青木氏氏 研究室
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  [No.128] Re: 先祖と宗教(キリスト教の教え−8 主題5)
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 16:26:38

Re: 先祖と宗教(キリスト教の教え−8 主題5)
副管理人さん 2007/10/24 (水) 09:44

以降、8番目の設問の説明とします。
(特定者(若い者)には受け入れられ易い合理的な教えに成っている事。)

キリスト教ではこの様な全体として比例式のように論理的です。わかりやすい説き方です。
若者には、論理的に受け入れやすい人には、好まれるものと思います。
仏教では、「色即是空、空即是色」ですから、何のことと成ります。
キリスト教では、悪と聖(善)とに分けると言う数理的合理的な説法です。
仏教では、「悪善」と分けずに、これも人の成し得た性(ごう、さが)として「拘るな」としています。

人間は、知恵を出し、社会に付加価値を大きく生み出しました。この結果、付加価値の少ない時代の事と較べて、物事の始末と結末が、合理的、数理的、論理的に判断できない環境と成ってしまったのではないでしようか。それだけに世の中は考える様には行かずに行き詰まり、うつ病やこれ等に絡む犯罪が増えているのだと思います。
多分、原始社会やローマ時代まで当りの社会では殆どの物事はこの定理で納まったと考えます。しかし、産業革命から以後、付加価値が増え続け現代に至って定理だけでは納まらない社会になったと考えます。勿論、自然の物理現象も解明が進み、人間が自然に考える思考の殆ど、80%程度はこの通常の社会定理(通念)が納まらない社会成っているのであると見ています。そして、社会通念はこの辺のところまでとし、次ぎは未経験の宇宙通念成るものが生まれて来る事もそろそろ始まる時代へと進むのではないでしょうか。
多分、化石資源を中心とするエネルギー源の枯渇と、中国、インド、ロシアなどの経済成長により鉱物資源の枯渇等の現象から、ソーラーやレザーによる衛星からの太陽熱源の活用と、月世界の鉱物資源の活用対策となる事は明らかですので、これからもどんどんと宇宙社会の新しい定理が生まれて、観念論だけの思考では生きていけないほどになると見ています。
既に現在のソフト科学に付いていけない人が多く成っているのではありませんか。

そこで、その完成社会は特にその中でも女性に影響を与える事になると考えられます。それは女性の生まれながらの「性」(さが、ごう)に大きく影響すると考えます。
前論でも書きました様に、女性は無意識下の深層思考(感情、勘定、妥協)に大きく影響してくると予想しています。
時代進歩の付加価値が増えれば増える程に、「感情」で処理できない現象が増え、「勘定」で数式的に評価が出来ない事態が出来て、「妥協」で処理し切れない始末が出て来ると思えるのです。
つまり、本来のあるべき自然の人間の姿(性善説的)ではない否人間的(性悪説)に近い思考が増えると思えるのです。
言い換えれば、「時代の進歩の付加価値」はある面でこの性善説を壊す事を求められるという事です。
男性にしても、社会の数理、合理、論理の社会の思考が先鋭化して、本来の性(さが:理想、合理、現実)であるにしても究極の思考原理が要求される事から脱落者も増える事と成ろうと考られます。

そして、どの様な社会が生まれるかと言うと、例えば、付加価値に依って”正しい事は正しい”と出来る社会は益々と低下してしまうと思うのです。
むしろ、”正しい事は正しくない事、又は最悪の場合は悪い事”の現象がその社会情勢の変化が先鋭化して評価基準が変わる時代となると考えます。
現代でも、、”正しい事は正しくない事、で処理した方が上手く行く”と言うそれが多く成っているのではありませんか。
少なくとも、精神面の思考では「正しい事は正しくない事」が起こり、「善と悪」の中間的な思考の”正しい事は必ずしも正しくない”という数理性、合理性、論理性の少ない評価基準の社会が出来上がるのではないでしょうか。

このことから、男女の若い者はこの状況に悩み、求めるものとしてキリスト教的な教義に向かうことが考えられ、中年者は思い悩み、老年者は上記した教義の特長から仏教に向かうと考えられます。
つまり、その社会現象に対して、「抗する派」と「同調する派」とに2分化する事になるでしょう。そして、それは「若年齢者」と「高年齢者」の2分化の観念の面に於ける社会が出来ると見ています。
観念以外は全て先鋭化した究極の「数理、合理、論理」の社会となると考えられます。既に高年齢者はPCや電子化の波に乗れなくなっている現実です。
更に、ICがソフトチップの量子チップかカーボンチップのハードチップのダイヤモンドチップが完成すれば、先鋭化の科学社会が出来あがるでしょう。つまり、そのチップで宇宙社会の科学が出来る事になり、この付加価値が増大して、高年齢者の脳の能力をはるかに超える社会環境が生まれると見られます。
それはコンピーターが人間の脳の能力と等しくなる程度かそれ以上になる事を意味するのです。同サイズと同量での量子チップの記憶量は人間の脳細胞と同じ記憶量だからです。
これは予想の域を超えて、日本では太陽熱を衛星で集めてレーザーでピンポイントで地球に送り、数年前までは永久エネルギーがないという定理だった事も、今では定理を打ち壊し太陽がある限りの前提で、永久エネルギーを作りだす事も既にプラントテスト域に入っているのです。

上記の社会進化の中では、キリスト教の8番目の設問とする”特定者(若い者)には受け入れられ易い合理的な教えに成っている事。”で、この方向に向かうと一般的に思われます。
しかし、本論の説でもある様に、日本人には、比較対比して来た内容のようにキリスト教の「時代錯誤の矛盾」などの多くの矛盾から、合理的な教義ではなく、仏教の教義に理解を示す方向に向かうべき方向ではないかと考えています。

だから、少なくとも日本人にはアメリカナイズされた数理的、合理的思考の現状社会から、野性的な感性から日本人は静かな心を呼び戻し、最近、山地水明の自然に戻ろうとしているのだと思います。
そして、それは今や、田舎にしか残らない上記の日々の謝意と感謝の社会へと帰ろうとし、今意識せずに国民全体が徐々に動き始めているのではありませんか。
況や、あのキリスト教全盛のアメリカでも仏教とその文化が見直されている皮肉な華頂現象が起こっています。信徒も増えていると聞きます。
同じ程度の科学の時代進歩を共有している日本では仏教の国である事から、ややその影響は鈍ることが予想できますが、大事なキーポイントは仏教のキーポイントを忘れない事であると考えます。
これさえ持ち得ていれば、何とか非常時代は避けられると考えます。ではそれは何なのかです。
言うまでもなく、私はキリスト教に少ない「先祖意識」がキーポイントであると考えているのです。
これが、科学進歩による数理的、合理的、論理的な要求に対抗できる概念であると信じています。

ただ、しかし、この合理主義は完全否定するわけではありません。その根拠を得る為に、生活の糧を得る為に仕事する上で、この部分に於いては、数理的、合理的、論理的な定理の思考を必要とされている傾向が、強く成っていると考えます。又、科学の進歩でこの世の幸せが増幅するわけである事は否めませんから必要ですね。
その様な環境(都会)の中では付加価値が強くなった為に、絶対的に必要です。
然し、これでは人はその様に出来ていませんので疲労して続きませんね。
又、この定理に弱い人(女性)も居るでしょう。そして、うつ病と犯罪が必然的に増えるでしょう。しかし、皮肉にもこれを救う手段は宗教理念のキーポイント「先祖意識」全本論のタイトルだと思うのです。

結局、{思考}と{生活面}共に、「2極化」しなければならなく成っている生活環境と考えます。
「合理と非合理」の思考、「都会と田舎」(仕事と癒し)の場所の二つに益々増える社会の付加価値のために、昔の社会と較べて、2極化しなければならなくなっていると考えます。
そして、この傾向は益々強くなるでしょう。

しかしながら、それだけに、宗教が介在する生活面、特にその精神面では、世の中、現代の世の中は、論理的に始末できれば苦労はしないですよね。出来ないから宗教があるのに。ではその宗教を何に求めるかです。
私は上記の拙論からこれから来る社会の対して、日本人には仏教だと訴えているのです。一見の見えるキリスト教では無いと訴えています。

多分、これは、上記の現象から来る、”論理的に判りやすくあって欲しい”とする人間の願望でしょう。
裏を返せば、願望とすると、世の中は精神面では最近、数理的、合理的、論理的ではなく成っているいと云う事ではないでしょうか。無いから願望するのですよね。
この点で、逆に、キリスト教は排除され、キリスト教圏の中でも、他教、特に仏教が見直されている傾向があるわけですね。そして、この定理が、世界から、紛争地から警戒されている原因の一つだと思います。

仏教の「拘るな」は反意として、精神面では”数理的、合理的、論理的であるな”としている事に成ります。
数理的、合理的、論理的は、”考えるとこうである筈だ”とする人間の判りやすい思考(願望)ですね。ところが、そうでないからな悩むのだと思いますがね。悩んで救いを宗教に頼るのでしょう。
それが、一度ではなく茶飯事だから宗教に頼るのでしょう。
では、宗教は何で存在するのですかね。

つまり、これは人間の「拘り」の典型的な思考ですよね。
「拘り」があるから悩むのではないでしょうか。そして、宗教を頼るのでは。その宗教が数理的、合理的、論理的では、変ですよね。

この理解の方法は、多分にして、民族の持ち得ている遺伝子の違いでしょう。
ネアンデルタールとピネカントロプスの違いでしょうか。

私は何れにも帰依していませんが、年をとるに従い、このキリスト教説法には?です。

それと、理解は年数では有りません。むしろ、短くして如何に要点を突くかにあり、長くはそのとりこに取られて自分を見失う事に成りがちです。何事もそうではありませんか。これは人間のもつ性(ごう、さが)でしょう。我々凡人は。

そもそも、宗教とは良し悪しは別として元々洗脳的行為の目的をもっています。長くすればこのペースにはまるのも人間です。

私の4年は研究の4年です。青木氏の研究をテーマに、そのサブテーマの「先祖」を知るには民族に関する事を知ることにあり、その民族を知るにはその基盤と成っている宗教を調べる事にあると結論付けての事でした。
そして、仏教と他民族の代表キリスト教との対比研究課題としたのでした。
宗教の布教手段としての洗脳から逃れる為に警戒をし、又、頼ろうとする者に対する落ち込みやすい数理的、合理的、論理的な教義に疑義をもつ事として(理解が容易であるが故に)、避ける為に、そして、この「捉われ」を避ける為にも信仰という手段をとりませんでした。その後も英会話習得という名目で長い間付き合いは行いました。

そこで、次ぎに、”キリスト教の布教には植民地政策と連動していた。”と言うところで、”日本も第2次大戦をしたではないか”のご意見でした。

これに付いて、次に異論を提示します。
日本の第2次大戦は仏教国に攻め入ったのですから、宗教を前提とした戦いではありませんでした。念のために。勝てば官軍と言いますが、この世の大儀的な慣習ですが、この言葉には疑問です。

両方が悪いのです。又は両方にも大儀があるのです。

戦いに入る前の状況を無視すれば、それこそ、仏説の「悪も善のときがあり、善も悪のときがある」ですね。
例えば、猛烈な言葉の暴力を浴びせた。相手は殴った。どちらも方法は違えど暴力では有りませんか。何もなしに急に殴るは狂気の沙汰でこれは犯罪です。別の話ですね。
殴った方を悪いとする現在の一方的な慣習には疑問です。悪いのは両方であり、因果関係からすると暴力的暴言を先に吐いた方に6の悪、行動の暴力は4悪位に感じるのですかね。先に言葉の暴力を吐かなければ、行動の暴力は無い筈です。

もし、この理屈を通せば、第2次大戦は、4の悪となると思うのです。
”何もなしに急に殴るは狂気の沙汰”でしたでしょう。
その経緯は狂気の沙汰ではなかったのです。

「勝てば官軍」で、非難の材料にするは疑問です。
キリスト教では、数理的、合理的、論理的では「勝てば官軍」が成り立つのでしょうが。
アメリカ軍が日本を統治したときにも、このはっきりとした東京裁判という態度をとりましたよね。戦い前のアメリカの態度を批判せずに。

何故なのかです。それは、彼らのキリスト教でもある様に合理思考だからです。
確かに、私の研究中ではこの議論が大きかったのです。
彼らは、「自分達の正しさ」を絶対に譲ることはありませんでした。それは宗教思考と同じくその合理思考から、この「猛烈な言葉の暴力を浴びせた。相手は殴った」の「戦い前の状況・経緯」(植民地政策の両国のアジアでの衝突)を無視と排除したのです。
日本が経済力を上げてきた結果、植民地政策の両国のアジアでの衝突が起こり、その大作として米国をはじめとした国々は日本の成長を押さえるために経済封鎖してきたのです。そして、負けたのです。そして、その後20年後くらいで矢張り再び第2位に成り盛り返しましたよね。

この”「盛り返した」”という「行為と行動」はどのような意味を持つのでしょうか。「善と悪」として。

私は、その「成長」は「善」であったと確信しているのです。
世界の中にアジアの日本民族の優秀さを世界に、特に白色人の国に対して示したことは彼らの優越感を砕いたことでもあり、それが無かったらもっと横暴な植民地戦略をアジアで採り続けたことが間違いなく予想できます。

ところが、そして、彼らは「勝てば官軍」の大儀を全面に押し出したのです。現実に、現在でも、彼らは認めていませんよね。
日本人には「喧嘩両成敗」には理解出来るこのことも。永久にないと思いますが、「価値観」とは異なる「思考原理の違い」です。

例えば、丁度良い例として、技術者とし勤めている時の事で、製品にクレームが出ます。相手に伝えます。そうすると、交渉の彼らの答えは決まって、”それはその程度の製品を貴方は金額を払って買ったのだから、貴方に責任がある”として認めません。
”ここは日本である。それは貴方の国で言え””貴方の製品は日本に売ったのだ。自分の国に売ったのではない””共通の理論で言え””共通の理論とは技術理論である”と反論。

万国共通の技術理論を持つ技術者から見て明らかに設計ミスであるがこの発言です。
設計ミスはその言い分外であると議論するが、一体彼らの責任はどのようなときにあるのか判らなくなってしまう合理主義です。
日本ではこの理屈を述べると「袋たたき」です。これ程に彼らの思考の裏づけとなる宗教に於いても違うのです。外国製エレベータの時も最初の言い分はこの理屈でしたね。

彼らのこの言下には上記の優越感が今だ潜んでいるのである。万国共通の技術でもこれである。まして、宗教では言うまでも無く、押して知るべしである。つまり、上記の矛盾を潜みながらも今だキリスト教には続いていると言うことである。
さすが、現状では、本場のアメリカでGMに打ち勝ったトヨタの実績が、上記の反論と、大きく言えば、第2次大戦の」盛り返しの意味」の答えが出ていると思うのです。

この様な思考の違いを取り除く為にも、そして、肝心なことは、その戦い(宗教)をどの様に捉えれば良いかは「俗説通説」を排除して偏りをなくすべきと心得ます。

何れも、良し悪しの問題ではなく、違いが有るとしても、自分が良しとすれば、先ずは、それでよいと思います。自己責任の範囲として。

大事な事として、思考を偏らせない人としての差を、今に求めないのであれば、今の自分にあったものを、自分のものとして、会得する事だと思います。

今に求めるのであれば、数理的、合理的、論理的過ぎる思考に注意して、「拘り」をより少なくして「人としての差」を縮じめるべきです。

これを8番目の設問としますので、了解ください。

まだ、論文9、10と続きますので、又、ご意見をお寄せください。



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