青木氏氏 研究室
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  [No.148] 伊勢青木家 家訓1
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/22(Thu) 09:15:45
伊勢青木家 家訓1 (画像サイズ: 2160×2061 37kB)

伊勢青木家 家訓1
副管理人さん 2007/07/21 (土) 09:39
伊勢青木氏の家訓 
「家訓10訓」

この「家訓10訓」を全国の青木さんに紹介し、「生仏像様」の存在と合わせて、人生の子孫繁栄の一助に成ればと思い、ここに投稿する。

前回のレポートで「生仏像様」が青木氏のステイタスとして、共鳴して一致結束の象徴として、人括りの先祖として、戒めの象徴として、擬人化された「生仏像様」として崇められてきた。
そして、この擬人化された「生仏像様」が発する「戒めの言」が、家訓として位置付けられていたのである。

しかし、本家訓の経緯を推察すると、いつの時代に纏められたかは定かではないが、大化期から1360年間の伊勢青木氏の宗家としての歴史の苦難の中で、自然に培われて、言伝えられたものであろう事がその内容からして判る。
それは、主にその皇族賜姓族としての立場にあった。
当時の氏家制度の習慣から、血縁関係も同等の範囲での狭い血縁を余儀なくされていた環境であった。
その環境の中で「家」を維持するという最大のテーマと5家5流の一族を取りまとめるべく目的から、この「生仏像様」と「家訓」という手段を利用せざるを得なかったのである。
現在の核家族した社会での常識では考えられないものであろう。確かに家訓の内容もその様なものが含まれている。
究極、突き詰めると、筆者はこれが真実ではないかと心得ている。それは現代社会が「消失した思考」であって、欠陥点では無いかと見ているのである。
そこで、このことに付いて、その論所を次に論じる事とする。

家訓は、それは次の二つに分類できる。
その中には、「忘備禄」の中に記述されているものと、「口伝」にて代々親から伝えられてきたものとある。

本来は守護や豪商であったことから、上に立つ者の心得として習得しなければならないし、長い期間その立場を保ってきた氏としての実績からは「家訓」は当然のことであった筈である。
そして、親族縁者や店の者を導く為に統一して誡めるためには、一つのものに書き記されていた可能性が高い。
しかし、それが無く成ったその原因は、明治35年に950年以上続いた伊勢松阪の紙問屋「紙屋長兵衛」が、出火倒産した際に全て記録が消失した。書籍的な記録が無く成ったことによる。

これ等の復元が、父の時代の大正と昭和の戦前戦後の混乱期の時代には無理であった。この事から、父から筆者に「青木氏の由来書」を復元し纏めるように頼まれていた。
以後40年間に渡り、「青木氏の由来」と「生仏像様」存在とあわせて調査した結果、この「家訓10訓」はその一つとして、次のものから出てきたものである。

祖父や両親から既に厳しく誡められていた「先祖口伝」による内容がある事から、別に何らかの形で何処かに遺されていると見て調査していた結果、紙屋の倒産後に、祖父が書き残した「忘備禄」(別名)等の中にその文面を発見し、そこに書かれていたものとを咀嚼して纏めた。父から聞いていた事とほぼ一致するので「10訓」として纏めたものである。

伊勢青木氏の「由来書」を復元する調査の際に、前期した「生仏像様」と関連して整理されたものであり、その基となったこの二つから来る「戒め」は、元は一つとして、何らかの形で纏められていたものである。

祖父に於いては、この「忘備禄」に書かれていた内容から判断して、日頃、伝えられている「口伝」以外に、是非に代々子孫に伝えられて来ていて、必ず伝えなくては成らないものを、明治35年以後の早い時期に、ここに書き記したものであろうと考える。それは祖父の代に倒産し消失した焦りから家を再興するに必要とする大事な事柄を書き残そうとしていたと文面内容から見られる。

以下の内容から見てみると、敢えて分類すると「家」を保つに必要とする「人生訓」と、「商」を維持するに必要とする「商訓」とに分けられる。
それが、「忘備禄」(別名)と「口伝」の差に依っているのではないかと考える。

「口伝」は家訓に関する言葉としても数多くある。
それらはこの家訓を裏打ちする平易で生活に密着した言葉で伝えられている。これに付いては関連するものを次の家訓の説明時に添えて説明する。

そして、これ等は、全て「生仏像様」(一括りの先祖)の「教え」として位置付けられていたものとされる。

家訓は禅問答的な表現方法で、漢文的にて表現されていて判り難いので、敢えて、現代用語として、書き改めて紹介をする。

伊勢青木氏の家訓10訓

以下に夫々にその持つ「戒め」の意味するところを説明する。

家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
家訓3 主は正しき行為を導きく為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず。


解説
家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)

”青木の家は「女」が家を潰す。”(口伝1)
”自尊心の必要以上に強い女は不幸”(口伝2)
”妻はお釈迦様の掌で遊ばせる心を持て”(口伝3)
”夫は第一番目の子供である”(口伝4)
”大事な決め事は夫が決めよ”(口伝5)

簡単に意味する所は、次のとおりである。

「夫婦」として、夫が夫らしくなくて、又、その能力が無くても、妻は夫のそれを責めるのではなく、妻は本来あるべき妻の立場としての責務を全うするべきである。これは、「親子」にも言えることである。この考え方が「家」をまとめ、発展させる秘訣である。

このために、口伝では、この関係する「戒め」がある。
「関係口伝」として、”青木の家は「女」が家を潰す。”(口伝1) この言葉が代々言い伝えられていた。

”妻は妻にして足れ”が守られなければ、仮に、”夫は夫として足りていた”としても、「家」は「女」が「しっかり」していなければ”「家」は潰れる”と説いているのである。
つまり、「女」=「家」としているのである。

では、ここで言う「しっかりした女」とはどう云う意味であろうか。
現実には、「家」は男の夫が差配する社会であり仕来りである。なのに「しっかりした女」とはどう云うことなのか疑問が残る。
更に、別の口伝の中で、”自尊心の必要以上に強い女は不幸”(口伝2)はその「自尊心」が災いして「家」を乱す事から、結果として家を潰す”とある。
つまり、「しっかりした女」とは「自尊心」の強弱にある事になる。
このことから、普通は、「しっかりした女」とは、現代では「自尊心の強い女」を言う事になるであろう。しかし、違うと説いているのである。

これには、「伊勢青木氏の立場」と「250人を抱える商家」と「青木氏宗家」と言う3つの条件が働いているものと考える。
核家族時代の現代では、、「しっかりした女」=「自尊心の強い女」が普通は正しいのであろう。
しかし、筆者は、矢張り究極は、「夫婦」という単位集団からしても、「口伝」の説が正しいと考えている。
その根拠は、「家訓4」でも証明できている。

何はともあれ、検証して見る。
妻或いは女は、自尊心が強ければ、その自負心から夫の足りない所を攻めるであろう。さすれば夫婦間は乱れる。乱れれば、結果として子や周囲にその欠陥が現れて「家」は正しい方向に向かないで自然衰退の方向に向かう。
この家訓は言い換えれば、「夫は夫足れども」の場合は、「かかあ天下」の有るべき本質を言い表しているものであろう。
長い歴史のある「家」の中では、「夫は夫足れども」の場合は必ずある。この時の「妻の有るべき姿」を言い表しているのである。否、「夫は夫足れども」で無くても、この「家訓」は、これを主張しているのである。
現に、筆者の知る範囲では、この家訓通りの通称「かかあ天下」であり、伊勢松阪の紙屋長兵衛の時代の繁栄には到底は到達は出来ないが、総称の「家」を苦難を乗り越えて子孫を多く遺し「家」は旧家を並以上に維持してきている。

これでなくては、現代まで直系で宗家としての「家」は長く保ち得なかつたであろう。
昨今は、女性は自らのこの素晴らしい立場を自ら否定し、間違った女性の権利を固持し、必要以上の「自尊心」をさらけ出している。
筆者は、むしろ、女性がこの世を維持していると見ている。
長い歴史の中で「ひがみ」の心が脳の一部に学習記憶として残り、これが表に出て来るのであろう。
何故に、上記のこの家訓の本質を見ないのであろうか。これが疑問の一つである。
現代の最大の病巣であろう。

ともあれ、このことに付いては次からの家訓にても証明している。

又、青木氏の他の「口伝」にもある。 
”妻はお釈迦様の掌で遊ばせる心を持て”(口伝3)とある。

又、次の口伝の言葉もある。 
”夫は第一番目の子供である”(口伝4)とある。つまり、親から引き継いだ子育てを、妻が再び次の目的で引き継ぐ事を意味するのである。
つまり、”子供から成人するまでは親の務め”で、”成人から一人前の夫にするは妻の務め”であると説いているのである。
筆者はこの口伝の言葉に大賛成である。真に、男の共通心理の深層を言い当てている。

共通心理では、男は「母親への慕情」が大変強いのもこの深層心理があるからである。

変な話であるが、医学的には、子孫を遺す行為、又はその発露として女性の体を求める行為は、この「母親への慕情」の「深層心理」が変位しての本能であるといわれいるからである。
「母親への慕情」=妻の第2の「母親役への慕情」となるのである。
子孫を遺す本能として働くのである。

現に、遺伝子的には、面白い証拠がある。
女性の卵子には「人間種の遺伝子」が組み込まれているのである。男性の精子の尾の付け根にある遺伝子情報は人の個人遺伝子情報のみである。
遺伝子操作でそのルーツを探るのは卵子からである。その人の種を求めるには精子ではなく卵子、又は女性の遺伝子からである。この様に女性の本質は男性より基となる優位の物(母)を神が与えたのである。

事ほど左様に、遺伝子的に見ても神はこのことを定めているのであるから、明らかに「人の生」は、女性から発祥しているのである。この説は納得できる本質である。

別に生物的にも説明できる。
生物がこの世に現れたとき、単細胞(ミトコンドリア)であつた。然し、これでは、動物性プランクトンの様に、他の強い生物との生存競争に飲み込まれて子孫を遺せない。食われる事により単細胞の雌雄のバランスが狂い子孫を遺す事の確率が低下してしまう。
そこで、この人の単細胞は、互いの同じ種の単細胞の雄雌を合体させる事でより子孫を遺す確率の高い方を選んだ。それが雄雌が合体した方法であった。しかし、弱い生存競争力ではこれでは子孫の維持は出来ても「拡大」は望めない。
再び、分離して双方に共通の能力を保持させ、その子孫を引き継ぐ遺伝子を分離し、合体の部位を変異させて雌雄の目的にあわせて造り上げた。そのことで、弱い生存競争にても、子孫を増やして行くことが確実に可能に成った。

その例えの見本として、単細胞的なミミズは現在もこの原始的合体方式を保持している。太く大きいミミズの真ん中付近に繁殖期には白い部分が出来る。左右は雌雄である。ここからある時期に雌雄が分裂するのである。

他にも、樹木でもこの逆の方式が見られる。現代では多くは雌雄合体であるが、逆に、果物のキュウイ等のように雄雌の別樹があり、この二つの樹で受粉する事が可能にして子孫を遺すのである。

この様に、元は別々であったオスメスの単細胞の生き物が合体してミミズのような物体となり、再び共通式分離したのである。この時、主な重要な遺伝情報を雌に与えたのである。雄の遺伝情報は単に子孫拡大の繁殖情報のみとしたのである。

つまり、昨今、問題に成った”女性は産む機械発言”の逆である。雄はその本質は「繁殖機械」程度のものなのである。あの問題の間違いは、むしろ、雄が「繁殖機械」であって、雌は上記の優位性を持っているのである。だから、謝罪でなのである。

それは、別には、「繁殖機械」=「働く機械」でもある為にも、種の保全の危険性が高いことから、男性には、遺伝子的に負担を少なくしたのである。
従って、女性は多くの重要な遺伝子情報の負担が大きく、そのエネルギー負担が大きいので体格的には小さい事になり、又、生理的にも難しいのである。
この様に神は家訓どおりに本質を創り上げているのである。

時代が変化しても、この本質は神が決めた事なのであるから、故に、「家訓1」は現代にしても正しいのである。
男女の本質が「家訓1」であるとすると、当然に、この本質(理屈)は他の同等の関係にも適用される事は出来るはずである。
そうでなければ、”夫婦間だけに本質だ”とする事の説明はつかない。
親子の説にしても、この家訓1は同様であると説いている。

”親は親足れども、子は子足れ。”である。家族や家や氏の関係に於いてもこの様な関係はある。
この本質を、この関係に於いて心より務めれば、夫婦、家族、家、氏は正常な関係を保ち子孫繁栄は維持されると説いているのである。
少なくとも、上に立つ者はこの「本質の心」を養えとしているのである。
そして、これを悟らせる為に、仔細にした心得の口伝が存在するのである。

ここで、お読みに成った人は、疑問を持たれた筈である。
「口伝4」で「夫は第一番目の子供である」としている。そして、”夫を掌の中で育てよ”とある。、”成人から一人前の夫にするは妻の務め”ともある。
つまり、「家訓1」と矛盾するのではないかと言うことである。
この3つの言葉からすると”妻は夫を指図して思いのままにせよ”とも受け取れる。悪しき意味の「かかあ天下」である。
ここがこの家訓の意味のあるところである。「先祖」は、「生仏像様」は、”これを悟れ、成長せよ”としているのであろう。
”足りずとも、妻の務めとして、足りる夫に子供の感覚で掌の中で育てよ。育つ時間の余裕を与えて”。この「掌の中で育てよ」に大きな隠し意味を持たしているのであろう。

但し、それを裏付けるこの家訓には次の口伝5がある。
”「かかあ天下」で全てあれ”と言う事を言っていない。”大事な決め事は夫が決めよ”(口伝5)とあり、決事の事の良し悪しの如何に拘らず、夫が決めることだと言っている。
つまり、”事の良し悪しの是非は後の時代に判る事”であり、今に判っていたとしても、それは上辺のことで、”真の良し悪し”ではないと説いているのである。
だから、これは「性の定」により、男が決めるべきであるとしている。
これは「性の定」としてこの注釈が附帯されている。(この事は「家訓4」で詳しく述べる。)

この家訓の裏を返せば、次の事を言っている。
”この難しい立場の役目を、女の「母性本能」で遂行し、妻が成長する事が秘訣である。と説いている。
”妻は妻にして足れ”は、”大事な決め事は夫が決めよ”(口伝5)を「妻の心得」として、このことを意味するのであろう。

この意味からすると、上記したように、「家」は「妻」如何による事になる。

上記した「妻」=「家」の数式はここに起因するのである。
これが結果として、先ずは、長く「家」を維持する(子々孫々)秘訣と説いているのである。

この家訓1は、他の家訓でも立証できる本質であり、この「訓言」は他の家訓の基本に共通している。
この事は、随時、説明をして行く。

次には「家訓2」である。

家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。



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