青木氏氏 研究室
このフォームからは投稿できません。
name
e-mail
url
subject
comment

[研究室トップ(ツリー表示)] [新規順タイトル表示] [新着順記事] [留意事項] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]

  [No.123] Re: 先祖と宗教(キリスト教の教え−3 .4 主題4)
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 15:56:32

Re: 先祖と宗教(キリスト教の教え−3 .4 主題4)
副管理人さん 2007/10/20 (土) 10:10
4「キリスト経の教え」

キリスト教の設問として、2番の続き、3と4の問題の説明に入ります。

1 他宗を少なくとも先ずは強く排他している事。
2 教えがかなり強引である事。
3 キリスト個人を神扱いにしている事。
4 兎に角にも、”先ずは信じよ”である事。
5 人は全て悪の子供であると否定する事。
6 中間的考え(柔軟性)は無い事。
7 全体が闘争的な発想に成っている事。
8 特定者(若い者)には受け入れられ易い合理的な教えに成っている事。
9 先祖に対する考えは全体として希薄である事。
10 「民族的」と言う考えを認めていない事。


3番目の事です。(キリスト個人を神扱いにしている事)
キリストと云う現存した個人を崇拝する宗教は、ある意味で、創り上げた教義であります。その教義の良し悪しの如何を論議しているのでは無く、それはそれで宗教とするは、信じる人が納得できるのであれば、特に問題ではありません。
現存した個人を万能の神扱いにすると言う事は、仏教国の民としては何か納得出来ません。

キリスト教の教義を以って、それを人格形成の絆とするは、特に問題ではなく、この事は仏教でも同じであります。
キリスト教徒に言わせれば、この反論として、生きていた者が死んで、生きている民を導く「仏」となる事に対して疑問を感じるとの反論意見もあります。
結局は、死んだ後のキリストと同じではないかと言う論理です。
確かに、その通りですが、日本の仏教では、更に、その上に万能の「神」が存在し、「仏」はこの「神の裏打ち」を受けている論理に成っていますので、違うと云う事に成る訳です。
そして、「神」は「仏」が精進する事で神と成り得るとする教義です。
「仏」とは、”死して民から全ての煩悩を取り除けた時に成り得るものである”とする論理設定です。
仏教では多くの神が存在し、「武勇の神」とする「神」は、その元は現存した人物を元と成っているのもこのことから来ています。
仏教では、この様に、現存した人物の「仏」が「神」となったものには、民の全ての生活職種に対して「神」が存在し、その中でも万能の全種の神が存在するとしています。
(例えば、渡来人の阿多倍子孫の大蔵種材という武勇に優れて人物が居ましたが、この「武勇の神」の「真利四天王」等の様に成った。)

キリスト教でも、釈迦の弟子が神と成っている様に、キリストの弟子が神扱いとしているのも現実ですが、日本の仏教の様に、全ての種の神が存在する事はありません。
又、キリスト教の祖師のキリストと同じ位置にある、仏教の祖師のお釈迦様を直接拝する行為は日本の仏教徒では少ないでしょう(日本では一部にはあるが直接ではない。アジアの他国の仏教では直接崇拝がある)。
ここが「天神文化」から来る差で、違う所だと思います。

つまり、お釈迦様を特別のものとして扱い特別崇拝するは、「神道」の神との融合から、「神道」の神を引き下げてしまう結果が起こり、且つ、避ける結果とも成ってしまう事にもなり、日本では出来ない設定となります。
況や、「一軍の将、ニ将合い立たず」「一国の神、二神合い立たず」で有ります。
日本の仏教には経緯として2つあるとされている。この2つの仏教(顕密仏教と鎌倉新仏教)には、この個人を神扱いする崇拝の傾向が少なくなったのです。
故に、キリスト教に対しては、万能とする個人の「個人崇拝」的イメージを我々は持つのだと思いますし、「万能」とするところにキリスト教には疑問が残るのでしょう。
しかし、これは、キリスト教徒がそれで納得すれば当り前と成り、故に問題は無く、仏教徒にしてみれば疑問点と成るのだけと考えます。
「個人崇拝」は「人、時、場所」の三相にて正否の如何は異なりますので、世界的に観て、「個人崇拝」の起こり難い土壌の所謂「天神文化」を持つほどに、「融合民族」の「融合文化」を持つ日本人の方がおかしいのかもしれません。
但し、融合は進化を及ぼしますから、この「おかしさ」は愚劣のものではなく、優秀の「おかしさ」と考えます。
故に、日本仏教は禅宗などの「仏教学」が生まれたものであると観ます。

4目のことです。(兎に角にも、”先ずは信じよ”である事)
2でも述べていますが、この言葉の前提には、「個人の考え」を先ず排除して、教義を信じさせる事から始まっています。これは受け取り方では”信用していない”と言う事に成ります。
仏教では、個人の考え方の差違は問いません。
その考え方の中で、「悟りなさい」としていて、その「悟り」の障害は「拘り」であるとしています。
そして、”今の自分を是として、あるが侭に、受け入れなさい”としています。
人は、”今の自分を是”とする仏教と、”悪の子供”とするキリスト教の「教義」とは、全く反対ですし、”「信じよ」”と”「悟りなさい」(理解)”では大きく違います。

ただ、もう一つ疑問になる点があります。
アメリカを始めとするキリスト教徒は、主に自由の国にあります。自由な考えの中での宗教では、その個人の考え方を認めたうえで、教義が起こる筈です。
しかし、”先ず信じよ、信ずれば救われる”とするは、個人の考えの前提になっていないのではないかという事です。
これでは、仏教では”今の自分を是”とする”としていますが、この様に、仏教の個人の現在の考え方を是としたところから始まる導きの方が、アメリカのキリスト教的では無いかと思えるのです。何か逆であると感じます。

仮に、アメリカとすると、他民族の集合体であり、必然的に自由な考え方を認めなければならず、結果、あり過ぎる事から、否定で入らないと教義の伝播は困難である事から来ているのであるのでしょうかろうか。
収拾が取れないので、”全てを捨てて”としている事はこのことを物語っている証拠となり得るだろうとわ思います。
この逆に、同じ他民族の集合体では有るけれど(日本は7民族の融合単一民族で有るので)、融合という優れた手段で考え方が殆ど統一されている故に、その考え方に左程に差違はないとして、「是」としている事と成ろうと思うのです。
この理屈が適切とすると、大きな問題が出て来ます。

それは、アメリカでは、”全てを捨てて”は適切な事として納得できるが、この理屈を変化させずに、直接、単一民族の考え方の少ない「是」する日本人に、キリスト教のこの”全てを捨てて”の手段(教義)は、間違っている事に成るのでは無いだろうかと思います。

私を含む多くの日本人に、安土桃山時代からこれ程キリスト教が伝導した歴史がありながら、その比率が少ないのは、上記の疑問のこの点が大きく影響していると考えられます。

この設問の提起された方の疑問の 「”全てを捨てて”」は、私も含めて、個々に問題があると思うのです。

そして、キリスト教にはもう一つ矛盾があるのです。
それは、”全てを捨てて”とありますが、全てを捨てられれば、既に”何も宗教は要らないのではないか”と言う事です。
捨てられないから、宗教に頼るのではあれませんか。又、”全てを”とありますが、全てどころの話では無く、一つさえも捨てること自体が出来ないから、宗教に頼るのではありませんか。

仏教では、ここは”ありのままでよい”と説いています。
そして、”それが人間なんだ”と説いています。
捨てられればそれは、人間ではなくなるではありませんか。理屈では有りません。
つまり、人間の性(さが)なんです。人間の性(さが)を全て捨てられれば、それは、仏教では「仏」です。生きている人間が「仏」になる事はおかしいのではありませんか。
仏教では、”ありのまま”即ち、「拘るな」と説いています。
「悟れ」即ち、「理解せよ」としています。
これなら、”捨てる”という「行為や行動」より、人間として成し得るものです。そして、それは更に可能な「心の道」として、”冷静に正しい心根”と説いています。これならば、この程度の事を成し得ないとするは、それは人間ではなく、獣と変わりません。
よって、その努力は可能です。そして、”1度にではなく、日々積み重ねよ”としています。
更に、続けて、”その行為は五感を通して”としています。
つまり、”聞く(耳)、観る(目)、嗅ぐ(鼻)、触る(皮膚)、味わう(舌)で日々精進せよ”としています。

ここで、問題に成るのは、”「拘り」を少なくする事が出来るのか”という事です。
そこで、”出来る”という論所を脳医学的に説きます。
このことを知る事で仏教の上記した証明の例と成りますので特記します。

医学的「否拘り」の可能性の証明
人間の「感情」の主体は、「前頭葉」(側頭葉含む)と言う所で管理されています。
この「前頭葉」の動作反応は次の様なメカニズムで働きます。

人の脳は、頭の中心(渦)の所に「脳幹」と言う部分があります。
この部分は電極の役目をしています。
地球がマイナスの電極体ですので、人間はプラスの電位が掛かり、ほぼその身長に等しい値と成ります。
この電位をもって脳の中を小電流が流れます。
この電流は脳神経を通じて流れ、脳神経と脳神経の継目には、キャリパーと言うNaアルカリイオンが継目に流れます。
このキャリパーが流れている間だけ電流が流れて目的の脳の部分に流れて行きます。
この場合に、「前頭葉」に繋がります。
この部分は「感情」を司るところですので、この「感情」はこの「キャリパー(Na)」の液体が流れている間は、この「感情」が維持されます。

例えば、最も顕著な感情として、女性の「母性本能」です。
全ての女性が例外なく、子供が生まれたと当時にこの感情が出て長く続きます。これはこの電流が前頭葉に繋がったままで流れている事に成ります。
これは無意識のうちです。
では、そこで、この物事に対する「拘り」の心は、この「前頭葉」のこの部分に脳神経の継目が繋がった状態を意味します。
つまり、このキャリパーが流れているのです。
大体は普通は0.2秒間程度ですが、特に女性はこの時間が長く持ち続ける傾向があります。
だから、物事が感情的に捉えてなかなか外れないと言う現象が起こりやすいのです。

ところが、男性は、その性の目的から、この部分の繋がっている時間は短く出来ています。又、意識的に切ることさえ出来る様になっています。原始の時代に生活の糧を得る為に生存競争の中に飛び込み戦い殺戮の中で勝てを得る必要があります。従って、殺戮のこの感情を押さえて敵と生死を賭けて戦わなくては成らない為に、脳はこの感情を押さえる能力を保持しています。それで、この電気信号の継電部をきりキャリパーを止めることが出来る様に成っているのです。
この場面に備える為に武士は「武士道」を創り上げて「静かなる心根」を保てるように訓練するのです。

例えば、その切る事の感情は、側頭葉のところで感情の管理を行っていますが、この側頭葉への信号を自発的に切れる様にして管理されているのです。
戦場では相対して殺戮します。もし、女性の様に、感情を維持し続けると、この事はパニックと成って思考が停止して出来ません。しかし、男性は戦場とする場では、正統な行動して思考を固め、側頭葉の感情を押さえることが出来る仕組みに成っています。思考が停止しパニックには成り難いのです。

この様に[拘り」即ち、脳医学の「キャリパー保持」は訓練でコントロール出来る事を証明できます。
「拘り」と言う点では、当然に、この理屈から女性の方が強く成りますし、「感情」を主体とした深層思考原理(無意識の脳の中での思考する原理)ですので、長く続く事に成ります。
つまり、女性は本能的に「拘り」が強いと言う事に成ります。

兎も角も、男女は別として、この「拘りの感情」を短くする事、又は、外す事には、この液体のキャリパーの流れを止めればよいわけです。

では、どうして止めるかです。
それは、その「環境」から先ず外に出る事、つまり、その「感情」を持ち得ている「環境」を変える事に成ります。
簡単な事は、「環境」を変えることで直ぐに変わりキャリパーは止まります。そうすれば電流は切れますので「感情」は停止します。
ひどく「拘り」が強くなった脳が「うつ状態」の現象ですが、この治療は静かな都会を離れた環境が良いとするはこの理由からです。ただ、この時、上記の五感の一つでは効果は少ない事に成ります。
仏教が言う「拘り」とすれば、静かにして正しくする時間を長くする事で次第に流れは変化して停止します。
これが一つの方法として、周囲の「環境」を整えて「念仏」を唱え「一心無我」になる、又は、上記の「五感」を通して冷静になる事です。僧が行う座禅はこの事によります。(医学的に最も効果的手段)
大きい「拘り」はこの訓練を続けることで、「停止」し、「拘り」の「感情」を外す事が出来るのです。
つまり、この理解で大きく「静かなる心根」を得られれば、必然的に医学的に[脳機能」の通電は止まり、「拘りの心」は無くなるのです。

だから、この脳医学の原理と同じく、仏教では、上記した「冷静に正しく理解する姿勢」(悟り)と解いているのです。
そして、その”「今の侭の自分を是」として、「理解」し、「次第」に、この「理解」を深めて行け”としているのです。

明らかに1000年昔の仏教の教えは、現代の脳医学の対処法と完全合致しています。

これは、明らかに、仏教を信じようが、又、信じなくても、万人が成し得ることに成ります。

ただ、仏教は、最適のこの場(環境)の提供をしていて「助け」と成っているだけなのです。
重ねて、当然、このことの「拘り」を無くする修行を成した経験者、即ち伝道者、修験者や先達人(僧侶)がそこには居る事にも成り助けとも成ります。これが本来の仏教の導く姿です。
キリスト教の”信じよ”と較べても明らかに間接的です。

これが、脳医学から見た仏教であります。矛盾はありません。

近代医学では、この様な宗教の本質の所を解明されつつあるのです。
だから、宗教もこの時代の進歩、つまり、「科学的進歩での付加価値の増加」を加味して、教義を修正しなくては、現代との間に”ずれ”が出るのです。

現代病の「うつ」は、この「科学的進歩での付加価値の増加」に起因する「拘り」の結果から来る病気ですが、この処方箋は、上記の脳医学のメカと対処法の所以と成ります。

この様に、医学的で「拘り」を捨てることを証明出来るのです。

実は、私は、この様な事から、現代の「付加価値の進歩拡大」の為に、「五感」に加えて、ここに「考える(頭)」を追加したいのです。

これが、仏教の「心経」、即ち、(頭「考える」は)「こころの道」であると説いています。

この「五感」(考える追加)を正しくし、敏感にして冷静にすれば、「悟れる」とし、”自ずと理解できる方向にと近づく”としています。
これであれば、仏教の、誰でもが、宗教に帰依する有無に関わらず、「救われる」とする事は、理解し納得できます。
「信じる者」だけではないのです。これが「万能の神」が成す所以ですから。

例えば、都会から離れて、自然に親しみ、生活する事でも、より「悟り」に近づいている事の実感を得ます。
私も、この様なキリスト教の矛盾と、この点の疑問も大きく伸し上がって来て”合わない”との結論を出したのです。

次は5番の事に続きます。



- 関連一覧ツリー (◆ をクリックするとツリー全体を一括表示します)

- 以下のフォームから自分の投稿記事を修正・削除することができます -
処理 記事No 削除キー