青木氏氏 研究室
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  [No.141] Re: 日本書紀と青木氏 7
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 20:30:41

Re: 日本書紀と青木氏 7
副管理人さん 2008/04/24 (木) 11:21
前節と本節には、関連性がある為、前節の内容を念頭に以下をお読み頂きたい。

検証する青木氏に関わる内容は次の通りである。
検証項目
活躍 第1節 「白雉の年号」
活躍 第2節 「伊勢王の薨去」
活躍 第3節 「伊勢国の重要度」
活躍 第4節 「諸国の巡行」
活躍 第5節 「紫の袴着用の許可」(最高位の身分扱い)
活躍 第6節 「天皇の名代」

活躍 第7節 「天武天皇の葬儀」
活躍 第8節 「善行説話の編集」
活躍 第9節 「伊勢行幸」
活躍 第10節 「大隈の首魁(阿多倍)」


本書記録
活躍 第7節 「天武天皇の葬儀」
”天武没年10月22日 皇太子は公家百官と諸国の国司、国造を率いて大内陵の築造に着手した。”とある。

”天武没2年8月11日 浄大1位の「伊勢王」に命じて、葬儀の事を取り計らうように命じた。”とある。


検証
着工1年後の喪(2年喪中)に服した後、天武陵の完成(天武没年12月22日に着手)を見て、山陵に埋葬の正式な葬儀を行う事を、天皇は敢えて「伊勢王」に命じたのである。
この事はこの意味では終わらないのである。
本来は、この行為の責任者は皇太子の草壁皇子が執り行うものである。しかし、伊勢の守護で第6位皇子「伊勢王」なのである。
「天武天皇葬儀」と言う最も形式の慣習を重視する儀式の域をはるかに飛び越えている。

この事に付いて、草壁皇子には、絶えられないことであろう。
この「葬儀の件」、「大津皇子の事件」も含めて、「即位」出来なかった事、「爵位」が「伊勢王」や高市皇子よりも低い事、などを含めて、葬儀の事でも物語る様に、何か「人間的な欠陥」があったのではないかとも思える。これだけ立場の無い事は普通では、考えられない。

兎も角、この儀式は天武天皇の崩御の2年後の事である。
”崩御後に密葬して、天皇陵を造って埋葬の儀式をする。”とするが、本書記録では喪中を実行する為の肝心な「密葬の正式葬儀」は無かったのである。

この事を知りながら、大津皇子のこともあり、草壁皇子の猜疑心を考えると、かなり重大な危険性を持った任務を「伊勢王」は取り計らう事になったのである。
この時は、未だ草壁皇子は健在である。難しい仕事である。
実は、天武天皇崩御から10月まで草壁皇子は御陵の造営の指揮を取っている。
ところが、翌年の8月には、最後の仕上げの儀式では、「伊勢王」である。
つまり、草壁皇子にしてみれば、”下準備の工事は自分で本式の自分の親の葬儀は違う”では、納得しないであろう。本来はこの逆であるべき話である。
ここでも、違和感を感じる。

依然、草壁皇子が皇太子である以上、勅書で起した「大津皇子の謀反」の事件を再び起こす事の可能性の少ない「伊勢王」に決めたのであろう。

更に、次の事が記録から観察される。
持統天皇は、高市の皇子に対して、草壁皇子の死後に、身分、勲功、爵位、最高位官職、褒章、労い等の不思議なくらいに様々な持ち上げをしている事もある。
又、他の天武の皇子が無くて、後に、持統天皇は舎人親王一人だけを爵位(昇格)を授けている事もある。考えられない事でもない。
大津皇子は天武天皇発病から政務代行をして来た。そのために草壁皇子に猜疑されて一命を落としたが、この事で同じ事が起こっては拙い。そこで、前節からも「伊勢王」の有能さから見れば、政務代行は適切な登用で無難であろうが選択はしなかった。

しかし、”崩御後に「密葬」して、「天皇陵」を造って「埋葬儀式」をする。”の3つのことに付いて、「伊勢王」に全て指名実行しなかった。「天皇陵」は草壁皇子に、「埋葬儀式」は伊勢王にし、「密葬」は指名せず実行しなかった。

その理由は次の事ではないかと思われる。
1 天智天皇が定めたばかりの皇位継承順位第4位(継承者が無い場合第5位)と定めた事を覆すは法の尊厳から天皇の信頼を失う。
2 高市皇子、大津皇子等の天武天皇の上位皇子が居る。幾ら天武天皇の子供扱いとして可愛がられ信頼されていたとしても、この順位を狂わす事は大きな争い事を招く。
3 皇太子草壁皇子を覆す為の理由(上記)を天下にあから様に出来ない。より無難で身分、実力、年齢、何れの条件を以ってしても、草壁皇子より優れているし、問題は無いと見たので、誰しもが必然的に2人の一人を選ぶ手段でもある。

ここを境に、事前相談していた母親の妃は、草壁皇子を天皇にしない事を決断したのではないかと思われる。

そこで、決断した以上、草壁皇子は感情を高めているので危ない。
その時、葬儀責任者は、高市皇子にするか、「伊勢王」かの問題が出る。
「伊勢王」に指名したのは、上記の検証の第3番目の理由からであろう。


以上で、天武、持統天皇の二人は、相談の結果、政治、経済、軍事に長けて総合的力量を持つ「伊勢王」を選ばず、この選択肢(密葬、天皇陵、埋葬儀式の3つの行事)を全て「伊勢王」に任する事は、崩れたと観られる。軍事に長けた高市皇子も草壁の皇子の猜疑心の配慮から失う事を配慮して選択しなかった。
草壁皇子の天皇陵、「伊勢王」の埋葬儀式、とし、高市皇子を二人の「抑え」として、万全を期したのであろう。
そして、この3つの選択肢の行動で、間接的に、草壁皇子の即位は無い事を暗に諭したと観られる。

相談していたとするその証拠に、舎人の親王は次の事を3箇所に書き添えている。
それは、持統妃は大変に利発で政治性を持った女性であったのである。

直接の輔弼の記録である。
”天武元年6月 兵に命じて味方を集めさせ、天皇と謀を練られた。”とあり、又”妃は勇者数万に命じて要害を固めさせた。”とある。

”天武2年 始終、天武天皇を補助し、助けて天下を安定させた。常に、良き助言者であった。政治の面でも積極的に輔弼の任をはたした。”とある。

”朱鳥元年9月9日 天武天皇崩御以後、皇后即位式もせずに、大津皇子の代行まで、自らが政務を執った。”とある。

これは、舎人親王の追記の得意技でもあり、特別にこの事を3度もわざわざと書き込んだ事で、妃が朝政務に積極的に関与していた事を明らかにしているのである。それも、目立つように、女性が軍に命令を発したと書いて故意に際立たせたのである。普通は書かないであろう。

余りにも有能な「伊勢王」を政務代行に、そして次の皇位継承候補に選ばなかったのは、天武、持統の二人は綿密に相談した事から、上記の理由が出て実行しなかったのであろう。

舎人親王はこの記録でそれを強く故意的に物語させたのである。
この事から、即位に付いても、草壁皇子、高市皇子、大津皇子、伊勢王の4人の扱い方を、病気治療期間中の2年間の間には、相談していた事が充分に覗える

更に、次の事が記録から観察される。
持統天皇は、高市の皇子に対して、草壁皇子の死後に、身分、勲功、爵位、最高位官職、褒章、労い等の不思議なくらいに様々な持ち上げをしている事もある。

又、他の天武の皇子が無くて、後に、持統天皇は舎人親王一人だけを爵位(昇格)を授けている事もある。考えられない事でもない。

大津皇子は天武天皇発病から政務代行をして来た。そのために草壁皇子に猜疑されて一命を落としたが、前節からも「伊勢王」の有能さから見れば、政務代行は適切な登用であろう。

相談の結果、計算が合わなくなったのは、「大津皇子事件」であろう。それで、”妃は狼狽した。そこで、暫く、妃自らが朝政務を執り、その間、じっくりと周囲の様子を見てどうするかを考えた。その結論は、自分が皇后となり、周囲の目から観て実子草壁皇子を廃嫡し、天皇に即位し、高市皇子を太政大臣にし、伊勢王の皇子を実務補佐として人心を納めた。”となるであろう。
しかし、兎も角、誰も「伊勢王」の研究している者が居ないのでこの疑問を抱かなかったと思われる。又、舎人親王の詩文体形式の得意技で検証を試みなかったからに過ぎないと考えられる。
詩文体の検証だから出てきたのである。

その持統期以後も、新しい政争の相手が現れたが、後の活躍から立場を保っているし、「伊勢王」の末裔の我々は記録、口伝では厳然とその立場を悪戦苦闘しながら保ち、その後も生きている事からすると、これでよかった事でもあると見ている。
「伊勢王」は、大きい荒波の中で、実力を遺憾なく発揮し、自らその強運を上手く引き寄せて、生き抜いてきた人物であると評価できる。全青木氏始祖として申し分ない人物であり、末裔の者として大いなる誉れである。
「伊勢王」も危ない橋を渡っている。「伊勢王」は成功裏に終わらせている。

そして、その後、この3年後に、「伊勢王」(施基皇子)の記録は出て来ないで、他の記録から689年(6月2日以降薨去の記録を含む全ての活動記録なし)に薨去している。

ところが、同じ689年(天武崩御3年)4月13日に草壁皇子も薨去している。2月前である。
草壁皇子の薨去がそれも突然である。皇太子であり、天武没後の2年間は頻繁活動しているし、記録もされている。しかし、突然に病気でもないのに27歳で薨去している。違和感を感じる。考えられる事は一つである。

第2節でも記述したが、疑問1がある。
本書では天智(中大兄皇子)期には「伊勢王薨去」が2度も出たが、編年体であるので、689年のところ以降では、後の「伊勢王薨去」は出て来ないのである。

50歳を平均寿命とすると、690年代の前後の時期での「伊勢王」は寿命とも考えられるが、草壁皇子の方は27歳で早すぎる。

編者の舎人親王に書き難い何かがあったのか想像する。

書くに充分な立場(天皇に継ぐ浄大1位)の身分である。一つ下の浄広1位と同勲功の高市皇子と天智の兄弟の川島皇子は記録されている。
他の皇子全部と、高位4(5)世王の大半は記録されている。689年の「伊勢王」だけである。

最後に残った高市皇子が太政大臣として政務をとる事になった時代なのであるから、何かあるのではと調べたが、この事(同年死去、記録なし、高市皇子と川島皇子の処遇)から、前後の文章にそれらしき表現がないかを観察してみるが、矢張り記録は全く無い。

「伊勢王」の薨去なしの疑問に対して次の様になる。(第2節記述の追説)

先ず、次の様になる。
上記の一つ目の推理は、再び、本書記録の葬儀の件で、草壁皇子の何かが充分に働いたとも考えられる事。
二つ目の推理は、「第2節の伊勢王の薨去(こうきょ)」の所の「斉明7年の薨去」と「天智7年の薨去」のどちらかの薨去が編集時に間違えたとの推理である。
第2節では二つ目の推理としている。経緯から先ず間違いないことである。

”「斉明7年」は「天武17年」となるのを間違えた。”と推理する。(第2節の説)
天武天皇は668-686 持統天皇は690-697であり、持統天皇は天武没5年後に即位したので、689年は天武期から計算すると、17年後となる。天武没後の4年である。
その一年後に持統天皇は即位している事になるので計算は合う。

編年体で書いているので、舎人親王が故意的に書くことをずらしたが編集(計算間違い)間違いを起した。(編集故意説間違い)
伊勢王薨去が無いが為に、後の時代で書き足し(書き間違い)間違いを起したとも考えられる。
(後刻書き足し間違い説)

この記録の編年体の年号の入れ方を調べると、次の様になる。
「年号」は変化したときだけに「年号」を入れて、後は、「月日」だけである。
天智、天武、持統の3天皇の没後と即位までには年数のズレが有る。
天智と天武では2年間、天武と持統では5年間である。普通は天皇が没すると直ぐ即位である。
この間の期間を計算する事に間違いやすい。
天智、天武、持統元年の正月に年号が入り、その後、年を一度入れて、月日毎に記述されて行く。
この場合だけは、記述部位は、一行で、6月だけで、日はないのである。後全ては、行続きの日の重ね書きである。
全ての場合は月日が書かれているが両方にない。月だけはこの伊勢王の件だけである。

この「伊勢王」の2つの薨去だけに日が無いのは何か違和感を感ずる部位である。

この事からも、考えられる事は、先ずは、舎人親王らの編集時(故意的編集時)の間違い説であろう。

「舎人親王」は676−735年 淳仁天皇の父で、元明朝から聖武朝にかけて活躍した人物である。
日本書紀の編集は720年完成で、「伊勢王」没31年後(持統没23年後)の事である。
間違いを起こす事は充分考えられる。
もし、この推理だと、第1節からの全ての疑問は解消する。

これは、薨去に付いて、本書の大きな疑問1の一点である。
私は、一つ目の推理に付いては、「伊勢王」の失態ではなくて、それ故、編者が最高勲功者の「伊勢王」であるが故に、同月の薨去に対して、「大津皇子事件」の様に、草壁皇子との疑いを抱かれる紛らわしい事を編する事を避けたとも観ているが証拠は無い。

有るとすると、舎人親王の得意とする”記する事をわざわざせずにして、暗示”すると言う事で後勘に問うという思惑もある。だから、先に書いたが、”「斉明7年」は「天武17年」と間違えた。
31年も経っているし、記録人が渡来人で、多数人から成っている。更に、天智から天武即位までが2年のブランク、天武から持統までの即位は5年ブランクである。持統が即位宣言して1年後に即位したブランクなどの間違いやすいこともある。
舎人親王がチェックしているが、編年体で有るから最初に二つの「伊勢王薨去」が記録されていることに気が付きやすい筈である。私は配置は故意的であるが、2つ有るが故に間違えたのであろう。


参考
持統天皇の即位は天武天皇崩御後の4年1月1日 即位 
持統1年7月5日 高市皇子は太政大臣に任じられる。
持統2年7月5日 高市皇子に5000戸に加増される。 
持統2年7月5日 丹比嶋真人(たじひのしままひと)右大臣になる。 丹治流青木氏の始祖
持統2年1月13日 川島皇子浄大3位に食封(へひと)100戸加増される。(昇格)
持統2年9月4日 川島皇子こう去 近江佐々木氏始祖
持統4年1月2日 高市皇子に浄広1位を授ける。(昇格)
持統6年1月5日 故大津皇子に浄広2位を授けた。(昇格)
持統6年1月5日 舎人皇子に浄広2位の爵位を授けた。(昇格)
持統7年7月10日 高市皇子こう去
持統8年8月1日 文武天皇に譲位

「妥女」とは、大化改新の詔の第4の所に、”郡の少領(すけのみやつこ)以上の者の姉妹子女で、容姿端麗の者を奉れ。従丁1人と従女2人を従わせる。百戸で妥女1人の食料を負担せよ。”とある。つまり地方豪族の子女が人質として朝廷に仕えたのである。

藤原秀郷流青木氏は、この後、直ぐに勢力を高め摂関家として母方で皇族賜姓青木一族と繋がる。(呼称青木氏の許可の根拠)


次ぎ、活躍 第8節 「善行説話の編集」である。



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