青木氏氏 研究室
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  [No.163] Re: 青木氏と血縁族(家紋)-11(鷹の羽紋)
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/23(Fri) 09:00:27
Re: 青木氏と血縁族(家紋)-11(鷹の羽紋) (画像サイズ: 2121×2061 49kB)

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-11(鷹の羽紋)
青木研究員 さん 2006/01/21 (土) 21:38
第10番目の青木氏の紋様である。
この紋様は全部で各氏70の紋様がある。
この内青木氏に関わる紋様は4つである。
この紋様は主要家紋200選にも選ばれている。
その青木氏の家紋は次ぎのとおりである。

第1番目は並び鷹の羽紋である。菊地氏の家紋である。
第2番目は違い鷹の羽紋である。浅野氏の家紋である。
第3番目は丸に違い鷹の羽紋である。第2番目の分家筋に当る。
第4番目は五瓜に違い鷹の羽紋である。五瓜紋を家紋とする氏との血縁族である。

この家紋は藤原秀郷流青木氏の一族である。
第1番目のこの青木氏は比較的新しく鎌倉幕府の蒙古襲来事件(1274-81)の前後に当時に九州北部勢力を張っていた土豪の菊地氏一族と血縁を結んだ藤原一族の青木氏である。

この藤原秀郷流青木氏は主要9氏の中で次ぎの土地に赴任している藤原秀郷総宗家に関わる者は次ぎの通りです。
筑前国と筑後国の守護かそれに類する官職で赴いた者
為成、為重、長経の親子孫

利仁流としては次ぎの通りです。
豊前国に付いては貞宗  利仁より7代目
肥後国に付いては長成  利仁より17代目
筑後国に付いては18代目(長成の子)―20代目
豊後国に付いては重光  利仁より4代目
以上4者である。

鎌倉幕府樹立後離散した藤原秀郷の一族は仕官先を求めて各地に移動したが
上記の菊地氏との関係があったと考えられる藤原氏である。
(1333年倒幕)

浅野氏に関わる一族としては安芸国と美作国付近に移動して江戸期に出世していた藤原一族と備後国に赴任した公則の2つの流れがある。
しかし、この美作付近に移動してきた一族はそのルーツは史書によりまたその末裔も明確になっている。(研究室にルーツの投稿のあつた岡山の青木氏の方で家紋は「五瓜に剣片喰紋」一族との血縁を持っている)
従って、元は同じ一族であるが、備後の国の公則に着き従った藤原秀郷流青木氏である事になる。

そこでこの家紋を最初に使用したのは菊地氏(並び鷹の羽紋)であり、江戸時代には多くの武家がこの紋様を変紋して使用した。

この事から次の事が云える。
第1は、「並び鷹の羽紋」は上記四者の何れかの者(後述)で藤原総宗本家に付き従った藤原秀郷流青木氏であるが、この青木氏が土地に定着した一族と土地の豪族との血縁を結んだ事により発祥した一族で家紋は男系問題での跡目相続の結果等で変紋を余儀なくされた結果による。

第2は、「違い鷹の羽紋」は江戸時代前ごろから台頭した浅野家の家紋であるが、この家紋に関わった者としては備後国の守護(公則)として赴任に付き従った藤原秀郷流青木氏の末裔であると考えられる。

第3は、また、「丸に違い鷹の羽紋」はこの分家筋に当ることから同族である。

第4は、美濃付近から広がって阿波国と瀬戸内海を隔てて更に安芸国と美作国まで拡大し土豪となった五瓜紋(藤原系長良一族)を持つ一族と第2の一族との血縁から生まれた子孫と考えられる。

この第4の土地付近には四国阿波国に赴任した藤原総宗本家の宗政と時宗親子に付き従い讃岐付近まで伸びこの一族が美作の国に移動してて出世した上記の藤原秀郷流青木氏の一族がいる。

さて、上記の四者のうち、土地柄から筑前と筑後と豊前国のうちの何れかが可能性が高い。

時代性からみると肥後国は鎌倉幕府樹立の直前頃に菊地氏が隆盛を極めてい
て元寇の役に参加して勲功を立てている事から考えると、当時としては長期に筑前と筑後の官職を務めた土地に根ずいた事から長成から親子4代の時の護衛役の青木氏一族末裔と考えられる。

このことから、4代(30-50年間)と実に長い間に続いた時に定着した藤原秀郷流青木氏である事が考えられるし、鎌倉後も土豪化していたと見られる。兎も角武蔵と下野の国の本拠地以外にと4代と続いた実績のある藤原秀郷一族の氏の赴任先は他にない。(普通は最低は5年程度で役目は終わる)

元寇の役から鎌倉幕府が滅亡した時間までの間とすると52年間である。
この鎌倉幕府の初期ごろはまだ全ての武士が家紋を持つという事は無かった。
殆ど主要な豪族だけであり、この役の時には菊地氏は既に家紋を持っていたことが「蒙古襲来絵詞」(肥後国の御家人の竹崎秀長が書いた絵詞)に描かれている。大きな豪族であった。
この菊地氏と藤原一族との血縁を結び勢力の拡大と安定を計ったものとみられる。
数年前までは戦場となつた所は守護の立場にあつたし、菊地氏とは藤原系青木氏はこの事件をともに戦った背景からの結果であったかも知れない。
この間に血縁が起こったと見られる。
つまり。「並び鷹の羽紋」の青木氏は菊地氏との血縁による。

この紋様は勿論鷹の印象から来る紋様で作紋されたもので、勇猛なイメージを持つものである。この紋様は江戸時代に多くの大名や御家人が家紋とした。

大抵は下克上と戦国時代で家紋の持つ家柄は滅亡し衰退して新しい勢力が台頭して安定期に入った江戸初期にこの新しい勢力が家紋を定めたものである。
この意味で並び鷹の羽の家紋は伝統的である。

違い鷹の羽紋類は上記の新しい勢力の江戸期前後からの氏の家紋である。

4つの家紋は家紋掲示板に掲載します。



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