青木氏氏 研究室
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  [No.162] Re: 青木氏と血縁族(家紋)-10(州浜紋)
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/23(Fri) 08:58:42
Re: 青木氏と血縁族(家紋)-10(州浜紋) (画像サイズ: 1701×1671 10kB)

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-10(州浜紋)
青木研究員 さん 2006/01/03 (火) 12:55
第9番目の紋様は州浜紋である。
この州浜紋には33の紋様がある。
この内青木氏に関係する紋様は5紋である。
家紋200選にも選定されている有名な家紋である。

この青木氏に関係する家紋は次ぎの通りである。
1番目は州浜紋である。
2番目は丸に州浜紋である。一番目の分家筋に当る。
3番目は三つ盛州浜紋である。
4番目は三つ盛蔭州浜紋である。
5番目は5瓜の州浜紋である。

5番目を除いて陸奥の小田氏一族の家紋である。

陸奥小田氏一族の流れを汲む青木一族である。

この青木一族は当然に陸奥の小田氏であるので、藤原秀郷一族の流れを持つ小田氏である。
この青木氏は陸奥に赴いた藤原秀郷の一門の守護に付き従い護衛役として入り定住し、土地の小田氏との血縁にてこの地に根づいた藤原秀郷の兼光系青木氏である。

兼光系青木氏は一度秀郷から18代目に男系の跡目がなく総宗本家の藤原秀郷の家から行久なる者が青木家の跡目を相続している。
上位の跡目相続であるので姓氏など変化しない事になるので青木氏は引き続き継承されている。これは藤原秀郷家にとっては藤原主要5氏のうちの青木氏であり、護衛役を担っている青木氏を潰すわけには行かず上位の総宗本家から跡目を入れたのである。

この陸奥には秀郷の総宗本家からの藤原兼光が守護として赴いている。

当然、この兼光は秀郷から4代目の兼光であり、上記した3回目の18代目の行久による跡目と、第2回目の兼光の跡目があり、初代の秀郷の3番目の子の千国から出た青木氏が鎌倉時代までこの3回の跡目が入っているのである。

初代の青木氏の系統は4、5代目程度までは男系の跡目を引き継いだが、兼光の所で跡目を総宗本家から入れて建て直し、兼光系青木氏が続いた。
其れまでは直系の千国系青木氏である。3回目の行久も兼光の子孫であるので
兼光系青木氏である。

藤原秀郷流青木氏は兼光系からのみ出ていないことになる。

この4代目の兼光が陸奥に赴いたときに自らの子孫の護衛役の青木氏を引き連れて陸奥に赴いたのである。

この兼光系直流の青木氏がこの陸奥に定住し土地の豪族の州浜紋を持つ小田氏と婚姻をし男系の継承問題で小田氏より跡目を入れて止む無く家紋掟により
家紋を変紋する結果となったものである。

これが藤原秀郷の4代目兼光の直系の青木氏の分家が陸奥にて青木氏を広げて州浜一族の小田氏との血縁関係を持った氏である。
直流本家は護衛役の任務を持つことで子孫を留保し武蔵と下野国にて藤原総宗本家を護る役目から赴任地の土地に留まらず帰国した。
これは直系、直流と支流の夫々の青木本家筋は戻っている。
多くは多くの嫡子以外の者が藤原氏の戦略として土地に残り護衛と子孫拡大の役目を担っていたのである。

藤原秀郷の総宗本家一門は鎌倉時代の前までに24の守護地とそれに類する官職で赴任している。

この陸奥も最初に朝廷より命じられた守護地である。

この守護地は当時まだ征夷の領域(東北北陸北海道の蝦夷を含む征夷地域はまだ十分には安定はしていなかった。)である。
そこで、第一の勢力を誇っていた藤原四家のうちの北家一族は北家の主家の摂関家との連携を取りながら、この征夷の護りとして出向いたのである。
朝廷から任じられた官位は「鎮守府将軍」であった。

この「鎮守府将軍」は代々藤原秀郷の一族の継承官位であった。
この官位は後に勢力を起した清和源氏の官位と変化して行くのである。

そして、江戸時代まではこの官位の無い者は幕府を開く事が出来なかったのである。
(豊臣氏はこのために関白の官位、徳川家康は家系譜偏纂にて源氏支流とを名乗り「征夷大将軍」の称号を得たが、朝廷は内々はこれを認めていなく、源氏頭領の称号は拒絶した。「源氏長者」として妥協した経緯がある。)

この「鎮守府将軍」から源氏の時代には変名して「征夷大将軍」と変わったのである。
「鎮守府将軍」は藤原秀郷氏、「征夷大将軍」は源氏の専属官位である。

清和天皇の第6位皇子の経基王が臣下して賜姓を受けた源氏の満仲の分家筋(総本家筋は嫡男頼光系 伊勢源氏など)の頼信の血筋を引く頼朝が鎌倉幕府を開く事が出来たのはこの官位の権利があったからである。。

この州浜紋の青木氏の元祖は藤原秀郷の4代孫の第1回目の跡目に入った兼光系初代の直流の青木氏である。

この陸奥より子孫を拡大した州浜紋の持つ一門の小田氏と青木氏であるが、この他にこの陸奥の藤原兼光一族との血縁を持った武田氏がある。
この藤原一門から同じ血筋を受けたこの地方の豪族であった菱紋の武田氏は藤原秀郷の総宗本家の赴任地の移動に伴い甲斐国に移動して、そこで勢力を上げて土着豪族との血縁関係を持ち大勢力に伸し上がったのである。

この州浜紋は小田氏のみと青木氏との血縁であるので判り易い。

この州浜紋の一族が後に三つ盛州浜紋と三つ盛蔭州浜紋に分流していくのである。
五瓜の州浜紋の一族は次の経緯を持っているものと見られる。
この州浜紋の一族が後に何らかの理由で四国付近に移動して五瓜紋の一族との血縁を持ったか、或いはこの五瓜紋一族が陸奥付近に移動し、この一族との血縁を持った結果で跡目継承問題で家紋を変紋せざるを得なかったものではないかと見られる。
(四国阿波付近には五瓜紋の氏が多い。 四国国境土佐郡土佐町には「土佐州浜紋」が確認できる。)

しかし、この瓜紋は藤原流の長良氏とその一門の肥前の大村氏が用いていたものである。
このことから土地柄からまた藤原北家一門とのこの長良氏との血縁ではと考えられるので、州浜一族がこの地方に移動してきて(時代は江戸初期か室町後期の発祥であることから)岐阜美濃付近の長良一族との血縁関係を持った一族ではとも見られる。しかし、確証は困難である。(四国か岐阜か北陸か)

主要紋を次ぎに掲示します。

(家紋掲示板に以上の家紋を掲示しますので参照して下さい。)



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