青木氏氏 研究室
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  [No.105] Re: 大化改新8−1
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/20(Tue) 18:34:36

Re: 大化改新8−1
副管理人さん 2007/04/26 (木) 22:03
大化改新 新説 まとめNHKスペッシャル7−4の「失政、失敗」の反論は終わり次の新説に対する反論に入るとする。 

今度の大化改新の検証テーマは第8番目と最後の10番目の新説に対する反論である。

8 日本文化は朝鮮(三韓)の文化
9 律令国家の導入
10 石と水の庭園は疑問とあつた。

以上の3つであるが、9番目は既に大化改新は「18改革と10活動」が行われたことを述べ反論し出来たので割愛する。

では、先ず、8番目の「日本文化は朝鮮の文化」について反論する。
反論すると言うよりは影響受けた事は事実であり。問題は日本文化との影響比率が問題となる。
事実、100%とは言っていないので反論とはならない。
そこで、その比率とその影響の内容の具合が問題であるのでそれを解明したい。
このまま放置しておくと大化の改新の改革文化は内容全てが導入したとなってしまうので、ここで改めて文化の説明をしておきたい。

先ず、次の問題を設定する。
第1の問題は、その文化の影響を受けた期間をどのように設定するかである。
第2の問題は、どの範囲の事柄を文化と設定するかである。
第3の問題は、どの程度の人々のところまでの文化とするかである。
第4の問題は、主に影響を受けた外国を何処とするかである。

以上が検証するに必要とする設定であり、この4つの問題が不明確に論じると結論が変わるものと見て設定する。
論じる際には次の設定で分類しながら行う事とする。

第1の問題は、時代を大化としてその大化期とその前の期間が文化に影響するものとする。
そうすると、大化期を645年(650)として前期を半世紀の50年程度の文化として600年頃とし、後期は大化期を半世紀を経た期間までの700年頃までとする。

そして、前期は後漢の滅亡前の文化と、隋の滅亡前の文化と、唐の建国(618年)位の時代から大化前(645年)までの影響とし、大和では欽明天皇時代からの文化とする。
後期は唐の影響とし、大化改新から27年間の天智天皇と、天武天皇の14年間と、持統天皇の8年間の約50年間の文化とする。

第2の問題は、国の国体の構成要素を政治、経済、軍事、文化の4つとして前者3つは補完要素とする。
この補完的要素を政治的なことから影響した事柄を1 「政治文化」と呼称し、経済的なことから影響した2 「経済文化」と呼称し、軍事的なことから影響した事柄を3 「軍事文化」として論じる。
そして、その主体の文化は4 「宗教文化」と5 「科学文化」とに分ける事とする。
しかし、この時代には現代のような「科学文化」というものが進化していない事から特に特記する物が無い場合は論外とするが、現代のような科学を意味するものとは異なる場合がある。この場合は呼称名を作って説明する。

第3の問題は、この大化期は大化改新1から7までその社会状況を述べてきたが、特に「7色の姓制度」(8色)などの身分制度の存在する社会の中であるので、その文化の影響を直接受ける内容が異なるので、階級の範囲を「上流階級」と「下流階級」とに分けて論じる。
この時代の文化は現代と異なり身分制度がある以上各階級の文化は、平均化していないで異なっている場合があるので分けて分析する。

第4の問題は、外国の影響を主に中国と朝鮮国とし、中国は「隋」と「後漢」と「唐」の影響とし、朝鮮国は3韓(馬韓、弁韓、辰韓)の「百済」、「新羅」、「高句麗」の影響とする。

既に、これ等の内容の内で政治的、軍事的、経済的な事柄の影響文化に付いては、「失政、失敗」の所の検証で概ねの所を述べている。しかし、これを「文化」という点に絞って史実史料に基づき対比しながら論ずる事とする。

本件の限定した分野での結論の結果は、既に前レポートで次の様に記述した。
大化改新7の1−4までのレポートで、「隋と後漢と唐」の文化に「百済」の文化が「政治、経済、軍事的」には補完的影響として受けている事を既に述べている。
その中でも「後漢の文化」の影響が強かった事を3権の範囲で最も影響が強かった事を特記している。。

もとより、朝鮮国は618年までは後漢の占領下にあったし、その後の唐の影響を受けているので直接、間接的にも中国文化(主に前期は後漢の文化で、後期は唐の文化である)である事を注釈する。

では、その手法として「文化」という括りで史実として残っているものだけを取り上げて論じて行く。


1 聖徳太子の592年頃から起こった「崇仏論争」である。

即ち、「仏教」の導入に依って起こる「宗教文化」である。

「仏教」は中国を経て「百済」の「聖明王」から伝えられた。
この事に付いての経緯を次ぎに述べる。
4世紀後半に百済「応神王」に引き連れられて難波津の河内に上陸した。
この地を制して後、当時の「ヤマト王権」の「政治連合体」(4豪族)との戦いの末に、和議して出来た「ヤマト政権」の「合議体」が樹立した。
この初代大王に朝鮮の渡来人の「応神王」がなり、彼に引きつられて来た「物部氏」や「蘇我氏」らも勢力を拡大し、これに加わりそれらがヤマトの豪族となり、6大豪族(巨勢、紀、葛城、平群の4氏と物部、蘇我の各氏)等で構成する「ヤマト政権」、即ち「河内王朝」(ワケ王朝)が樹立した。
その後(6世紀半ば)政治的成長を遂げて「大和朝廷」が出来たが、ほぼその直後に「大和政権」を揺さぶる上記の豪族の間で2分して論争が起こった。

最終的に神の祭祀を担当する中臣氏と、軍事を担当する物部氏(百済系渡来人)の排仏派と、阿智使王と阿多倍(後漢系渡来人)が率いる武力集団の漢氏(東漢氏)を管理支配下に入れていた蘇我氏との崇仏派に別れて、利害関係の存在する戦いが起こり、結果として崇仏派の蘇我氏等が勝った事件があった。

この時、聖徳太子が加わり蘇我稲目、馬子の親子の大臣の時代であったが、崇仏派の努力で仏教は拡大し、同時にそのもたらす「宗教文化」が飛躍的に発展した。

このことでも判る様に、百済人の初代の応神大王らの率いるヤマト政権であったので「朝鮮文化」が拡大して、それまでの既存文化と合わせて「百済文化」の発展期となったのである。

しかし、この時は既に、後漢の21代末帝の献帝(子供の石秋王)の孫の阿智使王と曾孫の阿多倍王が17県民を引き連れて大技能集団が続々と帰化してきていた。(ピークは孝徳天皇期:大化改新期)

後漢のこれ等の帰化民は、最終日本全土の66国中関西以西の32国を無戦の状態で支配下に納めたが、後漢の渡来人の持つ技能が瞬く間にその支配下の民の生活に浸透して生活程度が上がり、その技能は益々ヤマト民の生活に吸収されて広まつている時期でもあった。

従って、上流階級には「仏教文化」が起因する文化が発展し、同時期には「民の文化」も「後漢の文化」が浸透していたと云う事になる。

つまり、「上流階級」の文化は「宗教文化」の「朝鮮文化」が普及し、「下流階級」の文化は「技能文化」(経済文化)の「後漢文化」が並存している時期でもあったのである。

念のために、当時は「民」とは、次の様に定義付けられて呼ばれていたのである。現在とは随分と異なる。

「民」の呼称を「百姓」と言い、当時は皇族と賎民を除く良民一般(公民、地方豪族、一部地方貴族を含む)の総称であった。
実際は農民だけではなく、山民、海民等を含めて調庸を負担する被支配民一般をさす語として用いられていた。
真に、百の姓(かばね)である。

この「百姓」の民に「阿多倍」の引き連れてきた高度な技能を持つ集団がそれを伝授して生活程度を向上させたのである。
それ故にむしろ進んでこの阿多倍らの支配下に入ったのである。

現在の第1次産業はこの集団が持ち込んだものであるが、つまり、大化改新のところで述べた「部制度」を維持した服部、磯部、海部、鍛冶部、陶部、土師部、...等の姓を持つ集団である。

そこから生まれた彼等の技能がもたらす事による文化、即ち「技能文化」(「経済文化」:「後漢文化」:「下流階級文化」)はこの「百姓文化」として大発展したのである。
もし、これが支配的な統治ではこの様な文化はこれ程までに生まれていなかった可能性がある。
例えば、現在の陶磁器(陶部:すえべ)や土器(土師部:しがらきべ)や鉄器(鍛冶部:かじべ)や織物(織部:おりべ)等の様に伝統芸能としてその文化は引き継がれて来ている。
(阿多倍の詳細は「大化改新」の所や研究室の検索で参照して下さい。)

ここで、忘れては成らない現代も長く続く最長の限定した文化が存在していたのである。
崇仏の争いに付いての上流階級の「仏教文化」とは別に、その中でもう一つの文化があったのである。

それは物部氏や中臣氏らの主帳する「天神文化」というものが元々「ヤマト」にはあった。
この事に付いては、このヤマト政権(王権)の樹立の経緯が大きく関わっているのである。

その経緯の事に付いて説明する
この「ヤマト王権」とは、大和川が形成している「大和平野」を支配した地域勢力(物部氏や蘇我氏を除く上記の氏族の勢力)が樹立していた王権である。

この王権は後の天皇を中心とする律令国家の前身であり、成立の時期(年代)の確定ははっきりしていないが、ここに百済の応神王らの渡来人が上陸し、進んだ生産技能や統治の方法を持ち込み、地域勢力はいち早くこの「朝鮮文化」(百済文化)を取り入れ勢力を増し、三輪山の祭祀を中心に結束し、この渡来人の応神王を大王としてその祖先を神とする伝承を作り上げたと述べたが、後に、朝鮮諸国との交流を進める中で、更に別に「天と神を中心とする伝承」(天神文化)を作り上げていたのである。

この「大和王権」(大和政権)の「天と神を祭祀する伝統」のこの神代の時代からの「伝承文化」を護ろうとする物部氏やこの祭祀を担当する氏の中臣氏(後の大化改新の立役者の「中臣鎌足」の先祖である。)等が「排仏運動」を起こしたのである。

これに対して、蘇我氏等は立場を失う事となり、この結果、崇仏派を立ち上げて対抗したのである。
当初は排仏運動派の方が優勢であったが、聖徳太子の気転(恵美押勝)で戦いでの勝敗が付いたのである。

しかし、この後、蘇我氏らの崇仏派は傀儡の聖徳太子を立てて「大和政権」を形成したが、この時、一方ではこの政権には崇仏する「仏教文化」が、他方では「天と神を祭祀する伝統」の「伝承文化」(天神文化)も妥協の産物として天皇家(大王家)が維持していたのである。

この結果、次の現象が起こった。
皇族階級は、「天と神を祭祀する伝統」による「伝承文化」(大和文化:天神文化)を発展させた。
政権と蘇我氏等の大豪族の上流階級は、仏教による「宗教文化」(朝鮮文化:仏教文化)を発展させた。
民の「百姓」の良民の下流階級は、技能による「経済文化」(後漢文化:技能文化)を発展させていた。
即ち、同時期に「三つ巴文化」(融合文化)の花を咲かせて次第に発展させて行ったのである。

そして、この3階級の身分の「三つ巴文化」は根付き「律令国家」に根ざし、国体を維持するに値する民を治める政権の「大和朝廷」が誕生したのである。この大和朝廷の天皇家の主幹文化として維持していた事になる。

聖徳太子等が、「中国」の中央集権的律令国家の政治的導入と共に、「百済」から「仏教文化」を導入したのであったが、結局は元の「中国」の隋(唐)から「仏教文化」と「先進文化」を積極的に摂取し、「三経義疏」(簡易解説書)を著して民に解り易く解説して浸透を図り、その信仰の場として四天王寺、法隆寺、発起寺、中宮寺等を建立したのである。
結局は上流文化(宗教文化)としながらも、この書の存在でも判る様に「政治文化」としての仏教を用いて当初は「民の安寧」を計っていたのである。

(「三経義疏」とは「法華経」、「勝曼経」、「維摩経」の3経の注釈解説書(義疏)を言う。)

この当初の初期の「三つ巴文化」は、上記の例に見る様に「分離」して文化が発展して行ったのでは無く、次第に「融合」しながら「融合文化」へと形成して行った。
これに基づいて、「政権」も成育し、「ヤマト王権」から「大和政権」へと、遂には「大和朝廷」へと生育して推移して行ったのである。

ここで「朝廷」とは、大王、天皇を中心とする政治機構で、大臣、大連を始めとして中央の豪族を含めた「合議体」の呼称なのであるが、真にこの「融合文化」と共に政治機構も「合議」(融合)へと「文化」の成せる技として進化して行ったのである。
これも政治が起因する「政治文化」の一つと言わざるを得ない。

だとすると、「政治文化」を加えて「四つ巴文化」とも言えるのではないか。
或いは、「三つ巴文化」を分離することなく上手くリードし上位に立つ「政治文化」が成立していたのであろうか。
これが当時(飛鳥前半期)の文化の構造であった。

大化改新の前レポートでのところでも述べたが、そもそも「日本民族」そのものが「7つの融合民族」なのである。
それ故に、これは我々日本人の持つ何でも「融合」してしまう「国民の特徴」でもある。
そして、この「融合」が全ての問題の解決手段として、現在までの世界に誇る優れた「国体」と「文化」を維持させてその奥深い国体と文化に成っている要素なのである。

歴史を顧みて、既に1400年前からの大化前後から政治と文化にその特長を発揮していることを知ると今さらながら真に驚きである。

この事が明治初期まで「三つ巴文化」が続き、多様性の持つ世界に誇る独自の「融合文化」を作り上げたのであるが、しかしながら、「分離」しようとして明治初期には再び廃仏(毀釈)の運動が起こった歴史をも持っているのである。

この様に決して「外国文化」をそのままに伝承した訳ではないのである。これを独自性の「融合文化」と呼称されている所以である。


2 「遣隋使」と「遣唐使」の文化の影響

この使節は大化期の文化育成に大きな影響を与えたのであり無視出来ない。

この「隋」は高句麗遠征に失敗して短命(581-618)に終わったが、小野妹子や大化改新の前レポートで記述した4人の国博士共に、遣唐使としては高向玄理、河内鯨、栗田真人、山上億良、吉備真備、石上宅嗣、藤原葛野麻呂、小野皇等が居る。
これ等の人物は650年前後と以降の大化期の人物も含まれているが、敢えて判りやすくする為にまとめて掲載して置く。

この時期としては、第1次遣唐使として犬上御田鍬、薬師恵日等が多くの先進文化を伝えた。

彼等は主に留学生、学問僧、技術者とで構成されていて、「文化」と言うよりは「文明科学」の航海知識や造船技術、建造物技術等の進んだ「科学文化」を伝えたのである。

大和国の文化に大きく貢献するその大切な派遣であるので、通常、”よつふね”と呼び確率から4隻の船を仕立てて唐渡した。かなりの犠牲を負っての遣唐(隋)使であった。
難波津から出て博多湾に立ちよりここから出た。
状況により3つのルート(北路、南路、南島路)を選択した。
唐の末期の政情不安と危険度から菅原道真が遣唐使の中止を建言して取りやめになった経緯がある。

ここで誤解されている傾向のあるものとして、日本の文化は隋唐からの遣唐(隋)使が持ち帰り直ぐにその文化が伝達させたと教科書で教わった。
ところが社会に出て技術士として経験して行くうちに疑問が湧いてきた。そこで、歴史に興味を持って良く調べて考えてみると社会システム上で理屈に合わない事に突き当たるのである。
物理的にこの教科書説には矛盾を持っているのである。この事は下記で説明する。

(余談として、ここで暫く息抜きの為に、ついでに時事放談をする。)
(ところで、学校教育にはこの矛盾が多い。原因は教師バカや教授バカである。つまり、ある「社会のシステム」を無視して限定された視野からしか見られ無く成った論法である。最近では判事バカや検事バカさえも出て社会の常識とズレが出たために、裁判員制度や検察員制度が設けられた。だから教育も同じ様な限られた世界であるのだから、やるなら一緒にである。教育問題も教諭員制度、教授員制度を設けてはどうかと思う。)


3 「慧慈」(高句麗人)、「慧聡」(百済人)の影響

「慧慈」は聖徳太子の仏教の師となり、仏教はもとより太子の人間像の育成にも大きな影響を与えた人物で、大和朝廷の「政治文化」の伝来に最大の貢献をした人物である。
615年に帰国し太子の死を知ると太子と同日の死を望んで622年の翌年同日に死亡したと言う有名な伝説が残っている程の人物であった。

また、百済僧の「慧聡」は「慧慈」と共に「三宝の棟梁」と称えられた人物で、学僧として二人(聖徳太子と中大兄皇子)に大きな影響を与えた。

大化前期のそれらの文化育成に影響を与えた書物として次のものが選択できる。
先ず、中国書では、「隋書」、「倭国伝」、「唐書」、「旧唐書」、「通典」、「唐会要」である。
朝鮮書では、「三国史記(新羅本記)」、「日本世記」(百済)である。
大和書では、史書「天皇記」「帝紀」、「帝皇日継」、「国記」である。

特に、百済の「日本世記」の発見は、それまでの通説を覆す史実が詳しく判明したことであり、大きな文化の影響を与えていた事が最近に判明したのである。
特に大化期の中大兄皇子が政務した日々の詳しい内容が日記形式で記載されていて、その百済文化の影響を色濃く反映している事が読み取れるものが発見された。
これは「慧聡」が皇子の側で政務をとりそれを日記にして帰国する際に持ち帰ったものとして考えられている。

確かに政務や書物に依って影響を与えただろう事は否めないが、文化まで影響したかは史実が無いので不明確である。

4 「干支の法」が与えた「生活文化」の影響

この法は、十干(じっかん)と十二支とこの二つを組み合わせた60通りの年月日を表す方法である。
この「干支の法」は言語に相当する文化文明のあらゆる基本と成るパラメータであり、これにて記述、記載、記録の文化は発達した。
この中国の法を取り入れたことで中国、朝鮮との文化文明の共通する価値が伝わり、普及発展に大きく速やかに寄与したのである。
この基本と成るパラメータが異なると、発達途上の国々のその原因にも見られる様に、現代の日本の文化文明の進展は遅れていたと考えられる。

それで中大兄皇子は、第10番目の新説のところで述べるが、この時刻、日の正確な設定の問題に取り組んだのである。これ無くしてこの手法は充分に使えないし、文化文明の発展はないと見たからである。皇子はこれを一つの儀式又は祭祀として利用したのである。

飛鳥文化では太陽の日時計を使っていたが正確度が悪く、これを「白鳳文化」(大化期の文化)では水時計を作ってこの問題の正確さを解決したのである。
古代会飛鳥の丘の上に鐘突堂を設けてこの正確な時刻を知らせていたと言うことである。
(第10番の答えはこの水時計である。「時」の重要性は文明と文化発展に重要である事は議論の余地は無い。)

現在に於いてはこの中国の法は殆ど消滅しているが、当時としては民の生活に必要不可欠な直接に浸透している基準であった。
これも直接の「文化」とは言い難いところもあるが、文明と文化構成上の基本としてその歴史上の影響として扱った。


5 「識緯説」(しんいせつ)の影響

この当時の中国の「政治思想」、又は民の「生活習慣思想」としても用いられたのである。

この思想は概ね次の通りである。
例えば、一つの説を採ると、干支で甲子の歳や辛酉の年には変乱が多いとし甲子革令説、辛酉革命説と呼ばれるものがある。
一種の統計学的な推理に基づく予想である。この様な多くの諸事に統計説が作られているのであり、中国の長い歴史から来る経験を統計的に論理つけたものである。

確かに、一概に無視出来ない推理法であるが、現在でも「10年一昔」と言う。
10年経つと社会構造が変化して一つの「節目」が出来て、これだけ科学が進歩してもそれにても解析できない何らかの変化、又は問題が起こる可能性は現在の人の社会でも充分考えられる。
この様な「言葉」や「伝説」や「言い伝え」等が、特に日本社会には多いことは今だ否めない。
これは一種の中国から伝わった「統計文化」と言える。

この方式が未だ科学が大きく発展していない時の社会としては、この当時の統計文化を構成していて人の「先の見えない不安」の「指針」として用いられたのである。
そして、一方では「仏教」で人の「心の不安」を解消したのである

因みに、「日本書紀」に記載されている「神武天皇」の即位の日が、変更されてこの辛酉の年(前660)を元号としたと記されている。
「日本書紀」にも書かれている事柄であるからして、諸事に対して朝廷や民の社会では充分に有り得たと考えられる。

現在でも、民衆の祝い事や祭事や旅行や生活習慣全般に於いてなども未だ田舎では充分に用いているのである。
また、現在に於いても企業の製造現場では「ミス」を無くす方法として「オルガノリズム」の近代的統計学での方法で人の諸事の変化を予測して、中国の甲子革令説や辛酉革命説なるものと同じものを見つけて注意して「ミス」を無くすると言う方法を採っているのである。

人の諸事の変化は「心の変化と体調の要素」にて統計学的には「Nパターン」(又はWパターン)を示す事が解っているのである。
つまり、「人の関わる諸事に於いて一定のリズムで周期を繰り返す」という統計説である。
現代のこの同じ統計説に比例定数やカーブの微分係数、積分係数を加えて人の個々のリズムに適応してを算定する方式が採られているのである。

参考として昔の識緯説に見合うものとして、現代での統計学では回帰分析法、標準偏差方式法、統計分散度法、比例平均法、Cp法、ヒストグラム法等の夫々の諸事に適合する多くの方式が確立している。

元は中国の「識緯説」、即ち人の「意識の経緯を論理的にしたものの意」であり、つまり「統計」であり現代のものとは少しも変わらないのである。

この様に科学が進んだ「現代社会」においでも「統計文化」は人の「生活文化」として当時は浸透して用いられていることを考えると、当時の大化期前の「飛鳥文化」では、生活の大半の決定事項がこの「統計文化」(生活文化)手法で決められていた事が判る。
これは最早、「民の生活」に完全浸透したことを意味するとすれば「生活文化」の何物でもないのである。
(「飛鳥文化」とは推古期から大化前までの文化を言う)

それ故に、この影響を記述したが、これも中国から導入された無視出来ない文化である。


6 「北魏様式」と「南梁様式」の影響

この時代は建築、工芸に中国の文化の色合いが大きく出ている。
「飛鳥文化」は即ち「仏教文化」である。

これには精神心理の「宗教文化」と、建築、造船、工芸の「科学文化」とが並存して「進化」までは届かないまでも「新化」したのである。

特に、ここでは特に顕著な新化を遂げたこの建築、造船、工芸に付いてスポットを当ててみる事とする。
この「飛鳥文化」の50年の間に建造されたものを列記してみると次の様になり、その中で日本最初の匠が各種の職種で出ている。
その有名な人物として、日本最初の彫り物師、又は仏師の「鞍作部止利」(司馬達等の孫)が上げられる。
この者は中国後漢の渡来人の鞍作部の者から鍛えられて日本人として最初に「鞍作り」を教わったのである。
当時の馬具の鞍は彫り物で作られていてこれを専門に彫っていたが、次第に仏像や建築物の建造にも関わるようになった。

彼の作として遺されている飛鳥遺産物の有名なものとしては、法興寺の安居院の釈迦如来像、法隆寺の金堂釈迦三尊像(北魏様式)などがある。(参考 賜姓伊勢青木氏に与えられたステイタスの「大日如来坐像」も鞍作部止利の作である)

この「鞍作部止利」が大きく貢献した「飛鳥文化」に関して推古天皇が発した詔がある。


7 「仏法興隆の詔」と「三宝興隆奨励の詔」(三宝とは仏、法、僧のことである)の影響。

これ等の詔を発してまでも仏教を基本としてその「心の教え」もさることながら、この仏教に関連する建造物や像などの新化をも狙ったものとして考えられる。
この宗教の伝播はその生活の行動にも関わる人の往来方法やその生活処式の道具等にも新化は進み、造船や工芸への発達にも大きく影響は広がったのである。

特に、大化前の50年の「飛鳥文化」の後半には、建築、造船、工芸品の年代を調べると、その進歩は目覚しい所があり集中している。

これは、阿多倍らが率いるの「後漢」17県民の渡来人の200万と言う技能と知識の大集団が帰化してきた事によるものである。

ここで、上記のバカ問題の解答をする。

考えても不思議ではないか。知識の吸収は遣唐使では可能であるが、いざ建造となるとそれを実行するに必要とする「経験」と「人数」と「設備」と「処具」と特異な「資材」が必要である筈で、その物が何処にあるのか。
当時のヤマトには元々は進んだ「科学文化」が無いのだから。遣唐使が中国から”よつふね”を何回も組んで持ち込んだとでも言うのだろうか。そんなことしていたら時間と浪費と危険がかさみ作業なんか出来ない。

当時のこれだけ多くて現在までの遺された優秀な建造物や諸具を作るのは素人では無理であり、且つそれを作るのは人海戦術であるから、大量で大変優秀な技能者が必要である。

ただ、遣隋使や遣唐使の10人程度の派遣では、「知識」は持ち帰ったとしてもその作る「手段」の「技能」の伝達は直ぐには出来ないのであるから、いくら詔を発してもこの様に伝播する事は無いはずであるし、優れた物を創造する事はできない。
そこにはそれを「理解」し「経験」し「高い技能」とそれを「指揮する能力」の「綜合力」が「絶対的要件」として必要である。

では、下記の寺群はもとより「飛鳥文化」を代表する綜合建築、工芸、処具の見本の「飛鳥大仏」はどのようにしてこれ等の技能技術者を準備したのであろうか。

この建造物は土木、建築、冶金、化学、機械、の設計、製造、施行、組み立て等の広範囲の進んだ大規模工事である。
この建造に関わった大勢の優れた知識と経験を持った人たちを中国からでも呼んで来たというのであろうか。
現在でも難しいのではないか。

私も40年程度の経験を持つ機械と冶金の専門技術士であるが、この「飛鳥大仏」を見てどのように作ったのか不思議なくらいに優れている。

中国から帰った技術者では到底に論外で出来ない事は判るし、帰ったからといって直ぐに出来るわけは無い。
設備も無し道具のも無いところで、又教えたとして直ぐに経験がつくわけでも無い。
建造の準備期間を入れると5年も経っていないのである。

では、その大変な数の「絶対要件」は短期間に何処から持ってきたのか、まさか中国からと云う事はないと思う。
しかし、出来ているのであるから国内にその「絶対要件」が既に備わっていた事になる。
また、この二つの詔を発する位にあるだから直ぐに出来ると見て出した筈である。

確かに遣唐使に唐が与えた技能者を史実で調べると最高で20人と成っているが、これは全て建築工芸の者だけではなく政治経済等の諸々の技能者である。

前期したように朝廷の中でも、遣唐使の派遣は危険である事から菅原道真が中止を建言したくらいである。

大量の道具と優れた技能者人数を確保して、4隻仕立てで確率で運ぶ時代であるし、且つ、遭難覚悟で中国から運ぶのでは人数が何人あっても足りないし、そんなことは不可能だし、唐政権が何せ物理的に危険である事から許す事はない。

しかし、「大和朝廷」期には全く”そのものずばり”の要件が既に備わった集団があったのである。

言うまでも無く「阿多倍」の後漢の200万という経験豊富で組織で統治された進んだ技能集団の帰化人が続々と上陸して来るのである。むしろ多すぎる位である。

後漢と言っても唐の建国と同時に618年に滅びて大和に帰化してきているのであるから、年数的には飛鳥時代では文化の年代差としても5−10年程度のものであり、建造物の技能には殆どその差はないと見てよい。
むしろ、どちらかというと、”遣唐使などいらない”と言うほどであるが。

そこで、余談だが、後に菅原道真の「遣唐使の中止の建言」はただ通説「危険」という単純な理由では無かったと考えている。それはこの阿多倍らの「有能な集団」の存在に関わっていたと見ている。
そして、それで周囲、特に藤原氏の施政との軋轢が生まれて道真は配流されたのではないかと見る。

話を元に戻す。
この阿多倍の集団が存在することでこの詔も効果を発揮したのであり、総合的な「飛鳥文化」が新化して発展したのである。
そして、それが大化期後の50年の進化の足がかりとなって向かったのである。

即ち、「飛鳥文化」の「宗教文化」と「科学文化」と「統計文化」と「生活文化」(生活文化)の「融合文化」は阿多倍の集団が成せる技であったと結論付けられるのではないか。

飛鳥期に建立された主な有名な寺
橘寺(橘氏)、飛鳥寺(蘇我氏)、太秦寺(秦氏 広隆寺)、興福寺(藤原氏)
法興寺、法隆寺、法輪寺、百済寺、中宮寺、法隆寺金堂、法隆寺五重塔

以上の寺が「飛鳥文化」を象徴する寺群である。少なくとも50年の間に今のようにスピーディーに建設器機を使ってやるのではない。一つの建物でも20年程度掛かっているものもある。これだけでも大変な数である。

この寺には中国の文化の「南北朝文化」を色濃く出ているのである。
その「南北朝文化」とは次の通りである。
この北と東と西と南の魏方式とは中国のどこの場所付近の文化なのであろうか。
言うまでも無く漢、後漢の地域帯である。
漢が滅ぶと一部の漢民は西に逃れ中国西域に文化を移動させたし、他方は東に逃れた光武帝に引き連れられた漢民は東に「漢文化」(後漢文化)を移したのである。
そして、東にだけ漢民による国を造り21代の献帝までに渡り「漢文化圏」を構築したのである

その一つは、北朝(6C)の北魏から東魏と西魏の時代の文化様式である。

もう一つは、南朝の「六朝文化」の影響の影響を受けた文化様式である。

この二つの文化にはエンタシス、大斗、雲形肘木、卍崩しの勾欄、一字形割束等が特長である。

この中国の「南北朝文化」の影響が飛鳥の文化に「大和文化」の「様式」として融合して確立して行ったのである。
それは特に、「伽藍配置」と言う形で現れているのである。

「伽藍配置」即ち、寺院を構成する塔、金堂、講堂などの配置の様式をいうが、次のものがある。
 
1 飛鳥寺式、塔を中心に東西北に3金堂が配置される。高句麗と同一
2 四天王寺式、金堂の前に塔を建てて南北一直線にした伽藍配置である。
3 法隆寺式、五重塔を西、金堂を東に配置する寺院伽藍配置の様式である。
4 薬師寺式、金堂の南に東西の両塔が建つ伽藍配置である。
5 東大寺式、東西の両塔が中門と南門の間に出る伽藍配置である。
6 大安寺式、東西の両塔が南大門の南に出る伽藍配置である。
以上の6つの様式に分類される。
この様に伽藍配置にしても大和方式に変化させて建造物に対しても「飛鳥文化」を創造させたのである。

(北魏様式とは「南北朝文化」の一つで、中国の南北朝の北魏の彫刻様式の影響を受け杏仁形の目、仰月形の唇、左右対称の幾何学的衣文などを現すのが特長である。)

つまり、中国の「南北朝文化」そのものを「ものまね」的に吸収したのではないのであり、独自の文化として吸収したのである。
金銅像
他に像に付いては「金銅像」と言うものがあるが、この金銅像に付いては、 青銅を方に流し込んで鋳造した像の上に金粉を水銀に混ぜたアマルガムを塗布して加熱して水銀を蒸発させて塗金したものである。
当時の「科学文化」としては考えられないほどの技法である。しかし、現実には実際は匠に使用されていたのである。
素晴らしい文化が醸成されていた事になる。

他にも高度な技法の文化がある。
「密陀絵」とは、油に溶かした絵の具に密陀僧(一酸化鉛)を加えた塗料で描いた油絵で、漆器の様な光沢が出る。
法隆寺「玉虫厨子」の絵は密陀絵或いは漆絵とも言う。

これだけの科学技術を屈指して作り上げる文化を飛鳥時代には独自の技法として確立したのである。
これは明らかに、中国の唐隋の文化から持ち込んだものではなく、後漢からの阿多倍らの渡来人らが持ち込んで醸成したものである。
その技能の高さでの匠技で、この現代でも難しい複雑な「科学文化」の新化が遂げられているのである。そのレベルが判る。

確かに中国で発展した文化技法であるが、後漢17県民200万人と言う帰化した渡来人の所以である。

中国の当時の経済方式は、中国では一族が中央に城を築き、そして、全周囲を城壁で囲い、その中に何万という一族民が住まう方式である。
その中は全て同姓である。そして、その中でこの様な一族の技法が発展して行ったのである。そして、その別隣の城の他族では別の技能の発展を起こして、それを交換し合う経済方式で進化と新化と進化を繰り返して文化を発展させたのである。
中国文化(後漢)を理解するにはこの経済方式のことを理解する必要があるので特記する。

これ等の17県民の数種の一族が渡来し、故に、そっくりとそのままの「綜合文化」を持ち込んだものであり、後漢の渡来人は優れた技能技術の総合力を保持していたのである。

大化改新8−2に続く。



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