経(みち)”の悟りを得た仏を前にして、悟りを開いてもいない生きている者が”「心の経(みち)」を唱えるのはおこがましいのではないか”、”それが何でお経なのか”と次から次へと疑問を抱いた。
筆者の「こだわり」とも云うべき質癖が又もや働いたのである。
「般若心経」の書いている意味を元来持つ字句語意一つ一つを調べてその「字句の総意」を考えたのである。そして、その「傾向分析」を行った。真にその手法も「技術屋の質癖」である

私の結論は次ぎの通りであった。
”この現世の何気ない意思一つ一つが「拘り こだわり」の発露であり、その「拘り こだわり」の保持する「強さ」と保持する「時間」の差異に依って無意識に判別しているものである”と考えた。
”その究極は「有無の定義」であるとし、「有る」とすれば「有る」であり、「無い」とするば「無い」。「有る」を「有る」とする事がそもそもが「拘り こだわり」であり、「無い」を「無い」とするも「拘り こだわり」である。「現世」と「彼世」の差異もこの「仏法の定義」に当て填る。

「般若心経」の全ての行の共通する真意は、その真意には強弱はあるが、この”「拘り こだわり」に捉われるな”であると考えた。その”「拘り こだわり」の誡めの最大の語意の行は「色即是空 空即是色」である”と考えに達した。そして「色不異空 空不異色」との2つの語句が「拘り こだわり」の強い戒めで有ると。

その場、その時で色々な解釈は出来るが、”「色」は「現世」、「空」は「彼世」”と定義する事で
全ての行の一節語句はその意味するところが読み取れる事が判った。
この定義そのものが「拘り こだわり」ではあるが、仏の前で唱える「般若心経」を通じて、”私は不必要な「拘り こだわり」を無くす事を誓い努力します。 ご先祖の仏様ご安心ください。”と。

「色不異空 空不異色」(こだわり)であるのだから、「色」有る世界から色の無い「空」の世界へ「心」を媒体として念じ発している事となるだろう。唱えるはその姿を云う事に成る。
人の現世の生きる目的は「喜怒哀楽」に必ずしもあらず、子孫を遺す事にその一義があり、その一義の為に悪行と成す「こだわり」を捨てる事を誓っている事と成る。

即ち、上記の青木氏存続に関わった史実に観てもその秘訣は、「こだわり」を悟れば「5つの違い」の柔軟な「こだわりの無い冷静な判断力」を培える事にあるのだと考えた訳である。
そこで、此処の世の意志は全て「拘り こだわり」であるとするならば、「拘り」は感情的主観のものとし、「こだわり」は論理的主観のものとして、その思考を狭める「拘り」と「こだわり」は「色」のある現世の中では「人格形成」の一つとして習得せねば成らない「必須条件」としての事柄である。依って、この青木氏の家訓7はこの事を誡めているのだと考えている。
「拘り」も時には子孫存続に間接的に関わることもあるが、「こだわり」は特に誡めておかなくては成らないものと考えている。勿論、「揺ぎ無い目標」とは異なるが。
この「目標」と「夢、希望、願い」は仏法からすると感情主観の「拘り」であるが、その上記「5つの違いの強さ」に起因すると考えられる。依って、仏法の考え方からすると、この「弱い拘り」はむしろ「良質の拘り」であり、「現世で生きる糧」とも成ると説いている。

「5つの違いの強さ」<「目標」
「夢、希望、願い」=「弱い拘り」=「良質の拘り」=「現世で生きる糧」

標記した”「拘り」には全て悪いものではない”としたのはこの仏説に有る。

二つは「こだわり」は頭の使い方が違う事である。
即ち、頭(脳)の使う(働いている)所が違うと云う事である。
それはどう違うのか、以前の家訓でも述べたが、「感情主観の拘り」と「論理主観のこだわり」は本質的に異なる。
「感情主観の拘り」は脳の「前頭葉」の部分に於いて起こり、その「強さと時間」を保有する「拘り」は脳の神経伝達機能網シナプスのスイッチング時間が長く入っている感情の保持状態を云う。
本来の感情保持の時間は0.2-0.5s程度であるのに対してその「拘り」を持ち続ける時間だけスイッチングが保持状態になる。
電気回路で云えば「自己保持状態」である。「自己保持状態」である事から外からの信号に依ってスイッチングを切る以外にはない事に成る。例えば「うつ病」はこのスイッチングが入ったままの状態であり長く入っている事によりエネルギーを多く使い脳のシナプスは疲労しシナプスに被害を受ける状態を指す。
「拘り」はこの状態と類似し「うつ病」より「強さ」の点で弱い事に成る。
これは「自己保持状態」である事から、「外からの環境の変化」を与える事でスイッチングは切れることを意味する。つまり、「拘り」は消えるか弱くなる事に成る。
従って、感情主観に左右される女性の場合はこの「拘り」は消える事が起こる。
論理主観で左右されている男性の場合に於いてもこの感情による「拘り」が起リ得る。
そもそも深層思考が「論理主観」で有る事から、女性特有のこの「拘り」の現象が男性に起こった場合には、「論理性の矛盾」に気付けば、元々感情による「拘り」であるのだから直ぐ霧散する。
元来、男女差の性(さが)は「脳陵帯」で管理されているので「前頭葉」で起こる「感情の強さ」の部分で低いレベルで異なっている為に「拘り」の問題は少ない。
つまり、「拘り」は女性に起こりやすい事は否めないが誰にでも通常に起こっていることを意味する。この「拘り」の範囲は現世の「イザコザ」の範囲であろう。

そうなると、次ぎは「こだわり」である。
「こだわり」は「論理主観」により「錯誤」にて起こっている状況である。
だから、「論理性」を構築する「左脳のデータ」とそれをシナプスで繋いだ「右脳の働きの思考原理」を働かせて「中紀帯」で一つの思考を取りまとめ想像し構築する仕組みの中で論理主観は生まれるである。
この時、蓄積されていたデータに偏りがあった場合には、「右脳の働き」と「中紀帯の働き」とに「間違いの思考」が生まれ、これを「良し」として「こだわり」が「深層思考」として起こる事に成る。
即ち、その保有する「左脳データの信頼度」(1)や、その大脳でシナプスを繋いで「綜合判断をするデータ量」(2)や、その保管されていたデータはそれまでの構築されてきた環境に依って左右される事になるので、その「質の良悪、偏り、偏差値」(3)に依って、直接にその「こだわり」の良悪が左右される事に成る。これはその本人の「質癖の錯誤」と呼べるだろう。

「左脳データの信頼度」(1)「綜合判断をするデータ量」(2)「質の良悪、偏り、偏差値」(3)

この「質癖の錯誤」の「こだわり」が起こるとこれを解消するには(1)(2)(3)を変える以外に無い。
では”この3つを変える事が出来るのか”と云う疑問が湧く。
先ず、”難しい”と云う答えになるだろう。この3つを自ら自覚して直ぐに変える事は出来ない筈である。
なぜならば「左脳データの信頼度」では長年培って来たそのデータ量を急激に変える事は時系列に無理である。
まして、その信頼度はその者の環境とその者の賢明さにもよるだろうから殆ど無理である。
「綜合判断をするデータ量」ではデータ量を急激に増やす事は有り得ないし、その様に人間の脳の記憶を仕分けする「海馬の仕組み」はその様に出来ていない。間違い無く無理である。
「質の良悪、偏り、偏差値」は(1)(2)に左右される事からこれだけを良くする事は論理的に無理である。
これは、その「こだわり」を持った者の人生に大きく関わる問題である。その生きて来た環境に左右される問題である。余程の「左脳のデータを消滅させられるだけの衝撃」が無くては困難である事は容易に判る。その衝撃に「人間の精神」は持つとは思えない。
まして、この上記3つは個人の保有する「先天的資質」に左右されるもので誰でもが「確実で良質」な「こだわり」を持つ事の可能性は低いだろう。
多くはこの「こだわり」は終局は(3)の影響を大きく受ける事に成るだろう。
故に、仏法では「縁無き衆生動し難し」として説いている。
”無理な者は元々無理なんだ。 理想にかまけて「こだわり」を起してはならない。それこそが「こだわり」なんだ、錯誤なんだ”。と。
又、仏法では”「人を見て法を説け」”とまで云っている。
だとすれば、”どうすればよいのだ、「こだわる」な。人を観てその人なりに合わせて其れなりに説けばよいのだ。”と。”肩を張って考えるのはそれこそが「こだわり」なんだ。「こだわり」の持った者が説くことに意味は無いのだ。”と説いている。
だから衆生が「般若心経」を仏前で唱えるのはここにある。
”先ずは無心に唱える事から始まるのだ、「こだわるな」「こだわるな」”と自問自答自責して仏の前で懺悔している姿なのである。

皆、衆生が「確実で良質」な「こだわり」を持ち得ているのであれば仏前で唱える必要も無く仏も心配はないだろう。「般若心経」の様な「心の路」のお経を作る事は無かった筈であろう。
だから、この現世は「こだわり」の世界にして「こだわり」を抑える事の戒めを解いている事になるであろう。
論理主観のこの「こだわり」はその「深層思考の性の定め」により主に男性によるものであろうが、女性にはこの「こだわり」はその「性の目的」(産み育てる本能)から先ず有り得ない。もし、仮にあるとすると「こだわり」の錯誤が起これば子孫は育たない事になる。
「神」は矛盾するその様な「性(さが)」を作る筈が無い。
男女ともに”人はどんなに優れていたとしてもこの「神」から受けた性(さが)から抜け出せる者はこの現世にはいない”という事である。居るとすればその者は「現世の神」である。
この様に「人生」は「拘りとこだわり」であるとしても過言ではあるまい。

況や、殆ど「拘りとこだわり」の間に垣間見れる「喜楽」の中に生きていて、「怒哀」はこの「拘りとこだわり」の産物と成るのではないか。
その「拘りとこだわり」の大小が「怒哀」の大小と成り得ているのであろう。
だとすれば、この「拘りとこだわり」を小さくする事で「喜楽」が増え、「怒哀」は小さくなる。この「拘りとこだわり」のこれを「抑える努力を試みる事」が「現世の幸せ」を大きく享受する事になるであろう。
それを「般若心経」は現世に於いて色々な人間の性(さが)が持つ「五感」との「五体の機能」を使って表現して判りやすく誡めているのであろう。
そして、仏教では「拘りとこだわり」(執着)は「108つの煩悩」として具体的に細かく分けているのである。
人である限りに於いてこの「108つの煩悩」を無くす事は不可能であるが、幾つかでもより多く抑える努力は可能である筈。それが「人格形成」と言う事に成る。
この「108つの煩悩」は感情主観による「拘り」の産物であるが、この家訓7の戒めは上記する論理主観の「左脳データの信頼度」(1)「綜合判断をするデータ量」(2)「質の良悪、偏り、偏差値」(3)から起こる「錯誤のこだわり」を誡めている。
当然に、この「108つの煩悩」(執着 拘り)の中で生きているのであるから、全く無縁であるとは云えない。「幾つかでもより多く抑える努力」が高いレベルで成し得ている事、即ち「人格形成」が成し得ている事がその前提にはなるだろう。
この現世では「108つの煩悩」(執着 拘り)の何割で「人格形成」が成し得ていると云われるかは判らないが、多い方が良いに越している。それでなくてはこの「論理主観のこだわり」を[抑える力」は出て来ないであろう。

この”「108つの煩悩」(執着 拘り)の「抑える力」と「論理主観のこだわり」は逆比例する。”と考えている。

「108つの煩悩」(現世 執着1 拘り 感情主観)<=「人格形成」

「左脳データの信頼度」(1)
「綜合判断をするデータ量」(2)
「質の良悪、偏り、偏差」(3)
(1)+(2)+(3)=「錯誤」(現世 執着2 こだわり 論理主観)

「錯誤」の抑止=「人格形成」(人間形成)

「拘り」(感情主観)<「こだわり」(論理主観)

平易に云えば、脳医学では「統一・一貫性の抑止」と云うらしいのだが、「拘りの抑止」(人間形成 人格形成)は「こだわりの抑止」の基盤になると考えられる。そして、仮にこれが成し得られたとすると、一段上の「人格形成」を得た人物と成り得るのであろう。この時、それが「品格の形成」を成し遂げた事を意味する。
この家訓7は家訓6と類似するが、敢えて家訓6で「人間形成」が成し得られたとしても、更にその”「品格の形成」を成すには家訓7を会得(悟り)しなくてはならない”としたのであろう。
青木氏の「長」としての条件として、”「人間形成」だけでは「品格」は得られない。「悟り」で「品格」を得よ”とより厳しく求めたものであろう。

故に、此処に「伊勢青木氏が置かれていた立場の長」としてのこの「家訓7の会得」を子孫に求めている事であると考える。
添書では仏教的な事柄が書かれているこの家訓7ではあるが、上記する数式論になるであろう。
それを顕著に表すのが、上記する信長との「天正の3つの戦い」に現れていると思われる。故にこの家訓の説明では何度も引用記述しているが、この有名な史実の事を判りやすくする為に「標語の形」として子孫に明確に言伝えているのであろう。これを子孫に悟らす為に。

三つは「こだわり」と「拘り」を区別している事。
この「長」に求めた2つの戒め「拘りとこだわり」の事に違いを敢えて求めているのは、”「拘り」の範囲に留める場合は上記する一段上とされる「品格の形成」は無い”と観ていたからに違いない。
恐らくは、この厳しさは「長い青木氏の歴史の所以」であろう。
だから1365年以上も生き延びられたのである。
「信長との戦い」の口伝があるのは”見事勝った”だけの意味では無く、”織田氏の様に急に興きて急に滅びる所以”も伝える意味をあったのであろう。
つまり、室町期の青木氏の先祖は、織田氏には「家訓6、7」に値するものが無かったからに過ぎないとして観ていた。故に、青木氏としての「家訓心得」を以って全身全霊で戦えば、飛ぶ鳥を落とす勢いのある信長と云えども”潰す事は出来なくても勝てると見抜いていた”事になる。
ただ、「皇族賜姓族の誉れ」に安住しての青木氏であればたちどころに滅びたであろう。
ところが、伊勢青木氏を始めとして一族親交の深かった信濃青木氏までも子孫を遺し得ているのは、この家訓の「人間形成」と「品格形成」に依って沈着冷静な判断が可能となり生き延びたことを意味するのである。

四つは「こだわり」は「長」としての「戒め」である事。
それは、この家訓6と家訓7の戒めは、伊勢、美濃、信濃の青木一族を束ねていた長の「紙屋長兵衛」に有る。
「2足の草鞋策」の「商い」が、「皇族賜姓族の誉れに安住」させなかったのである。
家訓6よりも更に家訓7を求め、更に「拘りとこだわり」の戒めを「長」に求めていた事にある。

仮に、史実から信長と長兵衛を比較すると次ぎの様に成る。
経済力からの考察からすると、家康も名古屋城で秀忠の本軍の遅れを待つとして一時徳川軍を留めて、それを理由に伊勢路の確保の為に伊勢青木氏の合力を求めてきた程の伊勢の豪商紙屋長兵衛である。経済力の大きさは堺の貿易と松阪の商いから信長とほぼ互角で有ったであろう。
信長も「楽市楽座」の制度を推し進めた人物である。そうすると直ぐ近所の伊勢松阪の紙屋長兵衛の事は知っていた筈である。当然、伊勢攻めを命じたのであるから、賜姓族青木氏の事も名張の青蓮寺城を始めとした3つの城持ちである青木民部上尉信忠の事も知っていた筈である。
ただこの「2つの顔持ち」である事は判っていたかは疑問である。
長兵衛が仲介者を通じて材木の商談を持ち込んだのに対して知っていれば警戒する筈であるが結果としてしなかった事に成る。織田信雄も家臣の滝川一益も知らなかったのであるから。
つまり、紙屋長兵衛と青木長兵衛は同じである事を知っていたとするとこの戦略戦術はもとより成り立たない事に成る。青木氏側も知らないだろうと予測し、現実に織田氏側も知らなかった事に成る。
知っていて騙される馬鹿は戦国の時代には居ないであろう。彼の有名な知者の滝川一益も補佐しての戦いでもある。「商人の顔」の長兵衛の経済力だけと観ていただけにその経済力効果がより大きい事に成る。

次ぎは軍事力の検証である。
兵力は資料から江戸初期前には250程度と記録されている。
この戦いに”「不入不倫の権」で護られている賜姓族だから静かにしているだろう”と踏んでいた事に成る。「伊賀の戦い」、「永嶋の戦い」によもや参戦するとは考えも無かった事に成る。
しかし、「商人の顔」の長兵衛が裏で暗躍していたのである。そうすると目に見えない「伊勢シンジケート」の戦力が既に戦い前に暗躍していた事に成る。信長のお膝元の岐阜の「信濃シンジケート」も伊勢青木氏とは連携を採っていたとされるので事前に動いていた事にも成る。当然に信濃の動きも情報として伊勢には入っている。
堺には大店を構えているし、信長の膝元には「楽市楽座」で仲間の豪商が入り込み信長軍との取引上から詳細な動向は掴んでいた事にも成る。
つまり、「情報戦」と「ゲリラ戦」で青木氏の方が先んじていた事に成る。
だから、海辺に面した丸山城構築の情報が入り、逸早くそれにシンジケートの大工や人夫を忍び込ませる事が出来ていたから天守閣から爆破されたのである。これは充分に「情報戦」に勝っていた事に成る。当然に事前に材木等の戦需品の買占めも出来た事からも判る。

後は「直接戦」の兵力は1/50となるが「戦わないで勝つ方法」を編み出していたのであるから問題は無く成る。当時からすると全く新しい戦法で「近代戦法」を敷いた事なのである。
つまり、「経済力」を全面に押し出した「戦い方」である。
シンジケートも「武力」で繋がるのではなく、「闇の元締め」を元に小さい小豪族や戦いで敗れた一族などを「経済的な裏付」で組織化して、お互いに一族や組織を護り合うシステムなのである。
豪商はそのシステムを利用して商品運搬の護衛や取引の安全等を担保に経済的な支援も行う互助組織である。山陸海にその組織を構築していたのである。
この組織を通じてすれば「ゲリラ戦」「情報戦」は山陸海をくもの巣の様に実行できる。
そして、そのシンジケートと他のシンジケートとが結ぶと領主どころの「武力や経済力の勢力」ではない。到底及ばない「広域の力」と成る。そして、相手が「闇の組織」であり見えない為に攻撃が出来ないのである。
しかし、秀吉だけはこの事を蜂須賀小六の子分の時に学んだ「ゲリラ戦」と「堺の商人」との付き合いから「経済力を使った情報戦」の事は良く知っていたのである。
(この小六等も今宮神社のシンジケートのこの一員であった。)
その証拠に、史実では信長には秀吉から、鉄砲入手の時に「今宮神社」の「闇の元締め」のシンジケートの有る事を教えられていた。そのお陰で紀州の「雑賀衆」から3000丁の鉄砲とその戦法を獲得でき武田軍に勝てたのである。とすると、信長はこの「近代戦法」を採用しながら、青木氏との戦いでは、この事の「ゲリラ戦」と「情報戦」の警戒はしていたと観るのが普通であろう、
しかし、「天正の乱」(3乱)は何故なのか疑問である。
恐らくは、信長は、後にこの戦法を使う事を得意とする「職業武力集団」雑賀衆と敵対するが、これが何かを物語っている。逆に家康はこの時に直様この「雑賀軍団」と手を組んだのである。
家康は何故組んだのかも疑問である。
この2つの疑問の鍵が答えに成るだろう。
そして、対比して家康は、青木氏との戦い方も観ており、且つ、豊臣との戦いの時には名古屋城でこの「伊勢路の確保」とその「青木氏の経済力とシンジケート」を味方に取り入れる事を合作し「ゲリラ戦」と「情報戦」を「戦いの本質」(前哨戦)と捉えていた事に成る。
つまり、”豪商の「影の戦い」で8割は決まる。”と家康は判断していたことに成る。
此処に信長と家康の違いが出たのは両者の「生い立ち」による「こだわりの悟り」の差が出た事を意味する。経緯からする偶然にそうなったのではない。信長の行動を観て直ぐに「雑賀衆の取り込み」に家康は行動した事でも「こだわり」を無くして冷静に判断していた事に成る。

信長が本能寺で明智光秀に打たれた時、家康は堺の商人の家に居たことからも判る。このゲリラ戦と「情報戦」の近代戦法の重要さを知って豪商に下工作をしていたのである。
信長と光秀の戦いは「情報戦」から既に家康は承知して予測しての下工作であったと考える。
そうなると、だから家康は、この戦法を得意として駆使した「戦わずして勝つ」の秀吉の死ぬのを待ったのである。
つまり、「こだわり」を捨てていた「冷静沈着な判断」「長の心得」を家康も秀吉も悟っていた事に成る。問題は信長である。
つまり、学習していたが、信長はこの「ゲリラ戦」と「情報戦」が嫌いであった。”性分に合わない”と排除していた事になる。
これは信長の生い立ちと性格から、又、「比叡山の焼き討ち」から観ても上記する環境(5つの間違い)が左右し、明智光秀の扱いにしても判るが「品格形成」更には「人間形成」のところに歪みが生まれていたのである。此処が、「長のこだわり」なのである。つまり、信長はこの「こだわり」を捨てなかった事に成る。むしろ、「こだわり」に「こだわった」のではないか。

長兵衛は千石船3隻を保有しているし、伊勢湾の丸山地区の海辺の城は海を抑えれば城の効果は半減する。では何故海辺の側に城を築こうとしたのか疑問と成る。
欠点は陸から攻められれば背後は無い。利点は補給路を確保出来る。
この当時の城は戦術上「山と川」を前提としていた。「山は護り、川は補給」である。
この考えからすると、「川」の代わりを「海」としたのではないか。
この当時には伊勢には11の城があった。真ん中から入ると周囲から囲まれ補給が困難と成る。
つまり、伊勢シンジケートと信濃シンジケートのゲリラ戦で挟撃されて補給路を立たれるし、11の城から囲まれる可能性が高い。これを打ち破るには10万の大軍が必要である。
信長には各地で戦線を広げていた事からその兵力を伊勢攻めに割く余裕は無かった。

何故10万なのかと云う事である。
実はこの例と同じ事が「南北朝」時代に起こっているのである。
新田義貞軍と足利軍の鎌倉幕府10万の兵を用いて天皇側に味方した楠木正成の3千の軍と対峙した戦いがあった。それも伊勢の横である。
そしてその戦いは正成の「情報戦」と「ゲリラ戦」であったし、その「ゲリラ戦」と「情報戦」は伊勢シンジケートに依るものであった事と、正成はその伊勢シンジケートの田舎の小豪族の一員であった事は有名な史実である。
恐らくはこの時、そのシンジケートの元締めの当時の青木長兵衛の配下と成り経済的支援を受けていた事に成る。そして、結果は10万の軍はシンジケートの「ゲリラ戦」で水と食料路を断たれて確保出来ずに餓死して敗退したのである。周囲を山に囲まれた地形である。そして、山の上で谷川を持つ城を背景に篭城戦を繰り返した。山城にはシンジケートが武器と食料を補給する。10万の軍は水と食料で飢える。この敗退した史実の学習は承知していた筈である。

この歴史的な史実を知っていた為に、伊勢シンジケートを警戒していた事に成る。だから海辺に構築しようとしたのであろう。城作りの常識を破り海から補強しながら中に戦線を広げながら攻め入る戦略であったのであろう。
これでも判る様に、信長は有る程度の戦略的な戦い方の事はこの海辺の城作りから観ても知っていた事を物語る。

これに対して青木氏側は自らも船を持ちながら海の支配を商人として持っている。陸の豪族の信長にはこの海の支配権は無かった。仮に信長に広域に補給路を抑えられたとしても海からのシンジケートを使って補給できる。また逆に織田軍の補給を抑える事も出来る。
この様に検証すると、何よりも計り知れないのは「伊勢シンジケート」と「信濃シンジケート」との連携ではほぼ互角に近かったのでは無いか。
だから、豊臣氏との戦いで家康は上記する様に伊勢青木氏に合力を求めてきたのである。
そうなると信長と青木氏との戦いは後は「戦い方」に成る。
当然に、「商いの経済力」で締め上げ、「シンジケート」で周囲から「ゲリラ戦」を駆使すれば勝てる。最も愚昧戦なのは「直接戦」である。
これでは仮に勝てたとしても被害も大きい。史実は明らかのように「ゲリラ戦」であり被害は殆どなしである。
だから信長は知っていての悔しさの余り自分に腹を立て、その腹いせに家臣の面前で次男を叩き罵倒し蟄居させてしまったのである。信長は「自分の至らなさ」に気がついたのであろう。
しかし、最早遅い。歴史的に観ればこの事が皮肉にも疎んじられた次男の織田信雄だけが生き延びて子孫を遺したのである。(子孫はスケートの織田信成)秀吉の茶友で家康の茶友として生き延びたのである。信長に取って観れば、「不幸中の幸い」であった。
つまり、言い換えれば信雄は青木氏の御蔭で生き延びた事が云える。

信長は結局、この「天正の戦い」で3つの失敗を起した事に成る。
「長」として求められる「人間形成」はもとより「品格形成」に欠けていた。
 生い立ちに打つ勝つ事が出来ずに「こだわり」に「こだわった」事にある。
1 「直接戦」を好み「シンジケート力」の「ゲリラ戦」「情報戦」の力を見誤った。
2 「武力戦」に過信し「商人の力」「経済戦」を軽視した。

ここで、「シンジケート」の史実を述べ立てたが、真にこの「シンジケート」を維持出来る事は経済的な繋がりはあるとしても、全て「人」である。ここにそれだけでは成り立たない一つの要素がある。それが「長」として「こだわり」を抑えた事によって「品格を得た者」に成し得る要素なのである。そして、その組織が「大きな力」を発揮し得るのである。
ここが「信長」に成し得なかった事なのであり、強い「こだわり」により「深い思考を巡らす能力」を会得できずに「軽視」していた事を意味するのである。
 
比較する家康も、この史実は信長の面前で観ていたので知っているから、学習して伊勢青木氏の力の有り様を知り青木氏との連携に力を注いだのである。
同じ学習した秀吉も只一度「直接戦」をして陸奥の豪族を叩くために「ゲリラ戦」にしびれを切らし、その時の指揮官は「蒲生氏郷」であるが直命して「直接戦」で失敗して3千の兵に惨敗している。
その反省として「小田原城攻め」が物語っている。
だから、更に学習した秀吉は松阪を攻略する時にこの氏郷を廻した理由の一つなのである。
その証拠に、徳川氏の天下に成って、家康の子の頼宣を紀州の藩主として差し向けた時も先ず松阪の青木氏との面談を行った。この時の様子も口伝で伝えられていて「上座」を青木長兵衛に譲ったと伝えられている。
紀州藩三代目の妾子出(巨勢氏)で後の将軍8代目吉宗が部屋住みの時、伊勢の加納家に預け親族関係にあった伊勢青木の後見として育った。将軍に成った時、伊勢青木氏で豪商紙屋長兵衛の子供を江戸に引き連れて「享保の改革」を実行させ、更には紀州藩にも長兵衛の子供を配置させて藩財政を立て直させた経緯を江戸幕府に見せ付けて、幕府の「享保の改革」を断行したのである。
筆者祖父の時代まで大正14年まで親交があった。絵画、書道、茶道、漢詩、禅道、商道などを藩主と藩士に代々教授した事が伝えられ、その徳川氏からの返礼として豪商青木長兵衛に紀州藩より十二人扶持米(1年間12人が食べてゆける石高)を与えられていたことが記録に残っている。

つまり、青木氏の「皇族賜姓族の誉れに安住」だけでは、最早、藤原秀郷の末裔で人格者で学者で歌人で戦略家であった蒲生氏郷も、徳川時代に成って紀州徳川氏も、代々これ程までに扱わなかったであろう。
これは誉れだけではない。家訓の教えに従い「こだわり」を押さえ「品格」を獲得し「見えない力」を会得したからこその所以である。

結論
この様に、”「人間形成」とその上の「品格形成」は「人を呼ぶ」事で「発展」するが、「こだわりの力」と「権力、力の形成」は「人を遠ざける」で「衰退」する。決して間違っては成らない。現世はこの条理で動いている。”況や、!成蹊の人たれ”即ち”「こだわり」を捨てた人たれ”である。これが添書の言い分である。

上記の史実が殊更に青木氏に口伝化されているのはここにあり、家訓6と家訓7の「長の戒め」が判断を間違えずに歴史上に無かった新しい戦い方で、冷静に処理し「長」としての「戒め」の勤めを果たした事を意味する。又、その後の徳川時代にも上記の素晴らしい生き延び方を図った事を物語っている。
これ全て家訓6と家訓7が伊勢青木氏を形成していた事の所以になる。


伊勢に築づいた城(館城、廓城、櫓城、寺城、山城を含む)
伊勢青木氏の城
(・は伊勢青木氏の城)
・柏原城(奈良)、・名張城(奈良)、・青蓮寺城(奈良)、・桜町城(摂津)、
・桜町中将城(奈良)、・四日市羽津城(三重)、・四日市蒔田城(三重)、・浜田城(愛知)、
・福地城(三重桑名)、・脇出城(三重松阪)、・青木山城(三重松阪)、
・松阪館城(三重松阪)

・柏野城(三重伊賀)、・阿山城(三重伊賀)、

藤原秀郷流青木氏(伊勢)
滝川城、須賀川城、

丸山城(三重 織田氏)、



次ぎは家訓8に続く。


  [No.267] Re: 伊勢青木家 家訓8
     投稿者:福管理人   投稿日:2010/09/01(Wed) 15:57:52

伊勢青木氏の家訓10訓

以下に夫々にその持つ「戒め」の意味するところを説明する。

家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
家訓3 主は正しき行為を導きく為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず。

家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)

家訓1は「夫婦の戒め」
家訓2は「親子の戒め」
家訓3は「行動の戒め」
家訓4は「性(さが)の戒め」
家訓5は「対人の戒め」
家訓6は「人間形成の戒め」(長の戒め)
家訓7は「品格の戒め」である。

この家訓8の先祖の説いているところは”人生 「生きるべき力」は「創造」にある”と説いている。
家訓7までの内容の戒めと少し違う。
家訓7までの戒めは「人」又はその「長」としてのより高い人間的な習得、悟るべき戒め」を説いている。
しかし、この家訓8は「人」又はその「長」としての「示さなくては成らない戒め」を解いている。

どう云う事か。当然に自らも絶対条件として保持しなくてはならない条件でもあり、且つ、「長」として人を引き付ける「強いもの」を持ち得ていなくては成らないとしている。
その「強いもの」とは「創造力」であって、その「創造」は具体的には”「技の術 技の能」とを分けて会得せよ”とあり、闇雲に「創造」を追い求めても会得できないし、「長」として人を引き付ける事は出来ないと解いているのである。
此処は”敢えて”解いている”と添書には記述されている。
つまり、”説く”のではなく”解く”であり、即ち”強く分けて考えよ”という事を伝えたいのであろう。

「強く分けて考える事」に付いて”それは何故必要なのか”疑問(1)が湧く。
そして、その「創造」の基となる「技」に付いても”「技の術」と「技の能」とはどう違うのか”の疑問(2)も当然に湧く。疑問の多く湧く家訓8である。
何も「創造」だから「技」に拘らなくても良いであろうが、特にその主な例を以って判りやすく解いているのであろう事が判る。
そこで、「技」としているのは、この「2つの疑問」(1)(2)を「解く事」と「悟る事」の行動が大事で、書籍による習得ではなく、”自らの「努力」と「思考」により得よ”(A)としているのであろう。
”「自らの努力又は思考」に依って得られた時、「長としての務め」は果たせるし、その「創造」の効果は生まれる”(B)と伝えている。
更に、即ち、”この「創造」は家訓10訓を会得する「糧」又は「力」に成るのだ”(C)と添書は強調しているのである。
 
さて、「2つの疑問」(1)(2)と「3つの添書」(A)(B)(C)に付いてこれから単独ではなく誤解をより少なくするために複合的に都度論じる事とする。

最初の”それは何故必要なのか”の疑問(1)の解明の前に、”「技の術」と「技の能」”とはどう違うのか”の疑問(2)を先に論じて解明する方が解けると考える。
そうする事で最初の疑問(1)は間違いなく理解できるし論理的な答えとして導かれるだろう。

そもそも、”自らの努力と思考により得よ”(A)と論理的に会得する事を求めているのであるから、この解明の過程が正しいと思える。

既にこの世に「技術」と「技能」と云う言葉がある。
この「二つの言葉」があると云う事は、この二つの言葉の「意味」や「目的」が違う事を意味している。
しかし、世間では言葉の範囲では厳密には使い分けをしているとは思えなく、ここは「技術」だなと思うところを「技能」と発言して使っていることが多い。当然に逆の事もある。
つまり、この現象は世間の人、全ての人は「長」としての立場で使い分けをしている事は無いだろう事を示している。
だから、裏を迎えせば、”導く立場の「長」としてはこれでは駄目なのだ”と云っている事になる。
当然、この「技」は添書では主例であるのだから、万事、特に「創造」とする事に関して”斯くあるべきだ”といっている事に成る。

そこで、結論から先に云うと次ぎの様に成るだろう。
”「技術」は「知識」を主体視してそれに「経験」を附帯させて構成されているものだ”と云う結論に成る。
”「技能」は「経験」を主体視してそれに「知識」を附帯させて構成されているものだ”と云う結論に成る。
つまり、「知識」と「経験」の主体が違うと云う事に成る。

当然にその比率は千差万別と成るだろう。場合に依っては殆ど差が無く変わらないものもあり得るだろうし、逆の場合もあり得るだろう。
例えば、科学の場合には「知識」に依って論理的に編み出された「技」もあり、この場合は「知識」から観れば「経験」の度合いが小さいと云う傾向もある。
芸術や工芸の様な観念的なことが働く場合には「経験」から観れば「知識」の度合いが小さいと言う事もあり得る。知識で創作された芸術は”論理性が高く面白くない”と誰しも評価するだろう。
ただ下記に論ずる”「経験」から「知識」へと進む「進化の過程」”を考えると、片方がゼロと云う事は論理的にないし、この比率の差は大した意味を持たない。

この様に分けて考えると、この世の「進化の過程」もあり「知識」と「経験」の定義としては類似する事に成る。だから一般的には面倒だから世間の通常は分けて使い分けしないのであろう。
しかし、だからこの家訓8は”「長」としてはそれでは駄目だ”としているのである。
判りやすく云うと”雑では駄目だ”と云う事だろう。

そこで、これを判りやすくする為に論理的に解析すると、最近の脳科学的に観た場合、次ぎの様に成るのではないか。
「知識」とは学問など書籍に依って「判読力」を主体として得られた脳の「集積結果」である。
「経験」は実労等に依り「体験力」を主体として得られた脳の「集積結果」である。
と考えられる。

「術」=「知識」=「判読力」
「能」=「経験」=「体験力」

当然に、この「集積結果」は左脳の集積場所は異なる筈である。つまり、カテゴリーが異なるのであるから、コンピータ的に観れば収納場所は「トラック」や「セクター」や「カテゴリー」の位置は異なる事になる。
脳も同じ仕組みで成り立っているのだから、つまり、これ即ち、「術」と「能」は「違う」と云うことを意味している。
しかし、厳密に云えば、「知識の学問書籍」も基を正せば始めからあったものではなく「人の進化」の過程の「体験」に依って得られもので、それを類似分析して「学問化」し「体系化」したものが「知識」と成る。
これは大事な思考基準である。
つまり、「能」の「体験力」から「術」の「判読力」へと進化したものと成る。

「進化の過程」=「経験」−「学問化」・「体系化」−「知識」
「体験力」−「進化」−「判読力」

この左から右に向かってルートを通って進む。
従って、現在に於いても未だ体系化されずに、「能」の「体験力」の段階のものもあるだろう。
「体験力」と「判読力」とには「進化」が介在する事に成る。

逆に、最近の科学域では高度な「知識」の「術」から更に進化して高度な「経験」の「新能」が生まれると言う事も起こっている。コンピーター関連やソーラー関連や最先端医療のIPS医療等はその典型であろう。むしろ、これからの形体はこのパターンで論じられる事が主体と成ろう。
しかし、あまり前に進めずとりあえず先ずは、上記の「原型のパターン」を論じて理解しておく必要がある。

「知識」の「術」−「経験」の「新能」=未来の進化。

”「術」と「能」”には同じ事象の中の事でも「能」と「術」とには「経時的変化」を伴なう。
つまり、「能」から「術」へと進むと云う事に成るので、「術」は進化した事になる。故に進化したのであるから、そこでその初期の「能」の段階に留まってはならない事を意味するのである。
つまり、”「長」はこの進化の「術」の把握に努めなくてはならない”と諭している事に先ず成る。

平たく云えば、”「長」は常に確立した「新しきもの」を求めよ。”と云える。

さて、これは難しい。何故ならば今は科学は進みその「術」は何処かで進化して確立し書籍などに表されているが、古ではその様な環境に余りなかった。
とすると、自らが「能」の段階のものを「術」の段階まで進めなくては成らない努力が伴なう。
恐らくは、”「長」はこの努力をせよ。「能」を体系化せよ”と求めている事に成る。
だから、故に家訓8は作り出す事を求め所謂「創造」としているのである。

そこで「技能」には「経験」に依ってその「技」を極めた「匠」がある。
更に推し進めて「能」の「匠」を考えるとすると、”「能」の段階の「匠」では「長」は務まらない”とし、むしろ”「匠」であっては「長」としての指揮に間違いを生じさせる”としているのではないか。
何故ならば、「経験」の「技能」を極めた「匠」は、兎角、その事に「拘り」や「偏り」を持つ傾向が起こる。止むを得ない人間の仕儀でもあるがそうでなくては「匠」には成り得ないであろう。
むしろ、「拘り」の極めが「匠」であろう。

数式で表すとすると次ぎの様になる。
「経験の最大」=「拘りの極め」=「匠」

そうすると、ここで矛盾が生じる。
”経験をして「能」を極めて進化させて「知識」の「術」を会得せよ”とすると、経験には「拘り」と「偏り」が生まれるのであるから、「知識」の「術」は成し得ない事に成る。
何故ならば、「知識」とは「能」の「拘り」と「偏り」の個人性を排除したものが「術」であろうから、そこで初めて他者が一般的に利用し知識として「学問」と成り得るのであって、「匠」の「能」はそのままでは論理的には「知識」の「術」へは不可能である事に成る。
「匠」の能は個人的なものに支配される。個人的なものに支配されるからこそ又、「匠」の値打ちが
出るものであろう。

「経験」−「拘り」=「知識」

「拘り」「偏り」の排除=「体系化」作業
という事に成る。

ただ、それを解決する方法がある。(A)
それは、この家訓8では”「経験」の「能」を「匠」として極め、先ず会得せよ”とは書いていない。とすれば、何故ならば、それは”他の者をしてそれを極めさせれば良い”事に成る。
これだけでは「会得」と云う事から観て意味が無いだろう。
「長」の「習得、会得の率と理解度」が必然的に低下する事になるからだ。これでは「長」の求められるものでは無い事に成る。
しかし、その前提があろう。物事には「完全の習得」は有り得ない。
そうすると「匠」まで極めずとも良い事に成り、それを理解するに足り得る「経験」を会得する事でも、「知識」の「術」の「体系化」は充分に成し得る事が出来る。それが前提である。
つまり、他の者をして「匠」としてそれから「聞き出す事」の手段にて成し得る。
それが”「長」はこの「聞き出す努力」をせよ。そして「能」を自ら「体系化」せよ。”としていると理解する。

「聞き出す事」=「体系化」作業の始まり行動
という事に成る。

上式と連立すると、次のように成る。

「聞き出す事」=「拘り」「偏り」の排除=「個人性の排除」=「体系化」の作業

そして、行き着く処は「知識」となる。

それには先ずは、”ある程度の「経験」の「能」を会得し、「拘り」を排除して「知識」の「術」に進化させて、その「知識」の[術]で以って正しく指揮せよ。”と云っている事に成る。

つまり、”その「経験」から「知識」への「過程を創造する」”と定義している事になる。
これは何も「能」、「術」だけの問題ではないだろう。
「創造する」とは「考え、そして新しき何物かを生み出す」と定義すると次ぎの様に成る。

”「経験」から得たものを「体系化」して「新しき何物」かを生み出せ”
と成るので、この上記の解釈は正しい事になるだろう。

{「経験」−「体系化」−「知識」}=「過程を創造する」

「過程を創造する」の「行動の努力」は、再び、「経験」−「体系化」−「知識」のサイクルのプロセスを生み出す事は容易に理解出来る。より進化して。

この「進化」とはこれを定義とし「体系化」を「媒体」としている事に成る。
このサイクルが限りなく続く事を論理的に説明出来る。
但し、媒体と成る「体系化」を無くしてはこのサイクルは起こらない事も。

そうなると、そこで「創造」とは果たして俗に云う”夢を持て”と云う事に成るのか。(B)
どうも違うのではないか。そもそも俗に云う「夢」とは「就寝中の夢」の如く暗中模索、否具体性のものであろう。その「夢」をかなえる為に「暗中模索」では「夢」は叶えられるものではない。
それほど世の中は甘くは無い。人は兎角「夢」とは「暗中模索」のものを云っている傾向がある。
世間では”夢を持て”と若い者に吹聴しているが、あれには少し違いがあろう。
「暗中模索の夢」は無防備にそれに進むために「夢を叶えられる力」の醸成もせずに「無駄な挫折」をし「不必要に世の中を恨み」「捻くれて拗ねる姿勢」の弊害を生み、若い者に良い結果を生まないのが現状であろう。果たして「幾多の挫折」に充分に耐えられる者がどれだけいるだろうか。
これは、上記した「匠」に相当する”「拘り」「偏り」”と成るだろう。
「夢」を叶えられ者は「匠」と成り得る確率と同じであろう。誰しもが「匠」、「夢」を成し得る事は出来ない。一握りである。さすれば、「夢」に向かって挫折した時、その挫折が向後の人生に良い方向に働けば何の問題もないが、多くは「暗中模索、否具体性」で走る。依って、思考に「不必要に世の中を恨み」「捻くれて拗ねる姿勢」の弊害を持つだろう。これは多くの者に起こる。
この「夢」は取りも直さず「経験」の域にある。
{「経験」−「体系化」−「知識」}=「過程を創造する」のつまり以上のプロセスの「体系化」が成されていない。依って「長」とも行かずとも「夢の実現」は「過程を創造する」の域に達していないだろう。途中である。
従って「創造」とは「夢」であるとは成らない。

大事な事は「暗中模索の夢」を叶える為にその過程のそれに向かった「努力の積み重ね」が必要であり、「ただの努力」では成し得ない筈である。
何故ならば、この世は「人の社会」である。その「人の社会」が皆が同じ程度の努力で「夢」が叶えられるのであればそれは楽なもので「夢」では無い。叶え難いからこそ「夢」と表現しているのだ。
「人の社会」であるからこそ「夢」を成そうとすると「人を押しのける」事の行為は必然的に生まれる事に成る。
「人を押しのける」という事は「人以上に力」を持たなければ成し得ないし、かなりの「忍耐」「苦悩」が伴なう。
その「人の社会」が日本の様な高度な社会であればこそ、更に「それ以上の力」を保持しなくては成らない。
当然に、その「夢の分野」が高度で汎用な分野であればこそ、尚更の事「人を押しのける」「人以上の力を持つ」の条件は更に厳しさを持つ事に成る。
そう成ると、この「人を押しのける」の力は{「経験」−「体系化」−「知識」}の「体系化」の努力に等しい事に成る。

数式では次ぎの様になるだろう。
「人を押しのける力」=「体系化」の努力=「知識」

中には、”その挫折が大事だ”と如何にも正論の如く簡単に云う人が多い。
確かに「挫折」は人の成長に欠かす事が出来ない。
然し、どんな「挫折」でも良いと云う事では無い筈である。

”不必要な挫折などしない方が良い。”と考えている。この家訓から学んだ事として。
4つの「み」を強く興す「挫折」は避けるべきである。
強い「ねたみ」「そねみ」「うらみ」「つらみ」が起こる「挫折」は「人を歪ませる」と仏教では説いている通り、
この仏説には「人間形成に於いて不必要」と観て賛成できる。
確かに「挫折」するよりは「体系化」する事の方人間形成に効果的であろう。
つまり、「不必要な挫折」をするよりはこの事は言い換えれば次のように成る。

”日頃の経験を通して「体系化」する努力、又は「体系化の苦労」をせよ。”

”経験から得たものを「拘り」「偏り」を見抜き取り除くその努力を先ずせよ。”

そこで、”「人以上の力」「人を押しのける」に耐え「正常な精神と思考」を持ち得ている人物がどれほど居るだろうか。「不必要な挫折」は必ず「精神と思考」を歪ませる。
それを正常に成し得る者が果たしてどれだけいるだろうか。”先ず居ない”と云える。
仮に「人以上の力」を確保出来たとして、無情にして非情にも「人を押しのける」と云う行為に絶え得るだろうか。「人を押しのける」が一度であれば未だしも常態の日々に続くのである。
故に、無責任極まりないこの言葉を私は、”「夢]を持て”とは決して云わない。
それを云える人物が果たして、この2つの条件(人以上の力 人を押しのける)を以って発言しているのだろうか。おこがましい限りである。

云うとすれば、くどいがこの家訓8の真意を得て次ぎの様に云っている。

”日頃の経験を通して「体系化」する努力、又は「体系化の苦労」をせよ。”

”経験から得たものを「拘り」「偏り」を見抜き取り除くその努力を先ずせよ。”

”不必要な挫折はするな。その暇があるのなら「自らの努力」で「知識」を得よ。 自らの努力で”

では、どうすれば良いのかと云う事に成る。そのキーワードが必要だ。

それが、この家訓8の事で云えば次に示す処であろう。
「夢」に向かって進む限りに於いて大なり小なり「経験」が伴なう。「能」を確保する事になろう。

”それを進化させて「術」として「知識」と成せ”と云う事に成る。
”「夢」を叶えるとするならば、「能」「経験」だけでは駄目なのだ。”と云う事に成る。

では、更に考えて、”その「進化させる」はどの様にすれば良いのか。”の疑問が起こる。
それは”「体系化せよ」”又は”自分なりの「学問化せよ」”と云う事に成る。
判りやすく云えば、”「経験」(能)をまとめよ。” それが”「長い多様な経験」の間に体系化した「多様な知識」と成り得るのである。”と解ける。
つまり、”「長い多様な経験」により「多様な知識」が「人としての力量」或いは「人としての格」を成し得るのである”と解ける。
”それで良いのだ””何も「夢」を叶え持つ事だけが目的では無い。”
だから、「無駄な挫折」をして思考に歪みを持つ事よりも、”足元の「経験」(能)をまとめよ”その努力が”「長い多様な経験」の間に体系化した「多様な知識」と成り得るのである。”と成るのである。(B)

”この家訓8の「長」はこのことを忘れて怠っては成らない”としている。
”それを会得した者が「人を導ける力」を持ち得るのである。”としている。

つまり、”「人としての力量」或いは「人としての格」は「長」としての人を導く「人格」が得られる”と云う事に成る。
この「人格」が「品格」に、そして、それの積み重ねの結果、雰囲気に滲み出て「風格」と成るのではないだろうか。

「長い多様な経験」=「体系化した多様な知識」=「人格」=「品格」=「風格」

そして、”この「風格」が生まれた時「長」と成り得る。”と理解できる。
家訓10訓、とりわけ家訓8の「風格」を得た時、その「長」の下には「家風」が生まれるだろう。
この「家風」が「伝統」と成り得るのである。
「家風」=「伝統」

”「家風」即ち「伝統」が醸成されると、「一族、配下」は自らその「家風」「伝統」を理解して、「長」が充分に指揮せずしても「的確な行動」を起す”と解いているのである。

昔から、”今成金”という言葉がある。
下記に例として記述する「信長、秀吉」の例は家訓8による「大意」この事に欠けていた事により滅びたと解析できる。

当然に、「多様な経験」を体系化した「多様な知識」は事に当って人を納得させ、諸々の事象に当って適切な指揮する能力を保持する事に成る。
その結果、尽くに「正しい指揮」が積み重なり、その「指揮する品質レベル」に信頼度を増し、人は従い、その結果として”「長」としての「行動の品質」の「格」が醸成される”と定義されるだろう。つまり、”「品格」は「配下の信頼度」が「長」をその様に仕立てる。”と云う事になる。
これは”自らが作り出せるものではない”と云える。

判りやすく数式で表現すると下記の様になるのではないか。(A、B、C)
「品格」=「配下の信頼度」*N=「正しい指揮」*N=「指揮する品質レベル」*N
「品格」=「人格」*N
「品格」*N=「風格」
(「人格」*N)*N=「風格」
(N=経験量+知識量)

しかし、然りながら、ここで「多く無駄な挫折」をした者が、この家訓8を成し得た時に、”何故悪いのか”の反論があろう。悪いのである。
「多く無駄な挫折」「人を押しのける」事の結果で「思考精神」に歪みの持たない者は先ず居ないだろう。つまり、その者の「自らの経験」と「力量」と「人を押しのける力」から独善的に、或いは独裁的になり「人」を導く「長」には問題を含むからである。
”一時的には「長」に成り得ても必ず破綻する。”と云う事になるからだ。

例えば、「信長、秀吉、家康」の例えが適切に物語る。
信長はこの過激的で独善的な典型的人物であろう。その人生過程に於いて余りの典型であったからこそ、歴史は事半ばで終る。
秀吉は下積みから這い出ての「技能量」或いは「経験量」は豊かであったが、体系化した多様な知識を持ち得ていなかった。「千利休に対する対応」や「金の茶室」がそれを物語る。
故に標準的な典型的人物であろう。歴史は一代で成し得たが一代で終わると成り、人生の目的、万物の目的とする後世に子孫を遺し得なかった。
家康であるが、この家訓8に適合する人物である。
三河の地侍に生まれ、今川氏の人質、織田氏から屈辱的な待遇、武田氏との敗戦、秀吉との駆け引き、摂津商人との付き合い、関が原の戦いに負けて勝った結果等を検証すると「多くの挫折」と「人を押しのける」等の「経験」は申し分なく豊かでありながらも、そこから学習して「知識」を獲得し「長」としての家訓8で云う資質を「捻くれる」事無く会得している事が検証できる。
「捻くれる」はこの家訓8で云うそれは”「体系化せよ」”又は”自分なりの「学問化せよ」”の努力の結果がそれを抑えたと考えられる。

徳川氏の歴史資料からも、”「多く無駄な挫折」を避け「人を押しのける」事の結果を極力少なくし、「長い多様な経験」の間に体系化した「多様な知識」を学習し成した。その為に出来る限り「思考精神」に歪みの持たない様に心がけた。
「家訓8」で言う「長」としての数式条件は次ぎの様に成るだろう。

即ち、「長い多様な経験」=「体系化した多様な知識」=「人格」=「品格」=「風格」 を備えた。”と理解し検証できる。

故に、250年以上の存続の条件が醸成されたのである。
それは”「体系化せよ」”又は”自分なりの「学問化せよ」”は何も言葉そのものではなく、「捻くれる」事をも抑える事が出来るのであろう事が読み取れる。
誰しもが普通は陥る経験からの「捻くれ思考」はどうすれば良いのかの疑問は次の事として云える。

「捻くれ思考」は予断なく「長」として最も排除しなければならない事は明白であろう。
"「捻くれ思考」は「体系化」「学問化」の努力でこれを打ち消せ"と成る。

恐らく、当然の事として添書に書かれていないが別の真意はここにもあるのだろう。
つまり、通常はその者の「自らの経験」と「力量」と「人を押しのける力」から独善的に或いは独裁的になり「人」を導く「長」には問題を含むからである。

”信長、秀吉はむしろ常人であって人としての陥るところに落ち至った。しかし、家康の人物は稀有であるが斯くあるべきだ”と云っている事になる。

”「長」は「常人」でありながら「常人」であっては成らない”ことを諭している事に成る。

青木氏の家訓10訓は室町以前の試練から生まれたものであるが、それ以後も子孫に合意されていたからこそ現在までに遺されているのであって、それ以前にこの「3人の生き様」を言い当てていた事になる。

この家訓8が遺された時期は一族一門がこの世に生き残れる確率は極めて低く、危険率は現在の数十倍のものであったことである。それは毎日の茶飯事思考であった筈である。
しかし、青木氏は1367年も続けて直系子孫を遺し得たのは代々先祖がこの家訓類の戒めを護り続けて来た事に他ならない。少なくとも明治35年までは「長」として。
そして「家訓」として「伝統の集約」として維持されている。
現在では科学の著しい進化で社会がより敏感に成りハイトーンと化しているが、この別の意味で厳しさはむしろより遺されているだろう。さらに子孫の時代にはこの状況はもっと続くであろう。
「経験」から「知識」に進化して来た時代から、あまり「経験」の「技能」の伴なわない「知識」から更に「新しい技術」が生まれる時代に、人間形成に於いて代らないだろうが、この「新しい厳しさ」に立ち向かうにはこの家訓8は古い様で居て現在、否未来にも何らかの形に変えて生きている筈だろう。

故に、筆者はこの家訓8の考え方を重視していて、自分の思考判断基準の重要な一つにしている。
とりわけ「人を観る」とする時、或いは「長」とされる「人物評価をする時」に反射的にこの家訓で観ているが、外れた事はない。誰しもが何らかの判断基準を持ち得ているものであろうが。
多くの歴史偉人伝を読み漁ったがこの家訓8は有効に利用されより面白く雑学を得た。
この世は当然に「人の絡み」の世であるが故に必然的に「人を押しのける」は起こる。
別の効果としてもこの世の必然的な行為の"「人を押しのける」"前にこの家訓8の「人を観る」事の「思考経験」とその「体系化」による「知識」で不必要な摩擦を避けて来た。

古い様であるが、突き詰めると現在の言葉が無いので古来の言葉にすれば、「人生の生き様」の体系化は「六稲三略」に通ずる様だ。「戦略戦術」は正しくこの「体系化」であろう気がする。

添書にはないが、"人との不必要な摩擦が避けられる"も極意なのであろう事を思い知り、頭書に記述した、”自らの「努力」と「思考」により得よ”(A)に感嘆した。
これも「経験」からの「体系化」−「知識化」を成し得た事に成るからだ。

もう一つ会得した事がある。
それは、「体系化」−「知識化」を成さず豊富な経験だけで終わる場合、その人物には「個性的性格」、「個性的思考」が残る事が確実に起こる事である。
恐らくは、信長や秀吉は多少なりとも「体系化」−「知識化」があったにせよ多くはこの「経験」のみによるところで留まっていて、そのレベルにより独特な「個性化」が起こったと観られる。
ただ、信長はこの事をある程度知り得ていて外国の新しき文化知識で補おうとしたと観られるし、その側近には同じ行動をする秀吉を登用したことで頷ける。
明智光秀は主に「経験」から「体系化」−「知識化」を成した人物ではなく「書物」から「知識化」成した事により信長との余りの差が起こり、信長は自らを補おうとした余り「接点の無い間違いの登用」をしてしまった事になるだろう。
「経験」を「体系化」成せる者で充分であった筈で、この判断ミスをした事に成る。
ただ、此処で云える事は、光秀タイプが悪いのではない。”学者馬鹿”という言葉があるが、これは「偏り」に依って起こる”「適合性の低い思考」が起こる”からで、その思考化の視野が狭くなる事から起こる現象である。しかし、これを超えるとむしろ大変な「経験」を生み出すのである。

例えば、三国志の劉備と軍師の諸葛孔明である。
諸葛孔明は最たる「知識」と「知恵」の持ち主である。諸葛孔明の策に対して、”敵は過去の彼の「策の経験」から恐れて逃げる”と云う所まで達していた。これは明らかに「知識」から「経験」を生み出し、その「策の知識」から敵は「体系化」して自ら「経験」を作り出した効果に他ならない。「逆のプロセス」である。
明智光秀はこの域に達していなかった事に成るだろう。世に云う「今だ我木鶏にあらず」であろう。
「知識」からの「逆体系化」で「経験」は「木鶏」に達し得る可能性がある事を意味する。
歴史偉人伝にはこの「逆体系化」は少ない為にかなり難しい事が云える。
しかし、家訓8の添書には一句も触れていないがあり得る事である。

秀吉は「金の茶室」で全てを物語るもので「体系化」−「知識化」は自ら嫌っていた事が覗える。だから、補う為に石田三成を重く登用したと観られる。しかし、この石田三成も明智光秀型であった。
ただ、秀吉はこの体系化の見本と見なされる人物を採用している処は優れている。
その人物は一介の下級浪人の薬売りで溢れる知恵の持ち主であった。そして、その知恵を屈指して各地の土豪の争いに雇われて「戦い」を「経験」し、そこから自らその「戦い方の体系化」を成し、知識として保持し続けた。その結果、「天下一の軍師」として賞賛され認められた秀吉の「軍師 黒田勘兵衛」と成り得たし、明治期まで続いた黒田藩主の「長」にも成った。

だから家康は石田三成や明智光秀を「知識側の偏り」に対する者として(「経験」−「体系化」−「知識」の者でないとして)ある面で軽視していた事が伺えるが、黒田勘兵衛は認めていた。
当然、家康は本人が「長」としての「経験」−「体系化」−「知識」を偏り無く成し、性格的にも合致していた事から全て側近はこの型の者を配置したし、「経験」型のものは実践部門に配置した事が読み取れる。

信長は「経験」型の偏りから、「実戦型」と成ろう。
秀吉は「経験」型の標準から、「実戦型」+「術策型」と成ろう。
家康は結果視として「経験」−「体系化」−「知識」から「権謀術策型」と成ろう。

この家訓8は言い換えれば別の意味で、"「長」としては「個性型」を避けよ"と云っている事になる。("「経験」−「体系化」−「知識」"とはっきりと明言している。)
避けなくてはならない理由は、当然、家訓からすると後の人物であるが、"信長−秀吉であるな"と云っているのであるが、この事について他の家訓3で明確でも云えている。
つまり、「個性的」である事は結果として「人」「時」「場所」の三相に左右されるからだ。
その「経験」を「体系化」せずにすると「偏りの個性化」が起こる。その個性は「ある人A」に対してよい効果を生み出すが「ある人B」に対しては逆効果と成ることが起こるからだ。信長−秀吉の例に成る。「時」「場所」も"推して知るべし"である。
"未来永劫に子孫の繁栄を願う場合には、これをリードするに「長」としては好ましくない"
これは個人の単位での事として良いのであればそれも良いであろう。しかし、この訓では個人ではない。あくまでも「長」なのである。
然しながら、筆者は大なり小なり"「長」に限らず斯くあるべきだ"と考えている。
現在の様な「個人」を基盤として尊重し、その連携の先に集団結束を目途とする「個人主義」の時代にあれば「個性的」を賛美され「良し」としているが、日本人にはこの思考原理は「違う」と考えている。
これが仏教で言う"「刹那主義」に偏りすぎる。"と云う点である。
家訓8の「裏意」として、「経験」−「体系化」−「知識」の線上に於いて、この「刹那主義」を排除せよ"としている事が云える。
その根拠は"人は男女一対で成り立っている。"と云う事である。
その「男女一対」は更に「家族」を構成する。そしてその「家族」は「親族」を構成する。「親族」は「一族一門」を構成する。この原理はすべて「男女一対」の「理」が成立しその中にある。
決して、「単数」「個人」の「理」ではこの構成は論理的に成り立たない。
「単数」「個」だけでは子孫は生まれず決して拡大しない。「人」のみに限らずこの世の「万物」は「相対の原理」と「一対の原理」に依って成立する。
この家訓ができた時期には、この「個」の上に無く長い歴史の中で日本の歴史と文化と思想は上記の根拠(「男女一対」−「家族」−「親族」−「一族一門」=伝統)が醸成されて来た。そしてそれが国民の遺伝子的な思考基準と成っている。所謂、現代用語で「チーム」、古代用語で「族」で事を成そうとする癖がある。つまり、「複数の原理」の社会である。
ところが、この「複数」の社会の中に、突然に「単数」「個人」「個性的」を最高視し標榜する国の思想が流入した。この標榜する国の考えが悪いと云うのではない。それは「その国なりの形」でありそれでなくては国は成り立たないのであろう。ただ、日本という「国に於いては構成上の条件」としては決して好ましくないと云う事なのである。
「個人主義」仏教で言えば「刹那主義」と見なされる易い思考が蔓延したのである。
上記した「遺伝子的な思考基準」が醸成している2000年以上の社会の中に、200年にも満たない「然程の伝統」「然程の祖先」も持たない国の思考基準が混在して来たのである。

{「遺伝子的思考基準」=「複数の原理」}><{「個人」「個性的」「個人主義」=「単数の原理」}

現在ではその間約100年で「複数の原理」<「単数の原理」の状況の中で矛盾が生まれ社会問題化していると考えられる。
しかし、反面、「然程の伝統」「然程の祖先」でも200年も経過すると先祖が形成される様になり初めて日本の様な「初期的な伝統」が重んじられる社会風土が出来つつあると云われている。
その一つの現われとして、「ルーツ探し」が大ブームと成っていると云われていて、日本の様な「チームの重視」「族の重視」に思考が傾きつつあると云われている。
端的には云うと今までの彼等の観光目的とは異なり、日本の彼等の観光目的はこの稀有な「伝統の確認」に変わりつつあるとされている。彼等はこの経済大国と近代的な世界有数の国、トップのノーベル賞や最先端の科学技術立国の社会の中に「何故、伝統の美が融合するのか疑問」があり、その「融合力」に驚いているという事らしい。未開発国のそれとは別に観ていると言う事だ。

そもそも元より世界稀有の国として、日本民族は7つの民族の「融合」であり、その「融合」を「遺伝子的性癖」とも云われている事から、何時かこの「刹那主義」に近い「個人主義」から何物かを融合して日本独自の「複数の原理」+「単数の原理」=「中間子の原理」を生み出すであろう。
米国がそうである様に今丁度その最中であろう。

参考に日本の融合過程は、古墳時代の融合は別として、先ず飛鳥時代と奈良時代初期に第1陣の大量移民が起こり、大化期初期に第2陣、奈良末期に第3陣、平安初期に第4陣の民族の大移動が西と北で起こった。然し、平安初期の桓武天皇の時代の律令国家完成期の800年頃には「帰化人」「渡来人」の言葉は書籍から消えている。「遠の朝廷」「錦の御旗」の称号を与えられた「大蔵種材」の時代にはこの移民は禁止して「大宰府大監」は押さえ、北は大蔵氏の兄の坂上氏の「坂上田村麻呂」の「征夷大将軍」がこれを完全に抑えた記録がある。450年から800年の350年で完全融合した事を意味し、900年までの100年で民族は「単一性」を成した。
200年後の650年代大化期では融合の終焉期であった筈である。記録にもそれなりの表現がある。当然に、民族が移動する事は思考も流入されていた事に成り、その最たるものとしての「司馬達等」による「仏教」の伝来で証明出来る。
だとすると、民族の移動は無いにしても思想の流入はあったから、それだけに、明治初期から始まり昭和20年とするかは時期設定には問題であるが、新しい思考原理が侵入して来たこの期間を80−100年とすると、170年後の今ここで家訓8の検証とその問題提起が思考原理の融合が起こり始めている中ほどの時期と観て重要な事であると考えている。
そもそも科学物理の「中間子理論」関係の発見が続いているがこれすべては日本人なのである。
中間子はや中性子は+と−を融合させるファクターであるが、それを発見し続けている日本に於いて日本の「思考の融合」は先ず間違いは無いであろう。次ぎの子孫の代には完成するであろう。
その為にも、家訓8を書き記しておく事の意味は大きいと考える。

何をか況や、先進国の彼等が驚く「融合力」は取りも直さず「経験」−「体系化」−「知識」から起こる「本家訓8の創造力」に他ならないのである。
つまり、”「創造力」は「経験」−「体系化」−「知識」の力であり、即ち、日本固有の「融合力」に等しいのだ。”と解いている。

「融合」とはA+B=Cと成る。しかし、この式の過程には何がしかの因子Xが働いているだろう。
自然科学では「中間子」なるものが働き、更には、「中性子」なるものが働いている。
そして、この両者のエネルギーのバランスをとり続ける。
とすると、AとBと「融合」が成し得なかった民族融合の要素として「中間子」が働かなかったことに成る。つまり「拒絶反応」が働いたことに成る。
日本の「融合」はその「拒絶反応」の逆の事が起こったことに成る。
”ではそれは何なのか。中間子は何なのか。”又疑問が湧く。

AとBが「融合」するには、その数多くの過程で色々な事が起こるであろうが、先ず、融合に依って何らかの良いことが起こり、良い事の「融合の経験」が繰り返される。そしてその「経験過程」で「信頼」が生まれる。この「信頼」の元となる「経験」が数多く繰り返され人は「学習」をする。
この数多く繰り返される「学習」から何らかの「体系化」の「知恵」が働くだろう。
そして、そこに「知識」の「知恵」が生まれ、「経験」では「伝達」を成し得ないその「知識」と云う「共通媒体」で次に正しく伝える。そして、その「正しさ」の結果、「高い信頼」が生まれる。
この事が繰り返されての「信頼」に裏打ちされた厚味のある「知恵」と成り、より「確率の高い融合」は完成する。
日本は「7つの民族」と云う途轍もない数の融合である。世界を観ても、たった300年という短い期間では普通の融合の条件では成し得ない。しかし、そこにはこの「信頼」と云う確固たる「醸成手段」が出来上がる。この「信頼」が「中間子」である。信頼は(+)右の人と(−)左の人を結び付ける。

この事は明らかに正しく「経験」−「体系化」−「知識」である。
”この事が何故に日本人に成し得たのか”またまた次ぎの疑問である。

それは、現在に於いても「科学技術」や「文化芸術」でも「創造力」を駆使して遥かに他を抜いている「日本人の特質」に他ならないのである。2000年もの期間を経過してでもこの特質は変わらない。つまり、「融合」と「創造」は「遺伝的特質」に他ならない事を証明する。
”「中間子」を働かせる力が強い”と云う訳である。言わずもがな自然物理の「中間子」や「中性子」は日本人の発見である。
「長」の「体系化」は配下に「信頼」を生むと論じた。そうすると、次ぎの数式が成立する。

「中間子」=「信頼」=「体系化」

この「経験」−「体系化」−「知識」、即ち、「融合」に働く「中間子=信頼=体系化」に裏打ちされた「創造」が日本人の基盤にあり、ここが外国の「個」の世界と歴然と根本から違うのである。
故に、この理屈からすると”自らに無いものを求める”のも、そして、”それを融合する”のも日本人の特質と云える。それでなくては「日本人の融合論 創造論」は論理的にあり得ないことに成る。
故に、”「個」の侵入は心配いらない”と成り、それ故にそれに惑わされた”「刹那的な夢」の吹聴は良くない。”としている。
それよりも、この「家訓8」は取りも直さず”「中間子」を見つけ働かせよ。さすれば「知識」が生まれる”とのこの事を解いている。

「融合力」=「経験」−「体系化」−「知識」=「創造力」
「知恵」=「体系化」+「中間子」
「知恵」=「創造力」=「融合力」

この数式間には目に見えない「何らかの中間子」が作用している事に成る。
正しく「核理論」そのものである。
その「中間子」は諸事事象によって異なるであろう。「中間子」が発見されれば「体系化」が起こり「知識」となり末には「知恵」と成る。そして、その「知識」は「伝達手段」として正しく継承されるもの」と成るのである。

”「経験」が浄化、或いは整流されて「知識」「知恵」になり伝わる。”と解ける。

日本の国全体に於いても然ることながら、故に青木氏に於いても「家訓8」である事が頷ける。
故に、古の家訓でありながらも、この事は家訓1の真意でもある。
取りも直さず、仏教ではこの事を説き、"「個」「単」から思考する「刹那主義」を「悪」とし排除せよ"としているのであろう。理解できる。
故に、日本社会に於いて行き過ぎた「個」から発した思考規準は現在は尊重されてはいるが、余りの「個性的思考、性癖」により大きな「偏り」を起こす事を好ましくないと観ているのである。
それはその「事象」により「経験」を卓越し「名人」「匠」と成り得るには「個性的」を強く求められる事もあるが、それはそれで「名人」「匠」の範囲であれば、必要以上に「体系化」−「知識」の線上に無くても良いであろう。
むしろ、彼等が「体系化」−「知識」の線上にあると「名人」「匠」と認めない不思議な風潮が日本社会にはあるだろう。「中間子」が存在する割り切れない思考として。
これは取りも直さず、”「名人」「匠」は「長」又は「石田三成」「明智光秀」「諸葛孔明」「黒田勘兵衛」の「権謀術策」側にあってはならない”とする日本人特有の区分けの思考であり、裏を返せば、この「家訓8」の「経験」−「体系化」−「知識」の思考がある事を証明する。
ただし、「家康」も「個性的」とするかは「経験」−「体系化」−「知識」の線上の何れの「位置と量」にあるかに依って決まる事になろう事は頷けるが、家康は歴史上最も偉人伝の人物の中ではこの「家訓8」に「典型的」ではない「標準的」に相当する人物と見なされる。

この何処に規準を置くかも「中間子思考」の所以であろう。其れはそれで良い。そうでなくては凝り固まっては「融合」「創造」は働かない。

「融合」「創造」は正しく「色即是空 空即是色」「空不異色 色不異空」である。

平たく云えば、”頭を柔らかくせよ。(融合) でも考えよ。(創造)”である。
禅問答である。

筆者は青木氏を研究する雑学の中で、この「経験」−「体系化」−「知識」の線上で「偉人伝」なりを観ているが、人物の「生き様」がより立体的に観られて面白いし、意外に大発見の糸口に繋がる事が多いのである。
その中でも、偉人伝の人物の生き様も然ることながら、この家訓8は特に「長」のとるべき姿として論じているが、この「体系化」には別に誰しもが人生で経験する事、即ち、「スランプ」の原因とも成り、そこから「脱出」する答えでもあると考えている。
スランプは、「経験」−「体系化」−「知識」のプロセスの中に起こっている。
「経験」を長く続けると必ずスランプに陥る。然し、このスランプは「経験」だけに留まり、その中で長くそれに頼り生きる「能」を身に沁み込ませてしまう。その結果、この「経験」を活かしての「体系化」に怠り、足踏みしてしまう事がスランプである。前に進まない。「経験」を活かして「拘り」「偏り」を排除して「体系化」を成せば「知識」として身や脳に集約され、更なる「進化」が起こるのである。
スランプの中でも”前に進む”と言う事である。
このプロセスの中で「体系化」を怠った結果スランプなるものが起こる。
つまり、「体系化」を成せばスランプから脱してより一段上のものを獲得する事が出来るのである。
経験中になかなか「体系化」の行為は難しいだろう。
”どの時点で「体系化」を成せば良いのか”の疑問も残るだろう。
その答えは「スランプ」に落ち至った処と観ている。即ち、「スランプ」は「スランプ」では無いのである。
「スランプ」はこの「体系化」するポイントなのである。その「体系化」には「拘り」と「偏り」を見つけ出す時間が必要である。この時間が「スランプ期間」なのである。
人生はこれを繰り返して行く事であるが、その「スランプ」の「期間とレベル」は次第に小さいものと成り得る。但し、「体系化」をして「知識」に移す事で。

”この世の中に「進化」せずして生残れるものは決して無いない。”周囲は途絶える事無く「進化」しているのである。自らもそれに合わせて「進化」せずして取り残されるは必定である。
「進化」の手段「体系化」を怠れば留まるしかないのである。
冒頭からの上記の論説は「長」の誡めに限らず”よって件の如し”である。
「長」のスランプを避け、尚且つ「長」はこのスランプ対策のそれを超える処のものを要求されているのである。「長のスランプ」は取り扱いに依れば一門の滅亡を意味する。
「長」は常に「体系化」を無し、自らの「資格」を獲得し、「スランプ」も起しては成らないのである。
それには、家訓8の戒めを護る以外に無い事を諭している。

話を戻して、だから、この様な事を多く積み重ねる事で「生きる力」「望み」「希望」「目標」は内側から醸成されてくるものであり、「暗中模索の夢の発揚」方法にも賛成できない。
仏教でも説いているが、上記で論じた「刹那思考」や「刹那主義」からの考えや行動を戒めている。
しかし、「刹那思考」や「刹那主義」をマスコミでも大口を開けて怒鳴り喧伝しているが、今だ未だ社会は上記に論じている様に「融合」の中期過程にあるのだろう。
これからは上記した時代の厳しさは増すと共に、そこから逃げようとする「その場凌ぎの思考や行動」がより起こるであろうが、故に誡めて、この”「長」のみならず人は「刹那思考や行動」に陥ち至っては成らない。”としている。
故に「長」でなくしてもこの家訓類10訓とりわけ「家訓8」は以上の様に解説して末裔に伝え守り通さなくてはならないと考えている。
そのためにも、平成に掛けて家訓添書の解説を時代に合わせて、状況に合わせての再編集を行い遺す事をした。

家訓8を取り纏めれば、次ぎの様に成るだろう。
家訓8の添書(悟る事)

「術」=「知識」=「判読力」
「能」=「経験」=「体験力」

「技術」の構成=「知識」>「経験」
「技能」の構成=「経験」<「知識」

「経験」−「学問化」・「体系化」−「知識」=進化過程
同事象の進化=「能」+「術」=「経時的変化」

”「術」は進化した事になるので「能」の段階に留まってはならない。”
”「長」はこの進化の「術」の把握に努めなくてはならない。”
”「長」は常に確立した「新しきもの」を求めよ”
”「長」はこの努力をせよ。「能」を体系化せよ”
”「能」の段階の「匠」では「長」は務まらない”
”経験をして「能」を極めて進化させて「知識」の「術」を会得せよ”
”「匠」であっては「長」としての指揮に間違いを生じさせる”
”ある程度の「経験」の「能」を会得し、「知識」の「術」に進化させて、その「知識」の[術]で以って正しく指揮せよ。”
”「経験」から「知識」への過程を「創造」せよ。”
{「経験」−「体系化」−「知識」}=「過程を創造する」
”自らの「努力」と「思考」により得よ”(A)
”「自らの努力又は思考」に依って得られた時、「長としての務め」は果たせるし、その「創造」の効果は生まれる”(B)
”この「創造」は家訓10訓を会得する「糧」又は「力」に成るのだ”(C)
”「創造力」は「経験」−「体系化」−「知識」の力、即ち、固有の「融合力」に等しいのだ・。”

家訓8の教訓(解く事)
”「夢」を叶えるとするならば、「能」「経験」だけでは駄目なのだ。”
”「長」としての「行動の品質」の「格」が醸成される。”
”「品格」は「配下の信頼度」が「長」をその様に仕立てる。”
”「長」としての「品格」「風格」は自らが作り出せるものではない”
”「長い多様な経験」=「体系化した多様な知識」=「人格」=「品格」=「風格」”
”「家風」即ち「伝統」が醸成されると、「一族、配下」は「的確な行動」を起す”
"「捻くれ思考」は「体系化」「学問化」の努力でこれを打ち消せ"
”「長」は「常人」でありながら「常人」であっては成らない。”
"「体系化」−「知識化」で人との不必要な摩擦が避けよ"
"「長」としては「個性型」を避けよ"
”「個」「単」から思考する「刹那主義」を「悪」とし排除せよ"
”人は「刹那思考や行動」に陥ち至っては成らない。”
”「中間子」を見つけ働かせよ。さすれば「知識」が生まれる”


  [No.291] Re: 伊勢青木家 家訓9
     投稿者:福管理人   投稿日:2013/02/22(Fri) 11:37:20

>家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
>家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
>家訓3 主は正しき行為を導きく為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
>家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
>家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
>家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
>家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
>家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
>家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
>家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず。

家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)

>家訓1は「夫婦の戒め」
>家訓2は「親子の戒め」
>家訓3は「行動の戒め」
>家訓4は「性(さが)の戒め」
>家訓5は「対人の戒め」
>家訓6は「人間形成の戒め」(長の戒め)
>家訓7は「品格の戒め」
>家訓8は「知識経験の戒め」

「家訓9」は「煩悩」である。「和武の戒め」
「家訓8」までは人間の外に出て来る性(さが)であった。然し、この「家訓9」は人間の内に秘める「性」で何とも難しいものであろう。
なかなか理解に苦しむ家訓である。仏教で云う「煩悩」を説くのであれば何も家訓にしなくても仏教の教えを説く文献を見れば済む事でもある。
それをわざわざ家訓にするのは変である。何かの意味を持っているからこの「煩悩」と云う難しいものを家訓にしたのであろう事が判る。
果たして「煩悩」を家訓としているのだろうか。率直に疑問を持つ。
それをこの家訓書から読み採る事が必要であり、家訓書に添えられた短い添書から一時一句逃さずその字句の持つ本質と云うか語源と云うかを理解して本来の先祖が言いたかった事を読み取らねば成らない。
それには、その家訓とした時代背景や過去の社会環境や青木家の慣習や仕来りや掟を充分に知り理解を進めねば成らない事に成る。一朝一夕では成し得ない事を匂わしている。
実は、この「家訓9」には若い頃は、時代背景や過去の社会環境や青木家(氏)の仕来りは充分に知り得ていなかった為に、”何を大げさな、意味の無い事を”と思っていた。
然し、青木氏の慣習や仕来りや掟等の雑学や、自分の人生経験を重ねる内に何となく判る気がして来た。それでも、”変だな”云う感覚が頭の何処かにあった。
当然に、筆者の性格上から「仏教」と云うものを勉強し始めた。何も入信した訳ではない。入信したからと云って「仏教」が判る訳では無い筈である。
兎も角も、”「仏教の教典」がこの様に説いているからこの様に理解しろ”で終わる事に成るのが普通である。それは筆者には絶えられない疑問なのである。
技術屋の性癖から ”この様な背景や、この様な人間の性が、この様に脳では働くから、この様に人間は行動するから、人はこの「仏説」を信じろ” で有れば納得する。
それはその仏説が完璧では無くても良く、何らかの「筋道」かその論理的な傾向程度が示されれば、一応は納得するのだが、多くはこれが無い。(従って、人の書いた文献のものでは無く、字句の意味や語源や仏教の持つ意味などの雑学からこれを紐説いた。)
其処で、自分で「論理的な追求と勉強」をする意外に無く、「勉強」と云う事では無く「解析」に近い方法で自分を納得させる。例えば、其処で、その苦労の一端をご披露する。

先ず、「人の生きる道」を説いている教典の「般若心経」に焦点を当てた。その教典の漢字の言語が持つ普通の意味では無く「中味の意味する処」を知ろうとした。漢字の語源等から探求した。
例えば、「色即是空」「空即是色」である。この仏説の漢字の意味だと”何が何だか判らない”事に成る。
其処でこの漢字を解析する事で理解が深まる。以外に論理的であった。
そこで、但し、自分の仏説ではあるが、これを解いた。
そもそも、「色」はこの世の「全て物」には「色」がある。「色」とは物理的には筆者の専門であるので論理性が判る。其処から導き出すと、従って、”「色」とは太陽から生み出されたこの万物(「世の物」)”と云う事で理解が出来る。つまり、「現世の物」、突き進んで「現世」となるだろう。
「即是」には助動詞であるので解析は不要で、次ぎの問題は「空」と云う事に成る。
其処で「色」と同じく漢字の解析に入ると、「空」は”空っぽ 無い”のであるから、「色」からすると反意語で「色」の集積は「黒」を意味する。
”黒は暗闇、暗闇の中には何も無い。”とすると、「黒」が「無い」とすると「暗闇」と成り、「色」のある「現世」に対して「空」は「彼世」と成る。
そもそも、「空」は「黒」で「彼世」とすると、「黒」は論理的には全ての「色」を混ぜ合わした時に起る「色」である。
然し、この世には太陽光の波長光が物に当ると発色する「物の色−1」(BGR)に対して、物に当らないで波長光として残る「光の色−2」(YMC)もある。
彼世から来た「3つの光」は現世の物に当って、「3つの色」と成って発する。これを「補色関係」と云う。
そして、この結果、この世の中は、「物の色−1」(BGR−黒)と「光の色−2」(YMC−白)とで構成されている。
この「補色の関係」にある「色」を構成する「光」に対して補色の全ての光の交わった色は「白」と成る。
(B:青 G:緑 R:赤→ 黒) (Y:イエロー M:マゼンタ C:シアン→ 白) 
とすると、「色」の「現世」は「白」、「空」の「彼世」は「黒」を基としている事に成るから、この世は「全ての物」が存在する「世」である事に成る。
この二つの解析から「色」は「現世」で「白」、「空」は「彼世」で「黒」とすると、「黒」も持つ意味は”何も無い”を意味し、「白」も汚れの無い”何も無い”を意味している事に成る。
”何も無い”では「色」も「空」も同じと云う理屈に成る。つまり、「現世」も「彼世」も同じと云う事に成る。
「色」も「空」も”何も無い”と成り、論理的には”その「本質」が異なる事だけ”に成る。
さて、此処までは解析が出来た。此処からが問題だ。
どちらも、”何も無い”なのだから、「色」=「空」と成り「即是」(=)の言葉で繋がる。
だから、同じ名のだから、”「色」は、即ち、これ「空」成り 「空」は、即ち、これ「色」成り”と訳される。
「現世」に於いて「彼世」とは「白」と「黒」の ”何も無い” の「本質の違い」だけで繋がる事に成る。
この違いは、ただ単に「補色の関係」のみだけだから、「現世」での「本質の違い」に因って起る事柄には、”何も無い”であるのだから、「この世 あの世」ともに同じである。
依って、同じなのだから、同じものを比較して ”事を事更に拘るな” と云う意味を持つ事に成る。 
”「色」がある、「色」が無い 「空」だ、「空」で無い等と、事を事更に言い張って「拘る事」に意味はないのだ。そもそも「拘る事」に問題があるのだ”としている事に成る。
俗に云えば、”「煩悩」を、「煩悩」として起る「諸行の喜怒哀楽」に、事を事更に拘るな” と云うと云っている事に成る。

そもそも、”「拘る事」が「煩悩」の始まりだ”と云う事に成る。つまりは、「拘る」=「我 執」である。
つまり、”「煩悩」はあって良い。それに必要以上に縛られて「拘る事」に意味が無い。”と解いている事に成る。
と成れば、そうすると、「現世の本質」とは”何なのか”も解析出来る。
それは「現世」(この世)では「煩悩」とは、 ”「人」としての「煩悩から起る喜怒哀楽」と云う事に成るだろう。
「煩悩」=「現世の喜怒哀楽」
突き詰めれば、「人」がこの「現世」から「彼世」に移る時に、「現世」に遺されたものはその個人としては「喜怒哀楽」の「過去の思い出」以外には無く、肉体は焼却される事で「喜怒哀楽の過去の思い出」は ”何も無く成る”を意味する。
故に、”「現世」から「彼世」に移る事は「空」による移動にしか無い”とも受け取れる。
只、然し、此処で「万能の神」は、その「現世での証し」として、「人」つまり「子孫」を分身として遺す事を定めて、”現世と彼世の断絶”を ”[「色と空」、「白と黒」の摂理]”により無くした事に成る。
現世から彼世の「移動」は「断絶」では無く「継続」であるとして「即是」と繋いだ事に成る。
故に、「仏教・仏説」では、助動詞の ”即是”の言語を使ったのであろう。

「阿弥陀仏の説」(青木氏の仏説)
「仏」の上位にある「神」は、”この「現世−彼世」(色と空 白と黒)には「繋がり」として絶える事の無い「分身」を置いた事に成る” と解いて、全体の論理性を仏説として用いた事に成る。
そして、この仏説の「分身の部分」は、「人の変化(へんげ)」の「仏」では無く、それを「仏」が云うのでは無く、上位の「神の仕儀」と説いたのであろう。
確かに、この「分身」無くして「現世と彼世」は断絶して「仏説の論理性」が崩れる。
だから、”「我が身」の「次ぎの分身」が現世に遺すのであるのだから、其処には「前の煩悩(喜怒哀楽)」は消え失せて、「分身の新しい煩悩の喜怒哀楽」が生まれるのだから、要は何も変わっていないのだ。
だから、事を事更に拘るな” と説いている事に成る。
「神」が云うのは、”拘るな 分身に任せよ”と成るのであろう。
これがまさしく「浄土宗の阿弥陀仏」を信心する「青木氏の仏説」と成るであろう。
確かに、この世に於いて、この説が納得出来る事がある。(家訓10)

それは、”孫が生まれた時のあの不思議な喜び” は、子供が生まれた時の喜びに対して比べものに成らない様な異質な喜び、嬉しさ、安堵感に似たものが込み上げて来るが、この”子孫分身を遺した”とする本能的な「動物の安堵感」の感動であろう。
つまり、これは「神」が動物に組み込んだ本能 、”拘るな 分身に任せよ”からの感動であろう。
故に、現世の「人生の最終目的」は ”分身を遺す事にあり、「喜怒哀楽」に無い。”として考え、”「喜怒哀楽に無い”とするならば、そもそも、”「喜怒哀楽」から生まれる「煩悩」には必要以上に拘るな”と成る。
況や、”拘るな 先ず分身を遺し、分身に任せよ”とする説に成る。
”分身を遺す事で全ては解決する”と解いている事に成る。
故に、この「本能に組み込まれた達成感」が孫を見て噴出すのである。異質な喜び、嬉しさ、安堵感と成って込み上げて来るのである。
結局、問題は、人生に於いて、「人生観」を ”分身を遺す事に主義を置くか、「喜怒哀楽」に主義を置くか”の差の問題である事に成る。
人生に於いて、「分身を遺す事」><「喜怒哀楽に置く」の関係式が成立つが、ここで、仏教は「刹那主義」として、「分身を遺す事」<「喜怒哀楽に置く」の関係式を戒めている。
然し、「分身を遺す事」に全てを傾ける事は不可能であり、それはまさしく「拘り」である。
”「拘るな」”としている仏説である限り、”全てを傾ける事”は正しく無い事を意味する。
要するに、現世に生きている限りは、人は「喜怒哀楽」に左右される。
然し、”「分身を遺す事」<「喜怒哀楽に置く」であっては成らない” とし、”「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」であるべきだ”と説いている事に成る。
「刹那」の語意の通り、”今”に重点を置いた生き方は、「刹那主義」である。
”「今」を楽しむ そして、その「今」の連続を重ねる。そうすれば、最終は「安楽」に成るだろう” とする積み立ての「加算論」である。この「加算論」=「刹那主義」である事に成る。
”「人」はこの「刹那」に陥りやす動物の思考原理を持っている事が判るが、これでは、”「煩悩の連鎖の道」に陥る” としているのである。
つまり、「刹那」では間違い無く、「今」であるのだから「喜怒哀楽」に翻弄される。翻弄されるから其処から逃れようとして「煩悩の芽」が吹き出す。そして、思うように成らない現世に於いて「煩悩の連鎖」の輪廻が起る事に成る。
故に、”「涅槃への道」には、「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」であらねば成らない。”と説いているのだ。
(筆者は、この「密教の教え 先祖の教え」にも充分に納得し、人生をこの論理で生きて来た。恐らくは1400年にも成る「悠久の歴史」を持つ「青木氏の累代の先祖」もこの教義に従ったからこそ、現在までに子孫を確実に遺し得たと観られる。極言すればこの「一点思考」に集約されると考えている。全てこの論理から生まれると考えている。)

俗に云えば、では、”その割合はどの程度だ”と成るだろう。
そもそも、”「割合」は「拘りの初期発露」だから”、良くないとして、其処は、”人それぞれである。「人生の経験」で会得せよ。” と「古代密教の仏説」(青木氏の教義 浄土宗系古代密教 家訓)ではしている。
この事は「密教の説法」である事の証しとして、「家訓8」でも戒めている。


これは青木氏が「原始仏教−古代仏教−古代密教浄土宗−浄土宗−阿弥陀仏」の信者である事に依って起る仏説と解釈できる。
故に、下記に記す様に、平安期の「宗教論争」の据えに究極の「阿弥陀蔵論」の ”「煩悩」は否定しない”の仏説と成ったのである。
「仏教の原点」(青木氏の教義 浄土宗系古代密教)に戻って見直されたのである。
平安末期からの仏説では人を救えなかったからこそ、”「煩悩」は否定しない” として見直しが起ったのである。
言い換えれば、「古代密教の仏説」(青木氏の教義 浄土宗系古代密教)を実践している「3つの発祥源」の「青木氏」が、悠久の歴史を経て此処まで生き延びていた事を宗教界は見抜き、上記の古代密教の仏説を体現実戦している ”「阿弥陀蔵論」でなくては無理である。”と悟った事に成る。

この”「煩悩」は否定しない”の教示に成った事は、青木氏の「伝統」や「生き様」や「仕来り・慣習・掟」や「皇祖神−子神−祖先神」や「守護神の神明社」の事柄に影響を受けて大きく繋がっている事に成る。
そもそも、「青木氏の教示」は、既に、奈良期から”「煩悩」に勝るべし”であった。
つまり、”「煩悩」は否定しない”= ”「煩悩」に勝るべし”と論じている。

(”「勝る」と云う事は存在を認めてそれに打ち勝て” と云う事であるから「煩悩」を否定しいない事に成る。この事に付いて下記に縷々と論じる)

「青木氏の守護神(祖先神)」の「神」と、「原始仏教−古代仏教−古代密教浄土宗−浄土宗−阿弥陀仏」の「仏」の「2面性を持つ氏」ならではの事である。
この「2面性に関わる氏」は、どんなに「氏」が多いと云えど、即ち、「融合氏の発祥源の青木氏」だけなのである。

この「宗教論争」が、最終は「阿弥陀蔵論」と成った事は、論理的には「神」−「仏」の2面性を持つ「古代密教系の浄土宗論」に落ち着いた事に成る。
青木氏が持ち続けた「古代密教の仏説」の教示が、「最終の仏説」と成り得た事を示唆している。
この様に、「般若心経」の一時一句を解析して行けば「青木氏式の仏説論」が生まれる。
この「青木氏の仏説論」が ”煩悩は否定しない”の仏説の「阿弥陀蔵論」に成ったと云えるのである。

「仏説−煩悩」
其処で、この「般若心経」にはこの「煩悩」の「仏説」がある。
この「煩悩の仏説」を解析して、「青木氏」が説くこの「家訓9」の「解析の糸口」になる事が判る。
そこで、仏教には多くの宗派があり、この「煩悩」の「仏説論」が「質と量の深み」が異なっていて一概に解析出来ない。
「青木氏」はその奈良期からの「悠久の歴史」を持つ事から、「原始仏教」−「古代仏教」−「古代密教浄土宗」−「浄土宗」−「阿弥陀仏」の伝統を持つ事に成る。それを前提として生きて来た。
そして、この「古代密教」と「祖先神」の考え方が融合して一つの「神仏習合の原型」が出来上がって行った。この「神仏習合」の動きは後に3度起こっているが、恐らくは、この「青木氏」の「古代密教−祖先神」の「融合の考え方」が原型と成っていた事が判る。
何故ならば、「仏教と神教」が融合させていたのは唯一「青木氏」だけだからである。
そして、それは「青木氏の菩提寺」と共に、奈良期から始まった「皇祖神-子神−祖先神−神明社」の486社もの各地の建立にあった事によると判断される。
故に、「氏上様、御師様、総師様」と呼ばれていたのであって、民から崇められ慕われていた事が、その「青木氏」の「仏教−神教」(神仏習合」)の生き方、即ち、「青木氏の考え方」に「民の強い賛同」があった事をものが物語っている。
当然に、「武」に頼らず「和」に頼る「生き様」がより「民の賛同」の前提に成っていた事を示し、「氏家制度」の中でも「上下の差」をできるだけ無くした「一族一門とその一切の郎党の生き様」に、「民」は万来の信頼を寄せていたのであろう事が判る。

(この事は研究室での論文で各所で論じているが、「青木氏の守護神」(神明社)では詳しく論じているので参照)

其処で、その事を念頭に置いて、この「古代密教」とする処に何か意味する事があり、この「煩悩」の「家訓9」の解釈の場合に、重大な「隠された意味」がある事が判断出来る。
そもそも、「原始仏教」に通ずる「古代仏教」−「古代密教」は、平安期の「法然」による「浄土宗」が生まれる前の「浄土宗派の原型」と成る密教である。

「煩悩」
この事を前提に次ぎに「浄土宗」の説く「煩悩」を解析する。
この事に付いては「密教」を前提とする「3大密教」(真言宗、浄土宗、天台宗)は自らの仏説を説いて「宗教論争」が起った。
夫々の密教の「有り様」が、その宗派の「歴史的経緯と立場と背景」からその説が異なっているのである。その中でも、「浄土宗派」だけが「原始仏教−古代仏教−古代密教浄土宗−浄土宗−阿弥陀仏」の歴史を持っている。
然し、他の2つの密教宗派とは当然にその仏説が異なる為に「密教の有り様」に付いて、中でも仏説の根本の「煩悩」の取り扱いに関する「宗教論争」は起った。
この「古代密教浄土宗」を継承して来たのが唯一青木氏のみであるのだ。
それだけに消え失せ易い仏説とも成るが歴史的に観ると、「青木氏」に細々と遺されているのは幸いであった。
然し、現在に於いてはこの「家訓10訓」と「守護神−祖先神」の伝統の中にのみである。
その意味で、この「家訓9の短い添書」は意味を持っているし、「青木氏」としてはこの時点で是非に解析しておかなければ成らないものであった。
故に、その基の一つと成っている「青木氏の守護神(神明社)」の論文には全力を注いだ。
もう一つの基と成っている「家訓10訓」の取分け「家訓9」に対しても全力を注いで、現代の浄土宗の根源と成った「原始仏教」の影響を色濃く引き継いでいる「古代密教浄土宗」の一端を、仏説ではない方法で網羅したいのである。

「煩悩の種類」
浄土宗系が説く仏説の「煩悩」とはそもそも次ぎの通りである。
年末には「108の鐘」の音を打つが、これは人には「108つの煩悩」があるからと云われるが、これは次ぎの様に成っている。
「除夜の鐘・百八つの謂われ」である。
人間には、「眼・耳・鼻・舌・身・意」の「六根」がある。
普通は、人間の「五官」(五観と説くものもある)と云って「眼・耳・鼻・舌・身」でものを感じる。然し、仏教の世界では、「意」を加えてこの「六根」の感じ方があるとしている。

先ず次ぎの「三通りの感じ方」があると云われている。
「好・平・悪」
以上の「三通り」とされている。

つまり、判りやすく云えば、善く感じる「好」、普通に感じる「平」、嫌味で感じる「悪」がある。
そして、この「三通りの感じ方」には、次ぎの様に分けられる。
「染・浄」
以上の「二通り」とされている。

つまり、判りやすく云えば、染まった感じ方をする「染」、純粋無垢な汚れの無い感じ方をする「淨」があるとされる。
「好・平・悪」と「染・淨」は厳密にはその説の論調では少し違うかも知れないが、大方この様に解釈される。此処では仏説論そのものを論じている訳ではないのでこの様にして置く。

さて、そうすると、人は、「眼・耳・鼻・舌・身・意」の六根から「好・平・悪」と「染・浄」の違う「煩悩」が起る事になる。
従って、6根の3倍の「18の煩悩」が先ずある事に成る。
次ぎに、当然に「染・淨」があるとするから、18の2倍の「36の煩悩」が起る。
其処でこの「煩悩の現象」が、上記の「色即是空・空即是色」の「仏説」の通りで云えば、「過去・現在・未来」の「三世」に渡り「悩みや苦しみの煩悩」が続く事に成る。
 計算: 6×3×2=36 36×3=108 
以上の数理的計算で「108の煩悩」が生じる。

故に、除夜の「108の鐘の音」は、過去・現在・未来の「三世」の「煩悩の数」だった事になるのである。 
基本的には、「仏説」では「質」を換えて、”人の魂は3世に生きる”としての前提であるので、「108の煩悩」と成るが、この域(過去と未来)は不証明であるので108は、兎も角も、実質は「36の煩悩」がこの世にある事に成る。

(参考 もし「3世」の内、「過去」と「未来」があるか、どうかは、この「世の物理論」では、現在の「光の速さ:3×10の8剰」より少しでも速い「光の様な振動波:光子粒」が存在すると成れば、在る事に成り、「過去の世界」や「未来の世界」に一時的にも観る事や渡る事が出来る理論と成る。光より速く極小の物質が太陽系外から飛んで来ている事は判っている。この事は宇宙には「光より速い世界」がある事を物語っている。「3世」が無いのか、或いは3世を自由に渡れる世界が在る事も考えられる理屈にも成る。)

そもそも、上記で論じた「般若心経」では、「現世と彼世」は「色不異空 空不異色」「色即是空 空即是色」と解いているのならば、「108つ煩悩」の宗教界の論調はおかしい。疑問が起る。
何故ならば、「3世」少なくとも「現世と彼世」の2つの世には、上記に論じた「般若心経の説」であるから、「彼世に於ける煩悩」は論理的にない事に成る。
その理由は”、「質的変化の移動」の世の移動であり、現世に「分身」を置く事による「煩悩の消却」が起る”としているからである。
況して、そもそも、「平安期の仏説」では、”「質」を換えて”としているのだから、「彼世」に移った際には「現世」にあった「煩悩」は「質」が「分身」に成ってそもそも変っているのだから、その自己の「現世の煩悩」は消却されているのであるから「彼世」には「煩悩」は無い事に成る理屈に成る。

因って、奈良期に入った「般若心経の教典」と「平安期の過激に成った教義」とは矛盾している事に成る。
従って、「108つの煩悩説」は平安期以後の仏説と成るが、「108の煩悩」ではなくて、「般若心経」の説では少なくとも「36の煩悩」と成るのが正しい事に成る。
故に、「平安期前の仏説」は少なくとも「36の煩悩」であった事に成る。

そこで、そもそも、下記で論じるが、”「煩悩」に「好・平・悪」と「染・浄」の違いがあるのか”と云う疑問もある。
この様に分けて何の意味があるのだ。
仏教界の独善的な数理論に依る行き過ぎた「学問的発想」であると観ている。
筆者は明確に無いと考えている。
「原始仏教」は兎も角も「古代仏教−古代密教」の時代には、「6根の教義」も無かったと観ていて、下記に論じるが、”「貪欲」「瞋恚」「愚痴」の「3つ煩悩」であって、「我執」から来る「愚痴」が「煩悩の主因の定義」と成っていた” と観ている。
少なくとも、「36の煩悩」が、「密教」としていた頃には「青木氏の教義」であったと考えている。
「古代仏教−古代密教」も、「青木氏の教義」は兎も角も、「36煩悩説」を教義として採用していた事を物語る。

何故ならば、「青木氏」が「自ら建立した浄土寺」に「自らの氏の者」を「住職」として仕えさせ、「自らの氏」に対してその「氏の教義」を「密教」として説くのである。
依って、必然的に「古代仏教−古代密教」は、「青木氏の住職」が「仏教の教典」を「青木氏」らしく理解し、青木氏外には帰依し伝導し得ない密教の体制であったから、「古代密教」は「青木氏の教義」と言っても過言ではないのである。
それが、上記で論じた「般若心経の解釈」の一説と成り、下記に重複する内容と成るのである。

(参考 ”「我が身」の「次ぎの分身」が現世に遺すのであるのだから、其処には「前の煩悩(喜怒哀楽)」は消え失せて、「分身の新しい煩悩の喜怒哀楽」が生まれる。依って、要は何も変わっていないのだ。だから事を事更に拘るな”と説いている事に成る。
これがまさしく「浄土宗の阿弥陀仏」を信心する「青木氏の仏説」である。次ぎの家訓10で論じる)

「36の煩悩」
そこで、この上記「6根」の「36の煩悩」には、果たして、”どの様なものがあるのか” と云う事に成る。
この「六煩悩」は「六波羅密」とも云われるが、次ぎの様に項目として定義されている。

(心所区分 A 副煩悩)
隠の行   表−・話−・編−・歴
遍の行   作 - 触 - 受 - 想 - 思
別の行   欲 - 勝解 - 念 - 定 - 慧
善の行   信 - 精進 - 慚 - 愧 - 無貪 - 無瞋 - 無癡 - 軽安 - 不放逸 - 行捨 - 不害

(心所区分 B 本煩悩)
本煩悩   貪 - 瞋 - 癡 - 慢 - 疑 - 悪見

(心所区分 B)の内訳
小随煩悩  忿 - 恨 - 覆 - 悩 - 嫉 - 慳 - 誑 - 諂 - 害 - 驕
中随煩悩  無慚 - 無愧
大随煩悩  掉挙 - 昏沈 - 不信 - 懈怠 - 放逸 - 失念 - 散乱 - 不正知
不定    悔 - 睡眠 - 尋 - 伺

以上の定義と成る。

これはなかなか漢字の字句の意味や語源を理解しないと難しい区分であるので、簡単に云うと次ぎの様に成るだろう。

「6根の煩悩」は次ぎの様になる。
煩悩    貪 - 瞋 - 癡 - 慢 - 疑 - 悪見

大まかには以上としていて、これを小中大に分け、これに何れにも含まないものとして「不定の煩悩」と分けられている。
この「6根」を後付けで、前2つを「貪欲」、中2つを「瞋恚」、後2つを「愚痴」の「古代仏教-古代密教」の説の「3つの煩悩」と定義しているものもある。
この説では「愚痴」が「煩悩」の「諸悪の根源」と決め付けていて、その原因は「我執」だとしている。

「3つの煩悩」
「貪欲」「瞋恚」「愚痴」
「諸悪の根源」=「愚痴」←「我執」

(これが「古代仏教」の仏説で、古代密教の青木氏の教示の原型と考えられる。)

兎も角も、その解く説は、「独善的な仏教」を前提とし過ぎて普通の論理では一概に納得出来ないが、個々に説明するのは本文の目的ではないので、別の機会として関係するところを概して解いて観る。

平安期の「6根説」は、兎も角としても、「煩悩」に悩む者に説く内容として ”本来、大中小に分ける意味と必要があるのか、聞いてどう使用せよと云うのか” 甚だ疑問である。

この区分の内容を観ると、次ぎの様に分類される事に成る。

「密教説の仏説」(添書内容の解析)
1 人間が本来動物として持ち得ている「先天的な煩悩」
2 人間が進化する事で持ち得た「後天的な煩悩」
以上の2つに区分されるのではないか。

そして、更に、この2つを分類すると次ぎの2つに分類される。
A 1に付いては「我執」から生まれる煩悩
B 2に付いては「知恵」から生まれる煩悩

そして、その「Aの我執」から生じる「煩悩」は次ぎの様に解釈出来る。
「我執の煩悩」 
イ 貪欲系の煩悩 
ロ 瞋恚系の煩悩(しんひ:自分の意に反すれば怒る心)
ハ 愚痴系の煩悩

これが上記の「煩悩」、即ち、「貪 - 瞋 - 癡 - 慢 - 疑 - 悪見」の「平安期の6根の本煩悩」とされるものに成る事を意味している。

従って、仏説では「6根の本煩悩」と記している以上は、(心所区分 A)は副とは記していないが「副煩悩」と成り得る。
上記の「心所区分」の前の4つを(心所区分 A)とすると、この区分域が「副煩悩」として次ぎの様に「知恵」から生まれた「煩悩区分」と成る。

「智慧の領域区分」
1 隠の行 (表: 話−編−歴)
2 遍の行 (意: 触−受−想−思)
3 別の行 (欲: 勝解−念−定−慧)
4 善の行 (信: 精進 - 慚 - 愧 - 無貪 - 無瞋 - 無癡 - 軽安 - 不放逸 - 行捨 - 不害)

(注意 (・・)の個々を解析する事は本論の目的外であるので割愛する)  

1の区分 「智慧」の「隠」の区分は、ある一つの事を表したり、話したりする単純な思考
2の区分 「智慧」の「遍」の区分は、「単純思考」が集約し思・想の固まりと成る思考群
3の区分 「智慧」の「別」の区分は、「思考群」が更に増幅して「形・型」に成る念想・思想
4の区分 「智慧」の「善」の区分は、「智慧」本来の善行で成せる煩悩解脱の行為

「隠」は「表」、「遍」は「意」、「別」は「欲」、「善」は「信」の語意で表す。

この「古代密教説の仏説]では、”「智慧」は「善」であって、「善」は「煩悩」を解脱させ霧消させる唯一もの(行)である。” と定義している。

即ち、この「古代密教説の仏説」では、”「智慧」は「煩悩」ではない。 むしろ「煩悩」を霧消させる”とする位置付けである。

”「智慧」は「煩悩」の裏返しで、「煩悩」の為に「智慧」が有り、「智慧」の為に「煩悩」がある。”としている。
”「智慧」は陽、「煩悩」は陰の「陰陽の関係」(表裏一体説)だ”と解いている事に成る。

つまり、この「古代密教説の仏説」では、”「智慧」と「煩悩」は「智慧」が勝れば「煩悩」は消え、「煩悩」が勝れば智慧は低下する。”と云う事である。

そもそも、”「智慧」と云う本能は、「仏」では無く、上位の「神」が人間に与えた「本能」であって、元来、生きる為に備わったものである”と説いている。(守護神をも持つ氏の説である)
故に、”「智慧」は「煩悩」に勝る事を優先している事に成る。

その上位の「神」が「人」に与えた「智慧、慈愛」を「仏」が何だかんだと云うのはおかしい。「神」は「善」として与えたもので下位の「仏」が、”「善の智慧や悪の智慧、悪の愛や善の愛」がある”と解説する事がおこがましい。
況や、そもそも、この説は、”「神」は「人」に「悪」のものは与えていないのだ。”とする事を忘れて思い上った「平安期の仏説」の矛盾なのである。この「平安期の仏説」の「矛盾の教義」の理屈を認めてしまえば、「守護神」と「密教菩提寺」の「神仏の教義」を合わせ持つ「氏の教義」(青木氏)としては「神」と「仏」の教義は分離して合致し無く名成り、「氏」その者の存在は破壊霧消する事に成る。
因って、「青木氏の古代密教」では、「平安期の善と悪を持つ煩悩説」では無く、「神仏習合」の説、”「智慧」は「煩悩」ではない。 むしろ「煩悩」を霧消させる”とする説であった事が判る。

然し、元来、常に勝るべき「智慧」が、時には病やストレスや考え違い等で低下する事は否めない。
従って、”この低下する現象を仏教は救うのだ” ”これが一義である” と云う「古代密教の仏教説」を説いているのである。
言い換えれば、”「仏教」は「智慧」を想起させる位置にあって、「仏説」はこれを補う”と記している。
この「古代密教説の仏教説」は云わば「装具説」である。
明らかに平安期の「人道説」では無い事が判る。
故に、”「智慧」を使えば「勝る事」が出来る” と説いている事に成る。
本訓の ”煩悩に勝るべし”は”智慧を使え”と云う事で理解が出来る。
(注釈 この「智慧」を使う場合の条件がある。それは”「和の道」で在らねば成らない”としている。)

流石に「青木氏の特典」を活かす事の出来る教えの「密教」であり、「精神論」の判り難い説法より「具体的な教え」である。
そもそも、精神で悩んでいるものに対して、「精神論」で説いている「平安期の宗教論」は納得が出来ない。
「精神」で悩んでいる者に対して、”もっと人間の本質の智慧を出して乗り越えよ。怠けるな、それで無くてはこの世は乗り越えられぬ。これに打ち勝てぬ者は死を待つ以外に無し、これが「諸行無常の条理」なのだ。”の説法の方が納得出来る。”智慧を出せ”である。
そもそも、「智慧」は「神」が与えた「人間の本来の姿」である。
この世は「智慧」をより出さなければ生きて行けないのである。
故に、”「智慧」が解決してくれる”である。”生き抜く為に「神」は「人間」に「智慧」を与えたのだ。” と解釈できる。

(注釈 此処で云う「神」とは、「皇祖神-子神−祖先神−神明社」の事である。)
ここで重要な事は、「青木氏の守護神」(神明社)のところでも解いた「豊受大神」の「物造りの智慧論]と繋がる。

後の「煩悩」の4つは(心所区分 B)とすると、この区分域が現在で云う本来の「本煩悩」として「我執」から生じる煩悩区分と成るだろう。

この「古代密教説の仏説」は、依って、「智慧」と「我執」としている。
そして、その「我執」(本煩悩)から齎される「本煩悩」を「3つの煩悩」(上記イロハ)に分類している。
この「3つの煩悩」の内は、上記の数式論の関係 「諸悪の根源」=「愚痴」←「我執」であって、
上記の「2の後天的煩悩」はこの「智慧」から生まれるが、”この「智慧」は、上記の「陰陽の関係(表裏一体)」に依って「煩悩」としては霧消する”と説いている。
ただ、この一節を要約すると、”「智慧」<「煩悩」の関係が生まれた時は、「1の先天的煩悩」と「2の後天的煩悩」の「2つの煩悩」に強く苛まれる。”と説いている。
その時は、”「6根の煩悩」に苛まれる。”と説いている。

さて、そこで゜平安期の仏説」は、「知恵」に関わるものを「副煩悩的な扱い」としている。
この事は、下記に述べるが、時代の変化で ”「煩悩」を否定しない”とする仏説(阿弥陀蔵論)も存在したが、これは「知恵」に関わる ”「副煩悩」を否定しない” 、”(心所区分 A)を否定しない” と云う仏説である。

この事は「青木氏の生き様」と、この事から来る「青木氏の家訓9」に大きく関っているので、特に留意が必要なので特記している。

以上の様に、この「古代密教説の仏説」で解析すると何とか解釈出来る。
(この仏説が青木氏に多いに関わる)

「6根の本煩悩」
さて、”「煩悩」とは如何なるものか” を「古代密教説の仏説」で対比して検証して見たが、此処からの問題は、「平安期の6根の本煩悩」の6つが判れば更に概容が掴める。

その前に、筆者はこの「6根の本煩悩」は、平安期末期の「宗教論争の結果の産物」と観ている。
恐らくは、当初は上記の「古代密教説の仏説」であったと観ていて、「煩悩論争」の結果、上記の「我執の煩悩」(イロハ)に付いて、宗教界がヒートアップして、 ”「1の先天的煩悩」の「Aの我執煩悩」では説明が付かない” として、以下の「本煩悩説」を付加えたと観ている。

つまり、「古代密教」前(原始仏教−古代仏教)の仏説では、宗教界は荒れ始めた時代性から考えて納得出来なかったのでは無いかと検証する。”穏やか過ぎる”と観て採ったのであろう。
これは宗教界の中の範囲の「学説的煩悩説」で、この「6根」に分けたからと云って、宗教界外では意味の無い事である。
”「煩悩」はあくまでも「煩悩」であって、その「煩悩」が3つあって、その「3つの煩悩」の内の「愚痴」が「煩悩」の「悪の部分」であって、それが「我執」から起る。そして、それを「智慧」が勝れば「煩悩」は霧消する。”で充分な仏説である筈である。
それが6つに成っても、幾つに成っても、「煩悩」は「煩悩」と捉えるのが「民衆の思考の範疇」である。
所謂、「平安期の仏説」では、現在で云う実行性の無い「学説論」と観える。
要するに平安末期以降の「後付け論」である。
同じく、「本煩悩と副煩悩」も同じ平安期の「後付け論」である。

兎も角も、「6根」に付いて一応概容を論じて置く。
「6根の本煩悩」
「貪 - 瞋 - 癡 - 慢 - 疑 - 悪見」
「貪」は、「貪欲」に代表される様に、「貪」は”むさぼる”の意として”非常に深い”の意を持ち悪意に批する語である。
「瞋」は、人の「慎」で”つつしみ”に通ずる意で、人としての”つつしみ”を超える欲に左右されて仕舞う本能である。即ち、つつしみから外れ「攻撃する本能」である。
「癡」は、人に「猜疑心」を持ち、その事に全てが左右され病的に陥る本能である。
「慢」は、「自慢・傲慢・慢心」に通ずる意で、人として、”わきまえ”を超える欲に左右される本能である。
「疑」は、人は「疑心暗鬼」と成り、必要以上に人を「疑う心」に左右されて仕舞う本能である。
「悪見」は、人を「善」と見ず「悪」と観て思考を何事に於いても構築しようとする本能である。

この「6根の仏説」の俗説解釈では以上と成る。

其処で、注意しなければ成らない事がある。
これ等の仏説は、時代の背景毎に変化して行く事から一概に定説や定義とし難いが、平準して現代的表現からはこの様に成ると考えられる。

(平安期−鎌倉期の時代を背景して、社会環境の中に「宗教力」が強く持った為に、この「独善性」を持つ仏教説では、独善性に陶酔して上記の様に無意味な論説が蔓延り、論説が何が何だか判らない。他の宗派の仏説はこれ以上であり、学僧で無い限りは解らない。)

恐らくは、代表的な時代とすれば、平安末期から鎌倉期を通じ、更には室町期末期までの「下克上−戦国時代」には、この6つの全ての「煩悩」が左右して1期に「人の心」に露出して「世の乱れ」と成ったものであろう。
この様に「時代」に依って、これ等の「解釈や教義」は、変化して宗派毎にもその重きを置く教義が異なりより深く追求されるように成り、人の階層毎に「仏説の変化」を大きく遂げた。

(上記の「古代密教の教義」は「青木氏」によって延々と伝承された。換えなかった、むしろ、”換えられなかった” と云って良いのではとも考えられる。
「3つの発祥源」の立場と守護神との「習合の状態」であった事から、換える事は「習合」が破壊する事、即ち、分子結合を破壊する事と同じ作用を起し、「氏」が解体する事が起るからである。
そもそも「氏の根本的な考え方」が違っていた事が基に成る。)

「共通する教義」
事程左様に「煩悩」とは、異なる宗派の教えるところを種々の文書から研究すれば次ぎの様になるだろう。

その慨しての「共通する教義」では、その論調から考えると次ぎの様な共通項が生まれる
 ”「身心」を乱し悩ませ「智慧」を妨げる心の働き” の言葉で定義される。
これが常識と成るであろうことが読み取れる。

因みに「禅宗」ではこの様な問答が多く成されている。「禅問答」で検証されていて納得出来るところが多い。
この「共通する教義」の「智慧」の「知恵」とは、そもそも、”「知恵」には「正悪の知恵」がある” とした時代が平安期以降にあった。
この「悪」に区分される「知恵」の扱いが、時代毎の諸行の変化に合わせて異なっている事に成る。
それが宗派の違いとして露出しているのであろう。
むしろ、この「知恵」に関する「悪」を「煩悩」としない教義もある位で、「知恵」とするものでは「善」としているのは「古代宗派」に共通する考え方に近い。
この「古代宗派」には、「知恵」には「悪」(煩悩)の「知恵」は定義されていない。
故に、この「知恵」は「古代宗派」では「智慧」として表現しているものである。
そもそも、「恵・慧」の語意には、仏教では夫々「施」と「慈」との意を持ち、「恵」は主に”めぐみ・ほどこす”に意を持ち、「慧」は「慈」に意を持ち「愛」に通ずる語意であろう。
然し、平安期の仏教では、”「愛」は現在の「愛の語意」とは異なり、「悪の愛」の意味も持っていて、「愛」は必ずしも「善」としてはいない” の事に注意が必要である。(「悪の知恵」もある事にも注意)
「乱世の時代性」が「知恵と愛の考え方」に大きく影響しているのである。
この「愛」には「悪愛」があるのは「平安期末期の教義」に観られる。

従って、この「時代性の影響」を受けて、「恵と慧」は全てを「善」とせずに、この「恵・慧」の使い方は古い時代の傾向に「慧」、新しい時代には「恵」が用いられている傾向があり使い分けていたのであろう。
従って、「古代仏教」(古代密教が妥当)の「智慧」の方では、「慈と愛」に通ずる事から「悪」とする教義は成立たなかった時代と観られる。
少なくとも「原始仏教−古代仏教−古代密教−古代密教浄土宗」までの時代には「悪」とする教義は無かった事に成る。
恐らくは、「3大密教の宗教論争」後の宗派、取分け「浄土宗」と成った頃からではないかと考えられる。
故に、平安期の宗教論争の中で「共通定義」とした ”「身心」を乱し悩ませ「智慧」を妨げる心の働き” の「知恵」を「智慧」と書き記したと考えられる。
この文脈からは「智慧」は「善」としている事が判る。
そもそも、”妨げる”の語句は、「善」なるものを”妨げる”から使われる語句で、「悪」で有れば”妨げる”は使わ無い筈で、妥当な語句の文脈と成るからだ。
裏を反せば、後の教義の「知恵」では、「悪」の「知恵」を「煩悩」とする上記の(心所区分 A 副煩悩)の教義も、敢えて使い分けしている事から考察しても、平安末期頃には「悪の知恵」の考え方は徐々に芽生えていた事を物語る。
これは時代が乱れ始めていた、つまり、「人の心」が「煩悩」(猜疑心)に依って「持ち様」が大きく乱れ始めていた事を示すものであろう。
「人」は「人」を信じられなく成っていた。況や、「人」の発する「知恵」(策略・詐欺)を「猜疑心」で危険視していた事を物語る。
この「平安期の仏説」の「悪の煩悩説」(愛、知恵)は、上記で論じた「青木氏の添書内容 古代密教説」の 「2の後天的な煩悩」から発し、「我執から生まれる煩悩」では無く、「Bの知恵から生まれる煩悩](添書の時期は「煩悩」を悪としていない)を、この説に「愛」と置き換えて、”「悪の愛」(悪の知恵)がある” とした論理であり、この場合の「煩悩」は「悪」とする前提に成っている。
これは「平安期の(心所区分 B)」の内訳の「大中小の煩悩説」で観られる様に「悪の煩悩説」であり、最終的に宗教論争の据えに落ち着いた ”「煩悩」は否定しない (煩悩を悪としない)” としての時期までの間の仏説である事が良く判る。

「原始仏教」−「古代仏教」−「古代密教」
さて、そうすると、「原始仏教」−「古代仏教」−「古代密教」ではどの様な表現で定義されていたのかを知る必要がある。
密教の古い仏書の私書籍に因れば、次ぎの様に解釈されている。

”「人の苦」の原因を自らの「煩悩」と捉え、「解脱」による「涅槃への道」が求められていた”

この密教古書でのこの「解脱」に付いては、”煩悩に勝るべし”とした「青木氏の密教教示」(添書)では、”「勝解」と定義する” と同時期に書かれているのである。
この”「勝解」は「智慧」に因る”と「古代密教の教示」と成っているから、要するに、その差は「智慧」では無く、「人苦」に重きを置いた定義である。

上記した「平安末期の共通教義」である
”「心身」を乱し悩ませ「智慧」を妨げる心の働き”

この言葉の「智慧」の一節は、古代密教の「智慧」であった事に成り、この「智慧」は「煩悩」とは定義されていず、むしろ、「善」である「智慧」を”妨げる”とあるのだから、「智慧」は尊いものであるとして「智慧を薦める教え」に戻りつつあった事に成る。
そうすると、密教古書の「人の苦」は、平安末期のこの仏説の「心身」と「類似語」と成る事から、明らかに「類似文」と成る。
文章は違えども、「古代密教」の説への ”「戻り説」に近づいた” 事に平安末期の説は意味している。
そうすると、次ぎの様に時代毎の共通定義は分類される。

[煩悩の共通定義]
A (奈良期)−平安中期説 「人の苦」の原因を自らの「煩悩」と捉え「解脱」による「涅槃への道」
B 平安末期説−(鎌倉期) 「身心」を乱し悩ませ「智慧」を妨げる「心の働き」

「共通定義の変化」
この変化は「奈良期から平安中期」までの期間では、徐々に潜在する「Bの変化」の方向に移動しつつも主の「Aの変化」を維持した。
但し、その「Aの変化」は「Bの変化」の胎動の影響を受けながら「比例的な変化」では無く緩やかな「双曲線的な変化」を来たしていた。
然し、その「Aの変化」がある時期に急激に低下し、それに代わって「Bの変化」が平安末期には突然に勃興して、明らかに「Bの変化」に変身してしまった事に成る。
この「Aの変化」が逆に潜在し、主と成った「Bの変化」は鎌倉期までは維持された。
その変化は、今度は急激な乱世の為に「双曲線の変化」では無く、「放物線的な変化」を描きつつ落下する事無く高い状態で変曲点を維持した。
鎌倉期後ではこの「Aの変化」は低迷し、「Bの変化」は最早、現世に置いて可能な限界に達する際限の無い最大と成った事を物語る。

ところが、この時に、突然に、この最大の「Bの変化」の「ぶり返し」が室町期中期前後に起った事に成る。この時の教義では、「Bの変化」に押し潰されていた「Aの変化」の「Aのぶり返し運動」が爆発・噴水の如くに宗教界の中で起ったと記されている。
恐らくは、宗教界の書籍の記録の変異を調査しているので、一般の武士階級も含む民衆の中にも起こっていた筈である。
これが最終は、上に記する「Aタイプの教義」でも無く、「Bタイプの教義」でも無いと云う形の ”煩悩は否定しない” と云う教義に成ったのである。(これをAxタイプと記す)
「AとBのタイプの教義」では無いとしたのは、「Aタイプの教義」であるのはその通りなのだが、違う一点があるからである。
それは、Aタイプでは、上記の様に、”「解脱」” とする字句を使っているところである。
そもそも、「解脱」の本来の意味とは、”「煩悩」のある事を悟り、この「煩悩」を「人」として無くして克服する事”である。
然し、この「Axタイプ」では ”煩悩は否定しない”と成っている。
この”否定しない”は、”肯定もしないが、「煩悩」の有無に拘らない”とした事に成る。
”「煩悩」があるからと云って、それに拘り、あーだこーだと無理に「解脱」する必要はない”とした事に成る。
要するに ”有無に拘るな 事をあるが侭に捉えよ” と説いているのだ。

ところが、そもそも、平安初期から中期頃に密教浄土宗外の宗派が説く「Aタイプ」の「解脱説」には矛盾がある。
そもそも、”解脱し得る「資質」がその者にあるのなら、「煩悩」に苛まれない筈だ。 「解脱する資質」が元来、無いから「煩悩」に苛まれるのだ” それなのに”解脱せよ”とはおかしい説に成る。
矛盾している説の様に観得る。

然し、この矛盾は上記の「解脱」を、「青木氏の密教説」の「勝解」と解釈すれば解決する事に成る。
(この「解脱」の反意として「勝解」の意味を持たしていたのかも知れない。「漢文」は「隠意」を旨としているので筆者の能力では苦労する。然し、「青木氏」の先祖がこの書籍を読んでいる筈として考えると、この矛盾点を「青木氏の密教」として「勝解」と正しく定義していた事かもしれない。)

恐らくは、「民への説法」では無く、平安中期頃までに勃興し始めた源氏や桓武平家等の「武家」の台頭に対しての「武」の「煩悩」を見据えた説法であろう。
故に、矛盾が起ったが、民にこの説法をしても受け入れられる事は無い。
「武家」の「密教の説法」である事が判る。

つまり、この「Aタイプ」では無い「Axタイプ」の説法は、上記した「般若心経」の一節の「色不異空 空不異色」 「色即是空 空即是色」のまさしくそのものの「教えの解」である。
重ねて「色不異空 空不異色」に特別な意味を持つものである。
そもそも「般若心経」は古い「原始仏教−古代仏教−古代密教」の教典である。
完全に「Aタイプ、Bタイプ」では無く、日本に「仏教伝来期の教典」の時期の教義に戻ったのである。

では、「Aタイプ」に対して、”何故、この様な「ぶり反し宗教運動」が起ったのか” と云う問題がある。
又、”どの様な階層にこの「ぶり返し宗教運動」が起ったのか” の「2つの疑問」を説いておく必要がある。

「2つの疑問」(「ぶり反し宗教運動」)
結論から云えば、「7つの民族」の融合過程で起った夫々の民族の「守護神の五大守護神」の共通化・集約化が起こり、”仏教(「仏説」)の中に神教(「神説」)が入って来た事” が原因と観られる。
所謂、「第1期の神仏習合運動論」が影響した事に成る。(青木氏の守護神{神明社]参照)
上記の「Bタイプ」が究極に達した結果、「人」はその極限に達すると本能的にその極限から逃れ様として、その「捌け口」「逃げ道」を求める。その「捌け口」「逃げ口」を「仏」では解決し得ない事から既に存在する上位の「神」に「助け」を求めた事に成る。
そして、「仏」を否定せずに、「煩悩」を否定せずに、「神」と「習合」させて「神仏」に助けを求めたのである。
これは明らかに ”否定していない運動” であり、これでは、何れの「民」も、況や、何れの「教義」も抗する事は出来なかった筈である。
故に、「究極の行動」として、突然に勃興した「Axタイプ」に反する物が無い事から ”突然に勃興した”と云う事が起ったである。
当然にこの事から「2つ目の疑問」は解ける。
それは「煩悩」に慄く「全ての民」と云う事に成る。

「浄土宗の経緯」
そこで、この「全ての民」が信心していたこの「原始仏教」が伝来したのは、つまり、「原始仏教」を私伝で普及させたのは、奈良期の「後漢の渡来人」で「阿多倍の職能集団」の第1陣に渡来した「鞍造部の首魁」の「司馬達等」である。
奈良期に大和国高市郡坂田原の草房から「在来民」に布教した事が史実として判っている。
そして、それが「職能集団の技能」の享受をうけた「在来民」を経由して急速に西日本全国に伝播して行ったのである。
そして、その彼の教えは瞬く間に天皇家の「朝臣族」までも広がり、「蘇我氏と物部氏の神仏戦争」と云う乱に至ったのである。そして、蘇我氏と天皇側が勝利し、これをこの直ぐ後の奈良期の皇族賜姓族が自らの宗派と捉えて「密教の菩提寺」を建立して、「原始仏教(飛鳥)−古代仏教(奈良)」を護ったのである。
これが「古代仏教」→「古代密教」として引き継がれ、更には、これが「平安期の浄土宗」の原型としての「古代密教浄土宗」と成り、「阿弥陀仏」を信仰する「朝臣族の皇族賜姓族」の「独善的な密教」として発展したのである。
後に、これを「法然」により体系化されて「浄土宗密教」として確立したのである。
この時には、まだ「密教」であり、「法然の浄土宗密教」は、「独善的な菩提寺」を建立して「特定の朝臣族・宿禰族の密教」として拡がったのである。

(朝臣族系賜姓族の「氏の事情」を鑑みて「古代仏教」を基盤にして「独自の教義」を確立させて、これを「古代密教」なのである。これが更に「古代仏教」−「古代密教」を基盤とした「法然浄土宗」と連携して「浄土宗密教」が確立したのである。)

そして、「浄土宗密教」の法然の弟子の「親鸞」により民の領域まで布教させる為に、この「密教方式」を取り除き、「浄土宗の教義」を緩やかにして「真宗」として、鎌倉期に勃興した「上層階級の武士階級」にまで先ずは拡がった。(後には民にまで広がる)
然し、此処には「原始仏教」−「古代仏教」の司馬達等に依って布教された「初期の民の信心」は消えた訳では無かった。
「民の信仰」は、地に深く潜行して維持された。そして、細々と「原始仏教−古代仏教」は民に依って700年近く維持されていたのである。

(この時期の「民の信仰」は、神に対する「食(ミケ)神」と原始仏教の「仏」とが一体に成った信仰であった。現在の「稲荷社信仰」の原型とした、「神仏」を分けるのでは無く一体として崇めて維持した。
この「神仏一体させた民の信仰」は飛鳥−奈良期の丹波−難波の付近に広がっていた事が遺跡から判明している。)

この民に依って引き継がれた「原始仏教−古代仏教」の信心は、今度はその真宗が類似する教義であった事と、その緩やかに説いた「親鸞の教義」が「民の信心信仰」に合致し、「真宗」の方に流れ至ったのである。
この「教義の根源」(民→「神仏一体」 氏→「神仏習合」)を同じくする「朝臣族の古代密教」と「民の古代仏教」の「2つの力」が、「Axタイプ」の「教義の力」として世に再び噴出したのである。

民→「神仏一体」 : 古代仏教信仰   食神系社信仰  稲荷社信仰の原型
氏→「神仏習合」 : 古代密教信仰   神明系社信仰  

この時、根源と成った「原始仏教−古代仏教−古代密教−古代密教浄土宗」の伝統を持つ「朝臣族の密教」は、今度は「民の信仰」に代わって、逆に「皇族賜姓族」に世に潜行して細々と引き継がれて行ったのである。
逆に「民の古代仏教」は地に潜行していたが、700年後に芽を吹き出し始め世に出たのである。
この噴出した「民の古代仏教」は「親鸞」の「緩やかな教義」に変えて「真宗」へと変化して行ったのである。
何時しかそれが国を動かすほどの「宗教勢力」と成って室町期の為政者(信長−秀吉)を悩ました。
「民の古代仏教」と「真宗勢力」が合体した一大勢力と成って「民」と「下級武士階級」の「信仰体」と成り得た。

(上級武士は浄土宗、武家階級は密教系浄土宗、公家階級は密教系天台宗、武士は密教系真言宗、一般武士と土豪階級は密教としない真言宗等の別派を信仰体とした。密教系派は一族の独自の菩提寺をも各地に建立した。) 

この「Axタイプ」が ”煩悩は否定しない”を前提に変化させて ”「阿弥陀仏の念仏」さえを唱えれば「安楽の彼世」に逝ける”と説いてリードしたのである。
「解脱」とか「煩悩」とか「智慧」とか「悟り」とか「拘る」とか説かずに ”ただ一つ 「南無阿弥陀仏」の念仏一つを唱えるだけで良い。 他に何もするな ただ信ずればよい。”としたのである。これが「民への教義」としたのである。
(他の密教系宗派も「即身成仏」等のほぼ同じ教義である)
「煩悩」を「人の苦」、「智慧を阻害する」として「解脱」(解決・逃避)したいのであれば、その方法は”ただ信じて、念ずれは出来る”と説いたのである。

原始仏教−古代仏教−(神仏一体)−古代密教−古代密教浄土宗−(神仏習合)−三大密教−宗教論争−宗教改革−(教義見直運動)−(大神社信仰 守護神信仰)−部派仏教−浄土真宗−(密教消滅)−(ぶり返し運動)−宗教戦争−大乗仏教−(一般神社信仰)−神仏併呑−神仏連携−神仏合体

「武家への教義」
但し、これでは宗教ではないとして、「法然」−「親鸞」は ”人を観て法を説け 縁無き衆生動し難し”とする「仏法の教え」は曲げずに武家階級には教示したのである。
この「武家への教義」では「民への差別」の事に成る。然し、この時代の前提は「身分制度」の概念があり、何の疑問も無い「仏説の教義」で合った。
然し、これでは「武士の煩悩」に対する教義には成らない。
其処で、親鸞はこの特定の武士階級に対して、”人を観て法を解け” の「仏説の教え」をより進展させて、より厳しい「武士の道」というものを説いた。
この「武士の道」を説く事で「人の苦」「解脱」「智慧を阻害する」の解決策としたのである。
「武士」に対しては、その「武」に対する「立場や役目柄」から、”ただ念仏を唱える”だけではその立場役目は果せない。むしろ、”「武士」の「人の道」として、この”「人の苦」「解脱」「智慧を阻害する」”に耐える事こそに意義があり、耐えてこそ「煩悩」に勝る事に成る”と説いて、”それを成す事が出来ないのであれば、それは「武士」としての立場役目は成し得なかった事を意味する事に成る。
依って、最早、それは「死する事に価する」”と説いた。
(後に、武士の本分を全う出来ない時に採らねば成らないものとして、これが「武士の切腹」と云う戒律として生き続けた。)
そして「人の苦」、即ち「我執」から来る「煩悩」を克服出来なかった時のその死する事は「恐怖」では無く、”{現世と彼世]とは上記の「般若心経」の「心の道」の「色即是空 空即是色」であり、「色不異空 空不異色」の一節”と説いた。
その「心の道」は「人の道」だ「武士の道」としたのである。
そして、その戒律を厳しくした”武士に対してのみ「菩薩様」は護る”と仏説を説いたのである。
この時、武家には真に「神仏連携の運動」が起こり、「八幡社」と合体させて「八幡大菩薩」を「信仰体」として作り上げた。
(朝臣族賜姓族の青木氏−「阿弥陀如来信仰」 朝臣族賜姓族の源氏−「観音菩薩信仰」−後に全ての武士の「八幡大菩薩信仰」となった。)

「朝臣族の青木氏」の古代密教系浄土宗派は、”「煩悩」に勝るべし”として、”勝るにはそれには智慧」を出せ”と説いた。
此処でも「賜姓源氏」と「賜姓青木氏」は「信仰体の教義」が異なっていた。
「浄土真宗」は、「浄土宗の教え」を護り、”煩悩に勝るべし”としながらも、”勝るには「武士の道」を”と説いた。「民」には「念仏三昧」を説いて救われるとしたのである。
然し、この流れは既に平安末期にも起こっており、清和源氏の河内源氏とその未勘氏族に依って広められた「八幡社信仰」が武家階級に起こっていた。[青木氏の守護神(神明社)]を参照
(この「武家」とは「公家階級」に対して「武家」である。)
そして、この武家階級は神教の「八幡社信仰」と仏教の「菩薩信仰」を連携させて「八幡大菩薩信仰を確立させたのである。
この流れが、更に確立されて、「煩悩」から解脱する「人の道 武士の道」の「武士道」を構築して鎌倉期以降多く発祥した「武士の信仰体」が出来上がったのである。
所謂、これが「神仏併呑説」である。

この段階で、次ぎの「4つの信仰体」(宗派ではない)が既に存在した事に成る。

「4つの流れ」
・「青木氏」等による朝臣族の「原始仏教−古代仏教−古代密教−密教浄土宗」(阿弥陀如来仏)を信仰体とし、「皇祖神−子神-祖先神−神明社」とする「神仏習合」の流れ 奈良期から平安中期

・「原始仏教」を信じ潜行していた「民」の信仰体とする流れ(類似する真宗に最終帰依)
「食の神」(ミケの神 トヨウケの神)に通ずる信仰体と合わせ持っていた。飛鳥−鎌倉期

・武家階級の「八幡信仰」と「菩薩信仰」の「神仏併呑」の流れ 平安末期から室町期初期

・武士階級の「真宗信仰」と「武士の道」を説く「八幡大菩薩」「神仏連携」の流れ 室町中期から江戸初期

「4つの神仏の集約運動」
「神仏習合」 神教と仏教が独立しながらも寄り添う様な考え方 奈良期−平安中期
「神仏併呑」 神教と仏教が一部融合しながらも統一させた考え方 平安末期−室町期初期
「神仏連携」 神教と仏教が連携して融合し合う所を一つにした考え方 室町期中期−江戸期初期
「神仏合体」 神仏と仏教が完全融合して一つの形にした考え方 江戸期末期−明治初期

以上「4つの流れ」の時代毎の背景には「神と仏の教えの歩み寄り」が大きく影響した流れが起った。

当然に「我執」を基とする”「煩悩」は否定しない”の考え方がこの流れの主流であった。

この「4つの流れ」は、その基を質せば、「青木氏等の朝臣族・宿禰族」の「古代密教」が基盤として拡大したものであって、その中でも、最終は「賜姓族」の「2つの血縁青木氏」とその「2つの絆青木氏」が主体とした信仰体が基盤と成っているのである。
何故ならば、”爆発噴水”として勃興したのには、「何がしの起爆剤」があったからこそであり、「爆発噴水」の様に、”煩悩は否定しない” とする説の信仰体が突然に生まれる事は無かった筈である。
その「内圧」と成った、「起爆剤」と成った「原始仏教−古代仏教−古代密教−密教浄土宗」の「青木氏の存在」と「その考え方」が、世間に潜行し浸透して行って、「内圧」が高まったところで「爆発噴水の様」を成したのである。
当然に「民の原始仏教−古代仏教」(神仏一体 稲荷信仰の原型)の潜行する動きが根底にあったからこそ起った事である。
その「起爆剤」の大きな「引き金」に成ったのは、「青木氏の守護神(神明社)」に論ずる事であったのである。
況や、486社にも成る「皇祖神-子神-祖先神−神明社」の「神教の教え」が基盤と成ったのである。

「2つの教義」
日本全国各地に存在する「密教の菩提寺」、即ち、「原始仏教−古代仏教−古代密教−密教浄土宗」の「阿弥陀仏」を「信仰体」とする教義
486社にも成る「皇祖神-子神-祖先神−神明社」の神教の教義

この「2つの教義」が上記の「4つの流れ」を作り上げたのである。
この一つと成った「朝臣族・賜姓族」が「2つの習合」を成し遂げていた事が以上の流れを起したのである。
これが日本に於ける「原始仏教−古代仏教−古代密教」が基盤とされる仏説である。
この様に、「家訓9」の「煩悩」を解析して理解する上で、この「4つの流れ」は無視出来ない。
この様に「青木氏に存在する神仏習合の考え方」は、”「煩悩」は否定しない” であっても、当然に平安末期とそれ以降の共通する仏教の定義・教義とは異なっていた事が判る。

”「煩悩」は否定しない”には、「阿弥陀仏の信仰体」に対して「菩薩様の信仰体」、「武家の発祥源」でありながらも「武士の道」の教義を採らず、「和に対する心得」を堅持した結果、「神明社」に対して「八幡社」等の大きな差異が当初から存在したのである。
従って、「煩悩」に関する定義も ”煩悩は否定しない” を前提に、「家訓10訓」は基より「家訓9」は異なっていた事に成る。
では、何処が、どの様に異なっていたかを次ぎに解析する。

「教義の経緯」
そこで、この時代に青木氏は「3つの発祥源」の「融合氏」として発祥した「始祖氏」であるから、そして、「皇族賜姓族」としての50程度の大まかな「慣習・仕来り・掟」にガチガチに縛られていた事からも、ただ単に「新しい時代の仏教の定義や教義」だけにて、この「家訓9」を論ずるには上記の様な問題が多く、真の「家訓9の意」を解析する事は危険である。
別の論文の「青木氏の守護神(神明社)」取分け−19から22に至る段の検証からでも、この「煩悩」対して「智慧の領域」の教義にあった事は納得出来る。
況して、仏教の「古代密教」を継承し、「自然神−鬼道神」に近い「皇祖神-子神−祖先神」の神明社をも「氏の教義」として両方を持ち合わせていたのであるから、「新しい時代の仏教の定義や教義」ではそもそもこの「家訓9」を論じ得ないであろう。

平安時代の「部派仏教」の時代になると、上記した様に、時代に合わせてその解釈を巡って「煩悩」の深い分析が行われた。この事で「宗教論争」が起こり「宗派」が増えたのである。
更に進んで「大乗仏教」の時代でも、この分析は続けられ、特に「唯識」(唯物視論)が示した「心と煩悩」の精緻な探求が行われ、これが「仏教の煩悩」に対する到達した究極点と成った。

(この段階では最早、「仏教の独善性:宗教の力が社会を牛耳る」が強くなり一般的な思考では難解である。宗教界内部の専門教義に委ねる。)

又、この時代には最終、”「煩悩」は否定しない”と云う所まで到達する仏説も生まれ、それまでの仏教には無かった発想も生じて来た。
(所謂 これが世に云う「如来蔵論」である 「青木氏」は「阿弥陀如来信仰」)

「如来蔵論」
この両者の思想はその後の「大乗仏教」の仏説に大きく影響を与えた。
この様に「煩悩の観念」は時代を経るに従い、様々な意味を付加して深化して云えるのだが、問題は「古代密教」、取分け「浄土宗」では無く「浄土密教を教義とする青木氏」で「阿弥陀様を主信する氏族」の「煩悩に対する考え方」は、他の氏と大きな異なりを示していた筈である。
日本全国8000氏の中でも、ただ1氏の「青木氏」のみが「古代密教の浄土密教」を継承していた事に成ると云える。
とすると、果たして、「古代密教の浄土密教」とはどの様なものであったのかは「青木氏」そのものを研究しなければ、この「原始仏教」−「古代仏教」−「古代密教」−「浄土密教」の「煩悩の教義」が明確には成らない事に成る。
それを解明する事が出来るのは、この「青木氏の家訓10訓」、取分けこの「家訓9」に隠されている筈である。
それを上記した共通した「煩悩の教義」を先ずは参考にして導く事で、その差が読み取れて、その結果、この「家訓9」の本意が読み取れる筈である。
当然に、「青木氏の守護神(神明社)の論文」とも大きく関わる事に成る。それは悠久の歴史の中の「青木氏の生き様」を通して明らかに成る事を意味する。

(余談 故に、「家訓8」で投稿を一時止めて、「青木氏の守護神(神明社)」の既に作成済みの論文を再編集して投稿を先行させた。)

「家訓9」
家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩悩)

「智慧の領域区分」(重複)
1 隠の行 (表: 話−編−歴)
2 遍の行 (意: 触−受−想−思)
3 別の行 (欲: 勝解−念−定−慧)
4 善の行 (信: 精進 - 慚 - 愧 - 無貪 - 無瞋 - 無癡 - 軽安 - 不放逸 - 行捨 - 不害)

(注意 (・・)を解析する事は本論の目的外であるので割愛する)  

「阿弥陀仏の信仰体」に対して「菩薩様の信仰体」
「武家の発祥源」でありながらも「武士の道」を採らず
「和に対する心得」を堅持
「神明社」に対して「八幡社」
以上の様な大きな差異が当初から存在したのであるが、更に詳細には差異がある。

そこで、先ず、”「煩悩」に勝るべし”とある。”煩悩から解脱せよ 悟れ”とは当然に云っていない。それは、”「煩悩」は否定しない”の前提にあるからだ。
字句は、”勝るべし”と云っている。
これは、”「煩悩」がある事は人として当然の事である。「般若心経」の一節 「色不異空 空不異色」「色即是空 空即是色」の教示であるから 拘るな”である。
”勝るべし”とは、”「煩悩」に拘るな”である。

この「煩悩」に拘らない為には、”「煩悩」に対しては別に「何らかの術」を以ってそれを乗り越えよ”と成る。それで無ければ、結局は、”煩悩から解脱せよ”と同じ事に成る。

「煩悩」は人間が持つ本能である。それを押さえ込む事の苦労は、「煩悩」から受ける苦労(人の苦労)より遥かに大きい。それを押さえ込む事によるリスクは遥かに大きく、押さえ込んだからと云って人間の質が向上したとは言い難い。むしろ、大きすぎて「捻くれる事」のリスクの方が大きい。
”押さえ込む事”が出来てその質を向上させたとするそんな人間は「神」以外に無い。
そもそも、その「神」とは「全ての煩悩に解脱した万能物」を云う。
”「煩悩」を無くせ”は、”「神」に成れ”に等しい。そもそも”「神」で無いから「人」なのだ”
”「煩悩」を無くせ”の教義は、そもそも「人」に云う教義では矛盾している。
然し、”「煩悩」に勝るべし” とすれば「人」に云う教義としては正等の教義である。
兎に角も、「神」に成る前にそもそも「人の変化」(へんげ)の「仏」がいる。
では、その「仏」は仏説では、”「過去、現在、未来」の3世に生きる”と明言している。
真にそれを「般若心経」に主な教えとして明言している。
真に、「色不異空 空不異色」「色即是空 空即是色」の教示である。
「人」は3世に生きるのであれば、「人の変化」の「仏」は4世に生きている事に成る。
そして、この「煩悩」はこの「仏の教え」としているとすれば、論理的には、やっと「人の変化」の「仏」の「4世の世界」で「煩悩」から解脱出来る事に成る。
これはそもそも論理矛盾でおかしい。
更に「仏教の矛盾」がある。「4世」でやっと悟った「仏」と同じ事を「現世の人」に課せる事には矛盾が起る。
古代の「般若心経」では ”拘るな”と説いていながら、「平安期の前後の教義」では上記した様に「人」に大也小也に「解脱」を要求している。これでは平安期前後の宗教界は「般若心経」を無視している事に成る。
「仏」が「仏」に云うので有れば問題は無い。然し、生の「人」に説いている。
あまりに独善的で学説的な過剰な宗教理論を展開した為に、上記の様な「平安期の仏説」には疑問や矛盾が目立つ。

A (奈良期)−平安中期説 「人の苦」の原因を自らの「煩悩」と捉え「解脱」による「涅槃への道」
B 平安末期−(鎌倉期)説 「身心」を乱し悩ませ「智慧」を妨げる「心の働き」

「般若心経の教示」からすれば、「人」に出来る事は ”「煩悩」に勝るべし”以外に論理的にあり得ない。
筆者は、この ”「家訓9の説」(古代密教説)が正しい” と考えていて、更に、日本に渡来伝来した時の「原始仏教−古代仏教」の仏説教義では、”煩悩に勝るべし”の近い言葉であったと考えているのである。
それは、「般若心経」の教示の通り、当初は ”「煩悩」のある事を知り、然し「煩悩」に拘るな”であったと考えられる。これであれば平安期末期頃の仏説の様に矛盾は起こらない。
況して、”煩悩に勝るべし”では、「勝る」には何かが必要であり、それは必然的に「仏」より「上位の神」が与えた「智慧 知恵」を必要と成る。
大事な事は、”「智慧」は「下位の仏」では無く、「上位の神」が与えた” と云う事だ。
「神」は無意味に与えた訳ではない筈である。「何かの意味」の為に与えたのだ。
答えは決っている。その為に、「神」は「煩悩」を持つ人のみに「解消の具策」として「智慧」を与えたのだ。
この時、人は ”どうしたら勝る事が出来るか”考える。当然に「智慧」を働かせる。
上記した様に「智慧・知恵」は「神」から授かった「人間特有の術」である。
その「智慧の術」を使って「煩悩」に対峙する事で「人」は進化する。
「進化する事」で、少なくとも動物本来の有する「煩悩」からは「解脱」とも成らずとも少なくとも「妨げの助け」(軽安減)と成るであろう。
要するに「軽安減」と成る。つまり、「智慧の術での軽安減」とも成れば「拘り」とは成らない。
これは「自然の流れ」の中にある。むしろ、「人」である限りは「煩悩」とも限らず「当然の仕儀」であり、斯くあるべきとも成る。
だから、次ぎの「心所区分」として「智慧」に付いて論議されているのだ。
”平安期に「心所区分」として定義されている” と云うことは、これは ”「智慧」が何らかの「煩悩」に関わるもので在る事” を認識していた証拠である。
然し、此処では ”「智慧」は「煩悩」を起す要素の一つだ” と説いているのだ。
「智慧」は「煩悩」の「解消の具策」とはしていないのだ。
ここが ”大きな勘違いであった” と「古代密教」は論じているのだ。

ここで、それをもう少し詳しく論じて観る。
上記の(心所区分 A)の4つの「智慧」から齎される「煩悩」
(重複)
1 隠の行 (表: 話−編−歴)
2 遍の行 (意: 触−受−想−思)
3 別の行 (欲: 勝解−念−定−慧)

4 善の行− (信):
    「解脱系」   精進 - 慚 - 愧 - 無貪 - 無瞋 - 無癡
    「勝解系」   軽安 - 不放逸 - 行捨 - 不害

”「智慧」は「煩悩」である” とする「平安期の教義」の上記「4つの煩悩」の中に、「4の善行」の項に ”軽んじる”と”安んじる”の「軽・安」が定義されている。
然し、「4の善の行」の他は明らかに「6根の煩悩」である。
又、「3の別の行」の項には、 ”勝る事から解する” の意の「勝解」が定義されているし、上記した「慈の愛」での「慧」も定義されている。「慧」もあるとすれば同意の「念」もあり得る。

これは「家訓9」では ”勝るべし”としていた事から、「3の別の行」と「4の善の行」の教義に該当しているが、「智慧」を出す「術」を、1の「隠の行」と2の「遍の行」の内容とすれば「家訓9」に該当する事になるだろう。ところが良く考察すると、”該当していない”のである。
その前に、先ず、この「1から4の定義の扱い」を ”違える事” があるからとして、「平安期の学問教義」では「煩悩としての扱い」にした可能性がある。
「平安期の仏教学的教義」では、”「智慧」は「煩悩」である” と認定した上で、「古代密教の教義」では、元は一つであったものを「智慧」をこの様に先ず分類して、「1から3の内容」で”違える事”があるから、だから”違える事”に依って、”「4の善の行」の「煩悩」と成ると、強引に誘引して「仏教学」として説いたものであった”と考えられる。
「4の善の行」の「信」に分類される「前6つ」は、真に「6根の煩悩」類で「解脱系」であり、「後4つ」は「勝解系」とに分類される。
そして、この「4の善の行」の「信」は、”「違える事」”に成るかどうかは、この「信」(信じる事)に関わるとしていて、”「信じる事」の如何に依って「善の智慧」も「煩悩」と成り得る”とする論理としたと観られる。

要するに、”「違える事」にする為の「論理的な理由付け」を見つけ出した”と考えられる。
この無理な「論理的な理由付け」の「後付け論」を観て、そうしなければ成らない「時代の状況」に追い込まれていた事が頷ける。
恐らくは、「古代密教」では、「4の善の行」のみの中に「1から3の内容」を組み込んでいた教義であったと予想できる。
何故ならば、”「1から3の内容」はそれは「智慧」に到達する為の「プロセス」に過ぎない”からである。
現に、「古代密教」を継承している唯一の「青木氏の家訓9」から読み取れる教義では、「3の別の行」に ”勝るべし”、即ち、「勝解」が入っている事が、これを証明している。
確かに、「智慧」はこの「1から3のプロセス」を経て発せられる事は確かである。
然し、それはあくまでも「智慧」の「4の善の行」を成し得る為のプロセスに過ぎない。
このプロセスを経て始めて「智慧」と成り効果を発揮し得る。
即ち、「古代密教」、即ち、「青木氏の教義」では、「智慧」=「4の善の行」 のものであった事が判る。
当初の「古代密教の教義」には「解脱系 6つ」は無かったと考えられる。

そもそも、この未だ「智慧」と云う形に至っていない「プロセス」のものを引き出して ”違える事” として「煩悩」とする説には飛躍が有り過ぎる。
故に、”実用化しない傾向の在る「仏教学の学説論」だ” と、「古代密教 説青木氏の教義内容」の検証と、合わせて「平安期の仏教学的教義」を論評している。
故に、”大きな勘違いであった”と成るのだ。

仮に、この”違える事” がこのプロセスの中であるとしても、それは「一時的な期間の現象」で「煩悩」として見えている事であって、「智慧」の「目標とするある期間の末」にその「智慧の効果」が発現すれば、「一時的な期間の現象」は問題は無く、それは「智慧」とする範疇の中に在る。
そもそも、「智慧」とは、”ある「期間」と、ある「状況」と、ある「人様」の「本質の領域」を持ったものである。
”「智慧」を出したからと云って、直に効果が出なくては成らない”とする定義は仏教にはない筈であるし、そんなものはそもそもこの世に無いだろう。
この世の「森羅万象」の全てものには「醸成領域」と云うものを持っている。例外は無い。それがこの「世の条理」である。当然に、「神」が創造した「人の脳」から発する「智慧」も例外では無い。
これを「一プロセスの過程」で ”「違える事」” 事があるからと云って、「煩悩」とするは「醸成領域」の「世の条理」を無視した事を意味する事に成る。

現に、仏説に「三相の理」と説いているではないか。この「智慧の醸成領域」は、「人時場」の「3つの理」に合致している。「期間、状況、人様」の「智慧の本質領域」である。
況や、”この「世の善成るもの」には必ずや「三相の理」が伴なう。 「三相の理」無くして「善の結果」は得られない”とする仏説汎教でもある。
「古代密教」(青木氏の教義)では、云うまでも無く、「醸成領域」を持つ ”「智慧」は「善」”である。故に、”「善」は「4の善の行」の「勝解」と成る”とする所以である。

「平安期の仏教学的教義」の「煩悩説」には「拘り」が過ぎて他の「重要な仏説」を忘却してしまった説と言わざるを得ない。
真しくこれこそが「般若心経」の「拘り」の見本である。犯しては成らない事を仏説自らがこれを犯している。
況や、「三相の理の仏説」も含めて、”「拘るな」”とする「根本の仏説」をも無視している事に成る。

然しながらも、兎も角も、古代密教の「青木氏の教義」は ”勝るべし”(勝解) としたが、これには何か意味がある。

「家訓9の添書」の文脈から読み採ると、次ぎの様に成る。
「智慧」には”「煩悩」と成り得る「慧」”と、”「煩悩」と成らない「慧」”があるとしている。
「煩悩」と成らない「慧」は問題は無い。(但し、「慧」を「煩悩」とは決め付けていない)
むしろ、この”「煩悩」に成らない「慧」”は、”「煩悩」に成る「慧」を賛く”として断じている様だ。
依って、”煩悩に成らない「慧」”は ”煩悩に成る「慧」”を”減殺する”と論じていて、終局は”「智慧」は「煩悩」と成り得ない”と結論付けている。
依って、文脈の要約を採り纏めるとすると、次ぎの煩悩の数式論的な事が成立するとしたのである。

「煩悩」に成る「智慧」<「煩悩」に成らない「智慧」
「煩悩」に成らない「智慧」−「煩悩」に成る「智慧」=「進化」
「進化」=「勝」

この「3つの数式論」が成立つところに「家訓9」の”煩悩に勝るべし”と成るのだ説いている。
この世は現に進化しているのだから「進化」=「勝」はこの「現世の理」であるとしている。
そして、ここには、一行”「智慧」の「慧」の「慈」を忘却ならず”と付加えている。

この「3つの数式論の智慧論」はどの様な背景であったのかはこの数式論を検証して直ぐに判る。
それは、「青木氏の守護神(神明社)」で論じた「物造りの神」「豊受大神」が証明している。
「物造り」は「智慧の発露」の結果であるからだ。
”「人」を豊かにする「智慧」は、「人」を苦しめる「煩悩」とは到底成り得ない” としているのである。
故に、上記の通り、”「豊かにする智慧」は「善」であり、「慧」は「善」とする「慈」である”としているのだ。
依って、「青木氏の伝統ある教え」は、”「慈」は「愛」であり、「悪の愛 煩悩と成る愛」は存在し得ない”としているのである。

「物造り」→「智慧の発露」→「智の慧は慈」→「慈は善」→「善は愛」→「愛は善」→「智慧は善」 
∴「智慧の煩悩は存在せず」

平安期以降の「愛は必ずしも善と成らず、「悪の愛」があるとする」の教義とは明らかに異なっている。

ここでは、明らかに「教義の前提」が異なっている。
故に、「平安期以降の各種の宗派の仏説」の「智慧の煩悩」(4つ煩悩 心所区分 A)とは論説は異にする。
故に、「青木氏の伝統ある教え」は、「平安期前の密教の教義」である事に成り、この論説は、”「原始仏教−古代仏教」の源説であった” と観ているのです。

「伝統の教え」
「青木氏の守護神」 「皇祖神−子神−祖先神−神明社」の「親神 豊受大神」の「物造りの神」の教えと、上記する「原始仏教−古代仏教−古代密教−古代密教浄土宗」の教示とが「青木氏」の中で習合して、平安期初期前後頃には、この「家訓9」の ”煩悩に勝るべし” の「伝統の教え」が完全に確立されていて、子孫に脈々として伝えられて来た事が判る。
この「家訓9」の「伝統の教え」は、単独で伝えられる事は有り得ず、伝えるには其れなりの「伝達力」を必要とする。それで無ければ今日まで伝えられ無かったと考える。
その「伝達力」に成り得るものは、「皇族賜姓族」と「特別賜姓族」の「2つの血縁青木氏」と「2つの絆青木氏」の「確固たる組織の団結力」に依って支えられて、この「青木氏の教示」たるものが延々と換える事無く引き継がれて来たからに他ならない。
それは、「口伝」のみ成らず、「青木氏の生活基盤の支え」としての「教え」として信じられて来たからこそ「家訓として遺しえた教え」であった筈である。

そして、”この「伝統の教え」には「伝達力」としてのもう一つの力が働いていた”と考えられる。
この「伝達力」無くしては「教えの伝統」に成り得なかった筈である。
そもそも、「伝統」と成るものは、”何でも伝えれば伝わる”と云う話では無い。
「伝わる幾つかの条件」が備わっていたからこそ伝わるのである。
「正しい伝統」に成り得るものは全てこの条件を備えている。

(筆者の物理系技術者の論理では、この世の万物は例外無く「伝統伝達」(この言語に類する全て物)の条件が備わっている。所謂、これは摂理である。
(例えば、分子の構造理論でもこの伝統に類する物を「伝達する条件」が定理で存在する)

その意味から、上記の「青木氏の守護神」の「物造りの考え方」が、この「家訓9」を導いた事は云うまでも無いが、「神仏習合」に至るまでには「物造りの考え方 智慧の発露」以外に「習合」と云う形に至る前に「接着剤」と成る何ものかが無くては「習合」に至らないのでは無いかと考えられる。

 「接着剤」
では、”その「習合」に至る「接着剤」とは何ものか”を検証する。
そもそも、何かと何かが一致したからこそ「習合」と成り得た筈である。
それは、「仏教」と「神教」の間にある共通する「何かの教え」があって、この「世の摂理」として何事もそうである様に、「陰と陽の関係」の様に引っ張られて其処で「習合」が起ったのであるから、それを見つけ出せば良い事に成る。
但し、恐らくは、祖先が「習合」と限定して書き記している以上は、「陰と陽の関係」では無い筈で、「習合」の意味からすると「神仏」の何れのにも「共通する教え」であった事に成る。
そして、それはほぼ「同じ意味する処」を持っていたからであろう。
故に、直ぐに「生活の中の教え」として取り上げられて、”青木氏の大きな組織に「伝統の言」(家訓)として引き継がれて来た”と考えられる。
そして、その「考え方」が「神教側」にも、「仏教側」にも主に「教え」を伝える氏の中に「専門の者」が存在していた事が云える。
そうでなければ、長い間に迷路して違う形に成っていた筈で、「家訓9」の形では遺し得なかった事に成る。
それが青木氏だけに脈々と備わっていた事を示唆している。
従って、その ”「伝達司」(接着剤)と成ったものは何なのか” と考えれば良い事に成る。
答えは、ここでは「神仏」に関わる「青木氏固有の特長」であるのだから、最早、議論の余地無しである。

「伝達司」(伝達子)
「神教側」では、「青木氏の守護神」の神明社の「神職」は「自らの氏」から出している。神職宮司である。
「仏教側」では、「青木氏の密教菩提寺」の「住職」は密教であるから「自らの氏」から出しいる。住職僧侶である。
この条件は完全に備わっている。
この「2つの伝達司」(伝達子)は、何れも「青木氏」にこの教示を説いていて、青木氏に関する全ての「記録と伝達」を職務としている。
当然に、この「2つの伝達司」(伝達子)は、「神教側からの教示」と、「仏教側からの教示」の中で、この「記録と伝統」を同元として教示している事に成る。
そう成ると、この「2つの伝達司」(伝達子)の云う事が異なる事は、「混乱」と成り伝達に値しない事に成る。「神仏の社」を独善的に共有している以上は、異なっていれば「氏」その物が存立しない事に成る。
「青木氏」としての ”「統一した記録と伝統」が双方にある” と云う事に成る訳であるから、「習合する部分」に於いては、「統一した教示の伝達」がこの「2つの伝達司」依って成された事に成る。
つまり、「氏の教示の統一」を神仏双方で教義し議論された筈である。
少なくとも、「青木氏」の「守護神」と「密教菩提寺」が存在する以上は、「伝達司」(伝達子)による「統一した教示の伝達」は成し得た事に成る。
依って、「統一した教示の伝達」の記録より明治期初期までは確実に起こっていた事に成る。

(筆者の「伊勢青木氏」では、歴史上、「奈良期からの不入不倫の権」で明治初期まである程度保護されていた事から、一部では明治35年の焼失もあったが大正14年までの各種の記録が遺されている事でも判る。)

さて、「2つの青木氏に依る伝達司(伝達子 接着剤)」がいるとして、次ぎはその習合するその教示の解明である。

この「家訓9」では ”煩悩に勝るべし” として「煩悩」から逃れられる「術」を会得した。
要は ”「智慧」を使って勝れば良い事”に成る。
そして、その「智慧」は「善」であって「煩悩」では無い事であった。
そして、改めて記するが、次ぎの「3つの数式論」が成立つと説いた。

「3つの数式論の智慧論 仏説論」
「煩悩」を消すには「智慧」として「煩悩」に成る「智慧」<「煩悩」に成らない「智慧」
「煩悩」に成らない「智慧」−「煩悩」に成る「智慧」=「進化」
「進化」=「勝」

「勝」=「現世の理」=「進化」
「智慧」=「慈」=「愛」

∴「智慧」>「煩悩」=「勝解」

「3つの数式論の智慧論」=「青木氏の守護神(神明社)」=「物造りの神」「豊受大神」
「物造り」=「智慧の発露」

「神仏習合論」
∴「物造り」>「煩悩」=「勝解」

「神仏習合の附帯条件」
「物造り」→「智慧の発露」→「智の慧は慈」→「慈は善」→「善は愛」→「愛は善」→「智慧は善」
∴「智慧の煩悩は存在せず」

以上の9つの数式論で、「神仏の教え」は習合した事に成る。

さて、これでは「神仏習合の方法論」では成立つが、「神仏習合の条件」としては充分では無い。
次ぎは、解決して置かなければ成らない事は、この附帯条件の「智慧=慈=善=愛」と成す「智慧の発露の仕方」であろう。
これを解決しておかねば「絵に書いた餅」の論と成る。

「智慧の発露の仕方」
然し、もうお気づきと思うが、これも既に解析済みである。
先ず、「神教」の答えは、「青木氏の守護神(神明社)」−21、22の段で充分に論じた。
「自然神−鬼道神」を起源とした「皇祖神-子神−祖先神」の「無意識の意思」(ミトコンドリヤの意思)を ”「心頭を滅却」して、「人間の善の意思」を獲得する事だ”と論じた。
(「善」論は附帯条件)

そして、「仏教」では、「原始仏教」−「古代仏教」の教示は本文の上段で論じた。
「色不異空 空不異色」 「色即是空 空即是色」
この解析は、簡単に云えば、”俗説 拘るな”であった。
では、”どの様にして拘らなくすればよいか”の条件を解析する。
そもそも、”拘り”は「我執」である。
「煩悩」の元は、「我執」としている「仏説」としては、”「拘り」は「煩悩」ではないか”と云う疑問が生まれる。
然し、密教の「我執説」の「6根」にはこの”「拘り」”は定義されていない。

6根:「貪 - 瞋 - 癡 - 慢 - 疑 - 悪見」

平安期のこの「6根」から観ると、「拘り」とは、この「6根」では、 「瞋」と「慢」に類似する。
然し、次ぎの様に定義される。
「瞋」は、「攻撃する本能」即ち「怒り」として定義されている。
「慢」は、「わきまえ」を超えた「欲」として定義されている。

そもそも、「拘り」は「攻撃、怒り」では無いし、「わきまえ」の限度ではあるが、必ずしも「欲」に値しない。
従って、平安期末期以降の仏説では、”「拘り」は、必ずしも「煩悩」ではない” 事に成る。
然し、「般若心経」には 「色不異空 空不異色」 「色即是空 空即是色」として、俗説の事として ”拘るな”となるから、 疑問が生まれる。
何故ならば、全ての仏説の基と成っているこの「般若心経」とはこの「平安期の仏説」は異説であるからだ。
この疑問を解決して於かなくては「神仏習合の条件」の答えは出ない事に成る。

其処で、これを論じて解決する。
「拘り」が、「平安末期以降の煩悩」として定義されていない事に付いての疑問と、或いは、”「拘り」は「我執」としたが、「我執」ではないのか”、この疑問の「2つの前提」を解決する必要がある。

「2つの前提」の検証
先ず、「拘り」の言語は、俗説としては、”ある事に「必要以上」に「自分の良悪の判断領域」で、この事はこうあるべきだ” と「限定」して、”「自分の心」を一時的に「洗脳」して「固着」してしまう状況” で訳される。
然し、此処には、「必要以上」、「自分の良悪の判断領域」、「限定」、「洗脳・固着」に問題がある。

この4つの中、前の2つの「必要以上」と「自分の良悪の判断領域」は、次ぎの様に成る。
”その限度がどの範囲で適切であるのか”
と云う事に成る。

後の2つの「限定」と「洗脳・固着」は、次ぎの様に成る。
”個人の性癖で起る現象”で、その個人の”人格技量の形成範囲を問われている。”
と云う事に成る。

この4つは、「人」として、「大人」としての「未量と未熟」に起因する事を意味する。
さすれば、この「未量と未熟」を会得解決する事で、 俗説の”拘り”は解決する。
この「未量と未熟」を大人として獲得すればこの「拘り」は解決する。

とすると、上記で「煩悩」とは、”人に持っている「潜在的・先天的な性」”と上記で説いた。
従って、”「未量と未熟」は年齢を経て、「経験と知識」を獲得する事で霧消する事に成る。” のだから、この「拘り」は何時かは霧消する事に成るから「煩悩」の定義から外れる事に成る。
故に、「平安末期以降の仏説」では「煩悩」として定義されていない事が判る。
当然に、「拘り」は「我執」として扱われない事に成る。
これで上記の「2つの疑問」(2つの前提)は解けた。

そうすると、次ぎにでは、 ”「俗説の拘り」は、「仏説の拘り」では何と表現するか” の問題を解決する。
「般若心経」の「色不異空 空不異色」 「色即是空 空即是色」として、俗説の事として ”拘るな”は、上記の「拘り」の言語の定義から、「未量と未熟」を解決すれば、「大人」として事に過敏に反応する事は無くなり、その「心の安定」から、「”無意、無心、無念、無想”」の心境を獲得出来る事に成る。
そして、これを先ずは、 ”人として会得せよ” と説いている事に成る。

(俗説と仏説の「拘り」−「未量と未熟」は、「”無意、無心、無念、無想”」の心境を阻害する最大の障害である。)
要するに、「泰然自若の心得」が必要と成る。(家訓の「長の心得])

要するに、俗説の「拘るな」では無く、「教典」であるのだから、「泰然自若」の ”「無意、無心、無念、無想の心境を会得せよ」”と成る。

この教示とすると、上記での(心所区分 B)の「智慧の領域区分」に、この事に相当する事が定義されている。
注釈
(心所区分 B)
智慧の領域区分
1 隠の行 (表−話−編−歴)
2 遍の行 (意− 触− 受− 想− 思)
3 別の行 (欲 − 勝解−念− 定 )
4 善の行

特に、、”「無意、無心、無念、無想」”は、上記の 「2 遍の行」の(意 - 触 - 受 - 想 - 思)に相当する。

更に、故に、「3の別の行」の「勝解」から、「家訓9」は、”勝るべし”と表現した事に合致した事に成り、納得一致出来る。

「無心」は、「3の別の行」の「念」に成る。
「思」は「無想」に通じ「無思」に通ずる。
「定」は、「拘り」の定義の「限定」、「洗脳・固着(定着)」にあり、「無定」である。
「1の隠の行」は、「智慧の本質」の行であり、「智慧」は「無意識の潜在性」から発する「脳の働き」を「隠」として区分けしている事に成る。
この「隠」とする4つは、歴は「(記録)」、編は「(工夫)」、「話」は「(調聞)」、「表」は「(開研)」に依って生まれる。

確かに、「智慧」は、”歴の「記録」”から引用して発露し、何かを”編の「工夫」”して発露するし、話の”調”べたり”聞”いたりして発露するし、表の”開発”したり” 、”研究”したりして、発露する事は確かであり納得出来る。
確かに、この「1の隠の行」は ”「4つの諭し(智し:さとし)」” であり、「人」は自然の営みとして理解し脳を働かせる事が直ぐに出来る。
そして、”これ等の「1の隠の行」は、「2と3の行」の「智慧の発露」(「無意、無心、無念、無想」)に依って達成する事が出来る” と説いている事に成る。
(4の「善」は上記で論じた)

「1の隠の行」→「2と3の遍・別の行」=「智慧の発露」=「無意、無心、無念、無想」→「4の善の行」

以上の検証で、分類方法は別として、平安期末期を前にした「浄土宗密教系の仏説の教義」は、「平安末期後の教義」と論理的に一致して納得出来る。

とすると、次ぎの様に成る。
平安前後の「2つの仏教の教義」の終局の解析は、「無意、無心、無念、無想」に通ずる事に成る。
況や、”これを会得する事(大人に成る事)で達成出来る”と解ける。

「神教」の教義では、「無意識の智慧」を引き出す事にあるから、「無意、無心、無念、無想」して「俗世の邪念」を廃し、「無意識の領域」に到達出来る”と説いた。

故に、この「仏教」と「神教」の「共通項(「智慧の発露の仕方」)の教義」は、”「無意、無心、無念、無想」で一致する事に成る。 
(”「無意識の意思」(ミトコンドリヤの意思)” ”「心頭を滅却」して”)

故に、「神仏習合」は、この究極の「無意、無心、無念、無想」で一致しているので成せる事に成る。
この「無意、無心、無念、無想」は、上記した様に、「未量と未熟」を解決して会得できれば、況や「大人」としての「人格」(経験と知識 1の隠の行)を身に付ければ、”事は成せる”と成る。

(注釈 これ等の事柄は、「青木氏の家訓10訓」(「人格」の経験と知識は「家訓8」)に記載しているが、「青木氏の密教」では、「心所区分 B」の内容は「家訓」に反映していた事を物語る。
筆者は、この平安期の煩悩教義の「心所区分 B」はこの「古代密教の考え方」を継承する「青木氏の家訓10訓」からの引用(影響)では無いかとも考えている。)

「大人としての人格」は、逃れる事無く、等しく全ての者に課せられる「最低限の義務」である。
課せられる「最低限の義務」を果し得ない者に「神仏の加護」は与えられない。そもそも「煩悩」云々の例外である。
況や、仏説の「縁無き衆生 動し難し」、「人を観て法を説け」の説法である。
「最低限の大人としての責務」の獲得に努力しない者には「神仏の加護」は無いのが当然であり仏説云々の以前の問題である。

「習合策の根拠」
これは、「守護神」と「古代密教」の考え方の両方を保持している「青木氏」ならではの「神仏習合」である事が判る。
では、”何故、習合としたか”の疑問を検証する。
他に、歴史上にもある様に、「併呑」、「連携」、「合体」(民の一体もある)等の形があるにも関らず、上記する様に、上記の様に「発露の仕方の教義」では一致しているのだから、少なくとも、「併呑」か「合体」でも有り得た筈である。

先ず、「神教側」から観れば、「皇祖神−子神−祖先神−神明社」として独立してその役目を果していた。(青木氏の守護神(神明社)」の論文参照)
「神教」は、「青木氏の守護神」である事以外に、「青木氏」のみならず「民の領域」までを導く「心の拠り所」としての存在であった。
そして、この「神教」は「政治・軍事・経済」の「3府の国策」であった。

一方、「仏教側」は、「密教」を前提としている以上、「青木氏のみの仏教」であり限定されている。
その教義も、「青木氏」と云う「立場・役柄・身分・家柄」に限定した「3つの発祥源」の範囲での教義であった。
むしろ、「青木氏の密教教義」を確立させなければ「3つの発祥源」などの「立場・役柄・身分・家柄」を維持させて行く事は不可能であり、「必然必須の条件」であった筈で、当然にして「密教の影響」を受けた「家訓」も「必然必須の条件」の中にあった事は否めない。
況して、「青木氏の守護神」も存在すると成れば、最早、「必然必須の条件」を超えていたと考えられる。

(筆者は、その意味でこの「青木氏の密教教義」と「青木氏の家訓」は「一対の教具」であったと考えている。故に、「国策氏」で「融合氏」として公然としていた事は世の史実であり、特に「神仏の宗教界」の中にはただ一つの「神仏の牽引する密教氏」としても存在していたのであるから、「平安期の煩悩仏説」には、この「青木氏の密教教義」と「青木氏の家訓」(青木氏の生き様)を当然に見聞し、その「青木氏の生き様」を目の辺りに観ていた筈であり、因って、「引用影響説」を採っている。むしろ、平安期には守護神の「青木氏の神職」(486)と密教菩提寺の「青木氏の住職」(141)が神仏の宗教界に君臨していたのである。”影響を受けていない”とする方が疑問である。)

その典型的な事として「原始仏教−古代仏教−古代密教−古代密教浄土宗」の「青木氏」の独特の経緯を経た「密教菩提寺」がこれの全ての「有り様」を物語る。

そもそも、「密教である浄土宗 菩提寺」は、その「氏」の菩提を祀う「菩提寺」を独自に建立する。
同時に、其処に密教としての「独自の教義」を確立させる。
「皇族賜姓族青木氏」で有れば25氏ある事に成るので、その出自の慣習から分家分派分流を起さない前提であるので、少なくともその土地毎に「一つの氏」の「密教菩提寺」を建立する。
「特別賜姓族青木氏」であれば116氏あり、24地方に分布する。
藤原秀郷一門に習って一部は分家分派分流するので、最低でも「116の密教菩提寺」が存在し其処に「青木氏の密教教義」を統一させて少なくとも24の各地に存在する事に成る。

特記
研究中であるが、「西光寺」:密教系の強かった知恩院系浄土宗 秀郷一族一門の定住地に必ず同名で存在する。60以上のこの共通名の寺が定住地に必ず存在する。
この寺は平安時代の「空也」(僧侶)が建立したと云われている。然し、「空也」が、そもそも、これ程の60以上もの寺と30程度の地域に同名の寺の建立は、財政的にも、物理的にも、時間的にも、地域的にも絶対的に建立する事は無理である。そもそも、寺社建立権は、一族一門の許可無しで建立は叶わず、平安時代は朝廷の許可無しでは建立出来なかった許可制であり、江戸時代まで許可制で規制されていた。室町期中期までは「特定の氏族」に限定されていた。
又、秀郷一族一門の土地に一族一門の許可無しに勝手に建立できる社会ではなかったし、この時期は未だ密教であり、密教で無い浄土宗の檀家寺を建立する事の事態が時代考証が成立しないし、この時期の「民の信仰」は、この時期は浄土宗帰依は未だ無理であり、民の信仰対象の浄土宗の檀家寺は明治3年以降のものであった。
江戸初期に密教体質を払拭して「家康」が「浄土宗督奨令」を出し、「高級武士の帰依」を始めて認めたもので、その後、中級武士にも広げられたものである。
「平安期の空也建立説」はこれ等の事を完全に無視している。
且つ、況して、平安期では、「建立権」を保有している氏は限定されていて、「青木氏」の様な、「朝臣族」に限定されていた事から、「空也の建立説」は不確定で良くあるある思惑に左右された搾取偏纂した「後付け説」である事が判る。
仮に、「空也」とするならば秀郷一門が「空也」(僧侶)の名の下に建立し、説法としたと考えられ、この「西光寺」は明らかに秀郷一門の菩提寺と観られる。
この寺は一族一門の領国付近に多く、この60以上のリストの中以外にも一族一門が定住していた地域に15程度の「西光寺」がまだある。現存している。
「秀郷一門菩提寺説」を裏付ける「西光寺の寺名」にはある意味を持っていて、「朝臣族賜姓族」の「菩提寺の寺名」と共に「ある共通するもの」を持っている。内容は個人情報に関わるので不記)

従って、「神教」の守護神の486社もの「神明系全社」が、「全青木氏の共通の神社」と成り得るが、「仏教」に於いては全青木氏の「密教の菩提寺」とは必ずしも成り得ない。各地に定住していた「青木氏の菩提寺」であるが、教義は共通するが「全青木氏の共通の菩提寺」とは成らないのである。
青木氏の守護神の社とは異なるところである。ここに大きな「解離」と成る事が生まれる。

又、この「解離」があるが、「習合」には、「3つの発祥源」である限りは、「神教と仏教」の何れにもその「象徴」であり、必然的に「象徴としての立場」は厳しく存在するので、「併呑、連携、合体の有り様」には問題が生じる。
「武家の象徴源」であるからとしても、「武」を以って「氏家」を立てる事には成らず、必然的には「武家の象徴」である限りは、「和」で以って生きる事以外にはその存在の意義は無い。
そもそも、元来、「象徴」と云う「立場と役目の手枷」がある以上は、これは「神教側」に於いても、「仏教側」に於いてもその「立ち位置」は変わらない事に成る。
故に、「神教側」も「仏教側」も「3つの発祥源」を護る立場がある限りは、「併呑、連携、合体の有り様」は不可能であった。

とすると、”教義が共通する事”と成っても、「併呑、連携、合体の有り様」とは成り得えない。
その夫々の役柄から絶対に逃れる事から出来無い。
神仏両社が共に ”寄り添い合う”と云う形の「習合」で纏める事が以外に無い事に成る。
これがむしろ、「青木氏」に取ってはこの「立場と役目柄」から平安期中期までとしては「理想の形」であったのである。

「家訓9」の ”「煩悩」に勝るべし” の教えは、「神仏習合」に依って「無意、無心、無念、無想」で一致し、”時に当り、この「無意、無心、無念、無想」の極意を得て、「人格」を磨き「煩悩」に勝り、「長」としての立場を全うすべきである” としている。

「添書要約」
添書には、要約すると、つまり、”勝るべし”の極意「無意、無心、無念、無想」は、”「武」にあらず” と言い切っている。 ”「武」に対して「和」を以って成すべし”として諭している。
しかし、文脈からは「武」そのものを誡めている様ではない。”「武」は子孫存続には必要な人間に与えられた「必要不可欠な処世術」”として説いている様に漢文の語意から読み取れる。
”「武」を戒め、「武」は術” には、「武」に対する捉え方にあると考える。
「武」を誡めれば「和」を尊ぶは条理である。
しかし、これも又、”煩悩を否定しない”と同じ論法である。

(漢文の解釈にはこの論調が多いので苦労する。「般若心経」の上記の解釈と同じで読んだ通りの文意では答えは出ない。事程左様に、仏説の「般若心経」を解釈できるまでの若い時はさすが解釈出来なかった。直接表現を善しとする現代に生きる人間の苦労の一節である。況して技術屋である筆者には「含み文意」を文章の常識とする古代文には正直疲れた。「脳力」が極めて消耗する。)

これを ”どの様にして理解して「和」に到達させれば良いのか” 苦労する。
”半ば「武」を否定し、半ば「武」を肯定している。” と成れば、「武」の解釈に「何か」ある筈である。
”その「何か」は何なのか”の疑問が残る。
「3つの発祥源」の「融合氏・国策氏」で、「古代仏教」−「古代密教」の「教義」を「氏の主体」として、且つ、「皇祖神−子神−祖先神」の「古代神教の教義」と慣習を持ち合わせ、「悠久の歴史」を持つ「氏の家訓」である。
従って、「何か」があるのは当然であるのだが、それを解くには「氏の全体の歴史の経緯や変異」を事細かく掌握しなければ出て来ない筈である。
それには、神教側の方に多く答えがあると考えられ、「青木氏の守護神」を解明が必要であった。
故に、見直しの為にも「青木氏の守護神」に関する論文を投稿を先行させたのだが、答えは出た。

「抑止力」
それは、次ぎの答えであった。この答えの論調で説けば附合一致する。
「武」は、最終は「武」の「武具」を以って「殺戮」に及ぶ手段である。
しかし、「武」の「武具」を無くす事、或いは、使わない事で「武」を果せば、「神教」と「仏教」の煩悩の「最悪の殺戮」(煩悩)は無くせる。つまり「抑止力」である。
「抑止力」であれば未だ「武」である。

その「武具無しの抑止力」を達成させれば、上記の「3つの発祥源」の立場は矛盾無くして保てる。
「抑止力」で「氏の保全」は可能に成る。
青木氏以外の氏が全て「抑止力」だけの「武力」であるとすれば、何も「武」に拘ることは無い。
然し、他氏の多く、殆ど、全ては「3つの発祥源」と云う立場を保持していないし、当然に「神教と仏教」を併用して持ち合わせる氏では無い事、青木氏の様な「古代仏教−古代密教」や「守護神 祖先神」の立場では無い事から、「極意: 無意、無心、無念、無想の教示」は無関係であり縛られていない。
依って、「武」は「武具」を持つ「武」であっても不思議ではない。
この他氏から攻められたとした場合は、青木氏の自らの氏は護れない。
然し、「武具」を有する「武」は使えないとすると、「抑止力」を大きくする事で事前に相手を警戒させて押さえ込めて護れる。(現実には、青木氏にはこの「抑止力」で3度護った)
「武具無し抑止力」では、”「武」に対して「和」を以って成すべし”の教示は保てるし、「3つの発祥源の立場」は保てる。
(そう成ると、「武具」に頼らない「抑止力」と成り得る大きさは必要で、それを補うのは「商いの経済力」が必要不可欠の条件と成る)

「武の疑問」
さて、そうすると、”「武」は青木氏に執って良くないのか” と云う疑問である。
「武」に関する教義としては、浄土宗密教の「煩悩の教義」に次ぎのものが有った。
もう一度思い起こして頂きたい。

重複して記すると、”「煩悩」は、「我執」から起るものであって、その「我執」は「貪欲」「瞋恚」(自分の意に反すれば怒る心)「愚痴」の煩悩があるとして、中でも、「愚痴の煩悩」を主な事としての教義”であった。

然し、「武」の行使は、この「貪欲」「瞋恚」「愚痴」の連動に依って起る。
この教義に「武」を当て嵌めて観る。

「武」の行使の理由は、”他氏の領地等の奪取”等の「征服欲」に使われ、これは真に「煩悩の貪欲」の極みである。
「武」の行使の発端は、「自己の慎み」を超えて「怒り」を発する時に起り、「煩悩の瞋恚」の極みである。
「武」の行使の原因は、「自己の人」としての「未量と未熟」から来る「判断力の低さ」の時に起こり、「煩悩の愚痴」の極みである。

つまり、「武」は「煩悩の最悪の見本」の様なものであり、「人としての幸せ」(善、慈、愛の結実)を根底より破壊する。それのみならず、死に至らしめる手段(武具)を有する。
仏説で云えば、「武の煩悩」は、「3世の破壊」を意味し、「死の恐怖」を拭う「教典と教示」を前提から否定するものである。
故に、浄土宗と真宗はこの「武」を使命とする「武士」に対して教典に反することである事から「武の道」を説いて「武の煩悩の悪弊」を取り除く「道」を説いたのである。
これが室町期末期頃から「武士道」として確立したのである。

以上と成るが、これを青木氏が「3つの発祥源の象徴」であるとすると、「青木氏」に執っては「武」は「発祥源の象徴」であって、この理屈から観ても「武士道の象徴」とも取れるが、「武の道」では無く「和の道」でこれを払拭したのである。「武の道」は「「破壊、消滅、死」を意味する。
「和の道」は、故に、「破壊、消滅、死」を意味する事とは「反意」である。
この「和の道」は、即ち、「家訓」と厳しい「慣習と仕来りと掟」で構成されているのである。

「和の道」=「家訓10訓」+「慣習、仕来り、掟」=「武家の象徴」≠「武の道」(武士道)

さすれば、「武家の発祥源」でありながらも、「武」の実質の役職を持ち得ない「象徴」とも成れば「武」であっても「武力」は持ち得ない事に成る。
況して、”「融合氏」の「融合」は「万物発祥の起源」”である。
依って、到底、「武」は「青木氏が保有するの神仏の教義」に合致せず、「煩悩」の最たるものとして排除しなければ成らない立場に有った。

その為にも、「神教と仏教の教え」の究極は絶対条件として、”神仏を習合一致させる”事に成り、「守護神」と「密教寺」を有する「青木氏の絶対的教示」としたのである。

「和・武の戒め」「抑止力の欠点」
故に、「武の煩悩」を含む「全ての煩悩」に対して、”煩悩に勝るべし”であり、その「勝る」に至る極意は、”極意「無意、無心、無念、無想」の教示である”としているのである。
これが「3つの発祥源」の「立場、有り様」なのである。
そして、添書の ”「武」に対して「和」を以って成すべし”の教示が、故に、「家訓9の戒めの言」と成っているのである。
これが「家訓9」の「和・武の戒め」である。

故に、「武」は「抑止力」で成らなければ成らないが、然し、この戒律には大きな欠点がある。
それは、「世に晒される事」である。

そもそも、「抑止力」とは、”本来、見えないから、不透明だから、その力に「懐疑」が起こり、「自らの力」との差異を計測出来ないところの不安を利用する戦術” である。
これが「世に晒される事」で、不透明さが判明すれば「懐疑」が無くなり、この「力の差」は判明して、自己の力>抑止力の「時」には「武」が採用されて「和」は消滅する。これは「現世の条理」である。
故に、「和」>「武」の形が保てるところに「青木氏」は存在しなければ成らないのである。
そして、この「和の力」を大きくする術、「戦略」が絶対条件として必要と成る。
その戦略とは、「商い」である。
「商い」は「善」であり、「物造り」に通じ、「人の正なる生き様」になり、「神仏教義の極意」でもある。

「和の数式論」
「和の道」=「家訓10訓」+「慣習、仕来り、掟」=「武家の象徴」
「商いの利」→「抑止力」=「和の力」
「和の道」=「商の道」≠「武の道」
「和の道」=「和の力」(和力)
「武の道」=「武力」
「武力」=<「和力」→「抑止力」
「青木氏の武の道」=「青木氏の抑止力」

この「商い」が「和の力」、即ち、「武力」に対して「和力」を生み出す。

以上の「和の数式論」とその「相関関係式論」が生まれる。
これが、「家訓9の数式論」である。
この「家訓9の教示」は「家訓10訓」の全ての教示に通じその根源と成っている。

この現在まで続く口伝の ”世に晒す事なかれ、晒す事に大儀なし”はこの一点にあった。
故に、「青木氏」は悠久の歴史を持ちながら、その「和の力」は「3つの発祥源」の立場にありながら、源氏の様に、「武の皇族としての立場」はもとより「世に出た豪族の立場」は持たなかったのである。
それが故に、「和の力」と「世に出る事の無い立場」を護った事から、「青木氏」は足利氏−豊臣氏−徳川氏から特別庇護を受け安堵されるに至ったのである。
これこそが、上記で論じた「青木氏の教示」の、この「世の人生の目的」とする「子孫存続策」の極まりであったのである。
「青木氏の最大の戒め」
”世に晒す事なかれ、晒す事に大儀なし”

注釈
(その「和力」(総合力)は、「伊勢青木氏」の場合で計算すると100万石以上の力は充分であったし、これに「3つの発祥源」としての「象徴としての権威力」が備わっていた。
それだけに世に出る事には利用される危険もあった。然し、この戒律を護らなかった例外はあった。
室町期に信長−秀吉に利用された青木紀伊守と伊賀守の2人が歴史上の舞台に踊り出た。故に、この皇族賜姓族は滅亡した。ただ1度「伊勢青木氏」は、信長に対して「名張りの戦いの伊賀攻め」で旧来の隣人伊賀人を救う為に奈良期からの「氏の禁」(武力)を破り「信長の虚」を突き伊勢を護った。又、「伊勢丸山の戦い」では完全な「抑止力」で勝利した。)

事程左様に、「家訓9の数式論」は「青木氏の生き様」の前提に成っている。

”煩悩に勝るべし” 「和武の戒め」としているが、その意味は実に深い。
添書は簡単に要点を記述しているが、「添書文脈」が持つその真意を汲み取ると、この「家訓9の教示」は実に大きい。
この「家訓9」を理解するには「守護神の事」を研究する事からその意味する事が判る様に成った。

「家訓10訓」の汎用
「家訓10訓」は、総じてその「家」の中の事に置き換えて「戒め」として説いている。
然し、この言葉の置き方を「家」より「氏」や「企業」等の「大きい組織」に置き換えての「訓」としても用いられる筈で、恐らくは、本来、古来の「氏家制度」の中にあった事から「氏としての「訓戒」であったのです。
これを、”より判り易くする為に、より多くの者が理解出来る様にし、「家庭」「家」に焦点を置いて言い聞かせた” と考えられる。
そうする事で、”一族一門とその一切の郎党の全員が、「心の底」から「共通する思考原理」で立ち向かえる事が出来、結束をより強くする事が出来る ”と考えての事であったと観られる。
それが「青木氏」と云う「特異で特殊な立場」にあったからこそ、他氏に比べてより一層の「正しい結束力」を求められていた。
故に、他の「家訓8」までのものとは、その「戒め」が、「異質の基本訓」と成る様なものと成っている。
そして、敢えて、添書には詳しく論じる事をせずに、各人に「考えさせる手法の家訓9」と成っている。
それは、”「考えさせる事」に意味があった” と観ている。
当然に、その「悟り具合」に依っては議論が起るであろう。
「家訓9」を考えさせる、つまり、”「議論の想起」を「根本の的」としていた”と考えられる。
一族一門の議論の中から、修練されて、「互いの心」に「訓意」が留まる事を狙ったと考えられ、そして、その「長」は、その「議論の修練の方向性」を「主導役」を求められたのであろう。
それが ”「長としての資質」である” と考えられていた筈である。
その務めを果さずして組織は維持出来ないのであるから、この務めが果せない場合は、上記の「密教の仏説」の教義の通り、「未量と未熟」と成り果ててその「長」は失格と成る。

それだけに、「氏家制度」の中では、「和武の戒め」は「武」が主体とした社会であって、その中で「和」を説いて素直に「納得」は得られる社会では無かった。
況して、「3つの発祥源」と云う立場は一切の他氏には無いのである。
だから、到底、理解は難しい。”難しい”では無く、”理解は無い”が正しい。むしろ、”狂気か”と疑われるが道理である。
そこに、「和」を説いた。当然に一族には「異論百出」である。其処で、先ず、”「煩悩」と云うテーマを敷いた。”「武」は「煩悩」の最たるものである”と説いた。
そして、”そのテーマから「和」に導かせて悟らした。”と考えられる。

普通ならば、「3つの発祥源」であれば「武の象徴」なのだ。疑う事無しで「武」である。
然し、”「武の象徴」であるが故に「和」なのだ”。そして、それには、”「禁じ手」の「商い」なのだ”と説いた。”「武の象徴」が「武」だ”と叫べは世の中は戦乱である。
「和の象徴」が「青木氏」と同列のところに別にあるので有れば、それも叶うだろう。然し、歴史上には無いのだ。
そもそも、「武」は「和」を求める手段として「神」が「智慧」と共に人間に与えたものである。
決して、「武」を求める為に「和」があるのでは無い。あくまでも「和」が「主」であり、「武」は「副」の立場にある。故に、「主」を求める為には、「武の象徴」は「和」(抑止力)でなければ成らない。
この世に「副」を「主」として求める世界は「神」は与えていない。

以上の論調で、青木氏一族一門とその一切の郎党に懸命に説き続けたのであろう。
その結果として、理解が得られて「家訓9」は「青木氏の家訓」として成立して強く地に根付いて現在までに引き継がれて来たと考えられる。

「和」は、「抑止力」だけでは無く、「禁手」の「商いとする前提」も考え合わせると、この「説得のリスク」は計り知れないものがあり、”「長に求められる資質」は相当なものを要求された” と考えられる。
もし、この「武」で有れば、”「武の象徴」は「武」だ”と普通の者は考えがちである。
真に、これを「否定」として、”「和」だ”する真逆方向で纏める事は「至難の業」であった筈で、故に、この時のこの家訓を遺した「青木氏の長」は「相当な逸材の人物・傑物」であった事が判る。
(1025年から1125年の100年−3代の前半の人物 匿名)
一族一門の「生活の糧」を護りながら、その「立場の堅持」する者が「普通の資質と度量の長」であれば「矛盾で狂気」と成るであろう。
恐らくは、この時に一族一門から「嫡子の選択問題」が必ず起っていたと観ている。
選択した者もそれを見抜く力の保持者で素晴らしい人物であったのであろう。

(参考 伊勢青木氏の口伝に依れば隔世遺伝にて「何らかの傑物」が出ている。 この時の人物は戦略家であったとする口伝 始祖施基皇子は天武天皇の参謀役の「軍略司」を務めた事が日本初期に記録されている。血筋であろうか)

「一氏の長」が悟ったとしても、従う者にも理解が無いと「強制の命」で組織を動かす事に成り、「氏力」は当然に働かず、滅亡が起る。
一族一門が、”何がしかの悟り”、或いは、少なくとも「同意」を得ていなければ成し得ない。
故に、”未来永劫に子孫は続かない。” 非常に難しい{家訓9]であった事に成る。

「青木氏の独自の教義」
青木氏が、仏説の本来の「煩悩説」に従うのでは無く、「密教の教えを旨宗」とする「氏」で有りながらも、”勝るべし”としたところに大きな意味を持たしたのである。
これも「密教」とする処に無し得た「青木氏」ならではの論調であり得た。
この「古代仏教」−「古代密教」の考え方に、この ”勝るべし”を「青木氏の独自の教義」として加える事で、”「和」を求める「武の象徴」”の「有り様」を一族一門とその一切の郎党には納得させたのである。

この「青木氏の教義」(家訓9)を奈良期から脈々と引継ぎ、数百年後には”煩悩は否定せず”に成って一般の社会の中に蘇ったのである。
これは、「青木氏の教義」の正しさとその「教義」を追い求めてきた「賜姓族」を社会は認めた事を意味する。
それだけに「賜姓族」、「3つの発祥源」「国策氏」「皇祖神−子神−祖先神」の「青木氏」の一族一門とその一切の郎党の動きは、社会からその「有り様」として見詰められていた事が、この”「煩悩」は否定せず”の一つの仏説でも良く判る。

「家訓順の疑問」
ここで、一つ最後に疑問がある。
では、”何故、この「家訓9」を「家訓1」にしなかったのか”である。
それは、この「家訓9」を前面に押し出す事は、”家訓が仏説と成る”の配慮があったのであろう。
況して、”煩悩に勝るべし” 「和武の戒め」である。難くて家訓としては馴染まず、家訓の活用に疑問を持ったのであろう。
そもそも、仏説なら教典を読めば良い。しかし、「家訓」なのであるから、のっけからこの論調は理解されない。それならば、「家訓1」や「家訓2」のような「家庭的な戒めの表現」は前に以って来ない筈で、家庭的な言語の家訓にはしなかったのではと考えられる。
漢文であるにしても、この「家訓9」の配置には ”何かの履歴”があった可能性がある。
時代の遍歴に依って、”先祖の誰かが変更した”と観ている。
平安初期頃には全ての家訓とは言い難いが、この様な「家庭的な戒めの表現」の家訓にするかは甚だ疑問である。
かと云って、鎌倉期以降では無い筈で、「商い」の本格的なスタートは平安末期の1125年頃と観ているので、その100年程度前には既に「青木氏の態勢」を換えつつあった事から観て、この100年の間に、「家訓配置と表現変換」を実行したと考えられる。
変更するにしても、960年頃の「特別賜姓族の秀郷流青木氏の発祥」から観て、「皇族賜姓族」を支えた頃の間の1125年頃前では無いかと考えられる。
即ち、平安初期の衰退から立ち直り始めた頃に一族一門とその一切の郎党に向けて改めてこれから生きて行く「青木氏の有り様」を明示したと考えられる。
つまり、この時の「青木氏の立ち位置」を反映させたと考えられる。
況や、「和」の「商い」を主軸として「3つの発祥源」の立場を守りつつ生きて行く事を宣言したのである。
「特別賜姓族青木氏」にも理解を求め、取分け特別賜姓族の「母方血縁氏の伊勢青木氏」にも示すにしても平安初期前の「皇族賜姓族の家訓」では提示し難いものがあった筈である。
特に、「家訓9」は「密教系の色合い」を強くし、仏説とは少し離れる「独自の教示」は特に憚られたと考える。恐らくは、この100年の1125年よりの時期で有ろう事が判る。
これ等は、「青木氏の守護神(神明社)」の「神明社の建立とその経緯」と大きく関っていたと考えられる。
この家訓全てが整っていたかは定かでは無いのだが、「添書」があると云う事はある途中で先祖の誰かが家訓に付いて疑問か何かがあって書き添えられた事は間違いないところであろう。
奈良期からこの「添書」があったのかはも解らない。それを2度程で「書き直し」か書き足していると観ている。(何かと添書で補足する独特の「氏癖」がある事から、かなり早期に添書と成るものが有った可能性が高い。筆者もこの性癖をどうも引き継いでいる。)
恐らくは、上記の時期、”「100年の間の1125年より」の時期までに「家訓全体」を改めた”と考えられる。
恐らくは、少なくともこれ以降の年代では無い事は「漢文形式」が物語っている。
この「100年の間の1125年より」が衰退から立ち上がり全ての「青木氏の有り様」と「青木氏に関わる周囲の環境」を換えてしまった事が何よりの証拠である。

この「家訓9」は事程左様に、「青木氏の遍歴」大きく物語る源と成っている重要な家訓である。

特記
兎にも角にも、「氏家制度」の中では「賜姓族」であるが為に「4つの青木氏」は、「全ての柵」に縛られて「家訓10訓」に示す様な「氏の生き方」しか「生きる道」は遺されていず、不自由な環境にあった事は否めない。そもそも、家訓を定めると云う事は、この家訓の範囲の中で生きて行かねば成らないからわざわざ其処から外れない様に定めているのであって、少々外み出ても生きて行けるのであれば定める事はしない筈で、「2つの青木氏」はこの「柵」の中にいた。
だから、”世に晒す事無かれ、晒す事に一義無し” ”然れども世に憚る事なかれ” とまで厳しく戒めている。
「関係する青木氏」には、現在の「家訓の存在の有無」如何に関らず、この道以外に最早、「生きる道」は無かった。頭の中に沁み込んだ「伝統の思考原理」であった。
それが、幸いにして「伊勢青木氏」に遺されていたと云う事であった。これは「生仏像様」が「全青木氏」に遺されていた事と同じ意味を持っている。

ともあれ、本家訓は幸いに「伊勢青木氏」に遺された「家訓」をベースに論じているものであるが、明治の始め頃まで「和紙商い」では、親密に親交を持っていた現存する一族の「賜姓族信濃青木氏末裔」にも、何がしかの相当する家訓類が、「商い記録」等から読み取ると間違い無く遺されて居た事が判る。
ただ、一族の「賜姓族足利系青木氏」等が「秀吉の計略」に陥り、立場を利用されて「武」の世界に足を踏み入れてしまった。結局、家康に依って叙封され滅亡した事(一部末孫が退避地に逃避)等から全体として「信濃青木氏の衰退」が起こり、「商い部分」を遺したのみで「氏としての遺産」を遺し得なかった。
現在に至っては「商い」以外にはこれ等の記録資料関係が少なく遺されていない。
伝統の”世に晒す事無かれ”が「資料記録の不開示」の原因に成っている事も考えられる。

同様に「特別賜姓族青木氏」にも確認が出来ない。
取分け、「特別賜姓族の伊勢青木氏」とは明治35年までの親族としての親交があり、伊勢四日市には「融合青木氏」を持つ等の深い血縁関係もある。
「家訓」に対しては統一した行動を採っていた事は、「明治9年の伊勢騒動」の時の「援助記録」(伊勢青木氏保存)等でも明らかである。
この事からも何らかのものが「武蔵の青木氏宗家」にもあった筈で、ある事に付いては研究中の中では添書の内容から判っているが、それがどの様な内容なのかは判然としない。
ただ、「主要5氏の菩提寺」には「氏の記録」等がある筈で、この「青木氏の菩提寺の確定」の研究中である。(現在は家訓等の正式なものに付いて研究中で明確には成っていない。)
然し、「信濃青木氏」も「融合青木氏」を持っていた事から、これ等を通じて、武蔵宗家の「特別賜姓族青木氏」との繋がりから何らかのものが間違い無くあるのではと考えられる。
「主要5氏」の中で、「秀郷流伊勢青木氏」だけは本論の家訓等に添った生き方をした事からも、「武」にありながらも「和の生き様」をしたので記録資料は遺されている可能性は極めて高い。
取分け、「信長の北畠氏攻略」の時に、「2つの血縁青木氏」は共に「合力」している事から、「特別賜姓族の伊勢青木氏」の添書等の「何らかの記録」を確認出来れば、宗家にしてもある筈である。

「武」に組した「近江青木氏」と「美濃青木氏」の記録は、早期に滅亡して一部支流末孫が遺されたが、平安期頃の記録は完全に焼失している筈である。

「甲斐青木氏」もその支流末裔は現存しているが、親交が「和紙殖産」ではあったが、親交が少なかった事もあり、又、「甲斐青木氏の論文」の様に、室町期には、内部での「青木氏同士の混乱(源光と時光の争い)」や「信長の甲斐進攻」もあって、極めて「焼失」の可能性が高い。
依って、「伊勢青木氏」には甲斐に関する有効な資料口伝類は遺されていない。
何れも「古代和紙」等の「商い」を通じての親交が明治期まであった事から、文書的なものより口伝的なものとして明治35年頃まで遺されていた事が強く感じられる。
もとより、「伊勢青木氏」は「青木氏」の中でその中核にあった事から、甲斐では室町期から明治初期の頃までは最早「口伝」でのものであった可能性が強い。依って、現在では「伝統意識」が低下して霧消したと考えられる。

「生仏像様」の様な物体遺産は比較的に遺される可能性が高いが、無形の遺訓文化等は文書画像等にしない限りは古来では極めて難しい。長い歴史の中で文書画像は、尚更、相当な記録保存できる体制の取れた安全な氏(密教菩提寺と守護神が現存)で無けれ成し得ない事である。「伊勢青木氏」でも斯くの如くである。伝統に対する意識の変化が何よりも左右する。現在に至っては「個人情報に関わる問題」があるので研究調査が最早、極めて困難である。依って、個人の家の領域まで入り込まなければ成らない「無形伝統」の維持と記録保存と研究は最早、次第に霧消する過程にある。その中での研究であった。

以上が家訓9の検証である。

次ぎは、最終の「家訓10」である。


  [No.292] Re: 伊勢青木家 家訓10
     投稿者:福管理人   投稿日:2013/04/30(Tue) 11:13:31

伊勢青木氏の家訓10訓

以下に夫々にその持つ「戒め」の意味するところを説明する。

家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
家訓3 主は正しき行為を導く為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず。

>家訓1は「夫婦の戒め」
>家訓2は「親子の戒め」
>家訓3は「行動の戒め」
>家訓4は「性(さが)の戒め」
>家訓5は「対人の戒め」
>家訓6は「人間形成の戒め」(長の戒め)
>家訓7は「品格の戒め」
>家訓8は「知識経験の戒め」
>家訓9は「和武の戒め」


>家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず。

さて、最後の戒めの「家訓10訓」(刹那の戒め)である。

この家訓に付いては、「家訓9」(和武の戒め)で一部触れた。
「家訓9」では、そもそも、”「拘る事」が「煩悩」の始まりだ”と云う事であった。
つまりは、「拘る」=「我 執」である。
「青木氏の古代密教の教え」では ”「煩悩」はあって良い。それに必要以上に縛られて「拘る事」に意味が無い。”と解いている事に成る。
そうすると、「現世の本質」とは、それは「現世」(この世)では、「煩悩」とは、 ”「人」としての「煩悩から起る喜怒哀楽」と云う事に成る”と説いた。

>「煩悩」=「現世の喜怒哀楽」
これを突き詰めれば、次ぎの様に成る。
「人」がこの「現世」(うつせ)から「彼世」(かのせ)に移る時に「現世」に遺されたものは、その個人としての「喜怒哀楽」の「過去の思い出」以外には無く、「個人の肉体」は焼却される事で「喜怒哀楽の過去の思い出」(煩悩の発露)は ”何も無く成る”を意味する。
つまり、その「個人の煩悩」は、”現世では無く成る事”を意味する。
故に、”「現世」から「彼世」に移る事は、「空」による移動にしか無い”とも受け取れる。
只、然し、此処で「万能の神」は、その「現世での証し」として、「人」つまり「子孫」を分身として遺す事を定めて、”現世と彼世の断絶”を ”[(色と空)即ち(白と黒)の摂理]”により無くした事に成る。そして、「分身の煩悩」が新たに生まれ遺される事にした事に成る。
これが ”「現世」から「彼世」の「移動」は、「断絶」では無く「継続」である”とした「青木氏の古代密教の教義」であった。

「阿弥陀仏の説」(青木氏の密教仏説)
「仏」の上位にある「神」は、”この「現世−彼世」(色と空 白と黒)には「繋がり」として絶える事の無い「分身」を置いた事に成る” と解いて、全体の論理性を仏説として用いた事に成る。
そして、この仏説の「分身の部分」は、「人の変化(へんげ)」の「仏」では無く、それを「仏」が云うのでは無く、上位の「神の仕儀」と説いた。
確かに、この「分身」無くして「現世と彼世」は断絶して「仏説の論理性」が崩れる。
だから、”「我が身」の「次ぎの分身」が「現世」に遺すのであるのだから、其処には「前の煩悩(喜怒哀楽)」は消え失せて、「分身の新しい煩悩の喜怒哀楽」が生まれる。要は何も変わっていないのだ。だから、事を事更に拘るな” と説いている事に成る。
結局は、「神」が云うのは、”拘るな 分身に任せよ”と成るのであろう。
これがまさしく「浄土宗の阿弥陀仏」を信心する「青木氏の古代密教の仏説」と成るであろう。
確かに、この世に於いて、この説が納得出来る事がある。(家訓10の意)

それは、”孫が生まれた時のあの不思議な喜び” は、”子供が生まれた時の喜び”に対して比べものに成らない様な「異質な喜び、嬉しさ、安堵感」に似たものが込み上げて来るが、この上記した ”子孫分身を遺した”とする「本能的な動物の安堵感」の感動であろう。
つまり、これは「神」が動物に組み込んだ本能 、”拘るな 分身に任せよ”からの感動であろう。
その代わりに「神」は ”現世の最大の喜び”即ち、この”「安堵感」”を与えたのであろう。
この「安堵感」は、その個人の経験した「現世の喜怒哀楽」とは異質の比べ物に成らない「喜び」として与えたと考えられる。その「喜び」には「対価の背景」は無い。ただ”子孫を遺した”とする”対価の無い””背景の無い”清らかな「喜び」を与えたのであろう。

故に、現世の「人生の最終目的」は ”分身を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に無い。”として考え、”「喜怒哀楽」に無い”とするならば、そもそも、”「喜怒哀楽」から生まれる「煩悩」には必要以上に拘るな”と成る。
況や、”拘るな 先ず分身を遺し、分身に任せよ”とする説に成る。
故に、”分身を遺す事で全ては解決する”と解いている事に成る。
この「本能に組み込まれた達成感(安堵感)」が孫を見て噴出すのである。これが「異質な喜び、嬉しさ、安堵感」と成って込み上げて来るのである。
結局、これを突き詰めれば、問題は、人生に於いて、「人生観」を ”分身を遺す事に主義を置くか、「喜怒哀楽」に主義を置くか”の差の問題である事に成る。
それに依って、その人の「価値観」は変わるし、「人生観」も変わる。どちらを選ぶかに関わる。
然し、「青木氏の古代密教派の教え」は、 ”分身を遺す事に主義を置く”と説いている。

人生に於いて、「分身を遺す事」><「喜怒哀楽に置く」の関係式が成立つが、ここで、「古代密教」の仏教は「刹那主義」として、「分身を遺す事」<「喜怒哀楽に置く」の関係式を戒めている。
然し、「分身を遺す事」に全てを傾ける事は不可能であり、それはまさしく「拘り」である。
”「拘るな」”としている「古代密教の青木氏の仏説」である限り、必要以上に ”全てを傾ける事”は正しく無い事を意味する。
要するに、現世に生きている限りは、人は「喜怒哀楽」に左右される。
然し、可と云って「古代密教」では、”「分身を遺す事」<「喜怒哀楽に置く」であっては成らない” とし、”「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」であるべきだ”と説いている事に成る。
>の不等号の持つ意味がこれを示唆している。

「刹那」の語意の通り、”今”に重点を置いた生き方は、「刹那主義」である。
”「今」を楽しむ そして、その「今」の連続を重ねる。そうすれば、最終は「安楽」に成るだろう” とする積み立ての「加算論」である。この「加算論」=「刹那主義」である事に成る。
”「人」はこの「刹那」に陥りやす「動物の思考原理」を持っている事が判るが、これでは、”「煩悩の連鎖の道」に陥る” としているのである。
つまり、「刹那」では、間違い無く「今」であるのだから「喜怒哀楽」に翻弄される。
翻弄されるから其処から逃れようとして「煩悩の芽」が吹き出す。そして、思うように成らない現世に於いて「煩悩の連鎖の輪廻」が起る事に成る。
故に、この「古代密教」では ”「涅槃への道」には、「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」であらねば成らない。”と説いているのだ。

(参考 筆者は、この「密教の教え 先祖の教え」にも充分に納得し、人生をこの論理で生きて来た。恐らくは1400年にも成る「悠久の歴史」を持つ「青木氏の累代の先祖」もこの教義に従ったからこそ、現在までに子孫を確実に遺し得たと観られる。極言すればこの「一点思考」に集約されると考えている。「喜怒哀楽の戒め」を物語る事として「伊勢青木氏の口伝」には「享楽の精神」と云う言葉で口癖の様に使われていたが、これも「密教の教え」として引き継がれて来たものであろう。全て口伝類はこの論理論調から生まれていると考えている。)

「一点思考の本論」(「3つの背景」)
ではどうすれば良いのかと成る。俗に云えば、”その割合はどの程度だ”と成るだろう。
そもそも、”「割合」は「拘りの初期発露」だから”、良くないとして、其処は、”人それぞれである。「人生の経験」で会得せよ。” とする「古代密教の仏説」(青木氏の教義 浄土宗系古代密教 家訓)ではしている。
この事は「密教の説法」である事の証しとして、「家訓8」でも戒めている。

以上が「家訓9」で先行して関連して論じ、ここにそれを改めて重複させてたが、「家訓10」を続けて論じる。

其処で、本論ではこれを更に掘り下げて論じる。
「青木氏の守護神(神明社)」(1−22段)で「青木氏の生き様」がどの様な考え方で創造されたかを網羅する事が出来た。そうしてもう一つの「生き様の根幹」と成ったのがこの「青木氏の家訓10訓」(1−10)であった事に成る。
真に、この「神仏の二つの考え方」が習合して「青木氏」即ち「青木氏の思考原理」を創り出したのである。

そもそも、この「家訓10」の ”子孫を遺す事に一義あり、喜怒哀楽にあらず”の「子孫を遺す事」には、”どの様な背景”が青木氏にあったのであろうか。それを先ず論じる。
それには次ぎの3つが考えられる。

背景1 人間を含む一切の生物の最大の本能である「子孫」を遺す事から起因している。
背景2 上記した「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」の「特異な立場」が起因している。
背景3 「神仏習合の思考原理」から起因している。

この「3つの背景」がこの「家訓10」を形成したと考えられるが、人間も自然の一物である事は間違い無いが、だとしたら、この事に依って判りきっている事であるのだから、何も家訓とする必要はない筈である。
つまり、”「上記1の起因の条理」に主体を置いていたのか”と云う疑問が残るが、そうでは無い事は直ぐに判る。

>「特異な立場」
では、「上記2の起因の条理」に付いて、この”「特異な立場」が「子孫云々」と成るのか”と云う事に成る。
この”青木氏に課せられた「特異な立場」”は、人間社会を構成する全て「事の起源(事の象徴)」である事を意味する。

>特記 「事の起源(事の象徴)」
「青木氏の守護神」や「家訓10訓」で論じた「武の象徴的立場」を此処では「事の起源(事の象徴)」と表現する。
同じ「賜姓族・朝臣族・臣下族」であり、「武の象徴」としての11累代から構成される「源氏」とは、「3つの発祥源」と「国策氏」と「融合氏」である「3つの立場」の存在が、同じ「賜姓族青木氏」とは異なる。
依って、「事の起源(事の象徴)」と表現しているのであって、この源氏等と異なるこの「3つの立場」(特異な立場)の違いは、上記する思考原理を大きく変えている事と成っている。
(源氏とは根本的な思考原理は異なる事に成る。それは、源氏発祥時の「嵯峨期の詔勅」に依って朝臣族の範囲を限定した事に因る。)
もとより、「官位官職」等の差もあるが、「2つの血縁青木氏」と「源氏」とには、”「青木氏」>「源氏」の関係式”が氏家制度の中では「慣習」としてあった。
この「慣習」は、原則、「明治3年」まで維持されいた事が「伊勢青木氏の資料」から判断出来る。

({嵯峨期の詔勅」で「青木氏の氏名使用」を「皇族関係者のみ」に永代に限定した。但し、皇族関係者ではない「秀郷一門」に対してのみ「特別賜姓族」として「青木氏の使用」とその一切の身分、家柄、官職、官位の「品位の資格」を与えた。)

因みに例として、既に論じた事ではあるが、理解を深めてもらう為に改めて記述すると、当時の最大権力者で為政者の徳川幕府・紀州藩初代から大正14年まで、その「上位の扱い」を受けていた事が「伊勢青木氏の記録と口伝類等で判っている。
(「藩主より上座の礼」等や、「藩主からの書状」や、「十二人扶持米の礼扶持給」等)
この事からも「事の起源・事の象徴」として区別して、本論をより正しく論じる必要がある為に敢えてこの語句を使用している。
「天皇家の国家の象徴」に対して大変非礼でおこがましいが、「武の象徴」であった過去の「特異な立場」をより本訓の為に”「事の起源(事の象徴)」”の語句を用いて以下も論じる。

>「青木氏の宿命」
この「事の起源(事の象徴)」の「青木氏の義務」を全うするには、論理的に付き詰めれば ”「子孫を遺す事」”が「最大の務め」、又は「目標」と成るだろう。
何故ならば、この「務め、目標」が仮に叶わなければ、「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」の「特異な立場」は、「事物の起源と基点」が無く成る事に成るのであるから、必然的に「事の起源」なるものが霧消する。
「現世の事象」のみならず、物理で云えば「核」に相当するもので「自然の摂理」に於いても例外は無く、この全てこの条理が存在する。
依って、もともと霧消するものを「事の起源(事の象徴)」とはしない事に成る。
「事の起源(事の象徴)」とする以上は、永代に「事の起源(事の象徴)」であり続けねば意味を成さない。「3つの特異な立場」に依って発祥時より「青木氏」はこの宿命を負っているのである。

何故ならば、「家訓9」で論じた様に、そもそも「屯」を前提とした「人間社会」を構成する限りに於いて「起源と基点」は「絶対条件」である。(屯:たむろ)
「屯」もそもそも「基点」に類する。「動物」のみならず「一切の生物」はこの「自然の条理」に従っている例外の無い条理と成る。
因って、当然に、「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」の「特異な立場」は、この「屯」に類する一つであるのだから、その「屯」の「基点」と成っている「氏」が、途中で霧消する事はあり得ない理である。
この「屯の原理」が働くこの現世の社会では、如何成る事が起ころうと「事の起源と基点」の役目を課せられている以上は、この具体的な務めとして「子孫を遺す事」は第1義と成るのである。
大化期から平安中期までは「青木氏の霧消」は、強いては最終は「天皇家の霧消」に結び付くと考えられていたのではないか。
その証拠に平安中期の「青木氏の衰退」から嵯峨期の「源氏の出現」は、この「事の起源(事の象徴)」の復元であったし、南北朝前には形骸化したけれど源氏は11代も発祥し続いた。
そして、「源氏形骸化」の後に「円融天皇」による「青木氏補完策」の「特別賜姓族の誕生」と成るのである。
あくまでも歴史は、「屯の原理」を護る為に ”「事の起源(事の象徴)」の復元”を図って絶対条件のこの条理を導いているのである。

故に、「家訓9」でも論じた様に、「子孫を遺す事」は絶対的な条理の「青木氏の宿命」であるのだ。
即ち、”青木氏の意思如何に依らない宿命”であるのだ。
この様に「青木氏の宿命」の「子孫を遺す事」は、他氏の「氏」を継承する目的の単純な「子孫を遺す事」とは全く意味が違うのである。
”「青木氏の子孫を遺す事」”は、「屯」を基盤とする人間社会を構成する「象徴的な目的」を持っているのである。
この条理の働く「現世の生物」には、「屯性に強弱」はあるが、取分け、人間社会の中のこの「7つの融合単一民族」の日本の中では、「融合」に依って形成されている以上は「屯性」は極めて強い事が判る。
況や、そこで、「融合」=「屯性」の完全な数式論が生まれる。
因って、「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」の「特異な立場」の「青木氏の宿命」の「子孫を遺す事」の意味は格別なものを持っているのだ。
決して、先ずはこれで「上記1の起因の条理」だけではない事が判る。
とすると、「上記2の起因の条理」の追求は、結果として、「上記3の起因」が「家訓9」で論じた様に「屯性」を極める為、且つ、「上記3の起因」が「屯性」を高める為に発露されたものであって、これを補完している事に筋道として成るのである。

”背景3 「神仏習合の思考原理」から起因している。”とするこの上記の「背景3の起因」はまさしく「准条理」と云えるであろう。
何故ならば、「家訓9」で論じた様に、「神仏習合」の結果に依って「青木氏の密教の考え方」が構成されているのであるから、又、その考え方が「家訓10」の ”子孫を遺す事一義あり”を側面から補足補完しているとすると、「家訓10」を条理とすると「准条理」と位置付けられる。
故に、「家訓9」では「和武の戒め」として、「3つの発祥源」の「武の象徴」でありながらも「武の精神」を採れない立場にあり、「禁じ手の商い」による「和の精神」を構築せざるを得なかったのである。
この「神仏習合の考え方」が「准条理」の位置付けと成る以上は、「武の精神」ではあり得ない事が理解できる。そこで、「武」に付いて先ず論じる。

>「武の精神」
そもそも「武の精神」は、「武」である限りその立場を保てば、「武」を以って事の解決に当る事に成る。
そうすれば「戦い」を否定出来ず、より「子孫存続の危険性」は高まり、”子孫を遺す事の一義”を完全に全うする事の可能性が低く成るからである。
如何なる事があっても「屯」を構成する社会の「特異な立場」にある限りは、「子孫を遺す事の一義」は絶対なのである。
可と云って、「和の精神」だけではこの「絶対の子孫を遺す事の一義」は保てない。
「和」であるからと云って、”他から「武」で攻めらない”とする保証は全く無く、自らが「武」を以って他を攻める事は勿論無いにしても、この保証を自らが「和」で担保しなくては成らないのである。
「武の象徴」でありながら「和」で以って担保しなければ成らない矛盾を孕んでいるのである。

つまり、「特異な立場」とは単純に「特異」とするものでは無く、「矛盾」を持った「究極の立場」にある「特異な立場」なのである。
これは、氏家制度の中で「融合氏」が多く居れども、又”日本広し”と云えども、唯一「青木氏」にのみ課せられた一般に理解され難い「究極の立場」と云える。
然し、この「担保」の為にあからさまに「武の手段」を以ってしては出来ず、「抑止力」と云う手段を酷使しなければ成らないのである。(抑止力付いては{青木氏の守護神]で論じた)
例え、この「担保」の為に「武の象徴」の「親の象徴」である「天皇家」から「不入不倫の権」を与えられている「唯一の氏」であるとしても、あくまでもそれはただの「象徴の権威」であって、他氏がそれの「権威」を認めなければ何の意味も持たないものである。
この場合には、「不入不倫の権」は、他氏の青木氏に対する「信頼と尊厳」が裏打ちされている事が前提と成る。
然し、そもそも、その「信頼と尊厳」は、通常は決して「武」に因って裏打ちされるものでは無く、「和」に依って得られるものである。
然し、その「和」も「商い」だけで得られると云う決して生易しい前提では無く、むしろ、「青木氏の特異な立場」に執っては「商い」は「禁じ手」でもあるのだ。
「武」であって「和」の「道理の矛盾」と、「和」であって「禁じ手」とするこれも、あからさまに究極の「道理の矛盾」である。

では、この2つの”「究極の道理の矛盾」をどのようにして解決するか”と云う難題が横たわる。
これを解決するには、”他氏からの「信頼と尊厳」はどのようにして獲得されるのであろうか”と成る。
それは「上記3の起因」、即ち、「神仏習合の理念・考え方」と「その立場と生き様」に依って得られるものであった。決して、血なまぐさい「武に依る生き様」ではなかったのである。
故に、「上記2の起因の条理」の追求には、この「上記3の起因」の「准条理」が必要条件であったのだ。

(注意 「武の象徴で和」の「生き様」は、次ぎの投稿予定の「伝統品シリーズ」でこの辺を明確にする)

それは次ぎの数式論で表される。
>「1の起因」+[「2の起因」+「3の起因」(准条理)]=「信頼と尊厳」=「和の条理」
>「和の条理」=「禁じ手」=「絶対的な順手」←「道理の矛盾」

>「和の手段」
そして、「和」の禁じ手の「商い」はこの「准条理」を「下支えする手段」であって、直接的な「和の手段」では無いのである。
「禁じ手」でありながらも、これ以外に上記する「青木氏の和」(「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」)を達成させられる「合理的な手段」は無く、依って「絶対的な順手」でもあったのである。
「武の象徴」でありながらも、「和の精神と立場と生き様」を絶対的に守らなければ成らない事の「道理の矛盾」と同じく、「和の商いも禁じ手」でありながらも、「子孫を遺す事の一義」、即ち、”「信頼と尊厳」を守る為には、「絶対的な順手」でもある”と云うこれまた「道理の矛盾」を孕んでいたのである。
(3つの「道理の矛盾」と成る)
「家訓添書」には、この「家訓10」(刹那の戒め)に対しては、”「道理の矛盾」”とは明確に説明してはいないが、”この「現世の道理」には、何も全ての「道理」は全く「矛盾」を孕んでいない”とする「完全無欠論」では無く、”この「矛盾する道理」も存在するのだ” とする説を「青木氏の古代密教」として説いている様に読み取れる。
これこそが”「拘るな」”の教えであろう。

>「道理の矛盾」=「子孫を遺す事の一義」→「青木氏の古代密教の教示」←「拘るな」
>「道理の矛盾」=「武の象徴」><「和の精神」
>「道理の矛盾」→「禁じ手」=「和の商い」+「信頼と尊厳」=「絶対的な順手」

「道理の矛盾」(究極の立場)
「青木氏に課せられた究極の特異な立場」の様な事がこの「現世」には時には存在する。
その時、「完全無欠だけの考え方」に拘泥すれば事は成し得ない事が起る。
そのままの「完全無欠の考え方」では「喜怒哀楽」に左右され、苛まれて遂には「煩悩」は発露する。
その「煩悩」を排除するには「智慧」である。その「智慧」は ”「拘り」”からはその「善なる智慧」は生まれない。
そこにこそ「無意識」の中の「善なる智慧」から生まれた”許された「道理の矛盾」”が存在し得る。
”この究極の「道理の矛盾」を悟れ。!” と「家訓10の解決策」を読み取るには、「家訓9の教え」を以って解釈すればでこの様に成るだろう。
「先祖の意思と教え」とする「家訓10訓の添書」はこの事を暗示させているのであろう。
この事そのものを添書で直に教示してしまえば、”それは文書から得た「単なる知識」に終り生きない。
つまり、「無意識の脳」で思考して得た ”「拘り」のない「悟り」” は「経験」を得て「知識」と成り得て生きる。”としているのであろう。真に、この事は「家訓8」に教示している事である。
況や、”善なる無意識から発露した「智慧」”は、「知識」+「経験」=「智慧」と成り得る。
故に、事細かに何も添書で述べる必要は無いのである。
先祖が教示する「神仏習合の考え方」から得た「家訓10訓」(1-10)を充分に理解し認識して後に ”拘りの無い「智慧」”で発露し、深層思考すれば、この「現世の諸事」は全てを解決し得る事を教示している事になるのである。(況や、「家訓9」の「ミトコンドリヤの無意識の智慧」である)

筆者は、これを「道理の矛盾」と呼んでいて、「家訓9」で論じた様に、これが「般若心経」の「色不異空 空不異色」「色即是空 空即是色」の「拘るなの心経」=「道理の矛盾」 と信じている。
この「道理の矛盾」こそが、「累代の先祖」が伝える「子孫を遺す事」(家訓10)、即ち「生き残る為の心経」であると観ている。

>「道理の矛盾」=「古代密教の教示」
>「道理の矛盾」=「子孫存続策」=「現世の心経」(拘るなの心経)=「青木氏の秘伝」=「家訓」

この「家訓10」に示す「道理の矛盾」で、「家訓1」から「家訓9」を考え直して観ると「真の意」(深意)を読み取る事が出来る。
これこそが「悠久の伝統」のある「古代密教」の教えを組み込んだ上記の数式論に成るだろう。
「家訓9」に続けてこの「家訓10」を最終に配置した深意がより判る。

>「教示の弱点」
では、何故に「道理の矛盾」としているかは、この「家訓10(刹那の戒め)」の「刹那の戒め」とした事で判る。
この現世に於いてこの「道理の矛盾」を唯一にして破壊するものが存在する。
それは”「喜怒哀楽」に拘る事”である。 即ち、「心理の弱点」である。
「道理の矛盾」は、究極の位置にあるが為に、この「現世の条理」として相対する「心理の弱点」には脆弱なのであろう。

>「道理の矛盾」←「和の達成」→「心理の弱点」

「家訓9」でも説いたが、「刹那」即ち、「現世の喜怒哀楽」に拘ると、”「煩悩」に苛まれる”事が起る。 そして、”「煩悩」に苛まれる”と「青木氏の特異な立場」を全うする事の確率を低下させ、強いては「子孫を遺す事」に支障を来たす事に成る。
従って、「古代密教の先祖の教え」は、”この脆弱さを克服させる為に「刹那の戒め」とした”と考えられる。
だが、然し、「現世の人間社会」に於いて完全に「喜怒哀楽」から離脱する事は不可能であり、”「喜怒哀楽」から離脱する事”に拘泥する事は、それこそが「密教の仏説」の「拘り」に至る。

そこで、ではどうすれば良いのかと云う事に成る。
「家訓9」と「本論の序」で記述した ”「涅槃への道」には、「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」であらねば成らない。”と説いている通りの「心経」を持つ事にあるだろう。
この「刹那の戒め」とは、この事を意味している。
つまり、要は ”「刹那」に捉われては成らない”としているのだ。
これは普通に考えれば、 ”刹那に捉われては成らない”とするのであれば比較的簡単である。
判りやすく云えば、次ぎの2つの「思考の視点」の通りであろう。

視点 A 「今」だけに「思考の視点」を置いて生きる姿勢を採るのか、
視点 B 「先」を強く観て「思考の視点」を置いて生きる姿勢を採るのか、
以上のA−Bの「2つの差」である。

一般的に云えば、この程度の事であれば、ある程度の「長としての資質」を持っていて、それを磨く事が出来ればその度量は獲得できるだろう。
但し、その資質も「論理主観の範囲」に於いて成し得る。
然れども、この「資質」とする前提は、この「長」として事を果せる「論理主観の持ち主」であるかどうかに関わるのだろう。
然し、多くの「人様」で構成する「組織」(氏)には、この「論理主観の強い持ち主」では無くては弱い論理主観者が多い「現世の人様」の中では、「感情主観論」が横行するはこの世の常である、
個々に異なる「感情主観論」を「組織」(氏)として一つの考え方に取り纏める事は、「至難の業」であり、先ずは不可能である。
ところが、そもそも「感情主観」では「喜怒哀楽」に左右されやすい傾向があり、「喜怒哀楽」に傾けば必然的に「刹那主義」に成り安い。
依って、多くの「人様」で構成される陣容の「組織」(氏)は「刹那主義」と成る。
この「刹那主義の組織」では、「3つの道理の矛盾」を持つ「特異な立場」の「青木氏の組織・氏」を保つ事は不可能である。従って、「論理思考の組織」が必要と成る。
この「刹那主義の組織」を「論理思考の組織」に切り替えて維持するには、そして、その「組織」(氏)を導く「長」には、「相当な資質」を持ち得ていなくては成らない理屈と成る。
当然に、”相当な理路整然として整理された「論理主観」とその「説得力」” を持ち得ていなくては成らない事に成る。

>「論理的主観的な資質」
この様にそもそも単に組織に対応するにも「長」には誰でもが持ち得ていない相当な「論理的主観的な資質」を要求される。
況して、何度も繰り返すが上記する「特異な立場」にある「青木氏」では尚更の事であり、相当な「論理主観の資質」を有する「長」で無くては務まらない事に成るのである。
因って、故に、「長の資質」は少なくとも”「感情主観」で起る「喜怒哀楽」”に左右される「刹那主義」の者では駄目なのである。
言わずもがな、これは「家訓4」(性の定)で論じている「訓戒」でもある。
いずれにしても”「長]は前者Aでは駄目だ”と云う事である。
もし、これだと結局のところ行き着く所は、”「子孫を遺す事」に行き着けない”という事に成ると説いている。
要するに、「子孫を遺す事」には極めて確実性が低下する事に成り、それを戒めている事になろう。
つまり、”「子孫を遺す事」は、簡単である様に観えて決してそう簡単ではない” と云いたいのであろう。
その前提は、上記する「特異な立場」の組織であるからであって、「氏家制度」の中で「古代密教」に立地した「特異な立場を持つ組織」を抱えていたからであろう。
この事から、世間が普通に考える程以上に、「青木氏」の者達は、「子孫を遺す事」と云う事が如何に難しい事であるかを知っていた。
「累代先祖の経験」(a)と、「神仏習合からの教え」(b)を「家訓」とし、それを事前に認識して得た知識」(c)と、其処から得られた「子孫の自らの経験」(d) も通して認識していた事が判る。
決して、家訓にある以上は「青木氏の者達」は、上記した”「刹那」に捉われては成らないとするのであれば比較的簡単”と云う様には考えていなかった事に成る。
普通の「平安期までに認証された氏」に比べて、「青木氏」は ”大変で異質で特異な立場” であって、「青木氏の者達」に課せられた負担は如何に大きく難しかった事が判る。

勿論、「主導する者達」だけでは無く「一族郎党」までがこの事を認識し、「一族郎党」が露頭に迷う事の無い様に、故に「長の資質」に付いても上記する「家訓の深意」に示す様な「長の高い能力」を要求していたと考えられる。
そして、自らもその「家訓10訓」を理解し率先して実践したと考えられる。
況や、「訓」に「戒」を添えて「長の心得」も併記したと観られる。
この事に依って「長」と「一族郎党」が「同じ訓戒」の中で生きて行く道筋を明示させたのであろう。
ここが「青木氏の特長」(「長と一族郎党の習合」)と云える処だ。
普通の「氏」であるのならその「長」は、「特別な立場」にあるから「長の心得」の様なものを作るであろう。然し、この「特異な立場」で「特別な立場」の「長」が、この「家訓の書式」にも「青木氏特有の繊細な配慮」が成されていたのである。
真にこれも「青木氏の神仏習合」と同じく「長と一族郎党の習合」であろう。
「青木氏」を語る時、諸事事如く見事にこの論調である。感嘆する程に見事である。
況や、「神仏習合」から発した「古代密教の教示」を「家訓10訓」に収め、其処から発する思考原理である事に成る。
これは「青木氏一族郎党」は如何に結束していたかを物語るものであるし、他氏では決して成し得ない仕儀であろう。
何故ならば、他氏には比べものにならない程に、青木氏には「和」に基づく「特異な立場」の「悠久の歴史」を持っているからである。

>「精神的負担」
然し、この状態を維持する事は容易い事ではない。そこには、逆に他氏には理解出来ない何かが伸し掛かっていた筈である。
では、”どの様に考えていたのか、又、何が負担として感じていたのか”と云う疑問が生まれる。
それは、”「武の象徴」でありながら「道理の矛盾」で生きなければ成らない「和」の「商い」で、生きる事が大きな「精神的な負担」と成っていたのでは”と推測している。
そもそも、それは「禁じ手の商い」の「禁じ手」とする「社会の慣習」にあったと観ていて、その「禁じ手」とする「慣習」の出所は、次ぎの2つの場合が考えられる。

出所1 「氏や民からの発言」なのか
出所2 「公家衆などからの発言」なのか
と云う事であろう。

この2つ場合に依っては ”「禁じ手」から来る青木氏の「精神的な負担」”は変わる。
「禁じ手の商い」を採用している「青木氏の行動如何」を批判するのは、後者の「公家衆などからの非難発言」であった筈で、「青木氏」のちょっとした行動や組織運営や発言がそれを捉えて「非難発言の根拠」に成り、それが当時の社会では ”子孫存続に大きく左右していた”と考えられる。
故に、「家訓10訓」で上記する「特異な立場」に支障を来たさない様に、一族を「古代密教の教え」の方に導き管理していたのであって、”それを主導する「長」は「普通の資質」の者では成立たなかった”と考えられるのです。
そうなれば「長の資質」があったとしても「青木氏の特異な立場の国策」を果す実力と、それ以外に「相当な精神力」が必要とする事に成る筈で、「公家衆」を相手にする以上は、 「繊細で戦略的な先見眼」 をも持ち合わせていなければ成らない事に成る。
その要求されるこの「精神力」は、「公家衆」を威圧する位の>「度量と人格」 をも持ち合わせていなければ成らない事に成る。
そうで無ければ彼の有名を馳せた「公家衆の知力」に左右されてしまう事に成り、「絶対的子孫存続」は当然に成し得ない事に成る。これは組織云々の以前の問題であろう。
”「公家衆」を威圧する位の「度量と人格」”とも成れば、先ず若い者では経験が左右する事である為に無理である。
つまり、「公家衆のあらゆる癖」を見抜き把握しておかねば成らない事に成るからだ。
そして、その読み取った癖から先手を打って「緻密で戦略的な先見眼」で読み取った策を抗する事で機先を制する事が出来る。
この「繰り返しの経験」に依って「公家衆」を威圧する事が出来る様に成り、恐れさせて「青木氏」に対するが姿勢が変わる事に成る。
それが可能に成らしめる「長」に対して、その時”「度量と人格」は備わった”と云われる事に成る。
これは青木氏の特有の「陰の力」、即ち、「抑止力」が必要である。
これも「武の力」に依らずに ”相手を警戒させ威圧する強い印象力” 即ち、「抑止力」である。
当然に、「シンジケート」に依る「抑止力」も加わって「公家衆」に威圧を与えて、「子孫存続」に不必要な負担を排除するのである。
これ等の印象が「青木氏の時の長」に加わり、更に、「緻密で戦略的な先見眼」を持つ「繊細な長」に、この「2つの抑止力」に依って「造り上げられた人物像」が加わり、結果として「他者」に「警戒心」を連想させて「別の人物像」が造り上げられるのである。
「公家衆」等には、これに依って ”優れた「大者」”と感じ取らせるのである。
これが「青木氏」に許された「和の戦略」 なのである。

>「特記 家訓の経緯」
経緯A
上記した様な背景を持つこの「青木氏の家訓」には実はすごい歴史を持っている事が判る。
そこで、敢えて此処で「青木氏の家訓の経緯」を述べて理解を更に深める。
「青木氏」の始祖の「施基皇子」は、「天智天皇」(父)と「天武天皇」(伯父)と「持統天皇」(妹)のこの「前3人の天皇」の歴史上希に観る「優秀な宰相」を務めた「淨大一位の最高軍略の司」であった。
(「淨大一位」は天皇に継ぐ位である。)
「前3人の天皇」には極めて信任厚く時の「皇太子」より立場、身分、官職は上であった人物で、故に、大化期の「始祖の様な人物像」を「伝統的な資質」として求めている事がこの経緯から判る。
ところで、この家訓(原型)の「長像」を作ったのは、「始祖の施基皇子」自らか、或いは、その後の数代後までの末裔の「長」が「施基皇子」を「模範人物」として「長の姿」をここに求めたのでは無いかと考えられる。
それには次ぎに述べるある程度の根拠がある。
「始祖施基皇子」の子の「光仁天皇」や孫の「桓武天皇」や曾孫の「嵯峨天皇」のこの「後3人の天皇」は、この「繊細な人物」であった事が歴史史実として判っていて、3人に夫々その様な「繊細な性格」での問題処理の仕方や事件を起こしている史実がある。
(遺された歌詞からも「繊細な性格」であった事が評価されている)
此処では詳しくは述べないが「豪の者」では無かった事がはっきりと判る。
(この時代の政局は豪の者では八方に敵を作って務まらなかった筈)
歴史学会では「平安初期の研究」が最近富みに進みその全容が解明されて来た。
そこでこの3人に付いて少し検証してみるが、明らかに「繊細な資質」の持ち主であった事が判る。
事程左様に、この同じ血筋を持つ「青木氏」にもこの血筋が流れていた事が予想が付く。
そして、”この様な人物像を模範にした” と考えられるが、其処で、「青木氏とその家訓」を知る上で次ぎの様な歴史上の史実を最低は知って置く必要がある。

経緯B
先ず「光仁天皇」(709-782)は,「施基皇子の嫡子」(8歳で父と死別)として生まれていながら「皇位継承外」(朝臣族で賜姓族で臣下族)でありながら、「色々な背景」から天皇に推された人物(61歳即位)である。その天皇に成るまでの間の「前53年間」と、天皇に成った「後11年間」は実に波乱に満ちた人生経緯を持っている事が判る。
先ず伊勢に居た「前53年間」に、伊勢北部の隣人伊賀人の「高野新笠」を夫人としている。
その夫人は、「薩摩大隈」に定住していた住人の「後漢阿多倍王」が、その功績により朝廷より伊勢北部を更に半国割譲を受けて移り住んだが、その「帰化人の孫娘」である。
恐らくは、「白壁王」として伊勢にいた時に「隣人の阿多倍王の孫娘」と知り合っていたのではないかと予想できる。
この「伊勢青木氏の嫡子」であって8歳の時に施基皇子の跡目を継いだ「白壁王」は、「賜姓族」で「朝臣族」の「臣下族」の王位外であるが、「4人の伊勢青木氏嗣子」の中で特別に「施基皇子」(永代品位の資格保持)の嫡子として継承した為に、この継承者「白壁王」は、「春日王」と共に2人は王位に任じられた。

(参考 4世族までが王位に任じられるが、この5世族の「春日王」は「栗隈王」と共に九州に赴任定住した。後に両王一族は同族血縁している。
「施基皇子」には「四左京人」と呼ばれる4人の娘が居た。この4娘は歌に優れていた。「万葉集」にも歌が選句されている有名な歌人達である。)

後の兄弟2人は兄が「光仁天皇」に成るに従って、例外的に「特別な新王」(770年)に任じられた。

(「親王」と期されている書籍もあるが、正しくは「新王」である。この年に亡父「施基皇子」に「御春日宮天皇・田原天皇」の称号を送る。この天皇称号授受には意味があった。下記)

この「光仁天皇(白壁王)」には、正妻の「聖武天皇」の「井上内親王」との間に出来た「他戸親王」が居た。
ところが、この「井上内親王」と「他戸親王」が「ただ一人の遺子で女系皇族血縁者」であった事からそれを根拠に特別に「光仁天皇」に成り得た人物である。
(「下記に経緯を詳細に論じる。)
その経歴は極めて波乱万丈に満ちた生き方をした。
”61歳で即位した事”や”愚者を装った事”等から成りたくて成った天皇では無く、政変続きで殆どの親王や皇位後継者に類する者が粛清されると云う「恐怖政治」の状況の中で、酒をのみ愚者を装って粛清の渦中から逃げようとした人物であった。歴史上有名な事件であった。
この為に、在位中に正妻の「井上内親王」やその子「他戸親王」の2人が暗殺されるなど悲惨な在位であった。
この様に、明らかに”愚者を装うほどの繊細な人物” で攻撃的な性格の持ち主では無かった事が判っている。

経緯C
この時代は激しい政変劇を繰り返していた時代環境であったので、周囲をよく見渡して繊細にして戦略的に生きなければ成らない社会環境であった。

(「近江令」や「善事撰集」の例に観る様に、「素養・修養・人格・度量の低下」の社会環境がこの時代にも解決されずにこれが原因となっていた証拠である。下記に論じる。)

この様な環境の中での僅かに遺された歌から観る人物像も繊細である。
この様な乱れた政界の中で、10年も上手く戦略的に立ち回った「繊細な人物」であった事が記録として遺されているが、「繊細な人物」、且つ、「長としての資質」を有する人物で無くてはこの在位期間を保てなかった筈である。
歴史的には、”始祖の「施基皇子」に似ての資質を持つ人物であった” と評されている。
その子の「桓武天皇」の「平安遷都の前後の波乱に満ちた行動」や「律令国家の完成と公布の時の態度」からその「繊細な性格的な事」が歴史学的に「平安初期の研究」で解明されている。
「桓武天皇」は有名な天皇であった事からその人物を語る史実や歌が多く遺されている。
「青木氏の守護神(神明社)」のところで論じたが、実家先の青木氏を排斥する等の繊細で辛い事を敢えてしてこれに堪えてする事をしながらも、自らが「青木氏の職務の神明社の建設」を代行して神明社20社も建設した繊細さが覗える。
「嵯峨天皇」も「平安初期の父の施政」に対して異論を持ち、父兄に対しても「身内の戦い」をしてでも「繊細な感覚」で「施政や社会の有り様」を見抜いた意見を持っていて、天皇後に成った時にそれの実現に向けて歴史上最も多くの繊細な政治的な行動を採った人物でもある。
この時の状況を歴史学的に「最近の研究」で解明されている。

(「青木氏」に変えて「第6位皇子」の賜姓を「源氏」にし、その「源氏」に対して「賜姓族と朝臣族と臣下族」「3族の格式」を限定して落として、同族としての「青木氏の優位性」を保った。)

矢張り、この研究から平安初期前後の「施基皇子の末裔3者」とも「繊細な感覚の持ち主」であった事が判る。歌も遺されているが繊細な歌調と評されている。

経緯D
この様な環境の中で、少なくとも、「嵯峨天皇」は、「青木氏」に変えて第6位皇子を朝臣族として「嵯峨源氏」を始めて賜姓した天皇であるとすると、この時、祖父の実家先の「伊勢青木氏」と「4家4流の賜姓族青木氏」は、それまでが「青木氏」であった賜姓が、急に「源氏」と変名され、詔勅でこれまでの「朝臣族の扱い」と違っていた事を非常に警戒した。
(「桓武天皇の仕打ち」もあり、更に自分達も「特異な立場」の務めを外されるのではないかと警戒した)
況して、「光仁天皇」から続く「政変粛清」の中であるとすると、その時の「青木氏一族」は「粛清の荒波」を受けてその存続をさえも危ぶむ事に必ず成っていた筈である。
当然に「律令国家建設」を目指した「桓武天皇」は、実家先の親族を含む「皇親政治の5家5流の青木氏」を排斥した事もあって、「嵯峨天皇」はその「危機感」から何とかして「5家5流の一族」を救い纏める必要に迫られていた筈である。

(青木氏だけは「3族の格式の限定」をそのままにして置くべきと考えた。だから、「青木氏の氏名」は使用の禁令を発し、皇族の者が下俗する際に用いる氏名と限定したのである。況や「皇族青木氏」の5氏である。)

「近江令」や「善事撰集」の目的が「素養・修養訓」であった様に、この様な粛清が連鎖的に起る事には、「皇族・貴族・高位族」に連なる者の「素養や人格」に常習的な「社会的問題」としてあった事に成る。
その為にも、この問題を解決すべく「青木氏」としては、その「特異の立場」を護る為に何か「統一した行動指針」なるものを敷いて、「護り本尊」の「生仏像様」の下に結束を強めたと考えられる。
この時、その「行動指針」と成るものを「施基皇子」が全国を歩き回って集め各地の「慣習や仕来りや掟」等を集約編集した「善事撰集」を原案としたと考えられる。
ただ、「公布中止」と成っていた100年後に「善事撰集」を突然に引っ張り出して原案とするには無理がある。この原案とするには其れなりの過程があった筈だ。

経緯E
その「善事撰集」にはこれ等を裏付けるはっきりとした経緯がある。それを先ず検証する。
始祖の「施基皇子」の大化期の時に「公布中止(689年)」と成ったが、「5家5流の賜姓族(青木氏一族)」には「施基皇子の善事撰集」を無駄にする事無く、「青木氏の末裔」には「賜姓族としての生き様」(特異な立場)に「参考」程度にする様に「施基皇子」に依って「青木氏一族」に配布されていた事が考えられる。
「善事撰集」は689年廃止で「施基皇子」716年没からこの間28年間があった。

この間に上記した様に、「素養・修養・人格・度量の低下の社会環境」があって、その為に苦労して作った「善事撰集」を放り投げて、28年間の充分時間があっても何もしなかった事は考え難く、又、「国策氏」などの「特別な立場」を持っている「青木氏」が ”知らん顔”は通らない事からも、既に一族のものとして配布されていた事が充分に考えられる。
それが「訓戒」までに至らないとしても、「慣習・仕来り・掟」等として参考程度の経緯があったと充分に考えられる。「参考か要領程度」のものであったと考えられる。
(状況証拠より「要領」と観ている)
普通に考えれば「素養・修養・人格・度量の低下の社会環境」の中で、何とかしようとして苦労して作った「施基皇子の善事撰集」を、「大化期3代天皇」の「宰相」として務めた程の優秀で賢い繊細な資質の持ち主の「施基皇子」自らや、その血筋を引いた「5家5流の一族」が、絶対に放置する事は先ず無かったと考えられる。
「純血血縁の同族血縁」を繰り返している一族としては、むしろ、「持統天皇の指示」もあり、背後で積極的に自信を持って「公布運動」を起こしていたと考えられる。

実は、この事に付いて「歴史上の経緯」で証明出来る根拠がある。
「日本書紀」の記述に、「天智天皇」「天智天武」「持統天皇」の「大化期3代天皇」の施政代行者として各地に発生する諸問題を「施基皇子」に解決させていた事が詳細に記述されている処から、その経験を活かして「最後の仕事」して「善事撰集」の「司」として編集を妹の「持統天皇」に命じられた経緯が記録されている。
(注意 「善事撰司」は「撰善言司」と表記するものもある。「撰善言集」や「善言撰集」の表現とするものもあるが、筆者は添書からその中の一つ「善事撰」が内容から相応しいとして選択している。)

実は、その皇族や貴族の高位族の子弟に対して、その「素養・修養書物」として編集したとされる「善事撰集」(689年)の「取り扱い」では、正式に法令化はされなかったが、この結果、その文脈から臣下した「賜姓族の青木氏」の「素養・修養書物」として「要領か参考」にした事が読み取れる。
この直前に「天智天皇」に依る「近江令」(671年)が公布されている事を考えると、この「善事撰集」の存在の意味合いが疑問視されるが、「近江令」との間で何かあった筈である。
「近江令」も評判は良くなかった事は判っている事から、それから10年しか経過していないのである。
2つ重ねて「類似の法令」を出す事は社会も変化していないし、同じ結果を招く事に成り考え難い。
実は、この「近江令」の「令」としての内容には疑問視されていて、実際に公布しているものの実行されたかは異論異説のあるところで、その原因は「民事内容」の「令」で「刑罰」の「律」の内容が含んでいなかった事から実効性は無かった事が一つ挙げられる事、もう一つは「令」の民事の内容が修養を中心とした内容であった事から、公布したものの「実行性と実効性」とに欠けていた事が法学の歴史学的研究で判っている。

経緯F
恐らくは、「持統天皇」は、この反省から更に内容を高める為に実際の各地の民の中から集めたものを「善事撰集」として編集して「実行性」と「実効性」のあるものに仕上げようとして編集さられたものであろう。
「善事撰集」は一応「素養・修養内容」とされているが、「天武天皇」の子供の学者「舎人親王」が編集した歴史書の「日本書紀」の中の文脈から推測すると、「慣習、仕来り、掟」の内容も含まれていて「律」に近い内容(慣習・仕来り・掟の類)も存在していた事が判る。(下記)

つまり、10年前に公布した「日本初の法令」とされる「近江令の欠陥」を修正して、「令と律」を含めた「法令の形」を整えようとした事が「抵抗と反発」を受けたと見られる。
皇族や貴族や高位族の者等から、”始めての事であった事から” 又、”人を律令で制御する”と云う風な事に、「法より人 石く薬」の考え方に染まっていた為に、 ”猛烈な「抵抗や反発」”を強く受けたと観られる。
”人を法令で制御する事”、”始めての経験である事”では、現世では、何時の世も”当然の成行きである事”ではある。
別の面で、この「抵抗や反発」の真因は、編集者が「施基皇子」の「臣下した賜姓族の朝臣族」であった事も原因していた事も考えられる。
それは上記した「素養・修養・人格・度量の低下の社会環境」の中で、「公家衆の性癖」(口煩い公家衆の「嫉妬と嫉みと怨嗟と揶揄」”)が大きく働いていたと考えられる。

そこで「抵抗、反発」「社会環境の低下」の原因と成った事が実は歴史史実としてあるのだ。
ただ単の「抵抗 反発」を受けた訳ではない。それならば朝廷は公布を中止する様な事は無い。
そんな事としていたら施策は何時までも実行出来ない。何時の世も利害などが働きある程度の反対はある。
当然に、他にも「公布中止」に至った「抵抗 反発」の大きな原因があった事に成る。
そもそも、この時代は「中国の思想」が色濃く反映していた時代であったが、この時期の中国には、次ぎの
>「古今善言」(南朝宋の范泰著-30)  と云う同じ様な法令訓例があった。(近江令の原案説がある。)
この「中国的な思考原理」が日本にも伝えられて大きな影響を受けていたのである。
つまり、この「書籍の発刊」から読める事は、中国でも同じ様に「法と人の問題」に就いて社会問題として議論に成っていた事を意味する。
だから発刊してそれが日本にも伝わったのであり、多くの皇族や貴族や高位族等に読まれたのである。
この「古今善言」(南朝宋の范泰著-30)が飛鳥−平安初期に入っている事が史実として確認されている。
ただ、中国の場合はその「考え方の思考原理」が少し異なっていた。
その中国でも振り返れば、「三国志の時代」の中でも、「劉備」が、国を興す理由としたのは、民の「素養・修養・人格・度量の低下の社会環境」を憂いての事であった。
”何故低下していたのか。”である。それは「中国」と云う「国の体質」から来ている。
中国では「三国志」の昔から ”法より人”とする同様の社会風潮の独特の問題があった。
現在でも「中国の思考原理」には、この”「法より人」「石は薬」”の「二つの考え方」が色濃く残っている。
我々に本人には理解され難い思考原理である。これが「中国の国民性」というものであろう。

経緯G
そもそも、中国は多くの民族から成り立っているが、その「民族の融合化」と云うものは起こっていないと云っても良い程度ある。
その原因は、”国土が広い”と云う事があって、「民族」が重なって生活をすると云う必要性がない事に因る。従って、「広大な国土」と「多くの民族」と云う事に成ると、統一した「法」で縛って統制する事は不可能である。
「一民族」の「広い国」の中は全て同族である。因って、同じ風習、同環境の中で育った者には考え方や感覚が慣習に依って統一化されている為に、「法」で縛って統制するよりは「人」で纏めて維持する方が国は安定する事に成る。
(中国の一民族の国は廻りを城壁で囲ってその中で民族が生活をする。その事に因って同習慣や同じ思考原理を統一させて人で統制する方式を採って来た。)
その為に最早、長い歴史の中で遺伝的な思考原理が各種の民族の中で、この「2つの共通する思考原理」が育ったのである。
然し、統一政権が代わる度に国境間で雑種が増えた。そして中にはその一部には逆の考え方をするものも増えて来たのであった。
中国の >”「法より人」「石は薬」” の考え方の中に、この影響で”「人より法」 「石は石 薬は薬」”の考え方が社会の中に蔓延って、社会問題と成っていた時期の事を物語る書籍の発刊であった。
その .>”「法より人」「石は薬」”の思考原理で書かれた「古今善言」 である。

然し、これに反して、日本人は世界に希に成る独特の「7つの単一融合民族」から成り立っている。
(他の幾つかの論文でも詳細に論じた。青木氏の守護神(神明社)」も参照)
「狭い国土と島国」の中で「7つの民族」を纏めるには「民族毎」に考え方が異なっていては国は統制出来ない。統制するには、先ず「民族」を「融合化」させて、一つにした考え方に集約する必要性が起る。
その「融合化」に依って、考え方が一つに成った事から統一した「法」で縛り統制する方法と成る。
その上での「人」の考え方に成る。(日本はこのプロセスを歩んだ。)
つまり、”「法より人」「石は薬」”よりは、 ”「人より法」「石は石」「薬は薬」”の思考原理が働く。
ところが、「法」で統制した国には「人」の「心」を纏める方策が必要である。
それが「皇祖神−子神−祖先神−神明社」であって、それを行うのは「青木氏」であって、「民族の融合化」の基点と成ったのが「青木氏」であって、それを推進する「国策氏」が「青木氏」であって、「人」の「民」を束ねる象徴で「臣下族の基点」が「青木氏」であって、「民の模範」とする氏が「青木氏」であって、「国の象徴」の「天皇」に対して、「氏の象徴」の青木氏であった。
況や、真に「法と人」の「人の部分」を荷っていた「青木氏」で「国策氏」なのである。
要するにこれが>「特異な立場」 なのである。

従って、「青木氏」は一般より余計に「人より法」「石は石」「薬は薬」の考え方が強かった。
(これが「善事撰集」の根幹である。)
依って、この時代は ”「人より法」「石は石」「薬は薬」”の考え方の中に、中国の「古今善言」等の全く「真逆の思考原理」の「中国の影響」を色濃く受けて、”「法より人」「石は薬」”の考え方が細菌の様にも「奈良期−平安初期」の社会の中に蔓延った時代であった。
特に「素養と修養」の為に、この書物等を読んだ「皇族、貴族、高位族」の者が、この上記した中国の考え方に染まり、”「真逆の考え方」で思いがけない「抵抗と反発」を受けた”と考えられる。

経緯H
既に「別論文」や「青木氏の守護神」の論文でも詳しく論じたが、この時期は後漢200万人の渡来人の「帰化人」が、洪水の様に入国していた事もあり、同時に彼等の「進んだ技能」と「仏教の伝授」と「進んだ生活習慣」等の享受を受けて、生活が向上し、全ての国民は「彼等の中国文化」に対して疑う事無く「信頼と尊厳」を向けていた。
その結果、「阿多倍王」等は無戦で関西以西32/66を征圧すると云う勢いであった。
先ず、民では誰一人疑う者や敵視する者は無かった筈である。「日本書紀」にもその事が詳細に記述されている通りである。

(この勲功で薩摩大隈と伊勢北部伊賀の「2つの半国割譲」を正式に受けた。「人」の国策氏の始祖施基皇子の伊勢国の半国割譲であった。「青木氏」とはこの時からの隣人の親交が始まった。不思議な取り合わせであった。)

然し、この現象を危険視した者が2人居たのである。
「「青木氏と守護神(神明社)」で詳しく論じた様に、特に阿多倍一族一門の勢力に因って起こっていた「以西と以北の自治問題」と「守護神の考え方」や上記した「社会の思考原理」で”国が割れる”と警戒していた。
それは、第一次の初期には「大化期3代天皇」、第2次の中期には「平安初期3代天皇」、第3次の後期には「平安末期3代天皇」の「皇親政治」を行った「天皇」であり、その下に働いた皇親族の「人の国策氏」の「特異な立場」の「青木氏」であった。
この3期の何れもが危機感を持ち政策を実行したが、全てこの「後漢人の考え方」の違い事が原因であった。

(上記した様に、”「法より人」「石は薬」”の彼等に対して、”「人より法」「石は石」「薬は薬」”の「青木氏」はこの「帰化人の立場」と「真逆の立場」にあった事を意味する。
これまた「特異な立場」な立場を証明する事である。)

経緯I
其処に、この「日本書紀」に記述されている様に、「国政」を進める「官僚」の殆どは、この「進んだ知識の帰化人」で、その「知識」で仕切られていたのである。
「古今善言の影響」のみならず、それを「受け入れる体制」そのものが完全に漏れなく出来上がっていたのである。
この「古今善言」などの「中国の影響」は、「人格、度量」は別としても、「素養・修養の低下」として社会の中に当然の様に現れたと観られる。現れない方がおかしい位に当然の成行きであった。

この現象が「近江令」にも現れていると認識した一次の「持統天皇」は日本らしい考え方の「善事撰集」として造り上げる必要があると考え、「人の国策氏」で「大化期宰相」の兄の「施基皇子」にその経験を通して編集する様に命じたと解析される。(名称も類似している)
恐らくは、周囲を見渡しても、この事の全てを理解した信頼でき適材な人物は、「青木氏の始祖の施基皇子」しか居なかったと考えられる。
故に、況して、この「中国の影響」を受けて、上記した様に「精神的な負担」に成る「皇族」や「公家衆」の「素養・修養・人格・度量の低下」の中では、当然にその上記する「資質低下」に因って起る”「嫉妬と嫉みと怨嗟と揶揄」”が猛烈にあった筈である。
取分け「反発と抵抗」も熱に犯されたかの如く大きかったと考えられる。
(この現象が「人」の「国策氏青木氏」に取っては上記した様に除し難い「精神的負担」に成っていた。)

そこで「持統天皇」と「施基皇子」は、「古今善言」の影響も考慮して、この編集に当っては画期的な方策を講じたのである。
先ず「7人の編者・賢者」を集めての力の入れ様で、当時で云えば、その顔ぶれは文句無しの各界の「最高の有識者」(官吏一人含む)で構成され、「国策氏・青木氏」の「始祖施基皇子」が自ら集めたものを編集すると云う画期的な形式を採った。
現在の民主主義の「有識者会議の答申形式」であった。大化期社会にあって驚くほどに”極めて斬新な形式”で纏められたものであった。
「近江令」の様に多くは「帰化人の官僚」が作り編集したとするものでは決して無かったのである。
「古今善言」に負けない信頼される「善事撰集」に仕上げようとしたと考えられる。

(編集する「帰化人の官吏」の上記する「法より人 石は薬」の考え方が、「近江令」には強く働いていた事があってか、「有識者会議の答申形式」を採ったと観られる。)

「日本書紀」の記述によれば、丁度、この時期には、この「官僚の6割」は「後漢の帰化人」が占めていた事が書かれていて、「天武天皇」は、特別に ”速く倭人の官僚を育てる様に”と命じている記述がある位である。
これは「古今善言」に限らず、「中国の影響」が官僚の中にも深く浸透して広がっている事を認識していた証拠なのである。
上記した ”「中国の古今善言」”なのか、”「法より人」「石は薬」”の考え方が働いていたのかは確証する充分な史実が不祥であるが、上記した様に状況証拠で、確実に何かの影響を受けていた事が考えられ、故に、「日本書紀」の「天武天皇発言」があり、それを”匂わせる記述”(舎人親王)と成ったと観ている。
何も無ければわざわざ”日常茶飯事の発言”を書かない筈である。何かあるから書いたのである。
その「善事撰集」の「編集責任者」は、上記した様に、そもそも「大化期3代天皇」に渡る大化期の最高功労者の「施基皇子」であり、従兄の「施基皇子」が自ら集めたものであった事、そして公布中止と成った事から、その”悔しさ、残念さ”を何らかの方法で表現して、”公布中止”と成った「裏の史実」を記録として遺したかったのであろう事が読み取れる。

経緯J
この様に、先ず人物や編集形式等に誰一人文句の付け様がなかった筈である事、”文句の付けようがない上で編集されたものであった事”を史実として公に遺し、他に”中止の理由”があった事を匂わしたと状況証拠から読み取れる。

恐らくは、”文句の付けようがない上での編集”にして”「抵抗と反発」の論処の一つを押さえ込む戦術に出た”と考えられる。
然し、公布は中止されたのである。中止されたのには「日本書紀」が匂わす何か大きな他にも大きな理由があった筈である。「舎人親王」の表現したかった事を「官僚」と云うキーワードで表現したが、赤ら様に彼は言いきれていなかった筈である。むしろ、”書けなかった”が正しいと考えられる。
「日本書紀」の「編集スタッフ」は全て「後漢の帰化人の官吏」(史部:ふみべ 「部」の長は「阿多倍王」の父の「阿智使王」 その配下の十二人)であった事が判っている。
首魁の「阿多倍王」や「阿智使王」の卒いる後漢人や官吏等の考え方で中止に追い込まれたとでも書けば、それこそ「日本書紀」も中止に追い込まれる填めに成る。そんな事は出来なかった筈である。

「青木氏の守護神(神明社)」−22の段で論じた様に、「青木氏の由緒」は「皇族朝臣族の賜姓族」と成り「真人族」まで含めた「純血の同族血縁族の5家5流賜姓族」であった。
「朝臣族」で「臣下族」で「賜姓族」でありながらも、皇族、貴族、高位族等の一般に云う「公家衆」等には家柄・身分・官位・官職一切が上位の「5家5流族」であった。
時の「真人族」であっても、「賜姓族」「臣下族」は下位ではあるが、しかし上位であると云う「不思議な立場」(逆転現象)、即ち、上記する「特異な立場」にあった。

(参考 元々、「始祖施基皇子」は天武天皇の皇太子の「浄広2位」に対し「淨大1位」で3ランク上の立場にあった。このような「特異な立場」にあった為に、この「賜姓族の立場」の「施基皇子と川島皇子」の二人は「他14人の皇子」等と「皇位継承争い」をしない事を吉野で永代で盟約した事で有名である。 吉野盟約)

周囲はこの「特異な立場」を繊細に認識していた事を物語るものであり、その騒ぎを抑える為にも、向後の粛清の混乱を防ぐ為にも盟約した。
母違い弟の「第7位皇子の川島皇子」も特別にその勲功により「近江の地名佐々木」で天智天皇より朝臣族で賜姓を受け同立場にあった。日本書紀にも記述)

経緯K
この様な中で、この公布されなかった事には、当然に「特異な立場の青木氏」に関わる事にも何かがあった筈である。
其処で、”その何か”を探る必要がある。
この「近江令」にしろ「善事撰集」にしろ共通するところは、要は「皇族」「貴族」と「八色の姓」の「高位族」の者が対象者であって、特にその子弟に宛がわれる意味合いを持って編集されたと云う事である。ここに先ず一つの意味がある。
上記した様な原因で起った「素養・修養・人格・度量の低下」で、その後の「平安初期3代天皇期」は「政変劇化の粛清の嵐」に成っていた事でも判る様に、「純血血縁族の5家5流の青木氏」に於いても、「皇位継承外」で「朝臣族」で「臣下族」で「賜姓族」で「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」で、どれを取っても本来は継承外であった。
そもそも、「侍」の「臣下族」に成っている「氏」を構成する一族である。
「臣下族」は当然に継承外であっても論外の立場であった。
然し、「真人族を含む純血血縁族」であり、「不思議な立場」(逆転現象)の「特異な立場」であった事から、「政変劇化の粛清の嵐」は永代盟約を結んだ上でも例外とは見られて居なかったのである。
(男系皇位継承者が居ない状況の中で流れに牽きこまれて行った。)
むしろ、「白壁王」の例に観る様に、平安初期の「粛清の嵐」は「男系皇位継承者」が居なければ、次ぎは「逆転現象の青木氏」に向けられていた事は当然の事と考えられる。
”「臣下族」だ”等や”「吉野盟約」がある”等と言っていられない状況下にあった。
然し、「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」である限り、その身元を保障する為に「真人族」より何を取っても上位の位置に居た。逃れられない宿命であった。

(口伝の厳しい戒め・絶対遺訓:「世に晒す事なかれ」この事から来ていると考えられる。)

上記した「白壁王」の経緯がそれを物語る。「白壁王」が駄目ならば「他の一族の者」をと成るは必定であるし、政敵に取っては、「男系皇位継承者」がいない中で、「真人族」より上位の「臣下族」が居ると成ると”目の上の瘤”であろう。そうなれば、政敵から粛清を受ける事は必定に成る。

(政敵とは女系継承論者の事 7代も続いた女系天皇の社会 女系天皇で利を大きく持っていた族の事で、匿名にして「有名で大きな有力な政敵団」がいた。)

其処で、「善事撰集」が公布中止されたものの、政界は兎も角も、「青木氏」にとっては「特異な立場の青木氏」(3つの発祥源、国策氏、融合氏)を何が起ころうが絶対に護らねば成らない宿命を永代に帯びている。

経緯L
とすると、これを護り抜くには、何かしなくては成らない。
そう成れば、上記した様に、先ずは「青木氏」の「法の立場」では無く「人の立場」である。
そこで、この「青木氏」は ”その「人」を形成する事で「特異な立場」は護れる”と考えるが普通である。
(「古代密教の教示の立場」にあった「青木氏」は別の考え方をした。)
然し、この時期は「中国の思想」を大きく影響を受けていたとすると、”「法より人]の考え方の中で「人」を育てて「法」を求める”とする一見して矛盾する計画であった事に成る。
そもそも、考えても根本からこの理屈はおかしい事に成る。
「素養・修養・人格・度量の低下」を防ぐ為に、「法より人」の考えを優先するのであれば、「法」を敷く為に「人」を育てても「法」は守られない事に成る。
完全な「論理矛盾」であった事が「青木氏」の中で間違い無く起こっていた事に成る。
然し、「人」を育てなくては「氏の資質」は上がらない。これは「国策氏青木氏」としての「長の命題」であった。(これが「長の有り様」を重視する「青木氏の所以」である。)
「青木氏の長」は上記した3つの「道理の矛盾」の立場にあって、尚且つ、この4つ目の「論理矛盾」を抱えた事に成る。
「善事撰集」は日本に適した「人より法 石は石 薬は薬」の考え方の下に纏められたものである。
その国が公布しなかった「善事撰集」は、「青木氏」に取っては、最早、「始祖の遺訓」である。
これを先ず「青木氏」は優先して護らねば成らない。
とすると、”「青木氏」だけは「古代密教の教示」に従っている” と成ると、周囲の「一般の思考原理」とは前提が異なる事と成る。
その「古代密教の教示」とは、”何事も次ぎの様に成せ”と説いている。

>・「2つの教示」
>「三相の理を得て成せ」
>「人を観て法を説け」

「遺訓」(「善事撰集」)には以上の「2つの教示」が働いたと考えられる。

(この2つは「家訓3」と「家訓5」に遺されている様に最も「伝統的な教示」であって、現在の末裔にまで代表的な考え方として”耳に蛸”の様に色濃く伝わっているが、この「2つの教示」は、「施基皇子の遺訓」(「善事撰集」)の中の一つであったと考えられる。)

経緯M
この「古代密教」の「2つの教示」を前提にすると成ると、”「法」を「氏」に敷いて「氏」を先ず固める必要があると成る。そして、「人」はその強いた環境の中で育てる”と成る。
つまり、「青木氏」は「法と人の関係」は、「古代密教の教示」の「三相の理」で先ず考えた筈である。
”「法より人」「石は薬」”と、”「人より法」「石は石」「薬は薬」”の考え方に付いては、「古代密教の教示」(2つの教示)から、”何れも正しい”と先ずはした筈である。
然し、それは、「古代密教の教示」から、先ず一つの”「人、時、場」の「三相の条件」に因って異なる”と考えた事に成る。
そこで、「法>人」=「法<人」とすると、次ぎの様に成る。

「人」の要素は、「抵抗と反発」の「素養・修養の低下」と「特異な立場の青木氏」
「時」の要素は、「政争と粛清」の「混乱期と危険な立場の青木氏」
「場」の要素は、「都」と「賜姓族地の5家5流地」

この三相で勘案すると、思考の優先順位は ”「時」>「場」>「人」である”と成る。

この「配列如何」に関わる結論と成り、これが「長」の判断する「資質の有無」の差に成って現れる。

(故に、「氏の行末」は、「古代密教の2つの教示」がある限りは、「長の資質の如何」に関わると「家訓」ではしつこく説いているのだ。そして、その「資質」を何度も論じるが「繊細な資質の人物」等と厳しく戒めている。)

「古代密教の青木氏の教義」として「青木氏の長」はこれを考える力を常に強く要求されている。
これには上記した様に、「繊細な資質」から来る「情報の取得能力」が要求され、「論理的思考」が要求され、これに「堪えうる精神力」が要求され、「戦略的な洞察力」が求められるのである。
この「2つの教示」に関っているのだ。
”「長」がこの「資質」を備え、この「三相の理」で事の判断を成せば「氏」は救われる。”とし、この「青木氏の長」は、この時に、「時」>「場」>「人」と判断したのである。
そうなれば、先ずは、「人の資質策」で云々の策ではなくて、同族で「純血血縁族」の「氏を固める策」を講じる必要がある。「同族血縁族」である「氏」を固めると成ると、「特異な立場」で共通し、同じ「義務と目的」に向かって邁進している以上は、「法」を以って統制して”身を固める”とする策に出る事が最も効果的である事に成る。
その策の「法」は、必然的に、「施基皇子の遺訓」の「善事撰集」であり、それ以外には無い事に成り、それを固めるに必要とする「氏に合った編集」に関わる事に成る。

・「時」の要素が、先ず優先的に解決する事が急務であり、「氏の存続」に大きく関わる「混乱期」では、先ず”身を固める”が道理、然すれば、身が固まれば ”「場」>「人」の対策に入る”が常道と成る。
そして、それが下記に示す”「施基皇子の遺訓」の「善事撰集」の編集経緯−1〜6”と成ったと考えられる。(家訓は詳細には次ぎの「6段階の経緯」を経た)

・「場」の要素としては 時の要素 で”「法」で統制して身を固めた”とすると、「法の適用する範囲」を要求される。
それは一次的な範囲の「5家5流の氏の範囲」で限定して効果的にする為に行う事と成り、他の「場」の要素としては「女系・縁者等の色々な範囲」に拡げて「法」を適用しても、「最優先する時の要素」に対応出来ない。
そこで「2次的な範囲」はその結果次第で、「漸次暫時」で対応する事の判断と成り、直ぐに今求めない事と成る。

・「人」の要素としては、「時」と「場」の要素の対応が叶えば、最後は「氏の資質」を高める事に成るが、但し、この際、「時」>「場」を優先した戦略と成っている以上は、「一族一門」と「一切の郎党」に至るまでに、この全てに同じ論調で資質を高めようとしても、”それは無理だ”とと説いている。無理だと成れば、ここが、「古代密教の教示」のもう一つの「人を観て法を説け」に従う事に成る。
そもそも、現世の「政治基本」は何時の世も「法と人の関係」に依って成立っている。
その「法」に対しては「青木氏の基本の思考原理」は「三相の理を得て成せ」であった。
そして、「人」に対しては「人を観て法を説け」であるのだ。

(「始祖施基皇子」は「政治の基本」の「法」の為に「善事撰集」を造ると共に、公布中止と成った暁には、「人」の「国策氏」として「2つの教示」の理念の下に「氏」に「善事撰集」を敷いたのである。)

経緯N
つまり、この「2つの教示」は、「青木氏」に執っては少なくとも、生きる為の「一対の教示」、況や、生きる為の「経道」である。「生きる」を「心」とすれば、「心経」と成る。
この「古代密教の仏説」の「2つの教示」は「政治の基本」である事のみ成らず、「青木氏の心経」であって、故に、政治の「人」に関する基本的な事を実行する「国策氏」と成るのである。

>(1)「2つの教示」=「青木氏の経道」
>(2)「青木氏の心経」=「青木氏の経道」=「国策氏」
>(3)「古代密教]=「2つの教示」=「政治の基本」
>∴「国策氏」=「2つの教示」
>(1)=(2)=(3)
以上の数式論が成り立っていたのである。

何故ならば、それはそもそも、>”「人を観て法を説け」の「古代密教の教示」” がある様に、”「法」を優先して説く以上は、「人の如何」(人の有り様)を考えよ”と成る。
この「三相の理」に従う事のみ成らず、この「人を観て法を説け」の教示でも、根本的な文の構成は、「法」を説く事を前提にしている構成である。
況や、 ”「法」をベースにして「人」の要素を考えよ”と成っている。
決して、「法を観て人に説け」ではない。
あくまでも、”「法」を優先して基本として、「人の有り様の如何」を考えて「智慧」を駆使して適応して「一律の法」を説け”と云っているのだ。
”「法の有り様]は普遍であるべきだ”と云う事に成る。
この様に「2つの教示」からも「青木氏」に執っては「法」が基本に置かれている事が判る。
決して、「法」<「人」では無い。

(上記した様に、日本のこの時代の「古代密教」でも、明らかに「人より法」の思考原理に従っている事が判る。当然に「古代密教の教示」に従っていた「始祖施基皇子」は「善事撰集」には「人より法の考え方」で編集していた事の証明でもある。この社会の考え方の中に「古今善言」は真逆の異質の考え方が蔓延った証明と成る。)

経緯O
其処で、そもそも、この考え方に付いて、普通に考えれば多少の疑問が起るであろう。
そもそも、”人を観て” は「普通の仏教」(他の仏教宗派)では、”民を低く観て、人を差別している事”と感情的に取られるであろう。
この様な「説法」を僧が説く事は先ずあり得ない。そんな「説法」をすれば、”私達信者を馬鹿にしている”と成り、人は集まらないし、信心そのもの等はあり得無く成る。その前に先ず宗派は成立たなく成るだろう。
僧が僧に説法するにしても、先ず説かれる未熟な僧が人である以上、説く人の人格に疑問を感じるであろう。先ず考えられない教示である。
故に、要するにこれが「密教の所以」なのである。「教示」そのものがこの「現世の真理」であっても「未熟な人」に説く以上「真理」として扱えないものがある。
そもそも、「説く」とは、その人が「未熟」であるから”説かれる”訳であり、「悟りの人」であればそれは「説く」とは成り得ない。
「未熟の人」に「説法の差」を付けて故意的、恣意的に接する事はあり得ない。
然し、これでは説法の「本当の意」を伝え得る事は出来ない。それは折角の「説法」の努力の効果が上がらない事に成る。

(「古代密教」を経た「浄土宗密教」から「密教」の部分を外して、「一般の人・民」に説いた「親鸞」等の説法は、”「念仏をただ唱えよ、ただ信じよ、信じれば成仏できる。然れば汝は救われん。」とした所以はここにあった。・「説法方式」の必要性を特段に意にしない「説話方式」での布教である。)

「特定の氏」では無く、「不特定多数の人」を相手にしての布教である場合とは、「密教」と云う前提とは自ずとその説法は異なり、「人を観て法を説け」や「縁無き衆上動し難し」の様な「現世の真理」も話せる事で、その「説法の深意」は伝わるし、理解が深まり、事に当りその応用は可能と成り、強いては「人の資質」は高まる事に成るは必定である。
これが「密教の利」と云われる所以である。「法」と「話」との「布教の違い」である。
(平安末期に起った密教論争と後の宗教戦争はこの事の「有り様」の如何を議論された。)

”「同族の氏」の中で「氏」を構成する為に、その「氏の人」の「素養と修養」を高めて、より「氏の資質」を高める為に、その人にあった説き方をして「適時適切 適材適所」に効果を上げよ。”としているのである。
これに比して「不特定多数」の「民」の「布教」の場合は、この「適時適切 適材適所」は無理であるし、先ず、時間的にも、振り分けも、出来ない事から不可能である。

この様に、「特定」と「不特定」とには、その「教示の如何」が左右されるのが「宗教の所以」であり、「有り様」である。
然し、此処では「氏の資質」を向上させる為の「説法」であり、仏法(「仏」が説く「法」=「現世の法則」)を理解させて応用させて「氏人」を育て「氏力」を高めなくては成らないのである。

”そもそも「人」夫々には、夫々の「資質、能力、性格」等を持っている。それに合わせて易しくか、難しくか、感情的にか、論理的にか、に「説」を考えて説き、導かなくては何事にも効果は成し得ない。”としているのである。真に、”智慧を使え”である。
そもそも、「法」は”のり”であり、あくまでも”決まりの理屈で事の筋道(法則)”であり、「智慧の発露」の結晶である。「話」には、それは無く短編的な「事象の例」である。
この様な「様々な人様」がある現世に、「人」を中心にして「纏まり」を求めても、「様々な人様」で「様々な判断」が起るから「社会」は纏まらない。
従って、最低の「法の理解」も様々と成り、意味を成さない事に成る。
つまり「法より人」の考え方は成立たない。終局は、”腐敗と無法治な社会と発展の無い社会”と成り得る。

”「人」それぞれには夫々の「資質、能力、性格」等を持っている”とする前提の現実社会である以上は「法より人」は成立たない。
少なくとも、特に日本では上記した様に、論理的に成立たない考え方である。
そこで、律令は「共通の慣習、仕来り、掟」 の中で編成した「取り決め」とする「基準の考え方」を「法」として敷き、その「編集した範囲」の中で護らなけれは成らない「最低の義務」とするものである。
故に、「氏」の者に、”「念仏をただ唱えよ、ただ信じよ、信じれば成仏出来る、然れば汝は救われん。」とする事はあり得ない事に成る。

「密教を前提としている氏」に説く以上は、「氏の総合力」を高める為に「資質の向上」の効果を期待しなくては成らない。
「人の国策氏」の「特異な立場」の「青木氏」には尚更であり、”決まりの理屈で事の筋道”の「法則」での効果を要求される立場にあった。決して、「話」ではなかった。

経緯P
ここで、では、現実には ”「氏」と云えども理解出来ない者”が一族郎党の中にどうしても初期の段階では生まれる。
”では、その者をどうすればよいのか”と成る単純な疑問が生まれる。
(念の為にその答えを余談として記述して置く。)
これに対しても、「古代密教」は、ある「教示」を出しているのだ。
その答えの「古代密教の教示」は、>”「縁無き衆上動し難し。」” である。
この「2つの教示」に繋がる大事な「密教の教示」である。
これを「低い意味」で受け取れば、”馬鹿にして”と成る。「高い意味」で受け取れば、”浮世の真理を突いている。”と成る。
(「氏」の中ではこの差を無くさなくてはならない宿命がある。)
上記する「人を観て法を説け」の教示も同じである。
解釈には、大変意味の持った教示であり、且つ、「解釈の幅」を変えれば大きな意味を持つ。
これまた、”「縁無き衆上動し難し。」の教示は、”なかなか「密教」では無い「他宗派の説法」にする事は不可能である。先ず無い。
”どの様に説いても理解出来ない者は、もとより無理である。必要以上に説く事を諦めよ。それ以上は「自らの努力」に期待せよ。必要以上に説く事は反って弊害を生むのだ。「説く事」で逆効果を避けよ。無駄に効果を下げるな。 ”と成る。
この現世は、「自らの努力」無くしては何事も成し得ないのだ。゜「自らの努力」は「氏」と「社会」の原動力の根幹だ。”と説いている事に成る。
感情的に受け取れば、”厳しすぎる。見捨てるのか。薄情な”と成る。
然し、「感情主観論」のこれでは「現世の真理」の追求は成し得ない。
故に、事程左様に、”「長」は「論理的主観の資質」を強く常に持ち得ていなくては成らない。”としているのだ。
これは、あくまでも「特定」の「氏」である以上は、ある「目的、義務、宿命」を持って生きている集団である。
「密教の氏の説法」であって「不特定の民の説話」ではないのであり、欺瞞的で偽善的な事を大風呂敷を広げて出来もしない事を言っている訳にはいかないのである。
現世はその様には理想的で感情主観的に出来てはいないのである。
”その様に在って欲しい”とする感情主観はあるにしても、「家訓9」の論では無いが、「煩悩から解脱し得ない者」が殆どであるこの現世では、現実的な「現世の真理」を会得して「長」は「氏」を絶対に守らねば成らないのである。
その中で、この「古代密教の教示」は、”「絶対に護らなくては成らない教示」であり、況や、「習慣」であり、「仕来り」であり、「掟」であり、要するに”「氏の法」なのである。「氏の律」なのだ。”と成る。
それを理解出来る者こそが「長の資質」を有する者として評価されるのである。
故に、上記した様に「論理主観」を要求されるのだ。

上記する「2つの教示」と”「縁無き衆上動し難し。」”等の「古代密教の教示」が「青木氏」に現在も遺されている事は、「善事撰集」にはこの様に厳しい「戒・律」もあった事を物語っている。
これらの「古代密教の教示」以外にも、「青木氏」の「慣習、仕来り、掟」も「律」と見なされる事からも証しと成るのだ。

実は、筆者の祖父の禅問答の遺品の中に発見されたものであるが、この、”「縁無き衆上動し難し。」”で真言密教の「高野山の僧」と問答した事があった様で、これを”正しく理解出来る者こそ悟りを得た”とする内容の問答であった。
つまり、表向きの「文意」そのものでは無く「深意」「真意」を理解できる事が、悟りを得た者、即ち、「氏の長」が求められる「模範の資質」である事が判る。これが「密教の所以」なのである。
禅宗の信者ではなかったが、「禅問答の師」の祖父は「古代浄土密教の継承者」であった。
”事の真理の悟りを図り合う問答方式”は、「禅宗」が坐禅と共に専門的に人を導く「僧の資質」を挙げる方法として用いたが、そもそも、この「問答」とは、元々、主に「三大密教」が学僧に用いていたものである。
これを禅宗が一般の信者にも坐禅と共に広めたものである。
この「禅宗の呼称」は、「坐禅の宗派」と云われるもので、曹洞宗・達磨宗・臨済宗・黄檗宗・普化宗の5宗から成り立っているが、本山永平寺で、「中国禅宗5山」の影響を強く受けた宗派である。
故に、ここで云う「問答」とは、大化期前後に中国から伝わり、その原型が”「古代密教」の手法”として用いられたものである。それが脈々として祖父の代まで「伝統」として引き継がれて来たものである。
ここにも「古代密教」の「青木氏の慣習」の一つとして伝わっているものである。
この「問答をする堂」があり、「青木氏」ではこれを「画禅堂」と呼ばれ、「青木氏の慣習」の「接客の作法」と共に「特別な解人」と話をする堂があった。この「青木氏の接客作法の形」が「茶道の武家様」に変化したものである。

この様に、上記の「密教の教示」に限らず、本論に記述していないが、青木氏には「古代密教の教示」と考えられる「慣習、仕来り、掟」が数多くある。(何時か機会を得て論じる)
恐らくは、初期の段階では「青木氏の古代密教の教示」として「書」に収められて「纏」められていて、それが後に、「時代の遍歴」を経て「慣習、仕来り、掟」の形で伝わった物であろう事が判る。

(明治35年の前まではこの作法等の要領を「書」の形で纏められていた事が口伝で伝えられている。
「菩提寺の焼失」が原因で「書物」は焼失したので現在は「口伝の形」に成っている。)

経緯Q
因みに、ここで例を一つ、「青木氏の家訓10訓」には無いが、”曙に成せ。” と云う口伝がある。
何とも簡単な「密教伝」であろうか。これも考え方に依れば「曙」に大きな意味があり、夜明けの「あさぼらけ」から「朝焼け」の中間に存在する”「曙」”をどのように理解するかで幾通りにも理解できる「意味の深い教え」である。
有史来、「曙」には数え切れない程の意味を持っているが、その意味毎に”成せ”の語句をあてがう事で沢山の意味が生まれる。簡単な「成せ」の動詞にも動詞だけに「理解の幅」が生まれる。
此処では一度発想を試みて頂くとして、「特異な立場の青木氏」を配慮してその意味の成す事を考えると、上記した事の様な事も理解出来る筈である。
恐らくは、これも「古代密教の教示」であったと考えられ、「善事撰集」にあったものであろう。
実は、この幅広い文意は「武田信玄の”風林火山”」に類似するもの考えられる。
筆者は、この「密教伝」は「皇族賜姓族の甲斐青木氏」の血縁族「武田氏系青木氏」を通じて「武田氏」に伝わり、その「文意の一部」を「武家様」に編集された可能性があると見ているが確証は無い。

>「政治のシナリオ」
話を元に戻すとして、大化期の時では、”社会は完全に「法>人」の傾向にあった”と成る。
「近江令、大宝律令、養老律令」等は、「中国の律令の模倣」である事は歴史学的に既に証明されていて、その模倣先の中国の律令も明確に成っている。
この事から明らかに「法より人」「石は薬」の考え方が蔓延していた事は明白である。
(下記の*印に詳細)
だとすると、一方の「危機感」を持っていた天皇の「国レベル」では、到底、この「論理矛盾」を吸収する事は不可能であった事に成る。
因って、「公布中止」と成ったとも考えられる。
だとしたら、「為政者」は考える事はただ一つである。
「近江令」の事が意識に残っている中で、次ぎの様な「政治的な判断」(シナリオ)をしたと考えられる。
それは ”先ずは試して見よう”と云う事に成る。
”では、誰に”にと成り、直ぐに浮かぶのは、”「国策氏の青木氏」に、況して、編者の「施基皇子」等の「朝臣賜姓族氏」に” と成る事は、危機感を共有する限りは間違いはない。
そして、”成果が上がり成功の暁には、「国レベル」でもやってもらおう”と成る。
当然、国レベルでやるには「天皇」に成ってもらう事に成る。
幸い「青木氏」は継承外だが、”その最低の品位体裁の資格は理屈を付ければ成し得る位置に居る”と考えて、そこで「臣下族の青木氏」の若い2代目の跡目に目を付けた。
この時、「国策氏」だから青木氏の「跡目と一族」等は手を打った。 ”ある程度観て試して見よう。”と成る。10年程も待つまでも無く完全に効果が出た。
そして、所期のシナリオの通り、若い2代目跡目「白壁王」も「長」として育った。
25年位経った頃合で 3代目跡目(井上内親王の子の他戸親王)も育った。
為政者側は、予定のシナリオ通りに「青木氏の2代目跡目」の ”「白壁王」にやらせて見よう”との機運と成った。その時、「青木氏の長」の「白壁王」はもう61歳であった。
「天皇」としては、”青木氏の「民からの信頼と尊厳」とその間の「法の経験」から「抵抗と反発」に抗する事が出来る”と考えた。
その為には、先ずは、この「青木氏推進派」は、出来るだけ反対を防ぐ為に ”他の親王の粛清をしなくては納まらない”と成る。
これは最早、50年も経っているから「国の存立」に関わるのだ。
「氏」より「国の存立」が優先されるから、これでも条件を整えたにも関らず抗する者は排除しなければ「国の存立」は成立たない。最早、猶予は無い。
然し、それでも”内親王の女系天皇の継続を推す反対者が出た。政局は混乱するだろう”と成る。
”最早、女系天皇は類代7代も続いた。女系直系族に成って一人しか居なく成って仕舞っている。”
”拙い、血筋は絶える。” と成る。
然し、残るは、”正規には ”「井上内親王」だけだ”と成る。
そして、「井上内親王」は「白壁王」の正妻である。
其処に「女系皇位継承者」の唯一人の「他戸親王」が居る。
どの様に考えても、”「白壁王」しか居ない。”と答えは出る。
其処で、「特異な立場」の ”青木氏は絶えしては成らない。2代目は弟の湯原新王と榎井新王に継がせよう。” と成る。(第4世族外で臣下族は対象外)
そして、”今は「臣下族」に成って居るが、新しい「王位」を与えて皇族系にして置こう。”と成る。
其処で、反対派の女系継承者側は、当然に「素養・修養・人格・度量の低下」なのだから、”親王粛清””内親王抹殺””白壁王暗殺”の粛清連鎖が起った。

以上、この様に「善事撰集」の公布中止の本波は、「皇位継承問題」と絡んで歴史的経緯で観て上記の様な「シナリオ」が生まれ続いた事に成る。

>「5家5流青木氏の危機」
このシナリオの余波は「5家5流青木氏」にも伝わり、上記した様に「粛清連鎖の波」が当然に押し寄せていた。
この時、「5家5流青木氏」も ”「白壁王」の事もある。”、”「特異な立場」にあるのだから引っ張り出される”、”危ない。何とかして護らねば「氏」は絶える。”と成り、そうなれば、”「生仏像様」の下に青木氏は一致結束しか無い。”と考えた。
(そこで、上記の「古代密教の教示」に従う事に成った。)
同様に低下していた同族の「純血血縁族」の「青木氏」に於いても、国が律令を公布して「素養修養の低下」を防がねば成らない筈であったが、然し、公布しないのなら、「国策氏」である限り、せめて「氏の単位」でも果さなければ成らない宿命を負った事に成る。
(然し、この後の息子の桓武天皇に排斥された為に絶体絶命に落ち至った)
そして、幸か不幸か始祖が編集したものであるとするならば、尚更の事であり、採用しない方がおかしい筈で、”「資質ある青木氏の長」はこれを「氏」に「遺訓」として必ず宛がえた”と考えるのが普通であろう。
だから、「善事撰集」を以って「氏の資質」を高めていて効果を上げている「施基皇子の嫡子」に「白羽の矢」が当てられたと考えられる。
そして、上記のシナリオの様に、その「青木氏一族」に、長年の願いであった「素養・修養・人格・度量の低下」の現象を食い止めさせて、”律令の本当の完成”を期待したと考えられる。

故に、「桓武天皇の律令国家の完成」であって、「神明社20社の建設」(青木氏の守護神に明記)であって、その模範と成った「青木氏」を、律令国家の中で放置する事は、「御師様」「氏上様」と民から慕われて「信頼と尊厳」をより勝ち取っていた処に、為政者は「民の反発」を受ける事に成る。放置出来ない筈である。
更に、無理に人気の挙がった青木氏を放置する事は、逆に「皇親政治」を助長し、真逆の「律令政治」の完成の障害と成る。(桓武天皇は考えた筈)
ところが、この事の逆の考えでの「桓武天皇の青木氏の排斥」に会った事に成る。
だから、「光仁天皇」は「青木氏」等を「新王」として造り上げて律令の体制を作りながらも「皇親政治」を敷いたが、この「路線の違い」が、次ぎの「桓武天皇」と子供の「嵯峨天皇」の身内の「路線争い」へと繋がった事に成る。
更には、この時、「氏社会」では「素養・修養・人格・度量の低下」が起こっている中で、人の「衆目の的」と成っている「青木氏」には、「善事撰集」を以って「氏の資質」を高めていて、そろそろ効果を上げていた時期でもあった。
況して、「天照大神」と民の主神とする「物造り神」の「豊受大神」を祭祀し、且つ「皇祖神−子神−祖先神」を護っている「氏」であるとすると、民の「信頼と尊厳」を勝ち得ない方がおかしい事に成る。
筆者は、むしろ、この状況を観て、平安初期の各天皇は、「国策氏」である事を理由にして、”青木氏を利用した”と考える。それが上記のシナリオと成ったと考えられる。
実家先でも有り、「3つの発祥源」でもあり、「国策氏」でもあり、「融合氏の源」でもあり、「武」より「和」を尊ぶ等の「青木氏の立場」を「為政者」であれば、むしろ、身内であればこそ利用しない方がおかしいと考えるし、「国策氏」として当然に利用される立場にもあった。
これは当然の自然の成行きシナリオであった事に成る。

「善事撰集」を国として公布するのでは無く、「大化期3代天皇」更には「文武、聖武、光仁の男系3代天皇」等は、変更して「試行氏」として、先ずは「青木氏」に敷いた事も考えられる。
そして、”時間を掛けてその成果を観た”とするのが普通ではないか。その上で、「近江令」の様に失敗する事は2度と出来ない事から ”将来の律令国家建設に向けよう”と考えたと観られる。
(この間、2つの律令が発せられた)
それを桓武天皇が引き継ぎ、大きく編集と修正を加えて「律令」を敷いて「法」を基本にする「律令国家」を初期段階として完成させた事に成る。

>*「注釈書」の「令解集」
上記するシナリオから完全な律令施行の桓武天皇期(781-806)までは、時間は約90年も掛けた事に成る。この間では「大宝律令」(701)や「養老律令」(718・757)が、公布されたが中国唐の律令「永微律令」を参考模倣にした程度のもので、矢張り「近江令」の域を脱せず「令」に付いて説明する「注釈書」程度の「令解集・令集解」であった。
上記した様に、中国の「法より人」「石は薬」の考え方から「人」の「令」を優先し、「法」の「律」は一部で終わっているものであった。
その「令」も一般に「令解集」と呼ばれるもので「注釈書」程度の様なものであった。
「養老律令」も「大宝律令」の注釈字句を改定した程度のもので、完成後40年間も施行されなかった。
内容は「近江令」(689)と殆ど変わらない状況で、「律」と「令」共に散逸していて、「令解」の一部を「令」に仕立てたものであった。
「3つの律令」があったにせよ、この時代は全て「令外法令」の形で「令解方式」(注釈書・説明書・添書)を基本にしてで進んだ。
桓武期に、これを何とか「律」を充実させ、「令」を「法令」の形にまとめ上げたもので、「律令国家の体裁」を整えたのであった。この「体裁」を作り出す元にしたのが、「国策氏青木氏の善事撰集の試行」のシナリオであった観ている。

>「訓戒の6経緯」
「第0次の訓戒」 「参考」
然し、この間、上記した様に「善事撰集」を導入した「青木氏」には「大きな成果」が出ていたが、その根拠は、衰退前後から「2足の草鞋策の商い」に中心に置いて立ち上がり直したのも、この「善事撰集」の御蔭で一族一致して「氏の資質」を高め頑張る事が出来た事でも判るのである。

「善事撰集」の試行は、「白壁王」を天皇に据える事もこの「国策氏」の者であった事も一因であったと観られるが、確かに粛清から逃れる為に「愚者」を装った事もあるが、「国策氏」であった事の方が原因は大きかったと考えられる。
故に、上記した様に「施基皇子」の「28年間」を(第0次の訓戒 「参考」)とする前提としている。
青木氏の「善事撰集」を基本とする「訓戒の経緯」は、状況証拠から、次ぎの「6つの遍歴」を遂げたと考えられる。

(第1次の訓戒 「心得」)
そもそも、国にまだ充分な律令が完成してい無かったものを、発祥して150年経ったばかりの「青木氏」に「行動指針」なるものが元よりある訳ではないし、始祖が作った優れた手本が手もとにあるとすれば、願っても叶っても無い事であり「青木氏」に限らず誰でもが原案としない筈はない。
むしろしない方がおかしい。
国に答申した「善事撰集」である以上はこれを原案とする意外に無いし、国も試行案として「特異な立場」にある「青木氏」に使わさせる事はむしろ育てる意味も込めて歓迎であった筈である。
それをいき成りは「家訓」とはせずに、ある程度の整理をして次には「参考」から「心得」にしたと考えられる。
恐らくは、国に既存の律令とする概念も充分に育っていない処で、「氏を取り纏めるの家訓」と云う概念は未だ育っていなかった。その時、曲りなりにも「令解集」を使って「令外法令」を敷き、国に次第に「律令の国家」の体裁を敷いた事をきっかけに「3つの発祥源」、「国策氏」、「融合氏」として、始めてその概念を氏に育てる為に合わせて敷いた事が考えられる。
(第1次の訓戒 「心得」)

(第2次の訓戒 「行動指針」)
この時に、第4世第4位皇子以内の「真人族」が持つ継承権に対して、「皇位継承順位外」であった第6位皇子の朝臣族・臣下族となった「施基皇子の家」(中大兄皇子の第3位王、孝徳−天智天皇下の第7位子、1皇子死亡下で第6位子、天智-天武天皇下では第6位皇子)に対して、「第4世族第6位皇子系族の伊勢青木氏」の「嫡子」であった「白壁王」を、奈良期に女系天皇が続いた事もあって天皇家継承者不足に落ち至った。そこで、依って「光仁天皇」として迎える事と成った。
(参考 第4世族で第6位皇子の第5世孫 光仁天皇即位に依って2人の兄弟は特別に新王・親王に任じられる。従4位下から従2位下に成る。)
この事で空席と成った「伊勢青木氏の嫡子」を引き継いだ者(湯原新王・榎井新王)等が、父の成した「善事撰集」(撰善言司)を「父の偉業・遺訓」として、これを遺す為にも、これを「統一した行動指針」として広く一族の「5家5流青木氏」に働きかけて遺したと考えるのが普通ではないか。
その為には拘束力の無い「心得」から、一族の「行動」を統一させる程度の拘束力を備えた形にし、一族全体に通ずる内容(指針)に修正し編集してより現実のものとして纏めたと考えられる。
(この二人は歌人で学者で書籍を遺した人物 湯原新王の娘の尾張女王は光仁天皇と純血婚)
(第2次の訓戒 「行動指針」)

(第3次の訓戒 「家訓原型」)
その時、「施基皇子の善事撰集」は「伊勢青木氏」に既に「心得」の様な形で敷かれていたと考えられる。これが次第に修正が加えられて「嵯峨天皇」に依って徐々に「第2期皇親政治」が始まり再び「青木氏」は蘇って来たのであるが、完全に再興を遂げたのは「特別賜姓族の補完策」であった事から、「嵯峨天皇から円融天皇」までの間には「氏の家訓」(原型)として体裁を整えたものに成っていたと考えられる。
(第3次の訓戒 「家訓原型」)

(第4次の訓戒 「訓戒完成」)
此処から既に「5家5流の青木氏」とは「母方血縁族」であった「特別賜姓族青木氏」が跡目に依る「同族血縁」を繰り返し116氏にも子孫は拡がる。
この段階で「5家5流賜姓青木氏」と「116氏の特別賜姓族青木氏」は最早、母方血縁族では無く完全な一族の血縁族に成り得ていた。
同族血縁的としては「1系族」と成っていたと考えられる。
「特別賜姓族青木氏」の発祥は960年頃であり、「5家5流青木氏」から観た「2足の草鞋策」は1025年頃とすると、少なくとも家訓内容からこの60年の間にこの同族の血縁関係は完成していた事に成る。如何に盛んに跡目血縁をして同族血縁を積極的に施策として推進していたかが判る。
この時は、家紋分析から116氏の内、既に約6割程度に拡大していた事が判る。
その地域は「特別賜姓族青木氏」の赴任地−末裔発祥地24地域の内、7割程度に成っていた。
この段階では「商いの記録」から観て、特に親交が強かったと観られるのは「7地域」で、ここには「融合青木氏」が発祥している。この事から「1系族」と成っていた証しであろう。
この段階で青木氏の家訓の全てが完成していたと考えられる。
(第4次の訓戒 「訓戒完成」)

(第5次の訓戒 「家訓完成」)
この時、「参考」−「心得」−「行動指針」−「家訓原型」−「訓戒完成」の経緯を辿ったと考えられるが、「家訓原型」に至る処では「行動指針」の内容を「訓」「戒」「慣習」「仕来り」「掟」等に分類されたと観られる。
「2つの添書」や「家紋掟」や「口伝」や「商記録」や「神明社記録」や「菩提寺遺記録」等を考察すると分類されていた事が判る。
そして、「訓」と「戒」が一つに成ったのはこれより100年程度後の頃では無いかと考えられ、現在の形に整えられたと観られる。
この段階で皇族賜姓族25氏、特別賜姓族116氏、末裔発祥地24地域は完了していた事が判る。
(第5次の訓戒 「家訓完成」)

(第6次の訓戒 「家訓編集 添書編集」)
「平易な表現」に編集されたのは室町期中期前ではないかと観られる。
何故ならば、「室町文化」の「紙文化」と呼ばれる時期にはその殖産から販売までを1手に担う紙問屋の「2足の草鞋策」で「巨万の富」を獲得して青木氏は最大の力を有していた。
この事から、「2つの血縁青木氏」のその「組織体が拡大」し、それに伴ない枝葉の末裔子孫の拡大が大きく成った事や、「神明社系建設」が一挙に進み、「氏や民」からの「信頼と尊厳」を更に維持しなければ成らなく成り、その事から一族全体隅々までその「特異な立場」を護る為に誰でもが理解できる様に表現を平易に編集したと考えられる。
「家庭の末端」が乱れていては「信頼と尊厳」は低下し、「特異な立場」は霧消に終わり、「青木氏の存続」は保証出来ない事と成ろう。”実った稲穂は頭を垂れる”の例えである。
「家庭」と「長」との「訓」と「戒」が「一つの繋がり表現」の中で同時に関連して認識させて理解させられる「家訓」に編集したと観られる。
その為に「訓」と「戒」を一体化にした為にその絡みを「添書」類に説明書の様な形で書き添えたと観られる。
その前の「添書」は「慣習」「仕来り」「掟」等に分類され「訓戒の設定経緯」等が主に書かれていた事が読み取れる。
(第6次の訓戒 「家訓編集 添書編集」)

>「律」の状況
「慣習、仕来り、掟」
上記の様に、「6つの遍歴」を経て今日に伝えられたと考えられる。その「家訓」(訓と戒)と「古代密教の教示」類や「慣習、仕来り、掟」類のこの「3つの内容」は、「善事撰集」の内容の一部と成っていたと考えられる。
ただ、この「3つの内容」にはどうも「律」に関する事がはっきりしない。
この「律」に関する事は、明治35年の「菩提寺焼失」までは何らかの形で青木氏に書籍化して保存されていたことが判っている。
そこで、この「律」に付いてどの様に「青木氏」では扱われていたかを遺された資料記録から検証して見る。
それは、生活に直接結び付いている「慣習、仕来り、掟」の中に潜んでいると考えられる。
何かを物語るものが必ずある筈で、その事を次ぎに論じる。
先ず、「慣習」に付いては、特段には、盆暮、正月、彼岸、命日、冠婚葬祭などがある。
これらに付いてはその「慣習」は現在遺されているものでも、これ等は明らかに周囲と異なっている事が判る。
その異なりに答えがあると考えられる。何故ならば、この「慣習、仕来り、掟」には、その時代性の中で問題無く円滑に進めて行くべき「規則的なあるべき姿」が必ず潜んでいる。
それでこそ「慣習、仕来り、掟」であって、「規則的なあるべき姿」を判りやすく生活の中に維持しているのであるのだ。
つまり、「規則的なあるべき姿」=「慣習、仕来り、掟」であって、伊達に特異な立場だからと云って形式張っている訳ではない。
況して、現在では最早ない慣習であり、”「氏家制度」の大化期からの社会構造と時代性”なのである。現在の様に、「律」と「令」が完全に法令化して完成している訳ではない。
上記した様に、「法より人 石は薬」の考え方が色濃く占めている社会の中では、「慣習、仕来り、掟」の中に潜ませて護る様にしているものであって、その「慣習、仕来り、掟」を犯せば社会からはみ出すのである。
つまり、少なくとも「武家社会」に入る前の「平安末期」までは次ぎの様な数式論に成るのだ。

>「慣習、仕来り、掟」=「律」
>「規則的なあるべき姿」=「慣習、仕来り、掟」
>∴「規則的なあるべき姿」=「律」
上記の数式論が成立つのである。

となれば、その数式論を的確に表現しているのは、縷々上記した様に「特異な立場」の「唯一の氏」の「青木氏」である事に成る。
青木氏以外に「慣習、仕来り、掟」の中に幅広く潜ませられる「氏」は他に無く、筆者の論理では、この青木氏の「慣習、仕来り、掟」が他氏へと広がって行ったと考えている。
何故ならば、「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」が「慣習、仕来り、掟の源」であるからで、「青木氏」よりこの立場を持つ氏は他に無いし、「善事撰集」の氏に敷いたのは青木氏である。
この「慣習、仕来り、掟」は、その大元は上記した様に「善事撰集」にあるとしている。他にあるとするならば教えて欲しい。無い筈である。
逆に云えば、この「律令の歴史事の経緯」を網羅するには「青木氏の努力」以外には無い事に成る。
故に、難しいがその内容を牽き出して敢えて可能な範囲で先ずは「慣習」から例を以って網羅する。

・「慣習」
(「接客の要領」)
先ず、青木氏の「慣習、仕来り、掟」の中で、「日常の慣習」に付いても「接客の要領」(「面談の要領」)が格段に異なっているので先ずこれを紹介する。

「接客の要領」であるが、「客」が訪れた場合の「客を導く方法」では、先ず、客を3種に分けていた。
それは「常人、註人、解人」で、「人」の字句は「客」としている部分もある。
要するに「下中上」の事ではないかと観られ、「常人」はいつも来る人、「註人」は注意を要する人、「解人」は解する人、つまり、理解しなくては成らない人で、「重要な人」の扱いである。
先ずは、「接客する入口」では、「解人」は正門口から玄関、「註人」は正門横の戸口から横口玄関、「常人」は裏門から政処口(台所口)と成っていた。
「客に対応する人」では、「解人」は家人、「註人」は書生(執事)、「常人」は男仕と成っていた。(男仕はおとこし、女仕はおなごしと読む 商用客は女仕で別)
「接待の内容」もこの3種に依って原則異なっていたし、「茶」などの「持成し方」も違っていて、現在で云えば、「茶道の作法」に近い形に基づいていた。
むしろ、この「茶道」はこの「接待時の茶の出し方の慣習」が室町期中期頃から「茶道」と成ったと観ている。原型であったと考えている。(ただ、「武家様」に簡略化されていると観られる。)
「茶道」の「道」と成る前は、”上位階級の「接客の作法」”として存在していたのである。
室町期中期以降の「茶道」は「上記の内容」や「下記の内容」を加えたこの慣習から道化させたのでは無いかと考えられる。

(「千利休」は堺商人、堺には伊勢松阪の青木長兵衛の「紙屋長兵衛の3店舗」があり、何らかの繋がりはあった事から伝わったか、武家社会に成った事から無骨な武士の人間関係を解す為に、”上位階級の「接客の作法」”を「武家様」に改善してそれを一つの「社交マナー」に変身させたものであろう。つまりは、その大元は青木氏にあったと説いている。)

つまり、上記の内容に従い、「茶の種類」と「菓子の種類」と「茶器の種類」の違いを付けていた。

(この違いは残されて用具でも観られるが、この「古い茶器一切」は「遺品」として今も遺されている。茶と菓子には意味合いが大して無いので割愛する)

「茶器」には武家の様に「器」を直ぐに掌の上に載せて飲むのでは無く、「瓶」とする「器台」に載せてそれを持って「一回廻しの3回半」で飲む作法である。この「瓶」は「高瓶」と「低瓶」と「茶座」と「茶敷」の4つに分けられていた。「座卓」では無い。「茶敷」は客人ではない「歌会」などで用いていた。(歌会では全て同位として「解人」の扱い。 僧侶は解人)
この「3つの茶瓶」は上記の「客人の位種」に依って変えられていた。
「高瓶」(高さ5寸で二重に成った3寸の薄椀の下に一握りできる程度の湾曲の足柱が着いていて裾広がりに成った器)は高位族と武家に解人、「低瓶」(3寸)は公家に解人、「茶座」(茶台1寸)は中位に註人、「茶敷」は一般に常人で「使用別け」される。朱色と黒色の漆瓶器で朱色金入は冠婚、黒漆器は葬祭に使い分ける。通常は木肌色か朱色の漆瓶器である。

(公家は武家では無く慣習が「低瓶」が作法 低く観ていた訳ではない。)

又、「上がる室」も異なり「3段の部屋造」で、上段間は「解人」、中段間は「注人」、下段の間は「常人」に通していた。
「常人」は下段の「玄関間」止まりで床から2段で3尺(0.9M)の高さ、「注人」は中段の「控え間」止まりで玄関間より3寸の高さ、「解人」は上段の「本座敷」(座敷は正副があった)で更に3寸の高さにあった。

(玄関間は座って客人と挨拶する時の目の高さが同じ様に成る位置にあり、部屋の大きさは畳2畳−一坪に「飾り棚や仕舞棚」などがあり、「氏の象徴」に成る品が置いてあるので6畳あり、玄関床も6畳−3坪)

この接客には、順序があって、家の主人に面会する時は、「玄関間−控間−仏間−座敷」と何れも客間であるが、玄関間は「常人」、控間は「註人」、「解人」は玄関間から座敷へと次第に変化して進んで行く。ただ、この時は、必ず「仏間座敷」(北に位置し南向き)に通る事が前提で、ここで主人と話して終わる場合がある。
本座敷(10畳)には、床間が東に位置し西向きにあり、3寸高い位置にあって、この前には客は座らない。主人は西又は南向きに座る。従って、「解人」は北側に位置して南向きに座る。西隣りは副座敷(10畳−控間がある)があり西には一切座らない。「解人」は結局は仏間を背にする事に成るので、失礼の無い様に仏間(2坪)の仏壇(2坪−生仏像様 横に安置)に先ず手を合わせる事の慣習に成る。
北は「鬼門」と呼ばれ、決して犯しては成らない位置として決められていて、「神−天皇」の御住の方向として守られる。その為に、「解人」は北に向かって座らない事に成る。(全て廻りは襖)

(鬼は決して怖い者では無く、神を護る人として3世紀より「鬼道」と云う「自然神」の信仰対象であって、平安末期まで神の一種の「鬼神」として崇められていた。
「鬼」は悪い事をすれば神に代わって懲らしめる者であった為に、「人」は懲らしめられる鬼を怖がったものであり、それが今では「悪魔」の様に間違えられて考えられている。これも重要な慣習の一つである。日本書紀に雷神と風神と共に神として記述がある)

主人との面談の対話には、畳一枚分を離して話す。
(筆者の時代の記憶では毎日客列を成していた。過去の口伝もあった。)
「床間」は家の一番高い位置にあり、この ”神が位置する座処”としての習慣であって、「神座」或いは「上座」と呼ばれていた。
今では古い家でも無い所が殆どで、有っても飾り物を置く場所と成っている。室間が3段に成っているのはこの習慣からである。床間には家の者は絶対に背を向けては座らない。
上記の慣習は「武家様」とはかなり異なっている。この家の間取りや慣習で古い屋敷を観ればどの程度の氏の家であったかは判る様に成っていて一定の形式が定められていた。
上記の慣習には、家の「格式、身分、階層」等の内容を「儀礼、作法」等の「有り様」として定め、上記の「接客の慣習」に限らずその中の要領に潜ませたと考えられる。
「冠婚葬祭の慣習の要領」の中にも「青木氏の特異性」がある。(何時か披露の機会を得て投稿)

鎌倉期からはこれ等の慣習は、「武家の有り様」としても用いられて、この大化期からの「特異な立場」の「青木氏の慣習」が、「武家様」に変化させて採用され伝わったものであると考えられる。
現在に「古式豊か」として伝えられている様式は全て「武家様」である。
その大元は、「武の象徴の青木氏の慣習」から伝播したと考えられる。

>「善事撰集」(「注釈書形式」)
そもそも、この大元は「善事撰集」と「古代密教の教示」にあった。更に云えば、「古代密教の教示」の考え方から「善事撰集」の内容項目と成っていたと考えられる。
この上記した「接客の要領等の慣習」は、ただ単に「接客」と云うテーマでの「習慣の内容」と成っているが、恐らくは、「善事撰集」では、この要領の「青木氏の接客要領」とは無関係に「根本の考え方」を網羅させていたと考えられる。
(「格式、身分、階層」等の内容を「儀礼、作法」等の「有り様」として別の「具体的な表現」で以って書かれていた事が覗える。
「青木氏」ではそれを「接客慣習」と云う形で、この「根本の考え方」を教え伝えたと云うことである。
つまり、「国」を始めとして「組織」(氏家)を維持して事を処置するには、この「根本の考え方」が必要であった事を意味している。
何故ならば、上記した様に、奈良期に編集された「3つの律令」は、全て”「注釈書形式」”の”「令解集」”であった事でも判る。
何か一つの慣習に準えて、その「令」と少ない「律」を説明したものであるからだ。
例えば、「接客」に例を求めたとして、”接客ではこの様に成るから、何々に付いてはこの様に考えて処置せよ。もしこの要領・作法を違えた場合は、組織を維持し守るべく規則を守らない事に成るから一族から阻害される”とする注釈を付けて「解釈書」を造れば、「令」と”阻害”の意味を以って「律」と成る。
上記した様に、「養老律令」は、「大宝律令の表現内容」の「表現字句」を変更したとされる処から考えれば、例えば、”阻害”を「追放」に変更した等の「律」をより明確にさせて、増やしての「改訂」を実行したと云う事であろう。
この「3つの律令」はこの様なものであった事に成る。これが「注釈書の令解集」方式であった。

兎も角も、上記の「青木氏の慣習例」には「共通な事」として、全て、”「身分」と「格式」と「氏・家柄」と「品位」”が事の隅々まで組み込まれた扱いと成っている。
大化期から「八色の姓(天武天皇)」を始めとして、「社会を階級制度」で「令外法令」を定めて構築を開始した。(日本書紀にも明記)
この事から、「天武−持統期の善事撰集」にもこの「階級制度」を維持する内容が組み込まれていたと考えられる。
それを「特異な立場」の「国策氏」の”「青木氏の慣習」の中に編集した”ものであろう。
次にこの慣習よりも更に色濃く出ているのが「仕来り」である。
上記の事(善事撰集の表現)をより証明するものと成る。

(まさに「家訓10」を物語る慣習がある。それは「嫁取り」の考え方である。
「嫁」は「嫁」として扱わず「自分の娘」としての考え方が強く、その嫁の「愛娘」に息子を託す。その「託し方」の考え方が世間と異なっている。自分達が育てていた「息子」を、今度はこの「愛娘」に母代わりとして引き継いで育ててもらうと云う考え方が強く、要は”「バトンタッチ方式」を採るのだ”とする考え方である。
従って、息子達の子供、つまり、”孫と息子を子供”としての考え方で、孫が3人居るとすると、「4人の子供」として、この「嫁の愛娘」に育てる事を託す考え方で接すると云う慣習を採る。因って、孫は「子供」としての考え方をする。そして、この「4人の子供」の育て方は、”お釈迦さまの掌で育てる”と云う事を「愛娘」に教える。代々この考え方の継承を続けて現在まで伝えられている。
「嫁の愛娘」もほぼ同じ「古代密教」のこの考え方の環境の中で育てられていた事からも円滑に進んでいた筈である。同じ「神仏習合の青木氏」である事から「冠婚葬祭の慣習」に付いても違和感は無かったと考えられる。
明らかにこれらの考え方は「古代密教の考え方」で、「純血の血縁族」である所以から来ている「古代密教の古式慣習」である事が判る。
「跡目継承」や「婿養子」や「貰子」等の「同族間の慣習」と同じく、この「嫁取りの慣習」も遠縁から「嫁」として迎えても「純潔性」が高い事から「愛娘」としての感覚の方が強かったと観られる。むしろ、強い感覚も然る事ながら「家訓10」を浸透させる上でも、この「バトンタッチ方式」に成っていて、内部の細部の慣習も氏のみならず、「特異な立場を保つ考え方」に成っていた事を物語るものである。
「嫁の愛娘」に限らず「実娘の婿」に於いても、”「女・娘」が「夫」を「子供」として「釈迦の掌」で「家長」に育てる。「親」はそれを見守る” の慣習で、一見して「夫=子供」は矛盾するが、「釈迦の掌」の考え方がこの矛盾を解決する。
「芽淳王女」の様に「・・女」と書いて”むすめ”と読むのはこの慣習から来ている。「郎女 いらつめ」の語も同じ慣習から来ている。
この「釈迦の掌」をどのように理解するかはその「娘・女」の資質に関わるが、”これを補完するのが「親の守るべき立場・役目」であって、「娘・女」と「息子」に「直接の口出し」は「禁じ手」とする。” と成る。
因って、「家の如何」は、家訓で「息子の長」の資質如何を強調しているが、そうでは無くて、「裏の戒言」では、 ”女が家を潰す”と成っている。
この場合の「女:むすめ」とは、「親の女」と「愛娘の女」と「実娘の女」の事で、その「両者の出方如何」に関わるから ”女が家を潰す” 事の戒めに成っている。
普通なら、”女が家を育てる” と成る筈であるが、これでは「訓」に成るのであくまでも「戒め」として言い伝えられたものである。「訓」では無く「戒」である事に意味を持っている。
それは、「家訓1」と「家訓2」の言葉を置き換える事で、この両者のあるべき姿を説いている事に成る。
この考え方は現在も引き継いでいるが、当初、息子の「嫁の愛娘」は、この様な考え方にびっくりしていたが、何はともあれ ”「4人の子供」” の考える事に驚いていた。今はすっかり馴染んでいる。実母より義母に些細な事でも何でも相談するし、嫁の実母も驚いている。
一氏家の運営の事の真理を突いている慣習と考える。
「古代密教の古式慣習」ではあるが、これらの伝統を失った青木氏ももう一度この考え方を一考しては如何。)

”子孫を遺す事に一義あり” はこの様な考え方の上に成り立って子孫を遺そうとしていたのである。

・「仕来り」
「仕来り」に付いては、「慣習」よりより守らなくては成らない「規則」の意味合いを持っているが、従って、当然にその「規則」に故意的に違反すれば、「氏や家の秩序」を乱す事に成り、この様な事が頻繁に起これば、周囲に示しが付かなく成り放置出来無くなる。
当然に何らかの形で罰せられる事が起る。そう成れば、何度も重なれば罰則に不平等が起こる事から「律」を幾つかの程度に応じて決める事の次第に成る。
恐らくは「仕来り」には「罰則」がはっきりと設けられていたと考える。

実は、「青木氏の古い商記録」から「シンジケート」の一員に「経済支援の遅延策」を処置した様な記録が書き記されている。何か「仕来りの秩序」を乱す様な事件があったのであろう事が判る。
定められた「仕来り」に依って明らかに罰せられた事が判る。

上記した様に、「青木氏の慣習」の共通概念は、「身分、格式、品位」を汚す事が無い様にする為の「重要な要領(作法)」であったが、「青木氏の仕来り」の「共通概念」を調べると、結局は「特異な立場」(「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」)を維持する為の「重要な規則」に限定されていた事が読み解ける。
その内容から集約して読み取れる事は次ぎの様なものと成っている。
何れもその罰則の「律」に価するものは、「仕来り」>「慣習」の関係にあって、「仕来り」は「明確で具体的に表現」で、「慣習」は「大まかで抽象的な表現」である事に気付く。

>「律の4原則」

>「慣習」 →「要領」→「抽象的な表現」
>「仕来り」→「規則」→「具体的な表現」

>「家単位」→「合議制」←「全員一致の原則」
>「氏単位」→「衆議制」←「過半数一致の原則」

恐らくは、「善事撰集」には、先ず慣習として上記の様な事を定める事を促していたと考えられる。
「慣習」は、上記の様なルールで「衆議制」と「合議制」を採用していた模様で、記録は律に成るものとしては少ない。筆者伊勢青木氏は「四家と一家」で構成されていた事から集まって「合議制」で決していたのであろう。
「慣習」に付いては5家5流間の問題は夫々の「長」が集まって「衆議」で行われていた事が読み取れる。
かなり、今から観ても、「合理的で民主主義的」なものとして定めていた事に驚く。

(上記した「善事撰集」編集者7人の人選も「有識者会議での編集手法」で画期的であった)

大事な意味として、これは「武」でありながらも「和」で社会を構築しようと「善事撰集」では考えてその内容に強く反映させていた事を意味する。
況や、これぞ「始祖施基皇子」の「青木氏」の ”「武の象徴」は「和」を以って尊ぶ”に一致している。(この事は「掟」でも更に証明される)

平安末期以降の「特別賜姓族」も、何度も記述しているが、「格式、品位、官位、官職」等の一切を同じとして発祥した事から「伝統の慣習」も副ったが、藤原秀郷流一族一門との「横の関係」もあった事、「第2の宗家の立場」もあった事から「特別賜姓族」の中で「衆議制」を採り独自に行われていた模様で何かを物語る記録は発見されない。
(菩提寺焼失が無ければ明確に成った可能性もあるが)

(注釈 「特別賜姓族」は、当初は「皇族賜姓族」とは「母方血縁族」であったが、後には、「祖先神の守護神神明社建立」を通じて「跡目血縁」を盛んに積極的に続けた事から、最終は「完全な同族」に成っているし、「融合青木氏」も発祥する程に成っている。
この事から、「初期の流れ」が異なっていたと云う差異程度と成っている。ただ、「横の関係」に「特別賜姓族」116氏には「藤原秀郷一門」と云う日本一の超大豪族361氏が繋がっていて、「第2の宗家」でもある事から、「論じる時の違いの正確さ」を出す為に表現を区別して出している。故に、上記の「律の4原則」に従って、「慣習の処罰」は独自に行っていたと考えられる。)

然し、「仕来り」は青木氏全体に及ぼす問題であって、1家だけに及ぶ問題ではなかった事から、物語る資料記録が焼失で不明と成っているが、5家5流間での大化期からの「律」を「特別賜姓族」にも提示して調整していた事が考えられる。
それは「特別賜姓族の伊勢青木氏」には、特別賜姓族116氏の中では「特別な経緯」があるのだ。
それは「秀郷の祖父」の「藤成」が「青木氏衰退期」に「皇族賜姓伊勢青木氏」に代わって「伊勢の国司代」を数年務めた関係から、秀郷の「千国の青木氏」が正式に認められた時には、伊勢では既に藤原氏として繋がりを持っていて「残留族」を残していた。その直ぐ後の「特別賜姓族」を任じられて直後に伊勢に「千国の裔」を直に配置して、「特別賜姓族伊勢青木氏」を正式に発祥させた経緯がある。
この様な「特別な経緯」から、依って、「慣習」「仕来り」の引継ぎは、直に済んだと考えられる。
藤原氏の秀郷は北家公家に成り、「第3子千国」が父に代わって「藤原朝臣族で武家」を引継ぎ「宗家護衛団」(960)を担ったが、「朝臣族で臣下族」の「近衛護衛団」(647)の「青木氏」とは担うものは一切同じであった。
「「特異な立場」も「特別賜姓族」と成った時点で同じ立場を持った事になった。
これで「皇族賜姓族」が敷いていた「慣習、仕来り、掟」(313)の導入には、「同じ立場」を持った事により差した問題では無く成ったのである。
ただ、先ず「一つの問題」は、”「秀郷一族一門との横の関係」”を「第2の宗家」としてどの様に扱うかである。且つ、「二つ目の問題」は、「最古の藤原氏」であり、青木氏の「慣習、仕来り、掟」のものと類似するものを持っていた。
この「2つの問題」を「特別賜姓族青木氏」が解決しないと、同じ「慣習、仕来り、掟」を「同じ立場」を持っていたとしても敷く事は出来ない。
立場は同じであり「皇族賜姓青木氏の補完」を任務としている以上は、「皇族賜姓青木氏」の「慣習、仕来り、掟」に順ずるのが「物事の道理」である。
このどちらを優先するのかの問題と成る。
その答えが、「特別賜姓族」と成った「伊勢青木氏」であった。
そして、この「伊勢青木氏」は「武蔵入間の本家青木氏」(「第2の宗家の本家」)との「衆議制」(調整役)を敷いた事であった。
上記の「慣習」の中の「接客の要領」に観られる様に、取分け「茶瓶」の「高瓶」(武家)と「低瓶」(公家)の両方を採用している事から、この「調整事」が行われた事が顕著に現れている。
「特別賜姓族の伊勢青木氏」が懸命に本家との間を調整したと観られる。

(「特別賜姓族伊勢青木氏」は、「入間本家青木氏」とは上記した様に発祥期と「品位、官位、官職」等一切では、「特別賜姓族伊勢青木氏」の方が上であった。この事から調整は比較的に円滑に進んだのである。)

そもそも、元々「5家5流青木氏」とは「母方血縁族」であった事から「2つの伊勢青木氏」は「氏を構成する規則」を問題無く採用し遵守したと考えられる。
「四日市の融合青木氏」の発祥もこの事を証明する物である。
「本家入間青木氏との調整」が進ま無いで、”「慣習、仕来り、掟」を遵守しない”と云う事では「融合青木氏の発祥」はあり得ない事に成る。
「融合青木氏の存在」が「氏家制度」の中ではこの事を全てを物語る。
(「5家5流青木氏」には全て「融合青木氏」が発祥して入る事が証しである。)
「四日市殿」と呼ばれていて、「四家」と同等に「合議」を採っていた事が伊勢長嶋の北畠氏の戦いの時の記録でも判っている。
上記の「仕来り」より、次ぎの「掟」はその言葉の意味からも、更に、「律」に関して敏感に取り扱われていた筈である。

・「掟」
「掟」に付いては、その呼称の意味からも「刑罰の意」が強い事が判る。
「仕来り」の「規則(罰則)」に対しては、「罰則の律」が多く絡んでくる事はあったとしても、取り入れる事は比較的に容易であった。
それは、「仕来り」は、”違反者に罰を科する為の規則”である。
然し、「掟」は、”犯罪者に課せられる法律上の制裁”である。
以上の様に、「氏家制度」の中では法学の歴史文献から定義されていた模様である。
他の「仕来り」と「掟」の「内容の差」を観て見るとこの様に分類される。(現在でも同じ)

ただ、難題は「掟」(制裁)のところであった筈で、「法より人 石は薬」の蔓延の中に「善事撰集」では、「氏家制度の確立」の為に、この「規則と制裁の内容の差」を持ち込んだのである。
上記した様に、「法より人 石は薬」の考え方が蔓延する事による「社会構造の崩壊」に対する「朝廷の危機感」が在って、その対策として「氏家制度の構築」を促す事が「最優先の政治課題」であった。その為には、「律」を強化して、「規則と制裁の内容の差」を組み入れたのである。

「慣習」=「要領」
「仕来り」=「規則」=罰則
「掟」=「制裁」=刑罰

社会の傾向に反して、この事、即ち、「規則(罰則)+「制裁(刑罰)」が「善事撰集」に大きく反映していたから「公布中止」と成ったのである。
恐らくは、「慣習の要領」や「仕来りの規則(罰則)」ではある程度納得せざるを得なかったのでは無いかと考えられる。
然し、この「社会の根幹部の決り」を成す「掟」であるが為に、危機感を持つ「持統天皇と施基皇子」は、この「規則と制裁の内容の差」だけは譲れなかったのであろう事が判る。
そもそも、その「掟」とは、あらゆる「組織」を維持する上で絶対に犯しては成らない「原理原則の決り」である。
この「原理原則の決り」は、その「氏」に取って欠かす事の出来ない変える事の出来ないものである。
とすると、これを犯せば「制裁(刑罰)」を受けるは道理で、要は「掟」には必ずそれに伴なう「厳しい律」が伴なわなくては成り立つものではない。
即ち、「掟=律」の関係があってこそ組織は成立つ。
そこで、その「掟」の一例としては、「皇族賜姓伊勢青木氏」に遺されたものとして代表的なのは、「家紋掟」である。
要するに「氏の象徴」とする家紋には、”「氏」が何らかの影響を受けて変化”を余儀なくされる事が起る。「子孫の継承存続」に関する問題を円滑に進める為の「厳格な要領」を事細かく書いた要領書であり、当然に、それには「罰則」は元より「刑罰」に主眼を置いて定められたものである。
これを放置すれば「氏」は構築されない。

そもそも、「屯」を前提とする「氏家制度」の社会構造を構築しようとする時、これを守る「掟」が崩れれば社会構造は成立たない。況して、その初期段階であった。
(詳細は「家紋掟」参照)
恐らくは、その意味でこの事が「善事撰集」に最も重要な内容として、この「家紋掟の基本形」、即ち、「氏の継承掟」(掟=律)が書かれていたと考えられる。
然し、大化期には「家紋」の概念は未だ無かった。
「家紋掟」の名称は、「氏の象徴紋」として朝廷より許された「認証氏」が用いたものであり、従って、平安末期にその名称を変えたと考えられる。
その名称を変えなくては成らない問題が「青木氏」に起った事に成る。
(第5次頃の訓戒で呼称変更)
そもそも、当初は、「氏家の象徴」と観られる場所に明示したもので、門柱、嘉門柱、上記の瓶器、牛車等に用いられたものである。これが後に「家紋」と呼称された。

>「訓戒の編集」
「平安期の訓戒の編集」はこの事からも証明出来るが、それは次ぎの事であった。
「皇族賜姓青木氏」は、上記で論じた様に大化期から「純血血縁」を基本としていた事から、その「枝葉末孫」は全てその「血流の差」が無く、「宗家方式」採用であって「分家方式」は採用していなかった。依って、家紋は「賜姓紋の笹竜胆紋」に統一されていた。
然し、「特別賜姓族」との血縁により960年代から980年代に「融合青木氏」が5家5流に発祥した。この事でこの「融合青木氏」には、「特別賜姓族側」のこの「掟」の「氏の継承方式」を採用していた模様で家紋は多様と成っている。
ただ、「特別賜姓族」との間で「跡目、養子、貰いの継承方式」を「子孫存続」の為に多用して血縁関係を結んでいた為に、「笹竜胆紋」を採用せずに「皇族賜姓族の関係族」としても「綜紋」とはするものの秀郷一門の主要紋の継承が有った。
つまり、「氏」は「皇族賜姓族側」に入り、「掟」の「氏継承方式」は「特別賜姓族側」に従うものと成っていた事を物語る。
この事からも「掟」は、「特別賜姓族の伊勢青木氏」の調整の下で「2つの青木氏」の間で検討され、両氏に調和する内容に調整されていた事を示すものである。
「家紋掟」は、当初は「氏継承掟の内容」であったが、「特別賜姓族」の発祥に依って変化し、「皇族賜姓族側」と「特別賜姓族側」とに差異が僅かに出た。
「皇族賜姓族側」にもこの時期に「枝葉末孫」(傍系)に「宗家方式」だけでは除し難い事が起こっていた事を物語っていて、結局は、ある程度の修正を加える必要が生まれた事に成った事を示し、その呼称であった。
女系は兎も角も、「枝葉末孫の跡目継承」の判断に問題が生じたと考えられる。

結局、これを筆者の「伊勢青木氏」で観て見ると、「四家」の直系からの末裔は「笹竜胆紋」を継承する事に成っている。
「笹竜胆紋」ではないが、筆者の「伊勢青木氏」で信頼され、確認出来るところでは「傍系の5氏」が発祥している。(個人保護により氏名は匿名)
事程左様に、5家5流にも同じ事象が起こり、同じ程度の傍系氏が起っていると観られる。
筆者の「家紋掟」は、「5家5流青木氏」と「特別賜姓族青木氏」の主要氏に採用されて入る事がこれで確認出来る。
この事が記録の中の表現から「信濃や甲斐の青木氏」にも採用されて入る事が読み取れる。

(近江青木氏と美濃青木氏は平安の源平の2つの戦いで滅亡し、枝葉末孫がその後に「青木氏」を復興した。)
(「特別賜姓族」では、秀郷一門の論文で詳細に論じた氏名に「藤」の付かない主要豪族の「青木氏族4氏」がある)

>遍歴の補足:「歴史的な背景」
「参考」−「心得」−「行動指針」−「家訓原型」−「訓戒完成」−「家訓完成」−「家訓編集 添書編集」
以上の様な「家訓の遍歴」を持ち続け、「青木氏」を興し維持して来たこの関係した数人の「伝統的な人物像」を、「武の象徴」でありながらも「和」を追い求めなければ成らない「特異な立場」の「長」に、”「青木氏の理想像」として追い求めたのではないか”と想像出来る。
そもそも、大化期の「始祖施基皇子」からの引き継がれた「古代密教の教示」と「善事撰集」と「何らかの口伝類」と「慣習、仕来り、掟」の類が、上記の様に次第に遍歴を遂げ、数代後の桓武期の「青木氏衰退期」に「家訓」に反映したと考えられる。
それは「桓武天皇」は「律令国家」を建設すべく「平安遷都」をして人心を一新した。
この事に依って「律令国家」の真逆の「皇親政治」の一員であった「青木氏」は排斥されて衰退した。
この時、「青木氏」は「氏の律令」に匹敵する「家訓の原型」と成るものを興したのでは無いだろうか。
何故ならば、「青木氏と守護神(神明社)」、或いは「日本書紀と青木氏」でも詳細に論じた様に、「伊勢王の施基皇子」(この時の伊勢国司代は三宅連岩床) は、上記「3人の天皇」の下に「善事撰集司」(撰善言司)に任命されて、全国を飛びまわり日本に最初の「律令の基盤」の編集を行った人物である。
「日本書紀」や「類聚三代格」等にも明記されている。その「施基皇子」の国許伊勢にもこの「律令の基盤」としての現在の「家訓の原型」成るものを設定したと考えるのが妥当であろう。
ただ、「家訓」と表現したかは不祥であるが、伊勢の国許にも自分の造ったこの「善事撰集の原型」なるものを敷いたのではないかと考えている。
”国許と云う事だけでは無く、伊勢神宮を皇祖神とし、その遍座地として定めた時でもあり、そこを確実に安定した形で伊勢を護らなければ成らないと云う使命感から、自らが造った「善事撰集の原型」を敷いた”と考えるのが普通ではないかと考える。
「善事撰集の原型」を使って「小さい氏の律令国家」を試行的に構築して試したとも考えられる。
そして、後に「青木氏の守護神(神明社)−22」で論じた様な「青木氏の変化」と共に拡大する「氏の律令」として必要な物に編集し直したと考えられる。
それが「訓」では10、「戒」では10に纏められた物であろう。
これ以外にも「長の資質」等の上記する口伝類から推測すると、現在に伝わる口伝類の10類程度と50類程度の「氏の伝統」の「慣習や仕来りや掟」(「青木氏の守護神(神明社)に明記」が定められていたと考えられる。
「家紋や守護神や菩提寺等の類」を加えると、凡そ100程度の「善事撰集」に成っていたであろう。その中から「訓と戒」類を「家訓10訓」として引き出したと考えられる。
その時期は「特別賜姓族青木氏」(960年代頃)が誕生した事をきっかけに新たに一回目の再編集としたのであろう。
この後(50年後)、直ぐに正式に「和の商い」に入る事から現在のものに成ったと考えられる。
この頃から「特異な立場」は上記した「公家衆との経緯」論から厳しさは更に増したと考えられ、その厳しさから「2つの血縁青木氏」を「公家衆の攻撃」に対し遺漏無き様にする為に、その必要性は増したと考えられる。

>「長の資質の全様」
さて、話を元に戻して、上記の様に、「善事撰集と古代密教と慣習仕来り掟」を実行するこの様な(特記)の「歴史的な背景」を踏まえると、「長」という資質に大きく関わってくる。
「青木氏」が云う「大者」とは、もとより「大者」でなくては成らない事は決して無いのであって、むしろ”「大者」であっては成らない”としている事が良く判るのである。
この様に、何も”豪傑の様な大者”と云う意味合いでは決して無く、また必要無く、むしろ、”そうであっては成らない”と戒めているのである。
これは「家訓1」から「家訓6」までにきつく厳しく訓戒している事でもある。
何故ならば、「大者」とは、時にして ”自らを忘れて自らの枠を超えて暴走する性”を持っているからに過ぎず、”「和の姿勢」を忘れ「特異な立場」を永代に絶対的に守らねば成らない青木氏には相応しくない”と判断しているからである。
然し、他が思う事には問題は無いし、自らが「繊細な人物」であればこそ、この「枠」を超える事はないとしているのであろう。
ただ「神経質だけの者」でもあっては萎縮してしまう事に成る訳で、其処で”「緻密で戦略的な先見眼」の資質”を持ち合わせている事を求めているのである。

この様に「青木氏の長」には ”緻密で戦略的な思考原理の資質”と云う「繊細な気質」が求められていたのである。
この「繊細な気質」から発せられる事が、その結果として「公家衆」を威圧する位の「度量と人格」で良いのである。これは真に「家訓2」で訓じている事でもある。
「青木氏の長」には、何も”太っ腹の大物”と云う「長」を要求していない事に成る。
これが「特異な立場」から来ている考え方であり、重要な事は「相当な精神力」や「繊細で戦略的な先見眼」は、「繊細な気質」の者が会得出来うる資質なのである。
決して、「資質ある者」、即ち、「長」としてあるべき姿は、むしろ、決して「豪放な人物」「豪傑風」ではあっては成らない事を「家訓2」で戒めている。
これは、「武の象徴」で「武」を以ってするのなら「豪傑や大者」で良い筈だが、「武の象徴」で「和」を以って「特異な立場」を全うしょうとする場合には、上記の様に「繊細な気質」で以って「2つの抑止力」で威圧して、「大者」と印象を与える事で「家訓10訓」が導く「長」の姿と成る。
この事で「武の象徴」の役目は成立つし、「和の姿勢」も成立つ事で「公家衆」からの「非難の口実」を与えない事に成るのであり、家訓への矛盾は無く成る。

>「相当な精神力」=「繊細で戦略的な先見眼」+「2つの抑止力」=「青木氏の家訓の長」
>「青木氏の武の象徴」=「繊細な気質」+「2つの抑止力」=「青木氏の長の姿」

(参考 この「考え方」は現在でも口伝で伝っている。”豪傑の様な大者(大物)を善しない”とする「家風の考え方」がある。よく親から”大者ぶるな”と口癖で戒められた記憶があるが、この「家訓の名残」であろう。
「伊勢青木氏の家風」としては代々「大者」は禁句で、「善」とはしない考え方があったがこの伝統であろう。又、「刹那主義」「喜怒哀楽」を否定する「享楽ボケ」(刹那ボケ)の「伝統の言葉」も「家訓の名残」である。
これは「神仏習合」から来た考え方が口伝として遺されているのだ。
「善事撰集」と「古代密教」と「神仏習合」と「特異な立場」の「4つの考え方」の真に「習合思考原理」で培われたものであった事が判る。
この事は「2つの青木」氏以外には起り得ない思考原理である。これが脈々として、然し、時代遍歴しながら伝わって来た「伝統」である。)

上記の経緯から考えて、「口伝の様なもの」は何かの形で文書化されていた可能性があり、「慣習類」、「仕来り類」、「掟類等」の形で、今で云う「マニアル化」していた事が状況証拠で確認出来るが、残念ながら「松阪大火の菩提寺焼失」で不祥と成っている。

「2つの伊勢青木氏」に何とか上記する様な事を検証出来ている事から、他の「4家の賜姓族」や主要な「特別賜姓族」にも「何らかの形」で「宗家筋」には遺されている筈であるが、発掘は困難と成っている。
「冠婚葬祭」時の「3つの類の内容」が他氏と異なり過ぎている事から、これだけの事を口伝では無理であるので元はあった筈である。
同じ程度であればそれは口伝でも可能であるが、周囲とこれだけ違っていれば1300年以上の継承は困難であった事も考えられる。
気に成る一点は ”世に晒す事無かれ。 晒す事に一義無し。”の「伝統の戒め」である。
これを宗家筋が守っている事も考えられる。(確かに、現在のマスコミは危険である事は否めない。)

因みに、「青木氏の守護神」でも紹介したが、「丸山城の戦い」と「伊賀の戦い」で信長に勝利したが、この時の先祖はこの様な戦い方をしたが、この時の先祖の「従四位下青木民部左衛門上尉信忠」はこの様な人物であった事が口伝として伝わっている。
何故、「伊勢攻め」の「3つの戦い」が事細かく物語の様に口伝されているのかは、この上記した「長の人物像」を模範とする為に物語風にして口伝として伝えられているのであろう。

(参考 「丸山城の戦い」の様子では真に小説物語に成っていて、枝葉末孫の家から発見されたこの書籍は焼失から免れて遺されている。この事から他の戦いの様子を書籍で遺されていたが出火で焼失した)
(これも「家訓2」を教える口伝であろう事が判る。他にもこの様な口伝が多くあるが、次ぎの「伝統品シリーズ」で紹介する。)

何にも、上記する様な”比較的簡単”であったのなら、何もわざわざ「家訓の戒め」にする必要がない筈である。
「家訓の戒め」とした以上は「青木氏の氏存続」に大きく左右する事であったから家訓としたのであって、”それが何であったのか”を当時の「青木氏の者達」は知って置く必要があった筈である。
恐らくは、少なくとも公家社会が存在する頃までで、長くても南北朝の室町期中期頃までは、「家訓10の存在意義の原因」を認識して一族郎党に周知徹底されていた事が判る。
然し、それ以降は資料や記録の解析検証の信頼度が極めて低く成ることから不祥である。
ただ、江戸期から再び資料記録の信頼度は高まりつつあった事から、明治期初期の「商記録から読み取ると、この時期には「意識の形」を時代に合わせて変化させて、再びこの認識が蘇っていた事が判る。
依って、「家訓10」の宿命的で絶対的に求められる宿命の「子孫を遺す事」の支障にならない様に、職務の遂行とは別に、一族を懸命に固めていたと考えられる。」
(「商記録」は、「全国域の商い」と、この補完関係にあった「伊勢信濃シンジケート」と、各地の「豪商豪族の関係」の経緯等から記録としてのものが読み取れる。)
それには、「公家衆などからの非難発言」は、一つは公家が蔑む「禁じ手」なのにその「商い」で「大きな財力」を固め「親政族として権力」を握っていた「青木氏」に対しての”怨嗟や揶揄や嫉妬”が強かったのであったと考えられる。
この認識を青木氏に関わる全ての者は強く持っていたと考えられる。
況して、「臣下族」でありながら、公家よりも身分、家柄、官位官職、何れに取っても上位にあり、且つ、その「青木氏の務め」が長い歴史を持ち「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」であった。
とすれば、「公家衆」に執っては相当叶わぬ上位にあるからと云って、素直に「品位の礼」を以って退くよりは、陰で「嫉妬や嫉みや怨嗟や揶揄の声」の方に傾くはこの「現世の常」であろう。

これに比して、「氏や民からの発言」は「氏上様」「御師様」と呼ばれる程に「信頼と尊厳」を勝ち得ていたのである。
民が慕う「皇祖神-子神-祖先神−神明社」を建立し、”「氏上」として品位格式に違わない「青木氏」”であった事から広く民衆から「信頼と尊厳」を受けていた。
「青木氏の守護神(神明社)」論参照
その「禁じ手の商い」で得た財力は、「抑止力」としての「シンジケート」等を構築し、それが「氏や民」に還元し潤す構図に成っていたのである。
「氏や民」に執っては「商い」は「禁じ手」でも何でも無く、むしろ極めて正統な生活活動であった筈で、蔑む「禁じ手」は論外であった。
故に「商いをする青木氏」に対して「公家衆」の様に、「氏や民」からは ”嫉妬や嫉み怨嗟や揶揄”が起る筈が無かったのである。
その「氏と民」が仮に ”嫉妬と嫉みと怨嗟や揶揄”を起すとすれば、自らに唾を吐くに等しい事に成る。むしろ、「賛同の声」があったと考えられ、その声に応えて「青木氏の商い」に依って得た利益が「氏と民」に還元されていたのである。
又、この様な家訓で導かれていた「2つの血縁族青木氏」の結束や、「2つの絆青木氏」や「一族郎党」との親密な結束関係に対する「公家衆の嫉妬」もあった事は否めない。
「特別賜姓族」の「藤原秀郷流青木氏」が「藤原氏北家」の出自でありながら、品位は藤原氏の公家衆よりは上である事への「嫉妬や嫉み」もあったのでは無いかと考えられる。
同族であり摂関家でありながらも、会えば正式に儀礼として「品位の礼」を取らねば成らない悔しい立場にあった筈である。
この「品位や格式」のみならず「経済力や武力や抑止力等一切の「支配力」が叶わないのであるのだから、「嫉妬と嫉みと怨嗟と揶揄」の域は通り越していた筈で、警戒しなければ成らない「口性」であったと観られる。
その様な「氏と民」から「信頼と尊厳」を勝ち得ていた「2つの血縁青木氏」に対して”口煩い公家衆の「嫉妬と嫉みと怨嗟と揶揄」”が強かったのであろう。
その”「嫉妬と嫉みと怨嗟と揶揄」”から起る「公家の讒言」が朝廷内に広まり、それが「特別賜姓族青木氏−皇族賜姓族への補完策」で保護を受けていた「天皇家」に対しても迷惑を掛けない様な「特別の配慮」も必要であったのであろう。
結果に依っては、事と次第に依っては、この「讒言の流れ」が非常事態に陥る事は当時の平安期末期の社会では常であった。
例として、近似する立場にあった彼の「源義家の没落」でも判る様に、この「讒言の流れ」が変位して、いつ何時「天皇の誤裁断」に依っては「源氏の没落道」を歩む事はあり得ると青木氏の者は認識していたのである。(家訓の深意が物語る)
青木氏に執ってはこの「公家の讒言」でも「賜姓族」である以上は弱点の一つである事を認識していたと観られる。

(参考 「利益還元」では明治9年までも伊勢−信濃近域や甲斐の100年騒乱で起った一揆や騒乱等の数多く事件に、一揆側の背後で経済的支援をしていた記録が遺されている。明確な記録では4度
この等に対する「公家の讒言」が「氏や民への経済的支援」に大きく影響していたのであろう。)

筆者は、この様な判断力(「繊細で戦略的な先見眼」)は「氏家制度の社会」で無くても、「青木氏の特異な立場」で無くても、組織を構成する限りに於いて「長に求められる資質」であると云えると考えている。
その様な「長」に導かれている組織は安定し伸びる。これは「現世の条理」であろう。

>「添書の示唆」
ところで、”この難しい「戒め」が全ての子孫に宛がわれた事なのであろうか、”疑問が残る。
「添書」では何も論じてはいない。”肝心な事を書いて置け”と云いたく成る。現実に当初は思った。 然し、”勝手に考えよ”の突き離す意であろう。本添書の癖である。
然し、この「家訓10訓」の全体を通じて云える事ではあるが、それは「長」に対して特に求められる「戒め」である事が判る。
「長」に示す事を考えての「添書」であるとすると、当然に考えさせて諭させて理解させる手法と思われる。
特に、「家訓1」にしろ「家訓2」にしろ「深意」として考えれば「長」に求められるものと観られる。文章は平易であるが「家訓」の言葉や字句や語句の使い方の通りの「深意」では無い事は良く判る。
特に「家訓8」までの全体を通しても概して「長」に求められるものと考えられる。
例えば、”「家訓8」のような「戒め」を経に一族全ての者に求められるのか”と云えば、現実にはそれは無理であろう。それは「考えられる者」であるのであればそれはそれとして”尚善し”とするが、老若男女夫々に成し得る資質や能力や立場は異なっている。
全体を通して敢えて出来るだけ言葉や字句や語句は平易なものを使って表現している苦労は読み取れる。
従って、一族の指導する立場にある者が少なくとも「訓の深意」は兎も角も、この「戒め」に関しては「戒の意」を会得して悟り、一族を「子孫存続の道」に導けば良い事に成るのであろう。
だから、わざわざ「訓」に「戒」を附添しているのであろう。
普通なら「訓戒」という言葉がある様に「訓」は「訓」、「戒」は「戒」として扱うのが当り前と理解する。それを敢えて「訓」に関連する「戒」を添えているのは「長の義務」をも明確にする意思であったのであろう。
”「訓」は一族全ての者に、「戒」は「長」の者に、一族の者には「長の厳しい務め」を知らしめ理解させ、「長」には訓戒を悟らしめる”と云う工夫を長い歴史の中で凝らしたと考えられる。
当然に、この「家訓10訓の配置」もこの事(「一族の者と長の関係」)を物語っているものであろう。
真さしく「家訓1」であり「家訓2」であり、「家訓5」等であろう。
家訓1 夫は夫に足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。

因みに、家訓1として、 「長」は「長」に足れども、一族の者は一族の者にして足れ。
家訓2として、「長」は賢なりて、その一族の者必ずしも賢ならず、「宰相」は賢なりてその一族の者賢なり。

「夫と妻、父母と子」等の字句を「一族の者」や「長」や「補佐役・重臣」に置き換えて考えれば、何事にも事ほど左様に足りる訓である。
故に、「訓」と「戒」を一つにし、「一族の者」と「長」の「心得や考え方」を統一させた事が判る。
この様に、この「置き換え」で「家訓10訓の考え方」が、「青木氏の考え方」が、「善事撰集」強いては「古代密教の教示」の原型の「思考原理」で全て理解出来るのである。

>「家訓10の発展」
元に戻して、そもそも、「喜怒哀楽」に重点を置いた生き方を採れば、その末は「刹那主義」と成り得て「家訓1から家訓9」までが求める「心域」「度量」「心得」即ち「心の余裕」を持ち得る事は先ずは困難であろう。
その前に「平易な深意」であっても「喜怒哀楽」程度の「刹那の理解」であれば「家訓の深意」の理解は困難と成ろう。
そこで、”困難である”と云う事では、”子孫を遺す事に一義あり”とせずに、”子孫を遺す事”とすれば長い歴史の中で途切れる事が起こる。これでは上記する「青木氏の特異な立場」は果し得ない事に成る。従って、「一義」の字句に大きな先祖が伝える「深意」を持っていると観られる。
この「平易な意」程度の心得では「青木氏」としては困るのである。
「長」としては「道理の矛盾」を理解出来ずに「長」を外されるが落ちである。
「家訓の添書」がある事がその事を物語っている。
「平易な意」であるのなら「添書」は要らない筈である。この「添書」があると云うことは「深意」があると云う事に成る。
故に、この様な ”長に足りず”の「廃嫡事」が青木氏の長い歴史の中では起る事から、「氏継承問題」では「本家分家方式」の格式を採らず、又、「純血血縁の弊害排除」と共に「一族宗家方式」を採っていた一つの理由であろう。

「家訓1」は長い歴史の中で「廃嫡事」が会った事から「訓」と「戒」を第1に据えているのであって、これに対して何も無いのならそもそも「訓」「戒」にする必要はなかった筈である。
何時でも広く一族からより上記する優秀な「資質」に富んだ者を一族を導く「長」に据える事が出来る様に、一族同位同格の「宗家方式」を採用していた理由の一つでもある。
その事を物語る事が系譜を具に調べて観ると判る。
その中で現実に頻繁に当り前の様に起こっている様である。
但し、ここで上記した「資質」に付いてもう一つ注意しなくては成らない事がある。
上記した「資質ある者」即ち「長」としてあるべき姿は「豪放な人物」「豪傑風」では無い事を「家訓2」で戒めているが、更にもう一つ読み取る事が出来る。
それは、筆者まで伝わる家の口伝の一つに ”頭が良い事=資質がある事”では必ずしも無いのである。つまり、”頭が良い事≠資質がある事”であって、ここでも「世間一般の考え方」とは必ずしも違うと云う事である。
若い頃は ”何事にも違う考え方をする”と何か「違和感」を感じていた。”ちょと変わっている家風かな”程度であった。
この時も「家訓の有無」もその程度ものであって”殆ど無い”に等しかった。
然し、後で家訓に意識をし始めてから、以前に親に依頼されていた「青木氏」を調べ始めた頃から、「自分の思考」が無意識のところで ”何かに無形のもので左右されている事”に気が付いたのである。
それが、次ぎの様に成る。
”頭が良い事≠資質がある事”
この思考で、”一時が万事が斯くの如し”であった。

他に上記に関連して次ぎの様な事がある。
”「頭が良い事」は「賢い事」とは違う”である。

>”「頭が良い事」≠「賢い事」”
>”「頭が良い事」≠「資質がある事」”
>∴ ”「賢い事」=「資質がある事」”
と云う考え方なのである。

これは「家訓2」でも云っている事であり、”何も頭が良い事”を求めていない事が判る。
「賢い」であれば良い事に成る。ではどの様に違うのかは「家訓8」で答えを出している。
それは「知識と経験」との事に関わり、”頭が良い”は「豊かな知識の習得」で成し得て、経験が無くても頭は良い事に成り得るが、”賢い”は”「豊かな知識の習得」があってもこれを基にした「豊かな経験の習得」が無ければ成り得ない”とする考え方である。

依って、次ぎの様に纏められる。
>”頭が良い”=知識>経験、”賢い”=知識+経験
以上の数式論である。

青木氏は斯くの如しで、諸論文で論じた「先祖伝来の考え方」が多く「名残」として遺されている。
これらの思考に限らず「諸事の慣習や仕来りや掟」も世間一般と違う事に気付き始めた。
(何でこの様に違う事に成るのかは、上記した通り「善事撰集」+「古代密教」+「神仏習合」+「特異な立場」に起因する。)
この様な違いに気付き始めてからは、”何でその様な考え方の違いが出るのか”と疑問と成り、それを解明するに至り、益々「青木氏の研究」に熱が入った。御蔭でこの様な疑問を糸口として予想の様相がある程度就き易く成り、その方向で限定した調査が進む事で「青木氏の解明」に繋がって行った。(因みに、先祖の血液型まで判る様に成った。主流は突然変異型の血液方ABである。)

「青木氏の守護神(神明社)」の研究で、次いで進めた「青木氏の家訓10訓」の最初の「2つの研究」で走馬灯の様に記憶が蘇り、”あーあの事がこの事から来ているのか”の様に無形の「古の慣習」に左右されていた事に気が付いたのである。

(参考 復元を依頼された時から意外と親父に填められたかも知れない。明治35年に出火させて「伊勢松阪の大火」に成ったが、この時、由来書などの書籍や記録と共に、これ等の事を物語るかなりの伝統品が焼失、記録保管している「青木氏菩提寺」も焼失した。)

その後、大戦などもあり、祖父後半の代、父の代では経済的な理由で「由来書等の復元作業」は成し得なかった。兄弟親族のある中で筆者に依頼があった。その為に遺された資料は筆者が保持、口伝も筆者が多く受けた。青木氏を物語る「生仏像様」の様な重要なものは伊勢青木氏四家に散在して幸い遺されている。

(「信頼出来る状況証拠」を積み上げての「答え」も後で資料が見付かる等が在った。これらは、後刻、伝統の本家訓投稿が完了した後に、「伝統品シリーズ」として投稿する準備を始めている。恐らくこの「伝統品シリーズ」でもよりこれらの事を証明出来ると考えている。)

>「家訓10の長の定義」
兎も角も、事程左様に、口伝や慣習と共に、「家訓6」にも訓じているが「長」の定義として、言い換えれば、次ぎの様に成る。
”人を導く「資質と度量」を先天的に備わっている者”である事。
その”素材を有する者”である事。
それを磨く事で「長と成り得る者」である事。
以上の3つが「長の定義」と云える。

現在で云えば、決して、”学業の成績が良い”と云う事では必ずしも無いのである。
”良い事に越した事”は無い。最低の条件でもあるが、常日頃、親などが口癖の様に云うのは、要は、”世の中の事は 「頭が良い」と云う事では上手く行か無い。” ”資質と度量の有無を優先する。即ち、「賢い事」”であった。
これが ”「伝統ある口癖の口伝」”であったらしい。
恐らくは、これは「家訓10訓」の意味合いを汲んだ、取分け「家訓10」の”子孫を遺す事に一義あり”に強く反映されたものが、”「伝統ある口癖口伝」”として引き継がれて来たのであろう。

因みに、筆者の父は、江戸時代に育った娘で、吉宗の育ての親でお側用人の伊勢加納家から若くして嫁いで来た祖母に厳しく育てられたが、この為に950年も続いた老舗の伊勢紙屋長兵衛の伝統的な影響を受けていた事からこの考え方が強かった。
(伊勢加納家も「2足の草鞋策」の老舗「加納屋」を営む)
筆者も「長」の定義の様に、「青木氏の家訓」と「青木家の口伝」の影響を受けているのか、「青木氏の遺伝」なのかこの考え方を強く持っているのは不思議である。
この様に、「青木氏」はこれらの「口伝」や「伝統ある口癖口伝」からも「長と成り得る者の資質」を磨く事に、悠久の歴史の中で、常日頃、「磨く事への努力」を怠って居なかった事が判る。
「心域」「度量」「心得」即ち「心の余裕」を持ち得る事への努力であった。

(注記 斯くも「伊勢青木氏」では幸いに散在して、資料、記録、口伝、伝統品、商記録、慣習、仕来り、掟類等が遺されていたので、上記する様に考え方が斯くの如しで判明する。
然し、この様な考え方は、取分け「信濃青木氏」と「甲斐青木氏」と、「特別賜姓族青木氏116氏」の中でも「伊勢、美濃、讃岐、越後、尾張」の青木氏には古来より深い親交があった事から、残念ながら「資料の発掘」が不思議に少なく未だ出来ていないが、上記する「青木氏の家訓に纏わる統一した考え方」が浸透して共有していた筈である。間違いは無い。
「特別賜姓族青木氏」の秀郷一門の主要5氏と成っている「青木氏族」(永嶋氏、長沼氏、進藤氏、長谷川氏である。又、「皇族賜姓族伊勢青木氏」は5氏の氏名の異なる「傍系の青木氏族」が発祥している。他4家4流の氏名の異なる「傍系の青木氏族」は一部不祥の資料と添書等からも存在していた事が覗える。
この「7つの地域」には、「宗家青木氏」が現存する事は判ってはいるが、現在に至っても発掘出来ない。依って、「皇族賜姓族の伊勢青木氏」からの内容で推測するしか無い状況であるので、全青木氏は少なくとも”斯くの如し”であった筈として事細かに論じて披露している。)

(参考 、筆者の伊勢青木氏には、主家「松阪ルーツ」と「名張ルーツ」と「桑名ルーツ」と「員弁ルーツ」の四家の他に、「融合青木氏」の「四日市ルーツ」があった。
現実に、系譜と資料記録等から筆者より6代前頃には「長」の座から次々と廃嫡された様な事が起ったとみられる。結果は筆者の「松阪ルーツ」方の三男が最終に松阪主家を嫡子嫡男となって引き継いでいる史実が遺されている。原因は「長の資質」であった模様である事が判る。その時の口伝物語で遺されている。実は、その詳細は、天智天皇から賜姓時に拝領した「青木氏の象徴」の「生仏像様」を巡って「名張ルーツ」家内がその「祭祀の権」を巡って争った事が原因で、一族から「青木氏の長」として相応しくないとして廃嫡され、次いで「桑名ルーツ」でも起った模様である。
「祭祀権」は「長」が持つものであり、結局は「主導権争い」をした事を意味する訳であり、「長の資質無し」として外されたのである。
その結果、筆者方の「松阪ルーツ」に戻り、その中でも三男ルーツが「長」に推されて納まった経緯である。「伊勢青木氏」には「四家」があり、その2家内で争った事に成る。
この時の様子がその運送状況や罰を受けた事の様子などが物語り風で口伝で伝わっている。
更に遡れば何度か起こっている様子である。「家訓」に添った「長としての重要性」の伝統事件である。同じ様な事が上記の青木氏の中でも起こっている筈である。
この事から大化期からはこの様な事が何度もあった事が考えられる。それほどに「青木氏の宿命」の達成には「厳しい子孫の選択」が成されていたのである。)

それだけに冷徹とも観られる他氏とは異なる厳しい生き方を青木氏に求められていたのである。
その為にも、この「喜怒哀楽」に傾きすぎた「刹那主義」を「家訓10」で厳しく戒めているのである。
この考え方は「青木氏の特異な立場」と成り得た時から求められていた筈で、少なくとも「大化期からの戒め」であった筈で、これは「古代密教の教え」でもあった事に成る。
「青木氏の守護神(神明社)−22」でも論じた様に、本訓の”子孫を遺す事の一義”は、この大化期からの「真人族と朝臣族の単一融合族」(青木氏)と成り得た時からの守らなければ成らない「絶対的な宿命」であった事に成る。
況や「刹那の戒め」は「家訓9」で論じた様に「原始仏教」−「古代仏教」の教義であって、「古代密教の青木氏の教義」であった事に成ると考えられる。
故に、「青木氏の古代密教」に関わらず、その後の「三大密教の仏説」では、「刹那主義」の原型は否定されて来た所以であろう。

>「家訓10の理解」
この様に、「訓」を補足する様に「戒」として「刹那の否定」を添えたものであった筈で、”「涅槃への道」には、「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」であらねば成らない。”とする密教の考え方は、「今」に重点を置くのでは無く、”先を見据えた落ち着いた考え方”が採られていた事を物語る。
だとすると、その意味で、現代人とは「心域」「度量」「心得」即ち「心の余裕の差」があった事に成る。むしろ、現代では、”今に生きよ 今日は今日 今日を明日に繋げ”とする様な ”刹那主義が正しい生き方だ”とする傾向がある。
この「家訓10」の様に、「刹那の戒め」として ”子孫を遺す事に一義あり”と今に主張する事は真に「異端児」と成ってしまうだろう。
その「時代の背景」に依って、一個人一氏が大きく左右される現世では抗う事は不可能であり、況して「善悪の問題」ではなかろうが、筆者は、現世に於いて、”子孫を遺す事に一義あり”が何時の世も「絶対的な摂理」であると考えている。
「氏家制度」で無く成り「個人主義」の現代でも、「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」のバランスを配慮すれば、現世の”「涅槃への道」”はより「煩悩」に苛まれる事無く、より善く生きられると考えられる。
筆者は、この「青木氏家訓」を遺していた「伊勢青木氏」の宗家の者である無しに関らず、この「家訓10訓」を「事の真理」を突いた「妥当で納得出来る訓」として信じている。矛盾の事象は無かった。
取分け、「家の大事」の判断に迷う時には、この「家訓10」の”子孫を遺す事に一義あり””刹那の戒め”から最初の「思考の基点原点」として思慮を巡らして事を決める事にして来た。
振り返れば「道」としては間違えて居なかったと自負している。

(参考 筆者は技術屋であるので論理性の強い性癖もあるが、論じているのは真逆の無形の抽象論である。これも私個人の「道理の矛盾」である。)

当然の事であろうと思う。何故ならば、”時代は変わる”は、これだけの家訓を遺して来たのであるから、我が「青木氏の先祖」が解らない訳は無いだろう。
それも「伊勢青木氏」を例に取って観れば、明治35年(大正14年までは何とかこの伝統を引き継いでいた模様)までは少なくとも大化期からの「悠久の伝統」を頑なに護って来た史実がある。
依って「氏家制度」が終り、既に60年も経った大正期でも「悠久の伝統」即ち、「古代密教」の影響を強く受けた「家訓10訓」と「守護神(神明社)」の「神仏習合」に裏打ちされた「特異な立場の伝統」は厳然として引き継がれていたのである。

(江戸時代も時の政権徳川氏の紀州藩は、幕末までと大正14年ま上記の「家訓に従った氏の存在」として「青木氏の扱い」を認めていた史実が幾つもある。何度も論じた。)
この事から考えれば、先祖は「時代の変化」の「具合や様子」は充分に理解し観て来ていた事に成る。それでもこの「家訓」は遺されているのだ。
そもそも、”時代に沿わなく成った”と判断していれば霧消している筈である。
累代の先祖や祖父は周囲からも、総称は”御師さん 氏上さん”、又は、個人別では、代々”梅岳さん”等の「雅号」でも呼ばれていた。この”「雅号」”も他氏には観られない「古式慣習」で、何れかで呼ばれ親しまれ尊敬されていた事から、それを理解出来ないほどの人物ではなかった筈である。「禅問答の師」でもあった。)

(大正期紀州徳川氏を付き添いに「天皇家に挨拶言上」に参上した事が記録されている。
歴史的に江戸初期にも「挨拶言上」があった事が伝えられている。江戸中期の吉宗の享保改革の財務担当として請われた時にも「挨拶言上」があった事が資料から判るし口伝でも伝えられている。
この「3つの挨拶言上」以外にも江戸期前にもあったと考えられる。
取分け、平安末期までは定期的な「参上昇殿」が成されていた可能性が読み取れる。
鎌倉期から室町期中期には「商い」を通じて得た利益の還元として経済的に困窮していた天皇家に対して秘密裏に救援していた事が判る。
数多く「一揆等への背後勢力」としてシンジケートを使って動いていたことが商記録から確認出来る事からも、「室町文化」の「紙文化」で巨万の富を得ていた事から、「永代の朝臣族、賜姓族、臣下族」である立場上、放置する事は先ずない筈で、裏で「天皇家救済」に動いていた事は確実である。
天皇家である以上は救援の記録は遺し得ないが、時の政権も限度を超えない範囲であれば、暗黙の了解と黙認の立場を採っていたと考えられる。)

>「家訓10の証」
この事から「家訓10訓」は生きていた事の証しであり、その「家訓10」の証しは次ぎの一字が家訓として活かす事に成っていたと考えられる。647年からの「歴史の遍歴」の風雨に堪えて現在にあるのはこの「字句」が活かしたのである。
それは、次ぎの遺訓である。

>”子孫を遺す事に一義あり”
この「一義」と云う字句にあったと考えられる。

この字句の有無で大きく意味が異なる。
上記した様に、”「涅槃への道」には、「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」であらねば成らない。”とする「密教の考え方」の中で、”子孫を遺す事”では断定的であるが、「一義」の字句が入る事で柔軟さが出る。
この”「一義」の字句の有無で「時代毎の遍歴」に対応したのではないか”と云う事なのだ。
この本論の「家訓10」を家訓とした先祖は、この「一義」を入れる事で、「子孫」とする「目的の定義の幅」と、「遺す」とする「行為の定義の幅」に、その大きさを持たしたのでは無いかと考えられる。
「子孫」とは、「特異な立場」の強い慣習に縛られていた事から、「特異」であるだけに押し潰されてこの幅が無ければ遺し得なかったと考えられる。
「時代の遍歴」では、先ずは「真人族や朝臣族」とする平安期の「同族血縁族」は少なくなり「子孫」をこの「純血による同族血縁族での慣習」で遺す事はかなり物理的に無理であった筈で、その「血縁族の幅」を広げる事でより可能に成る。
取分け、平安期末期からの「母方血縁族」の「特別賜姓族青木氏」が116氏に拡がった出現はその最大の一つであり、又、鎌倉期には全て滅亡したが「朝臣族の源氏」との「血縁の幅」もその一つであり、「近江佐々木氏一族」との血縁も神仏関係(佐々木氏の資料から)の「縁」であったことが判る。
室町期から江戸期に掛けてのこの「青木氏血縁族」は、「2つの血縁青木氏」の「融合青木氏」の存在が示す様に、「秀郷流青木氏」との「重複的な血縁」があり、更には、これ等の「特別賜姓族青木氏」の「秀郷流青木氏」と血縁を進めた各地の高位族の「連や宿禰豪族」の氏族の間接的な血縁も行われた。又、「青木氏の守護神(神明社)」で論じた様に、神職関係で繋がる「近江佐々木氏」との各地での「遠縁の血縁族」との子孫存続の血縁もあった。
この様に、「子孫の幅」が広げられた事がこの「家訓10」が守られた事に成る。

次ぎにはこの「遺す」とする行為の字句の定義の幅である。
「遺す」の定義の幅では、「血縁族を繋ぐ」と云う意味合いから「直接継承の存続策」と、上記した「同族間の子孫存続策」にて遺す事の「2つ存続策」がある。
それと、「男系継承」が困難に成った場合には ”「跡目継承策」で遺す”とする「第3の跡目方策」の事も可能に成りその定義の幅は広まる。
それには「嗣子」が多い場合は、通常は仏門や神門に入れるが、入れずに上記の血縁族に「跡目養子」や「婿養子」や「貰子」などで子孫を拡げて於いて、「自らの氏の跡目継承」が困難に成った場合には、「嗣子の血縁族」から「跡目養子」を迎えて継承させて行う等の行為の幅が拡大が成されいた。
「青木氏」からは「神仏職」を本職として入る事は、自らの「守護神と菩提寺」がある以上は別であり、この職業間の血縁も進んだが、世に云う単純な”仏門に入る”は無かった。
このルーツから跡目を取る事も充分に可能であった。(陸奥域まで広がっている。)
これには、「青木氏の守護神(神明社)−22」で論じた様に、他氏と異なり「本家−分家」は採らず一家一流族の全てに「宗家方式」を大化期から採ったし、これが5家5流に採用されていた事から「跡目継承の対象族」の純血度は高く、且つ、均一性を保っていた。

(この為に、「家紋」も一切の副紋等を採らず全て「笹竜胆紋の綜紋方式」である。特別賜姓族は附秀郷一門との関係があり「本家−分家方式」は採るものの、綜紋の「下がり藤紋」をベースとしてその家紋の藤の下部に副紋を組み合わせてそのルーツの出自を明確にしている。)

本家訓にある様に、「有能な長」に重点を置いた「跡目継承方式」であって、全て一族からの優秀な者を輩出させる「嫡子方式」を大化期から採用して、他氏の様に元々限定した「嫡男方式」を基本とするものでは無かった。
上記した「特別賜姓族」や「近江佐々木氏」の「子孫存続策」との血縁も相当に純血性が高く、日本最大を誇る「特別賜姓族青木氏116氏」に拡がったのも根本はこの事からであった。

「佐々木氏族」は兎も角も、そもそも「特別賜姓族青木氏」とは、「平将門の乱」の「平定の条件」として藤原秀郷が提示した「2つの条件」の内の一つで、”「貴族に列する身分の保障要求」から「従五位下の貴族」の最下位”の要求が認められた。
この時は、「皇族賜姓族青木氏5家5流の衰退」が懸念されていて、「国策氏」としても「融合氏」としても「3つの発祥源」としての存立も危ぶまれていた。
況して、この為に「皇祖神-子神−祖先神−神明社の建立の遅滞」もあり、これを復興させる為にも、朝廷は、元来、「藤原氏北家族」で「皇族賜姓青木氏」の「母方血縁族」であった事から、貴族に列した秀郷一門に、更に、この衰退し復興を始めて来た「青木氏の補完の任務」を背負わせて「皇族賜姓青木氏」を復興させた。
そして、それを永代で秀郷一門の「宗家の第3子」にこの任を与え、初代千国が秀郷一門の護衛軍と成る事を認めると共に、「皇族賜姓族青木氏」と身分、家柄、官位、官職等の一切の「蔭位の制」に基づきその任を追加して与えた。

(「永代」とは、青木氏が絶える事が無い様に、「青木氏の跡目」が万が一欠けた場合は一門宗家から、その時の「第3子」を跡目として入れる様に義務を与えた。この結果、「青木氏族−永嶋氏等」の4氏が発祥した。)

>「家訓10の定義の幅」
この時、「嵯峨期の詔勅」に基づき「皇族の第6位皇子」に対して与えられる「朝臣族」と「賜姓族青木氏」の身分を、「詔勅の例外」として皇族外の「母方血縁族の秀郷一門第3子」にも累代に「朝臣族と特別賜姓族」に「永代による品位と格式の権」を与えたのである。
結果として、秀郷一門宗家よりも「上位の格式」を持つ「従4位下」に列せられると云う事が起った。これが「第2の宗家」と呼ばれる所以である。
「皇族賜姓族青木氏」と「特別賜姓族青木氏」の「2つの血縁青木氏」はこの「品位の制」を基盤として上記した様な血縁関係を強く結んだのである。
これでは、最早、「同族血縁族」の何ものでもないのである。
この様にして、「子孫」と「遺す」事の定義の幅を広げる「一義」の字句がこの家訓に附添されているのである。
この事に付いて、大化期の初期からこの「家訓10(刹那の戒め)」”子孫を遺す事に一義あり”の家訓が存在し、且つ、「2つの血縁青木氏」はこの家訓10に従って上記する様な色々な「子孫存続の方策」を打って来た事が判る。
のみならず、更には、朝廷もこの青木氏の「国策氏」を護る為に、この様な「縦横な血縁関係」の方
策を容認していた事が判る。
この様な方策を実行するには、「朝廷が認める氏」であるが為に「朝廷の認可」が必要とした。
従って、この様な「血縁関係の輪」を作れた事は、朝廷が後押しをしていた事を物語るもので、そもそも、「特別賜姓族青木氏」の「発祥とその任」からしても、そのものが「朝廷の公的な推進策」であった。

>「家訓10」の位置付け
つまり、「家訓10」は最早、「青木氏の家訓」の域を超えて「朝廷の推進策」と成っていた事を意味するものであり。況や、これまた「国策氏」の所以であり、「国策訓」と成っていた事に成る。
これは、「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」「皇祖神-子神−祖先神-神明社」「古代密教氏」等の事柄が「国策の基点原点」であり、「象徴」であったからであろう。
「朝廷」や後の「幕府」が、”「国家の天皇家」に継ぐこの「基点−原点−象徴」を無視し霧消させる事は「国家の尊厳」の軽視を招く事に成る”としたからである。
この「2つの血縁青木氏」に対してのみに「朝廷と幕府」は、「嵯峨期の詔勅」の「青木氏の永代禁令」や「大化期の詔勅」の「不入不倫の権の永代付与」「祖先神−神明社建立の永代権」(江戸期初期から幕府が補完)「密教菩提寺の建立の永代権」を明治初期まで与え続けた事がこれを明らかに物語るのである。
これ等は全て「家訓10」の「子孫を遺す事に一義あり」に起因する。
恐らくは、上記した様に「刹那の戒め」は、上記する様に「国家の策」の一つにも成っていた「青木氏の子孫を遺す事」に対する「最大弱点」を「青木氏側の戒」として付加えたと考えられる。
つまり、例え「訓」を理解したとしても ”この「戒め」が全てを左右する”と考えていた事を意味する。
その意味で、この「家訓10」は「他の家訓」(1〜9)に根本的に影響を与えるものであり、この「訓」と「戒」が異なれば「他の家訓」(1〜9)は崩壊する。

因みに、筆者の家に伝わる「口伝の伝統」は、この「訓」にでは無く多く「戒」にあった。
記憶に依れば、父と祖父は口癖の様に、”刹那ボケは駄目だ””もっと先を観て考えよ””考え方に余裕と落ち着きを持て””享楽の老けるな””先憂後楽で無くては駄目だ”等の「刹那」の意に共通する叱咤を受けた。
ところが若い時は ”何故この様に云うのか、一体意味が何なのか”は良く判らなかったが、子供を持ち子供が成長し孫を見るに連れて、ある時、ハッと気が付き「家訓10訓」との繋がりが良く判った。取分け「家訓10」の事に気が付いた。
良く考えて観れば、「家訓1」や「家訓2」や「家訓4」や「家訓6」は家族に纏わる事が多い事から息子に話す事が多かったし、「家訓5」や「家訓7」や「家訓8」や「家訓9」は会社務めの部下の指導や相談事にも善く述べていた事を思い出す。
然し、「子孫を遺す事」に対する「叱責や口伝や指導」は取り立てて無かったのである。
そして、何時か子供には「他の家訓」(1〜9)の事を口癖の様に云っている自分に気が付いたのである。
「子孫を遺す事」に対する発言が無かったのは、「他の家訓」(1〜9)の基本と成っている事から、”「結果として得られる目標」である”からと認識していた事に依る。

>「涅槃への道」の数式論
恐らくは、「家訓10」をそのままに直に説いたとしてもなかなか理解は得られない筈である。
それは ”若い者の勢い”で「喜怒哀楽」に大きく左右されていて、”「涅槃への道」には、「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」であらねば成らない。”とする「密教の考え方」の中では、受け入れる側の「心の収容力」の門の入り口が開かない筈である。
筆者もそうであったが、”何を馬鹿な事を 今時、年寄り臭い”で一蹴されるであろう。
実際に最初の頃に部下の相談に乗った時も一蹴であった。
真に「家訓5」の「人を観て 法を説け」である。
この様にして、考えて観ると、”「現世の生業生様」=”「涅槃への道」”は、全てこの「青木氏の家訓10訓」で説ける事が判る。
祖父が禅問答を高野山や永平寺の高僧としていた事の書籍や記録を多く遺している事を考え合わせると次ぎの関係がある事が判る。

>”「現世の生業生様」”=”「涅槃への道」”=「青木氏の家訓10訓」

この数式論は、祖父に依らずとも筆者でも理解できる。
筆者でも理解できるとすると、「氏家制度」の中での先祖は、その社会の真っ只中で居たのであるから、尚更の様に、”「現世の生業生様」”=”「涅槃への道」”=「青木氏の家訓10訓」の数式論は比較的抵抗無く受け入れられ進んでいたと考えられる。
日常茶飯事の様に事程左様に、「大化期」からの累代の先祖はこの様にして子々孫々に言い伝えて行った事を物語る。
「2つの血縁青木氏」と「2つの絆青木氏」と「一族郎党」の中ではこの様にして「青木氏の家訓10訓」を比較的簡単に伝えて行った事がまざまざと目に映る。
累代の先祖の時代性は、「武」による時代であった事から「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」の数式論を要求されるものであった。直に説いても直ぐに受け入れられたであろう。
上記した様に「青木氏」は「武の象徴」の「特異な立場」にありながらも、「分身を遺す事」の意味は違っていたが、別の意味でこの数式論は直に受け入れられた筈である。

然し、問題はこれからであろう事が疑う事無く判る。
「時代性」や「社会性」は余りにも異なる事はもとより、今は上記の数式論は消え失せ、0=「涅槃への道」<「喜怒哀楽」に近い。
然し、近代化や科学化が起こり人の現世がどの様に変われども”「涅槃への道」”の本質は人間である限りは普遍である筈だ。
人間の内部の構造がロボットの様に変わらない限りは普遍であり、普遍である以上は「家訓10訓」も普遍である筈だ。
然し、如何せん筆者の家に於いても説くにしても、残念ながら、0=「涅槃への道」<「喜怒哀楽」に左右されている事は否めない。
「家訓10訓」の意が伝わらない事の危険性を大きく孕んでいる。
然れば、少なくとも「文書にして遺す術」を選ぶ以外に無い事は判る。
未だ古式古風豊かな一面の習慣を遺している筆者の家でも、斯くの如くの有り様であるので、「青木氏族」に於いてはその術が霧消していて、それが「0=「涅槃への道」<「喜怒哀楽」と云う事に成るであろう。

>「投稿の現状」
実は、多くの「青木氏族の現状」を観ると、「皇族賜姓族青木氏25氏」と「特別賜姓族青木氏116氏」とこの「2つの絆青木氏」と「皇族青木氏5氏」の主要氏の殆どの「宗家本家の実情」は、「守護神神明社」等は当然の如く、「密教の宗派」も然る事ながら「密教菩提寺」等の言葉さえ失し、所在も資料記録をも勿論の事で、焼失させて完全に判らなくなっているのが現状である。
相当の宗家でありながらも、仏壇も戒名も判らないとする現状の様である。
この中ではあらゆる「伝統の継承」は、最早、不可能であろう。
筆者の調査した原因とその時期は、室町時代は第1期の戦乱の焼失期ではあるが、江戸時代にはかなり蘇る事が起ったが、これも主因となったのは第2次大戦の戦火と、その後の疲弊した生活にあったと考えられる。
確かに明治期初期には、混乱は室町期と同様にあったがある程度の蘇りがあったし、記録資料は移動したに過ぎなかった。
然し、大戦の戦火は「焼失」として起った為に消えた事と、その後のこれ等の宗家本家などが農地改正等の政治的な圧政で衰退してしまった事から伝統が完全に途絶えたのである。
何故、斯くも簡単に霧消する方向に進むかは、「青木氏族」はその伝統から「密教族」であった為に「守護神」と「菩提寺」に記録保存を委ねていた事が大きく原因している。
この「守護神」と「菩提寺」が焼失すれば消えるのみと成る。中でも特に藤原秀郷一族一門の菩提寺が不祥とする事がその典型的な事象であろう。(研究しているが確定は未了)

(研究で「2つの血縁青木氏」の菩提寺には、ある「特定の条件」が歴史的にあった事が判った事から、ある程度特定出来るまで至っているし確率は高い。)

この様に調査すると、この時期は昭和20年頃で完全に途絶えて前に進まない事が起る。
大勢力を誇った瀬戸内の青木氏族でも最高で昭和20年で終わっている。
筆者の家も何とか資料復元するに最低の資料が確保できても斯くの如しである。最早困難であろう。
出来るだけ研究して投稿して遺す事に努力する。
現在は、個人情報保護に基づき資料採掘や調査そのものが難しく成っていて消えるのみである。
(判断に用いた資料記録等を公表する事が個人情報と悪用の危険性から避けた。)

>最後に
筆者の伊勢青木氏関連の資料記録から出来る限り網羅して、その上で「状況証拠」を出来るだけ積み上げて、”他の青木氏も斯くの如しであろう”とする論調で説明した。その為に何度も同じ事象例を揚げてより正確に理解を深める様に努力した。

この様に、「青木氏の家訓10訓」は「悠久の歴史」を持つ伝統ある「青木氏の訓戒」である。
「全青木氏の先祖の生き様」を表してものとして未来の末裔に語り続けて欲しい事を願うのみである。


「青木氏の家訓10訓」 完