青木氏氏 研究室
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  [No.124] Re: 先祖と宗教(キリスト教の教え−5 主題4)
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 16:02:31

Re: 先祖と宗教(キリスト教の教え−5 主題4)
副管理人さん 2007/10/20 (土) 10:12
4「キリスト経の教え」

キリスト教の設問として、4番の続き、5の問題の説明に入ります。

1 他宗を少なくとも先ずは強く排他している事。
2 教えがかなり強引である事。
3 キリスト個人を神扱いにしている事。
4 兎に角にも、”先ずは信じよ”である事。
5 人は全て悪の子供であると否定する事。
6 中間的考え(柔軟性)は無い事。
7 全体が闘争的な発想に成っている事。
8 特定者(若い者)には受け入れられ易い合理的な教えに成っている事。
9 先祖に対する考えは全体として希薄である事。
10 「民族的」と言う考えを認めていない事。


5番目の事です。人は全て「悪の子供」であると否定する事

先ずは、上記の4の脳医学の証明でも、人は「悪の子」ではない事はわかります。
ただ、その「悩み」(拘り)はキャリパーの流れが続いていることから、悩み(拘り)が起こっているに過ぎないのです。
切れば、「悩み」(拘り)から脱出できるのです。「善の子」であるかは別として、「悪の子」等では到底有りません。
仮に、「悪の子」としても、切れば、「悪の子」から脱する事が出来るという事は、生まれながらに、本質は「悪の子」でないことを意味します。
その前に、このことを注釈しておきたいと思います。それで次の事もお考え下さい。

「悪の子供」であるとする教義から、”この悪を全て捨てよ”として”「悪」の無い人として出直せ”と成るのであろう事は想像出来ます。
このことは4番目の事にも繋がる事に成るのでありますが、本当に「悪」なのであろうか。実に疑問と思うのです。
と言うのも、子供が生まれた時のことを考えても、子供そのものは「悪」は持っていないでは有りませんか。
子供は持っているのですか。子供の心にどのような悪を持ち得ているのでしょうか。人は、子供の心に「悪」を持ち得ていないから、子供は可愛いと思うのではありませんか。
可愛いという「心根」の本質は、「善」の全ての姿であるが故の発露ではありませんか。
そして、又、持ち得ていないから、「善」成るが故に、子供を産もうとするのではありませんか。「悪」を産もうとしているのでしょうか。
「産む」という「行為と行動」は真さに、人として、人生の最高の「善」ではありませんか。

まして、人の生誕のその「行為と行動」は、1/250兆の確率で「善」を作り出そうとしているのですよ。
1/250兆のすごい確率の「善」です。これだけの確率で生まれてくる人なのです。悪である筈が有りません。
悪と考える方が異常というべき「ひねくれ思考」です。

人生の「喜怒哀楽」以上の「善」の「最大の善」です。これに勝るもの無しです。
「最大の善」から「悪の子」が生まれると言うのですか。どう言う根拠で「悪の子」と成ってしまうのですか。
この人の世は、「善」から「善」が生まれるのです。生まれながらに「悪」であるならば先天的ですから「悪」から「善」に変わる事はありません。
だから人生の中での一過性の「悪」を「善」にするとキリスト教は言っているのであれば理解は出来ます。
基が悪から何にしようとしているのですか。
仮に、「善」に変わったとして、千差万別の「善」が出来てしまうのでは有りませんか。
キリスト教の宗教を信じない人は信じる人より多いはずです。そうすると世の中、悪ばかりですね。少し独善的ではありませんか。
もし、人がキリスト教国外に出ると、「善の国」に戻り、中に居ると「悪の子」ばかりですから「悪の国」に成るのですか。
これは、「善」即ち「是」である事を認めている証拠です。

子供と人は「悪」で有るとすると、もし、、「悪」であれば、究極、その世は殺し合いの末路となり結果は絶滅となり、存在する事は不可能ですね。そうでは無いとするならば、何処までを「悪」とするのですか。そんな「悪」の限界を決められるのですか。
だから、キリスト教は”この世は何年後かに滅亡する”と予言しているのですかね。確かに予言していましたですよね。(Y2006でしたか、起こりませんでした。)
しかし、人は益々と増え存在しているのですから、滅亡しないで存在しているのだから、その後の大人の人生では「善」の人も居るとなりますよね。その人々は宗教を信じる事なしに「変化」したという事になりますよね。
そうすると、宗教を信じる事や頼らなくても、先天性の潜在的な「悪」が変化して、後天性の「善」に「悪」は変化したという事に理屈は成りますね。
先天性は変化するのですか。しないから先天性であるのでしょう。
もし、そうだとすると、つまり、突き詰めると、”宗教は要らない”となりませんか。

では、更に、キリスト教を信じていない人々の方が多い世界の世の中で、救われない「悪」の人の方が多く成ってしまいますよね。そんな「悪」の世の中は成り立ちますか。無理ですよね。自分も含めて周囲が全て悪魔とは到底考えられません。
しかし、全て尽く人は「悪」を持つのですか。そんなことは無いでしょう。
もし、生まれた時から「悪」を持って生まれたとしたら、その子孫を遺そうとする行為と行動は「悪」という事になるではありませんか。子孫を残す「行為と行動」は「悪」と言う事に成りますね。
つまり、「悪」の定義は、人そのものを「否定」していることに等しいのではありませんか。

この矛盾を繰り返していても仕方が有りませんから、そこで、「動物学」か何かで、証明しましょう。

では、他の動物はどうなのでしょうか。人間は最終に偶然に知恵を持った事により、より他の動物との差違が生まれたに過ぎません。
動物は動物で特別に変わった所はありません。人は高い知恵を取り除けば他の動物と変わりません。
変わる所はありますか。だとすると、他の動物も悪の動物なのでしょうか。
他の動物だけは違うとする根拠がありますか。有りませんよね。

猿の進化から、人はチンパンジーからボノボに変化して類人猿となっただけですよね。その知恵の存在となった直立人の差だけですね。

学問的に検証してみますと、猿とチンパンジーとボノボと人間が、人間が住むような同じ環境の部屋に入れて共同生活させた実験結果がアメリカでありました。
その結果として、ボノボだけは不満をあらわにしたとする結果が出ています。
それは、チンパンジーと自分ボノボとは、猿類としての身分、又は、優越感が違う事に対して、同じところに扱ったとして怒り不満を持ったと言うものです。
人間が持つ猿に対する感情と同じものを持っていたのです。
そして、自分ボノボは、”何故、人間と言う優れた猿に成らなかったのか悲しくて寂しく残念である”という感情を表現したと記録されています。
この様に、ボノボの感情を示す様に、猿類からも人間を同じ(なかま)サル類として観ていたのです。
故に、人間は猿の一つなのです。つまり、動物なのです。キリスト教が言うように、特別なものではないのです。科学的な付加価値のある高い知恵を持ったただの猿なのです。実験結果の様に持っている基本的な感情は全く同じなのです。

この様に、学問的には、チンパンジーやボノボの研究で、彼らもほぼ人類と同じ程度の感情と科学的な進歩の知恵を除く基本的な知恵を持っている事も証明されていますから、彼ら動物も「悪の子」なのでしょうかね。
でも、「悪」とするとしても、子孫を遺すという動物の本来のこの世の目的として「善の行為と行動」をしていますよね。
何処から考えても「悪の子」であるとする根拠は出てきません。有るとしても余りにも無さ過ぎるのでは有りませんか。有ったとしても少なくてこれでは「悪」とする根拠は希薄となりますね。

私は、この矛盾は、次ぎの4つの理由から出ていると考えます。

その宗教の出所1と、祖師の過去の位置付け2と、時代の変化に対する教義の修正の不足3と、民族の土地柄の修正が出来ていない結果4から、教義に対してこの矛盾が起こっているのだと考えます。

では何故に、修正を加えないのでしょうか。
それは、キリスト教の排他性から来ている事に成ります。
その排他性の根拠は、キリスト教の出所地域の先進性から来ているもので、上記したボノボの「優越感」に相当しているからでしょう。
しかし、最近、その優越感が揺らいでいるのです。

その一つには、日本人がその優越感を変えさせたのです。
経済成長に伴い日本の仏教文化の優越性と、その国民の先進性がキリスト教国をはるかに凌ぐ結果を彼らは確認した事によります。”アジアの野蛮国が先ず有り得ないこと”と観て居た筈です。そう云う発言も公式に戦前にはありましたよね。

第2次大戦の発端は、この有り得ないことが起こりつつある事から、アジアの野蛮国に圧力が掛かりその圧力に対抗した結果の所以でしたですね。この傾向の最初は大国ロシアに勝った日露戦争の勝利が彼らに衝撃を与えたのです。
その大きな勝利は突き詰めると、3つの要素が浮かびます。秋山兄弟の頭脳働きと、軍艦の大砲の改良と、火薬弾の開発でした。
これを観た英国とフランスと米国とロシアの白色国は日本の底力を恐れ始めたのです。
(7つの融合単一民族なのです。遺伝学的に動物は融合すると進化して優秀な人間を作ります。アジアの中で日本人は違うのです。)
そして、大戦より50年以上経ったところで、戦後の占領下15年頃の発言に対して、今の発言は、同等の発言となっています。
私は、まだ若い頃、技術者としてヨーロッパ系の技術者との会話したことが幾度もありましたが、軽蔑とまではいかなくても、見下げた言葉尻で、”又か。”という経験が何度もありました。
技術的には、日本の冶金学は世界一段突であるのだが。

そして、どの宗教も、その矛盾を大きく社会に露出している時代なのだと考えています。
特に、キリスト教での争いが目立ちます。

ただ、仏教では、上記した様に、1000年もその教義に矛盾がありません。
特に、日本仏教では、”その矛盾の事が余り起こっていない”という事でも同等間を持ったのでしょう。
だから、仏教と他宗教との間の差違の矛盾が露見しているのだと考えています。特にキリスト教との差違が目立っているのだと考えます。
その理由の一つは、上記の優越感のあらわな表現もあり、世界に対して、余りにもキリスト教は嫌われて問題を起しているという事です。
特に、中東の社会に於いてです。それはこの教義の強引さから来ているものと推測しています。

では、何故に日本仏教は、その差違が出ないのかと言う点です。
それは次の点になると考えます。
先ずは、「色不異空、空不異色」、「色即是空、空即是色」の教義の考え方です。
次は「天神文化の融合」です。
更に、日本民族の゜単一融合民族」の特質です。
最後に、その教義を「宗教学」としての学問の発展です。
”信じよ”では無く、「悟れ」(理解)、「拘り」を第一の教義にしている事です。

この結果、次の設問の事にも関わることですが、「時代性」という点で、キリスト教の「悪の子」を始めとする時代性の矛盾と較べて、仏教は時代との教義のそのズレが無く仕上がっていると考えています。
それの仕上がりは、「人間の本質」を、「有るがままに見つめた教義」としている事だと考えています。
つまり、「人間の本質」が時代(時、人、場所)に対して特別に大きく変化しない限りはその教義は生きている事に成ります。(この科学の世が発展し別質の「宇宙人間」なる者が誕生しない限り、本質は変わらないから本質である)

余談ですが、奈良期から平安末期までの「顕密仏教」を経て、この「融合教義」を作った日本仏教の比叡山天台宗と、それを大きく広めた次の「鎌倉新仏教」の法然の浄土宗が優秀であったことを意味します。
そして、その時代をリードした為政者の天智、天武の両天皇の荒波を乗り越えた「大化改新」の政治統治の基盤を成した偉大さが如何に大きかったかを物語っています。

その時の「天神文化」の融合の判断も適時適切を突いていて、現代までも大きく矛盾なく持ちこたえて来たのも偉大という以外にありません。多分、天神文化の融合政策がなければ、日本仏教は安土期から江戸期に掛けてキリスト教に取って代わられていた事は間違い有りません。アジアの諸国の現状がその証拠です。
そして、1650年程度と続いた現在の日本文化は、上記した考え方の違いで、異教に破壊されて無く成っていた事をも意味します。
私は更に、多分、文化どころでは無く、当然に異教の思考原理の浸透で、日本人に肌身に合わないし適合しない事から政治情勢も混乱し続けていたと思っています。

この様に、日本の融合を基盤とする仏教文化は「すごい文化」であったかと考えます。この様な文化はこれ以後出ていません。
その「教義」は、大した矛盾もなく日本人の民族の遺伝子と生活環境と成って引き継がれて来ているのです。
その、最も優れた思考は、「仏=先祖」の思考であったと評価しているのです。

何をか況や、これは真さに、「大化改新」であり、上記した基盤がそれを成し遂げたもので、施基皇子を中心とする「皇親政治」を実行した第6位皇子の子孫の5家5流の「青木氏一族」が、奈良期の「基盤政治」をリードし、7つの民族の「融合政策」を牽引して、「優秀な民族」を創造し、「天神文化」を築いた我が「先祖」の成せる技であります。

これは、前説のわが先祖の「行為と行動の逆進性」の「流」の条件が整っていたことを意味します。

次は6番の事に続きます。



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